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枯葉の髪飾り 7 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 そろそろ吉岡佳世の家を辞そうと思って、前に置いてあるファンタグレープを飲み干すと「東京に行っても、ちゃんと高校生としての規範て云うか、矩て云うか、そがんとのあって、それば踰えたらダメとぞ」と彼女のお兄さんが拙生に、云い出すのでありました。「井渕君は孔子とか、勉強したとやろう?」「はい。受験勉強で少しは」拙生は、応えるのでありました。「お兄ちゃん、なんば云いたいと?」吉岡佳世が眉根を寄せて彼女のお兄さんに、云うのでありました。「いや、浩輔の云うことを、二人共ちゃんと聞けよ」と突然、彼女のお父さんが、ようやく顔の前から湯呑を下ろして、云うのでありました。お父さんの顔は紅潮していて、それは拙生と吉岡佳世が、手を繋いでいることを怒っているのだと拙生には、思われるのでありました。「お父さんは、焼き餅ば焼きよらすとさ」と彼女のお母さんが拙生に、耳打ちするのでありました。
 拙生はお父さんの焼き餅から逃れるように、彼女の家を、退散するのでありました。玄関を出たところで、吉岡佳世が「さよなら」と、云うのでありました。その言葉が、なにやら永遠の別れを意味するように聞こえたものだから、拙生は慌てて「じゃあ、また」と、云い返すのでありました。また絶対に逢えることを彼女に念押しするつもりの、言葉でありました。「さよなら」吉岡佳世は手をふりながら抑揚のない口調で、云うのでありました。
 ・・・・・・
 頭に黄色い鉢巻きを締めて、体操服姿の吉岡佳世が本部席のテントの下で、皆に混じって目の前で繰り広げられている体育祭の競技を、見ているのでありました。拙生はそんな彼女を、障害物競走のスタートラインから、見ているのでありました。彼女は与えられた記録係と云う仕事を、そこに居る幾人かの女子生徒と一緒に熱心に、こなしているのでありました。
 吉岡佳世が記録係の席を立って、ゴールラインの方に移動するのは、拙生がそこに一番に跳びこむことを、待つためでありました。拙生は彼女のために、懸命に様々な障害を乗り越えて、トップでゴールへ、駆けこむのでありました。ゴールラインを越えて、走りこんだ勢いを借りて、彼女の体に抱きつこうとした途端、彼女の姿は拙生の、前に伸ばした両手の先から、消え失せるのでありました。拙生は不思議に思って辺りを、見回すのでありました。すると次の瞬間、拙生はどうしたことか、保健室へ向かう廊下に一人、立っているのでありました。
 前から歩いて来るのは、島田でありました。「吉岡は?」と拙生は島田に、問うのでありました。「具合の悪うなって、病院に行った」と島田が、云うのでありました。「井渕君、佳世の具合の悪かとに、気がつかんやったとね?」島田はそう続けて、拙生を咎めるような目を、するのでありました。
 隅田と安田が拙生と島田の傍に、駆け寄って来るのでありました。「どうするとか、井渕?」二人は拙生に、声をかけるのでありました。「すぐに病院に行かんば、ならんとやなかとか」と隅田が云って拙生の背中を、叩くのでありました。それは怒っているような、云い方でありました。拙生は神妙に頷くと校舎の出入口に向かって、走り出すのでありました。「井渕、急げ」と後ろの三人が声を荒げて叫ぶのが、聞こえるのでありました。
(続) 
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 校舎の出入口で拙生を睨んでいるのは、大和田でありました。明るい外を背にして立っているために、大和田の表情は、窺えないのでありました。体の輪郭も黒く滲んで、見えているのでありました。「なんで走りよっとか?」大和田が、聞くのでありました。その口調がなにやら拙生の必死な走駆を、嘲笑っているように、聞こえるのでありました。拙生は彼を強烈に殴り倒して、校舎を出なければならないと、咄嗟に思うのでありました。
 有効な打撃を打てる、充分な距離まで走り寄って、拙生は右の拳を大和田に、突き出すのでありました。拙生の拳は、大和田の鼻を、歪ませるのでありました。大和田は後ろに倒れて、蹲るのでありました。
 暫くの間大和田は、動かないのでありました。ようやく顔だけを上げた大和田は拙生を、睨むのでありました。その鼻から血が、噴き出しているのでありました。「お前のパンチは、欠陥品ぞ」と大和田は、云うのでありました。彼を昏倒させ、鼻から鮮血を噴き出させた拙生の打撃が、どうして欠陥品なのかと拙生は大和田に、抗弁しようとするのでありました。彼の理不尽な云い草が無性に、癪に障るのでありました。
 声を発しようとした拙生を突然安田が、羽交い絞めにするのでありました。「止めろ、井渕!」「そがんことしとる場合じゃ、なかやろう、井渕!」横に居る隅田が、怒鳴るのでありました。「野蛮かことしとったら、佳世に嫌われるとよ!」島田も、怒鳴るのでありました。拙生は安田の羽交い絞めをふり切って、倒れた大和田を飛び越えて、走るのでありました。隅田も安田も島田も、それに大和田さえも、何故か拙生を、責めたてているようでありました。拙生は彼等から逃れるように、病院に向かって、走るのでありました。
 ・・・・・・
 病床に横たわった儘、吉岡佳世が拙生に万年筆を、手渡そうとするのでありました。それは拙生が彼女に、預けていたものでありました。「この万年筆のお蔭で、手術は成功したとよ」と彼女のお母さんが、云うのでありました。拙生は自分の万年筆がどう、吉岡佳世の心臓の手術に役立ったのかさっぱり、判らないのでありました。しかし万年筆が手術には欠かせないと云うことは、この世では、拙生以外の者には自明の理であるようで、自尊心が強くて臆病な拙生としては、そのことを吉岡佳世や、彼女のお母さんに聞き質す勇気がどうしても、湧いてこないのでありました。
 拙生をその大きな瞳で見上げながら「有難う、井渕君」と云って吉岡佳世が、微笑むのでありました。万年筆と手術の関係を拙生が判ろうが、判るまいが、彼女のこの手術後の微笑みの尊さに比べたら、大した問題ではないのだと、彼女が教えてくれているようで、拙生はそれで充分に、納得するのでありました。「手術の成功したとけんが、もう安心してよかとぞね?」と拙生は彼女に、聞くのでありました。「うん、もう大丈夫」と吉岡佳世は何度か、頷くのでありました。彼女の頭の下の枕が、彼女が頷く度に、髪の毛との小さな摩擦音を、出すのでありました。拙生は矢鱈に、嬉しくなるのでありました。
 吉岡佳世はベッドから手を出して拙生の方に、差し伸べるのでありました。拙生がその手をとると、彼女は意外な程の強さで拙生を自分の方に、引き寄せるのでありました。「ねえ、チューして」と彼女は間近にある拙生の顔に、云うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 彼女の体温を宿した吐息が拙生の唇に、吹きかかるのでありました。「お母さんの、見とらすぞ」拙生はそれ以上、彼女に顔を彼女に近づけないように首筋に力を、入れているのでありました。「お母さんは、買い物に行かしたもん」と吉岡佳世が、云うのでありました。またもや彼女の吐息が拙生の唇に、かかるのでありました。そんな筈がないと、拙生は顔を横に向けて、彼女のお母さんの姿を認めようとすると、今までそこに居たはずの、彼女のお母さんの姿が、ないのでありました。「他には誰も居らんから、安心して」吉岡佳世が拙生の頭に手を回して、髪の毛の中に指を差し入れて、拙生の顔を自分の方に、引き寄せるのでありました。顔を近づけながら拙生は、それでも同室の他の入院患者の目があるだろうと、辺りに視線を飛ばすのでありましたが、病室には彼女と拙生以外の人の姿は、見当たらないのでありました。
 柔らかな彼女の唇が拙生の唇に触れると、拙生は、なんとも云えぬ幸福感に、満たされるのでありました。「あたしの赤い水筒、失くしてしまったと」吉岡佳世が、急に唇を離してそんなことを、云うのでありました。「何処で、失くしたとか?」と拙生は、聞くのでありました。彼女の吐息が拙生の唇にかかったように、拙生の息も、今彼女にかかっただろうと、聞きながら、思うのでありました。それを彼女は不快に感じないかしらと拙生は、不安になるのでありました。「何処で失くしたか、あたし判らんの」「体育祭の時に、持っとった水筒やろう?」「そう、その水筒」「体育祭の後、学校に忘れて来たとじゃなかとか?」「そうかも、知れん」吉岡佳世はそう云って、拙生の顔を引き寄せてまた唇を、あわせるのでありました。「オイが、探し出してきてやる、絶対」と拙生は、云うのでありました。「うん」と吉岡佳世は云って、拙生の唇を軽く、吸うのでありました。「大事か水筒やろう?」「そう。すごく、大事か水筒」拙生も彼女の唇を、吸うのでありました。
 ・・・・・・
 拙生は吉岡佳世に、彼女が失くした赤い水筒を手渡すのでありました。「わあ、有難う。何処にあったと?」吉岡佳世が大袈裟に、喜んで見せるのでありました。「本部席のテントの中にあった。椅子の背凭れに、かかっとった」彼女は受け取った水筒に、頬擦りをするのでありました。「じゃあ、はい、これはお返し」と彼女が云って拙生に万年筆のスペアインクと三冊のノートを、くれるのでありました。「こがんこと、して貰わんでも、よかったとに」そう云いながら拙生はそれそ受け取ることを、躊躇うのでありました。「クリスマスプレゼントやけん、ちゃんと受け取って」吉岡佳世が、云うのでありました。「クリスマスプレゼント?」拙生は首を、傾げるのでありました。「今日はクリスマスパーティーば、あたしの家で、することになっとったやろう?」「そうやったっけ?」「もうすぐ島田さんと隅田君と安田君も、ここに来るよ。五人で約束したやろう。忘れたと?」拙生にはそんな約束をした覚えが全く、ないのでありました。しかしそう云うと、吉岡佳世が悲しむだろうと思って「ああ、そうやった、そうやった」と調子を、あわせるのでありました。
 吉岡佳世が拙生を見つめながら「あの三人が来る前に、ねえ、チューしようよ」と、云うのでありました。拙生と彼女は急いで体を寄せあい唇を、重ねるのでありました。その時玄関のチャイムが、鳴るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生と吉岡佳世は慌てて体を離して、居住まいを正して待っていると、三人が居間に、入って来るのでありました。「ポテトサラダとマカロニサラダと、吉岡はどっちが好いとるとや?」と云いながら隅田が拙生の横に、座るのでありました。「クリスマスて云うとに、小城羊羹のごたっとば買って来るとやもんねえ、この馬鹿ちんの安田は」島田が吉岡佳世の横に座る前に、安田の腕を平手で、叩くのでありました。「小城羊羹に蝋燭ば立てれば、如何にも和風のクリスマスになるやろうもん」安田が島田に叩かれた腕を摩りながら、抗弁しているのでありました。
 台所の扉が開いて、吉岡佳世のお母さんが大ぶりなケーキを両手で持って居間に、入って来るのでありました。「皆、佳世のためによう来てくれたね。有難う」と彼女のお母さんは云いながら、ケーキをテーブルの真ん中に、置くのでありました。「蝋燭に火ばつけたら、電気ば消さんばよ、浩輔」と彼女のお母さんが云うと、いつの間にか部屋の照明のスイッチの傍には彼女のお兄さんが、立っているのでありました。「誕生日にケーキに立てた蝋燭の火ば消すとは、なんとなく意味のあるような気のするばってん、クリスマスのケーキに蝋燭ば立てるとは、オイは解せんね」とお兄さんは云いながらも部屋の電気を、消すのでありました。
 蝋燭の火に吉岡佳世の顔が仄かに、照らされているのでありました。その赤い光と、繊細な黒い影に彩られた彼女の顔はとても幻想的で拙生は暫し、見惚れるのでありました。「佳世は井渕君に、プレゼントのあるとやろう?」彼女のお母さんが吉岡佳世に、聞くのでありました。「うん。もうさっき、渡した」と云って彼女は拙生を、見るのでありました。彼女の瞳にケーキの蝋燭の火が、映っているのでありました。その瞳の中に拙生は、吸いこまれそうでありました。しかし不意に、拙生は拙生から吉岡佳世へプレゼントを渡していないことに、気づくのでありました。拙生は、狼狽するのでありました。「しまった、吉岡にやるプレゼントば、持って来んやった!」拙生はそう、叫ぶのでありました。それはひどく重大な、過失なのでありました。「急いで、これから取って来るけんね、ご免ね吉岡」拙生は吉岡佳世に、そう云うのでありました。「ううん、大丈夫よ。あたしはプレゼントなんかなくても、平気」と吉岡佳世が笑いながら云って拙生の頬に、掌を当てるのでありました。拙生はその彼女の掌に唇を軽く押しつけてから、立ち上がるのでありました。
