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あなたのとりこ 151 [あなたのとりこ 6 創作]

「確かにそう云うところはあるか」
 山尾主任はしかつめ顔で頷くのでありました。
「でも、土師尾営業部長を差し置いて先ず片久那制作部長を取り囲んだら、土師尾営業部長の事だからそれも面白くないんじゃないかな」
 均目さんが言葉を挟むのでありました。「なかなか嫉妬深いですからね。実質は別にして体裁上は自分が社長に次ぐナンバーツーだと手前勝手に思っているんだろうし、それを無視して片久那制作部長の方に全員集まれば、自尊心を傷付けられるだろうな」
「会社経営の定見も手腕も無くて、何かと云うと片久那制作部長におんぶに抱っこなんだから、自分をナンバーツーだとお目出度く勘違いしている方が間抜けなのよ」
 那間裕子女史が手厳しい事を云うのでありました。
「でもあの人の嫉妬心は性質が悪いよ。ねちねちと執拗に報復されそうだ」
「こっちが本気で怒れば、根が小心者だからたじろいですぐ腰砕けになるわよ」
「でも、先ずは土師尾盛業部長に不満をぶつけるのが筋だろうな。と云う事で、・・・」
 山尾主任が那間裕子女史と均目さんが繰り広げる土師尾営業部長の人物鑑定に待ったをかけるのでありました。「具体的に、どんな抗議の仕方をするのが良いんだろう?」
「さっき、皆で取り囲むとか云っていたよね?」
 袁満さんが均目さんの方を見るのでありました。
「そうですね。ボーナス袋の中の明細表を確認して、二か月分を切っていたらすぐに全員で土師尾営業部長の席に集まって、取り囲んで、こんな額じゃ飲めないと文句を云う」
 均目さんはボーナス袋を机に叩きつける真似をするのでありました。
「誰が抗議の口火を切るの?」
 那間裕子女史が隣の均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「それはこの中で一番年季の古い山尾さんと云うのが順当なところでしょうね」
 均目さんは那間裕子女史ではなく山尾主任の方に目を向けるのでありました。まあ、心根の中ではそうなるだろうと予想はしていたのであろうけれど、自分の名前が出たので山尾主任は驚いたような顔を均目さんに向けて、自分を指差して見せるのでありました。
「年季と云っても高々五年とちょっとで、那間さんより一年早いだけだよ」
 山尾主任は一応躊躇いを見せるのでありました。
「でも、一番古いと云うのは事実だもの。それに一番年嵩だし」
 那間裕子女史は山尾主任の躊躇いに一瞥もくれないのでありました。判っていたくせに勿体ぶって一応そんな真似をして見せているのだろうと云う読みでありましょう。
「それに主任と云う肩書きもあって、この中では一番偉いんだしね」
 袁満さんが冗談めかした云い方をするのでありました。
「じゃあ、判ったよ。そう云う事なら俺が先ず口を開くよ」
 山尾主任は不承々々に同意するのでありました。「こんな額じゃ到底年が越せないじゃないかって云うんだな、最初に俺が」
 山尾主任はやけに古風な云い草を口先に上せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 152 [あなたのとりこ 6 創作]

「年が越せない、なんてそんな古めかしい云い方は芝居の紋切り型の科白で、あたし達の切羽詰まった心情をリアルに表せていないわよ」
 那間裕子女史が眉根を寄せて舌打ちするのでありました。
「確かに、本当に年を越せないかと云うと、そうでもないし」
 均目さんが同調するのでありました。「今時のサラリーマンの、総収入の中に占める可処分所得の割合から見ても、リアリティーに欠ける大袈裟過ぎる云い方だな」
「何だい、可処分所得って?」
 袁満さんが困惑顔で均目さんに訊くのでありました。
「生きていくのに絶対必要な、食う分とか寝る場所とか最小限の衣服とかにかかる費用を総収入から差し引いた自由に遣える所得の事です。経済学で出て来る用語ですよ」
「ふうん、ちいとも知らなかった。俺、大学は経済学部だけど。まあでも、俺の出た三流大学では俺の不真面目もあるけど、そんな難しい言葉なんか教えてくれなかったかな」
 袁満さんは屈託無さそうに笑うのでありました。「しかし俺は年中ピーピー云っていて、年が越せない、とか云う言葉にも結構リアリティーを感じるけどなあ」
「そんな事も無いでしょうけど」
 均目さんが苦笑いを返すのでありました。「因みに袁満さんは貯蓄がありますか?」
「うん。まあ、恥ずかしいくらいの少額だけど」
「本とか雑誌とか、それから袁満さんはお酒とか購入しますか?」
「そうね、時々エッチな雑誌とか買うね。それに俺は甘党だから酒よりもチョコレートやら饅頭やらはちょいちょい買うけどね。この前友人にゴディバのチョコレートを貰って初めて食ったけど、あれは甘くて上手かったなあ。均目君は食った事ある?」
「いやまあ、ゴジラだかゴディバだかのチョコレートの話しはこの際脇に置くとして、つまり食う事と寝る場所、それに最低限の衣服に掛かる費用に収入の総てをつぎ込んで全く余りも出ない、と云う状態ではないんですよね?」
「そりゃそうだ。テレビも持っているし洗濯機もある。少し高いオーディオセットもこの前買ったし、偶には映画も見に行ったりもする。至って文化的な生活をしているよ」
「それに聞くところに依ると、若い女の子が大勢居る変な酒場なんかにも結構足繁く出入りする、と云う噂も俺の耳に届いていますよ」
「そんな事云いふらすのは屹度日比さん辺りだろうけど、まあ、偶には行く」
 袁満さんの、そんな事を抜け々々とほざくニヤニヤ笑いを一瞥して、那間裕子女史が露骨に嫌な顔をしてソッポを向くのでありました。
「要するに、そう云うお金があるんだから、年も越せない、とか云う時代劇の科白みたいなのはリアリティーが無いと云う事ですよ」
「ふうん、そう云うものかな」
 袁満さんは一応納得するのでありました。その二人の遣り取りを聞きながら随分長々しい可処分所得の説明だったなと、頑治さんは少しげんなりするのでありました。
「俺が年を越せないと云ったのは本当にそんな科白を吐く心算で云ったんじゃないよ」
(続)
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あなたのとりこ 153 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任が不興気に呟くのでありました。「均目君はどんな云い方をすれば、俺達の心情が上手く向うに伝わると思うんだい?」
「そうですねえ、・・・」
 均目さんは腕組みして片方の手指で自分の顎を撫でながら暫し考える風の顔をするのでありました。ここでようやく、話しは本筋に帰って来たようであります。

 均目さんは少し体を前に乗り出すのでありました。
「ボーナスも生活給の一部として予め見込んでいる訳だから、それが無いとなると生活に支障をきたす、とかはどうです?」
「それも、年が越せない、と云うのと訴えに於いて、然して変わらない気がするわね」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「じゃあ、ボーナスが少ないと俺達の士気に関わるぞ、と云うのは?」
「それ、脅しになる?」
 那間裕子女史が先程よりもう少し大きく首を傾げるのでありました。「それなら夏のボーナスに向けて、もっと奮起しろと云われたらそれ迄のような気がするけど」
「その奮起する意気込みのためにも、冬のボーナスをもう少し奮発してくれ、と訴えている訳だよ、この科白の謂わんとするところは」
「要するに、さっきの可処分所得の領域で出せ出せないの話しをしても、結局こちらには切迫感が無いんじゃないかしら。当面無い袖は振れないし、精々仕事に励んで夏のボーナスを楽しみにしていろと云われて、それでもう言葉に窮するような気がするのよ」
「まあ確かに、あれこれ文句を云い募ってもそれは夏のボーナスの時に考慮する、と押し切られてそれでお仕舞いと云う感じもするか」
 山尾主任が口を挟むのでありました。
「あたし達の単なる不満表明に終わって、それで増額があるとは思えないわね」
 那間裕子女史は、今度はさっき傾げたのと同じ振幅程度で項垂れるのでありました。
「なら結局、ボーナスが出ない事、出ても少額である事に甘んじるしかないと云う事で話しは終わるなあ。態々今日集まった我々の結論がそれで良いのかねえ」
 均目さんが鼻を鳴らすのでありました。
「こうなりゃ、ストライキでもやるか」
 山尾主任が云うと袁満さんが怯んで及び腰を見せるのでありました。
「え、ストライキ、ですか。・・・」
「労働者の権利だ」
 山尾主任は袁満さんの顔に少し強い眼光を向けるのでありました。
「しかしストライキを打つならそのための、例えば労働組合か何かの我々の参集軸が無いと、単なる個々人のサボタージュと云う意味しか持たなくなるんじゃないかな。そうなるとその分、賃金から差し引かれてそれではいお仕舞い、と云う無意味な行動で終わる」
 均目さんが瞑目して首を傾げながら山尾主任の意見に疑問を呈するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 154 [あなたのとりこ 6 創作]

「文句は付けるけど、それでもボーナスの増額は結局無いと云う事かしらね」
 那間裕子女史が溜息を吐くのでありました
「俺達が待遇に大人しく従うだけじゃないと云うところを見せるのも、今後の事を考えると無意味ではないように思うけど」
 山尾主任が云うのでありましたが、そう云うところを見ると山尾主任もこの暮れのボーナスの支給、或いは増額を実は殆ど諦めていると云うところでありましょうか。
「結局、腹いせをするだけか」
 均目さんが皮肉っぽい云い草をするのでありました。
「腹いせでも、やるだけの事はあると思うよ、今後の事を考えると」
 山尾主任が少し悲壮な顔でそう云い募るのでありましたが、その、今後の事、と云うのが頑治さんには今一つ茫洋としてよく判らないのでありました。
「やるだけの事はある、と云うのは、自分達が従順なだけの従業員ではないと向こうに思われる事に依って、今後のボーナス支給や賃金の面でこちらの意を多少は向こうが酌むようになる、と云う点を期待しておっしゃっているんですかね?」
 殆ど言葉を発しなかった頑治さんが云うと皆の視線が集まるのでありました。
「まあ、そうかな」
「でも、何だかんだと文句は云うけど、結局従うしか術の無い連中だと、返って向こうに甘く見られて終わる可能性もあるんじゃないですかね」
「それはそうね、確かに」
 那間裕子女史が即座に頷くのでありました。「抗議するなら、向こうの決定をほんの少しでも変更させなければ、唐目君の云う通り、逆に侮られるだけかも知れないわ。文句は付けるけど始めから変更を期待しないと云うのは、感傷的な一種の敗北主義ね」
「じゃあ、どうするのが良いと那間さんは思うの?」
 山尾主任は自分の考えが敗北主義と云われたのが気に障ったのか、それとも感傷的と云われた方により強く反発したのか、やや興奮した口調で云い返すのでありました。
「それを話し合うためにこうして集まっているんでしょう」
 那間裕子女史も対抗上尖った口調になるのでありました。
「まあまあ、二人共もう少しクールに」
 均目さんが双方を宥めるように、両手を胸の前に挙げて掌で前を小さく何度か押すような仕草をするのでありました。「ここで紛糾したら話しが前に進まない」
 しかしながら紛糾しなくとも、この場での話し合いは前には進まないように頑治さんには思えるのでありました。策に於いては全く手詰まりと云う観でありますか。
 どだいボーナスの支給に文句を云えるような社内の空気はこれ迄造成されてはいなかったのでありましょうし、抑々待遇に対して文句を付けるような局面も今迄は発生しなかったのでありましょう。あれこれ不満はあったとしてもそれを社長や両部長に臆せず、且つものぐさがらずにぶつけるような意気も、云い包められないだけの自信も、或いは前提として両部長に劣らないだけの仕事上の実績も社員の間には無かったのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 155 [あなたのとりこ 6 創作]

