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あなたのとりこ 721 [あなたのとりこ 25 創作]

 この儘故郷での一時の延長として一緒に東京に帰る事が出来るのならと思うのでありましたが、それは叶わないことでありました。夕美さんのお母さんの体の具合があんまり思わしくなくて、ひょっとしたら近々病院に入院する事になるかも知れないと云う事であれば、夕美さんはこちらを気軽に離れる訳にはいかないのでありました。
 頑治さんが夕美さんとの暫しの、惜別の情に後ろ髪を引かれるような心持ちで久々の帰郷を切上げて東京に戻るその日に、夕美さんは駅まで見送りに来るのでありました。
「それじゃあ、また近い内に」
 夏の斜陽が駅の待合室の窓から差し込むのを目の上で翳した掌で遮りながら、少し沈んだ声で夕美さんが云うのでありました。
「ああ、また。向こうに帰ったらすぐに電話をするよ」
「何だか未だずうっと頑ちゃんと一緒に居たいんだけど、・・・」
「そうだな。でもまあ、今回は仕方がないかな」
 頑治さんは夕美さんの手を周りの目を憚って少し遠慮がちに握るのでありました。
「お母さんの具合次第で、今後どういう風になるのか判らないし」
「変な風に取らないで貰いたいけど、この儘長く逢えなくなる訳じゃないと思うよ」
「うん、あたしもそう長く待たない内に逢えるような気がする」
 夕美さんがこちらも遠慮がちに頑治さんの手を強く握り返すのでありました。
「俺には決して、夕美のお母さんの身の上に然程遠くなく何か良くない事が起こって、それで俺達が長く会えなくなる訳じゃない、なんて不謹慎な予感がある訳ではないよ」
「それは判っているわ」
 夕美さんは真顔で一つ頷くのでありました。「例えばお母さんの体の調子が、入院を境に急に良くなる事だってあるからとか、そう云う事でしょう?」
「そうそう。そうなったら夕美が東京に出て来る事も出来るだろうし」
「そうなると、良いわねえ」
 夕美さんのこの云い様は、何となくか細く弱々しい物腰でありましたか。
「ちょっと早いけど、そろそろ改札を入った方が良いかな」
 頑治さんは自分の腕時計を見ながら云うのでありました。
「そうね。その方が無難かしら」
 夕美さんも頑治さんの腕時計を覗き込むのでありました。「あたし入場券を買っているから、ホームまで一緒に行くわ」
 改札を抜けてから、列車が到着するのを待つ間、二人はホームにあるベンチに並んで腰を下ろすのでありました。ここの方が西日を真正面から受けるのでありました。
 ホームには頑治さんと同じ列車に乗るのであろう人達が数人、或いはベンチに腰掛けたり、或いは立って列車の来る方向をぼんやり眺めていたりしているのでありました。
「あたしそこの売店で何か買ってくるわ」
 夕美さんが立ち上がるのでありました。「飲み物は何が好い?」
「コーヒーかな。ブラックの」
(続)
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あなたのとりこ 722 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんが売店に歩いて行く後ろ姿を見ながら、頑治さんはどうしたものか急にもの寂しくなるのでありました。またもやここで夕美さんの傍を離れるのは、自分の本意に明らかに反しているのではないでありましょうか。
 しかし夕美さんのお母さんの病状が優れないし、近々病院に入院する可能性もあると云う現実は、頑治さんの本意なんぞと云うものは簡単にさて置くべき重たい事態に違いないのであります。それでも尚、夕美さんの傍を離れるのが辛いと云うのなら、頑治さんが東京に戻るのを先送りして、もう少しこちらに残るしかないでありましょう。
 とは云うものの、これ以上の滞在は頑治さんの懐具合が許さないのでありました。それに宿代わりに居候させて貰っている友達にも、この上尚も厄介はかけられなと云うものであります。何ともはや実に情けない事情でありますけれど。
「何をそんな不機嫌そうな顔して遠くを眺めているの?」
 自動販売機で缶コーヒーを買って来た夕美さんが、それをやんわり手渡しながら首を傾げて頑治さんに訊くのでありました。
「何だかこれでまた暫く夕美と逢えなくなると思ったら、急に寂しくなったんだよ」
 頑治さんがそう応えると、夕美さんは缶コーヒーを受け取った頑治さんの右手を自分の右手で包むように握るのでありました。
「いっその事、こっちに戻ってくれば良いのよ」
 夕美さんは少し力を籠めて頑治さんの手を握るのでありました。「向うでの生活を切上げてこっちに生活の拠点を移せば、あたし達は逢いたい時に何時でも逢えるじゃない」
「まあ、そうだけど。・・・」
 頑治さんはそう云ってまた遠くに視線を馳せるのでありました。
 その儘黙って仕舞った頑治さんの手が何だか少し冷えたように感じたのか、夕美さんは頑治さんの手を包んでいた自分の手をそっと離すのでありました。
「東京で遣りたい事があるから、向うに未練があるるのね、頑ちゃんは」
「確かに会社を辞めたこの機が良いチャンスではあるけど、でも俺としては向うの生活をきっぱり切上げてこっちに戻って来るには、少し速すぎるような気がするんだよ」
 そう云いながらも頑治さんは一体何が早すぎるのか、自分でも茫漠としているのでありました。確かに自分は向うの生活にどう云う未練を持っていると云うのでありましょう。単に向うを切上げてこちらに戻って来ると云う事が、何やら隠遁者になるような気がして仕舞うからでありましょうか。そう云うのは何とも好い気な勘違い以上ではないでありましょうし、了見違いも甚だしいと云うのも頭の中では了解している事であります。
 単に現状に変更を加えるだけの勇気がなくて、現状にめそめそと縋り付いているだけかも知れません。度し難い現状維持派であります。
「ああご免ね、頑ちゃんには頑ちゃんの考えがあるのよね。それなのにあたしがそれをどうこう云うのは、鈍感と云うものだし筋違いよね」
 夕美さんが気を遣って、そう云って頑治さんに笑んで見せるのでありました。その笑みを見ていると頑治さんは夕美さんに対する済まなさで消えも入りそうでありました。
(続)
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あなたのとりこ 723 [あなたのとりこ 25 創作]

 何となく気まずくなった雰囲気を切り裂くように、もうすぐ列車がホームに入ると云うアナウンスが頭上で響くのでありました。それから程なく列車の走行音が近付いて来るのでありました。頑治さんは徐に立ち上がるのでありました。
「じゃあ、これで」
 頑治さんは少し遅れて立ち上がった夕美さんの手を握るのでありました。
「うん、それじゃあ、・・・」
 夕美さんは応える言葉を見失ったように語尾を濁して口を噤むのでありました。
 到着した列車のドアが開くのでありました。数人の乗客が頑治さんを残して先に列車に乗り込むのでありました。
 頑治さんは夕美さんの手を、少し力を籠めて握り直してから列車に乗り込むのでありました。夕美さんが名残惜しそうに、頑治さんの離れようとする手に縋って自分の手を前に伸ばすのでありました。しかし当然、二人の手は離れるのでありました。
「また東京に行けるようになったら連絡するわ」
 ドアが閉まる間際に夕美さんが云うのでありました。返事をする少し前のタイミングで頑治さんの目の前でドアが閉まるのでありました。頑治さんは言葉の代わりに首を縦に三度程動かして、今の夕美さんの別れの言葉に応えるのでありました。
 発車のベルの後で、列車は頑治さんの思いを振り切るようにホームを滑り出すのでありました。呆気なく夕美さんの姿がドアの窓から後方へ消え去るのでありました。頑治さんの手の中に、夕美さんの寂しそうな顔の名残のように、先程夕美さんが買って手渡してくれた、既に冷感の失せた缶コーヒーが握られているのでありました。

 東京に戻った頑治さんは、この帰路が夕美さんと一緒でなかった落胆と、故郷で過ごした夕美さんとの思いでの余韻から、何となく塞ぎこんで、アパートの部屋の中に引き籠っているのでありました。本棚の上のネコのぬいぐるみが、そんな自堕落を決め込んでいる頑治さんを咎めるように見下ろしているのでありました。
 数日経って少しは体を動かす意欲が出てきた頑治さんは、気晴らしに近所にある喫茶店に出向いたり、無縁坂を通って上野迄歩いてみたり、三省堂書店や東京度書店、それに神保町の古本屋とかに足を向けるのでありました。その折に贈答社の前を通る事もあるのでありましたが、日比課長や甲斐計子女史、それに土師尾常務には出会わないのでありました。社長の車も駐車場に見当たらないのでありました。駐車場の奥の倉庫の鉄の扉も閉まった儘で、中で人が働いているような様子もないような風でありましたか。
 会社は件の四人が辞めた後も恙無く日々の業務を続けているのでありましょうか。まあそんな事は、今となっては頑治さんには関係のない事ではありますが。
 袁満さんや那間裕子女史はもう別の仕事を見付けたのでありましょうか。均目さんは恐らく片久那制作部長の下で働いているのでありましょうが、こちらも特に問題もなく新しい仕事に励んであるのでありましょうか。未だ辞めてから一月も経っていないのでありますから、そんなにすぐに色々、夫々に大きな変化はないのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 724 [あなたのとりこ 25 創作]

 この界隈での恒例で、頑治さんは神保町の東京堂書店と三省堂書店に立ち寄るのでありました。三省堂書店の店内でブラブラと書架にある本を手に取ったりしながら三階から四階迄来る途中、頑治さんはすれ違う下りのエスカレーターに、前に上野公園で目撃した刃葉香里男さんの姿をまたもや見付けるのでありました。
 頑治さんは目が合う事に何とはなしに気まずいものを感じて、それとなく目を逸らすのでありましたが、刃葉さんの方はすぐ横を行違った頑治さんには気付かないようでありました。まあ、以前から広角の視界を有する人ではなかったのでありましたが、刃葉さんは前に据えた半眼の目を微動たりともさせずに、頑治さんの流し目に無表情な横顔を見せてゆっくり下って行くのでありました。通り過ぎてから振り返った頑治さんの目に、刃葉さんの、若いくせに少しばかり髪が薄くなった旋毛の辺りが見えるのでありました。
 会社を辞めてすぐに上野公園で目撃した時から少し時間が経っているところからして、刃葉さんは何かの用事で、一時的に東京に戻って来たのではないのだろうと頑治さんは推察するのでありました。そうなると刃葉さんは北海道の空手の師匠の元を、何らかの理由で引き払って居所を東京に移したと云う事になるでありましょうか。
 何らかの事情でそうしたのであろうとしても、もう頑治さんにとっては無関係の事であります。刃葉さんの向後の動向に対しても、然程の関心ももう無いのであります。まあ、どう云う経緯で北海道の空手の師匠の元を去る事にしたのか、そこら辺りに関しては多少の興味も無くはないのでありますけれど、それに関しても別に敢えて知りたい事ではないのであります。刃葉さんとはもう疾うに、接点は何もないのでありますから。
 その日の夜遅くに珍しく、と云うべきか、久しぶりに袁満さんから近況報告の電話がかかってくるのでありました。
「暫く居なかったようだけど、どうしていたのかな?」
 袁満さんは少し心配そうな声で訊くのでありました。
「と云う事は、前に電話をくれたんですかね?」
「うん、会社を辞めてちょっとしてからね」
「暫く故郷に帰っていたんですよ」
「ああ成程。会社を辞めて時間が出来たから、と云う事かな?」
 袁満さんは頑治さんの動向が知れたので、少しの危惧を払ったようでありました。
「まあ、随分帰っていなかったし、久しぶりに、と云う事です」
 頑治さんは少し快活に応答して見せるのでありました。
「ふうん。で、新しい勤め先はもう見付けたのかい?」
「いやあ、帰郷とか色々あったんで、未だ失業者の儘ですよ」
「ああ、そうなんだ」
「袁満さんの方はどうなんですか?」
「俺も未だ失業中だよ。職安で就職に有利だからって職業学校を紹介されたから、三か月程そこに通ってみようかなって思っているよ」
「へえ、なんの学校ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 725 [あなたのとりこ 25 創作]

