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お前の番だ! 211 [お前の番だ! 8 創作]

「そうだけど」
 あゆみは特段その棘には拘らない淡泊な云い方で返すのでありました。
「で、あゆみさんはその新木奈さんの誘いに、どう返事したのですか?」
「ま、その内に機会があれば、とか云っといたわ」
 これはやんわりした断りの言でありましょうか。それを聞いて、万太郎は何とはなしに安堵なんぞを覚えるのでありました。
「調布駅なら、道場からも近いじゃないですか?」
 万太郎はその秘かな安堵をあゆみに気取られないようにするため、なのかどうか自分でも良く判らないのでありましたが、折角のお誘いなんだから一緒に行けば良いのにとまるで勧めているかのような事を、内心とは裏腹に口にしているのでありました。
「そうだけど、でも、そんな時間もないし」
「ま、それもそうか」
 万太郎は二回頷いてコーヒーを一口飲むのでありました。
「それから、将来あたしが道場を継ぐのか、なんてそんな事も訊かれたわその時」
「ああそうですか。それであゆみさんは何と応えたのですか?」
 しかしどうして新木奈がそんな事を訊くのか、万太郎には不明でありました。
「未だ判らないって」
 万太郎はその頃は、当然あゆみが道場を継ぐものと自然に且つ勝手に考えていたから、新木奈と云う一般門下生に対して態々道場の将来に関する事項を明示する必要もないので、あゆみは曖昧の内に真意を濁した返答をしたものとしごく単純に考えるのでありました。一子相伝の道統を有する常勝流武道の跡目は、是路総士の一人娘たるあゆみが継ぐのは生一本に当然中の当然であるのは全く疑いの余地のない話しでありますから。
「それで新木奈さんは、そのあゆみさんの返答にどう返したのですか?」
 あゆみが、所与の事実として常勝流の跡目を継ぐべき自分の立場を、一種の配慮から曖昧にしたのであろう事に対して、察しの良い新木奈の事でありますから、それをすぐに推し量って、その件にはもうそれ以上踏みこまないようにしたのであろうと万太郎は推量するのでありました。そう云う言葉の顔色にも通じているところをあゆみにしっかり披露しておくことは、新木奈にとっても戦略上大いに利のあるところでもありましょうから。
「じゃあ、継がない場合もあるのですね、なんて逼られたわ」
 おやおや、新木奈ともあろう者が、そんな鈍感な態度に出たかと万太郎は意外に思うのでありました。しかし考えてみればあゆみが道場を継ぐか継がないかと云う問いは、新木奈にとっては結構重大な確認事項であったのかも知れません。
「で、あゆみさんはその後どう受け応えたのですか?」
「未だ全く白紙です、なんてあたしはどうしたものか何となくおどおどしながら応えたの。あたしとしてはあんまり気が進まないのだけれど、とかも云ったかな」
 あゆみはその時にしたであろう困惑顔を万太郎にもして見せるのでありました。万太郎はそのあゆみの表情を見ながら、ははあ成程と推量するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 212 [お前の番だ! 8 創作]

 新木奈としてはあゆみが道場の跡取りをする気であれば、殆ど自分の出る幕はないと思わざるを得なかったでありましょう。しかし若しもそうでないのなら未だ充分に、あゆみの将来の相手として自分が挙手出来る可能性は残されていると踏めるわけであります。
 新木奈がどういう風にあゆみにイカれて仕舞ったのかは、万太郎には確とは判らないのでありました。恐らくはあゆみの美貌に先ずは魅かれたのでありましょう。
 その上で、あゆみは諸事に渡って聡明であり、挙措は須らくしとやかで、それに学歴もなかなか立派な女子大を出ているし、また古武道の総帥の一人娘だと云う、どこか浮世離れした出自なんかも新木奈には大いに魅力的だったのでありましょう。自分は他人とは一味違うし、また大いに秀でているんだぞと云うところを周囲にアピールしたくて仕方のない新木奈としては、あゆみの心を自分が魅かれた以上に獲る事が出来たならば、その彼の見栄を充分に満足させ得ると思考したろうとは、何となく推測可能と云うものであります。
 あゆみが道場の跡取りをしないとなれば、あゆみにはいろいろな将来の選択肢があると云う事であります。依って、人に優れた自分を将来の相棒として選択する余地も、充分にあると云うものでありますから、あゆみが常勝流武道の跡目を継ぐつもりかそうでないかは、新木奈としたら先ず何よりも優先の確認事項であったと云う事でありましょうか。
 その稽古後の一時のあゆみとの会話で、そこが確認出来たと云うのは新木奈にとって取り敢えずの収穫だったでありましょう。新木奈の心に薄日が差したのであります。
 後は人に優れた自分の魅力で、あゆみの心を蕩かせば良いのであります。多少周辺の患難があろうとも、あゆみの心を獲ってさえいればそんなものは屁の河童であります。
 まあ自分の勝手極まる新木奈の心の内に対する想像ではありますが、あながちそんなに間違ってもいないであろうと万太郎は思うのでありました。しかしそれにしても、自分ごときにこんなに平明にその心の内への諒解を許す新木奈と云う男は、存外本人が信じているよりは余程隙の多い男なのかも知れないとも万太郎は思うのでありました。
「新木奈さんはこの書道展に三回もいらっしゃいましたよねえ。あゆみさんの作品にいたく感動したと云う触れこみで」
 万太郎はコーヒーカップを受け皿に戻して云うのでありました。
「そうね。まあ、有難い事だと思うわ」
 あゆみの方は万太郎とは逆にコーヒーカップを持ち上げるのでありました。
「それに興堂派の若先生も初日にいらっしゃいました」
「威治さんが来たのは意外だったけどね。威治さんも、昼食なんか奢って貰ったから云うわけじゃないけど、こちらもあたし有難いと思うけど」
 あゆみは物足りないくらい無難な受け応えをするのでありました。
「さてそこであゆみさんにお聞きするのですが、新木奈さんと興堂派の若先生と、どちらの方がより強く印象に残りましたか?」
「お二人とも、有難いって思ったわ。繰り返すけど」
 あゆみは無表情に曖昧な云い方をするのでありました。無表情ではあるものの、そのような質問をする万太郎の意図が今一つ読めないと云う困惑が見て取れるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 213 [お前の番だ! 8 創作]

「いや、印象に残ったのはどちらかとお訊きしているのですが」
「何、どうしてそんな事訊くの?」
 あゆみはコーヒーを一口飲んでカップを静かに皿に戻すのでありました。その手つきが万太郎の質問への警戒のためにか自然な動きと云う感じではなくて、静謐ではありながらも、少々構えたような動作に万太郎には見えるのでありました。
「いやまあ、お二方共あゆみさんの印象に必死に食い入ろうとしているような気配が、矢鱈と濃厚に見えるものですから」
「何それ?」
「率直に云いますと、お二方はあゆみさんに、少なからぬ好意を抱いていらっしゃるようにお見受けしたものですから」
「そうかしら?」
 あゆみはまたコーヒーカップを持ち上げるのでありましたが、万太郎の直截な言葉に少し動揺を覚えたのか、その時受け皿に置いてあるスプーンを少し騒がすのでありました。
「前から何となく僕はそう感じていましたよ」
「そんな事もないんじゃないの」
 恐らくしらばくれてそう云うものの、あゆみもその点は屹度既に感じていたろうと万太郎は思うのでありました。あの二人のあゆみに対する態度や物腰は、それをあゆみに判らせようとしている魂胆が寧ろありありと窺えるものでありますから。
「あれ、あゆみさんはそう感じませんか?」
「よくある親切以上には、特段感じた事もないけど」
 あゆみはしれっと、そう云うのでありました。これだから女は食えない、と万太郎は心の内で呆れるのでありましたが、しかし万太郎は女が食える存在かそうでないのか概括出来る程、女性と現実に親しく接した経験は今まであまりないのでありました。
「いやあ、道場でのあのお二人の他の人に対する態度と、あゆみさんに対する態度を比べて見ていれば、誰にだってそうと察しはつくと思います。僕にも判るくらいですから」
「へえ、そう?」
 あゆみはあくまで無関心を装って恍けるのでありました。
「ですから、当のあゆみさんはあのお二方のどちらに、より強い印象を持っておられるのかなと、僕としては考えるわけでして」
「そんな風に感じた事もないから、それにはどうとも応えられないわ」
「本当にあのお二方の、あの濃厚な秋波をお感じになった事がないのですか?」
「ないわよ」
 あゆみは少し不機嫌に云うのでありました。
「いやあ、そうですかねえ?」
 万太郎は片頬に笑いを作るのでありました。「あんなあからさまな態度に気づかない筈がないのですがねえ。それとも僕に云う必要がないから恍けておられるのですか?」
「ないってば」
(続)
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お前の番だ! 214 [お前の番だ! 8 創作]

 あゆみは苛々しているような口調で繰り返すのでありました。
「そんな筈はないんだけどなあ」
 万太郎は片頬の笑いを濃くするのでありました。
「おい、折野、折野万太郎」
 あゆみが急に語調を厳粛に改めるのでありました。
「押忍」
 万太郎はそのあゆみの語気に圧されて、しかも、折野、でもなく、万ちゃん、でもなく名前を初めてフルで呼ばれて、道場ではなく娑婆に在るにも関わらず、姉弟子の不興を買った様子に戦いて、畏まってそう返事をして仕舞うのでありました。
「ひょっとしてお前、そうやってあたしをからかって面白がっているんじゃないのか?」
「押忍、そんな事は決して」
 万太郎の片頬の笑いが台風の前の枯葉のように消し飛ぶのでありました。
「そんな話は、もう好い加減、そのくらいにしておけよ」
「押忍。申しわけありませんでした」
 万太郎は眉間に皺を寄せて、これ以上ない恐縮の態で深くお辞儀するのでありました。
「判ればよろしい」
 あゆみは少し語気を和らげるのでありました。「じゃあ、万ちゃんが素直に反省したところで、そろそろここを出て食事に行こうか?」
 あゆみの語勢はこの言葉を云い終る頃には前の穏やかさに戻っているのでありました。万太郎はそれでようやく眉間の皺を伸ばすのでありました。
「押忍。じゃなかった、はい」
「新宿にロールキャベツの美味しいお店があるの」
 あゆみがテーブルの脇に置いてある支払伝票を取りながら云うのでありました。
「あ、アカシアと云う店でしょう?」
「万ちゃんも知っているの?」
「ええ、学生時代に友達に連れて行かれた事があります。そこで食事をするのですか?」
「どお、そこで良い?」
 あゆみは万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「はい。何処なりともお供させていただきます」
「じゃあ決まりね」
 喫茶店の支払いは姉弟子たるあゆみがしてくれるのでありましたが、この分だと食事の方も支払いはあゆみが担当してくれそうであります。二人は喫茶店を出るともうすっかり暮れたお茶の水の街を、駅の改札に向かって並んで歩くのでありました。