 それがここに来て怒りに任せて急に会社と対峙するような術等、従業員の誰もが持ち合わせている筈が無いのであります。精々不満表明するのが関の山でありましょう。それも個々でやるには荷が重いから皆で肩を寄せ合って声を併せて、と云う具合に。
「話しが壁にぶつかったようだし、今日はここまでとしますか」
 均目さんが主に山尾主任に向かって提案するのでありました。「ボーナス支給無しなら当然として、額が二か月を切っても取り敢えず抗議のために土師尾営業部長を取り囲む、と云うところ迄は何となく決まったようだし」
「ボーナス支給日まで後三日しかないのに、そんな大筋だけが決まっても具体的な抗議の仕方が何も決まらないと云うので大丈夫かしらね」
 那間裕子女史が懐疑的な事をものすのでありました。
「今日家に帰ってから少しクールに、夫々が策を考えて後日持ち寄ると云うところ迄しか今日はもう、話しが前に進まないでしょう。ここであれこれ話すにはこの後の時間がかかり過ぎると思うし、それじゃこの店も迷惑だろうし、それに腹も減ったし」
 均目さんはそう云って自分の腹を擦って見せるのでありました。
「支給日迄の三日間は会合を重ねないといけないと思うけど、袁満君は明日と明後日は出張に行っていた分の代休を取るとか云っていたんだよね?」
 山尾主任が袁満さんの方を見るのでありました。そう云う口ぶりから察すると、山尾主任もここ迄で今日はお開きとするのに反対と云う事ではなさそうであります。
「そうですね。若し何なら俺抜きで今後の話しを進めて貰って構わないですよ。ボーナス支給日当日は、俺は決まった事に従いますから」
「そんな訳にはいかないわよ」
 那間裕子女史が袁満さんのこの、一種横着にも聞こえる発言を咎めるような目付きをするのでありました。「俺はもう知らないから後はよろしくって云っているのと同じじゃないの、そう云う事を云うのは。それはちょっと無責任だと思わない?」
「ああいや、俺はそんな心算で云ったんじゃないのですけど」
 袁満さんはたじろいで慌てて両手を横にせわしなく振るのでありました。
「袁満君、代休は後にずらせないかな?」
 山尾主任がそう云うと那間裕子女史も均目さんも、それから頑治さんも一斉に袁満さんの顔に視線を釘付けるのでありました。
「そう云う事なら、明日も明後日もちょっと昼間に外せない用があるから、若し話し合いがあるようなら、夕方その時間に顔を出しますよ」
 袁満さんはおどおどと譲歩するのでありました。その様子が、何となく気の毒なように頑治さんには見えるのでありました。
「じゃあ、申し訳無いけどそうしてくれるか」
 山尾主任が頷くのでありました。袁満さんは大いに不満がありそうな面持ちをして、山尾主任の方に目を向けずに俯きがちに頷き返すのでありました。
「明日また仕事が終わったらこの喫茶店に集まると云う事で良いかな?」
(続)
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あなたのとりこ 156 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任が皆を見回しながらそう続けると夫々は個々に頷くのでありました。その頷き方は一様に袁満さんと同じで陰鬱気でありましたか。

 喫茶店を出ると山尾主任は地下鉄丸ノ内線で、それに袁満さんは神保町駅まで歩いて戻って都営三田線で帰宅の途に就くのでありました。頑治さんと均目さんと那間裕子女史の三人は、那間裕子女史の提案で前に行った新宿のバーでちょっと飲みながら腹拵えをすると云う事で何となく一決して、西口改札から駅構内に入るのでありました。
「頼り無いったらありゃしないわね、山尾さんは」
 那間裕子女史はバーの四人掛けの席に落ち着いて、ジントニックで唇を湿らせながらぼやくのでありました。「何が、今後のため、よ」
 隣の椅子に座る頑治さんはミックスピザの一片を取ろうとして、自分に話し掛けられたのかと思って、手の動きを止めて那間裕子女史の顔を見るのでありました。
「確かに、今後のため、とか嫌に綺麗に締め括られてもなあ」
 那間裕子女史の向いに座る均目さんが同調するのでありました。
「この暮れのボーナスの確保とか増額なんて事、山尾さんは本当は始めから諦めているのかしらね。今度のボーナスはありませんと云われてそれを納得したり、微々たる額を支給されても結局その儘受け取ったりしたら、要するに全く向こうの思う壺じゃない。そんなんじゃあ今後のためにも何もなる訳が無いわよ。そう思わない、唐目君?」
 那間裕子女史は頑治さんの太腿を軽く叩きながら云うのでありました。嫌に狎れ々々しい仕草だと頑治さんは思うのでありましたが、酒豪の筈の那間裕子女史にしては未だ酔うにはちと早過ぎると云うものでありましょうか。
 しかもそうやって頑治さんの太腿の上に置いた手を、那間裕子女史はなかなか離そうとしないのでありました。これは一体どういう了見なのでありましょうか。向かいに座っている均目さんもその女史の手が気になっているらしく、頑治さんの太腿の上に載せられた女史の手甲をそれとなく窺い見ているようでありました。
「那間さんは何か案があるのですか?」
 頑治さんはなるべく、何となく不自然に自分に触れた儘の那間裕子女史の掌を気にしないような素振りで、横の女史の方に顔を向けるのでありました。
「そう改まって訊かれるとあたしにも妙案は無いんだけどさ」
 那間裕子女史はそう云いながら口元に手を添えてあっけらかんと笑うのでありました。その口元に添えるために動かした手が頑治さんの太腿の上の手であったから、そこでようやく頑治さんの太腿は那間裕子女史の手の重量から解放されるのでありました。
「まあ、対応としては難しいよなあ。そんな事今迄無かったんだから」
 均目さんの視線もここでようやく頑治さんの太腿から離れるのでありました。
「でも、あたしは大人しくボーナス無しの宣言に頷いたり、微々たる額を受け取ったりなんかしないわね。突っ返して再考してくれと云って会社を出て行くわ」
「那間さんならやりかねないかな」
(続)
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あなたのとりこ 157 [あなたのとりこ 6 創作]

 均目さんが笑うのでありました。
「ウダウダと出るとか出ないなんてところをあれこれ話していないで、支給額が二か月を切っていたら一斉にボーナス袋を土師尾さんに叩き返して会社を出て行くって、そうはっきり決めておけば、それで今日の話し合いは済んだ筈よ。何も明日また会社帰りに集まる必要なんて無かったのよ。そうは思わない、唐目君?」
 那間裕子女史の手が再び頑治さんの太腿の上に載るのでありました。ズボンを通してその掌がさっきより熱を帯びているように頑治さんには感じられるのでありました。
「でも、ボーナスを叩き返して会社を出て行った後はどうするの?」
 均目さんが訊くのでありましたが、その目も再び、目立たないようにではありますが、頑治さんの太腿の上の那間裕子女史の手の甲に向くのでありました。
「別にどうもしないわよ。その儘家に帰るだけよ」
「ふうん。後の事は考えていないと云う事ね」
「不満をきっぱり表明するだけよ。それから次の日は普通通り会社に来て、普通通り仕事をするだけ。何か物欲しそうに振る舞うより、その方が向こうをたじろがせるには効果的だと思うわ。たじろがせれば向こうも色々考えるわよ。ねえ、唐目君」
 那間裕子女史は頑治さんの太腿の上の手で、軽くそこを叩いて見せるのでありました。それは賛同を求めるための動作のようでありました。
 しかしそんなように同意を求められてもおいそれとは首肯出来ないように思えたから、頑治さんは頷かないで、少し冷えを籠めた笑い顔を向けるのでありました。
「向こうも色々考えて、次の日は増額して再度出してくる、と云う読み?」
 均目さんが那間裕子女史と頑治さんの視線の交差に割り込むのでありました。
「そうね。そうなれば御の字ね」
「そう上手くいくかな。そんなに甘くはないと思うよ」
 均目さんは懐疑的な意を表するためか椅子の背凭れに身を引くのでありました。「そんな不穏な真似をされたら、土師尾営業部長の事だから逆に怒り心頭に発して、ボーナスなんか要らないんだなと陰湿に開き直るかも知れないよ」
「怒りか動揺かは知らないけど、まあ、対抗上大いにひねくれるでしょうね」
 那間裕子女史はその時の童顔の土師尾営業部長が、興奮して赤くなってまるで臍を曲げた子供のような顔になるのを想像したのか、冷笑を漏らすのでありました。
「それに片久那制作部長も、そんな高飛車な態度に俺達が出たら怒るだろう」
「でも、片久那さんはボーナス支給派でしょう」
「幾らボーナス支給派でも、俺達の挑戦的な態度にはムッとするさ」
「別にムッとしても構わないじゃない」
「何かそうなると、制作部の雰囲気が次の日から一挙に悪くなるのは億劫だな」
「片久那さんが不機嫌になるのが均目君は怖いの?」
 那間裕子女史は少し軽蔑するような目を均目さんに向けるのでありました。
「だってそうなると、ボーナス支給派を降りるかも知れないじゃないか」
(続)
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あなたのとりこ 158 [あなたのとりこ 6 創作]

