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あなたのとりこ 679 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんは溜息を吐いて項垂れるのでありました。しかし袁満さんの事だから、全総連からそう云う依頼がある以上、律義に出向く心算でいるのでありましょう。しかし那間裕子女史はすげなく袖にするのかと思いきや、袁満さんだけに嫌な役を押し付けるのは気が引けるのか、散々悪態を吐きながらも一緒に出向く事に同意するのでありました。
「何なら俺達も一緒に行きましょうか?」
 均目さんが頑治さんの方をチラと見て目で同意を確認してから、袁満さんに云うのでありました。頑治さんも均目さんとしても、袁満さんと那間裕子女史にだけ嫌な役回りをさせる事に、どこか気後れを感じたためでありますか。
「いや、俺と那間さんでと云う向うの依頼だから、二人で行ってくるよ。ちょっとした確認だけと云う話しだから、至って事務的にこちらも対応した方が無難じゃないかな。またここで四人揃って出向くとなると、返って妙に大袈裟な気がするし」
「それもそうですね」
 均目さんは納得気に頷くのでありました。「まあ本当に、ちょっとした確認だけで、早々に放免してくれるなら良いですけどね」
「もう俺達の意志は会社を辞めると決まっているんだし、例え向こうが何だかんだと労働争議を持ちかけてきたとしても、断固拒否すれば良いだけの話しだし」
 袁満さんが力強く一回頷くのでありました。しかし至って気の良い袁満さんが向こうの手練手管にうっかり乗せられないとも限らないと、頑治さんはその力強い頷きを見ながら疑うのでありました。横瀬氏は袁満さんなんぞより多分余程抜け目がなく、企み事にかけては大いに長けているでありましょう。依って袁満さんを二進も三進もいかないところに追い詰める術とかは、こう云う仕事柄、実にお手のものでもありましょうし。

 まあしかし、頑治さんのこの思いは杞憂に帰するのでありました。横瀬氏には何やらの企みはなく、本当に会社を辞めて仕舞うのかと聞き質す場面はあったようでありますが、だからと云って四人の決定に強引に立ち入ってくる気はなかったようでありました。
 何かしらの書面にサインやら押印を求められたりする事もなく、ただ日を置いて、もう一度冷静に四人の辞意と組合解散を訊き質すと云う心算で袁満さんと那間裕子女史を呼んだようでありました。袁満さんと那間裕子女史の二人としては些か緊張して出向いたのでありましたが、ちょっと拍子抜けであったようであります。
「結局、雑談で終わったと云う感じかな」
 重荷から解放された袁満さんが感想を述べるのでありました。
「そうね。あれなら態々出向く必要もないみたいな感じだったわよね」
 那間裕子女史も安堵の顔色を浮かべているのでありました。
「執拗に、会社を辞めるなとか、労働争議ともなれば全面的に後援するから徹底的にやれとか、そんな説得はなかったんですね?」
 均目さんが信じられないと云った顔で袁満さんに訊き質すのでありました。
「まあ、こっちとしてもどこか後ろめたかったけど、仕様がない事なんだし」
(続)
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あなたのとりこ 680 [あなたのとりこ 23 創作]

