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あなたのとりこ 637 [あなたのとりこ 22 創作]

「私は残りますよ」
 日比課長は結構きっぱり返事するのでありました。「ここを辞めて新しい仕事を見付けるのも、こういう不景気なご時世ですからなかなか難しいだろうし、私の稼ぎを当てにしている家族もいる事だし、そうあっさりと辞める訳にはいきませんからねえ」
「成程ね。それは賢明な判断だろう」
 ここでやっと出現した自分に従順な社員に対して、社長は優越者としての余裕と嘲りの入り混じった笑みを送るのでありました。その社長とは対照的に袁満さんは裏切り者に対する憎悪の視線を、鼻梁に寄せた皺に乗せて送るのでありました。
 しかしまあ、袁満さんの気持ちも判りはするのでありますけれど、日比課長の判断も尤もなところだろうと頑治さんは思うのでありました。家族がいると云う事を考慮すれば、そうは軽々に会社を辞めて仕舞う訳にはいかないでありましょう。
「それでは、会社に残るのは日比君だけなんだな?」
 土師尾常務が高圧的な語調で念を押すのでありました。自分達に同調する殊勝者がようやく表れて、勢いを取り戻したと云った風でありますか。
「甲斐君は本当に辞めるのか?」
 これは社長が顎に指で撫でながら甲斐計子女史に訊く言葉でありました。古株で地名総覧社時代から会社にいる甲斐計子女史に向かって、情義に於いて言外に会社に残って欲しいと懇願している訳では更々なくて、この期に及んで散々世話になったこの自分の温情を無にする心算かと、半分脅しているようなニュアンスでありましたか。
 そう云われて甲斐計子女史は弱気を見せるのでありました。
「未だ辞めると決めた訳じゃ、・・・」
「ほう、じゃあ、辞めないんだね?」
「・・・少し考えさせてください」
 この甲斐計子女史の未練を見せる態度も、袁満さんにとっては自分達の総意に対する裏切りと思えたでありましょう。甲斐計子女史を見る視線に刺々しさが表れるのでありました。しかし社長と土師尾常務にとっては、思う壺と云ったところでありましょうか。
「もうこの会議は止めましょう」
 袁満さんは投げ遣りに云うのでありました。
「未だ結論は出ていないのに、ここで止めると云うのか?」
 土師尾常務が従業員側の意志統一の乱れに付け込むように、身を乗り出しながら高飛車な調子で云うのでありました。
「改めて話しましょう。こちらとしても、これまでの経緯に対する全総連の助言も受けたいし。結局労働争議に持って行く他ないような気がしますしね」
「辞意を表明している人や、こちらの条件を呑んで会社に残りたいと表明している人を除くと、袁満君と唐目君の二人しか、全総連を絡めて労働争議に持って行きたいと云う者はいないじゃないか。それでも争議する心算かい?」
 土師尾常務はここでようやく勝ち誇ったような笑みを浮かべるのでありました。
(続)
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U3

こんばんは。 ご無沙汰しておりました。nice! 一気に押させて頂きました。
by U3 (2021-10-31 18:19) 

汎武

ああ、恐縮ですどうも。・・・
by 汎武 (2021-11-01 10:53) 

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