「そんな感情的で単純な反応をするかしら、片久那さんが」
 那間裕子女史は首を傾げて頑治さんの方にゆっくり顔を向けるのでありました。頑治さんの太腿の上に載っている女史の手が一つ、拍子を打つように軽く弾むのは頑治さんに何か意見を云えと促すためのようでありますか。
「こう云うのは何だけど俺は制作部の人間じゃないから、制作部の雰囲気が悪くなろうとどうなろうとあんまり関係無いけど、でも片久那制作部長は大人の趣があるから、確かに不愉快を露骨にするような真似は取り敢えず控えるような気もするなあ」
 頑治さんが、那間裕子女史の手の拍子打ちに早速反応した故と云う訳ではないのでありましたが、そんな言葉を口角に上せるのでありました。
「そうね、元々が陰気な観察者のタイプだしね、片久那さんは」
 この那間裕子女史の言葉てえものは、頑治さんの言に頷く心算なのかそれとも無関係に発せられたものなのかどうか、頑治さんにはよく判らないのでありました。
「でも、苛々していたり機嫌が悪い時は結構露骨にそう云う態度や言葉遣いをするぜ」
 均目さんが反論するのでありました。「俺は片久那制作部長に大人の趣なんかちっとも感じないよ。ぐっと感情を押し殺して平静を装う、とか云った様子なんか、これ迄も殆ど見た事が無いね。結構表に出すよ、自分の気分や好き嫌いを」
「そうねえ。まあ、そう云うところも確かにあるわね」
 ここで那間裕子女史は均目さんの方にも同調の態度を見せるのでありました。しかし頑治さんの太腿の上の手はそこから動かないのでありました。
「それにあの人が不機嫌になると、その不機嫌には結構迫力みたいなものがあって、こっちとしては反発したり興醒めしたりと云うよりは、ちょっとビビッて仕舞うんだよな。こっちに関係無い事で不機嫌であっても、どうしたものかオドオドして仕舞う」
 均目さんはそう云いながら苦笑って見せるのでありましたが、その苦笑なんてえものは如何にも小心な自分に対する嘲りのようでありましたか。
「だから、片久那さんの機嫌を損ねるような真似はしたくない、と云う訳ね均目君は」
 那間裕子女史は、頑治さんの太腿の上に置いた手ではない方の手でテーブルの上の自分のグラスを取って、そんな皮肉を交えたような交えないような言葉をものしながらジントニックをグイと一口飲むのでありました。
「暮れのボーナスの確保より片久那制作部長の機嫌を損ねない方が大事なのかって、次にそう俺を問い詰めたいんだろうな、那間さんは」
 均目さんは再び苦笑を浮かべて先回りするのでありました。
「普段は多分そう訊くんだけど、でも止すわ。何かそんな事をグダグダ議論し続けるような気分じゃないからね、今は」
 那間裕子女史は未だ手に持った儘にしていたグラスをもう一口煽るのでありました。それから空にしたグラスを差し上げて、近くにいるウエイターにお代わりを注文するのでありました。その折、頑治さんの太腿の上に載せていた手の指が動いて、そこを判るか判らないか程度の力で掴んだような気がしたのは頑治さんの思い過ごしでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 159 [あなたのとりこ 6 創作]

 グラスを差し上げる時の無意識の体の反動として手指が動いたのか、それとも意識的な掴む動作だったのかは頑治さんには判然としないのでありました。しかしどこか意志的な挙動だったようだと云う思いが六分四分で優るのでありました。
 では何のために那間裕子女史は頑治さんの太腿を掴んだのでありましょうや。何かのサインでありましょうや。そうなら何のサインでありまじょうや。・・・

 この後はまたもや山尾主任の頼り無さとか会合の進行役としての手際の悪さ、それに短気さ、延いては短慮である事とか融通の利かない一本調子の思考法である点とか、偶に口にする冗談の陳腐過ぎる事とか、生真面目に務めようとしているくせにどこかがさつな仕事振りとか、何かと云うと山男を気取って見せる野暮とかに那間裕子女史の舌鋒は向かうのでありました。那間裕子女史は山尾主任の事を嫌っているようでありますし、侮っているようでありますし、同僚としてかなり物足りなく思っているようであります。
「そう云えば本人もあんまり話さないから話題に上る事は殆ど無いけど、山尾主任はこの暮れだったか年明け早々だったかに結婚するんじゃなかったっけ?」
 均目さんが那間裕子女史の舌の回転が一休みしたところで訊ねるのでありました。
「ああそうね。そう云えばそうだったわね。すっかり忘れていたわ」
「結婚の準備も佳境に入っているだろうに、ボーナスの事で余計な悩みが増えたかな」
「結婚式とかは挙げられないのかな?」
 頑治さんがそう訊くのは、もしそうならひょっといて那間裕子女史も均目さんも招待されているかも知れないのに、この二人は式の日取りもよく知らないような気配である点を少し訝しく思ったからでありました。まあ、会社関係の人は招待していない結婚式かも知れないし、抑々山尾主任は結婚式を挙げない心算なのかもしれませんけれど。
「確か信州の軽井沢だったかハワイだったかに向こうの両親と山尾主任のお母さんと五人で行って、そこで内輪だけの結婚式を挙げるとか前に聞いたような気がするなあ」
「軽井沢とハワイじゃあ随分落差があるようだけど」
 那間裕子女史が均目さんの記憶のあやふやさをやんわり詰るのでありました。
「何となく上の空で聞いていたから俺も何処だったか忘れたんだよ。ひょっとしたらオーストラリアかも知れないし熱海かも知れないし」
 均目さんは面白がりで那間裕子女史の云う落差をより強調するためかどうかは知れないながら、また新たなその二つの地名を並べるのでありました。
「じゃあ、招待客を呼んで、と云うような良くある風の結婚式はされないんだ」
「そうね、山尾さんらしいと云えば山尾さんらしいけど」
「山尾さんの事だから新婚旅行に山登りするんじゃないかしらね」
 那間裕子女史の云い草はどこか揶揄するような調子が潜んでいるのでありました。
「それは大いに考えられるね。嫁さんも山登りする人のようだから」
「山登り趣味の二人の結婚、と云う訳ね」
 ここでも女史の言葉にはからかうような色が混入されているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 160 [あなたのとりこ 6 創作]

「ハワイで山登りと云うのもちょっとピンとこないから、矢張り結婚式は軽井沢かな」
「ハワイで結婚式を挙げて、その後日本に帰ってから山登りに行けば良いんで、それは別にどっちだって構わないんじゃないの」
「ハワイじゃないとしても、何処か外国の山と云う手もある訳で」
 頑治さんが一応愛想から話しに参加するのでありました。
「それはそうだわね。でもエベレストに登るとか云う事はないでしょうね。山尾さんもそこまで本格的な山登りの人じゃなさそうだし」
 那間裕子女史はジントニックを一口飲んでから気分を改めるような口振りでその後を続けるのでありました。「もう、山尾さんの話しはここまで。あたしにとって山尾さんが結婚しようとどこに新婚旅行に行こうと、そんなに興味ある事柄でもないし」
 那間裕子女史は慎につれない云い方で話しを打ち切ろうとするのでありました。
 この後は、山尾主任と同様に袁満さんが諸事あんまり頼りにならない事、日比課長の那間裕子女史を見る目がいやらしい色を帯びていて気持ちが悪いと云う事、那間裕子女史だけではなく経理の甲斐計子女史に対してもそのような目を屡向ける時がある事。それから土師尾営業部長が如何にも小者で、片久那制作部長が居なければ今の地位に就く事等はあり得なかったと云う事、片久那制作部長が社長と折り合いが悪いらしく事あるにつけ対立していると云う事等々、那間裕子女史の話しは社内の人物評に移るのでありました。
 頑治さんとしては今後の人間関係に於いて多少参考になるかも知れないと半ば考えながら、その話しに相槌を打ったり首を傾げたりしているのでありました。話が佳境に入ると那間裕子女史の頑治さんの太腿に載せている手も、そこを打ったり撫でたりするのでありましたが、これは頑治さんとしたら何となく居心地のよろしくない感触でありました。
 十一時を回った辺りで均目さんがそろそろのお開きを提案するのでありました。那間裕子女史は未だ飲み足りないらしく、均目さんと頑治さんを自分のアパートに来るよう誘うのでありました。そこで腰を据えて飲み直そうと云う寸法であります。
「三人分の布団は無いけど、勿論泊まっていっても構わないわよ」
 那間裕子女史の誘いはなかなか強引でありましたが、均目さんは前にも時々そう云う場合があったらしく意外にあっさりとその誘いに乗るのでありました。しかし頑治さんはそれ程親密とは云えない女性のアパートの部屋に、幾ら均目さんと一緒だとしても気軽に宿泊するのは大いに抵抗があるのでありました。当然ながら夕美さんの存在が頭の中で明滅していて、頑治さんを及び腰にさせたのはここで云う迄も無い事でありました。
「いや、俺は自分の家に帰りますよ」
 頑治さんは店を出た路上で那間裕子女史のしつこい勧誘を、両掌を前に突き出して何とかかんとか謝絶するのでありました。
「結構堅物みたいね、唐目君は」
 那間裕子女史はそう怒ったように云ってようやく諦めてくれるのでありました。その間均目さんはニヤニヤしながら手持無沙汰そうに二人の遣り取りを傍観しているのでありました。寒いから早く那間裕子女史のアパートに向かいたいようであります。
(続)
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あなたのとりこ 161 [あなたのとりこ 6 創作]

 結局新宿駅まで一緒に歩いて、頑治さんは二人とは反対方向に向かう中央線の電車に一人乗るのでありました。どうしたものか電車は空いていて頑治さんは座席に座る事が出来たのでありました。頑治さんは前方斜め下にある自分の太腿を見るのでありました。ずっとそこに載せられていた那間裕子女史の掌の感触が消え残っているのでありました。

 本郷のアパートに帰り付くと頑治さんは酒に火照った頬を持て余しながら電話の受話器を取るのでありました。指が浮腫んでいてダイヤルが回しにくいのでありました。
「もしもし俺だけど」
 勿論電話の相手は夕美さんでありました。
「どうしたの、こんな遅い時間に」
 そう云われて頑治さんは腕時計を見るのでありました。十二時を回っていて、確かに急用でもない電話をかけるには一般的に不謹慎な時間でありましたか。
「いやまあ、何となく、ね。随分逢っていない気がするからさあ」
 しかし電話は頻繁に、したり受けたりしているのではありましたが。
「そうね、もう十日くらい顔を見ていないわね」
「電話の声だけじゃ、つまらないけどね」
「あたしも逢いたいんだけど、今一番忙しい時だから」
 夕美さんは丁度、修士論文作成の山場を迎えているのでありました。単に論文用紙に向かうだけではなく頻繁に千葉や神奈川に在る、大学が発掘調査を担当している遺跡にも出掛けなければならないのでありましたし、指導教授との打ち合わせや、論文作成の合間を縫って教授の手伝いやらもさせられているようでありました。
「で、どんな按配だい、論文の仕上がり具合は?」
「大筋は大体出来たんだけど、添付する写真や図版の整理が結構大変なの」
「ふうん。原稿用紙を文字で埋めれば済むと云う訳じゃないんだ」
「そう云う事」
 夕美さんの電話の向こうでコックリする気配が伝わって来るのでありました。「近い内に時間をつくってそっちに行くわ」
「無理しなくても良いよ。論文が大方の体裁が付く迄は電話の声で我慢するよ」
「我慢出来る?」
「だって仕方が無いもの」
「あたしは我慢出来ないから、矢張り近い内に行くわ」
「来てくれればそれは大歓迎だけどさ」
 ここで夕美さんの返事が少し滞るのでありました。
「明々後日の夜はどう?」
「明々後日か。・・・」
「頑ちゃんの方が都合が好くないの?」
「ボーナスの支給日だ、その日は」
(続)
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あなたのとりこ 162 [あなたのとりこ 6 創作]