「向こうの、もっとお偉いさんとかが出てきてあれこれ話を聞くとか、今迄見た事のないような顔がそこに一緒にある、とか云う事もなかったんですね?
「うん、横瀬さんだけだったよ」
 均目さんとしてはひょっとしたら党関係の人間迄出て来て、労働争議を唆すのではないかと考えていた節があって、袁満さんのどこかあっけらかんとした報告を聞きながら、見ように依っては少しがっかりしたような表情で袁満さんを見ているのでありました。まあこれは均目さんのあの党に対する、一種の過剰反応、或いは過大評価と云うべきものに類するところでありますか。それ程警戒心を持つ必要は実際ないのでありましょう。
「要するに、この前の決着通りで、変更とかは特にないんですよね?」
 頑治さんが袁満さんに訊き質すのでありました。
「そうね。別段変更はないよ」
「それなら、またどうして袁満さんと那間さんを態々呼びつけたんでしょうね?」
「まあ、念のためにもう一度確認したかったんじゃないかな」
「それなら朝にかかって来た電話で訊けば、それで充分じゃないですか」
「直接面と向かって、再度訊きたかったんだろう」
「それだけですかねえ?」
 頑治さんは何となく釈然としないのでありました。
「本当は会社を辞めるなと再度説得する心算だったけど、あたしと袁満君の如何にもさっぱりしたような顔を見たらその気も失せた、と云う感じじゃないの」
 那間裕子女史があっけらかんと云うのでありましたが、まあそう云う事なら、特段自分が引っかかる必要はないかと、頑治さんは未だ充分納得いかないながらも思うのでありました。横瀬氏は兎に角四人の退社に関しては許容しているようであるし、それをどうこう批判する了見もなさそうだし、そこは多分拗れる気配はなさそうであります。ただ一種の徒労感と云うのか、当て外れのような、そんな気持ちはあるのではありましょうが。
 それなら態々袁満さんと那間裕子女史を呼び出したのはどういう意図からなのでありましょうか。袁満さんの云う単なる再確認なのでありましょうか。それとも那間裕子女史の云うように、説得する気が二人の顔を見たら急に失せたからなのでありましょうか。頑治さんとしてはその辺はどうしても気持ちの上でのモヤモヤが残るのでありました。
「唐目君は横瀬さんが今日改めて、袁満さんと那間さんを呼び出したその意図が、未だちょいとばかり判然としないようだね?」
 均目さんが頑治さんの表情を見ながら訊くのでありました。
「まあ、それはそうなんだけどね」
「俺も同じだよ。何か隠された謀があるんじゃないかと、そう疑っているんだけどね」
 均目さんとしては恐らく、均目さんが云い募るところの、あの党の恐ろしさ、と絡めてそんな疑問を発するのでありました。
「均目君は、全総連の後ろに隠れているあの党への恐怖、と云うのか不信感からそう云うんだろうけど、その辺はそんなに深刻だとは思っていいないけれどね、俺は」
(続)
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あなたのとりこ 681 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんはややぞんざいな口調で、この前以来の自説を繰り返すのでありました。
「あたしと袁満君を呼び出した割には、大した話もなかったけど、まあ確かに、唐目君が奇妙がるように、そうならどうして態々名指しで呼んだのかしら?」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「ひょっとしたら今後何か、アクションがあるかも知れないぜ」
 均目さんが意味あり気に云うのでありました。「一応ここで顔繋ぎをしておいて、組合の立ち上げから春闘に於ける助力なんかを恩に着せて、例えば近々あるらしい参議院議員の選挙であの党の候補の選挙活動を手伝えとか、そんな要求をして来る可能性もある」
 またそんな話しかと、頑治さんは些かげんなりするのでありました。
「そんなのは困るわよ、あたしは基本的に国政選挙なんて無関心な方なんだから」
「国政選挙?」
 均目さんが那間裕子女史を横目で見るのでありました。「国政選挙どころか、那間さんは地方選挙とか、大凡政治向きの事には何の興味もないくせに」
「それはそうね」
 那間裕子女史はあっけらかんと笑うのでありました。「確かに生臭い政治向きの話しなんかに、あたしは何の興味もないわ。そんなに暇でもないし」
「暇なら政治向きの話しをすると云うのも、どこか了見違いのような気もするけど」
 均目さんが皮肉っぽく云うのでありました。
「兎に角、選挙の手伝いなんて願い下げだわ」
「俺も困るよ。第一あの政党を普段から特に支持している訳でもないし、そんな政党の候補者の選挙応援する義理なんかは何もないもの」
 袁満さんも首を横に振りながら云うのでありました。
「でも義理と情に絡めて、頼むよと横瀬さんから電話がくるかも知れないですよ」
「そんな電話がきてもきっぱり断るよ」
 袁満さんは断言するのでありましたが、しかし気の優しい、相手の押しの強さに弱い袁満さんなら、横瀬氏に頼まれたら渋々でも、依頼を受けるのではないかと頑治さんは思うのでありました。そこが袁満さんの良いところでもあるのでありましょうから。
 この一連の会話は昼休みに四人で一緒に摂った食事の後に、倉庫の中に何となく集まって行われたのでありましたが、そろそろ午後の始業時間になるので、この辺りで誰云うともなく切り上げとなるのでありました。まあ暇潰しの雑談の類であります。
 後で纏めて棄てておきますとよ云う頑治さんの言に皆が甘えて、それぞれが飲んだコーヒーの空き缶が荷造り台の上に残されるのでありました。頑治さんはその儘倉庫に残って三階の事務所に戻っていく三人を駐車場から見送るのでありました。

 頑治さんは会社を辞す前に倉庫の整理をしようと思っているのでありました。自分が辞めた後に、ひょっとしたら新たに雇われた人間が仕事を受け継ぐかも知れないから、その後釜がまごつかないで済むようにしておかなければと考えた故であります。
(続)
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あなたのとりこ 682 [あなたのとりこ 23 創作]

