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あなたのとりこ 741 [あなたのとりこ 25 創作]

「ケニア旅行から帰ってきたら那間さんも片久那制作部長に渡りを付けて、そこで働かせて貰ったらば良いじゃないですか」
 頑治さんは均目さんの動向をまるで知らないと云う点を仄めかせるために、そんな事を云ってみるのでありました。均目さんが居たら、当然那間裕子女史は片久那制作部長の下には屹度行かないであろう事は、勿論承知の上でのお惚けであります。
「まあ、そんな手もあるけど、でもそうはいかない事情があるのよ」
「そうはいかない事情、と云うのは何ですか?」
 頑治さんはあくまでも惚け続けるのでありました。
「片久那さんの会社には既に均目君が就職していたのよ」
「へえ、均目さんが既に居るんですか」
 ここ迄惚けると、これはもう惚け芝居の免許が貰えるくらいでありますか。
「そう。均目君も抜け目がないところがあるから、片久那さんがそう云う会社を興したのを聞きつけて、早速就職運動をしたのね、屹度」
「或いは片久那制作部長にスカウトされた、と云うのもあるかも知れませんね」
「まあ、ない事はないけど、でも片久那さんは実は均目君をそんなに買ってはいないようだったら、片久那さんの方からアプローチしたと云うのは、ちょっとどうかしら」
「ああ、そうですかねえ」
「まあ兎に角、また均目君と一緒に仕事をするのはまっぴらだから、あたしは関わり合いを持つ気はないわ。気持ちの方も今はケニアの事で一杯だし」
 那間裕子女史は、それはちょっとげんなりだと云った口調で云うのでありました。「と云う事で、まあ、唐目君の御機嫌伺いと、あたしの近況御報告と、聞き知った片久那さんと均目君のその後でも耳に入れておこうと思って、こうして電話したって訳よ。唐目君にとってはもう、どうでも良い余計な事かも知れないけどさ」
「いやまあ、那間さんの事も、片久那制作部長や均目さんの事も気にはなっていたんで、余計な事なんてとんでもないですよ」
「ああそう、それなら良いけど」
 那間裕子女史は、それは電話をした自分への労わりで、別に頑治さんの本心ではなかろうと思っているのか、ぞんざいな云い振りでそう云うのでありました。
「袁満さんも就職活動の一環で、医療関連の専門学校へ暫く通うみたいですよ」
「ふうん、これから学校通いをするんだ」
 那間裕子女史は大して興味もなさそうに云うのでありました。
「職安の紹介らしいですよ。この前電話でそんな事を聞きました」
「皆あれこれと頑張っているのね」
 これも無関心そうな云い様でありました。この上に日比課長や土師尾常務の動向を報告したところで、那間裕子女史からは無愛想な反応しか返ってこないでありましょう。
「まあそう云う事で、ケニアに行ってくるわ。お土産買ってくるからね」
 那間裕子女史は語調を明るく変えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 742 [あなたのとりこ 25 創作]

「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ」
「それから、お土産を持って行く時には、予めちゃんと電話してから行くわよ。お酒に酔った勢いで突然訪ねると云う事はしないから、安心して構わないわよ」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「そう云う事なら、まあ、楽しみにしています」
 頑治さんが応えると女史は尚一層の哄笑を返すのでありました。

 袁満さんのその後の話しに依ると、日比課長は自分の生活費くらいはそこそこ稼いでいるようでありました。紙商事にも取引先を通じて紙販売の仕事を持ち込む事もあって、贈答社時代よりも社長の覚えも目出度くなって、将来は紙商事の新しいギフト関係の仕事の責任者として、正社員として雇用して貰える希望も出てきたようでありました。