「へえ、そう。頑ちゃんの初ボーナスね」
 夕美さんの声が弾むのでありました。
「まあ、そう云う事になるんだけど。・・・」
「だったら丁度良いじゃない。初ボーナスを祝って何処かでお食事しましょうよ」
「いやまあ、ちゃんとボーナスが出るのなら、ここが一番日頃の恩返しの総決算、と云う感じで得意になって驕るんだけどね」
「と云う事は、ちゃんと出ないの?」
 夕美さんの声の勢いが萎むのでありました。
「その可能性が大かな」
「そう云えばそんな事云っていたわね。業績不振で冬のボーナスが出ないかもって」
「今、従業員の間で、その件について色々騒然としているんだよ」
「ふうん。色々大変なんだ」
「尤も何時もの年通りに支給されたとしても、俺は算定される就業日数が少ないから皆と同じ割合では貰えないらしいけどね」
 これは前に均目さんから聞かされた事で、何でも四月から九月迄の六か月が暮れのボーナスの算定対象月数と云う事であります。頑治さんの就業日数はその期間の内にほんの少し掛かる程度でありましたから、依って慎に微々たる額になる計算であります。均目さんもそうであったし他の従業員もそう云う按配であったと云う話しでありました。
「でもまあ良いじゃない。恩返しの総決算は後日と云う事して、初ボーナスには違いないんだから、ちょっとお祝いしても罰は当たらないわよ、屹度」
「と云う事は、ひょっとしたら罰が当たるかも知れないと云う事か」
「大丈夫。そんなちっちゃな事で罰を当ててやろうとか、秘かに頑ちゃんを付け狙っている程、神様は暇じゃないと思うから」
「それはそうだ。俺もそんなに神様から目の敵にされるような覚えは、今のところ無いと思うもの。でもまあ、お祝いの件は置くとしても、支給日当日はひょっとしたら対策を話し合うために、仕事が終わってから従業員の会合があるかも知れないから、矢張りその日は外して置いた方が無難かも知れないな。逢えないのは残念なんだけどね」
「ああそう」
 夕美さんの声には大袈裟な落胆の響きが籠るのでありました。
「何とも申し訳無い」
 頑治さんは思わずお辞儀をしているのでありました。
「でも良いわ。それなら土曜日に行く」
「土曜日なら大丈夫だと思うよ」
「尤も昼間は学校と千葉の市川に行く用事があるから、その帰りに寄るわ」
「市川と云うと、遺跡かな?」
「そう。多分夕方の六時頃になると思うわ」
「夕方六時ね。ちゃんと家に居るようにするよ」
(続)
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あなたのとりこ 163 [あなたのとりこ 6 創作]

「時間とか変更があるようなら電話するわ」
「判った。まあ、その前にもこっちから特に用は無くとも電話すると思うけどね」
 頑治さんは自分のこの云い草が、その気は特に無かったのに甘えた調子になったような気が、云った直後にして少しきまりが悪いような心持ちがするのでありました。
「うん。じゃあ、土曜日」
 夕美さんはそう云ってから、切るのを躊躇うようなほんの少しの間を置いた後に、耳にしていた受話器を静かに掛け台の上に置くのでありました。
 考えてみればこの暮れのボーナスてえものは、通常通りに支給されたとしても、元々頑治さんはほんの少ない額しか貰えない筈であります。或いは規定によりひょっとしたら頑治さんにボーナスは出ないかも知れないのであります。出ないか、或いは出ても皆と違ってほんの少額であろうと云うのに、満額を貰えないと憤る山尾主任以下の従業員達と一緒になって憤怒する謂れ等は、自分には無いような気がするのでありました。
 頑治さんが他の先輩従業員達との会合に顔を出すのは、まあ、云ってみればお付き合いと云う以上の意味は見出せない訳でありますか。自分の益にもならないものに意に背いて時間を割かなければならないと云うのは、慎に以って不条理と云うものであります。しかも夕美さんとの逢瀬の時間を割かなければならないとなれば、これはもう、不条理中の不条理、不条理の主席代表みたいなものと云うべきではありませんか。
 電話を終えた後に頑治さんはそんな事を考えるのでありました。頭の中に陰鬱な霧が立ち込めるのでありました。しかしまあ、それを力を奮って何が何でも振り払おうとする程に、頑治さんは我利優先の人でも尊大な人でもないのでありましたけれど。

 この会合の次の日、どうしたものか山尾主任は会社を休むのでありました。朝一番に本人から有給休暇申請の電話が入って、それを早く来ていた甲斐計子女史が受けて、出社して来た片久那制作部長に伝えるのでありました。片久那制作部長は全く事務的にそれを聞いて、一つ頷いてからその後は昨日来の自分の仕事に取り掛かるのでありました。
 昨日の会合で山尾主任なりに疲かれ果てて、ストレスから体調を崩したのでありましょうか。いやしかし、あんなくらいで精魂尽き果てる筈はないでありましょう。若しそう云う事であるのなら、それは幾ら何でも余りに頼り無さ過ぎると云うものであります。
 と云う事はその日の終業後に予定していた従業員会合はお流れになるのかしらと頑治さんは内心ホッとするのでありました。しかしそうは問屋が卸さないのでありました。
 そろそろ昼休みと云う時間になって今度は袁満さんから電話が入るのでありました。袁満さんはその日は信州出張の代休を取っていたのでありましたが、夕方からの従業員会合には億劫でありましょうが出て来る予定になっているのでありました。
 その電話には偶々均目さんが出たのでありました。袁満さんに依れば、何でも山尾主任から袁満さんの家に午前九時頃電話があって、その日の従業員会合は予定通り開催してくれとの指示を伝言されたと云う事でありました。袁満さん同様、山尾主任も議長格の責任から、体調不良を押して喫茶店での従業員会合には出て来る了見のようでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 164 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さん経由の山尾主任の指示はすぐに均目さんから那間裕子女史に、それから倉庫で仕事をしている頑治さんにも齎されるのでありました。内心の安堵も午前中だけで、矢張りその日の従業員会合は開かれると聞いて頑治さんは少しの落胆を覚えるのでありました。別に流れたからと云って夕美さんと逢える訳ではないけれど、秘かな億劫であるのは間違いの無い事でありました。前日考えたように特段の益も無いのでありますし。
 仕事が終わってから頑治さんが均目さんと那間裕子女史と三人で揃って事務所を出て、重くなりがちの足取りを隠しながら、件の御茶ノ水駅近くの喫茶店に到着すると、既に山尾主任と袁満さんは来店しているのでありました。それにその席には、二人に挟まれて真ん中にもう一人、白と茶色のチェックのセーターを着たなかなかに体格の良い、山尾主任よりも年嵩に見える見知らぬ男が一緒に着席しているのでありました。
 遅れて到着した三人は夫々座席に腰を落しながら、その、四角い顔で密集した強そうな短い縮れ毛を頭に載せた、髭剃り跡も青々しい、やや強面の男を気後れがちに窺い見るのでありました。頑治さんが学生時代にアルバイト先の建設現場でよく見かけた事のある、肉体労働専一に今迄仕事をしてきたと云ったようなタイプの男でありますか。
「紹介しておくよ。この方は全国労働組合総連盟の横瀬兼雄さん」
 山尾主任が横に居る男を、掌を上にした手で遠慮がちに指し示しながら紹介するのでありました。強面の男は「よろしく」と云って小さく頭を下げながら、向かいの席に並んで座った均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんに、膝の上に置いていた黒皮のコートのポケットから取り出した名刺を順に手渡しながら小さく頭を下げるのでありました。
 受け取った名刺には上部左に空押しのマークとその横に続けて、全国労働組合総連盟、とあって、その下に当人の名前が少し大き目の明朝体文字でほぼ真ん中に記してあり、名前の上には、小規模労組・組織部担当委員、と云う肩書きが小さなゴシック体で書いてあるのでありました。右下には組合の郵便番号と所在地、それに電話番号がこれも肩書きと同じゴシック体文字でやや小さく書かれているのでありました。
 恐らくボーナス支給日の当日に、土師尾営業部長の前に並べるべき文句の数々を考えていて、考えに窮した山尾主任が些か早手回しの誹りは免れないかも知れないけれど、電話かそれとも態々訪ねて行ってか、労働組合に助言を求めたのであろうと頑治さんは推測するのでありました。それを受けて速やかに労働組合総連盟が動いたのでありましょう。
 その男の不意の出現で那間裕子女史は屹度、山尾主任の早手回しを早速誹りたそうに眉根を寄せているのでありましたが、当の男の手前、それは流石に憚るのでありました。頑治さんもその出現の唐突感と、事が急に大袈裟になったような雲行きに驚きを覚えるのでありましたし、均目さんの方も頑治さんと同様でありましょう。
「昨日の話し合いで、俺達だけで何やかやと話していても始まらないように思ったから、独断だったけど全国労働組合総連盟に相談を持ち込んだんだよ」
 山尾主任が経緯を語るのでありました。
「袁満君と一緒に?」
 那間裕子女史が眉根を寄せた儘で袁満さんの方に小首を傾げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 165 [あなたのとりこ 6 創作]

