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お前の番だ! 181 [お前の番だ! 7 創作]

「ああそう」
 女性はそう云った後に何も続けないのでありました。万太郎の返した言葉のどこにも引っかりを見せないのは、万太郎にしたら多少拍子抜けでありました。
「貴方は大岸先生のお弟子さんなんですか?」
 万太郎は指を動かして両手に下げた紙袋の握りを直しながら訊くのでありました。
「いいえ、あたしは玄書会の事務局の者よ」
 玄書会、と云うのは大岸先生が所属する全国組織の財団法人の名称で、日本中の多くの書道の先生が加入している団体でありました。書道に於いては流派と云う云い方が適当なのかどうか万太郎には判然としないのでありましたが、この、玄書会、と云う団体は書道の普及発展と研鑽を目的とする一派で、大岸先生はそこの理事の一人なのでありました。
「玄書会の職員なら、貴方も書道をなさるのでしょうね?」
「いいえ、あたしはしないわ。単なる職員よ。書道に詳しいわけでもないし」
「ああそうですか」
「大岸先生の門下なら、あゆみさんと一緒に大岸先生に書道を習っているの?」
 この女性はあゆみの事は前から見知っているようであります。
「ええまあ、そうなりますが、しかしさっきも云ったように僕は不肖の弟子ですから」
「何か作品を出しているの、今度の書道展に?」
「いやあ、何も出していませんし、出すような腕も年季もありません」
 ここで万太郎の癖として頭を掻きたいところでありますが、両手が荷物で塞がっているのでそうもいかないのでありました。
「じゃあ、大岸先生に云われて手伝いに来たのね?」
「そうです。あゆみさんが僕の武道の姉弟子にも当たりますのでその義理からも」
「武道?」
 女性はやや瞠目した表情で万太郎の顔を見るのでありました。「武道って云ったら、柔道とか剣道とか合気道とかの、あの武道の事?」
「そうです。常勝流と云う古武道です」
「あゆみさんは武道もやってらっしゃるの?」
「ええ。小学校に入る前からですから、もう今では先生格です」
「へえ、それは知らなかったわ」
 女性はそう云って目を見開いた儘で笑むのでありました。あゆみと同世代か少し歳上だろうと万太郎は踏んでいるのでありますが、今まで無表情ばかりを目にしていたのでその驚きの笑みは、なかなかに若々しくてチャーミングだと万太郎は思うのでありました。
「あゆみさんは武道も大変な実力で、お強い方なのです」
「そんな風にはちっとも見えないわね。お話しされる時の物腰も柔らかで、ちょっとした仕草なんかもしとやかそうだし。着物姿も女らしくて、全く武道のイメージはないわ」
「いやいや、あれでなかなか厳しい姉弟子なんですよ」
 万太郎はあゆみを評する女性の言葉に何故か少し嬉しくなるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 182 [お前の番だ! 7 創作]

 展示会場に戻ると、持ってきた弁当を控え室でスタッフが交代しながら食うのでありました。万太郎は大岸先生に勧められて真っ先に、書類や衣類、それに何やらの入った紙袋等が積まれた控え室の大きな折りたたみ机の上に弁当を広げるのでありました。
 どうせなら上野公園辺りに出かけて、うららかな日差しの中でのんびりベンチに腰かけて食したいものでありましたが、手伝いと云う立場上そうもいかないのでありました。そう云えばあゆみと威治教士の二人は、何処で昼食を取っているのでありましょうや。
 あゆみには会場に訪れた様々な人に挨拶をしたり、案内をしたりと云った仕事があるのでありますから、そうはゆっくりともしていられない筈であります。依って食後に威治教士に喫茶店とかに誘われたとしても、それを断って早々に戻って来る筈であります。
 万太郎は弁当についてきた苺を頬張りながら、壁にかけてある時計を見上げるのでありました。ま、もう少し経ったら屹度戻って来るのでありましょう。
「お先にいただきました」
 万太郎は控え室を出るとドアのすぐ傍に居た大岸先生に一言挨拶してから、また受付の方に向おうとするのでありました。
「ああ万ちゃん、お昼で来る人も疎らになったから、もう少し控え室の方で休んでいても構わないわよ。ほら、これでも飲んで」
 大岸先生はそう云って万太郎に缶コーヒーを渡してくれるのでありました。
「ああどうも済みません。貰って良いのですか?」
「これを渡しに控え室に入ろうとしたら、丁度万ちゃんが出てきたのよ。万ちゃんは相変わらずご飯を食べ終わるのが早いわね」
「早飯、早風呂、それに早ぐ、・・・いやこれは良いとして、兎に角、食事を早く済ませるのは武道修行者としての嗜みだと鳥枝先生に何時も云われていますから」
「ああ、成程ね」
 大岸先生は少し口を尖らせた表情で納得するのでありました。「まあ、何にせよ立てこんでいない今の内にゆっくり休んでいてね。慣れない受付なんかして疲れただろうから」
「判りました。じゃあ控え室でこれを頂戴しています。用があれば呼んでください」
 万太郎は大岸先生にお辞儀してからまた控え室の中に戻るのでありました。しかしそれにしてもあゆみはそろそろ戻って来ても良い頃なのだがと思いながら、万太郎は缶コーヒーのプルリングを引き上げながら壁の時計にもう一度目を遣るのでありました。
 小一時が経過したと云うのに、あゆみはちっとも戻って来ないのでありました。これは多分、威治教士と食事の後にお茶でも飲んでいるか、或いは上野公園辺りでも散歩しているに違いないと万太郎は推測するのでありました。
 あゆみからそんな誘いをするわけはないでありましょうから、屹度威治教士が無理強いにあゆみを離さないのでありましょう。あゆみもあゆみで仕事が待っているのだから、そんな威治教士の迷惑な誘い等はきっぱり断って戻って来れば良いと云うもののであります。
 受付仕事に復帰した万太郎は時々腕時計に目を落としながら、何となく苛々としているのでありました。その万太郎の前に、またもや見知った男が立ち現れるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 183 [お前の番だ! 7 創作]

「よお、折野君」
 男は万太郎に手を上げて見せるのでありました。
「ああ、これは新木奈さん」
 万太郎は立ち上がって軽くお辞儀するのでありました。新木奈は持っていた大ぶりの花束を万太郎に渡すのでありました。
「一応お祝いにこれを持ってきたんだが」
「ああ、有難うございます」
 万太郎は花束を受け取るのでありました。「ええと、ご来場いただいた方には、こちらにご記名をお願いするようになっているのですが」
 万太郎は受付机の上に広げてある芳名帖を手で示すのでありました。新木奈はああそう云う仕来たりか、と云う顔をしてから筆を取るのでありました。
「今日は受付に駆り出されているわけだ?」
 新木奈は筆を置きながら万太郎に訊くのでありました。どうやら新木奈は習字の心得がないようで、先の威治教士の立派な署名に比べれば、万太郎が見ても何とも体裁の良くない、石の裏から白昼の下に引き出された蚯蚓がのたくっているような文字でありました。
「ええまあ、そんなところです」
「あゆみさんは、今日は来ていないのかい?」
「いえ、来ておりますが、今ちょっと外に出ています。ぼちぼち戻ると思いますが」
 威治教士と云い、この新木奈と云い、何処で耳聡く聞きつけたのか知らないけれど、あゆみの書が掲げてある書道展があると聞けば初日早々に、愛想にしては立派過ぎる花を手に、威治教士の方は送ってきたのでありますが、まあ兎も角、ここが好感度の上げどころと勇んで馳せ参じて来る了見は、実に以って大した忠実さ加減であると万太郎は呆れ顔に敬服するのでありました。怠け者の万太郎如きには到底真似の出来ない仕業であります。
「ああそう。じゃあ、書を見せて貰っていようかな」
「その前に、一応この書道展の責任者の大岸先生にご紹介したいのですが」
 万太郎は花束を受け取った手前、新木奈を大岸先生に引き逢わせようと受付席を離れるのでありました。大岸先生は自分の書の前で来場者への愛想が丁度終わったようで、二人の和服を着た老婦人にお辞儀をしてそこを立ち去ろうとしているところでありました。
「大岸先生」
 万太郎が呼びかけると大岸先生は顔を向けるのでありました。「こちらは新木奈さんと云って、常勝流道場の門下生の方です。このお花をいただきました」
 万太郎はそう云って花束を大岸先生に渡すのでありました。
「まあ、これはどうも」
 大岸先生はにこやかな顔をして花束に鼻を近づけるのでありました。「こんな綺麗なお花を頂戴いたしまして有難うございます」
 大岸先生の深いお辞儀に新木奈が浅いお辞儀を返すのでありました。
「いえ、別に」
(続)
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お前の番だ! 184 [お前の番だ! 7 創作]

「どうぞゆっくり見ていってください」
 大岸先生がもう一度新木奈にお辞儀して受け取った花束を抱えて控室に去るのは、花瓶にその花を活けるためでありましょうか。
「じゃあ、僕も受付に座っていますからご自由に見学してください」
 万太郎は新木奈をそこに残して受付席に引き取るのでありました。新木奈は展示してある書なんぞには元々さして興味はないのでありましょうが、どうせあゆみが帰って来るまでここに留まっている心算でいるのでありましょう。
 あゆみは、一人で展示会場に帰って来るのでありました。威治教士はあゆみと昼食を共にした後には、もうここへは戻って来ないのでありました。
「お帰りなさい。随分ごゆっくり、でしたね」
 万太郎は隣の受付席に座ろうとするあゆみに云うのでありました。
「ご免なさい。精養軒まで連れて行かれたのよ」
「上野公園の中の精養軒ですか?」
「そう。不忍池の近く」
「随分と格式のある処で食事したんですね」
「威治さんが予め席を予約していたみたい」
 始めからその魂胆は大体知れていたのではありますが、これで威治教士が書道の展示会に来たのではなく、そこに居るはずのあゆみを誘って精養軒で食事をするために、態々上野までやって来たという事がはっきりしたと云うものであります。目的を達した威治教士は、もう書道展なんぞには見向きもしないでさっさと家に帰ったというわけでありますか。
「ところで新木奈さんが来ていますよ」
 万太郎はあゆみの横顔に向かって報告するのでありました。
「新木奈さんって、道場の?」
「ええ。一般門下生の新木奈さんです」
 あゆみは後ろをふり返って新木奈の姿を探すのでありました。
「へえ。書道展の事を何処で知ったのかしら?」
「さあ、それは知りませんが、花束をいただきました」
 また顔を元に戻したあゆみの横顔に万太郎は云うのでありました。
「じゃあ、ちょっと挨拶しておかなければ悪いわね」
 あゆみは席から立つと奥に向かうのでありました。あゆみとすれ違うように控え室から、先程新木奈から貰った花を挿した花瓶を持って大岸先生が出てくるのでありました。
 大岸先生はそれを何処に飾ろうかと会場の中を見回すのでありましたが、適当な場所が見つからなかったようで、暫し思案した上で受付席の方に歩み来るのでありました。新木奈の持ってきた花が、万太郎の斜め前にドンと置かれるのでありました。
「適当な場所がないからこのお花はここに置くけど、邪魔にはならないわね?」
 いや邪魔です、とも云えず、万太郎は一つ頷くのでありました。
「今し方、あゆみさんが戻られて、新木奈さんを捜しに奥に行かれました」
(続)
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お前の番だ! 185 [お前の番だ! 7 創作]

