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あなたのとりこ 717 [あなたのとりこ 24 創作]

 その刃葉さんがこの自動販売機の方に遣って来ているのでありました。別に逃げ隠れする謂れはないのでありましたが、頑治さんは咄嗟に自動販売機から不自然にならないように気を付けながら、素早く離れるのでありました。
 どうやら頑治さんは刃葉さんには気付かれなかったようでありました。刃葉さんは脇目も呉れず自動販売機迄来ると、頑治さんが先程買ったのと同じ缶コーヒーを買って、その儘妙に急ぎ足でそそくさと立ち去っていくのでありました。
 そう云えば前にもこの上野公園の動物園脇の同じ自動販売機の前で、もう会社を辞めていた刃葉さんと逢ったのでありました。丁度頑治さんは夕美さんと一緒に散歩をしていたところであったから、何となくばつの悪い思いをしたのでありましたか。その時確か刃葉さんは、空手の修業か何かで、小さな牧場をやっている師匠を手伝い旁、北海道に渡るとか云っていたのではなかったかしらと頑治さんは思い出すのでありました。
 その刃葉さんがあれから一年もしない内にこちらに戻って来たのでありましょうか。空手の修行とか牧場の手伝いなんかはどうしたのでありましょう。
 一応、修行、と云うのだから、一年も経たない内に切り上げて戻って来ると云うのはないような気がするのであります。持ち前の飽きっぽい性分からか、はたまた一緒に生活してみて師匠とは反りが合わなかったためか、またはその師匠と云う人の技術或いは人格に疑問が湧いてきたとかで、早々にケツを割って帰って来たのでありましょうか。
 まあ、ひょっとして師匠に用事を云い付けられて、偶々一時的にこちらに戻って来ただけかも知れません。以前あれだけ空手に打ち込んでいた刃葉さんでありますから、そう簡単に、修行、をうっちゃって仕舞うとは思えないではありませんか。
 取り敢えず刃葉さんに見つからないでこの場を遣り過ごせた事に、頑治さんは安堵するのでありましたが、しかし考えてみれば、若し見つかって言葉を交わすことがあったとしても、頑治さんには何の不都合があるのでありましょう。どうして見つからなかった事にほっとしているのか、これは自分でも謎でありましたが、まあ強いて云えば、刃葉さんがどうしてここに居るのか聞く事、それに頑治さんが会社を辞めた事を報告して、それについてあれこれ経緯など説明する事が億劫だった、と云う事は云えるでありましょうか。
 こう云う事で頑治さんのこの上野公園散歩は、ひょんな事から長閑で能天気な散歩とはならないのでありました。頑治さんは夕暮れた街を、何となくモヤモヤした気分を抱えながら、行きよりは速い速度で家迄歩いて引き返すのでありました。

 さて、七月の終わりに頑治さんは久し振りに、当初の予定通り一週間程故郷へ帰るのでありました。態々駅に迎えに来た夕美さんとの久し振りの逢瀬に抱き合って喜びを表現したいところでありましたが、人目を気にして手繋ぎだけで押さえるのでありました。
「どう、久しぶりの故郷は?」
 二人で懐かしの街並みを歩きながら、夕美さんが訊くのでありました。この街一の繁華街である長いアーケードの、商店の連なりを頑治さんは見渡すのでありました。
「前に来た時とあんまり変わっていないかなあ」
(続)
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