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枯葉の髪飾り 1 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りⅠ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 市民病院の裏手は広い公園になっていて、その中を廻る遊歩道の脇には古びた木のベンチが所々に置いてあるのでありました。大きな銀杏の木の傍らにあるベンチが拙生のお気に入りで、銀杏の木の見事な葉ぶりでつくりだす大きな木陰がベンチをすっかり覆いつくしていて、いつもそこへ座る拙生に恰好の昼寝の場所を提供してくれるのであります。
 高校三年生の夏休みの間、拙生は前から抱えていた心臓の病気治療のために週に一度、学校での大学受験のための補習授業を終えた後、市民病院に通っていたのでありました。せっかくの夏休みが受験勉強のためにほとんど潰されてしまうのも詰まらなかったし、昼過ぎに勉強からようやく解放された後、週に一回とは云えこうして病院へ通わなければならないのも、まったくもって高校三年生には気の滅入ることでした。
 病院の受診が終わると拙生はいつも裏手の公園に来て、銀杏の木の傍らのベンチに寝転んで、不貞腐れたような顔をして暫しの昼寝をするのであります。公園の木々の間を抜けて拙生の汗ばんだ顔を掠めて吹きすぎていく風は心地よく、自然に拙生の仏頂面はどこか呆けたような緩んだ顔になるのでありました。受験のための補習授業と、楽しくもない病院通いの憂鬱をこの公園でのひと時の心地よさで、拙生は暫しの間忘れようとしていたのでありましょう。
 昼寝と云っても完全に睡眠状態に陥るのではありません。閉じた瞼に夏の午後の明るさを感じながら、遠く近くに響き渡る蝉の声が脳の奥深くに沁み込んでいく感覚に身を任せて、なにも考えないように努めるのであります。流れる雲が日差しを遮れば閉じた拙生の目の中にも暗がりが出現し、再び太陽が現れればまた拙生の閉じた瞼の下の眼球は明るい赤一色に包まれます。傍らの銀杏の木で鳴く蝉が声を途切らせて飛び去れば、不安になるような静寂が拙生の耳にいきなり空洞をつくりだします。その麻痺したような拙生の耳の機能が今度は遠くで聞こえる蝉の声を捉えだし、その淡い周波が滓のように堆積しはじめて再び頭の中を満たします。そしてまたすぐ近くでいきなり蝉の声が弾けて、拙生の頭の中に満ちた滓を劈くのであります。閉じた目と、聴覚と、肌で感じる空気の振動のようなものを追いかけていれば一切の思考は締め出されてしまって、自分が単なる感覚受容器となりはてているような気分になるのであります。これはまん更悪くない気分であります。
 果ては感覚受容器ですらなくなり、感覚そのものも消え去って、まるで銀杏の木の陰の一部になってしまったような気がしてくるのであります。これは尚更悪い気分ではありません。受験勉強と病院通いと云う憂鬱な負担を抱え込んだ自分がついに消え失せて、何の喜怒哀楽も持ちえない陰としてこの世に在ると云う錯覚は、まったくもって悪くない錯覚なのであります。ま、一切の思考を締め出すとは云いつつも、こういう錯覚と云うのか幻覚と云うのか、そう云うものを生成すること自体が結局は思考に属する営為ではありましょうが。しかし、まったくもって悪くないのであります。銀杏の木の陰となり果てた拙生はそのままうつらうつらと浅く寝入ったり、まるで夢の中のような感覚のまま起きていたりしながら、銀杏の木陰の中で夏のひと時を過ごすのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅡ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 蝉の鳴き声に満たされ、起きているのか眠っているのか本人も定かでないぼんやりとした頭の中に、張りつめた箏の弦が、弱く弾かれたような音がいきなり侵入してくるのでありました。せっかくの至福とも云える呆けた時を邪魔されて、拙生はベンチに横になって目を閉じたまま、小さく舌打ちしながら徐に片目を開くのでありました。
「お邪魔だった?」
 箏の弦が拙生の顔を覗き込みながら云うのでした。開いた拙生の片目は夏の午後の明るさに幻惑されて、目の前にある顔が誰のものか認識出来ないでいます。拙生は目の前に在る顔を確認しようと、もう片方の目を仕方なしにゆっくり開くのでありました。
 女の顔でありました。しかも拙生と同年代くらいの。束ねた髪がそのか細い首の後ろで踊っていました。
 拙生は先ほど舌打ちしたことをすぐに悔いるのでありました。そうして舌を打つ代わりに、今度は気持ちの中で秘かに膝を打ったのであります。女の顔が夏の午後の日差しよりもくっきりと輝いて見えたのでありました。
 女の顔があまりに間近にあることに狼狽して、拙生は思わず頭を後ろへ引きます。そのせいでベンチの背もたれに頭を結構強く打ちつけてしまったのでありました。
「あ痛・・・・」
「やだ、大丈夫?」
 女の顔がよけい拙生の顔に近づけられるのでありました。背もたれに妨げられてそれ以上拙生は頭を後ろへ避難させることが出来ず、急いで上体を起こします。背筋を伸ばして後ろへ上体を引き気味にするのは女の顔から少しでも遠ざかるためであります。拙生はどぎまぎして息が荒くなっているのを女に気どられないように、顔を自分の肩の方へ向けて手でシャツの汚れを払う仕草をして、女の顔から目を逸らすのでありました。
 同級生の吉岡佳世(これはあくまで仮名です)は肩口の汚れを手で払い落す仕草をする拙生を、近づけていた顔を離しながら見て笑います。ちょうど風が吹き過ぎていって彼女の前髪を少し乱すのでした。彼女は小さく首を振ってその髪を額の前から払います。
 同級生と云っても吉岡佳世とは三年生になって同じクラスになったものの、彼女は病気がちで一学期の後半はほとんど学校を欠席していたのでありました。彼女が欠席がちになる前、拙生はクラスで彼女のすぐ前の席だったのでありました。ですから授業の合間に時々言葉を交わしたり、授業中に解らないことがあると拙生は後ろを向いて彼女のノートを覗いたり、また彼女も不意に拙生の肩を叩いて振り向いた拙生に、今先生の云ったことは教科書のどこに書いてあるのか、と云うようなことを小声で聞いたりするのでありました。
 欠席が多くなると彼女は余計拙生を頼りにするようになり、拙生は彼女が欠席していた時の授業でとったノートを見せてやったり、その時の授業の要点などを掻い摘んで拙生の頭の程度以内で教えたりするのでありました。そういう彼女とのやりとりなど、拙生としてはまん更、と云うか更々、煩くもないものであったのであります。
(続)
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枯葉の髪飾りⅢ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「こがんところで、なんしてると?」
 吉岡佳世がそう聞きながら拙生の横に腰を下ろします。
「いや、昼寝」
「暑かやろうに」
「そうでもなか。気持ちよか」
「学校の補習授業のあるとじゃないと?」
「二時までね」
 拙生がそう云うと彼女は腕時計に目を落とします。
「じゃあもう終わって、それでここで一休みしとったと?」
「まあ、そう。そこの病院の帰り、実は」
「病院に通いよっと?」
「うん、まあ」
「なんの病気?」
「心臓。そがん大した病気じゃなかとやけど」
「心臓かぁ。あたしと同じね」
 吉岡佳世がそう云って少し笑ったのは、云うまでもなく拙生の病気を笑ったのではなくて、拙生が自分と同じ病気であることに、ある種の同志的な共感をもったからに他ならない故でありましょう。
「お前の病気の方はどがんや? 七月はほとんど学校に姿ば見せんやったけど」
 拙生は彼女にそう聞き返します。
「七月はあんまい体調の良くなかったけど、今は大分良うなったみたい」
 彼女はそう云うと拙生から目を逸らして空を見上げるのでありました。少し突き出た唇と、そこから延びる顎から喉にかけての細くて手弱やかな曲線が、拙生の目がそこに釘づけられることを拒むように一回ひくりと動くのでありました。
「お前の通っとる病院もここか?」
 拙生は彼女の頭の後ろに赤いゴム輪で束ねられた髪の先端が、三日月のようにぴょんと上に跳ね上がっている辺りを見ながら云うのでした。
「そう。もうずっと子供の時から。何度か入院したこともあるし」
「へえ、そうか」
 拙生はそう云った後一呼吸置いて尋ねます。「今までなんとなく聞きそびれとったけど、つまりどう云う病気や、そのお前の病気って?」
「心房中隔欠損症。知ってる?」
「いや、全々」
「心臓の右の部屋と左の部屋の間にある壁に穴の開いている病気」
 そう云われても心臓病の知識をほとんど持っていない拙生には、まったくぴんとこない病名でありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅣ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「小さい頃は別になんともなかったの」
 彼女は続けます。「中学生になってから見つかったのよ。肺で酸素を貰った血液が心臓へ戻ってきてその後全身へ回るんやけど、心臓の部屋の間の壁に穴が開いて、その新鮮な血液が古い血液の部屋に逆流して、全身へ回る量が少なくなるの。それにいろんなところに負担がかかって、放っておくと肺が変になるとか云う感じの病気」
「なんかよう解らんばってん、大変そうな病気ねえ」
 拙生は今彼女が説明したことはうまく理解出来なかったものの、篤疾であることはなんとなく理解してそう云うのでありました。
「ぼちぼち手術することになると思う」
「ふうん、手術か。なかなかキツか病気ばいねえ」
 拙生の云い様が可笑しかったのか彼女は口に手を当て、肩を竦めてくすっと笑うのでありました。
「井渕君(これは仮ではありますが拙生の姓と云うことにします)は何の病気?」
 彼女が聞き返します。
「オイか? オイのは病名は知らん。なんか不整脈の続いとってなかなか治らんけん、病院へ来いて医者に云われて通っとると」
「運動とかは大丈夫と?」
「ま、大丈夫のごたる。医者もあんまい激しかとはいかんけど、適当なら別に止めんて云いよらす」
「ふうん。あたしは運動はだめ」