「ああそう」
 大岸先生は奥の方に視線を向けるのでありました。それからそちらに歩き去るのは、あゆみと一緒に新木奈にもう一度愛想をするためでありましょうか。
 万太郎は目の前に置かれた、大輪の赤い花が活けられた花瓶を見るのでありましたが、それは目障りと云うのではないにしろ、しかし何となくそこにあると場所塞ぎであります。万太郎はなるだけ机の端の方に花瓶をそろそろと移動させるのでありました。
 三十分程であゆみと新木奈が受付に戻って来るのでありました。大岸先生は展示場の方で他の来訪者にも愛想をふり撒かなければならないから、一緒ではないのでありました。
「今日は、良い目の保養になりましたよ」
 新木奈があゆみにそう云うのを傍で聞きながら、目の保養、なんと云うのは今時の若い者の云い草かと万太郎は興醒めするのでありました。
「いえ、拙いもので恥ずかしいくらいです」
「あゆみさんの書が一番印象的でしたね。文字が力強く躍動していて、それでいて全体としては繊細でしとやかで、良くあゆみさんの個性が表現されていると感じましたよ」
「恐れ入ります」
「いや、本当に」
 あゆみは照れ臭そうに浅くお辞儀するのでありました。それから頭を起こす時に受付机の端にある花瓶を目に止めるのでありました。
「この花をいただいたのでしょうか?」
「そうです。先程大岸先生が花瓶に活けてここに置いたのです」
 これは横から差し挟む万太郎の言葉でありました。
「まあ綺麗なお花」
 あゆみは花に顔を近づけて、左手の指でそおっと下から支えるように花弁に触れるのでありました。「こんな綺麗なお花までいただいて、今日は本当に有難うございました」
「いや、別に。兎に角、あゆみさんの書を見ることが出来て今日は良かった。書を見て感動を覚えたりしたのは生まれて初めてですよ」
 新木奈はその辺りを大袈裟に且つ念入りに強調するのでありました。
「他に素晴らしい作品が一杯ありますから、そんなに云っていただくと身が縮みます」
「いやいや、あゆみさんの作品が一番輝いて見えました」
 あゆみさんの作品、ではなく、あゆみそのものが一番輝いて見えたと云うのが正しい心の内の表現であろうと、万太郎は新木奈の渾身のべんちゃらを聞きながら秘かに思うのでありました。新木奈はあゆみ以外の他の誰彼も、他人の書も、もっと云えばあゆみ本人の書に対してすらも、初めから実は何の関心も抱いていなかったのでありましょうから。
 この辺は先程来た威治教士と同じ穴の貉と云うものであります。万太郎には威治教士も新木奈にしても、その了見が奈辺にあるか容易に透けて見える気がするのでありました。
 二人のこんな判り易い下心の表出を、あゆみは気づかないのでありましょうか。それとも気づいていても、しれっと気づかないふりをしているのでありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 186 [お前の番だ! 7 創作]

 新木奈は、もう一度あゆみの書が見たくなったからとか何とか云って次の日も夕方頃に上野までやって来て、あゆみの前に歯の浮くようなべんちゃらの総棚浚えをしてから帰るのでありました。慎に以ってご執心な事であると万太郎は一面感心するのでありました。
 それに展示場で誰に忌憚する事もなくあゆみの書が最も素晴らしいと堂々と公言して憚らないのは、そう云う確固たる表現をあゆみの耳に届けて、あゆみの一種の戸惑いに満ちた驚嘆を誘導する事で、自分の印象を強く焼きつけようとする売りこみの手練手管の一種であろうとも思えるのでありました。まあ、万太郎の読み過ぎかも知れませんが。
 一方の威治教士はと云うと、二日続けては現れないのでありました。さてさて、豪勢なアレンジ花篭と食事を一回と云う売りこみと、花束と来訪二回と云う売りこみとでは、どちらがあゆみの心根に妙なる共鳴和音を響かせ得たでありましょうや。
 それは兎も角として、初日の夕刻には是路総士も会場に姿を見せるのでありました。是路総士は立ち上がった万太郎とあゆみに手を上げながら受付前に立つのでありました。
「よお、ちゃんと仕事をしているな」
 是路総士が万太郎に笑顔を向けるのでありました。
「押忍。・・・じゃなかった、はい」
 万太郎は固いお辞儀をするのでありました。
「一応、これを」
 是路総士は熨斗袋を紫色の袱紗から取り出して受付机の上に置くのでありました。
「これは慎に有難うございます」
 云った後から万太郎は、云ってみれば身内も同然の是路総士に向かってそう云う畏まった謝礼の言葉はこの場合適切かと、ちらと自問するのでありました。「それでは一応、総士先生に催促するのも何ですが、こちらの芳名帳の方にご記名をお願いいたします」
 是路総士は先の威治教士よりも綺麗で風格のある楷書で名前を書き記すのでありました。何でも、大岸先生に聞いたところに依ると、今般の書道展に是路総士の書をと所望したのでありましたが、自分は門外の者であるからと丁重に断られたと云う事でありました。
「あら総士先生、態々お越しいただいて有難うございます」
 大岸先生が是路総士の姿を認めて、受付の方へ小走りにやって来るのでありました。是路総士は大岸先生ににこやかな顔を向けた後一礼するのでありました。

 日曜日の午後五時からの専門稽古が終了すると、師範控えの間で鳥枝範士が、にこやかな困惑顔、で是路総士に話しを切り出すのでありました。
「いやいや、些か小難しい難題が出来いたしました」
「ほう、難題、ですか?」
 是路総士は万太郎が差し出した茶を一口啜ってから云うのでありました。難題だとは云うものの、鳥枝範士の顔には然程のしかつめらしさは浮かんではいないのでありました。
「おい折野、面能美にここに来るようにと云え」
 鳥枝範士の前に茶を置いた万太郎に鳥枝範士が命じるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 187 [お前の番だ! 7 創作]

「押忍、承りました」
 万太郎はそう返事して師範控えの間を下がるのでありました。良平は鳥枝範士が云うところの、小難しい難題、の関連で呼びつけられるのでありましょう。
 小難しい難題、とは何でありましょうや。良平が何か仕出かしたのでありましょうか。
「良さん、鳥枝先生が師範控えの間に来るようにとおっしゃっていますよ」
 万太郎は納戸兼内弟子控え室に居た良平に伝えるのでありました。
「判った。すぐに行くよ」
 良平がやや緊張の面持ちで応えるのでありました。
「何かやらかしたのですか?」
「まあ、やらかしたと云えばやらかした、ような、・・・」
 良平は良く判らない曖昧な事を口走ってから天井をゆっくり見上げるのでありました。その後、目を万太郎に戻して意味有り気にニヤリと笑うのでありました。
 良平が師範控えの間に去った後、万太郎は気転じに黒帯を一つしごいてから、塵叩きを取って納戸兼内弟子控え室の掃除に取りかかるのでありました。一通り叩き終わって箒で畳を掃こうとしていると、引き戸の向こうからあゆみの声が聞こえるのでありました。
「万ちゃん居る?」
「押忍。居ります」
 万太郎が応えるとあゆみが引き戸を開けるのでありました。その日はもう稽古がないので、あゆみは普段着に着替えているのでありました。
「三人で何の話しあいしているのか、万ちゃん知ってる?」
 三人とは当然是路総士と鳥枝範士、それに良平の事でありましょう。
「さあ、僕は知りませんねえ」
 あゆみが普段着なので万太郎は母屋に居る時の口調で云うのでありました。
「良君は万ちゃんに何も云っていないの?」
「特段何も聞いていませんが」
「ああそう。何も聞いていないんだ?」
 そう云う口ぶりからするとあゆみは何か知っているような気配であります。
「あゆみさんは、控えの間で何が話しあわれているのか知っているのですか?」
「良君が呼ばれたんだから、屹度あの話しだわ」
 あゆみが勿体ぶるのでありました。
「何ですかそれは?」
「良君は本当に、万ちゃんに全く話していないの?」
 あゆみの片方の眉尻と口の端が少し上がるのでありました。片目がやや見開かれて片頬が微笑に作られたその表情は、如何にも仔細有り気なのでありました。
「生一本に、何も聞いていませんよ」
「何となく照れ臭いものだから万ちゃんには云わないのかなあ?」
 あゆみは、今度はやや口を引き結んでから首を傾げて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 188 [お前の番だ! 7 創作]

「で、三人の話しあいは、一体何なのですか?」
 万太郎の催促に、そうする必要は特にない筈でありますが、あゆみが少し顔を寄せて小声になるのは、話の内容にややデリケートなところがある故でありましょうか。
「良君の結婚の話しよ」
「結婚の話し! ですか?」
 万太郎は驚いて声を張り上げるのでありました。万太郎の方も、他に誰も聞いていないし、師範控えの間の方にここでその程度に発した声が聞こえる筈もないのでありますが、思わず大声になった事におどおどとして仕舞うのでありました。
「そう。良ちゃんの結婚の話し」
「一体誰と良さんが結婚するのですか?」
「ほら、鳥枝建設の愛好会の川井香乃子ちゃんよ。知っているでしょう?」
「ああ、香乃子ちゃんですか、相手は」
 万太郎の顔が思わず笑顔になるのでありました。そう云えば二年程前から良平は川井香乃子ちゃんとつきあっていたのであります。
 いやそれ以前から、常勝流武道の内弟子になって鳥枝建設に交代で鳥枝範士の助手として稽古に行き始めた早々から、良平は川井香乃子ちゃんを見初めていたようであるのは、万太郎も良平の口ぶり等から何となく察していたのでありました。となれば良平の結婚相手は、当然川井香乃子ちゃん以外にはない筈でありました。
「実はあたし、一週間程前に香乃子ちゃんにその事を相談されていたのよ」
 あゆみが矢張り声を潜めた儘で云うのでありました。
「そう云えば最近、香乃子ちゃんは土曜日とか日曜日とか総本部にも顔を出して、稽古後にあゆみさんに妹分のように纏わりついているのを見かけていましたが」
「そうね。香乃子ちゃんが総本部に顔を見せるようになって、ほら、稽古では女子は少ないでしょう、だから自然にあたしに懐いてきて、あたしも学校のクラブで上級生が下級生を見る時のような気になってさ。それで、良君との事を一月前くらいに相談されたの」
 あゆみがその間の事情を大雑把に説明するのでありました。「それから因みにだけど、道場であたしと睦んでいるように見えたのは、そう見せかけているだけで、実は香乃子ちゃんは良君に逢いに総本部道場に来ていたと云う事になるわけよ」
「ははあ、成程」
 万太郎は頷くのでありました。「で、全く以って相思相愛なわけですよね、二人は?」
「それは云うまでもないわ。じゃなければ結婚なんて話しにならないでしょう」
「それはそうだ」
 万太郎は頭を掻くのでありました。「この頃鳥枝建設での稽古だけでは物足りなくなってきて、それで総本部の稽古にも意欲的に来るようになったんだとばかり思っていましたが、それは世を欺く仮の姿で、実は良さんと逢い引きする了見でやって来ていたと云う按配ですね。僕は全く気づかなかったけど、香乃子ちゃんもなかなか狸だなあ」
 万太郎はあゆみに、してやられたと云う顔をして見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 189 [お前の番だ! 7 創作]