 彼女の家の玄関を飛び出した拙生は八幡神社に向かって、走るのでありました。彼女の手術がうまくいくように、拙生はお守りを買いに、行こうとしているのでありました。
 ・・・・・・
 八幡神社の境内は、晴れ着を着て拝殿に掌をあわせる初詣の人や、立ち止まって新年の挨拶をする人達で、ごった返しているのでありました。吉岡佳世の家では、クリスマスのはずだったのでありますが、八幡神社の中はもう、正月になっているのでありました。それを拙生は不思議に不思議とは、思わないのでありました。
 人の流れに乗って、拙生は拝殿に進んで、吉岡佳世の手術がうまくいくようにと念じて、柏手を打って拝礼するのでありました。それからお守りを買い求めて、序でにお御籤を引いてから、急いで吉岡佳世の家に、とって返すのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 吉岡佳世の家の玄関から居間の方へ走り戻ると、居間には吉岡佳世の姿が、ないのでありました。「吉岡は?」拙生は、座ってケーキを頬張っている安田と島田に、聞くのでありました。「急に具合の悪うなったけん、お母さんの病院に連れて行かした」島田が拙生を見上げながら、云うのでありました。拙生が舌打ちをすると、その音を聞き咎めた島田は、拙生を敵意の籠った目で睨みながら「何時も肝心な時に、佳世の傍に居らんとやからね、井渕君は」と云って、拙生よりも大きな音の舌打ちを、返すのでありました。「早う、病院に行かんか、井渕」安田が、拙生を追い払うような手つきを、するのでありました。「あたし達はお邪魔やろうけん、一緒には行かんけど」島田も同じような手つきをしながら拙生に、云うのでありました。拙生は居間に背を向けると、玄関から転がるように外に跳び出して一目散に病院へと、走るのでありました。
 病院の循環器科の前の長椅子には坂下先生が腕組みをして、座っているのでありました。坂下先生は拙生が走り寄ると「井渕、なんでお前がここに来たとか?」と、云うのでありました。その顔は拙生を、咎めているようでありました。拙生は坂下先生の顔で、自分が校則を破ったことに、気づくのでありました。「済みません。心配で、堪らんやったけん」拙生は項垂れて小さな声で、云うのでありました。「お前、何時から、吉岡の保護者になったとか?」「いや、そがん者には、なっとらんです」拙生は坂下先生の言葉に内心怒りを覚えるのでしたが、それは表わさずに深々と頭を下げて先生の横に、座るのでありました。
 程なく診察室から、彼女のお母さんに体を支えられて吉岡佳世が、出てくるのでありました。「ああ、井渕君」彼女のお母さんが拙生に、笑いかけるのでありました。「どがんやったですか?」坂下先生が、立ち上がって彼女のお母さんに、聞くのでありました。同時に立ちあがった拙生は、吉岡佳世の顔を、見るのでありました。吉岡佳世は照れたような表情をして、腰の辺りで小さく拙生に、手を振るのでありました。その姿から、拙生は彼女の病状が、然程のことはなかったのだと見当をつけて胸を、撫で下ろすのでありました。
 彼女のお母さんと坂下先生が話をしている間、拙生と吉岡佳世は手を繋いで、並んで長椅子に、座っているのでありました。「そしたら、これから坂下先生と、佳世の進級のことで話ばせんといかんし、それに、佳世の入院の手続きもせんばならんから、あんた達は先に、二人で病室に行っとっておくれ」と彼女のお母さんは云って、坂下先生と並んで、なにごとか会話を交わしながら廊下を歩いて、遠ざかるのでありました。彼女のお母さんのその言葉から、吉岡佳世の病状が、拙生の先程の見当を裏切って、入院を要する程なのだと判明して、拙生は大いに、落胆するのでありました。
 彼女のお母さんと坂下先生が廊下を曲がって、その姿が視界から消えると、長椅子に座った儘、吉岡佳世は「これから公園に行こうよ」と拙生に、云うのでありました。「今から、入院するとやろう?」拙生は吉岡佳世に、聞くのでありました。「うん、そうやけど、大丈夫よ」と吉岡佳世はあっけらかんと、云うのでありました。「また体調の崩れたら、困るやっか」「でも、多分大丈夫て思うよ、公園でデートしても」「ダメくさ。今しっかり体ば治しとかんと、後で困るやっか」拙生は彼女を、説得しているのでありました。彼女は暫く俯いて考えた後「判った」と云って、頷くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生は彼女が拙生の説得を聞き入れてくれたことを、喜ぶのでありました。しかしそのくせ、彼女と公園でデート出来ないことを半面残念にも、思っているのでありました。
 ・・・・・・
 彼女の入院する病室は病院本館の中には、ないのでありました。それは病院裏の公園を横切って、暫く歩いた所に在る、病棟らしいのでありました。受付にそう指示された吉岡佳世は、少し離れたところにある長椅子で待っている拙生の傍に戻ってきて、その旨を、告げるのでありました。「この建物の他に、病棟なんかあったかね?」拙生は怪訝な顔をして彼女に、聞くのでありました。「さあ、知らんけど、受付でそう云われたから」吉岡佳世はそう云って拙生を、見下ろしているのでありました。「そんなら、兎に角、その病棟に行ってみようで」と云いながら拙生は立ち上がって、吉岡佳世と並んで病院本館の裏口から、外に出るのでありました。
 期せずして公園の中を、吉岡佳世と並んで歩くことになった拙生はそれを内心、喜ぶのでありました。彼女と入院を放ったらかしにして、公園でデートするのは慎むべき行為でありましたが、入院病棟へ行くために、不可避に公園の中に立ち入るのは、これはいた仕方ないのだと、誰にと云うわけでもなく、拙生は心の中で、弁明をしているのでありました。吉岡佳世も拙生の顔を見ながら微笑むのは、拙生と公園の中を歩ける理由が出来たことを喜んでいるために、他ならないのでありました。拙生は彼女の微笑みに、同じような微笑みをしながら、二三度頷き返しているのでありました。
 銀杏の木の下のベンチまで来て、二人はそこへ、腰を下ろすのでありました。「ちょっとくらい、ここで座って話をしても、誰からも、なんとも云われんよねえ?」と吉岡佳世は拙生に、聞くのでありました。「多分、大丈夫て思うけど」「病棟に行く途中で、ちょっと休むためにここに座ったとけん、あたし達悪いことしとるわけじゃ、ないよねえ?」「うん、ちゃんと理由があって、ここに座るとは、なあんも問題なか」「入院病棟が、遠くにあるとやけん、誰でもこうして、途中で一休みするよねえ。他の人に見られても、別に後ろめたいことなんか、絶対ないよねえ?」「うん、屹度、大概の入院する患者がすることに違いなか」拙生と吉岡佳世は公園のベンチに腰をかけたことが、誰からも非難されるものではないと云うことを二人してしつこく、確認しあっているのでありました。拙生は不意に、しかし吉岡佳世の手術は、もうとっくに済んだのではなかったかしらと、ちらと思うのでしたが、それを彼女に確認するのは、してはいけないことだと、思うのでありました。
 銀杏の木の黄色く色づいた葉群れが、さわさわと乾いた音をベンチの二人に、ふり注ぐのでありました。黄色い枯葉の幾枚かが、音に合わせて微風に弄ばれながら二人の上に、落ちてくるのでありました。拙生はその内の一枚が、吉岡佳世の頭の上に落ちて、そこへ髪飾りのように止まることを期待しながら、枯葉の落ちる軌跡を目で、追うのでありました。枯葉の髪飾りを頭に飾った彼女の姿を、拙生は無性に見たいと、願うのでありました。しかし枯葉は、拙生の期待を弄ぶように、彼女の顔の横を舞いはするものの、頭の上には決して、落下してはくれないのでありました。
 ・・・・・・
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 地面に落ちた枯葉から目を離して、横に座る吉岡佳世を見ると彼女は拙生に、微笑みかけるのでありました。「あたし、来年の三月に、井渕君と一緒に、高校を卒業するとは、無理かも知れんね」吉岡佳世が、云うのでありました。「大丈夫くさ、そがん心配せんでも。ちゃんと万事、うまくいくくさ」拙生はそう云って彼女の頬に、掌で触れるのでありました。「ま、でも、それはいいの」吉岡佳世は拙生の掌を包むように、手を添えてそれから軽く唇を、押しつけるのでありました。
 彼女の唇の熱くて柔らかな感触が、掌から拙生の体内に、浸みこむのでありました。拙生はどうしたものか妙に悲しくなって、彼女の体を引き寄せて強い力で彼女を、抱くのでありました。こんなに強い力で抱くと、彼女が壊れはしないだろうかと拙生は、不安になるのでありましたが、しかしそれでも力を緩めないで、強く彼女を自分の体に、密着させた儘でいるのでありました。「有難う、井渕君」と、吉岡佳世が、云うのでありました。
 拙生は彼女のその言葉が、遠まわしに、拙生の力が強すぎると、訴えているのであろうと理解して、急いで彼女の体を拙生から、離すのでありました。すると彼女は、不満そうな顔をして拙生を、見るのでありました。その顔が今の拙生の判断が、的外れなものであったことを拙生に、判らせるのでありました。拙生はなんとなく申しわけなくなって彼女から、目を逸らすのでありました。「明日から、冬休みね」と彼女は、云うのでありました。「手術は絶対、うまくいくけんね」と云う拙生は声に、力を籠めるのでありました。それは先程の判断ミスを挽回しようとする、力みなのでありました。
 吉岡佳世が入院する前に、彼女の写真を撮っておきたいと拙生は不意に、思いつくのでありました。しかし拙生はカメラを、持ってはいないのでありました。「井渕君、写真ば撮りたいて、今思ったやろう?」と吉岡佳世が、云うのでありました。何故彼女にそれが判ったのか不思議で、拙生は彼女の微笑む顔を、凝視するのでありました。「なんで、オイの思うたことが、判るとか?」「井渕君の思うことは、全部判るとよ、あたしには」吉岡佳世が、云うのでありました。「ばってん、カメラのなかけん、写真は撮れん」拙生はそう云いながら、彼女に拙生の思ったことが全部判るのなら、拙生も彼女の思ったことが総て、判らなければならないはずだと、考えるのでありました。しかし全く、不可能なことでありました。それは、彼女が拙生を慕う気持ちに見あうだけの愛情が、拙生にないためかもしれないと、考えるのでありました。或いは、彼女にはちゃんと備わっている能力、いや寧ろ本来、人として持っていなければならないはずの、当たり前の感知能力が、拙生には生まれながらに、欠落しているためかも知れないとも、考えるのでありました。
 吉岡佳世がカメラを取り出して、はいと云いながら拙生の目の前に、示すのでありました。「あたしがちゃんと、用意してたから」「あれ、何処にカメラなんか持っとったとか?」「うん、ずっとあたし持ってたけど、井渕君が、気づかんやっただけ」吉岡佳世は、云うのでありました。「それはいいから、このカメラで写真撮ろうよ」拙生は吉岡佳世の手からカメラを、受け取るのでありました。カメラを手にした途端、彼女がこのカメラを何処に持っていたのかと云う疑問は、突風がいきなり泥んだ霧を追いたてたように、拙生の頭からすっかり、掃われてしまうのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生はベンチに座った彼女から、少し離れた位置に移動して、彼女に向かってカメラを、構えるのでありました。落ち来る枯葉が、彼女の頭の上に、止まることを期待して、拙生はファインダーを、覗き続けるのでありました。
 ・・・・・・