「そう云えば体育の時間はいつも見学しとったもんなあ、お前」
 公園の中にやや強い風が舞いこんできて、傍らの銀杏の木の葉擦れのさざめきが拙生と彼女の頭の上に降ってくるのでありました。
「心臓にも肺にも負担の掛かり過ぎるけんだめとて」
 彼女の身長は低い方ではないのですが、その体躯は細くて華奢で、物腰と云うのもいかにも柔弱な風情でありました。しかし顔立ちが大人しそうであるのにどことなく華やかで、人懐っこく笑っている表情などはとても心臓に「キツい」病気を抱えているとは思えないのであります。
「お前、どのくらいの割合で病院に通っとるとか?」
「週に2回、月曜と木曜。でも来週から週に一回でよかごとなったの」
「じゃあ、良うなっとるてわけか。オイは週一回、木曜日」
「同じ木曜日の診療日で、今日ここで逢うたわけね」
 彼女はそう云って、納得するように何度か頷くのでありました。
「お前、ようこの公園には来るとか、病院の帰りとかに?」
「ううん。そんなこともないけど、今日はなんとなくちょっと寄り道したと。そしたらどこかで見た顔がこのベンチでぐうぐう寝とらしたとさ」
(続)
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枯葉の髪飾りⅤ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「ぐうぐうなんか寝とらんぞ、オイは」
「じゃあ、すやすや?」
「いや、そう云うのとも違う。まあ、うつらうつらて云うか」
「とにかく寝とったのよね。受験生のくせにそんな気楽にしてていいと? 早う帰って勉強せといかんのやないの?」
「受験生でん暫しの休息て云うとも必要くさ」
 拙生はそう云ってふてぶてしそうな笑いをしてみせるのでありました。「そう云うお前は、受験、どがんすると?」
「受験ねえ。無事に三年生を終えられるかも判らんから、さて、どうするか」
 彼女はまるで他人ごとのような口調でそう云うのでした。
「落第か? ばってんまだ大丈夫とやろう」
「これからの出席日数次第やろうね。一学期の期末テストも全科目受けとらんし」
「ああそうやったっけ」
「受けられんやったテストは、夏休みの間に特別に受けさせて貰えるって、先生に云われてるとやけどね」
「じゃあ、問題なかやっか。病気の方も良うなっとるようやし」
「でもね」
 彼女はそう云って拙生から目を放すのでありました。「このまま体調が崩れんでいてくれるかしら、あたしの体は」
 その後、彼女は俯きながら続けます。「冬休みに手術になるやろうね、順調にいけばね。そこまではなんとか大丈夫やったとしても、手術の後にどうなるか・・・・」
 そう云う彼女の語尾とちょうど重なって、理不尽になにかをわし掴みにするような蝉の鳴き声が、すぐ傍の銀杏の木の幹からいきなり聞こえてきたのでありました。その蝉の声は暫くの間辺りの空気を激しく振動させます。その振動に拙生が次に返すはずの言葉が、見事に遮られてしまったような気がするのでありました。もっとも「手術の後にどうなるか・・・・」と云う、結構重たい彼女の言葉に対して、拙生はどんな言葉を返せば良いのか咄嗟には思いつかずに、なにやら調子の良い励ましくらいしか口から発せなかったでありましょうが。だからその蝉の声に拙生は秘かに感謝するのでありました。蝉は暫く銀杏の木の幹に留まって、いっぱいに巻かれた発条が一挙に撓む時のような声を、拙生と彼女の頭の上に降らせ続けるのでありました。なんとなくその間は拙生も彼女も、その声に抗してまで言葉をやり取りすることはありませんでした。
 蝉はいきなりその声を止めて銀杏の木の幹から飛び去ります。余波のような空気の振動が収まってから、拙生と彼女は同時に言葉を発しようとしました。お互いがお互いの言葉の出端に遠慮して、二人同時に今云おうとした言葉を飲みこみます。なんと云うタイミングの良さ、或いは悪さでありましょう。こう云うことは会話をしていてよくありますが、拙生はなんとなく黙った後の一瞬の沈黙がとても苦手でありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅥ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「ま、先のことを今心配しても始まらんと思うぞ」
 また同時に声を発する前に拙生が先に云います。しかしこんな程度の言葉が、咄嗟に云うはずだった調子の良い励まし以上のものでありましょうや。
「そうね。それはそうよね、きっと」
 彼女が云います。「ま、なるようになるか」
 吉岡佳世はそう続けて肩を軽やかに一回竦めた後、拙生に笑いかけるのでありました。
「そうそう、なるようにしかならん」
「なんか、井渕君にそう云われたら気持の軽くなってきた」
「そうかい」
「井渕君はどこか雰囲気がポワンとしてて、いつも心此処に在らずて云う顔してるし、よう判らん人て思うとったけど、そのよう判らん人に、なるようにしかならんて云われると、なんか説得力がある感じがする」
「なんやそれは」
 拙生は友人等と喋っていても一人別のことを考えていて、今の会話に力が入っていないなどとよく謂れのない批判を受けるのでありましたが、特段そんなことはなくて、そう見えるのは偏に拙生の表情がいつも弛んでいるからなのでありましょう。確かに拙生は例えば喉がこれ以上ないと云うくらい渇いている時には、冷たい緑茶を出される方がいいかそれとも麦茶か、凍る位に冷えた紅茶か或いは水がいいのかとか、つくつく法師と云う蝉はその名の通り「つくつくぼーし」と鳴いているのか、それとも「おーしーつくつく」と鳴いているのかどっちかなどと云うことを、突然なんの脈絡もなく考え始める性質があるにはあります。たとえ学校の先生と卒業後の進路について話している時でも、父親にお小言を頂戴している最中でも、友達と最近話題の映画の話をしている場合でも、本人も何故そうなのか判らないながら急にそう云うことを結構熱心に考え出すのであります。これは我がオツムのまことにもって困った性向で、そう云う辺りが前に述べた批判を許す所以でありましょう。しかし現在進行中の会話の方もちゃんと聞いてもいるのであります。
「ポワンとしているて云うのは、つまりなんか総てを達観しているように見えるって云うことで、一応褒め言葉としてあたしは云ったのよ」
 吉岡佳世が云います。
「ふうん。褒められた気がちっともせん」
「兎に角、あたしの気持ちは軽くなりました」
 吉岡佳世は笑って断定的にそう云うのでありました。
 公園の中にまた風が侵入して来て、銀杏の木が葉擦れの音を拙生と彼女の頭の上に降らせるのでありました。それは陽の傾いた頃の海の波音に似ているのでありました。拙生は吉岡佳世と二人で夕暮れの広い海の中に浮かぶ船の縁に並んで腰かけて、波間を漂っているような錯覚を覚えるのでありました。なんとなく甘やかな錯覚でありましたが、そんなことを考えているとまた彼女にポワンとしていると云われそうです。
(続)
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枯葉の髪飾りⅦ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「夏休み中に受けることになっとる期末試験はいつあるとか?」
 拙生は云うのでありました。
「八月の最後の週の月火水曜日」
「なんか必要ならオイの出来る範囲で協力しようか?」
「有難う。ああ、そしたら倫理社会と数Ⅲのノート、よかったら貸して貰える?」
「よし判った。倫社と数Ⅲね」
 拙生は頷きます。
「英語と国語と政治経済もあるけど、これはなんとかなると思うから」
「なんなら、その三科目のノートも持って来くるか?」
「それは助かるけど、そしたら井渕君の勉強の方が困るとやないの?」
「よかよか。どうせ夏休み中は受験科目の勉強で、普段の学科の勉強なんかせんもん」
 吉岡佳世は胸の前で合掌して、もう一度有難うと云うのでありました。
「ノートはどがんして渡せばよかとや?」
 拙生が聞きます。
「来週の木曜日は井渕君、病院は?」
「おお、来る来る。そん時渡せばよかか?」
「うん。助かる」
「そしたら来週、今日と同じくらいの時間でここに持って来ればよかとね」
「はい。お願いします」
 吉岡佳世はしおらしくそう云って頭を下げるのでありました。
「いや、考えたらもっと手っ取り早かことのある」
 拙生はそう云ってにやりと笑います。「七月にあった期末試験の問題用紙も一緒に持って来るか。多分同じ試験用紙でお前も受けることになるやろうから」
 吉岡佳世の目がきらと輝きます。しかしすぐにその目の輝きを恥じて隠すように彼女は俯いてて云うのであります。
「そう云うのはずるいとじゃない?」
 彼女は伏せた眼を少し上げて拙生を見ます。
「ずるかかも知れんけど、いい方法ではあるぞ」
「そがんインチキしたら、後で怒られるやろう」
「怒られるて、誰に?」
「先生に」
「先生には判らんやろう、そがんこと」
「ばってん・・・・」
「ま、お前がそう云う行為を潔しとしないなら、オイとしてはそれを尊重してテスト用紙は持って来んようにするけど」
 拙生は吉岡佳世のこう云う潔癖さを、実は好ましく思うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅧ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 つぎの週の木曜日、拙生は病院での受診を終えて、頼まれたノートを携えて、公園のいつもの銀杏の木の傍のベンチで吉岡佳世が現れるのを待つのでありました。ひょっとして病院の中で逢うかも知れないと思ったのでありますが、二階の循環器科の待合室でも、一階の薬局で薬を貰って会計の窓口で会計を済ませても、彼女の姿を見かけることはありませんでした。拙生は一人公園の中に入って件のベンチに腰掛けて、体を後ろに捩じって背もたれに組んだ腕の片方を掛けてその上に顎を乗せ、木の間隠れに見える病院の建物の方を見ながら彼女を待つのでありました。
 その日彼女はなかなか姿を見せませんでした。目の前の草叢で飛蝗が跳ねて一本高く伸びた草の茎に飛び移ります。草の茎がメトロロームのように揺れるのを拙生はぼんやりと見ているのでありましたが、そのせいで彼女がすぐ横に立ったのに気づかなかったのでありました。
「ご免、待った?」
 吉岡佳世はそう云って拙生に笑いかけ、この前のように拙生の横に腰をおろします。