 年が改まるとさすがの良平の顔も寂し気であるように見えるのでありました。この四年間の内弟子生活を三月で切り上げるに当たって、それは矢張り、何をしていても様々な苦楽の思い出が良平の頭の中に去来するのはしごく当然の事でありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 215 [お前の番だ! 8 創作]

「あと二か月とちょっとで、良さんは鳥枝建設の正社員ですねえ」
 寝る前の内弟子部屋で、敷き伸べた布団に胡坐で対座して、例によって良平が香乃子ちゃんの実家から貰ってきたと云うお土産の花林糖を摘みつつ、良平の入れたコーヒーを飲みながら万太郎は良平にそう声をかけるのでありました。万太郎は云う前に少し考えて、敢えて、ここを去るのですねえ、とは云わずに置くのでありました。
「そうだな。もうすぐだな」
 良平は無表情で無抑揚に返すのでありました。
「ぼちぼち会社の方にも、時々顔を出しておかなくても良いんですか?」
「鳥枝先生から、正式の入社までは道場の方に専念するようにと云われているからな」
「ああそうですか」
 万太郎はマグカップのインスタントコーヒーを一口飲むのでありました。口に入れていた花林糖の糖蜜がコーヒーの苦みに霧散するのでありました。
「来間は何時からここで寝泊まりする事になるんだい?」
 良平と入れ替わりに住みこみの内弟子となる来間は、大学の卒業試験の只中と云う事で、このところ道場には現れていないのでありました。
「良さんがここを出た後ですよ。つまり三月の二十五日以降です」
 良平が香乃子ちゃんの家に引っ越すのは、もうその日と決まっているのでありました。
「来間が来れば、万さんは手下が出来るようなものだな」
 万太郎は、前に大岸先生にもそんな風な事を云われた事を思い出すのでありました。
「いや、兄弟子にはなりますが、来間は僕の手下ではありませんよ」
「兄弟子と弟弟子は上司と部下みたいなものじゃないか」
「いや、微妙に違いますよ」
「ああそうかね」
 良平はそう云ってから口の中の花林糖を噛み砕くのでありました。
「ところで良さんと香乃子ちゃんとの結婚がこんなにすんなり纏まるとは、僕としては全く意外でしたねえ。向うのご両親が給料四万円しか貰っていない、将来もあやふやな常勝流の内弟子風情に、よく娘を嫁にやる気になったものだと思いますよ」
「偏に、鳥枝先生のお蔭だな、結婚も俺の正式就職の件も。鳥枝建設の前社長で現会長が直接話しを持っていって、俺の身元を保証してくれれば、向こうも断る理由はない」
「そりゃそうか。それなら向こうだって、良さんが将来有望な男だと勘違いしますか」
「勘違い、と云う云い方は少し引っかかるが、まあ、そう云う感じだな」
 良平は苦笑うのでありました。「鳥枝先生が全く好都合に出馬してくれたものだよ」
「鳥枝建設では良さんは何の仕事をするのですか?」
「そりゃ未だ判らんが、最初の一年は何でもやらされると云う話しだ」
「建設現場にも出されるんですかね?」
「それもあるだろうよ」
 コーヒーを飲む良平の喉仏が昇降する鉄槌のように大きく上下に動くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 216 [お前の番だ! 8 創作]

「で、落ち着いたら鳥枝先生の仲人で香乃子ちゃんと結婚と云う段取りですか?」
「そうだな。だからそっちは一年以上先になるだろうな」
「でもまあ、もう香乃子ちゃんと一緒の家に住んでいるわけですけどね」
「ところで万さんの方は良い話しがないのかい?」
 良平が花林糖を口に放りこみながら話しの矛先を変えるのでありました。
「いやあ、僕は今のところ無骨一辺倒ですね」
 万太郎はそう云ってからコーヒーを一口飲むのでありました。
「まあ、内弟子をしていると女の子と出会う機会も少ないしなあ」
「しかし良さんは出会いましたね」
「俺は仕方がないから、ごく身近なところで手を打ったと云うわけだ」
 良平は香乃子ちゃんが聞いたら怒り出しそうな事を口走るのでありました。勿論香乃子ちゃんの前ではそんな科白は一切口の外に出さないのでありましょうが。
「身近、と云っても、どだい女子が少ない世界ですから、限られて仕舞いますよねえ」
「身近、で考えると、・・・あゆみさんとかはどうだい?」
 急にあゆみの名前が出てきたものだから、万太郎はたじろぐのでありました。
「いや、いくら何でもそれは畏れ多いでしょう。あゆみさんは総士先生の娘さんですし、僕等の姉弟子に当たるわけだから、そりゃあ、矢張り、その、・・・いかんでしょう」
「そうだな。今でも全く頭が上がらないんだから、若し一緒になったりすると、一生尻に敷かれる人生を送る羽目になるかな」
 あゆみがカカア天下になるかどうかを、万太郎は少し考えるのでありました。
「一生尻に敷かれるかどうかは別にして、あゆみさんはモテますからねえ。とても僕等の出る幕はないですよ。第一、弟分の僕等の事なんか問題にもされていないでしょうし」
「あゆみさんはモテるのかい?」
「あれ、良さんは気づいていませんか?」
 万太郎は花林糖を一つ摘むのでありました。「興堂派の若先生なんかは、大分あゆみさんにイカれていらっしゃると見ましたが」
「ああ、そう云う気配はずっと前から濃厚に窺えたな」
「それに我が道場の一般門下生の新木奈さんとかも、あゆみさんに気に入られようと一生懸命に、あの手この手で媚びへつらっていらっしゃるじゃないですか」
「確かに、それも普段の素ぶりから何となく窺える」
 何となくどころか、如何にも明快に見て取れるではないかと、万太郎は良平の言に対して心の内で反論するのでありました。
「他にも、新木奈さん程露骨ではないにしろ、あゆみさんを少なからず好ましく思っている連中がうじゃうじゃいるんじゃないですかね?」
「そりゃまあ、あんだけの美人だからなあ、あゆみさんは」
「でも道場では立場も技量でも歯が立たないから、連中は大人しくしているんですよ」
 万太郎は花林糖をガリッと噛むのでありました。
(続)
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お前の番だ! 217 [お前の番だ! 8 創作]

「あゆみさんは、そう云う連中の事をどう思っているんだろう?」
 良平がコーヒーを飲んで喉の鉄槌をまた上下させるのでありました。
「さあそれは皆目判りませんけど」
「一番蓋然性の高い筈の興堂派の若先生は、あんまり好きではなさそうだがなあ」
「そうですね。それは普段のちょっとしたあゆみさんの素ぶりからも感じられます」
「あの若先生は性格もああだし、聞こえてくる噂も、周りの評判も芳しくないからなあ」
 確かに万太郎も興堂派道場の若手内弟子たる堂下善郎からも、専門稽古生の宇津利益雄からも、威治教士の品行に対する不評は頻繁に聞き及んでいるのでありました。と云う事は、興堂派の一般門下生の間での評判も推して知るべしと云うものであります。
「ところで、あゆみさんは総士先生の跡目を継ぐ事に躊躇いがあるみたいですよ」
 万太郎はあゆみ本人の事に話しを移すのでありました。
「あれ、そうなのかい?」
 良平は口の中の花林糖の咀嚼を不意に止めて万太郎を見るのでありました。
「前に一緒に興堂先生の処に出稽古に行った時、そんな事をおっしゃっていました」
「俺はその事は全く知らないなあ」
「随分前にも、僕はそんな風な事をご本人の口から聞いた事があると思います」
「へえ。と、なると、興堂派の若先生の蓋然性はぐっと下がるか。その代りに我が道場内の門下生達の仄かなる野望の実現性がグッと増すわけだな、これは」
 良平は咀嚼を再開するのでありました。
「しかしあゆみさんに意中の人がいるとしても、ウチの道場にいるとは限りませんよ」
「それはそうだ。この世界にどっぷり浸かっていると、こう云う処に屯する男共の感心出来ない面も、あれこれ多く見てきていると云うわけだろうからなあ」
「武道の世界以外の人と考える方が、あゆみさんが跡目を継ぐのを躊躇っているという事と、何となく関連しているようにも僕には思われるのですが」
「そうか。成程」
 良平が二度頷いて、その動きが関連するかどうかは定かならぬのでありましたが、花林糖を二度くぐもった音を響かせて噛むのでありました。
「誰か心当たりでもあるかい、万さんは?」
「いや、皆目」
「どだいあゆみさんは他の世界の人との交流のチャンスが、そうはないと思うけどなあ」
「書道関係とかは考えられます。それに例えば学校時代の友達とか同級生とか」
「いや、あゆみさんは女子大に行っていたんだから、同級生と云う線はないだろう」
「高校生の頃の同級生とか上級生とかはどうですかね?」
「ああ、それはあるかも知れないか。それに幼馴染みとか」
「あゆみさんは生まれてからずっとここで生活していたんですし、幼馴染みなら一緒の家に生活している僕等にも、その候補が何となく思い浮かぶでしょうに」
「それもそうだな」
(続)
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お前の番だ! 218 [お前の番だ! 8 創作]

「しかしところで、若しあゆみさんが常勝流の跡目を継がないとなると、この総本部道場は将来どうなるんだろうな?」
 良平が自分のマグカップにもう一杯インスタントコーヒーを作るのでありました。その後で万太郎にも二杯目を飲むかと無言に上目遣いで訊ねる仕草をするのでありましたが、万太郎は矢張り無言で首をふってその申し出を断るのでありました。
「あゆみさんは総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生が、そうなったら良しなに取り計らうだろうなんておっしゃっていましたけど」
「でも、常勝流は一子相伝だぜ」
 良平は持ち上げたカップに息を二三度吹きかけて、恐る恐る口をつけるのでありました。良平が息を吹きかける度に万太郎の方にコーヒーの湯気が漂ってくるのでありました。
「建前はそうですが、もしそう云う場合には何か方策があるでしょう。それに第一、常勝流の将来を僕ら年季三年ちょいの内弟子風情が心配してもどう仕様もありませんからね」
「まあ、そうには違いないけどな」
 良平はまた手にしたマグカップの上に揺蕩う湯気を吹くのでありました。その湯気の香りが再び万太郎の鼻腔に仄かに進入するのでありましたが、その香を嗅ぐと、万太郎も急に何故かコーヒーのお代わりがしたくなるのでありました。
 二月になると、一般門下生の間から良平の送別会をやろうと云う話しが出るのでありました。云い出しっぺは、もうその頃には黒帯を取得して、一般門下生のまとめ役のような存在になっている三方成雄でありました。
 新木奈は、今度は自分が音頭を取るような事はないのでありました。新木奈は、この頃は一般門下生の間ではあまり面倒見の良いタイプとは思われていないのでありましたし、誘いがあれば、自分の気が向けば参加するけれど、自ら率先して何かを企画すると云う気は全くなく、その役は偏に三方が担っていると云う風でありましたか。
 因みに専門稽古生は、はっきりとお達しがあるわけではないのでありましたが、道場が主催する行事以外では、稽古生同士で任意に群れ集ったり、少数で個別に昵懇になる事は意識して避ける風習があるのでありました。それはそうやって稽古者が狎れ睦むと、謹厳であるべき道場の稽古にも、その狎れが持ちこまれて仕舞うのを嫌う故でありましょう。
 今度の一般門下生の良平送別会にも、新木奈は当初あんまり気乗りしない様子であったようでありますが、珍しく今次はあゆみの参加もあると聞いた途端、それなら参加しようかなとあっさり云い出すのでありました。勿論、その日の予定がなくなって急に都合がついたからと慎に、それこそ都合の良い託けや、他ならぬ良平の送別会であるからとか恩着せがましい言を吐いて、あゆみの参加が理由ではない体裁を取ってではありますが。
 しかしそこの頃にはもう、一部の一般門下生の間では、新木奈が懸命にあゆみの歓心を買おうとしていると云うのは評判になっているのでありました。三方があゆみの参加を餌に、億劫がっていた新木奈にもう一度誘いをかけたのは、新木奈に対する三方の人の悪い秘かな揶揄とも考えられるのでありましたが、まあ、その辺の三方の真意は定かならぬものでありますし、元来三方の性格はそんな曲折を嫌うところがあるのでありましたが。
(続)
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お前の番だ! 219 [お前の番だ! 8 創作]