 吉岡佳世の写真を幾枚か撮り終えたところに、彼女のお兄さんが、やって来るのでありました。「こがんところで、なんば、ぼやぼやしよるとか?」彼女のお兄さんはそう、声をかけるのでありました。「早う、入院ばせんか、佳世は」彼女のお兄さんが拙生の方に手を、差し出すのは拙生に、カメラを渡せと云う仕草であります。拙生は吉岡佳世の、入院と云う重大事を脇に置いて、悠長に写真など撮影していることを、強く非難されたのだと思って、おろおろとうろたえながら、カメラを彼女のお兄さんに、差し出すのでありました。「ああ、そいから佳世は、公園の向こうの入院病棟にじゃなくて、東京の病院に、入院することになったけんね。そいけん今からすぐ、佳世は東京に向かえ」彼女のお兄さんは、云うのでありました。「変更になったとですか?」と拙生は、お兄さんに聞きます。「そう。今病院に呼び出されて、そがん云われたと。その事ば伝えるために、何時来るか何時来るかて、病院の中で待っとったとやけど、何時まで経っても現れんけん、ここまで探しに来たとくさ」「急に、東京の病院に入院て云われても、あたし困る」と吉岡佳世は、お兄さんに向かって首を横に振りながら、云うのでありました。
 吉岡佳世の尻ごみに彼女のお兄さんは、舌打ちをするのでありました。「一刻も早う入院せんと、大変なことになるとけんね、お前の体は。ぶつぶつ云うとらんで、早う駅に行って、列車に乗れ」彼女のお兄さんはそう云って、寝台特急さくら号の乗車券と指定寝台券を、吉岡佳世に無理矢理、手渡すのでありました。「判ったか、佳世。じゃあ、オイはここで」と彼女のお兄さんは、拙生と吉岡佳世に向かって手を上げると、こちらを振り向くこともなくまた来た方に向かって、去って行くのでありました。
 拙生はさくら号の乗車券と指定寝台券を、両手で持った吉岡佳世の方を、見るのでありました。「そんなら、駅に行こうか。序でに、さくら号に乗ったら食事の摂れんかも知れんけん、途中で、四ヶ町の白十字パーラーで、なんか食べていこうか」拙生がそう云うと、吉岡佳世は拙生を怪訝そうな顔をして、見るのでありました。「井渕君、なんば云いよるとね。四ヶ町まで行かんでも、駅はこの公園のすぐ隣に在るやん」「いや、駅は、四ヶ町ば通り越した先やっか、昔からずうっと」拙生は吉岡佳世がまたなにを、わけの判らないことを云うのかと、口を尖らすのでありました。「違うよ。最近こっちに移ってきたとよ。井渕君、知らんやったと、今まで?」吉岡佳世はそう云って、拙生に背を向けて公園の出口に向かって、歩き出すのでありました。
 ・・・・・・
 拙生が慌てて、早足で彼女の後を追っていると、不思議なことに佐世保駅のホームが公園の出口のすぐ横に、見えるのでありました。そこには寝台特急さくら号が既に、入線しているのでありました。ああ本当に、駅のホームがあると思った途端、拙生は駅が公園の隣に在ることを、別に妙だともなんとも、思わなくなっているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 さくら号に乗りこんだ吉岡佳世が、出入口の手すりに手を添えて、ホームに立つ拙生を、見下ろしているのでありました。「本当は東京になんか、行きたくないとよ、あたし」と彼女は拙生に、云うのでありました。「でも、どうしても東京で入院せんといかんから、仕方なく行くとよ」「まあ、そうね」と拙生は寂しさを堪えて、返すのでありました。「お前が佐世保から、居らんようになったら、オイは寂しゅうして、心細うして、どがんすればよかとか、判らんけど、それでお前の体が良うなるとなら、我慢するしかなかね」「ご免ね、井渕君」吉岡佳世は悲しそうな顔を、するのでありました。「夏には、帰って来るとやろう?」拙生が、聞きます。「さあ、どうやろう。向こうで手術して、夏までに体の元に戻れば、帰れるかも知れんけど」「もし夏がダメやったら、待ちきれんけん、オイが東京に行こうかね」拙生はそう云ってから、引き攣るように、笑って見せるのでありました。
 吉岡佳世が拙生と同じような、笑いをするのでありました。「そうね、井渕君が東京に来れば、あたしは嬉しかけど」「よし、そがんしよう。オイは絶対東京に行く」「うん、待ってるけんね。でも、もしあたしが夏までに、帰って来れんやったら、て云う話やけどね、今のは」「うん。夏には帰って来てくれた方が、本当は嬉しかけど」
 拙生のズボンの裾を何かが、噛むのでありました。見下ろすと小さな柴犬が拙生のズボンの裾で、遊んでいるのでありました。拙生は仔犬を、抱きあげるのでありました。「可愛い仔犬ね」と吉岡佳世が、云うのでありました。「あたしにも、抱かせて」彼女は拙生の方へ両手を、差し出すのでありました。彼女に抱かれた仔犬は、彼女の小指に、噛みつくのでありました、「痛うなかとか?」拙生は、噛まれても特に表情を変えない彼女にそう、聞くのでありました。「うん、甘噛みやから、痛うないの」吉岡佳世はそう云って仔犬に、頬擦りをするのでありました。
 仔犬は頬擦りされたことが、嬉しくて堪らないように尻尾を一生懸命に、振るのでありました。「この犬、井渕君の代わりに、東京に連れて行こうかな」吉岡佳世は、まだ仔犬に頬擦りをしながら、云うのでありました。「列車に、犬ば連れて乗るとは、禁止されとるとやなかか?」拙生はそんなことを云って、もしや彼女の機嫌を、損ねないかしらと思ったものだから、躊躇いがちな小声で、云うのでありました。「大丈夫さ、屹度」「そうやろうか?」「うん。もし咎められても、井渕君の代わりに、東京に連れて行くて云えば、車掌さんも許してくれるとやなかろうか」
 吉岡佳世がそう云った刹那、仔犬は彼女の手から脱して、拙生の足下に跳び下りると、そのままホームから、駆け去ってしまうのでありました。吉岡佳世は「あっ」と小さく叫んで、犬の行方を何時までも、見送っているのでありました。拙生はそんな吉岡佳世を見ながら、何故か彼女がとても痛ましく、思えてくるのでありました。しかし何も言葉を、かけられないでいるのでありました。
 暫く二人は無言の儘で、お互いの顔を、見つめあっているのでありました。その沈黙に焦れて、拙生は先ず口元を笑いに動かしてから、少し冗談めかして「ああ、なんかひどく、寂しかし、心細か」と、云うのでありました。「ばってん、くよくよしとっても始まらんけん、オイとお前は笑って、別れんばとばい。誰かに、見られとるかも知れんからね」
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩC [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生はそう云った後に「誰かに、見られとるかも知れんからね」と云う、最後の言葉は、この場面には不必要かと、思い当たるのでありました。無意味な言葉を発したことを拙生は、悔やんでいるのでありました。
 ・・・・・・
 吉岡佳世が拙生の方へ手を伸ばして、拙生の頬に触れて「井渕君、あたしが居らんようになったら、その後、どうする?」と、聞くのでありました。拙生は彼女の手を握って少し、考えるのでありました。「そうね、また、影にでも、なろうかね、公園の銀杏の木の」「また、影になると?」「うん、それが一番、オイに似あっとる気のするもん」「影になったら、あたしが夏か、もしかしたらその前に帰って来た時、どうすると?」「その時は、また声ばかけてくれたら、すぐに人間に戻れるて、思うとやけど・・・」拙生は彼女の手を強く、握るのでありました。そうして恐らく、彼女は夏までに帰って来ることはないだろうと拙生は、判るのでありました。その証拠に、拙生のきつい握力に対して、吉岡佳世は同じく強く、拙生の手を握り返すことを、しないのでありましたから。
 吉岡佳世は「そう」と云って拙生の手から自分の手を、引くのでありました。それを追うように拙生の手は彼女の方に、延びるのでありました。しかし拙生の手を遮断するように、さくら号のけたたましい発車を知らせるベルが鳴って、ドアが、閉まるのでありました。ドアのガラス窓の向こうで、吉岡佳世がさようならと口を大きくゆっくり、動かすのでありました。
 列車が動き始めると、それを追うように拙生も、歩くのでありました。しかし数歩足を進めた時に、何時の間にホームに現れたのか、彼女のお兄さんの体にぶつかって、拙生は前進を、阻まれるのでありました。彼女のお兄さんは、ぶつかった拙生に頓着しないで、次第に速度を増す列車を何時までも、見つめているのでありました。彼女のお兄さんの目から、涙が溢れているのでありました。その涙には、どう云う意味があるのだろうと拙生は、考えるのでありました。
 なんとなく声をかけられない雰囲気だったものだから、拙生は泣きじゃくる彼女のお兄さんを、ホームに残して改札を、出るのでありました。駅から外を眺めると、そこは病院裏の公園でありました。拙生は公園の中に今度は一人で入って行って、影になるために、銀杏の木の傍へとゆっくり足を、進めるのでありました。・・・
 ・・・・・・
 そうしてようやくに拙生の体から熱が引き、拗らせた風邪の症状も静まってなんとか夢現の曖昧な境目から現の方へ重心を移して、確然と覚醒出来たのは二晩の後でありました。その間まともに食事も摂らずに、当然風呂も入らず髭も当たらず髪も梳らずで布団の中で夢を見続けていたのでありました。カーテン越しに感得出来る早朝の気配の中で、布団から起き上がった拙生は呆けたように部屋の中を見渡すのでありました。
 すると突然、部屋のドアがノックされるのでありました。それから叔母の声が部屋の中に侵入して来るのでありました。
「秀ちゃん、起きとると? 吉岡さんて云う人から、今、電話の入っとるとやけど」
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅠ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 熱に浮かされていた二日間に断続的に見続けた吉岡佳世と拙生の、公園での邂逅から佐世保駅での別れまでをなぞるような夢を、拙生は殆どすっかり覚えているのでありました。ようやくに霧が晴れた拙生の頭の中にその夢の断片が澱のように重く沈んでいて、それは時々攪拌されて淡い光を発しながらゆっくりと舞い上がるのでありました。その不思議な夢は、夢と云うもののご多聞に漏れずどこかが現実とは違っていて、二人の立場がすっかり逆転していたり前後の辻褄があわないようなものでありましたが、しかし夢の中の拙生にとっては妙に現実感のあるものでありました。拙生はそんな夢を何故見たのか、布団の上に起き上がってその意味を探ろうしているのでありました。
 そこに叔母の声が侵入してきたのでありました。叔母は拙生の反応が遅いのに焦れて部屋のドアを何回か叩くのでありました。
「秀ちゃん、起きとると、ねえ、秀ちゃん?」
 拙生は布団の上に座った儘「ああ、今開けるけん」と云ってから徐に立ち上がるのでありました。立ち上がった途端に目眩がしたのは、発熱の名残と、長時間の睡眠と覚醒の繰り返しによる疲労と、それに夢の残滓がまだ頭の中を舞っていたためでありましょう。
「まあだ、寝とったとやろう?」
 ドアを開けた拙生に叔母が云うのでありました。
「うん、まあ」
 拙生はそう云って寝乱れた頭を掻くのでありました。
「あれ、ひょっとしたら秀ちゃん」
  叔母は拙生の顔を驚いたように覗きこみながら云うのでありました。「なんかここ二三日、顔ば見らんやったら、急に窶れたごと見えるけど、もしかして病気しとったとやなかやろうね?」
「うん、ちょっと風邪ばひいとったごたるけど、もう大丈夫、今朝はすっきりしとる」
「大丈夫ね?」
「うん、熱もすっかり抜けたし、体もいっちょん辛うはなかばい、今は」
「そうね、そんなら、よかとけど」
 叔母はそう云って拙生の言葉を確かめるために拙生の額に掌を当てるのでありました。
「オイに電話てね?」
 拙生は叔母の掌が額から離れるのを待って聞くのでありました。その後に今朝とは云ったものの本当に朝なのか、それに朝だとしてもいったい何時頃なのかと云う疑問が頭を掠めるのでありました。長い半睡眠状態で拙生の時間の感覚が混乱しているのでありました。
「ああ、そうそう、秀ちゃんに電話の入っとるとやった。吉岡さんて云う人から」
 叔母は本来の来訪の意味を思い出して、慌ててそう告げるのでありました。「待って貰うとるけん、呼びに来たとやった。急いでウチに来んばよ、なんか急用のごたるけん」
「判った、すぐに行くけん」