「ああ、いや、ちょっとだけ」
「少しお医者さんと話していたけん、遅くなってしまったの」
「手術のこと?」
「うん、それもあったしこの半年の経過説明もあったし。ちょっと時間のあるから少しこれまでのこととか、今後のことについて話そうかて云われて、それで。まあ、もう何回も聞いたことやけどね」
「ふうん」
 拙生はその後「おお、そうだ」と続けて自分の鞄の中をごそごそと探り、倫理社会と数学Ⅲのノートを取り出すのでありました。「ほれ、この前約束したノート」
「有難う。恩に着ます」
 彼女はそう云って拙生からノートを受け取ります。
「数Ⅲはあんまり参考にならんかもしれんぞ。不得意科目けんがね」
 拙生が云うと彼女はその数Ⅲのノートを開いてみるのでありました。
「前から思うてたけど、井渕君て結構綺麗にノート書くね」
「見た目の綺麗さと内容は別ばい」
「あたしも数Ⅲは不得意けん、このノートをちゃんと読めるか不安やけど」
「ああ、それと・・・・」
 拙生はそう云ってまた鞄の中をごそごそします。「これは英語と日本史のノート。国語のノートはなんとなく人に見せる程のことは書いとらんけん、持って来んやった」
 拙生が差し出すもう二冊のノートを吉岡佳世は受け取って、四冊を纏めて両手で胸の前に抱えるように持つのでありました。
「じゃあ、遠慮なく借りるね」
「そのノートで勉強したせいで試験ば仕くじったとしても、オイは責任持たんけんね」
(続)
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枯葉の髪飾りⅨ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「井渕君の親切を無駄にしないよう、一生懸命試験頑張るであります」
 吉岡佳世はそい云って頭を下げるのでありました。
「まあだ試験まで二週間くらいあるけん、もしノートの内容で判らんところのあったら、今度聞いてくれれば説明するけんね」
 これは実は、来週も拙生はここに来るつもりだと云うことを暗に彼女に伝えているのであります。
「うん判った。色々とよろしくお願いします」
 この返答は拙生のその言外の謂をちゃんと酌んだ上での返答であるのかどうか、拙生は腹の中で彼れ是れ彼女の言葉を解読しようとするのでありました。
「ああ、序でに・・・・」
 拙生はそう云ってまた鞄の中をごそごそするのでした。「これは七月の期末テストの試験問題。一応渡しとくけんね」
 拙生は二つ折りにしたプリントを五枚取り出して彼女の手に渡そうとするのでありました。彼女がそれを受け取るのを少し躊躇ったのは、その問題用紙を試験の前に見てしまうことに抵抗があったためでありましょう。
「絶対にこれと同じ問題の出るとは限らんし、期末試験の問題用紙ば事前にお前が見るかも知れんことは先生の方でも判かっとるやろうけん、あんまり問題はなかて思うぞ」
 拙生はそう云いながら彼女の目の前に試験問題のプリントをひらひらと振ってみせます。彼女はなんとなく納得がいかないような素振りでプリントを受け取るのでありました。
「じゃあ、一応井渕君の好意と云うことで借りとこうかね」
「そうそう、蝉も借りとけ借りとけて鳴いとるし」
 二人の頭上で蝉が急に鳴きだしたのでありました。
「蝉は関係ないやろう」
 吉岡佳世はそう云って拙生に笑いかけるのでありました。
 まだ夏の温気を充分に含んだ風が木々の間を抜けて、この銀杏の木の傍のベンチへ吹きつけます。風に仄かな潮の匂いが混じっているのは、公園の先の造船所の向こうにある海からの風であるためでしょう。
「夏休みて云うとに、海に泳ぎにも行けん」
 拙生はそう云いながら風を顔の正面に受けるために、頭の後ろで手を組んで少しばかりふん反り返るような仕草をします。
「受験生やもんねえ。今年の夏は仕方ないやろうねえ」
 吉岡佳世が拙生を慰めるような口調で云います。
「今度の日曜日は補習授業のなかけん、気晴らしに一緒に海にでん行こうか?」
「あたし海は行けん」
「ああ、海は体に障るか」
「せっかくノート貸してもらったから、試験の勉強もせんといけんし」
(続)
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枯葉の髪飾りⅩ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 海に誘ったのを断られて拙生は少しばかり意気消沈するのでありました。蝉の鳴き声が一層繁く聞こえはじめてきて、拙生はその声に妙に苛立つのであります。
「でもあたし、泳がなければ、別に海に行くくらいなら、いいか」
 吉岡佳世が云います。「そうね、せっかくの夏休みやから、海、行こうか」
「体は、大丈夫とか?」
「うん。泳がんなら、この公園に居ても海に居ても何処に居ても同じやろうから」
「海は日差しの強かぞ」
 海に誘った拙生の方が今度は彼女の同意に少し怖気づくのでありました。
「大丈夫やろう。あたしも此処んところ気の塞ぐことの多かったから、ちょっと気晴らしもしたいもん」
「海は日差しの強うして、居るだけで消耗するとやなかろうか」
「なん、それ?」
 彼女はそう云って眉根を寄せて頬を脹らませてみせます。「自分から誘ったくせに」
「それはそうやけど、なんとなく落ち着いて考えたら、お前にはキツかかねて思うてさ」
「大丈夫!」
 吉岡佳世はそう断言して大きく一つ頷くのでありました。
「そんなら、明々後日の日曜日、そうね、ここで待ち合わせて云うことでよかかね?」
「了解。なんか楽しみになってきた」
 拙生とて非常に楽しみであるのは云うまでもないことであります。
「あたしお弁当作ってこようか」
「ほう、それは助かるばい」
「こう見えても料理は結構得意とよ、あたし」
「ふうん。楽しみにしてよかやろうか」
「うん、期待して」
 吉岡佳世は笑い顔で小さく何度か頷くのでありました。
「どうせなら島に渡ってもよかとけど、あんまい遠出しても時間の勿体なかけん、白浜海水浴場辺りでよかかね?」
白浜海水浴場は定期便の乗合船が往復していて、結構気軽に行くことの出来る処でありました。しかもそこそこ広くて海の水もきれいであります。
「うん。白浜でいいよ」
「よし、決まり。そんなら鹿子前から船に乗らんばけん、ここに九時に集合て云うことにするか。それでよかや?」
「うん、判った」
 彼女の体に夏の海の強い日差しは本当に障らないのでありましょうか。彼女は大丈夫と云ってはいるものの、その辺りが拙生には少しばかり心配なことではありました。しかしだからと云って、二人で海に遊びに行くチャンスを逃すつもりは毛頭ありませんでしたが。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅠ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 乗合船から白浜海水浴場の桟橋に足を下ろすと、夏の海辺の開放感が焼けたコンクリートの熱さに姿を変えて足下から伝わってくるのでありました。拙生と吉岡佳世、それに乗合船から桟橋に下り立った他の海水浴客を、三方を取り囲む紺碧の海が桟橋に打ち寄せる波音の合唱で迎えるのであります。
 斜面に沿って細い砂の道を傍の砂浜まで歩くのでしたが、拙生のすぐ後ろに居る吉岡佳世の被った麦藁帽子のつばが、時々拙生の後頭部に当たるのは拙生と彼女の距離がごく近いと云うことで、拙生はなんとなく背中を緊張させて歩くのでありました。
「足ば滑らせんごと、気をつけんばばい」
 拙生は眼を自分の足元に落としたまま後ろの吉岡佳世に云います。
「うん判った」
 吉岡佳世はそう返事はしたものの、なんとなく足元が頼りないのか時々拙生の腕にその掌を回して掴まろうとします。拙生の背中の緊張感が腕に飛び火します。
 細い砂の道が尽きる辺りに骨組みを筵で囲っただけの売店があって、そこで一畳程の茣蓙を一枚百円で貸し出していているのを借りて、拙生はそれを小脇に抱えて彼女と並んで砂浜を歩くのでありました。休んだり持参した弁当を食べたりするための、誰でも自由に使える木の柱と屋根だけの高床の小屋が何軒か砂浜に造ってあって、そこへ借りた茣蓙を広げて荷物を下ろします。
「水着に着替えておいで。あたし此処で荷物番してるけん」
 吉岡佳世が拙生に云います。
「うん。お前は泳がんとやろう?」
 拙生が聞くと彼女は笑って一つこっくりをします。拙生は彼女をそこに残して海水パンツを持って小屋から降りて、ゴム草履からはみ出た足の小指に焼けた砂の熱さを感じながら、小屋よりもっと奥にある筵囲いの更衣所へ向かうのでありました。
「ひと泳ぎしてくるぞ」
 更衣を終えて戻ってくると拙生は小屋に上がらずに吉岡佳世にそう云います。
「うん、泳いでおいで」
 彼女に見送られて拙生はゴム草履をその場に脱いで砂浜を海に向かって走るのでありました。焼けた砂浜の熱さに耐えて砂浜を横断するには走るしかないのであります。
 海に到達してもそのままの勢いで膝くらいの深さまで海の中を走り、足を上げるのが大義になると歩いて、臍の深さに達するとそこから沖に浮かべてあるドラム缶で出来た筏の方へ向って泳ぎを開始するのであります。途中で泳ぎを止めて仰向けに浮かんで砂浜の方を振り返ると、小屋の中で立ち上がって腰に片手を当ててもう片方の手を額に翳して、こちらを見ている吉岡佳世の姿を認めることが出来ました。拙生はひょんな切っ掛けから吉岡佳世と二人で、こうして夏の海に遊びに来ることが出来たことが無性に嬉しかったのであります。拙生は海から彼女に向って手を振ります。それを認めて彼女も海の中の拙生に手を振り返すのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅡ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 拙生は沖の方へ向って再び泳ぎだすのでありました。歓喜の中にある拙生の水を掻く動きのなんと力強いことか。しかしその腕の振りの間隙を縫って、彼女を海へ連れてきたことによって彼女の病状にこの後なにかしらの良からぬ変化が起きはしないだろうかと、多少の危惧の飛沫が拙生の顔にかかるのも事実でありました。
