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もうじやのたわむれ 8 創作 ブログトップ

もうじやのたわむれ 211 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「おや、明日も私におつきあいいただけるので?」
 帰路に歩を踏み出しながら逸茂厳記氏に拙生は聞くのでありました。
「はい。貴方様の外出時の護衛は、我々元気コンビが最後までいたします」
 逸茂厳記氏はそう云って、歩きながらまたもお辞儀をするのでありました。
「それは心強いですな。なにせあの近くの住宅街の辺りで私は誘拐されかけたのですから、一人で寄席に行くのはちょいと不安でしたからね。昨日は腕の立つ合気道の達人の連れがありましたから事なきを得たのでしたが、私一人となるとからっきし情けない限りで」
「無粋な男二鬼の連れでは貴方様も興醒めでしょうが、ま、ご辛抱下さい」
「いやいや何を仰いますやら。頼もしい限りです」
「ならば宜しいのですが。・・・」
 拙生は娑婆にいた頃は大体、寄席には一人で行くのが慣わしでありましたので、実のところ元気コンビと同道するのは、少しばかり煩わしいような心持ちがするのでありました。しかし拙生が前の時のように鵜方三四郎氏と一緒ではなくて全くの一人でいるところを、昨日逃げた準娑婆省の諜報機関に所属すると思しき小柄な男が、若し何処かで目撃したとするならば、これはしめたと昨日同様の凶行に及ぶのは必定であります。依って元気コンビと連れだって寄席見物に繰り出すのも、これは致し方がないと考え直すのでありました。
「貴方は寄席とかに行かれた事がおありですか?」
 拙生は横を歩く逸茂厳記氏に訊くのでありました。
「いや、ありません。落語とか演芸はテレビでもあんまり見ない方で」
「ああそうですか」
「しかし良い機会ですかな、後学のためにもそう云う場所へ一度行ってみるのは」
「発羅津さんはどうです?」
 拙生はやや後ろを寡黙に歩く、発羅津玄喜氏の方をふり返りながら訊くのでありました。
「あ、いや、私も行った事がありません」
 発羅津玄喜氏が思いもかけず拙生に急に言葉をふられてたじろいで、ぎごちなく笑いながら応えるのでありました。「でも私の親父が漫才とかが好きでよく行っておりました」
「お父様のお伴をされた事はないので?」
「寄席について行った事はありません。でも、親父の影響で、小さい頃から漫才やコントは好きでした。中学生の頃、昼の三時から毎週テレビでやっている腰元新喜劇を見るために、土曜日のクラブ活動はサボっていたくらいですから」
「腰元新喜劇?」
「ええ。腰元興行と云う漫才師や落語家や喜劇俳優を多く抱える興行会社が、自前の定席での興行の最後にやる喜劇です。私の通っていた中学校の中になかなかなコアなファンがごく少数いましてね、月曜日ともなるとそういった連中の間で、土曜日に放映された新喜劇の話しで持ち切りになりました。私もそう云ったファンの一人でした」
「娑婆の吉本新喜劇みたいなものでしょうかね?」
「いや、私は娑婆の方の新喜劇は良くは知りませんが」
(続)
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もうじやのたわむれ 212 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「花紀京とか岡八郎とか、船場太郎とか桑原和夫とか、それに原哲夫とか平参平とか、井上竜夫とか谷茂とかの俳優さんがいましたか?」
 拙生は後ろの発羅津玄喜氏をふり返りながら歩いているので、時々足場の悪い山道の、不意に現れる段差に足を取られたりするのでありました。
「いや、そんな名前の俳優はいませんでしたね」
 それはそうでしょうか。今挙げた中でこちらの世に来ているのは、平参平さんと岡八郎さんくらいなもので、他は拙生が娑婆をお娑婆ら、いや、おさらばする時には未だ向こうで舞台に立っていらっしゃる、現役バリバリの役者さんでしたから。
「こちらの、邪馬台銀座商店街近くの映画・興行街にある六道の辻亭と云う寄席では、漫才とか新喜劇とかもやるのでしょうか?」
 拙生は首を後ろに捻った儘、発羅津玄喜氏に訊くのでありました。
「いや、あそこは落語が主流で、色ものとして落語の合間に漫才や奇術なんかもやります。落語協会と云うところと落語芸術協会と云うところが旬変わりで興行を打ちまして、両協会共に新喜劇とかの俳優さんはいないはずです。だから新喜劇はやらないと思いますよ。まあ、私は一度も六道の辻亭には行った事がなくて、そう云う風に聞いているだけですが」
「娑婆の東京にある、新宿末広亭とか上野鈴本演芸場とか浅草演芸ホール、それに池袋演芸場と云う定席の寄席と同じような感じでしょうかな」
「不勉強なもので、娑婆の東京の寄席の事情に詳しくないものですから、そこは私には何とも答えようがありません」
 発羅津玄喜氏が恐縮の面持ちで拙生に一礼するのでありました。
「ま、明日行ってみれば判る事ですかな」
 拙生はそう云って発羅津玄喜氏から視線を外して、後は無言で、前を向いて時々急勾配になったり直角に折れ曲がったりする山道を下って行くのでありました。
 車で宿泊施設に戻ったのは逸茂厳記氏が云っていた通り、未だ暮れ切っていない内でありました。我々は出かけた時と同じに閻魔庁職員専用の出入口から宿泊施設の中に入り、職員専用エレベーターで上のロビーに辿り着くのでありました。
