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あなたのとりこ 24 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 691 [あなたのとりこ 24 創作]

「いやあ、特には何もありませんよ」
「そこで、均目君よ」
 那間裕子女史は人差し指を一本立てて見せるのでありました。「何だか均目君は片久那さんと連絡を取り合っていて、今度のあたし達四人の退職とか組合解散なんかにも、均目君を通して片久那さんの思惑が反映されているような気がしているのよ、あたしには」
「ああそうですか」
 頑治さんはどこか鈍そうなもの云いをするのでありました。しかしこの鈍感な反応なんと云うものは、実は頑治さんの偽装と云うべきものなのであるました。腹の中では那間裕子女史は流石に鋭いと、少しばかり舌を巻いているのでありました。
「本来の均目君は結構な悲観論者で、大凡の事に対してネガティブ思考の人の筈なんだけど、今回の会社を辞めると云う事でも均目君はそんなに焦ってはいない風なのよ。何だか妙にのんびりとしているように見えて、ちっとも何時もの均目君らしくないのよね」
 ここで那間裕子女史は自得するように一つ頷くのでありました。「それは多分、もう次の仕事が決まっているからだと思うの。で、その次の仕事と云うのはつまり、片久那さんと何やら繋がりのある仕事なんじゃないかなとあたしは思うのよ」
「何かそれっぽい情報とかあるんですか?」
「そうじゃなくて、これは全くの、あたしの勘なんだけどね」
 那間裕子女史は頑治さんを上目で見るのでありました。
「均目君に直接確認してみる、と云うのはないのですかね?」
「あの日以来均目君とは没交渉、と云うか、会話すらも殆どないし」
「互いの家に行き来する回数とかが減ったんですかね?」
「行き来はないわ。と云うか電話もしないし、かかっても来ないし」
「絶交状態、と云う「感じですかね?」
「まあ、会社の中ではあれこれ喋るけどね」
 二人の仲もすっかり解消でありますか。均目さんにとっては那間裕子女史が頑治さんの家に酔い潰れながらも意志に依って行って仕舞った、と云う事実が、何やら女子への思いを急激に薄くした原因なのでありましょうか。那間裕子女史にしても、前から均目さんに対してどこか冷めていて、だから頑治さんの方に気紛れに目移りしたと云う事なのでありましょうか。まあ、これはあくまで頑治さんの推察以上ではないのでありますが。
「ま、均目君との事は終わったようなものね」
 那間裕子女史はグイと缶ビールを空けるのでありました。

 均目さんは那間裕子女史が酔い潰れて頑治さんのアパートに来て、それを厄介を厭わず自ら連れ帰った後は、女史にそんな真似をさせた事に対する後悔と云うべきか反省と云うべきか、そう云う心根から殊勝に女史に対してつれない態度を改めるようになるだろうと頑治さんは考えたのでありましたが、どうやらそうではないのでありました。那間裕子女史に依れば、均目さんと女史との関係は終わったようなものだと云うのであります。
(続)
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あなたのとりこ 692 [あなたのとりこ 24 創作]

「そう簡単に均目君との関係を終わらせて良いのですか?」
 頑治さんも缶ビールを飲み終えるのでありました。それからそう云いながら立ち上がって、未だ飲み足りていないであろう那間裕子女史のために、炊事場からコップを二つ持ってきて自分と女史の前に置いて、本棚脇から日本酒の一升瓶を徐に取り出して、夫々のコップになみなみと冷や酒を注ぎ入れるのでありました。
「徳利も猪口もウチにはないので、冷やで勘弁してください」
 頑治さんはそう云って掌を上に向けて差し出して、好ければどうぞ飲んでくれと云う仕草をやや慇懃にするのでありました。
「うん、有難う」
 那間裕子女史は零さないように気を付けながらコップを取り上げて、一口飲むのでありました。「考えてみれば、実はとっくに均目君とは終わっていたような気がするわ」
 那間裕子女史は取り上げる時よりはぞんざいにコップを下に置くのでありました。
「とっくに終わっていた、のですか?」
 頑治さんは女史の言葉を繰り返して見せるのでありました。
「そうね。この人とはこの先長く一緒にいる事は出来ないと、随分前からそう思っていたのよ、あたしは。まあ、惰性とほんの少しの未練から、付き合い続けてはいたけど」
「随分前、と云うのは何時頃ですかね?」
「そうね、唐目君が会社に入って来た頃かしらね」
 那間裕子女史はそう云ってから頑治さんを上目で見るのでありました。頑治さんはその言葉にどう反応して良いのか判らず、おどおどと視線を逸らすのでありました。
「随分と長い、惰性とほんの少しの未練、ですね。・・・いや、そんなに長くもないか」
 頑治さんは少しおどけたような物腰で受け応えるのでありました。
「長いか長くないかは判らないけど、潔いと云える時間は疾うに過ぎているかしらね。まあつまり、唐目君が会社に入って来たのが転機ね」
 これにも頑治さんはどんな言葉を返して良いのやら判りかねて、自分のコップを取り上げて中の酒をやや多めに、しかし噎せない程度に口の中に流し込むのでありました。何やら那間裕子女史は均目さんとの別れに、何かと頑治さんを絡めようとしているように思えるのでありましたが、これは頑治さんの邪推、あるいは思い過ごしでありましょうか。
「あくまでも転機で、原因だとは云っていないからね、念のため云っておくけど」
 頑治さんが何だか困っているような妙な表情をしているのを認めて、那間裕子女史はそう後に続けるのでありました。頑治さんは自分の好い気な勘違いを指摘されたような心持ちになって、何となくもじもじとして仕舞うのでありました。
「均目さんとその事について、ちゃんと話し合ってはいないのですかね?」
「別に話し合う必要はないんじゃないかしら。これ々々こう云う訳だから別れましょうなんて、態々そう宣言して終わる必要もないんじゃないの、こう云う事は」
「まあそうですけど、何となくけじめを付けると云うところで。・・・」
「お互いの気持ちが離れた事は、態々云わなくてもお互いに判るでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 693 [あなたのとりこ 24 創作]

 それはそうでありますか。那間裕子女史も均目さんもそんなに鈍感な性質ではないし、お互いの心持ちに察しがついたならば、後は出来るだけ穏やかに背を向ければそれで済む事でありますか。確かにその方が如何にも自然かも知れないでありましょうか。
「まあ、妙なけじめ意識はこの際不要ですかね。俺の性分としては何だか曖昧に事が終わるのは、どうしてもどこか落ち着かない気がして仕舞いますけどね」
「終わったとお互いが感じれば、それが決着よ。事後処理なんかは何もなしよ」
 那間裕子女史はそう云ってコップの中の日本酒を干すのでありました。
「なんだか妙にさばさばし過ぎているような気がしないでもないですけど」
「唐目君は律義な性格なのね、屹度。それとも実はウェットな人なのかしらね」
「ウェットと云うのはつまり、めそめそしていると云う事ですかね?」
 頑治さんは那間裕子女史のコップに一升瓶を傾けて酒を注ぎ足すのでありました。
「めそめそと云うのじゃなくて、実は感情が後を引くタイプと云うのか」
「感情が後を引く、という表現が今一つ俺には判りにくいのですが、まあ要するに、未練がましいヤツだと云う事ですかね」
「白黒をはっきりさせないと気が済まないとか、綺麗さっぱり物事に終止符を打たないと落ち着かないとか云うのは、実は最後の最後迄物事をはっきりさせたくないとか、完全に終わりだと云う認識を持ちたくないとか云う気持ちの裏腹な現れなんじゃないかしらね。何だか自分でも云っている事がよく判らなくなってきたけど」
 那間裕子女史はコップの酒を一気に半分程口の中に流し込むのでありました。
「難しい事になってきましたね」
 頑治さんは腕組みして首を傾げて見せるのでありました。
「もうこの話しは止しましょう」
 那間裕子女史はコップに残っている酒をまたほぼ一口で飲み干すのでありました。随分早いペース、と云うよりは無茶な飲み方と云うべきでありましょうか。
「まあ、俺もこの手の話しは苦手だから、止す事に一票、ですねえ」
「ところでさあ、・・・」
 那間裕子女史はそう云って頑治さんに視線を向けるのでありました。何やら目が妙に座っているように見えるのは、コップの中身を二口で空けた酔いが急に回ったためでありましょうか。頑治さんはその眼容に気圧されたようにおどおどしながら、また那間裕子女史の空いたコップに酒を急いでなみなみと注ぎ足すのでありました。
「ところで、・・・そう云う訳で、あたしは今フリーと云う事よ」
 那間裕子女史は一升瓶の口際を持った頑治さんの右手の甲に、自分の左掌を重ねるのでありました。「云っている事、判るわよね?」
 那間裕子女史の掌が妙に熱いのは、屹度酔っているために違いないと頑治さんはどぎまぎしながら考えるのでありました。それで一升瓶を畳に置く動作に紛らわせて、那間裕子女史の掌をやんわりと自分の手の甲から、不自然にならないように振り解くのでありました。なかなか上手にそれはやれたと頑治さんは秘かに満足するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 694 [あなたのとりこ 24 創作]

 しかし、それくらいで許してくれる那間裕子女史ではないのでありました。女史は離れた掌を懲りずにまた頑治さんの右手の甲に左掌を重ねて、今度は容易に振り解かれないように頑治さんの手を、力を入れてグイと握り締めるのでありました。
「いやあ、もう、こう云うのは、まごまごして仕舞いますねえ」
 頑治さんは態とお道化たように云うのでありました。しかし変な風に険悪な雰囲気になる事を恐れて、無理に那間裕子女史の手を振り解く事は避けるのでありました。
 那間裕子女史は頑治さんの右手を持った儘、先程頑治さんになみなみと日本酒を注がれたコップを右手で持ち上げるのでありました。中の酒がほんの少し縁から零れてコップを持つ那間裕子女史の指を濡らすのでありました。
「もうこうなったら、覚悟を決めるのね」
 那間裕子女史はそう宣した後、ほぼ一息でコップを空けるのでありました。
「いやあ、そう云われても、何と云うのか、・・・」
 頑治さんは怖じたように硬い表情で那間裕子女史を見るのでありました。頑治さんの優柔不断に那間裕子女史は舌打ちをして、決然と頑治さんの右手を引き寄せると、挑むように自分の左胸に押し付けるのでありました。意外にふくよかな柔らかい感触に頑治さんは一瞬息を飲むのでありました。この那間裕子女史のむやみな大胆さなんと云うものは、屹度今立て続けにコップ二杯をがぶ飲みしたところの酒の為せる業なのでありましょう。
 いや! そんな事をここで悠長に考えている場合ではないと、頑治さんは慌てて那間裕子女史の胸の上にある己が右手を強引に自分の胸元に引っ込めるのでありました。それでも那間裕子女史の左手は、頑治さんの右手の甲から離れないのでありました。
 那間裕子女史は意地になって、またもや頑治さんの右手を自分の胸の上に乗せようと引っ張るのでありました。それは案外強い力なのでありましたが、しかし頑治さんは自分の胸元から自分の手を動かさないのでありました。
 その後何度か小さな振幅で押し引きがあって、那間裕子女史は到底頑治さんの力には叶わないと諦めて、頑治さんの手からぞんざいに自分の左手を離すのでありました。
「全く、愛想もクソもないんだから」
 那間裕子女史はその後つんけんした語調で云うのでありました。
「いやあ、愛想とか無愛想とか、そう云う事では、ないんですけど、・・・」
「唐目君は案外意気地なしなのね」
「ええもう、こう見えて至って気の小さい男でして、・・・」
 頑治さんがそう云うと那間裕子女史は暫く頑治さんの顔をまじまじと見て、それから徐に溜息を吐いて苦笑いを浮かべるのでありました。
「判ったわ。つまり彼女さんの方に忠義を立てている訳ね」
「と、云いますか、まあ、つまり、そんなような、そんなようでないような。・・・」
「立派な心掛けだと褒めてあげるわ」
 那間裕子女史はすっかり白けたような云い草をするのでありました。
「どうも、面目ありません」
(続)
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あなたのとりこ 695 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは頭を掻くのでありました。それを見た那間裕子女史はまた舌打ちして、一升瓶を取り上げて自分のコップに自らなみなみと酒を注ぐのでありました。こうなったら飲むしか他に遣るべき何事もないと云うところでありますか。
「そんなにハイピッチで飲むと体に悪いですよ」
「つべこべ云わないの」
 頑治さんの心配顔を横眼に、那間裕子女史はまたそれを一気飲みで喉に流し込むのでありました。もうこれは自棄酒の類いとも云うものであります。
 こうなってはもう、傍でなんと諌めても聞き入れる筈はないでありましょう。頑治さんは嫌な予感に苛まれながら那間裕子女史の飲む姿を見据えているのでありました。

