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あなたのとりこ 511 [あなたのとりこ 18 創作]

 頑治さんは珍しく一人で昼食を摂って早々に帰社すると、二人だけで話したい事があるからと土師尾常務に喫茶店に誘われるのでありました。考えてみたら土師尾常務と差しで話しなんか今迄した例がなかったから、頑治さんとしてはその誘いを何となく訝しく思うのでありました。しかしまあ、無下に断るような理由もなかったし、それにこれは誘いと云うよりは上司の命令なのでありましょうから、従うしかないと云うものであります。
 会社近くの多分土師尾常務行きつけの、如何にもありきたりで大して魅力的な店構えでもなく、何となく店内が妙に明るくて落ち着いた雰囲気が無さそうだったから今迄入った事もなかった喫茶店の、二階に通じる狭い階段下の奥まった席に着いてから、二人揃ってフレンドコーヒーを注文して、暫くしても土師尾常務はなかなか話を始めないのでありました。何やら気軽には云い出しにくいような類の話しなのでありましょうか。
 ま、目を合わせないでやや俯いて対面に仏頂面で座っているその顔つきと、大体が愛想も洒落っ気も全く感じられない、高々五分で済む程度の話しを持って回ったような云い回しで態々二十分をかけて、さも大仰に深刻めかして語ろうとするその何時もの話し振りでありますから、会話していて楽しかろうとは端から期待はしていないのでありました。これ迄も、もたもたと愚にも付かない戯れ言をしていないで、さっさと簡潔にして端的に話しを切上げてくれないかと思う局面が頑治さんには幾度あった事でありましょうか。
 先程注文したコーヒーを盆に載せて中年のウエイターが席の横に遣って来るタイミングで、それまで重々しく閉じていた口を開いて土師尾常務はようやくに喋り始めるのでありました。そっぽを向いていた頑治さんは目を徐にその小顔に向けるのでありました。
「なかなか思った通りに業績が回復しない」
 土師尾常務はコーヒーカップを持ち上げようとして、思いもしなかったその熱さに驚いて反射的に指をカップの取っ手から離すのでありました。「片久那君が辞めたので人件費はかなり節約出来たが、業績が回復しないと結局どう仕様もない」
 これは今迄片久那制作部長が如何に多額の報酬を受け取っていて経営を圧迫していたかを、暗に仄めかそうとしているのでありましょうが、それよりも多い額を自分も受け取っていたし今でも受け取り続けているという事実を脇に置いての言であって、真面目に聞くにはちゃんちゃら可笑しいと云うべきものでありましょう。そんな事情を頑治さんが、或いは従業員全員が全く知らないとでも本気で思っているのでありましょうか。
 それに、片久那君、と、まるで格下扱いするような云い草は、実に片腹痛いと云うものであります。片久那制作部長が居る時は、片久那制作部長、とか、片久那さん、とか、傲慢に取られないように大いに畏れて気を遣いながら呼んでいたくせに、その人が居なくなった途端、俄かに自分の部下だったような呼ばわり方をして見せるのは、これは逆に往時は全く頭が上がらないで小さくなっていたその鬱屈を、不注意にも自ら吐露して見せたという事になるでありましょう。慎に体裁のよろしくない仕業と云うべきでありますか。
 そんな風に頑治さんは土師尾常務の底意を秘かに嘲笑うのでありました。こんな頑治さんの心気を知ってか知らでか、まあ、知らでか、の方でありましょうけれど、土師尾常務は少しばかり調子に乗って片久那制作部長への評言を縷々続けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 512 [あなたのとりこ 18 創作]

「片久那君は自己主張の非常に強い人だったし、政治的な意見が少し偏っていたから、何かと扱いづらい人だった。偏屈で態度もどこか尊大で、それでいて下手に弁が立つから社長も色々手を焼いていた。何かの都合でお客さんに紹介する時があったけど、そのお客さんが無礼だと感じないか僕も何時も冷や々々していたよ。ああいう態度と云うのは、とてもちゃんとした社会人の態度とは云えないし、世間に通用するものじゃないよ」
 土師尾常務は何かあるといとも簡単に片久那制作部長に遣り込められていたから、欠席裁判的にその弁解がてら意趣返しをここで試みているのでありましょう。面と向かっては何も云えずにおどおどしていたと云うのに、居ないとなると俄にこう云う事を平然と云い出す輩は、逆にその人が蔑まれると云う辺りに思いが到らないのでありましょうか。
「ところで、自分に話したい事がある、と云うのは一体何でしょうかね?」
 頑治さんが話頭を変えようとそう云ってコーヒーカップを口元に持ち上げるのは、竟々浮かんで仕舞う憫笑をやや傾けたカップで以って隠そうとしての事でありました。
 これから暫く、縷々片久那制作部長への中傷を並べ立てようと考えていたであろう土師尾常務は、その自分の魂胆をやんわり拒むような頑治さんの云い草で、出し抜けに話しの腰を折られて少しまごまごするのでありました。そのまごつきを取り繕うためか、自分もコーヒーカップをゆっくり持ち上げて一口飲もうとするのでありました。
 しかし間の悪い事に思ったよりコーヒーが熱過ぎたようで口を付けた途端、びっくりして反射的にカップの縁から唇を離すのでありました。その動作の余波でカップの縁から中の液体が零れて、取っ手を持っていた土師尾常務の親指にかかるのでありました。
 それも屹度熱かったのではありましょうが、ここでカップを取り落としでもしたら余計みっともない事になって仕舞うと、頑治さんの手前も憚らず顔をクシャリと顰めては見せたものの、そこはグッと堪え切るのでありました。この土師尾常務の一連の所作を見ながら、頑治さんの方ももう少しで口に入れたコーヒーを吹き出しそうになるのでありましたが、土師尾常務同様グッと堪えるのでありました。二人揃って見苦しい粗相をしたとなると、態々恥をかきに二人揃ってこの喫茶店に入って来たようなものでありますから。
「なかなか業績が回復しないんだ」
 土師尾常務はカップを受け皿に戻して、傍らに置いていたおしぼりで親指を拭きながら気を取り直すように先の言を繰り返すのでありました。
「それはさっき聞きました」
 頑治さんが無抑揚に応えると土師尾常務は一つ頷くのでありました。
「この儘いけばボーナスも今後、一切出せなくなるかも知れない。それどころか、はっきり云って会社が今年一杯持つかどうかも判らない」
「それは困りますねえ」
 何やら本題に入る迄の前振りがやけに長いと感じて、頑治さんはここも無抑揚にすげなく云って、椅子の背凭れの方に身を引いて土師尾常務の顔を見るのでありました。「それで、結局、繰り返しますけど自分への話しと云うのは何なんでしょう?」
 またそう訊かれて土師尾常務はもじもじと身じろぎするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 513 [あなたのとりこ 18 創作]

 これはなかなかに云い出しにくい話しのようであります。
「はっきり云うと、この儘黙って手を拱いている訳もいかないいから、結局人員を整理するしかないなと云う、社長と僕の結論だ」
 土師尾常務はそう云い終えてから頑治さんからおどおどと目を逸らすのでありました。この様子から察すると、どうやら頑治さんに退職を迫る心算のようでありますか。そのためにこの喫茶店に頑治さん一人を引っ張り込んだのでありましょう。
「ああそうですか。で?」
 頑治さんはここでやや身を乗り出して土師尾常務を凝視するのでありました。その視線に土師尾常務は臆して頑治さんの目にチラと当てた視線をまたすぐに外して、如何にも小心そうに眼鏡の奥の眼球をせわしなく微動させるのでありました。
「それでつまり、・・・」
 土師尾常務はやっと意を決したように頑治さんの顔を正面から見て、竟々逸らせて仕舞いそうになる視線を何とか励まして、必死に先を続けるのでありました。「性質から云って倉庫の管理仕事や梱包とか配送の仕事は専門職と云うものではないし、云ってみれば誰にだって出来る仕事だと云う事になる。それで、要するに、つまり、・・・」
「要するに人員整理の観点から、自分に会社を辞めてくれと云っているんですね?」
 頑治さんにストレートにそう云われて土師尾常務は動揺して、あたふたとコーヒーカップを持ち上げるのでありましたが、気持ちの波立ちが指先に伝わってまたもや中身を縁から零して仕舞うのでありました。これも取っ手を持つ親指に掛かるのでありましたが、今度は少し冷めていたようで、如何にも熱そうな表情はしないのでありました。
「これはまあ、今の段階では会社としての、お願い、と云うところで、絶対に辞めて貰うと決定した訳ではないんだけど。・・・」
 土師尾常務は少し慌てて、頑治さんが急に逆上してあらぬ行動に出るのを予め防ぐ布石の心算か、慌ててそんな事をもたもたと付け足すのでありました。
「ああそうですか。馘首だと宣された訳ではないと云う事ですね?」
「そう。あくまでも、お願い、と云う段階だよ」
「でも、要はそう云う経営の方針なんでしょうから、殆ど、辞めろと云われているのと同じだと受け取って良いんですよね?」
「まあ、そこそこ強い要請、と云うのか、・・・」
「何だか苛つくような、妙にはっきりしないもの云いですね」
 頑治さんは試しに少し癪に障ったような云い草をしてみるのでありました。すると土師尾常務は何とか構えていた体面も放ったらかしにして、ビクンと震えて全身で怖じ気を表するのでありました。その大袈裟さに頑治さんは鼻白むのでありました。何と云う肝っ玉の小さい、いざとなったら何の頼りにもならないような御仁でありましょうか。
「いや勿論、唐目君に全くその気が無いのなら、それは仕方が無いからこちらとしても別の方法を考える事になるけど。・・・」
 土師尾常務はお追従笑いを送って寄越すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 514 [あなたのとりこ 18 創作]

「この場で即答を求められている、と云う訳ではないんですね?」
 頑治さんが訊くと土師尾常務はせわしなく何度も首を縦に振るのでありました。
「勿論。じっくり考えてから返事して貰って構わない」
「ああそうですか」
「でもその後の事もあるから、なるべく早く返事を聞かせて貰いたいけど」
「判りました。ではじっくり、且つ、なるべく早く考えます」
 頑治さんはそう云ってからそそくさと席を立とうとするのでありました。
「ああそれから、・・・」
 土師尾常務は去ろうとする頑治さんを呼び止めるのでありました。「今ここで話した事は、組合には内緒にして置いて貰えるかな」
 頑治さんは土師尾常務の顔を立った儘無言で見下ろすのでありました。その頑治さんの表情にどうしたものかえらく怖じたようで、土師尾常務は慌てて頑治さんから目を逸らすのでありました。テーブルの上に置いた右手の親指が戦慄いているのでありましたが、それを隠すためその右手をテーブルの陰に下にそうとして、コーヒーカップの受け皿に無様に引っ掛けて、無用に陶器の騒ぐ音を辺りに響かせて仕舞うのでありました。
「若し自分が今の常務の申し出を断った場合は、今度は甲斐さんとか袁満さんとか、別の人に同じような話しを持ちかける心算なのでしょうね?」
「唐目君がどうしても嫌だと云うのなら、それはまあ、そうなるかな」
「だったら、俺がこの話しを組合にしようがしまいが、遅かれ早かれ結局皆に知れるじゃないですか。それに誰かを辞めさせようと云う経営側の策謀である以上、この件は組合で検討するべき課題以外ではないと思われますが」
「つまり、早速組合に告げ口すると云う事かな」
「告げ口とはちょっと聞き捨てならない云い草ですね」
 頑治さんは激したと云った風ではないけれど、きつめの語調でとそう云って、瞼を細めてその奥の眼を厳めしくして土師尾常務を睨むのでありました。
「ああいや、そんな心算で云ったんじゃないけど」
 土師尾常務は頑治さんの剣幕に粟立つのでありました。
「その、そう云う心算、とはどう云う心算ですかね」
「そんなに喧嘩腰にならなくても、・・・」
 土師尾常務は声を引き攣らせるのでありました。土師尾常務がどうしてこんなに大仰に狼狽えているのか頑治さんはさっぱり判らないでありました。自分の顔がそんなに迫力満点であったのでありましょうか。しやまあ、然程ではないと思うのでありますが。