 この間、専用車で元気コンビの護衛までついて、何の危険な目に遭う事もなく無事に宿泊施設に帰り着いたのでありましたが、元気コンビは何につけ細々と拙生の世話を焼いてくれるし、観光のガイド役も務めてくれるし、缶コーヒーまで奢ってくれるしで、拙生としてはまるで御大名旅行をさせて貰ったと云った感じでありました。こう云った格別の待遇なんぞと云うものは、この先こちらの世に一般の霊として生まれ変わっても、余程の事がない限り、受ける事は出来ないであろうと拙生は思うのでありました。これは全くこちらの世で短時間、仮の姿で過ごすところの亡者であったればこその特典でありましょう。
 となると一般の霊として生まれ変わるよりも、亡者の儘でこちらの世で身過ぎ世過ぎしていく方が、余程安楽なこちらの世ライフを送れるであろうと、拙生は不埒な事をまたぞろ考えたりするのでありました。飯も食わないで済むし、嫌々勉強したりあくせくと働いたりする必要もないようだし、透明人間とか幽霊の利点も大いに行使出来るのだし。
(続)
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もうじやのたわむれ 213 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 いやしかし亡者の儘だと、準娑婆省の諜報機関の連中に誘拐される危険が、何時もつき纏うのかも知れませんし。それに亡者の儘でいたいがために、こちらの世に霊として生まれ変わる事を拒否したならば、当然亡者としての優遇措置も、その時点から受けられなくなるのでありましょう。それどころか、不逞の輩として法的に罰せられるかも知れません。
 しかしそれなら誘拐されるに任せて準娑婆省にでも行けば、何かしら亡者として生きる(?)術があるのかも知れません。準娑婆省では娑婆にちょっかいを出して面白がる事も出来るようですし、それは何やら魅力的と云う以上に蠱惑的にも思われるのであります。
 けれども準娑婆省でなら亡者の儘でいられるとしても、亡者の儘でいるための不利益というものも屹度あるに違いありません。この仮の姿にしてもこれから先ずうっと、耐用保証期間が切れずに、ちゃんと動作してくれるかどうかも判らないのですし。
 この仮の姿を喪失して仕舞うような事態になれば、拙生はいったいこちらの世でどのような存在として生きて行く事になるのでありましょうか。ゆるぎない個体として存在する霊でもなく鬼でもなく、仮の姿ではあるにしろ、鬼や亡者間では識別が可能な姿を持つ亡者でもないと云う事は、つまりこちらの世に客観的に存在出来ないと云う事であります。それはつまり拙生に自己はないと云う事であります。自己がないなら他者もないのでありますから、結局拙生はこちらの世に存在していないと云う事になります。拙生は存在していない者として、こちらの世に存在しなければならないわけであります。それは何とややこしい存在でありましょうか。考えるだけで頭の中が春霞のようなものに覆われてきます。
 矢張り霊として生まれ変わるのが、一番シンプルな形態でありますかなあ。無精者の拙生には、亡者の利点に恋々とするよりは、ごく一般的な形態ですんなり霊になって仕舞う方が、余程安楽な道のようであります。娑婆でも、面倒臭いのはうんざりでしたから。
「では明日もまたご一緒させていただきますが、我々は明日の何時に、ちちらのロビーにお迎えに上がれば宜しいでしょうかな?」
 さて、ロビーのフロントの前で別れ際に、逸茂厳記氏が拙生に問うのでありました。
「そうですねえ、忙しい予定にふり回されるのはげんなりですから、明日はのんびり部屋で朝寝を楽しんで、それから朝食兼昼食をたらふく食って、その後ふらっと、と云った感じで寄席見物に出発としたいので、出来れば午前十一時くらいでお願いしたいものです」
 拙生は横着な注文を出すのでありました。
「判りました。では午前十一時にこのフロントの前でお待ちしております」
「勝手を云って申しわけないですなあ」
「いやいや、何を仰いますやら。我々はあくまで貴方様のご希望に沿う形で、護衛役の方を勤めさせていただくだけですから、どうぞご遠慮なく。では、明日午前十一時に」
 逸茂厳記氏はそう云って拙生に敬礼して見せるのでありました。発羅津玄喜氏もやや遅れて拙生に敬礼するのでありました。釣られて拙生も敬礼するのでありました。
「どうでしたでしょうか。今日の観光は満足されましたでしょうか?」
 元気コンビが立ち去ってから、フロント横の案内デスクに座っていたコンシェルジュが、拙生にそう声をかけるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 214 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「ええ、大変満足致しました。貴方に立てていただいた行程通りに回りましたが、とても効率よく観光出来ましたよ。どうも有難うございます」
 拙生はコンシェルジュの方に近寄りながら云うのでありました。
「いや、どういたしまして。そう云ってくださると私としても嬉しい限りです」
 コンシェルジュは立ち上がって拙生にお辞儀をするのでありました。「明日の予定ももう、あの護衛係りと打ちあわせ済みのようで?」
「そうですね。明日は昼近くまでゆっくりして、その後寄席見物に行く予定です」
「ああそうですか。それはそれは」
 コンシェルジュはそう云って、笑いながらまた一礼するのでありました。「ところで今晩のご予定はいかがなさいますか?」