 那間裕子女史の体がぐらりと揺れるのでありました。女史の目が半眼になっているからその目玉の状態は確とは判らないのでありましたが、屹度何物もフォーカスしてはいないのでありましょう。止まろうとする独楽が揺れながら回るように体が揺れていて、それは屹度酔いのために目が回っているのを反映しているのでありましょうか。
 那間裕子女史の体軸の揺れが重心軸の補正域外にはみ出した後、女史は頑治さんの肩に崩れかかるのでありました。それは気を失ったような倒れ掛かり方でありました。
「大丈夫ですか?」
 これで大丈夫な訳がないと判っていながらも、頑治さんは自分の肩の上の那間裕子女史の頬に訊くのでありました。勿論返答はないのでありました。これではこの前、酔い潰れてこのアパートに遣って来て、玄関先で倒れていた時の焼き直しであります。
 頑治さんはその儘無体に肩をどけて、那間裕子女史の頭を畳の上に落とすのも気が引けるものだから、左手で女史の頭を支えてそろりと肩を抜くと、女史をゆっくり畳の上に仰向けに寝かせるのでありました。女史は前後不覚と云う感じで、体の力が抜けているものだから、無事に横たわらせる迄が一苦労なのでありました。
 さてどうするかと、頑治さんは那間裕子女史の寝顔を見下ろしながら考えるのでありました。未だ電車の動いている内に寝覚めてくれれば良いものだけど、若し終電を過ぎても寝た儘だとすれば、これはまた厄介な事であります。今次は、均目さんとの経緯を聞かされた以上、均目さんに救援を求める事も出来そうにないでありましょうから。
 しかしそれにしても那間裕子女史は先回と合わせて二回も、曲がりなりにも男児たる頑治さんの家に遣って来て、その前でこうも簡単に酔いつぶれて仕舞うと云うのは、如何にも不用心な人であります。若し頑治さんに悪心があるなら、この油断は格好の餌食にされると云う事ではありませんか。まあ、酔いつぶれる前に那間裕子女史は頑治さんに迫って来たのではありますから、寧ろこれは意中の事だと云えなくもないかも知れませんが。
 兎に角何れにしても、頑治さんは困るのでありました。この窮地を脱するためには、無責任且つ不人情ながら、三十六計しかないようであります。そうするとその内に酔いも去って覚醒した那間裕子女史は、頑治さんがこのアパートに居ない事に気が付いて、途方に暮れてすごすごと自分の家に帰って行くしかないと云う寸法であります。
(続)
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あなたのとりこ 696 [あなたのとりこ 24 創作]

 若し那間裕子女史が何処までも頑治さんのアパートに居座るとしたなら、頑治さんは今夜帰るべき家を失う事になる訳であります。しかしまあ、時候は真冬の寒風吹き荒ぶ頃でもなし、一夜くらい外で過ごしても別に過酷な事でもないというものであります。
 頑治さんは決して潔くはないそんな決定をすると、そおっと立ち上がって玄関先に向かうのでありました。部屋の電灯は点けっ放しにしておいても構わないし、鍵は掛けるとしても内側からそれは解除できるから、那間裕子女史は帰る事は出来る筈であります。女史が帰った後暫くの無施錠の不用心は仕方のないところでありますけれど。
 ドアノブの回る音を極力たてぬように扉をゆっくり押し開けて、また閉まる時の音も注意深く無音に済ませて、頑治さんは誰憚る事のない自分の家であるにも関わらず、妙にビクビクしながら部屋の外に出るのでありました。無事に外に出ると溜息を吐くのでありましたが、ここで何故か急に腹がかなりへっている事に思い至るのでありました。那間裕子女史を放ったらかしにして、自分一人だけ食事を摂るのも何やら気が引けない事もないのでありましたが、まあ、相手は昏睡しているのだから仕方がない事でありますか。
 頑治さんは地下鉄の本郷三丁目駅近くの、夕美さんが上京してきた折等、時々一緒に食事に入った事のある中華料理屋に向かうのでありました。
 ところで若し夕美さんが東京に来ている時に、那間裕子女史が今日みたいな感じで頑治さんの家を訊ねて来ていたとすれば、何だか非常にややこしい事に相成った事でありましょう。しかし今日の場合、来た時には未だ那間裕子女史は酔い潰れてはいなかったから、ひょっとしたらすったもんだはあったにせよ、結局は何とか円く片が付いたかも知れませんが、前の時のようにすっかり酔い潰れて前後不覚で玄関先に倒れていたとしたら、これはもう、考えただけでげんなりする程厄介な事件になった事でありましょうか。
 てな事を考えながら炒飯とラーメンを食い終って、頑治さんは腕時計を見るのでありました。終電には未だ時間があるのでありました。
 もう少し帰るのを遅らせる必要があると考えて、頑治さんは本郷三丁目駅近くの喫茶店で時間を潰すのでありました。そこは夜中の二時迄遣っている店で、飲んだ帰りのサラリーマンらしき客が二組程、離れた席に座って、緩んだ姿勢でコーヒーを啜りながら、テニスのテレビゲームを夢中でやっているのでありました。何やらあんまり好ましい雰囲気ではないのでありましたが、まあしかし、ここは仕方がないところでありますか。
 喫茶店を出たのは夜中の一時を過ぎた頃で、もう正気に戻ったなら、那間裕子女史は確実に帰った頃でありましょうか。外からアパートの自分の部屋を窺うと、点けっ放しにして出て来た電灯は消えているのでありました。
 と云う事は那間裕子女史は頑治さんが出て来る時の儘で、ずうっと寝ていると云う事ではないのでありましょう。ずうっと寝ているとすれば、電灯は点けられている儘である筈でありますから。頑治さんは思わず指を鳴らすのでありました。
 しかし単に電灯を消して、部屋の中でぼんやり座っている可能性もあると云えばあるのであります。しかししかし、電灯を態々消して座っている謂れはないでありましょう。これは矢張りもう帰ったと云う事でありましょう。そう願うばかりであります。
(続)
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あなたのとりこ 697 [あなたのとりこ 24 創作]

 まあこう云っては何ですが、那間裕子女史が部屋の電灯をちゃんと消してから帰って行った、と云うその律義さなんと云うのは、女史にはあんまり似つかわしくはないようにも思えるのであります。しかし電灯を消す生真面目さがあるとするなら、無施錠で部屋を去る不用心をも憚るでありましょう。と云う事は、消灯してはいるけど部屋に居る、と云う事も考えられなくもない訳であります。さて、そうならどうしたものでありましょう。
 頑治さんはドア口で部屋の中の様子を窺うのでありました。何となく人の気配はないような感じでありますか。しかしうっかりドアを開けて那間裕子女史が中に居たら、これはもう、これ迄の時間潰しが骨折り損と云う事になって仕舞うのであります。そればかりではなく那間裕子女史に、酔い潰れた人間を何故一人残して出て行ったのかと大袈裟に騒がれたりして、益々の窮地に追い込まれるかも知れないのであります。
 さあて、これは実に悩ましい事態であります。頑治さんはこの土壇場で、ドアノブを回す勇気がなかなか湧いてこないのでありました。
 しかし夜中にこうして外で部屋の中の様子を窺っているのを誰かに見られたら、不本意ながらあらぬ疑いを招くやもしれません。警察に通報されでもしたら、こりゃまた面倒であります。頑治さんは竟に意を決して、無施錠のドアノブをグイと回すのでありました。それから上がり込んで部屋の電灯を灯すと、中には誰も居ないのでありました。
 頑治さんは安堵の溜息を吐くのでありました。那間裕子女史は目論見通り、どうやら終電前に自分の家に帰って行ったようでありました。この辺りの那間裕子女史の様子てえものは、屹度本棚の上のネコのぬいぐるみがしっかり見ていた事ありましょう。
 まあこれで何となく無事に事が終わったと云うところでありますが、頑治さんはどこかモヤモヤが心根の内に残るのでありました。それは那間裕子女史のプライドを結果として傷つけた事になったと云う悔悟ではなくて、均目さんの向後の仕事に付いて頑治さんが何も知らないと、しらばくれて仕舞ったと云う点でありました。
 均目さんと片久那制作部長は、何も知らない那間裕子女史の想像が一定程度的を射ていた通り、片久那制作部長の始めた仕事を均目さんが手伝うと云う風に確約を取り交わしていたのでありましたし、それを頑治さんは均目さんから既に聞いていたのでありました。またそれは、先ず片久那制作部長から頑治さんに打診があった事なのでありました。
 頑治さんはその誘いを断ったのでありましたし、均目さんはそれをおいそれと引き受けたのでありました。また頑治さんはその後でひょっとしたら那間裕子女史にも誘いが行くのかも知れないと、何となく流れから考えていたのでありましたがそれはどうやらないようでありました。要は、片久那制作部長は那間裕子女史を選ばなかった訳であります。
 均目さんは選ばれたと云うのに、自分は片久那制作部長に選ばれなかったと云う点で、ひょっとしたら那間裕子女史はメンツを傷つけられたと感じるかも知れないと、頑治さんは慮ったのでありました。なかなかにプライドの高い那間裕子女史の気質を考えて、それで正直にこれを話す事が出来なかったのでありました。
 まあ、頑治さんの考え過ぎなのかも知れません。しかしこの辺に用心深いのは、強ち間違っているとも云えないようにも思うのであります。
(続)
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あなたのとりこ 698 [あなたのとりこ 24 創作]

