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あなたのとりこ 714 [あなたのとりこ 24 創作]

「いやまあ、ちょっと」
 均目さんは何となく誤魔化すような云い草をするのでありました。
「片久那さんのところに仕事の斡旋でも頼みに行くの?」
 那間裕子女史に何気ない風に突然そう訊かれて、均目さんは迂闊にも少しおどおどするような気配を見せるのでありました。これは那間裕子女史の誘導的な質問に、竟うっかり嵌って仕舞ったと云う事になるのでありましょうか。
 那間裕子女史は均目さんが皆に知られないところで片久那制作部長と繋がっていて、その意を受けて会社の中で色々と、今度の組合の解散なんかに関しても画策なんぞを行っていたと踏んでいるのでありました。それに均目さんの新たな就職先も、片久那制作部長の力添えでもう決まっているのかも知れないと疑っているのでありました。
 これは那間裕子女史のなかなかに鋭い勘のなせる業で、別にこれと云った証拠なんぞは何もないようでありましたが、しかしまあ大凡のところで見事に当たっているのでありました。この辺は、そんじょそこらの隅には置けない侮り難い人であると、頑治さんは秘かに舌を巻いて、ある種の畏怖の念をも抱いているのでありました。
 那間裕子女史に気付かれないように、均目さんは秘かに頑治さんの顔を上目で見るのでありました。どうやら那間裕子女史の今の、均目さんに対する揶揄を思わせる言は、頑治さんからの情報に因ると考えたのでありましょう。頑治さんが片久那制作部長と均目さんの繋がりを、屹度那間裕子女史に教えたに違いないと推察した模様であります。
 これは頑治さんにすれば全く謂れのない嫌疑と云うものでありまして、当然均目さんは知る筈もない事ではありますが、頑治さんは那間裕子女史にその辺を仄めかしたりは決してしていないのでありました。頑治さんとしては自分に不当な疑いがかけられた事に何とも遣る瀬ない思い等抱くのでありましたが、この陰鬱は那間裕子女史と均目さんの両人が居るこの場に於いては、辻褄上、晴らそうにも晴らせないものなのでありました。
 後日そう云う機会があればでありますが、均目さんには説明して誤解を解く事も出来そうでありますが、まあ、実際のところこの均目さんの嫌疑なんぞは、どうでも構わない事のようにも思われるのでありました。誤解されているとしても、敢えてその弁明を何としてもしなくてはいけない事とは、実際のところもう考えないのでありました。
 まあ、那間裕子女史の方には、後々の面倒を考えて、何も知らないと云う態度に徹する必要はありますか。慎に後ろめたい事ではありますけれど。・・・
 また後日判明した事ではありますが、袁満さんと甲斐計子女史は矢張りこの後二人だけの食事会を予定していたのでありました。この二人の急接近に関しては頑治さんが果たした役割、つまり夫々の電話に於いて夫々に、二人が付き合うべきだとまんまと唆した功績なんと云うものは、なかなかに大なるものがあったと云う事になるのでありましたか。

 結局お別れ会もなく、仕事先(?)から直帰するのであろう土師尾常務への挨拶も、もうその日はとっくに社長室から居なくなっていた社長へのお別れの言もなく、四人は会社から去るのでありました。実にあっさりした最終日と云う感じでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 715 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは次の日はのんびり朝寝を貪るのでありました。もう出社時間を気にしないで済むと云うのは、何と気楽に布団の中にいられるのでありましょうか。
 とは云っても、那間裕子女史や袁満さん、それに均目さんと違って在職年数、いや月数の少なさから退職金が出なかった頑治さんは、この先の生活費工面の心配があるのでありましたが、まあ、仕事を辞めた次の日くらいはお気楽に朝寝坊をしても罰は当たらないでありましょう。多少の蓄えくらい、ありもする事でありますし。