 それに比べて土師尾常務の方は新しい仕事では全く鳴かず飛ばずと云う按配らしく、華々しく前宣伝していた割りに取ってくる仕事の量は実に大した事がなく、社長の信頼もすっかり地に堕ちて、殆ど見縊られて仕舞っているようでありました。それはそうでありましょう。贈答社時代から社長に対してご大層な自己喧伝ばかりに現を抜かして、実際の面倒な仕事は横着を決め込んでのうのうと威張り散らしていただけでありましたから。
 そんな欺瞞が長く通用する程に世間は甘くはないと云う事であります。ここにきて竟に化けの皮が剥がれて、日比課長の意外な働きぶりとの対比もあって、社長の失望と軽蔑を一手に引き受ける羽目になったのでありましょう。
 まあしかし土師尾常務にも家族があって、家のローンとか、お子さんの教育費とか、これから先益々お金がかかるのでありましょうから、何処かの寺の副住職と云う、肩書きだけで実は大した実入りのない稼業と、殆ど稼ぎの出せない紙商事の嘱託社員と云う身分等では、この先どうにも生活が立ち行かなくなるでありましょう。土師尾常務に対して恨み骨髄の袁満さんなんぞは、身から出た錆と鼻で憫笑するだけでありますが、頑治さんとしては、彼の人もなかなか大変だろうと、多少の同情心もない事もないのでありました。
 それでも土師尾常務は欺瞞まみれながらも、贈答社の中で常務取締役を社長から拝命していた訳で、これはつまり、あれでなかなか生活力旺盛な一面もあったと云う事でもありましょうか。であるなら、これから先も贈答社時代のようには上手くは立ち回れないとしても、なんとかかんとか世過ぎの道は切り開いていく事でありましょう。
 それも出来ないで破滅一直線と云う事であっても、頑治さんとしては多少の哀情は催すとしても、顔を顰める程気の毒とは感じないのでありました。まあ、袁満さんの云う通り、身から出た錆、と云う語の中に納める事が出来るところでありますか。
 結局、贈答社で知り合った夫々は、本意不本意は別として、自ずと夫々の適所に落ち着くのでありましょうし、新しい居場所に落ち着けば、もう消息も知れなくなるのでありましょう。それで頑治さんも一区切りと云う事でありますか。まあ、暫くは時々、袁満さんからはその後の就職とか甲斐計子女史との仲の進展とかの報告はあるのかも知れません。しかしこれも、結局のところ次第にフェードアウトしていくのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 743 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると今度は頑治さんの身の振り方であります。頑治さんとしてはまた贈答社での仕事を得た時のように、職安に出向いて新たな仕事を紹介して貰うと云うのが順当な方策と云うものであります。しかし何だか、未だ腰が重いのでありました。
 これは頑治さんのだらしなさが第一の理由でありますか。未だ多少の金銭的余裕(!)があるものだから、なかなか焦らないのでありますし、生来ののほほんとした性格が災いしているとも云えるのであります。焦らなくとも、仕事が見つかる時にはちゃんと見つかるものだと、慎に以って楽観的な考えから抜け出せないのであります。
 頑治さんは己がそんな性格を以前から持て余すところもあるのでありましたが、まあ、焦らないものは、これはどうにも仕方がないではありませんか。と云う訳で、頑治さんは散歩とか、寄席通いなんかで無為な時間を過ごしているのでありました。まあ、泊りの旅に出る程の金銭的余裕なんぞはないのでありましたが。
 そんな折しも、どうした事か土師尾常務から電話がかかってくるのでありました。まさかこの人からは贈答社を辞めた後に連絡等はこないだろうと、思う迄もなく思っていたのでありましたが、そのまさかが現実に起こってみると、変なものでこれも成り行きと云う点で、当然あり得る事ではあると妙に納得するところもあるのでありました。
 他の元贈答社社員の動向は何となく知れたのでありましたが、この人だけは袁満さんと日比課長からの間接情報だけで、ちゃんとは知れていなかったのであります。しかしまあ別に、頑治さんに総ての元社員の情報が集まる謂れは特にないのでありましたけれど。
「どう、元気にしているかい?」
 土師尾常務は贈答社でのこれ迄の経緯をすっかり忘れたかのように、実に屈託ない調子で頑治さんにそう言葉をかけるのでありました。
「ええ、まあ、何とか」