 しかし後日、知っていたのに何故教えなかったのかと、那間裕子女史からその不実に対するお叱りを受ける事になるやも知れません。その時何となく那間裕子女史の体面を傷つけるのが憚られたためだと云い訳しても、それは返って女史のプライドをより一層傷つける事になって、到底理解しては貰えないかも知れないでありましょう。
 頑治さんはその辺の気持ちのモヤモヤが消えないのでありました。会社を辞めた後はもう那間裕子女史と逢う事もなかろうと思うのでありますが、それだけに余計、けりを付けられなかった痛恨事として、或いは那間裕子女史に対する引け目として、何時までもこのモヤモヤは頑治さんの心根の内に屹度長く残り続けるのでありましょう。

 翌日例によって那間裕子女史は朝寝坊のために、一時間程遅刻して会社に現れるのでありました。もう辞めていく女史に対して態々教誨を垂れるのも無意味と考えているのか、あの三度の飯よりガタガタと些細な事にもケチを付けるのが大好きな土師尾常務も、扉を開けて入って来た女史と目も合わせないで無関心を決め込んでいるのでありました。
「おはよう」
 那間裕子女史は先ず袁満さんに明るくそう声を掛け、次に頑治さんにも屈託なく声を掛けて、少し暗い調子で甲斐計子女史に声を掛けるのでありました。土師尾常務には彼の人の無視との釣り合いで、ここに居ない者の如く一瞥も呉れないのでありました。
 頑治さんに対する声の掛け方は何時ものようにあっけらかんとしていて、昨日二人の間であった擦った揉んだをまるで反映していない様子であったのは、まあ、那間裕子女史のプライドか或いは照れ隠しかのどちらかにしろ、一先ず頑治さんは胸のつかえがほんの少々下りたような心地でありましたか。勿論頑治さんの顔を見た途端、どうして昨日は自分を一人残して何処かへ遁走して仕舞ったのかと詰りだす程、那間裕子女史は極度の独りよがりでもなく非常識人でも多分ないのは重々判っているのではありましたが。
 まあ、那間裕子女史も努めて何時も通りに頑治さんと接しようとしているのでありましょう。昨日のゴタゴタを翌日の会社に持ちこむ必要は何もないのでありますし。
 頑治さんはその日の配送伝票が出ていないことを確認して、一階の駐車場奥の倉庫に下りて行くのでありました。取り敢えず制作部関連の仕事もその日はないようでありましたから、午前中は倉庫の整理に時間を使えそうであります。
 箒で床を掃いていると袁満さんが遣って来るのでありました。
「今日は朝から日比課長の姿がありませんでしたが、何処かに直行ですか?」
 頑治さんがそう声を掛けると袁満さんは下唇を突きだして、肩を竦めて首を左右に何度か傾げて見せるのでありました。
「知らないよ、俺は。まあ、大方得意先に直行なんだろうけど、その連絡の電話は俺は取ってはいない。土師尾常務にでも聴いて貰わないと」
 何となく素っ気ない云い方でありました。もう日比課長の事なんか、自分は知ったこっちゃないよと云うところをこう云う云い方で表しているのでありましょう。
「別に態々日比課長の動向を土師尾常務に確認する気はありませんよ」
(続)
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あなたのとりこ 699 [あなたのとりこ 24 創作]

 袁満さんはこのところ日比課長とは、何だかしっくりとはいっていないような感じであります。前はあんなに、互いに冗談半分の悪態をつき合う程の名コンビであったのでありましたけれど。まあ、労働組合が結成されて、その組合に対する二人の態度の違いが明らかになった辺りから、どことなく屈託が生まれたと云う感じでありましょうか。
 それに甲斐計子女史に対する態度も変化したような風でありますか。昼休み等、袁満さんと甲斐計子女史が連れ立って何処かで昼食を共にしたり、食事の後始業時間迄喫茶店なんかでコーヒーを飲みながらよく二人で過ごしているようでありましたが、このところそう云う付き合いもさっぱりなくなったようであります。
 袁満さんと甲斐計子女史は、ひょっとするとひょっとする仲、なのではないかと、或いはそうなるのではないかと頑治さんは考えたりしたのでありましたが、もうそのような気配は全く感じられないのでありました。寧ろ袁満さんは土師尾常務も日比課長も出掛けて仕舞って、営業部スペースに二人だけで残されるのが何だか気重のようでもあります。だからこれと云った用もないのに、袁満さんは頻繁に倉庫に遣って来るのであります。
「袁満さんは最近、甲斐さんと食事したりはしていないのですか?」
 頑治さんは如何にも軽い調子、と云った口調で訊いてみるのでありました。
「いやあ、最近は全くないな。一緒に食事するどころか、朝と帰りの挨拶や仕事に関する事以外、滅多に言葉すらも交わさないし」
「那間さんと、袁満さんと甲斐さんが時々昼休みに一緒に歩いていたりするのを見て、案外好い仲なのかも知れない、とか話していたんですけどねえ」
「甲斐さんに昼飯を奢って貰って一緒に会社に帰っていたところを、偶々唐目君と那間さんに目撃されただけだろう」
「いや、偶々ではなく、何度となく目撃しましたよ」
「ああそうだったかな」
 袁満さんは恍けて見せるのでありました。「しかし、好い仲も何も、俺と甲斐さんは十歳も歳が離れているんだから、そんな仲になる訳がないじゃないか」
「いや、その気なら十歳の歳の差なんかは、さしてどうと云う事はないでしょう」
「いやあ、十歳と云う年齢差は結構重大な要素だよ」
 そんな風に袁満さんが云うところを見ると、ひょっとしたら袁満さんは甲斐計子女史と好い仲になる可能性について、結構真剣に考えた事があるのかも知れないと頑治さんは考えるのでありました。それ故に返って事ここに到ると、何だか二人の仲が急激にギクシャクして仕舞ったのだと云う風にも推察出来なくもないでありますか。
「俺と甲斐さんより、唐目君と那間さんの仲はどんな按配なんだい?」
 袁満さんが頑治さんにそう訊き返すのでありました。
「俺と那間さんの仲、ですか?」
 今度は頑治さんが恍けて見せる番でありました。「俺と那間さんと云うより、均目君と那間さんの仲の方が深いんじゃないですかね」
 頑治さんは昨日の事を竟思い浮かべて平静ではいられないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 700 [あなたのとりこ 24 創作]

「でも傍から見ていると、那間さんはどちらかと云うと均目君より唐目君の方に興味がありそうに見えるけどね。均目君と話している時より唐目君と話している時の方が、目が生き々々しているように見えるよ。これは甲斐さんも前にそう云っていたけどね」
「そんな事は特にないんじゃないですか。それより袁満さんは、そんな事も甲斐さんと二人で居る時に話題にしているんですね」
「まあ喫茶店でコーヒーを飲んでいる時のちょっとした話しでね。もう前の事だけど」
「で、端的に訊きますけど、袁満さんは甲斐さんの事を、歳の差はさて置くとして、どのように思っているんですかね?」
 頑治さんは自分と那間裕子女史の話題を避けようとそう話しを振るのでありました。
「どのように、とは?」
「つまり、好い仲になっても良いなとか、そう云う風に思っているんですかね?」
 そう訊かれて袁満さんは少しどぎまぎするのでありました。
「さっきも云ったように、歳の差十歳と云うのは、俄かにはさて置けない事だよ」
「そうですかね。俺はそんなに重大事だとは思いませんけどね」
「いやあ、でもあれこれ考えると、矢張りかなり大きな要素だよ」
「と云う事は、あれこれ考えた事もある、と云う事ですね?」
 そう訊かれると袁満さんは決まり悪そうに、返す言葉を失ったように口を閉ざすのでありました。しかしここでおっとり沈黙した儘でいると頑治さんの余計な勘繰りを許す事になると考えてか、急いで何か云い繕うべき言葉を探すように目玉を微揺動させるのでありました。まるで土師尾常務の気の弱さを思い起こさせるような仕草でありました。
「いやまあ、竟うっかりそう云う風に云ったけど、別に真剣にあれこれ考えたと云う事ではないよ。変な誤解は止してくれよ」
「そうですか。実は俺は、袁満さんと甲斐さんは全くお似合いのカップルだと、ずっと前から思っていましたけどねえ」
「そうかなあ」
 袁満さんは、そんな筈はないよ、と云うニュアンスを出そうとしてそんな曖昧な返事をものすのでありましたが、しかし頑治さんは袁満さんの目がやにさがっているのをしっかり確認するのでありました。内心満更でもない、と云う感じでありますか。
「甲斐さんだって未だ三十代半ば、と云うところですから女盛りですよ。そんなに袁満さんと不釣合い、と云うものでもないんじゃないですか」
「まあ確かに、二人で話していると年齢差程老けていると云う感じじゃないし、話題も俺とそんなに合わない訳でもないし。・・・」
 おやおや、風向きが微妙に変わってきましたかな。
「偶々甲斐さんの会社に居残ると云う判断と、俺達の退社と云う思惑の違いで変なしこりが出来たみたいだけど、それはちゃんと話し合えば判り合える事柄じゃないですかね。だからそれで甲斐さんとの仲を諦めて仕舞うのは、如何にも癪じゃないですか?」
「うーん、まあ、そうかなあ。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 701 [あなたのとりこ 24 創作]

「ここは一番、もう少し強気に出る時じゃないですかね」
 頑治さんが云うと袁満さんは、小さくではあるけれどしっかり頷いて見せるのでありました。折角好い感じになってきた甲斐計子女史との仲をこれで終了させたくないと云う袁満さんの真情が、この頷きではっきり吐露されたと云う事になるのでありましょう。
「その内また昼飯にでも誘ってみるかな。まあ、何時もは甲斐さんが先ず俺を昼飯に誘ってきて、その後でコーヒーを俺が誘っていたんだけどね」
「そんなのはどっちが先でどっちが後でも良いじゃないですか」
 袁満さんは妙なところに拘るのでありましたが、これはひょっとしたら二人の仲に於いて甲斐計子女史の方が積極的だったと云うところを、見栄から敢えて頑治さんに強調したかったのでありましょうか。ま、ここでこう云うのは無用な自尊心でありますけれど。とまれ袁満さんは甲斐計子女史との今迄の仲を、この先もずっと続けていきたいと願っているのであります。これは疑いのない明快な気持ち、と云えるでありましょう。
 袁満さんは向後の指針を得たような気になったのか、これで意気揚々と、と云うとやや大袈裟の誹りを免れないでありましょうが、それでも倉庫に現れた時よりは溌剌として上の事務所に引き上げて行くのでありました。序ながら、頑治さんと那間裕子女史の件に関しても、それ以上の質問やら追及はなくて済むのでありました。

