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あなたのとりこ 22 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 631 [あなたのとりこ 22 創作]

 土師尾常務は冷ややかに応えるのでありました。
「あたしも辞めさせられるしね。まあ、均目君が辞めると云い出したのはちょっと目算外れで、営業社員としてこき使いたかったのかもしれないけど」
 那間裕子女史はもうすっかり、生一本で会社を辞めると決めているようであります。

 土師尾常務の目が一瞬頑治さんに向けられて、目が合う寸前にすぐに逸らされるのを認めて袁満さんが土師尾常務に訊くのでありました。
「唐目君はどうなるのですか?」
 自分の名前が出たものだから、頑治さんは土師尾常務の眼鏡の奥の目を改めて見つめるのでありました。体面上土師尾常務は頑治さんの方にちゃんと顔を向けてはいるものの、しかし微妙に視線は逸らしているのでありました。
「唐目君は業務要員として残って貰う心算でいる」
「真っ先に唐目君を辞めさせたかったのではないのですか、唐目君の仕事は特別の専門職と云う訳ではないから、誰でも出来るとか云って?」
「しかしここ当面、倉庫を管理する者は必要だし、唐目君は倉庫の整理整頓とか車庫周りの美化とかその辺の手抜かりはないし、配達や発送業務は慣れているし実にそつがないようだし、そこを鑑みて私が残って貰う方が良いんじゃないかと提言したんだよ」
 これは土師尾常務ではなく社長が云う言葉のでありました。
「製作仕事にしても、何に付け仕事の飲み込みは早いし、気が利くし確実だし、前に居た片久那制作部長の覚えも目出度かったから、会社には必要な人材だと思いますよ。まあ、会社を辞めていく俺が太鼓判を押しても無意味かも知れませんけどね」
 均目さんが頑治さんを持ち上げて見せるのでありました。「常務としては片久那制作部長の覚えが目出度かったから、返って唐目君が目障りなのかも知れませんけどね」
「僕は均目君が思っている程狭量ではない心算だよ」
 土師尾常務は不愉快そうに云うのでありました。
「じゃあ袁満君はどうなの?」
 那間裕子女史が土師尾常務に訊くのでありました。「会社に残って貰いたい人材なの、それとも辞めて貰いたいと考えているの?」
「はっきり云って残って貰ったとしても、袁満君の遣る仕事は、新しい体制で再出発しようとする会社の中には何もないよ」
 この土師尾常務の科白を聞いて、そう云う風に云うだろうと予てから推察は付いていたのでありましょうが、それでも袁満さんは露骨に嫌な顔をするのでありました。
「日比さんはどうなるのですか?」
 袁満さんは自分の事はさて置いて、日比課長の処遇を訊ねるのでありました。
「日比君は今の儘では頼りない限りだけど、もっと奮発してくれることを期待して、残って貰おうとは思っている。まあ一応得意先を何軒か持っている事だし」
 その言を聞いて日比課長は目立たないように眉根を寄せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 632 [あなたのとりこ 22 創作]

「じゃあ、社長と常務の考える会社の新体制の人員と云うのは、社長と常務の他には日比さんと甲斐さんと唐目君の三人、と云う事になるんですね?」
 袁満さんが不愉快そうな顔をして確認するのでありました。「で、その三人の賃金は今の基本給の二十パーセントをカットして、住宅手当がなくなって、その上に今年の年末一時金は払われない、と云う事になるのですね?」
「そう云う事になるかな」
 土師尾常務は深刻顔で一つ頷くのでありました。
「と云う事だそうだよ」
 袁満さんはそう云って日比課長と頑治さんと甲斐計子女史の顔を順に見渡すのでありました。それから土師尾常務に向かって聞えよがしの溜息を吐いて見せるのでありました。しかし袁満さんは自分も余計者とはっきり宣言されたのが内心なかなかの痛手であったようで、云い草にどこか悲痛な感じが籠っているのでありました。
「話しにならないですね」
 頑治さんが土師尾常務の顔を睨み付けながら吐き捨てるのでありました。「社長や常務は従業員を一体何だと思っているんですか。そんな自分達にだけ好都合な決定が、すんなりまかり通ると本気で考えているのですか?」
「いや、これは提案であって決定ではないし、この提案を有無を云わさず押し付けると云っているんじゃない。こちらの正直なところを打ち明けて、君達と真摯に話し合いたいと云っているんだよ。そう云う中から双方が受け入れられるところを見付けたい訳だ」
 社長がいやに柔らかな語調で云うのでありました。
「そんな提案とやらは即座に拒否しますよ」
 頑治さんは取り付く島もないと云った風に断じるのでありました。
「提案と云いながら、結局はゴリ押しする肚心算でしょう」
 袁満さんが鼻を鳴らすのでありました。「そう云うお為ごかしにまんまと乗ると思っているんですか。随分と嘗められたものだな」
 社長はこの袁満さんの言を無礼と感じて一瞬険しい顔をして不快感を眉間に表わすのでありましたが、しかしここはグッと堪えて怒りを肚の中に呑み込むのでありました。
「何だその不謹慎な云い草は!」
 そんな社長の心情を察して、ここは忠義の見せどころと、横の土師尾常務が例に依って背凭れから身を起こしてしゃしゃり出てくるのでありました。
「いいですよ、例によってそんなに意気込まなくても」
 袁満さんが舌打ちするのでありました。「そんなに一々突っかかってこなくても、社長はちゃんと家来のご忠節ぶりはご存知でしょうから」
 この言葉に日比課長を除く従業員全員が失笑するのでありました。土師尾常務は何となく引っ込みがつかなくなったのか、もっと何やら喚こうとするのでありましたが、ここでも社長からまたもやまあまあと手で制されて仕舞うのでありました。
「それでは君達の考える会社の生き残り策とか、待遇面の提案を聞かせてくれるか?」
(続)
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あなたのとりこ 633 [あなたのとりこ 22 創作]

「誰も会社を辞めないし、制作部もその儘存続させるし、ウチが持っている本類や地図類の版権も処分しない。それから春闘でやっとかち取った我々の待遇も変更をしない、と云うのが我々の基本的なスタンスです。下手な妥協はあり得ません」
 袁満さんが断固として云い放つのでありました。
「それは絶対無理だと、従業員に開示する必要もないのに売り上げの実績を示して、真摯にこちらが話しているのに、一体今迄何を聞いていたんだ袁満君は!」
 土師尾常務がいきり立つのでありました。
「それだって、要するにそちらにだけ好都合な数字を適当に並べたものでしょう」
 袁満さんは取りあわないと云った態度でありました。
「いや々々、そうじゃないよ。現実にその数字通りに厳しいところだよ」
 社長がソファーの背凭れから身を乗り出して、掌を横に大きく振って見せるのでありました。何が何でもここは引けないと云うところでありますか。
「では訊きますけど、若し仮にその如何にも大袈裟に水増ししてあるらしき数字を、実感から一定程度認めるとして、そうなった責任は我々従業員だけにあるのですか?」
 袁満さんは社長の顔を一直線に見ながら訊くのでありました。
「勿論君達の万事に無責任で、何が何でもと云う真剣さに欠けた仕事態度が主因だと思う。そうは思わないのか自分達で?」
 土師尾常務が息巻くのでありました。
「常務の仕事態度とか、従業員をげんなりさせるだけの言動とかは全く問題にならないのですか。それに自分の会社だと云うのに、その運営に深く関わろうとはしなかった社長の今迄の在りようとかも、全く問題にはならないのですか?」
「それはそう云われて反省するところがない事もないけど、しかし大半は君達の好い加減で怠慢な仕事振りにあると僕は確信している。僕は僕なりに懸命に会社のために働いていると云う誇りがあるよ。少なくとも君達よりは余程」
 土師尾常務は抜け々々とそう云い放つのでありました。
「ああそうですか。しかし片久那制作部長が居た時はすっかり片久那制作部長に仕事も会社内部の管理も任せっきりだったし、だから取締役になる前から出社時間も守らなかったし、仕事だと称して外に出たら必ず直帰して会社に戻って来る事もなかったし、残業時間も片久那制作部長の残業時間を目安にして、直帰した時の分迄も水増しして、片久那制作部長と同じくらいになるように勘定して、残業代をあくせく稼いでいましたよね」
 これは均目さんが云うのでありました。もう会社を辞めるとなったら土師尾常務への遠慮なんぞもすっかりなくなって、云いたい放題が出来ると腹を括ったのでありますか。
「何を根拠にそんな好い加減な事を並び立てているんだ!」
 土師尾常務は社長の前で痛いところを指摘された事にたじろいでか、身を震わせながら均目さんに向かって声を荒げて見せるのでありました。
「それどころか仕事時間中に全くの私用で副住職を務めている千葉の寺に行ってアルバイトをしていたりとか、他にもあれこれインチキ社員振りはネタが上っていますよ」
(続)
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あなたのとりこ 634 [あなたのとりこ 22 創作]

「残業代の水増し請求の件は春闘の時に既に暴露されていたけど、他にもあれこれともっとみっともない不正を我々はしっかり掴んでいるんだから、これ以上抜け々々と偉そうな口は叩かない方が寧ろ賢明だと思いますがねえ」
 均目さんは憫笑を頬に浮かべるのでありました。
「何を根も葉もない事を偉そうに喚いているんだ。僕は自分の良心に照らして、恥じ入らなければならないような事は絶対にしてはいない!」
 土師尾常務は大声で喚くのでありました。しかしその様子はと云えば、先ずは瞬間はっきりたじろぎを見せて、その後慌ててそれを繕うように言葉付きもどこかたどたどしく、顔を引き攣らせながら逆上していると云った具合でありましたか。
「で、常務と社長の責任はどう考えているんですか?」
 袁満さんが土師尾常務の狼狽に付け入るように訊くのでありました。
「君等の怠慢に比べれば、僕の責任なんてちっぽけなものだ!」
 土師尾常務は益々みっともない所へ自ら陥っていくのでありました。

 そんな土師尾常務を冷ややかな横目で見て、社長が喋り出すのでありました。
「確かに私は下の紙商事の社長業に比べれば贈答社の方はそんなに熱心ではなかった。それは認めるよ。紙商事は私が汗をかいて一から創った会社だけど、贈答社は前身の地名総覧社を、立て直してくれと云う債権者の要望を受けて経営を引き受けた会社だから、それは確かに親身さが違っていたし、社業の内容よりは経営的側面で関われば良いかと云う思いもあったからね。実質的な会社の運営とか社員の採用とか配置とかの人事は土師尾君と片久那君にすっかり任せて仕舞っていたよ。その辺は僕の怠慢であったと思うよ」
「ではそれに対して社長は、どのような責任をお取りになるお心算ですか?」
 袁満さんは土師尾常務に対する時よりは丁寧な言葉つきで訊ねるのでありました。
「勿論その応えとしては、社長としてもっと贈答社の社業に身を入れると云う事になるのだが、君達がそんなのは責任の取り方と云う点で応えになっていないと云うのなら、私は最終的には贈答社の経営から手を引いても構わないとも思っている」
 社長はごく冷静な口調で云いながら袁満さんを半眼に見るのでありました。これは社長の、一種の脅しに違いないと頑治さんは聞きながら思うのでありました。つべこべ云うのなら会社を放り出しても構わないのだぞと、露骨に恫喝しているのであります。
「会社の経営から手を引くと云うのは、社長を辞めると云う事ですか?」
 袁満さんは首を傾げながらそう訊き返すのでありました。
「まあそう云う事だ」
「それは社長として無責任でしょう」
 袁満さんは眉宇に憤怒を湛えるのでありました。「この先社員が路頭に迷う事を一顧だにしないで、そんなに簡単に綺麗さっぱり会社の経営からに身を引けると、本気で考えているんですか社長は? そんな呆れた責任放棄は絶対許しませんからね!」
 袁満さんの剣幕に、社長は少し気後れする仕草を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 635 [あなたのとりこ 22 創作]