「この後はまたカフェテリアで夕食をしこたま食って、それから部屋で寛いでから寝ます」
「もし何でしたら、日本間の方で芸者や幇間を挙げて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ、なんと云うオプションもございますが、それは如何でしょうか?」
「ほう、そんなオプションがあるのですか?」
「はい。これは結構皆様に好評です」
「そうですねえ、・・・」
 拙生は少し考えるのでありました。「いや、私はそのサービスは遠慮しておきます。娑婆でもそう云う宴席にごくごく偶に出た事もありましたが、私は何となく苦手でしたなあ。芸者さんなんかにこちらの方が余計気を遣いましてね。そんな必要はないのでしょうが、ま、性分ですかね。返って気疲れして仕舞うのです。ですから今日は部屋の方で一人酒を飲みながら、三途の河の夜景をぼんやり眺めて気楽に過ごしますよ。折角のご提案ですが」
「ああそうですか。まあそれは亡者様の全くのご自由ですが。因みに、カフェテリア黄泉路は、夜になると生バンドが入って、ジャズや軽音楽をやるバーになりますから、そちらで一人静かにカクテルでも飲みながら過ごす事も出来ます。一応ご案内しておきます」
「ああそうですか。そっちの方は気が向けば利用させて貰いますよ」
「こちらは四更一杯営業しております」
「随分遅くまでやっているのですね」
「亡者様は睡眠の必要がなく、しかもお疲れにならないお体なので、要望に依りなるべく遅くまでやっているのです。しかし一応そこいら辺りで切り上げないと、朝食の準備が出来ませんので、申しわけないのですが四更までとさせていただいておるのです」
 コンシェルジュはそう云って頭を下げるのでありました。
「居酒屋さんとかカラオケボックスなんかはないのですか?」
「この宿泊施設内にはありませんが、外には<亡様歓迎>の店があります。邪馬台銀座商店街近くの飲み屋街にも<亡様歓迎>の飲み屋がありますが、誘拐の件もありますから、もしそちらへおいででしたら、護衛つきでお出かけ頂く事になります」
「それは何やら大袈裟過ぎて、億劫ですなあ。ふらっと出かけると云う感じではないし」
 拙生は気後れの表情をして見せるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 215 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「以前はふらっと街に飲みに出かけるのも大丈夫でしたが、誘拐の件があって以来、夜の亡者様単独の外出は、なるべくお控え願っております」
「まあそれは仕方がないでしょうかなあ」
「大袈裟さを厭わなければ、勿論お出かけにはなれますよ。フロントに申しつけていただければ、護衛係りがすぐに参上いたします」
「ああそうですか。しかし今日私の護衛についてくれた、逸茂厳記さんや発羅津玄喜さんは、今日の仕事を終えてもうご帰宅されたでしょうしねえ」
「いや、両名は宿直しております。貴方様が明日の思い悩み時間を終えられて、夕方か夜、宿泊施設に戻られるまで、何時でも出動できるようにこの中で待機しております」
「ああそうなんですか。私ごときのために何とも恐縮ですなあ」
「いやまあ、それが警護係りの仕事ですから。それに一般的には三日間の宿直と云う事ですので、思われる程大変な事もありません。結構高額の宿直手当もつきますし」
 コンシェルジュは控えめににんまりと笑って一つ頷くのでありました。
「ま、私は矢張りカフェテリアを利用させて頂きますよ、部屋以外で飲酒するとしても」
「ああ、左様でございますか。如何ようにも貴方様のご随意です」
 コンシェルジュはそう云ってやや深めにお辞儀をするのでありました。
「では私はこれで一旦部屋に引き取って、少し寛いでから夕食を摂りにまた下りてきます。今日は色々お世話になりました。有難うございました」
 拙生が片手を挙げると、コンシェルジュはもう一度深いお辞儀をするのでありました。
 拙生はフロントに、部屋の鍵の預かり証である部屋番号の刻印された丸いプラスチック片を示して、交換に部屋の鍵を受け取るのでありました。部屋に引き揚げてシャワーでも浴びてから、夕食を摂るためにまた下に降りてくるつもりであります。
 しかし部屋に戻ってシャワーを浴びて新しい下着に着替えて仕舞うと、拙生は何となく外に出て行くのが億劫になるのでありました。まあ、亡者は別に腹も減らないのでありますから、夕食も実際は必要ないのであります。これから敢えて下のカフェテリアに行って信州佐久から来た江戸っ子言葉の板前や、中国料理の料理夫やイタリア料理のシェフなんかと、あれこれ賑やかに言葉の遣り取りをするのはしんどいようにも思うのであります。
 まあ、夕食は朝食の時のようにビュッフェスタイルではなくて、例えば娑婆風の、フランス料理のフルコースとか和食の豪華版の懐石とか、中国は清朝宮廷料理の満漢全席なんと云うコース料理を堪能できるのかも知れません。一人豪勢にそう云うのを楽しむのも結構ではありましょうが、しかしそれにしても矢張り何となく面倒ではあります。
 亡者は腹も減らないし疲労も感じないと云うのに、この億劫になると云う気分なんと云うものだけは、ちゃんと備わっているのでありましょうか。実際拙生は夕食を摂るのが億劫になっているのでありますから、ま、備わっているのでありましょう。
 そうでないと亡者が矢鱈と元気に宿泊施設のサービスを、何でもかんでも手当たり次第に全部享受するとなると、それは閻魔庁の経費も嵩んで仕方がないでありましょう。それに職員の鬼連中もそれにふり回されて、てんてこ舞いする事になるでありましょうし。