 ドラム缶の筏にたどり着いてその上に乗って砂浜の方を見ると、小屋の中でまだ先程と同じ格好をして此方を見ている吉岡佳世の姿が小さく認められるのでありました。拙生が筏まで泳ぐ様子をああしてずっと見ていたのでしょうか。海を隔てて遠くに居る拙生が彼女に見えているのか試すため、拙生は筏の上で手を振ってみます。その拙生の仕草にすぐに反応して彼女は手を振り返します。やはり彼女は拙生を見失ってはいなかったようであります。なんとなく、甘やかな感情が拙生の背中で小躍りするのでありました。拙生は筏の上から海に跳びこんでクロールで砂浜の方へ引き返します。
「ああ気持ちよかった」
 砂浜の傾斜を早足に歩いて小屋まで帰ると拙生はそう云いながら、水が滴る体で茣蓙に上がるのを躊躇って、小屋の縁に彼女に後ろ向きに腰掛けるのでありました。吉岡佳世が拙生のタオルを取って手渡してくれます。
「水、冷とうなかった?」
「いいや全然」
 拙生は立ち上がって全身をタオルで大雑把に拭いながら云います。
「井渕君は結構泳ぎの上手いとねえ」
「いや上手て云うとじゃなかやろう。あの筏までかなりキツかったし息の上がっってハアハアしとったもん」
「あたし全然泳ぎきらんとよ。尤も中学一年生の夏休みが最後で、それ以来水に入ったことないけど」
「中学校までは運動は出来たとか?」
 拙生は体を拭いたタオルを首に掛けて再び縁に腰を下ろし、両手を床について上体を仰け反らせて彼女に云います。
「うん、一年生まではね。でもその最後の夏休みも浮き輪なしでなんか泳げんやったし、足の立たんところまでは結局行けんやったし」
「ま、事情があって泳げんとやから仕方なかさ」
「気持ちよかやろうねえ、井渕君みたいにすいすい泳げたら」
「いや、キツくて息の上がってハアハアするだけ」
 拙生が云うと吉岡佳世は笑うのでありました。
「まだお昼のお弁当には早かし、もっと泳いできたら?」
「うん、ひと泳ぎしたらなんとなく、もう気の済んだ」
 拙生がそう云うのは海に入れない彼女に対して遠慮の気持があったからでありました。
「そがんこと云わんでしっかり泳いでおいで。お弁当いっぱい作ってきたから、お腹空かしといてもらわんと困るよ」
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅢ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 吉岡佳世に促されて拙生は「そうや、そんなら」等と云いつつ腰を上げるのでありました。彼女が立ち上がった拙生に手を差し伸べるのは拙生の首に掛ったタオルを受け取るためであります。拙生はタオルを彼女の手に渡してまた海へと走るのでありました。彼女と並んでこの砂浜をはしゃぎながら走れないのは少しばかり残念ではありましたが、それは云っても詮ないことであります。
 彼女が茣蓙の上に広げ終えた弁当はそれは豪勢に見えるのでありました。海で、まあ存分に泳いでから頃合いをみて彼女の居る小屋に帰ると、ちょうどタイミングよく彼女が持参した弁当を広げているところでありました。彼女は暫しその手を止めて拙生にタオルを渡してくれます。
「うわ、豪華版たい」
 拙生はタオルで体を拭きながら感嘆の声を上げるのでありました。吉岡佳世は驚く拙生を見上げてどこか得意そうな笑顔をしてみせます。
「ここから海ば見てたらちょうど上がってくる感じやったけん、用意してたと」
 彼女は先程と同じように、立ち上がって此処からずっと海の中にいる拙生の動きを追っていたのでありましょうか。
「この弁当、全部自分で作ったと?」
 拙生はまたタオルを首に掛けて足裏についた砂を払って小屋に上がり、尻がまだたっぷり濡れたままであるのも顧みず茣蓙の上に座ります。
「そう、全部作ったと。美味しかよ、たぶん」
 吉岡佳世は割り箸を拙生に手渡します。
「どれどれ」
 そう云いながら拙生は早速卵焼きに手を出すのでありました。拙生の場合、小さな頃から弁当で最初に手を出すのは卵焼きと決まっているのであります。
「どう、美味しか?」
 プラスチックの大ぶりのタッパーが二つで、一つは海苔を巻いたお握りが六個、もう一つには卵焼きやらウインナーソーセージ、それに茹でほうれん草の上に鰹節の載ったもの、鰯の天ぷらやスボ蒲鉾、キャベツとベーコンを一緒に炒めたもの等が適当な大きさに切り揃えられて色合いも美しく並べられているのであります。
「うん、うまか。大したもんばい」
 拙生は今度はキャベツとベーコンを一緒にごそっと摘んで口に運びながら、左手でお握りを取りあげますます。考えたら片っぱしから摘んでは口に放りこむばかりで、目で料理を味わうと云う趣味に全く欠けた拙生のその食い様は、食い盛りの高校生の頃であることを差し引いても、吉岡佳世の色合いを考えながらおかずを配置したであろうその心遣いに対して、まことにもって失礼な食い振りではありますかな。しかし彼女は別に拙生に作法上のいちゃもんをつけることもなくただ笑って見ています。
「お前も早う食え。結構うまかぞ」
 拙生は云います。作った当の本人に対してそんなもの云いもないものであります。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅣ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「このウインナー、結構うまかね」
 拙生が云います。「真っ赤っかしとるウインナーしか食うたことのなかけど、そいより遥かにうまかぞこいは。何処で売とると?」
「普通にどこのお店でも売っとるよ、スーパーでもお肉屋さんでも」
 吉岡佳世は水筒から冷たい麦茶を紙コップに注いでそれを拙生に手渡しながら云います。
「ああそうや。こんどオイん家でも買うごと云うとこう」
 その初めて食すウインナーのパリッとした歯応えが拙生の食欲を大いに刺激したこともあって、結局拙生はお握りを五個にあらかたのおかずを、彼女に手を出す暇も与えない程の猛烈な勢いで一人で殆ど食ってしまったのでありました。お前割と小食ねと、割り箸を置きながら云う拙生を、吉岡佳世は可笑しそうに口に手を当てて笑いながら見るのでありました。
「お腹いっぱいになったから、また泳ぎに行く?」
 紙コップの麦茶を飲み終えた拙生に吉岡佳世が云います。
「いや、食うてすぐに泳ぐぎんた体に悪かけん、少し休んでから」
「ふうん。井渕君て案外良い子ね」
「なんやそれは」
「うん、別になんとなくさ」
 彼女が笑いかけます。小粒の歯が綺麗に並んでいるのが唇から覗いています。その歯並びを見ていたら「脣亡歯寒」と云う先日漢文の補習授業で覚えた成句を、なんの脈絡もなく思い浮かべるのでありました。流石拙生、一応これでも受験生であります。
「井渕君、受験どうすると?」
 吉岡佳世はそんなことを考えている拙生にタイミング良く聞くのでありました。
「うん、一応東京の私立大学ば受験するつもりでおるけど」
「ふうん東京かあ。随分遠くに行くとね」
「親戚の東京に居るけんがなんとなくそうしたとけど、別に福岡でも大阪でも京都でも何処でもよかとやけどね、実のところは」
「こっちに残るて云うとはないと?」
「こっちは国経大しかなかけんねえ」
 これはこの市に唯一在る四年制大学の当時の略称であります。
「国経大じゃだめと?」
「別にだめじゃなかけど、なんとなく東京にも行ってみたかし、それに国経大ば受けるてなると五科目受験になるやろう。オイは初めから三科目受験のつもりでおるけん、今更二科目追加して受験勉強しとうなかもん。大体が勉強好かんとやから」
「福岡やったら、少し近かね」
「福岡はなんとなく縁のなかし、行きたか大学もなかけん」
「ふうん」
 吉岡佳世はそう云って拙生から目を離して海の方を見るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅤ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 暫く吉岡佳世との言葉のやり取りが途切れた拙生の耳に波音が急に大きく聞こえだします。その波音に促されたように彼女は終わった昼食の後片付けを始めるのでありました。彼女は空いた弁当のタッパーの中に使った拙生と彼女の箸を入れ蓋をして、それを大ぶりのハンカチで包んで手提げバックに仕舞います。拙生と彼女の間に俄かになにもない空間が出現します。
「麦茶、もっと飲む?」
 彼女が小首を傾げて拙生に聞きます。
「ああ、貰おうかね」
 拙生が空いた紙コップを差し出すと、それを受け取って彼女は水筒から麦茶を注ぎ入れます。拙生は彼女の横顔をぼんやりと見るのでありました。少し俯いているために前髪が目に掛かっていて彼女の表情を薄く隠しています。後ろで束ねた髪の端が肩の辺りでくるりと巻いていて上に跳ね上がっているのが、拙生にはなんとも可愛いらしく見えるのでありました。
「ところで期末試験の勉強の方はどうや?」
 拙生は彼女の横顔に話しかけます。彼女は拙生の方を向いて口をへの字にしてみせます。
「全然だめ」
 そう云いながら彼女は麦茶を入れた紙コップを拙生に手渡してくれます。
「て云うと?」
「大体が授業受けてないから判らんことだらけやし、こうなったら井渕君の貸してくれたノート、丸暗記するしかないて思うよ」
「オイのノートはあてにならんぞ」
「でも井渕君は期末試験、全部大丈夫やったとやろう?」
「ま、赤点はとらんやったばってん」
「だったらノートば信頼して、やっぱり丸暗記でいこう」
 吉岡佳世はそう云って水筒の蓋を掌で何度か軽く叩きながら頷くのでありました。肩の辺りにある髪の毛の端が彼女の頷きに合わせて軽やかに上下します。
「ま、取り敢えずなんとか頑張れ」
 拙生はいい加減な励ましの言葉等を口に上せるのでありました。
「それよりせっかくやから、少し水の中に入ってみようかしら」
 彼女が云います。
「え、水に入るて?」
「うん、久し振りに海に来たとやから、せめて足だけでも水に浸けてみようかて思うてさ」
「ああ成程、そう云うことね」
「波打ち際ば少し歩くくらいなら水着も要らんし」
 彼女は脇に置いていた麦藁帽子をとるとそれを頭に載せて立ち上がります。「ほら、井渕君も一緒に行こう」
 彼女の笑顔に促されて拙生も立ち上がるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅥ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 吉岡佳世は小屋から砂浜にぴょんと飛び降りると上体を屈して、穿いていたジーパンの裾を絡げ始めます。彼女の背骨の凹凸が白いTシャツの上に浮かび上がっているのを、拙生はなんとなく眺めているのでありました。華奢な背中でありました。