 頑治さんは不快と迄はいかないけれど、抑揚を押し殺してやや無愛想な感じで返すのでありました。久々に声を聞いたからと云って歓喜する事は別にないのでありますし。
「ああそう。それは良かった」
 土師尾常務は頑治さんの懐かしそうな驚きの声を期待していた訳ではないのでありましょうが、しかしその可愛気のない受け答えが少し心外だったようで、急に声の張りを抑制して、負けじと自分も不快を滲ませて見せるのでありました。この相も変わらずの対抗的な反応に、頑治さんはやれやれとうんざりするのであります。
「ご用件は何でしょうか?」
 頑治さんは心の内は別として礼は一応弁えていると云った風の、不躾をあからさまにはしない、と云う気遣いを逆にあからさまにして見せながら訊ねるのでありました。
「今度ね、新しい会社を立ち上げる事にしたんだよ」
 土師尾常務は少し云い淀んで、気を取り直すようにそう話し出すのでありました。
「新しい会社、ですか?」
「そう。贈答社でやっていたギフト関連の会社で、贈答社時代に仕入れ先として取引のあったところと組んで、事業を始めようと思っているんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 744 [あなたのとりこ 25 創作]

「贈答社で遣っていたのと同じ仕事を始めるのですか?」
「そう。今迄の仕入れ先とか得意先からも、新たに会社を興してやらないのか云うリクエストが頻繁にあるものでね。それに応えると云うところもあって」
「贈答社時代の得意先なんかとは、今でも付き合いが続いているんですか?」
「そうだね。向こうで態々僕の家の電話番号を調べて、前の仕事をまた続ける気はないのかとか、何時新たに始めるのかとか、色んなところから問い合わせがくるんだよ」
「へえ、そうですか」
 頑治さんはげんなりしながらも全くの愛想で感心して見せるのでありました。日比課長の証言に依れば紙商事の嘱託社員としての土師尾常務の業績は、全く以ってさっぱりだと云う事でありました。そう云う事だから社長にも疎まれ軽んじられて、身の置き所もない有様だと聞いているのでありますが、しかし土師尾常務のこの電話に依ればなかなか景気が良さそうな風であり、慎に以ってバラ色の将来像と云った感じであります。
「今現在僕は、社長に懇願されて一応紙商事の社員と云う身分なんだけど、そんな立場は実に窮屈で、一人で自由に活動する方が将来も開けるような気がしているんだよ」
「ほう、今は紙商事に籍を置いているんですか?」
 頑治さんは知っていながら知らない素振りを決め込むのでありました。
「そう。僕はどうでも良かったんだけど、社長がどうしてもと云うんで、一応ね」
 土師尾常務は社長の懇願だと云うところを強調するのでありました。
「それで紙商事を辞めて、新しい会社を始める事にしたのですか?」
「まあ、そう云う事だよ。ギフト関連の仕事は素人の社長にあれこれ指図されると、返って僕の力を存分に発揮出来ないし、営業活動上も何かと不自由だしね」
 これはこの人の、前からお得意の大言壮語の類いであろうと頑治さんは推察するのでありました。日比課長の話しの方にこそリアリティーがありそうでありますし。
「そうですか。そう云う事なら頑張ってください。成功を祈っています。ところで、それはそうと、今日はどうして自分に電話をされたのですか?」
「うん。実はその新しく始める会社に、唐目君が来てくれないかと思ってね」
「自分が、ですか。どうしてまた?」
「贈答社に居る時、唐目君が一番仕事振りが堅実だったからね」
「ほう、それは今初めて聞きました」
「いや僕は、口には出さなかったけど唐目君を一番評価していたんだ」
 何を今更どの口がそう云う事を云うのでありましょう。一番評価していた割りに、会社が左前になったら、色々難癖を付けて早々に辞めさせようとしたくせに。
「それは恐縮です」
 頑治さんは大笑いしたい気分でありました。
「まあ、営業の事は経験がないから暫くは僕の下で勉強して貰う事になるけど、商品の梱包発送とか配達とか、そう云う倉庫仕事みたいな事はすぐに出来るだろうしね」
「営業見習いもやる訳ですね、常務の指導を受けながら?」
(続)