 それに夏に予定している帰郷であります。帰郷後に決まった予定なんかないのでありますから、好きなだけ向うに居られるのであります。つまり夕美さんと存分な逢瀬を楽しめるのであります。それは考えただけでも心躍る事であります。
 思えば夕美さんとは大学四年生の時に、こちらで偶然再会してからの付き合いでありますから、同じ高校に通っていたにも関わらず高校生の時には、その存在くらいは知ってはいたけれど、滅多に口もきかない仲なのでありました。だから向こうで、睦まじく二人でデートをしたとか、喋々喃々と話しをしたとか云う事は今迄全くないのでありました。依って、向こうで逢瀬を楽しむなんぞは、実に以って新鮮なる事柄なのであります。
 どうせこちらに当面の用事はないのでありますから、少し早い目に帰郷して、夏の海にでも行ってみると云うのも好いでありましょう。或いは郊外にある街を一望する小高い山の公園の木蔭で、夕美さんと寄り添って、島々の多く浮かんだ海に沈む残照を眺めながら静かに時間を過ごすのも好いでありますか。これは楽しみであります。
 それに向うを切上げる時には、丁度その時に夏休みを取る夕美さんを帯同しているのであります。そうしてこちらでもまた、夕美さんと暫く一緒に居られるのであります。夕美さんがこちらを引き上げて向こうに帰って仕舞ってからは、こんなに長い時間一緒に過ごす機会は今迄一度もなかった事であります。楽しみは長続きするのであります。
 いやしかし、考えたらそんなに長く向こうに滞在するだけの金銭的な余裕が、失業した頑治さんにあるのでありましょうか。頑治さんは布団の中で急に眼を開いて、天井の一点を見ながら預金通帳を頭の中に思い浮かべるのでありました。
 まあ、向うでの滞在と旅行費用は何とかなるとしても、こちらに戻った後の生活が逼迫するかも知れません。預金通帳に如何程の残金があるのかちゃんとは判らないのでありましたが、ここで不安になって布団から抜け出して小箪笥の引き出しを開けて、物の陰に隠すように仕舞ってある通帳を取り出して、態々金額を確認するなんと云う野暮はしないのでありました。惰眠を貪るための布団をそのために抜け出すのはまっぴらであります。
 まあ、なんとかなるでありましょう。どうしても生活費の工面が付かないようなら、次の仕事を見付けるタイミングをちょいと早めれば良いだけの話しのであります。
 それに向うに滞在している間は、高校時代の友人とか親戚とか、知り合い宅を図々しく転々としていれば、宿泊費は節約する事が出来ると云うものであります。それに向うに帰る電車賃にしても、少々時間と手間と労力はかかるけれど、普通列車を乗り継ぎ乗り継ぎしながら帰れば、相当に浮かすことが出来ると云うものであります。なあにどうせ失業者でありますから、時間と気楽さは持て余す程持っているのでありますし。
(続)
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あなたのとりこ 716 [あなたのとりこ 24 創作]

 そんな事を考えるともなく考えていたら、頑治さんはすぐに頭の下の枕の中に意識が吸い込まれていくのでありました。そうして再び目を開けると、もはや夕暮れの気配が部屋の中に忍び寄って来ているのでありました。
 目が覚めたのは腹が減っていたからでありました。その日は未だ一碗も飯を食してはいないのでありました。これでは目も覚める筈であります。
 頑治さんは布団をゴソゴソと抜けだして顔を洗って身支度を済ますと、本郷通りの裏道沿いにある定食屋で早い目の夕食を済ますのでありました。この後アパートの部屋に帰っても別にする事もないので、頑治さんは夕刻の散歩と洒落込むのでありました。
 頑治さんは本郷三丁目の交差点を春日通りの方に曲がって、本富士警察署横を左に折れて無縁坂を抜けて、不忍池の畔を歩いて上野公園に出るのでありました。考えてみればこの前この辺をブラブラ歩きしたのは、五月の連休に夕美さんが来た時でありましたか。帰郷した後で夕美さんと一緒にこちらに戻ってきた折は、またこの散歩コースをゆるりと歩いたりするのでありましょう。それもまた、向後の楽しみの一つではありますか。