(続)
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もうじやのたわむれ 216 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 その辺の機微は良く出来ていると云うべきでありましょう。亡者に、億劫になると云う気分が発生する事で、閻魔庁の様々な雑事の一部が一定程度軽減出来るわけであります。
 閻魔庁も地獄省の省庁であるからには、地獄省の国家予算、いや違った、省家予算の縛りが当然あるのでありましょう。そうなると経費削減とか仕事の効率化とかの要求や、無駄遣いの厳しいチェックとかが、娑婆の会計検査院みたいなところからなされるでありましょうから、亡者の待遇に湯水の如く経費を遣う事は出来ないと云う事であります。まあこの辺りは拙生の勝手な憶測であって、然と確かめたわけではないのでありますが。
 いやしかし待てよ、と拙生は考えるのでありました。確か昨日の夜もこの部屋に戻った後に、もう外に出るのが億劫になったのでありましたか。と云う事はひょっとしたら、この部屋に亡者を億劫にさせる何らかの仕かけがあるのかも知れません。例えば、ある時間を過ぎて亡者が自分の当てがわれた部屋に入ると、亡者の、生まれ変わりまでの仮の姿たるこの体に作用する、億劫ガス、みたいなものが秘かに部屋の中に注入されるとか。・・・
 拙生は天井やら壁のあちらこちらを見回してみるのでありました。しかしそれらしいガスの吹き出し口のようなものは見当たらないのでありました。拙生はソファから立ち上がって、バーカウンターの上とか、小さな冷蔵庫の裏とか、ドレッサーの引き出しの中とか、テレビの横とか、カーテンで隠れた窓枠とか、バスルームやトイレの中も点検してみるのでありました。矢張り何処にもそれらしいものを見つける事は出来ないのでありました。
 億劫ガスではないとしたら、億劫電磁波とかが、部屋のスタンド照明なんかから出ているのかも知れません。まあ兎に角、そう云った感じの、亡者を万事に面倒臭いと思わしめる仕かけが、この部屋には施されていると云う疑いも考えられない事ではないでありましょう。膨大な数の亡者を応接するに於いて、閻魔庁の経費節約とか雑事の軽減のために。
 ま、それならそれで良いかと拙生は思うのでありました。亡者の特典を何から何まで全部享受出来ないとしても、それはそれで別に構わないのであります。娑婆を去る時、そんな亡者の特典がこちらで待っている、等とは思いもしなかったのでありますし、第一こちらに来てからもそんな強欲では、まあ云ってみれば、浮かばれないと云うものであります。
 この儘この仮の姿が、機械が自動停止するように眠って仕舞ったとしても別に結構なのではありましたが、しかしどうしたものか昨日のようにすぐには眠くはならないのでありました。拙生はふと思いついてテレビのスイッチを入れるのでありました。こちらの世でやっているテレビ番組と云うものにも、多少の興味があります。眠くなるまで一杯やりながら、寛いでテレビを観るなんと云う無精な時間の過ごし方も、一向に悪くはないではありませんか。テレビ番組から、邪馬台郡の風俗なんかも観察出来ると云うものであります。
 テレビ番組は、クラシック音楽の演奏中継とかホームドラマとか、プロ野球とか、落語や漫才のお笑い番組とか、地獄省各地を旅行してその土地の歴史や面白い風習、それに珍しい食い物なんかを紹介する紀行番組等をやっているのでありました。どれも面白そうではありましたが、その中でもお笑い番組と旅紀行番組のどちらかに、拙生の興味の的が絞られるのでありました。しかし明日寄席に行く予定でありますから、今日は取り敢えず旅紀行ものの方を観んかなと考えて、拙生はそこにチャンネルを固定するのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 217 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 画面にはリポーターと思しき、身ぶりが派手で矢鱈饒舌な若い男の霊が、山道を登っている光景が映し出されているのでありました。昼間元気コンビと一緒に登った高尾山のようでもありますが、なんとなく道の様子が違うようでもあります。
 リポーターが散々下らない冗談を云い散らかしながら暫く歩いて行くと、急に道脇の雑木林が途切れて、四方の視界が開けるのでありました。リポーターは、ああいやいや、やっと頂上に着きました、ああいやいや、なんと、さも苦労して登って来たように云いながら、額の汗を大袈裟に拭いて見せるのでありました。如何にも態とらしい仕草であります。
 画面にはリポーターの視線を擬したように、頂上からの下界の眺めが映し出されるのでありました。濃い緑に覆われた周囲の山の斜面を下って行くと、次第に一戸建ての民家や低層の団地やら、大規模ショッピングセンターらしきやら、学校と思しき建物と運動場やらがぼつぼつ現れ始め、建物の泛々は山裾に下って行く程密になっていくのでありました。