 拙生がそう告げて一旦部屋の奥に戻るのは、ズボンを穿いてシャツを着るためでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅡ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 叔母の家の玄関を入った靴箱の上に据えてある電話の横には、小さな時計が置いてあるのでありました。その針は八時少し前を差しているのでありました。当然外の明るさから夜の八時であるはずはなくて、今現在が朝であることを拙生はちらと確認するのでありました。
 本体から外されてその脇に横たえられている受話器を取り上げるのを、拙生はほんの少しの間躊躇うのでありました。この電話が吉岡佳世本人からのものであったなら良いのだがと思いながら、拙生は受話器を見下ろすのでありました。本人が電話を寄越すくらいならば、詰まり彼女に、もしもの事態が出来しているわけではないと云うことでありましょうから。
 しかし吉岡佳世にこんなに朝早く拙生に、突然電話をしなければならない事情はなにもないのであります。だから余計に、拙生の受話器を取り上げる勇気が委縮するのでありました。拙生は意を決して手を延ばして受話器に触れるのでありましたが、なにやら気持ちの奥深いところで、出来ることならそれを手にすることを忌避したいと云う思いが、拙生の動作をぎごちなくするのでありました。受話器を耳元まで運ぶ拙生の手が、何故か震え出すのでありました。耳にあてた受話器は、ひどく冷たいのでありました。
「もしもし」
 拙生は恐る恐る受話器に声を送るのでありました。先方の声を聞くぎりぎりまで拙生はその拙生の呼びかけに吉岡佳世本人の声が返って来ることを、そんな筈はないと判っていながらも願っているのでありました。
「ああ、井渕君か?」
 その声は吉岡佳世のお兄さんのものでありました。「判るや、誰か?」
「はい、佳世さんのお兄さんでしょう?」
「うん。こがん朝早う電話して、申しわけなかけど」
「いえ、そがんことは別に」
「実はね・・・」
 彼女のお兄さんはそう云った後に云い澱むのでありました。その沈黙で、拙生は起きた事態の大方を飲みこむのでありました。ですから拙生も、喉から言葉がなにも出て来ないのでありました。暫くの沈黙の後に、彼女のお兄さんは云うのでありました。
「今朝六時過ぎに、佳世が亡くなったと」
 拙生はすぐに驚きの声を受話器に向かって発したのではありましたが、そう云う知らせであることは、彼女のお兄さんの声が耳の中に流れこんできた途端に、実はもう既に察しがついていたのでありましたから、その拙生の驚きの声は云ってみれば、態々電話を寄越してくれた彼女のお兄さんへの礼儀と云うだけでありました。拙生が受話器を取り落としそうになるのは、驚きのせいではなくて、ひょっとしたら失うであろうともうずっと前から実は秘かに予期していたものが、遂に現実のこととして宣告されたことに対する戦慄きのためでありました。受話器から微かながら、彼女のお兄さんの重苦しい息遣いが聞こえてきます。はっきりと拙生は吉岡佳世を今、失ったのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅢ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 吉岡佳世の通夜と告別式の日時と場所を彼女のお兄さんは、一応知らせておくからと前置きして拙生に告げるのでありました。遠いし、列車の手配など煩わしいし、それにぼちぼち始まるであろう大学の前期試験の都合もあるだろうから、もし都合がつかないようなら態々葬儀に参列することはないと云い添えてくれるのでありましたが、拙生はなにをさて置いても帰って彼女とのお別れをしたい旨伝えて電話を切るのでありました。
 こうなった以上、前期試験などどうでもよいのでありました。いや前期試験ばかりではなく、東京での大学生としての生活そのものも一気に色褪せるのでありました。来年になったところで、もう吉岡佳世は東京には来ないのであります。彼女が東京へやって来ることを楽しみに拙生は一足先に東京に出てきた積りでもあったから、東京に拙生が留まる意味の殆どが一瞬に消え失せたような気がするのでありました。
 叔母が居間から出てきて「なにかあったと?」と聞くのでありましたが、屹度電話に応対する沈痛な拙生の雰囲気が、居間に居る叔母にも伝わったのでありましょう。
「高校の時の友達が、今朝亡くなったて云う電話やった」
 拙生はそう云うのでありました。「葬儀に出るけん、すぐに佐世保に帰らんばならん」
「ああ、そうね・・・」
 叔母はそう返すのでありましたが、拙生の日頃にはない重苦しい言葉つきに気押されて、もうそれ以上の言葉を重ねられないと云った表情で拙生を見るのでありました。
「そんじゃあ、支度のあるけん」
 拙生はそう云って叔母に手を挙げて見せるのでありました。
「急なことけん、今からさくら号の席の取れるやろうか?」
「今なら夏休みまでまあだ間のあるけん、大丈夫て思うけど、もしさくら号の指定席の取れんやったら、大阪か岡山まで新幹線で行って、そこから列車ば乗りついで帰る積り」
 その頃は山陽新幹線が岡山までしか開業していなくて、翌年の春に博多まで延長される予定なのでありました。
「さくら号の席の、うまく取れるならよかけどねえ」
 叔母が心配してくれるのでありました。
「まあ、なんとかなるやろう」
 拙生はそう云って、もう一度叔母に向かって手を挙げてから玄関を出るのでありました。よかったら今から朝食を用意しようかと叔母が云ってくれたのでありましたが、悠長に食事を摂る気分にはとてもなれなかったから拙生はその申し出を断るのでありました。
 アパートの自室に戻るまでに、今日の夕方発のさくら号に乗れなかったとしても、今日の内に大阪か岡山までたどり着いておけば、明日中には間違いなく佐世保に帰り着くだろうと拙生は考えるのでありました。吉岡佳世の通夜は明日の夜、告別式が明後日と云う話でありましたから、それならば通夜にも間にあうはずであります。いっそのこと、列車ではなく空路と云う手もあります。拙生は佐世保までのルートを色々と思い描くのでありましたが、それは一心にその思考にかまけることで吉岡佳世を喪失した衝撃から、その場凌ぎに逃避しようとしていたために他ならないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅣ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 アパートの自室に戻ったらすぐに東京駅へ出発しようと、白いシャツと黒いズボンとブレザーを旅行カバンに放りこむのでありましたが、それは葬儀に出席するなら一応暗い色の服装をするべきであろうと不意に考えついたからでありました。黒いネクタイは持ってはいないのでありましたが、それは実家に帰れば調達出来るだろうということも考えるのでありました。取り乱している割にはそんな常識的な用意をする自分が一方に居るのが、自分でも意外でありました。
 差し当たりの必要品を旅行カバンに詰め終わって、部屋を出る前に拙生は机の上の写真立てを見るのでありました。吉岡佳世が銀杏の樹の下で微笑んでいるのでありました。
 彼女がもうこの世には居ないと云う実感が、拙生にはどうしても湧いてはこないのでありました。胸の中で寒風が吹き荒れているような気持ちのざわつきに翻弄されていはいるものの、確かにその事実は大きな衝撃ではあったけれど、未だはっきりとした悲しみと云うものではないのでありました。拙生はこの部屋から出かける時にいつもしている挨拶を、何時も通り口の中で写真に向かって告げているのでありました。
 結局その日の夕刻に出るさくら号の指定寝台券は手に入れることが出来ずに、拙生はすぐに乗車出来る新幹線で取り敢えず岡山まで行くことにしたのでありました。岡山に向かうひかり号の自由席車両は閑散としていて、荷物棚に旅行カバンを乗せてから、誰も座っていない席の窓際に拙生は腰を下ろすのでありました。
 車窓の外を身動きもしないで眺めている拙生ではありましたが、その目はなにも風景を捉えているのではないのでありました。かと云って考えに耽っているのでもなく、眠るわけでもなく、濃い霞みの中にただ目を薄く開いて惚けた顔をして蹲っているような感覚でありました。時々吉岡佳世の姿が頭の中に現れるのでありましたが、拙生は距離を隔ててただ彼女の淡い全体像をぼんやりと見ているのみでありました。彼女との距離を詰めること、つまり彼女について考えることは、なにかとても怖いことのようで拙生には出来ないのでありました。体が辛いことはもうないのでありましたが、まだ高熱を発した風邪の残滓が残っていて、それが拙生の頭の働きを不活発にしてくれているようなのは、実は幸いであったと思うのであります。そうでないと拙生は吉岡佳世のことをあれこれ考え続けてしまって、悲しさの底まで落ち沈んで行くしかなかったでありましょうから。
 拙生の乗ったひかり号が岡山駅に到着した時、まだ夕刻にはなっていないのでありました。このまま岡山で明日の朝を迎えるのはなんとも焦れったい気がしてきて、少し乗り換えの時間はかかったのでありますが、拙生はその日の内に山陽本線で広島まで行って駅の待合室で夜を明かすのでありました。
 駅の待合室では旅行カバンを枕に、木のベンチの上に横になるのでありました。空が白むまで転寝と覚醒を繰り返しているのでありましたが、不思議になにも夢らしい夢を見ないのは、その日の朝までとはまったく違うのでありました。朝から食事は一度も摂っていなかったのでありましたが、特に空腹感は感じないのでありました。まだ体調が万全ではなかろうから、風邪がぶり返すかも知れないと少し心配するのでありましたが、その兆候はなにもないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅤ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 翌朝、博多まで辿り着いて拙生は漸く安堵するのでありました。博多から佐世保まではもう目と鼻の先であります。佐世保に到着するのは、早ければ昼頃と云うことになるでありましょう。前途の目当てがついたものでありますから、拙生は博多駅を一旦出て、何処かで食事でも摂ろうかと思うのでありましたが、一向に空腹を感じないのでありました。むしろ今の自分の体は食事を受けつけないかも知れないと思い直して、佐世保行きの特急みどり号の発着するホームへと、その儘向かうのでありました。
 みどり号の車中では気が緩んだためか座席に腰を下ろした途端寝入ってしまって、早岐駅を列車が出るまで目を覚まさないのでありました。早岐駅はスイッチ・バック方式の駅のため列車はここから反対方向に進むのでありますが、拙生が目を覚ましたのは列車の揺れ方が変わったせいでありましょうか。四月に吉岡佳世と佐世保駅で別れた時に、あまりの寂しさに拙生は乗っていたさくら号をこの早岐駅で降りてしまおうかと、半ば本気で考えたことを思い出すのでありました。
 愈々佐世保駅が間近に迫ってくると、佐世保で吉岡佳世と二人で過ごした色々な場面が、考えまいとしても頭の中に蘇ってくるのでありました。彼女の身になにもなかったなら、彼女の待つ佐世保に帰るのでありますから、拙生の気分は高揚する筈でありました。しかし逆に佐世保駅が近付くにつれて、拙生は気持ちが落ち沈んでいくのでありました。
 拙生はこうして佐世保に帰ってきたことを、今頃後悔しているのでありました。なにやら強い義務感のようなものに唆されるようにこうして佐世保に戻ったのではありましたが、吉岡佳世がもう居ないこの街に戻るどんな意味が拙生にあると云うのでありましょうか。拙生は数分後に佐世保に降り立つことが、苦痛に思えてくるのでありました。
 しかし当たり前のこととして、容赦なく列車は終点の佐世保駅のホームに速度を緩めて滑りこむと、一度大きく揺れてから総ての動作を停止させるのでありました。列車を降りてホームを歩く拙生の足取りは重く、片手に持った旅行カバンに足を取られそうになりながら、改札口へ向かう人の群れの最後尾をよろよろとついて歩くのでありました。
 まだ吉岡佳世の通夜の時間までには間があるのでありました。拙生は駅を出るとそのままゆっくりと、四ヶ町のアーケードまで歩くのでありました。どんよりと曇った梅雨空の厚い雲に切れ目があって、そこから一瞬夏の日差しが拙生の全身に差すのでありました。項垂れて歩く拙生の影が道に現れるのでありました。
