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お前の番だ! 1 [お前の番だ! 1 創作]

 咳の音一つだにない、静まり返った道場の中に、廊下を歩み来る常勝流武道第六代目総士、是路搖歩先生の足音が聞こえ始めると、正坐して下座に横一列に居並ぶ門下生達の背筋が一層ピンと伸びるのでありました。この一般稽古は、内弟子か或いは内弟子扱連中の専門稽古の時より緩くはあるものの、内弟子中で殿に座を取る折野万太郎の心臓は、それでも何時も道場掃除の時に使っている古雑巾のようにきつく絞られるのでありました。
 内弟子に入ってからもうそろそろ三か月になろうとするのに、万太郎はこの稽古開始前の緊張感に未だに慣れないのでありました。何時も搖歩先生の足音が聞こえ始めると万太郎の心臓は急に拍動を早めて、もう逃げ出して仕舞いたいような衝動に正坐した膝の内側から感覚が消え去って、腰から下にまるで力が入らなくなるような具合でありました。
 それは入門して最初に訓戒を貰った古い門弟で道場の総支配役にある鳥枝桐蔵範士から、第一声で「稽古にはそれで死んでも文句はないと云う気概で臨め。例え本当にお前が稽古中に死んだとしても、俺にはお前の親からも文句を頂戴しないで済ませる事が出来るからな」と、愛情たっぷりに無愛想に云われた事に帰するのでありましょう。鳥枝範士の顔が節分の鬼のように厳つく怖い造作をしていると云う事もありますが、大人し気な声で迫力満点にこう云われただけに、万太郎は余計に底知れぬ不気味さを感じたのでありました。
 鳥枝範士は五十半ばを幾つか過ぎた歳の割には顔の色艶も恰幅も良くて、稽古着に袴姿でいる時は、中肉中背の常勝流総帥である是路搖歩総士よりも威風堂々とした押し出しで、二人並んでいるとこちらの方が格上の修行者に見えて仕舞うくらいでありました。その発する声もやたらに大きくて、一喝に依って吠えかかる犬を気絶させた事があると云う逸話があるくらいでありました。確かに内弟子や準内弟子共を叱りつける時のその声量たるや、この噂沓も決して嘘でも大袈裟でもないであろうと万太郎は納得出来る程でありました。
 鳥枝範士は娑婆にあっては、業界で中程度の規模の建設会社の会長さんなのでありました。社長をしていた頃は忙しさにかまけて、少年時代から続けている常勝流武道の稽古も儘ならなかったのでありますが、それではつまらぬと五十歳であっさり弟君に席を譲って自分は会長に納まり、それからは修行の中弛みを解消せんとて若い時分にも増して稽古に精を出し、今では総帥の是路総士から道場の総支配役を任されているのでありました。
 万太郎より二か月程早くこの道場に入門した同じ内弟子の面能美良平が静かに立って、片膝ついた儘頃あいに道場の引き戸を恭しく開くと、一拍の間を置いて是路総士が青畳の上に一歩を載せるのでありました。道場内の緊張が頂点に達するのでありました。
 しかしここまでくると逆に万太郎の緊張し切った心臓の細糸はやや弛緩するのでありました。下座に正坐してから是路総士が道場に現れるまでの待機の時間が万太郎には苦手なのであって、是路総士の姿を見たら寧ろ万太郎の気持ちは少し落ち着くのでありました。
 道場に無表情に一歩を踏み入れた是路総士は、二歩目を敷居の段差に取られて躓くのでありました。万太郎は同じ光景をこの三か月の間に二度程目撃した事があるのでありました。是路総士は倒れかかった勢いをその儘に横向きの小走りにふらふらと見所(けんぞ)の前に至ると、竟に転けたと云った風情で上座に向かって正坐するのでありました。この是路総士の失態に失笑を漏らすような不届きな道場生は一人もいないのでありました。
(続)

お前の番だ! 2 [お前の番だ! 1 創作]

「神前に、礼!」
 鳥枝範士の大音声が道場に響くのでありましたが、是路総士の正坐からほんの少しこの発声までに間が空くのは、鳥枝範士が是路総士の入場の不手際に顔を顰めてから気を取り直すまでの時間が挟まるからでありました。とまれ、その号令に見所の上に設えられている榊の葉も瑞々しい神棚に向かって、是路総士始め下座に居並ぶ門下生が一斉に恭しく座礼をするのでありました。それが済むと是路総士は神前真正面から横にやや外れた位置に膝行で移動して、下座に並ぶ門下生一同の方に向き直って威儀を正すのでありました。
「総士先生に、礼!」
 鳥枝範士の声に、門下生一同が「押忍!」の気合の入った発声と伴に是路総士に向かって律義に首を垂れるのでありました。ここまでくると万太郎の気持ちは全くの平静に戻って、寧ろその眼球には稽古に対する意欲的な光沢すら揺蕩っているのでありました。
「稽古始め」
 是路総士の合図の声にまた一斉に門下生が「押忍!」と返して、間髪を入れず鳥枝範士がすっくと立ち上がるのでありました。是路総士は静かに見所に退いて一段高い見所の内から稽古を見守るのであります。見所に退く時に是路総士はまた少し躓くのでありました。
 門下生の前に出ると鳥枝範士は万太郎を指差すのでありました。万太郎は即座に立って鳥枝範士の方に進み出るのでありました。
「ではこれから、座取りの腕一本抑え表技、を行う」
 鳥枝範士は門下生に向かってそう云うのでありましたが、範を垂れると云う意味で万太郎を相手にこの技を皆の前で先ずやって見せるのであります。
 この腕一本抑え表技と云う技は相手が正面を手刀で打って来た時に、その腕を取って相手の肘肩をつめながら前に出て俯せに倒して肘を圧迫制圧する技であります。常勝流武道体術の基本中の基本とされている技で、この技の中に常勝流武道の精髄が漏れなく籠められていると云われている技なのでありました。その、座取り、と云うわけでありますからお互いに正坐した状態から攻防を始め、座った儘で技を施し終わると云うものであります。
 因みに常勝流武道には剣術と体術があるのでありました。遡れば斯道を創始した初代宗家である是路殷盛と云う名前の剣士が明治初頭の人で、これからは剣術よりは体術の時代であると覚悟し、艱難辛苦の末に剣術の理合いを生かした精妙な体術を創始し、体術を表技、剣を裏技として、何時如何なる場合であろうと常に吾が勝つと云う気概を「常勝流武術」と云う流名にこめたものが、一子相伝に今日まで伝えられたたものであります。それが戦後に「常勝流武道」との改名はあったものの、当代宗家の是路搖歩総士に伝えられたのでありました。また因みに戦後の改名の件は是路搖歩総士の発案になるのであります。
 鳥枝範士と万太郎は畳一間の間合いで対峙した後にお互いに一足進んで正坐すると、頃あいから万太郎が鳥枝範士の眉間を目がけて満身の力を手刀に籠めて打ちこむのでありました。鳥枝範士はその万太郎の打ちこんだ手刀を同じく手刀で受けるのでありましたが、鳥枝範士の手刀が手首に触れた瞬間、万太郎の腕に雷に打たれたような痺れが走るのでありました。腕ばかりではなくその痺れは瞬時に肩から肋骨にまで伝わるのでありました。
(続)

お前の番だ! 3 [お前の番だ! 1 創作]

 鳥枝範士はすぐに万太郎の肘を片方の手で突き上げ、一歩膝行しながらすぐに丸く返して切り下げ、万太郎を畳に俯せに制圧するのでありました。その後鳥枝範士は徐に万太郎の腕を畳に下ろして、その肘に重心の乗った圧迫を加えるのでありました。
 その圧迫の強さに万太郎の腕は肘から拉げそうでありました。万太郎は慌ててもう片方の手で畳を打って、参ったと云うサインを鳥枝範士に送るのでありましたが、上肢が痺れて力が殆ど入らない万太郎は、こうして簡単に鳥枝範士に制圧されるのでありました。
 しかし鳥枝範士が圧迫を緩めると万太郎の肘の痛みが風に攫っていかれたように、即座に消え失せるのでありました。何時もながら不思議な感覚であります。
「さあてこれを、各自、止め、の号令がかかるまで只管繰り返せ」
 鳥枝範士が凄みを利かせた声で厳めしく下座に居並ぶ門下生に命じるのでありました。門下生達は「押忍!」と発声して一斉に一礼すると、きびきびとした動作で適当な相手を見つけて道場一杯に広がり、この後夫々、「止め」の号令がかかるまで、座取りの腕一本抑え表技、の稽古を相手と代わり番こに休みなく黙々と繰り返すのであります。
 万太郎は二か月先輩で同じ内弟子の面能美良平と組んで一般の門下生に交じって、矢張りこの技を只管反復するのでありました。お互い未だ白帯を締めている五か月と三か月の初心者同士ではあるものの、そこは内弟子として一般の門下生よりは一日の稽古量が五倍くらいあるものだから、彼ら二人の稽古は他に比べるとスピードもあり、また滑らかでもあり、技の鋭利さも仄見えていて、迫力と云う点では抜きん出ているのでありました。
 白帯同士で組んだ或る組はゆっくりと、黒帯同士の或る組はなかなか素早く手際良く、白帯と黒帯が組んだ組は黒が白に要所々々の細かい技術を指南しながら、夫々の組が夫々のペースで技をかけあっている中を、鳥枝範士は潜り回りながら門下生達に指導の声をかけるのであります。時に聞こえる鳥枝範士の指導の言葉と、その指導に謝意を表す門下生の「押忍」の声と、手刀を打ちこむ時の「エイ!」と云う気合の入った発声と、技が完了して参った時の合図に畳を叩く音が、入り乱れて道場に響き続けているのでありました。
 常勝流武道の精緻な技の数々に一見で魅了されて即座に入門を決め、その技を日々の稽古の厳かさに依って少しずつでも身につけていると云う喜びが、万太郎をして誰よりも熱心に稽古に打ちこませるのでありました。それは一切の世事を忘れて只管技の反復に全力を傾注する、行、としての稽古の単純明快さが、彼の生まれついての性質と相性が良かったためでもありましょうし、内弟子としての厳しい規戒や煩わしい日々の仕事やら、鳥枝範士の人使いの荒さやらに閉口しつつも、それを超える充実感がある故でもありましょう。

 折野万太郎が最初にこの常勝流武道総本部道場を訪うたのは四か月前の十二月でありました。大学四年生であった万太郎は就職のための九月からの会社訪問解禁日以来、幾つかの企業を回ってはいるものの捗々しい向う様の反応が得られずにいるのでありました。
 中東からの石油供給量削減が「オイルショック」と呼ばれ、工業商品の生産量を激減させ物流を停滞させ、トイレットペーパーがなくなり、それまでの経済の成長が嘘のように鈍化したのであります。世には未曽有の不況の木枯らしが吹き荒れているのでありました。
(続)

お前の番だ! 4 [お前の番だ! 1 創作]