 動物園の前の自動販売機で頑治さんは缶コーヒーを買うのでありました。そう云えば前に夕美さんと散歩した時にも、この自動販売機で飲み物を買ったのでありました。ここの散歩者にとってこの自動販売機は、丁度喉の渇きを催したところで具合良く置かれているのでありますか。そうならなかなか考えられた配置と云うべきでありましょうが、ま、殊更そう云う計略に依ってここに設置されている訳ではないのでありましょうけれど。
 頑治さんはその場で缶コーヒーのプルリングを空けるのでありました。それから徐に口に持っていこうとしてふと前を見ると、何処かで見た事のある顔を視界にとらえるのでありました。誰であるのか少し考えてから、それは前に会社に於いて頑治さんの前任者として業務の仕事をしていた、刃葉香里男さんであると気づくのでありました。
 頑治さんはこの前任者たる刃葉さんには大いに手を焼いたのでありました。刃葉さんはまあ、良いように云えばなかなか個性的で、万事にマイペースで、人との関わり合いが苦手で、会社にとっては、優良社員と云った風がまるっきりない人でありました。
 仕事中に小腹が空くと仕事をうっちゃって、昼休みでもないのに平気で一時間も喫茶店で飲み物付きの軽食を摂ってみたり、空手の稽古と称して倉庫の中に保管してある商品の入った段ボールをサンドバッグ代わりにしてみたり、それを見咎めた、これも前に会社にいた山尾主任にその無神経を注意されても、中の商品が傷まないようにちゃんと(!)考えてやっていますよ、等と別に不貞腐れて抗弁している風でもなく、さらっと云ってのけるのでありました。大人物の風があると云えば、云えなくもないでありましょうか。
 倉庫の管理もかなり好い加減で、車の運転もなかなか乱暴で、それに何時も心ここに在らずで運転しているから、仕事先の道順もなかなか覚えないのでありました。しかしこれに関しても当人は至って恬淡としていて、反省しているとか苦にしているような風は全くないのでありました。頑治さんは時々その尻拭いをする事もあったのでありました。まあこんな具合だったから、頑治さんが倉庫の管理とか荷物や製作材料の集配をするようになったら、至って評判が良いのでありました。別に嬉しくもないのでありましたけれど。
(続)
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あなたのとりこ 717 [あなたのとりこ 24 創作]

 その刃葉さんがこの自動販売機の方に遣って来ているのでありました。別に逃げ隠れする謂れはないのでありましたが、頑治さんは咄嗟に自動販売機から不自然にならないように気を付けながら、素早く離れるのでありました。
 どうやら頑治さんは刃葉さんには気付かれなかったようでありました。刃葉さんは脇目も呉れず自動販売機迄来ると、頑治さんが先程買ったのと同じ缶コーヒーを買って、その儘妙に急ぎ足でそそくさと立ち去っていくのでありました。
 そう云えば前にもこの上野公園の動物園脇の同じ自動販売機の前で、もう会社を辞めていた刃葉さんと逢ったのでありました。丁度頑治さんは夕美さんと一緒に散歩をしていたところであったから、何となくばつの悪い思いをしたのでありましたか。その時確か刃葉さんは、空手の修業か何かで、小さな牧場をやっている師匠を手伝い旁、北海道に渡るとか云っていたのではなかったかしらと頑治さんは思い出すのでありました。
 その刃葉さんがあれから一年もしない内にこちらに戻って来たのでありましょうか。空手の修行とか牧場の手伝いなんかはどうしたのでありましょう。
 一応、修行、と云うのだから、一年も経たない内に切り上げて戻って来ると云うのはないような気がするのであります。持ち前の飽きっぽい性分からか、はたまた一緒に生活してみて師匠とは反りが合わなかったためか、またはその師匠と云う人の技術或いは人格に疑問が湧いてきたとかで、早々にケツを割って帰って来たのでありましょうか。