 未だ喫茶店に残っている土師尾常務をその儘にして頑治さんが会社に帰って来ると、袁満さんが早速土師尾常務と頑治さんの差しでの話しに興味を示すのでありました。
「土師尾常務と何の話しをしていたのかな?」
 袁満さんは制作部スペースに行こうとする頑治さんを呼び止めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 515 [あなたのとりこ 18 創作]

「まあ色々と。・・・」
 頑治さんは云い淀むのでありました。先程喫茶店で土師尾常務に組合で検討するべきところの課題だと宣したと時に比べれば、些か腰の引けた態度と云うべきでありますか。ここに於いて俄かに歯切れの悪くなった自分の口振りなんと云うものは、何に遠慮して、或いは何を憚っての事なのか頑治さんは自分でも確とは判らないのでありました。
「何か待遇とかに関して、妙な提案とかされなかったのかな?」
 当人としては大して意識はしていないのかも知れませんが、予想しなかったなかなか勘の良い袁満さんの質問に頑治さんはほんの少し驚くのでありました。
「実はちょっと袁満さんにだけご相談したい事があるので、後程会社が終わってからで結構ですので、話しを聞いて貰えますかね?」
「判った。それは構わないけど、何だいその話しと云うのは?」
「ですからそれは後程二人で」
「ああそうか。そうだよね」
 袁満さんは自分のこの頓馬な応対を恥じるように笑うのでありました。「じゃあ、会社が終わってから二人で居酒屋にでも行くか。それとも酒抜きの方が良いかな」
「それはどちらでも構いませんが」
 頑治さんとしては腰を据えて話をする気はなかったので、ちょっと倉庫にでも来て貰うか、それとも喫茶店か何処かでちょいと、と云う心算でありましたが、袁満さんが酒を飲みながらの方が良いと云うのであれば当然それでも構わないのではありましたけれど。
 と云う事で二人は会社が引けてから、会社の近くにあるハトヤと云う喫茶店に連れ立って入るのでありました。ここは大して凝った感じも無く、土師尾常務に連れていかれたところと同じありきたりの店ながら、この界隈では古くからある店でありました。
「相談したい事と云うのは何だい?」
 二人掛けの席に着いてコーヒーを注文してすぐに、袁満さんがもどかしそうに前置き無しに聞いてくるのでありました。頑治さんから相談したい事があると云われて、そんな事は今迄無かったものだから、大いに気になっていたのでありまあしょう。
「これは、本来は組合員全員で検討すべき事かと思うのですが、まあ一応、委員長である袁満さんに先ず話して、それから全員に諮るべきかどうか判断して貰いたい訳です」
 頑治さんは狭い店内にそれ程邪魔にはならない程度の音量で響いているクラシック音楽に負けない程度の、抑えた声のボリュームで云うのでありました。
「土師尾常務に何を云われたの?」
「実は会社を辞めてくれないかと提案されたのです」
「え、そんな事を!」
 袁満さんは大いに驚いて、店内の雰囲気にはそぐわない些か頓狂な声を上げるのでありましたが、しかしすぐにそれに気付いて、恥じ入るように辺りを見回して身を縮めてから続けるのでありました。「どうしてだか、理由は説明されたんだろう?」
「ええ、それは勿論そうですけど」
(続)
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あなたのとりこ 516 [あなたのとりこ 18 創作]

「土師尾常務の云った、唐目君を辞めさせようとする理由は何だい?」
「会社存亡の危機であるから人員整理の一環で、と云う事のようです」
「アイツは未だそんな事をほざいているのか!」
 袁満さんは声を荒げるのでありました。
「まあ、業務の仕事は俺じゃないと出来ない、と云う訳ではないから会社を辞めさせるとしたらそう云う俺から、と云うところでしょうね」
「だって唐目君は片久那制作部長が居た頃から、制作の方もやっているじゃないか」
「あれはまあ、云って見ればちょっとした手伝いみたいなもので、制作の仕事量が減れば俺が居なくても、均目君と那間さんの二人で充分動かせるでしょう」
「その辺は詳しくは判らないけど、でも結構、唐目君は片久那制作部長から頼りにされていたみたいな感じに受け取っていたけどなあ」
「ま、殊更そんな事もなかったと思いますよ」
 頑治さんはコーヒーを一口飲んでから少し身を背凭れの方に引くのでありました。
「でも俺の感触としては、唐目君は業務仕事とは別のところでも、会社に絶対必要な人材だと思っているけどねえ。実は俺は秘かに、片久那制作部長が居なくなった後では、会社の中で将来、唐目君が一番頼りになる存在になると考えているんだけど」
「いやあ、お世辞と勘違いか買い被りだとしても、有難いお言葉です」
 頑治さんは背凭れから身を起こして袁満さんに向かって、多少冗談交じりの仕草で以ってお辞儀をして見せるのでありました。
「均目君も那間さんも多分俺と同じ考えだと思うよ。甲斐さんだってそう感じていると思うし。まあそう思っていないのは薄ぼんやりしている日比さんと、人を見る目がない土師尾常務くらいだろう。社長にしたって唐目君にはちょっと目を掛けている節もあるし」
「でも土師尾常務が俺に会社を辞めろと促すのは、社長も承知の上じゃないですかね」
「いやいや、社長には適当な事を云ってあやふやにしているに決まっている」
 袁満さんは端から土師尾常務を信用していないのでありました。「でも、そう云う話しが土師尾常務からあったとなると、これは間違いなく組合案件だから、組合全員に呼集をかけて皆で対策やら対抗手段を話し合う必要があるな」
「土師尾常務には組合には未だ話すなと念押しされましたけど」
「そんな自分にだけ都合の好い云い草は通用しない」
「若し俺が辞職勧告を受け入れないとしたら、他の人にその対象を変えようと云う土師尾常務の目論見のようですから、その内緒にしておけと云う申し出は俺としてもはっきり断りましたし、それで袁満さんにこうして洗い浚い話しているんですけど」
「唐目君が内緒にしろと云う土師尾常務の申し出を断ったのは、全く正しい判断だよ」
 袁満さんはここで断固頷いて見せて、頑治さんの判断が絶対の是だと所作を以って請け合うのでありました。まあ別に頑治さんとしては、自分のその判断が間違っているかも知れないと云う不安は、殆ど抱いていなかったのでありましたけれど。
「全く土師尾常務には少しの油断もならないな」
(像)
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あなたのとりこ 517 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんはここで改めて怒り心頭に発す、と云う表情をして見せるのでありましたし、実際に心底から憤怒しているようでありました。それは土師尾常務の邪悪な謀を断固阻止するんだと云う、組合の委員長としての決意の表明のようでもありましたか。

 この頑治さんの報告を受けて日比課長も加えた全従業員に依る会議が持たれるのでありました。場所はこれも例に依って地下鉄神保町駅近くの居酒屋でありましたが。
「結局土師尾さんは、この会社をどうしたいのかしら」
 何時もの通り頑治さんと均目さんに挟まれた位地に着席した那間裕子女史が、ビールグラスを口元まで持ち上げながら首を傾げるのでありました。
「片久那制作部長が居なくなった後の、自分の会社での従業員の人望とか社長の受けとかを考えて、唐目君が目の上のたん瘤になるかも知れないと判断したんじゃないかな、それで先手を打つ心算で辞めさせようと目論んだんだと俺は思うよ」
 袁満さんが自説を披露するのでありました。
「いや、あの人は別に俺を、片久那制作部長のような恐るべき存在だとは、全く見做していないでしょう。厄介払いすると云うよりは、単に業務仕事は誰にでも出来る首の挿げ替えの利く職種だと考えて、それで俺に先ず辞めてくれと云ったんだと思いますよ」
 頑治さんは冷静ぶった語調で解説して見せるのでありました。
「まあ確かに、あの人は人を見る目がないから、多分唐目君の真価を全く判っていないでしょうね。大体あの人は自分以外の人には一切興味も無いしね」
 甲斐計子女史がウーロン茶を一口飲むのでありました。
「俺が退職勧告を拒否したら他の人に的を移す心算でいたようでしたから、要は誰でも良いから一人辞めさせようと考えていたんじゃないですかね」
「一人だけを辞めさせる心算、なのかしら」
 那間裕子女史が先程とは反対側に首を傾げるのでありました。
「と云う事はつまり、どう云う心算でいると思うんですか?」
 対面に座る袁満さんが那間裕子女史と同じような形で首を傾けるのでありました。
「ひょっとしたら最終的には社員全員を解雇する心算なのかも知れないわよ」
「そうなったら、会社は遣っていけないじゃないですか」
「会社解散を秘かに狙っているのかも知れないわ、社長と結託して」
 その那間裕子女史の説に袁満さんはギョッとして大袈裟に目を剥くのでありました。
「でもそうなら土師尾常務の居場所もなくなるでしょう。あの人はこの会社だから常務としてふんぞり返っていられるけど、他の会社では全く通用しない人だし」
「それはそうだけど、ひょっとしたら贈答社解散の後は、自分だけ下の紙商事で雇って貰えると云う密約が、社長との間にあるのかも知れないし」
「でもそうなら、今の贈答社で獲得している好待遇は期待出来ないでしょう」
「まあ、それもそうだけど」
 那間裕子女史はまた反対側に首を曲げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 518 [あなたのとりこ 18 創作]