「ま、そう云うなら良君も狸だけどね」
「同じ穴の貉、と云うか、狸、と云うか。二人共結構やりますねえ」
 万太郎は腕組みして感心したような表情をするのでありました。
「何時も一緒にいる万ちゃんに、良君は本当に何も相談とかしなかったの?」
「この顔が、そう云った色っぽい相談に適した顔だと思いますか?」
 万太郎は至極真面目に自分の顔を指差して見せるのでありました。あゆみがその万太郎の仕草を見て少し吹くのでありました。
「全く不適切でもないと思うけどさ」
「相談するなら良さんは、僕よりも新木奈さんに相談しているかも知れませんよ」
「新木奈さんて、一般門下生の新木奈さん?」
「そうです。この頃良さんは僕なんかよりも新木奈さんと睦んでいますからね。何となくあの二人は気があうみたいですよ」
「へえそうなの。それは知らなかったわ」
 最近の良平は新木奈と言葉を交わす時等は、新木奈の方が歳上でありますから丁寧な言葉つきは崩さないまでも、昵懇と云った風のややくだけた感じで話しているように見受けられるのでありました。新木奈の方も良平の良い兄貴気取りと云った風でありますか。
 夜の稽古後に、内弟子稽古がない場合には時々仙川駅近くの居酒屋なんかで待ちあわせて、二人で酒を飲んだりする事もあるようでありました。道場休みの月曜日とか、勿論良平は香乃子ちゃんと逢うのが最優先ではあったでありましょうが、新木奈の仕事が終わった夜に、彼とも新宿辺りで待ちあわせて一緒に遊んだりもしているようでありました。
「時々良さんが、夕食を外で取る場合があったでしょう。そんな時大概は新木奈さんと遊んでいるものとばかり思っていましたよ、僕は。しかし相手が新木奈さんだけじゃなくて香乃子ちゃんの場合も多分にあったとは、今の今までちっとも知りませんでしたね」
「あたしは良君が夕食は要らない、なんて云う日は、偶には一人で気儘に好きなものを食べたいのだろうだろうなって、それくらいしか思わなかったけどさ」
「ところがどっこい、と云うところですかね」
「そうね。良君の無表情にあたし達、随分長く見事に騙されていたわね」
 あゆみは万太郎に共感の笑みを送るのでありました。「でもところで、良君が新木奈さんと遊ぶ時には、万ちゃんも誘わないの?」
「いやあ、それはありませんでしたね。僕はどちらかと云うと新木奈さんは苦手ですし」
「ああ、それは傍で見ていても何となく判るわ」
 あゆみが一つ頷くのでありました。
「若し誘われたとしても僕は遠慮しときます。で、僕がそんなだから、新木奈さんの方も僕に対しては何となく屈託があるでしょうし、敢えて誘う気もないんじゃないですかね」
「ふうん、そうなんだ」
 あゆみはやや口を引き結んで何度かゆっくり、また頷くのでありました。
「いや、そんな事より、一週間くらい前に香乃子ちゃんから相談を受けたんですか?」
(続)
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お前の番だ! 190 [お前の番だ! 7 創作]

「そう。何時だったか稽古が終わってから、ちょっと相談したい事があるって云われて、土曜日のお習字のお稽古に行った帰りに、駅前商店街の喫茶店で待ちあわせてね」
「良さんに結婚を申しこまれたけど、どうしたら良いでしょうか、とかですか?」
「ううん。二人で結婚しようかって雰囲気にはもうなっているんだけど、生活していけるだけの良君の収入の見こみが立たない事を理由に、良君が躊躇っているらしいの」
「ああ成程、考えてみればそれはそうですかね」
 今度は万太郎が口をやや引き結んでゆっくり何度も頷くのでありました。
「あのね、いきなりそんな相談をされて、どうしてだか知らないけどあたしドキドキしちゃった。まあそれは良いとして、香乃子ちゃんとしては、そう云う事なら自分の方が他にアルバイトをしてでも、何とか二人の生活のやり繰りをするって心算のようだけどね」
「ほう、なかなか気丈ですね香乃子ちゃんは。見かけに依らず」
「そうね。でもそれじゃあ俺の気が済まない、なんて良君があれこれ云うらしいの」
「良さんの気持ちも判りますかね、僕は」
 万太郎は腕組みをしてまた頷くのでありました。
「それに良君は未だ助教士になったばっかりで、助教士に対しては結婚生活を送れるだけの充分なお手当は、これまで道場でも出した前例がないの。助教士は大概の場合は道場に寝泊まりしているのが普通たから、内弟子になった時に貰うお給金の儘だし」
「まあ、我々の手当ては鳥枝建設から出る四万円ですから、香乃子ちゃんの給料とあわせても充分とは云えませんよね。しかし、二人の給料でもカツカツの耐乏生活なら、覚悟があればやっていけない事もないような気が、しないでもないような。・・・」
 万太郎は徐に腕組みを解いて頭の天辺に片方の掌を遣って、自分でもどう云わんとしているのかよく判らないような、慎に以ってまわりくどい云い草をするのでありました。
「でも、良君がそれでは嫌みたいなの。男たる者、女房の一人くらい養えるだけの器量がなければ結婚なんかしてはいかん、なんて香乃子ちゃんに云うらしいわよ」
「へえ、良さんも結構古臭い考えの持ち主なのですね」
「で、香乃子ちゃんとしたら、困るわけよ」
 万太郎が腕組みを解いた代わりと云うわけでもないでありましょうが、今度はあゆみが腕組みをして首を少し傾げて、困った顔を作るのでありました。その様子はなかなか可憐であると、全く今の話しと関係ないながら万太郎は秘かに思ったりするのでありました。
「あゆみさんはそう云う相談をされて、どんなアドバイスをしたのですか?」
「その場では何もアドバイスらしい事は出来なかったけど、お父さんと鳥枝先生にあたしから話してみるわって、そう応えたのよ」
「ああ、そのあゆみさんの相談を受けて今、総士先生と鳥枝先生が良さんを呼んで色々、ああでもないこうでもないとやっているのですね?」
「ううん、そうじゃないわ」
 あゆみが腕組みした儘首を横に何度かふるのでありました。「あたし未だ、お父さんにも鳥枝先生にも、何も話してなんかいないもの」
(続)
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お前の番だ! 191 [お前の番だ! 7 創作]

「あれ、そうなんですか?」
 万太郎は再び腕組みをして首を傾げるのでありました。「じゃあ、三人で、一体何の話しをされているんでしょうかねえ?」
「それは多分、矢張り、良君と香乃子ちゃんの事だと思うけど」
「その話しであるとして、あゆみさんじゃないとすれば、一体どう云うルートから鳥枝先生にその話しが行ったんだろう?」
「お父さんの方は未だ知らないみたいだった?」
「そうですね。師範控えの間では鳥枝先生の方から総士先生に、小難しい難題が出来いたしました、なんて話しを切り出されていましたから」
「で、良君を呼んで来い、って事になったのね?」
「そうです」
「じゃあ屹度、良君と香乃子ちゃんの事には違いないでしょうけどね」
 暫くして、万太郎とあゆみが向いあって座って腕組みをしながら、夫々のペースで首の左右へのひん曲げっこをしていると、納戸兼内弟子控え室の引き戸が突然開かれるのでありました。二人は同時にそちらの方に小難しそうな顔の儘目を遣るのでありました。
「なあんだ、あゆみさんもここに居たんですか。控えの間の方で総士先生が、鳥枝先生と二人の食事を、とおっしゃっていますよ」
 現れたのは良平でありました。
「良さん、総士先生と鳥枝先生との話しは終わったのですか?」
 万太郎がゆっくり立ち上がりながら訊くのでありました。
「ああ、終わったよ」
 そう云う良平の顔には陰鬱な翳が全く差してはいないのでありました。と云う事は良平にとって、ある程度に納得のいく話しあいが出来たと云う事でありましょうか。
「じゃあ、この部屋の掃除の続きと道場の点検の方は良君に頼むとして、万ちゃんはお父さんと鳥枝先生に食事を出すのを手伝って」
 あゆみが二人に指示するのでありました。万太郎は「押忍」と返して、良平に箒を手渡してからあゆみの後について母屋の台所の方に向かうのでありました。
「どういう風に話しがついたのかしらね?」
 台所で料理を盆に載せながらあゆみが万太郎に話しかけるのでありました。
「さあ、どんな按配でしょうかね。良さんの顔色から推察すれば、香乃子ちゃんとの結婚がおじゃんになったようではないようですが」
「確かに武道か香乃子ちゃんかどっちを取るか、なんてきつい選択を迫られたようじゃないわね。まあ、お父さんはそんな立つ瀬のないような理不尽は迫らないとは思うけど」
「良さんにとっても、道場にも、無難な線に落ち着いたのでしょうが、その無難な線、と云うのがどのような線なのか上手く推量出来ませんね」
「ま、後で食事の時に良君に直接聞けばいいか」
「そうですね。それが最も手っ取り早いですからね」
(続)
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お前の番だ! 192 [お前の番だ! 7 創作]