 まあ、ひょっとして師匠に用事を云い付けられて、偶々一時的にこちらに戻って来ただけかも知れません。以前あれだけ空手に打ち込んでいた刃葉さんでありますから、そう簡単に、修行、をうっちゃって仕舞うとは思えないではありませんか。
 取り敢えず刃葉さんに見つからないでこの場を遣り過ごせた事に、頑治さんは安堵するのでありましたが、しかし考えてみれば、若し見つかって言葉を交わすことがあったとしても、頑治さんには何の不都合があるのでありましょう。どうして見つからなかった事にほっとしているのか、これは自分でも謎でありましたが、まあ強いて云えば、刃葉さんがどうしてここに居るのか聞く事、それに頑治さんが会社を辞めた事を報告して、それについてあれこれ経緯など説明する事が億劫だった、と云う事は云えるでありましょうか。
 こう云う事で頑治さんのこの上野公園散歩は、ひょんな事から長閑で能天気な散歩とはならないのでありました。頑治さんは夕暮れた街を、何となくモヤモヤした気分を抱えながら、行きよりは速い速度で家迄歩いて引き返すのでありました。

 さて、七月の終わりに頑治さんは久し振りに、当初の予定通り一週間程故郷へ帰るのでありました。態々駅に迎えに来た夕美さんとの久し振りの逢瀬に抱き合って喜びを表現したいところでありましたが、人目を気にして手繋ぎだけで押さえるのでありました。
「どう、久しぶりの故郷は?」
 二人で懐かしの街並みを歩きながら、夕美さんが訊くのでありました。この街一の繁華街である長いアーケードの、商店の連なりを頑治さんは見渡すのでありました。
「前に来た時とあんまり変わっていないかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 718 [あなたのとりこ 24 創作]

「長い不況で飲食店が大分減ったって、この前テレビで云っていたけど」
「でも人出も前と同じで大して変わっていないようだし」
「そうでもないわよ。あたし達が高校生の頃の賑わい比べると、確かに何となく活気がなくなっているみたいな気がするわ。まあ、このアーケードだけじゃなくて街全体から、どことなく活気が失せたような感じがするわ」
「そうかなあ」
 頑治さんは行き交う人の波を見るのでありました。頑治さんには今一つ、印象としてこの街の様子が以前とそんなに変わっていないように見えるのでありました。
「あたし達が大学に入る頃が、丁度この街が衰退期に入る辺りね」
「しかし駅前なんか、前よりも見違えるように綺麗になった感じだけど」
「駅とその周辺は大規模改修で綺麗になったけど、駅からこのアーケードに続く間の街並みは、シャッターを下ろした店舗が増えたわよ。気付かなかった?」
「そう云われてみれば、そうかなあ」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
 ところで考えてみれば頑治さんは、この街を夕美さんと一緒に肩を寄せ合って歩くのは初めての事なのでありました。高校生の時までは、夕美さんとは殆ど口もきかない間柄なのでありましたし。だからその新鮮さに竟々茫となって仕舞って、街の変貌ぶりなんかには殆ど注意がいかなかったのと云うのが実際でありましたか。そんな具合の頑治さんでありましたから、横に居る夕美さんしか目に捉えていないのでありました。
 二人はアーケードから小道を折れた処にある、小さな喫茶店にぶらりと立ち寄るのでありました。そこは頑治さんが子供の頃からある店で、小学生の頃に親と数回、高校生になってからは一二度友達と入った事もあるのでありました。
「今日は何処に泊まるの?」
「叔母の処だよ。三日間くらいは泊めてくれると思うよ」
「その後はどうするの?」
「離島からこの街に来ていた高校の同級生がいて、そいつがその儘こっちにアパートを借りて住んで大学に通っているから、そいつの処に厄介になる心算だよ」
「帰る実家がないと云うのは、なかなか大変ね」
「いやあ、それはもう云っても仕様がない事だし」
「何ならあたしの処に来て貰っても構わない、と云いたいところだけど、お母さんの事があるから、申し訳ないけどちょっと無理かな」