「スポーツトレーナーとか医療補助とかの学校だよ」
「具体的にはどう云う事を学ぶんですか?」
 スポーツトレーナーと云うのは何となくどう云う事を学ぶのか想像出来るのでありましたが、医療補助と云うのが漠然としていて、一体何を習得出来るのか、今一つ曖昧でよくつかめなかったので頑治さんはそう聞くのでありました。
「まあ、三か月だから大した事は学べないだろうけどね」
 袁満さんはこう応えるのみで具体的な内容は云わないのでありました。実は袁満さんも未だそれ程よく理解してはいないのかも知れません。しかし学校に通う事に然程の期待を抱いていないようであるのは理解出来るのでありました。まあ、職安が紹介してくれるのでありますから、そんなに怪し気な事を教える学校ではないでありましょうけれど。
「学費とかはどうなるんですか?」
「職安の紹介だから少しは安くなるらしいけどね。まあ、貯金で何とかなるだろう。暫くの就職猶予期間と云う事で、学生身分に託けて、少しのんびり骨休めと云う寸法だよ」
「三か月したら病院とかスポーツ施設で働けるんですか?」
「どうなんだろう。実は卒業後の事に関しては俺も未だ良くは知らないんだよ」
「ふうん、そうですか」
「まあその学校に通うのは、一応就職活動をちゃんとしていると云う職安への弁解のようなものだから、俺としてもそんなに乗り気だと云う訳じゃないしね」
 今の時点であれこれこの話しをこれ以上進めるのは無意味のようでありましたから、頑治さんはここいら辺で話題を変える事にするのでありました。
「甲斐さんとは上手くいっているんですか?」
「あああ、甲斐さんね。まあ、ぼちぼちと」
 こう質問されて、電話の向こうの袁満さんの顔がニヤけるのが判るのでありました。と云う事は、取り敢えず順調なのでありましょう。
「結婚とか、そう云う話しは未だ出ないんですか?」
「まさか、そんなのは全然ないよ。時々逢って食事したり、コーヒーを飲んだりしているくらいだからね。会社に居た頃と然して変わらないよ」
「まあ、徐々の進展を期待していますよ」
「いや、その甲斐さんだけど・・・」
 袁満さんはここで急にニヤけた語調を改めるのでありました。「三日前に贈答社を辞めたんだよ。まあ、辞めさせられたと云うのが正しいかな」
「え、そうなんですか?」
 頑治さんは驚いたように云うのでありましたが、実はそんなに寝耳に水、と云う事ではないのでありました。早晩そうなるであろう事は予想の内でありましたから。

 袁満さんの口調が陰鬱な感じに変わるのでありました。
「社長の企みが着々と実現していると云ったところかな」
(続)
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あなたのとりこ 726 [あなたのとりこ 25 創作]

「矢張り社長の目論見は会社清算なんですかね?」
「いやもう、疑いなく、はっきりその方向に向かって進んでいるみたいだよ」
 袁満さんの電話の向こうで顔を顰める様子が見えるようでありました。
「その手始めとして甲斐さんを解雇したと云う事ですか?」
「甲斐さんだけじゃなくて、日比さんも辞めさせられるようだし」
「日比さんも、ですか?」
「そう。日比さんも会社に残る心算で居たのに、社長の気持ちは会社清算に向かってまっしぐら、と云う感じだろうしね」
 袁満さんの語調は少し皮肉めいた風を帯びるのでありました。
「じゃあ、土師尾常務はどうなるのですかね?」
「あの人は抜け目がないから、紙商事の方で雇ってもらう事になっているんだろう」
「それは、甲斐さんの情報ですかね?」
「そう。甲斐さんが会社を辞める前の日、甲斐さんに家に食事に誘われて、そこで聞いたんだよ。甲斐さんは社長室に呼ばれて、社長からそんなような事を直接聞いたらしい」
「そう云えば組合が出来た時に、甲斐さん一人が社長室に呼ばれて、賃金を据え置くのを承知したら、その儘会社で働いて貰っても良い、なんて提案されたんでしたね」
 頑治さんは前にあったいざこざを思い出すのでありました。その提案の理不尽さと卑劣さによって、結局甲斐さんも結局組合に入る事になったのでありましたか。
「前の時は土師尾常務も同席していたけど、今度は社長一人だったみたいだけど」
「今度は社長の独断で、土師尾常務は無関係だったんですかね?」
「土師尾常務とは既に会社清算を秘かに打ち合わせしていて、その時点ではもう紙商事で雇ってもらう約束が纏まっていたんじゃないかな」
「成程ね。それでもう態々土師尾常務の同席は必要なかった、と云う事ですかね」
「土師尾常務にしても、自分の事以外には何の興味もないだろうからね。まあ、最後の最後迄相変わらずの無責任役員振りと云うところさ」
 袁満さんは鼻を鳴らしてして見せるのでありました。
「で、甲斐さんは一方的に解雇を云い渡されるだけで、別に抵抗と云うのか、ゴネたり、或いは条件闘争的な事はしなかったんですかね?」
「組合も既にないから、受け入れるしかないだろう。一人だけじゃ無力だし」
「今回は社長の思う壺、と云う事になりますかね」
「まあ、そんなところだろうね」
「日比さんも解雇の憂き目に遭うようですけど、日比さんはどうするんですかね?」
 甲斐計子女史の日比課長の、いやらしそうな目、に対する警戒心から、二人共闘する訳にもいかないのは頑治さんも想像出来るのでありました。
「どうするのかね。その辺は良く判らないけど、その内俺から日比さんに電話でも入れて探ってみよう、とは思っているんだけど」
「まあ、日比課長も社長の意向には逆らえないでしょうけれど」
(続)
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あなたのとりこ 727 [あなたのとりこ 25 創作]

「そうだね。日比さんは社長や土師尾常務がその場に居ない時には、二人に対して妙に強気の喧嘩腰を披露してくれるんだけど、面と向かうとおどおどしたり、やけにしおらしい態度に出る人だからなあ。ま、精々退職金の少しの増額を懇願するくらいかな」
 そう云う袁満さんの言葉には、多少の皮肉と侮蔑が含まれているようでありました。
「会社を辞めるとなると、甲斐さんよりは日比課長の方が色々大変でしょう」
「それはどうしてそう思うのかな?」
 袁満さんは、甲斐さんよりは日比課長の方が、と云う頑治さんの言葉に少し引っかかったようでありました。つまり大変さと云う点に於いて、甲斐計子女史が軽んじられているように感じたのでありましょう。大事な甲斐計子女史を差し置いて、日比課長の方が大変だと云うのは何たる不見識且つ、不届き千万な妄言ではないか、と。
 頑治さんにはそんな謂い等、毛の先程もなかったのでありました。まあこれは、一種の袁満さんの身贔屓と云うものに近いでありますか。
「だって日比課長は養うべきご家族がおありでしょう。確かお子さんは今年中学校に入ると云うお歳じゃなかったですかね。まあ、こういう云い方は袁満さんにはカチンとくるかも知れませんが、独り身の甲斐さんに比べるとそこは矢張り日比課長の方が、早く次の就職先を見付けないといけないと云う焦りもあるし、大変なんじゃないですかね」
「甲斐さんにだって、お母さんとお兄さんがと云う家族が居るし」
「でも甲斐さんのお母さんもお兄さんも、夫々に収入の道をお持ちでしょう?」
「それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは、確かに頑治さんの云う通りだけれども、しかし甲斐さんと日比課長の比較に於いて、日比課長の方がより大変だと云う論には、未だ完全には承服出来かねる、と云った口調で、不本意ながらも渋々と云った風情で諾うのでありました。
「ああところで、先程甲斐さんの家に夕食に招かれたとかおっしゃいましたが、その折には甲斐さんのお母さんやお兄さんもいらしたんでしょう?」
 若しそうなら、これは正式に甲斐計子女史のご家族に、二人の交際の報告をするために行った、と云う事になるのではないかと頑治さんは考えたのであります。
「いや、お母さんとお兄さんは、信州の親戚の家に法事で行っていて、その日は甲斐さんだけだったんだよ。甲斐さん本人は会社でのゴタゴタの真っ最中で多事多忙だからと云うので、同行しなくて一人で留守番と云う事だったんだよ」
「と云う事はつまり、ご家族の不在に付け込んで、二人で秘かに俄か夫婦気取りを楽しんだ、と云う事になるのですかね?」
 頑治さんは人の悪い推察を敢えて披露して袁満さんを冷やかすのでありました。
「そんなんじゃないよ!」
 袁満さんは躍起になって否定するのでありました。しかしそう冷やかされて、満更でもないようなところが語気に表れているようでありましたか。
「で、それは兎も角、甲斐さんは向後どうする心算なんですかね?」
 頑治さんはここで前の話題に戻るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 728 [あなたのとりこ 25 創作]

「向後の事、と云うと?」
「いや、次の働き口の事ですよ。勘違いかも知れないけどひょっとしたら今袁満さんは、俺が甲斐さんは向後どうする心算かと聞いたのを、まさか袁満さんと近々結婚する心算かどうか聞いたのだと勘違いしたんじゃないでしょうね?」
「いやまさか、そんなんじゃないよ。俺はそれ程おっちょこちょいではないよ」
「ああそうですか。それなら良いですが」
 頑治さんはやや疑うような調子を込めて云うのでありました。
「次の就職先を探すようだよ。まあ、俺も甲斐さんも現在失業者と云う事で、先の見通しも立たない状態だから、結婚とかそんな甘い将来像は今は描けないよ」
「では夫々次の仕事が見つかった暁には、結婚もあるんですね」
「いやさっぱり判らないよ、具体的なものは何も、今はないよ」
 しかしこう云うところを見ると、袁満さんは行く々々は甲斐さんと結婚して家庭を持つと云う見取り図を、描いていない事もないのでありましょう。そう云う事であるなら、袁満さんも甲斐計子女史も、就職活動に気合が入ると云うものでありますか。