 数年前に万太郎と良平の黒帯取得のお祝い会を催した時と同じ、仙川駅近くの酒場での良平送別会における新木奈のはしゃぎようは、万太郎としては全く以って鼻白むものでありました。宴の最初の方こそあゆみと離れて座った新木奈でありましたが、あゆみの横に座る主賓の良平が参加した皆に愛想の酒を注ぐために席を立つと、抜け目なくその席に移動して、あゆみにあれこれと話題と笑顔を向けて売りこみにこれ務めるのでありました。
 あゆみも調子をあわせて新木奈の軽口に笑ったり、ビールを注いでやったりするのでありましたが、あゆみを挟んで新木奈とは反対側にいる万太郎は、この二人の会話に入りこむ余地が全く見出せないのでありました。それにこうして観察していると、意外にもあゆみも満更、新木奈のそう云う絡み具合を嫌がってはいないように見えるのでありました。
 何となく面白くない顔で、万太郎は以前の飲み会の時よりは寡黙に時間を過ごしているのでありましたが、この居酒屋に全く意外な珍客が姿を現すに到って、万太郎の顔が急に引き締まるのでありました。その珍客と云うのは鳥枝範士でありました。
 万太郎は出入口を入ったすぐの辺りでコートを脱ぐ鳥枝範士の姿を認めると、驚いた次の瞬間、すぐに反応してその傍へ飛んで行くのでありました。
「押忍。どうしたのですか鳥枝先生?」
 万太郎はコートを受け取りながら怪訝な顔をして訊くのでありました。
「おう、面能美の送別会に来たんだよ」
「ああそうですか。・・・」
「何だ、俺が来ると何か都合が悪い事でもあるのか?」
「いやとんでもありません。しかし態々こういう会にご足労されたのが意外でして」
「三方君にたってと招聘されてな。一般門下生で何時々々に送別会をやるから是非とも一時でもご出馬いただきたいとな。まあ、どうせ家からもタクシーを飛ばせば十分くらいだし、偶にはこういう会に出て門下生共と気楽に睦むのも良いかと思ってなあ」
 当人がそう云うつもりでも、普段から口煩く、道場では最も手荒い稽古で鳴らす鳥枝範士であってみれば、門下生の方が緊張して気楽には睦めないだろうと万太郎は思うのでありました。三方も一体どう云うつもりで鳥枝範士をこの席に呼んだのでありましょうか。
「押忍、ではこちらにどうぞ」
 娑婆であるにも関わらず鳥枝範士に対してはどうしても、押忍、の返事の言葉しか出ない万太郎は、固い立礼をしながら皆のいる席の方に手を差し伸べるのでありました。
 席では、参加した全員が起立して緊張の面持ちで鳥枝範士を迎えるのでありました。
「鳥枝先生、今日は無理を云って申しわけありません」
 三方が鳥枝範士に円卓の一番奥の席を勧めるのでありました。
「おう、他ならぬ面能美のためだと云うからな」
 鳥枝範士は席に腰を下ろしながら良平を睨むのでありました。
「押忍。有難うございます」
 良平がおどおどと一礼するのでありました。良平もまさか鳥枝範士がこの場に現れるとは、万太郎同様今の今まで思ってもいなかったでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 220 [お前の番だ! 8 創作]

 今日の主役である良平に気を遣って、鳥枝範士のお世話係は専ら万太郎が引き受けるのでありました。あゆみの席の横に鳥枝範士は座ったものでありますから、あゆみも鳥枝範士の相手を万太郎と一緒に買って出る事になるのでありました。
 こうなると、席を譲った形になった新木奈が好い面の皮と云うものでありますか。新木奈はなるべく鳥枝範士と離れた席に、つまりあゆみともグッと離れた席に移動して、無愛想面でビールのグラスを傾けているのでありましたが、さすがに鳥枝範士を前にしては、気分が乗らないからと自儘に姿を晦ますわけにもいかないでありましょう。
 鳥枝範士はこれでなかなか弁えた人で、如何にも愉快そうに口の悪い冗談を飛ばしながら、しかししっかりと門下生達に愛想をふり撒くのでありました。門下生達は普段の稽古では決して見られない鳥枝範士のご機嫌な顔に、最初は面食らいながらも、次第に寛いだ様子を見せ始めるのでありましたが、一人打ち解けないのが当然、新木奈でありました。
 折角のあゆみと親しく言葉を交わすチャンスを失ったのでありますから、新木奈の忸怩たる思いは万太郎にも、まあ、冷笑的にではあるものの、良く伝わるのでありました。そんな新木奈にお構いなしに、鳥枝範士の口の悪い冗談と大笑が場を覆うのでありました。
 しかし全く意外な事に、この良平の送別会が終わって間もなくしてでありますが、あゆみは新木奈を少し見直したと云った具合の評言を万太郎に聞かせるのでありました。それは道場の休みの日に母屋の掃除を手伝っている折でありましたか。
「あの時、そんなに長々と色んな話しをしたわけじゃないけど、思っていたより新木奈さんは自分の周りの人の事とか、良君の事なんかをちゃんと気にかけている人のようよ。あの時話した印象では、結構大人、って云う感じだったわね」
 万太郎はあゆみのこの評言に思わず目を丸くするのでありました。
「へえ、そうですか。・・・」
「新木奈さんは子供の頃から、殆どの事はそつなく熟すんだけどこれと云って特徴のない、まあ敢えて取り柄を挙げれば勉強はそこそこ出来る程度の、凡庸な少年だったんだって」
 つまり何時も通りの新木奈の言葉の操り方でその言葉の中の、これと云って特徴のない、或いは、凡庸な、と云うのが実は本柱を装った添柱で、殆どの事はそつなく熟す、或いは、勉強はそこそこ出来る、が主張したい本旨であろうと万太郎は口には出さないながら、そんな人の悪い鑑定をしながらあゆみの話しを聞いているのでありました。新木奈はよく会話の中で、そのような言辞の嫌にまわりくどい曲折表現を使用するのでありました。
「新木奈さんと子供の頃の話しをしていたんですか?」
「まあ、それもしたけど、つまり、新木奈さんは他人に自分の少しも弱みを見せたくない、エリート意識の強い人だとばかりあたし思っていたけどさ、そんな新木奈さんが自分の事を凡庸な、だとか、特徴のない子供、なんて云うのが、あたし結構意外だったのよ」
 だからそれは、新木奈得意の曲折表現の一種ですよと、万太郎は口の中だけであゆみに強調するのでありました。そう云う秘かで技巧的に迂遠な言辞を弄すると云うだけでも、彼の本質の一端が露呈していると云うものではありませんか。
「誇り高い自尊心の強い人間が、案外素直な面を見せたのが意外だと云うのですね?」
(続)
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お前の番だ! 221 [お前の番だ! 8 創作]

「まあ、そう云う事かな」
「で、その素直な新木奈さんがどう、自分の周りの人の事とか、良さんの事なんかをちゃんと気にかけているわけですか?」
「本当は一般門下生の中で自分が一番良君と親しくしていると思われるのに、三方さんに良君の送別会の云い出しっぺを任せて仕舞ったのが、三方さんにも良君にも、何となく申しわけないような気がずっとしているんだって」
「はあ、そうですか。へえ。・・・」
 万太郎はその、新木奈の云わんとするところがあんまりピンとこない、と云った風の、故意に鈍い反応で間の手を入れるのでありました。万太郎に云わせれば、そんな事をあゆみに後で悔やんで見せるくらいなら、さっさと自ら働けば良かっただけの話しであります。
「そう云うのを聞いて、あたし何となく急に、新木奈さんが判ったような気がしたの」
「どう判ったのですか?」
 万太郎は次第に苛々してくる自分の気分を抑えるのに苦労するのでありました。
「この人案外、人が良いのかも知れないってさ」
 これは危険な兆候ではなかろうかと万太郎はたじろぐのでありました。あゆみは新木奈のさしたる事もない詐術に、見事に嵌ったのではなかろうかと思えるのであります。
 まさか賢明なあゆみがこうも簡単に新木奈に唆されるとは、全く以って今の今まで考えだにしない事でありました。新木奈のそのような言は、若し額面通りに受け取るとしても、それ程グッとくるようなものではちっともないと思われるのでありますけれど。
 しかし何故かあゆみの心の中に張られた幾本かの弦の一本を、微妙に弾いたようであります。こればかりは万太郎の窺い知れないあゆみの心の様態でありますから、如何とも手の出しようがないものでありますが、しかし全く、危険な兆候、であります。・・・
 何が、それに誰に対して最も危険なのかと云う部分は、この時万太郎は思い到らないのでありました。万太郎は思わぬあゆみの言葉に思わず不安を感じたのでありましょう。
「他にどのような話しをされたのですか?」
 万太郎はあゆみに内心の無愛想が見えないように、頬を緩めて訊くのでありました。
「そうね、新木奈さんの学生時代の話しとか、仕事の話しとか、旅行の話しとか。まあ、鳥枝先生が来たから、どれもそんなに長い時間じゃないけどね」
「ざぞや優秀だった学生が優秀な成績で今の会社に就職して、優秀なる社員として業績をどんどん上げて、一般的には拘らない面に拘った、優秀な旅行をしたのでしょうかね?」
「優秀な旅行?」
 あゆみが万太郎を少し眉根を寄せて見るのでありましたが、万太郎の言葉に潜む一種あからさまな棘を警戒するような気配でありましたか。
「いやまあ、そんなのはないか。何となくリズムに乗って口から出た言葉ですよ」
「確かに、大学は機械工学科に進んで、新木奈さんにはその学科が自分の性分にはあっていたんだって。それで、かなりのめりこむように勉強はして、大学院に進もうと思っていたけど、色々あって、結局大学の指導教授の推薦で今の会社の研究所に入ったんだって」
(続)
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お前の番だ! 222 [お前の番だ! 8 創作]