 夕美さんはさも済まなさそうに目を伏せるのでありました。
「いやあ、俺が突然泊りに行くと云うのは、夕美にしても困るだろう。先の事としてはそれもあるかも知れないけど、今回は俺としても辞退しておくよ」
「まあその方が良いわね。頑ちゃんの事を未だちゃんと両親に話していないものね」
 夕美さんは頑治さんに弱々しい微笑をするのでありました。
「お母さんの具合は、どうなの?」
(続)
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あなたのとりこ 719 [あなたのとりこ 24 創作]

「ここのところ、全く食事を受け付けなくなっているのよ」
「そんなんで体は大丈夫なの?」
「大丈夫な筈がないから、ほぼ毎日病院に行って栄養注射を打って貰っているわ。もうぼちぼち再入院って事になるんじゃないかしら」
「何だか大変そうだなあ。そう云う事なら尚更俺としては、夕美の家に泊めて貰うのは遠慮しなくっちゃいけないじゃないか」
「そうね。まあそう云う訳だから、ご免ね」
「夕美が謝る事は別にないけど」
 頑治さんは本気で済まなさそうにしている夕美さんに笑って見せるのでありました。
「それでね、・・・」
 夕美さんは俯いて卓上の自分のコーヒーカップに目を落とすのでありました。「母の具合がそう云う感じだから、頑ちゃんが東京に戻る時にあたしも一緒について行くって事だったけど、それはとても出来そうにないのよ」
「ああ、それはそうだろうな。そう云う折にお母さんの元を離れる訳にはいかないか」
「まあ、すぐにどうこうと云う事じゃないと思うんだけど、病院通いの母を置いてあたしだけのんびり東京に遊びに行くのは気が引けるし、気持ちも乗らないし」
「それはその通りだよ」
 頑治さんは夕美さんを気遣うように云うのでありました。
「ご免ね、約束していたのに」
「いや、こう云う場合だし、ちょっとがっかりだけどそれは仕方がないし、そんなに気にする事はないよ。お母さんの病気が快方に向かう事を俺も祈っているよ」
「有難う。そう云ってくれると救われるわ」
夕美さんは頑治さんに小さくお辞儀するのでありました。
「そうなったら俺がこっちに居る間だけは、二人で大いに楽しもうぜ」
「そうね。こう云う事なら頑ちゃんがこっちに居る時に、あたしも夏休みを取ればよかったわ。二週間前迄に夏休みの申請をするんだけど、もう手遅れだしね」
「まあここで悔やんでばかりいてもつまらないから、明日からの一週間分の予定を立てようぜ。夕美は土日は丸々休みなんだっけ?」
「ううん。七月と八月は日曜日と月曜日が休みなの。月曜日は博物館の休館日で、もう一日の休みはローテーションで決まるのよ」
「ふうん。公務員だからきっちり土日が休みと決まっている訳じゃないんだ」
「土日は学校が休みだから、寧ろ小中学生や、高校生の事を考えて、博物館とか図書館とか、それに体育館なんかは土日は開館しているのよ」
「ふうん。市民サービスと云う観点からかな」
「そうね。市や県の方針でもあるし」
「お役所も最近は、なかなかにサービスとかちゃんと考えている訳だ」
 頑治さんは感心するように腕組みして二三度頷いて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 720 [あなたのとりこ 24 創作]

「じゃあ先ず、明日の月曜日はどうする? 今云ったように、あたしは休みの日だし、どこか少し遠くにでも行ってみる?」
「そうだな。折角の夏なんだから、海にでも行くか」
「でもあたし、水着持っていないし」
「大学生の時とか、例えば湘南とか九十九里とか行かなかったの?」
「そうね、全然行かなかったわ。行こうと云う気も起きなかったけど」
「ふうん。でも水着なら高校生の時に体育の特別授業で使ったのがあるだろう?」
「いやよ、あんなの」
 夕美さんは眉間に可憐な皺を寄せるのでありました。「とっくに捨てたと思うし」
「実は俺も持っていないから、これからデパートにでも行って買うよ。夕美も一緒に買えば良いじゃないかビキニの水着でも」