 ここで少し話題が途切れて、お互いほんの少しの時間黙るのでありました。
「ああそう云えば、この前刃葉さんと逢いましたよ」
 頑治さんが突然思い出したように云うのでありました。
「刃葉さん、と云うとこの前まで会社に居た刃葉さんかい?」
「そうです。あの刃葉さんです。今日の昼間に何か本でも探しに行こうかと、神保町の三省堂書店に立ち寄った時に、偶然姿を見かけたんですよ」
「へえ、今日かい」
 袁満さんは頓狂な声を上げるのでありました。「それで言葉を交わしたのかな?」
「いや、エスカレーターですれ違ったんですが、向うは俺に全く気付かなかったようで、前に会社に居た時同様に、世の中の万事が不愉快、と云うような顔をしてすぐ横を通り過ぎて行きましたよ。俺の方も別に声を掛けたりしませんでしたけど」
「北海道に空手の修業に行ったんじゃなかったかな、刃葉さんは?」
「俺も確かにそう訊いていましたけど」
「修行の厳しさに音を上げて、早々にケツを捲ったのかな」
 これは頑治さんも前に考えた事でありました。
「いやあ、事の詳細は何も判りませんけど」
「偶々一時的に東京に戻って来ていた、と云う事も考えられるけど」
「その可能性もなくはないですが、実は退職した次の日、ブラブラ散歩に出た時に上野公園でも刃葉さんを目にしていたんですよ」
「退職した次の日となると、結構前と云う事だなあ」
「そうですね。その日から今日までの期間を考えると、これは矢張りケツを捲って逃げ出したんだと解釈する方が正解かと思いますが」
(続)
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あなたのとりこ 729 [あなたのとりこ 25 創作]

「そうだね。その方が自然かな」
 袁満さんの頷く様子が受話器から伝わってくるのでありました。「まあ、あの人の異常なプライドの高さと、その割に考えが甘くて、遣る事為す事が何につけても好い加減だから、修行の厳しさに耐えられなくなって早々に逃げ出したんだろうな。まあ、自分への好都合な云い訳を考え出して、その挫折感からも遁ズラしたと云う按配だろう」
「挫折感から遁ズラしたかどうかは、判りませんけどね。それに第一、全く違う余儀ない事情から東京に戻って来たのかも知れないし」
「おや、刃葉さんを庇っているのかな?」
「いや別に庇っているんじゃないですよ。庇う謂れは何もないですし」
 頑治さんは、袁満さんの推察が確かに当たっているようにも思うのでありましたが、そこは未だ曖昧なところでありますから、慎みから邪推を控えたいだけでありました。
「刃葉さんは贈答社が消滅したと聞いたら、屹度皮肉な笑いでもして、先に辞めた自分の先見性を秘かに誇るんだろうな。他の連中が優柔不断だからとか臆病だからとか、先を見る目がないとか、そんな手前味噌な決めつけなんかしながら」
 袁満さんは如何にも悔しそうに云うのでありました。
「さあ、それはどうですかね。刃葉さんの中ではもう、贈答社の事なんか取り立てて感想を抱く事もない、全くの無関心事になっているんじゃないですかね」
「まあ確かに、刃葉さんは何に付けても飽きっぽい方だったから、それもあり得るかな。こっちにしたって辞めた後の刃葉さんが何をしようが、全く興味も無いし」
 このすげない云い草からすると、袁満さんは会社で同僚だった時から、刃葉さんに対して良い印象は全く持っていなかったのでありましょう。まあ、そんな推察は疾うについていたのであります。同い歳のくせに何時も小馬鹿にするような態度をとる刃葉さんに、袁満さんは表面は穏和な態度でいながらも、内心忸怩たる思いでいたのでありましょう。
「その刃葉さんとも、この先はもう逢う事もないでしょうけどね」
「それはそうだな。敢えて逢いたいとも思わないし」
 袁満さんはあくまでつれないのでありました。「しかしこの間偶然二度も出逢ったんだから、ひょっとすると唐目君は刃葉さんと妙な腐れ縁があるのかもしれないぜ」
「そんな事もないでしょう。まあ、偶々ですよ」
 頑治さんは軽く笑って見せるのでありました。別にムキになって云い返してこない頑治さんの反応に、袁満さんは期待が外れたような少し白けた笑いを返すのでありました。
「均目君や那間さんからは何か連絡はないのかな?」
 袁満さんは話題を変えるのでありました。
「いや別に。辞めた後の二人の消息は不明ですよ。まあ、次の仕事探しのため、俺なんかには構っていられないんじゃないですかね。袁満さんには連絡とかないんですか?」
「ないよ、何も。唐目君にないんだから俺の方にある訳がない。まあ、あの二人の事だから抜け目なく、ちゃんと次の仕事を見付けるんだろうけど」
「そうでしょうね」
(続)
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あなたのとりこ 730 [あなたのとりこ 25 創作]

「均目君と唐目君は同い歳で気も合うようだったから、会社を辞めても付き合いが続いていると思っていたけど、そうでもないのかな」
「会社の中では歳が同じだから親しくしていましたけど、一端会社を出たら、プライベートではそれ程親密ではなかったですよ」
「休日に一緒に何処かに出掛けるとか、そう云う付き合いではなかったのかな?」
「なかったですね。均目君のアパートに行った事もないですしね」
 まあ、均目さんの方は那間裕子女史絡みで頑治さんのアパートに来た事はあるのでありましたが、これはここで敢えて袁満さんに話す必要はない事でありました。
「ふうん、そんな風の仲だったのか。傍からはもっと親密な感じがしていたけど」
「ま、実際はそんなところです」
「那間さんも入れて、よく三人で飲みに行っていたようだけど」
「まあ、会社帰りに時々、ですよ」
「均目君は那間さんとは未だ交流が続いているのかな?」
「さあ、俺にはその辺は判りませんけどね」
 恐らく均目さんと那間裕子女史の仲も、もう元に戻る事はないでありましょうし、この推察も敢えて袁満さんに云う事ではないでありましょう。
「じゃあ、会社を辞めた後は四人バラバラで、近況連絡もないと云う事か」
「そうですね。こうして電話をくれるのは袁満さんだけですよ」
「ふうん、そうか。・・・」
 袁満さんはどこか寂し気に呟いて少し黙るのでありました。
「その内、新宿辺りで一杯やりましょう」
 頑治さんは別に敢えて元気づけるためと云うのではないのでありましたが、袁満さんの寂し気な呟きに対してそう返すのでありました。
「そうだな。今度通う事になった学校の方が落ち着いたら、是非飲もう」
「日比課長の消息なんかも、それに袁満さんと甲斐さんのその後も聞きたいですし」
 頑治さんがこう云うと袁満さんは少し照れたように笑うのでありました。

 その後も頑治さんは未だ本格的に就職活動で忙しく動き回る気が起きないのでありました。暇潰しの上野や浅草、それにアパート周辺の散歩、或いは神保町の古書店や新刊本を扱う本屋巡りなんぞで無為な時間を過ごしているのでありました。またもや刃葉さんに出くわすと云う事はなかったのでありましたが、街角で歳格好の似た人を偶々見ると竟その人が刃葉さんかどうか確かめるように視線を当てたりするのでありました。
 別に刃葉さんの動向が気になると云うわけではないのでありましたが、何となくそう云う事をして仕舞うのでありました。別に出会っても、何もないのでありますけれど。
 偶に夕美さんから電話が掛かってくるのでありました。夕美さんは夏休みに東京に頑治さんと同行出来なかった事を未だ残念がっているのでありました。夕美さんのお母さんの体の具合と云う余儀ない理由であるのは、重々承知しているのでありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 731 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんは頑治さんの次の職探しの首尾について訊いたりするのでありました。
「どう、その後の就職活動は?」
「うん、まあ、未だ何となく尻が重くて」
 頑治さんは何となく済まなさそうに小声で云うのでありました。
「会社を辞めるに当たってあれこれ気苦労があったみたいだから、ちょっと英気を養うと云う意味も含めて、のんびり仕事探しするのも良いかも」
「いやあ、そんなにしんどい退社劇でもなかったけどね」
「そう云う事なら、もう少しこっちに居ても良かったわね」
「ま、失業中の身の上だから、そんなに長くそっちに滞在する資力もないし」
「でも、そっちに帰ってのんびりしているのなら、こっちに居ても同じじゃない」
 夕美さんは何となくあっけらかんとした云い草をするのでありました。
「そうも云えるけど、でも、そっちに居るとなると友達に家に厄介になる事になるし、何かと色々物入りではあるからなあ」
「何ならあたしが援助してあげても良かったのに」
 これは夕美さんが、どうせ後々頑治さんと一緒になる、と云う前提を以ってそう云ってくれているのでありましょうか。
「いや、それは何だか、・・・」
「別に気兼ねは何も要らないんだからさあ」
「それはそうかも知れないけど、しかしまあ、何と云うのか」
「男としてのプライドが許さない?」
「別にプライドを云々する程の男ぶりは持ち合わせていないけどね」
 これは態々ここで夕美さんに改めて云う程の事ではなく、夕美さんも疾うに判っている事でありますか。慎に以って面目ない限りであります。
「ううん、あたしにとってはなかなかのものよ」
 夕美さんはそう持ち上げてくれるのでありましたが、これは持ち上げると云うよりは単なる冗談とか軽口として受け取るべきでありますか。
「ところで、お母さんの具合はその後どうなんだい?」
 頑治さんは話題を変えるのでありました。
「病院に入院したら、少しは元気になった感じがするけど、でも相変わらず食欲が全然なくて、意欲的に物を食べるってところはちっともないわ」
「でも少しは元気になったのなら、ちょっとは安心かな?」
「要するに栄養注射とか、看護が行き届くから元気になったように見えるだけで、快復していると云う事じゃないんだと思うわ」
「夕美も、心配だなあ」
 そうであるなら、頑治さんが向こうにもう少し長く滞在し続けて、そんなに大した助けにはならないかも知れませんが、夕美さんの傍に居てあげて、少しは夕美さんの気持の励みになるべきだったのかも知れないと思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 732 [あなたのとりこ 25 創作]