「いや、別に無責任に会社を放り出すと云っているんじゃないよ。君達がそうする事が私の責任の取り方だと云うのなら、私は社長と云う立場に恋々とする心算はないと云っているんだよ。私だって社員に対する社長の立場はちゃんと弁えているよ」
「それならどのように責任を取る心算なんですか?」
「さてそれなんだが、・・・」
 社長は顎に手を添えるのでありました。「今年一杯私の報酬を全額カットと云う事にしたい。まあ尤も私は、社長としての報酬は大して貰っていないけどね」
「大して貰っていないのなら、つまり他の報酬もふんだんにある事だから、ウチの社長報酬を貰わなくても、大して応えもしないと云う事ですか?」
 袁満さんは可愛気のない事を云うのでありました。「社長の報酬全額カットより、我々の賃金二十パーセントカットの方が、生活が立ち行かなくなると云う点で、余程深刻だと云うものですよ。そうは思いませんか、社長?」
「それならウチの仕事の他に何かアルバイトでもしたらどうだろう。それは認めるよ」
「またそんな、無責任な事をあっけらかんと云う」
 袁満さんは声を荒げるのでありました。「真面目に応えてくださいよ」
「いや、ウチで出す賃金では生活が出来ないと云うのなら、他でアルバイトをする事を認めると、私は真面目に云っているんだよ」
「よくそんなふざけた事をしゃあしゃあと云えますね。無神経にも程がある」
 袁満さんは疲労感たっぷりに溜息を吐くのでありました。
「今迄多少はもの分かりの云い社長のふりを演じてきたけど、ここにきて万事に自己中心的で他人の事なんか頭の隅にもない土師尾さんと、社長も大して違わない人間だと云う事を証明したようなものね。遂に馬脚を現した、と云うところかしらね」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「まあしかし、ない袖は振る気があっても振れないからねえ」
 社長は軽口のように云ってニヤニヤと笑って見せるのでありました。もうすっかり体裁屋の顔を返上して判らずやの頓珍漢社長に変貌して開き直っているのでありましょうか。変貌と云うよりは、ひょっとしたらこの顔が本来の正体と云う事でありましょうか。
「で、それなら土師尾常務の責任の方はどうなんですか?」
 これは均目さんが訊くのでありました。
「人の責任をあれこれ追及しようとする前に、自分達の贈答社社員としての無責任ぶりをはっきりさせるべきじゃないのか?」
 土師尾常務が眉間に怒りを湛えて怒鳴るのでありました。
「やれやれ、ですね。これじゃあ昨日の会議と同じで中味のない話し合いですかね」
 均目さんが呆れ顔をするのでありました。「袁満さん、矢張り常務の誘いに乗ってこうしてもう一度全体会議をやったけど、単なる徒労でしたね」
 均目さんにそう云われて袁満さんは渋い顔で何度か頷いてから、徐に頑治さんの方に恨めしそうな視線を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 636 [あなたのとりこ 22 創作]

「どうする、唐目君?」
「要するに賃金が二十パーセントカットで、住宅手当も出さないし、甲斐さんと袁満さんと均目さんは会社を辞めろと云う事ですね、社長と常務の考えは?」
 頑治さんは先の袁満さん同様、社長の提案を整理するのでありました。
「そう云う事になる」
 土師尾常務が厳めしい顔で断固云うのでありました。そんな土師尾常務を尻目に頑治さんは社長の顔を凝視するのでありました。
「その考えを変える余地は全くないのですかね?」
「一切ない。君達が受け入れるか受け入れないか、どちらかを選択するだけだ」
 ここでも土師尾常務がどうしてもしゃしゃり出て来るのでありました。
「常務に訊いているんではなく、社長に訊いているんです」
 頑治さんは全く目を動かす事なく一直線に社長の怯みを湛えた顔をじっと見た儘で、しかし言葉は自土師尾常務に向けて強く云うのでありました。
「基本的には私も土師尾君と同意見だ」
 社長はたじろぎながらもそう呟くのでありました。
「基本的だか応用的だかは知りませんが、つまり先程念を押したような考えを、全く変える気はないと云う事ですね?」
 頑治さんが目を動かさないでそう訊くと、社長はもじもじと身じろぎしてからふと頑治さんから目を逸らして空咳き等するのでありました。そんな社長の窮地に先程の頑治さんの一言に怖じたのか土師尾常務は何時もの出しゃばりを封印して、何の助け舟も出さないのでありました。ま、肝心な時にてんで頼りにならない御仁でありますから。
「残った社員に対しては、賃金面で多少は考慮しても良いとは思うよ」
 社長は気弱そうな小声で諂うように云うのでありました。
「そんな言辞で、それでは残ります、と云うと思うのですか?」
「唐目君も会社を辞めると云うのかね?」
「社長の考えをお聞きした限り、残る気はすっかり失せましたね」
「辞めると云うのなら仕方がないな。それじゃあ甲斐君はどうするかね?」
 社長は甲斐計子女史に視線を向けて、残るか去るか問うていると云うよりは、去ると云う返事をするのを要望するような云い草で訊くのでありました。
「どうせ残ったとしても何だかんだとつれなくされたり厄介事を押し付けられたりして、結局居づらくなって辞めるように仕向けられるのは、今から判り切っているわね」
「じゃあ、甲斐君も辞めるのだね?」
 つべこべあやふやな云い回しはしないでたった一言辞めると云えば事足りる、と云うような喧嘩腰の語調で社長は念を押すのでありました。甲斐計子女史はその社長の情の欠片もない態度が癪に障ってか、何も返事しないでそっぽを向くのでありました。
「日比君はどうするんだ?」
 社長は今度は日比課長に矛先を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 637 [あなたのとりこ 22 創作]

「私は残りますよ」
 日比課長は結構きっぱり返事するのでありました。「ここを辞めて新しい仕事を見付けるのも、こういう不景気なご時世ですからなかなか難しいだろうし、私の稼ぎを当てにしている家族もいる事だし、そうあっさりと辞める訳にはいきませんからねえ」
「成程ね。それは賢明な判断だろう」
 ここでやっと出現した自分に従順な社員に対して、社長は優越者としての余裕と嘲りの入り混じった笑みを送るのでありました。その社長とは対照的に袁満さんは裏切り者に対する憎悪の視線を、鼻梁に寄せた皺に乗せて送るのでありました。
 しかしまあ、袁満さんの気持ちも判りはするのでありますけれど、日比課長の判断も尤もなところだろうと頑治さんは思うのでありました。家族がいると云う事を考慮すれば、そうは軽々に会社を辞めて仕舞う訳にはいかないでありましょう。
「それでは、会社に残るのは日比君だけなんだな?」
 土師尾常務が高圧的な語調で念を押すのでありました。自分達に同調する殊勝者がようやく表れて、勢いを取り戻したと云った風でありますか。
「甲斐君は本当に辞めるのか?」
 これは社長が顎に指で撫でながら甲斐計子女史に訊く言葉でありました。古株で地名総覧社時代から会社にいる甲斐計子女史に向かって、情義に於いて言外に会社に残って欲しいと懇願している訳では更々なくて、この期に及んで散々世話になったこの自分の温情を無にする心算かと、半分脅しているようなニュアンスでありましたか。
 そう云われて甲斐計子女史は弱気を見せるのでありました。
「未だ辞めると決めた訳じゃ、・・・」
「ほう、じゃあ、辞めないんだね?」
「・・・少し考えさせてください」
 この甲斐計子女史の未練を見せる態度も、袁満さんにとっては自分達の総意に対する裏切りと思えたでありましょう。甲斐計子女史を見る視線に刺々しさが表れるのでありました。しかし社長と土師尾常務にとっては、思う壺と云ったところでありましょうか。
「もうこの会議は止めましょう」
 袁満さんは投げ遣りに云うのでありました。
「未だ結論は出ていないのに、ここで止めると云うのか?」
 土師尾常務が従業員側の意志統一の乱れに付け込むように、身を乗り出しながら高飛車な調子で云うのでありました。
「改めて話しましょう。こちらとしても、これまでの経緯に対する全総連の助言も受けたいし。結局労働争議に持って行く他ないような気がしますしね」
「辞意を表明している人や、こちらの条件を呑んで会社に残りたいと表明している人を除くと、袁満君と唐目君の二人しか、全総連を絡めて労働争議に持って行きたいと云う者はいないじゃないか。それでも争議する心算かい?」
 土師尾常務はここでようやく勝ち誇ったような笑みを浮かべるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 638 [あなたのとりこ 22 創作]

「社長と常務の悪辣さに対しては、俺と唐目君だけでは対抗出来ませんからね」
 袁満さんは挑むような笑いを社長に投げるのでありました。
「いや、全総連が絡んでくるのはいただけない」
 社長はここでもまあ、オロオロする気配を見せるのでありました。
「しかしもう、これだけ敵対的な雰囲気になってくると、我々だけでは持て余して仕舞いますよ、こういう争議の専門家の助けを借りないとね」
 袁満さんはこの全総連出馬と云う伝家の宝刀たる一言に、社長がまんまと反応したと思ってニンマリほくそ笑むのでありました。社長の狼狽する姿は今度は袁満さんの思う壺でありますか。まあ、そのたじろぎの本気度ぶりが如何程かは判らないのでありますが。案外肚を括って弁護士の手助けを頼りに正面作戦で争う心算なのかも知れません。
「そこを余人を交えずに、社内の人間で真摯に話し合おうと云うのが本義で、今日の会議もその趣旨でこうして集まった訳だし」
 社長は不本意ながら、でありましょうが袁満さんに愛想笑いを送るのでありました。
「あくまでも社内の全体会議に拘るのですね?」
「勿論そう云う気持ちだよ、私は」
「それなら自分の不条理極まりない考えに異を唱える人間に対して、すぐ怒鳴り出して話し合いを台無しにする常務に、この場から退席して貰うしかないですね」
 袁満さんは土師尾常務を睨みながら云うのでありました。この袁満さんの提案は土師尾常務にとって慎に心外であったようでありました。土師尾常務は袁満さんに負けまいと、一層の険しさを湛えた目で袁満さんを睨み返すのでありました。
「僕は話し合いを台無しになんかしてはいない!」
 土師尾常務はテーブルを一つ、そんなに激しい音は立てないながら拳で叩くのでありました。感情の赴く儘、と云うのではなく努めて控え目な叩き方であったのは、自分の感情を抑制している姿を態と演じる事に依って、出来ない我慢をギリギリ我慢してやっているのだ、と云う辺り袁満さんに見せようとする意図でありますか。
「ほら、そう云うところがダメなんですよ」
 袁満さんは対抗するためかこちらもテーブルを、土師尾常務の叩き方よりは少し大きな音が出るような技巧を凝らして、叩きながら云うのでありました。
「まあまあ二人共」
 社長は背凭れから身を乗り出して、掌を下に向けた前腕を上下に何度も振って、睨み合う袁満さんと土師尾常務を宥めに掛かるのでありました。