 万太郎が日本酒の徳利を最後に盆に載せたら出す食事の用意は総て整ったので、二人は夫々料理と酒の載った盆を両手で捧げ持って、師範控えの間に向かうのでありました。すると師範控えの間からは鳥枝範士の笑い声が漏れ聞こえてくるのでありました。
 万太郎とあゆみは思わず顔を見あわせるのでありました。どうやら陰鬱な空気が中で沈滞しているわけではないようであります。
 障子戸を空けると是路総士も鳥枝範士も、どちらかと云うと緩んだ表情をしているのでありました。これは一定の良好な結論が出た左証でありましょうか。
 皿を卓に並べている間も、二人は到って和やかに釣りの話しをしているのでありました。こうなると、返ってここで出た結論と云うものを早く知りたいものであります。
 あゆみが居残って給仕をする筈でありましたが、是路総士はふと思いついたように良平を給仕に寄越すようにと指示するのでありました。
「承りました」
 あゆみは給仕の時に、良平と香乃子ちゃんの結婚話しの首尾が聞き出せると踏んでいたようでありますが、それが叶わなくなって些か興醒めしたような声で返事するのでありました。まあ、話しはほぼ結論に達したもののすっかり綺麗に整ったわけではなくて、もう少し会話する必要があるために良平を寄越せと是路総士は指示したものでありましょう。
 良平の給仕で是路総士と鳥枝範士が師範控えの間で食事をしている間に、万太郎とあゆみも母屋の食堂で卓を囲むのでありました。二人は残念ながら未だ聞き出せない話しが大いに気になってか、何となく寡黙に口を動かしているのでありました。
「良さん、両先生と何の話しをしていたのですか?」
 食事も済んで、鳥枝範士を道場から送り出し、是路総士の風呂も終わって内弟子部屋に帰って来てから、万太郎は布団を延べながら良平に訊くのでありました。今頃屹度、あゆみも母屋の居間で是路総士に同じような質問をしているのでありましょう。
「ああいや、まあ、一身上の事、だよ」
 良平が曖昧にそう云うものだから、万太郎は質問を具体的にするのでありました。
「良さんと香乃子ちゃんとの結婚の話しでしょう?」
 良平がやや口を尖らせて万太郎の顔を凝視するのでありました。しかし特に不快そうな色はその目には浮いてはいないのでありました。
「何だ、何で万さんが知っているんだ?」
 そう訊かれて万太郎は、香乃子ちゃんからあゆみが相談を受けて、それを万太郎が先程聞いた経緯をごく簡略に述べるのでありました。
「・・・と云う事で、あゆみさんも心配しているようですよ」
「ふうん。香乃子からあゆみさんに相談したと云う事は聴いていたけど」
「で、両先生と良さんの話しあいなんだから、勿論その話しだったんでしょう?」
「ま、そう云う事だけどな」
「で、どういう風になったのですか?」
 万太郎は敷き終えた布団の上に胡坐に座って話しの先を催促するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 193 [お前の番だ! 7 創作]

 万太郎にそう問われて良平は息を一つ大きく吸いこんで、暫くそれを腹の中に納めた儘吐き出さないのでありました。それは何やらかなり重大な事をこれから話そうとするための用意のように思えて、万太郎も同じく息をつめるのでありました。
「俺は一年後に、内弟子稼業を一先ず切り上げるよ」
 良平は溜めた息を吐き出すようにそう云うのでありました。
「道場を辞めるのですか?」
「つまり、そうだな」
 良平はこの後少し黙るのでありました。これは結構重大な決意の吐露でありますが、良平の表情は張りつめたものではなくて意外にクールなのでありました。
「常勝流を止めて仕舞うのですか?」
「いや、常勝流の稽古は止めやしないよ。内弟子ではなくなるけれど」
「香乃子ちゃんと結婚するとなると、香乃子ちゃんとの生活のためとかそれを支える収入なんかの点で、内弟子の儘でいるわけにはいかないと云う事ですか?」
「まあ、大雑把に云えばそうかな」
 良平は口の端を少し笑いに動かすのでありました。この笑いは未だ自分でも充分に整理出来ていない彼の複雑な心根に、自分で戸惑って思わず漏れたのでありましょう。
「準内弟子とか一般門下生になると云うのですか?」
「それも厳密には違うな」
「どういう風に常勝流武道を続けるのですか?」
「一先ず鳥枝建設の常勝流愛好会の専属指導員になる」
「ああ成程」
 万太郎は一つ頷くのでありました。「鳥枝建設での週一回の稽古だけを指導すると云うわけですか。でもそれだけでは何となく収入の面でも、立場の面でも香乃子ちゃんとの結婚生活を支えるには、今の境遇よりも心許ないような気がするのですが?」
「だから鳥枝建設に、単なる武道指導員としてではなく、正社員として就職するんだよ」
「ああ、それで鳥枝建設から正社員としての給料を貰うのですね?」
「そう云う事だね」
 それならばまあ、安定的な一定の収入の確保は出来るでありましょう。
「常勝流総本部道場の内弟子から、鳥枝建設社員に転職すると云うわけですね?」
「そうなると鳥枝建設の就業時間に縛られるから、内弟子は務められなくなる」
「それはそうでしょうね」
 万太郎は納得顔で頷くのでありました。
「総士先生と鳥枝先生の、俺の立つ瀬を考えてくれた粋な計らいだ」
「粋な計らい、ですか?」
「まあ、そう思う事にする。常勝流の稽古は止めないで済むし、香乃子との結婚も出来る」
「そう云やあそうですが、今まで内弟子としてガンガンやってきた体術や剣術の稽古が、鳥枝建設の週一回の愛好会での稽古だけになるのは、如何にも寂しくはないのですか?」
(続)
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お前の番だ! 194 [お前の番だ! 7 創作]

「まあそれはそうだが仕方がないさ。二つ伴に満足させるわけにはいかないし」
 良平の心の中では常勝流の稽古より香乃子ちゃんとの結婚と云う懸案の方が、より大きな面積を占めているのだろうと万太郎はその心情を斟酌するのでありました。それは個人の心の赴くところでありますから、万太郎はそれをとやこう云う事はないのでありました。
「大概は判りました。でも何となく、良さんが常勝流の内弟子を辞めると云うのは、僕としては正直、勿体ないような気がしないでもありませんが」
「ま、門下生として平日の夜の稽古には、仕事に差し支えがない限り姿を見せるよ。それに土曜日や日曜日は朝から道場に来る了見でいるし、それは総士先生にも鳥枝先生からもお許しを貰ったよ。寧ろそうしてくれると有難いともおっしゃってくれた」
「でも、香乃子ちゃんとの新婚生活に差し支えがない限り、と云う事になるでしょうね」
 万太郎はほんの少し、からかいの色を目に湛えるのでありました。
「まあ、そうなるかなあ、当初は」
 良平ははにかむような微笑を眉宇に浮かべて万太郎から目を逸らすのでありました。「でも俺としても常勝流の稽古は、境遇が変わっても出来る限りずうっと継続したいと思っているし、総本部道場のためにはどんな立場になろうと力を尽くすつもりでいるから」
「それはもう、僕ごときが云うのも何ですが、末永くよろしくお願いしますよ」
 万太郎はそう冗談めかして云いながら頭を下げて見せるのでありました。しかし良平が内弟子を辞めると云うのは、何とも寂しい事情であります。
 これまで、ほぼ同時期に内弟子として道場に入りこんで、三年間苦楽を共にした輩がこうして居なくなると考えるのは、如何にも辛いものがあるのでありました。何と云うのか、つれなく置いてきぼりを急に食らって、一人で霞がかった広野に取り残されるような。
「ま、俺が辞めるのは一年後で、未だ先の話しだけど」
 万太郎の顔色を気の毒に思ってか、良平が明るく語調を改めるのでありました。それはそうだろうけれど、しかし一年後には良平は確実にこの道場から去るのでありましょうし、万太郎の心の中に漂い始めた茫漠とした霞は、何とも消しようがないのでありました。

 食事をするにしては少し暗いのではないかと思われる橙色の明かりが、店内奥にあるテーブルの白い布のクロスの、更にその上に汚れ除けのためにかけられた厚手のビニールの覆いに、少し歪んだ形状に写っているのでありました。書道の展示会場から些か駅の方に戻った辺りにある、外壁が煉瓦造りで装飾された古めかしい造作の洋食屋に落ち着いた四人は、夫々にメニューを開いて注文するべき食事を選定している最中でありました。
 是路総士の来駕を待っていたかのように、是路総士が小一時間程かけて展示してある書を見回った後に、書道展の初日の閉場時間前であるにも関わらず大岸先生とあゆみとそれに万太郎を加えて、四人連れ立って食事をと上野の街に出たのでありました。この洋食屋は上野で書道展がある時偶に、大岸先生が立ち寄った事のある店と云う事でありました。
「さて、総士先生は何をお召し上がりになりますか?」
 大岸先生が横に座る是路総士の顔を覗くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 195 [お前の番だ! 7 創作]

「さてそうですなあ、ではこの、澄ましスープとサラダのついたオムライスセット、と云うのをいただきましょうかなあ」
「お肉とかお魚の料理でなくて良いのですか?」
「ええ、夜にあんまり脂っこいのを食すと、寝るまで胃が凭れますので」
「ああそうですか。で、あゆみちゃんは?」
 大岸先生は今度は斜め向かいに座るあゆみに顔を向けるのでありました。
「あたし、どうしよう。・・・」
 あゆみはそう云って悩まし気な顔で未だメニューを見ているのでありました。
「じゃあ、万ちゃんは?」
 大岸先生は正面の、あゆみと並んで座っている万太郎に言葉を向けるのでありました。
「僕はこのチキンカツレツセットと云うのにします」
 メニューには一緒にポークカツレツセット、と云うのが載っているのでありました。どちらかと云えば万太郎はポークカツレツの方が好物なのでありましたが、横に添えられている写真に依ると、チキンカツレツの方が皿からはみ出す程に圧倒的に大ぶりであるのに絆されて、竟々そちらを選んで仕舞ったと云う按配でありました。
「じゃあ、あたしポークカツレツセットにしようかな」
 あゆみがようやく注文を決めるのでありました。
 大岸先生は近くを通りかかった、白シャツに黒いズボンで蝶ネクタイを締めた古風なスタイルの中年のウエイターを呼び止めて、自分の白身魚のフライセットと云うのも加えて注文をするのでありました。それから序のようにと云うのか、当然の事のようにと云うのか瓶のビールを二本と、野菜サラダの大皿と枝豆を四人分一緒に頼むのでありました。
「なかなか昔風の洋食屋さんですね」
 是路総士が店内を見回しながら大岸先生に云うのでありました。
「何でもこの店は戦後すぐからずうっと、上野でやっている洋食屋さんなんだそうです。前はもっと公園の方にあったらしいのですが、十年前に街中のこちらに移ったのだそうです。お味がとっても良くて、あたしは上野に用がある時には時々立ち寄るんですよ」
 確かに今時の流行のレストランとか云った感じでもなく、高級を売り物にしている風でもなく、気取りも気負いもなく、昔ながらの佇まいで昔から出している料理を提供していると云った感じの店でありましたか。万太郎が学生時代に時々行った大学近くの学生相手の洋食屋を、もう少し大人びた風にして、やや値段を高くしたと云った体裁でありますか。
 早速出てきたビールを注いで貰いながら、万太郎に是路総士が訊くのでありました。
「折野とあゆみは明日も展示会の手伝いかな?」
「押忍、・・・じゃなかった、はい。その予定です」
「道場の方がお休みと云う事なので、二人には、申しわけないけど明日も今日と同じに手伝ってもらう事になっていますのよ」
 大岸先生が、あゆみが傾ける瓶をグラスに受けながら云うのでありました。
「本当は明後日からもお手伝いさせて貰いたいんだけど、道場の方があるし」
(続)
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お前の番だ! 196 [お前の番だ! 7 創作]