「頑ちゃんが傍に居てくれたらって思うわ。あたしお母さんを見ていると時々すごく落ちこむの。頑ちゃんに何時でも逢えるんだったら、あたしはこんなにめげなくて済んだかも知れないなんて思うの。まあこれはあたしの自分勝手な願望なんだけど」
 夕美さんにこう云われて、頑治さんは悄気るのでありました。矢張りもう少し夕美さんの傍に居てあげる方が良かったようであります。暇は充分あったのに、さもしくも懐具合を気にしてこうして東京に戻って来た自分を、頑治さんは自責するのでありました。
「ご免よ。夕美にそう云われると、何だか自分が無神経でけしからぬ事をしたような気になるよ。今更後悔しても仕方がないけど」
「ううん、そんな心算で云ったんじゃないのよ。頑ちゃんには頑ちゃんの都合があるんだから気にしないで。今のはあたしのは身勝手な愚痴なんだから」
「若しどうしても、と云うのならまたそっちに戻っても構わないけど」
「そんな必要はないわ。本当にあたしの事は気にしないで就職活動に勤しんで頂戴」
 夕美さんは努めて快活に云うのでありました。
「いや本当に。夕美が苦しいのなら俺はそっちに行くよ」
 そう云いながら頑治さんは頭の隅で金銭勘定をするのでありました。かなり苦しいのは実状ながら、もう一度向うへ行くとしても、何とかかんとか遣り繰り出来ない事もないでありますか。いや、夕美さんが望むのなら、若し遣り繰りが叶わないとしても、寧ろ借金してでもここは夕美さんの傍に行ってやるべきでありましょう。
「ううん、いいの」
 夕美さんがきっぱり云うのでありました。「本当にいいのよ。頑ちゃんに無理をさせても今度はあたしの方が辛くなっちゃうもの」
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫。余計な心配させてご免なさい」
 夕美さんは消えも入りそうな声で謝るのでありました。
「どうしても必要なら、遠慮しないで来いと云ってくれて良いんだよ。夕美のためなら俺は何時だって駆けつける用意があるんだから」
「うん、有難う。でも当面は本当に大丈夫だから」
「そうか。そう云うのなら、一応判ったよ」
 頑治さんはこの言葉が不躾に響がないように気遣いながら云うのでありました。「そう云えば博物館の仕事で、夕美の方こそこっちの大学に来る予定はないのかな?」
「ない事もないんだけど、母の事があるから事情を話して、東京出張は勘弁して貰っているのよ。本当は大学院の考古学研修室に行きたい用事もあるんだけど」
「ああそうか。それはそうだよなあ」
「まあ、母が病院を退院出来て、容態が安定したら行く心算なんだけど」
「そうか。まあ、近い内に屹度そうなるだろうから、その時にまた夕美の顔を見るのを楽しみにして、俺も職探しに精を出すよ」
「近い内に、そうなるのかしら、ねえ。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 733 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんは頼りなさそうに呟くのでありました。
「そうなるさ。本当に近い内に」
「そうだと良いんだけど。・・・」
 夕美さんんはここで少しの間沈黙するのでありました。「それじゃあ頑ちゃん、また逢える日迄元気にしていてね。それから就職が決まったら連絡して」
「決まってからじゃなくて、その前でも近況報告の電話をするよ」
「そうね、あたしも頑ちゃんの声が聞きたくなったら、すぐに電話をするわ。でも声だけじゃあ、何だかつまらないけどね」
「そんなに先じゃなくて、また逢えるよ屹度。そっちかこっちかは判らないけど」
「そうね。あたしもそんな気がしてきたわ」
 夕美さんはここで努めて快活に云うのでありました。それから名残り惜しそうにさようならを云って、二人はほぼ同時に受話器を架台に戻すのでありました。

 この後も未だ頑治さんは本格的に就職活動を始めないのでありました。何となく気が乗らないのでありました。全く意欲的ではない気持ちで動き回っても、良い結果は招かないと云う云い訳で自分の怠惰を正当化するのでありましたが、まあ、そこのところは云い訳の分を差し引いて、二分くらいは当たっているような気もするのでありました。
 そんな折袁満さんから、久し振りに飲みに行かないかと云う誘いの電話が入るのでありました。別に断る理由も無いから頑治さんは気楽に誘いに乗るのでありました。
 お互いの最寄り駅から近いからと云うので、頑治さんは本郷三丁目駅から地下鉄に乗って待ち合わせ場所の池袋に出掛けるのでありました。
 袁満さんから指定された池袋演芸場に近い居酒屋に行くと、入り口の傍の席に居る袁満さんをすぐに見つけるのでありました。席にはもう一人袁満さんと差し向かいで座っている仁が居るのでありました。それは日比課長だとすぐに判るのでありました。
「袁満君が唐目君と飲むと云うんで、俺もついてきたんだ」
 日比課長は頑治さんが椅子に腰を下ろす動作の途中で云うのでありました。
「ああそうですか。お久し振りです」
「どうだい、次の仕事は決まったのかい?」
「いやあ、未だ全然決まってはいないですよ」
 頑治さんは先着の二人が日本酒を飲んでいるのを見て、自分も熱燗と、それに当てとして枝豆と冷や奴を注文するのでありました。
「袁満君のように、どこか職業訓練校にでも通っているのかい?」
「いや、俺は会社を辞めてから未だ一度も、職安にも顔を出していないです」
 頑治さんは店員が持ってきた猪口を取って日比課長の酌を受けるのでありました。
「随分悠長にしているんだなあ」
「まあ丁度良い機会だから、ちょっと故郷に帰ったりしていたものですから」
「ああ成程ね」
(続)
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あなたのとりこ 734 [あなたのとりこ 25 創作]

「それより、風の便りに贈答社が会社解散になると聞きましたが?」
 今度は頑治さんの方が日比課長に訊くのでありました。
「そうなんだよ。結局社長の意向が通ったと云うところかな」
「そうなら、日比課長はこれから先どうするんですか?」
「俺もこれから再就職先を見付けると云うのも億劫だし、賃金が少しばかり下がっても会社に残る心算でいたんだけど、会社解散となればもう致し方なしだね」
 日比課長は苦虫を噛み潰すような表情をして見せるのでありました。「まあ一応、社長に頼み込んで下の紙商事で嘱託として働かせて貰う事になったけど」
「紙の営業をするんですか?」
「いや今迄の得意先との繋がりがあるから、贈答社の時と同様でギフト関係の営業をやるんだよ。贈答社オリジナルの商品はないけど、他社商品を使ってね」
「紙の営業はしないんですか?」
「うん。俺は紙の種類や値段の出し方とかは全く判らないからね。今更覚えるのも面倒臭いし。幸い贈答社時代の仕入れ先とも未だコネクションはあるし、そっちの営業の方があれこれ遣り方も判っているし、どうせ紙商事から本給は貰えないんだし」
「贈答社時代に少しは紙の事も勉強していれば良かったんだよ」
 ここで袁満さんが口を挟むのでありました。
「俺は出来上がった商品を売るのが仕事だったし、制作部でもないから、材料の紙の事とか印刷とか製本の事とかは特に知る必要がなかったからね。袁満君もそうだろう?」
「まあ確かに車の運転が出来ればそれで良かったんだけど、でも一応紙の大きさの規格とか寸法とかは勉強したよ。それに上質紙とかコート紙とかの違いもね」
 袁満さんは日比課長の贈答社時代の、怠慢と不勉強を少し軽侮するような目をするのでありました。頑治さんは袁満さんの、自分が仕事として扱っている商品に対する真摯さのようなものをこの言葉で初めて知って、ちょっと見直すのでありました。
「紙商事に行っても紙の営業はやらないで、贈答社の時と同じギフト関係の営業をやるのなら、敢えて紙商事の嘱託社員になる必要はないんじゃないですか?」
 頑治さんは袁満さんへの評価はさて置いて、日比課長に問うのでありました。
「俺もそう思うよ。どうして態々社長との腐れ縁にそんなに拘るのかねえ。紙商事から給料が出ないのなら、紙商事の嘱託社員になる必要なんかないと思うけど」
 袁満さんが頑治さんに同調するのでありました。袁満さんもその辺の日比課長の考えを怪訝に思うようでありました。
「別に社長との腐れ縁に拘っている訳じゃないけど、ギフト関連の営業をやるにしても、俺個人でやるより、一応株式会社の社員格としてやる方が、信用やら安心感やら、お得意さんの受ける印象が違ってくるからねえ」
「そうかねえ。俺はあんまり関係ないと思うけどねえ」
 袁満さんは日比課長の猪口に酒を注ぎ足すのでありました。「まあ、つまり日比さんは元々お得意さんの信用がなかったと云う事かな」
(続)
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あなたのとりこ 735 [あなたのとりこ 25 創作]

「知りもしないくせに、そんな無礼な事を云うんじゃないよ」
 日比課長は憮然とするのでありました。「少なくとも土師尾常務なんかよりは信用があったと思うよ、俺の方が余程」
「それはそうだ。でもあのインチキ野郎と比べて、自分の方が信用があると云うのは、大して自慢にもならない事だけどね」
 袁満さんはせせら笑うのでありました。
「その土師尾常務は今後どうするんですか?」
 頑治さんが手酌で自分の猪口に酒を注ぐのでありました。
「俺と同じ身分だよ」
 日比課長も自分の徳利を取ると自分の猪口を表面張力一杯に満たすのでありました。
「と云う事は紙商事の嘱託社員と云う事ですね?」
「そう。仕事も俺と同じギフト営業と云う事になる」
「社長は土師尾常務を、役員として紙商事に迎えなかったんですね?」
「そんなに買ってはいなかったんだよ、あの常務を、元々」
「でもインチキ野郎から、社長にそれなりの働きかけがあったんだろう?」
 袁満さんはもう土師尾常務の名前をちゃんと呼ばず、インチキ野郎、と云う呼称で向後いくようでありました。恨みと嫌悪と軽蔑の深さが窺えるようでありました。
「そりゃあ勿論、社長は自分を役員として紙商事に迎えてくれるだろうと思っていたんだけど、そうは問屋が卸さなかった訳だ」
「ブツブツネチネチとインチキ野郎は、話しが違うとゴネたんじゃないの?」
 袁満さんがそう訊いてから近くに居る店員に日本酒の追加を頼むのでありました。
「まあそうだけど、贈答社を清算するとなったら社長の方が立場が圧倒的に上になるんから、嘱託社員と云う条件以外なら紙商事で雇わないとつれなく云われれば、土師尾常務としてはそれ以上逆らえない訳だ。役員として処遇してくれると目論んでいたから退職金の割り増しも要求しなかったのに、これじゃあ踏んだり蹴ったりと云う按配さ」
 日比課長は鼻を鳴らすのでありました。
「ま、そんなところだろう。あのインチキ野郎らしい結末だよ」
 袁満さんは痛快そうに哄笑するのでありました。
「そう云う事になると、日比課長と土師尾常務の二人で、これから先、お得意先の取り合いみたいになるんじゃないんですか?」
 頑治さんは店員が持ってきた新しい徳利の一本の首を取って、先ず日比課長の方に、次に袁満さんの順で酌をしながら訊くのでありました。そこで日墓課長が、話しの途中だけどちょっとションベンに行ってくる、と云いながら出来を立つのでありました。

 日墓課長がトイレに行っている隙を狙ってか、袁満さんが頑治さんに顔を近付けてグッと声量を落として囁きかけるのでありました。
「ええと、日比さんには甲斐さんとのことは内緒にして置いてくれよね」
(続)
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あなたのとりこ 736 [あなたのとりこ 25 創作]