 拙生と吉岡佳世は砂浜を歩いて波打ち際へ向います。彼女のビーチサンダルに熱い砂が絡みついて、彼女はいかにも歩きにくそうに拙生の後ろをついて来るのでありました。水に濡れた辺りまで来ると、打ち寄せる波音に怖じたように彼女は歩を止めます。
「いい匂いのするね」
 吉岡佳世が海の遠くに視線を馳せながら云います。「久し振りに海の匂いばこんな近くで嗅いだけど、なんかとっても懐かしか気のしてくる」
 拙生は彼女の云う海の匂いと云うのがよく判らないのでありました。船からこの浜へ降り立った時の強い潮の匂いは充分に感じたのではありますが、波打ち際でその匂いが殊更強調されるようでもなかったし、他の匂いがしたのでもありませんでした。
「小屋で嗅ぐ海の匂いと波打ち際の匂いは違う? オイはあんまいその違いが判らんけど」
「違うよ。焼けた砂の匂いとか木の間を通ってきた風の匂いとか、人の匂いとかがここでは混じらんけん、すっかり海だけの匂いがするもん」
「ふうん、成程ね。そう云われればそがん気のしてくるけど」
 拙生は鼻の穴を広げて大きく息を吸い込みます。しかし拙生にはその海だけの匂いと云うのが矢張りよく判らないのでありました。肺いっぱいに吸い込まなければいかんのかも知れないと思って、今度は眼を剝いてあらん限りに胸を開いてもう一度息を吸い込んでみるのですが、やはりしかとはその匂いは拙生の鼻の中には残らないのであります。
「きゃっ! 水、結構冷たかとね」
 そんなことをしている拙生の横を通り抜けて、打ち寄せる波の端に足を踏みこんだ吉岡佳世がはしゃいだ声をあげます。「でも、気持ち良か」
 彼女が波の端を踏みながら、拙生がその横を、並んでしばらく二人して浜辺を歩くのでありました。彼女は時々立ち止まって少し顎を上げて海の彼方に視線を投げます。その気持ちよさそうな横顔を見ていると拙生もなんとも良い心地になってくるのでありました。
 吉岡佳世が突然海へ向けていた顔を拙生の方に回して、徐に手を差し出します。拙生は先ずそのか細い指を見て、そのあと視線を上げて彼女の顔を見ます。
「手、繋ごうか」
 吉岡佳世が云います。「ほら、早う」
 戸惑ってまごまごしている拙生に彼女が言葉を重ねるのでありました。それでもどうしていいのか判らないで居る拙生に焦れて、彼女は自分から拙生の手を取るのでありました。柔らかで熱くて少し湿っている様な彼女の掌の感触を漏らさず感じ取ろうと、拙生の全神経が我が掌に総動員されるのであります。云ってみれば拙生の頭の中は彼女の掌にすっかり掴み取られてしまうのでありました。そうして、さてどの位の力で彼女の掌を握っていいものやら判らなくて、拙生の指は硬直しています。思ってもみなかった成行きに拙生は緊張して、只々途方に暮れるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅦ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 手を繋いでゆっくりと二人は波打ち際を歩くのでありました。
「誰か知っとる人間に見られとるかも知れんぞ」
 拙生が云います。
「いいやん、見られてても、別に」
 吉岡佳世が返します。拙生の小心さに比べて彼女のこの大胆さはどうでありましょう。
 暫くはそうやって手を繋いでいたのでありますが、あまりの気恥ずかしさから拙生は遂にその手を離してそれを頭に遣って、別に痒いわけでもなかったのですが頭をあちこち搔いたりするのでありました。なんとなく二人は立ち止まります。
「あたしさ」
 吉岡佳世が拙生に笑いかけながら云うのであります。「あたしさ、ずっと前から考えてたとやけど、病気が治ったらこうして手を繋いで大好きな人と海辺ば歩いてみたかったの。でも、実際はまだ病気治っとらんし、治るかどうかもはっきり判らんとやけど」
 拙生はその彼女の言葉に頭を掻く手を止めるのでありました。真上にある夏の太陽が拙生の頭に置いたままの掌の甲を焦がします。口元は笑ってはいるものの、被った麦藁帽子の陰のせいで彼女の眼の表情が拙生にはよく見えないのでありました。吉岡佳世は動きを失くした拙生を置いて一人、またゆっくりと波打ち際を歩きはじめます。
 拙生は一人歩きだした彼女の背中をしばらくその儘見ていたのでありますが、少し離れてからようやく彼女の後を小走りで追うのでありました。彼女の横に並ぶと彼女の歩調に合わせて速度を落とし、先程までと同じ様にすぐ横に並んで歩きだします。それから意を決して自ら彼女の手を取るのでありました。
 歩きながら彼女が拙生の方へ顔を向けます。照れ臭くて拙生は彼女の視線を避けて前を向いたままで居るのでありますが、拙生の片頬に彼女の視線を感じていてその辺りがカッと熱くなるのでありました。つい、今度は手を繋いでいる反対側の手を上にやってまた頭を掻きだすのであります。全く以って不慣れでもあったし、こう云う場面は実にどうも苦手であるなあと、拙生はその痒くもないのに掻かれる頭皮の内側で考えるのでありました。
「井渕君今まで誰かと手繋いで、こんなして歩いたことある?」
 吉岡佳世がそうゆっくりとした口調で聞きます。
「いや、なか。体育祭の後のフォークダンスの時は手ば繋いだことあるばってん」
「誰と繋いだと?」
「誰て、そがんと覚えとるもんか。フォークダンスけん不特定多数くさ」
「そん時、どがん感じのした?」
「少しどきどきした」
「今は?」
「目茶苦茶どきどきしとる」
「あたしも、どきどきしてる」
 吉岡佳世がそう云って手に力を籠めて拙生の手を強く握るのでありました。拙生は頭の中が長風呂の後のように逆上せてしまってぼんやりしてくるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅧ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 逆上せ上っているものでありますから、拙生は砂遊びをしている小さな子供に躓きそうになったり、置いてある誰かの浮輪を踏んづけたり、波打ち際の湿った砂に履いていたゴム草履をとられてつんのめったりしながら、なんとも不格好に歩くのであります。ちっとも颯爽と歩けないことを拙生は吉岡佳世に申しわけなく思うのでありました。
 しばらく歩くと砂浜が尽きて岩場に突き当たるのでありますが、拙生と吉岡佳世は岩場に上がって磯遊びなど始めるのでありました。拙生の真似をして吉岡佳世は磯巾着の触覚を恐る恐る指で触れたり、拙生の捕まえた小魚を両手で受け取って繁々と見つめた後潮溜りにそっと返したりします。
「ずうっと日向に居って疲れんや?」
 拙生は聞きます。
「ううん、大丈夫」
 吉岡佳世が笑って首を横に振ります。
「疲れたぎんた云えよ」
「何年ぶりかでこんなことして、楽しか」
「心臓の頑丈じゃなかとやけんが、無理したらだめぞ」
「大丈夫だって」
 吉岡佳世はそう云って拙生の心配が煩いとでも云うように、水に濡れた人差し指を弾いて拙生の顔に水滴を飛ばします。拙生は咄嗟に目を閉じてその飛沫の攻撃を受け、その後目を開けると吉岡佳世が悪戯っぽい笑いなどして拙生を見ているのでありました。拙生は即座に反撃します。彼女は目をしっかり閉じて口を引き結んで拙生の反撃の飛沫を顔に受けます。そしてすぐに反撃の反撃に出てきます。あ互いにわっとかきゃっとか云いながら何度かそう云う攻防を繰り返して、兎も角引き分けと云う感じで折り合いをつけて停戦したのでありましたが、吉岡佳世はふうと息を吐いてしばらく黙った後云います。
「もう今年の夏は無理やろうけど、また来年二人で海に遊びに来たいね」
「うん、そうね」
 なんとなくしんみりした彼女の云い様につられて拙生もゆっくりとした口調で云います。
「来年、あたしどうなってるとやろうか」
「当然病気の治って、もっと元気になっとるくさ。そしたら来年はお前も泳げよ」
「本当に病気、治っとるとやろうか」
「治っとるに決まっとるくさ」
 拙生はさも明々白々な決定事項のようにそう云いつのります。
「来年はもう井渕君、東京で大学生になってるとよね」
「うん、一応予定では」
「あたしはまだ、高校三年生かもしれん」
「そがんこと云わんで、ま、残っとる期末試験ば取りあえず頑張れ」
「試験は頑張っても、その後二学期もあるし、冬には手術もあるし」
 吉岡佳世の声が心細げに雲一つない夏空に消えていくのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅨ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 どんなにはしゃいでいても、きっと彼女の頭の中にはいつも自分の病気と向き合わざるを得ない苛烈な現実が鋭い棘のように浮き出ていて、そのはしゃいでいる自分をなにかの拍子に不意に突き刺したりするのでありましょう。重くて、彼女のその華奢な体で背負うには余りに深刻な現実。・・・・
「全部大丈夫。二学期も元気で過ごせるに決まっとるし、手術もうまくいくに決まっとる」
 拙生は云うのであります。「もっともオイが受け合っても、オイのノートと同じであんまい頼りにはならんばってん、そがん気のする。これで結構、オイの予測は当たるとぞ」
 こんなものが彼女の頭の中に巣食う鋭い棘に対抗出来る言葉でありましょうか。それに彼女の病気の重篤さも、彼女の不安も孤独も本当は何も知らないくせに、あまりに易々とそんなことを受け合う拙生と云うものはなんと軽はずみな人間であることでしょう。そう思うと拙生は自分の今吐いた言葉にうんざりして気が滅入ってくるのでありました。
「そうね、井渕君にそう云われると、なんか大丈夫のような気がしてくる。それに手術せんことには、あたしのこの先はちっともはっきりせんわけやからね」
 吉岡佳世は海の遠くで煌めく波を見ながら云うのでありました。
「手術もうまくいって、元気になって、オイも大学受験に成功して、来年の夏にまたこうして海に来て、さっきのごと水のひっかけあいばして遊ぼうで」
「うん、そうね。そうしようね」
 吉岡佳世は拙生を見ながら頷くのでありました。
「オイは受験に、お前は手術にむけて頑張るだけ。他は当面なあんも考えんことぞ。そして来年の夏にまた二人で此処に来る」
「そして此処で、水のかけあいばする」
 吉岡佳世は笑い顔をして云います。
「そうそう」