 あゆみが今度は万太郎の酌を受けながら云い添えるのでありました。「最終日は丁度道場の定休だから、その日はまたお手伝いするつもりでいるけど」
「その最終日は折野も一緒か?」
「はい。最終日こそ力仕事も色々あるでしょうから僕の出番です」
 万太郎は、注ごうか、と云うあゆみの表情だけによる問いかけを遠慮して、自分で自分のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「力仕事と云っても、会場の撤収作業は本部の方から人が来るから、万ちゃんの出番は殆どないかも知れないけどね」
 大岸先生はそう云った後で居住まいを改めるのでありました。「それじゃあ、総士先生、今日は態々お出ましいただきまして有難うございました。それからあゆみちゃんも万ちゃんもご苦労様でした。万ちゃんの受付姿は、慇懃過ぎもせず無愛想でも全然なくて、なかなか様になっていたわよ。明日もその調子でお願いね」
 大岸先生は両手でグラスを目の高さに差し上げるのでありました。「では、乾杯」
 大岸先生の音頭に三人が和唱するのでありました。あゆみがグラスを近づけてきたので、万太郎はお辞儀しながら自分の持つグラスをそれに軽く当てるのでありました。
「会場でちょっと云ったけど、興堂派の威治さんがお見えになったの」
 あゆみが是路総士に話すのでありました。
「道分さんの云いつけにより来たのかな?」
「いただいたお祝いの熨斗袋には、常勝流興堂派道場、と書いてあったけど、届いた花篭の方は威治さんの名前だけ書いてあったわ」
「ふうん。じゃあ、花の方は威治君の好意と云うわけか」
 好意、と云うよりは、売りこみ、ですよと万太郎は云いたいところでありましたが、勿論そんな事は口には出さないのでありました。
「そう云う事になるのかしら」
「熨斗袋だけでは愛想がないと思って、気を利かせて花も添えたかな」
 そんな気を利かすべき時に気を利かすような人物ではなかろうと万太郎は思うのでありましたが、勿論これも口の外には出さないでおくのでありました。
「それで、昼食もご馳走になったの。精養軒で」
「ほう、精養軒まで連れて行かれたのか?」
「そう。席を予約してあるからって」
「ふうん。なかなかのサービスだな、それは」
 是路総士はグラスを空けるのでありました。万太郎が注ぎ差す前に、横に座る大岸先生が瓶を取って是路総士のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「あたしは展示会を中座してきたものだから、食事も早々に終えてすぐに会場に戻ったの。食事を奢ってもらった手前もあるから、一応帰ると云う威治さんを上野駅まで見送りに行って、威治さんは、じゃあまた稽古で、とか云って、改札で別れたのよ」
「そりゃ威治君に余計な金を使わせてしまったな。後で私からも礼を云っておこう」
(続)
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お前の番だ! 197 [お前の番だ! 7 創作]

 威治教士のあゆみに対しての勝手な自分の売りこみ工作に、態々是路総士が礼を云う必要はなかろうと万太郎は思うのでありました。どだい展示会の主催者側として忙しくしている最中のあゆみを、勝手な思惑で外に連れ出そうとするその仕様が、自分の魂胆の他には何の思いも致していない事を左証していると云うものではありませんか。
「それから、一般門下生の新木奈さんも見えたのよ。この展示会は道場の外の事だから門下の人達には殆ど話していなかったんだけどね」
「ほう。何処で知ったんだろうな」
 そりゃあ他でもないあゆみの事でありますから、色々情報網を張り巡らせているのでありましょう。他の者には到って素っ気ないくせにあゆみの事となると、気に入られようと貪婪にチャンスを窺っているのは、要するに威治教士と同じ穴の貉と云うものであります。
「ところで総士先生、書道展の方は如何でしたか?」
 大岸先生が話頭を回らすのでありました。
「私ごときがあれこれ評するのも何ですが、さすがに大岸先生の書は見事でした。個々の字もさる事ながら、個々の字が創りだす書全体の構図も闊達で艶やかで、見ていて豊かな気分にさせてくれます。いやいや大いに勉強になりましたよ」
「総士先生にそう云っていただくと嬉しくなりますわ」
 大岸先生は口元を隠してはにかむのでありました。「でも総士先生、次の書道展には是非ともご出品をお願いしますわ。総士先生の如何にも堂々とした書があの中に展示してあると、屹度会場全体の雰囲気がグッと引き締まると思いますもの」
「いやいや、私は堅苦しい楷書一辺倒ですから、全くあの場に相応しくはないでしょう」
「そんな事は絶対ありませんよ」
「あゆみの書はそれに比べると未だ貧弱な印象だな。見ていても紙に字が埋めこまれていると云った印象で、浮き立ってこない」
 是路総士は駅務員が路線のポイントを切り替えるように、話しの先頭を脇の車線の方に自然に誘導するのでありました。
「そりゃそうよ。大岸先生に比べられるとあたしは立つ瀬がないと云うものよ」
 あゆみが頬を膨らませて見せるのでありました。
「折野は今回、出品しなかったのか?」
 是路総士は万太郎の方に顔を向けるのでありました。
「僕なんぞは未だ到底その水準に達していません。受付の机の下にある、受付、と云う字にも、会場の壁に貼ってある、順路、と云う貼り紙の字にも到底及びませんので」
「ああ成程ね」
 是路総士は全くの無表情で納得するのでありました。
「でも万ちゃんの字も、最近進境著しいものがあるわよ」
 大岸先生がフォローしてくれるのでありました。「線の太い細いに独特の癖があって、それは何か要領を掴むと、急に驚くような味わいのある異趣に変貌する可能性があるわね」
「へえ、そんなものですかねえ」
(続)
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お前の番だ! 198 [お前の番だ! 7 創作]

 万太郎は大岸先生にそう云われて勿論嬉しくはあるけれど、味わいのある異趣に変わり得ると云う自分独特の癖、と云うのが今一つ自分でピンとこないのでありました。
「だから、本当はそう云う癖はこちらとしては直すのだけど、ちょっと矯正して仕舞うのは勿体ないような気がして、その儘放っておいているのよ」
「それは私も同じだな。当然書道の話しではなく武術の事だがな」
 是路総士が大岸先生の後を引き取るのでありました。「折野は後の先で、相手の攻撃の発動に対して、少し早い目に見切って動き出すところがある」
「怖いものだから、それにせっかちな性分なものでそうするのだと自分で思います。正真正銘のこれが、見切り発車、と云うものでしょうかね。僕の欠点だと反省しています」
「いや、せっかちとか、そう云うものではなくて」
 是路総士が少し鋭い目になって万太郎を見るのでありました。「相手の動き出しの端、を見切るのが人よりほんの少し早いのかも知れない」
 是路総士はグラスに残っているビールを飲み干すのでありました。万太郎は空かさず下ろされたそのグラスにビールを注ぎ足すのでありました。
「端、或いは、瞬間、と云っても、それは点ではなく、極々、極々短いながら長さを持っている線なんだな。一瞬、と云う一定時間だな。その一定時間の内に動けば端を捉えた事にはなる。しかしもう少し微細に見て、その一定時間の内の最初を捉えるか最後を捉えるかとなると、どうやら折野は最初を捉えて動いているように私には見えるな」
 万太郎には判るような、上手く判らないような是路総士の言葉でありました。万太郎は是路総士の目を注視するのでありました。
「だから相手にすれば折野は、一見して早まって見切ったように思う。しかし実はそうではないし、理に外れてもいない。ちゃんと相手の動きの端と合致した動きをしている」
 是路総士は続けるのでありました。「ただ、早まったと見えるだけだ」
「そう云えば、あたしも万ちゃんの見切りは早いように感じるわ」
 あゆみが加わるのでありました。「でも、例えば体術の正拳で万ちゃんの上段に当身を入れたり、手刀で横面に打ちこんだりすると、勿論剣術も同じだけど、万ちゃんは早まって動いたと感じるけど、こちらの正拳なり手刀の軌跡はもう修正が利かないの。元々狙った万ちゃんのいなくなった空間に、まるで吸いこまれるように向かうしかない時があるわ」
「折野の見切りが早まったものなら、攻撃側は修正が利く。しかし修正が利かないとなると、それは後の先の合理の動きで、ちゃんと相手の動きの端を捉えた動きと云う事になる」
 是路総士がそう云って、注ぎ足されたビールを一口飲むのでありました。
「万ちゃんが早まったと感じて、しめたと思ったのに、それでもこちらの修正が利かないで空を切らされるのは、何だか知らないけど後でちょっと悔しくなるわね」
「はあ。僕としては良く判らないけど一応、どうも済みません」
 万太郎は曖昧にあゆみに謝るのでありました。その万太郎の冗談のような的外れなたじろぎを見て、あゆみはちょっと吹き出すのでありました。
「別に万ちゃんが謝る事はないんだけどさ」
(続)
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お前の番だ! 199 [お前の番だ! 7 創作]

「考えてみると、理合いの上では後の先、であっても、実は折野は自分でも知らずに先の先、をやっているのかも知れない」
 是路総士がもう一口ビールを飲むのでありました。未だグラスの中には充分に残量があるから、万太郎は今度は俄には注ぎ足さないのでありました。
「先の先、ですか?」
 万太郎としてはそう云う自覚はまるでないのでありました。
「折野の見切りが早いのは、相手の動きに先んじて相手を動かしているとも云える」
「そうか、先の先か」
 あゆみが納得顔で万太郎を見るのでありました。「となると、こちらの動き出しの端が万ちゃんの動作の発動の端ではなくて、こちらの動き出しの前にもう、動き出しを読まれているって事ね。云い換えれば、万ちゃんに思うように動かされているって事になるのね」
「先の先、は相手の動きの直前の、心の動きの端を捉えて先を取ると云う機微だ」
「だから対峙して、こちらが、今だ、と思って、次の瞬間に動き出そうとするその前に、その、今だ、と思った気持ちを僅かな時間差で捉えられて結果として動かれるから、早まっているように見えるのね。それに、心と動きの時間差がとても僅かなものだから、こちらの動きの修正が利かないと云うわけね。万ちゃん、何時、先の先、を会得したの?」
「いやあ、何時と云われても。・・・」
 あゆみにそう訊かれても、万太郎は曖昧な顔で頭を掻く以外にないのでありました。
「天性のものかしら」
「いや、偶々かも知れんが、会得したものだろう」
 是路総士が確信有り気にそう云うのでありました。「先の先、で動ける者はそうはいない。これこれこう云う修錬をしたなら、誰でもが会得できると云った機微ではないよ」
「万ちゃん、凄いじゃない」
 あゆみがそう驚いても、万太郎としては戸惑いの表情以外を有しないのでありました。
「神保町の道分さんの動きが、云ってみれば須らく先の先だな」
 是路総士は興堂範士の名前を持ち出すのでありました。
「ああ、そう云われればそうか。道分先生のすばしこさは、先の先、の動きなのね」
 あゆみが頷くのでありました。
「道分さんは動きが俊敏と云った印象だが、あれは先の先で動いているからそう見える」
「じゃあ、万ちゃんの見切りの速い動きは、つまり道分先生の動きと同じなのね」
「興堂派道場に出稽古に行っている甲斐があって、道分さんの動きの見取りを繰り返している内に、折野はその動きのイメージを頭の中に人より強烈に焼きつけたのだろうな」
「じゃあ、興堂派道場の門下生の人達は、先の先、を会得している、或いは会得するべく自覚的に稽古している、と云う事になるのかしら?」
 あゆみは小首を傾げて是路総士に訊ねるのでありました。その仕草はなかなかにキュートであると万太郎は秘かに思うのでありましたが、今会話されている話しの内容上、デレデレと表情を緩めたりする事は厳に慎むのでありました。
(続)
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お前の番だ! 200 [お前の番だ! 7 創作]