 社長はやや声の調子を荒げながら土師尾常務に云うのでありました。
「土師尾君も、気持ちは判るが、もう少し穏やかにやってくれないと、話しがちっとも前に進まないじゃないか。良い大人なんだから」
「判りました。気を付けます」
 土師尾常務は注意されて取り敢えず悄気て見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 639 [あなたのとりこ 22 創作]

「しかし土師尾君を退席させるのは勘弁して貰いたいね。土師尾君も役員なんだから、会社の将来像に対して責任があるし」
 社長は自分一人で従業員と対峙するのは何とも困るようでありました。一対五では如何にも気が重いと云うのでありましょう。
「それでは以後話しに口を出さないと云うと云うなら、居ても構いませんけど」
 袁満さんは土師尾常務の方を見ないで云うのでありました。
「そんな訳にはいかない」
 もう早速土師尾常務が口を出すのでありました。空かさず袁満さんはげんなり顔で舌打ちをして見せるのでありました。
「何を舌打ちなんかしているんだ。不謹慎だろう」
 土師尾常務は早速袁満さんの無礼な仕草に噛み付いてくるのでありました。
「もう良いわよ!」
 ここで堪りかねたように那間裕子女史が声を荒げるのでありました。「こんなくだらない事を何時までもグダグダ云い合っていても何もならないわ」
「会社を辞めようとしている者に、ここでそんな事を云われる謂れはないよ。那間君と均目君こそ少し黙っていて貰いたいものだな。何処迄増長すれば気が済むんだ!」
「社長はここに居る全員で、向後の会社の在り方とか方向性を話し合いたいとおっしゃっていたんじゃなかったですかね?」
 均目さんが土師尾常務を無視して社長に目を釘付けて訊くのでありました。
「勿論その心算だよ、私は」
 社長は一つ大きく頷くのでありました。
「それなら辞意を表明したとしても、今現在間違いなく社員である俺や那間さんも、会社の将来に対してものを云う権利はあるんじゃないですか?」
「それはまあ、その通りだ」
 社長は先程の頷きよりは小さい頷きをして見せるのでありました。
「と云う事だから、俺や那間さんに口を開くなとは云えないんじゃないですか?」
 これは土師尾常務に向かって云うのでありました。「何ら建設的な意見も云う事が出来ないで、そのかわり話しの腰を折ったり、無関係な茶々を入れたり、子供の口喧嘩みたいな云い合いに終始したりしている人に、黙っていろと云われる謂れこそないですね」
 均目さんのこの断固とした云い草に、土師尾常務は少しばかりたじろぎを見せるのでありました。ガツンといかれると途端に思わず知らず怯んで仕舞うのは、如何にも根が小心者のこの人の常の反応と云うものでありますか。
 しかし自尊心から、その怯みを糊塗しようとやっきになって何か云い返そうとするのでありますが、逆上しているものだから咄嗟に効果的な言葉が浮かんでこないで、口をモゴモゴさせながら、例に依って眼鏡の奥の眼球を微揺動させてしまうのでありました。これですっかり、平常心を喪失して仕舞っている事を見破られて仕舞う訳であります。
「何か云う事があるなら、とことん受けて立ちますよ」
(続)
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あなたのとりこ 640 [あなたのとりこ 22 創作]

 均目さんは土師尾常務の小心を見抜いて、嵩にかかって云い募るのでありました。
「と云う事は、・・・」
 ここで社長が喋り始めるのでありました。「均目君と那間君がこの全体会議に参加して何でももの申す権利があるのだから、同じ事でどんなに会議の進行を妨げていると云っても、土師尾君も会社の一員なんだからこの会議に参加する権利があるんじゃないのかね。それなのにこの場から退席しろと云うのは、これは矛盾する云い草じゃないのかね?」
 社長は袁満さんを見ながら余裕の笑みを浮かべるのでありました。
「それは、そうですが、・・・」
 云い返す理屈に窮して今度は袁満さんがたじろぐ番でありました。
「しかし建設的な意見ならこちらも聞く気持ちもありますが、下らないいちゃもんやら挑発やら、それに全く的外れな憤慨とか自己保身のための強弁とか、そんなものばかりしか口にしない人は会議の邪魔にしかならないじゃないですか。真面目で厳粛な会議の進行を保証するためには、邪魔をする人は出て行って貰わないといけませんよね」
 均目さんがあたふたし出した袁満さんの代わりに云うのでありました。
「僕はあくまで会社の将来を思ってものを云っている心算だ」
 社長の応援を得たもので、土師尾常務はここで意を強くして、居丈高に云うのでありました。まあ、何となく従業員側の方が分が悪いような気配でありますか。
「要するに常務の云う会社の将来とは、先程整理したように、甲斐さんと日比課長以外の社員を切り捨てて、しかも残った甲斐さんと日比課長の賃金やら待遇は、春闘以前の水準に戻すと云う事で、そこから一歩も動く気がないのでしょう?」
 袁満さんがなかなか立ち直らない風情なので均目さんが続けて云うのでありました。
「社長はこちらの云い分も聞くつもりだと云って、自分は然ももの分かりのよさそうな顔をしながら、実は土師尾さんを矢面に立たせて、あたし達とちっとも噛み合わない云い合いをさせ続けて、結局一方的にそちらの云い分を四の五の云わずに呑み込ませようなんて云う、そんな狡い肚なんでしょう。そんな陳腐な策謀なんか疾うに知れているわよ」
 那間裕子女史も均目さんに加勢するのでありました。この二人の仲がどうなっているのかは知れないながら、立場の上に於いてこの共闘は納得出来るものでありますか。
「そんな事はないよ。僕はあくまで双方で納得出来る解決策を模索する心算だ」
 社長はこの上も無く謹慎そうな顔で云うのでありました。狐と云うのか狸と云うのか、ネコ被りと云うのか、社長もなかなか食えない御仁であります。
「寧ろ、賃金や待遇面では一歩も譲らないとか、誰一人会社を辞めさせないとか、駄々っ子みたいにつべこべ自分達の一方的な云い分で騒ぎ立てて、少しも歩み寄ろうとしないのは君達の方じゃないのか。僕にありもしない罪を着せて、あれこれ詰って話し合いを妨害する前に、君達こそ自分達の度し難い頑なさを反省するべきじゃないのか」
 社長が土師尾常務をこの話し合いから排除する事の不当を、それなりの筋の通った理屈で指摘した言に依って、形勢が少しばかり自分達に有利になったと云う感触を得て、ここは攻め時と土師尾常務は調子に乗ってこう云い募るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 641 [あなたのとりこ 22 創作]

「もうこうなったら、労働争議しかありませんね」
 袁満さんは土師尾常務に天敵を見るような目を向けるのでありました。「全総連に事情を話して、従業員側に酌むべきところがあって、社長や土師尾常務の考えが非道であると判断されたなったら、もうこちらとしては徹底抗戦するしかありません」
「徹底抗戦と云うのは、つまりどう云う事なんだね?」
 社長がほんの少し不安になってたじろぎを見せるのでありました。
「それはこれからの事ですから、今こちらの手の内を明かすことはしませんよ」
 袁満さんは社長のこの不安に付け込むように云うのでありました。
「まあ、一般的には都労委に持ち込んで贈答社の争議を公然化するだとか、全総連の争議専門の委員会に依頼して、我々の要求が貫徹される迄色んな手段で世間に訴えるだとか、ひょっとしたら全総連とつながりのある政党に出て来て貰うとか、全総連には出来得るあらゆる支援をして貰います。全総連は先ず間違いなく我々のために動いてくれます」
 均目さんが続くのでありますが、これも特に確証はないながらの脅し文句と云うものでありますか。ひょっとしたら問題を持ち込んでみても全総連は鈍い反応しか示してくれないかも知れませんし、もっと穏健な調停を勧められるかも知れませんし。
 それに第一、均目さんは全総連のバックに控えている政党が嫌いなんじゃなかったでしたっけ。その嫌いな政党の全面支援を、いくら社長を怯えさせるためとは云え、ここで如何にも頼みになる後ろ盾たるものとして仄めかすと云うのは、何やら調子の良いご都合主義と云うものではないかと頑治さんは思うのでありました。
「若し争議と云う事になれば当事者の一方である社長や土師尾さんの名前が世間に出て、あっという間に広まる事になるわね。一躍有名人になれますよ、この界隈では」
 那間裕子女史も冗談口調ながら一種の恫喝をしかけるのでありました。事もあろうに労働者を虐げる悪辣な当事者として世間に名を広めて仕舞うのは、社長や土師尾常務にしたら何とも痛恨事であろうと云う目論見からでありますか。
 特に土師尾常務は人に慈悲を説く宗教者の端くれとして、これは慎に恥ずべき一大事でありましょうし、一気に面目丸つぶれどころか、宗教者としての顔を向後永遠に喪失して仕舞うかも知れないのであります。まあ少なくとも土師尾常務が、何に付けても相当の小心者であるなら、そう云う風に大袈裟に考えて屹度取り乱すでありましょう。
 しかし見たところ、那間裕子女史が読んだ程土師尾常務はおろおろしてはいないのでありました。どちらかと云うと全然そう云うところに無頓着そうな顔をしているのでありますが、これはどうやら大胆者だからと云う訳ではなく、恐らく鈍感さから、事の重大さを推し量れないでぼんやりしているのでありましょうか。那間裕子女史としては当初の恫喝の効果が上手く上げられなかったようで、がっかりと云うところでありますか。
「君達は私を脅している心算かね?」
 社長の方は均目さんと那間裕子女史の脅しが少しは利いているらしく、眉間に皺を寄せて苦ったような顔をして見せるのでありました。
「いや、そんな心算は毛程もないですよ」
(続)
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あなたのとりこ 642 [あなたのとりこ 22 創作]