「いや、俺もここで初めて知ったんですよ」
 袁満さんが那間裕子女史の些かきつそうな視線に怖じたのか、慌てて両手を横に何度も振って見せるのでありました。
「もう明後日がボーナス支給日なんだから、早く対策を決めて置かなければならない。昨日の話し合いで俺達だけではとても手に負えないような感じだったから、その道の専門家に助けて貰うしかないと思うんだよ。そうじゃないかい、那間君?」
 今度は山尾主任が小首を傾げるのでありました。
「それはそうかも知れないけど、・・・」
 那間裕子女史は俄には頷かないのでありましたが、その何の断わりも無い独走は許し難いけれど、山尾主任のお先走りも無愛想に鮸膠も無く隅に片付けて仕舞う訳にもいかないかと、内心の逡巡を言葉尻に垣間見せるのでありました。
「すぐに労働組合を結成しなさいと云う心算は無いですよ」
 横瀬氏が横から言を挟むのでありました。「色々と、労働組合と云うものに対して皆さんの考えもあるでしょうからね」
 その言葉を聞いて那間裕子女史は首を傾げた儘で視線を山尾主任から横瀬氏に移すのでありました。警戒心から眉間の皺もその儘刻んであるのでありました。
「取り敢えず今日のところは、直近のボーナス支給日の対応についてアドバイスを貰うだけだよ。労働組合結成の問題はまた後の話しだし、それは横瀬さんも承知の上だよ」
 山尾主任が云うと那間裕子女史の視線はまた山尾主任の顔に戻るのでありました。
「じゃあ、今回の件に対してどのようなアドバイスがいただけるんでしょうか?」
 那間裕子女史の言葉に籠る棘が未だ丸まっていないのを見ると、何時もの女子の性向に鑑みて、女史はこの横瀬氏が直感としてあんまり好きになれないようでありますか。
「何でも山尾さんの話しに依れば、何時もの暮れの一時金が今年は出ないか、或いは出ても極めて少額の可能性があると云う事ですけどね」
 横瀬氏は少し前屈みに、つまり身を乗り出すのでありました。「会社の業績だけでそれが決まるのなら、それは仕方が無いと云う事になります」
 聞いていた頑治さんは横瀬氏のその言辞に意外の感を抱くのでありました。労働組合関係の人であるなら、それは労働者の生活を考慮だにしない慎にけしからん事だから、大いに団体交渉で反駁しろと嗾けるものと思っていたのでありましたが、会社の業績が不振ならボーナスが出ないのも仕方が無いと云う事のようであります。ボーナスを、一時金、と云い換える辺りは、如何にも労働組合的な人であるとは感じるのでありましたが。
「じゃあ、ボーナス無し、或いは微々たる額を受け入れろとおっしゃるのですか?」
 那間裕子女史が労働組合関係者にあるまじきその言葉に気色ばむのでありました。無責任に一体何のアドバイスをしに遣って来たのか、と云ったところでありましょうか。
「まあまあ、そう早とちりしないで」
 横瀬氏は掌を那間裕子女史に見せて女史の苛々を制するのでありました。この手合いと話しをするのは慣れている、と云った余裕が感じられるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 166 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は少し間を取るためかコーヒーを一口悠長に啜るのでありました。那間裕子女史の方は何を勿体付けているのかと云ったような、苛々を隠さない目でその様子を睨み付けながら氏の次の言葉を待つのでありました。
「無い袖は振れない、と云う事は至極尤もな理屈ですよ」
 横瀬氏はコーヒーカップを小さな音を立てて受け皿に戻すのでありました。「しかしその理屈を覆させるためにはあれこれ手が必要なのですよ。一つは、一般的に会社にはいざと云う時のために一定の資金が必ず蓄えられている筈です。ですからそれを一時金に当てて貰う事は交渉次第で可能です。まあ、何だかんだと尤もらしい理由を云い連ねて抵抗するでしょうがね。しかしながら先ずはそれを踏まえた上で交渉すると云う事です。必ず原資は有るのだと云う、こちらが揺るがないだけの確信と情報と気概が必要ですな」
「気概、ですか?」
 那間裕子女史は落胆と懐疑の色を言葉に載せるのでありました。「心構えと云うのか、絶対ぶん取るぞと云う気持ちがこちらにあればボーナスが必ず出ると云う事ですかね」
「そうです。先ずはそれが一番大事です」
 横瀬氏は那間裕子女史の揶揄的な云い草をあっさり往なすのでありました。「もう一つ私は、情報、と云いましたが、どのくらいの留保金があるのかを知っておいた方が良い。交渉で向こうが出せるギリギリの線を予め決めておくためにね」
 それは尤もな事であろうと、頑治さんは横是氏にも那間裕子女史にも、それに袁満さんにも山尾主任にも均目さんにも気取られない程度に小さく頷くのでありました。
「甲斐さんに訊けば知っているだろうな」
 山尾主任が頑治さんとは違って皆にはっきり知れるように頷くのでありました。
「でも、おいそれと教えてくれますかね」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「自分の貰うボーナスにも絡む訳だから、訊けば俺達にも教えてくれるんじゃないの。甲斐さんも土師尾営業部長の事は嫌っているし、社長とべったりと云う事でもないから」
 袁満さんが楽観的な推測をものすのでありました。
「そんなに都合好く教えてくれるかなあ」
 均目さんは首を傾げた儘薄笑いを浮かべるのでありました。
「その、甲斐さんと云うのは?」
 横瀬氏が均目さんの方を向いて訊くのでありました。
「会社の会計を担当している女性ですよ」
 山尾主任が代わって応えるのでありました。
「そう云う人は必ず味方に付けておいた方が良いですね」
 横瀬氏が云うと山尾主任は律義そうな顔でこっくりをするのでありました。
「明日、俺の方からそれとなく聞いてみますよ」
 山尾主任の言に横瀬氏は満足気に頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 167 [あなたのとりこ 6 創作]

「甲斐さんとやらの事はそのくらいにして、・・・」
 横瀬氏は先程の話しに戻ろうとするのでありました。

 横瀬氏はコーヒーをまた一口飲んで続けるのでありました。
「会社に少し無理をさせるためには、実は企業内だけで交渉しても弱いのです。留保金の事にしても、云ってみれば社内の事情ですから、切り崩すとこの先経営が困難になると云われれば、こちらの根拠よりも向こうの経営的根拠の方が切迫感に於いて些か優る。一時金が出なければ、それで明日即刻こちらが飢え死にする訳でもないでしょうからね。精々家のローンの支払いのために預金が減るとか、買おうと思っていた洋服が買えないとか、予定していた旅行の資金が足りないとかですからね、こちらの要求の主たる拠点は」
「ああ、昨日話しに出た、ええと何だっけ、可処分所得、だっけ。それの事ね」
 袁満さんが頑治さんの方を見て笑うので、頑治さんも笑い返すのでありました。
「そうなると企業を越えた横の繋がりが、大いに意味を持ってくるのです」
 横瀬氏は袁満さんと頑治さんの笑い顔に一顧も無く話しを続けるのでありました。「同業他社に比べてウチの待遇は、と云った話しが出来るようになります」
「それはそうでしょうけど、会社の大きさも違うだろうし、業態も売り上げもバラバラでしょうからね、一概に同列で比較する事は出来ないですよね」
 均目さんが疑問を投げるのでありました。
「確かにその通りです。しかし全総連、つまり全国労働組合総連盟には同業他社の賃金や一時金の実績が情報として共有されていますから、同じ程度の業績で他社がどのくらい出しているか、と云ったところを交渉に於いて経営側に示す事は出来ます。他がこのくらい頑張って一時金を出しているんだから、ウチももう少し頑張って貰わないと、とかね」
「それでも、他とウチとでは事情が全く違う、と一蹴される場合もある」
 均目さんはなかなか折れないのでありました。
「それは経営側が良く使う科白です。特に従業員二十人以下の小規模企業では、経営側の典型的常套句となっています。しかし個別の事情を多少は考慮するにしても、業績や営業規模が他の会社と同程度なら、その個別性が従業員の賃金や一時金を決める決定的条件にはならない。ウチとほぼ同規模、同業績の会社がこれだけ頑張って従業員を待遇しているのだから、ウチも決して出来ない筈はないし、どうしても出来ないと云うのなら、それは経営側に何か問題があるのではないか、と畳みかけられると云う事ですよ」
「まあ、交渉術としてはそうですかね」
 均目さんは納得しないような顔で一応納得するのでありました。
「それに全総連では産業別の賃金や一時金の達成目標、獲得目標を前面に打ち出しますから、全総連加盟労働組合ならその絡みも交渉に於いて使えます。産業の枠を超えた働く者総ての権利とか団結とか、そう云ったものは結構初心な経営側には利きますよ。企業を越えて団結していると云うのは、一企業の経営にとっては大いに脅威ですからね」
「つまり、鉄道の統一ストライキ、とかですかね?」
(続)
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あなたのとりこ 168 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さんが何となくイメージしたのかそんな事を云うのでありました。
「まあ、それも闘争手段の一つではありますね。一企業を越えて団結していると色んな交渉戦術があると云う事ですね、つまり」
 そう云って横瀬氏はここでコーヒーを飲み干すのでありました。
「矢張り全国組織下の労働組合を創るしかないかなあ」
 山尾主任もまるで横瀬氏を真似るように自分のコーヒーカップを空けて、独り言のように呟きながら首を何度か縦に振るのでありました。この山尾主任の言に誰も即座に何の反論も口にしないのを見定めて、横瀬氏は空かさず言葉を重ねるのでありました。
「若し労働組合を結成すると云う事であれば、この暮れの一時金に対する対応も、その何とか云う営業部長を取り囲んでただ繰り言をぶちまけると云うやり方ではなく、もう少し労組結成と云う路程の上に戦略的位置付けられた闘争であるべきでしょうね」
「土師尾営業部長です」
 山尾主任が、何とか云う営業部長、のその、何とか、の部分を補うのでありました。
「そうそう、その土師尾と云う名前の営業部長、に対する対応ですね」
 この辺の山尾主任と横瀬氏の何となく呼吸の合った言葉の遣り取りを聞いていて、労働組合結成と云う既定路線が二人の間でもう出来上がっていて、そう云う方向にこの場の話しを持って行こうとしているような作為を頑治さんは感じるのでありました。
「じゃあ、どう云う方法が良いのでしょうかね?」
 山尾主任が予め決められていた、ような、科白をここで発するのでありました。
「何もしないのです」
 横瀬氏があっさりと云うのでありました。
「何もしない、のですか?」
 山尾主任が少し驚いて見せるのでありました。その山尾主任の反応に同調するように、皆の視線が横瀬氏の顔に向かうのでありました。
「そうです、何もしないのです」
 横瀬氏はここに居る全員の興味が集まったのを見定めるように夫々を見回してから、その先を続けるのでありました。「組合結成を画策している、或いは未だ画策はしていないけれど、そう云う方向に皆の気持ちが向かうかも知れないと云う懸念を全く抱かせないために、気落ちはするけど恭順する、と云う態度を一先ず装っておくのです」
「何もしない、と云う芝居をするのですね」
 山尾主任が感心したような顔で頷くのでありました。
「後日の組合結成の成功を考えるなら、ここはその何とか云う営業部長の前ではそれを噯にも出さない方が賢明な対応と云う訳です」
「土師尾営業部長、です」
「ああそうそう。その土師尾と云う名前の営業部長の前では」
 山尾主任と横瀬氏はまた先程の遣り取りを繰り返すのでありました。頑治さんはこの二人の様子に些かげんなりするのでありましたがそれは噯にも出さないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 169 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は土師尾営業部長の事をこの段階では殆ど何も知らない筈であります。その為人も風貌も、社員からどのように思われているかも。依ってその人の事を語るのに、この段階ではある種の敬意を払った云い方をするのが普通の感覚でありましょうか。
 しかしその物腰からはそんな気配は微塵も感じられないのでありました。寧ろ社員から全く疎んじられていると云う予備知識のためにか、一定程度軽侮したような云い方をしても構わないし、或いはその方が返って受けが良いかも知れない、と云う心根の中の臆断が仄見えるのでありました。勿論その予備知識は山尾主任から得たものでありましょう。
 更に山尾主任と横瀬氏の間では、既に全総連に加盟する労働組合の結成、と云う見取り図が描かれ共有されているのかも知れません。眼前で展開されている二人の掛け合いを見ていると、そこにはこの目的達成のための大まかな台本が用意されていて、二人で今、それを忠実になぞり演じているような気も頑治さんはしてくるのであります。いやまあ、これとても、頑治さんのふと感じた印象からの勝手な臆断かも知れませんけれど。