 四ヶ町アーケードを歩いていて白十字パーラーを見つけると、拙生はふと気紛れのように立ち止ってから、店に入る階段を上がっているのでありました。急に空腹を感じたと云うわけでもなく、食事を摂ろうと云う考えすらそれまで全くなかったのでありましたが、拙生が白十字パーラーに入ったのは、そこが以前に吉岡佳世と昼食を摂ったことのある店だったからでありました。
 店の扉を開けて、拙生は吉岡佳世の面影を店の中に見つけようとしようするのでありました。と云ったって、店の中に彼女の名残が在るはずもないのでありますが、拙生は彼女の死をはっきりと確認する前に、云ってみれば束の間の執行猶予のように、彼女の食事する生き生きとした表情をその店で思い出そうとしているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅥ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 生憎、白十字パーラーでは以前彼女と二人で座った席は塞がっていたのではありましたが、窓際のその席の隣りに拙生は一人で座るのでありました。吉岡佳世と一緒に入った時に注文を取りに来た同じウエイトレスが近づいてきて、拙生の前に水の入ったコップを置くのでありました。渡されたメニューを見ながら拙生がマカロニグラタンを注文したのは、その時そう多くの量は食べられないかも知れないと思ったのと、それが前に吉岡佳世がここで注文した料理だったからでありました。
「マカロニグラタンは、少し時間のかかるですよ」
 ウエイトレスが前の時と同じことを云うのでありました。拙生がそれでも構わないと告げると、ウエイトレスは拙生の手からメニューを受け取って、奥へ歩いて行くのでありました。ウエイトレスが立ち去った後に、前と同じ言葉の遣り取りをしたことが可笑しくて、拙生は頬を微少に緩めたのでありましたが、不意に云い知れぬ寂しさがこみあげて来て、その拙生の顔は苦い表情にすぐに変わるのでありました。
 一人で、拙生はマカロニグラタンをゆっくりと時間をかけて食べ、食べ終わるとコップの水を一口飲むのでありました。久しぶりのちゃんとした食事ではありましたが、それ以上はとても腹に入らないなと思うのでありました。そう云えば吉岡佳世は小食で、食べるのも遅かったのでありました。自分が食べる速度が遅くて呆れただろうと、彼女は拙生に云うのでありましたが、彼女が一生懸命と云った風にその小さな口を動かす仕草は、それはそれはとても可愛かったのでありました。
 拙生は白十字パーラーを出ると四ヶ町を通り抜け、吉岡佳世が拙生の為に写真立て買ってくれた玉屋デパートを見上げて、それから三ヶ町アーケードに入るのでありました。彼女が仔犬を買おうとしたペットショップを見ると、あの時に仔犬はもう売れて仕舞ったと彼女に告げた、小柄ながら骨太の体格のこの店の主人が相変わらず野球帽を阿弥陀に被って、ランニングシャツ姿で店の前に置いてあるケージを掃除しているのでありました。あの仔犬も、そのケージで飼われていたのでありましたか。
 三ヶ町アーケード近くにある喫茶店は、吉岡佳世と入った所でありあました。そこで二人で、拙生の住むことになる世田谷のことや来年彼女が東京に出てきた後の計画とかを話したのが、結局彼女との外での最後のデートでありました。拙生は立ち寄ってコーヒーでも飲んでいこうかと思うのでありましたが、一人でその店に入っても虚しくなるだけのような気がして、店の前をその儘歩き過ぎるのでありあました。
 拙生は佐世保橋を渡って病院の横手を回り、裏の公園に入って、あの銀杏の木の下のベンチに腰を下ろすのでありました。ベンチに落ちついた途端、なにやらやっと自分の最も安堵出来る居場所に帰ってきたような気がして、拙生はようやくに全身の力を抜くのでありました。銀杏の木は生憎の曇天の中ではありましたが、もう夏の到来を告げるように、濃い緑色の葉群れを風に泳がせているのでありました。葉擦れの音がやけに懐かしく拙生の耳の中に響くのでありました。拙生はその音を聞きながら目を閉じるのでありました。そのまま意識が薄れて拙生は眠ってしまったのでありましたが、眠る寸前に頬に流れたものは、曇天の空から落ちる雨粒ではなくて、拙生の涙だったろうと思うのであります。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅦ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 数時間が過ぎて銀杏の木の葉擦れの音で拙生は目覚めるのでありました。少し強い風が吹いて葉群れをさざめかせたのでありましょう。そろそろ、夜の闇がものの形を奪おうとする頃でありました。拙生は腕時計に目を落とすのでありました。吉岡佳世の通夜が始まるのは未だ二時間程先なのでありました。彼女の通夜は市民病院から程近い所に在る葬祭場で行われると云うことでありました。拙生はベンチから立ち上がって、闇に姿を隠した銀杏の木の葉擦れの音に送られながら、ゆっくりと歩いて公園を出るのでありました。
 公園脇の公衆電話ボックスから実家に電話を入れたのは、今晩急に家に帰って家族を驚かすよりは、まあ、かなり伝え遅れた感はありましたが、それでも予め今現在佐世保に居ることを知らせておいた方が、帰ってから面倒が少なかろうと考えたからでありました。しかし電話に出た母親は、拙生が佐世保に居ることをもう知っているのでありました。それは世田谷の叔母が拙生が東京を出発したすぐ後に、どうせ拙生自ら実家に連絡なんかするまいと思って、高校時代の友人の葬儀のために佐世保に発った旨、母親に連絡を入れておいてくれたからのようでありました。詰まりそう云う事情だから、通夜が済んだら今晩家に行くと云って拙生は電話を切るのでありましたが、夕飯を用意しておいた方が良いのかと云う母親の問いには曖昧な返事をするのでありました。相変わらず空腹を全く感じなかったし、未だ食事を普段通りに摂れるような気がしなかったためでありました。公衆電話ボックスを出た拙生は市民病院前の広い道路を渡って、古い寺院の塀に沿う乗用車二台がようやくすれ違える程の細い道に折れて、住宅地に入りこんだ辺りに在る葬祭場へと向かうのでありました。
 葬祭場の受付で吉岡佳世の通夜が営まれることを確認して、着替えをしたいのだがと云うと、受付の女の人が態々奥まった所に在る更衣室に案内してくれるのでありました。拙生は更衣室横の洗面所で顔と手を入念に洗って、ぼさぼさになっている髪を手櫛で調えてから、持参したシャツとズボンとブレザーを身につけるのでありましたが、黒いネクタイがないことに気づいて、また受付に戻って黒いネクタイを売ってはいないかと尋ねるのでありました。すると受付の人が勿論販売はしているが当座の必要だけと云うのなら、何本か備えつけのものがあるから良かったら貸そうかと云ってくれるのでありました。それからこんな折余計なことかもしれないがと拙生の体面を気遣う風の口調で、不祝儀の袋とかは持っているのかとも聞いてくれるのでありました。拙生はそんなことは実は考えもしなかったことなのでありました。屹度拙生の年齢やらむさ苦しい風体から、こんな場に不慣れなのであろうと心配してくれたのでありましょう。拙生はネクタイを貸与して貰って、それから不祝儀の袋は購入して、その人に礼を云ってまた更衣室に戻るのでありました。ことの序でだがと、その受付の女の人は不祝儀袋に入れる一般的な金額までも、丁寧に拙生に教示してくれるのでありました。
 身支度を終えて拙生は足取り重く、二階にある吉岡佳世の通夜が営まれる部屋へと向かうのでありました。扉の横の壁に「吉岡家」とあるのを見て、拙生はいきなり目眩を覚えるのでありました。強張った体が扉の前ですっかり動きを失くしてしまって、拙生の手は扉のノブになかなか延びないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅧ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生は意を決して扉を押し開くのでありました。そこは二十畳位の畳の部屋で、奥に祭壇が設えられているのでありました。手前のテーブルの周りには、黒い服装をした吉岡佳世の家族が沈痛な面持ちで座っているのでありました。
「井渕君、来てくれたと」
 入口に突っ立っている拙生にすぐにそう声をかけてくれたのは、吉岡佳世のお母さんでありました。彼女のお母さんは立ち上がって拙生の方へ歩み寄って来るのでありました。ひどく面窶れして見えるのは、この間の心労を物語っているのでありましょう。
「遠いとに、態々申しわけなかったねえ」
 彼女のお母さんはそう続けてから、拙生に上がってくれと促すのでありました。拙生はなんと言葉をかけてよいのか判らずに、ただ深々と頭を垂れるだけでありました。
 彼女のお母さんに案内されて奥の祭壇へ向かう拙生の目に、祭壇の前に置かれた白木の棺が跳びこむのでありました。拙生はその棺から目を離せなくなるのでありました。拙生の体の中に在る力と云う力が一気に抜けていくような感覚に足が萎え、棺の前に近づけなくなるのでありました。
 しかし何時までもそこに突っ立っているわけもいかず、拙生は足を引き摺るようになんとか棺の前まで進むと、その前に置いてある座布団の上にへたりこむように座るのでありました。棺の向こうの白い花で埋め尽くされたような祭壇の真ん中には、吉岡佳世の笑っている写真が黒いリボンをかけられて置いてあるのでありました。その写真は病院裏の公園で拙生が撮ったものでありました。こんな場面にその写真が役に立つのは拙生にはなにかとても不本意でありましたが、しかしそれを祭壇に飾った彼女の家族を恨めしく思うとか、そんな気持ちはまったくないのでありました。
「多分、佳世が自分の写真の中で、一番気に入っとった写真やろうけん、こうして遺影に使わせてもらったと、この居渕君が公園で撮ってくれた写真ば」
 拙生が遺影を少し長く見つめているためか、彼女のお母さんが拙生の横に座って、この写真をここに飾った経緯を話してくれるのでありました。「あの子は井渕君に東京で買ってきて貰った写真立てに、ずうっと井渕君の一人で映っとる写真ば飾っとったけど、その写真の裏に重ねて、この自分の写真ば一緒に入れとったとよ」
 吉岡佳世が写真立ての中にこの写真を一緒に入れていたと云うことを、拙生はここで初めて知るのでありました。自動シャッターで、二人で顔を殆ど接するように寄せあって撮った写真もあったはずでありますが、彼女は屹度そんな写真を飾るのは家族の手前照れ臭かったものだから、表には拙生が一人で映った真面目くさった顔の写真を入れ、その裏に自分の写真を、重ねあわせて忍ばせるように入れていたのでありましょうか。
 拙生は線香を取ってそれに蝋燭の火を移して立ててから、祭壇に向かって長い時間手をあわせるのでありました。
「井渕君、最後けん、佳世の顔ば見てやっておくれ」
 拙生の横に座っていた彼女のお母さんはそう云いながら立ち上がると、棺に近寄って蓋に取りつけられている小窓を静かに開くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩCⅨ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生は怯むのでありました。屹度棺の中の吉岡佳世はもう拙生の馴染んでいる彼女ではなくなっているでありましょう。拙生はその顔と対面することを秘かに、ひどく尻ごみするのでありました。しかしここで折角の彼女のお母さんの申し出を、結構ですと断るのもなにやら薄情で、無用に臆病なふる舞いのような気がするものでありましたから、拙生は彼女のお母さんの横に緩慢な動作で移動するのでありました。
 小窓の中で、白い菊の花に埋もれて吉岡佳世が目を閉じているのでありました。いやそれは、確かに吉岡佳世の面影を残してはいるものの、どこか決定的に彼女ではないのでありました。安らかで、口元が微笑んでいるようにも見えるのでありましたが、しかし矢張りそれは表情と呼べるものではないのでありました。彼女から表情と云う表情をすっかり奪い取ってしまったから、屹度このような顔になったのだろうと拙生は思うのでありました。病気の苦しみを湛えた儘の顔でないのは、今となっては救いかも知れません。しかし同時に、はにかんだ表情や戸惑う表情、目を大きく見開いて驚く表情や小さな口を引き結んだ真剣な表情、目を弓にして笑う表情や口を少し尖らせて不満を表明する表情と云った、何時も拙生を魅了していた彼女の様々な表情の名残りも、すっかり消え失せてしまっているのでありました。