「いやそうはならんだろう。道分さんはその辺を弟子たちにも曖昧にした儘だから」
「自得しろ、と云う事ね」
「ま、武道の先生なんと云うのは昔から自分の技や動きを弟子に見せはするが、その鍛錬法やら勘所と云った辺り関しては、仄めかす事はあっても矢鱈には教えないものだな。ひょっとしたら将来、その教えた弟子が自分の敵になるやも知れないからなあ」
 とは云うものの、是路総士は自分の弟子に対して、かなり懇切な指導をする人なのでありました。自分が会得したものを平気な顔で惜しみなく開示してくれるのであります。
 しかしまあ、だからと云ってその懇切さが即、総ての弟子の進境を保証するものではないのは当然であります。で、ありますが、全く有難いのは云うまでもない事であります。
「特に古武道なんと云うのは、そう云う気風が未だ色濃く残っている世界だ」
 是路総士は自嘲のような笑みを頬に浮かべてそう云うのでありました。
「しかし総士先生からは、丁寧で微細な点も判り易く教えていただけますよね」
 万太郎があゆみの真似ではないけれど、小首を傾げるのでありました。
「そうかな?」
 是路総士は苦笑いを濃くするのでありました。「折野の云う通り丁寧だとして、しかしそれが弟子にとって益になるか徒になるか、その辺は今のところ何とも云えんだろうなあ」
 つまり益になるか徒になるかは、お前等弟子の了見次第だと云われているのだろうと万太郎は思い巡らして、内心些かたじろぐのでありました。
「あら、ご免なさい大岸先生、話しがすっかり武道の事になっちゃって」
 あゆみが大岸先生の方にビール瓶を翳して云うのでありました。
「ああそうだ、書道展の帰りだと云うのに、迂闊にも無粋な話しになって仕舞ったな」
 是路総士が恐縮の笑いを浮かべて横の大岸先生に頭を下げるのでありました。
「いえいえ、横で聞いていると、あたくしにも大変為になります」
 大岸先生はグラスを持ち上げてあゆみの注ぐビールを受けるのでありました。
「そろそろお食事の方をお持ちいたしましょうか」
 この席のビールの残量に懈怠なく目配りしていたのであろう中年のウエイターが、席の傍に寄って来て大岸先生にお辞儀しながら訊ねるのでありました。
「ああそうね、お願いします」
 大岸先生はウエイターに応えてから、急に是路総士の顔を見るのでありました。「総士先生は、もうお飲物はよろしいでしょうか?」
「ええ、結構です。食事にしましょう」
 程なく夫々の注文した品が卓上に並べられるのでありました。
「万ちゃん、ご飯を少し貰ってくれない?」
 大岸先生が万太郎に片方の手にライスの盛られた皿を、もう片方の手にフォークを持って訊くのでありました。「あたしにはご飯が少し多いから」
「じゃあ、あたしも少しあげるわ」
 あゆみも顔を万太郎の方に向けて云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 201 [お前の番だ! 7 創作]

「え、お二人からそんなに貰って良いのですか?」
「うん。あんまりご飯を食べると太るからね」
 あゆみは万太郎が承諾する前に、自分の皿からライスを半分程万太郎の皿に移すのでありました。続いて大岸先生も、こちらも半分程を提供してくれるのでありました。
「こんなに頂いたら僕は食べ切れないかも知れませんよ」
 万太郎は皿の大きさに比して、明らかに不格好に高く盛り上げられたライスの山を見下ろしながら云うのでありました。
「万ちゃんが食べきれない筈ないじゃない、普段の家での食事の量からしても」
 あゆみが万太郎の懸念を一笑に付すのでありました。「第一、困惑していると云うよりは喜んでいるみたいな万ちゃんのその顔で、そう云う事を云っても真実味がないわ」
 万太郎はあゆみにそう云われて、緩んでいた口元を引き締めるのでありました。
「はい、済みませんでした。充分食べ切れます」
 万太郎はまたすぐ口元を緩めるのでありました。
「これもあげるわ」
 大岸先生が自分の皿の二切れある白身魚のフライの一つを、万太郎のチキンカツの載った皿の端に移すのでありました。
「いや、魚のフライまで頂くのは申しわけないですよ」
 とたじろぎつつも、万太郎はそれを慌てて大岸先生に返却しようとする仕草の気配は全く見せないのでありましたが。
「いいのよ。あたしにはフライ二枚は多いもの」
「ああそうですか。じゃあ、遠慮なくいただきましょうかね」
 万太郎の顔にみるみる歓喜の笑みが満ちるのでありました。大岸先生はそんな万太郎を見て、可笑しそうに口元をフークを持った手で隠して笑うのでありました。
「万ちゃん、あたしのポークカツも少し分けてあげようか?」
 そう云うあゆみを見る万太郎の顔は、自分の前のライスの皿と同じに、歓喜の特盛り状態になっていた事でありましょう。
「いやあ、それは悪いですよ。でもまあ、そうですか。ポークカツもあんまり食うと太りますかねえ。どうしてもとおっしゃるなら、ま、いただきましょうかねえ」
「何なら私のオムライスも貰うか?」
 是路総士が面白がって万太郎にそう訊くのでありました。
「いえ、それは断じて結構です。それでは余りに不謹慎と云うものですから」
 万太郎はしかつめ顔をして是路総士に辞退のお辞儀をするのでありました。
「別に構わんぞ。体裁を気にする必要はない」
「体裁を気にしているのではありませんが、総士先生はもう既に何口か食べていらっしゃいますから、そう云う食べかけを敢えていただくのはちょっと。・・・」
「ああ、そう云う事か。食べかけとなると汚いか?」
「いや、汚いとかでは全くないのですが」
(続)
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お前の番だ! 202 [お前の番だ! 7 創作]

 万太郎は慌てて弁明するのでありました。「総士先生からは内弟子として日々多大な恩恵を既にいただいておりますので、この上ここでオムライスまで頂戴するのは弟子として余りに慎みがなく無調法と云うものでありますから、平に遠慮申し上げる次第です」
「何だかんだとあれこれまわりくどい云い方をしておるが、つまり要するに、爺さんの食べかけは要らんと云う事だろう?」
「いえ、決してそのような」
 万太郎は是路総士に向かって深くお辞儀するのでありました。
「ま、良いわい。要らんと云うのならやらん」
 是路総士はあっさり引き下がるのでありました。別に万太郎に是非ともオムライスを分け与えたいと云うわけではなく、成り行きから面白がってそう提案したまででありましょうから、やるやらないと何時までも云いあう必要はないと云うものでありますか。
 万太郎と是路総士の遣り取りを眺めながら、あゆみと大岸先生が堪え切れないと云った風情で笑うのでありました。とまれ万太郎の胃袋は女性二人からの飯と魚フライとポークカツのお裾分けに与って、至極満足であったのは間違いない事ではありました。

 月曜日で道場が休みの日ではありましたが万太郎が母屋の庭掃除をしていると、大岸先生が生垣の切れ目から庭に入ってくるのでありました。大岸先生は何時も現れる時は、まるで通用門のように人一人が通れるくらいの生垣の隙間から入って来るのでありました。
「これ、お裾分け」
 大岸先生は庭箒の手を止めて笑いかける万太郎に、両手で持ったサラダボールを掲げて見せるのでありました。中には茹でたトウモロコシが七八本入っているのでありました。
「あ、美味そうなトウモロコシですね」
 万太郎は庭箒を脇に立てかけて、サラダボールを受け取ろうとするのでありました。
「これはあたしが台所の方に持っていくわ」
 大岸先生は出された万太郎の手からサラダボールを少し遠ざけるのでありました。「あゆみちゃんは今家に居るの?」
「ええ。朝食後の後片づけ中だと思います」
「万ちゃんはお休みの日だと云うのに、今日も内弟子仕事?」
「ええ。道場は休みでも内弟子稼業は年中無休です」
「偉いわねえ」
「いや別に偉くもないですね。要するに良さんと違って僕は、休みの日と云っても特にやる事が何もないと云うだけですから」
「良君は何処かに出かけたの?」
「香乃子ちゃんの実家に」
「香乃子ちゃんと云うと、良君のフィアンセ?」
「そうです」
 良平は一月ほど前に鳥枝範士の仲人に依り婚約を果たしたのでありました。
(続)
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お前の番だ! 203 [お前の番だ! 7 創作]

「じゃあ、デートって云うか、新婚生活の予行演習に出かけたってわけね」
「いや、香乃子ちゃんは未だ鳥枝建設の社員ですから、今日は仕事です」
「じゃあ、その香乃子ちゃんの実家に良君は何の用事で出かけたの?」
 大岸先生は持っているサラダボールを重く感じてきたのか、それを持ち直しながら小首を傾げて万太郎に訊くのでありました。
「良さんは向こうのお母さんにえらく気に入られていましてね。それに話しに依れば二人は、結婚したら香乃子ちゃんの実家に住む予定になっているようですよ」
「ふうん、そう」
 大岸先生はまたサラダボールを持ち直すのでありました。
「僕が持ちましょうか?」
 見兼ねて万太郎が手を出すのでありました。
「ううん、いいわ。台所に行ってあゆみちゃんから今のその話しの続きを聞くわ。庭掃除が済んだら万ちゃんもトウモロコシ食べに来なさい」
 大岸先生はそう云い残すと縁側から「ご免なさい」と家の中に声をかけて、慣れた様子で母屋に上がりこむのでありました。中から是路総士の答礼の声が聞こえないところを見ると、是路総士は居間ではなく師範控えの間の方に居るのでありましょう。
 庭箒と塵取りを片づけていると、大岸先生とあゆみが縁側に姿を現すのでありました。
「万ちゃん、一緒にトウモロコシ食べよう」
 縁側からあゆみが万太郎に手招きするのでありました。
「総士先生は控えの間ですか?」
 万太郎は縁側に腰を下ろしながらあゆみに訊くのでありました。
「そう。来年の三月から道場の体制が少し変わるから、その調整とかがあるんだって」
「総士先生はトウモロコシを召しあがらないのでしょうか?」
「さっき控えの間に一本持って行ったわ」
「ああそうですか」
 万太郎は皿に移されたトウモロコシを取るのでありました。
「良君がこの道場に居るのも後半年程だわね」
 大岸先生が上手に指でトウモロコシ粒を扱いて芯から外しながら云うのでありました。
「いや、来年の二月にはここを引き払って香乃子ちゃんの家に移るから、後四か月を切ったと云ったところですかね」
 万太郎は粒を一つ々々取るのが億劫なものだから、横着をして大口を開けて横から齧りついて歯で以って扱き取るのでありました。
「じゃあ、内弟子も二月で切り上げと云う事になるの?」
「ええ。それから先は鳥枝建設の正社員です」
「万ちゃんも一人になって寂しくなるわね」
「でも入れ替わりで新しい内弟子が入るんですよ」
 あゆみがそう云ってから、トウモロコシを半分に折るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 204 [お前の番だ! 7 創作]