「坊主のアルバイト代と込みなら、何とか今の生活を維持していけるだけの収入が確保出来ると、そんな風な計算をしているのかも知れない。」
 ここで日比課長が口を開くのでありました。
「いや、アイツの坊主のアルバイトは、肩書きこそ、副住職、と云う偉そうなものだけど、実際は自分から頼み込んで遣らせて貰っているみたいで、お盆とかお彼岸だとかの坊主の繁忙期に住職の手伝いであちらこちらの檀家回りを分担して、その分の割り前を貰うと云う形のようだから、坊主稼業で大忙し、と云う感じじゃないんじゃないのかな」
「おや、袁満君は土師尾常務のアルバイトに関して結構詳しく知っているなあ」
 日比課長が意外と云った顔つきをして見せるのでありました。
「ずっと前にそんな話しをチラっと聞いた事があったんだよ。それに第一、あんなヤツがそれ程坊主として重宝されているとも思えない。屹度お金に対してはそっちでも業突く張りで通っているんだろうから、実はお寺の方からは疎まれているのかも知れないし」
「ああ成程ね。まあ確かにお寺の方で充分な収入があるなら、ウチの会社になんかに居座らないで、とっくの昔にそっちの道に専念しているか」
「まあ時々、ウチの仕事をサボってそっちの方に精を出している事はあるけどね」
 袁満さんはここで憫笑して見せるのでありました。「まあ要するに、お寺のアルバイトだけではとても食っていけないから、ウチを辞めないんだよ」
「じゃあ、全員解雇を目論んで会社を台無しにしたら、土師尾さんとしても困る訳ね」
 那間裕子女史が話しを本筋に戻すのでありました。
「まあ、袁満さんの今の話しが本当だとしたら、と云う事だけどね」
 ここで今迄捗々しく話しに参加してこなかった均目さんが口を開くのでありました。
「絶対そうかと聞かれれば、俺としてはちょっと自信が無いところもあるけど」
 袁満さんが均目さんに及び腰を見せるのでありました。
「まあ、全員解雇の目論見があるのなら個々順番に退職を唆したりとか、そんなまわりくどい事をしないで、もっと簡単で手っ取り早い方法がありそうなものよね」
 那間裕子女史が云うと頑治さんが頷くのでありました。
「そうですね。土師尾常務は短気で、時間を掛けてじっくり謀を遂行すると云うのは苦手のようですから、確かに全員解雇したいならもっと短絡的な方法を取るでしょうね」
「じゃあ要するに一人か二人、会社にとって比較的重要でない人を辞めさせて、それで会社を何とか存続させていこうと云う肚、と云う事になるか」
 均目さんが腕組みして宙の一点を見ながら云うのでありました。
「それにしてもその最初の一人が唐目君だとは、アイツも人を見る目が無い」
 袁満さんがビールが半分ほど残っていた自分のグラスを空けるのでありました。頑治さんは何だか嫌に自分を買ってくれている袁満さんに少しヨイショをする心算で、その空になったグラスに丁重な手付きでビールを継ぎ入れるのでありました。
「土師尾常務は唐目君の何に依らずカッチリした仕事振りを、秘かに持て余しているのかも知れない。自分が相当好い加減なヤツだと云う事を内心知っているものだから」
(続)
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あなたのとりこ 519 [あなたのとりこ 18 創作]

 均目さんがそう云って頑治さんを見るのでありました。「まあ、カッチリした仕事振りと云うのか、そつのない仕事振りと云うのか」
 カッチリした、と云うのを、そつのない、と云い直す均目さんの心底なんと云うものは、つまり頑治さんの仕事振りに対する評価を、暗にやや割り引きしたいと云う意図が働いて態々そう云い直したのかと、頑治さんはチラと考えるのでありました。ここのところ何となくしっくりいっていない均目さんと自分との関係から、言葉の端々にそんな少しねじけた均目さんの思惑を竟々疑って仕舞うのでありますが、しかしこれは寧ろ頑治さんの方が余計にひねくれているのではないかと疑うべきところであるのかも知れませんが。
 しかしところで、カッチリした、と云うのと、そつのない、と云うのでは、一体何方が評価として格上なのでありましょう。カッチリした、と云うのは要するに手堅いと云う意味合いでありましょうし、そつのない、と云うのは無駄のない効率的なとか云うところでありますか。となるとその二語は殆ど同じ謂いだとも云えるのでありましょう。であるならば、頑治さんの均目さんの心底に対する詮索は無意味だと云う事になりますか。
「さあ、唐目君」
 その言葉に思念の海から引っ張り上げられた頑治さんは、目の前に少し傾けて差し出されているビール瓶と、それを持つ袁満さんの顔に出くわすのでありました。これは先程頑治さんが注いであげたビールへのお返しであるとすぐに判るのでありました。
 頑治さんは慌ててグラスを持ち上げるのでありました。
「唐目君の次に辞めさせようと狙われているのは、屹度このあたしね」
 甲斐計子女史が袁満さんが頑治さんのグラスにビールを注ぐのを見遣りながら云うでありました。「春闘の後、社長と土師尾さんは、あたしには新しく計算された賃金を適用したくなかったんだから、要するにあたしも厄介者と見做されているんでしょうね」
「確かに。そうなると辞めさせたいのは唐目君と甲斐さんと云う事になるか」
「何だよ日比さん、自分じゃなくてホッとした、と云うような云い草だな」
 袁満さんが日比課長を少し険しい目で見るのでありました。
「いや、別にそう云う事じゃ全然ないよ」
 日比課長はムッとしたような顔をして慌てて否定するのでありました。それから自分の猪口に日本酒を手酌で注ぎ入れるのでありました。それはまるで取り繕うような仕草に映るのでありましたが、別に日比課長としてはそんな心算ではなかったでありましょう。
「甲斐さんも、会社にとっては必要な人よ」
 那間裕子女史が甲斐計子女の気持ちを宥めるのでありました。
「でも社長と土師尾さんはそうは思っていないわ。あたしの仕事も、すぐにもっとお給料の安い若い人と、首の挿げ替えが利く仕事程度にしか考えていないでしょう」
「それなら、あたしだって不必要と思われているかも知れないわ」
 那間裕子女史が手酌でビールを自分のグラスに注ぎ入れるのでありまあした。それを見て、ああ気が利かなかった、と頑治さんは秘かに反省するのでありました。
「そんな事はないでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 520 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんは那間裕子女史の危機意識にまるで意を寄せないのでありました。
「ううん。あたしだって単なる出版物やその他の製品の修正要員でしかないもの。云ってみれば均目君の、朝寝坊する助手、みたいなところかしらね」
 那間裕子女史は朝寝坊の自虐を一つ付け足して憂えて見せるのでありました。
「でもまあ、自ら辞める気は、今のところないんでしょう?」
 袁満さんは矢張りどこか那間裕子女史に対して親身と云うには物足りない、感情の抑揚が然して豊かではないような云い方で訊くのでありました。
「それはまあそうだけど、辞めろと云われればそんなにあたふたしないで、比較的すんなりと、はいそうですかって感じで辞めるかも知れないわ」
「でも気持ちはそうであっても、一応前に土師尾常務に何かひどい事を云われたりされたりいたら、従業員個々でそれに対応するのではなくて、組合員全員で共有一致して対処すると云う申し合わせをしたんだから、それには則ってもらわないと」
 均目さんが一応そう釘を刺すのでありました。
「それは判っているわ。唐目君もそれを念頭に土師尾さんの箝口令を拒絶して、こうして組合員全員に話してくれたんだろうし、あたしもそれはちゃんと守るわよ」
「組合で、土師尾常務の悪行を見越して、そんな申し合わせをしていたの?」
 日比課長が横の袁満さんに訊くのでありました。
「そうだよ。特別土師尾常務にビビッている訳じゃないけど、何せアイツは陰気で頓珍漢な謀の多いヤツだから、その方が何かと心強いからね」
「組合、と云う事なら俺には適用されないと云う事か」
「まあ、日比さんは一応こちら側の人間だとは思っているから、この原則からは除外と云う事もないけどね。若し心配なら今からでも組合に入れば良いし」
 袁満さんにそう云われても日比課長は頷きはしないのでありました。矢張り未だ何となく組合に入る事にしっくりいかないところがあるのでありましょう。
「で、唐目君は個人としては結局どうする心算なの?」
 那間裕子女史が頑治さんの顔を見るのでありました。「この際だからこんなウダウダと厄介な会社は辞めて、新しい仕事を探す気になっているの?」
「そうですねえ、・・・」
 頑治さんはあやふやな返事をするのでありました。
「それとも、未だ残る気はあるのかしらね?」
 これは甲斐計子女史が続けて問う言葉でありました。
「まあ、俺みたいなヤツは何処に行っても通用すると云ったタイプの人間じゃないから、そんなに簡単に会社を辞める訳にもいきませんかねえ」
「ううん。唐目君なら、ここに居る誰よりも手早く確実に次の仕事を見付けて、それに適応する能力があると思うわよ、お世辞じゃなくて」
 そう云いながらも甲斐計子女史は、頑治さんがそう簡単に会社を辞めないだろう事に少し安堵しているような表情をも見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 521 [あなたのとりこ 18 創作]

「ここで唐目君に辞められると組合員は四人になって、五人と四人とでは何となく、団交の時の迫力が違うような印象だしなあ。日比さんも当面組合に入る気はなさそうだし」
 袁満さんがそう云った後慌てて付け足すのでありました。「ああいや、勿論唐目君が単なる人数の内の一人に過ぎない、と云っている訳じゃないけど」
「当たり前でしょう。こう云っては何だけど、日比さんが入っての五人と、日比さんが居なくても唐目君が居る五人とでは、組合の安定感が格段に違うわよ」
 甲斐計子女史がここでこんな風に日比課長に対して邪険に云うのは、袁満さんの話しに依ると会社帰りに駅迄の道程の何処かで待ち伏せして、妙な下心から甲斐さんを食事に誘ったりすると云う行為に対して甲斐計子女史が甚く嫌悪感を抱いていて、その感情をぶつけてやろうと云う意からであろうと頑治さんは推察するのでありました。確かにそう云われて日比課長は抗弁したり冗談で返したりする事なく、おどおどと甲斐計子女史から目を逸らして、ばつが悪そうに自分のグラスに手酌でビールを注ぎ入れるのでありました。
「じゃあ、明日早速、組合員全員で土師尾さんを取り囲んで談判に及ぶの?」
 那間裕子女史が均目さんの酌を受けながら話を元に戻すのでありました。
「唐目君一人で、矢張り会社を辞めるつもりはない、と云っても、ああそうかと云う事で今度は他の誰かに矛先を向けるだけだろうから、ここは組合として団交を申し入れると云う風に持って行く方が良いかな。不当な退職勧告をこれ以上しようとするのなら、上部団体の全総連と図って、労働問題化すると脅かす方がアイツには利くだろうな」
 袁満さんが甲斐計子女史からビールを注いで貰いながら云うのでありました。
「明日早速、そうするの?」
 甲斐計子女史がビールを注ぎ終わって瓶を立てながら訊くのでありました。
「日を置くより、素早く反応した方が効果的なんじゃないかな、そう云うふざけた謀は断固許さないと云うこっちの意志を明快に伝える点でも」
 袁満さんが継がれたビールを一気に飲み干すのでありました。
「ま、明日定時にアイツがちゃんと会社に来たら、と云う事だけどね」
 日比課長が皮肉っぽく補足するのでありました。
「若しアイツが遅れて出社して来たとしても、来たら早速、と云う事で良いだけさ」
 袁満さんは日比課長の一言をすげなく脇に退けるのでありました。「どうかな、雇用問題で組合として話しがあるから時間をつくってくれ、と云う風に組合員全員で取り囲んで申し入れると云う事で一決して良いかな?」
「異議無し」
 これは均目さんの言でありました。その言に促されたように夫々は発声はしないけれど、個々に確と頷きを返すのでありました。この後は当日の手順とか申し入れる文言を確認して、この居酒屋での話し合いは散会となるのでありました。

 次の日の朝、例に依って得意先に直行すると云う土師尾常務からの電話が入るのでありました。ま、予想通りで、皆は別にこれで決意を削がれる事はないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 522 [あなたのとりこ 18 創作]