 翌日の昼休みに頑治さんは均目さんから、珍しく昼食に誘われるのでありました。このところ均目さんとは昼食を一緒に摂る機会は失せているのでありました。それどころか、朝に慣習的な挨拶を交わす以外は一日殆ど口を利かない日もあるのでありました。
 食事は近くの中華料理屋でさっさと済ませて、その後均目さんの誘いで神保町の喫茶店ラドリオに入って午後の始業迄の時間を潰すのでありました。
「唐目君は会社を辞めた後の仕事は、もう目途を付けているのかい?」
 均目さんは珍しく紅茶を飲みながら訊くのでありました。
「いや、未だ何も。この分だと当分はその日暮らしかな」
 頑治さんは何時も通りウィンナーコーヒーを啜るのでありました。
「暫く骨休めでもする心算かい?」
「骨休めする程この会社で働いていないよ」
「それはそうだな」
 均目さんは口の端を歪めて苦笑するのでありました。
「均目君の方は片久那制作部長から、何時から仕事に来てくれとか、そう云った具体的な話しなんかはもうあったのかな?」
「うんまあ、ぼちぼちね」
 均目さんは紅茶カップの縁から唇を離すのでありました。「片久那制作部長は地下鉄の新宿三丁目駅の傍に仕事場をもう構えていて、何度かそこに行った事があるし、仕事の手伝いなんかも少しさせて貰っているよ、そんなに本格的にと云う訳ではないけど」
「へえ。もうそっちの仕事に取り掛かっているんだ」
(続)
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あなたのとりこ 702 [あなたのとりこ 24 創作]

「そんなに本格的にではないけど」
「まあ、着々と、会社を辞めた後の生計の道を実行している訳だ」
「いや、当初はそんなに賃金を貰える訳がないから、生活は今より苦しくなるかな」
「それでも、今後の方途が未だ決まっていない俺よりはマシだ」
「片久那制作部長に付いていけば、将来は取り敢えず間違いないと思うよ。あれこれ心配する事もない訳じゃないけど、今はそう考えるしかないかな」
「まあ、重畳と云うところじゃないか」
 頑治さんは湯気の向こうの均目さんの顔を薄っすら見ながら、泡立った生クリームの下に隠れているコーヒーを一口啜るのでありました。
「那間さんとはその後どうなんだい?」
 頑治さんはそれとなく訊いてみるのでありました。
「もう最近はすっかり付き合いはないよ」
 これは、那間裕子女史から聞いたのと同じような応えでしました。
「もう仲を解消した、と云う事かな?」
「はっきりとけじめを付けたような感じじゃないけど、何となく互いにもう連絡もしなくなったし、それでも別に心騒ぐ訳じゃなし、この儘フェードアウトしていく感じかな」
「フェードアウト、ねえ」
 頑治さんは何となく均目さんの言葉を繰り返すのでありました。「で、今はそのフェードアウトの途中と云う事かな?」
「いやもう殆ど、収束段階と云う事になるだろうな。お互いに、電話連絡どころか、近況伺いもしないし、それに別段寂しさも感じなくなったし」
「何だかやけにあっけない感じだな」
「今更、未練タラタラ、と云う感じで全くはないよ」
 均目さんは紅茶を飲み干すのでありました。「それより那間さんは実は唐目君に気があるんだろうな。だから俺が見限られた訳だ」
「いや、そんなんじゃないんじゃないかな」
「だってこの前、那間さんはグデングデンに酔っぱらって突然唐目君を訊ねたんだし、それは酒の勢いを借りて、唐目君に自分の思いを伝えようとした所行に他ならないし。まあ結局は唐目君が持て余して、俺が彼女を迎えに行ったんだけど。しかし、つまりは俺より唐目君の方に、那間さんの思いは移ったって事に違いないだろう」
「いやあ、そうとばかりも云えないだろう」
 頑治さんは数日前に那間裕子女史が家に来た事を思い浮かべるのでありましたが、それはここでは口にしないのでありました。
「そう考えないと事の辻褄が合わないと思うけどね」
「そうじゃなくて、実は那間さんは均目君との仲が、意に反してギクシャクしだしたのをくよくよ思い悩んでいて、それをなんとかしようとして、ああ云う傍から見れば妙な行動に打って出たんじゃないのかな。俺はそんな気がするけど」
(続)
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あなたのとりこ 703 [あなたのとりこ 24 創作]

「俺に対する当て付けとして、と云う事かい?」
「当て付けと云うよりは均目君に対する、レトリックとしての訴え、と云うのか、もっと云えば、求愛、と云うのか、まあそんな感じの。・・・」
「求愛?」
 均目さんは首を傾げるのでありました。
「那間さんなりの、均目君を標的とした愛情表現としての行為だったんじゃないかな」
「云っている事がよく判らないな」
 均目さんは腕組みして頑治さんから視線を外すのでありました。
「要はそう云う不埒な事を態とする事によって、那間さんは何となく関係がギクシャクし出した均目君に、もう一度自分の方を振り向いて貰いたかったんだと思うんだよ」
「しかし那間さんが唐目君の家に酒に酔って押しがける事を俺は知らなかったし、仄めかされてもいなかったんだから、あの那間さんの行為に俺は無関係な筈だ」
「そこが那間さんの心の動きの、ユニークなところだよ」
 頑治さんは何やら自分の云っている事が、如何にも不自然で込み入り過ぎていて、明らかに作り事めいていると、云いながら思うのでありました。つまり均目さんに対する誤魔化しでありますか。那間裕子女史の気持ちが頑治さんではなく均目さんの方をターゲットにしているのなら、数日前に頑治さんの家を再度訪ねては来ないでありましょうし。
「何だか唐目君は、那間さんから逃げる口実として、俺をここで無理矢理持ち出してきているような感じがするなあ。無茶な論の立て方は何の説得力もないぜ」
 均目さんは苦笑するのでありました。
「いやあ、那間さんの思いは、まだ均目君に向いていると思うけどなあ」
 もうこれは、頑治さんの引っ込みがつかないための苦しい戯れ言と云わざるを得ないでありましょう。それを均目さんにちゃんと見透かされているのは、もう判っているのでありましたし、これ以上、ああだこうだと下らない屁理屈を捏ね続けるのは、いやはや寧ろ屈辱的であり、見苦しいだけと云うものでありますか。

 紅茶を飲み終えた均目さんが、手持無沙汰にテーブルの上を人差し指と中指と薬指を使ってリズミカルに連打しているのでありました。
「コーヒーでもお代わりするかい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「いや、もう一杯飲む程時間はないだろう」
 均目さんは腕時計を見ながら云うのでありました。それから頑治さんの顔を、何事か云いた気にじっと見据えるのでありました。
「何か云いたい事があるのかな?」
 頑治さんはヒョイと眉を上げて見せるのでありました。
「片久那制作部長が、唐目君にも自分の今の仕事を手伝って貰いたいようだよ」
 均目さんは頑治さんの顔を見据えた儘でそう云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 704 [あなたのとりこ 24 創作]

「それはもう、前にきっぱり断った事だけど」
「でも片久那制作部長は、唐目君のスカウトを諦めていないようだぜ」
「そう云われても、なあ。・・・」
 頑治さんは困じたように眉根を寄せるのでありました。
「片久那制作部長の新しく興した会社に入ると云う目は、全くないのかい?」
 均目さんは頑治さんの顔を覗き込むのでありました。
「その気はないよ」
「何か殊更の問題でもあるのかい?」
「いやそう云う訳じゃないんだけど」
 頑治さんは首を小さく横に振るのでありました。
「しかし会社を辞めた後すぐに、好都合にも折角片久那制作部長が誘ってくれているんだから、再考してみる余地もありそうなものじゃないか」
「何となく気が乗らないんだよ」
「気が乗らない?」
 均目さんは怪訝な顔をするのでありました。「つまり、はっきりとした理由なんかは何もない、と云う事なのかな?」
「まあ、そうだけど」
 頑治さんは均目さんの顔から視線を外して頷くのでありました。
「だったら考え直しても良いんじゃないか?」
 均目さんは片久那制作部長の意を受けて、彼の人に成り代わって、ここでもう一度頑治さんを熱烈にスカウトしているのでありましょうか。
「均目君は俺をもう一度誘えと、片久那制作部長から頼まれたのかな?」
「ま、そう云う事だよ。もう一度唐目君の気持ちを確かめて来いと」
「どうして片久那制作部長は、そんなに俺を誘いたいのだろう?」
「それは当然、唐目君を大いに買っているからだろう」
「そんなに買われるような覚えは、ちっともないんだけどなあ」
 頑治さんが苦笑するのを見て、どう云う訳か均目さんはここで、変に険のある尖った表情をして見せるのでありました。片久那制作部長の厚意をちっとも解していない頑治さんの不躾と鈍感さに、思わず苛々したのでありましょうか。
「唐目君には片久那制作部長の会社に来る気なんか、全くない訳だね?」
 均目さんは念を押すように訊き質すのでありました。
「気が乗らないのは今でも変わってないよ」
「そうか。判った」
 均目さんはあっさり頑治さんのスカウト話しをここで打ち切るように云うのでありましたが、特段これで不愉快を抱いたような様子はないのでありました。寧ろ頑治さんにはこの頑治さんの返事を聞いて、どこか安堵したような気配すら窺われるのでありました。この場合の均目さんの思いなんと云うものは、一体どう云うものなのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 705 [あなたのとりこ 24 創作]

「もう電車も終わっているのに俺のアパートに態々遣って来て、那間さんを連れ帰ったその行為から、俺は均目君と那間さんの仲が前より、より昵懇になったんじゃないかって思ったんだけど、でも結局はそうではなかったんだなあ」
 頑治さんはまた那間裕子女史の話しに戻るのでありました。「均目君に那間さんを大事に思う気持ちが未だあったからこそ、労を厭わなかったとばっかり思ったんだけど」
「そうでもないさ」
 均目さんは話題がまた戻った事に。少しげんなりしたような顔をして見せるのでありました。でありますから、何となく素っ気ない云い草なのでありました。
「あの事件の後暫くして、そんな風になったのかな。それともあの事件の前から、均目君の気持ちは那間さんから離れていたのかな?」
「まあ、前からと云う方が正解かな。ああして那間さんを迎えに行ったのは、まあ、唐目君よりも俺の方が、酒に酔った那間さんの扱いに長けている筈だと云う判断からかな」
 均目さんはやや戯れ言めかした云い草をするのでありました。
「つまり那間さんを思って、と云うより、俺を気遣って、と云う事かい?」
「まあ、習い性と云うのか、身に付いていた義務感と云うのか」
「何だいそれは?」
 頑治さんは怪訝そうな顔をして見せるのでありました。
「まあ、もう良いじゃないか」
 均目さんは面倒臭そうに云って小さな舌打ちをするのでありました。「その習い性も義務感も、すっかり俺の中から消えたんだから」
 これ以上訊いてくれるな、と云うような頑治さんの質問に対する拒否が語調に含まれているのでありました。ま、これ以上那間さんの事に付いて均目さんにあれこれ質問を重ねるのは、野暮であり不躾でもありましょうか。
「取り敢えず片久那制作部長には、唐目君は来る気がないと云って置くよ」
 均目さんはそう云って立ち上がるのでありました。要はその事が訊くのが目的で頑治さんを誘ったのでありましょうから、もう目的は達したと云うところでありましょうか。
 ラドリオの出口迄、頑治さんは均目さんと並んで歩くのでありました。
「じゃあ。いきなり誘って迷惑だったかな」
 均目さんは外に出た後で頑治さんを振り返って云うのでありました。その顔は別に済まなさがっているようでもない顔でありました。
「いや別に」
 頑治さんも無味乾燥に返すのでありました。
 一緒に帰社しないで出口の辺りで別れて、頑治さんは退職した後は、もう均目さんとは逢う機会はないのだろうと思うのでありました。これで事切れで、その別れを前以て云うために、均目さんはその日頑治さんを昼食と喫茶に訪ったと云う事になるでありましょうか。勿論、片久那制作部長に頑治さんの意を確かめて来いと云われていたのもありましょうが、それは形式上の事で、実は別れの挨拶のための食事会だったのでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 706 [あなたのとりこ 24 創作]