 均目さんがしれっと云うのでありました。これくらい応えたところを見せてくれないと恫喝した張り合いがないと云うものでありますか。
「若し事が大袈裟になるようなら、私としても弁護士と対策を練る必要がある」
 ここは恐らく、社長としても対抗上、弁護士、と云う存在を出して、この職能人の頼りになるべき助っ人効果を狙って云ったのでありましょう。
「弁護士なら全総連にもいますよ」
 袁満さんが意にも介さないと云った余裕の語調で云い返すのでありました。「しかも労働問題専門の手練れの弁護士ですし、バックには怖い政党も付いているし」
「ほう、そう云うのなら法的な推移になる事も厭わないのだね?」
「そうなったら思う壺ですよ。こちらとしても存分に戦えます」
 袁満さんは売り言葉に買い言葉でそう見栄を切るのでありましたが、これは虚勢でありましょう。本音としては、そんな大それた面倒臭い事態になるのは袁満さんとしてはまっぴらご免な筈であります。袁満さんはその名前の通り、万事に付け角のない円満なるところを好む御仁であり、闘争的な境地とは凡そ縁遠い人物でありますから。
「本気で社長や僕と戦う覚悟があるんだな、袁満君は?」
 土師尾常務も袁満さんの人柄は承知しているので、見縊るような薄ら笑いを頬に湛えて挑発するように念押しするのでありました。
「こうなったら仕方ありませんからね」
 袁満さんもここに及んだからには、引くに引けないのでありました。
 土師尾常務はそんな袁満さんの何時にない強情とむやみな棄て身を見て、怯んで少々持て余すように眼鏡の奥の眼球を微揺動させるのでありました。
 袁満さんがここで急に立ち上がるのでありました。この袁満さんの唐突な行動に土師尾常務は何を思ったか急いでソファーの背凭れに身を引いて、防御のためか両前腕を顔の前に盾のように翳すのでありました。内心袁満さんの初めて見せる開き直りに恐々としていたために、この小心者は体面も気にせず殴られると勘違いしたのでありましょう。
「ぼ、暴力は止してくれ!」
 声の裏返った土師尾常務のこの怯えの言葉を聞いて、袁満さんのほうがキョトンとするのでありました。その後に、この頓珍漢な反応に憫笑を返すのでありました。
「そんなんじゃありませんよ」
 袁満さんは呆れたように、且つ勝ち誇ったように云うのでありました。「もう話し合いはこれで打ち切りましょう」
 袁満さんは土師尾常務から目を離して社長の方を見るのでありました。
「未だ話しは済んでいないじゃないか」
「これ以上、何を話す事があるのですか?」
「ここで打ち切ると云う事は、もう決定的に決裂すると云う事だよ」
 社長はこの期に及んで未だ話し合いに拘るのでありました。
「決裂で結構です。あとは全総連と協議して今後の対応を取ります」
(続)
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あなたのとりこ 643 [あなたのとりこ 22 創作]

 袁満さんはきっぱりと云うのでありました。そのきっぱりさに引き摺られるように頑治さんも立ち上がるのでありました。均目さんも那間裕子女史も続いて立ち上がるのでありましたが、甲斐計子女史は少しの間逡巡するような素振りを見せるのでありました。
 しかし甲斐計子女史は、それでも自分は一応組合員であると云う自覚と義理からか、どこか躊躇いがちで弱々しく膝をゆるゆると伸ばして腰を上げるのでありました。何やらその風情と云うものは痛々しそうですらあるのでありました。それを見て頑治さんは、この期に於いて自分達に同調を求めるのはどこか酷なような気がするのでありました。

 全体会議を切上げた後、組合員はお茶の水通り沿いの全総連の入っている古びたビルを通り越して、御茶ノ水駅近くのマンモス喫茶店ウィーンに向かうのでありました。全総連に直行するのではなく、その前に喫茶店で打ち合わせを持つと云う事は、実は全総連に事の次第を報告して、愈々会社に対して敵対的な労働争議を大袈裟に開始する確然たる覚悟がなかなか固められなくて、どこか未だ及び腰であったためでありますか。
 席に着いてから袁満さんが均目さんに確認するのでありました。
「均目君は会社を辞める決心は変わらないのかな?」
「勿論その心算です」
 均目さんは袁満さんを見ないで俯きがちに頷くのでありました。
「那間さんも、同じかな?」
 袁満さんは、今度は那間裕子女史に視線を向けるのでありました。
「あたしも辞める心算よ。だって会社の中に居る場所がなくなる訳だから」
「でも営業社員としてなら残って貰っても良いと云う事だったけど?」
「営業として残る気は、更々ないわ」
「均目君もそうかな?」
 袁満さんはまた均目さんの方に目を移すのでありました。
「俺もまっぴらですよ、社長や土師尾常務にああ迄云われて残るのは」
 均目さんは、今度は袁満さんの目をしっかり見ながら応えるのでありました。
「ああそうか。まあ、そうだよなあ」
 袁満さんはがっかりしたような風情で二人の意を改めて呑み込むのでありました。
「しかし徹底抗戦と云う事になったら、その闘争の間は辞めませんよ」
 均目さんは袁満さんの落胆を慮ってそう云うのでありました。
「あたしも闘争がひどく長引かないのなら、残っても構わないわよ」
 那間裕子女史も一つ頷いて見せるのでありました。
「しかし法廷闘争まで行くとしたら、かなり長引くんじゃないかな」
 袁満さんは顰め面で首を傾げるのでありました。
「あんまり長引くと生活ができなくなるし、それは困るわ」
「しかし例えば争議団体にはカンパやら全総連からの助成やら、それに全総連の各組合を相手に物品販売やら、色々と生活支援の手立てはあるみたいだけど」
(続)
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あなたのとりこ 644 [あなたのとりこ 22 創作]

「でもそんな急場凌ぎみたいな事にずっと関わっていくのは、ちょっとね。将来像がちっとも描けないものね、それじゃあ」
「那間さんはこれから先、雑誌編集者として遣っていきたいと云う志望があるからね」
 袁満さんは暗い顔で納得の頷きを返すのでありました。
「別に絶対雑誌の編集者と云うのではないけど、まあ、本とか雑誌とか何でも良いけど、兎に角編集者として遣っていきたいと云うのはあるけどね」
「均目君は大丈夫なのかな、闘争が長引いても?」
「まあ、大丈夫と云う事ではないけど、でもまあ、最後まで付き合いますよ」
 均目さんは妙に気楽な調子で返答するのでありました。均目さんは片久那制作部長が始めた仕事に呼ばれるのを待っている身でありますから、再就職にあくせくする必要はないのでありましょう。しかし呼ばれたらすぐに行かなければならないでありましょうから、そんなに悠長に贈答社の労働争議に付き合っている訳にもいかないでありましょう。
「唐目君はどうなのかな?」
 袁満さんは頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ、当面大丈夫ではありますが。・・・」
「でも唐目君にしたって、そんなに何時迄も関ずらわっている訳にもいかないわよね。彼女さんとの将来もある事だし」
 那間裕子女史がここでそう云って頑治さんの反応を横目で窺うのでありました。頑治さんは無言で、努めて無表情に那間裕子女史の視線を遣り過ごすのでありました。
「甲斐さんはどうだろう?」
 袁満さんは遠慮がちに甲斐計子女史に視線を向けるのでありました。
「あたしははっきり云って迷惑よ、そんなものに関わるのは」
 甲斐計子女史は少し怒ったような云い草をするのでありました。「そんなものに関わるくらいなら、あたしは組合を辞めさせてもらうわ」
 この女史の発言に困じて全く以って手古摺るような表情をして、袁満さんは甲斐計子女史からおどおどと視線を外すのでありました。甲斐計子女史の感情の嵩じた決意表明に対して、気の優しい袁満さんとしてはおいそれと逆らえないでありましょう。まあ、頑治さんとしても袁満さん同様にこれはなかなか大儀なところではありますか。
「唐目君はどう考えているの?」
 那間裕子女史が訊くのでありました。
「袁満さんが幾ら時間が掛かってでも闘争すると云うのなら、付き合う心算です」
「それって、彼女さんの方は大丈夫なの?」
「それは余計なお世話ですよ」
 頑治さんは多少の、先輩後輩の礼儀と云う上での遠慮と忌憚を込めながらも、不快を明瞭に滲ませながらきっぱり云うのでありました。
 那間裕子女史はそのつれなさに鼻白んで、如何にも不愉快そうに目線を外すのでありました。頑治さんがあくまで下手に出る辺りが逆に気に入らないのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 645 [あなたのとりこ 22 創作]

 はっきり不愉快なものは不愉快だと表さない頑治さんの抑制的な云い草に、ある種の偽善の匂いか、或いは自分に対する揶揄を感じたのでありましょう。まあその辺は頑治さんも判るのでありましたが、しかしそれは決して狙って女史の気持ちを弄ぼうとしている訳ではないのでありました。頑治さんとしてはあくまでも礼儀の心算でありました。
「しかし闘争が長期化したら、一人去り二人去りして、結局その争議団に残って最後まで活動出来るのは、自分と袁満さんだけと云う事になりそうですね」
 頑治さんはそう云う見通しを述べるのでありました。
「まあ、そうなるかな」
 袁満さんはげんなり顔をするのでありました。
 均目さんが先ず頑治さんの顔を見て、目が一瞬合った後にばつが悪そうに視線を逸らすのでありました。那間裕子女史は頑治さんにも袁満さんにも目を向けず無言で下を向いているのでありました。甲斐計子女史はと云えば、口を尖らせて不機嫌そうにソッポを向いている儘なのでありました。この三人の反応からすると、つまり頑治さんの見通しが当たる公算なんと云うものは、かなり大だと云う事でありましょうか。
「袁満さんは本当に、この争議に生一本に打ち込む覚悟があるんでしょうね?」
 頑治さんは袁満さんに真顔を向けるのでありました。
「いやまあ、唐目君がやるのなら、俺も付き合うよ」
「付き合う?」
 頑治さんは袁満さんの言を疑問形で反復して見せるのでありました。
「それは、自分を闘争の主役ではなくて、脇役として位置付けると云う事?」
 これは那間裕子女史が云うのでありました。袁満さんの云い草に何だか潔くないところを見て取って、思わず気になって頑治さんよりも先に口を開いたのでありましょう。自分に直接関係のない事でも、いや寧ろ無関係な事であるからこそ、竟押っ取り刀で横から口出さずにはいられないと云うのは、那間裕子女史の性格でもありましたか。
「いやまあ、そう云う訳じゃないですけど。・・・」
 袁満さんは首を横に振るような、振らないような曖昧な仕草をするのでありました。
「袁満君が組合の委員長なんだから、そう云うのは無責任に聞こえるわね」
 那間裕子女史は尚も追及の言を吐くのでありました。それから頑治さんの方に、この自分の追及に同調しろと云うような目を向けてくるのでありました。頑治さんはその目に対して同調どころか、返って不快そうな視線を返すのでありました。この頑治さんの目容に那間裕子女史は少したじろぎを見せるのでありました。
「まあ、会社を早々に辞める心算でいて、闘争に積極的でもないあたしが、袁満君の云い草に潔くないとか云って噛み付くのは、ちょっとお門違いかも知れないけど」
 那間裕子女史は頑治さんの目からそわそわと視線を外しながら云うのでありました。
「俺は、社員の事なんか屁とも思ってはいないし、要するに自分の得になる事にしか興味がない土師尾常務に、一泡吹かせてやりたいと云うのはずっとありますよ。それに聞いたような説教を厚顔無恥に、滔々と垂れるインチキ坊主振りにも反吐が出ますしね」
(続)
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あなたのとりこ 646 [あなたのとりこ 22 創作]