「戻るのは昼の二時を回ってからになるかも知れないってよ」
 甲斐計子女史は土師尾常務からの電話を切った後、声を大きくして少し離れた自分の席に座っている袁満さんに冷笑混じりに告げるのでありました。
「ふうん、午後二時ねえ」
 袁満さんは憫笑するのでありました。「はいはい、了解しました」
 袁満さんのその返事に同調して甲斐計子女史も鼻を鳴らすのでありました。
 袁満さんにする報告の音声が大きかったから、甲斐計子女史は当然聞こえたものと考えてか、制作部の方へは敢えて報告は無いのでありました。まあしかし、制作部の方も三人も目を見交わしながら、やれやれと云った感じの失笑を漏らすのでありました。
 間を置かず、すぐに袁満さんが制作部スペースにやって来るのでありました。
「アイツは例に依って例の如く遅い出社のようだけど、午後二時辺りは制作部の三人は何処かに出掛ける予定はないのかな?」
「あたしは会社に居るわよ」
 那間裕子女史が最初に応えるのでありました。
「俺も今日一日、何処にも行かずに社内に居ますよ」
 均目さんが続くのでありました。
「俺も居ます。と云っても下の倉庫に、でしょうけど」
 頑治さんも袁満さんの方に身を捻じって頷きながら云うのでありましたが、丁度そこに日比課長が袁満さんを追って製作部スペースの方に姿を見せるのでありました。
「俺は午後一で浅草の取引先の方に行かなければならないよ、前からの約束で」
「ああそうなの。出し抜けだなあ。昨日はそんな事云っていなかったけど」
 袁満さんが得心がいかない様子で口を尖らせるのでありました。
「多分談判は朝一だと思っていたから、午後の予定は特に云わなかったんだよ」
「でも、アイツはほぼ毎日昼過ぎからの出社だと云うのは判っているんだし、午後出かける予定があるのなら、昨日の内に云って置いて欲しかったよなあ」
「うっかりしていたんだよ」
 日比課長は頭を掻くのでありました。
「仕様が無いなあ。じゃあ、日比さんは今日の談判は不参加と云うことになるんだね」
 袁満さんは聞こえよがしに舌打ちするのでありました。「まさかひょっとして、抜け目なく始めから遁ズラする魂胆でいたんじゃないだろうね?」
「そんな事はないよ。本当に午前中だと思っていたんだよ」
「ふうん、そうかねえ」
 袁満さんは疑わし気に小鼻の辺りに皺を寄せて笑うのでありました。
「じゃあまあ、組合員だけで談判ね」
 那間裕子女史が日比課長の件なんかすっかりどうでも良いような口振りで云うのでありました。どうせ日比課長は土師尾常務を怖じて初めから逃げる肚だったのだろうと、その心底を疾うに読み切って期待はしてなかったと云ったすげない云い様でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 523 [あなたのとりこ 18 創作]

「本当に、単にうっかりしていただけだよ。遁ズラする気なんて始めから無いよ」
 日比課長は那間裕子女史の、自分を端から見縊り切ったようなこの云い草が反射的に癪に障ったようで、少し声を荒げて云い返すのでありました。
「別に遁ズラ計画を疑っている訳じゃないわよ」
 那間裕子女史はそうは云うものの薄ら笑いを片頬に浮かべている儘で、全く人を小馬鹿にしているような不遜な態度なのでありました。
「まあ、仕事なんだから仕方が無いじゃないか」
 均目さんが口を挟むのでありましたが、それは那間裕子女史に向かって傲岸な云い草を慎めと諌めているのか、それとも女史に向かっての言葉ではあるものの、暗に日比課長のむかっ腹を取り敢えず宥めるのを企図しで云っているのか、頑治さんにはどちらとも判断が付かないのでありました。まあ、二つながらの謂いがあるのでありましょうが。
 で、那間裕子女史もそれ以上つまらない挑発的な言葉は発しようとしないのでありましたし、日比課長もそれ以上那間裕子女史に食って掛かる事もしないのでありましたから、一先ず均目さんの仲裁は成功したと云う事になりますか。
「談判が午後に延びたんだから、念を入れてもう一度昼休みに、下の倉庫とか或いは喫茶店か何処かに集まって、文言や手順を確認しておく方が無難かな」
 袁満さんがそんな提案をするのでありました。
「いやもうその必要は無いんじゃないかしら。昨日決めた事を態々もう一度、昼休みに全員で集まってお浚いするには及ばないんじゃないの」
「でも、念には念を入れて、と云う事もあるし」
「大丈夫よ。全く袁満君は大の男と思えないくらいにくよくよ心配性なんだから」
 那間裕子女史はここでも横柄な態度で袁満さんの細心を嘲笑うのでありました。袁満さんはその温厚な人柄からか、それとも那間裕子女史に対する苦手意識のためか、この女史の侮りにただ苦笑するだけで日比課長のようには反発しないのでありました。
 昼休みにまた集まると云うのは、頑治さんとしてもちょっと面倒臭いと思うのでありました。どうせ昨日の話し合いの決定をなぞるだけだろうし、この期に及んで新しい展開がある訳でもないのでありましょうから、そのために昼の休みを潰すのはいただけないと云うものであります。それに頑治さんはその日の昼は飯の後に三省堂書店と冨山房書店、それに東京堂書店を巡って、かねてから購入を予定していた幾冊かの本を仕入れようと考えていたのでありましたから、こちらの方を優先したいと云うところなのでありました。
 まあ、袁満さんとしては組合の委員長として談判の皮切りに直接もの云う役になる訳でありますから、その役を大過なく熟せるか心配なのでありましょう。しかし春の春闘の時だって袁満さんはちゃんと委員長としての役目を果たしたのだから、今回も大丈夫であろうと頑治さんは自分都合優先のために無責任に楽観するのでありました。

 土師尾常務は朝の電話の通り午後二時を少し回ってから出社して来るのでありました。この辺は欺瞞の線上に於いてではありなが殊勝と云えば妙に殊勝なものであります。
(続)
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あなたのとりこ 524 [あなたのとりこ 18 創作]

 かねてからの打ち合わせ通り、従業員全員は自席に着座した土師尾常務を早速取り囲むのでありました。因みに日比課長は昼休みが終わって午後一番に、何となくばつの悪そうな風情でそそくさと会社を出て行くのでありました。
 で、土師尾常務はこの突然の事態に大いにたじろぐのでありました。
「何だ君達は。僕がちゃんと得意先に行って来たのかどうか疑ってでもいるのか?」
 これは思わず語るに落ちたと云うもので、後ろめたさにおどおど狼狽えて愚かにも態々自分が電話の通り家から得意先に直行したのではなく、仕事をサボった事を白状したようなものだと頑治さんは内心で憫笑するのでありました。小人のつく嘘てえものは得てしてこんなような頓馬な結果を齎すものだと云う好例でありましょうか。
「そんな事じゃありませんよ」
 土師尾常務の真横に最接近している袁満さんがその頭の上に、少し荒けない調子の言葉を振り掛けるのでありました。「まあ、その事も、後程問題にはしたいけど」
 袁満さんは調子を和らげて皮肉っぽく笑いながら続けるのでありました。
「じゃあ何なんだ、こんなただならない様子で僕を取り囲むのは」
「常務は唐目君に、会社を辞めてくれと云ったようですね」
 袁満さんにそう重ねられて、土師尾常務はすぐに袁満さんの横に立つ頑治さんの方に顔を向けて鋭角な視線を投げるのでありました。
「唐目君は早速皆に話したのか」
「土師尾常務に退職を勧められる前に、何か待遇変更なんかの話しが個別にあっても、それを個別に解決しようとしないで、組合員全員の問題として取り組もうと云う申し合わせが出来ていましたから、つまりそれに従った迄ですよ」
 土師尾常務のまるで告げ口を非難するような視線に対して、頑治さんは全くの無表情を以って事務連絡のような感じで応えるのでありました。
「黙っていてくれとちゃんと頼んだのに」
 土師尾常務は恨めしそうに頑治さんから視線を逸らして、当て付けがましい舌打ちの音を少し大きく立て見せるのでありました。これは自分の依頼を聞かずに皆に早々にお喋りして仕舞った頑治さんを手前味噌に腹立たしく思っての所作であり、その舌打ちの音の大きさで頑治さんを怯ませてやろうと云う意図からの仕草でもありましょう。
 土師尾常務は自分のそんな迫力ある怒りの表明に、頑治さんは大いにオロオロするであろうと踏んでいたようでありました。しかし頑治さんの様子に臆したような風情はとんと見られないのでありました。寧ろその全くの無表情に自分の企図が端から読まれていて、逆に小馬鹿にされているような屈辱を感じようで、土師尾常務はちらと頑治さんをもう一度上目に見てから、寧ろ自分の方が弱気にその視線を逸らすのでありました。
 まあ、頑治さんとしては特段の意図で以ってこの無表情を期した訳では全くないのでありました。しかしそれでも土師尾常務がそのように勝手に独り相撲を取るような事をするのなら、ま、それはそれでしめしめと云うところではありますか。
「それで、若し唐目君がダメだったら、他の者に同じ事を云う心算だったようですね」
(続)
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あなたのとりこ 525 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんが本題を続けるのでありました。「唐目君はそう云う常務の目論見をとんでもないと思ったから全員に周知したので、これは組合員として当然の行為でしょう」
「その次に一体誰を標的にする心算だったのかしら」
 頑治さんの次に控えた那間裕子女史が土師尾常務を睨むのでありました。
「そんな事今ここで態々、僕の口から云う筈が無いだろう」
 土師尾常務は不快感と一緒に恫喝めいた仄めかしも言葉に込めるのでありましたが、弱気からか那間裕子女史の顔には決して視線を向けないのでありました。
「云って置きますが、我々は不当な解雇には誰も応じませんからね」
 袁満さんが語気が強めると、ここで予てからの打ち合わせ通り組合員打ち揃って、そうだ、とか、当然だ、とか、声高く合いの手を入れるのでありました。計算通り土師尾常務はその声に怯んで、そわそわと眼鏡の奥の眼球を何度も微動させるのでありました。
「今は仕事時間中で、こうして僕と喧嘩腰に討論している時間ではない筈だが」
 土師尾常務は当座の逃げを打つためかそう云うのでありました。
「ああそうですか。それなら向後一切、不当な解雇を画策しないと今ここで確約してくださいよ。そうしたらこれ以上は何も云わず解散しますよ」
「それは、まあ、出来ない」
 土師尾常務は気圧されて気持ちの上ではすっかり不利ながらも、常務としての体面があるためか容易には引かないのでありました。「第一、こうしていきなり僕を組合員全員で取り囲んで、脅かすような真似をするのは卑怯じゃないか」
「一人々々個別に喫茶店か何処かに呼び出して、正当な理由もなく会社を辞めてくれないかと持ち掛ける事こそ卑劣と云うものですよ」
「ちゃんとした理由はあるよ」
 土師尾常務は意地からそう強弁するのでありました。
「ほう、ではそのちゃんとした理由とやらを聞かせてくれますかね」
 土師尾常務の机を挟んで袁満さんや頑治さん、それに那間裕子女史の側とは反対側の列の一番前に立っていた均目さんが訊くのでありました。
「それは、・・・経営判断だからここでは云えないし、君達に云う義務も無い」
「それならそれで結構ですが、そうなると我々は不実で強権的である常務の態度に抗するために、今からストライキを宣言することになります」
「ストライキだって?」
 土師尾常務はその言葉に怯むのでありました。そんなものは許さない、とすぐさま大喝したいのは山々ながら、しかしそれが労働組合に対する不当な扱いに認定されないかどうか心配で、言葉を続ける勇気が無いようであります。
「そうです、ストライキです。それで以って上部にこの話しを報告して、全総連全体として常務の卑劣な画策にとことん対抗していきますよ」
 均目さんは別に激した風でもなく冷静にそう宣するのでありました。
「ちょっと唐目君に提案してみただけで、何でそんな大袈裟な事になるんだよ!」
(続)
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あなたのとりこ 526 [あなたのとりこ 18 創作]