 そうして恐らく、那間裕子女史にも、退職した後はもう逢う事もないでありましょう。そういう意味ではこの前の那間裕子女史の訪問も、云わばさようならの挨拶だった訳であります。そうしようと思ってした訳ではないのでありましょうが、二人共、云いように依ってはなかなかに義理堅い律義者だったと云う事も出来るでありましょうか。

   エピローグ

 愈々明日は退職すると云う日の夜に、片久那制作部長から電話がかかってくるのでありました。何時もなら電話の呼び出し音を聞いた段階で、この電話を掛けて来た主が誰であるのか大凡の見当が付いて、その勘は大体に於いて当たっていたのでありましたが、この電話が片久那制作部長からであると云うのは全く以って見当外なのでありました。
「均目君から聞いたよ」
 名乗った後で、片久那制作部長は云うのでありました。勿論、無愛想でブツブツと呟くような、やや聞き取りにくいその音声は片久那制作部長のものであると、頑治さんは名前を聞く前に既に判ってはいたのではありました。それに、均目さんから聞いた、と云うのは頑治さんが片久那制作部長の興した会社に入る気がないと云う事でありましょう。
「ああそうですか」
 頑治さんはやや済まなさそうに応えるのでありました。
「何か、会社を辞めた後にやりたい事があるのか?」
「いや、そう云う事ではないんですが」
「俺のところに来るのがそんなに嫌と云う事かな?」
「そう云う事でも、勿論ないんですけど」
 頑治さんは何とも曖昧に受け応えるだけでありました。
「はっきり云って俺としては今の仕事を、均目君よりも唐目君と一緒にやりたいと考えているんだ。唐目君の方が編集者として将来有望だと思っているし」
「いやあ、それは俺の器量を買い被り過ぎていますよ」
 頑治さんは受話器を耳に当てた儘首を横に振るのでありました。
「俺の目は節穴じゃない」
「勿論、片久那制作部長の目を節穴だと云っているんじゃ決してないですよ」
「じゃあ、均目君に対する一種の遠慮か?」
「そう云うものでもないです」
「じゃあ、俺のところに来たくない本当の理由は何なのだろう?」
 そう問い詰められると、頑治さんは大いに困るのでありました。明快な理由なんかないと云うのが、実のところでありましたから。
「会社を辞めた後、暫く旅行にでも行こうかと考えていて。・・・」
「それはまあ優雅な事だが、しかし延々と旅行を続ける訳でもあるまい」
「それはそうですが。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 707 [あなたのとりこ 24 創作]

「旅行から帰ってきたら、その時から来てくれればいいんだが」
「いやあ、延々と旅行を続ける訳じゃないけど、しかしいつ帰るかは判りませんから」
「本当に、何時からだってこっちは構わないんだよ」
 片久那制作部長はなかなか執拗なのでありました。
「何と云うのか、未だ次の仕事の事を考える気持ちの切り替えが出来なくて」
「ある程度ならこちらも待つ心算はあるが」
「それは逆に自分の方が心苦しいしですよ」
 ここで片久那制作部長は次の言葉を継がないのでありました。頑治さんの煮え切らなさに遂に愛想を尽かしたか、あれこれ言を構えてうんと云わない頑治さんに、全く脈がないとはっきり見極めたと云う感じでありますか。そう思って頑治さんは安堵するのでありましたが、片久那制作部長を怒らせたのなら、これは申し訳ないところでありますが。
「まあ、唐目君に来る気がないと云うのはしっかり判ったよ」
 片久那制作部長は特に怒っている風でもなく、かと云って極端にがっかりしたと云う風でもないような、素っ気ない云い草をするのでありました。
「折角誘っていただいているのに、申し訳ないですけど」
「いや、まあ、判った。それじゃあこれで」
 片久那制作部長は無愛想に電話を切るのでありました。この無愛想なんと云うものは、まあ、態々誘ってやっていると云うのに頑治さんが鈍い反応しか示さない、或いは故意に鈍くしか対応しようとしない煮え切らなさに憤慨したのでありましょう。自分のワンプッシュどころか、異例のツープッシュに対しても頑治さんがあくまでもつれない態度であるのは、嘗て目をかけて遣った自分の厚意を軽んじられた気がするでありましょうし。
 頑治さんは何となく片久那制作部長に済まないような思いもあるのでありました。折角あれこれ気にかけてくれたし、制作の仕事も丁寧に教えてくれて、信頼して任せてもくれたのでありましたが、それに報いる事が出来ないのは心苦しい限りであります。
 何より、片久那制作部長は贈答社と云う会社の中に於いては随一に頼りになる人でありましたし、その人が興した会社に厄介になる方がこの先また面倒な職探しなんかするよりも、仕事を得ると云う点に於いて余程確実であり楽ちんではありましょう。それに一応は気心の知れた均目さんとも同僚となって一緒に働けるのでもありますし。
 しかし何となく片久那制作部長とこの先ずうっと関係を持つと云う事に、ある種のしんどさをも感じるのであります。それはこれ々々こう云う訳でしんどい、と云う確たる理由があるのではないけれど、何と云うのか、まあ、相性と云うのか、自分とは異人種であると云う感覚と云うのか、好悪の傾向が多分全く違う人だと云うのか、まあ、抽象的且つあやふやながら、そう云う風に云うしかないところでありましょうか。
 均目さんとも、何となくこの辺りで一先ず縁切りにした方が無難なような気がするのであります。勿論那間裕子女史との一件もありますが、それよりこの先片久那制作部長の下で同じ仕事をしていたら、屹度その内に妙な事から反目し合うようになって仕舞って、険悪な仲になって、結局はどちらかが去る事になるような予感がするのであります。
(続)
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あなたのとりこ 708 [あなたのとりこ 24 創作]

 まあ、そう云う人間関係にとことん付き合うと云う手もあるのでありましょうが、そちらに掛かり切りとなると一方のもっと大切な人である夕美さんとの仲が、今より一層希薄になりはしないかと云う危惧があるのでありました。これは頑治さんとしたら間尺に合わないところでありますし、贈答社を辞める事を丁度良い契機として、この辺りで夕美さんとの関係の再構築の方に専心したいと云う志望が胸の内に濃く在るのでありました。でありますからここは一番、多少の好奇心の疼きをさて置く決心と相なったのであります。

 片久那制作部長の電話を切ったあとで、立て続けに珍しく甲斐計子女史から電話が入るのでありました。甲斐計子女史から電話を貰うのは多分初めての事でありましょう。この電話に関しても、頑治さんはかけてきた人の目星が全くつかなかったのでありました。
「夜遅い時間にご免ね」
 甲斐計子女史は先ずそう謝るのでありました。
「いやまあ、未だそんなに遅くもないですから」
「少し時間、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
 頑治さんは甲斐計子女史に矢張り迷惑だったのだと思われないように、努めて快活に返事するのでありました。本当に、別に迷惑でもなかったのでありますから。
「袁満君の事なんだけど、・・・」
 甲斐計子女史は云いにくそうに切り出すのでありました。「実は二三日前に、会社帰りに袁満君から、少しの時間一緒にコーヒーでも飲まないかって誘われたのよ」
「ふうん、そうですか」
 頑治さんはどことなく無関心そうにさらっと返すのでありました。しかし実は、ほう、袁満さんときたら早速甲斐計子女史にアタックしたのかと、指を鳴らしたいような心境でありました。袁満さんもここはなかなか本気のようであります。
「別に断る理由も無いから、御茶ノ水駅の近くの喫茶店に二人で入ったのよ」
「まあ甲斐さんは袁満さんと昼休みなんかによく二人で、食事の後に、午後の始業時間迄会社の近くの喫茶店なんかでお茶していましたからねえ」
「日比さんから誘われたら、すぐさまピシャリと断ったんだけどね」
 そう云えば甲斐計子女史は前に日比課長に会社帰りに待ち伏せされて、しつこく食事とかお茶とか、場合によっては酒なんかに誘われていたようでありました。女史の言に依れば、何だか日比課長の目が妙にいやらしそうで気持ち悪くて、悉くそれは断り続けていたようでありましたが、しかし付き纏いがあんまり執拗なので、一度頑治さんは女史に神保町の駅まで一緒に付いてきてくれないかと頼まれた事もあったのでありましたか。
「で、袁満さんと喫茶店に行って、どうしたのですか?」
「こういう場合の何時ものように、どうと云う事もない話題で暫く喋っていたんだけど、何だか袁満君の様子が、何時もと違って妙にそわそわしているのよ」
 袁満さんの如何にも固くなっていたその時の様子が目に浮かぶようであります。
(続)
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あなたのとりこ 709 [あなたのとりこ 24 創作]

「要するに何か甲斐さんに、大事な事を云いたいような雰囲気ですかね?」
「そうね、まあ、そんな感じ」
「で、何やらの大事な話しが、実際にあったんですか?」
 こここそ、肝心なところであります。
「うん、それがね、・・・」
 甲斐計子女史は少し云い淀むのでありました。頑治さんとしては大凡察しは付くのでありましたが、心急くのを抑えて甲斐計子女史が喋り出すのを待つのでありました。ほんの少し沈黙した後に、甲斐計子女史は続けるのでありました。
「うん、それがね、先ずあたしに、誰か付き合っている特定の人がいるのか、とか聞いてくるのよ。そんなの、いる訳がないじゃない。若しいるのなら、この歳まで一人でブラブラしている筈がないじゃないの、ねえ、そうでしょう?」
「はあ、まあ、良く判りませんけど」
 そう訊かれても、それはそうですねと明快に云うのも何やら憚られるようで、頑治さんは有耶無耶にこう応えるのでありました。
「第一、態々改めて確かめなくても、普段の会話の気配からも、そんな人なんかいない事は良く判っている筈じゃないの」
「まあ、慎重派の袁満さんとしては、一応確かめてみたんじゃないですか」
「そうかも知れないけど、ちょっと会話として間抜けじゃない」
「まあ確かに、野暮ですかね、見ように依っては」
 甲斐計子女史ご指摘の如く、その質問は無粋でちょっとピントを外した質問だと云う感じがしない事もないですが、袁満さんらしいと云えばその通りでありますけれど。
「で、そんな事なんか袁満君に云う必要があるの、なんて少し怒ったように云ったら、袁満君はおどおどして、いや別に云いたくないのなら云わなくても構わないとか、口に含んだコーヒーを吹き出しそうにしながら、慌てて手を横に振って謝るのよ」
 甲斐計子女史のその時の描写は、そんな袁満さんに嫌気を催して云っていると云う感じではなくて、どちらかと云うと好意を感じさせるような云い草でありましたか。
「で、甲斐さんは明言しなかったのですか?」
「まあ、そんな人なんかいないって、結局ちゃんと応えたけど」
「成程。で、その疑問が解消した袁満さんは、その後どうしたんですか?」
「だったらちょっと真面目に、俺と付き合ってみてくれないかって、もじもじしながら目も合わせないで、如何にも云いにくそうに下を向いた儘で云うのよ」
「ふうん、成程」
 頑治さんは、でかした、と袁満さんに心の中で喝采を送るのでありました。「で、甲斐さんとしてはそれに何と応えたのですか?」
「どう応えたものか判らなかったから、ちょっと黙ったの」
 これを拒否だと袁満さんが早とちりしない事を祈るのみであります。
「それでお仕舞い、と云う事ではなかったんでしょう?」
(続)
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あなたのとりこ 710 [あなたのとりこ 24 創作]