 店内の談笑する声や流れる音楽、それにカップやグラスが立てる音のざわつき中で、ほんの暫くの間、座の空気は沈黙の谷間に揺蕩うのでありました。
「ではこの暮れのボーナスに対して我々が何もアクションをしないとなると、その先に描くべきシナリオと云うのはどうなるのですかね?」
  均目さんが身を乗り出してやや下方から横瀬氏に視線を向けるのでありました。
「それは、春闘、と云う焦点に事になりますね」
 横瀬氏は均目さんの目は特に意識しないで、席に座っている夫々の顔をどこか値踏みするような目で眺め回すのでありました。
「春闘、ですか?」
 那間裕子女史が横瀬氏の言葉を繰り返すのでありました。
「そうです。これからは組合結成準備と内部の団結強化、それに他の全総連加盟単組との連携と云うところに力を傾注して、統一要求とは別に貴方達の独自闘要求も練り上げて、春闘時に組合結成を公然化して、要求を経営側に突き付けると云う事になりますかな」
「春闘で突然組合結成通告して、暮れのボーナスの仕返しをしようと云う訳だ」
 袁満さんが如何にも痛快そうに云うのでありました。
「いやまあ、意趣返しとは少し意味合いが違いますが、春闘と連動した方が闘争効果やらあれこれの面で好都合なところ多々でしょうからねえ」
「我々が創る労働組合が春闘の統一要求にコミットしていれば、全総連が我々のバックに付いている事も明確に示す事にもなるから、確かに会社側には脅威だろうな。下手な対応や回答だと全総連が許さないぞと云うメッセージになるだろうし」
 山尾主任の言は、もう組合結成が既定路線であるかのような、お先走りの科白に頑治さんには聞こえるのでありました。これは頑治さんだけではなく均目さんもそうであるようで、均目さんは山尾主任の前のめりの姿勢に水を差そうとするのでありました。
「未だ労働組合結成を、我々が正式に決定した訳でもないですけれどね」
(続)
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あなたのとりこ 170 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任がその均目さんの言に少し不愉快そうな顔をするのでありました。
「それはそうです」
 横瀬氏の方は均目さんのような意見に大いに配慮しているところを見せるためか、静穏な顔で頷くのでありました。「それは貴方達がこれから決める事ですから、私は口を差し挟みません。今日は請われて単にアドバイスにしゃしゃり出て来ただけですからね」
 横瀬氏のこの辺の腰の引き方なんと云うものは、身熟しが臨機応変で老獪なのか、それとも徒に敬遠されないようにするためのこの場に於ける単なる見え透いた控え目なのか、頑治さんは俄に判断に迷うのでありました。この横瀬氏と云う仁が食えるか食えないかの判断は、未だもう少し先と云う事になるでありましょうか。
「しかし、ボーナス支給日までもう日も無いんだから、ここは春闘睨みの組合結成、と云う事に速やかに決めた方が良いんじゃないかな」
 山尾主任がやや焦ったように云い添えるのでありました。
「でもそれは少し強引でしょう。組合結成と云う件はここで唐突にではなく、もう少し時間をかけて話し合って決めた方が良いんじゃないですかね」
 均目さんが異を唱えるのでありました。
「でも均目君、さっきから何度も云っているけど、春闘迄時間が無いんだぜ」
 山尾主任が少し焦りを強めて云い募るのでありました。
「確かに、組合を結成するのが今の段階では一番妥当な選択かも知れないわね」
 那間裕子女史がふと言葉を漏らすのでありました。
「俺もどんな手を遣ってでも土師尾営業部長に吠え面かかしてやりたいなあ、何とか」
 袁満さんも遠慮がちに私憤混じりのような賛同を表明するのでありました。
「唐目君はどうかな?」
 山尾主任が頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ、俺は新参者で今度のボーナスに関しては蚊帳の外に居ますから、無責任のようですが殊更の意見は無いです。でも皆さんが組合結成と決めるのなら俺も従いますよ」
 明言を濁した立場表明回避の、ある意味で卑怯な云い草でありあますが、明言しないところに頑治さんの消極的な気配を汲んで欲しいものでありましたけれど。
「そうすると組合結成賛成が三に棄権が一、反対が一と云う事になるかな」
 山尾主任がそんな集計をして見せるのでありました。
「ここに居ない出雲君の意見は判らないわね」
 那間裕子女史が不在の出雲さんの存在を気遣うのでありました。
「そうだけど、出雲君が反対か棄権だとしても、賛成多数と云う事にはなる」
 山尾主任がここでもやや強引な断定をするのでありました。
「まあ、俺もはっきり反対と云う訳じゃないけど。・・・」
 均目さんが立場をぐらつかせるのでありました。
「と云う事は絶対反対じゃないんだね」
 山尾主任は何とか組合結成をここで決めてしまいたいような意気込みであります。
(続)
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あなたのとりこ 171 [あなたのとりこ 6 創作]

「それはそうですけど、でも上部組織になる全総連の事も詳しく知らないし」
「全総連は日本に在る労働組合連合組織の中では二番目に大きい組織です」
 横瀬氏がここで全総連について解説を始めるのでありました。「一番大きな組織は全日本労働組合総協議会、所謂労総協で、これは皆さんご存知でしょう?」
「良く春闘の時期やメーデーでテレビに取り上げられる組織ですよね」
 袁満さんがあっけらかんとした笑みを浮かべて応えるのでありました。
「そうですね。これが組織的には一番大きい。その次に大きいのが全総連です。尤も三番目以下はそんなに大きな組織ではないので、今の労働界は労総協と全総連が二大組織と云う事になりますか。我々もテレビに屡登場しますよ」
 横瀬氏はここで自信有り気に頷くのでありました。
「勿論その名前を聞いた事はあるわね」
 那間裕子女史が頷き返すのでありました。
「どちらかと云うと全総連は政治絡みの活動が多いような印象だなあ」
 均目さんは頷かないで云うのでありました。
「いや、特にそんな事はありませんよ。寧ろ既成の左翼政党に深くコミットしているのは労総協の方ではないでしょうかね。実際我々は加盟の組合員がどの政党を支持しようとも何も干渉しませんし、それは至って自由ですから」
「ああそうですかね」
 均目さんはこの横瀬氏の言に対して懐疑的な心根を表明する笑みを浮かべるのでありました。少しは全総連に対して知識が有るようであります。
「まあ、強い労働運動を展開するためには、場合に依ってはどうしても既存の野党勢力と共闘する事も必要ですからね、しかし政党支持とか政治思想に関しては原則自由です」
「でも全総連の活動方針に異を差し挟まない限り、と云う事ですよね」
「それは勿論、組織防衛と団結を維持するためにはそうなります。しかしそれは組織である以上当たり前の事で、全総連に限らず色んな組織は一般的にそうですよ」
「一方では全総連は組合員への政治的縛りが一番きついと聞きますが?」
「いやそんな事はありませんよ。団結力の強さから、外からはそう見えるとしても、全総連はどの労働組合連合組織よりも民主的に運営されていると明言しておきます」
 横瀬氏は別に慌てた風でも急に興奮した風でもない物腰ながら均目さんを見据えて、ここは有無を云わさないような迫力を言葉に籠めて断言するのでありました。
「ああそうですか」
 その迫力にたじろいで及び腰になった訳ではないでありましょうが、均目さんは一先ずそれ以上の言を重ねないのでありました。

 この二人の遣り取りの間、頑治さんを含めて他の連中は口を挟む期を逸して、戸惑ったような表情でダンマリを決め込んでいるのでありました。何やら自分達には埒外の、小難しい話しが展開されているようだと云った心持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 172 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、どうだろう、全総連加盟の労働組合結成、と云う事に決定して良いかな」
 山尾主任が話しを進めようとするのでありました。
「それしか手は無いかな、社長や土師尾営業部長を慌てさせるには」
 袁満さんが頷くのでありました。
「そうね。個々や、何もバックが無い状態で騒いでいても無力だもんね」
 那間裕子女史も二回頷くのでありました。
「均目君は?」
 山尾主任は均目さんを見るのでありました。
「流れとしてはそのような形勢ですから、俺も敢えて反対はしませんよ」
「唐目君はどう?」
「さっきも云ったように皆さんの決定に従います」
 頑治さんはここでも卑怯な云い草をしている自を潔くないと思うのでありまいた。何ともイカさない見てくれではありますが、まあ、仕様が無いでありましょうか。
「じゃあ、そのように決めるとして、そうなれば今後の手順としては、・・・」
 山尾主任は横の横瀬氏を見るのでありました。
「そうですね、春闘迄、結成準備会会議を重ねると云う事になりますが、取り敢えず近々全員揃ったところで会議を開いて正式結成までの暫定的な役員を決めて、それから闘争方針を採択して、春闘迄の日程を確認して、統一要求に加えて当該の独自要求を準備すると云うところになりますね。全総連としても正式にバックアップ体制を組みます」
「よろしくお願いします」
 山尾主任が横瀬氏に頭を下げるのでありました。それに倣って皆も軽くお辞儀するのでありましたが、均目さんは伏し目をするものの殆ど頭を動かさないのでありました。
「なあに、それが仕事ですから」
 横瀬氏はそう云って如何にも頼もしそうに笑うのでありました。それが仕事、と云うのでありますから改めて云う迄もなく、この人は何処かの全総連加盟の単組の組合員と云うのではなく、全総連本体の組織部に属する専従職員と云う事になるのでありましょう。
「じゃあ最初の会議は何時に設定するかな」
 山尾氏が全員を見回すのでありました。「木曜日のボーナス支給日は結局何も抗議とかしないと云う事なら、その日の退社後と云う事でどうかな」
「皆で土師尾さんに文句を付けるなら、どうぜその後で会合するだろうと思っていたから、その日は何も予定を入れないで空けてあるわよあたしは。学校の方も無いし」
 那間裕子女史が賛意を表わすのでありました。
「俺も、そうすると明日は丸々一日休めるなあ」
 袁満さんも都合が好いようであります。
「そう云う事ならボーナス支給日に、と云う事で俺も都合を付けるよ」
 均目さんもものぐさそうな言葉つきながらも同意のようであります。勿論頑治さんも、どうせ夕美さんとの逢瀬は土曜日だから大丈夫と云った按配でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 173 [あなたのとりこ 6 創作]

「じゃあ、木曜日の午後六時から、と云う事で決めて大丈夫かな?」
 山尾主任がまたもや夫々の顔を見渡すのでありました。皆も再度頷いて見せるのでありました。特段の異議無しというところでありますか。
「那間さんは残業しないで良いの?」
 均目さんが念のために訊くのでありました。
「大丈夫よ。仕事は遅れているけど未だ尻は先だから、どうしてもその日に残業しなければならないと云う謂れはないわ。ご心配の段は深く感謝しますけどね」
 那間裕子女史のその返事は、均目さんの心配を揶揄と取ったためでありましょう。
「出雲君は欠席になるなあ」
 袁満さんが出雲さんの事を気に懸けるのでありました。
「出雲君には、出張から帰って来てから俺の方でしっかり話すよ」
 山尾主任が請け合うのでありました。
「それに日比さんと甲斐さんには組合結成の件は内緒にして置くんですかね?」
「まあ、今の段階ではちょっと外れて貰うかな。土師尾営業部長にこの俺達の計画が漏れるのは拙いからなあ。日比さんは迂闊なところがあるからから、何かの拍子に両部長に、本人はその心算が無くてもうっかり漏らして仕舞う心配があるし、甲斐さんは向こう側の人とは思えないけど、かと云ってこちら側の人と云う感じでもないからね」
 山尾主任がまたもや皆を見渡すと、袁満さんも均目さんも那間裕子女史も、それは尤もだと云う顔付きをするのでありました。頑治さんはその辺りの人間関係の機微やら二人のパーソナリティーやらが未だ良く呑み込めていないので、無表情なのでありました。
「ええとそれから、最初の会議を開くに当たっては、喫茶店とか居酒屋とかではなく、ちゃんとした会議の体裁が取れる場所の方が良いですよ」
 横瀬氏がアドバイスするのでありました。
「じゃあ、何処か会社近くの貸会議室を借りる事にします」
「そうですね。多少お金が掛かってもその方が無難でしょうね」
 横瀬氏はその山尾主任の応えに満足そうに頷くのでありました。
「横瀬さんも出席していただけるんですか?」
 那間裕子女史が訊ねるのでありました。
「勿論です。それに組合結成までを支援するスタッフとか、皆さんの会社と似たような業態や規模の既成の組合の人を一緒に連れて来るかも知れません」
「それは何人くらいになりますか?」
 山尾主任は貸事務所の手配の関係からかそんな事を訊くのでありました。
「まあ、私も入れて三人、と云うところですかね」
「判りました。じゃあ俺達が五人で、加えて全部で八人と云う人数ですね」
「そうですね。ひょっとしたらもう一人くらい増えるかも知れませんが」
「それから、その日迄にこちらで用意する事はありますか?」
「まあ、特にはありません。具体的な作業はその会議の後と云う事になりますから」
(続)
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あなたのとりこ 174 [あなたのとりこ 6 創作]