「常務は気楽な心算かも知れませんが、これは典型的な不当労働行為に当たります」
 均目さんが自信を持って云うのでありましたが、これだけで本当に典型的な不当労働行為に当たるのかどうか、頑治さんは少しあやふやな気がするのでありました。しかしそんな事を敢えてこの場で云い出す気は更々無いのでありましたけれど。
 要は均目さんとしては確信あり気に不当労働行為だと云い立てて、土師尾常務を慌てさせるのが狙いなのでありましょう。まあ、実は頑治さんも同類なのではありますが、土師尾常務の労働法規等に対する無知と無関心を利用しようと云う肚でありますか。
 この均目さんの策謀に土師尾常務はまんまと嵌ったようで、次の句を継ぐ事が出来ずに目線をあちらこちらに泳がせるのでありました。
「以後このような不当労働行為は、決してしないと確約して貰えますか?」
 袁満さんがそう云って土師尾常務を睨むのでありました。
「確約して貰えないとなると、我々は向後安心して働く事が出来ませんよ」
 那間裕子女史が云うとここで全員で、そうだ、の声を上げる段取りだったのでありましたが、何故か全員何となく臆したように切っ掛けを逸して、袁満さんが何やら妙な音声を一声尻窄みに上げた後、恥ずかしそうに取り繕いの咳払いなんかして誤魔化す以外、誰も声を発しないのは慎に以って無様な次第であると云うべきでありましたか。
「口頭で確約して貰えるなら、敢えて念書を取るところ迄はしませんよ」
 この醜態を急いで糊塗せんとしてか、均目さんが態と嵩にかかって土師尾常務を追い詰めるような事を余裕たっぷりに云って見せるのでありました。
「何で念書なんか書く必要があるんだ!」
 ここでも均目さんの狙いは功を奏したようで、土師尾常務は組合員の秘かな醜態にはすっかり目もくれずに、均目さんの不遜に対してのみいきり立って怒声を浴びせるのでありましたが、その眼鏡の奥の目には相変わらず怯えと狼狽がはっきりと見て取れるのでありました。考えたら土師尾常務と云う御仁は、意外と扱い易い人ではありますか。
「だから口頭で確約して貰えば良いと、そう云っているじゃありませんか」
 均目さんは静穏に返して、土師尾常務の見せる過剰な剣幕に、やれやれ困ったものだ、と云った憫笑等をして見せるのでありました。
「どうしてそんなに無礼な口を利くんだ、均目君は!」
「平気な顔で陰湿な不当労働行為をする事こそが、我々労働者の人格に対する、この上無い無礼になるのではないですか?」
「不当労働行為をしている心算なんかないよ!」
「常務にその自覚が無いだけですから、それは常務の不見識と怠慢ですよ。何なら不当労働行為に当たる事をここで法令から逐一証明して見せましょうか」
 均目さんはそう云ってワイシャツのポケットから小さなメモ用紙を取り出すのでありました。つまりこれは、そこに縷々、土師尾常務のした事が不当労働行為に当たると云う証明が書き記されてあるのだ、と云ったような思わせ振りでありますか。この辺はなかなかの演技力で、人の悪さでは土師尾常務より一枚上と云う風であります。
(続)
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あなたのとりこ 527 [あなたのとりこ 18 創作]

「いいよ別に、今は」
 土師尾常務は均目さんから逐一、己の不当を云い立てられるのは何とも不都合と、大袈裟且つ荒々しく掌を横に振って見せるのでありました。
「じゃあ、今後不当労働行為に当たるような事はしないと誓約して下さい」
 袁満さんが詰め寄るのでありました。
「態々そんな誓約を僕にさせて、君たちは一体何をしたいんだ。僕が君達の前で怖れ畏まって、あたふたしながらみっともなく謝る姿を見て留飲を下げたいのか?」
「静穏な労働環境を得たいだけですよ。別に常務の醜態を見て喜ぶ悪趣味なんか更々ありませんよ。そんな事は全くどうでも良い」
 均目さんが蔑むような笑みを口の端に浮かべるのでありました。
「僕は謝らないし誓約とやらもしない」
「そんなに意地になって駄々っ子みたいに問題を拗らすのは馬鹿げていると思うけど」
 那間裕子女史も均目さんと同様の笑みを頬に刻むのでありました。
「意地になっているんじゃないし、自棄になっているんでもない。一人をいきなり大勢で取り囲んで、ああだこうだと難癖をつける君達の遣り口こそ問題なんじゃないか」
「ああだこうだと難癖をつけているんじゃなくて、社員を一人々々呼び出して退職を迫るような不当労働行為は止めてくれと、労働組合として申し入れしているだけですよ」
 袁満さんが少し怒気を見せながら云うのでありました。
「兎に角君達の遣り口はひどいと思う」
 土師尾常務は意地っ張りと体面上、なかなか引こうとしないのでありました。
「じゃあ判りました。これから全総連小規模単組連合贈答社分会はストに入ります」
 袁満さんはそう宣して土師尾常務の傍を離れるのでありました。皆もそれに従うのでありましたが、均目さんだけ残って、このストライキは半日ストで、明日になったら通常通り出勤する旨土師尾常務に告げてから皆の後を追うのでありました。

 そそくさと帰り支度を終えて、一行は揃って会社を出るのでありました。袁満さんと那間裕子女史は経緯報告のため全総連本部に向かうのでありました。他の連中は頑治さんが土師尾常務から退社勧告を受けた喫茶店に集って、二人の帰りを待つのでありました。
 三十分もしない内に袁満さんと那間裕子女史が全総連専従職員の、贈答社労働組合立ち上げ時から世話になっている横瀬兼雄氏を伴って喫茶店に入って来るのでありました。
「なんだか色々厄介な事になっているようだね」
 横瀬氏はそう云いながら着席するのでありました。それから遣って来たウェイトレスに袁満さん、那間裕子女史諸共にブレンドコーヒーを注文するのでありました。
「まあ、あの土師尾常務がすんなりこちらの云う事を聞く筈がありませんからね」
 均目さんが鼻を鳴らすのでありました。
「昨日袁満さんからちらっと電話を貰っていたから気にはしていたけど、詰まる所この事態収束のシナリオはちゃんと出来ているのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 528 [あなたのとりこ 18 創作]

「取り敢えず明日、もう一度土師尾常務と話してみて、そこで片が付けは良いですが、埒が明かないようなら団体交渉を申し入れる事になります」
「その時は全総連からも何人か入る方が良い訳だね?」
「ええ。出来れば一緒に団交に加わっていただければ、と思っています」
 袁満さんは、ここは一つよろしくお願いするように頭を下げるのでありました。
「ところで唐目君に訊きたいが、具体的にどういう風に退職勧告を受けたのかな?」
 横瀬氏は頑治さんの顔を見るのでありました。
「二人だけで話したいことがあると社外に連れ出されて、先ず前振りとして思ったように業績が回復しないと切り出されたんです」
「で、だから会社を辞めてくれと?」
「いやまあ、すぐにそう云う話しになったのではなく、辞めた片久那制作部長が自己主張の強い人で、これ迄自分や社長が如何に手古摺らされてきたかとか、お客さんに対しても無礼窮まる態度を取るし、ちゃんとした社会人として疑問に感じるような事もしていたとか、まあ、そんなような自分には直接関係の無い恨み言を先ず、縷々聞かされました」
「ふうん。まああの人なら、そんな場違いな愚痴も平気で云い出しそうだな」
 横瀬氏は苦笑して見せるのでありました。
「好い加減そんな居ない人への恨み言をウジウジ聞かされるのも腹立たしいから、話そうとしている事を端的に話してくれないかと、少しせっかちに催促したのです」
「で、辞めてくれと?」
「いやそんなにすんなり話しする人でないのは、横瀬さんも知っているでしょう」
「まあ、それはそうだな」
 横瀬氏はまた苦笑うのでありました。
「それから再び業績が云々という言葉を重々しく繰り返して、此の儘では暮れの一時金も出せないし、それどころか今年一杯会社が持つかどうかも判らないと嘆いて見せて、この儘なら人員整理と云う事も本気で考えなくてはならないと、やっとそんな言葉が出て来たものだから、自分の方から、要するに自分に会社を辞めてくれと云っているのかと聞いたのです。まあ、こういう話しであろうとは端からから察しは付いていたんですけど」
「色々持って回って勿体付けて、こちらとしては全く本意ではなくて、無念ながらの苦渋の選択なのであると云う点を、ちょっと弱気にそれとなく仄めかせて見せた訳だな」
「まあ、そうでしょうね。そう云うところは全く非情な訳ではないと云う点で、まあ、あの人は根っからの悪人と云う事もないのでしょうけど」
「ふうん、成程ね」
 頑治さんの最後の土師尾常務評には興味を示さないで横瀬氏は何度か頷いて、来たばかりのコーヒーを如何にも熱そうに一口啜るのでありました。「で、唐目君が辞める意志が無いなら、誰か別の人に当たる心算だと云う風に話しが展開した訳だ」
「まあ、概ねそうですね。だからこれは自分個人の問題としてだけ考える訳にはいかないと判断して、予てからの申し合わせ通り組合に報告したと云う次第です」
(続)
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あなたのとりこ 529 [あなたのとりこ 18 創作]

「誰か別の人、の筆頭格は多分あたしの筈よ」
 甲斐計子女史が前に云っていた事をここで繰り返すのでありました。
「それは何か根拠でもあるんですか?」
 横瀬氏は、甲斐計子女史がひょっとしたら自分より歳上かも知れないと云う辺りに気を遣ってか、一応敬語で聞くのでありました。
「春闘の時に新しい賃金体系になった折、社長と土師尾さんが二人グルになって、あたしにだけ前の儘のお給料で我慢しろ、なんて不当な事を云った事がありますからね」
「ああそれで、甲斐さんは組合に入る事になったんでしたねえ」
 横瀬氏は甲斐計子女史が組合員になる経緯を前に袁満さんから聞いていて、それをちゃんと覚えていたようであります。ま、年齢の方は失念しているとしても。
{いや、甲斐さんだと決まっている訳じゃないけどね}
 袁満さんが否定するのでありました。
「そうよ。それはあたしかも知れないし」
 那間裕子女史が云うのでありました。「あたしは元々尊敬もしていないから、土師尾さんにでもずけずけものを云うし、可愛気のない反抗的なヤツだと常日頃から苦々しく思っているんじゃないかしらね。まあ別に、あたしはそれで結構だけど」
「誰が候補なのかは今のところはっきり判らないけど、でも誰か一人、或いは複数を辞めさせようとしているのは確かみたいだ」
 均目さんが話しの舳先を元の方角に軌道修正しようとするのでありました。「ひょっとしたら明日朝、早速唐目君以外の誰かに声を掛けるかも知れない」
「まあ、朝、定時に出社して来れば、だけど」
 袁満さんがそう受け応えた後で慌てて那間裕子女史の方を窺うのは、今の言は別に、遅刻常習犯の那間裕子女史への当て擦りを企図して云った訳ではないからでありましょう。ひょっとして那間裕子女史に鞘当てだと勘繰られては全く不本意でありますから。
 勿論那間裕子女史もその辺りは弁えていて、別に袁満さんの言に拘る様子は見せないのでありました。しかし、無視するように目も向けないのではありましたけれど。
「だからこちらとしては土師尾常務が出社して来たらもたもたしていないで、何か変な動きをする前に機先を制して、今日の申し入れに対する返答を迫らなければならない」
 均目さんは何だか謀を回らしているような顔で云うのでありました。
「何なら今日の内に常務の退社時間を狙って、返答を要求すると云う手もあるかな」
 袁満さんがせっかちな事を云い出すのでありました。
「いや、今日は我々はストライキですから、今日の内にぞろぞろと連れ立ってまた会社に戻るのは何となく体面として無様なんじゃないですかね。それに常務の事だからしめしめとばかり退社時間前に、仕事放たらかしでこそこそ帰宅して仕舞うかも知れないし」
「ま、あの人の事だからそれもあり得るかもね」
 甲斐計子女史が納得の頷きをするのでありました。
「いや、それ程肝っ玉の太いヤツでも全然ないからなあアイツは」
(続)
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あなたのとりこ 530 [あなたのとりこ 18 創作]