「未だ日比課長には云ってはいないんですね?」
「そう。甲斐さんとしては俺が日比さんと付き合うのも嫌みたいなんだ。日比さんは徹底的に甲斐さんに嫌われているんだよ」
 さもありなん、と頑治さんは思うのでありました。日比課長は前に甲斐計子女史に懸想して、付き纏ったりして忌避されていたのでありましたから。
「それじゃあ今日、俺と日比課長と袁満さんで、ここで飲む事になったと云う事も、甲斐さんには一切内緒なんですね?」
「そう。偶々昨日日比さんから電話が掛かってきて、唐目君と池袋で今日飲む事になっていると云ったら、俺も一緒に行くと勝手に乗り気になって付いてきたんだよ。まあ俺としても来るなとは敢えて云えないしね、甲斐さんが一緒と云う事でもないし」
 そう云った後、袁満さんがおどおどと目配せをするのは、日比課長がトイレから戻って来た故でありました。日比課長は手を拭いたハンカチを折り畳んでズボンの尻ポケットに仕舞いながら、籐の腰掛けに尻を落とすのでありました。
「ええと、話しは何だったかな?」
 日比課長が猪口を取って残りの酒を飲み干すのを待って、頑治さんは徳利を取って徐に日比課長に差し向けるのでありました。
「日比課長と土師尾常務がこれから先同じような仕事をすると云う事なら、二人の間でお得意さんの取り合いになるんじゃないか、と云う話しですよ」
「ああその事ね。それは俺としてはあんまり心配していないよ」
 日比課長は次の一杯もグイと喉の奥に流し込むのでありました。「あの人は会社に居て電話で適当に営業していただけだし、俺の取って来た仕事の仕上げの部分を掠め取って、それを自分の実績にしていたようなもので、実際にお得意さんに顔出しして仕事を取るために動き回っていたのは俺の方だよ。俺の方がお客さんとは昵懇だからね」
「つまり日比さんの方が、お得意さんとの結びつきは濃いと云う事ね」
 今度は袁満さんが日比課長の空いた徳利に酒を注ぐのでありました。
「そう。それにあの人は坊主である事を売り物にして、如何にも篤実そうに振る舞ってはいたけど、殆どのお客さんはその嘘っ八を疾うに見破っていたし」
「そりゃそうかな。あのインチキ野郎の浅薄な表面は大概の人は嘘だと見破れるし。それにお客さんとより昵懇である日比さんが、日頃から土師尾常務の卑劣さやら信用出来ない辺りを、露骨にあれこれお客さんに喧伝していただろうしね」
 袁満さんがまたまた哄笑するのでありました。
「そんな真似は俺はしていないよ。まあ、愚痴はこぼした事はあるかも知れないけど」
 日比課長は袁満さんの注いだ酒も一気に飲み干して仕舞うのでありました。このピッチで飲んでいると、日比課長は早々に酔い潰れるんではないかと頑治さんは心配するのでありましたが、まあ、那間裕子女史よりは日比課長の方が酒には強い方だろうから、その心配は要らないと思い直すのでありました。それに若し酔い潰れたとしても、その後を介抱して家まで送っていく役目は、頑治さんではなく袁満さんでありましょうから。
(続)
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あなたのとりこ 737 [あなたのとりこ 25 創作]

「要するに日比さんは同じ嘱託社員と云う立場で競争するなら、土師尾常務になんか絶対負けないと云う自信があると云う事か」
 袁満さんが自分の猪口に酒を手酌で注いだ後、頑治さんに徳利を差し向けるのでありました。頑治さんは自分の猪口を取ってその酌を受け、唇を濡らす程度に口に含むのでありました。袁満さんはその後また日比課長の猪口に並々と酒を注ぐのでありました。
「当然さ。あんな奴に負ける訳がない」
 日比課長は今度も一気飲みで猪口の酒を干すのでありました。
「それよりあの自尊心過剰な土師尾常務がよく、前の部下だった日比課長と同じ嘱託社員と云う自分の立ち位地を呑み込みましたよね」
 頑治さんがまたチビリと猪口の酒を口の中に入れるのでありました。
「まあ、社長に縋り付くしか、当面生きる術がないからね」
 日比課長が皮肉っぽく笑うのでありました。
「坊主に専念する、と云う選択はなかったのですかね?」
「それは無理々々」
 これは袁満さんが手を横に何度も振りながら云う言葉でありました。「あのインチキ野郎は自分で売り込んで、何度も頼み込んでようやく寺の副住職にして貰ったんだろうし、坊主としての修業も、徳も器量もさっぱりないヤツだから、そっちの道で食う事は出来ないだろうよ。お盆や命日の檀家回りだけじゃなかなか食えないだろうしね」
「坊主の方も嘱託、と云う訳ですかね」
 頑治さんがそう云うと袁満さんも日比課長も、持っている猪口から酒がこぼれるくらいに体を揺すって大笑いするのでありました。
「紙商事の嘱託社員としても、それに嘱託坊主、としても立ち行かないとなると、あのインチキ野郎の将来像はとても暗いと云う事か」
 袁満さんがどこか愉快そうに云うのでありました。
「営業マンとしても坊主としても、向上心もなく楽な事ばかりやって、結局は三流に甘んじていたから、そうなるのは自業自得というものさ」
 日比課長は突き放すような云い草をするのでありました。
「しかし日比さんの方も、安閑としてはいられないぜ」
「まあ、そうかも知れないけど、畑違いではあるけど一応、会社と云う組織の後ろ盾はあるし、何とかやっていくよ。常務とは違って目途が全く立たない訳でもないしね」
「ご家族もあるし、頑張ってください」
 頑治さんはエールを送るのでありました。
「甲斐さんはどういているんだろう。それに均目君とか那間さんとかも」
 日比課長が土師尾常務の事から話題を転じるのでありました。ここで不意に甲斐計子女史の名前が出てきたものだから、袁満さんは日比課長に気取られないようにではありますが少しおどおどする気配を見せるのでありました。
「夫々次の仕事を見付けようと心機一転、頑張っているんじゃないですかね」
(続)
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あなたのとりこ 738 [あなたのとりこ 25 創作]

 頑治さんが当り障りのない無難な線で応えるのでありました。
「均目君とか那間さんは未だ若いからそうでもないけど、甲斐さんの方は再就職するとなると、色々大変なんじゃないかなあ」
 日比課長はこう云うものの、実はこの三人の動向について然して心配もしていないし、殆ど無関心な様子でありましたか。しかし甲斐計子女史の動向についての言葉が出て来たものだから、袁満さんはまたもや目立たぬようにではあるけれど、何となく身構えるような素振りを見せるのでありました。日比課長に甲斐計子女史に対する良からぬ興味が未だあるのではないかとの猜疑、まあ、思い過ごしも抱いて仕舞うのかも知れません。
「甲斐さんの動向とか、日比さんにはもう関係ないだろう」
 袁満さんは不機嫌そうにソッポを向きながら、日比課長に徳利を差し出す様子もなく、手酌で自分の猪口に酒を満たすのでありました。
「そりゃそうだけど、まあ、ちょっとは気になるし」
 日比課長は袁満さんが無愛想な顔で、今度は酌をしてくれない事が何となく気になるようでありました。ひょっとしたら自分が嘗て、全く気軽な魂胆から甲斐計子女史にちょっかいを出そうとした事実を、袁満さんが聞き知っているのかも知れないとふと疑うのでありましたが、それは甲斐計子女史自身の口から語られなければ袁満さんが知り様もない事に違いないのであります。これ迄の観察から、甲斐計子女史が袁満さんにそんな事を打ち明ける程には二人の仲は親密ではない筈、とか、日比さんは考えたのでありましょう。
 ところがどっこい、甲斐計子女史と袁満さんは既にもうなさぬ仲なのでありますし、女史の不安と鬱憤からその辺の事情は、そんな仲になる前から疾うに袁満さんにも、それに頑治さんにも知れているのでありました。ここは日比課長の考え足らずであります。
「均目君はもう、何か仕事に付いたようですよ」
 頑治さんが日比課長に話し掛けるのでありました。
「へえ、何の仕事だい?」
「書籍の編集とか、雑誌に請負で記事を書いたりする仕事の様ですよ」
「どこかの出版社にでも就職したのかい?」
「いや、直接本人から聞いたのではないのでその辺は良くは知らないのですが、まあ、風の便りに、と云うか何と云うか」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
「那間さんはどうなんだい?」
「那間さんの方は特に情報は入っていませんね」
「那間さんからは連絡はないのかい?」
「ないですね。会社を辞めた後は」
「唐目君と那間さんは結構仲が良かったように思っていたけど」
「会社の中では軽口を云ったりする、と云うか一方的に俺が云われている仲だったけど、まあ、会社を離れると特段気が合う仲、と云う訳でもなかったですからね」
 そう云えば那間裕子女史は、その後どうしたのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 739 [あなたのとりこ 25 創作]

「那間さんの事だから、着実に就職活動をしているんじゃないのかな」
 袁満さんが自分の猪口にまた手酌で酒を注ぐのでありました。
「そうですね。那間さんは大学時代の友人とか先輩とか、その辺の交友関係も広そうだったから、その伝も頼って堅実に次の仕事を探しているでしょうね」
「もう、どこかに就職したのかも知れない。それこそ贈答社なんかよりも遥かに大手の出版社とかに。そうなれば返って、贈答社を辞めたのが吉と出た事になるかな」
 袁満さんはそんな推察を披露するのでありました。
「まあ、実際のところ、その後の動向はさっぱり知れませんけどね」
「そりゃそうだけど」
 袁満さんは自ら注いだ猪口の酒をグイと呷るのでありました。

 この池袋での酒宴で、後半に那間裕子女史の名前が出たのでありましたが、その女史から数日後に、不意に頑治さんに電話が掛かってくるのでありました。頑治さんとの間にすったもんだがあったのに、意外に屈託なく快活な声でありましたか。
「どう、元気にしている?」
「ええ、まあ、お陰様で」
「お陰様、と云われても、別にあたしは何も唐目君の元気に貢献していないけれどね」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「那間さんの方はどうですか?」
「別に唐目君のお蔭じゃちっともないけど、元気にしているわ」
 そう云う心算であったのではないでありましょうが、この那間裕子女史の科白は何となく頑治さんへの皮肉にも、聞こうと思えば聞けるのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたのですか?」
「未だよ。それよりもあたし、来週の金曜日からケニアに行く事になったのよ」
 そう云われて那間裕子女史が長い事温めていたケニア旅行の計画を、頑治さんは思い出すのでありました。この間の何だかんだで、すっかり失念していたのでありました。
「ああ、ケニアですか、愈々ですね」
「そう。やっと行く事になったのよ。二週間のケニア旅行」
「一人で、と云う事ではないんですよね?」
「うん、大学時代からの知り合いで、一緒にスワヒリ語の学校にずっと通っていた友人と二人でね。云う迄もない余計な事だけど、それは女友達よ」
「そうですか。やっと念願達成と云う訳ですね」
「ここにきて失業しちゃったから、ちょっと懐具合が心許ないけど、好い加減踏ん切りをつけないと、何時になっても行く事が出来ないし、思い切ったのよ」
「次の仕事に就いたらなかなか二週間も休暇は取れないでしょうから、そう云う意味では今がチャンスと云えばチャンスですよね」
「まあ、そう云う事ね」
(続)
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あなたのとりこ 740 [あなたのとりこ 25 創作]