「ああ、狛江だったかにある研究所ですね。それは僕も知っています」
「今はそこで、何とか云う大がかりな掘削装置の研究チームの主任さんなんだって」
「優秀な社員であるから、出世も順調にしていると云うわけですね?」
「万ちゃんさあ、・・・」
 あゆみが眉宇に少しの険しさを湛えるのでありました。「新木奈さんが嫌いなの?」
 そんなに直截に聴かれると、正直に嫌いだとあっさり云い難いと云うものであります。
「いや別に、そんな事はありませんが」
 万太郎は無表情に無抑揚に云うのでありました。
「何か万ちゃんの云い方には、嫌味があるように感じるわ」
「そうですかねえ。そんな心算は更々ないのですがねえ。僕の不徳の致すところです」
「ほらほら、そう云う云い方」
 あゆみは大袈裟に鼻に皺を寄せて見せるのでありました。「新木奈さんは、云う事が如何にも優等生ぽいけど、でもそれはつまり本当に優秀な人だからかも知れないわよ」
 そんな事があるものか、と万太郎は秘かに熱り立つのでありました。千歩譲って、若し新木奈が優等生であるとしても、少なくともそう云う辺りを露程も匂わさない人格の奥床しさと云う部分では、大いに欠けるところがあると云うものでありましょう。
 どだい実体が優秀ではないから、優秀そうな体裁に腐心していると見るのが正鵠を射ているように思えるのであります。新木奈にはそう云う卑しさ、或いは、いかがわしさがあるように万太郎には竟、見えて仕舞うのでありました。
「ところで、優秀でとっても良い人で、すごく魅力的な新木奈さんの事はさて置いて」
 あゆみは万太郎の気持ちを弄ぶような云い草で前置きをするのでありました。「鳥枝先生と寄敷先生とお父さん、それにひょっとしたら道分先生も交えて、内輪で良君の結婚のお祝い会を何処かちょっとした料理屋さんで近々催そうかって話しが、今出ているの」
「へえ。それにはあゆみさんや僕も出るんでしょうか?」
 新木奈から話頭が逸れたのに少しくほっとしながら万太郎は訊くのでありました。
「そう。それに香乃子ちゃんも呼んで」
「それは良いですね」
「鳥枝先生が全部取り仕切るから、あたしや万ちゃんは何もしなくて済みそうよ」
「それなら僕等はお客さん待遇、・・・と云うわけにはいかないでしょうが、まあ、余計な仕事は割り当てられない、と云う辺りが何とも有難いですかねえ」
「屹度鳥枝先生の事だから、すごく格式のある都心の料亭とかに席を設けそうよ」
「ああそうですか。それは今から楽しみだ」
 万太郎は嬉しがるのでありましたが、先程のあゆみとの言葉の遣り取りが何となく重く気持ちの底の方に沈殿して、時々小さな泡を億劫そうに放出しているようでありました。

   ***

(続)
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お前の番だ! 223 [お前の番だ! 8 創作]

 是路総士の腰部の手術に際して、参集者のために用意された病院の控え室で鳥枝範士とあゆみ、それに万太郎の三人は全くの無言で、夫々やや離れて椅子に腰を下ろしているのでありました。とは云うものの、この手術が是路総士の命に関わると云うものではないためか、三人の表情にはそれ程沈痛な翳りがあると云うわけではないのでありました。
「鳥枝先生、お茶を貰ってきましょうか?」
 待つ身の手持無沙汰から万太郎は起立して鳥枝範士にそう声をかけるのでありました。
「いや、もう要らん」
「あゆみさんはどうですか?」
「あたしもいいわ」
 あゆみは万太郎に笑いかけるのでありました。あゆみの笑いは気を遣う万太郎への愛想のために強いて笑ったと云った風の、やや硬さのあるもものでありました。
 二人に断られたので万太郎は仕様方なくまた椅子に腰かけるのでありましたが、暫くすると部屋のドアが遠慮がちにノックされるのでありました。ドアに一番近い万太郎が対応に立つのでありましたが、外には大岸先生の心配顔があるのでありました。
「ああ、大岸先生」
 万太郎はお辞儀してからドアを大きく開くのでありました。万太郎の声で、鳥枝範士とあゆみが椅子から立ち上がるのでありました。
「大岸先生、態々お越しいただいて済みません」
 あゆみが前で掌を揃えて丁寧な一礼をするのでありました。
「いやあ、大岸先生までお越しいただくとは、恐縮です」
 鳥枝範士があゆみ程深くはないものの、律義らしく頭を下げるのでありました。
「で、未だ手術中なのですか?」
 大岸先生が鳥枝先生に返しのお辞儀をしてから訊くのでありました。
「ええ、そうですなあ」
 鳥枝範士は一端言葉を切って腕時計に目を遣るのでありました。「もうかれこれ二時間を過ぎましたか。場合に依っては四時間程かかるかもしれないと執刀医が云っていましたから、未だ中盤、と云ったところかも知れませんなあ」
「四時間もかかると云うなら、それは大手術ですよねえ」
 大岸先生の眉間に縦皺が刻まれるのでありました。
「しかし、命に関わる手術と云うのではないそうですから、そこは安心していますよ」
「でも、あゆみちゃんも心配な事だわねえ」
 大岸先生があゆみの背に掌を添えるのでありました。
「お気遣い有難うございます。でもあたしは、手術の方もさる事ですけど、これから先暫くの道場の運営の方がより気になっています」
 あゆみはそう云ってから鳥枝範士を見るのでありました。
「ま、それはあるが、何とか我々で上手く回していかんとな」
 鳥枝範士は決然と一回頷くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 224 [お前の番だ! 8 創作]

「さて、もうぼちぼち四時間を過ぎるなあ」
 四人が沈黙している中で、鳥枝範士が急にそう声を上げるのでありました。他の三人は期せずして同時に自分の腕時計に目を落とすのでありました。
 夕刻の六時を過ぎて、窓の外はすっかり夕闇に包まれているのでありました。
「そろそろ終わるんじゃないかしらねえ」
 大岸先生がそう云うのは、俄かに兆した不安を自ら打ち消すためでありましょうか。その時、不意にドアの外に人の気配がするのでありました。
 万太郎が扉を開けると、良平の顔があるのでありました。そう云えば万太郎が良平と逢うのは一か月ぶりでありましょうか・
「何だお前か。てっきり手術が終わったので執刀医が説明に現れたのかと思ったぞ」
 良平が控え室内に入ると鳥枝範士が舌打ちするのでありました。
「済みません会長。会社が引けてから飛んで来たんです」
 良平は鳥枝範士に慌てて低頭するのでありましたが、良平は三年前に道場を去って鳥枝建設の正社員となって以来、鳥枝範士の事を会長と呼ぶのでありました。常日頃からそう呼ぶのが常態となったので、この頃はそれが如何にも自然な風でありましたか。
「未だ手術中なのか?」
 良平は万太郎の方に顔を向けるのでありました。
「ええ。少し長引いているようです」
「で、大丈夫なのか?」
「医者でもないお前がそんな事を心配せんでも良い」
 鳥枝範士が良平を叱るのでありました。
「済みません」
 良平は急いで鳥枝範士にお辞儀してから横目を万太郎に向けて、鼻梁に鳥枝範士には見えないように皺を作って、げんなり顔をして見せるのでありました。
「良君は今でも道場にいた頃と同じで、鳥枝先生には叱られてばかりのようね」
 あゆみが良平に声をかけるのでありました。
「他の社員より怒鳴り易いものだから、自分には余計当たりがきついのです」
「お前がなかなか仕事で成果を出さんからだ」
 鳥枝範士は一喝するのでありましたが、しかし漏れ聞くところに依ると良平は道場で四年間内弟子として鍛えられたためか、どんなきつい仕事も繰り言一つ云わずに淡々と熟すし、しかもそれなりに成果をちゃんと出しているようで、会社ではなかなかに好評価を得ているようであります。確かに鳥枝範士にしてみればまるで立つ瀬のない程に叱ってもへこまない良平は、ある意味で実に頼もしい鍛え甲斐のある社員と云う事でありましょうか。
 確かにこの病院の控え室に於いても良平が現れた途端に、今までの緊張した空気が急にグッと凪ぐのでありますから、その醸し出す緩やかな個性を会社にあっても鳥枝範士が大いに重宝に思っているようなのは、傍で見ても判ると云うものであります。まあ、道場で内弟子をしていた時も、良平はあんまり諸事にめげない男ではありましたか。
(続)
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お前の番だ! 225 [お前の番だ! 8 創作]

「どう良君、仕事の方は?」
 ひょっとしたら三年ぶりに良平の顔を見る大岸先生が声を向けるのでありました。
「はい。今みたいに会長に叱られながら、ぼちぼちやっていますよ」
「お習字の方はもうすっかり止めちゃったの?」
「ええ、何となく毎日忙しくしているんで、ずうっと沙汰止みです。済みません」
「奥さんは元気?」
「はい、お陰様で元気にしています」
「赤ちゃんは未だなの?」
「未だですね。こっちに関しては別に沙汰止みと云うわけではないのですが、なかなか」
「まあ。・・・」
 良平が何となく際どいようなそうでないような受け応えをするものだから、大岸先生は急にどぎまぎして次の質問が続けられなくなるのでありました。二人の遣り取りを見ながら、あゆみが口に手を添えて笑い出すのでありました。
「ここは病院の中なんだから、不謹慎な冗談は止めておけ、面能美」
 鳥枝範士が良平に叱声を向けるのでありました。しかしそのくせ口の端には笑いを浮かべているのでありましたから、これは迫力に欠ける叱責と云うものであります。
 良平が現れた後、また暫くしてから寄敷範士が控え室に顔を見せるのでありました。この日は道場の定休の月曜日でありましたから、寄敷範士も新宿の自分の会計事務所で仕事を終えてから、すぐにこの病院へ駆けつけたと云う事でありました。
 寄敷範士がやって来ると万太郎が入れ替わりに給湯室に行くのは、寄敷範士に出す茶を入れるためでありました。大岸先生には既に出していたから、万太郎は寄敷範士と良平の分を淹れて、それを給湯室にあったアルマイトの盆に載せて控え室に戻るのでありました。
「そんなに時間がかかっているとは、少し心配だなあ」
 万太郎が戻ると、寄敷範士が鳥枝範士と並んで座ってそんな事を云っているのでありました。万太郎は寄敷範士の前に茶碗を静かに置くのでありました。
「ま、執刀医は腰の権威と云われている整形外科医だから、同丈夫だとは思うが」
 鳥枝範士が応えるのでありました。
「鳥枝さんの懇意の人かい?」
「いや、ワシの懇意はこの病院の院長で、その線で大学の方から来てもらったんだ」
「ここは鳥枝さんの家からも近いねえ」
「そうね、ここは世田谷の大蔵だから車で来れば十分もかからんよ」
「道場からも車で二十分も見れば来られるか」
「鳥枝先生にこの病院をご紹介いただいて、案外近くて助かりました」
 二人の向い側に座っているあゆみが会話に加わるのでありました。「今日の手術の段取りにしても、態々道場が休みの日にとの先生の一声で無理に日程を調整していただきましたし、入院する時にも色々便宜を図っていただいたし」
「何の々々。門弟として当然の事」
(続)
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お前の番だ! 226 [お前の番だ! 8 創作]