 拙生は本当に彼女がもう、拙生の前から去って行ったことを実感するのでありました。涙が不意に溢れだして、目を閉じた彼女の安らかな顔が滲むのでありました。拙生の涙が数滴、彼女の顔に落ちるのでありました。それは少しの間彼女の閉じた目の下に止まってから、そこに止まり続けることを躊躇うように、彼女の頬を伝って白い花叢の中に流れ去るのでありました。
 どの位の時間、拙生は棺の傍に座っていたでありましょうか。不意に肩を軽く叩かれて拙生が顔を上げると、吉岡佳世のお兄さんが拙生を覗きこんでいるのでありました。
「井渕君、大丈夫か?」
 彼女のお兄さんは拙生の憔悴を気遣うように、そう声をかけてくれるのでありました。
「ああ、済みません」
 拙生は立ち上がろうとするのでありましたが、拙生にそんな自覚はなかったのでありますが立とうとして少しよろめいたようで、彼女のお兄さんは拙生の腕を取って助けようとするのでありました。横に居た彼女のお母さんも、慌てたように拙生の方へ手を差し伸ばすのでありました。
「ああ、済みません」
 拙生は同じ言葉を繰り返すのでありました。拙生は彼女のお兄さんに助けられながら棺の傍を離れて、テーブルの方に席を移すのでありました。彼女の親類と思しき何人かがテーブルの前に座っているのでありました。その人達に目礼しながら、拙生が座った位置はちょうど彼女のお父さんの正面でありました。
「見苦しかところば見せてしもうて、済みませんでした」
 拙生は涙を拭いながら、彼女のお父さんに頭を下げるのでありました。彼女のお父さんは悲しそうな顔で、それでも拙生に笑いかけてくれるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCC [枯葉の髪飾り 7 創作]

「いや、有難うね、井渕君」
 そう云う彼女のお父さんの声が少し震えているのでありました。「態々、遠いところを駆けつけてくれて、本当に有難う。これでやっと佳世も安心したと思うよ」
 彼女のお父さんは涙声で云って、拙生に礼をするのでありました。しかしそれ以上言葉が続かずに、俯いたまま肩を小刻みに上下させているのでありました。
「もうぼつぼつ、通夜の始まるけん」
 彼女のお兄さんがテーブルを囲んでいる人達に云うのでありました。彼女のお父さんが立ち上がると、皆がそれに倣うようにゆっくりと尻を上げるのでありましたが、拙生も最後に立ち上がるのでありました。
 斎場の係りの人の手でテーブルが隅に片づけられて、部屋の中に座布団が並ぶのでありました。拙生は立ち上がった儘次にどうしていいのか判らずにいると、彼女のお父さんが拙生の座る位置を示してくれるのでありました。そこは祭壇近くの親類一同の席の末でありました。拙生はそこに座ってよいものか考えるのでありましたが、彼女のお母さんが手招きして拙生をそこに導いてくれようとするのでありました。
 拙生は了解したと彼女のお母さんに一つ頷いてから、一旦部屋の入口脇に設えられた受付に行って、斎場の人に教えて貰って用意した不祝儀の袋をそこに置いて戻ると、指示された場所に正座するのでありました。横に座っていた彼女の親類の、多分彼女のお母さんの姉妹であろう人から、吉岡佳世の同級生かと聞かれるのでありました。
「はい、高校時代、同じクラスやった者です」
 拙生はそう云いながら頭を下げるのでありました。
「態々来てくれて、有難うね」
 その人は先程の彼女のお父さんと同じことを云ってくれるのでありました。
 ぼつぼつと弔問の人が増えて部屋の中が埋まるのでありました。最後に、僧侶が入って来て棺の前に座るのが通夜の始まりでありました。僧侶は家族や親類に恭しく一礼してから読経を始めるのでありましたが、拙生は読経の間、祭壇に飾られた彼女の写真を一心に見つめているのでありました。それは吉岡佳世との様々な思い出に浸っているわけではなくて、拙生の頭はその時なにも考えてはいなかったのでありました。通夜に臨んでいると云った自覚も、ここが何処かと云うことすらもすっかり消し飛んでいたのでありました。
 頭の中に劈くような金属音が鳴り響いていて、その音に体を貫かれているために拙生は身動きが出来ないのでありました。頭の芯が痺れているような感覚でありました。悲しいとか寂しいとかの感情も湧いてはこないのでありました。拙生はただ、どうしたものか、まるで、そう、銀杏の木の影にでも成り果てたように動けないのでありました。それでも順番が回ってくると、焼香の仕草だけはなんとかこなしているのでありました。
 僧侶の読経が終わって彼女の親族や弔問の人が立ち上がるのでありましたが、拙生はそれでも座り続けているのでありました。人が出入口へと流れるのでありましたが、拙生は吉岡佳世の写真を見つめながら身動きもしないで座り続けているのでありました。祭壇の前に拙生だけが一人取り残されるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅠ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 弔問客を送り出した後は、拙生と吉岡佳世の家族だけが祭壇の前に残されるのでありましたが、人の気配が失せた部屋の中は、急にもの寂しい空気に支配されてしまうのでありました。彼女のお兄さんは部屋に散らばっている座布団を片づけてから、読経の間、隅に置かれていたテーブルをまた部屋の中央に出すのでありました。
「井渕君、こっちに来てお茶でも飲まんや」
 拙生に彼女のお兄さんが声をかけるのでありました。
「はい、有難うございます」
 拙生はそう云って立ち上がると祭壇の前を離れて、テーブルの方へ移動するのでありました。拙生が座ると彼女のお母さんがお茶を入れてくれます。
「井渕君、お腹の減っとらんね?」
 彼女のお母さんは湯気の立ち上る湯呑を拙生の前に置いて、拙生の顔を覗きこむようにしながら尋ねるのでありました。
「いや、大丈夫です」
 拙生は一礼してからそう云うのでありました。
「斎場に云えば、お寿司かなんか出前ばとってくれるとやけど」
「いや、ここに来る前に腹に入れて来ましたけん、本当に大丈夫です」
「東京から急に帰って来るのは、大変だっただろう?」
 彼女のお父さんがそう労わってくれるのでありました。
「いや、時間はかかったばってん、そがん大変て云う程ではなかったです」
「大学は、ぼちぼち前期試験が始まる頃じゃないのかな。そんな時期に本当に申しわけなかったねえ、態々こっちまで来て貰って」
 拙生はいやあと云いながら顔の前で手を二三度ふって見せるのでありました。
 少しの間会話が途切れるのでありました。拙生は誰もが言葉を口に仕舞った儘の状態に焦れて、ついうっかり吉岡佳世の最後の様子を聞こうとするのでありましたが、それは彼女の家族の、まだ生々しい辛苦の感情を波立たせることになるだろうとすぐに思いなおして、口から出そうになった言葉を飲みこむのでありました。それに拙生にしても、吉岡佳世の最後の様子などを聞いたら、また取り乱して醜態を晒してしまうかも知れませんし。
「今日はこれから、どがんされるとですか?」
 拙生は結局そんな言葉を唇の先に上せるのでありました。
「うん、誰かここに居って、線香は絶やさんようにせんばならんけん、オイ達は朝までこの部屋に残っとる。まあ、交代で家に帰って、休息とか着替えとかするやろうばってん」
 彼女のお兄さんがそう云うのでありました。
「そしたら、オイ、いや僕はこれで今日は帰って、明日の告別式にまた来ますけん」
 拙生は四月以降彼女の傍から離れていた、罪滅ぼしになんか今更なりはしないのでありますが、それでもせめてこの夜くらいは吉岡佳世の傍にずっとつき添って居たいとも思うのでありましたが、しかし彼女の家族でもない拙生がここに居残るのは、屹度出過ぎた行為と云うものでありましょう。拙生はテーブルに手をついて立ち上がるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅡ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 一緒に立ち上がった吉岡佳世の家族に拙生は深々と一礼して、通夜の取り行われた部屋を出るのでありました。葬祭場の受付に借りていた黒いネクタイを返却して外に出ると、小雨がパラついているのでありました。拙生は濡れながら最寄りのバス停まで歩くのでありましたが、梅雨時だと云うのに振りかかる雨がやけに冷たく感じられるのでありました。
 雨粒を顔に受けながら、そう云えば吉岡佳世と外で逢う日は、雨や雪に祟られたことは一度もなかったと思うのでありました。いや実際はそんなこともあったかも知れないのでありますが、拙生の記憶が不確かなめに、雨や雪の中で傘をさして二人で公園や街中を歩いた場面がその時には思い浮かばないのでありました。
 バス停でバスを待つ間拙生はぼんやりと、夜の闇を流れる車のヘッドライトの光を見ているのでありました。そうして出し抜けに、学校最寄りのバス停で彼女と待ちあわせて帰る時に一度、雨にふられたことがあったことを思い出すでありました。二人夫々が傘をさして手を繋いでいると傘から出ている手が濡れるからと、吉岡佳世は自分の傘を畳んで拙生の傘の中に入るのでありました。彼女は傘を持っている拙生の腕にカバンを持たない方の手を絡めて体を寄せます。拙生は彼女の体が接触している腕や腰から伝わるその存在感に圧倒されているのでありました。しかし当然云い知れぬ幸福感にも酔っているのでありました。何時までもこうしていたいと思うのでありましたが、非情にも間もなくバスがやって来て二人の密着を引き離すのでありました。
 拙生にとっては吉岡佳世とつきあい始めてすぐの頃の、なんと云うこともない彼女との思い出の一つで、今まで頭の中に像を結ぶことが殆どなかった光景でありました。今後暫くの間、こういった彼女とのほんの些細な場面の数々を、ふとした拍子に思い出すのかも知れません。それは好ましいことのようでもあるし、身を引き裂かれるくらい遣る瀬ないことのようでもありました。
 不意に雨粒が拙生の目に入って拙生は反射的に目を閉じるのでありました。恐る恐る開いた拙生の瞼の間から、入った雨粒が涙のように頬に零れ落ちるのでありました。
 家に帰り着いた拙生に母親が食事は要るのかと問うのでありました。拙生はそう聞かれて急に空腹を覚えるのでありました。拙生に食事を供しながら母親は誰の葬儀だったのかと尋ねるのでありましたが、拙生が吉岡佳世の名を云うと母親は一瞬怪訝な表情をするのでありました。高校時代にごく親しくしていた友人の葬儀であろうと推察していたのに、拙生の口から女子の名前が出たために不意を突かれたような気がした故でありましょう。さして深いつきあいのあったわけでもないであろう同級生の女子の葬儀に、どうして拙生が態々万難を排するような態で列席しなければならないのか、母親には屹度うまく理解出来なかったのであります。拙生が吉岡佳世とのつきあいを、全く親に秘していたのでありましたからそれは仕方ないのでありました。しかし拙生が疲労のために気難しげな顔をしているのに遠慮して、母親はそれ以上事情を追求するような質問はしないのでありました。
 それに気を利かせて、明後日の午後に福岡から羽田に向かう飛行機の座席を取っておいたと知らせてくれるのでありました。葬儀の日時が判らないながら、もし都合が悪いのならキャンセルすれば済むと、取り敢えず手配してくれていたのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅢ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生は天邪鬼に、仕方のない用であるのはそれはそれで認めるが、その用が済んだならさっさと東京に戻って大学生としての自分の本分を尽くせと、母親になにやらしごく冷めた小言を仄めかされているような気が一瞬して、少々この手配に苛立つのでありました。しかし勿論、母親にそんな積りなど更々ないことは承知しているのでありました。拙生の都合を慮ったための気配りであって何の他意も母親にはないのであります。拙生の苛立ちはその時の拙生の、不安定で過敏になっている特殊な情緒に起因しているのでありました。それに吉岡佳世の葬儀が済んだ後にこの地に暫く止まっていても、それは拙生にとっては悲しみを増幅させるだけでしかないのでありますから。拙生が母親の配慮に対して云った礼の口調には、どこか無用な陰翳があったろうと思うのでありましたが、拙生はそれを口に出したすぐ端から母親に対して申しわけないとも思うのでありました。