 袁満さんは那間裕子女史を見ずに目線を下に落とした儘云うのでありました。「勿論上司としては史上最低だと思っているし、小狡い事ばかりして会社から金をくすねているくせに、そんな自分はさて置いて何故か俺達社員を無能呼ばわりして見下している、そんな土師尾常務が俺は大嫌いだし、入社以来嫌悪の感情しか持っていないですからね」
「それは判るけどね」
 那間裕子女史はここで頑治さんをさて置いて自分が先に不躾な相槌を入れて、また不愉快に思われないかと気遣うような目を頑治さんに向けてから、どこかおどおどした様子で云うのでありました。この殊勝らしき態度は一体どういう了見からでありましょうか。
「でも考えてみたら」
 袁満さんは目線を落とした儘で続けるのでありました。「こう云う好き嫌いの感情が労働者の権利を守るとか、不当な扱いに対する抗議とかの如何にも正義らしい闘争を支える背骨として、ちゃんと成立するのかどうなのか、ひょっとしたら脆弱だし不純でもあるんじゃないのかとか、そう云う風にも考えられるんで、俺としては実は闘争に邁進するだけの確信が、この期に於いても未だ今一つ持てないと云うのが正直なところだし、・・・」
 そう云った後、袁満さんは溜息を以って語の締め括りとするのでありました。
「そう云う事なら、労働争議と云う選択肢はこの際諦めた方が良いですかね」
 しばらくの沈黙の後で頑治さんが無抑揚な云い草で云うのでありました。「土師尾常務に対する私怨を晴らすためにと、つまり袁満さんは考えているんですね?」
「まあ、社会的な正義か不正義かと云うよりは、土師尾常務が好きか嫌いかと云う感情の方が先走っていると云うのが、俺の正直な気持ちかな。これではこの先の一定期間、収入の面でも生業と云う面でも、不安定な立場になる事を覚悟して、意欲的に闘争に打ち込む動機としてはかなり脆弱な気がするし、そう云う気持ちである以上、早晩屹度挫折するような気がする。それよりは綺麗さっぱり会社との縁を切る方が良いかも知れない」
 なかなか正直な袁満さんの理屈であります。
「まあ確かに、この先の一定期間を犠牲にして迄、取り組むような事なんかじゃないかも知れないわね、ウチの会社の労働争議なんて」
 那間裕子女史が袁満さんに同調するのでありました。
「この先長く社長や土師尾常務と関わり合っていくと云うのも、まあ確かに、下らないと云えば下らない事かな、実際のところ」
 均目さんも袁満さんに頷きを返すのでありました。「と云う事は、闘争をあくまで積極的に支持するのは、唐目君だけと云う事になる」
「別に積極的に支持している訳じゃないよ」
 頑治さんは少し憮然とした口調で云うのでありました。「第一、一番新参者で入社して未だ間もない俺が、一人で会社と労働闘争すると云うのも、何か妙な按配だし」
「それは確かにそうだわね」
 那間裕子女史が肯うのでありました。「まあ、別に入社して間もない新人が、労働闘争してはいけないと云う道理はないとしても」
(続)
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あなたのとりこ 647 [あなたのとりこ 22 創作]

「無責任な事を云わないでください」
 頑治さんは那間裕子女史を睨むのでありました。ほんの軽口の心算でものしただけ、と云う那間裕子女史の思いと、この頑治さんの睨みの強さの不釣合いにまごまごしてか、那間裕子女史はまるで土師尾常務のように眼球を微揺動させるのでありました。
「ええと、袁満さんは敢えて労働争議に持って行く気は、実はないのですね?」
 均目さんが話しを整理するような口調で云うのでありました。
「争議を長く続けていく自信がない、と云うところかな」
「唐目君は自分だけで争議をしていく気はないんだよね?」
「繰り返すけど、入社間もない、この中の誰より新参者の俺が、一人でそんなに尖がる謂れはないよ。そんなに身の程知らずの独善家ではない心算だし」
「と云う事は、誰も労働争議を引き受ける人間はこの中にはいないと云うことになる」
 均目さんは袁満さんと頑治さんを交互に見るのでありました。
「何か、これで結論が出たみたいね」
 那間裕子女史がカップに残ったコーヒーをグイと飲み干すのでありました。
「どうにかして土師尾常務に、一泡吹かせてやりたい気持ちはあるんですけどね」
 これは云ってみれば袁満さんの、敗色濃厚者の無念の科白みたいなものでありますか。これを聞いて頑治さんは、これで一先ず労働争議と云う目はなくなったと思うのでありました。そうしてまた、秘かにホッとしている自分がそこに居るのでありました。

 那間裕子女史がお代わりのコーヒーを注文したいのか辺りを見回すのでありましたが、生憎近くにウェイターの姿はないのでありました。那間裕子女史は小さな舌打ちをしてコーヒーのお代わりを諦めて、それから袁満さんの顔を見るのでありました。
「それじゃあ明日にでも、皆で一緒に辞表を出す?」
「その方が手っ取り速い」
 袁満さんではなく均目さんが第一番に賛意を示すのでありました。
「皆がそう云う心算なら、俺も明日辞表を出すかな」
 袁満さんも会社を辞める事に、もう迷いはないようでありました。先程の全体会議の様子から、会社を見限る決心がここでどうやらついたようであります。
「唐目君はどうする?」
 均目さんが頑治さんを上目で窺うのでありました。
「皆がそう云う意志なら、勿論俺も同調するよ」
 頑治さんも無表情で頷くのでありました。
「あたしは一緒に会社を辞めると云った覚えはないわよ」
 甲斐計子女史が不愉快そうな声で異を唱えるのでありました。
「ああ、甲斐さんは会社に残るんだよね。それは構わないよ。こう云うのは組合とは無関係で、全く以って個人の意志だから。俺達に一緒に辞めろと云う権利もないし」
 均目さんが取り成すように云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 648 [あなたのとりこ 22 創作]

「あたしは会社に残るかどうか、ここでは未だ決められないと云っているの」
 甲斐計子女史は眉間に皺を寄せて懊悩の表情をして見せるのでありました。
「何れにしても俺達に同調する必要はないよ。じっくり考えてから決めれば良いし」
 袁満さんも甲斐計子女史のご機嫌を損なわないように、大いに気を遣いながら云うのでありました。まあ、本当に同調を強要する気もないのでありましょうし。
 しかし皆と行動を一緒にしない場合、後に会社を辞めると決めたとしても、甲斐計子女史は屹度、辞意を表するタイミングを失って仕舞うのではないかと頑治さんは思うのでありました。そうなるとズルズルと社長や土師尾常務の云いなりに、酷い待遇に甘んじて会社に残る羽目になるでありましょう。或いは社長や土師尾常務の方の任意で、結局会社を辞めさせられるかも知れません。これは日比課長にも云える事でありますか。
 それにしても、何事にも悲観が先に立って決心に手間取る袁満さんが、ここに到って会社を辞める決断をしたと云うのは、社長や土師尾常務の横暴にほとほと呆れ果てて、竟にこの二人に決定的な愛想尽かしをしたのでありましょう。勿論拗れた労働争議の当事者として、長々と会社と向き合わなければならない面倒を回避しようとしたのもあるでありましょうが、何れにしてもここで綺麗さっぱり縁切りする方が妥当だと思い定めたのでありますか。向後を考えれば、それはそれで貴重な決断であると云えるでありましょう。
「じゃあ明日、揃って土師尾常務に辞表を提出するか」
 袁満さんが再度確認するように均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんをグルっと見渡すのでありましたが、甲斐計子女史には視線を向けないのでありました。
「俺は異存ないですよ」
 均目さんが頷くのでありました。
「あたしも右に同じね」
 均目さんの左隣に座っていながら那間裕子女史がそう云うのでありました。「唐目君もあたし達と行動を共にするのよね?」
「ええ、そうします」
 頑治さんは頭を少し前に傾けて同意を示すのでありました。
「じゃあ、・・・あたしがここに居るのは無意味なようだから、先に帰るわ」
 何となく一人取り残されたような按配の甲斐計子女史が、居心地悪そうに小さな身じろぎしながら遠慮がちに云うのでありました。
「ああ、いや、こうと決まったら俺達も、もう帰りますよ」
 均目さんが立ち上がった甲斐計子女史を見上げるのでありました。その均目さんの言を聞いて那間裕子女史が、急いで自分のカップにほとんど残っていないコーヒーをすっかり飲み干す真似をするのでありました。袁満さんも財布を内ポケットから取り出して自分のコーヒー代をテーブルの上に置いて、手提げカバンを脇に抱え込むのでありました。
「じゃあ、明日辞表を書いてきて、午前中に土師尾常務に四人揃って出す事にしよう」
 袁満さんが再々度の念のための確認か、そう云いながら残る三人をゆっくり見回すのでありました。三人もまた夫々小さく頷いてそれに応えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 649 [あなたのとりこ 22 創作]

 揃って喫茶店を出て御茶ノ水駅に向かって歩いている時、袁満さんの顔を窺うとどこか気も漫ろな表情をしているのでありました。勢いで、或いは引き波に浚われるような感じで均目さんと那間裕子女史の辞意に引き摺られた事に、未だどこか釈然としない思いを持っているのでありましょう。それにそう云った経緯で会社を辞めると、或る意味うっかり表明して仕舞った事に大いに不安でもあるのでありましょう。この先、ここで会社を辞める事が吉と出るか凶と出るか、袁満さんの心は大いに取り乱れているようであります。
 迂闊なおっちょこちょいの決断が将来を棒に振るかも知れないし、しかしここで決断を鈍らせると、返ってそちの方が将来の好機を逸する契機になるのかも知れません。どちらを取るかと云う賭けは、袁満さんにとっては大困惑と云うところでありましょう。
 袁満さんは悲観が先に立って、何につけ決心に手間取るタイプの人であるとは前に云った事でありますが、じっくり考えて納得した上での決心ではなく、どこか流れの勢いに乗って為した決断である以上、袁満さんには今一つしっくりこないのでありましょう。まあしかし自分でも、じっくり考えてもそうそう納得出来る決心が獲得出来ない性質であるのは、袁満さん自身も自分でちゃんと判っている事でありましょうが。・・・
 頑治さんは四人と駅の改札口で別れて、一人お茶の水橋を渡って本郷一丁目の自分のアパートに向かって、暗くなった道を歩いて帰るのでありました。道中、何となく敢えて流れに逆らう事なく均目さん、那間裕子女史、それに袁満さんの辞意に賛同したような具合でありましたが、袁満さん同様、頑治さんとしてもどこか釈然としないものを感じているのでありました。まあ、将来の不安なんと云うものはあんまりないのでありましたが。
 将来の不安なんぞより、色々込み入った、或る意味で面白い体験をするチャンスを逸したような気がしているのでありました。労働争議に巻き込まれるなんと云う体験は、袁満さんがそうであるように出来れば忌避したい体験ではあるだろうけれど、しかい余人にはなかなか体験できない稀なものでもあるかも知れないではありませんか。
 そこで繰り広げられるであろう様々な事件や人間劇と云うものには、まあ、興味がないと云えば嘘になりますか。退屈凌ぎ、と迄は云わないとしても、ちょっと当事者になってみたい心持ちではあります。まあしかしこう云う類の秘かな興味なんと云うものは、世間的には全く以って無責任且つ不謹慎の誹りを免れないでありましょうが。