「ところで均目君の事だけど、・・・」
 那間裕子女史は話頭を曲げるのでありました。語調から、ケニア旅行の話しよりも、その均目さんの話しの方がこの電話の本題かなと頑治さんは思うのでありました。
「均目君がどうかしたんですか?」
「この前ちょっと大学時代の先輩と話していたら、片久那さんの話題が出たのよ」
「その先輩と云う方は、片久那制作部長とは前からのお知り合いなんですかね?」
「そうじゃなくて、最近、仕事で知り合ったと云う事なの」
「ほう、仕事で、ですか」
 頑治さんは意外そうな口調で云うのでありました。
「そうなの。あたしが大学時代に入っていた冒険部の先輩で、今は比較的大手の出版社で雑誌の編集者として働いているのよ」
 那間裕子女史が大学時代に冒険部に入っていたと云うのは、今初めて耳にする事でありました。そんな話しはこれ迄の付き合いの中で、全く聞いた事がなかったのでありましたがそれは兎も角、その比較的大手出版社で出している雑誌と云うのは、女性向けのファッションとか化粧品とか、それに気の利いた生活雑貨の紹介とか、国内と海外を問わず街歩きの記事等を掲載するもので、そこそこ世間に名前の通った雑誌でありましたか。
「その雑誌で片久那制作部長を取り上げたんですか?」
「そうじゃなくて、旅行関連の記事の中に載せる地図とか図版の製作依頼で、或る地球儀の会社の社長から片久那さんを紹介されて知り合いになったようなのよ。先輩の方は、その地球儀会社とは雑誌の中で事務雑貨の特集をした時に知り合ったようなの」
「ああ、そう云えば片久那制作部長は、贈答社の仕事関連で知り合ったどこだったかの地球儀の会社の社長に随分気に入られていて、そこの仕事を一応贈答社として受けていましたね。片久那制作部長は贈答社を辞めた後も、その地球儀会社の社長とは昵懇の仲が続いていて、その社長の紹介で那間さんの先輩の会社に紹介されたんですかね」
「そう。まあ、そんなところね」
 那間裕子女史は頑治さんの察しの良さに満足したように云うのでありました。
「で、ね、つまり片久那さんは地図の製作とかどこかから依頼された記事の作成とか、そんな事をするプロダクションを自分で立ち上げたようなの」
 それは片久那制作部長から既に聞いていた事でありました。後は自費出版本の編集とか制作とか、片久那制作部長のこれも大学時代の知り合いの伝を頼りに始めた仕事のようでありました。それが愈々軌道に乗って、会社を興して、そこに頑治さんも、既にきっぱり断ったのでありましたが、来ないかと誘われたのでありました。
 と云う事は推測すると女史は、その片久那制作部長の興した会社に何故か均目さんが居る事を、つまりその先輩とやらから聞き知ったと云う事なのでありましょう。
「へえ、片久那制作部長はそう云う会社を創業したんですね?」
 頑治さんは恍けてそう訊くのでありました。
「そう云う事ね」
(続)
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あなたのとりこ 741 [あなたのとりこ 25 創作]

「ケニア旅行から帰ってきたら那間さんも片久那制作部長に渡りを付けて、そこで働かせて貰ったらば良いじゃないですか」
 頑治さんは均目さんの動向をまるで知らないと云う点を仄めかせるために、そんな事を云ってみるのでありました。均目さんが居たら、当然那間裕子女史は片久那制作部長の下には屹度行かないであろう事は、勿論承知の上でのお惚けであります。
「まあ、そんな手もあるけど、でもそうはいかない事情があるのよ」
「そうはいかない事情、と云うのは何ですか?」
 頑治さんはあくまでも惚け続けるのでありました。
「片久那さんの会社には既に均目君が就職していたのよ」
「へえ、均目さんが既に居るんですか」
 ここ迄惚けると、これはもう惚け芝居の免許が貰えるくらいでありますか。
「そう。均目君も抜け目がないところがあるから、片久那さんがそう云う会社を興したのを聞きつけて、早速就職運動をしたのね、屹度」
「或いは片久那制作部長にスカウトされた、と云うのもあるかも知れませんね」
「まあ、ない事はないけど、でも片久那さんは実は均目君をそんなに買ってはいないようだったら、片久那さんの方からアプローチしたと云うのは、ちょっとどうかしら」
「ああ、そうですかねえ」
「まあ兎に角、また均目君と一緒に仕事をするのはまっぴらだから、あたしは関わり合いを持つ気はないわ。気持ちの方も今はケニアの事で一杯だし」
 那間裕子女史は、それはちょっとげんなりだと云った口調で云うのでありました。「と云う事で、まあ、唐目君の御機嫌伺いと、あたしの近況御報告と、聞き知った片久那さんと均目君のその後でも耳に入れておこうと思って、こうして電話したって訳よ。唐目君にとってはもう、どうでも良い余計な事かも知れないけどさ」
「いやまあ、那間さんの事も、片久那制作部長や均目さんの事も気にはなっていたんで、余計な事なんてとんでもないですよ」
「ああそう、それなら良いけど」
 那間裕子女史は、それは電話をした自分への労わりで、別に頑治さんの本心ではなかろうと思っているのか、ぞんざいな云い振りでそう云うのでありました。
「袁満さんも就職活動の一環で、医療関連の専門学校へ暫く通うみたいですよ」
「ふうん、これから学校通いをするんだ」
 那間裕子女史は大して興味もなさそうに云うのでありました。
「職安の紹介らしいですよ。この前電話でそんな事を聞きました」
「皆あれこれと頑張っているのね」
 これも無関心そうな云い様でありました。この上に日比課長や土師尾常務の動向を報告したところで、那間裕子女史からは無愛想な反応しか返ってこないでありましょう。
「まあそう云う事で、ケニアに行ってくるわ。お土産買ってくるからね」
 那間裕子女史は語調を明るく変えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 742 [あなたのとりこ 25 創作]

「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ」
「それから、お土産を持って行く時には、予めちゃんと電話してから行くわよ。お酒に酔った勢いで突然訪ねると云う事はしないから、安心して構わないわよ」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「そう云う事なら、まあ、楽しみにしています」
 頑治さんが応えると女史は尚一層の哄笑を返すのでありました。

 袁満さんのその後の話しに依ると、日比課長は自分の生活費くらいはそこそこ稼いでいるようでありました。紙商事にも取引先を通じて紙販売の仕事を持ち込む事もあって、贈答社時代よりも社長の覚えも目出度くなって、将来は紙商事の新しいギフト関係の仕事の責任者として、正社員として雇用して貰える希望も出てきたようでありました。
 それに比べて土師尾常務の方は新しい仕事では全く鳴かず飛ばずと云う按配らしく、華々しく前宣伝していた割りに取ってくる仕事の量は実に大した事がなく、社長の信頼もすっかり地に堕ちて、殆ど見縊られて仕舞っているようでありました。それはそうでありましょう。贈答社時代から社長に対してご大層な自己喧伝ばかりに現を抜かして、実際の面倒な仕事は横着を決め込んでのうのうと威張り散らしていただけでありましたから。
 そんな欺瞞が長く通用する程に世間は甘くはないと云う事であります。ここにきて竟に化けの皮が剥がれて、日比課長の意外な働きぶりとの対比もあって、社長の失望と軽蔑を一手に引き受ける羽目になったのでありましょう。
 まあしかし土師尾常務にも家族があって、家のローンとか、お子さんの教育費とか、これから先益々お金がかかるのでありましょうから、何処かの寺の副住職と云う、肩書きだけで実は大した実入りのない稼業と、殆ど稼ぎの出せない紙商事の嘱託社員と云う身分等では、この先どうにも生活が立ち行かなくなるでありましょう。土師尾常務に対して恨み骨髄の袁満さんなんぞは、身から出た錆と鼻で憫笑するだけでありますが、頑治さんとしては、彼の人もなかなか大変だろうと、多少の同情心もない事もないのでありました。
 それでも土師尾常務は欺瞞まみれながらも、贈答社の中で常務取締役を社長から拝命していた訳で、これはつまり、あれでなかなか生活力旺盛な一面もあったと云う事でもありましょうか。であるなら、これから先も贈答社時代のようには上手くは立ち回れないとしても、なんとかかんとか世過ぎの道は切り開いていく事でありましょう。
 それも出来ないで破滅一直線と云う事であっても、頑治さんとしては多少の哀情は催すとしても、顔を顰める程気の毒とは感じないのでありました。まあ、袁満さんの云う通り、身から出た錆、と云う語の中に納める事が出来るところでありますか。
 結局、贈答社で知り合った夫々は、本意不本意は別として、自ずと夫々の適所に落ち着くのでありましょうし、新しい居場所に落ち着けば、もう消息も知れなくなるのでありましょう。それで頑治さんも一区切りと云う事でありますか。まあ、暫くは時々、袁満さんからはその後の就職とか甲斐計子女史との仲の進展とかの報告はあるのかも知れません。しかしこれも、結局のところ次第にフェードアウトしていくのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 743 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると今度は頑治さんの身の振り方であります。頑治さんとしてはまた贈答社での仕事を得た時のように、職安に出向いて新たな仕事を紹介して貰うと云うのが順当な方策と云うものであります。しかし何だか、未だ腰が重いのでありました。
 これは頑治さんのだらしなさが第一の理由でありますか。未だ多少の金銭的余裕(!)があるものだから、なかなか焦らないのでありますし、生来ののほほんとした性格が災いしているとも云えるのであります。焦らなくとも、仕事が見つかる時にはちゃんと見つかるものだと、慎に以って楽観的な考えから抜け出せないのであります。
 頑治さんは己がそんな性格を以前から持て余すところもあるのでありましたが、まあ、焦らないものは、これはどうにも仕方がないではありませんか。と云う訳で、頑治さんは散歩とか、寄席通いなんかで無為な時間を過ごしているのでありました。まあ、泊りの旅に出る程の金銭的余裕なんぞはないのでありましたが。
 そんな折しも、どうした事か土師尾常務から電話がかかってくるのでありました。まさかこの人からは贈答社を辞めた後に連絡等はこないだろうと、思う迄もなく思っていたのでありましたが、そのまさかが現実に起こってみると、変なものでこれも成り行きと云う点で、当然あり得る事ではあると妙に納得するところもあるのでありました。
 他の元贈答社社員の動向は何となく知れたのでありましたが、この人だけは袁満さんと日比課長からの間接情報だけで、ちゃんとは知れていなかったのであります。しかしまあ別に、頑治さんに総ての元社員の情報が集まる謂れは特にないのでありましたけれど。
「どう、元気にしているかい?」
 土師尾常務は贈答社でのこれ迄の経緯をすっかり忘れたかのように、実に屈託ない調子で頑治さんにそう言葉をかけるのでありました。
「ええ、まあ、何とか」
 頑治さんは不快と迄はいかないけれど、抑揚を押し殺してやや無愛想な感じで返すのでありました。久々に声を聞いたからと云って歓喜する事は別にないのでありますし。
「ああそう。それは良かった」
 土師尾常務は頑治さんの懐かしそうな驚きの声を期待していた訳ではないのでありましょうが、しかしその可愛気のない受け答えが少し心外だったようで、急に声の張りを抑制して、負けじと自分も不快を滲ませて見せるのでありました。この相も変わらずの対抗的な反応に、頑治さんはやれやれとうんざりするのであります。
「ご用件は何でしょうか?」
 頑治さんは心の内は別として礼は一応弁えていると云った風の、不躾をあからさまにはしない、と云う気遣いを逆にあからさまにして見せながら訊ねるのでありました。
「今度ね、新しい会社を立ち上げる事にしたんだよ」
 土師尾常務は少し云い淀んで、気を取り直すようにそう話し出すのでありました。
「新しい会社、ですか?」
「そう。贈答社でやっていたギフト関連の会社で、贈答社時代に仕入れ先として取引のあったところと組んで、事業を始めようと思っているんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 744 [あなたのとりこ 25 創作]