 袁満さんが鼻を鳴らすのでありました。
「そうね。どちらかと云うとオロオロして、家に帰るタイミングを逸して、ネガティブな妄想に襲われながら、会社にくよくよ居残っているかも知れないわね」
 那間裕子女史が薄ら笑いながら云うのでありました。
「自分ではどうして良いのか判らずに、日比さんが帰って来るのを只管待っているかも知れないし、日比さんが帰ってきたら、待ってましたとばかり今日の出来事をすごい剣幕で洗い浚いぶち撒けて、取り敢えず自分への共感を得ようとするかも知れない」
 袁満さんがリアルにその様子を思い浮かべているような表情をするのでありました。
「まあ、日比さんじゃあんまり頼りにはならないから、取り敢えずある事無い事ぶち撒けるとしても、それで少し気持ちが落ち着くのを期待して、と云う程度だろうけどね」
 甲斐計子女史も頷くのでありました。
「非組合員である日比さんを確実に味方に付ける意図だな」
 均目さんが顎を撫でながら云うのでありました。
「そうね。それも確かにあるかも知れないわね」
 那間裕子女史が賛同するのでありました。
「でも日比さんも日頃から土師尾さんを決して好くは思っていないから、そう易々とは味方には付かないんじゃないかしら」
 甲斐計子女史は首を傾げるのでありました。
「いや、日比さんは結構な蝙蝠だから土師尾常務にも良い顔をしたいだろうし、ひょっとしたら条件次第では、結構すんなりと土師尾常務の側に付くかも知れないよ」
 袁満さんは日比課長とは長年しっくりいっているし、日頃から昵懇の仲のようにしているけれど、しかしなかなかその人間性に関しては少々懐疑的なようであります。
「なかなか油断出来ない人みたいだね、その日比課長と云う人は」
「いやまあ、案外チョロい人でもありますけどね」
 袁満さんは横瀬氏の言葉にそう返して片頬で笑むのでありました。「それに元々会社を辞めさせたかったのは、出雲君の次ぎは恐らく日比さんだったろうから、土師尾常務もそんなに簡単に日比さんを味方に付けようとはしないだろうし、日比さんの方も俄かには信頼が置けない土師尾常務の懐柔策には、そう簡単に乗れないだろうしなあ」
「でもそれは片久那さんが会社に居ると云う前提での話しで、それが崩れたら土師尾さんの態度も変わるし、日比さんも少しは抜け目なく計算を働かせるんじゃないかしら」
 甲斐計子女史が二人の気持ちを分析するのでありました。
「お互いの打算がここに来て合致するって事ね」
 那間裕子女史も甲斐計子女史の分析に頷いて見せるのでありました。

 ここで均目さんが語調を変えて話しの推移を調えるのでありました。
「まあ、土師尾常務の気持ちとか日比課長の打算とかはこの際別の話しとして、ここは明日になって土師尾常務にどう対するかと云う話しに戻ろう」
(続)
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あなたのとりこ 531 [あなたのとりこ 18 創作]

「それはそうね。今は余計な話しをしている場合じゃないし」
 那間裕子女史も口調を改めるのでありました。
「土師尾常務としては、良策はさっぱり思い付かないし、かと云ってこの儘すごすごとこちらの申し入れに従うのは癪だし、遂に持て余して、日比課長ではなく社長に話しを持って行って、明日になったら社長が出て来ると云う事はないかな?」
 袁満さんが別の懸念を口にするのでありました。
「まあ、それはあるかも知れないわね」
 甲斐計子女史も心配顔をするのでありました。
「今日は駐車場に、社長の車はありませんでしたよ」
 頑治さんがそんな事を云い出すのでありました。「社長は午前中に姿を見せなければ、その日は恐らく会社には来ないんじゃないですかね」
「午後からやって来る事は無いのかね」
 横瀬氏が頑治さんの顔を見るのでありました。
「これ迄の例からすると、社長の車が午後になってから駐車場に現れる事は、特別な用事が無い限り殆どなかったと思います。まあ、あくまでも俺が見た限りで、社長の車の在り無しから傾向を推察すると、と云う事になりますけど」
「確かにあの社長は、意外と律義に自分の決めた様式を守るところがあるかしらね」
 甲斐計子女史が頑治さんの推量を補強してくれるのでありました。
「云われてみればあの社長は、ウチの会社に顔を出すとすれば午前中に、と云う事が多かったかな。じゃあつまり、今日は社長は会社に遣って来ないと云う事だ」
 均目さんがまた顎を撫でるのでありました。「だったら土師尾常務は明日迄に社長に相談を持ち込む事は出来ないと云う事になるか」
「ま、電話と云う手段はありますけど」
 頑治さんは別の可能性も一応提示して置くのでありました。
「それはそうだけど、土師尾さんがこう云う件で、一々社長の家に電話を入れる事は無いんじゃないかしら。まあ、あくまであたしの想像だけど」
 甲斐計子女史が電話と云う線を否定するのでありました。
「でも、俺か別の誰か、或いは複数の誰かを辞めさせると云う謀は、既に社長と結託して遂行されている事かも知れませんよ。それに実は社長の考えに依るもので、土師尾常務は単にその意を受けて、実行に及んでいるだけかも知れませんよ」
 頑治さんが自分の推量を続けるのでありました。
「それはあるかも知れない」
 均目さんが頑治さんの推察に頷くのでありました。「会社の現状に関して、土師尾常務は実は、あんまり良好ではないだろうなあと云う薄ぼんやりした感触は持っていても、数字とかでちゃんとは掌握していないかも知れない。片久那制作部長が居た時もそんな風だったし。寧ろ現状を一応正確に認識している社長があたふたして、この人員整理と云う打開策を目論んだと考える方が、どちらかと云うとリアリティーがあるかな」
(続)
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あなたのとりこ 532 [あなたのとりこ 18 創作]

「じゃあ明日の事を確認するけど、明日土師尾常務が出てきたら早速団交を申し入れる事になる訳だが、それは当該だけで行うんだね?」
 横瀬氏が段取りを確認するのでありました。
「そうですね。申し入れは当該組合員だけで行います」
 袁満さんが頷きながら応えるのであり巻いた。
「団交は即日開催と云う訳もいかないだろうから、明日の土師尾常務への申し入れには社長は同席しない公算が大きいと云う事になるが、しかし日時を改めて設定した団交には、土師尾常務から報告を受けて社長も出席すると云う事になるんだね?」
「そうですね。土師尾常務とだけ話しても多分埒が開きませんし、社長が出て来ないと、実際は何も決められないでしょうし。寧ろ社長の出席はこちらから要求します」
「で、その団交には全総連から俺か、他に一人二人入れば良い訳だね」
「我々の目論見としてはそう云う事になりますね」
「じゃあ、一応組合立ち上げや春闘の時から馴染みがあるから、派江貫さんと来見尾さんに声を掛けて置こう。この二人ならお宅の社長とも顔見知りだし」
「三人に来ていただけるなら、大いに心強いです」
 そう云って袁満さんは横瀬氏に感謝のお辞儀をするのでありました。

 さて次の日、思った通り土師尾常務は定時に出社する事はないのでありました。しかし一軒だけ得意先に寄ってくるだけだから、午前十一時には会社に顔を出すと云う事でありました。昨日の事を気にして、オロオロして自宅で安楽に仕事をサボっていられなくて、誰よりも早く出社に及ぶ事もあるかと話していたのでありましたが、それ程応えていないのか、意外にあっけらかんと何時も通りの増長振りであります。
 日比課長は昨日の事を何も知らないのでありました。と云う事は帰社してから土師尾常務に縷々、ある事無い事ぶち撒けられた訳ではないようであります。日比課長が何も知らなかったと云う事は朝出社してから判明したのではなく、昨日の夜に袁満さんが家に電話して確認した事でありました。日比課長は土師尾常務の依怙地でとことん判らず屋の態度に組合員が怒って、ストライキに及んだ事態に大いに戸惑っているようでありました。
 実は日比課長は遅くなったので昨日は仕事先から直帰したのでありました。そうなら土師尾常務と昨日中には接触もなかったし、袁満さんの電話を受ける迄、終業時間前に従業員皆の顔が会社から消えている事を全く知らなかったでありましょう。
 土師尾常務は十一時を二十分程過ぎてから会社に遣って来るのでありました。組合員は土師尾常務が自席に着くと早々に彼の人を取り囲むのでありました。
 袁満さんが昨日の内に罫紙にしたためておいた、封筒に入った団体交渉申し入れ書を土師尾常務の机の上に如何にも重々しい様子で置くのでありました。
「何だね、これは」
 土師尾常務はそれを取ろうとせずに上から眺め遣るのでありました。すんなり手に取らないのは、自分を囲んでいる組合員に対する不快感を表している心算でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 533 [あなたのとりこ 18 創作]

「団体交渉の申し入れ書です」
 袁満さんが不愉快そうに云うのでありました。
「労使の団体交渉として君達と話し合いをする意志はないよ」
 土師尾常務は袁満さんを天敵を見るような目で見上げるのでありました。
「じゃあこの、申し家れ書を無視すると云うのですか?」
 袁満さんの横に立つ那間裕子女史が云うと土師尾常務は、顔は動かさずに目だけを横にずらして那間裕子女史を睨むのでありました。
「組合と話し合いをする意志なんか無いと云う訳ですか?」
 那間裕子女史のそのまた横に立つ均目さんが目を剥くのでありました。
「無視すると云うのではないよ」
 土師尾常務は、顔はあくまでも袁満さんに正対させた儘、また目玉を横に動かして均目さんを見るのでありました。顔の正面に袁満さんを捉えた儘でいるのは、組合の委員長でありこの行動の主役たる袁満さんへの敬意からと云うのでは全くなく、均目さんや那間裕子女史よりも袁満さんの方が言葉を交わす相手として与し易いと考えて、主たる相手を袁満さんと限っているその魂胆の表れかと頑治さんはチラと考えるのでありました。
「じゃあ、どうしてこの申し入れ書を手に取ろうともしないのですか?」
 均目さんが机の上に置かれた団体交渉申し入れ書を指差すのでありました。
「労働組合と経営側と云う関係で話しをするのは嫌だと云っているんだよ」
 土師尾常務は、顔は不機嫌そうであるけれど、変にあたふたしたり頭から湯気を出して激昂したりするでもなく、意外に落ち着いたすげなさで返すのでありました。その様子から、屹度昨日の内に社長と連絡を取り合って、組合員のストライキの件と団交申し入れの件への対応を、予め打ち合わせたのであろうと頑治さんは憶測するのでありました。
 多分昨日社長は会社に現れなかったであろうと思われるのでありますが、土師尾常務は何とか社長に電話でのコンタクトを取ったのでありましょう。で、幸いにも連絡が取れたので、あれこれ二人で対処を打ち合わせたものと思われるのであります。
 そうでなければこの土師尾常務が昨日の組合員のストライキに対して、オロオロくよくよ狼狽えて、何とか体面を保つために必死に怒り狂った様子をして見せて、理不尽な難癖を付けずに済まそうとする筈がないと云うものであります。つまらない見栄や体裁のために態々話を紛糾させて仕舞うのは、この人の得意技の一つでありますから。
「それなら、労使の交渉と云う形でないなら、話しをしても良いと云うんですね?」
 那間裕子女史が訊くのでありました。この那間裕子女史の咄嗟の言葉は、ちょっと不用意な云い草ではないと頑治さんは咄嗟に危惧するのでありました。何だか土師尾常務の思惑にうっかり乗って仕舞ったのではないかと思えたのであります。
「そう。労使と云うのではなく、社内の全体会議としてなら、話し合う用意はある」
 成程それなら対立構図を鮮明にする事無く、それに社外の人の参加も拒否出来る訳であります。つまり全総連の案件ではなくなるから横瀬氏等の参加を拒めるのであります。これは恐らく土師尾常務の考えではなく社長からの入れ知恵でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 534 [あなたのとりこ 18 創作]