 その日の夜遅く、久しぶりに夕美さんから電話がかかって来るのでありました。受話器を取り上げる時に、おそらく明日起こすべき行動が甚く不安で、行動を共にする誰かの声を聴きたいと思った袁満さん辺りからの電話だろうと推察したのでありましたが、意外や意外夕美さんの声が流れて来た時には、頑治さんは慌てて仕舞って受話器を取り落とすところでありました。その頑治さんの慌てぶりが夕美さんにも伝わったようで、夕美さんは低い語調に改めて、何かあったのかと不安そうな声で尋ねるのでありました。
「いや、久しぶりの夕美の声に驚いたんだよ」
 頑治さんはそう云い繕うのでありました。
「ふうん。あたしが電話してきたと云うのはそんなに驚くべき事かしら?」
(続)
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あなたのとりこ 650 [あなたのとりこ 22 創作]

「いやね、直前にふと閃いた人からじゃなかったから、ちょっと驚いたんだよ」
「その、閃いた人、って誰?」
「会社の袁満さんだよ」
「ああ、労働組合の委員長をしている人ね」
 受話器の向こうから夕美さんの頷く気配が伝わってくるのでありました。「その袁満さんに、何か大変な事件でも起こったの?」
「いやまあ、実は袁満さんだけじゃなくて、社員全員に、と云った方が良いけど」
「何、何、どうしたの?」
 夕美さんは頑治さんの思わせぶりな云い方に焦れたように先を促すのでありました。
「実は社員全員、と云うのか六人中四人が、明日会社に辞表を出す事になったんだよ」
「六人中四人が会社を辞めるのね?」
「そう云う事になる」
 今度は頑治さんが受話器の向こうの夕美さんに頷く気配を伝える番でありました。
「その四人の中に頑ちゃんは入っているの?」
「行きがかり上、入っているんだよ」
「つまり頑ちゃんも明日会社に辞表を提出するのね?」
「うん、そう。提出する」
 最初頑治さんは無意識で無言で頷いたのでありましたが、それでは伝わらないので慌てて後でそう云い足すのでありました。その言葉の後にちょっとした言葉の途切れる時間が流れるのでありましたが、それは夕美さんが、多少か或いは多大かその程度は良くは判らないものの、頑治さんが会社を辞めると云う言に衝撃を受けたためでありましょう。
「ふうん、頑ちゃんも辞めるんだ、会社を。・・・」
「うん。行きがかり上。・・・」
「行きがかり上?」
 今度は夕美さんがまた首を傾げる気配が感じられるのでありました。
「ちょっとあれこれ面倒な経緯があって、俺も行動を共にする事になったんだよ」
「頑ちゃんは、本当は会社を辞めたくはなかった訳?」
「まあ、あっさりと辞めたいと云う事じゃなかったけど、でも、かと云って何が何でも残りたい、と云う気持でもなかったかな」
「何かどことなく曖昧な感じね」
「曖昧と云うのか、優柔不断と云うのか、ね」
 頑治さんは多少自嘲的な云い草をするのでありました。
「その辺が、行きがかり上、と云うところな訳ね?」
「そう云う事になるかな。それともう一つ、下手をするとげんなりするくらい大袈裟な労働争議に発展する可能性があったし、それは何とも叶わないから、と云う事もある」
「大袈裟な労働争議?」
「裁判沙汰もあるかも知れない労働争議、だよ」
(続)
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あなたのとりこ 651 [あなたのとりこ 22 創作]

「それは大変ね」
 夕美さんは溜息を吐いて見せるのでありました。「ところで抑々、何で労働争議だとか裁判沙汰だとか、そう云う大変な事になって仕舞ったの?」
「前に話した労働組合結成と春闘と、それに依る大幅な賃上げ獲得と、年齢別同一賃金と云う観点での不平等是正とかそんな、云って見れば労働組合の獲得した成果を、世の中の不景気とか売り上げ不振なんかから、数か月もしない内に再度見直したいと云う、提案と云うよりは一方的な通達みたいなものが経営側からあって、おまけに姑息な人員整理の謀なんかもあって、それはないだろうと組合が反発したのが発端かな」
 頑治さんは何とか簡潔にこれまでの事を要約しようと、ゆっくり考えを回らしながら言葉を継ぐのでありました。「まあ思えば、前にも話した役員の片久那制作部長と云う、なかなか男気のある、もの事の筋道を頑固にちゃんと通そうとする人が会社を辞めたのが、向こうが平気で無茶苦茶な要求を俺達に突きつけてくるようになった切っ掛けかな」
「頑ちゃん達と会社側の対立は、話し合う余地が全くないものだったの?」
「いや、話し合ったんだよ会社の全体会議と云う形式で。でも全くの平行線と云うのか、向こうは何が何でも考えを押し付けようとするし、こちらはこちらで端から聞く耳を持たないと云う態度だから、纏まる筈もないしね。で、行きがかりから組合の上部団体も巻き込んだ労働争議だと、組合として最初は大袈裟に息まいていたんだけど、そう云うのもしんどいし、正直な話し解決を見る迄闘争を継続する気力も覚悟もこちらにはないし」
 そこ迄云って今度は頑治さんが溜息を吐くのでありました。
「それで、それなら辞めて遣る、と云う事になったの?」
「まあ、そう云う感じかな」
「何だか、結局頑ちゃん達が経営側の強情に屈したような按配ね」
「まあ形から云えばそうとも云えるかな。こちらにこちらの正義を貫くべく、肚を括って対抗しようとする胆力がなかった訳だな」
 確かに自分達のひ弱さがこう云う、遁走、と云う結論を選んだのだろうと頑治さんは思うのでありました。要はこの件に於いては敗北したと云う事であります。しかしさっさと遁走して仕舞う方が、向後の事を考えると寧ろ、無茶な意地を通すより後々良かったと云える場合だってあるでありましょう。どちらが正解だったかなんと云うのは、今の時点で迂闊に判断出来ないところであります。こう云った辺り頑治さんは厳格主義者でも頑固一徹主義者でもなく、どちらかと云うとちゃらんぽらんな人間だと云えるでありますか。
「でもあたしとしても、頑ちゃんに先の見えない労働争議にのめり込まれるのは、ちょっと叶わないかな。何だか益々あたしから遠くなっていくようで」
「まあ、労働争議に巻き込まれてあたふたしなければならなくなったとしても、夕美から遠ざかるなんて云う了見は更々ないけどね、俺は」
「でも頑ちゃんがそう云う心算でも、屹度現実では忙しさにかまけて、そうはいかなくなるんじゃないかしら。そんな気がするわ」
「いやまあ、労働争議はもう、ない事になったけどね、実際」
(続)
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あなたのとりこ 652 [あなたのとりこ 22 創作]

 頑治さんは少し笑うのでありました。「それにどだい、俺は暫くの間だとしても労働争議なんかで、気の毒さを売り物にしながら飯を食う気は更々ないし、そんなのは全くイカさないと思っているし、まっぴらご免蒙るよ」
 そう云いながらも、寸でのところで労働争議になりかけたのを自分は別に強硬に忌避しようともしなかったのでありましたか。寧ろ袁満さんや他の組合員に対して、そちらの流れに乗るのが自然なような発言をしたんじゃなかったかしらと考えるのでありました。
 どちらが本気だったかと云えば、それはまっぴらご免の方でありますか。まあ、行きがかり上、労働争議も辞さないと云う姿勢を示したのであります。しかし心根の底の方で、屹度そんな事にはならないだろうと云う読みも確かにあったのでありました。
 日々無難で平穏が何よりを身上とする袁満さんや、全総連の後ろに控えている政治政党がむやみに嫌いな均目さん。それに労働運動なんて本来毛先程も似つかわしくない那間裕子女史。社長や土師尾常務の無体に対抗するために便宜的に組合に入ってけれど、こちらも那間裕子女史同様如何にも組合活動が似合わないし、何に付け事が大仰になるのは叶わないと思っている甲斐計子女史。それにちゃらんぽらんの自分でありますから、これはもう、労働争議を引き受けるべき人材とは全く以って云えないでありましょう。
「まあ、それじゃあ、また就職活動をすることになるのね、頑ちゃんは?」
 夕美さんが訊くのでありました。
「そう云う事になるかな」
「大儀ね、それは」
「いやそうでもないよ。慣れているから」
 頑治さんは然程うんざりだと云った調子ではなく返すのでありました。しかしまあ、こうやってやっと見つけた定職を不本意ながら放り投げる事態に立ち至ったのは、夕美さんに対して申し訳ないような心持ちにもなるのでありました。夕美さんは頑治さんがアルバイトではなくちゃんとした正社員として就職した事を、大いに喜んでくれていたのでありましたから。その夕美さんの喜びをこうして裏切るのは何とも面目ない事であります。

 夕美さんはここで少し話しの舳先を曲げるのでありました。
「そう云う事なら、夏休みはどうなるのかしら?」
「明日会社に辞表を出すんだから、当然俺の夏休みはないよ」
「そうじゃなくて、夏休みになったら頑ちゃんはこっちに帰って来るって云っていたでしょう。それで頑ちゃんが帰る時に今度はあたしが夏休みを取って、一緒に東京に行くってそんな計画をしていたじゃない。それはどうなるのかしら?」
「勿論計画通りだよ。夏休みどころか、俺は会社を辞めてこれからずうっと休みと云う事になる。そっちに帰る時間は十二分にあると云う事だし」
「ああそう。それなら良いんだけど、失業者になるんだから旅費とか大丈夫?」
「まあ、何とかなるだろう」
 そう云いながら頑治さんは銀行の預金通帳を頭に思い浮かべるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 653 [あなたのとりこ 22 創作]