 鳥枝範士が掌を横にふって見せるのでありました。
「入院はどのくらいになるのかい?」
 寄敷範士が茶を啜りながらあゆみに訊くのでありました。
「一月程度の予定だそうです」
「リハビリとかでそのくらいかかるのだろうな」
「そうです。ずうっと寝てばかりいるのではないそうです」
「しかし退院しても、すぐに稽古に復帰はお出来にならんだろうなあ」
 あゆみは寄敷範士の言葉にしかつめ顔で頷くのでありました。
「暫くの間は我々がフル稼働で、総士先生のご回復まで、何とか切り盛りせんといかんだろうが、まあ、何とかなるだろう。明日道場に行ったら少し調整してみるよ」
 鳥枝範士が横の寄敷範士に云うと、寄敷範士は二度程頷くのでありました。
「俺も出来る限り直轄の支部に出向くようにする。幸い事務所の方は今は息子がメインでやってくれているから、俺の方は結構自由に動けると思う」
 寄敷範士がそう云うと、今度は鳥枝範士が二度程頷くのでありました。
「ワシも閑職に回っておるから会社の方はどうにかなる。週に二日も顔を出せばそれで充分だな。社ではワシの仕事は会議の目付役くらいのものだ。なあ、面能美」
 鳥枝範士は不意に良平に話しをふるのでありました。
「いや、そうでもないでしょう。大事な出張とかもありますし」
 良平が応じながら背広の内ポケットから手帳を引っ張り出すのでありました。「早速水曜日からは鳥取の出張が入っています」
「ああそうだったな。しかしそれはワシじゃなければならんと云う出張ではないだろう。社長か専務に代わって貰えば済む」
「専務はその日は名古屋です」
「ああそうかい。社長は?」
「社長は、・・・」
 良平は手帳を二三頁捲るのでありました。「社長はその日は新宿の本社です。午前中の会議の後は、都内の下請け回りですね」
「だったら鳥取は社長に行かせろ」
「判りました。明日の朝一番で社長に打診してみます」
「打診、じゃなくて行くようにワシが命じたと云え」
「判りました。社長に行って貰います」
「鳥取はお前が同行する事になっていたのか?」
「そうです。自分の方で出張の委細は按配出来ますから、会長から社長に代わっていただいても大丈夫かと。自分としても、我儘放題な会長より社長との出張の方が気が楽です」
 良平は遠慮もなくそう云って、愛嬌のある笑いを頬に浮かべて鳥枝範士の顔を見るのでありました。この二人の遣り取りからも、良平が鳥枝建設でなかなかクールに手際良く、自分の仕事を熟しているのだろうと云う事が万太郎にも推察出来るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 227 [お前の番だ! 8 創作]

「良君は会社では、鳥枝先生の秘書のような仕事をしているの?」
 あゆみの横にいる大岸先生が良平に訊ねるのでありました。
「自分は今は秘書室と云う部署にいます。会長の専属と云うわけではありませんが」
「秘書室って、エリートコースとか出世コースなんて云われる部署じゃないの?」
「いやいや、良いようにこき使われる何でも屋の雑用係ですよ、我が社では」
 良平が手帳を内ポケットに戻しながら云うのでありました。
「正社員として社に入った頃は、色んな建設現場に出ていたんですよ、面能美は」
 鳥枝範士が大岸先生に笑いかけるのでありました。「これでなかなかこいつは現場での評判が良くて、大工やら左官やら鳶と云った職人連中にも大いに気に入られましていましてな。連中は生っちょろいのが来ると途端に嘗めてかかりますけど、どう手懐けたのか、本社の良さん、とか呼ばれて、棟梁なんかからも妙に可愛がられる始末でして」
「良君は内弟子の頃も、何につけても手際も要領も良いところがあったからねえ」
 大岸先生が良平の顔を真顔で見ながら頷くのでありました。
「いやいや、手際と要領だけでは連中の意を得る事は出来ません。そこはそれ、人知れず自分なりに大いに気苦労もしたわけですよ、実は」
 良平が、感慨深げな表情を作って云うのでありました。
「面能美の事だから、最初が肝心と云うので、手始めに大立ち回りでもして、常勝流の多人数取りの要領で連中をギャフンと云わせたか?」
 寄敷範士がからかい半分に云うのでありました。
「いやそんな事はしませんよ。ま、全くしない事もなかったですが。でも、喧嘩が強いだけじゃあ連中を心服させる事は出来ません。実際はもう、誠心誠意の一辺倒ですよ」
 良平が判るような、判らないような曖昧な言葉で回答をするのでありました。
「ふん、誠心誠意の一辺倒、ねえ」
 寄敷範士は端から信用していないような受け応えをするのでありました。
「ま、要領が良い、と云えば、それが一番当たっているだろうよ」
 鳥枝範士がこれも判るような、判らないような不明快な結論を出すのでありました。「兎に角、それでこいつは評価を上げたのは事実だなあ」
「で、秘書室に移ったんだ?」
 大岸先生が頼もしそうに良平を見るのでありました。
「いやいや、なかなか」
 良平は車のワイパーのように掌を横にふるのでありました。
「その後に総務部にも行かされましたし、営業部にも行きました」
「それで、ワシとしては全く意外でしたが、こいつは何処でも、超優等とはいかないまでも、そこそこ堅実にそこの仕事を熟しましてね、それで次第に社長の覚えも目出度くなって、秘書室に移して、取締役連中の使い走りを今、させているわけですな」
「じゃあ矢張り、出世コースじゃない」
 大岸先生は目を見開いて一つポンと拍手するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 228 [お前の番だ! 8 創作]

「いやいや、実態は本当に使い走りの雑用係ですよ」
 良平はまた掌を車のワイパーにするのでありましたが、しかし一応謙遜しているのでありましょうが、万太郎にはその仕草が一種の自信に裏打ちされた謙譲であると見えるのでありました。良平はこの三年で、社会人として大いに成長を遂げたようであります。
 それに比べて自分はどうかと万太郎は心の端で考えるのでありました。この間、教士、の称号は得たものの、貰う給金は三年前よりは一万円上がって、それでも月に五万円であるし、今もって内弟子として道場に寝泊まりする未だ半人前の身の上であります。
 そろそろ三十に手が届こうとしていると云うのにこの儘で自分の今は、それに将来は大丈夫なのかと、普段は考えもしない焦りのような感情が良平を見ていてふと、頭の中に兆すのを万太郎は止められないのでありました。自分の将来像、となると万太郎は皆目見当もつかないのでありましたが、しかしまあ、将来は将来なのだから今あれこれ心配してもどうにもならないかと、持ち前の呑気さでその不安を一先ず脇に退けるのでありました。

 控え室の外に複数の人の気配がするのでありました。万太郎が扉を開くと、手術前に挨拶を交わした執刀医が、看護婦を二人引き連れて部屋の中に入って来るのでありました。
「手術は無事に終わりました」
 執刀医は先ずテーブル奥に座っている鳥枝範士と寄敷範士に報告するのでありましたが、両範士は勿論、向かいに座っていた大岸先生もあゆみも一緒に立つのでありました。執刀医が手術着ではなく普通の白衣で現れたところを見ると、術後に身支度に時間を要したため、その分余計に、ここへ現れるのが遅れたものと万太郎は推察するのでありました。
「有難うございました。お世話様です」
 鳥枝範士がそう云いながらお辞儀するのでありました。ほんの少し遅れて、部屋にいた残りの五人も律義らしく医師に向かって一礼するのでありました。
「これで患者さんの脚の麻痺は、まあ、すっかりなくなる事はないのですが、かなり軽減する筈です。ご自身の意志で一定程度は動かせるようになると思いますよ。同時に腰の痛みも大幅に軽減する筈です。それに排尿障害の方も改善が見こまれます」
「一定程度、ですか?」
 寄敷範士が医師に不安気に訊ねるのでありました。
「杖で歩けるくらいには回復すると思います」
「踏ん張ったり、素早く動かしたりするのは?」
 これは鳥枝範士が同じく不安げに訊く言葉でありました。
「うーん、素早く、ねえ」
 医師はそう唸って顎下の無精髭を撫でるのでありました。「まあ、ご本人のこれからのリハビリ次第でと云うところでしょうかねえ」
「リハビリ次第で、間違いなく前のように動かせるようになりますかな?」
 鳥枝範士が質問を重ねるのでありました。
「間違いなく、と云われるとそこまで請けあうのは、今は何とも。・・・」
(続)
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お前の番だ! 229 [お前の番だ! 8 創作]

 医師は及び腰を見せて、目を逸らすために天井を見上げるのでありました。
「そこまでの保証は出来ないと?」
 鳥枝範士は医師を睨むのでありました。部屋の扉が開いて、ちょうどそこに鳥枝範士や寄敷範士と同じくらいの歳の、これも白衣の医師が中に入って来るのでありました。
「おう、院長」
 鳥枝範士はその医師に手を上げるのでありましたが、医師も同じ仕草でそれに応えるのでありました。万太郎にはこの二人は旧知の仲と云った風に見えるのであります。後で鳥枝範士に聞いたところに依れば、二人は高校時代の同級生だと云う事でありました。
「手術が無事に終わった事を報告して、今術後の話しをしているのですが、・・・」
 執刀医は院長と呼ばれた医師に助けを求めるような顔を向けるのでありました。
「ああ、あそこの恰幅の良い強面のオッサンに、ちゃんと元通りになるのかならないのかはっきりしろ、とか云って凄まれたかな?」
 院長は鳥枝範士の気性をすっかり承知しているようで、ニヤニヤと笑いながら鳥枝範士を指差すのでありました。
「ワシは別に凄んではおらんよ」
 鳥枝範士は腕組みして院長から目を逸らすのでありました。
「どんな名医でも手術が済んだばかりの段階で、その先の事は何とも明快には保障出来ないよ。術後の様子は人に依っても様々なんだから」
「それは判るが、こちらとしても手術が成功したのなら、その後に関しても医師から一定程度の安心を得たいと云うのも自然な心根だぞ」
「ま、態々大学から名医を呼んで、その医師にメスを執って貰って無事に手術は成功したんだから、今の段階では一先ず安心して貰わねばこちらとしても立つ瀬がない」
「聞けば患者さんは長年武道をやられていて、人より体力も気力も格段に優れていると云う話しですから、屹度回復も順調に推移すると思いますよ」
 執刀医が云い添えるのでありました。
「ふむ、成程ね。それなら取り敢えずは、そこの若い先生にお礼を申し上げる」
 鳥枝範士にそう云われて執刀医はようやく安堵の笑みを見せるのでありました。この遣り取りを傍で聞いていると、態々大学から出張して来て手術を担当してくれた医師に対して、慎に横柄且つ無礼な鳥枝範士の態度であると万太郎は思うのでありましたが、しかし執刀医に不快故の対抗的な言辞や態度を許さず、寧ろ最後には安堵の笑みすら漏らせしめる辺りは、鳥枝範士のある種の人徳であろうかと万太郎は妙な感心をするのでありました。
「患者さんは今夜は集中治療室で過ごして貰う事になりますが、患者さんが麻酔から覚めた時に身内の人が一人居て貰った方が何かと安心なんだが、・・・」
 院長は室内の六人を見渡すのでありましたが、その後には、この中の誰が残ってくれるのか、と云った質問の言葉が省略されているのでありましょう。
「あたしが残ります」
 あゆみが空かさず申し出るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 230 [お前の番だ! 8 創作]