 山裾に近い、未だかろうじて緩やかな斜面になっている辺りで、ほぼ真っ直ぐに延びる大きな幹線道路が建物の密集面を横断し、その道路が住宅地とその先にある造船所と思しき工場の建物郡を隔てているのでありました。造船所の工場のトタン屋根が重列している先には、建造中のタンカーらしき船を固定したドックや、全身グレーに塗られた軍用艦の入れられたドック、それに船の入っていいない空のドック等が五つ程横に並び、周りに大きなクレーンが幾本も建っているのでありました。そのまた先には大小の島々や、陸から迫り出てきた岬を浮かべた海原が、遠く視界の途切れる先まで遥望されるのでありました。
 港湾部には方形に造られた幾つかの岸壁に沿って大小の船が繋留されていて、白い貨物船や客船らしきも見えはするのですが、どちらかと云うと陰鬱な暗色に塗装された軍用艦が、矢鱈に目立っているのでありました。どうやらここは軍港としての色彩が濃い港湾のようであります。航行している多くの船も艦の前後に大砲を装備したものが目立ち、その暗い色の船舶が鮮やかに白い航跡を後ろに引いている光景が印象的なのでありました。
 この風景は見た事があるような気がするのでありました。なんとなく拙生の娑婆での生まれ故郷たる佐世保の風光に、瓜二つのように思えるのであります。港の様子の細部まで全く同一と云うのではないし、海岸線の形状も微妙に違ってはいるのですが、しかし昔拙生の住んでいた辺りの裏の山から見遥かした風景と、かなりの部分で重なるのであります。拙生は懐かしさにテレビ画面に吸い寄せられて、思わずときめいているのでありました。
 リポーターが、いやあ見事な河川の眺めですねえ、等と感嘆して見せるのでありました。それを聞いて拙生は、感奮にほんの少し水を差されたような気がするのでありました。
 そうであります。こちらには海はないので、これは河川の眺めなのであります。河岸に設けられた、造船所であり港湾の眺望なのであります。テレビに映し出されている風景と、河川、と云う言葉が拙生の頭の中でどうしても上手く噛みあわないのでありました。
 恐らく三途の川沿いにある、邪馬台郡の中の何処かの港湾都市の一つなのでありましょう。紛れもなくそれは娑婆の佐世保の懐かしい風景とそっくりなのではありますが、しかしそのテレビ画面に見える水面が、実は海ではなくて川である事で、拙生にとっては残念ながらも、決定的に無愛想な風景と化して仕舞ったように思えるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 218 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 拙生はほんの少し白けて仕舞って、テレビのチャンネルを別のものに切り替えるのでありました。今度は寄席の高座と思しき舞台が映し出されて、座布団に正座した和服の男が扇子をふりまわしながら、声を張り上げて俗曲を唄っている画面が現れるのでありました。これはどうやら間違いなく、落語を演じている光景であります。しかも、烏がパッと出りゃコリャサのサーア、なんと云う唄の文句からして、多分『野晒し』に違いありません。
 向こうの世の噺がその儘こちらでも受け継がれているだろう事は、これまでの審問官や記録官との遣り取りや、審理室での補佐官筆頭の作った俳句の話しの中での、元閻魔庁職員だった大酒呑太郎氏から補佐官筆頭がおちょくられた顛末、それに賀亜土万蔵氏なんかとの会話中にちょこちょこ出る冗談等から、大凡推量はしていたのでありました。向こうの世で落語家だった人間がこちらでも落語をやるのであるなら、しかも向こうの世での出来事や自分の事跡の記憶はこちらでも蘇るわけであるなら、自ずと同じ噺がこちらでも演じられる事になるのでありましょう。ま、当たり前と云えば当たり前の話しであります。
 落語家は全然見覚えのない面相をしているのでありました。まあ、このテレビに映っている噺家が向こうの世で活躍した噺家であったのだとしても、こちらで全く新たに生まれ変わって噺家となった霊でありますから、面相も声も、向こうの世での風情とはすっかり違っていて当然でありましょう。時々画面に入る傍らのめくりに書いてある演者名を見ると、三遊亭円朝、としてあります。これはまた何とも大きな名前をつけたものであります。
 しかし考えてみたら、この落語家がその名前を堂々と名乗っていると云う事は、ひょっとしたら娑婆でその名前で活躍した、初代橘屋円太郎の長男で、自作の怪談噺で後に名を残した、江戸時代の三遊亭円朝の生まれ変わりだと考える事も、出来なくはないのであります。まあ、娑婆の三遊亭円朝師匠がこちらの世に来て百十余年でありますから、このテレビに出ている落語家の、ようやく若手を卒業した辺りのその歳恰好からしても、そうである可能性は充分と云えるありましょうかな。それに今やっている『野晒し』と云う噺にしても、ま、怪談噺に分類出来ない事はない噺、と云えばそう云えるでありましょうから。
 この三遊亭円朝師匠の噺の後には、今売出し中の若手漫才のホープ、と云うアナウンサーの紹介が入って、スーツ姿の漫才コンビが拍手に迎えられて、派手々々しく登場するのでありました。コンビ名は、中田ダイマル・ラケット、だそうであります。これまた、何とも懐かしい名前が出てきたものであります。しかし拙生が娑婆で見た漫才の中田ダイマル・ラケットさんとは、勿論風貌はまるで違うのでありました。尤も拙生は、師匠達がもう円熟期に達した辺りから、その晩年の頃のお姿しか知ってはいないのでありましたが。
 あんまり今日の内にテレビでこちらの世のお笑いを堪能して仕舞っては、明日せっかく六道辻亭に行く楽しみが半減して仕舞うかもしれません。そう考えて拙生はまたチャンネルを替えるのでありました。今度はクラシック音楽の演奏中継番組でありました。