 とは云っても、入社早々に結構大々的に倉庫の整理整頓はしていたし、その後もむやみに倉庫内が荒れないように気を付けていたので、後は少々散らかっていた材料類や商品類を識別に従って片付けるだけでありました。庫内の美化にも気を付けていたし、前の駐車場の清掃も日課にしていたから、そう大した手間もかけずに済みそうであります。
 午後三時を過ぎた頃再び袁満さんが顔を出すのでありました。袁満さんは頑治さんが倉庫整理に勤しんでいる姿を見て少し感心するのでありました。
「唐目君も律義なものだなあ」
「どうせならあれこれ後腐れなく辞めたいですからね」
「立つ鳥跡を濁さず、と云う訳ね」
「まあ、そんな感じですかね」
「俺も手伝おうか?」
「袁満さんは上での後片付けとか仕事の締め括りもあるでしょうし、ここは気にしないで大丈夫ですよ。俺一人で充分出来ますから」
 頑治さんはお辞儀しながら掌を横に振って見せるのでありました。
「いやまあ、商品の出し入れなんかで俺も倉庫を使っていたから、手伝うよ。それに第一営業スペースに甲斐さんと二人でいるのは何となく気が重いし」
 袁満さんは、察しろよ、とでもいうように苦笑うのでありました。
「ええと、何か用があって倉庫に下りて来たんじゃないんですか?」
「いや今も云ったように、甲斐さんと二人で上の営業スペースに居るのが気まずいから、ちょっと息抜きの心算で下りて来たんだよ」
 そう云う事なら何か倉庫整理を手伝って貰っても良いかなと、頑治さんは得心するのでありました。袁満さんも辞めるとなってもなかなか気が休まらないようであります。
「じゃあ、通路に出ている商品の段ボールを棚に片付けて貰いましょうかね」
「ほいきた。お安いご用だよ」
 袁満さんはどこか嬉々とした風情で早速仕事にかかるのでありました。その後も袁満さんはなかなか上の事務所に戻らず、倉庫整理とは無関係な、頑治さんの当日発送する荷物の荷造りまで手伝ってくれるのでありました。
「そろそろ四時半か」
 袁満さんは大方の荷作りが終わると腕時計を見て云うのでありました。「ちょっと一休みに缶コーヒーでも買ってくるか。奢るよ」
「いやいや、手伝って貰ったんだから俺の方が奢りますよ」
「そんな事は別に良いし、返って俺の方が助かったから、俺が奢るよ」
「・・・そうですか。済みませんね」
 ここでどっちが奢るか云い合っていても始まらないから、頑治さんは袁満さんの申し出を不承々々ながら受ける事にするのでありました。袁満さんは頷いて倉庫を出て行って、近くの自動販売機で缶コーヒーを二本買ってくるのでありました。
「どうも有難うございます」
(続)
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あなたのとりこ 683 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんは受け取ってやや丁寧にお辞儀をするのでありました。
「いやいや、缶コーヒーくらいでそんな風に礼を云われたら返ってまごまごするよ」
 袁満さんは大仰に掌を横に振るのでありました。
「その後、全総連からは何も云ってこないですか?」
「うん、今のところ」
「もう決着したと云う事でしょうかね」
「そうあって欲しいものだけど」
 袁満さんとしてもまた呼び出されたりするのはご免蒙りたいでありましょう。
「この儘退職まで、すんなり縁切りとなると良いですけどね」
「こっちの意志が退職と決まっているから、向うとしてもそれ以上どうしようもないだろうなあ。まあ、均目君に依ると、一度取り憑かれたらなかなか縁を切らせてくれない、悪霊みたいに執拗な政党がバックに付いていると云う事らしいけど」
 袁満さんも均目さんにしつこくそう云って脅かされているようであります。均目さんのこの手の執拗さなんと云うものも、全総連とかあの政党に充分匹敵するくらい、なかなかなものだと云えるでありましょうか。
「ところで土師尾常務は、例に依って今日も直行直帰ですかね」
 頑治さんは話題を変えるのでありました。
「多分そうだろうね。上がってみたらひょっとして事務所に居るかも知れないけど」
 袁満さんが、それは先ずないだろうと云う風の語調で云うのでありました。
「社員が四人辞めて、後には甲斐さんと日比課長だけしか残らないとなっても、当人は相変わらず無責任で気儘な仕事振りと云う訳ですかね」
「まあ、どんな事になろうと、端から役員としての自覚も責任感も期待出来ない人なんだから、結局はそんなところだろう」
 袁満さんは軽侮を露骨にするのでありました。
「事ここに到っても、社長はそれを許しているんでしょうかね」
「社長にしても、ウチの会社を何とかしようとか云う意欲はもうすっかり失せて仕舞ったようだし、どうなろうと構やしないと云う気持ちだろう」
「結局、贈答社を整理する心算なんでしょうかね」
「まあ、そんなところだろう」
 袁満さんは鼻を鳴らすのでありました。「日比さんも甲斐さんも早晩この会社を辞めさせられるんだろうし、会社を整理した後で残った資産を土師尾常務に文句を云われない程度分け与えて、それで目出度く一件落着させると云う肚だと思うよ」
「土師尾常務はそれで納得するんでしょうかね」
「まあ、土師尾常務と社長の間で、手切れ金を幾ら寄越せだの、そんなに無茶に吹っ掛けるなだのと、醜い争いが起こる事になるんだろうな」
「おぞましいですね、それは」
 頑治さんは冗談半分で大仰に身震いして見せるのでありました。
(続)