 万太郎は特に大学の成績も芳しい方ではなく、これと云って人様に自慢出来る特技もなく、就職に有利に働くコネクションも持っていないのでありました。このような大学生は不況の木枯らしに好きなように翻弄されるしかなく、先の見えない漆黒の闇の中に延びる直線道路を、ただ足先の安全をのみ探りながらトボトボと歩き続ける夢を、万太郎は街を歩き回って疲れ果てた体を布団の中に横たえると連日、決まって見るのでありました。
 そんな或る日、何時ものように大学の就職課の前に貼り出してある各企業の就職案内の掲示の中に、鳥枝建設、と云う名前の土木建設会社の案内を認めるのでありました。大学就職課のお決まりの書式で書いてあったから、特にその案内貼り紙が目立っていたと云うのではなく、全く偶然にその掲示が万太郎の目に入ってきたと云う具合でありました。
 万太郎には特段に入りたいと思っている会社とか、やってみたい業種とか、身を置いてみたい業界とか云うのは何もないのでありました。若しもそんな志望があったとしても、この就職難の折、そう云う処に就職しようと前々から励んできた学生でもその希望がおいそれと叶う程、吹き荒れている木枯らしは弱い風速では全くないのでありましたが。
 で、彼はアルバイトで貯めたなけなしの金をはたいて、会社訪問用に大学生協で買った紺色のスーツの上着の内ポケットからメモ帖を取り出して、鳥枝建設の住所と電話番号と最寄り駅からの大雑把な道順を書き写すのでありました。ま、これも屹度ダメだろうと諦めの気持ちが先立つのでありましたが、ダメ序に回ってみるかと云う了見であります。
 鳥枝建設は地下鉄新宿三丁目駅から歩いて十分程の処にあるのでありました。新宿駅界隈の雑踏から少し離れて意外に閑寂で、鳥枝建設のあるビルの近辺には一般の民家もちらほら建っていて、豆腐屋とか総菜屋とか瓦屋根の呉服屋なんかも在るのでありました。
 社屋のエントランスの一角にスチール製の簡易長机が出ていて、その横に、会社訪問学生受付、と大書した立て看板があるのでありました。机の前には恐らく万太郎と同じ会社訪問にやって来た学生と思しきスーツにネクタイ姿、或いは学生服姿の若い男共が小脇にビニールで包まれた紙袋を挟んで、二列の不整列な行列を作っているのでありました。
 万太郎は一方の行列の最後尾につくのでありました。彼の前には七八人が並んでいて、この受付では持参した履歴書を渡して会社案内のパンフレットを貰うのみでありましたから、案外早く万太郎はスチール机向こうの若い女子社員からパンフレットと「ご苦労様です」の言葉と、奥の会議室に行けと云う指示を貰うのでありました。
 会議室の中には五十人程の学生が、室内一杯に並んでいる、受付に置いてあったものと同じスチール机の前にてんでに座っているのでありました。緊張の面持ちでキョロキョロしているのもいれば、連れ立って来たのか隣同士で何やら熱心に話しをしているのも、背筋を伸ばして瞑目して無念無想の構えを見せているのも、入り口脇に置いてある灰皿の横で腕組みしてリラックスして煙草をふかしている猛者なんかもいるのでありました。
 ほぼ席が埋まったところで、大きな白板の置いてある脇の前扉から恰幅の良い赤ら顔の男を最後尾に、それを若い屈強そうな体躯をした男と、中年の痩せた如何にも中間管理職然とした男二人が露払いするかのような感じで先導して、担当者らしきが室内に入って来るのでありました。最後尾の男が机に座っている学生共を睨め回すのでありました。
(続)

お前の番だ! 5 [お前の番だ! 1 創作]

 学生の前に立つ祭に、露払いの二人が最後尾の男を挟むようにして横隊に並ぶのでありました。真ん中の恰幅の良い赤ら顔がもう一度学生達を睨め回してから、厳ついその顔と風体とは裏腹な、甲高い声で徐に口を開くのでありました。
「人事部長の済陽史郎です」
 済陽史郎氏がそう云って浅くお辞儀をするのでありました。前に座った学生達の頭が夫々小さく前後に動くのは、人事部長の言葉に対して一礼を返すからでありました。
「これから我が社の紹介映画を上映した後、会社に対する諸君の質問なんかを受けつけて、その後に一次試験の日程やらその後の事等を案内します」
 そう云い終わると人事部長は横の若い方に顔を向けて、小さく頷いて合図を送るのでありました。若いのが頷き返して部屋の後ろの方に移動すると、そこに置いてある映写機のようなものを操作し始めるのでありました。
 タイミングをあわせるように痩せた中間管理職風が壁際にあるスイッチを操作して、部屋の照明を落とすのでありました。嫌に大きな白板だと万太郎は思っていたのでありますが、それは映像を映し出すスクリーンのようであります。
 映写機のフイルムを回す歯車の音が暗く静まった室内に響く中で、白板上に鳥枝建設の会社紹介映画が効果音楽と音声入りで映し出されるのでありました。先ずファンファーレの中を会社のロゴタイプが大写しに飛び出してきて、その後にやや間を空けて雲一つない青空が映し出され、カメラは次第に下に降りてきて地上の光景に変わるのでありました。
 それは何処かの大規模団地の建設風景なのでありました。カメラはその工事現場の中にゆっくりズームしていくのでありました。
 如何にも建設工事現場らしい音が響く中を、白いヘルメットに白い作業着姿の若い建設作業員の男達がきびきびと、或いは活き々々と額の汗を拭いながら働いているのでありました。作業服にネクタイの矢張りヘルメットを被った現場監督らしきが、図面を丸めた紙で方々を指し示しながら、これも実に手際良く親方衆や作業員等に指示を与えているのでありますが、映画のプロの手になるような、なかなか凝った会社紹介映画であります。
 映画には大規模団地の工事現場、その後に何処かの海峡に架かる大きな吊り橋の工事、それに恐らく何処かの険峻な山間の砂防ダム建設現場等の映像が流れるのでありました。それから製図板が部屋一面に並んだ設計部の仕事風景、会社所有のダンプカーやショベルカーや、それに大型の掘削機やクレーン車等の重機の映像もあるのでありました。
 他には朝の社員総出で律義にラジオ体操をする光景とか、若い社員達が屋上で楽し気にバレーボールをやっている昼休みの光景とか、女子社員が持参の弁当を円陣になってこれも屋上のベンチで、カメラを意識して如何にも照れ臭そうに食っている光景とか、伊豆の土肥と信州の蓼科高原にある厚生施設の露天風呂の風景とかが流れるのでありました。
 最後にもう一度最初に流れたファンファーレが鳴り響き会社のロゴタイプの大写しがあって、それで約十五分間の映画は終了するのでありました。万太郎は小学校の時に体育館で見せられた教育映画を思い出して、エンドマークに対して儀式的な拍手を送りたい衝動に駆られるのでありましたが、勿論そんな真似をするヤツは誰もいないのでありました。
(続)

お前の番だ! 6 [お前の番だ! 1 創作]

 映画の後に鳥枝建設の設立からの歴史とか創業者の横顔であるとかとか、歴代三人の社長の紹介やら、近来の「オイルショック」にもめげす堅調に業績を伸ばしている事であるとか、一通りの会社の沿革が済陽人事部長から説明があるのでありました。その後で何でも構わぬから何か質問があればと済陽人事部長から促されて、前に座っている学生達はここが売り出し所と気負いこんで、方々で意欲的な挙手が天井に伸びるのでありました。
 学生達は自分の名前と在学している大学名を最初にものしてから、我勝ちに様々の質問をするのでありました。勿論最初に元気に名前と在学大学をものするのは礼儀からでもありましょうが、一番の魂胆は前に居並ぶ会社の採用担当者三人の内の誰か一人が、自分に好印象を持ってくれて、我が名をちらとメモでもしてくれる事を期してでありましょう。
 或る一人は、自分はこれこれ云々の学問を大学でやってきてこれこれ云々の成績を残しているのであるが、そう云った学問の成果を是非鳥枝建設で発揮してみたいなんと云う、これは特に質問と云う事ではなくて単なる売りこみ以外ではないような発言をするのでありました。また一人は大学かそれとも事前にあれこれと仕こんだ小難しい専門用語をさり気なく披歴しつつ、自分が如何に建設業界に入れこんでいるかをアピールするような、万太郎が初めて聞くような高層建築に関する専門的な質問をするのもあるのでありました。
 万太郎はこりゃ叶わんと自分の傍に座っている大学生達に対して大いに畏れ入るのでありましたが、反面、そんな質問なんぞは質問と云う名にも値しない、あざといと云うも疎かなるラブコールでしかないと腹の中で思うのでありました。学生達よりは世故に通じているであろう前の採用担当の三人には屹度通用しない、笑止千万なる仕業でありましょう。
 給料は幾ら貰えるのかとか、休みはちゃんと取れるのかとか、仕事にノルマはないのかとか、接待ゴルフに頻繁に動員がかかるのかとか、そう云った辺りを質問する奴原もいるにはいるのでありましたが、万太郎にはこちらの方が好感が持てるのでありました。尤も万太郎に好感を持たれても、彼の奴原は嬉しくも何ともないでありましょうが。
 この学生達との質疑応答の時間が二十分程で、後は一次試験たる筆記試験の科目やら日程やらの確認と、その一次試験の合格者にはどのような形で通知が行くかであるとか、そのまた後に控える面接の二次、三次試験の事やらについての話しがあって、都合四十五分程で万太郎の鳥枝建設会社訪問は終了するのでありました。万太郎が会議室を出ると、もう次の訪問組の行列が受付の前に出来ているのでありましたが、世の中がすっかり不況になって大学生の就職も儘ならないと云う事もあって、実になかなか盛況のようであります。
 万太郎は鳥枝建設への就職には然程乗り気にはならないのでありましたが、それは鳥枝建設が何となく自分とは縁の薄い企業のように感じられたからでありました。勿論そんな選り好みの出来る立場ではないのは承知ながら、申しこみはしたものの一次試験はすっぽかして、また大学の就職課の掲示板で他の企業を探そうと云う気持ちに、アパートに帰るために新宿三丁目駅へ向かって街中を歩いている傍からすでになっているのでありました。
 万太郎がそう云う心算でいたにも関わらず、二三日して鳥枝建設の人事部に、就職活動のために最近態々大枚を叩いて部屋に引いた電話の呼び鈴が鳴らされるのでありました。さあてこれは一体、どう云う具合の風の吹きまわしなのでありましょうか。
(続)

お前の番だ! 7 [お前の番だ! 1 創作]

「鳥枝建設の人事部の者ですが、折野万太郎さんでいらっしゃいますしょうか?」
 電話の向こうから聞こえる声は聞き覚えのある甲高いもので、会社訪問した折に中心的に座を取り仕切っていた、赤ら顔の済陽人事部長のものだとすぐに判るのでありました。
「はいそうです。折野万太郎です」
 万太郎は先方の丁寧なもの云いに受話器を耳に当てた儘、部屋の壁に向かって何となく一礼しているのでありました。
「突然で不躾ではありますがこうしてお電話を差し上げたのは、貴方様に是非一次試験前に弊社にご足労頂きたいからでありまして」
「はあ。ええとそれは、御社への就職の件で、でしょうか?」
「ええまあ、そう云う風にご理解頂いても結構です」
 何となく、そうだとはっきり云い切らない曖昧さを含んだ云い様であります。
「何時お伺いすればよろしいのでしょうか?」
「急で大変申しわけないのですが、出来ましたら明日にでもと思っておりますが」
「判りました。お伺いさせていただきます」
 万太郎はまた壁にお辞儀するのでありました。「時間はどうしましょうか?」
「出来ましたら明日午前十時と云う事で如何でしょうか?」
「はい判りました。午前十時に参ります」
「ご来社されたら、受付にお名前をお告げ頂ければそれで結構です」
「判りました」
「ではそのようにお願いいたします。ご免下さい」
 電話はそう云って切れるのでありました。受話器を耳から放す時に万太郎はまたもや一礼するのでありましたが、その後受話器を元に戻して暫し首を傾げるのでありました。
 会社訪問した折の質疑応答の時間中、万太郎は取り立てて何も発言等はしなかったのでありましたから、彼の存在を向う様にはっきり認知せしめるような場面は特段何もなかったのでありました。彼がそこにいた事すら向こうは気にもかけなかったでありましょう。
 してみると彼の提出してきた履歴書の方に、先方が何かしら強い興味を抱いたと云う事かも知れません。しかしこの履歴書てえものがまた、自慢すべきが何もない、誰が見てもさっぱり魅力的な記述の見当たらない、自分でも溜息の出るくらい興醒めの代物でありましたから、それも可能性として考えにくいわけで全く以って解せない電話であります。

「では次の技に移る」
 鳥枝範士の声が道場に響くのでありました。その声に門下生が今までやっていた、座取りの腕一本抑え表技、の稽古を止めて、一斉に下座に下がって正坐するのでありました。
「次は、今の技を立ち技で行う」
 道場の真ん中に立つ鳥枝範士の声に内弟子の万太郎が反応して、すっくと立ち上がって前に出るのでありました。鳥枝範士はまたもや万太郎を相手にこの、立取りの腕一本抑え表技、の手本を門下生に、向きを変えながら三本披露するのでありました。
(続)