「結局、返事は少しの間待ってくれって云ったのよ」
「じゃあ、明快な返答はしないで、その日は喫茶店を出て別れたんですかね?」
「まあ、そう云う事」
「それで今日迄あれこれ考えてもはっきり結論が出ないから、頼りにはなりそうにないけど一応袁満さんと親しい俺に相談しようとして電話をした、と云う事ですかね?」
「頼りにならないなら、突然こんな電話なんかしたりしないわ」
「俺なんかより均目君辺りの方が気の利いたアドバイスが出来るんじゃないですかね」
「均目君に相談する気は起きないわ」
 甲斐計子女史はきっぱりと云うのでありました。「均目君は実は人が悪そうだから、こんな相談事をすると、屹度面白がるだけだろうし、肚の中であたしの事を笑うだろうし、それは心外だから真面目な相談の電話なんかするもんですか」
「それじゃあ同性の那間さんとかはどうでしょうかね?」
「那間さんに、そんなに親しい感じは元々持っていなかったし、それに那間さんに相談するのは何となく癪だし、こっちも秘かにあたしの事を笑うような気がするし」
「ふうん、そうですかねえ」
「どうやら唐目君に相談したのもあたしの間違いだったようね」
 甲斐計子女史は頑治さんが、自分より均目さんや那間裕子女史の方が相談相手として相応しいのではないかと云った事で、相談されるのを億劫がっているのだと感じたようで、こうして電話した事を後悔するような云い草をするのでありました。
「いや、俺で良ければ勿論相談に乗ります」
 頑治さんは努めて真剣に、且つ不躾にならないように気を遣いながら、相談に乗る事に吝かでないところを伝えるのでありました。
「本当は迷惑なんじゃないの?」
「で、お聞きしますが、甲斐さんは袁満さんと付き合うに於いて、一体何が第一番目の障害だと考えているのですか?」
 頑治さんは仕切り直すように、甲斐計子女史に問うのでありました。
「それはつまり、・・・あたしと袁満君の、歳の差よ」
 甲斐計子女史は片久那制作部長や土師尾常務と同い年で、頑治さんとは十歳の年齢差があるのでありました。と云う事は袁満さんとは九歳差と云う事になるのであります。
「ええと、確か袁満さんとは九歳違いと云う事になるんですよね?」
「そうなるわね」
 甲斐計子女史は何となく体裁悪そうな云い草をするのでありました。
「九歳差と云うのは、別にそんなに重大な障害だとは俺は思いませんけどね」
「そうかしら。・・・」
「そうですよ。それくらい歳の離れた仲は世の中には一杯あるんじゃないですかね」
「あたしはあんまり聞いた事がないわ」
「そんな事はありませんよ」
(続)
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あなたのとりこ 711 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは断言するのでありました。「それは全く大した問題ではないですね」
「でもあたしは何だか、妙に不自然な気がして仕方がないんだけど」
 甲斐計子女史は弱気な事を云うのでありましたが、頑治さんに大した問題ではないと断じられて、電話の向こうで少しはホッとしたような気配も窺わせるのでありました。
「しかしこうして相談を持ち掛けてくるところを見ると、甲斐さんとしては歳の差が問題じゃないとなれば、袁満さんと付き合う気持ちは充分あると云う事ですよね?」
「そうね、まあ、袁満君はのんびり屋で何だか頼りないところもあるけど、・・・」
「頼りないところもあるけど、でも、だからと云って嫌いではないと?」
「人の好さと愛嬌は認めるわ。男としての色気はあんまり感じないけど、・・・」
「色気は感じないけど、でも、だからと云って嫌いではないと?」
「まあ、嫌いだって事はないわね、それは多分。・・・」
 何だか歯切れは悪いものの、これは満更でもないと云う告白でありますか。
「袁満さんも甲斐さんとの歳の差の事は、充分考えたと思いますよ」
「それはそうよね。当たり前よね」
「しかし充分考えた上で、それでも付き合ってくれと云ったんですから、それは袁満さんの真意だし真心だし、袁満さんを嫌いじゃないとなれば、甲斐さんがその真心に報いてあげるのはごく自然な経緯、と云う事になるんじゃないですかね」
「そうかしら、ねえ。・・・」
「若しかしたら、袁満さんじゃもの足りないですかね?」
「うーん、そう感じるところもあったけど、組合の委員長として頑張っていたし、社長や土師尾さんに対してもそんなにもの怖じしないで、一生懸命に反論したりしているところを見たら、まあ、意外と男気はあるし、頼りになるかなとは思ったわ」
 これはなかなか好印象であります。
「じゃあ、袁満さんの申し出を受けるのに、何も支障はないじゃないですか」
「そう云う事になるけど、でも、ねえ。・・・」
「ここは勇気を出して、承諾の返事をするべきだと思いますが」
「でも袁満君は本当にあたしなんかで良いのかしら」
「甲斐さんが魅力的だからこそ、交際の申し込みをしたに決まっているじゃないですか。袁満さんに何か別の変な思惑でもあると考えるとしたら、それは気の毒ですよ」
「勿論袁満君に限って、そんなものはないと思うけど」
「じゃあ、承諾するのに問題はないということですよね」
「そうねえ。・・・」
 甲斐計子女史はここに及んで未だ及び腰を見せるのでありました。しかし頑治さんは自分の説得が、ほぼ成功しているだろうと云う確信を持つのでありました。
「まあ、今後の幸運を心から祈っています」
 甲斐計子女史との電話を終えてから、頑治さんはどこかしら仄々とした心地になるのでありました。一種の解放感と云っても良いでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 712 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんの贈答社での社員生活は終わりを迎えるのでありましたし、そこに於ける種々の人間関係も恐らくは同時に悉く終焉するのでありましょうが、袁満さんと甲斐計子女史の新たな関係が恐らくこれから始まるのであります。これは喜ぶべき事でありますし、向後も末永く、且つ目出度く続く事を祈るのみであります。
 終わりの最中にあってもそこから新たな始まりが生まれると云うのは、大袈裟に云えば連綿と続く人たるものの理でありますか。いやはや自分は、柄にもない言葉をよくもまあ遣うものだと、頑治さんはここで一人自嘲の笑いをするのでありました。

 愈々退職の日でありますが、その日迄にするべき残務処理はほぼ済ませていたから、終業時間を迎えたらすぐに件の四人は会社を後にするのでありました。別に会社主催で慰労会とかサヨナラ会を催してくれる予定もなかったのでありましたし、土師尾常務はこの日も午後から外回りに出ていて、終業時間になっても一向に帰って来る気配がないところを見ると、直帰するとの電話をもう間もなくかけてくるのでありましょう。
 日比課長は退職する四人とけじめの挨拶を交わそうと終業時間前に帰社しているのでありました。甲斐計子女史は別れを残念がってか、四人に近所の花屋で買ったと思しきちょっとした惜別の贈り物なんぞをくれるのでありました。四人は恐縮の態で、日比課長からの別れの言葉と甲斐計子女史からの小さな花束を受け取るのでありました。
「それにしても薄情なものだな」
 日比課長が舌打ちするのでありました。「ご大層な店じゃなくても、近くの居酒屋でも構わないから、ご苦労さんの宴席を会社で持ってくれてもよさそうなものだけどな」
「いやあ、社長や土師尾常務と一緒じゃ酒も不味くなるから別に良いよ」
 袁満さんが片手を横に振って見せるのでありました。
「それにしても、今迄会社を盛り立ててくれた社員に無礼じゃないか」
「会社を盛り立ててくれたなんて、あの二人が思っている訳がない」
 袁満さんは鼻を鳴らすのでありました。
「それならこれから、この六人でどこかに飲みに行くか」
 日比課長が提案するのでありました。
「それは良いわね」
 那間裕子女史が早速賛意を示すのでありました。「唐目君も袁満君も、それに均目君も、別に異存はないわよね?」
「俺は大丈夫ですよ」
 最初に、唐目君も、と云われた手前、と云う事もないのでありますが、頑治さんが最初に返事をするのでありました。
「俺はちょっと、これから用があるから遠慮するよ」
 袁満さんがここで同調を躊躇うのでありました。
「何だい、まさかデートがあるとか云わないだろう?」
 日比課長がからかうような調子で訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 713 [あなたのとりこ 24 創作]

「まあ兎に角、ちょっと、今日は拙いんだよ」
 袁満さんは日比課長の、デートがあるかどうか、という問いに対しては言を曖昧にしながら、都合が悪いとのみ云い張るのでありました。
「俺も実はこれから用事があるんだ」
 均目さんも恐縮の態で酒宴の参加を断るのでありました。
「何だ、均目君もダメなのかい?」
「ええ、申し訳ありませんが」
「あたしも遠慮しておくわ」
 甲斐計子女史も拒否の意を表するのでありました。酒宴の後で日比課長に、この後二人だけで何処かで飲もうとかと誘われるのを、大いに警戒しているのだろうかと頑治さんは推測するのでありました。しかし皆で一緒に飲むのならそんな心配もなかろうし、また若し誘われたとしても、頑治さんに護衛を頼めば良い事であります。まあ、そうなったら今度は頑治さんにではなく、袁満さんに頼むのが筋と云うものでありましょうけれど。
 と、ここで頑治さんははたと気付くのでありました。袁満さんと甲斐計子女史は、これから二人で食事に行く約束をしているのかも知れないのであります。つまり、デートであります。だからこの二人は日比課長の提案に乗ろうとしないのであります。と云う事は、日比課長の冗談口調のからかいは、実は正鵠を射ていたことになる訳であります。まあ、これはあくまでも頑治さんのふと閃いた思い付きでしかないのでありますが。
「じゃあ俺の提案に乗るのは那間さんと唐目君の二人だけか」
 日比課長はがっかりしたように云うのでありました。
「そう云う事なら、あたしも遠慮しておこうかな」
 那間裕子女史がどこか白けたような云い草をするのでありました。酒宴となれば場合に依らずすぐにおいそれと乗って来る筈の那間裕子女史が躊躇するのは、これは慎に異例であると頑治さんは意外に思うのでありました。まあ、相手が日比課長と、この前気まずい思いをさせられた頑治さんとあっては、意気も消沈と云ったところでありましょうか。
「と云う事は、唐目君だけか」
 日比課長は嘆息するのでありました。
「それじゃあまあ、折角の日比課長の提案ですが、酒宴はまた後の、皆が好都合な時に改めて、と云う事にして、今日は止めておきましょうかね」
 頑治さんは申し訳なさそうに日比課長に頭を下げるのでありました。
「その方が無難ね」
 那間裕子女史もすぐに頑治さんに同意するのでありました。
「じゃあまあ、皆の都合が悪いと云うのなら仕方がないけど」
 日比課長が如何にも残念そうにここで提案を引っ込めるのでありました。まあ、頑治さんと二人だけで飲むのは、日比課長としてもそれ程楽しくもないでありましょうし。
「均目君はこれから何の用事があるの?」
 那間裕子女史が均目さんの方を見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 714 [あなたのとりこ 24 創作]