「それでは僕も残ります」
 万太郎が後に続くのでありました。
「いや、残っていただくのはお一人で構わないのです」
 院長が万太郎を見るのでありました。これは万太郎の方はどうやら身内ではなさそうだと察しての言葉でありましょうか。
「用心のため、男の僕が一緒に居た方が無難かと思うのですが?」
「ああ成程ね。それなら構いませんが」
 夜遅くまで女であるあゆみが一人で残るのは如何にも心細かろうと気遣ってか、院長は万太郎が一緒に残るのをすぐに許可するのでありました。
「よし、それなら折野も一緒に残れ」
 鳥枝範士が頷くのでありました。
「承りました」
 万太郎は、ここは道場ではなく娑婆であるから、頭につける、押忍、を省略してそう返事してから鳥枝範士に一礼するのでありました。
 万太郎とあゆみを残して他の者が病院から引き上げた後、二人は集中治療室から程近い廊下の長椅子に腰を下ろして、是路総士が目覚めるのを待つのでありました。目が覚めたらすぐに呼びに来ると看護婦に云われているのでありました。
 その集中治療室には然程の慌ただしい様子は見られないのでありました。それはつまり是路総士の様態が安定していると云う証しでありましょう。
「ほれ、弁当とお茶を買ってきたぞ」
 二人の前に良平が立つのでありました。良平は二人のために近くのコンビニエンスストアで夕食の弁当を買ってきてくれたのでありました。
「良さんは一緒に食べないのですか?」
万太郎は弁当の一つをあゆみに手渡しながら訊ねるのでありました。
「ああ、俺は帰ってから家で食うから」
「それはそうね。帰ったら奥さんの手料理が待っているものね」
 そう云うあゆみの横に良平が腰を下ろすのでありました。
「総士先生は入院当日、どんなだったんですか?」
 良平は割り箸を割るあゆみに訊くのでありました。
「前の日までは別に何ともなかったのよ。普通に夜の一般門下生稽古を終えて普通に食事して、何時も通りにお酒をちょっと飲んでそれから寝所に引き上げたの」
「風呂で背中を流している時、今日はちょっと腰が張っている、とか云うような事はおっしゃっていたと後で来間が云っていました。しかしそう云う科白は前にも時々伺っていたので、特段心配はしなかったと云う事でした。後で揉みましょうかと云ったら、断られたらしいです。確かに僕が見たご様子も、特にその夜変わったところはありませんでした」
 万太郎が後を続けるのでありました。
「何の兆候らしきもなかったのに、次の日の朝、異変があったと云うわけか?」
(続)
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お前の番だ! 231 [お前の番だ! 8 創作]

 良平はあゆみを間に挟んで、やや前屈みになって万太郎に訊くのでありました。
「そうですね。何時もは六時半には居間にお出でになるのに、姿がないので僕が寝所に呼びに行ったのです。そうしたら布団から半身出した儘で動けなくなっていらしたのです」
 万太郎がそう云うと良平は思わずと云ったように顔を顰めるのでありました。
「で、急いで鳥枝先生に電話して、それから全く起き上がれないものだから救急車を呼んで、鳥枝先生が指定したこの病院に、あたしがつき添って搬送して貰ったのよ」
 万太郎の後に続いて、これは真ん中に座るあゆみが云う言葉でありました。ここまで聞いてから、良平は万太郎とあゆみの分の弁当と一緒に買ってきたのであろう、自分の缶コーヒーのプルリングを引き開けるのでありました。
「総士先生は痛くて動けなかったのですか?」
 良平は缶コーヒーを一口飲んでからあゆみに訊くのでありました。
「腰に痛みもあったようだけど、要するに運動神経の麻痺で動けなかったみたい」
 良平が眉間に皺を寄せて何度か頷くのでありました。
「で、結局何という病名なのですか?」
「腰椎変性による脊髄圧迫からくる、・・・何とかかんとか」
「何やら小難しい病名ですね」
「要するに腰の骨の五番目と四番目が変形していて、中を通る脊髄とか、末梢神経が圧迫されてそれで脚が麻痺して動かなくなったって事らしいの」
「聞いているだけで重病って感じですねえ」
 良平が戦くように肩を竦めるのでありました。
「でも手術で骨を整形して、ボルトで固定すれば神経圧迫は多分なくなるんだって」
「ボルトで固定、ですか。まるで大工仕事みたいですね」
「それに近いって、ここの院長先生が説明の時に冗談でおっしゃっていたわ」
「それに、重症は重症だけど、それが即命に関わる、みたいな病気ではないそうです」
 万太郎が食し終えた弁当を片づけながら話しに加わるのでありました。
「その辺は安心したけど、しかし何だなあ、総士先生がそんな大病を患っておられるようには、全く見えなかったけどなあ、今まで」
 良平が缶コーヒーを飲み干すのでありました。
「腰椎の変性については、直接の原因は随分古い傷が原因だろうって、院長先生はおっしゃっていたわ。もう何十年も前の」
 あゆみも弁当を食べ終えて、貰った缶入りの茶を一口飲んでから云うのでありました。
「鳥枝先生に依ると、戦争中に総士先生は中国に行かれていたけど、その折、詳しい話は聞けなかったけど、腰に銃弾を受けて大怪我をされた事があるそうです」
 万太郎はあゆみから弁当の空の容器を受け取って、それを自分の物とあわせてコンビニのポリ袋に仕舞いながら云うのでありました。
「ほう、俺は今までその話しは知らなかったなあ」
「何でも、誰かを咄嗟に庇おうとしてご自分が撃たれたと云うお話しでした」
(続)
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お前の番だ! 232 [お前の番だ! 8 創作]

「で、内地に搬送されて軍の病院で治療を受けて、動けるようになった頃に終戦を迎えたのだそうです。僕も今回の事で鳥枝先生に伺うまでは知りませんでしたよ」
「総士先生はそんな話しは、今まで一切俺達にはされなかったなあ」
「あたしも、中国で負傷して内地で療養している内に戦争が終わった、とか云う話し程度は聞いていたけど、どんな負傷だったのかとかは詳しくは聞いた事がないわ。屹度武道家たる者が銃弾に当たって倒れた、なんて不名誉だと思って誰にも云わなかったのよ」
 あゆみは云い終ってから茶を一気に飲み干すのでありました。万太郎も茶をすぐに飲み干したのでありましたが、それは今食したコンビニの弁当の味が少し濃かったためで、矢張りあゆみもその故に同じように喉が渇いたのでありましょう。
「戦争中も戦後も、どさくさに紛れて完全な治療がお出来にならなかったのかなあ」
「そう云うところもあるでしょうね」
 万太郎はあゆみから空になった茶の缶を受け取りながら云うのでありました。「で、鳥枝先生はその時の傷が一番の元だと思われているようです」
「その後は特に体の異変はなかったのかねえ?」
「そうみたいよ。別に脚が動かないとか云う事は、お父さんから聞いた事がないもの」
 あゆみが長椅子の背に凭れかかりながら云うのでありました。
「ご本人もすっかり良くなったと思われていたのでしょうね」
 万太郎もあゆみに倣って背凭れに背中を預けるのでありました。
「で、急に動けなくなったと?」
 良平もまた背凭れに身を納めるのでありました。
「でも、何年も前から兆候はあったみたいよ、聞いてみると。それを誤魔化し、誤魔化しして今日に到ったって事らしいの。家で朝起きようとして足が痺れてよろめくとか、汚い話しだけどオシッコがなかなか出なかったりとか、出てもごく少量だったりとか」
「僕等に心配させまいとして、黙っていらしたようです。そう云われてみれば総士先生は道場にお入りになる時に、時々敷居に躓かれたりしていらしたでしょう。あれは屹度そのサインの一つだったような気が、今にして思えば、しますよね」
「ああ、そう云えばそうだな」
 良平が得心気に頷くのでありました。
「最近はそんな事も殆どなくて、僕なんか呑気にすっかり忘れていましたけど」
「でも本当は、長い年月をかけて、症状は秘かに深刻になっていたと云うわけか」
「道場での稽古のご様子からは、全く解りませんでした」
「そうだな、変わらずキレの良い動きをされていたし、組んだ時も如何にも安定しておられたし、準乱稽古でも俺達のつけ入る隙は全く見えなかったしなあ」
「それも今思うと、かなりご自分の体に無理をさせていらしたんじゃないでしょうかね」
「ま、そう云う事だろうなあ」
 良平は頷いてから、ふと気づいたように上体を起こすのでありました。「ああ、じゃあ、俺はこれで失礼するよ。俺は院長先生に居残りの許可は貰っていないからな」
(続)
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お前の番だ! 233 [お前の番だ! 8 創作]

 良平が長椅子から立ち上がったので、万太郎もあゆみも一緒に立つのでありました。
「良さん、今日はお疲れのところをご苦労様でした」
「良君、来てくれて有難う」
 あゆみが良平に些か丁寧なお辞儀するのでありました。
「いや、とんでもありません。今後の道場の事については、鳥枝先生の指示もありますが、何か手助けする事があるだろうし、そうなれば俺も出来る限りの事はしますよ」
「よろしくお願いします」
 あゆみはその良平の言に対してより丁寧にもう一度頭を下げるのでありました。
「いやいや、そんな水臭い」
 良平は慌てて両手を横にふって、あゆみの一礼にたじろぎの態を示すのでありました。
「じゃあ良さん、奥さんによろしく云ってください」
 万太郎もあゆみと同程度に低頭して見せるのでありました。帰りに捨てていくからと、良平は万太郎とあゆみの食べ終えた弁当容器の入ったビニール袋と茶の空き缶を引き取って、途中で一度ふり返って挙手して見せてから廊下を歩み去って行くのでありました。