お前の番だ! 8 [お前の番だ! 1 創作]

「この技を止めの号令がかかるまで繰り返せ」
 鳥枝範士の指示に下座の門下生が「押忍!」と応じて、夫々がまた組になって道場一杯に散らばると只管技の反復に精を出すのでありました。
 万太郎は面能美良平と鋭い打ちこみの気合をかけながら交互にこの技の修錬に励むのでありましたが、道場の引き戸がそっと開いて、そこから白い稽古着に袴をつけた若い女性が静かに道場に入って来るのが、彼の目の端に映るのでありました。この女性は是路総士の一人娘で、是路あゆみ、と云う名前の万太郎より一歳年上の、稽古中は艶やかな髪を後ろにポニーテールに纏めた、なかなか凛々しい細面の顔立ちをした美人でありました。
 是路あゆみは先ず見所に正坐している、父である是路搖歩総士の傍に行って見所の下から律義らしく座礼をするのでありました。是路総士が小さく頷くと、あゆみは静かに立って今度は指導に道場を歩き回っている鳥枝範士に近づいて、落ち着いた声で「遅くなりました」と発声しながら丁寧な立礼をするのでありました。
 鳥枝範士の是路総士と同じような小さな頷きを確認して、あゆみは道場の中を少し眺め回してから万太郎と良平の組を見つけるとそちらの方に、稽古で不規則に動き回る門下生達を上手に避けながら歩み寄って来るのでありました。
「よろしくお願いします」
 あゆみが二人に声をかけるのでありました。二人は稽古の手を止めずにあゆみに向かって「押忍」と小さく同時に瞼で礼をしつつ返答するのでありました。目を細めるだけの極めて略式の礼ではありましたが、二人は別に横着をしているのではないのでありました。
 万太郎が内弟子に入った頃、あゆみが稽古中の万太郎に近づいてきて同じように立礼した事があったのでありました。総士のお嬢さんでもあり道場では大先輩に当たるので、万太郎は稽古を中断してその場に正坐してあゆみに畏まった座礼を返したのでありました。
「稽古中は手を止めずに略礼で」
 あゆみが万太郎にくりくりとした目を一直線に向けて小声で諭しながら、早く立てと掌を小さく上下に動かして指示するのでありました。
「あ、どうも。押忍」
 万太郎はおどおどと立ち上がるのでありましたが、稽古中は総士と範士以外の者同士は、礼を失しない程度に簡略に挨拶するのが道場の作法であろうとすぐに察するのでありました。しかしそれにしてもあゆみの視線に万太郎は大いにたじろぐのでありました。
 別にそれは道場の作法に未だ不慣れな万太郎を、きつく咎めたり詰ったりするような目線ではなかったのでありました。しかし妙齢の女性の、無意識であるにしろ動揺の微塵もない間近からの一直線の凝視は、万太郎をどぎまぎさせるに充分でありました。
 まあそう云うわけで、万太郎と良平の組にあゆみが混ざるのでありました。あゆみが他の門下生の組に混ざってもそれは別に構わない事でありましたが、しかしあゆみも是路総士の一人娘として道場では内弟子と同じような立場でありましたから、そこは内弟子同士で、同じ、立取りの腕一本抑え表技、の稽古をするにしても、他の門下生よりはややきつめに修錬するのが道場の仕来たりとしては自然で妥当であると云うものでありましょう。
(続)

お前の番だ! 9 [お前の番だ! 1 創作]

 あゆみは未だ小学校に上がる前より父の是路総士や鳥枝範士、それから出稽古のためその日の道場に顔はないのでありましたが、鳥枝範士と同格の寄敷保佐彦範士辺りから直々に稽古をつけてもらっているために、万太郎や良平よりは遥かにその技は的確であり端正であり、また鋭利で、どちらかと云うと万太郎と良平があゆみから教えを受けていると云った風情になるのでありました。おまけに万太郎や良平よりあゆみの方が一つ歳上でもあるから、要するに姉弟子に新入り二人が稽古をつけて貰っていると云う感じであります。
 それからあゆみは体術よりは剣術の方の才に恵まれていて、鳥枝範士や寄敷範士と試合をしても三番中一本は取るくらいの腕前なのでありました。だから道場の剣の本稽古では時折、総士や範士二人の代稽古を務める事もあるくらいでありました。
「折野、もっと相手の肩をしっかりつめて!」
 あゆみが大きくはないにしろ、毅然且つ冷徹なる声で良平を相手に技を施す万太郎に横から指導を呉れるのでありました。
「押忍!」
 万太郎はそう発声して良平の肘を持つ手に力を籠めるのでありました。
「その後の出足が遅い!」
「押忍!」
「抑えが甘い!」
「押忍!」
 動きの一々にあゆみの叱咤を受けるものだから、万太郎は体が硬くなって全くぎごちなく技を終えるのでありました。
 次に良平に代わってあゆみが万太郎と対峙し彼に技をかけるのでありました。成程叱咤するだけあって万太郎の眉間に打ちこむその手刀は、この細い体の何処にそんな力があるのかと不思議に思うくらい、それを受ける万太郎の腕にズシリと重く圧しかかってきて、手刀があった瞬間に万太郎は体が浮かされて、後は肘も肩も極められた状態で俯せまで持っていかれて、その肘をこれまたきつく圧し極められて仕舞うのでありました。
 鳥枝範士の、肘も捥げよとばかりに圧し極める威力とは違った、肘の一点に鋭く錐を刺しこまれたような痛みが、万太郎の参ったのサインを送るもう片方の手に依る畳打ちの音を一際大きくするのでありました。しかし鳥枝範士の時と同じで、あゆみの手が肘から離れるとその容赦ない押圧に依る痛みは不思議にすぐに消え去るのでありました。
「次、面能美」
 あゆみがそう云うと腕をふりながら下がって、近くで正坐する万太郎に代わって前に出た良平が今度は彼女にあしらわれるのであります。良平も手もなくあゆみの技に屈服して、驚嘆と恐怖と面目なさがない交ぜになったような顔で必死に畳を打つのでありました。
 万太郎と良平があゆみに技を施しても彼女の技程彼女を翻弄する事が出来ず、懸命にその細い腕を極めようとする彼等の意とは裏腹に、あゆみの肘も肩も未だ充分に余裕のあるところを接触している掌を介して彼等に伝えるのでありました。幾ら年季が違うとは云うものの、自分より体格の劣る女性に歯が立たないと云うのは些かげんなりであります。
(続)

お前の番だ! 10 [お前の番だ! 1 創作]

「大の男が間抜け面二つも下げて、女にそんな簡単にあしらわれていてどうする」
 道場を指導に回っていた鳥枝範士があゆみと万太郎と良平組の傍に寄ってきて、技術的な指導の言葉は一つもなく、稽古を見ながらさも嘆かわし気に正坐している万太郎に云い棄てて去っていくのでありました。その云い草はまるで指導するにも値しないと云うような、男共の情けなさ加減に愛想が尽きたと云った風でありました。
 そんな事を云われてもどだい年季が違うのだからと、万太郎は顔には出さないものの心の中で大いに憤慨するのでありました。それにこちらが力で何とかしようとしても、そんなものが通用するようなあゆみの技ではないのであります。
 万太郎が固く体を構えていても、あゆみは触れた手刀の一押しでいとも簡単に彼の体を浮かせて、肩と肘を巧妙に極めて自由を奪い、後は彼女の意の儘に操られて仕舞うのであります。しかしあゆみは特に満身の力を籠めて技を施している風ではなく、あくまでもその顔つきは穏やかな無表情で、それでいて万太郎を手ひどく翻弄するのであります。
 受け側に回ってもあゆみの肩の関節はあくまでも柔らかく、しかしどうしたものかその細くて嫋やかなる腕はずっしりと重いのでありました。こちらが彼女をコントロールしようと足掻けば足掻く程、あゆみは腕の重さと肩の柔らかさと、年季の違いによる綽々たる余裕を以って、しごくあっさりとはこちらの意気ごみを吸収して仕舞うのであります。
 あゆみをどうやって制圧姿勢まで持っていくかと持て余すばかりの万太郎を、あゆみはまるで年端のいかない子供を大人が慈愛で以って慰めているかのように、一応制圧姿勢までおつきあいしてくれるのでありますが、そうとはっきり判るあゆみの動きだけに、万太郎は寧ろ余計に屈辱感を覚えないではいられないのでありました。確かにこれは情けない図ではあるかと、万太郎は一方で鳥枝範士の言葉を心の隅っこで肯うのでありました。
「よし、次の技に移る」
 鳥枝範士がまた道場中に声を響かせるのでありました。
 こうやって結局都合四本の技を稽古して、夜の七時から八時までのその日の一般門下生稽古が終了するのでありました。
「稽古止め!」
 鳥枝範士が頃あいでそう怒鳴ると、道場に広がっていた門下生が一斉に下座に退いて横一列に正坐するのでありました。
「総士先生に、礼!」
 列の一番端で皆より畳一枚前に座る鳥枝範士が号令をかけると、門下生達は見所の是路総士に対して、居住まいを正して「押忍」の発声と伴に一同揃って座礼するのでありました。それに同じく律義な礼で応えた是路総士は徐に立ち上がって神棚に一礼後、見所から降りて良平の開けた引き戸から道場を立ち去るのでありましたが、見所から降りる折に、長時間正坐していたためか膝をカクンと折って体を横に無様に傾がせるのでありました。
 それはまるで道場に入ってくる時に開き戸の敷居に躓いたのと対をなす、一連の締めくくりの儀式的な所作のようだと万太郎は思うのでありました。勿論その是路総士の失態に、失笑を漏らすような不届き千万な門下生は一人もいないのでありました。
(続)

お前の番だ! 11 [お前の番だ! 1 創作]

 是路総士が退場すると、門下生達は鳥枝範士の周りを取り囲んで各々「有難うございました」の声を添えながら座礼をするのでありました。それが済むとその日相手をした者同士で礼をしてから、少し居残ってその日の課題技の復習をする者あり、早々に更衣のために道場を出ていく者あり、稽古後に何処かで一杯やろうと汗を拭きながら示しあわせる者ありと、稽古の緊張が一気に緩むのは何時も通りの稽古後の風景なのでありました。
 しかしあゆみと内弟子二人には気を抜く暇はないのでありました。あゆみが万太郎と良平に礼をしてから急いで道場を後にするのは、是路総士の着替えを手伝うためであります。
あゆみは奥の控えの間で是路総士の脱ぎ捨てた稽古着と袴を綺麗にたたみ、その後に茶を献じ、それから是路総士と鳥枝範士の夕餉の給仕をしなければならないのでありました。
 万太郎と良平は居残っている門下生の相手を暫くの間してから、その門下生達が去ると道場を二人で隅々まで掃除するのであります。七十畳余の道場と三畳の見所を先ず掃いてから、敷きつめられている青畳を水拭きするのでありますがこれがなかなか手間であるのは、後で鳥枝範士が見回って塵の一つでもあればやり直しを命じられるからでありました。
 もう一人の範士である寄敷範士は掃除後の見回りに少しの手心を示してくれて、道場の端に塵や埃を見つけてもそれを掃うだけで許してくれるのでありましたが、鳥枝範士は容赦がないのでありました。鳥枝範士は二人を睨みつけて「行き届かんのはお前等の誠が足らんからだ。全く近頃の内弟子は掃除の仕方一つもよう知らんのだから情けない」等と有難い怒声を浴びせかけ、もう一度総ての掃除の手順を繰り返させるのでありました。
 鳥枝範士は掃除のやり直しが終わるまで二人の掃除ぶりを腕組みして監視しているのでありました。やり直しを命じた後、早々に帰って仕舞わないところは鳥枝範士の、ある意味での義理堅さと強いて云えば云えなくもないでありましょうか。
 鳥枝範士は鳥枝建設の会長さんでありますから、帰宅はお迎えの車が道場まで来るのでありました。万太郎と良平はその車が二人に排気ガスを吹きかけながら去って行くのを、道を曲がって車の影が見えなくなるまで外で立礼で見送った後に、二人で顔を見あわせて安堵のため息を同時につくのが日課なのでありましたが、しかし気を抜く暇もあらばこそ、この後も二人にはあゆみと三人の一時間の内弟子稽古が待っているのでありました。