「いやまあ、ちょっと」
 均目さんは何となく誤魔化すような云い草をするのでありました。
「片久那さんのところに仕事の斡旋でも頼みに行くの?」
 那間裕子女史に何気ない風に突然そう訊かれて、均目さんは迂闊にも少しおどおどするような気配を見せるのでありました。これは那間裕子女史の誘導的な質問に、竟うっかり嵌って仕舞ったと云う事になるのでありましょうか。
 那間裕子女史は均目さんが皆に知られないところで片久那制作部長と繋がっていて、その意を受けて会社の中で色々と、今度の組合の解散なんかに関しても画策なんぞを行っていたと踏んでいるのでありました。それに均目さんの新たな就職先も、片久那制作部長の力添えでもう決まっているのかも知れないと疑っているのでありました。
 これは那間裕子女史のなかなかに鋭い勘のなせる業で、別にこれと云った証拠なんぞは何もないようでありましたが、しかしまあ大凡のところで見事に当たっているのでありました。この辺は、そんじょそこらの隅には置けない侮り難い人であると、頑治さんは秘かに舌を巻いて、ある種の畏怖の念をも抱いているのでありました。
 那間裕子女史に気付かれないように、均目さんは秘かに頑治さんの顔を上目で見るのでありました。どうやら那間裕子女史の今の、均目さんに対する揶揄を思わせる言は、頑治さんからの情報に因ると考えたのでありましょう。頑治さんが片久那制作部長と均目さんの繋がりを、屹度那間裕子女史に教えたに違いないと推察した模様であります。
 これは頑治さんにすれば全く謂れのない嫌疑と云うものでありまして、当然均目さんは知る筈もない事ではありますが、頑治さんは那間裕子女史にその辺を仄めかしたりは決してしていないのでありました。頑治さんとしては自分に不当な疑いがかけられた事に何とも遣る瀬ない思い等抱くのでありましたが、この陰鬱は那間裕子女史と均目さんの両人が居るこの場に於いては、辻褄上、晴らそうにも晴らせないものなのでありました。
 後日そう云う機会があればでありますが、均目さんには説明して誤解を解く事も出来そうでありますが、まあ、実際のところこの均目さんの嫌疑なんぞは、どうでも構わない事のようにも思われるのでありました。誤解されているとしても、敢えてその弁明を何としてもしなくてはいけない事とは、実際のところもう考えないのでありました。
 まあ、那間裕子女史の方には、後々の面倒を考えて、何も知らないと云う態度に徹する必要はありますか。慎に後ろめたい事ではありますけれど。・・・
 また後日判明した事ではありますが、袁満さんと甲斐計子女史は矢張りこの後二人だけの食事会を予定していたのでありました。この二人の急接近に関しては頑治さんが果たした役割、つまり夫々の電話に於いて夫々に、二人が付き合うべきだとまんまと唆した功績なんと云うものは、なかなかに大なるものがあったと云う事になるのでありましたか。

 結局お別れ会もなく、仕事先(?)から直帰するのであろう土師尾常務への挨拶も、もうその日はとっくに社長室から居なくなっていた社長へのお別れの言もなく、四人は会社から去るのでありました。実にあっさりした最終日と云う感じでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 715 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは次の日はのんびり朝寝を貪るのでありました。もう出社時間を気にしないで済むと云うのは、何と気楽に布団の中にいられるのでありましょうか。
 とは云っても、那間裕子女史や袁満さん、それに均目さんと違って在職年数、いや月数の少なさから退職金が出なかった頑治さんは、この先の生活費工面の心配があるのでありましたが、まあ、仕事を辞めた次の日くらいはお気楽に朝寝坊をしても罰は当たらないでありましょう。多少の蓄えくらい、ありもする事でありますし。
 それに夏に予定している帰郷であります。帰郷後に決まった予定なんかないのでありますから、好きなだけ向うに居られるのであります。つまり夕美さんと存分な逢瀬を楽しめるのであります。それは考えただけでも心躍る事であります。
 思えば夕美さんとは大学四年生の時に、こちらで偶然再会してからの付き合いでありますから、同じ高校に通っていたにも関わらず高校生の時には、その存在くらいは知ってはいたけれど、滅多に口もきかない仲なのでありました。だから向こうで、睦まじく二人でデートをしたとか、喋々喃々と話しをしたとか云う事は今迄全くないのでありました。依って、向こうで逢瀬を楽しむなんぞは、実に以って新鮮なる事柄なのであります。
 どうせこちらに当面の用事はないのでありますから、少し早い目に帰郷して、夏の海にでも行ってみると云うのも好いでありましょう。或いは郊外にある街を一望する小高い山の公園の木蔭で、夕美さんと寄り添って、島々の多く浮かんだ海に沈む残照を眺めながら静かに時間を過ごすのも好いでありますか。これは楽しみであります。
 それに向うを切上げる時には、丁度その時に夏休みを取る夕美さんを帯同しているのであります。そうしてこちらでもまた、夕美さんと暫く一緒に居られるのであります。夕美さんがこちらを引き上げて向こうに帰って仕舞ってからは、こんなに長い時間一緒に過ごす機会は今迄一度もなかった事であります。楽しみは長続きするのであります。
 いやしかし、考えたらそんなに長く向こうに滞在するだけの金銭的な余裕が、失業した頑治さんにあるのでありましょうか。頑治さんは布団の中で急に眼を開いて、天井の一点を見ながら預金通帳を頭の中に思い浮かべるのでありました。
 まあ、向うでの滞在と旅行費用は何とかなるとしても、こちらに戻った後の生活が逼迫するかも知れません。預金通帳に如何程の残金があるのかちゃんとは判らないのでありましたが、ここで不安になって布団から抜け出して小箪笥の引き出しを開けて、物の陰に隠すように仕舞ってある通帳を取り出して、態々金額を確認するなんと云う野暮はしないのでありました。惰眠を貪るための布団をそのために抜け出すのはまっぴらであります。
 まあ、なんとかなるでありましょう。どうしても生活費の工面が付かないようなら、次の仕事を見付けるタイミングをちょいと早めれば良いだけの話しのであります。
 それに向うに滞在している間は、高校時代の友人とか親戚とか、知り合い宅を図々しく転々としていれば、宿泊費は節約する事が出来ると云うものであります。それに向うに帰る電車賃にしても、少々時間と手間と労力はかかるけれど、普通列車を乗り継ぎ乗り継ぎしながら帰れば、相当に浮かすことが出来ると云うものであります。なあにどうせ失業者でありますから、時間と気楽さは持て余す程持っているのでありますし。
(続)
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あなたのとりこ 716 [あなたのとりこ 24 創作]

 そんな事を考えるともなく考えていたら、頑治さんはすぐに頭の下の枕の中に意識が吸い込まれていくのでありました。そうして再び目を開けると、もはや夕暮れの気配が部屋の中に忍び寄って来ているのでありました。
 目が覚めたのは腹が減っていたからでありました。その日は未だ一碗も飯を食してはいないのでありました。これでは目も覚める筈であります。
 頑治さんは布団をゴソゴソと抜けだして顔を洗って身支度を済ますと、本郷通りの裏道沿いにある定食屋で早い目の夕食を済ますのでありました。この後アパートの部屋に帰っても別にする事もないので、頑治さんは夕刻の散歩と洒落込むのでありました。
 頑治さんは本郷三丁目の交差点を春日通りの方に曲がって、本富士警察署横を左に折れて無縁坂を抜けて、不忍池の畔を歩いて上野公園に出るのでありました。考えてみればこの前この辺をブラブラ歩きしたのは、五月の連休に夕美さんが来た時でありましたか。帰郷した後で夕美さんと一緒にこちらに戻ってきた折は、またこの散歩コースをゆるりと歩いたりするのでありましょう。それもまた、向後の楽しみの一つではありますか。
 動物園の前の自動販売機で頑治さんは缶コーヒーを買うのでありました。そう云えば前に夕美さんと散歩した時にも、この自動販売機で飲み物を買ったのでありました。ここの散歩者にとってこの自動販売機は、丁度喉の渇きを催したところで具合良く置かれているのでありますか。そうならなかなか考えられた配置と云うべきでありましょうが、ま、殊更そう云う計略に依ってここに設置されている訳ではないのでありましょうけれど。
 頑治さんはその場で缶コーヒーのプルリングを空けるのでありました。それから徐に口に持っていこうとしてふと前を見ると、何処かで見た事のある顔を視界にとらえるのでありました。誰であるのか少し考えてから、それは前に会社に於いて頑治さんの前任者として業務の仕事をしていた、刃葉香里男さんであると気づくのでありました。
 頑治さんはこの前任者たる刃葉さんには大いに手を焼いたのでありました。刃葉さんはまあ、良いように云えばなかなか個性的で、万事にマイペースで、人との関わり合いが苦手で、会社にとっては、優良社員と云った風がまるっきりない人でありました。
 仕事中に小腹が空くと仕事をうっちゃって、昼休みでもないのに平気で一時間も喫茶店で飲み物付きの軽食を摂ってみたり、空手の稽古と称して倉庫の中に保管してある商品の入った段ボールをサンドバッグ代わりにしてみたり、それを見咎めた、これも前に会社にいた山尾主任にその無神経を注意されても、中の商品が傷まないようにちゃんと(!)考えてやっていますよ、等と別に不貞腐れて抗弁している風でもなく、さらっと云ってのけるのでありました。大人物の風があると云えば、云えなくもないでありましょうか。
 倉庫の管理もかなり好い加減で、車の運転もなかなか乱暴で、それに何時も心ここに在らずで運転しているから、仕事先の道順もなかなか覚えないのでありました。しかしこれに関しても当人は至って恬淡としていて、反省しているとか苦にしているような風は全くないのでありました。頑治さんは時々その尻拭いをする事もあったのでありました。まあこんな具合だったから、頑治さんが倉庫の管理とか荷物や製作材料の集配をするようになったら、至って評判が良いのでありました。別に嬉しくもないのでありましたけれど。
(続)
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あなたのとりこ 717 [あなたのとりこ 24 創作]