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あなたのとりこ 684 [あなたのとりこ 23 創作]

「実際どんな醜い争いをするのか、ちょっと覗いてみたい気がしないでもない」
 袁満さんは人の悪そうな笑みを浮かべるのでありました。
「そこには関心ないですね、俺は」
「そんなものを見ると目が穢れるか」
 袁満さんはそう云って哄笑するのでありました。
 まあ、頑治さんとしても無関心だと云ってはみたけれど、実は社長と土師尾常務との間で執り行われるのであろう暗闘に対して、多少の興味がありはするのでありました。これは行儀の悪い覗き願望であり、慎に悪趣味だとも云えるでありましょうか。

 倉庫の整理整頓と掃除と、自分の次に倉庫業務に当たる人がまごつかないで済むような気遣い等で、頑治さんとしては意外に早く退職迄の日時が過ぎて行くのでありました。まあ恐らく業務の人員を新たに雇う気は社長にも土師尾常務にもないでありましょうから、そうなると恐らく日比課長が専ら業務仕事を熟す事になるのでありましょう。でありますから頑治さんは一応、日比課長が困らないように気遣いするのでありました。
 しかし日比課長の方はこれから後の会社の存続やら自分の遣るべき仕事の方が気になっていて、倉庫業務の方は上の空と云った按配でありましたか。だから頑治さんは機会がある毎にあれこれ仕事の要領とかを伝授しようとするのでありましたが、日比課長の方としては、それは逆に煩わしいお節介と云う事だったかも知れないのでありました。
 袁満さんももうこの先出張営業と云う仕事は会社からすっかりなくなるのでありましたから、全国にあるこれ迄のお得意さんに業務終了の挨拶とお礼の電話、と云うのが主な仕事なのでありました。入社以来の付き合いがあった地方の旅館とかお土産屋に惜しまれたり、素っ気なく応対されたりする中で色々思うところもあるでありましょう。嫌々さ加減九分に多少は旅行のワクワク気分一分も確かにあったこれ迄の仕事に区切りを付けると云うのは、嬉しさ八分に寂しさ二分程度は、まあ、感慨深いものがあるでありましょう。
 均目さんと那間裕子女史の場合は、これはもう制作部廃止でありますから、綺麗に会社から痕跡を失くすと云う作業になるのでありました。要するに頑治さんの整理整頓よりはもっと乱暴に、悉くを破棄するなんと云う仕事であります。
 とは云っても、まあ、版権の管理上、印刷所に預け放しにしていた製版用のフイルムの回収やらその整理、自社出版の地図類や様々な本類のフイルムの整理等、なかなかに気を遣う仕事もありはするのでありました。特に印刷所等に預け放しにしていたフイルムなんかは、所在が判らなくなっていたりするものもあって、大いに手古摺る仕事のようでありました。この辺を好い加減にしておくと後で土師尾常務辺りに、ここぞとばかり因縁や文句を並べ立てられそうでありますから、ここは大いに気を遣うところでありますか。
 この間土師尾常務は実に珍しく、朝、得意先に直行すると云う何時もの不埒な行状は極力控えて、誰よりも早く会社に出て来るのでありました。これは彼の人がこれ迄の己が不埒なる行いを反省して実直なる人間に立ち返ったと云う訳では更々なく、社長に叱咤された故の渋々の行儀改めであるのは全く以って明々白々なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 685 [あなたのとりこ 23 創作]