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あなたのとりこ 745 [あなたのとりこ 25 創作]

「そう。短期間で優秀な営業マンにしてみせるよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは無抑揚に云うのでありましたが、その声音に何となく不愉快そうな気分がしっかり漂っていたであろうと、云った後で思うのでありました。
「どうだろう、僕の下で働いてみる気はないかな?」
「待遇はどうなるのでしょうかね?」
「待遇とか、その辺はこれからの相談と云う事になるがね」
 土師尾常務は急に興醒めたような云い草になるのでありました。「まあ、一応営業見習いと云う事になるから、最初からそんなに賃金は出せないけど」
「でも梱包とか発送とか、配達なんかの仕事もやるんでしょう?」
「そう云う仕事は、まあ、誰にでもやれる仕事だしね」
「何だか待遇の話しをしたら急に、物腰から不快感が滲み出しましたね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少しムキになって全く心外であるような口振りで云うのでありました。と云う事はズバリ、そんな事、であったと云う証明でありましょう。

 何となく気まずい沈黙の時間が少々流れるのでありました。
「すぐにとはいかないけど、将来営業の仕事も熟せると云う目鼻が付いたら、まあ、贈答社で払っていたのと同じ給料くらいは出す心算でいるよ」
「将来ではなく、現在ではどのくらいの待遇をしていただけるんですかね?」
「それはまあ、はっきりこのくらいと確約は今は出来ない。未だ会社を立ち上げようと云うタイミングだから、将来を期して貰うしかないな」
 土師尾常務は頑治さんが待遇面の話しを持ち出すとは思ってもいなかったようでありました。失業者の分際なんだから雇って貰うだけで有難い筈だし、幾ら貰えるかとか、そんなさもしい希望はこの際棄てて、少ししおらしくしろと云うところでありましょう。
「待遇の話しをされるのが不愉快なんですか?」
「そう云う訳じゃない」
「常務の始められる会社に来いと誘われて、それならば待遇面はどうなるのか、と聞くのは不遜で不謹慎な事なんですかね?」
「そうじゃないよ」
 土師尾常務は不機嫌を露骨にするのでありました。少なくとも自分の興す会社に来て欲しいと持ちかけるのなら、少しくらいは下手に出ても良さそうなものであります。自分の意にそぐわない返答が相手から返ってきたり、聞かれたくはない事を聞かれたりするとすぐにこう云う感情的な反応を示す辺り、まあ、相も変わらずのようであります。
「ところで常務は、お寺の仕事は続けていらっしゃるのですか?」
 頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「ああ、うん。副住職としての責任もあるし、僕は僧職を天職と考えているから」
(続)
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あなたのとりこ 746 [あなたのとりこ 25 創作]

「新しく興す会社に専念する、と云う事ではないのですか?」
「贈答社にいた時から僧侶は続けていたから、問題なく両方遣っていけるよ」
「これまでは遣っていけたのではなく、社長や片久那制作部長と云うしっかり会社を見てくれる人が別にいたから、無頓着でいられたんじゃないのですか?」
 頑治さんにそう訊かれて土師尾常務は電話の向こうから、明らかにムッとしたような気配を伝えて来るのでありました。
「社長なんか贈答社の具体的な仕事なんか何も判っていなかったよ」
「しかし経営面ではちゃんと、社長と云う職責を果たしていたんじゃないですか?」
「どうだかね」
 土師尾常務はあくまでも懐疑的なのでありましたが、寧ろ土師尾常務自身が取締役としての職責を果たしていたのかどうかも疑わしいのであります。殆どを片久那制作部長に任せきり状態だったくせに、それを、問題なく両方遣っていた、と抜け々々と云い切る辺り、この人の神経は一体どうなっているのかと頑治さんは呆れるのでありました。