 その刃葉さんがこの自動販売機の方に遣って来ているのでありました。別に逃げ隠れする謂れはないのでありましたが、頑治さんは咄嗟に自動販売機から不自然にならないように気を付けながら、素早く離れるのでありました。
 どうやら頑治さんは刃葉さんには気付かれなかったようでありました。刃葉さんは脇目も呉れず自動販売機迄来ると、頑治さんが先程買ったのと同じ缶コーヒーを買って、その儘妙に急ぎ足でそそくさと立ち去っていくのでありました。
 そう云えば前にもこの上野公園の動物園脇の同じ自動販売機の前で、もう会社を辞めていた刃葉さんと逢ったのでありました。丁度頑治さんは夕美さんと一緒に散歩をしていたところであったから、何となくばつの悪い思いをしたのでありましたか。その時確か刃葉さんは、空手の修業か何かで、小さな牧場をやっている師匠を手伝い旁、北海道に渡るとか云っていたのではなかったかしらと頑治さんは思い出すのでありました。
 その刃葉さんがあれから一年もしない内にこちらに戻って来たのでありましょうか。空手の修行とか牧場の手伝いなんかはどうしたのでありましょう。
 一応、修行、と云うのだから、一年も経たない内に切り上げて戻って来ると云うのはないような気がするのであります。持ち前の飽きっぽい性分からか、はたまた一緒に生活してみて師匠とは反りが合わなかったためか、またはその師匠と云う人の技術或いは人格に疑問が湧いてきたとかで、早々にケツを割って帰って来たのでありましょうか。
 まあ、ひょっとして師匠に用事を云い付けられて、偶々一時的にこちらに戻って来ただけかも知れません。以前あれだけ空手に打ち込んでいた刃葉さんでありますから、そう簡単に、修行、をうっちゃって仕舞うとは思えないではありませんか。
 取り敢えず刃葉さんに見つからないでこの場を遣り過ごせた事に、頑治さんは安堵するのでありましたが、しかし考えてみれば、若し見つかって言葉を交わすことがあったとしても、頑治さんには何の不都合があるのでありましょう。どうして見つからなかった事にほっとしているのか、これは自分でも謎でありましたが、まあ強いて云えば、刃葉さんがどうしてここに居るのか聞く事、それに頑治さんが会社を辞めた事を報告して、それについてあれこれ経緯など説明する事が億劫だった、と云う事は云えるでありましょうか。
 こう云う事で頑治さんのこの上野公園散歩は、ひょんな事から長閑で能天気な散歩とはならないのでありました。頑治さんは夕暮れた街を、何となくモヤモヤした気分を抱えながら、行きよりは速い速度で家迄歩いて引き返すのでありました。

 さて、七月の終わりに頑治さんは久し振りに、当初の予定通り一週間程故郷へ帰るのでありました。態々駅に迎えに来た夕美さんとの久し振りの逢瀬に抱き合って喜びを表現したいところでありましたが、人目を気にして手繋ぎだけで押さえるのでありました。
「どう、久しぶりの故郷は?」
 二人で懐かしの街並みを歩きながら、夕美さんが訊くのでありました。この街一の繁華街である長いアーケードの、商店の連なりを頑治さんは見渡すのでありました。
「前に来た時とあんまり変わっていないかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 718 [あなたのとりこ 24 創作]

「長い不況で飲食店が大分減ったって、この前テレビで云っていたけど」
「でも人出も前と同じで大して変わっていないようだし」
「そうでもないわよ。あたし達が高校生の頃の賑わい比べると、確かに何となく活気がなくなっているみたいな気がするわ。まあ、このアーケードだけじゃなくて街全体から、どことなく活気が失せたような感じがするわ」
「そうかなあ」
 頑治さんは行き交う人の波を見るのでありました。頑治さんには今一つ、印象としてこの街の様子が以前とそんなに変わっていないように見えるのでありました。
「あたし達が大学に入る頃が、丁度この街が衰退期に入る辺りね」
「しかし駅前なんか、前よりも見違えるように綺麗になった感じだけど」
「駅とその周辺は大規模改修で綺麗になったけど、駅からこのアーケードに続く間の街並みは、シャッターを下ろした店舗が増えたわよ。気付かなかった?」
「そう云われてみれば、そうかなあ」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
 ところで考えてみれば頑治さんは、この街を夕美さんと一緒に肩を寄せ合って歩くのは初めての事なのでありました。高校生の時までは、夕美さんとは殆ど口もきかない間柄なのでありましたし。だからその新鮮さに竟々茫となって仕舞って、街の変貌ぶりなんかには殆ど注意がいかなかったのと云うのが実際でありましたか。そんな具合の頑治さんでありましたから、横に居る夕美さんしか目に捉えていないのでありました。
 二人はアーケードから小道を折れた処にある、小さな喫茶店にぶらりと立ち寄るのでありました。そこは頑治さんが子供の頃からある店で、小学生の頃に親と数回、高校生になってからは一二度友達と入った事もあるのでありました。
「今日は何処に泊まるの?」
「叔母の処だよ。三日間くらいは泊めてくれると思うよ」
「その後はどうするの?」
「離島からこの街に来ていた高校の同級生がいて、そいつがその儘こっちにアパートを借りて住んで大学に通っているから、そいつの処に厄介になる心算だよ」
「帰る実家がないと云うのは、なかなか大変ね」
「いやあ、それはもう云っても仕様がない事だし」
「何ならあたしの処に来て貰っても構わない、と云いたいところだけど、お母さんの事があるから、申し訳ないけどちょっと無理かな」
 夕美さんはさも済まなさそうに目を伏せるのでありました。
「いやあ、俺が突然泊りに行くと云うのは、夕美にしても困るだろう。先の事としてはそれもあるかも知れないけど、今回は俺としても辞退しておくよ」
「まあその方が良いわね。頑ちゃんの事を未だちゃんと両親に話していないものね」
 夕美さんは頑治さんに弱々しい微笑をするのでありました。
「お母さんの具合は、どうなの?」
(続)
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あなたのとりこ 719 [あなたのとりこ 24 創作]

「ここのところ、全く食事を受け付けなくなっているのよ」
「そんなんで体は大丈夫なの?」
「大丈夫な筈がないから、ほぼ毎日病院に行って栄養注射を打って貰っているわ。もうぼちぼち再入院って事になるんじゃないかしら」
「何だか大変そうだなあ。そう云う事なら尚更俺としては、夕美の家に泊めて貰うのは遠慮しなくっちゃいけないじゃないか」
「そうね。まあそう云う訳だから、ご免ね」
「夕美が謝る事は別にないけど」
 頑治さんは本気で済まなさそうにしている夕美さんに笑って見せるのでありました。
「それでね、・・・」
 夕美さんは俯いて卓上の自分のコーヒーカップに目を落とすのでありました。「母の具合がそう云う感じだから、頑ちゃんが東京に戻る時にあたしも一緒について行くって事だったけど、それはとても出来そうにないのよ」
「ああ、それはそうだろうな。そう云う折にお母さんの元を離れる訳にはいかないか」
「まあ、すぐにどうこうと云う事じゃないと思うんだけど、病院通いの母を置いてあたしだけのんびり東京に遊びに行くのは気が引けるし、気持ちも乗らないし」
「それはその通りだよ」
 頑治さんは夕美さんを気遣うように云うのでありました。
「ご免ね、約束していたのに」
「いや、こう云う場合だし、ちょっとがっかりだけどそれは仕方がないし、そんなに気にする事はないよ。お母さんの病気が快方に向かう事を俺も祈っているよ」
「有難う。そう云ってくれると救われるわ」
夕美さんは頑治さんに小さくお辞儀するのでありました。
「そうなったら俺がこっちに居る間だけは、二人で大いに楽しもうぜ」
「そうね。こう云う事なら頑ちゃんがこっちに居る時に、あたしも夏休みを取ればよかったわ。二週間前迄に夏休みの申請をするんだけど、もう手遅れだしね」
「まあここで悔やんでばかりいてもつまらないから、明日からの一週間分の予定を立てようぜ。夕美は土日は丸々休みなんだっけ?」
「ううん。七月と八月は日曜日と月曜日が休みなの。月曜日は博物館の休館日で、もう一日の休みはローテーションで決まるのよ」
「ふうん。公務員だからきっちり土日が休みと決まっている訳じゃないんだ」
「土日は学校が休みだから、寧ろ小中学生や、高校生の事を考えて、博物館とか図書館とか、それに体育館なんかは土日は開館しているのよ」
「ふうん。市民サービスと云う観点からかな」
「そうね。市や県の方針でもあるし」
「お役所も最近は、なかなかにサービスとかちゃんと考えている訳だ」
 頑治さんは感心するように腕組みして二三度頷いて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 720 [あなたのとりこ 24 創作]

「じゃあ先ず、明日の月曜日はどうする? 今云ったように、あたしは休みの日だし、どこか少し遠くにでも行ってみる?」
「そうだな。折角の夏なんだから、海にでも行くか」
「でもあたし、水着持っていないし」
「大学生の時とか、例えば湘南とか九十九里とか行かなかったの?」
「そうね、全然行かなかったわ。行こうと云う気も起きなかったけど」
「ふうん。でも水着なら高校生の時に体育の特別授業で使ったのがあるだろう?」
「いやよ、あんなの」
 夕美さんは眉間に可憐な皺を寄せるのでありました。「とっくに捨てたと思うし」
「実は俺も持っていないから、これからデパートにでも行って買うよ。夕美も一緒に買えば良いじゃないかビキニの水着でも」
「ビキニの水着、ねえ。・・・」
 夕美さんは鼻の横にもこれも可憐な皺を寄せるのでありました。「あたし自信ないし」
「いやあ、夕美だったらドンピシャ似合うんじゃないかな」
「そんな事はないと思うけど」
 夕美さんは真顔で首を横に振るのでありました。「それに、海は日焼けするし」
「日焼けは嫌かい?」
「だって後々シミが出来るもの」
「ふうん、そう云うものかねえ」
 頑治さんは何となく、無関心且つ無頓着そうに頷くのでありました。「海に行くのが気乗りしないとなると、じゃあ、どうするかな、夕美が休みの、折角の明日の月曜日は」
「何だかものぐさだけど、街の中をただブラブラするというのでも良いんじゃない?」
「ブラブラか。まあ、夕美と一緒に居られるならそう云うのんびりも良いかな」
「でも折角久し振りに帰郷したんだし、頑ちゃんとしてはそれじゃあつまらないか」
 夕美さんは自分が出したブラブラ案に自ら疑問を呈するのでありました。「頑ちゃんは帰ったら是非行ってみたい処とかは、別にないの?」
「そうだなあ、・・・」
「何か、特になさそうね」
「まあ、あるような、ないような」
 頑治さんは久々の帰郷で何処か行きたいところはないのか、つらつら考えて見るのでありましたが、頭が茫としてきて何も思い浮かべられないのでありました。まあ、この度の帰郷は夕美さんに逢うのが第一番目の目的でありましたから、要は夕美さんとずっと一緒に居られたらそれで御の字なのであります。ま、それに尽きるでありましょうか。

 夕美さんと一緒に過ごした故郷での一時は、頑治さんにとっては全く新鮮なものでありました。見慣れた何処そこの風景も、横に夕美さんが居るだけでそれは見違えるほどの色彩と光輝に溢れた、大いに心躍るものなのでありました。
(続)
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