「へえそう。誰?」
「来間注連男と云う男です」
 万太郎が咀嚼の合間を縫って応えるのでありました。
「あたし知らないわね、その人」
「大岸先生とは面識はないかも知れませんね。未だ学生さんで一般門下生として入門して来て、それから暫くして専門稽古生になった人ですよ」
 あゆみがそう応えながら、大岸先生の真似をして指でトウモロコシの粒を扱き取るのでありました。こちらはあんまり上手くないようであります。
「入門は僕が少し先ですかね。でも、来間ももう修業歴三年と云う事になります」
 万太郎はまたトウモロコシに齧りつくのでありました。
「幾つになるんだっけ、その人?」
「僕より三歳年下です。来年の三月に大学を卒業するのを機に、内弟子になるのです」
「どんな感じの人?」
 大岸先生は興味津々と云った目で万太郎に話しの続きを強請るのでありました。
「そうですねえ、生一本の真面目人間と云った風ですかねえ」
「堅物って事?」
「ま、概ねそうですかね。少し気の弱いところがありますが。でも稽古が好きで上手くなりたい一心、と云った風で、そのせいで道場では律義で堅物と見えるのでしょうかね」
「ふうん。まあ、稽古が好きだと云うのは内弟子として何よりな事だけど」
 大岸先生は扱き取った粒を口の中に一粒ずつ放りこむのでありました。
「来間君は万ちゃんに親炙しているんですよ」
 あゆみが、これも大岸先生に倣って指で粒を口に運ぶのでありました。
「へえ、万ちゃんの手下みたいな感じ?」
「いや、そんな事はないのですが」
「稽古でも、来間君は何となく万ちゃんの動きや癖を、一生懸命に真似ようとしているところが見えるわ。万ちゃんと話していても、万ちゃんの云う事は絶対だって感じだし」
 あゆみが淡々とそう話すのでありましたが、淡々とそんな事を云うだけに、傍目にはそう云う関係として自然に映っているのだろうと万太郎は頭の隅で思うのでありました。
「じゃあ万ちゃん、これから少し横着が出来るわね」
「いやあ、来間は何でも生真面目に取り組むけれど、然程気が利く方ではありませんからねえ。云われれば無難に何にしろ一通り熟すけど、自分から先回りして動くタイプではないですから、内弟子の仕事を仕こむのにあれこれ手がかかりそうな気がしますよ」
 万太郎は大岸先生にそう云いながら、こんな事を憚りなく云っているのだから、矢張り自分は来間を手下と見做しているのかも知れないと思うのでありました。来間は万太郎の弟弟子になるのだけれど、それは手下とはまた違う存在である筈であります。
「それからこのところあちらこちらと出張指導の依頼が増えているから、専門稽古生の中で手伝って貰える人達には、積極的に助手として活動して貰う事になるらしいですよ」
(続)
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お前の番だ! 205 [お前の番だ! 7 創作]

 あゆみが大岸先生の方を向きながら少し話しの舳先を曲げるのでありました。
「その助手達を束ねるのが、万ちゃんと云う事になるわけね?」
 大岸先生がトウモロコシを摘んだ儘万太郎を指差すのでありました。
「さあ、どういう風な機構を総士先生がお考えなのか、今の内は良く判りませんが」
 そう応えながら万太郎は、恐らく専門稽古生の中で手伝いの出来る連中と云ったら、時間的な縛りを鑑みると社会人よりは未だ学生身分の者達となるであろうし、どだい専門稽古生は男ばかりであるから、あゆみよりは自分がそれを束ねる役を仰せつかるのであろうと考えるのでありました。まあ、未だ是路総士の腹案は明らかではないのでありますが。
「そうなるなら万ちゃんは、楽は出来ないわね。それどころか、新米内弟子さんやら助手さんやらの世話も増えて、もっと色々面倒な仕事が増えるかも知れないわね」
「さっき云ったように、どう云う機構になるのか未だ判りませんが、どうなっても僕としてはまあ、これまで通り呑気に切り抜けますよ」
 万太郎はそう云ってトウモロコシの芯に歯を当てて汁を吸うのでありました。穀物の甘みが口一杯に広がるのでありましたが、万太郎はこの味が無性に好きなのでありました。
 さて、その日の夜遅くに帰った良平と内弟子部屋で布団の上に差し向いに座って、万太郎は良平が香乃子ちゃんの実家から貰ってきた箱根の温泉饅頭を摘んでいるのでありました。何でも向うのおっかさんが先日旅行に行った時のお土産だそうであります。
「良さん、香乃子ちゃんは月曜日だから仕事で居ないと云うのに、良くまあ毎週々々、向うの家に用事があるものですねえ」
 万太郎は良平が電熱器のお湯で淹れてくれたインスタントコーヒーの入ったマグカップを、熱さに気をつけながら唇に近づけつつ云うのでありました。
「ま、庭とか家の中の高い処の掃除とか、重かったり嵩張ったりする物の買い物とか、色々おっかさんに重宝に扱き使われているわけだ」
「それじゃあすっかり、この道場に居るのと同じだ。しかしまあここが一番、良さんの忠義の見せどころと云うわけですかね?」
「ま、そう云う事だね。近い内に転がりこむ身としては、転がりこませ甲斐のあるところを、今からちゃんと見せておいてやろうと云う魂胆だ」
「で、夕方に香乃子ちゃんが帰って来て、それからデートと云うわけですか?」
「うん。向こうの家で帰りを待っている場合もあるし、俺が新宿まで迎えに行く場合もあるし、その辺はまあ、色々」
 良平はそう云った後で温泉饅頭を丸ごと一つ口に放りこむのでありました。「俺の懐具合からすれば、外でデートするより向うの家で夕飯をご馳走になる方が実は有難い」
「しかしそれでは二人きりになれないし」
「まあ、その辺りが難しいところだ。俺にぞっこんの香乃子としては、外で二人きりで映画を見たり、食事をしたり酒を飲みに行ったりとかのデートがしたいようだけどなあ」
 良平は抜け々々とそんな事をほざくのでありました。
「そりゃまあ、どうぞどうなりとご勝手に」
(続)
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お前の番だ! 206 [お前の番だ! 7 創作]

「はいはい。ご勝手にやらせて貰います」
 良平が口の端にニヤついた笑いを湛えて温泉饅頭を咀嚼するのでありました。万太郎はマグカップのコーヒーを大きな音を立てて啜り上げるのでありました。
「しかし、良さんがここに居るのも後四か月ですねえ」
「そうだなあ。どんどん時間が過ぎていくなあ」
 良平はそう応じながらまた温泉饅頭を一つ摘み上げるのでありましたが、良平の口調はしんみりしたものではちっともなくて、心ここに在らずと云った風のぞんざいなものでありました。まあ、そんな風に装っているのかも知れませんが。
「ここを出たらすぐに結婚式を挙げるのですか?」
「いやあ、同時に鳥枝建設の正社員としての仕事も始まるから、順序としてはそっちが落ち着いてから、と云う段取りになるだろうなあ」
「でもまあ、ここを出た後すぐに香乃子ちゃんの実家の方に移るんですよねえ?」
 万太郎もマグカップを脇に置いて温泉饅頭を一つ取るのでありました。
「そう云う予定だけど、結婚式は未だ先になるだろうなあ」
「じゃあ、その間は同棲生活と云う事ですか?」
「嫁さんの実家で同棲生活、なんて云うのも妙な話しだろう。第一それじゃあ、その言葉のそこはかとなく漂わせる艶っぽさも儚さも、何もない」
「それもそうか。なら、婿さん見習い、と云う立場だ」
「随分色気のない言葉だな。第一俺は別に向こうの家に養子に入るわけじゃないぞ」
 良平は未だ口の中に残っているのに、温泉饅頭をまた一つ摘み上げるのでありました。
「ま、それはそうかも知れませんがね」
「それはそうかも知れないけど、同じようなものだと思っているんだろう、万さん?」
「いやいや、別に同じだとは思っていませんが、しかしまあ、良さんが望む結婚が首尾良く出来るのなら、どっちだって構わないだろうとは思いますよ」
 万太郎は口の中の饅頭を呑みこんで次の一つに取りかかるのでありました。
「その云い方は俺がより強く香乃子との結婚を望んでいる、と云った憶測に依っているみたいに感じられるがなあ、実はそうではなくて、香乃子の方が俺と結婚したくて仕様がないと云うのが実際なんだぜ。そこのところ誤解がないように頼むよ」
「ああそうですか。そんな事別にどっちでも良いのですが、良さんがそう強調したいのなら、それを尊重しておきますかね。後で香乃子ちゃんに確認すれば判る話しですしねえ」
 万太郎はニヤニヤと笑いながら饅頭を口に押しこむのでありました。
「おいおい、香乃子に俺がそんな事云っていたなんて無神経に云うなよ。それに香乃子だって素直にそうだとは、体裁悪くて云い難いだろうからな」
 良平は万太郎の言にたじろいだようで、また新たに取った饅頭で万太郎の眉間を指差すような仕草をしながら云うのでありました。
「良さんは恐妻家になる資質たっぷりみたいですね?」
「いや、愛妻家にはなるかも知れんが、恐妻家にはならんよ」
(続)
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お前の番だ! 207 [お前の番だ! 7 創作]

「どっちでもご勝手になってください」
「はいはい、ご勝手にならせて貰います」
 良平はそう云った後無理に呑みこんだ饅頭が喉につかえたらしく、頬を膨らませて咳きこんでから慌てて自分の胸を拳でやや強めに叩くのでありました。
「ところで良さん、この温泉饅頭ですが、僕等だけで食って総士先生やあゆみさんにお裾分けをしないでも構わなかったのですか?」
 万太郎は今更とは思いながらも、もう残りが後二つになって仕舞った温泉饅頭の並べてあった紙函を見下ろして訊くのでありました。
「向こうのおっかさんが、朋輩さんと食べてね、なんと云って渡してくれた物だから、俺達だけで食い終って構わんだろうよ。総士先生は甘いものは苦手のようだし、あゆみさんはどちらかと云うと左党の口だろうからなあ」
「いや、あゆみさんは甘い物も断然大丈夫みたいですよ」
「おやそうかい?」
「前に喫茶店で、コーヒーとケーキをご馳走になった事がありますから」
「おや、万さんだけ何でそんな余禄に与ったんだい?」
 良平がそれは意外だ、と云う顔をして、最後に残った饅頭の内の一つを手に取りながら万太郎を見るのでありました。「あゆみさんに奢ってもらった事は、俺は一度もないぞ」
「もう二年くらい前の話しですよ。大岸先生のところの書道展があって、その最終日に手伝いに行った帰りにご馳走して貰ったんです」
「ふうん、記憶にない処を見ると、その時俺は手伝いに行かなかったのかな?」
「そうですね。良さんは香乃子ちゃんとデートか何かしていたんじゃないですか?」
「二年前なら、それもあるかも知れないか」
 良平はそう云いながら仕舞いの饅頭を手に取って、それを万太郎に渡してくれるのでありました。残った二つ伴に自分が食うのは気が引けたためでありましょう。