 万太郎は就職のための会社訪問用に大学の生協で買ったスーツに身を包んで、約束通り次の日の午前十時少し前に鳥枝建設の玄関前に立っているのでありました。
 受付の若い女性に名前を告げると、その女性は内線電話で万太郎の来社を人事部に取り次ぐのでありました。少し待つと済陽人事部長が自ら万太郎を出迎えるのでありました。
「急な電話でお呼び出ししまして申しわけありません」
 済陽人事部長は丁寧に頭を下げるのでありました。
「いえとんでもありません。お陰様をもちまして今日は怠惰な朝寝を免れました」
 済陽人事部長のその予想外の低姿勢に万太郎はたじろいで、疎かな挨拶返しの言葉を吐きながら、済陽人事部長より低姿勢である事を示さんがために彼の人の一度のお辞儀に二度の低頭で応えるのでありましたが、この彼の謙譲が先方に如何程通じたかどうか。
(続)

お前の番だ! 12 [お前の番だ! 1 創作]

「今日お呼びさせてもらったのは弊社への就職の件とは少し趣が違うと云うのか、・・・しかし大まかに云えば違わない事もないと云うのか、まあ、そんなような次第で、実は弊社の前の社長で現会長である鳥枝桐蔵が貴方に大いに興味を持ちまして、是非ともお会いしたいと申しますものですから、それでこうしてご足労いただいたと云うわけなのです」
 済陽人事部長が万太郎を先導して乗ったエレベーターの中で云うのでありました。
「はあ、成程。そうですか」
 さっぱり要領を得ない話しで、何が成程なのか、自分で云った成程の言葉に万太郎は自分でどう納得したのかと思うのでありました。就職の件とは趣が違っているようで違っていない次第とは一体どう云う次第であるのか、万太郎はエレベーターの扉の上方に明滅する階数を示す数字が、昇順に変化するのを見ながらぼんやりと考えているのでありました。
 エレベーターは八階まで昇るのでありましたが、廊下に出るとそこは殆ど人の気配がなくて、その日も会社訪問の学生達で賑わっている一階のエントランスとは全くの好対照なのでありました。どうやらこの階は役員の部屋とか要人用の応接室とかばかりがある階なのだと、済陽人事部長の後ろについて廊下を歩きながら万太郎は気づくのでありました。
「失礼します」
 済陽人事部長は会長室と書いてある扉をノックしながら中に声をかけるのでありました。中から「おうい」とか云う返答が返るのを待って済陽人事部長は扉を開くのでありました。
 二十畳程の部屋の真ん中に大きな五人がけの三点セットの応接ソファーがあり、部屋の最奥には大きなデスクが窓を背に据えてあって、そこに赤ら顔の恰幅の良い男が座っているのでありました。男は机上に置いた書類に目を落としていたようで、顔はその儘俯けた状態で、濃い眉毛と瞼だけを吊り上げて上目でこちらに視線を投げるのでありました。
「会長、折野万太郎さんをお連れしました」
 済陽人事部長がデスクの前に進んでから律義な一礼を添えて申告するのでありました。
「おうい、ご苦労さん」
 会長と呼ばれた男は立ち上がってデスクを離れながら、済陽人事部長の後ろに畏まっている万太郎をジロリと睨むのでありました。手には今まで見ていた書類を持った儘なのでありましたが、それはどうやら万太郎が会社に提出した履歴書のようであります。
「では私はこれで失礼いたします。何かご用があればお呼びください」
 済陽人事部長がそう云ってお辞儀する横を、会長と呼ばれた男は横着そうに素通りして万太郎の真ん前に立つのでありました。背は万太郎よりほんの少し低いようでありますが、骨太で逞しいと云った体つきで背広の袖から覗く手首がいやに太く、陽に焼けた赤ら顔は目鼻が大づくりで、会長と云う肩書から想像した程老人の風貌ではないのでありました。
 何よりその押し出しの良い体貌と、心服せぬ者に対して全く容赦を見せそうにないような、恐ろしく居丈高な眼差しから発せられる威圧感に万太郎は思わず気後れするのでありました。しかしそこはぐっと堪えて、同じような挑みかかるような眼光を添えない、あくまでも畏まった中に涼やかさを湛えた目容で会長の瞳を見返すのでありましたが、この如何なる場でも婉容を崩さないところが万太郎の持つ味わいと云えばそうでありましょうか。
(続)

お前の番だ! 13 [お前の番だ! 1 創作]

 特に意識してそうあらねばと心がけているのではないのでありましたが、万太郎には気質として、何事に於いても人と張りあいたくないと云った円やかなところがあるのでありました。それは彼も、対抗心とか競争心とか優劣の意識とかも人並みに持ちあわせてはいるのでありましたが、しかし万太郎の顔つきや瞳の色あいが子供の頃からどことなく容々としている風に見えて、その見目が物心ついて以来ずっと周りの者達に持て囃されてきたものだから、それでそんな彼の性質が自然に形成されたと云うところでありましょうか。
「そのソファーにかけなさい」
 鳥枝会長が三人がけの方を指差して、自分は万太郎の着席を見ない内から一人がけの方にどっかと腰を下ろすのでありました。万太郎は指示された通りソファーの端の、鳥枝会長と丁度向かいあわせになる位置に「失礼します」と云いつつ腰を落とすのでありました。
 向かいあわせに座ったものの、鳥枝会長は手にしている万太郎の履歴書を目前に翳した儘暫く何も云わないのでありました。万太郎は先方から呼び出されたわけで、ここで万太郎の方から口を開くのも何となく礼に適わないような気がするものだから、鳥枝会長が顔を隠すように翳している自分の履歴書の裏面に目を遣っているのみでありました。
「君は捨身流をやっていたのかね?」
 鳥枝会長が未だ履歴書で顔を隠した儘云うのでありました。
「ええ、はい」
 売りこみ処はたんとはないものの色々履歴書に書き連ねた事項の中で、確か趣味とか云う項目の中に、寄席見物とか喫茶店通いとか有名人の墓探訪とか赤ん坊あやしとか近所の散歩とか百貨店の万年筆売り場覗きとか朝寝とか花見とか色々記した最後に、人気のない公園での木刀の素ぶり(捨身流剣術の形)、なんと云うのを万太郎は書き加えた覚えがあるのでありました。それは如何にもどうでも良い紙面の賑やかしとして書いたものでありましたが、鳥枝会長がそんな些末なところを最初に彼に質問するとは全く意外でありました。
「どのくらいやっていたのかね?」
「捨身流の道場が実家の近所にあったので、小学校に上がってすぐに親父に無理矢理連れていかれて入門させられて、それから高校卒業までです。まあ、高校生になったら学校のクラブ活動とか大学受験なんかもあって、そんなに頻繁には通えなかったのですが」
「ほう。そうすると十二年の修業歴があると云う事か」
 鳥枝会長はこの時、顔の前に翳していた履歴書を少し脇にずらして、ようやくに万太郎の顔を正面から片目で見るのでありました。
「十二年と云っても小学生のチビに剣理が判るわけでもありませんし、高校生の頃は良くて週に二回くらいしかいけませんでしたから、その分を割引きしてお考えください」
「ふん、成程ね」
 鳥枝会長は万太郎の受け応えにそう無愛想に返して、また履歴書を所定の位置に戻して顔をすっかり隠して仕舞うのでありました。
「そうすると高校卒業まで君は熊本にいたのだな?」
 鳥枝会長が履歴書の向こうから声だけ投げるのでありました。
(続)

お前の番だ! 14 [お前の番だ! 1 創作]

「ええそうです。人吉です。履歴書の通りです」
 万太郎は履歴書に向かってこっくりして見せるのでありました。
 この捨身流と云う武道は万太郎の郷里の熊本に伝わる剣術の流派で、柔道、剣道、合気道等の現代武道程の普及はないものの、それでも熊本はおろかその道に少しは精しいところにはそれなりに鳴り響いている古武道の流派でありました。江戸初期を開基とし、流名
のごとく向いあった敵の太刀筋を一切考慮せず、捨身で頓に一撃必殺に八相の構えからの袈裟切りか下段からの胴払いを敢行するのを根本の流儀とする荒々しい剣法であります。
 勿論小学生なんぞにはその流儀の奥深いところが判るわけもないので、捨身流に伝わる初伝十二本、中伝十本、奥伝七本、それに門外不出の秘伝三本の形を稽古出来るのは中学生以上であり、それまでは防具をつけて竹刀剣道をする事になっているのでありました。また長じても捨身流の形だけではなく竹刀剣道も殆どの門弟が続けていて、試合では捨身の全精力を籠めた一刀の打ちこみに相手は大いにたじろいで、県内にある五つの捨身流剣術指南道場の門弟は地元の剣道界でもその強さで一目置かれる存在なのでありました。
「君は秘伝の形までやったのかね?」
 鳥枝会長が前に翳した万太郎の履歴書から顔半分を覗かせて聞くのでありました。
「いや、高校生以下は中伝の剣までしか伝授されません。中伝の剣にしても、つるっと形を覚える程度が精々と云うところですかねえ」
「ふうん、つるっと、ねえ」
 鳥枝会長はそう云ってまた顔全面を履歴書の向こうに隠すのでありました。
「それでも剣道では結構強いですよ」
「ほう、そうかね」
 鳥枝会長の顔がまた半分現れるのでありました。
「僕のようにちゃらんぽらんにしかやらない者でも、通っていた高校の剣道部員の誰にも一本も入れさせませんでしたから」
 万太郎は柔和な顔でそう云うのでありました。鳥枝会長はその万太郎の、聞きようによっては大言とも取れる云い草が信用に足るかどうか見極めるように、ここでようやく履歴書を前のテーブルの上に置いて少し身を乗り出して万太郎を一直線に見るのでありました。
「まあ、その気負いもなければ卑屈もなさそうな君のしれっとした顔を見ていると、満更胡散臭い大法螺と云うのでもなさそうだな、その言は」
 鳥枝会長は少し眼光を和らげるのでありました。
「捨身流か、或いは古武道全般に興味がおありなのですか?」
 今度は万太郎が訊ねるのでありました。
「実はワシは常勝流と云う武道をやっているのだよ」
「ああ、常勝流ですか」
「聞いた事があるかね、その流名を?」
「ええ、存じています。剣術もあるけどどちらかと云うと体術の方が有名ですね」
「そうだな」
(続)

お前の番だ! 15 [お前の番だ! 1 創作]

 鳥枝会長は万太郎が常勝流を知っていた事が嬉しかったらしく、ここでようやく無表情だった口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「もうお長いんですか?」
 鳥枝会長の歳から考えれば相当のキャリアであろうと思われるのでありました。体つきやその太い手首や万太郎を睨む目つきなんかからしても、如何にも長年武道で鍛えた威圧感みたいなものが体躯の周りに漂っている感じでありますが、しかし土建屋さんの会長さんでもありますから、その纏っている威は仕事柄と云う風にも考えられるのであります。
「こう見えても総本部の範士をしておる。常勝流宗家、斯道では総士と呼ぶが、範士はその次席となるな。修業歴はもうぼちぼち五十年となるかな」
「へえ、それは、・・・」
 万太郎はその後、大したもので、と続けようとしたのでありましたが、しかしその云い草はキャリア五十年に垂んとする、しかも範士の称号を持つ人に対して如何にも若造が吐くには無礼で無神経な言葉であろう気づいて、後の言葉を有耶無耶にしたのでありました。
「何だ、わしが今云った事に疑義でもあるのかね?」
 鳥枝会長の口の端の笑いが俄に跡形もなく消え失せるのでありました。
「いえとんでもありません」
 万太郎は慌てて両手をせわしなく横にふるのでありました。「その後迂闊にも、大したもので、なんと云おうとして、急にその言葉の余りの不遜さに気づいて語尾を濁したのです」
「ふうん、そうかね」
 鳥枝会長の口の端の緊張がその言葉の後に少し緩んだように見えるのでありますから、一応万太郎の弁解をその儘聞き入れてくれたようであります。鳥枝会長は少し乗り出していた上体を、ゆっくりとソファーの背凭れに戻し沈めるのでありました。