「しかし自分の目には、経営とか取締役としての働きは片久那制作部長が一人で引き受けていたし、常務はすっかりノータッチだったように見えていましたけどね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少し熱り立つのでありました。「僕が営業をしっかりやらないと、他に頼りになる人間が居なかったからそう見えていただけで、僕だってちゃんと取締役としての働きは熟していた心算だ。日比君が全く頼りにならなかったから仕方ないじゃないか」
 この意見にも頑治さんは呆れるのでありました。この人の自己肯定の強さなんてえものは慎に以って筋金入りで、自己省察と云う思考は頭の片隅にも持ち合わせていない人のようであります。これでは何を云っても話しにならない訳であります。
「それなら何故今、日比課長の後塵を拝するような体たらくになっているんですか?」
 頑治さんにそう云われて、明らかに土師尾常務は電話の向こうでたじろぐのでありました。どうしてそんな情報を頑治さんが知っているのかと驚いたのでありましょう。
「別に後塵を拝するような事にはなっていないよ!」
 土師尾常務はあたふたしながらそう抗弁するのでありました。「どうしてそんな難癖を付けるんだ! 社長から電話でもあったのか?」
 これは間抜けにも頑治さんの指摘をうっかり認めたようなものであります。
「社長が自分にそんな電話をしてきたと、どうして咄嗟に考えたんですか? そんな事を云うのは社長に違いないと思ったんでしょうが、別に社長から電話なんかありませんよ。どこをどう考えても、社長が自分に電話をしてくる訳がないじゃないですか。まあ、社長に対する不信感とか負い目から、竟そう考えて仕舞ったんでしょうけど」
 頑治さんは落ち着き払って返すのでありました。
「じゃあどうして僕が日比君の後塵を拝しているとか無礼な出鱈目を云うんだ?」
「出鱈目ではなく図星だと今の常務の慌てぶりが証明しているんじゃありませんか?」
「僕に日比君如きより劣るところなんか全くないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 747 [あなたのとりこ 25 創作]

 土師尾常務は強い調子でそう云い切るのでありましたが、その必死さがどこか妙に痛々しいと頑治さんは感じるのでありました。
「ああそうですか。それならそれで良いですけどね」
 頑治さんは軽くあしらうように返すのでありました。
「で、そう云う憎まれ口を叩くところを見ると、僕のところに来る気はないんだね?」
「別に憎まれ口を叩いていると云う心算はありませんが、勿論常務のお話しに乗る気は綺麗さっぱりないですね、折角のお誘いではありますが」
 頑治さんはきっぱりとそう伝えるのでありました。
「判った。それじゃあこれ以上は時間の無駄だからこれで電話を切るよ」
「そうしてください。じゃあ、お元気で」
 頑治さんがそう云って受話器を耳元から離そうとすると、土師尾常務は頑治さんに先に電話を切られてたまるものかと、急いで自分の方から少し乱暴に受話器を架台に戻すのでありました。頑治さんは電話の切れる音を聞いてから、静かに受話器を架台に載せるのでありました。幼稚な仕業ながら、これもこの人のメンツと云うところでありますか。
 しかし、今になってまあよくも頑治さんにこのような仕事のお誘い電話を掛けてきたものであります。その間抜け具合に思い至らないのでありましょうか。
 いくら紙商事で居場所をなくしていて、早晩辞める事になるだろうからと、自分で今迄の経験を活かして新しい会社を立ち上げようとするところは、新たな活路としては然程不自然ではないでありましょう。まあ、成功するか失敗するかは別として。
 頑治さんとはしっくりいっていなかったのだし、幾つもの嫌な経緯もあると云うのに、そんな誘いに頑治さんがおいそれと乗ってくると本気で考えたのでありましょうか。頑治さんが仕事探しに窮していると考えてそんな頑治さんなら薄給でこきつかえると踏んで、弱みに付け込む魂胆で誘ってきたのなら、考えがお目出度いと云うのも程があると云うものであります。この人は自分が相手にどのように思われているのか、一顧もしないのでありましょうか。まあそうだから、こう云う事を仕出かすのでありましょう。