 とは云っても先ずは会社に来ると云うだけで、暫く自分のデスクの椅子を温めた後は営業回りと称して早々に事務所を出て行くのでありました。まあ、会社に居ても彼の人のする仕事はないでありましょうし、居て貰っても返って他の従業員にとっては迷惑と云う事でもありますか。慎に珍妙なる存在感の御仁と云えるでありましょう。
 土師尾常務が居なくなった事務所の営業部スペースには、勿論日比課長も殆どの時間外回りに出ているのでありましたから、甲斐計子女史と残務整理をする袁満さんが如何にも気まずそうな雰囲気の中に残されるのでありました。袁満さんも次第にその気まずさに耐えかねて、下の倉庫に下りて来る機会が増えると云うところであります。
「前に全体会議で唐目君に、せっかく俺一人でも、何とか地方出張営業の仕事をこの先回していく術を教示して貰ったのに、結局こう云う結果になってそれも実現出来なくなって仕舞って、俺としては何だか唐目君に悪いような気がしているんだよ」
 袁満さんは用もないのに倉庫に居る事に気を遣って、屡お愛想の缶コーヒーを差し入れてくれるのでありましたが、それを手渡す時にそんな事を云うのでありました。
「いやあ、そんな事はありませんよ。事がこうなった以上致し方なしですし、袁満さんが負担に思う必要は何もありませんから」
「でも、仕方が無い事だとしても、俺としては唐目君の策は、屹度上手くいくような気がしていたからなあ。何だかここでご破算にするのは惜しいような気もするし」
「しかしあれは結局、急場の一策、と云う事以上ではないし、だから確実に上手くいくとも限りませんしね。今になってこんな事を云うのはちょっと気が引けますけど」
「でも真っ暗闇の中で、ポッと灯りが燈ったような気がしたんだよ、本当に」
「そう云って貰えるだけでも嬉しいですよ」
 頑治さんは苦笑いをして頭を掻くのでありました。
「ところで屹度会社は早晩解散になるだろうと云うのに、日比さんと甲斐さんはそれでも未練がましくこの会社にしがみつきたいのかねえ」
 そう云った後、袁満さんは自分の缶コーヒーを飲み干すのでありました。
「日比課長と甲斐さんの思いをちゃんと訊き質してはいないから、俺としては何とも云えませんけど、でも日比課長も甲斐さんも俺達よりずっと古い、地名総覧社時代からの社員ですから、会社に対する思い入れも俺達とは全然違うでしょうね」
「しかし近々会社がなくなるのは、先ず間違いないと云うのに」
「お二人は未だ、その事にリアリティーを感じられないのかも知れませんね」
「事ここに到っているんだから、それは鈍感にも程があると云うものじゃないかな」
 袁満さんは缶の中身が空になったのを態々確かめるように、それを耳元で二三度振ってみて、中で液体が騒ぐ音がしないかどうか試すのでありました。
「土師尾常務は論外だとしても、最終的には社長が、何とかしてくれるかも知れないと、期待しているのかも知れませんね」
「あの社長にそんな事を期待しても無意味だろうけど」
 袁満さんが舌打ちの後に溜息を吐くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 686 [あなたのとりこ 23 創作]

「それどころか寧ろ、この二十日で辞める俺達四人には、社長の言を信じるとするなら、一応退職金が出るようだけど、愈々となって日比課長と甲斐さんが辞める、と云うか、辞めさせられる時には、それも出るかどうか判りませんよね」
「そうだね。出ない公算の方が大きいんじゃないかな」
 袁満さんは大きく頷くのでありました。「そう云う意味では、俺達四人はここで賢明な判断をした、と云う事が出来るのかな」
「まあ、残る二人に退職金が出るのか出ないのか、未だ判りませんけどね」
「でも組合もなくなるし、二人の退職時の立場としては、今より悪くなるのは確実だな。それも日比さんと甲斐さんの選択だから、総ての結果の責任は二人にあるけどね」
 袁満さんは突き放すような云い草をするのでありました。