 あゆみが鋭い気合いを発しながら激烈な木刀の面打ちを万太郎に浴びせるのでありました。万太郎はその剣勢を頭上に横にして翳した木刀の物打ちで紙一重にあわせて、素早く刃先を縦に回して切り返しの一刀を浴びせ返すのでありました。
 あゆみが上体を横に傾がせてそれを避けながら、袈裟に打ち下ろされてきた木刀を横払いに払うのでありました。木刀の搗ちあう音が人気のない道場に響くのでありました。
 二人は同時に一歩跳び下って一間の間合いを取ってあゆみは正眼に、万太郎は八相に木刀を構えて息を殺して相手の次の動きを待つのでありました。この後、先に自分の方から仕かけるよりも、相手の動きの起こりを捉えようと互いに気配を窺っているのであります。
 入門してきた二か月前よりも、万太郎の太刀筋が格段に鋭くなっているのがあゆみには判るのでありました。今のも刃をあわせる心算はなかったのでありますが、万太郎の袈裟切りを捌きだけでいなす余裕が全くなかったのでありました。
 だから已むなく横払いに万太郎の木刀の鎬に刃を当てたのでありました。あゆみの面打ちに対して万太郎は紙一重に刃を触れず太刀を返したと云うのに、自分は万太郎の木刀の鎬に自分の木刀の刃を、強かに当てて仕舞ったのであります。
(続)

お前の番だ! 16 [お前の番だ! 1 創作]

 これが本身であったならあゆみの刀は刃毀れを起こしていたでありましょう。そう思うとあゆみは大いに悔しいのでありましたが、しかしその悔しさを目に表すと万太郎に気持ちの乱れを気づかれてつけこまれるであろうから、無表情を崩さないのでありました。
 万太郎の木刀の、強度としては弱いとされる鎬に自分の強いとされる刃を当てたのであるから、かろうじて面目は保てたのではないかしらと、あゆみは実は未だ気持ちの底の方で拘るのでありました。でもそうやって未練がましく何としても自尊心を取り繕おうとするのは、結局自分が今決定的な敗北感に陥って仕舞っているからじゃないかしら。・・・
 あゆみのこの心底の波騒ぎが彼女の無表情を微妙に崩すのでありました。万太郎にはあゆみの木刀の刃先が一瞬凝り竦んだように見えるのでありました。
 今だ、と万太郎は好機を感じ取るのでありました。しかし間髪を容れず得意の袈裟切りを敢行するのに彼は一瞬気後れを感じて、木刀を動かす機を逸したのでありました。
「それまで」
 脇から静かな声が聞こえるのでありました。あゆみと万太郎が同時にその声の方に顔を廻らすと、道場入口の引き戸の処に是路総士が立っているのでありました。
 今まで下座に正坐してあゆみと万太郎の、決闘と呼んでも差し支えないような剣の乱稽古を見ていた面能美良平が、慌てて立って是路総士の傍に趨歩して片膝ついて引き戸に手を添えるのでありました。それを待って是路総士は徐に道場に足を一歩踏み入れるのでありましたが、二歩目に是路総士は敷居に躓いて少し体を傾がせるのでありました。
 是路総士は神棚に一礼して見所に上がると、内弟子稽古の三人に手招きをするのでありました。三人は見所の前に横一列に正坐して是路総士に座礼するのでありました。
「今の乱稽古では折野の方に明らかに勝機があったのに、どうしてお前はその勝機を活かそうとはしなかったのか?」
 鳥枝総士は正坐して傍らにあった脇息を取るとそれを自分の前に据えて、そこに両肘をついてやや身を前に乗り出すような居住まいで、左端に座る万太郎に訊くのでありました。
「はい。いや、何と云うのか、ほんの少しつけ入る隙は見えたのですが、それは実はあゆみさんの誘いで、下手につけ入ったらそこを切り返されると拙いと、そんな事がチラと頭の中に過ぎったものですから、それで竟、機を逃して仕舞ったのです」
「ふうん、そうかい」
 是路総士は今度は真ん中にいるあゆみの方に視線を移すのでありました。「あゆみは自分の木刀の刃を折野の鎬に当てた事で少し取り乱したと見たが?」
 あゆみはもう一度見所の上の是路総士に向かって丁寧なお辞儀をするのでありました。
「ご指摘の通りです。その前に折野があたしの正面切りを綺麗に木刀を捌いて躱したので、その捌きの綺麗さに比べて、自分の躱しの無骨さに後れを取ったと感じたのです」
「あゆみは勝負の途中であるのに、それとは直接関係のない剣捌きの体裁、と云う側面に拘ったから隙を作ったと云うわけだな。それは勝負に勝つ事を磨くための乱稽古の本意からすれば、些か甘い了見と云われても仕方がないな」
 こう云われてあゆみはもう一度畏れ入るように是路総士に頭を下げるのでありました。
(続)

お前の番だ! 17 [お前の番だ! 1 創作]

「試合では、或いは本当の切りあいでは刃で相手の太刀を凌ぐ場合もある。刀の刃毀れくらいで自分の命が助かるのなら、躊躇なく、いや寧ろ平然とそうしなければならんだろうよ。剣捌きの体裁に拘って命を落としたら、こんなつまらん事はない。なあ、面能美」
 是路総士は右端の良平に顔を向けながら云うのでありました。良平はここで自分の名前が出てくるとは思いもしなかったようで、一瞬息を止めて怯むのでありました。
「いやあ、総士先生の今のお話しは判るのですが、自分は刃で相手の太刀を凌ぐ事の是非以前に、面目なくもあゆみさんと万太郎の乱稽古を只々、二人共大したものだと感心して見ていただけでして、二人に比べると剣術では自分は随分と後れを取っているなあと、そうとしか今のところ云いようがないようで、いやはや何とも。・・・」
 良平は頭を掻くのでありました。
「それは仕方がない。二人と違ってお前はここに内弟子に入る前には、木刀すら握ったことすらなかったんだから。しかし励めば何時か屹度上手くなるだろうよ」
「はあ。今のご教誨を頼りとさせて貰って、頑張ります」
 そう励まされて良平が是路総士に一礼するのでありました。
「まあ兎も角、あゆみは剣術の形稽古と乱稽古の気持ちの区別をしっかり持つ事が肝要だし、折野は勝機に貪欲に食らいつく気持ちの修羅をもっと磨く事だ。要するに二人共未だ々々武術修行者としては半人前と云う事だな。折野はここに来て未だ数か月しか経っておらんから仕方ないところもあるが、あゆみの方は子供の時から常勝流を学んでいるのだから、どちらかと云うとお前の方にここはより厳しく云っておかなければならんな」
 あゆみは眉間に深刻そうな縦皺を刻んで、正坐した膝前に揃えてついた自分の手甲に全面降伏と云った風情で額を押しつけるのでありました。
「どれ、折角だから面能美、少し稽古をつけてやろうか。籠手をつけて木刀を持ってこい」
 是路総士はすっかり語調を変えて良平に向かってそう云うと、脇息を脇に退けてゆっくりとした動作で立ち上がって見所を降りるのでありました。急に名指しされた良平はその是路総士の言葉が全く意外であったらしく、自分で自分の顔を指差してたじろいで見せて、それから慌ててお辞儀をしてから飛び跳ねるように立つのでありました。
 あゆみが脇から自分の使っていた木刀を捧げ持って是路総士の前に出すと、是路総士は無造作にそれを掴んで道場の真ん中に進むのでありました。良平には籠手をつけろと指示したのに、是路総士は素手の儘で稽古をつけるようであります。
 良平が籠手をつけてその手に木刀を持って是路総士の前に立つのでありました。万太郎はあゆみと伴に下座に下がって、あゆみと並んで正坐して二人の稽古を見つめるのでありましたが、未だ互いに木刀を構えもしていない内から、是路総士と気後れした良平の格の違いが、その向いあって立つ両者の姿に歴然と表れているのが見て取れるのでありました。
「お願いします」
 良平のみがそう発声して、両者は立礼を交わすのでありました。
「まあ、好きなように打ちこんでこい」
 是路総士が木刀を下段に構えるともなく構えるのでありました。
(続)

お前の番だ! 18 [お前の番だ! 1 創作]

 良平は木刀を正眼に構えたものの打ちこむ隙が是路総士のどこにも見出せずに、間合いをつめる事も木刀の切っ先を動かす事も出来ずに居竦んでいると云った風情であります。彼の額の脂汗に天井に嵌めこまれた蛍光灯の光が映っているのでありました。
「どうした、打ちこんでこないのか?」
 是路総士が穏やかに良平に催促の声をかけるのでありました。良平はその声に寧ろ怖じて腰を引くような仕草をするのでありました。
「打ちこんでこないのなら、こちらから行こうか」
 是路総士はそう云いながら木刀を下段に置いたまま一歩、歩み足で良平に近づくのでありました。良平は近づかれた分慌てて及び腰で足を引いて後ろに下がるのでありました。
 是路総士はまた一歩静かに足を前に運ぶのでありましたが、良平もまたもつれるような足取りで後ろに移動するのであります。近づかれてなるものかと云う必死さが良平の足取りにはっきり表れているのでありました。
 是路総士が進む分を良平が下がるものだから、しかも是路総士の一歩より大きな一歩を以って下がるものだから、両者の距離が次第に開いていって、どう見ても対峙と云う位置関係からは逸脱して仕舞うのでありました。
「おい面能美、下がってばかりいるとその内壁に退路を阻まれるぞ」
 是路総士が笑うと、良平はちらと後ろを窺うように是路総士から視線を外すのでありました。その微妙な目線の動揺につけこんで、是路総士は畳を滑るように二歩進んで良平との間合いを一気につめるのでありましたが、良平には後退する暇がないのでありました。
 是路総士は歩を止めた後、ゆっくりと木刀を下段から正眼に上げるのでありました。その木刀は切っ先三寸で良平の木刀と静かに鎬をあわせるのでありました。
 もう良平は全く進退が叶わないのでありました。これこそ真に、蛇に睨まれた蛙と云う比喩がピタリと当て嵌まる状況であろうと、見ている万太郎は思うのでありました。
 是路総士は鎬をゆっくりと滑らせながら尚も進み、木刀の切っ先を体を硬直させて動けなくなった良平の喉元に近づけるのでありました。良平は顔を引き攣らせて、ひたひたと迫りくる切っ先の接近を為す術なく許すのでありました。
 竟に是路総士の木刀の切っ先が良平の喉元に接触するのでありました。同じく正眼に取っていた筈の良平の木刀の切っ先は、迫りくる是路総士の木刀の迫力に圧されて、僅かに是路総士の正面から逸れて仕舞っているのでありました。
「何だ、結局かかってこなかったなあ、お前」
 是路総士はそう笑って云いながら切っ先を良平の喉元から外すのでありました。良平は木刀を持った腕を力なく下げて、ようやく呼吸を許されたように喘ぐのでありました。
「よし次、折野」
 是路総士は万太郎に声をかけるのでありました。
「押忍、お願いします」
 万太郎は立ち上がると道場の隅に下げてある籠手を取って、それをきびきびとした動作で腕に嵌めて、左手に木刀を引っ提げて是路総士の前に進み出るのでありました。
(続)

お前の番だ! 19 [お前の番だ! 1 創作]