「贈答社で遣っていたのと同じ仕事を始めるのですか?」
「そう。今迄の仕入れ先とか得意先からも、新たに会社を興してやらないのか云うリクエストが頻繁にあるものでね。それに応えると云うところもあって」
「贈答社時代の得意先なんかとは、今でも付き合いが続いているんですか?」
「そうだね。向こうで態々僕の家の電話番号を調べて、前の仕事をまた続ける気はないのかとか、何時新たに始めるのかとか、色んなところから問い合わせがくるんだよ」
「へえ、そうですか」
 頑治さんはげんなりしながらも全くの愛想で感心して見せるのでありました。日比課長の証言に依れば紙商事の嘱託社員としての土師尾常務の業績は、全く以ってさっぱりだと云う事でありました。そう云う事だから社長にも疎まれ軽んじられて、身の置き所もない有様だと聞いているのでありますが、しかし土師尾常務のこの電話に依ればなかなか景気が良さそうな風であり、慎に以ってバラ色の将来像と云った感じであります。
「今現在僕は、社長に懇願されて一応紙商事の社員と云う身分なんだけど、そんな立場は実に窮屈で、一人で自由に活動する方が将来も開けるような気がしているんだよ」
「ほう、今は紙商事に籍を置いているんですか?」
 頑治さんは知っていながら知らない素振りを決め込むのでありました。
「そう。僕はどうでも良かったんだけど、社長がどうしてもと云うんで、一応ね」
 土師尾常務は社長の懇願だと云うところを強調するのでありました。
「それで紙商事を辞めて、新しい会社を始める事にしたのですか?」
「まあ、そう云う事だよ。ギフト関連の仕事は素人の社長にあれこれ指図されると、返って僕の力を存分に発揮出来ないし、営業活動上も何かと不自由だしね」
 これはこの人の、前からお得意の大言壮語の類いであろうと頑治さんは推察するのでありました。日比課長の話しの方にこそリアリティーがありそうでありますし。
「そうですか。そう云う事なら頑張ってください。成功を祈っています。ところで、それはそうと、今日はどうして自分に電話をされたのですか?」
「うん。実はその新しく始める会社に、唐目君が来てくれないかと思ってね」
「自分が、ですか。どうしてまた?」
「贈答社に居る時、唐目君が一番仕事振りが堅実だったからね」
「ほう、それは今初めて聞きました」
「いや僕は、口には出さなかったけど唐目君を一番評価していたんだ」
 何を今更どの口がそう云う事を云うのでありましょう。一番評価していた割りに、会社が左前になったら、色々難癖を付けて早々に辞めさせようとしたくせに。
「それは恐縮です」
 頑治さんは大笑いしたい気分でありました。
「まあ、営業の事は経験がないから暫くは僕の下で勉強して貰う事になるけど、商品の梱包発送とか配達とか、そう云う倉庫仕事みたいな事はすぐに出来るだろうしね」
「営業見習いもやる訳ですね、常務の指導を受けながら?」
(続)
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あなたのとりこ 745 [あなたのとりこ 25 創作]

「そう。短期間で優秀な営業マンにしてみせるよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは無抑揚に云うのでありましたが、その声音に何となく不愉快そうな気分がしっかり漂っていたであろうと、云った後で思うのでありました。
「どうだろう、僕の下で働いてみる気はないかな?」
「待遇はどうなるのでしょうかね?」
「待遇とか、その辺はこれからの相談と云う事になるがね」
 土師尾常務は急に興醒めたような云い草になるのでありました。「まあ、一応営業見習いと云う事になるから、最初からそんなに賃金は出せないけど」
「でも梱包とか発送とか、配達なんかの仕事もやるんでしょう?」
「そう云う仕事は、まあ、誰にでもやれる仕事だしね」
「何だか待遇の話しをしたら急に、物腰から不快感が滲み出しましたね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少しムキになって全く心外であるような口振りで云うのでありました。と云う事はズバリ、そんな事、であったと云う証明でありましょう。

 何となく気まずい沈黙の時間が少々流れるのでありました。
「すぐにとはいかないけど、将来営業の仕事も熟せると云う目鼻が付いたら、まあ、贈答社で払っていたのと同じ給料くらいは出す心算でいるよ」
「将来ではなく、現在ではどのくらいの待遇をしていただけるんですかね?」
「それはまあ、はっきりこのくらいと確約は今は出来ない。未だ会社を立ち上げようと云うタイミングだから、将来を期して貰うしかないな」
 土師尾常務は頑治さんが待遇面の話しを持ち出すとは思ってもいなかったようでありました。失業者の分際なんだから雇って貰うだけで有難い筈だし、幾ら貰えるかとか、そんなさもしい希望はこの際棄てて、少ししおらしくしろと云うところでありましょう。
「待遇の話しをされるのが不愉快なんですか?」
「そう云う訳じゃない」
「常務の始められる会社に来いと誘われて、それならば待遇面はどうなるのか、と聞くのは不遜で不謹慎な事なんですかね?」
「そうじゃないよ」
 土師尾常務は不機嫌を露骨にするのでありました。少なくとも自分の興す会社に来て欲しいと持ちかけるのなら、少しくらいは下手に出ても良さそうなものであります。自分の意にそぐわない返答が相手から返ってきたり、聞かれたくはない事を聞かれたりするとすぐにこう云う感情的な反応を示す辺り、まあ、相も変わらずのようであります。
「ところで常務は、お寺の仕事は続けていらっしゃるのですか?」
 頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「ああ、うん。副住職としての責任もあるし、僕は僧職を天職と考えているから」
(続)
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あなたのとりこ 746 [あなたのとりこ 25 創作]

「新しく興す会社に専念する、と云う事ではないのですか?」
「贈答社にいた時から僧侶は続けていたから、問題なく両方遣っていけるよ」
「これまでは遣っていけたのではなく、社長や片久那制作部長と云うしっかり会社を見てくれる人が別にいたから、無頓着でいられたんじゃないのですか?」
 頑治さんにそう訊かれて土師尾常務は電話の向こうから、明らかにムッとしたような気配を伝えて来るのでありました。
「社長なんか贈答社の具体的な仕事なんか何も判っていなかったよ」
「しかし経営面ではちゃんと、社長と云う職責を果たしていたんじゃないですか?」
「どうだかね」
 土師尾常務はあくまでも懐疑的なのでありましたが、寧ろ土師尾常務自身が取締役としての職責を果たしていたのかどうかも疑わしいのであります。殆どを片久那制作部長に任せきり状態だったくせに、それを、問題なく両方遣っていた、と抜け々々と云い切る辺り、この人の神経は一体どうなっているのかと頑治さんは呆れるのでありました。
「しかし自分の目には、経営とか取締役としての働きは片久那制作部長が一人で引き受けていたし、常務はすっかりノータッチだったように見えていましたけどね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少し熱り立つのでありました。「僕が営業をしっかりやらないと、他に頼りになる人間が居なかったからそう見えていただけで、僕だってちゃんと取締役としての働きは熟していた心算だ。日比君が全く頼りにならなかったから仕方ないじゃないか」
 この意見にも頑治さんは呆れるのでありました。この人の自己肯定の強さなんてえものは慎に以って筋金入りで、自己省察と云う思考は頭の片隅にも持ち合わせていない人のようであります。これでは何を云っても話しにならない訳であります。
「それなら何故今、日比課長の後塵を拝するような体たらくになっているんですか?」
 頑治さんにそう云われて、明らかに土師尾常務は電話の向こうでたじろぐのでありました。どうしてそんな情報を頑治さんが知っているのかと驚いたのでありましょう。
「別に後塵を拝するような事にはなっていないよ!」
 土師尾常務はあたふたしながらそう抗弁するのでありました。「どうしてそんな難癖を付けるんだ! 社長から電話でもあったのか?」
 これは間抜けにも頑治さんの指摘をうっかり認めたようなものであります。
「社長が自分にそんな電話をしてきたと、どうして咄嗟に考えたんですか? そんな事を云うのは社長に違いないと思ったんでしょうが、別に社長から電話なんかありませんよ。どこをどう考えても、社長が自分に電話をしてくる訳がないじゃないですか。まあ、社長に対する不信感とか負い目から、竟そう考えて仕舞ったんでしょうけど」
 頑治さんは落ち着き払って返すのでありました。
「じゃあどうして僕が日比君の後塵を拝しているとか無礼な出鱈目を云うんだ?」
「出鱈目ではなく図星だと今の常務の慌てぶりが証明しているんじゃありませんか?」
「僕に日比君如きより劣るところなんか全くないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 747 [あなたのとりこ 25 創作]

 土師尾常務は強い調子でそう云い切るのでありましたが、その必死さがどこか妙に痛々しいと頑治さんは感じるのでありました。
「ああそうですか。それならそれで良いですけどね」
 頑治さんは軽くあしらうように返すのでありました。
「で、そう云う憎まれ口を叩くところを見ると、僕のところに来る気はないんだね?」
「別に憎まれ口を叩いていると云う心算はありませんが、勿論常務のお話しに乗る気は綺麗さっぱりないですね、折角のお誘いではありますが」
 頑治さんはきっぱりとそう伝えるのでありました。
「判った。それじゃあこれ以上は時間の無駄だからこれで電話を切るよ」
「そうしてください。じゃあ、お元気で」
 頑治さんがそう云って受話器を耳元から離そうとすると、土師尾常務は頑治さんに先に電話を切られてたまるものかと、急いで自分の方から少し乱暴に受話器を架台に戻すのでありました。頑治さんは電話の切れる音を聞いてから、静かに受話器を架台に載せるのでありました。幼稚な仕業ながら、これもこの人のメンツと云うところでありますか。
 しかし、今になってまあよくも頑治さんにこのような仕事のお誘い電話を掛けてきたものであります。その間抜け具合に思い至らないのでありましょうか。
 いくら紙商事で居場所をなくしていて、早晩辞める事になるだろうからと、自分で今迄の経験を活かして新しい会社を立ち上げようとするところは、新たな活路としては然程不自然ではないでありましょう。まあ、成功するか失敗するかは別として。
 頑治さんとはしっくりいっていなかったのだし、幾つもの嫌な経緯もあると云うのに、そんな誘いに頑治さんがおいそれと乗ってくると本気で考えたのでありましょうか。頑治さんが仕事探しに窮していると考えてそんな頑治さんなら薄給でこきつかえると踏んで、弱みに付け込む魂胆で誘ってきたのなら、考えがお目出度いと云うのも程があると云うものであります。この人は自分が相手にどのように思われているのか、一顧もしないのでありましょうか。まあそうだから、こう云う事を仕出かすのでありましょう。
 そう云う人でありますから、ひょっとしたらこの後袁満さんにも無神経なお誘い電話をするのかも知れません。袁満さんにつれなくされたら、場合によっては均目さんにも電話を掛けるのかも知れません。まあ、苦手な那間さんにはしないでありましょうが。
 で、袁満さんにも均目さんにもまんまと断られて、折角温情からこうして誘ってやっているのに何と恩知らずな連中かと、逆恨みして眉間に皺でも寄せるのでありましょう。何だかその不愉快顔が今から見えるようでありますが、まあ、これはあくまでも頑治さんの推量で、あの土師尾常務でも流石にそんな事はしないかも知れませんが。