 バイオリンやチェロ等の楽器は、娑婆のそれと全く同じなのでありました。チャンネルを替えた時、丁度何やらの交響曲が終わったところのようで、客席の歓声と拍手に舞台上の総ての演奏家が立ち上がって応えているところでありました。その後場面が一転して、大きなパイプオルガンとその前に座る燕尾服の演奏家が映し出されるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 219 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 オルガンは客席の緊張がギリギリまで高まった静寂の後に、バッハのトッカータとフーガニ短調を奏で始めるのでありました。拙生が娑婆で、カカアからかかってきた携帯電話の呼び出し音に設定していた曲であります。いやまあ、そんな事はどうでも良いですが。
 矢張り落語と同じで、向こうの世で音楽家であった連中がこちらに来ても音楽家になった場合、向こうで自分が作曲した曲と同じ曲が、こちらでも再現されて当然でありましょうか。ですからこれは屹度、バッハの生まれ変わりが作曲したのかも知れません。
 元々娑婆で自分の曲だったものをこちらで再発表するのでありますから、これは当然ながら娑婆とは違う世界の事でありまして、別に盗作とか無断借用とか云う事は全くないのであります。云ってみればそれは、芸術の普遍性、とか云うべき事柄でありましょうか。
 バッハの生まれ変わりが、こちらの世で地獄省にいるのか極楽省にいるのかは不明ですが、兎に角、これは屹度娑婆でバッハと云う名前だった音楽家の、生まれ変わりが創った曲に違いありません。まあ、バッハの場合は極楽省を天国省と云うべきでありましょうが。
 テレビ画面の右上に出ているクレジットに、J・S・飛蝗作曲、としてあります。バッハ、が、飛蝗、となっているのは、コンシェルジュ辺りに訊いてみると屹度、お茶の水ならぬお茶のお湯にある、ニコライ堂ならぬ帰去来堂の場合と同じように、作曲家のご先祖様が中国系だった、なんと云う、妙に都合の良い説明がなされるのでありましょう。
 曲の途中で、何故か拙生は急に強烈な眠気に襲われるのでありました。これは勿論、トッカータとフーガニ短調と云う曲、或いはそれを演奏しているオルガン奏者の技量が、拙生を眠たくさせたのではないのであります。テレビから流れてくる演奏は、娑婆の第一級のオルガン奏者の演奏にも劣らない、極めて素晴らしいものなのであります。
 この拙生の眠気は屹度、億劫ガスか或いは億劫電磁波が相当に効いてきたためでありましょうか。この儘不覚にも吸いこまれるようにソファの上で眠って仕舞っては、昨日の二の舞であります。折角こんな良い部屋をあてがわれたのでありますから、どうせ寝るのなら備えつけのベッドの上で、ちゃんと寝る意識を持って寝たいものであります。
 そう思って拙生は、片手に持っていた飲みかけの缶ビールをグイと空けて、その空になった缶を傍らのテーブルの上に置いて、テレビも律義に消して立ち上がると、ベッドの方に移動するのでありました。その僅かの距離の移動中にも、拙生の瞼は今にも閉じて仕舞いそうでありました。なんと云う強烈な眠気なのでありましょうか。
 拙生はベッドにうつ伏せに倒れこむのでありました。ベッドのバネが、倒れこんだ拙生の頬を柔らかく、ほんの僅か跳ね上げる感触を感じたところまでは覚えているのでありました。しかしそこまでしか、拙生の記憶はないのでありました。
 拙生が次に目を開いた時には、カーテン越しに差す朝日に、部屋はもうすっかり明るくなっているのでありました。拙生はどうやら意識を失うように昨夜このベッドに倒れこんで、その儘すぐに身じろぎもせずに眠りこけていたようであります。
 倒れこんですぐ寝てしまったのでは、ちゃんと寝る意識を持って寝た、と云う事にはならないだろう、なんと考えながら拙生は身を起こすのでありました。しかしまあ、寝て仕舞ったものは仕方がないので、拙生は顔を洗うために洗面所に向かうのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 220 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 寝覚めのシャワーを浴びて着替えを済ませると、拙生は昨夜飲んだビールの空き缶をドレッサー脇のごみ入れに棄て、ドレッサーの上に置いていた観光絵地図とボールペンと、携帯電話をポケットに入れるのでありました。その後腕時計を左手に嵌めてから、両頬を平手で軽く二度ほど叩いて、軽い喝を入れてから部屋を出るのでありました。これは娑婆時代に拙生が朝出かける時の儀式として、時々やっていたその癖が出たのでありました。
 先ずはカフェテリア黄泉路で朝食であります。店内は何故か昨日より、食事を摂りにきた亡者で混みあっているのでありました。先ず調理カウンターを覗くと、娑婆の中国人風の料理夫に「また来たあるか」等と愛想の声をかけられたり、娑婆の日本人風の板前に「へい、今日も活きの良い魚が入っていますぜ!」なんとまたもや刺し身を勧められたり、娑婆のイタリア人風のシェフに「今朝はあっさりとした辛子明太子スパゲティーがお勧めでーす」なんと云われて、そんなものイタリアにはなかろうと思ったりするのでありました。