「判りました。それでは今後共よろしくお願いします」
 山尾主任が横に座る横瀬氏の顔を見ながらお辞儀するのでありました。それを見て他の四人も銘々に頭を下げるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします。伴に頑張りましょう」
 横瀬氏も丁寧に五人の顔を夫々見ながら五回浅いお辞儀を繰り返すのでありました。

 一日置いた木曜日、結局ボーナスは形式通りには出ず、慰労金と云う名目で、日比課長に十万円、山尾主任に七万円、頑治さんを除いたその他の社員には五万円の支給があるのでありました。新参の頑治さんには二万円と云う額が渡されるのでありました。
 退社時間間際に下の倉庫から上の事務所に戻った頑治さんは、土師尾営業部長から角形八号の白封筒を差し出されるのでありました。
「本来は入社一年未満の新入社員にはボーナスは出ない決まりなんだけど、今期は格別の計らいと云う事で少ないけど唐目君にも慰労金を出す事にしたよ」
 土師尾営業部長はそう前置きして白封筒を頑治さんに手渡すのでありました。「新人にしては前の刃葉君なんかよりも良く働いてくれているし、それに報いるためにも特別に配慮したんだ。そこのところを心に留めて、これからもよろしく頼みます」
「有難うございます」
 頑治さんは頭を下げて白封筒を押し戴くのでありましたが、土師尾営業部長のその恩着せがましい前置きに少々げんなりするのでありました。それに均目さんから聞いたところに依ると入社一年未満の新入社員にボーナスが出ない事はなく、均目さんも那間裕子女史も袁満さんも、それに出雲さんも込み入った日割り計算で少額ながら入社一年未満でもボーナスは貰ったと云う事でありました。頑治さんがその辺の事情に無知だと思ってそんな事を云っているのでありましょうが、明らかに虚言と云う事になる訳であります。
 これは、そのような無用な嘘まで弄して、恩着せの嵩増しをしようとする浅ましい魂胆からでありますか。こんなところが、この人が社員から心服されない要因の一つでありましょう。自分の言葉や行為のより大きな効果を狙ってしているのでありましょうが、意に反して逆に軽侮を頂戴する羽目になると云う、実に間抜けな遣り口であります。
 それに後で知ったところに依るとこの、格別の計らい、なるものも土師尾営業部長の計らいと云うのではなくて、片久那制作部長の配慮と云う事のようでありました。元々社長や土師尾営業部長は頑治さんの慰労金に関しては一顧も無かったようでありますが、それでは頑治さんの勤労意欲が下がると片久那制作部長が反論して、それで結局支給する事になった模様でありました。これは均目さんが教えてくれたのでありました。
 云ってみれば出す心算も無かった慰労金を特別に出してやるのだから有難く頂戴しろ、と云う一方的な思いが、あの嘘も動員して恩着せがましさを増幅させようとした云い草になったのでありましょう。何ともちんけな話しでありますが、まあ、それはそれとして、予て申し合わせていた通り社員の誰もが特別のリアクションを示さないのでありました。至って静穏にこのボーナス代わりの慰労金支給は執り行われたのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 175 [あなたのとりこ 6 創作]

 那間裕子女史が片久那制作部長の居る前で冗談めかして、山尾主任に向かって結婚を間近に控えてこれでは式の資金の足しにもならないだろう、等と勿論ボーナスを支給する側の片久那制作部長に当て付けるためにものしたところ、片久那制作部長はその言葉を聞きとがめて、出せるものなら俺だってもっと出したいよと、如何にも不愉快そうに横から口を挟んだと云う事でありました。これは後に均目さんから聞いた話しであります。
 片久那制作部長も、暮れのボーナスが満足に出せなかった事に後ろめたさがあったのでありましょう。社員に対して顔向け出来ないような気持ちから、那間裕子女史の揶揄に敏感に反応したと云うところでありますか。依ってその義侠的な引け目が、苛々した言葉付きとなって表れたのだろうと頑治さんは憶測するのでありましたが、均目さんは首を横に振りながら皮肉な笑いを浮かべて頑治さんの解釈を否定するのでありました。
「それは、多少はそんな気持ちもあったかもしれないけど、要するに自分の貰い分も少ないと云う事が、あの不機嫌の第一番目の理由だろうな」
「ふうん、そうかね」
「この会社の何から何まで実質的に動かしているのは自分だと云う自負もあるから、事もあろうにその俺様に対して社長は一体何を考えているんだ、と云った、公憤と云うよりは非常に個人的な憤怒が腹の底に蟠っていたものだから、折良く、と云うか悪く、那間さんが気に障る事を口走ったので、それに乗っかって不快をぶちまけたんだろうよ」
「ふうん。そうなのかねえ」
 頑治さんはそう無表情で受けて、それ以上は話しを深くしないのでありました。序に云えばこの時に先の、入社一年未満の社員にはボーナスは出さない決まりだと土師尾営業部長から聞いた事が嘘だと、はっきり均目さんから聞き出したのでありました。それに頑治さんに二万円の慰労金が出たのは片久那制作部長の意からである事も。
「その土師尾営業部長の恩着せがましさも、自分の不満を解消するためのものだろう」
「不満を解消するために恩着せがましい物腰になるものかね」
「まあ、直ではないけど、紆余曲折の思いの結果的な発露として、恩着せがましい事の一つも云って置きたくなったんだろう。そう云うところはあの人の天性でもあるけど」
「ふうん、そうなのかねえ」
 頑治さんは先程と同じ口調で同じ事を繰り返して、これもそれ以上話しを進めないのでありました。まあ、頑治さんとしては二万円とは云え給料以外の支給があった事に、不満ではなく喜びを多く実は秘かに感じていたのでありましたから、均目さんとの会話を態々刺々しく愉快ならざる方向に進める謂れは全く無かったのでありますから。

   労働組合

 神保町二丁目の白山通りから一筋外れた細い道の、二階建てや三階建ての小さな建物が立て込んだ街区にある雑居ビルの三階にその貸し会議室はあるのでありました。頑治さんは均目さんと那間裕子女史の二人と連れ立ってそこへ向かうのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 176 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任と袁満さんは既に来ているのでありました。それに先日喫茶店で逢った横瀬氏と、その折横瀬氏が一緒に連れて来ると云っていた組合関係の男が二人、横瀬氏を挟むようにして大きな会議用テーブルの奥の一辺に並んで座っているのでありました。山尾主任と袁満さんが窓を左手に見る辺に座っていたので、遅く到着した三人はその向かいの窓を右に見る席に、那間裕子女史を真ん中に挟んで着席するのでありました
「惨憺たる支給額だったね」
 山尾主任が向かいの三人にがっかりしたような笑いを浮かべて云うのでありました。
「そうね。せめて賃金の一か月分くらいは出ると楽観していたけどね」
 那間裕子氏が受けて、頷きながらこちらも落胆の語調で応えるのでありました。
「まあゼロじゃなかったけどね」
 袁満さんもそう云いながら表情は冴えないのでありました。
「こうなったら春闘で暮れのボーナス分も取り返すしかない」
 山尾主任が決意表明するのでありましたが、そうは上手く事が運ぶかしらと頑治さんは不安を感じるのでありました。この暮れに金が無いのなら余程の事が無い限り年が明けて三か月で急に金回りが良くなるとは考えられないのでありました。
「さて、初お目見えの二人を紹介しておきます」
 横瀬氏がこの日の本題に入ろうとするのでありました。「こちらは出版部会の教育地図出版労組の派江貫統仁さんです」
 横瀬氏は自分の右手に座る仁を、掌を上にした手で指し示すのでありました。
「どうも。全総連傘下出版部会に属する教育地図出版の派江貫です」
 小柄で丸顔の茶色の大柄な千鳥格子模様のジャケットに身を包んだ、やけにレンズの分厚い黒縁眼鏡を掛けた、ぼちぼち頭髪の後退が目立ち始めた、横瀬氏より年嵩と思われる風貌の男が頭を下げた後、頑治さん達全員に律義に名刺を配るのでありました。
「それからこちらは小規模単組連合の木見尾太助さんです」
 横瀬氏は左隣りの仁を手で指し示すのでありました。
「小規模単組連合の木見尾です」
 こちらは痩せた中背の、無地の紺色ジャケット姿で、目鼻立ちがやけに地味で気の弱そうな、縮れた強い頭髪を頭の上にこんもり載せた、矢張り黒縁眼鏡を掛けている男でありましたが、こちらは特に名刺を配る事はしないのでありました。
「贈答社はギフト業と云う事ですけど出版みたいな事もやっているし、前身が地名総覧を出版していたと云う事なので出版部会から派江貫さんと、それから従業員二十人未満の小規模の会社の組合員が集まって、一つの単組として連合して活動をする組織が小規模単組連合で、一応そこに属して貰う事になるから木見尾さんにも来て貰ったのです」
 横瀬氏が二人を連れて来た理由を説明するのでありました。「序に付け加えておくと、派江貫さんは全総連の書記局員でもあります」
 そう云われて名刺に目を落とすと、確かに全総連書記局員と云う肩書きも記してあるのでありました。それ故に派江貫氏は組合支給の名刺を持っているのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 177 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、今云いましたようにこちらの組合は小規模単組連合の贈答社分会として活動していただく事になりますが、分会の第一回会議を始めるに当たり先ず議長と書記を選出して貰いたい訳ですが、何方か自分がやると云う立候補はありますか?」
 横瀬氏が左右に居並ぶ社員連中を見渡すのでありました。「特に立候補が無いようですから、ここは僭越かもしれませんが私の方から提案させていただきますが、山尾さんに議長を、那間さんに書記をお願いしたいと考えますが、如何でしょうか?」
 社員連中は無言で顔を見合わせるのでありました。雑談が俄かに会議の様相を帯び始めるのでありました。いきなりのそんな空気の変化にたじろいで、今の提案に賛成も反対もすぐには表明出来ないと云う戸惑いが皆の顔に浮き出るのでありましたか。
「まあ、年季とか歳の上下から、妥当かな」
 袁満さんが遠慮がちにそう呟くのでありました。
「そんな、急に書記をやれって云われても、・・・」
 那間裕子女史が及び腰を見せるのでありましたが、山尾主任は落ち着いているのでありました。屹度この会議が始まる前に横瀬氏から段取りを聞かされていて、既に自分が議長に就く事を承知していたのであろうと頑治さんは推察するのでありました。
「まあ、この会議の議事録の作成のためですから、仕事としては適時メモを取っていただければそれで良いのですよ。後で清書して貰う事にはなりますが」
「別に大それた事をお願いされている訳でもないから、気楽に引き受けてよ」
 山尾主任が無表情の嫌に平静な物腰で促すのでありました。そんな初段の手続き事を決める辺りで時間を浪費するのは無意味だから、さっさと首を縦に振れと云う一種の圧力と云うのか、逸り、みたいなものがその平静さの中に仄見えるのでありました。
「判ったわ。じゃああたしがこの会議の書記をやるわ」
 那間裕子女史は不承々々ながらも頷いて、膝上に置いていた白い麻布製のバッグから文庫本サイズのノートと銀色のシャープペンシルを取り出すのでありました。
「じゃあ、山尾さんが議長、那間さんが書記と云う事で決まりですね?」
 横瀬氏が確認のためにまた皆を見渡すのでありました。
「異議無し」
 と、これは派江貫氏が発した言葉でありました。組合の会議に於いては、こう云う場合は空かさずそう発語する事が仕来たりなのでありましょうし、それを会議初体験の贈答社の社員連中に暗黙に教えるためにも派江貫氏は声を出したのでありましょう。しかし初心な社員連中にしたら、それに続いて発声する事を尻込みして、戸惑い顔と落ち着かない素振りを見せるだけで口を開く事はとうとう出来ないでいるのでありました。
「特に反対意見は無いようですから、これは承認されたものと見做します」
 横瀬氏が断じるのでありました。「では山尾さん、後はよろしくお願いします」
「判りました。ええと、一応全会一致で今議長に選ばれた山尾登です」
 山尾主任は口調を改めて横瀬氏のように社員連中を見渡すのでありました。貴方が山尾登と云う名前の人である事は疾うに知っている、と頑治さんは思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 178 [あなたのとりこ 6 創作]