 預金通帳に記載してある額面は確か、心細いのはその通りだけれども、かと云って帰省の旅行代金を払ったとしても、その後が二進も三進もいかなくなると云う事もない、と云うところでありましょうか。こうなると入社時期のために、夏の一時金が満額出なかったのが痛かったと云う事でありますか。過去に遡っても最高の夏季一時金の支給額であったと云う風に訊いているので、今更詮無い事ながら何とも残念無念であります。
「夕美は俺が何時そっちに帰るのが好都合なんだろう?」
 頑治さんは頭の中に消え残った預金通帳の残額の像を、一つ頭を横に振って払い落としてから訊くのでありました。
「そうね、八月のお盆過ぎの方が良いかしらね。そうしたらあたしは八月の終わり頃から一週間程度夏休み、と云う事になるし、その方が休みを取り易いかしらね」
「夏休みは九月に入っても構わないの?」
「そうね。博物館は夏休みはずっと開館しているから、あたし達は七月半ばから九月半ばの間に個々に夏休みを取る事になるのよ」
「ふうんそうか」
 頑治さんは受話器を耳に当てた儘頷くのでありました。「それから例の、そっちにある弥生遺跡発掘調査の件で、大学の考古学部との打ち合わせか何かで、ゴールデンウィークにこっちに来た時みたいに、仕事の出張を休暇の前か後ろにくっ付けて東京滞在を長くする、なんと云う風には今回は出来ないの?」
「それは今回は無理ね。その件で東京に行くとしたら、十一月頃かしらね」
「おお、と云う事は十一月にも夕美はこっちに来る事になるんだ」
「そうね、多分行く事になるわ」
「それは楽しみだなあ」
「何云ってんの」
 夕美さんは呆れたような声を出すのでありました。「八月に逢うのも未だ実現していないのに、それを吹っ飛ばして十一月の事を先走って楽しみだって云うのは、何だか変じゃない? まあ、頑ちゃんらしいと云えば頑ちゃんらしいけどさ」
「ああ成程。それは道理だ」
 頑治さんはあっけらかんと笑うのでありました。本棚に置いてある夕美さんから預かっているネコのぬいぐるみがふと目に入るのでありましたが、そのネコの表情も頑治さんの頓珍漢を笑っているように見えるのでありました。
「あたしの休みの件は、はっきりしたらまた連絡するわ」
「俺は夕美のどんな都合にだって合わせられるよ、屹度」
「判ったわ。後程打ち合わせしましょう」
 こう云った後夕美さんは少し黙るのでありました。それは恐らく、ここで今回の電話は一区切り付いたと云う事になって、受話器を架台に戻す潮時だと感じはするものの、未だ何となく話し足りないような気がして、未練から、それじゃあ、と云う言葉を口から出しそびれているための沈黙なのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 654 [あなたのとりこ 22 創作]

「ところでお母さんの具合はどんな感じなんだろう?」
 頑治さんはそんな話しを始めるのでありました。話しの間を持たせようとしてこんな話題をうっかり出したのでありましたが、ちょっと選んだ話題が重かったかしらと秘かに気が引けるのでありました。何ともはや、もたもたした仕業でありますか。
「ここのところ体調は落ち着いているかしら。相変わらず食欲はないみたいだけど」
「ああそう。でも体調が落ち着いていると云う事なら、まあ、一先ず安心かな」
「でも殆ど食事らしい食事を摂らないから、げっそり痩せて仕舞って、何だか見るのが辛くなっちゃう時があるわ。本人も気にしていて偶に無理にでも食べようとするんだけど、すぐに箸を置いちゃうの。そんな時はこっち迄気が滅入ってくるわ」
「病院には定期的に通っているんだろう?」
「退院してから週に一度検査に通っているわ」
「週に一度と云うのはなかなかしんどいかな」
「そうね。捗々しく良くなっている感じがないものだから本人もげんなりしているわ」
「まあ、そうだろうなあ」
 頑治さんは陰鬱そうな声でそう云ってまた頷くのでありました。「でもまたその内に気分が変わって、万事に意欲的になる事もあるさ」
「有難う。そうなら良いけど」
 夕美さんは力ない声で謝意を表するのでありましたが、その後にまた重苦しく沈黙するのでありました。何だか話題がしめやかになった儘電話を切るのは気が引けるから、別の話題を探しているのでありましょう。頑治さんも同じくもう少し明るい話題に移ろうと色々考えるのでありましたが、どう云うものかこういう時に限って他の話題が何も思い付かないのでありました。他の話題なんか様々ありそうなものでありますけど。
「それじゃあこのくらいにして、また近くあたしの休暇がはっきりしたら電話するわ。その時に夏休みの件は打ち合わせしましょう」
 夕美さんはどうやらここでこの電話を仕舞いにする事にしたようであります。
「ま、改めて云うけど俺は夕美の都合にどうにでも合わせられるからね」
「判った。夏に逢えるのが今から楽しみだわ」
「俺もね。また近い内の電話を待っているよ」
「うん。それじゃあバイバイ」
 頑治さんはその夕美さんの声を聞いて静かに受話器を架台に戻すのでありました。夕美さんとの電話を終える時の何時もの寂しさよりも、何故かその寂寥感にこの時は尚一層心がざわざわと立ち騒ぐのでありました。別に取り立てて理由はないのでありましたが。

 明くる日に出社すると扉を開けた頑治さんを、自席に座って妙に緊張した面持ちでじっと見つめる袁満さんの視線に早速出くわすのでありました。袁満さんは無言で頑治さんに小さく頷いて見せるのでありました。これは愈々これから辞表提出の儀式が始まる事を頑治さんと相互確認するための、やや大仰とも云える仕草なのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 655 [あなたのとりこ 22 創作]

 頑治さんが自席に座って向かい合う席の甲斐計子女史に朝の挨拶をすると、甲斐計子女史からは何も言葉が返ってこないのでありました。女史の机の前にある書類とか印鑑ケースの棚に邪魔されて、その表情ははっきり窺えないのでありましたが、屹度無愛想な顔でなるべく頑治さんと目を合わさないようにしているのでありましょう。
 すぐにマップケースの横から均目さんが現れるのでありました。
「土師尾常務からは例によって得意先に直行すると云う連絡が入ったよ」
「じゃあ、朝一で揃って辞表を出すのはなしになったんだね」
 頑治さんは座った儘横に立つ均目さんを見上げるのでありました。
「ま、仕方がないな」
 均目さんは舌打ちをするのでありました。
「じゃあ辞表の提出は午後になるのかなあ」
 袁満さんも頑治さんの傍に来るのでありました。「肝心の土師尾常務が居ないんだからどう仕様もないけど、何だか肩透かしを食ったようで調子が狂うなあ」
 そこへ日比課長が出社して来るのでありました。日比課長は袁満さんと均目さん、それに頑治さんが雁首揃えて深刻そうに何やら話している様子に不穏を感じてか、手持ちのバッグを机の上に置くとそそくさと、トイレにでも行くと云う体裁を装ってまたすぐ外に出て行くのでありました。昨日の全体会議の経緯から頑治さん達に対して親近感を棄てたのでありましょうし、少なからずの屈託をも感じているのでありましょう。
「那間さんは未だ来ていないのかな?」
 頑治さんは均目さんに目を向けるのでありました。
「連絡は入っていないけど、例に依って朝寝坊だろう」
 均目さんは苦った笑いを頬に浮かべるのでありました。
「未だ社長は出社していないだろうしなあ。社長がもう居るのなら、皆で社長室に行って社長に直接、辞表を手渡すと云う手もあるんだけど」
 頑治さんはそう云って均目さんから目を離すのでありました。
「土師尾常務を吹っ飛ばして、いきなり社長に手渡すと云う事かい?」
「まあ、土師尾常務が来ないんだから止むを得ず、と云う事だよ」
「成程。土師尾常務を無視すると云う点で、それも痛快かも知れないなあ」
 均目さんは今度はさも面白そうに笑うのでありました。
「しかし社長もいないし那間さんも未だ来ないとなると、その手もダメか」
 頑治さんは腕組みして俯くのでありました。
「全く、土師尾常務も那間さんも、勝手気儘だよなあ」
 袁満さんは憤るのでありましたが、しかしそれは袁満さんと均目さんと頑治さんの儘ならなさであって、仕事サボりと朝寝坊と云う横着者連中の肩を持つのではないけれど、単に間が悪い、と云うところであろうと頑治さんは思うのでありました。
「まあ、那間さんが未だ来ないんだから、土師尾常務も未だいないと云うのも、考えように依っては好都合だとも捉えられない事もないか」
(続)
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あなたのとりこ 656 [あなたのとりこ 22 創作]

 袁満さんは妙な非生産的理屈を考え出すのでありました。「じゃあまあ、那間さんが現れたら辞表を出すタイミングを相談しよう」
 その袁満さんの言葉を潮に、均目さんはマップケース向うの制作部スペースに退散するのでありました。袁満さんも自席に帰り、頑治さんも伝票入れを覗いて、そこに発送伝票が何も無い事を確認してから一階の倉庫に下りて行くのでありました。
 駐車場の前に日比課長が如何にも手持無沙汰そうに、両手をズボンのポケットに入れて煙草を口に銜えて立っているのでありました。
「もう相談は終わったのかな?」
 頑治さんを見付けて日比課長はそう声を掛けるのでありました。
「相談と云う程の事はないですが、もう話しは終わりましたよ」
「じゃあ、上に行っても邪魔にはならないかな」 
「別に居て貰っていたとしても邪魔にはしませんでしたよ」
 頑治さんがそう応えると日比課長はどう云う心算かニヤリと笑って、銜えていた煙草を道に捨てて靴で吸殻を踏みつけてから三階の事務所に戻っていくのでありました。つまり先程は、三人の話し合いが自分とは無関係で、寧ろ自分が居ない方が何かと好都合なのであろうと気を利かせたのか、或いは気まずかったからは別として、事務所を出て行ったのでありましょう。で、所在なく駐車場の辺りで暇を潰していたのでありましょう。
 頑治さんは日比課長の思惑をそう判断してから、ふと駐車場内に停車している車に目を遣るのでありました。そこには社長の白いクラウンが停まっているのでありました。と云う事は、先ず間違いなく社長はその日はもう会社に来ていると云う事であります。頑治さんは急いで三階の事務所に引き返すため階段を駆け上がるのでありました。
「社長はもう出社しているみたいですよ」
 頑治さんは袁満さんに急くような口調で告げるのでありました。
「そうなの?」
 袁満さんは少しの驚きを見せるのでありました。「こんなに早く来るのは珍しいな」
 この頑治さんと袁満さんの遣り取りを漏れ聞いて、均目さんがまたマップケースの陰から押っ取り刀で姿を見せるのでありました。
「何だ、社長はもう来ているんだ」
「車が駐車場にあるからね」
 頑治さんが頷きながら云うのでありました。
「でも那間さんの方がまだ来ていない」
 袁満さんが顔を顰めるのでありました。
「全く、肝心な時に困ったものだな、那間さんも」
 この会話に日比課長が、無関心を装いながらも聞き耳を立てているのでありました。
 そうこうしている時にグッドタイミングなのか全くそうではないのか、那間裕子女史が扉を開けてこそこそと事務所に入って来るのでありました。
「あら、そんなところで三人揃って何をしているの?」
(続)
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あなたのとりこ 657 [あなたのとりこ 22 創作]