「つまり全総連の関係者はオミットして、社内の人間だけで、と云う事ですね」
 均目さんも土師尾常務の、或いは社長の思惑に気付いたようでありました。
「それはダメですよ。もう全総連には話しをしているし、全総連としても労使の団体交渉として、この話し合いの中に入る体勢が出来ているし」
 袁満さんが顔の前で掌を横に何度も降って見せるのでありました。
「しかし別に態々、全総連が介入してくる必要はないじゃないか」
 土師尾常務が袁満さんのこのすぐさま鮸膠も無く掌を横に振る仕草に対して、反射的にムッとしたようなは口調になるのは、この袁満さんの挙動を自分と云う上司に対する配慮の無い生意気な態度であり、甚だしく無礼だと感じたためでありましょう。
「いや、解雇しようと云う事なんだから、純然たる労働問題ですよ」
 袁満さんは、これも売り言葉に買い言葉で喧嘩腰を見せるのでありました。
「解雇しようとしたんじゃなくて、辞める気は無いかどうか訊いただけだ」
「何をこの期に及んで誤魔化さないでくださいよ!」
 袁満さんは机を掌で叩くのでありましたが、それは何となく気弱な躊躇い気味の叩き方であり、土師尾常務を驚かす程大音響を響かせるようなものではないのでありました。
「何だその態度は!」
 でありますから、このような反撃がすぐに返ってくるのであります。どちらかと云うとこの土師尾常務の叱声の方が、まあ、それ程大した事はないように頑治さんは感じたのではありますが、しかし袁満さんの尻込み気味の机叩きよりは、迫力の点で優っているのではないかと、ここは残念ながら土師尾常務に軍配を上げるしかないのでありました。
「確かに袁満君の云うように、そう云う云い方は誤魔化しよ」
 ここで形勢不利な袁満さんに代わって那間裕子女史が出て来るのでありました。「それに誰か辞めさせようとして、誰彼構わず片っ端から声を掛ける心算だったようだから、寧ろ破廉恥さと無茶苦茶さではそちらの方が酷いと云うべきじゃないかしら」
 破廉恥と云われて土師尾常務は那間裕子女史を睨むのでありましたが、女史に対して変な苦手意識があるせいか、せっかちな罵声を思い止まるのでありました。それから一呼吸入れて自分を落ち着かせてから、敢えて静かな口調で返すのでありました。
「誰彼構わず、と云うのではないよ。経営者として会社にとって必要な人材かどうかの判断はちゃんとしてから、声を掛ける心算だったんだ。それに勿論、その人が辞めたくないと云うのなら、強制的に解雇するような事は、先ずしないし」
「全総連絡みの厄介な労使の団体交渉にエスカレートしたものだから、急にそんな聞いた風の言を構えて、あっけらかんと弁解にこれ努めているんじゃないかしら?」
 那間裕子女史は土師尾常務を見下ろして、猜疑の笑みを浮かべるのでありました。
「いや、そうじゃないよ」
 当然土師尾常務としては、体面上ここは迂闊に引けないのでありました。
「じゃあ、社内の全体会議としてなら、話しをする用意はあるんですね?」
 ここで均目さんが言葉を挟んでくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 535 [あなたのとりこ 18 創作]

「そうね。これから先会社をどうしていくかと云う話し合いは、労使交渉でするよりも全体会議としてする方がしっくりいくんじゃないのか」
 土師尾常務はまんまと思う壺、とばかりに均目さんに視線を向けるのでありました。これは拙い方向に流れが出来ようとしていると頑治さんは思うのでありました。その思いは那間裕子女史も抱いたようで、咄嗟に猜疑の目を均目さんに向けるのでありました。
「つまり部外者にはあんまり聞かれたくない、会社運営上の機微に属する事柄も話しの俎上に上げなければならないから、社外の人間にはなるべくこの話し合いに参加して欲しくないと云うことですね、常務の考えとしては」
 均目さんは那間裕子女史の視線を感じたのか感じなかったのかは知れないけれど、土師尾常務とのこの遣り取りを進めるのでありました。
「そう。その方が率直に色んな事が話し合えるし」
「それは、労働組合の元締めたる全総連の人に聞かせては拙い、如何にも労働争議に発展しそうな事を我々に提案する心算だから、と云う事ですね、要するに?」
 那間裕子女史が均目さんに向けた目容をその儘土師尾常務に向けるのでありました。
「部外者が居ない方が真摯な話し合いには何かと好都合だろう」
「ちゃんと従業員の事を考えた真摯な話し合いをするなら、ですけどね、あくまでも」
 那間裕子女史は眉間に皺を寄せて、あからさまな敵意を表するのでありました。「どうせ本気で話し合いなんかする心算は更々無くて、一方的にあたし達に無理難題を押し付けようって云う肚なんでしょう。だから全総連に立ち会って貰いたくないのよ」
「でも、そうだとしても、結局その一方的な無理難題なるものは、後日確実に俺達から全総連に伝わる事になるだろうから、その話し合いの場に全総連の人が居ても居なくても、特に意味は無いんじゃないかな。寧ろ社員だけの方が確かに好都合かも知れない」
 均目さんが静かな口調で那間裕子女史に反論するのでありました。
「いやしかし部外者が居ると居ないとでは、話し合いの節度と云うのか、進行の上で何かとスムーズに行くんじゃないかな。お互い体裁があるから変にカッカとしないで済むし、変に話しが紛糾したり横路に逸れたりしても、客観的な目で仲裁して貰えるだろうし」
 袁満さんが那間裕子女史寄りの言葉を挟むのでありました。
「いや、全総連の人なんだから、結局我々組合側に昵懇の人と云う事でしょう」
 均目さんが袁満さんの方に顔を向けるのでありました。「客観的な目、と云うにはちょっとその目にはこちら側の色が付き過ぎているんじゃないですかね。それに仲裁者として話し合いに参加して貰う気なんか、こちらにはこれっポッチも無くて、あくまでもとことんこちらの援護射撃をして貰う心算で立ち会って貰おうとしている訳ですから」
 均目さんは、これっポッチ、のところで、顔の前で右手の親指と人差し指で微々たる隙間を作って袁満さんに示すのでありました。
「まあ、そう云われるとそうではあるけど。・・・」
 袁満さんは首を竦めるのでありました。この均目さんと袁満さんの遣り取りを聞きながら、土師尾常務はしめしめと云った感じで片頬に笑いを浮かべるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 536 [あなたのとりこ 18 創作]

 どう云う思惑に依るのか均目さんは何方かと云うと、組合にとって好都合でない方向に話しを進めようとしているように頑治さんは思うのでありました。
「常務がそう云うのなら、何はともあれ我々従業員と常務とで、率直な話し合いをする事が第一の目的なんですから、ここは我々としても労使の団体交渉と云う形に拘るよりは、社内の全体会議と云う形で妥協してはどうでしょうかねえ?」
 均目さんが袁満さんの目をじっと見入るのでありました。

 ここでまた那間裕子女史が均目さんに猜疑の目を向けるのでありました。
「でも労使交渉と云う体裁を放棄した時点でこちらは、誰かに会社を辞めて貰うと云う前提を、ある意味是認した事になるんじゃないの?」
「しかしそれはあくまでも要請と云う事で、強制的な事ではないんですよねえ?」
 均目さんは後半の言葉を発する時に那間裕子女史から土師尾常務の方に顔の向きを変えるのでありました。それは那間裕子女史の猜疑の目から、体良く逃れるための視線の移動のようにも頑治さんには思えるのでありました。
「勿論、誰かに辞めて貰うと云う前提そのものの妥当性から、先ず話し合う心算だ。そう考えるに至った経緯も率直に話すし、それが、組合員としてではなく贈答社社員としての君等に容認して貰えないのなら、他の方法をお互い知恵を出して話し合う用意もある」
 土師尾常務はそう云って均目さんの意見に従う方が、無意味な労使の対立図式を持ちこむよりは建設的だと云うところを匂わそうとするのでありました。
「そんな協力的なところなんか今迄見せた事は一度としてないのに、ここで急に微笑みながら妙にもの分かりの好い風の事を云われても、それは如何にも取って付けたようで調子の好い云い草としか思えないから、あたしとしては俄かには信用出来ないわ」
 那間裕子女史が均目さんに送ったものよりももっと強い猜疑の目を土師尾常務の顔に向けるのでありました。これは当然であろうと頑治さんも思うのでありました。
「確認しますが、若し全体会議と云う形でなら、誰かに辞めて貰うと云う前提を綺麗さっぱり抜きにして、知恵を出し合うと云う形で話し合うと云うのですね?」
 どちらかと云うとぎすぎす喧嘩腰で対立するよりは、何事に付けても穏便なる事を尊しとする気質の袁満さんが、均目さんと土師尾常務の方に寄っていくのでありました。
「勿論その心算だし、君達に会社の立て直しに対して何か良い考えがあるのなら、是非聞かせてほしいし、それを真摯に聞くチャンスでもあると考えているよ」
 土師尾常務はここぞとばかり、今迄見せた事もないような嫌に親和的な笑みを袁満さんに向かって投げかけるのでありました。入社以来今の今迄そんな顔をされた事が一度たりとも無かったものだから、ここで袁満さんが少しそわそわして仕舞うのは、袁満さんの持って生まれたしおらしさとでも云うべきものでありますか。
「よくもまあ、そんな事をいけしゃあしゃあと云えるわね」
 那間裕子女史は袁満さんの見事に絆された様子に苛々して、しかし袁満さんにではなく土師尾常務に向かって声を荒げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 537 [あなたのとりこ 18 創作]