 さて、この土師尾常務からの電話で、頑治さんは何だか一区切りのような気がするのでありました。漸く贈答社関連の事態はこれにてけりが付いたと云う思いでありました。
 こうなれば愈々頑治さん本人の就職と云う訳であります。ここいら辺で竟に腰を上げる潮時だと云う事になるのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 748 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると、取り敢えずの手段として飯田橋の職安にでも出向くと云う事になるのであります。他に新聞の求人欄とか、折り込み広告に掲載されているところとかもあるでありましょう。この前贈答社に就職する折は職安で紹介を受けたのでありましたが、それも結局短期間で職を失うと云う結果になったのでありました。
 依って、別にげんを担ぐとか云う訳ではないのでありましたが、今回は新聞とか折り込みを先ず利用してみると云う手もあるかと考えるのでありました。学生時代からあんまり詳しく読むと云うのではありませんでしたが、一応新聞は朝刊だけは惰性でずっと取り続けているので、今朝のものを手に取ってペラペラと紙面を繰ってみるのでありました。
 職種は特に拘りはないのでありましたけれど、まあ何となく気楽な仕事で、そこそこ生活が立ち行く程の賃金が得られればそれで良かろうと思いながら、並んでいる順にいくつかの記事を読んでみるのでありましたが、なかなかピンとくるものは見付けられないのでありました。そんな漠然とした希望で探しても、それは確かにこれと云った仕事は探し得ないでありましょう。まあそうなると、贈答社で遣っていた倉庫の仕事とか梱包配送及び車での配達仕事云うのが、まあ当面一番無難な線と云う事になるでありましょうか。
 帯に短し襷に長し、なんと云う言葉を頭の隅に思い浮かべながら暫く求人欄の紙面に見入っていると、突然電話の呼び出し音が頑治さんの耳朶を揺らすのでありました。頑治さんは受話器を取り上げてそれを耳に宛がうのでありました。
「ああ、あたし。こんな時間にご免なさい」
 それは夕美さんの声でありました。
「別にそんな夜更けでもないから謝る必要はないよ」
 そう応えながら、しかし電話を掛けるには不自然な程遅い時間だと夕美さんの方は思ったから、先ずそう謝ったのでありましょう。と云う事は夕美さんとしては大いに遅いにも関わらずこうして電話をしてきたという事でありますか。それはつまり何か不測の事態でも出来したから時間を憚らず電話をした、と云う事なのでありましょうか。
「そうね、未だ寝る時間には早いわね」
「何かあったのか?」
 頑治さんはそう訊きながら、ひょっとしたら夕美さんのお母さんの身に、良からぬ何かが起こったのかと心配するのでありました。
「ううん、何かあった訳じゃないけど、頑ちゃんが元気にしているかなって思って」
 あんまり切羽詰まった語調でもなく夕美さんがそう云うのを聞いて、頑治さんは一先ず胸を撫で下ろすのでありました。
「体調はまあまあだよ。今、コーヒー飲みながら新聞の求人欄を見ていたところだ」
「ふうん。と云う事は、未だ就職は決まっていないのね」
「そう云う事。何だかんだあってようやく今の今、その気になったところかな」
「何だかんだって、何かあったの?」
 今度は夕美さんが心配そうな気配を見せるのでありました。
「いやあ、つまりようやく一区切りついたような気になったと云う事だよ」
(続)
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あなたのとりこ 749 [あなたのとりこ 25 創作]

「随分一区切りが遅くなったわね」
「まあ、俺はのんびり屋だからね」
「で、上手くいきそう?」
「そうえね、未だ何とも云えないけどね。そうおいそれとはいかないと思うけど」
 如何にも緊張感のない云い方かと、云いながら頑治さんは思うのでありました。
「頑ちゃんなら、屹度大丈夫なんじゃないかしら」
「まあ頑張ってみるよ。懐具合も心細くなってきた事だし」
 頑治さんは少しくらい切迫感とか深刻さを醸し出そうとするのでありましたが、自分でも何とも間抜けな云い草にしか聞こえないのでありました。
「お母さんの具合はどうだい?」
「一週間くらいで取り敢えず退院したんだけど、三日おきに通院しているわ」
「それは入院しているより大変そうだなあ」
「本人が病院を出たくて仕様がなかったようだし、その方が気持ちの上では楽みたいよ。通院と云っても車で十分もかからないから。父と兄とあたしが交代で連れて行っているんだけど、何だか皆に大事にされて少し嬉しそうよ」
「ふうん。まあ、次第に元気になっている気配が窺われるのなら、何よりだよ」
「そうね。それで、この儘お母さんの体調に特別変化がないようなら、ひょっとしたらあたし、短期間だけどそっちに行く事になるかもしれないわ」
「え、それは本当かい?」
 頑治さんは思わず嬉しそうな声を上げるのでありました。
「うん。大学の考古学研究室にも仕事上の用事があるから。まあ、本当に短期間の、仕事だけの出張だけど、でもそうなると頑ちゃんの顔も見る事が出来るしね」
「それは良いや。俺としてはそうなる事を祈るだけだ」
「未だはっきりしないけど、あたしとしても是非行きたいし」
 これは頑治さんにとっては思いがけない朗報でありました。
「そうなって欲しいなあ。今から楽しみだ」
「まあ、そんな訳で、あたしの近況としてはそんなところかしら。頑ちゃんの方もようやく就職に向けて動き出したようだし、これであたしもちょっと安心したかな。今度はあたしの方が頑ちゃんの朗報を期待しているわ。就職活動頑張ってね。何だか取り留めのない電話だけど、久しぶりに頑ちゃんの声を聞けて嬉しかったわ」
「うん。近々夕美に逢えるかも知れないと思うと、俄然元気が出てきた」
「じゃあ、体に気を付けてね」
「判った。夕美の方もね」
 そう云い合って、夕美さんからの電話は終わるのでありました。
 まあ、夕美さんの云うように特段の用事もない取り留めのない電話でありましたが、頑治さんは思わぬ朗報を聞く事が出来たのでありました。
 翌朝頑治さんは久々に、目が覚めると早々に布団を抜け出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 750 [あなたのとりこ 25 創作]

 身支度を整えると頑治さんはアパートを後にするのでありました。大した距離でもないから電車に乗る迄もなく、頑治さんは飯田橋の職安に向かって外苑通りを歩くのでありました。途中で食事をしようかとも考えるのでありましたが、さして腹も空いていなかったので用事が終わった後で、戻ってからにするのでありました。
 道中半ばに差し掛かった辺りで、靴の中で異変が起こるのでありました。靴下が歩の重なりに連れて次第に脱げて行くのでありました。屹度口の緩くなっていた靴下をうっかり履いて仕舞ったのでありましょう。足裏に這う不快に頑治さんは立ち止まって足を靴から引き摺り出して、土踏まず辺りに蟠る靴下を引っ張り上げようと思うのでありましたが、往来の真ん中でそう云う様の悪い行為をするのも何やら憚られるのでありました。
 足裏の不快に耐えながらも頑治さんは飯田橋の職安に辿り着くのでありました。その時には靴下はすっかり足から脱落して、靴中の爪先辺にいるのでありました。そう云えばこの前職安に来て贈答社を紹介された時にも、この靴下の不具合があったなと頑治さんは思い出すのでありました。先回の時に紹介された贈答社への就職は早々に不始末に終わったのでありましたが、これも不吉な予兆だと思えなくもないのでありました。
 頑治さんは気を取り直して職安の中に入るのでありました。するとカウンターの傍に見た事のある後ろ姿の人物を認めるのでありました。紛う事なく、それは刃葉さんでありました。頑治さんは慌てて横移動して、ポスターの張ってある衝立の傍にそれとなく身を隠すのでありました。別にこそこそ隠れる必要はないのではありましたけれど。
 衝立から顔を半分出して見ていると、刃葉さんは用事を済ませたようで出入り口の方に歩いてくるのでありました。真っ直ぐに前を見て頑治さんには全く気付かないのでありました。刃葉さんは例に依って不機嫌そうな顔でその儘職安を出て行くのでありました。
 職探しに来たのでありましょう。と云う事は刃葉さんが北海道を引き上げて、舞い戻って来たのは先ず確かなようでありました。もう全く関係ない人なのではありますけれど、仕事を辞めて以来三回も出くわすと云うのは、何やら妙な因縁を感じて仕舞うのでありました。これも不吉な前兆と云うべきかどうかは俄には判断出来ないのでありますが。
 頑治さんは刃葉さんに代わって、と云う訳ではないのでありますが、カウンターの方に進むのでありました。カウンターの向うには、これも顔に見覚えのある職員が座っているのでありました。先回も世話になった田隙野道夫氏でありました。
 田隙野氏は頑治さんを見て、おやと云う顔をするのでありました。どうやら頑治さんの事をうろ覚えながらも覚えていたのでありましょう。
「これはこれは、ええと、・・・」
 田隙野氏は頑治さんに笑いを向けながら、誰だったか思い出そうとしているようでありました。「名前は失念いたしましたが、前にこちらにいらした事がある方ですよね?」
「ああどうも。御無沙汰しております」
 頑治さんはカウンターを挟んで真向いの椅子に座るのでありました。「前にも仕事を紹介して貰った唐目頑治と云います。この度は前に紹介して貰った仕事をしくじりまして、また性懲りもなく何か仕事を紹介して貰おうとやって来たのであります」
「ああそうですか。それはどうも。・・・」
 田隙野氏は気の毒そうな顔を向けるのでありました。「で、また仕事探しにいらしたと云う事ですが、今回はどんな就職先をお探しですかな?」
「そうですねえ、まあ、こちらの希望としては、給料とか待遇なんかは特に気にしないのですが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云うそんな虫の良いようなところからの求人はありませんかねえ?」
 頑治さんが云うと、田隙野氏は妙な顔で頑治さんをまじまじと見るのでありました。
「成程ね。何やら前にも誰かから聞いた事のあるような条件ですが、そんな仕事があれば私の方が先にここを辞めて転職したいくらいです。ま、ちらと探してみましょうかな」
 田隙野氏は頑治さんの勝手な云い分を窘めもせずに、傍らの求人票のファイルを取り上げてペラペラと律義に頁を繰り始めるのでありました。
(了)
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