 那間裕子女史は怪訝そうに頑治さんと袁満さん、それに均目さんを順番に見るのでありました。「ひょっとして、どうやってこれから辞表を出すかの打ち合わせかしら?」
 この女史の言を片耳で聞いて、日比課長が顔を上げるのでありました。
「例に依って土師尾常務が未だ来ていないから、出すにも出せないよ」
 均目さんがもの憂そうに応えるのでありました。「それに那間さんも遅刻だし」
「ああそうか。それはそれは、あたしとした事が慎に申し訳ない」
 那間裕子女史はあっけらかんと笑うのでありました。均目さんは女史に横目を呉れて小さく舌打ちするのでありました。その舌打ちが気に入らなかったのか、女史は均目さんを険のある目で見返すのでありましたが、特に何も云い返さないのでありました。
「揃って会社を辞める事にしたの?」
 日比課長が椅子に座った儘目を見開いて遠慮がちに訊くのでありました。件の四人は一斉に顔を日比課長の方に向けるのでありました。
「そうだよ。でも別に日比さんに同調してくれとは云わないよ」
 袁満さんが皮肉を込めたような云い草をするのでありました。日比課長はそれに対して引き攣ったように笑うのでありましたが、その後は無言で、決まり悪そうに体ごと机に向かい直して下を向いて、手にしている手帳にまた目を落とすのでありました。
「さあ、ここで四人揃った訳だから、社長に辞表を渡す事にしますか?」
 頑治さんが日比課長を見下ろしている袁満さんに訊くのでありました。
「まあ、土師尾常務を吹っ飛ばして社長に直接、と云うのは組織内の順序としては問題があるかも知れないけど、でも当の土師尾常務が来ていないのだから、仕方がないか」
「土師尾常務を敢えて無視すると云うところで、ある種のメッセージにはなるし」
 均目さんが謀を目論むような目をするのでありました。
「土師尾さんが例によって来ていないから、社長に辞表を手渡すのね」
 自分以外の三人の話を聞きながらそうと覚って、那間裕子女史が一応確認するのでありました。それに三人は夫々頷きを返すのでありました。
「勿論、那間さんも辞表は書いてきたんですよね?」
 袁満さんが質すのでありました。
「書いてきたわよ、当然」
 態々そんな確認なんぞは不要だ、と云うように那間裕子女史は不快気に顔を顰めるのでありました。その表情から袁満さんはおどおどと目を逸らすのでありました。
「じゃあ、俺の辞表を取って来るよ」
 そう云って均目さんが一端マップケースの向こうの制作部スペースの方に引っ込んで、右手に白い封筒を持ってすぐまた戻って来るのでありました。こうして四人は互いに自然に頷き合ってから二階の社長室に揃って向かうのでありました。

 社長室のドアを袁満さんがノックすると、すぐに社長の声で返事が返って来るのでありました。袁満さんはやや躊躇いながらドアノブを回すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 658 [あなたのとりこ 22 創作]

 社長は頑治さん達四人の姿を認めると少し驚いたような顔をするのでありました。
「何かね、朝っぱらから?」
「いきなりこう云うものを社長に手渡すのは僭越だとは思いますが、なにせ土師尾常務が何時もの事ながら、未だ出社されていないものですから」
 袁満さんはこの科白の中の、何時もの事ながら、と云うところを敢えて強調して云いながら、四人分の辞表を纏めて社長の机の上にそろりと置くのでありました。
「何かね、これは?」
 社長は四通の白封筒を手に取り上げながらその表書きに見入るのでありました。
「我々四人は会社を辞めさせていただく事に決めました」
 袁満さんはゆっくりと社長に向かって深めにお辞儀するのでありました。頑治さんと均目さん、それに那間裕子女史もやや遅れてそれに倣うのでありました。社長は四人を交互に見渡しながら、暫し言葉を発しないのでありました。それからふと気が付いたように手で四人を傍らの応接ソファーの方に誘うのでありました。
「まあ、ちょっと座って話しをしよう」
 促される儘、右から頑治さん、那間裕子女史、それから袁満さんに均目さんの順でなかなか豪勢な応接ソファーの、四人掛けの長椅子の方に窮屈に並んで腰を下すのでありました。向いあって社長は、三脚並べてあるソファーの真ん中の一人掛けに座るのでありました。前もそうでありましたが、会社の応接スペースに置いてあるチンケなソファーよりは深く腰が沈んで、このソファーの方が返って座りづらいと頑治さんは感じるのでありました。まあ正確に云うなら、座りづらいと云うよりは立つ時に立ちづらそうであります。
「全体会議をした昨日の今日だと云うのに、どう云う事かね?」
 社長は袁満さんに少し首を傾げて見せるのでありました。
「昨日の今日だから、こうして辞表を提出するのですよ」
 袁満さんはやや不機嫌な口調で云うのでありました。
「昨日の全体会議で、愈々会社に愛想が尽きたと云う事かね?」
「社長も良くそう云う事が聞けますね」
 均目さんが皮肉な笑いを片頬に浮かべるのでありました。「我々を辞めさせようと云う魂胆で、全体会議をあんな風に持って行ったくせに」
「まさか。そんな心算は更々ないよ。そう云う云われ方は心外だね」
 社長は不満そうな表情を浮かべて恍けるのでありました。
「まあ良いですよ」
 均目さんは片頬の皮肉な笑いを増幅させるのでありました。「社長や土師尾常務の思う壺に嵌ったと云う事で、それはそれで今更別に何も云う事はありませんから」
 均目さんの云い草を聞いて、社長は如何にも狐に摘まれたような顔等して見せるのでありました。なかなかの犬、いや、ネコ被り振りであります。
「土師尾君は未だ出社していないのかね?」
 社長は話題を変えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 659 [あなたのとりこ 22 創作]

「例に依って得意先に直行だそうです」
 袁満さんは先程の均目さん同様皮肉な笑いを片頬に浮かべて見せるのでありました。
「前の団交の時も会議の時にもそう云う話しは聞いたような気がするが、土師尾君は屡、得意先に直行する場合があるのかね?」
「屡、と云うのか、ほぼ毎日、と云うのか」
 袁満さんはそこで眉根を寄せるのでありました。
「そんなに朝から仕事熱心なのかね、土師尾君は?」
「さあ、どうでしょうかね」
 袁満さんは聞えよがしに鼻を鳴らすのでありました。社長としても素で先の質問をしたのではなく、多少の疑いの気持ちを込めてそう訊き質したのでありましょう。
「そんなに熱心に仕事している割に、お得意さんから発注の電話がちっともありませんけどね。まあ、熱心に仕事をしている振り、と云った方が良いかしらね」
 これは那間裕子女史が矢張り片頬に笑みを浮かべて云う科白でありました。
「つまり偽装だと那間君は疑っている訳だね?」
「さあ、それは社長が直接土師尾さんにお聞きになれば良いでしょう」
 那間裕子女史はそっぽを向きながらつれなく云うのでありました。
「率直に言って貰いたいんだが、土師尾君は制作の知識も均目君や那間君ではてんで頼りないから、自分が何もかも指示しているし、紙の発注や印刷の細かい指示や製本の事にしても、それに商品作りのセンスにしても、何から何まで自分が助けてやらなければならないと常々私に零しているが、実際のところはどうなのかね?」
「ほう、とことん見縊られたものですね、自分も那間さんも」
 均目さんは頬に余裕の笑いは浮かべているものの、その頬がやや引き攣っているのでありました。那間裕子女史も少し大きめの舌打ちの音を立てるのでありました。
「じゃあ試しに、上質紙とか色上質紙とか、コート紙とかマットコート紙とか紙の種類の事や発注の仕方の形式、それに、一連、と云う言葉の意味とか、キロ単価の事なんかを土師尾さんに訊いてみれば良いんじゃないですか? 屹度簡単に云える筈ですよ」
 那間裕子女史は社長の目を見据えるのでありました。
「幾ら何でもそのくらいの知識は持っているだろう。何せ土師尾君は、始めは地図や地名総覧の編集要員として入社してきたんだから」
「まあ、すらすら云うか、あたふたするか、それとも別の話しをしながらはぐらかしたり誤魔化そうとしたりするか、ちょっと見ものですがね」
 均目さんがその偽物振りはとっくに見抜いている、と云うような云い草をするのでありました。「社長の専門の紙の事もそうですが、色の掛け合わせの事とか、それに中学校で習う程度の基本的な地図の知識とか、或いは製本の事とか、大凡編集や製作に関わる事を、あやふやな云い草を許さないでどうぞ土師尾常務にじっくり訊いてみてください。それであの人がとんでもないインチキ野郎だと云う事が、社長にも判るでしょうから」
 均目さんは云った後一つ頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 660 [あなたのとりこ 22 創作]

「そこ迄インチキ臭いヤツに会社を任せておく社長も社長ですよ」
 袁満さんが話しを引き取るのでありました。「どうせ社長は紙商事の方は兎も角、贈答社の方は大して思い入れもないでしょうから、仕方がないですけどね」
 そう云われて社長はムッとした顔をするのでありましたが、まあここは敢えて聞き流しておこうと云う風に、袁満さんから目を逸らせて口をモグモグさせながら、抗弁を堪えている様子をそれとなく伝えようとするのでありました。
「じゃあ、序に聞いておきたいんだけど、他には土師尾君に対して何か不満に思っている事とか、まあ、私に知らせておきたいような事はないのかな?」
「今更あれこれそれを云っても、会社を辞めるんだから云い甲斐もないですけどね」
 袁満さんはソファーの背凭れに背を引くのでありました。
「まあそう云わずに、今後の参考に聞かせてくれないか」
「辞めていく自分達が土師尾常務の事を色々告げ口する行為は、潔くないですからね」
 袁満さんは背凭れに背を避難させた儘で云うのでありました。
「そんな風には思わないから、是非聞かせてほしいな」
「ああそうですか」
 袁満さんは無関心そうにつれなく遣り過ごそうとするのでありました。
「どうしてまた、社長は土師尾さんの事をそんなに知りたいのですか?」
 那間裕子女史が社長の土師尾常務の出鱈目振りを聞き出したい魂胆に、ちょいとばかり興味を示すのでありました。恐らく社長も土師尾常務に全幅の信頼を置いている訳ではなくて、何となく判ってはいた事ながらどこか胡散臭く感じているのでありましょう。この社長と土師尾常務の間の隙間風に、那間裕子女史も興味をそそられたのでありますか。
 それにひょっとしたら社長は土師尾常務の弱みを握る事で、彼の人に向後遣りたい放題をさせないで、その給与や待遇にも渋ちんに対応しようと云う目論見があるのかも知れません。まあ、土師尾常務に対する様々な牽制の材料としても、ここは一つ、彼の人のこれ迄の遣りたい放題振りを是非にも聞いておきたいところでありましょうか。
 何だかんだで、四人は一時間以上社長室に引き留められていたのでありました。その間四人も土師尾常務の社員に対する酷い遣り口やら、自分だけが得をするような無軌道な労務管理振りやら、その人徳のなさとか、前に会社にいた片久那制作部長に対する卑屈なまでの頭の上らなさとかを、この際だからと縷々社長に告げ口するのでありました。
 でありますから、四人は辞表を提出したと云う重苦しい陰鬱な心持ちと云うよりは、多少晴れ々々とした気持ちで社長室を後にするのでありました。鬱積していた愚痴をようやくここで吐き出すことが出来たと云うところでありますか。

 三階の事務所に戻ると、甲斐計子女史だけが居るのでありました。土師尾常務は未だ出社してこないし、日比課長は早々に営業回りに出たようであります。甲斐計子女史は四人が戻って来るのをチラと見て、別に話しかけるでもなく、全く無愛想な顔でまた下を向いて、自分の仕事に没頭している風を装うのでありました。
(続)
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