 退職もすぐそこ迄迫った或る日曜日の午後に、頑治さんのアパートを那間裕子女史が訪うのでありました。これは予め約束をしていたのではなかったので、頑治さんはアパートのドアを開ける事に少し躊躇いを感じるのでありました。
 以前真夜中に、那間裕子女史は突然何の前触れもなく、泥酔状態で頑治さんのアパートに来た事があったのでありました。その時は殆ど意識のない那間裕子女史を、持て余しながらも何とか苦労してアパートに上げたのでありました。しかしながら上げたは良いものの、それからどうして良いのか判らなかったので、急いで均目さんに救援を求めたのでありました。幸い均目さんはご苦労にも頑治さんの家まで遣って来て、那間裕子女史を引き取って帰って行ったので、何やら面倒臭い事にはならずに済んだのでありました。
 今次は真夜中と云う訳ではなく午後の六時を回ったころでありましたし、女史は意識を失くすほどに泥酔しいる訳ではないようでありました。
「電話もしないで急に来て悪かったかしら?」
 那間裕子女史は珍しく殊勝な顔をするのでありました。
「いや、別にそんな事はないですけど」
 頑治さんは如何にも歓迎すると云った風でもなく、かと云って大いに迷惑だと云う風でもなく、まあ、無表情でそう返すのでありました。
「この前みたいに酔ってはいないわよ」
 那間裕子女史は少しはにかむように、且つしおらしそうに云うのでありました。
「そうみたいですね」
 頑治さんは苦笑いをして見せるのでありました。「でも、ほんのちょっとだけど、アルコールの匂いがしない事もありませんけど」
「あら、バレたかしら、矢張り」
 那間裕子女史は面目なさそうに旋毛を見せるのでありましたが、そんなにあたふたする風でもなく、ま、上目遣いして笑っているのでありました。
「まあ、別に法律にふれている訳でもないから良いですけど」
「ちゃんと御茶ノ水駅の自動販売機で、唐目君の分も買って来たわよ」
(続)
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あなたのとりこ 687 [あなたのとりこ 23 創作]

 那間裕子女史は持っていたバッグから缶ビールを二本取り出して、頑治さんのすぐ目の前に差し上げて見せるのでありました。二本と云う事は、一本は頑治さんの分でありましょうが、後の一本は自分のものに違いないでありましょう。
「まあ、上ってください」
 頑治さんは缶ビールを受け取ってから、体を斜にして女史の通る空間を空けて那間裕子女史を部屋の中に通すのでありました。
「突然来て、唐目君が何処かに出掛けていたらどうしようと思っていたのよ」
「若し出掛けていたら?」
「その時は缶ビールを飲みながら、上野でも散歩すれば良いかと考えていたわ」
「ああ、成程」
「この前は寝て仕舞って中の様子が良く判らなかったけど、本ばかりで余計なものがまるでない、見事に殺風景な部屋ね」
 座卓代わりの炬燵を前に座った那間裕子女史は、頭を回して部屋の中をグルっと眺め回しながら云うのでありました。
「あら、でも、この部屋にちょっと似つかわしくないものがあるわ」
 那間裕子女史は立ち上がって、本棚の上に置いてあるネコのぬいぐるみを手にするのでありました。「何これ。唐目君の趣味?」
「いやあ、別に好き好んでそんなものをそこに置いている訳ではないんですが。・・・」
 頑治さんは少しもじもじするのでありました。
「彼女さんに貰ったの?」
「貰ったと云うのか、置いていったと云うのか。・・・」
「その彼女さんが置いていったものを、律義にこうしてここに飾っている訳?」
「飾っていると云うのか、目的があってそこに据え付けられていると云うのか」
「据え付けられている?」
 那間裕子女史は怪訝な事を云う頑治さんを上目に見ながら、やけにゆるりとした手付きでぬいぐるみを本棚の元の位置に戻すのでありました。「何かしら、事情がある訳ね」
 那間裕子女史はその後もう、そのネコのぬいぐるみをどうして頑治さんが所持しているのか、それにそこに何故置いてあるかと云う経緯には興味がなくなったように、ぬいぐるみを置いたすぐ近くの棚から一冊の本を引き摺り出すのでありました。
「伊東静雄の詩集ね」
 那間裕子女史はペラペラと頁をめくるのでありました。この本がどうしてここに在るのかとか、その理由や経緯を訊かれたら、これまた何やら面倒な説明になると頑治さんは考えるのでありましたが、まあ、那間裕子女史はその本の所在理由にネコのぬいぐるみ程不自然な感じを抱かなかったようで、別にその辺りは探りを入れてこないのでありました。女史はその本を本棚の元の所に戻すと、また座卓の前に座るのでありました。
「ええと、今日いらしたのは、つまりどう云う目的ですかね?」
 頑治さんは貰った缶ビールを一口飲んだ後に訊くのでありました。
(続)
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