 明けた次の日の午前中に、通夜のあった葬祭場の同じ部屋で吉岡佳世の告別式は取り行われるのでありました。通夜の時よりも多くの参列者があって、そこには隅田と安田、それに島田の顔も在るのでありました。他に坂下先生や吉岡佳世の今度のクラスの担任の姿も、先に拙生等と一緒に卒業した幾人かの女子の同窓生や、拙生にとっては下級生に当たる今度の彼女のクラスの同級生の姿も一人二人見受けられるのでありました。
 拙生が屹度憔悴した顔をしていたからでありましょうが、葬儀の最中、彼等と同じ位置で参列している拙生に、隅田も安田も一言二言声をかけるだけで久し振りの対面を懐かしがったり、前のように冗談口調で喋ったり等は勿論一切しないのでありました。拙生は重苦しい雰囲気を湛えた儘で彼等とは孤立するように、そこにじっと座っているのでありました。
 読経が終わって僧侶が退出すると吉岡佳世の横たわっている棺の蓋が開けられて、もう既に白菊に埋もれている彼女の上に、尚も多くの菊花が添えられるのでありました。それからその菊花の上に、彼女の馴染みの幾つかの品が載せられるのでありました。
「井渕君、本当に申しわけなかことやけど、この写真も、中に入れてよかやろうか?」
 彼女のお母さんが棺を取り巻く人の中に紛れていた拙生を見つけて、そう聞くのでありました。お母さんの手には拙生と彼女が顔を寄せあって、公園の銀杏の木の下で映っている写真が握られているのでありました。
 それは彼女が写真立ての写真とは別に、何時も肌身離さず身につけていた写真であったから、彼女のお母さんは棺の中に入れたかったのだろうと拙生は推察するのでありました。しかし拙生の映った写真を荼毘にふすことを拙生が忌むかも知れないと危惧して、彼女のお母さんはそう拙生に質したのでありましょう。拙生には勿論何の抵抗もないのでありました。寧ろ彼女がどんなに遠くへ行ってしまうとしても、拙生の写真を一緒に連れて行ってくれるのなら、それこそ本望と云うものでありました。拙生は屹度そうして欲しいと思ったから、お願いしますと云って一礼するのでありました。
「ご免ね、井渕君」
 彼女のお母さんはそう云いながら写真を菊花の上に静かに置くのでありました。その写真は彼女の他の幾つかの所縁の品と一緒に、花叢の中に紛れるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅣ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 棺の蓋が閉められて釘が打たれるのでありました。拙生はこれで、寝台特急さくら号の扉が閉まった時のように、いやむしろそれよりも遥かに決定的な形で、彼女と隔てられたような気がするのでありました。吉岡佳世はもう既に虚しい亡骸となっているのではありましたが、しかしもうなにがあっても、彼女は棺の中から出ることは叶わないのだと拙生は思うのでありました。棺の蓋を釘づけにすることは、拙生にはひどく容赦のない作業のように映るのでありました。
 拙生もその一端を荷わせて貰って彼女の棺は葬祭場を出て、黒い大きなワゴン車に乗せられるのでありました。後は親族のみがつき添って、その身をこの世から消し去る儀式の場へと運ばれるのであります。
「井渕君、どうするの、この後は?」
 大きなワゴン車の助手席に乗りこもうとした彼女のお父さんが、ふと動作を止めて横で見送る拙生に聞くのでありました。
「はい、明日東京に帰るだけです」
「もしよかったら、火葬場まで一緒に来る?」
 拙生はそのお父さんの申し出に何故かひどくうろたえるのでありました。
「オイ、いや僕は、ここで見送らせてもらいます」
 そう云う拙生に彼女のお父さんは、そう、と云って何度か頷くのでありました。拙生は彼女のお父さんに一礼するのでありましたが、顔を起こした途端拙生の目から一筋流れた涙は、吉岡佳世がこの世から間違いなく去ることへの惜別の涙でありました。拙生は目線を彼女のお父さんの顔の位置まで上げられずに、彼女のお父さんが胸に抱く吉岡佳世の白木の位牌を見ているのでありました。位牌の文字が霞んでいるのでありました。
 吉岡佳世を乗せた車は見送る人を後に残して、ゆっくりと動き出すのでありました。車が道に出るために葬祭場の門を出て曲がると、その姿はあっけなく拙生の視界から消え去るのでありました。拙生は足の力が急に抜けてようやく立っているだけでありました。そんな拙生に隅田が横から声をかけるのでありました。
「大丈夫か、井渕?」
 拙生は隅田を見て頷くのでありましたが、なんとなくぎごちない頷き方であることが自分でも判るのでありました。
「久しぶりに会ったことけん、ちょっとその辺でお茶でも飲んでいくか?」
 安田が云うのでありました。
「いや、なんか疲れたけん、オイはこれで帰る」
 拙生はそう安田に返すのでありました。
「ああ、そうか。まあ、そうやろうね」
 安田はそう云って拙生の背に軽く手を添えるのでありました。「そんなら、また夏休みにでん、ゆっくり会おうで。夏休みは帰って来るとやろう?」
 拙生は頷きながら少し笑おうとしたのでありましたが、強張った顔の筋肉は拙生の意の儘にはなかなか動いてくれないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅤ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 東京に戻った拙生は萎れた風船のように無気力に日々を送っているのでありました。なにをするのももの憂くて前期試験のために大学に行く以外は、ほとんどアパートの部屋に閉じ籠もっているのでありました。部屋では特に試験勉強をするわけでもなく殆ど寝転がって天井の染みを眺めていたり、時々机の上の吉岡佳世の写真を長い時間見つめたり、ラジオをつけっ放しにしているのは寂しさを紛らわすためで、そこから流れてくる音楽に聞き入っているのではないのでありました。
 吉岡佳世のことは考えまいとしてもついつい、頭に真っ先に浮かんでくるのでありました。確かに彼女の面影を追っていると切なくて遣り切れなくなるのではありましたが、しかし半面思い出の中で彼女と再会することは、拙生の秘かな楽しみにもなっているのでありました。当面、吉岡佳世を失った痛苦を癒すものが拙生には他になにもなかったのでありましたから。
 彼女との思い出を徒然に追っていると時々現実に彼女との間にあったことと、風邪を拗らせて臥せっている時に見た夢の場面とが取り紛れることがあるのでありました。夢の方により切迫感があるように感じられるのは、遠慮とか怖気のために現実には彼女に対して表出出来なかった拙生の感情と云うものが、より濃縮されて生にそこに現れためでありましょうか。つまり意識無意識に関わらず、拙生が吉岡佳世に対して持っていた遠慮や怖気がどう云うものであったのか、一端はそれで判るような気がするのでありました。それは取りもなおさず、拙生の中に形成された吉岡佳世の像の輪郭をより鮮明にする作業でもありましょうが、しかしそのためにはもっと綿密で冷静な考察と時間を必要とするでありましょう。拙生は暫くの間は、そんな気にはとてもなれないのでありました。吉岡佳世の面影の濃さが未だ当分、拙生に感情の制御をさせてはくれないでありましょうし。
 大学で友人達が拙生と顔をあわせても、拙生からは以前の気安さが消えてしまっていたことでありましょう。彼等は当日の試験の終わった開放感から、拙生を昼食や夕食に誘ってくれたりするのでありましたが、拙生が明日以降も試験が残っているからと彼等の誘いを断るのは、なんとなく彼等と戯言を云いあったりふざけたりすることが大儀に思えるからでありました。勿論彼等にはなんの落ち度もないのでありまして、拙生の友好的ならざる態度は偏に拙生の疲労感や虚脱感に起因するのでありました。
 前期試験が終わると大学は八月九月と二ヶ月間の夏休みに入るのでありました。拙生は吉岡佳世が拙生をもう待ってくれてはいない佐世保に帰る気力も湧かずに、相変わらず東京のアパートの部屋に閉じ籠もって茹だるような暑さをのみ友としているのでありました。病気でもないのに矢鱈に体が気だるくて動く元気も出ない儘、日に一度だけ、空腹に耐えかねて仕方なく駅前の商店街辺りに食事に出かけるのが、せめてもの動作と云う風でありました。その折インスタントラーメンとか菓子パンとかを買い求めて、それは次の日の昼の食糧となるのでありました。
 拙生は佐世保に帰る気力はないくせに、かと云ってこの儘東京に居る意味も見出せないのでありました。だらだらとただ時間の経過をやり過ごすような生活をするために、拙生は東京に出てきたのではないはずでありました。それは判っているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅥ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 こんな単に息をしているだけのような東京での拙生の生活態度を、吉岡佳世は屹度喜ばないだろうなあとも考えてみるのでありました。しかしもうこの世には居ない彼女の意思を勝手に措定して、それにかこつけて自分の自堕落を戒めると云ったまるで向日葵の花のように健全な思考は、その時の拙生には寧ろ白々しく思えるのでありました。遥か前方に向かおうとする健康な視力を拙生の眼球は未だ持てないでいるのでありましたし、彼女がもうこの世に居ないと云う冷厳な事実そのものが、巨大な重しのように拙生の首を抑えつけていて、拙生の視線を暫くの間は上に向けさせてはくれないようでありました。
 ほんの些細な用があって拙生は珍しく午前中に布団を抜け出して、久しぶりに大学に行ってみるのでありました。もう夏休みに入った大学は人の姿も疎らであろうと思っていたのでありましたが、門の前には学内に人が入るのを阻止するように、ヘルメットを被ってタオルで顔を隠した多くの学生達が学費値上げ反対と大書した横断幕と、赤い旗を掲げて座りこんでいるのでありました。それを幾人かの機敏に動くスーツ姿の人間や警備員と思しき制服の人間が、まるでそのヘルメットの学生達の動きを監視するように遠巻きにしているのでありました。そこに漂う緊張感に拙生は思わず目を釘づけるのでありました。
 これでは学内に入ることが出来そうにないと拙生は考えるのでありました。まあ、拙生の用と云うのは差し迫ったものではなかったし、すっぽかしても後で容易に取り繕うことの出来る事柄だったので、ここを敢えて学内に立ち入ることもなかったのでありました。しかし拙生はどうしたものかほんの気紛れを起こして、ヘルメットの学生達の方へ歩き向かうのでありました。
 すると門に到達する前に、スーツを着た鋭い眼光の屈強な体躯の男に呼び止められるのでありました。拙生が足を止めて彼の方を見ると、彼は近寄って来て拙生の前に掌を出して拙生の歩行を阻止しながら、この大学の学生かと問うのでありました。拙生が頷くと学内になにか用があるのかと、質問を重ねるのでありました。拙生は呼び出されて、学部の事務局に行こうとしている旨告げるのでありました。
「こんな状態だから、今日は学内には入れないよ」
 彼がそう云いながら拙生の顔や姿を見まわすのは、拙生が一般の学生なのか、それともヘルメットの学生達と関係がある者なのかを見定めようとしてのことでありましょう。
「一日中、入れないんですか、今日は?」
 拙生は彼にそう聞くのでありました。
「無理だね。本館の入り口はバリケード封鎖しているようだし、第一、事務の人は退去してしまってるだろう。中に誰も居ないよ、大学当局の人間は」
「困ったな」
 拙生は別にそう困ることもなかったのでありましたが、行きがかりからそう云って口を尖らすのでありました。