「井渕君は大学生で、あたしは・・・・、あたしは高校三年生かも知れんね」
「仮にそうなったてしても、それでも再来年には高校卒業出来るやっか。一年ぐらいはどうてことなかくさ。オイの場合も浪人て云う可能性もあるとばい。そうなりゃ一緒々々」
「井渕君になんとなくあっけらかんとそう云われたら、本当に手術のことも、落第のこともどうてことないような気がしてきた」
「まだ落第するて決まったわけじゃなかし」
「それはそうやけどさ」
「ところで高校卒業した後、お前どうすると?」
 拙生は努めて軽い口調で聞きます。
「うん、あんまりはっきり考えたことなかったけど、大学受験、しようかな」
「おう、それはよか。どうせなら東京の大学ば受験せろ。一緒に東京で大学生ばしようで」
「そうなったら、きっと楽しかよね」
 吉岡佳世は眼を輝かせて云うのでしたが、その輝きの中にほとんど実現しそうにない夢を語る時の、諦めの色あいが滲んでいるのを拙生は見つけるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「お前、本気で東京で大学生になる気にならんばだめぞ」
 拙生は云います。「そうなったらいいか、とか云うとじゃなくて、本気の本気でぞ」
「うん判った。本気で大学生になりたいて思う」
 吉岡佳世はそう返すのでありますが、どこかその彼女の云い様にまだ切実さが感じられないのであります。やはり心の底の方では断念しているような匂いのするその声に焦れて、拙生はもっと彼女を鼓舞しようと思うのでありました。しかし彼女の病気のことやそれにその病気を核に(核にせざるを得ずに)組み立てるしかなかったであろう彼女の将来像と、その細った将来像に対する彼女の悔しさや遣る瀬なさを斟酌すると、拙生は軽はずみにそれ以上の言葉を重ねることに気が引けてくるのでありました。だから拙生は云うべき言葉を唇で堰き止めて彼女をじっと見るしかないのでありました。
「井渕君て、優しいね」
 暫く二人黙った後、吉岡佳世が拙生を見てぽつんとそう云うのであります。「判ってるって。あたし本気で大学生になるつもりに、なるから」
 そう云う彼女に拙生はひとつ頷きを返すだけでありました。彼女の顔にかかる麦藁帽子のつばの陰が縦に少し動いたのは、彼女も頷いたからでありました。
「あたしにも東京に親類が居るとよ」
 彼女が云います。「叔父さんが東京に住んでいて、小さか頃は従兄弟が夏休みにこっちに遊びに来たりしとったの」
「ふうん、結構親しくしとるとか、今でも?」
「うん、手紙とか電話とかするよ、そんな頻繁て云うわけじゃないけど」
「そんなら好都合やっか。東京では其処に厄介になればよかし」
「そうね。あたしが東京に行ったら、きっと面倒見てくれるて思うよ」
「段々、現実味が出てきたぞ」
 拙生はなんとなく嬉しくなるのであります。
「話してたら、なんか凄く本当に、東京で暮らしたくなってきた」
「よしよし、その調子ばい」
「勉強してないし、進級もまだはっきりせんから来年は無理て思うけど、再来年とかならあたし大学受験出来るかも知れん、体さえ大丈夫になれば」
「何年かかってもよかくさ。オイは多分一足先に東京に行って待っとるけん」
「うん、待っとってね。きっとそがんなるように頑張ってみるから」
 吉岡佳世は拙生をじっと見るのでありましたが、彼女の目には海に煌めく無数の波頭がよりくっきりと映っているのでありました。
 あまりに長く夏の海辺の日差しの中に居るのも良くないであろうと云うことで、彼女の体を気遣って拙生と彼女は手を繋いで小屋に戻り、そこでまた暫く話をして過ごし、あまり遅くならない時間に海水浴を切り上げるのでありました。まあ我々の勝手な希望と云うこと以上ではありませんが、彼女の今後の目途が立った限りは、これからは第一に彼女の体を厭わなければなりません。それ故の早切り上げであります。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「井渕君、一度あたしの家に遊びに来ん?」
 吉岡佳世が云うのでありました。
「お前ん家にか?」
 拙生はベンチのすぐ横に座っている彼女の顔を覗きこみながら聞きます。「なんで?」
 九月になってまだ夏の暑さはうんざりするくらい残ってはいるものの、いくらかその暑気に疲弊したような色合いが混じりつつある、病院裏の公園でのことでありました。すぐ横の銀杏の木にはまだ青々とした葉群れが幹を隠すくらいに被さっていて、少し強い風が吹くと葉擦れの音をはらはらと拙生と吉岡佳世の頭の上に振りかけるのであります。
 夏が終わって、吉岡佳世はなんとか無事に期末試験の残りにも片をつけて、特に病状の悪化もなく新学期を迎えたのでありました。二人で海に出かけた後辺りから、多少日焼けしたせいもあるからか、彼女の顔色に生気が出てきたと感じたのは拙生の贔屓目だけではないでありましょう。海へ行ったことが彼女の体調に悪い影響を与えはしないかと心配していたのでしたが、むしろ彼女の様子は前よりも生き生きとしているように窺えるものだから、拙生は秘かに胸を撫でおろすのでありました。
「お母さんのね、一度井渕君に会ってみたかとて」
「ふうん。なんの用やろうか」
「特別の用て云うのやないけど、あたしがお世話になってるけん、お礼ばしたかとやろう」
「別に大したお世話はしとらんように思うばってん」
「期末試験のこともあるし、海に連れて行ってもらったこともあるし」
「お母さんに会うとは、なんか照れ臭かね」
 拙生は尻ごみします。
「そがん云わんで、来てよ」
 風が吹いて銀杏の木がさざめいて、行け行けと拙生を唆します。
 九月に入ると拙生はもう病院に通うことはなくなったのでありました。続いていた不整脈もほぼ治まって、ようやくに病院とは縁切れになれたのであります。吉岡佳世の方は夏休みの間は週に一回木曜日に通院していたのでありましたが、学校が始まると木曜日と云うのは時間的に無理があるので、土曜日に通院日を変更したのでありました。ですから拙生と吉岡佳世の公園での逢瀬も土曜日に変更と相なったのであります。
 土曜日、学校が終わると彼女は一足先に病院へと向かいます。彼女の診療時間やら薬を貰う待ち時間等を考慮して、拙生はなんとなくぐずぐずと暫く学校で過ごして、それからバスで公園へ向います。大概拙生が先に公園に来て彼女が現れるのを待つのでありました。 
 本当は土曜日だけではなくて毎日でも彼女と二人だけの時間を持ちたかったのではありましたが、受験生と云う立場上それも儘ならず、まあ、他の日は同級生の目を憚って、皆が下校する時間より少し遅く一つ先の停留所で待ちあわせて、バスに乗って一緒に学校から帰るくらいが関の山でありました。別に友人等に隠す理由もなかったのですが、二人だけで居るところを殊更見せつけるような真似はしないで、目立たないよう振舞っていたのは、その方が自分達が楽しかったからに他ならないでありましょう。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 そう云うわけで九月の或る日曜日に、拙生は吉岡佳世の家に行くことになったのでありました。昼食を一緒にと云うことのようであります。いくら歓迎してくれるはずであると判ってはいても、彼女の家族に会うのはなんとなく気が重いのでありました。とりあえず好印象を持ってもらわねばと、出掛ける前に風呂に入って髪の毛も整えて、ハンカチもアイロンのかかったものを妙な折り目がつかないように慎重にポケットに入れて、夏の制服のシャツもなるべくよれていないものを選んで、ズボンの埃を払って、靴下も新品を選んで、靴も汚れを拭いて、拙生は妙に固い表情で彼女の家に向かうバスに乗りこむのでありました。こう云う手間ひまが実に面倒臭くてそれで気が重かったのであります。
 拙生の乗り降りするバス停から四つ目の停留所の近くに病院と公園があって、彼女の家の最寄りのバス停はそれよりまた四つばかり先にあるのでありました。ちなみに我々の通う高校はその彼女の家の近くのバス停より、丁度拙生の家から彼女の家までの距離の分更に先に行ったところにあるのであります。
 休日の昼近い時間はバスもまったく混んではいなくて、日曜日のこんな時間に学校方面へ向かうバスに乗るのは実に稀なことで、その閑散とした車内の様子が結構新鮮ではありました。しかしそう云う小さな発見と云うのか驚きと云うのか、そんなものも拙生の重い気分を晴らしてくれる程ではありませんでしたが。
 吉岡佳世は彼女の家の最寄りのバス停で拙生が来るのを待っていてくれました。
「よお、来たばい」
 拙生は彼女に手を挙げてそう云うのでありました。吉岡佳世も笑って手を挙げます。
「なんかいつもより、ぴしってしてるね、雰囲気が」
 吉岡佳世がゆっくりと頷くような風に顔を何度か上下させて、拙生の頭から足の先までを丹念に観察しながら云うのでありました。
「そりゃ、汚か恰好で来るわけもいかんやろうけん」
「シャンプーの香りのする」
「出掛ける前に風呂にも入ってきたとばい」
「ふうん」
 吉岡佳世がにこにこと笑います。拙生もなんとなく笑い返すのでありました。拙生と彼女は自然に手を握って歩き出します。二人で居る時はいつも手を繋ぐのが、もう当たり前になっておりました。手を繋ぐと拙生の重い気分が幾らか軽くなったような気がしました。
 バス停から民家が両側に並ぶ大きくカーブした坂道を少し上った辺りに彼女の家はありました。玄関先に立って我々は繋いでいた手を離します。今まで拙生の掌に触れていた手で彼女は玄関の引き戸を開けます。拙生は急に胃が喉元までせり上がってくるような感覚を覚えるのでありました。
「来らしたよ」
 吉岡佳世が奥に向って声を大きくして云います。すぐにスリッパを履くらしい音がして、彼女の母親と思しき人が奥の部屋から出て来るのでありました。拙生はよくその人の顔を見もしないですぐに頭を下げるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「井渕です。お邪魔します」
 拙生は頭を下げたままそう云って徐に上体を起こすのでありました。
「どうもどうも、よう来たね」
 彼女のお母さんはそう云って体の前に手を揃えて拙生に頭を一つ下げます。「ほら上がって上がって。さあ早う」
 促されて拙生は靴を脱ぎ吉岡佳世の出してくれたスリッパに足を入れるのでありました。ここでふと、そう云えば手土産の一つも持ってくればよかったかと気がついたのでありますが、もう手遅れであることは明白であります。出だしでちょっとしたしくじりを仕出かしたことになるなと、拙生は結構深刻に悔やむのでありました。