 会議と云うものはとかくこのような形式張った体裁を取るのでありましょうが、考えて見れば奇妙で一種ちゃんちゃら可笑しい律義さに溢れているものなのでありましょう。しかし形式と云うものを無性に有難がる人種も居るようで、山尾主任はどうやらそう云ったタイプの人なのかも知れないと、目の前で現在進行している営為とはさして関係の無い事を頑治さんは考えているのでありました。まあそれは人夫々の勝手でありますが。
 山尾主任は自分の後に那間裕子女史も同じように自己紹介するものと思ったようであありますが、女史は阿保臭いと思ったのかそれとも単に億劫だったのか、机の上に広げたメモ帳に目を落とした儘何も云おうとしないのでありました。然程に長時間ではなくほんの数秒程度ではありますが、待っていても一向に女史が顔を上げそうにないものだから、山尾主任は少し調子が狂ったのを咳払いで修正して話しを続けるのでありました。
「この会議では先ず、全総連小規模単組連合加盟の贈答社分会として労働組合分を結成する事に賛成か反対かの採択から始めようと思いますが、異議は有りませんか?」
 この舌を噛みそうな、全総連小規模単組連合加盟云々、と云う呼称を山尾主任はきっちり覚えてはいないようで、机に置いているカンニングペーパーを見ながら云って、異議は有りませんか、のところで徐に顔を起こすのでありました。
「そのために集まったんだから、今更そんな事、必要?」
 那間裕子女史が多少うんざりしたような表情で山尾主任を見るのでありました。
「会議なんだから面倒でも一つ々々の議案を、順を追って採択していく必要があるだろう。後でそんな事決めていないなんて紛糾するのを避けるためにも」
「ああそう」
 那間裕子女史は無感動に云ってメモ帳の方に目線を落とすのでありました。女史も頑治さん同様、この手の形式にげんなりしているようであります。
「異議はありませんか?」
 山尾主任はもう一度繰り返すのでありました。
「異議は無いわよ」
 那間裕子女史が先ず云うのでありました。それに続いて夫々が、異議無しの声を戸惑い気味に上げるのでありました。最後に頑治さんが小声で締め括るのでありました。
「異議無し、と認めます。では次に組合の目的と今後の闘争方針の裁決に移ります」
 山尾主任はまた机上のカンニングペーパーに目を落とすのでありました。どうやらこの議事進行は予め横瀬氏と打ち合わせしていたようで、日頃の山尾主任の口からは到底聞けないような俄仕込みの会議用語や組合用語が跳び出すのでありました。
「闘争方針、ねえ」
 均目さんが興醒め顔で山尾主任の言葉を繰り返すのでありました。「そんなの我々の中で今迄話し合った事も無いのに、ここで急に採択とか出来るのですかねえ」
 均目さんは山尾主任を見据えるのでありました。多分、打ち合わせしたようにポンポンと用語を繰り出して会議をリードしようとする山尾主任の、と云うよりは横瀬氏の魂胆を警戒して、それにおいそれとは乗らないために茶々を入れたようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 179 [あなたのとりこ 6 創作]

「しかしそう云ってもここは話しを進めるために、・・・」
 山尾主任は口籠もって困じたように横瀬氏の方を見るのでありました。
「まあ、形式、と云うだけです」
 横瀬氏が助け舟を出すのでありました。「初回の会議の手続きみたいなものです」
「形式的手続きなら、省いても構わないのじゃありませんか?」
「いやいや、幾ら形式的手続きだと云っても、手続きは手続きですから、人が集まって創る組織である以上省けません。そう云ったものをきちんと踏む事は必要です」
「阿吽の呼吸、と云うものがあるじゃないですか。だから省略出来るものは省略して本題を早く話し合う方が、会議を進行する上で効率も良いでしょうに。何十人とか何百人の会議と云うならまだしも、高々当事者五人の会議ですしねえ」
「抑々、会議は阿吽の呼吸で進めるものではありません。それに曖昧なところも有ってはいけません。全員が全員、貴方のように血の巡りの早い気の働く人じゃありませんから、堅実に、低い段差の階梯を一歩一歩、誰が遅れる事も無く進める方が良いのです」
 横瀬氏は少しの揶揄を添えて均目さんを窘めるのでありました。
「ああそうですか。まどろっこしいですね」
 均目さんは鼻を鳴らすのでありました。
「本筋じゃないところに拘って、進行を遮る方が余計話しをまどろっこしくさせているんじゃないのかい。自分の才気走った辺りを見せたいのかも知れないけど」
 これは横瀬氏ではなく、派江貫氏が割り込むように発した言葉でありましたが、派江貫氏の眼鏡の奥の目が均目さんを敵意に満ちた光で捉えているのでありました。「何となく見ていると、さっきから身を斜に構えたようにしてこの会議に臨んでいるけど、この会議そのものに云いたい事があるのなら、議事が始まる前に云って置くべきだろう」
 激した風ではないけれど、逆にそれ故になかなか迫力のある云い草と云えるでありましょうか。如何にもこのような会議で論争慣れしていると云った風情でありますか。
「まあまあ、派江貫さん」
 横瀬氏が派江貫氏の口調をやんわり抑えるのでありなした。

 横瀬氏は均目さんの方に目を戻すのでありました。
「闘争、と云う言葉が気に入らないのですかな?」
「枝葉ですが、それも、まあ、あります。如何にも大袈裟で、左翼っぽくて」
 均目さんは先程派江貫氏に咎められたのが少し利いているらしく、派江貫氏を見ないで横瀬氏の顔のみに目を釘付けるようにして頷くのでありました。
「では、活動、と云えばそんなに引っかからないで済みますか?」
「その方が左翼っぽくはないかな、ほんの少しは」
「どっちだって同じだよ」
 派江貫氏が舌打ちの後にドスの利いた声で割り込むのでありました。
「まあまあ派江貫さん、そんなにカリカリしないで」
(続)
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あなたのとりこ 180 [あなたのとりこ 6 創作]

「闘争、と云う言葉は別に左翼の専売特許と云う訳でも無いよ」
 頑治さんが唐突に云い出すのでありました。「ヒトラーの『我が闘争』と云う著作もあるんだし。ヒトラーは確か左翼じゃなかったと思うけど。いやまあ、俺は高校生の時にはあんまり世界史の勉強が好きじゃなかったから記憶違いかも知れないけどさ」
 その頑治さんのほんの少し冗談を交えたような云い草を聞いて、横瀬氏と隣の派江貫氏が頬の緊張を緩めるのでありました。頑治さんは均目さんにもムキになって反論されないように、言葉にとろみを付けようとしてそう云う口調で云ったのでありました。
「ここは一つ、言葉に拘るよりも会議を前に進めようよ」
 議長役の山尾主任が提案するのでありました。
「俺も別に会議の進行を邪魔しようと思っている訳ではないですよ。使われる言葉はその組織の性格に関わるから大事な問題だと思うけど、しかしまあ、ここは時間が勿体無いから話しを前に進めましょう。ええと、活動方針の採択ですよね?」
 均目さんは、使われる言葉はその組織の云々、とか云う何とも潔くない、自説のような申し訳のような事を口にしながら取り敢えず話しの本筋に復すのでありました。
「じゃあ、闘争方針だけど、・・・」
 山尾主任は結局均目さんの意は酌まずに、闘争方針と、あっさり云って会議を先に進めようとするのでありました。「この暮れの一時金の件に象徴されるように、贈答社の労使関係は経営側に労働者が全く一方的に従属すると云う形態で、我々は仕事に於いても待遇に於いても、発言権も異議を申し立てる権利も剥奪された状態で放置されてきました」
 山尾主任は俯いて机上の紙を見ながら云う、と云うのか、読むのでありました。これも予め横瀬氏と摺り合わせた文言なのでありましょう。
 頑治さんはボーナス支給の経緯を考えると、現に社員は異議を申し立てようとしていたし、その結果として労働組合と云う選択をしたのでありますから、異議を申し立てる権利そのものはあるのか無いのか、その前提自体はあやふやではなののではないのかと思うのでありました。例え申し立てた異議が撥ねつけられる結果だったとしても。寧ろ後日の労働組合結成と云う目的のために異議申し立てを控えたのは従業員の側でありますし。
 均目さんもその辺の山尾主任の述べる前提が少し気になったようでありましたが、先程派江貫氏に怒られた事が意外に身に染みている所為か、特に異論を差し挟む真似は控えているのでありました。これは均目さんの気後れ故か億劫故かは確とは判りませんが。
「労使の在り方としてそれは不健全であり、延いては会社の将来的発展をも阻害する要因でもある事から、働く者の正統な権利獲得と経営側に対する発言権確立は急務であると判断されます。一方に、単なる企業内組合としてでは健全な労使関係構築のために行使出来る闘争力も限界があるので、全総連の適切な指導の下に、一企業だけに止まらない全国規模全産業の労働者の連帯に加わって、その後ろ盾を武器に働く者の権利拡大のために闘争を展開していくものである、と云うところが贈答社労働組合の闘争方針ですが、・・・」
 山尾主任は一気にそこ迄云って、と云うか、詠み上げて、社員全員の顔をゆっくりと見渡すのでありました。「この闘争方針に異議がありますか?」
(続)
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