「ビキニの水着、ねえ。・・・」
 夕美さんは鼻の横にもこれも可憐な皺を寄せるのでありました。「あたし自信ないし」
「いやあ、夕美だったらドンピシャ似合うんじゃないかな」
「そんな事はないと思うけど」
 夕美さんは真顔で首を横に振るのでありました。「それに、海は日焼けするし」
「日焼けは嫌かい?」
「だって後々シミが出来るもの」
「ふうん、そう云うものかねえ」
 頑治さんは何となく、無関心且つ無頓着そうに頷くのでありました。「海に行くのが気乗りしないとなると、じゃあ、どうするかな、夕美が休みの、折角の明日の月曜日は」
「何だかものぐさだけど、街の中をただブラブラするというのでも良いんじゃない?」
「ブラブラか。まあ、夕美と一緒に居られるならそう云うのんびりも良いかな」
「でも折角久し振りに帰郷したんだし、頑ちゃんとしてはそれじゃあつまらないか」
 夕美さんは自分が出したブラブラ案に自ら疑問を呈するのでありました。「頑ちゃんは帰ったら是非行ってみたい処とかは、別にないの?」
「そうだなあ、・・・」
「何か、特になさそうね」
「まあ、あるような、ないような」
 頑治さんは久々の帰郷で何処か行きたいところはないのか、つらつら考えて見るのでありましたが、頭が茫としてきて何も思い浮かべられないのでありました。まあ、この度の帰郷は夕美さんに逢うのが第一番目の目的でありましたから、要は夕美さんとずっと一緒に居られたらそれで御の字なのであります。ま、それに尽きるでありましょうか。

 夕美さんと一緒に過ごした故郷での一時は、頑治さんにとっては全く新鮮なものでありました。見慣れた何処そこの風景も、横に夕美さんが居るだけでそれは見違えるほどの色彩と光輝に溢れた、大いに心躍るものなのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 721 [あなたのとりこ 25 創作]

 この儘故郷での一時の延長として一緒に東京に帰る事が出来るのならと思うのでありましたが、それは叶わないことでありました。夕美さんのお母さんの体の具合があんまり思わしくなくて、ひょっとしたら近々病院に入院する事になるかも知れないと云う事であれば、夕美さんはこちらを気軽に離れる訳にはいかないのでありました。
 頑治さんが夕美さんとの暫しの、惜別の情に後ろ髪を引かれるような心持ちで久々の帰郷を切上げて東京に戻るその日に、夕美さんは駅まで見送りに来るのでありました。
「それじゃあ、また近い内に」
 夏の斜陽が駅の待合室の窓から差し込むのを目の上で翳した掌で遮りながら、少し沈んだ声で夕美さんが云うのでありました。
「ああ、また。向こうに帰ったらすぐに電話をするよ」
「何だか未だずうっと頑ちゃんと一緒に居たいんだけど、・・・」
「そうだな。でもまあ、今回は仕方がないかな」
 頑治さんは夕美さんの手を周りの目を憚って少し遠慮がちに握るのでありました。
「お母さんの具合次第で、今後どういう風になるのか判らないし」
「変な風に取らないで貰いたいけど、この儘長く逢えなくなる訳じゃないと思うよ」
「うん、あたしもそう長く待たない内に逢えるような気がする」
 夕美さんがこちらも遠慮がちに頑治さんの手を強く握り返すのでありました。
「俺には決して、夕美のお母さんの身の上に然程遠くなく何か良くない事が起こって、それで俺達が長く会えなくなる訳じゃない、なんて不謹慎な予感がある訳ではないよ」
「それは判っているわ」
 夕美さんは真顔で一つ頷くのでありました。「例えばお母さんの体の調子が、入院を境に急に良くなる事だってあるからとか、そう云う事でしょう?」
「そうそう。そうなったら夕美が東京に出て来る事も出来るだろうし」
「そうなると、良いわねえ」
 夕美さんのこの云い様は、何となくか細く弱々しい物腰でありましたか。
「ちょっと早いけど、そろそろ改札を入った方が良いかな」
 頑治さんは自分の腕時計を見ながら云うのでありました。
「そうね。その方が無難かしら」