 しかし勧められる儘にその料理を総て注文して、序でにワイン一瓶と日本酒の二合徳利を二本頼むのでありました。またもや自分のテーブル上が、運んできた料理で隙間なく埋め尽くされているのを見て、誰にと云うわけではないのですが暫し呆れ顔なんかをして見せてから、拙生はそれをガツガツと腹の中に片端から収めるのでありました。別に自棄になる事なんぞ何もないのに、これは傍から見れば自棄食いと云う風に見えるのかも知れない、等と何となく傍目を気にしながら、顎と咽を精力的に動かし続けるのでありました。
 最後にコーヒーでも飲まんかなと思って、自儘に料理を取る事の出来る長テーブルへ行ってコーヒーをカップに注いでいたら、目の端に餃子とチャーハンが見えるのでありました。事の序でにその餃子とチャーハンと焼きソバを一皿ずつ、ハムと野菜のサンドイッチとスクランブルエッグと大振りのソーセージ二本、それに味噌汁とお香々と、御飯を丼に大盛りにして、コーヒーの他にオレンジジュースを自分の席に運んでくるのでありました。
 こんなに強欲の趣く儘に朝食を掻きこんでいる亡者が、拙生の他にもいるかしらと思って辺りを見回すと、大概の亡者達は、まあ、娑婆で普通に摂っていた程度の量の、しかも和食なら和食、中華なら中華、洋食なら洋食に統一された穏健な食事をしているのでありました。しかし中には拙生と恐らく同じ魂胆からか、大量の料理をテーブルの上に並べている猛者もいるのでありました。その猛者の強欲な食事ぶりを見ながら、今更どの面下げてと謗られそうでありますが、拙生は何となく気恥ずかしい心持ちになるのでありました。
 只だと思って、了見がいじましいと云うのか浅ましいと云うのか。恥も外聞もなくここぞとばかりに大食らいしている図と云うのは、矢張り見るに耐えないものであります。拙生は大いに赤面するのでありました。明日の朝食は慎ましやかにすべきでありましょう。
 どうせ食っても食わなくても、拙生のこの仮の姿には空腹も満腹もないのであります。だからと云ってそれなら大食らいしてやろうと思うか、無駄食いはしないでおこうと思うかは、屹度娑婆時代にどれだけ品位を磨いてきたか、と云うところに関わっているのでありましょう。ここは拙生の娑婆時代の心胆の位が試されているのであります。・・・いやまあ、もう娑婆にお娑婆ら、いや違った、おさらばした身であるなら、そんなにしかつめに考えなくとも良い事ですかな。それにもうすぐこの仮の姿も消えてなくなるのでありますから。
(続)
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もうじやのたわむれ 221 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 コーヒーの最後の一口を喉に流しこんでから、拙生は席を立つのでありました。この後は逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏の警護担当両人と、いや両鬼とフロントの前で落ち逢う手筈であります。拙生はドア前に立つ白シャツに蝶ネクタイのウエイターに、有難うご座いました、の一礼で見送られてカフェテリア黄泉路を出るのでありました。
 フロント前ではもう、両鬼が待機しているのでありました。
「お早うございます」
 逸茂厳記氏がそう元気に云って拙生に一礼すると、発羅津玄喜氏もやや遅れて同じように、上体をピンと伸ばして腰を折るのでありました。
「お早うございます」
 拙生もそう返して腕時計を見るのでありました。待ちあわせ時間の午前十一時には、未だ十五分程あるのでありました。
「昨日はあの後、宴会の間で、飲めや歌えの大騒ぎをされたのでしょうか?」
 逸茂厳記氏が問うのでありました。
「いや、あの後部屋に戻って、酒を飲みながらテレビを見て過ごしましたよ」
「ああそうですか。それはまた随分大人しい夜でしたね」
「ええまあ、娑婆でも私はどちらかと云うと、夜は一人でぼんやり過ごすのが好きでしたから。偶に一人で寄席とか、軽音楽のコンサートなんかに行ったりする他は、カカアが自分の寝室に引き取ると、リビングのソファの上にだらしなく寝そべって、缶ビールとか日本酒のコップ片手に、本を読んだりテレビを見ながら何時も過ごしておりましたので」
「仕事のおつきあいなんかで、外で飲み会なんかもおありでしたでしょう?」
「ええ、それはありましたけど、どちらかと云うとそれはそんなに好きではありませんでしたね。本心は、仕方なく、と云った風で、ま、支障のない程度にこなしておりました」
「カラオケなんかはお好きではないのでしょうか?」
 これは発羅津玄喜氏が訊く言葉でありました。
「私は歌が下手くそですから。それにあんまり流行りの歌とか知りませんでしたしね」
「高踏派でいらしたのですね」
「いやいや、私が見るテレビと云ったら、ニュースや天気予報の他は、お笑い番組とか寄席中継とかと、それに昔のクレージーキャッツ映画のビデオ等でしたし、読む本も『日本都々逸選集』とか『古典落語百選』とか、『世界中の発禁本』とか云った類のものでしたから、とても唯美主義的な、或いは超俗的な嗜好の故と云うのではありませんでしたね」
「私はこう見えても、カラオケが好きなんですよ」
 発羅津玄喜氏は何故か少し照れながら云うのでありました。
「ほう、そうですか。物静かでいらっしゃるから、それは意外ですねえ」
「いやいや、実はこれでなかなか軽躁な性質でして」
 発羅津玄喜氏が頭を掻くのでありました。
「こいつは結構上手いんですよ、歌が」
 逸茂厳記氏が言葉を挟むのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 222 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「いや、先輩程じゃありません」