 一礼した後万太郎は木刀を先ず正眼に据え、すぐに八相に構え直して一間半の間合いを取って是路総士と相対するのでありました。是路総士は良平の時と同じように、ふわりと柔らかい動きで下段に構えるともなく構えるのでありました。
 つけ入る隙が全くないのでありました。八相の構えからの攻撃は捨身流を習っている時から万太郎の得意とするところでありましたが、切っ先を天に向けて相手から外しているのでどちらかと云うと、待ち、の構えで、相手の先の打ちこみを誘ってその動きの起こりにつけ入るためのものでありましたが、是路総士は無表情でゆったりとした下段を崩そうとせず、こちらも万太郎が先に仕かけてくるのを何時までも待つ心算のようであります。
 是路総士の下段も、待ち、の構えであります。こうなると焦れた方が負けでありますが、そうとは判っていながらも万太郎は焦れ始めた自分が判るのでありました。

 鳥枝会長がまた万太郎の履歴書を取り上げてから訊くのでありました。
「ところでもう就職は決まったのかね?」
「いや、その兆候すら未だ全く見えません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。頭皮上を行ったり来たりする指の刺激が届かない頭の少し奥の方で、これからいよいよ、それならば我が社に入らんかね、なんと云う鳥枝会長の誘いの言葉が出るかも知れないと万太郎は期待するのでありました。
「ああそうかね。それならば、・・・」
 いよいよ来るか、と万太郎は頭上の指の動きを止めるのでありました。鳥枝会長は間を外すように、また万太郎の履歴書をテーブルの上にぞんざいに置くのでありました。
「常勝流の内弟子にならんかね?」
「内弟子、・・・ですか?」
 おやおや、そちらの方に来たかと思って、万太郎は頭にやっていた手を下ろしてその手でゆっくりと膝の上を掻き始めるのでありました。
「武道が好きなんだろう?」
「ええ、好きかと訊かれれば好きと云う他ありませんが」
「何だ、まわりくどい云い草だな」
「こちらに出てきて大学に入ってからは、時々公園で木刀の素ぶりとか、うろ覚えの捨身流の形を単独でやるくらいしかやっていませんでしたので、好きは好きではありますが、是も非もなく好き、と云う事にはならないような気がします」
「ああそうかね。こちらで大学の剣道部にでも入ろうかとか、何処か街の剣術の道場にでも通おうかとか云う考えは起きなかったのかね?」
「大学の剣道部はちょっと覗いてはみましたが、当然の事ながら向うでやっていた捨身流の稽古とは趣が全く違っていましたし、第一、剣道場や部室の佇まいが汚くて、それに部員の稽古着の着こなしがだらしなく見えて、不遜な云い方に聞こえるかも知れませんが、これじゃあ大したヤツもいそうにないと興醒めして入るのを止めました」
「ほう、成程ね」
(続)

お前の番だ! 20 [お前の番だ! 1 創作]

 鳥枝会長は二度頷くのでありました。
「それに街にある剣道場と云っても捨身流をやっている処なんか東京にはありませんし、月謝が高かったり時間があわなかったりで。それから剣術だけじゃなくて柔道や合気道なんかの、学校のクラブや町道場なんかにも見学に行ってはみたのですが、何となく手を出しそこねまして、まあ、そんなわけでこちらに来てからは武道は沙汰止みとなったのです」
「常勝流は見に来なかったな」
「ええ、存在は知ってはいたのですが、何処に道場があるのか判らなかったもので」
「ああそうかい」
 鳥枝会長は口を尖らせて見せるのでありましたが、その険しくはない表情から判断すると、特段万太郎が常勝流をその折見学しなかった事が不満であると云う感じで唇を迫り出したのではなさそうでありました。まあ少しは残念であったでありましょうが。
「常勝流の道場は何処にあるのですか?」
「総本部道場は調布にある。京王線の仙川駅のすぐ近くだ。その他に都内には公共の体育館でやっている同好会も幾つかあるし、この鳥枝建設の中にも愛好会がある」
「ああそうですか。本部が調布だったら一度見学に行けば良かったですね」
 万太郎は昔見学に行かなかった事の詫びに、そう諂って見せるのでありました。まあ、今更詫びても仕方がないし、詫びる必要があるのかどうかも判らないのではありましたが。
「で、どうかね、内弟子にならんかね?」
 鳥枝会長が話しを本筋に戻すのでありました。
「いやあ、急にそう云われましても。・・・」
 万太郎はソファーの背凭れにやや身を引くのでありました。
「一応体裁としてはこの鳥枝建設の嘱託社員と云う身分にして、ここの愛好会の週一回の稽古に出ると云う事で、ま、たんとは出せないが小遣い程度の金は給与するぞ。それに内弟子だから総本部に寝泊まり出来て部屋代は要らんし、三度の飯もちゃんと食えるし、好きかと訊かれれば好きと云うしかないところの、武道三昧の生活が送れるぞ」
「それはそうですが、しかし僕は今の今まで、その、何と云うか、堅気の、普通のサラリーマンになるために就職活動していたものですから、即答する能わず、と云った感じです」
 万太郎は困ったように眉根を寄せて眉尻を下げて見せるのでありました。
「そうかも知れんが」
 鳥枝会長がまた万太郎の履歴書を取って、さらっと目を通すのでありました。「しかしこの履歴書の、無難と云う以外に何処にも目を惹くところの見当たらない、捉え処もない、実に平凡極まりない記載内容では、今のご時世、ウチ以外の会社にしても興味は示さんかも知れんぞ。まあ、ワシは、常勝流、と云う記述に大いに注目したのではあるがね」
「はあ、そう云う感じでしょうかねえ」
 鳥枝建設と云う上場企業の会長さんの履歴書に対する見立てでありますから、それは全くそうかも知れないと万太郎は素直に納得するのでありました。
「どこにも就職が叶わんくらいなら、常勝流の内弟子になるのも一つの選択ではないか?」
(続)

お前の番だ! 21 [お前の番だ! 1 創作]

「成程そうではありますが、・・・」
「それに昔と違って今は内弟子と云っても、奴隷のように扱き使われるわけではない。週に一回は休養日も設けてあるし盆暮れの休みも慶弔の休みもある。飯は大盛りの食い放題だし着る物だって稽古着は供与するし、それに銭湯に行く必要もなければ光熱費の心配もしなくて済む。部屋代は勿論取らないし布団にしてもフカフカの寝心地の良いやつを貸す。暫く内弟子で稽古に励めばその内出稽古に行くこともあろうが、その折は、先生、なんと云われて敬われたりもする。普通に会社勤めをしていてもなかなかそうはいかんぞ。こんな好い事尽くめでその上小遣いまで貰えるのだから、これはもう泥棒みたいなものだな」
 鳥枝会長は一気に捲し立てるのでありました。しかしそんな結構尽くしの武道の内弟子があろう筈もない事は、万太郎にも朧げには判るのでありました。それでも何となく魅かれて仕舞うのは、これは偏に鳥枝会長の手練れた話し方のせいでありましょうか。
「お聞きしていると、ちょっと魅力的なお誘いのようにも思えてきました」
「な、そうだろう?」
 鳥枝会長の万太郎を見る目が微かに妖しく光るのでありました。
「ええ、まあ。・・・」
「将来だって、自前の道場が持てるように本部で色々と支援もする。若し万が一自前で立ち行かなくなったとしてもその時は不肖このワシが、この鳥枝建設で身柄を引き受けてどのようにでも身の立つようにする。そう云う将来の保険のようなものもちゃんとある」
「将来の保険があると云うのは、何とも心強いですねえ」
「な、そうだろう?」
 鳥枝会長の万太郎を見る目が、一層妖しく光るのでありました。どこをどう云う風に考えてかは確とは判らないのでありますが、自分も随分と鳥枝会長に見こまれたものだと万太郎は自尊半分、気後れ半分に思うのでありました。
「しかし大学四年間、特に公園での木刀の素ぶり以外の、運動らしい運動もしていなかったのですが、そんな体でも常勝流の内弟子としての稽古に耐えられるでしょうかね?」
「それは特に心配せんでも良いだろう。無意味に体力的にしごくなんと云う愚にもつかん、どこぞの学校の体育会のような真似は端からせんし、本来流儀として体力とか力とかを超えたところに常勝流の妙味があるのだから、その辺をたじろぐのは全く不要と考えて良い。本来、必要な体力は必要に応じて徐々につけていくと云うのは、運動の常識だ」
 鳥枝会長は如何にも柔和な物腰でそう云うのでありました。
「ああそうですか」
「まあ、それでも多少はきつい面もありはするが」
「それはそうでしょう。武道なのですから」
「そうそう。しかし、地獄のしごき、みたいな事はない。常識的な範囲での鍛錬だな」
「それなら、僕でも大丈夫そうですね」
「な、そうだろう?」
 鳥枝会長の万太郎を見る目が、益々妖し気な光沢を帯びてくるのでありました。
(続)

お前の番だ! 22 [お前の番だ! 1 創作]

 ま、序にこの場での鳥枝会長の言辞について少し云い添えておけば、貸与されるべきフカフカの寝心地の良い布団、と云うのは明らかな虚偽でありました。他の言葉の内容にしても取りように依ってはそう云う結構尽くしに取れない事もないけれど、万太郎としては何となく釈然としないものが多々残るところであります、・・・が、それはまあ兎も角。
「早速だが、今度の土曜日に一度稽古の見学に来んかね?」
 鳥枝会長がたたみかけるのでありました。
「調布の本部道場の方へ伺えばいいのでしょうか?」
 こう訊き返すのでありますから万太郎は行きがかり上も、心情の上に於いでも、何となく既に見学する気になっているのでありました。
「そう。内弟子と準内弟子の専門稽古が午後一時から、その後の一般稽古が三時からあるが、勿論内弟子稽古の方を見に来た方がよかろうよ。その後に内弟子に入るに於いて、常勝流宗家である総士先生直々に色々説明等してもらうように取り計るが」
「総士先生は何というお名前でいらっしゃるのでしょうか?」
「是路搖歩先生とおっしゃる」
「ああ、随分前ですが武道雑誌か何かの古武道各流派紹介の記事だったかに、そのお名前が載っていた記憶があります。随分古風なお名前だと思って何となく覚えておりました。確かお写真もあったようでしたが、お顔の方はもう曖昧になって仕舞っていますが」
「ああそうかね。そうやって前に記事で見た総士先生のお名前を君がちゃんと覚えていたと云うのも、これは奇縁と云うのか、運命的と云うのか、前世からの因縁めいたものを感じる話しじゃないか。ワシが会社訪問に来た数多の学生の履歴書の中から、君の履歴書に目を止めたと云うのも、これは天の差配と云うのを感じないわけにはいかんだろうな」
 鳥枝会長はそんな観念論的な事を真顔で大袈裟に頷きながら云うのでありました。
「そうでしょうか?」
「そうは思わんかね?」
「思うような、思わないような。・・・」
「まあ、それはさて置き」
 鳥枝会長は咳払いを一つするのでありました。「では今度の土曜日、待っているからな」
「はあ。ただ、これでも一応就職活動中の学生ですから、土曜日に都合がつけばお伺いする、と云う事でよろしいでしょうかね?」
「そんなつれない事を云わんで、是非とも来い」
「ええ。行く心算でいますが、若しも行けない場合は申しわけないと思いまして」
「万々が一、突発緊急事態とか、命にかかわるような何事かが出来して、どうしても来る事が叶わないようなら、そういう時は仕方がないから当日午前中に道場に電話しなさい」
「判りました。そう云う場合はそうさせて頂きます」
「ま、しかし、屹度来い」
 鳥枝会長はまるで命令のような口調で云い募るのでありました。しかし万太郎としてはそれで特段気を悪くするような様子は見せないのでありました。
(続)

お前の番だ! 23 [お前の番だ! 1 創作]

 まあ、そんなこんなで、万太郎は鳥枝会長の、まるで花札でもしている時のような「来い々々」の連呼に送られて、会長室を辞するのでありました。妙な成り行きになったものだと思いながら、万太郎は会長室のドアを静かに閉めるのでありました。