 夕美さんも頑治さんの腕時計を覗き込むのでありました。「あたし入場券を買っているから、ホームまで一緒に行くわ」
 改札を抜けてから、列車が到着するのを待つ間、二人はホームにあるベンチに並んで腰を下ろすのでありました。ここの方が西日を真正面から受けるのでありました。
 ホームには頑治さんと同じ列車に乗るのであろう人達が数人、或いはベンチに腰掛けたり、或いは立って列車の来る方向をぼんやり眺めていたりしているのでありました。
「あたしそこの売店で何か買ってくるわ」
 夕美さんが立ち上がるのでありました。「飲み物は何が好い?」
「コーヒーかな。ブラックの」
(続)
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あなたのとりこ 722 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんが売店に歩いて行く後ろ姿を見ながら、頑治さんはどうしたものか急にもの寂しくなるのでありました。またもやここで夕美さんの傍を離れるのは、自分の本意に明らかに反しているのではないでありましょうか。
 しかし夕美さんのお母さんの病状が優れないし、近々病院に入院する可能性もあると云う現実は、頑治さんの本意なんぞと云うものは簡単にさて置くべき重たい事態に違いないのであります。それでも尚、夕美さんの傍を離れるのが辛いと云うのなら、頑治さんが東京に戻るのを先送りして、もう少しこちらに残るしかないでありましょう。
 とは云うものの、これ以上の滞在は頑治さんの懐具合が許さないのでありました。それに宿代わりに居候させて貰っている友達にも、この上尚も厄介はかけられなと云うものであります。何ともはや実に情けない事情でありますけれど。
「何をそんな不機嫌そうな顔して遠くを眺めているの?」
 自動販売機で缶コーヒーを買って来た夕美さんが、それをやんわり手渡しながら首を傾げて頑治さんに訊くのでありました。
「何だかこれでまた暫く夕美と逢えなくなると思ったら、急に寂しくなったんだよ」
 頑治さんがそう応えると、夕美さんは缶コーヒーを受け取った頑治さんの右手を自分の右手で包むように握るのでありました。
「いっその事、こっちに戻ってくれば良いのよ」
 夕美さんは少し力を籠めて頑治さんの手を握るのでありました。「向うでの生活を切上げてこっちに生活の拠点を移せば、あたし達は逢いたい時に何時でも逢えるじゃない」
「まあ、そうだけど。・・・」
 頑治さんはそう云ってまた遠くに視線を馳せるのでありました。
 その儘黙って仕舞った頑治さんの手が何だか少し冷えたように感じたのか、夕美さんは頑治さんの手を包んでいた自分の手をそっと離すのでありました。
「東京で遣りたい事があるから、向うに未練があるるのね、頑ちゃんは」
「確かに会社を辞めたこの機が良いチャンスではあるけど、でも俺としては向うの生活をきっぱり切上げてこっちに戻って来るには、少し速すぎるような気がするんだよ」
 そう云いながらも頑治さんは一体何が早すぎるのか、自分でも茫漠としているのでありました。確かに自分は向うの生活にどう云う未練を持っていると云うのでありましょう。単に向うを切上げてこちらに戻って来ると云う事が、何やら隠遁者になるような気がして仕舞うからでありましょうか。そう云うのは何とも好い気な勘違い以上ではないでありましょうし、了見違いも甚だしいと云うのも頭の中では了解している事であります。
 単に現状に変更を加えるだけの勇気がなくて、現状にめそめそと縋り付いているだけかも知れません。度し難い現状維持派であります。
「ああご免ね、頑ちゃんには頑ちゃんの考えがあるのよね。それなのにあたしがそれをどうこう云うのは、鈍感と云うものだし筋違いよね」
 夕美さんが気を遣って、そう云って頑治さんに笑んで見せるのでありました。その笑みを見ていると頑治さんは夕美さんに対する済まなさで消えも入りそうでありました。
(続)
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