 そう云う人でありますから、ひょっとしたらこの後袁満さんにも無神経なお誘い電話をするのかも知れません。袁満さんにつれなくされたら、場合によっては均目さんにも電話を掛けるのかも知れません。まあ、苦手な那間さんにはしないでありましょうが。
 で、袁満さんにも均目さんにもまんまと断られて、折角温情からこうして誘ってやっているのに何と恩知らずな連中かと、逆恨みして眉間に皺でも寄せるのでありましょう。何だかその不愉快顔が今から見えるようでありますが、まあ、これはあくまでも頑治さんの推量で、あの土師尾常務でも流石にそんな事はしないかも知れませんが。

 さて、この土師尾常務からの電話で、頑治さんは何だか一区切りのような気がするのでありました。漸く贈答社関連の事態はこれにてけりが付いたと云う思いでありました。
 こうなれば愈々頑治さん本人の就職と云う訳であります。ここいら辺で竟に腰を上げる潮時だと云う事になるのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 748 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると、取り敢えずの手段として飯田橋の職安にでも出向くと云う事になるのであります。他に新聞の求人欄とか、折り込み広告に掲載されているところとかもあるでありましょう。この前贈答社に就職する折は職安で紹介を受けたのでありましたが、それも結局短期間で職を失うと云う結果になったのでありました。
 依って、別にげんを担ぐとか云う訳ではないのでありましたが、今回は新聞とか折り込みを先ず利用してみると云う手もあるかと考えるのでありました。学生時代からあんまり詳しく読むと云うのではありませんでしたが、一応新聞は朝刊だけは惰性でずっと取り続けているので、今朝のものを手に取ってペラペラと紙面を繰ってみるのでありました。
 職種は特に拘りはないのでありましたけれど、まあ何となく気楽な仕事で、そこそこ生活が立ち行く程の賃金が得られればそれで良かろうと思いながら、並んでいる順にいくつかの記事を読んでみるのでありましたが、なかなかピンとくるものは見付けられないのでありました。そんな漠然とした希望で探しても、それは確かにこれと云った仕事は探し得ないでありましょう。まあそうなると、贈答社で遣っていた倉庫の仕事とか梱包配送及び車での配達仕事云うのが、まあ当面一番無難な線と云う事になるでありましょうか。
 帯に短し襷に長し、なんと云う言葉を頭の隅に思い浮かべながら暫く求人欄の紙面に見入っていると、突然電話の呼び出し音が頑治さんの耳朶を揺らすのでありました。頑治さんは受話器を取り上げてそれを耳に宛がうのでありました。
「ああ、あたし。こんな時間にご免なさい」
 それは夕美さんの声でありました。
「別にそんな夜更けでもないから謝る必要はないよ」
 そう応えながら、しかし電話を掛けるには不自然な程遅い時間だと夕美さんの方は思ったから、先ずそう謝ったのでありましょう。と云う事は夕美さんとしては大いに遅いにも関わらずこうして電話をしてきたという事でありますか。それはつまり何か不測の事態でも出来したから時間を憚らず電話をした、と云う事なのでありましょうか。
「そうね、未だ寝る時間には早いわね」
「何かあったのか?」
 頑治さんはそう訊きながら、ひょっとしたら夕美さんのお母さんの身に、良からぬ何かが起こったのかと心配するのでありました。
「ううん、何かあった訳じゃないけど、頑ちゃんが元気にしているかなって思って」
 あんまり切羽詰まった語調でもなく夕美さんがそう云うのを聞いて、頑治さんは一先ず胸を撫で下ろすのでありました。
「体調はまあまあだよ。今、コーヒー飲みながら新聞の求人欄を見ていたところだ」
「ふうん。と云う事は、未だ就職は決まっていないのね」
「そう云う事。何だかんだあってようやく今の今、その気になったところかな」
「何だかんだって、何かあったの?」
 今度は夕美さんが心配そうな気配を見せるのでありました。
「いやあ、つまりようやく一区切りついたような気になったと云う事だよ」
(続)
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