「学生の排除に時間がかかるし、事務局も教室も荒らされているだろうから、今日だけじゃなくて、当分の間学内には立ち入れないと思うけどね、一般の学生は」
 そう云う彼の目は拙生の応答の様子をじっと観察しているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅦ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生はあらぬ疑いをかけられても詰まらないので、彼の指示に従って大学を後にするのでありました。用事が果たせないのならアパートに帰ってまた引き籠もるだけであります。拙生はとぼとぼと歩いて最寄り駅まで戻るのでありました。
 駅前が騒然としているのでありました。来た時は別段なんの変哲もなかったのでありましたが、戻ってみるとさして広くもない駅前にヘルメットを被った学生が大勢居て、アジビラを配っているのでありました。それにその中の一人がハンドスピーカーを使って扇動的な言葉を早口に怒鳴っているのでありましたが、スピーカーから吐き出されるその声は嫌に高音で、まるで子供が駄々を捏ねているような風に聞こえるのでありました。
 駅の改札口へ向かって歩いている拙生にもビラが差し出されるのでありました。不意だったものだから拙生はそのビラをつい受け取るのでありました。そこには妙に角ばっていながら或る部分は曲線を強調したような独特の文字が、騒がしく並んでいるのでありました。拙生は読むと云うのではなくて、眺めると云った風にその紙片に目を落としながら歩くのでありました。
 拙生は改札口の手前でヘルメットの学生に呼び止められるのでありました。
「君、学生だろう、ちょっといいかな?」
 小柄な、口元に愛嬌のある顔の男でありました。彼の横には、こちらは背が高くて如何にも鍛えていると云った風の体つきをした男が一人つき添っているのでありました。拙生が立ち止まると小柄な男は、拙生を四つ並んだ改札口の端の方へと導くのでありました。
「学校の様子は見た?」
 彼は拙生に聞くのでありました。
「ええ、見ましたが」
「どう思った?」
「どうって、・・・まあ、困ったなあと」
「なんでああなったか、判る?」
「大学が物価スライド制の学費を導入しようとして、それに貴方達が反対して・・・」
「そう。一応判ってんじゃん、君は」
 彼はそう云って拙生に親愛の籠もった笑みを投げるのでありました。「そう云う制度を使って学費を値上げしようとする大学を、どう思う?」
「まあ、一般的には、値上げは困りますね、なんにしても」
 その頃は不況下のインフレーションが高速度に進行している時世でありました。
「そうなら、君はそう云う大学の策謀に対して、なにかものを云いたくはないの?」
「いや、今のところは特段」
 拙生はそう返すのでありましたが、この拙生の返答は如何にも自分の鈍さを晒しているような気がしてきて、そんな必要等ないはずなのに妙に恥ずかしくなってくるのでありました。
「例えばサルトルとか、知ってる?」
 彼は急にそんなことを云い出すのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅧ [枯葉の髪飾り 7 創作]

「はあ? まあ、名前だけは」
 拙生はそう応えるのでありました。彼はその後扶桑の高名な左翼思想家や詩人、それに隣の国の政治家の名前を持ち出すのでありました。拙生は自分にとんと縁のないそんな人達の名前を急に列挙されても、ただ困惑するだけしかないのでありました。拙生がその人達の名前を聞いただけで畏れ入ると云う風もないし、それに捗々しい反応も示さないでいるものだから、彼は少し失望の色をその目に湛えるのでありました。
「今、大学の抑圧的な学生管理の策謀が、我々の権利や学問の自由なんかを危機的な状況に陥れているわけだよねえ。その端的な現れが今回の学費値上げの策謀だとするなら、自分の自由のためにも、君も反対の声を上げるべきじゃないかと思うけど、どうかな?」
「はあ・・・」
「今は閉ざされた場で、与えられた本だけを読んで、満足している状況じゃないんじゃないかな。自分の身に迫って来る危機に目をつぶったまま、何も声を上げないことは自滅行為と云うものだし。我々は閉ざされた場から出て、もっと多くのリアルな抑圧の現場と、敵の正体をちゃんと見ないといけないんじゃないかな」
「はあ・・・」
 拙生がなかなか思わしい反応を示さないものだから、彼はその後もなにやら聞き慣れない言葉を列挙して色々とまくしたてるのでありました。
「要は、一緒に大学のバリケードの中に入らないかと、勧誘しているわけですね?」
「まあ、大雑把にはその理解でいいよ。勧誘と云う云い方は、少し違ってるけど」
「折角ですがお断りします」
 拙生はきっぱりと云うのでありました。「なんか貴方の話は一方的過ぎるし、硬直しているような気がしますから」
 そう云った後、拙生はこんなこと云わなければ良かったとすぐに後悔するのでありました。反発するのは、結局相手の話のペースにうっかり乗ることになるような気がしたのでありました。
「まあ、待って。ちょっとその辺でお茶でも飲みながら、もっとじっくり話をしないか?」
 彼は拙生の顔の前に掌を上げて見せるのでありました。面倒臭いことになったと思って拙生は用があるからそれも断ると云って、駅の改札口を入ろうとするのでありました。すると拙生と話していた小柄な男の横で、終始黙った儘で立っていた背の高い方が拙生の前に立ちはだかるのでありました。
「そんなこと云わないで、ちょっとの時間だからつきあえよ」
 拙生は、そう云って拙生を見下ろしている男を睨むのでありました。こんな人混みの中で、しかも男達の仲間が大勢居る前でごたごたを起こすのも得策ではないから、拙生は体の向きを変えてその場から立ち去ろうとするのでありました。
 道を早足に歩く拙生に彼等はどこまでもついて来るのでありました。拙生はふり切ろうとして路地を曲がったのでありますがこれが失敗でありました。路地は行き止まりになっていたのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅨ [枯葉の髪飾り 7 創作]

「あんた等、仲間がビラ配りの仕事しているのに、こんなことしてて良いのかい?」
 拙生はふり返って云うのでありました。
「それが俺等の仕事だからな」
 背の高い方が云うのでありました。今思うと彼等は学生にオルグをかけて陣営に引きこむ役割を担っていたのでありましょう。配るビラに対する反応や受け取る態度を観察して、これはリクルート出来ると思った学生に声をかける仕事であります。拙生はそんな役目の男に目をつけられたと云うことであります。
「お前等、性質が悪いな」
 拙生はもうこうなったら喧嘩腰であります。
「いや、待って。なにも君と喧嘩しようと云うんじゃないんだから」
 小柄の方が拙生に笑いかけるのでありました。「君はこの闘争の意味も大方理解しているようだし、意識も高そうだから俺達と連携出来ると思うんだよ」
「意味とか意識とか連携とか、知るかそんなこと」
「そう興奮しないで、冷静に話そうぜ。俺達の話を聞くだけは聞いて欲しいんだよ」
 下手に出てこられると拙生としても逆に厄介になるなと思って、舌打ちをするのでありました。
「用があるから、この辺で勘弁して貰いたいんだけど」
 拙生は懇願口調で云うのでありました。
「判った。じゃあ、連絡先を教えて貰えないかな?」
「つき纏うヤツに、ご丁寧に連絡先まで教える馬鹿が居るか!」
 拙生はまた声を荒げるのでありました。背の高い方が拙生ににじり寄るのは、拙生の言葉で雰囲気が一気に険悪になったからでありましょう。
「まあ、冷静になろうよ、お互いに」
 小柄の方が前に出ようとする背の高い方を制しながら云うのでありました。「現状の大学の機構が社会的に、もう機能していないのは、君も判るよねえ」
「知るか!」
「云ってみれば欠陥品になってしまったわけだよ、今の大学は。その根本的な欠陥を結局そのままにして、自分達の都合の良いように改変しなおそうとしている大学当局に、少しは当事者である学生の意見も聞いてくれと訴えているわけだよ我々は。これは判るよねえ? しかし当局はまったく民主的な手続きを無視して・・・」
 拙生の視界がいきなり真っ赤になって、彼の言葉が遮断されるのでありました。それは彼の発した「欠陥品」と云う言葉に因るのでありました。拙生の頭の中に大和田の顔が現れるのでありました。高校時代の体育祭の帰りに大和田が発した「欠陥品」と云う吉岡佳世を評する言葉に拙生が反応したのと同じ現象が、拙生の脳でその時起きたのでありました。拙生は彼の前に一歩出ると、彼の鼻に向かって拳を一直線に突き出しているのでありました。拙生の一撃は彼の鼻を確実に捉えているのでありました。彼は悲鳴を発する暇もなく、その場に仰向けに転倒するのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩ [枯葉の髪飾り 7 創作]

 拙生は背の高い方の反撃に対して先制するために、足を彼に向かってすぐさま蹴上げるのでありました。それは狙いを違うことなく彼の股間に命中するのでありました。彼は声を出そうとしてその声を吐き出せなかったため頬を膨らませて、身を屈して目を剥くのでありました。被っていたヘルメットが頭からずれて彼の見開かれた片目を隠すのでありました。彼は股間を抑えて崩れるようにその場にへたりこんで、呻き声を上げるのでありました。最初に殴り倒した小柄の方が騒ぎ出すと拙いので、倒れて呻いているこちらには腹部に膝をもう一撃落としてから、拙生はその場を走り去るのでありました。まだビラ配りのヘルメットがうようよと居る駅へ戻って、急いで改札を抜けると拙生はホームに向かう階段を駆け上がるのでありましたが、折り良くすぐに電車が来たので拙生はそれに跳び乗るのでありました。
 暫くドアの辺りに立って窓の外を見ながら息を調えてから、拙生は横の座席に腰を下ろすのでありました。詰まらない真似をしたと先ず思うのでありましたが、しかし半面久しぶりの運動に拙生の体の細胞と云う細胞が、多少の興奮を伴った活性反応を起こしているのが判るのでありました。吉岡佳世の葬儀の後東京に戻って以来、久し振りに感じる感奮であり、それが嫌に心地良いのでありました。しかし仕出かしたことがあまり褒められたことではないだけに、拙生の体の中で罪悪感と高揚感とが両方、暫く不思議な律動で電車の揺れに呼応するように波打っているのでありました。
 アパートに帰り着くと吉岡佳世のお父さんから手紙が来ているのでありました。彼女の納骨が済んだ旨を知らせる手紙でありました。葬儀の直後には会葬御礼として過分の交通費を同封した手紙が来たのでありましたが、こうやって態々その後の経過も知らせてくれる彼女のお父さんの心馳せを、拙生としては有難いことだと思うのでありました。
 彼女の遺骨は後々、彼女のお父さんが老後を過ごすために帰るであろう岡山に改葬する積りであるため、佐世保に墓を築くことなく寺の納骨堂に安置したと云うことでありました。その寺は彼女の葬儀が執り行われた葬祭場から近い所に在る、拙生も見知っている古い寺院でありましたから、あの寺の中に彼女は今居るのかと思うと拙生は、妙なものではありますがなんとなくほっとした気分になるのでありました。戸外の雨曝しの冷たい石の下に眠るよりは、屋根と壁に囲われた寺の納骨堂の方が、勿論もう骨となった彼女に感覚と云うものはないのではありますが、暑さ寒さも凌げそうな気がして、拙生としても意味のないものではあいりましょうが安心するのでありました。
 吉岡佳世の居場所が決まったと云う知らせが、拙生に佐世保に帰る気を起こさせるのでありました。言葉も表情も、視力も皮膚の感覚も総てもう失くしてしまった彼女ではありますが、それでもひょっとしたらこれでやっと落ち着いて、拙生に逢いたがっているかも知れないとふと思ったからでありました。いや寧ろ彼女が拙生に逢いたがっていると云うよりは、拙生が彼女に逢いたいのでありました。もう麗しい彼女の姿を見ることは決して出来ないのは事実であります。しかしそれでも彼女の痕跡の傍に戻りたいと拙生は思うのでありました。今となっては、彼女のこの世に生きた痕跡が拙生に残された唯一の彼女なのでありましたから。
(続)
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