 集中治療室の扉が開くのが見えるのでありました。出てきた看護婦がこちらに趨歩して来るのは、屹度是路総士が眼覚めたのを知らせるためでありましょう。
 集中治療室の中は様々な医療機器がベッドを取り囲んでいて、迂闊には近寄り難く、その様を見るだけで万太郎は云い知れぬ緊張感に居竦むのでありました。あゆみが看護婦に促されてベッドに近づくのでありましたが、万太郎は出入口で控えるのでありました。
「お父さん、大丈夫?」
 ベッド傍で、やや上体を屈めてあゆみが是路総士に話しかけるのでありました。是路総士からは声の応答は何もないのでありましたが、体全体を覆うようにかけられた白い布が動いて、やや身じろぎするような様子が万太郎にも見えるのでありました。
「意識が戻っても、未だぼんやりされていますから」
 横に立っている看護婦があゆみに説明するのでありました。それに数度頷いてからあゆみは万太郎に手招きを送るのでありました。
 万太郎が近づくと看護婦が身を避けてくれるのでありました。
「総士先生、如何ですか?」
 ベッド傍に行ってようやく万太郎は気づいたのでありますが、是路総士は俯せにベッドに寝かされているのでありました。背には手術直後の傷を守るためケージが据えてあるようで、上にかけてある布がその形なりに盛り上がっているのでありました。
 万太郎が遠慮がちに云うと、是路総士は無表情な顔を少し横に曲げて虚ろな目で万太郎を見るのでありました。瞳が茫洋としているように万太郎には見えるのでありました。
「ああ、・・・お前も居たのか」
 是路総士のその言葉は呂律が怪しくて、万太郎は僅かに遅れてようやくそう云ったのだと判るのでありました。万太郎は虚ろな瞳に向かって頷いて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 234 [お前の番だ! 8 創作]

「痛みますか?」
 万太郎の後ろから看護婦が是路総士に声をかけるのでありました。是路総士は額を枕につけた儘で首を弱々しく横にふるのでありました。
「随分落ち着いていらっしゃいいますよ」
 看護婦は、今度はあゆみに告げるのでありました。「麻酔から覚めて、状況が上手く呑みこめずに意識が錯乱される方もいらっしゃいますけど、そんな様子は全くないですね」
「意識が錯乱すると、どうなるのですか?」
 万太郎が看護婦の方に首を曲げて訊くのでありました。
「興奮して意味不明な事を叫んだり、誰彼構わず繰り言や罵詈雑言を吐き散らしたり。そのために一応、身内の方に目覚めるまで居ていただいたわけです」
「しかしそんな事をすると、手術直後なんだから傷が痛むでしょうに?」
「痛さを感じないくらい意識が錯乱しています」
「そんな場合はどうするのですか?」
「勿論安定剤を投与します。まあ、このように随分安定されている方も、結局は痛みの緩和剤と安定剤で朝までぐっすり眠っていただきますけどね」
 看護婦はそう笑いながら云ってから点滴のチューブ途中にある調整器に、注射器で何やらの薬液を注入するのでありました。ま、その緩和剤と安定剤とやらでありましょう。
「明日の朝目覚めた時に、意識錯乱が起こる事はないのですか?」
 あゆみが不安そうな顔で訊くのでありました。
「そう云う場合もあります。でも、この患者さんは大丈夫でしょう。今まで見た中で一番しっかりされているように見えますから」
 是路総士には長年常勝流の稽古で鍛えた胆力があるから、それは間違いなく大丈夫に違いないと万太郎は生一本に確信するのでありました。
「一応、あたし達、朝まで居る必要はありますか?」
 あゆみが訊くと看護婦はやや口を綻ばせるのでありました。
「その必要はないでしょう。何か、本当にこの患者さんはしっかりされていますし」
「俯せで顔も見えないのに、しっかりしていると判るのですか?」
 今度は万太郎が訊くのでありました。
「何て云うのか、経験から、寝ていらっしゃる気配にすごい安心感があります。相当精神がお強い方なのでしょうね。お坊さんとかでも、こんな安定感を感じた事ありませんよ」
 この看護婦の言は病院と云う場所柄と手術直後と云う状況に、果たして鈍感ではないのかどうか、無神経ではないのかどうか、万太郎は心の隅の方で少し考えるのでありました。
「それなら、あたし達はこれで引き上げても構わないのでしょうか?」
 あゆみが訊くのでありましたが、あゆみのその言葉つきは特段、看護婦の先の言葉に居心地の悪さを感じているのではないような風でありましたか。
「ええ、お家の方にお引き取りいただいて結構です。執刀医も朝までここに残りますし、何かあったらすぐに電話しますからご懸念には及びませんよ」
(続)
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お前の番だ! 235 [お前の番だ! 8 創作]

 万太郎とあゆみが集中治療室を出ようとする時、是路総士の様子を見に来たのであろう先程控え室に来た院長が顔を見せるのでありました。
「院長先生、どうも有難うございました」
 あゆみが両手を前に揃えて丁寧なお辞儀をするのでありました。万太郎もその後ろから一拍遅れて頭を下げるのでありました。
「お帰りですかな?」
 院長は是路総士の様子を覗いてから、あゆみの方を見て云うのでありました。
「ええ。帰っても大丈夫だと云う事なので」
「そうですね。患者さんも落ち着いていらっしゃるようだから。後はこちらにお任せ下さい。今は麻酔から覚めたばかりですから虚ろなお顔をされていますが、明日になれば意識もはっきりとして、普段通りのご様子に戻られていますよ」
「どうぞよろしくお願いします。明日、また参ります」
「そうだ、鳥枝さんに何時かまた一緒に飲もうとお伝えください」
 院長は笑いながらそんな伝言を頼むのでありました。
「判りました。伝えます」
 あゆみはもう一度お辞儀するのでありました。出際に万太郎も部屋の中の院長に挨拶の一礼をして、それからドアを静かに閉めるのでありました。
 病院からバスで成城学園前駅の南口まで行き、それから駅の階段を上り下りして北口に出て、またバスを乗り換えて仙川まで戻った頃には夜の十時を回っているのでありました。バスの乗り換えが上手くいけば、病院から家までは三十分を見れば充分のようであります。
 家では留守番をしていた来間があゆみと万太郎を迎えるのでありました。
「どうでしたか、手術は?」
 来間は食堂で電動コーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れて、それを万太郎とあゆみに出しながら訊くのでありました。来間は学生時代から無類のコーヒー好きの男だったようで、このコーヒーメーカーは内弟子に入る時に彼が持ってきたもので、内弟子部屋に置いていても使わないだろうからと、あゆみの許しを得て台所に提供したのでありました。
「手術は無事に終わったわ。後は完全看護だからあたしたちは帰ってきたの」
 あゆみはコーヒーカップを持ち上げて、揺蕩う湯気の香りを先ず堪能してそれからカップに唇をつけるのでありました。あゆみも実は結構なコーヒー好きのようであります。
「ああそうだ」
 あゆみが急に思い立ったようにカップを受け皿に置くのでありました。「鳥枝先生や寄敷先生や、今日病院まで来ていただいた方にお礼の電話をしなくちゃ」
 あゆみは居間に行って受話器を取り上げるのでありました。鳥枝範士と寄敷範士には懇ろな物腰で、大岸先生には少しくだけた様子で、それから良平にはそれよりもっとくだけた感じではあるものの、丁重に足労に対する謝意を申し述べているのでありました。
「明日からの稽古はどうなるのですかねえ?」
 食堂に残っている万太郎に向かって来間がそう訊くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 236 [お前の番だ! 8 創作]

「鳥枝先生が色々調整されると云う事だ」
「明日の午前稽古の中心指導は折野先生が担当ですよねえ?」
 万太郎は教士となっているので、来間は万太郎の事を尊称をつけて呼ぶのでありました。何となくそう云う呼称が自分にはそぐわないような気がして、万太郎は最初は面映ゆいような気分になるのでありましたが、この頃はまあ、慣れて仕舞うのでありましたけれど。
「そうだな。その後の専門稽古が鳥枝先生だ。夜は八王子に出張指導に行く。あゆみさんも夜は確か小金井の出張指導だな」
「折野先生の助手は誰を連れて行くのですか?」
「片倉の筈だが、ひょっとしたら片倉は道場に残って、一人で行く事になるかも知れんなあ。まあ、明日の鳥枝先生の調整次第だが」
 片倉と云うのは専門稽古生でありました。四年程前から、専門稽古生で自ら望む者は、準内弟子として積極的に道場の殆どの稽古に参加させると云う方針が打ち出されてから、道場には若い者が交代で常時二三人つめているようになったのでありました。
 流石に仕事を持っている門下生は時間的に都合がつけられないので、その殆どは大学生でありましたか。しかし中に一人、傍らに語学学校の臨時講師として夜に仕事をしながら、常勝流を本格的に学びたいと云うアメリカ人が異色の顔として在るのでありました。
「明日は、朝は誰が来るんだ?」
「ジョージと山田です」
 このジョージと云うのがそのアメリカ人でありますが、ジョージ・コーエンと云う名前で歳は既に三十を超えているのでありますが、長身でスマートで映画俳優のような端正な顔立ちをしていて、一般門下生の女性会員からかなりの人気を得ている男でありました。山田と云うのは片倉と同じく大学生で、大柄でジョージとは逆に慎に厳つい顔をして、しかしながら心根の方は大いに優しく、細かいところまで気の回る好漢でありまして、風貌に関しては鳥枝範士の若い頃とそっくりだと前に寄敷範士が評していた男であります。
「ジョージは、夜は仕事があるだろうから、あゆみさんの小金井の出張稽古は山田が助手としてついて行く事になるのか?」
「そうですね。あの厳つい顔は、あゆみ先生のボディーガードとして最適です」
「あゆみさんにボディーガードは必要ないだろうよ」
「それもそうか。あゆみ先生の方が山田より遥かに強いですからね」
「まあ、取りあわせの妙、と云うのはある。美女と醜男と云う」
 万太郎が小声でそんな冗談を云っていると、電話を終えたあゆみが食堂に戻って来るのでありました。別にあゆみを貶したり揶揄したりするような冗談ではないのでありますが、万太郎はあゆみと目があうと何となくどぎまぎとするのでありました。
 次の日の朝、万太郎の指示で来間とジョージと山田に掃除をさせていると、早々に鳥枝範士が道場に姿を現すのでありました。丁度玄関引き戸の硝子拭きをしていた万太郎は、慌てて雑巾をバケツの縁にかけてからお辞儀するのでありました。
「押忍。お早うございます」
(続)
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お前の番だ! 237 [お前の番だ! 8 創作]