 大岸先生の所属する一門の、上野で開催された書道展の最終日も丁度道場の休みの日と重なっていたので、万太郎はあゆみと一緒に平服で手伝いに行くのでありました。良平はその日も香乃子ちゃんとのデートがあると云うので来ないのでありました。
 最終日は午後三時に受付を終了して、撤収作業は大岸先生と一門の関係者の差配に依り業者が行うので、万太郎とあゆみは四時にはお役御免となるのでありました。一門の慰労会とか打ち上げの宴は、日を改めて何処かのホテルの宴会場で盛大に開かれると云う事で、大岸先生にその折の出席を約して帰宅のために二人は上野駅に向かうのでありました。
 最終日には威治教士は来なかったものの、一般門下生の新木奈が仕事で近くに来た序でと云う触れこみで姿を見せるのでありましたが、あゆみに対してなかなか売りこみ熱心なものだと、万太郎は新木奈の労を多とするよりは寧ろ呆れるのでありました。あゆみは義理からもそう云う新木奈に、歓喜の表情を以って丁重に三度もの来場の礼を云うのでありましたが、新木奈にしたら推参の甲斐があったと秘かにほくそ笑んだ事でありましょう。
(続)
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お前の番だ! 208 [お前の番だ! 7 創作]

「ちょっとお茶でも飲んでいかない?」
 あゆみが上野駅で切符を買おうとする時に云い出すのでありました。
「夕飯の支度があるんじゃないですか?」
 万太郎は券売機の前で横に立つあゆみに問うのでありました。
「今日はお父さんは昔馴染みの人と外で逢うんで、帰りは遅いのよ。どうせ飲む事になるだろうから夕飯も要らないんだって」
「ああそうですか。良さんもデートらしいから帰りは遅いでしょうね」
「だったらちょっとお茶を飲んで、それから何処かで外食して帰ろうか?」
「僕はそれで全く異存有りませんが」
 万太郎は努めて無表情に頷くのでありましが、しかしあゆみと二人だけで外食するのは初めての事なので、実は少しばかり心が躍るのでありました。
 二人はお茶の水に出て、レモンと云う画材屋さんがやっている喫茶店に入るのでありました。あゆみは大分以前に興堂派の道場に行った折にここへ立ち寄って以来、チーズケーキが気に入ってお茶の水を訪ったら時々立ち寄るのだそうでありました。
「お茶の水の喫茶店と云ったら、僕は学生時代に神保町の古本屋に行った帰りに、駅前のウィーンとか、坂の途中にある田園とかには入った事がありますよ」
 奥まった席について、あゆみのチーズケーキとコーヒーの注文に万太郎はそっくり便乗した後、それが来るまでの間に云うのでありました。
「ああ、矢鱈に大きなお店ね。あたしも行った事あるわ。でもここくらいの大きさのお店があたしは落ち着くかな。それにここのチーズケーキ、一度食べてみて。美味しいから」
「はあ、あゆみさんのご推薦ですから期待します」
 万太郎はそう返すものの、実はケーキに対する好みは特にないのでありました。余程の事がない限り、自分から進んでケーキを注文する等、経験もないのでありました。
「どお、美味しい?」
 運ばれて来たケーキを口に入れる万太郎を見ながらあゆみが訊くのでありました。
「ええまあ、美味しいです」
「何かあんまり感動のない云い方ね」
 あゆみは万太郎の反応に少しがっかりしたような顔をするのでありました。
「僕は実のところ、ケーキは苦手ではないのですが大好物と云うわけでもないから、今までそんなに沢山色んなチーズケーキを食した経験がありません。ですから正直云ってこれが美味いのかそうでもないのか、はっきり判定がつけられないのです」
「なあんだ、折角連れてきてあげたのに張りあいのない感想ね」
 あゆみは溜息をついて力なく笑うのでありましたが、心底がっかりしていると云うよりは、やれやれ仕方のないヤツ、と云った風に万太郎のチーズケーキの味に対する鈍感を、鷹揚に許してくれるような風情がその表情に仄見えるのでありました。
「どうも済みません」
 万太郎はばつの悪そうな笑いをして頭を掻くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 209 [お前の番だ! 7 創作]

「そう云えば、今日も書道展に来てくれた新木奈さんなんかは、コーヒーに対してもケーキに対しても、それに色んな料理に対してもあれこれ薀蓄があるみたいよ」
 急にあゆみの口から新木奈の名前が出てきたので、万太郎はコーヒーカップを口に運ぶ動きを途中で止めるのでありました。
「新木奈さんはコーヒーとかケーキとか、料理にお詳しいのですか?」
「そうみたいよ。ちょっと話しただけだけど」
 一体何時、あゆみは新木奈とそんな話しを交わしたのでありましょうか。道場での稽古以外で二人が顔をあわせる機会はないでありましょうし、稽古中は勿論、稽古前も後も、あゆみには新木奈とケーキなんかの話しをしている暇はないでありましょうに。
「新木奈さんと稽古以外で逢われて、そんな話しをされたのですか?」
 してみるとひょっとしたら、あゆみと新木奈が二人で外で逢ったのかも知れないと思って、万太郎はそんな事を問うてみるのでありました。
「ううん。何時だったか稽古が終わってから、ちょっとそんな話しをした事があるの」
 そのあゆみの返答に、何故か万太郎は一先ずの安堵を覚えるのでありました。
「内弟子の我々は稽古後に、一般門下生の人とそんな話しをする時間はないでしょう?」
「まあ、普段はそうだけど、偶にはそう云う機会もない事もないでしょう?」
 逆にあゆみからそう問われて、まあ、それはそうだがと万太郎は頷くのでありましたが、何れにしても、あゆみと新木奈が外で二人で逢ったと云う事実はないようであります。
「新木奈さんは建設機械の会社に勤めているのでしたよね?」
「そうみたいね。大手の建設機器メーカーで、開発とか設計の仕事をしているみたいね。鳥枝建設とも取引があるって話しだし」
「その新木奈さんが、料理とかケーキに対してあれこれ薀蓄があるのですか?」
「仕事とは直接関係はないんだろうけど、ほら、あの人は色々多趣味な人らしいじゃない。だからその多い趣味の一つに、食通、と云うのがあるんじゃないかしら」
「ははあ、成程」
 万太郎はやや大きめのケーキの欠片を口に運んで、味わう、と云うよりは、食らう、と云った風情で咀嚼するのでありました。
「新木奈さんに依ればチーズケーキはこの辺だと、神保町の喫茶店の李白とか、山の上ホテルのも美味しいんだって。あたしは未だどちらも食べた事ないけど」
「へえ、そうですか」
「コーヒーなら、神保町の交差点近くのトロワバグはネル挽きコーヒーが飲めるそうよ」
「ああ、そうですか」
 万太郎はコーヒーを口に運ぶのでありました。何時もの日本茶を飲む時の癖で、不作法ながら竟、少し啜り上げる音なんぞを立てて仕舞うのでありました。
「料理なら新世界菜館の上海蟹とか北京亭の焼売とか、錦町の方にちょっと行った辺りの出雲そばとか神田郵便局裏の薮そばとか、洋食の松栄亭とか、色々教えてくれたわ」
 いずれの店も万太郎は全く知らないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 210 [お前の番だ! 7 創作]

「道分先生の道場には総士先生のお伴で行く機会が時々あると云うのに、僕は今話しに上がったそう云った店は何処も知らないですね」
「あたしも殆ど知らないわ。帰りにそんな店に立ち寄る時間もないしね」
 あゆみがコーヒーを一口、全くの無音で、しとやかに飲むのでありました。
「でも、このレモンと云う喫茶店は知っていると」
「その時はちょっと時間があったのかしらね。偶々入ったのよ」
「しかしところで、この辺の店とか名物料理なんかを色々知っていると云う事は、新木奈さんの勤務先はこのお茶の水近辺にあるのですかねえ?」
 万太郎は未だ何となく新木奈の事が、と云うよりは稽古後に交わしたと云うあゆみと新木奈の会話の様子が気になるので、そんな風な事を訊いてみるのでありました。
「ううん、本社は青山の方で、研究所が狛江の方にあるって話しよ。で、新木奈さんは時々本社にも行くけど、所属としては狛江の研究所の所属と云う事らしいの」
「狛江ならウチの道場にもそんなに遠くないですかね。で、それもその時の、稽古後に話しをしたと云う折に聞いたのですか?」
「そうよ。だから青山とか渋谷とか、それから成城辺りのお店の話しも出たわ」
 なかなか長い時間、あゆみは新木奈と会話を交わしたと云う事のようであります。
「成城と云えば、鳥枝先生の家がある処ですね」
「そうね。成城はマルメゾンとか云う洋菓子店のケーキが美味しいんだって」
「新木奈さんはあっちこっちと食べ歩きをしているんですかねえ?」
「話しに依るとそうみたいよ。それから食べ歩きは一人でするのが常道なんだって」
 なかなか食通らしき意見であります。さらっとそう云う新木奈の、勿体ぶっていない素ぶりで大いに勿体ぶった得意げな顔が見えるようだと万太郎は思うのでありました。
「僕は食通ではないですが、学生時代定食屋なんかに入る時は一人が多かったですよ」
「一人でじっくり食事するのが好きなら、案外万ちゃんも食通かも知れないわね」
「日頃の僕の性向から、そうでないのは明白だとあゆみさんは判っている筈ですが」
「それもそうか」
 あゆみは真顔で頷くのでありました。「確かに万ちゃんは味より量、よね」
「面目ない次第です」
 万太郎は頭を掻いて見せるのでありました。
「調布駅の近くにスリジェって云うケーキが評判のレストランがあって、今度そこに一緒に行きませんか、なんて誘われたわ」
「新木奈さんにですか?」
 万太郎は頭を掻く手の動きを止めるのでありました。あゆみはそうだと云う言葉の代わりに一つこっくりをするのでありました。
「おやまあ、食べ歩きは一人でするのが常道と云った新木奈さんが、その持論を早速棚上げしてあゆみさんを誘ったのですか?」
 これは少し棘を含んだ云い方かなと、万太郎は云った後に思うのでありました。
(続)
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