「那間君はどうして何時も、僕に反抗的なんだ?」
 土師尾常務が口を尖らせるのでありましたが、これは疑問と云う形を取っているけれど、一種の不満か繰り言として結構素直に発せられた言葉でありますか。
「だって片久那さんと違って、云う事が一々信用出来ないんだもの」
 那間裕子女史はあっさりと、尚且つきっぱりと云うのでありました。これは前の上司だった片久那制作部長との比較に於いてと、云うだけではなく、根本的に土師尾常務を虫が好かないヤツだと思っているからでもありましょう。勿論那間裕子女史に嫌われるだけの実績(!)が土師尾常務にある事は、頑治さんも大いに認めるところではありますが。
「それは確かに、前に居た片久那君に比べれば、僕は如何にも頼りなくて無能に見えるかも知れないが、僕だってそんなに棄てたものではない心算だけど」
 これは謙遜を匂わせているような云い草ながら、しかしもう愚痴そのものと云った按配でありまあすか。それに一種の自惚れの表明でもありますか。
「若し本当に捨てたものじゃないのなら、会社がこんな風になる筈がないじゃないの」
 那間裕子女史は片頬に憫笑を浮かべるのでありました。
「そんな無礼な云い方があるか!」
 土師尾常務は声を荒げるのでありました。早々の本領発揮のようであります。
「そうやってちょっと何か云われると、うっかり即座に反応して、単純に腹を立てるところなんかが、あたしが如何にも頼りなく思う所以よ」
 これは正確さを欠くもの云いであると頑治さんは秘かに考えるのでありました。片久那制作部長も結構すぐに怒りや不快感を顔に出すタイプでありましたが、しかし那間裕子女史は片久那制作部長に対してはこう云う不謹慎な事は決して云わないのでありました。それはつまり片久那制作部長の剣幕には、那間裕子女史すらも納得させて仕舞うだけの妥当性と厳めしさが備わっていたからでありますか。片久那制作部長に比べると土師尾常務に対して那間裕子女史は尊崇の念なるものを、欠片も持っていないと云う事であります。
 でありますから、先の言のような軽々しい程の率直さで土師尾常務に対して暴言も吐けるし、それを申し訳無いと寸分も感じないで済むのでありましょう。ま、那間裕子女史は端から、土師尾常務を全人格的に侮って止まないところがあるのでありますか。
「まあまあ那間さん、そんな事を云ったら話しが先に進まなくなるよ」
 均目さんが那間裕子女史を窘めるのでありましたが、那間裕子女史にしたらこの一方的にこちらに非があるような云い草が、これまた気に入らないところのようであります。
「話しを進まなくしているのはあたしじゃないわよ」
 那間裕子女史は均目さんに険しい顔を向けて、しかし視線は土師尾常務の方に流すのでありました。要するにそれを云いうなら、自分にではなくこの判らず屋の単細胞の方に云ってよ、と云うような不満を均目さんに表して見せているのでありました。
「兎に角、どうなんだろう、団体交渉と云う形じゃなくて社内の全体会議と云う形式にすると云う案を、他の人はどう思うのかな?」
 均目さんは苦慮の笑みを口の端に薄く湛えて、一同を見渡すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 538 [あなたのとりこ 18 創作]

 一同は顔を見合わせて一様に困じたような表情をするのでありました。
「特定の人を狙った解雇勧告に対して話し合いを持つんだから、あくまで組合と経営側の団体交渉として行うべきだと思うわ」
 那間裕子女史は均目さんを睨むのでありました。
「しかしそれでは話し合いそのものが持てないとなると、入り口で紛糾して仕舞って、それから先の具体的なところに話しが全く及ばなくなくなる」
「兎に角、話しは前に進めないとどう仕様もないか。その目的でこうして申し入れをしているんだから、この際形式には拘らなくても構わないのかも知れない」
 袁満さんが不承々々そうに土師尾常務の妥協案に身を寄せて行くのでありました。
「袁満君はもう早速懐柔されて仕舞ったの?」
 那間裕子女史が憫笑を片頬に浮かべて云うのでありました。
「そう云う訳じゃないけど、話しの取り掛かりとしては、全体会議と云う形式でも良いかとも思うんですよ。土師尾常務がそれなら乗ると云うのならば。・・・」
「要するに全総連の関係者を排除したいと云う思惑からそんな事を提案するのよ。こんなの典型的な、組合の気組みや団結を取り崩そうとする経営側の常套手段よ」
「あたしも団体交渉の方が道理だと思うわ」
 甲斐計子女史が土師尾常務と目を合させないようにしながら、多少のおどおど感を滲ませて控え目な物腰で云うのでありました。その云い方に土師尾常務は不快感剥き出しの視線を投げるのでありました。目を合わせてはいないけれどその強い眼光を感じて、甲斐計子女史は肩を竦めて下を向いて意ならずも狼狽を表して仕舞うのでありました。
 甲斐計子女史も袁満さんも、それにこの場には居ないけれど日比課長にしてもそうでありますが、営業部スペースで仕事をしている連中は、土師尾常務に面と向かうと何故こうも腰砕けになって仕舞うのか、頑治さんは少々奇異にも感じるのでありました。この土師尾常務なる仁は、それ程迄に厳めしくも恐ろしい存在でありましょうや。
 頑治さんには、これは万事に畏れ入る事の多かった片久那制作部長との比較に於いてでありますけれど、威厳でも強面振りの迫力でも、頭の回転の速さや思考の閃きや話しの緻密さでも、どう転んでもその足下にも及ばない全く以ってなまくらな人物のように思われるのであります。ひょっとしたらこの三人は土師尾常務に何か弱みでも握られているのでありましょうか。まあしかし、弱腰ながらも団体交渉の方が良いと意見表明する甲斐計子女史の方が、袁満さんに比べれば未だ気丈であるとは云えるでありましょうか。
「そうよ、甲斐さんの云うように団体交渉として話し合うのが筋よ」
 那間裕子女史は未だ甲斐計子女史に対して敵意丸出しの目を向けている土師尾常務に向かって、何倍か増しの敵意を込めた視線を突き刺すのでありました。
「唐目君はどう思う?」
 均目さんが順番と云うところからか、頑治さんに訊くのでありました。
「俺も今回は全総連の人も入れた労使の団体交渉の方が良いと思うよ」
「ああそう、団体交渉の方が良い、と云う側ね」
(続)
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あなたのとりこ 539 [あなたのとりこ 18 創作]

 均目さんは少々がっかりしたような声音で頑治さんの言を繰り返すのでありました。
「均目君は全体会議側かな?」
 頑治さんがすぐに均目さんに問い返すのでありました。
「俺としては、さっき迄は労使の団体交渉と云う心算でいたんだけど、今は、ここはそう云う対立構図を最初から取らないで、少し穏便な形で話し合いをした方が賢明かも知れないと云う気がしている。その方が、必要以上に問題が拗れないで済むんじゃないかと」
 頑治さんは均目さんのその言葉を聞きながら目の端で袁満さんをチラと窺うのでありました。袁満さんは目立たないように小さくではあるけれど、均目さんの意見に頷いているのでありました。どうやら袁満さんも全体会議派に宗旨替えのようであります。
「土師尾さんの云う事を聞いていたら、急に気持ちが変わったと云う事?」
 那間裕子女史がこれもきつ目の眼容で均目さんを睨むのでありました。前以ての組合員間の打ち合わせを勝手に脇に置いて、何の前触れもなく俄かに裏切りみたいな真似を働く気か、と云う叱責がその視線に籠っているようでありました。
「まあ、そう取るならそれでも構わないよ」
 均目さんは対抗上、開き直るような云い草をするのでありました。
「何よそれ!」
 那間裕子女史が目を剥くのでありました。「急に態度を豹変させて、皆の合意を勝手にここで裏切るなんて、あたしには信じられないわ」
 那間裕子女史は怒気で嵩じた声で吐き出すのでありました。意ならず急激に怒気を発したためか、途中で声が裏返るのでありました。まさかこの期に及んで、均目さんがそんな弱気な日和見を働くとは無念遣る方無い、と云うところでありましょう。

 土師尾常務が、何だか面白そうな具合になってきた、と云ったような目をして那間裕子女史と均目さんの遣り取りを見上げているのでありました。こうして仲間割れをしてくれるのは思う壺と云うところでありますか。まあ、始めから仲間割れを狙って謀をしていた訳ではないけど、偶々そんな推移になって、しめしめ云ったところでありましょう。
 那間裕子女史と均目さんの云い合いを見ながら、甲斐計子女史もそわそわしてくるのでありました。甲斐計子女史も気質としては闘争的な方では決してなく、万事、態々角を立てるよりは柔らかに事態が推移するのを好むと云うタイプなのでありましょう。
 こうなると頑治さんがあくまで団体交渉派に留まるとしても、こちらは那間裕子女史と二人と云う事になり、穏健派の三人には数に於いて及ばない訳であります。しかしここで頑治さん迄日和見すると、那間裕子女史の立つ瀬が無くなるでありましょう。あくまでも団体交渉と云う線で意見集約してこの申し入れに臨んだのでありますから、思い込んだらとことん一直線タイプの那間裕子女史としては意地でも譲れないところでありますか。
 当初の意気込みに反して、何とも無様な申し入れになったものだと頑治さんは眉根を寄せるのでありました。一方で均目さんは団交派二対全体会議派三の形勢を睨みながら、この何とも頓馬な展開を収拾すべく皆に向かって強引に決を迫るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 540 [あなたのとりこ 18 創作]

「何だか取り留めなくこうしていると午後の仕事にも差し支えるから、どうだろう、全体会議として話し合いを持つと云う線に合意の人は挙手して貰えますかね?」
 均目さんは袁満さんと甲斐計子助女史を交互に見るのでありました。しかし頑治さんと那間裕子女史の方には視線は向けないのでありました。
 やや間を空けてから、先ず袁満さんがおずおずと片手を肩の高さ迄挙げるのでありました。それを見て今度は甲斐計子女史も同じく躊躇いがちに、均目さんの方にのみ顔を向けて、と云う事はつまり頑治さんと那間裕子女史とは全く目を合わせないようにしながら、ごく控え目な風情で片手を挙げて見せるのでありました。
「全体会議に賛成の人が俺を入れて三人と云う事ね」
 均目さんはそう念を押して頑治さんと那間裕子女史を見るのでありました。「まあ、ここに来て当初の打ち合わせとは違った様相になって仕舞ったけど、手を挙げなかった那間さんと唐目君は、矢張り労使の団体交渉と云う線を崩さないのかな?」
「そうね。矢張り団体交渉の方がこういう場合の話しの形式としては、しっくりいくように思うな。まあ、どう云う意図からか、多数決と云う手段をここで急に持ち出した均目君の遣り方にはちょっと疑問もあるけど、五人の内の三人が全体会議で話し合う方が良いと云う意見なら、結局それに従うしかないとは思うけど」
 頑治さんは天敵を見るような目で自分を睨む那間裕子女史の威圧を、頬のあたりに強く感じるのでありました。頑治さんの後半の云いようが如何にも優柔不断で、全体会議派に何時でも転ぶ心算だと判断したのでありましょう。その視線に籠められた逆上具合から見ると、那間裕子女史は頑治さんにも裏切者認定の判を押したのでありましょう。
「那間さんはどう?」
 そう訊かれて那間裕子女史は均目さんを一睨みして、その儘無言で土師尾常務を囲む輪からプイと抜けるのでえありました。自分はこんな馬鹿げた茶番劇には加わりたくないと云う、当て付けがましくて喧嘩腰で、慎みのない意志表示でありますか。
「それじゃあ、社内の全体会議として話し合うと云う事で良いんだね?」
 那間裕子女史の不貞腐れたような脱落を止めもしないで見ていた土師尾常務は、女史の姿がマップケースの向こうに消えてから、均目さんに不愉快そうに聞くのでありました。勿論この不快感は不貞た態度の那間裕子女史に対するもので、均目さんに向けたものではないのでありました。寧ろ労使の団体交渉と云う形を回避して社内の全体会議と云う線に話しを纏めた均目さんには、よくぞやってくれたと云う思いがあるでありましょう。
「俺と袁満さんと甲斐さんはそれで構わないとして、唐目君からははっきりそれで良いと云う言質を貰っていないけど?」
 均目さんは頑治さんに明確な諾の返答を迫るのでありました。
「俺は矢張り、労使の団体交渉として話し合う方が未だベターだと思っているから、ここは、扱いとしては棄権と云う事にして貰いたいね」
 頑治さんは全く潔くない云い草だと、云いながら思うのでありました。これなら那間裕子女史の方が遥かに、きっぱり態度表明していると云うものでありましょう。
(続)
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