「おう、ご苦労」
 鳥枝範士は稽古着の入っているバッグを万太郎に渡しながら玄関を上がると、その儘師範控えの間の方に向かうのでありました。万太郎はバッグを持ってつき従い、鳥枝範士が座敷に落ち着くとバッグを鳥枝範士の傍らに静かに置くのでありました。
「お茶を入れてきます」
「もうそろそろ寄敷さんも来るから、茶はそれからで構わん」
 鳥枝範士はそう云うと持ってきたバッグの中から早速、厚紙で出来た書類ホルダーを取り出すのでありました。稽古の予定表やら人員の配置表、それに道場関連の行事等の総本部道場運営に関する諸書類が一式挟んであるものであります。
「押忍。承りました」
 万太郎は鳥枝範士にお辞儀して引き下がるのでありました。これから両範士であれこれ協議して、是路総士が抜けた後の稽古予定等の調整をするのでありましょう。
「鳥枝先生がいらっしゃいました」
 万太郎は急ぎ台所の方に行って、台所と隔てる襖、それに廊下側の障子戸をすっかり開け放った状態で、居間の掃除をしているあゆみに報告するのでありました。
「ああそう。それじゃお茶をお出ししなくっちゃ」
「いや、すぐに寄敷先生もいらっしゃるので、お茶はお二人揃ってからで良いそうです」
「ああそう。それじゃあ一応、挨拶に顔を出しておくわ」
 あゆみがそそくさと師範控えの間の方に去ると、万太郎は母屋の庭掃除をしているジョージに声をかけるのでありました。
「おいジョージ、鳥枝先生がいらしたから挨拶に行って来い」
「押忍。承りました」
 ジョージは外国人特有の癖が殆どない全く以って流暢な日本語で、内弟子のお決まりの返事をするのでありました。彼は日本にやって来て既に四年以上経っているし、聞くところに依るとアメリカの大学では日本神話や日本史の勉強をしていたと云うだけあって、日常的な会話は勿論、日本語の小難しい云い回しにもある程度は通じているようでありましたし、漢字やひらがなカタカナの読み書きも一定程度は大丈夫なのでありました。
 万太郎は次に道場に行って、中の掃除や整頓をしている来間と山田に師範控えの間にいる鳥枝範士への挨拶を促すのでありました。その後、玄関に回って寄敷範士の来訪を待ちつつ、引き戸の硝子拭きをまた再開するのでありました。
「よう、ご苦労さん」
 門を入ってきた寄敷範士が万太郎に手を上げて見せるのでありました。
「押忍。お早うございます」
「鳥枝さんは?」
「押忍。もう控えの間の方にいらっしゃいます」
 万太郎は、これも鳥枝範士の場合と同じように寄敷範士の稽古着の入ったバッグを受け取って、師範控えの間までつき従うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 238 [お前の番だ! 8 創作]

「寄敷先生がいらっしゃいました」
 万太郎は台所にいるあゆみに報告するのでありました。
「ああそう。じゃあ、お茶をお出ししなくちゃね」
「僕が持っていきましょうか?」
「ううん、昨日のお礼もあるからあたしがお出しするわ」
 あゆみはそう云って二人分の茶を用意するのでありました。万太郎は受付兼内弟子控え室に行ってそこに揃っていた来間とジョージと山田に、寄敷範士に挨拶した後で、師範控えの間の前以外の廊下の拭き掃除を命じてから食堂に戻るのでありました。
「後で呼ばれたら、あたしと万ちゃんは控えの間に来るようにって」
 あゆみが万太郎に茶を淹れてくれながら云うのでありました。
「押忍、いただきます」
 万太郎はあゆみの対面側の椅子に座って茶碗を取り上げるのでありました。「僕はこれから出稽古が増えるのでしょうかね?」
「どうかしらね」
「総士先生の代わりが務まるのは両先生しかいらっしゃいませんから、両先生は総本部に常駐されて、お二方が出稽古にいらしていた支部や同好会への出張指導を僕が受け持つのが、一番無難な調整ではないかと思うのですがねえ」
「そうね。そうなるとあたしの方も出稽古が増えるかも知れないわね」
 あゆみは茶を一口、控えめな音を立てて啜るのでありました。
「しかし鳥枝先生や寄敷先生が今まで担当されていた支部に、僕のような軽輩が助手ではなく指導者として出向いても、向こうの門下生の心服はなかなか得られませんよねえ」
「そうでもないんじゃない。万ちゃんは結構色んなところで評判が良いわよ」
「いやそれは気軽に声をかけられる存在と云うだけで、向こうの人の敬服を得ているわけじゃありませんからね。そんな僕を俄に指導者として迎えてくれるかどうか」
「それはあたしも同じよ」
「いやいや、あゆみさんは筆頭教士ですから大丈夫でしょう」
 万太郎は今までずっと手に持っていた茶碗の熱さに竟に耐えかねて、それをテーブルの上にそっと置いて、冷ますために掌を大袈裟に摺りあわせるのでありました。
「でも実際問題として、武道の指導者が女だと云うのは矢張りハンデだと思うわ」
「しかしそのハンデを、ぎゅうと封じこむ力量があゆみさんにはあるじゃないですか」
「あら、そうでもないわよ。この頃では万ちゃんに体術では叶わないし」
「いや、よく云いますよ。僕なんかは未だ指先であっさりコロリと転がされる口です」
 万太郎はそう云って、テーブルの茶碗を取るのでありました。少しは冷めたようで、先程のような熱さは指先に伝わってこないのでありました。

 呼ばれたので師範控えの間に向かうと、座卓を挟んで鳥枝範士と寄敷範士が頭をつきあわせて、前に置いた紙に目を落としているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 239 [お前の番だ! 8 創作]

「お茶のお代わりをお持ちしました」
 あゆみはそう云って、手にしていた盆から新たに淹れた茶を両範士の前に置くのでありました。あゆみが茶を置く前に万太郎が前の茶を両範士の傍から下げるのでありました。
「色々寄敷さんと話した結果だが」
 鳥枝範士がそう前置きした後、新たな茶を一口啜るのでありました。「総士先生が本格的にご復帰になるまで、二か月か三か月か、或いはもう少しの期間かかるかも知れんが、その間、この総本部の稽古はあゆみと折野に主導して貰う事とした」
「二人で総本部の稽古の総てを取り仕切れ」
 寄敷範士がその後に続けるのでありました。
「ええと、どう云う事でしょうか?」
 あゆみはその指示が上手く呑みこめないので、交互に両範士の顔を窺うのでありました。万太郎の方もあゆみと同じに困惑顔をするのでありました。
「ワシ等二人は、どちらかがいる時は総士先生の代わりに一応見所に座るが、稽古内容にあれこれ口出しはせん。二人の了見で総本部の稽古を総覧せよ」
「ああ、そうですか。・・・」
 あゆみは未だ上手く納得出来ないような顔で返事するのでありました。
「いやな、丁度良い機会だから、お前達二人がこれから先の総本部の稽古に対する責任を、全面的に負えと云っているわけだよ。稽古ばかりではなくて、各支部への通達や出稽古、全門下生の管理とか、道場の運営面でも二人が主導してやっていけと云う事だ」
 寄敷範士が少し具体的なところを云うのでありました。
「勿論、判らないところはアドバイスするが、指示はなるべく出さないようにする。要するに総士先生がやられていた仕事、それにワシや寄敷さんがやっていた道場運営に関する全体的なところも、これを機会にお前達にすっかり任せると云う事だな」
 鳥枝範士が手にした湯呑の上に泥む湯気を一吹きするのでありました。吹かれた湯気があゆみと万太郎の方にジワリと漂ってくるのでありました。
「それは金銭の出納とかもでしょうか?」
 あゆみが身を乗り出しながら訊くと、殆ど消えかけてはいるものの、中空の湯気が少し鳥枝範士の方に後退するのでありました。
「勿論そうだ」
 鳥枝範士がそう云う時にはもう、湯気は跡形もなく消えているのでありました。「お前達は既に大体は、ワシ等がやっていた仕事がどんな按配のものかは掌握しているだろう?」
「それはそうですけど、具体的な辺りは全く判りません」
 あゆみが眉間の気後れの色を濃くするのでありました。
「まあ、そんなに小難しい事はない。帳簿にしても日々の出納をちゃんと記録すれば済む。後は寄敷さんの事務所で今まで通り会計処理するから」
「帳簿のつけ方とかは追々私が教えるよ」
 寄敷範士が頼もし気に笑いかけるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 240 [お前の番だ! 8 創作]

「別に今回の事を潮に、ワシ等が楽を決めこもうと云う魂胆ではない」
 鳥枝範士があゆみと万太郎をジロリと見るのでありました。「考えてみればワシや寄敷さんも総士先生と同じくらいの歳回りだから、この先思いもしない事態が出来するやも知れぬと考えてな、今の内から若い者へ仕事を委譲しておいた方がよかろうと云うわけだ」
「ま、歳を重ねると色々な弱気が段々頭をもたげてくるものだ」
 寄敷範士が自嘲的な笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「両先生共に、未だ充分にお若いじゃありませんか」
 あゆみが寄敷範士の言に首を何度か横にふるのでありました。
「若い心算でも、何かあってからでは色々まごつく事になる」
「僕達が担当している、支部への定期的な出張指導はどうするのですか?」
 万太郎が口を挟むのでありました。
「総本部の稽古を二人に総覧して貰うわけだから、あゆみと折野が今まで行っていた出張指導に関しては、鳥枝さんと私で代わる事としたよ」
 寄敷範士が鳥枝範士の顔をちらと見ながら云うのでありました。
「幸い今は若いヤツ等が数人総本部に屯しているから、そう云う奴等に助手として働いて貰えば、出張指導の方も今まで通りで障りはないだろうよ」
「それは、支部の門下生も僕が行くよりは両先生の指導を仰げる方が返って好都合と云うものでしょうし、準内弟子の若い連中も、僕なんかについて出張に行くよりは、両先生に助手としてついて行く方が色々勉強にはなるでしょうが」
「鳥枝先生も寄敷先生も、お二方共別に仕事を持っていらっしゃるのに、各曜日夫々の時間の、それに方々に散らばっている支部への出張がお出来になるのですか?」
 あゆみが首を傾げて訊くのでありました。
「なあに、ワシは会長職だから社には週に二日も顔を出せばそれで済む。寄敷さんも今は主にご子息が事務所を切り盛りしているようだから、こちらもさして問題がないだろう」
「依って、二人に新しい役職名を授与する事にしたよ。あゆみは総本部道場長、それから折野は道場長代理とする。筆頭教士、教士の号はその儘だが」
 寄敷範士が腕組みした腕を座卓について、少し身を乗り出すくのでありました。
「筆頭教士の号、それから教士号は総士先生の専権任命事項だからその儘だ。総士先生が入院されて今日で六日だが、その間バタバタしていたが、今後はこう云う体制で総本部道場を運営して行く事とする。まあ、今日にでも総士先生の裁可をいただきに病院まで行くつもりだが、既に一任をしていただいているからこの線で纏まるだろうよ」
 寄敷範士とは逆に鳥枝範士が上体を反らして云うのでありました。
「出張指導は今日からそう云う事になるのでしょうか?」
 あゆみが鳥枝範士の顎を見ながら訊くのでありました。
「そうだ。今日の出張指導先は、・・・」
 鳥枝範士が前に置いた紙を見るのでありました。
「夜に僕が八王子で、あゆみさんが小金井に行く予定になっています」
(続)
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