 吉岡佳世に続いて居間に入ると、そこには若い男の人が胡坐をかいて大きな座卓の前に座っているのでありました。きっと前に聞いていた彼女の大学生のお兄さんでありましょう。拙生はその人に頭を下げて、お母さんに勧められるままにその人の左の席に正座をします。吉岡佳世が拙生の横に座り、お母さんは吉岡佳世の左に、お兄さんと向かい合う席に座ります。拙生と吉岡佳世の向いの、今のところ空いている席が床の間の前でおそらくこの家の主人、つまり彼女のお父さんの席なのでありましょう。そこが空いていると云うことは、多分その内彼女のお父さんも現れると云うことかと考えて、拙生は背筋に緊張を覚えるのでありました。
「ああそうそう、ご飯ば並べんばやった」
 彼女のお母さんは席につくなりそう云って、両手を卓についてよっこらしょと云いながらまたすぐに立ち上がり、台所の方へ小走りに向います。拙生はちゃんとした挨拶をしようと口を開こうとした途端でありましたから、肩透かしを食らった感じで口を開いたまま彼女のお母さんの背中に視線を投げるのでありました。
「ほら、お母さん、挨拶が先」
 拙生のまごつきを察して吉岡佳世が台所に声をかけます。それから拙生に「ねえ」と云って困ったものだと云うような目をして見せます。
「そうやった、そうやった」
 彼女のお母さんは再び居間に小走りに入ってきて、先程の席に腰を下ろします。
「あのう、吉岡さんと同級生の井渕秀二て云います。今日は呼んでいただいて有難うございます」
 拙生がそうたどたどしく挨拶して頭を下げると、どう云うわけか横の吉岡佳世まで一緒に頭を下げるのは、拙生の動作につい釣られたのでありましょう。彼女のお母さんも同じように頭を下げます。
「いつも佳世が学校でお世話になっとるようで、有難うございます」
 彼女のお母さんは頭を起こしながら云います。「これからも宜しくお願いしますね」
「あ、いやあ、此方の方こそ」
 拙生はもう一度頭を下げるのでありました。今度も吉岡佳世は拙生の仕草に釣られて拙生と一緒に頭を垂れるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「本当はなんかご挨拶の品ば持ってこんばやったとですが、オイ、いや僕が気の利かんもんけん、どうも済んません」
 拙生がそう云うと彼女のお母さんは顔の前で手をせわしなくひらひらと動かします。
「なあんも、なあんも。高校生がそがん変な気ば遣わんでよかとよ」
 そう云って笑っています。
「高校生のくせしてそがん出来とったら、逆に怖ろしかぞ」
 彼女のお兄さんが続けます。拙生は彼女のお兄さんを見て頭を掻くのでありました。
「はい、挨拶はこんくらいにしてご飯の用意、ご飯の用意」
 彼女のお母さんはそう云ってまた先程と同じ仕草で立ち上がって、台所の方へ小走りしながら云いつのります。「佳世、井渕君にお茶ば入れてあげとって。それから浩輔、料理ば出すとば手伝って」
「慌ただしかねえ、まったく」
 浩輔と呼ばれた彼女のお兄さんは拙生を見ながらそう云って立ち上ります。「足ば崩して、楽にしとってよかばい」
「はい、有難うございます」
 拙生は台所の方へ立ち去る彼女のお兄さんに一礼をするのでありました。
「お父さんは今日は居らっさんとか?」
 拙生は隣に座ってお茶を入れている吉岡佳世に聞きます。
「本当は居らすはずやったとけど、急に仕事の出来て出掛けとらすと。井渕君に会ってみたかて云いよらしたとけどね」
 拙生はそう聞いてなんとはなしに安堵するのでありました。
 卓の上に並べられた料理は実に豪華で昼食とは思えない程でありました。お茶では愛想がないためかファンタグレープで乾杯して食事が始まりました。
「ウチはお客さんが来たらファンタグレープで、いつもはプラッシー飲んでるとよ」
 吉岡佳世がそんなことを乾杯の後で云うのでありました。
「昔はお客さんはバヤリースオレンジで、家族は渡辺のジュースの素で作った薄うか味のオレンジジュースやったとぞ」
 彼女のお兄さんが紹介します。「時々三矢サイダーの出て来るぎんた嬉しかったぞ」
「あたし達ん子供の頃はお茶しかなかったけどね」
 彼女のお母さんが話に乗ってきます。「井渕君、ファンタグレープ好き?」
「はい。チェリオより好いとるです」
「チェリオは量の少し多くて安かけどね」
 彼女のお兄さんが云います。「オイ達の高校時代は、大体がチェリオば学校帰りに飲んどったぞ」
「今でんチェリオば飲むですよ、なんかて云うと」
 拙生が云います。「クラブ活動の差し入れは、チェリオかミリンダと、一休の回転饅頭て決まっとるですよ。今は受験けんオイ、いや僕はクラブはしよらんですばってん」
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「ま、オイは大学生になったらビールになったばってんね」
 彼女のお兄さんが云います。
「今年成人したからて云うて、大人ぶって」
 吉岡佳世がからかうような口調で云います。
「やぐらし。寮の先輩とかに飲ませられるけん否応なしにビールになるとくさ」
「大学は何処にあるとですか?」
 拙生が聞きます。
「京都」
「へえ、京都ですか。遠かですね。今新学期じゃなかとですか?」
「いや、八月九月が夏休みで後期は十月から始まると」
「夏休み、長かですね。羨ましかねえ」
「井渕君はどこの大学ば受けると?」
 彼女のお母さんが聞きます。
「東京の大学よねえ」
 拙生の代わりに吉岡佳世が云います。
「なんや、京都よりももっと遠かやっか」
 彼女のお兄さんがそう云って笑います。「東京のなんて云う大学か?」
「まあ、まだはっきり決めとらんとです実は。オイ、いや僕の学力に見合ったところて云うか。ま、適当に見繕って受験して、入れてくれるところに行こうかと」
「佳世も大学受験するとやろう? この前そがんこと云いよったけど」
 彼女のお母さんが吉岡佳世に聞きます。
「そう。来年やなかけどね。体もちゃんとなって、高校卒業する目途が立って、体力ついて、きっちり受験勉強してからね」
「何時になる予定か、それは?」
 彼女のお兄さんが聞きます。
「再来年以降」
「まあ、何時になってもよかけん、頑張んなさい」
 彼女のお母さんが云います。「この前、確か井渕君と海に行った日やったか、夜、大学受験しようかなて佳世が云いだしてさ」
 彼女のお母さんは今度は拙生に向かってそう言葉を重ねます。「冬に手術やし、来年の卒業も大丈夫かどうか判らんばってん、それでも大学受験する積もりでいてよかやろうかて、あたしに突然聞いてきてね、この子は」
「井渕君に影響されたとやろう、それは」
 彼女のお兄さんが云います。吉岡佳世はにこにこと笑って拙生を見ています。
「お父さんにそのことば話したら、おう、それはよか、佳世が目標ば持って手術に臨むなら、きっと手術も成功するやろうて。お父さんも喜んどらしたと」
 彼女のお母さんは、目は吉岡佳世の方に向けてそう続けるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「もう知っとらすでしょうけど、佳世さんと海に一緒に行ったとですが、その後体の調子の崩れんかて思うて、ちょっとオイ、いや僕は心配やったとです」
 拙生が云います。
「いやあ、むしろ元気になったとよこの子は」
 彼女のお母さんがそう返します。「あたしもちょっと心配したとけど」
「済んません。オイ、いや僕が無理に誘ったけんが、心配ばかけてしもうて」
 拙生は頭を下げるのでありました。
「いやいや、現に前よりも元気になったごたるけん、むしろ井渕君に感謝しとるとよ」
「ところで、なんで冬休みに手術になったとですか? 学校のことば考えたら夏休みの方が都合の良かとやなかかねと思うたとですけど」
 拙生は前から思っていた疑問を披露します。
「それはそうやけど、福岡から心臓病の偉い先生の来て、この子の手術ばしてくださることになっとって、その先生の都合で冬になったと」
「ああ、そうですか」
「福岡に行って手術してもよかて云われたとやけど、ひょっとして入院の長引いたりしたら困るし、向こうで手術するてしても夏は無理かもしれんらしくてね。その先生はえらい忙しか人らしかし。そんならて云うことでこっちで冬にてなったと」
「夏に手術してたら、井渕君と海に行けんかったじゃない」
 吉岡佳世が云います。
「それはそうやけでどさ」
「ま、夏に手術せんで、井渕君と海に行って、こいつは前より元気になったとけんが、結果、冬に予定しておいてよかったと云うことになるかな」
 彼女のお兄さんが云います。
「そう。海に行けたとやし、もの凄く楽しかったし」
 吉岡佳世は云いながら拙生を見て何度か頷くのでありました。
「それもそうか、結果としては」
「そうそう。井渕君も楽しかったやろう?」
「うん、楽しかった」
「まったく、羨ましかねえお前等は」
 彼女のお兄さんがそう云って自分の前の海老フライの載った皿を箸で叩くのでありました。彼女のお母さんはそれを見て口に掌を当てて笑い出します。
「あの、海に行った日はね」
 彼女のお母さんが笑いを収めた後、まだ笑いの余波を口元に残したまま云います。「いつもはこの子、起こされてもなかなか起きて来んくせに、朝早くから台所でごそごそしとるとさ。なんばしとるとかて思うて見に行ったら、普段はしたこともない料理ばいそいそとしよらすと。この子が自分で進んで料理しとるところば今まで見たことのなかったけん、なに事やろうかて思うて、あたしびっくりしたと。暑さで気がふれたかて思うたぐらいよ」
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「もう、お母さん!」
 吉岡佳世は彼女のお母さんを睨んで唇に人差し指を縦にあてがうのでありました。
「井渕君、美味しかったねこの子のお弁当?」
「はい、美味しかったです」
「そりゃ本人ば前にして不味かったとは云えんやろうさ」
 彼女のお兄さんが横から云います。
「いや、本当に美味しかったですよ。いつも学校に持っていっとる、ウチの母親の弁当なんかより遥かに美味しかったです」
「体がこがんやけん、中学校の頃から甘やかしてばっかりで、女の子らしか躾はなあんもせんやったから、卵も焼ききらんて思うとったけど。後でお腹の痛うならんやったね?」
 彼女のお母さんが真顔で拙生に聞きます。
「いや、大丈夫やったです」