 万太郎は一瞬に意を決するのでありました。彼は裂帛の気合いの声を発しながら、是路総士の穏やかに下段に構えた姿に得意の袈裟切りで打ちかかるのでありました。
 恐らく是路総士は切っ先を自分の喉元に上げて突きにくると読んで、ぎりぎりのところで体を右にほんの少し開いてそれを避けながら、自分の木刀の物打ちを是路総士の第一肋骨のつけ根にあわせようと云う打ちこみであります。万太郎の袈裟打ちは捨身流時代から誰のそれよりも威力のある、彼が得意とした技なのでありました。
 読み通り是路総士の木刀の切っ先が少し上に動くのでありました。しかし万太郎の意を既に見切っているかのように、是路総士は全く慌てずに木刀の進路をやや横にずらして、万太郎の木刀を持つ左手首に物打ちをあわせにくるのでありました。
 しかも狙いが喉元ではなく手首である事を、微妙な切っ先の動きの中で万太郎に明瞭に示す事で万太郎の小さな惑乱を誘い、袈裟切りの威力を削ぐのでありました。当然の事ながら途中で少しく挫かれた万太郎の袈裟切りの剣勢よりも、最短距離で力みなく上がってくる是路総士の木刀の方が一瞬早く目標とするところへ的確に到達するのでありました。
 万太郎は左手首に軽く接触した是路総士の木刀の物打ちが、まるで真剣の刃であるように冷冽に感じられて鳥肌立つのでありました。
「ほれ、この儘押すか引くかしたら、お前の左手は落ちるぞ」
 是路総士は口元に余裕の笑みを浮かべているのでありました。その言葉に弾かれて万太郎は慌てて一歩跳び下るのでありました。
 再び一間半の間合いで二人は対峙するのでありましたが、今度は是路総士は下段に構えもせず、右手に木刀を引っ提げた儘肩幅で平足に両脚を開いて、万太郎に無造作に正面を向けているのでありました。それは無構えと云うよりも、云ってみればもっと不用意な、何処からでも容易に打ちこめるような隙だらけの佇まいなのでありました。
 心の構えを体の構えとして表さないのが、無構え、と云う在り方でありましょう。しかしそれにしても是路総士のこの立ち姿は無防備そのものと云った風情で、心の構えすらも放擲した、全くの無為と云う状態のように万太郎には見受けられるのでありました。
 けれどもこれは当然、誘いの常套手段以外ではないと万太郎は思うのでありました。試しに万太郎は左に回りこみながら半足間合いをつめてみるのでありました。
 しかし是路総士は体の向きも涼やかな顔色も変えずに、首だけを少し動かして万太郎の動きを追うだけでありました。成程自分ごときの企みに乗って、是路総士がおいそれと無構えを崩すはずはないかと万太郎は思い醒ますのでありました。
 さあて、この是路総士の無構えに乗って打ちかかるのも如何にも勇気のいる話しであります。かと云ってせっかく無構えにして打ってこいと是路総士が催促しているのに、それをつれなくあしらうのも弟子として横着であろうし、これは実に困った事態であります。
(続)

お前の番だ! 24 [お前の番だ! 1 創作]

 弟子の務めとしてここはこちらから打っていかなければならないだろうと、万太郎はまたもや一瞬に意を固めるのでありました。万太郎が眦を決して八相の構えを素早く正眼に構えなおして、その儘是路総士の水月に突きを呉れようと一歩踏み出そうとした刹那、是路総士の穏やかな声が万太郎の切っ先を打つのでありました。
「勝機も見えないのに、無意味に突貫するのは感心せんなあ」
 万太郎は踏み出そうとした右足の親指で畳を強く噛んで踏み止まるのでありました。どうやらすっかりこちらの心根を読み切られているようであります。
 万太郎は正眼に構えた儘居竦むしかないのでありました。万太郎のこの気持ちの膠着を是路総士が見逃す筈がないのでありました。
 是路総士は無構えの儘で万太郎の方に静かに一歩つめ寄るのでありましたが、これはあと一足でお互いの一刀が届く距離であります。その一歩が誘いだとしても、正眼に構えている分だけ万太郎の方が状況としては有利であるかも知れないと判断できます。
 万太郎は先に踏み止まるために畳を噛んだ右足の親指の力を緩め、後ろ脚たる左足の爪先で力強く畳を蹴って、是路総士に体当たりのような突きを敢行するのでありました。是路総士の鳩尾に早く切っ先を届けるために、万太郎は歩み足に大きく一歩前に進めた左足が着地する直前に、腕を目一杯前に伸ばすのでありました。
 無精そうに横に垂らしているような是路総士の右手の木刀が、ふっわりと動くのは目の端に見えたのでありました。しかしそれは如何にも緩やかな動きで、到底万太郎の突き出す木刀の勢いに対応するだけの速度は感じられないものでありました。
 それでも、万太郎の木刀は是路総士の水月を捉える事は出来ないのでありました。どのような体の操作で動いたのか、是路総士は万太郎の木刀の僅かに逸れる右横に立っていて、その右手の木刀の物打ちが万太郎の右手首の真上にふわりと触っているのでありました。
「お前これで、今日は二度も小手を失ったなあ」
 万太郎は慌てて木刀を引いて飛び退くのでありました。
「どのように動いてそこに立たれたのか、ご教授願えませんか?」
 万太郎は少し息を弾ませながら訊くのでありました。
「さあて、ワシもよう判らんが気がつくと何となくここへ移動していたんだなあ」
 是路総士が恍けるのでありました。つまりその奥妙は研鑽によって自得すべきものであって、俄には伝授しないと云う謂いでありましょう。
「ほれ、つまらんお強請りをしてないで、さっさとかかって来い」
 何度かかっていっても是路総士の体は万太郎の木刀の突き進む、或いは切り下げられる軌跡の外にあるのでありました。おまけにあしらわれるその都度、万太郎の手首の上に是路総士の木刀の物打ちがそっと乗っているのでありました。
「このくらいにして置こうか」
 万太郎の手首が正月の松の内の日数程度切り落とされたところで、是路総士は万太郎との稽古の終了を宣するのでありました。万太郎は喘ぎながら木刀を下げるのでありました。
「次、あゆみ!」
(続)

お前の番だ! 25 [お前の番だ! 1 創作]

 名指しされてあゆみが木刀を左手に立ち上がるのでありました。万太郎はあゆみが前に出るのを見送ってから良平の横に正坐するのでありました。
「お願いします」
 あゆみは一間半の間合いで是路総士と向いあうと、木刀を正眼につけるのでありました。万太郎の時と違って、今度は是路総士も正眼に構えてあゆみと対峙するのでありました。
 是路総士の正眼の構えは実に美しい姿で、一足半に開いて撞木に立った両脚のやや前寄りに重心が安定して乗って、ほんの少し膝を屈した前脚の撓みが、秘めたる強靭な発条を感じさせるのでありました。背筋は強張りのない自然な直立の線を描き、肩は怒らず肘はゆるりと伸び、木刀の柄を握る手は固からず緩からず、足の裏から発した力の流利が、淀みなく握った木刀の切っ先までしとやかに流れているのが見て取れるのでありました。
 万太郎はその姿に暫し見惚れるのでありました。それに比べるとあゆみの正眼は些か硬さが見えるのでありましたが、しかしそれはそれで凛々しくもあるのでありますが。
 あゆみは木刀を正眼につけて一間半の間合いを保った儘、ゆっくりと左回りに足を数歩送るのでありました。屹度是路総士につけ入る隙が見当たらないので、動蕩しない両者の間の空気を掻き回そうとの魂胆からでありましょう。
あゆみの動きを是路総士の木刀の切っ先が同じ速度で追うのでありました。それはあゆみに打ちこむ隙を与えない確固とした意気を示しているようでありました。
 攻めあぐねたようにあゆみは正眼から下段に構えをゆっくり変えるのでありました。あゆみが、待ち、に入ったと判じた是路総士は同じように木刀を下段に動かして、しかしそれは、待ち、ではなく、下段の構えの儘あゆみの方に後ろ足を歩み足に一歩滑らせるように進めて、気迫を明示しつつ圧倒するようにつめ寄るのでありました。
 あゆみの眉間に焦りが現れるのでありました。あゆみは木刀の刃を寝せて、勢いに任せるようにやや体を右に開きながら是路総士の水月目がけて突きを繰り出すのでありました。
 是路総士の木刀が右上方に素早く切り上げられるのでありました。木刀同士のぶつかる乾いた音が響いて、突き出されたあゆみの木刀が弾き飛ばされるのでありました。
 あゆみの木刀が目前から消えた隙に、是路総士は切り上げた木刀の刃を素早く返して、間髪を入れず同じ軌跡で今度は袈裟に切り下げるのでありました。是路総士の木刀の物打ちがあゆみの首根を的確に捉えるのでありました。
「ほれ、首が落ちた」
 是路総士がそう云って小さく数回木刀を前後に押し引きして、あゆみの首を斬るような真似をするのでありました。まあ、これはご愛嬌の仕草と云う事でありますか。
 先程の万太郎との乱稽古の時にあゆみは万太郎の切りこみに対して、それを自分の木刀の刃で受けた事を体裁として気にしたのでありましたが、是路総士は今、何の躊躇いもなくあゆみの木刀を自分の木刀の刃で強く弾きあしらったのであります。この仕業は是路総士が、あゆみの先の心機を諌めるためのものであろうと万太郎は思うのでありました。
「参りました」
 あゆみは木刀を左手に収めて、その場に正坐してお辞儀するのでありました。
(続)

お前の番だ! 26 [お前の番だ! 1 創作]

「さあてちょいと動いて腹ごなしにもなったな。これから風呂にでも入るかな」
 是路総士は膝行で進み出た万太郎に木刀を預けながら云うのでありました。
「押忍、では用意いたします」
 これはその日の背中流し当番である良平が傍に膝行して来て云う言葉であります。
「もう沸いているのか?」
「先程沸かして種火にしてあります」
「おうそうか。何時もながら面能美は何事にもそつがない」
 是路総士はそう云って満足そうに笑って神棚に一礼の後、道場を出るのでありました。敷居を跨ぐ時にちょいと躓くのは何時もの通りでありました。
 背中流し当番の良平も後ろについて出て行くのでありましたが、あゆみまでもがにそれに同行するのは是路総士の着替えを出すためでありました。万太郎は道場に残って三人を見送ってから、使った木刀を壁の刀掛けに揃えてかけて、籠手を仕舞って、つるっと道場の畳を雑巾で乾拭きに拭って、戸締りを確認してから電燈を消すのでありました。

 常勝流本部道場は調布の京王線仙川駅から程近い処にあるのでありました。甲州街道が通っている方とは反対側の、狭い駅前の広場角の本屋を通り過ぎるとすぐに畑があって、建物も疎らで、平坦な土地柄のせいで随分先まで見渡す事が出来るのでありました。
 キャベツ畑に添って道を暫く歩くと普通の民家とはやや異質な体裁の、なかなかの大構えで塀を廻らさない木造の家屋があって、道から少し奥まった玄関先に自転車が数台駐輪してあるのでありました。屹度ここに違いないと万太郎は玄関先まで進み、扉横の木の壁に掲げてある看板を見ると、はたしてこの建物が常勝流本部道場であるのでありました。
 万太郎が玄関を入って、ご免下さい、と一声かけると廊下の向うにある引き戸が開いて、万太郎と同じ歳恰好の白い刺子の稽古着に白帯を締めた男が顔を出すのでありました。後で知れるのでありますが、この男が面能美良平なのでありました。
「ご用向きは何でしょうか?」
 良平は万太郎にお辞儀してから丁寧な言葉つきで訊くのでありました。
「見学に来た者ですが」
「ああ、見学希望の方ですか。ではお上がりください」
 良平は掌を前の上がり框に向かって差し出すのでありました。
「失礼します」
 万太郎は律義らしく一礼してから框に上がり、すぐにしゃがんで靴をくるりと爪先を外に向けて回し揃えるのでありました。万太郎が良平の後ろについて廊下を数歩進むと、良平は先の玄関前の部屋の隣にある引き戸を開けてから掌を中に向けるのでありました。
「どうぞ、中へ」
 そこが道場のようでありますが、万太郎は目礼しながら良平の前を擦り抜けて先に道場に足を踏み入れるのでありました。道場は青畳敷きで八十畳程あって、見所も設えられていて、奥の壁に神棚が吊ってあるのが如何にも武道の道場らしいのでありました。
(続)