「あたしもその気になれば、料理なんかちょいちょいて出来るとよ、本当は」
 吉岡佳世が云います。
「よう云うねあんたは。あの朝あたしも大分手伝わされたような気のするばってん」
 吉岡佳世が慌てて、またもや唇に人差し指をあてて彼女のお母さんを睨みます。
「ああもう、お母さん、あんまり余計なことばっかり云わんでよ」
「お前井渕君に、あたしは料理が得意とかなんとか云うとるとやなかとか、ひょっとして?」
 彼女のお兄さんがからかうような口調で吉岡佳世に云います。
「別にそがんことは云うたりしとらんもん、あたしは」
 彼女は両頬を膨らましてお兄さんを睨むのでありました。
「いや、何時やったか聞いたことのある気がするぞ、そがん風なことば」
 拙生が云います。
「あれ、そうだったっけ?」
 吉岡佳世は今度は拙生の顔を見るのでありましたが、少々狼狽した気持ちの内を隠そうとするためか目がくるくると微妙に動くのでありました。
「ほれ、いいところば見せようとして、よう云うなあ、お前も」
 彼女のお兄さんが彼女を指さしながら云うのでありました。
「でも本当にあたし、料理するのは好きやし、結構なんでも作れるとよ。普段はせんように見えるかも知れんけど。あのお弁当も重要なところは、全部あたしが作ったとやから。お母さん、そうよねえ」
「そうそう、そがんことにしとこうか今日は」
「もう、お母さん!」
 吉岡佳世は頬を一層膨らませて彼女のお母さんの肩を左手で叩くのでありました。「でも、本当に美味しかったやろう、あのお弁当?」
 吉岡佳世は拙生の顔を覗きこむようにして聞くのであります。まさか不味かったとは拙生は云えないのであります。ま、実際不味くはなかったのですし。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「うん、あの弁当はうまかった、確かに」
 拙生は吉岡佳世を見ながら云います。
「井渕君が今まで食べたお弁当の中で、何番目に美味しかった?」
「そうね、一番うまかったかも知れん」
「そうやろう、ねえ」
 吉岡佳世は彼女のお母さんとお兄さんを交互に見ながら、如何にも誇らしげな顔をして見せるのでありました。
「まったく、羨ましかねえあんた達は」
 彼女のお母さんが先程のお兄さんの言葉と口調も同じにそう云うのでありました。
 そうやって一時間以上の時間をかけて我々は昼食を食べ終えたのでありました。拙生は大体が食事では勢いが大切であると云うことを本分とする輩であり、一回の食事時間は十五分とかけないのが流儀のようなものでありましたが、普段の四倍以上の時間をかけて食物を胃の中に摂取したものだから、量的にはいつもとそう変わらなかったであろうけれど、その満腹感と云うものはいつもの倍くらいはありましたか。
 食事の後はまた一時間以上、お茶をよばれながら拙生は彼女の家族と歓談の時間を過ごしたのでありますが、彼女の小さい頃の写真を見せてもらったり、彼女のお兄さんに受験勉強のコツなどを伝授してもらったり、拙生の家族や拙生の生い立ちなどを披露したりして、その時間は瞬く間に過ぎたのでありました。つくづく彼女は実に良い家族に恵まれていると思って羨ましいくらいでありました。
 その間彼女のお母さんは彼女のことをこれからも宜しく頼むとか、学校を休みがちだった彼女には友達らしい友達も居ないから、学校では力になってやってくれと拙生に、懇願と云うと少し大仰になるのでありますが、そう云う類の言葉を幾度も幾度も重ねるのでありました。高校生になって以来、男女を問わず彼女の家を訪うた彼女の友達は拙生が初めてであるらしく、彼女のお母さんは今後はなにくれとなく彼女の側に立っていてくれる、信頼のおける友人としての拙生に期待するところ大のようであります。拙生もなんとなくその気になって、その期待になんとか応えんかなと秘かに臍を固めるのでありました。もっともその期待の中には彼女と二人きりの時に手を繋ぐと云う行為は入ってはいない、いやむしろ彼女のお母さんにしたら思いの外のことであるだろうなと思って、なんとはなしに申しわけない気分が拙生の腹の底の方でかすかに明滅したのでありますが。
 帰り際に彼女の部屋をちらと見せて貰って、拙生は彼女の家族に暇乞いをしたのでありました。公園まで拙生を送って行くと云う彼女と連れだって、見送られて彼女の家の玄関を出るとすぐに、彼女のお兄さんだけが拙生等を追って玄関の外へ出てくるのでありました。彼女のお兄さんはバス停まで一緒に歩いて行くようであります。そのために拙生と吉岡佳世は手を繋ぐことが出来なかったのでありました。
「こうして会ってみるまでは、井渕君に対してオイは少し懐疑の念があったとやけどね」
 彼女のお兄さんが拙生の横を歩きながら云うのであります。「しかしまあ、信頼しても大丈夫なように見受けられるけん、少し安心したとぞ」
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 拙生等三人の他には誰も歩いていない、夕刻までにはまだ少し時間のある初秋の坂道に、三人の靴音が不揃いではあるけれどそれなりに溶けあって響いているのでありました。
「もし井渕君が大して佳世を思い遣る考えもなさそうで、浅はかな魂胆かなんかでつきあっとるようなら、一発ぶん殴ってやろうかてオイは思うとったとぞ、実は」
 このお兄さんの言葉に拙生は戸惑うのでありました。拙生の歩調がほんの少し乱れます。吉岡佳世は拙生越しに彼女のお兄さんの顔を覗きこみます。
「ま、こうして会ったらその必要はなかったて判ったけどね」
 彼女のお兄さんが続けます。「井渕君は最近のヤツのごと、パーパーしとる人間じゃなかごたる。ま、むしろ話に高校生らしか張りみたいなところの、少し欠けとるきらいはあるように思うたけど」
「時々そがん風に云われます」
 拙生がそう云うと彼女のお兄さんは、ああそうかと云って笑うのでありました。
「ま、佳世のことは、繰り返しになるばってん、宜しく頼むばい」
「出来るだけ力になりたかて思います」
 拙生は頭を下げて諾の意を彼女のお兄さんに伝えるのでありました。
「但し佳世は体の弱かて云うことは、忘れんでくれよ。無茶は、絶対駄目ぞ」
 彼女のお兄さんはそう云って拙生から目を離して前を見るのでありました。「まあ、そのう、つまり、高校生としての規範て云うか・・・」
 お兄さんはなんとなく云いにくそうに続けるのでありました。「古文の授業か受験勉強で論語とかは少しは勉強したやろう?」
「はあ、論語ですか?」
「そう。孔子の」
「はい、ちょこっとくらいは」
「五十は知命、六十は耳順、七十は?」
「ええと、不惑、じゃなかったし、ええとなんでしたかね」
 拙生はしどろもどろになるのでありました。
「従心。心の欲するところに従えども矩を踰えず」
「ああ、そうやったですかね」
 拙生は頭を掻きます。
「つまりそれぞ、オイの云いたかことは」
「はあ?」
「別に七十になる前でもよかと。高校生も思う通りにふるまうとしてもぞ、高校生としての矩を踰えたらいかんぞ、て云うことくさ」
「はあ・・・」
 拙生はなんとなくお兄さんの云わんとするところは察することが出来ました。つまり、若気の至りでこの先吉岡佳世に不埒な振舞いに及んではならんぞと、そう釘を刺されたのでありましょう。彼女のことをいたく気遣っての念押しでありましょうか。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩⅩⅩ [枯葉の髪飾り 1 創作]

「オイの云いたかこと、よう判らんやったかね、こがん云い方では」
 彼女のお兄さんが拙生のように頭を掻きます。
「いやまあ、大体判ったです」
「ああ、そうや、そんならよか」
「しかしオイ、いや僕の話も高校生らしか張りのなかかも知れんばってん、お兄さんの今の例え話のようなやつも二十歳の若者らしくは全然なかように思うですよ」
「ああそうか、そりゃそうかも知れんね」
 彼女のお兄さんはそう云って拙生を見て笑うのでありました。
「オイ、いや僕は佳世さんの体のことも、性格みたいなところも、充分じゃなかかも知れんばってん一応判っとる積もりけん、ちゃんと自重するです」
「うん。頼むばい」
 彼女のお兄さんはそう云うとバス停までついて来ることなく、そこで「じゃあ」と云って手を挙げて、こちらを振り向くこともなく家の方に引き返すのでありました。
「なんば云うためにここまでついて来たとやろう、お兄ちゃんは」
 吉岡佳世が云います。
「お前ばこれからも大事に扱えよて、オイに云いに来らしたとやろう」
「わけの判らんこと云い出して、まったく。井渕君、頭にこんかった?」
「いいや。良かお兄さんやっか」
 吉岡佳世が拙生の手を握ります。拙生は先程の彼女のお兄さんの論語の話がちらと頭を過るのでありましたが、まあ、今時の高校生のことですから、手を繋ぐくらいは孔子様も目を瞑ってくれるであろうと考えて、彼女の手を握り返すのでありました。
 彼女はバスに同乗して件の公園までついて来るのでありました。公園の銀杏の木の下のベンチに座って、拙生と彼女はまた少し二人で話をするのであります。
 彼女はその内拙生の家に遊びに行きたいと云うのでありました。しかし拙生の母親は拙生が受験生であることに拙生以上に過敏になっているのであり、そんな母親の前に彼女を連れて行くことは、如何にも気安く請け負えないことであると拙生としては考えるのでありました。とても拙生の母親が、彼女の家で拙生が受けた歓待と同じ扱いを彼女にしてくれるとは思えないのであります。むしろ彼女の存在を疎ましく思いなすに決まっていますし、そう云う態度を露骨にするような気がするのであります。ですから拙生は口ではまあその内に等と云いながら、その実彼女の希望にはまず副いかねるなあと腹の中で呟くのでありました。
 銀杏の木が葉擦れの音を辺りに振り撒きます。その音はどこか乾いていて、彼女と初めて親しく口をきいたあの夏の日のような瑞々しい葉擦れの音とは、少し違っているように感じるのでありました。まだ慣れていないことが七分と、先程彼女のお兄さんに刺された釘が、喉にいつまでも立っている小骨のように拙生の頭に残っていることが三分あって、彼女の手を握る拙生の手つきの方と云えば、初めて彼女と手を繋いだ夏の海の時そのままに、瑞々しくも多分にぎごちない風情をまだ色濃く残したままでいるのでありました。
(続)

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