お前の番だ! 27 [お前の番だ! 1 創作]

 万太郎は道場の下座隅に案内されるのでありました。
「どうぞそこへお座りください。今案内の紙と申込書を持って参ります。未だ稽古開始までは三十分程ありますので、暫くお待ちいただく事になります」
 良平はそう云い置いてから玄関前の部屋に取って返して、手に二枚の紙を持ってすぐにまた戻って来るのでありました。
「どうぞお座りください」
 良平はまた万太郎に着座を促すのでありました。
「では、恐れ入ります」
 万太郎がその場に正坐すると、良平もその後すぐに横に正坐するのでありました。
「足は崩されて結構ですよ」
「ああいえ、この儘で大丈夫です」
「何か武道をやられているのですか?」
 良平が愛想の心算か目元に笑いを浮かべて訊くのでありました。
「いえ、今は別に何も」
「今は、とおっしゃるからには、前に何かおやりになっていたのですか?」
「ええまあ、高校生の頃に剣道を少々」
「ああそうですか。道理で正坐の仕方がなかなか様になっている筈だ」
 良平は納得したように頷くのでありました。「我が常勝流にも剣術の稽古もありますが、一般の門下生の方は体術の方の稽古が主になります」
「剣術はお教えいただけないのですか?」
「いやまあ、そんな事もありませんが、一般門下生の方に関しては、剣術は希望者のみにお教えすると云う事になります」
「ああそうですか。希望すれば教えていただけるのですか?」
「そうですね。週に一回稽古日が決まっていますので、その日に稽古が可能ならば」
「ああ成程、そう云うシステムなのですね」
「剣術の方を主に稽古したいと云うご希望があるのでしょうか?」
「いやまあ、そんな事もありません。常勝流は体術が主だとお伺いしておりますので」
「おや、常勝流の事を多少ご存知で?」
 稽古開始まで未だ三十分もあると云うので、どうやら良平はその間の万太郎の手持無沙汰を慰めると云う親切な心根からか、話し相手をしてくれる心算のようであります。
「ええ、ほんの少し古武道関係の本で得た情報程度ですが」
「剣道をやられていたと云う事ですから、古流の剣術とかにお詳しいのでしょうか?」
「いや別に詳しいわけではありません。偶々知っていただけです」
 万太郎はつれない云い草にならないように気をつけながらそう返すのでありました。
「ああそうですか」
 良平は頷きながら目を自分の膝元に落とすのでありました。「ああ、これをお渡ししておきます。当道場の入門案内と入門申込用紙です」
(続)

お前の番だ! 28 [お前の番だ! 1 創作]

 良平は手に持っていた二枚の紙を今気づいたように万太郎に手渡すのでありました。
「ああ、恐れ入ります」
 万太郎が受取ろうとしてそう礼を云う語尾に丁度重なるタイミングで、廊下の方から良平を呼ぶ声が上がるのでありました。その声は聞き覚えのあるもものでありました。
「おうい、面能美、何処に行った!?」
 良平は万太郎に向けていた愛想の笑いを素早く消して立ち上がると、道場入口の引き戸まで趨歩して廊下の方に顔を出すのでありました。
「見学の方がいらしたので道場に案内しております」
 良平が廊下の先に向かってそう云った後、引き戸に手を添えて気をつけの姿勢でやや頭を下げるのは、その廊下の人物が道場の方に来ようとする気配からでありましょう。で、道場に現れたのは、万太郎の予想通り鳥枝建設の鳥枝会長の無愛想面でありました。
「おう、折野君だな」
 鳥枝会長は道場の隅の方に万太郎が正坐しているのを見つけると、破顔して片手を上げて見せるのでありました。万太郎も顔を綻ばせてお辞儀するのでありました。
「お誘いに依りお邪魔しております」
 万太郎は近づいて来て向いあうように正坐した鳥枝会長にもう一度頭を下げるのでありました。前に鳥枝建設の会長室で見た時も、なかなか精力的な体香の御仁であると云う印象ではありましたが、こうして稽古着に袴姿で現れた鳥枝会長はいよいよ以って溌剌としていて、先の時よりは数段若やいでも見えるのでありました。
「稽古着は持っているかね?」
 鳥枝会長は、いやここからは、鳥枝範士、と呼ぶ方が場にあっているでありましょうが、そんなせっかちな事を訊くのでありました。
「いえ、今日は見学と云う事でお伺いさせて貰ったので。今、そちらの門弟の方に入門案内と申込書をいただいたところです」
 万太郎は鳥枝範士の後ろに控える良平の方を見ながら云うのでありました。
「ああそうか。しかし内弟子になるんだから、そんな面倒なものは出さんでも構わんよ」
 鳥枝範士はもうすっかり、万太郎が内弟子に入るものと勝手に決めてかかっているようであります。万太郎は少々及び腰になるのでありました。
「いやまあ、今日のところは取り敢えず見学だけをさせて貰いまして、常勝流をやってみるとか、内弟子になるとかはその後の話しと云う事で。・・・」
「おい面能美、稽古着を持ってきてやれ」
 万太郎がそう口籠もりながらごにょごにょと遠慮がちに云っている傍から、鳥枝範士は後ろの良平にそんな指示を勝手に出すのでありました。
「押忍。体格は自分と同じくらいだから四号の稽古着で大丈夫ですかな」
 この最初の、押忍、は鳥枝範士に顔を向けながら、後の方は万太郎の方に目を遣りながら云う良平の言葉でありました。
「何でも構わん。あれこれ云っとらんで適当に見繕って早く持ってこい」
(続)

お前の番だ! 29 [お前の番だ! 1 創作]

「押忍。では早速」
 良平はそそくさと立ち上がって小走りに道場を出ていくのでありました。
「さて、稽古が終わったら是路総士先生に内弟子に入る挨拶をしたり、内弟子に入るに当たっての決まり事とか諸注意とか何時から道場に寝泊まりするかとか、諸々打ちあわせねばならん事があるから、すぐに帰って仕舞わないように」
 鳥枝範士の中ではもうすっかり、こちらが諾とも何とも意思表示もしていないと云うのに、万太郎が内弟子として常勝流に入門するのは既定の事となっているようであります。万太郎は内心大いに困じ且つ大いにたじろぐのでありましたが、どうしたわけかきっぱり、否とか暫し待ってくれとかの言葉を口に出せないでいるのでありました。
 それは常勝流に内弟子に入ると云うのも、この就職難の折、職業選択としてあながち悪い選択でもないかも知れないと云う思いが、脳みその端っこでちらちらと明滅しているからでありました。就職浪人してまで入りたい会社とかやりたい仕事があるわけでもなく、それに学校に残る気なんぞは更々なく、将来の健全堅実なる人生設計図とか人生工程表もなく、かと云って当面何もしないでフラフラ遊んで暮らせる程の蓄えも覚悟もないのでありますから、これは考え様に依っては渡りに船とも云えるのではないでありましょうか。
 しかし武道の内弟子でありますから、心身ともになかなかにハードな毎日が待っているのでありましょう。普通に就職する、とか云った了見では到底勤まらない筈であります。
 しかししかし、毎日の三度のおまんまと寝床に関しては保障されているのであります。前に鳥枝範士から聞いたところに依れば小遣いも貰えるようでありますし。
 まあ、到底務まらないとなったらとんずらすれば良いかと云うくらいの魂胆でいれば、多少は気楽な内弟子稼業になるでありましょうか。しかししかししかし、それでは自分を見こんでくれた鳥枝範士に対しても、自尊心に対しても面目ない話でありますが。・・・
 万太郎がそんな事をつらつら且つうだうだ考えていると、良平がビニール袋に入った真新しい稽古着を持って道場に戻って来るのでありました。
「押忍。持って参りました。四号のサイズで大丈夫でしょう」
 良平は再び鳥枝範士の後ろに正坐してから、持って来た稽古着を鳥枝範士の横に恭しく押し遣るのでありました。鳥枝範士の横の白い道着を包んでいるビニール袋が、天井の照明を反射してきらりと曜くのでありましたが、これをこれからここで送るかも知れない内弟子生活の、吉兆とみれば見えなくもないかと万太郎はふと考えるのでありました。
「さあ、この稽古着をタダでくれて遣るからさっさと着替えて来い」
 鳥枝範士が横のビニール入りの稽古着を、万太郎の前にぞんざいな手つきで更に押し遣るのでありました。「もうすぐしたら他の門下生共も来るから、急いで着替えるんだぞ」
「何処で着替えればよろしいのでしょうか?」
 万太郎が弾みから、稽古着を両手で持ち上げながら訊くのでありましたが、渡された稽古着をこうして手にした以上、自分は内弟子に入るのを承諾した事になるのかなと思うのでありました。ま、それもいいかと万太郎は即座にあっさり意を決するのでありました。
「おい面能美、案内してやれ」
(続)

お前の番だ! 30 [お前の番だ! 1 創作]

 万太郎は鳥枝範士に一礼した後、良平に連れられて玄関前の、訪問して最初に案内を乞うた時に良平が出てきた部屋に移動するのでありました。そこは窓のない六畳の和室で、真ん中に一畳ほどの大きさの、上に書類の散らかった座卓が置いてあって、壁際の棚にはビニール袋に入った儘の稽古着や木刀や籠手や、その他の様々な荷物が積み上げられていて、どうやらここは納戸を兼ねた内弟子の詰所に使われている部屋のようであります。
「俺の名前は面能美良平。まさか内弟子になりに来たとは思わなかったぜ」
 良平が先程までとは違ったぐっと砕けた言葉遣いで自己紹介するのでありました。
「ああどうも、折野万太郎と云います。よろしくお願いします」
 万太郎は一応兄弟子に当たる良平に向かって律義らしくお辞儀するのでありました。
「まあまあ、そう固くならなくても良いよ。一応俺の方が兄貴分になるわけだけど、ま、同じ内弟子同士だから、気楽にいこうぜ」
 良平は兄貴分が弟分に話しかけるような口調でそう云って、万太郎の肩を気安く一つ叩くのでありました。しかし後でよおく聞いてみると、良平は兄弟子とは云っても高々二か月早いと云うだけで、しかも万太郎と同い歳なのでありましたが。

 万太郎が道場の片づけを終えて母屋の台所に行くと、あゆみが遅い三人分の夕食の準備をしているのでありました。これはあゆみ本人と内弟子の万太郎と良平の分であります。
「ご苦労様」
 万太郎の姿を認めてあゆみが何時も通り元気な声をかけるのでありました。
「先生は風呂から上がられましたか?」
 万太郎は食卓テーブルに皿を並べているあゆみに訊くのでありました。
「未だじゃない」
「それなら先生の部屋に布団を敷いてきます」
「はい、お願いします」
 あゆみが万太郎に愛嬌のある笑いをふり向けて頷いて見せるのでありました。あゆみは道場にあっては、弟弟子たる万太郎や良平に対して姉弟子の威厳を絶対に崩さないのでありますが、一旦稽古を離れるとがらりと様子が変わって、彼等に対して同世代の若者同士と云った風の、ぐっとくだけた素ぶりや言葉遣いで接してくれるのでありました。
 万太郎には郷里の熊本に一歳違いの姉がいるのでありますが、その姉とあゆみは同い歳なのであります。この実姉と比べてみるとあゆみの方がその普段の話しぶりや態度に於いて、未だ幾らかあどけないように万太郎には感じられるのでありました。
 尤も実姉は一歳しか歳が違わないために尚更そうであったのかも知れませんが、幼い頃より何時に依らず何に依らず、自分が目上である事をあれこれ万太郎にこれ見よがしに見せつけて、長幼の普遍の順理を墨守させるべくふる舞っていたようでもありましたか。この二人の了見の違いは、血縁者かそうでないかの相違からくるものでもありましょうが。
 万太郎は是路総士の部屋に行って天井に釣ってある電燈を点け、押入れから布団を出して延べるのでありました。これで彼の一日の内弟子仕事は完了するのであります。
(続)
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