 発羅津玄喜氏が逸茂厳記氏に向かって、大学の体育会の学生のような、背筋の伸びたきびきびした動作のお辞儀をするのでありました。
「何を云うか」
 逸茂厳記氏が発羅津玄喜氏の肩を拳で軽く叩くのでありました。「学生時代からお前ほどノリノリで、周りに自分の歌の上手さを見せつけるように歌うヤツは見た事がないぜ」
「押忍」
 発羅津玄喜氏がまたも固い礼をするのでありました。
「お二人は同じ学校の出身でいらっしゃるので?」
 拙生は二人の、いや二鬼の顔を交互に見ながら訊くのでありました。
「ええ。同じ大学の日本拳法部の、二年違いの先輩後輩の仲です。勿論私が上級生です」
 逸茂厳記氏が教えてくれるのでありました。
「私は大学を出た後就職口がなかったのですが、逸茂先輩に閻魔庁に誘っていただいて、それで就職試験を受けて、同じ警護係で仕事をする事になったのです」
 発羅津玄喜氏がそうつけ足すのでありました。
「日本拳法部ご出身なら、警護の仕事はピッタリですね。ところで、邪馬台拳法、ではなくて、こちらでも日本拳法は日本拳法と、娑婆の日本と云う国名をつけて呼ぶのですね?」
「ええ。日本拳法、と普通に呼びます。該道が娑婆の日本と云う地で発祥した武道であると云うのは、一応歴史として知っております」
「まあ、向うにある武道は総てこちらにもあると、貴方達の上司である賀亜土万三氏から伺ったことがありますね。ああ、その時逸茂さんは一緒にいらっしゃいましたよね」
「ええ。邪馬台郡中央警察署にお迎えに上がった時の事ですね」
「そうです。それでその後、柔道、剣道、合気道、空手、薙刀、水泳術、槍、弓、馬、未、申、酉、戌、・・・なんと云う、娑婆の落語家の春風亭柳昇師匠のような冗談を仰いました」
「そうでしたね。その未申酉戌は、実は私達も警護係の新人歓迎会の宴席で聞かされるのですよ。毎年新人歓迎会で、賀亜土係長はそのネタを云うのが慣例となっております。新人は面白がるのですが、我々古手にはもう天忍穂耳にタコですよ」
 逸茂厳記氏は、耳にタコ、を日本神話に出てくる神名で以ってそう云う風に、すかたんするのでありましたが、地獄省の鬼の洒落としては熟成度が今一つであると、拙生は秘かに思うのでありました。まだ若いだけにその辺の修行は不足しているのでありましょう。
「ああ、ここで何時までもこんな話しをしていても仕方がありませんから、ぼちぼち寄席見物に出発するといたしましょうかな」
 拙生は二人を、いや二鬼を促すのでありました。
 我々はまたフロント奥の従業員専用エレベーターで下に降りて、昨日と同じ、閻魔庁と前のドアに大書してある車に乗りこむのでありました。
「六道辻亭の昼席は午後二時からとなっております」
 逸茂厳記氏が車の助手席から後ろを振り返って云うのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 223 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「今から向かうと未だ随分早いようですから、出来れば途中の邪馬台郡長官邸とか郡会議事堂近辺を、少し見学してから行きたいと思うのですが」
 拙生はそうリクエストを出すのでありました。
「ああ、それが良いですね。早くから寄席の入場券売り場の前で三人して、いや一亡者と二鬼してぼんやり手持無沙汰に待っているのも、如何にも能がないですしね」
 逸茂厳記氏はそう云って首を拙生の方に捻った儘頷くのでありました。
「一昨日、邪馬台銀座商店街に向かった時、本来はそこも見学する予定でしたが、何故かさっさと通り過ぎて仕舞って、商店街まで直接行ってしまったのです」
「ああ、そうですか。あの辺もブラブラ散歩にはもってこいの処ですよ。街並みも綺麗ですし、警官が一定の時間間隔で警邏していますから比較的安全ですしね。あそこは宿泊施設から近いですから、けっこうポピュラーな観光スポットになっておりますよ」
 と云う事で車は閻魔庁から歩いてもさして遠くない、千代田区永田町とか霞が関と云う町名のついた官庁街に向かうのでありました。
 車を日比谷公園と云う名前のついた、結構広い庭園の中にある駐車場の中に入れて、我々は外に出るのでありました。
「この日比谷公園と云うのはこの辺の役所やオフィスに勤める霊なんかの、昼休みの憩いのスペースとなっております。雨の日や真冬、それに真夏を除いて、ここに自分の家から持ってきた手作り弁当やら、コンビニで買ったパンなんかを持ちこんで、昼食を摂る霊も多いですよ。未だ昼休みに少し早いですから、今は何となく閑散としておりますが」
 一町内分の面積は優にありそうな、手入れの行き届いた広い公園の木々の中を歩きながら、逸茂厳記氏が拙生に云うのでありました。
「公園の中に噴水とか野外音楽堂とか図書館とか、それに公会堂なんかがありますかね?」
 拙生は訊くのでありました。
「あります。良くご存知で」
「それに名前は違うかもしれませんが、松本楼、なんと云うカレーの有名な、相当歴史のあるレストランがありますかね?」
「おお、そんなディテールまでよくご存知ですね」
 逸茂厳記氏が大袈裟に驚くのでありました。
「娑婆の日本の東京にもありますからね、同じ日比谷公園と云う公園が。それも矢張り官庁街オフィス街のど真ん中に。そこにも噴水や野外音楽堂なんかの施設や松本楼と云うレストランがあります。ところでこの公園の北に、皇居、なんと云うスペースはありますか?」
「皇居、ですか?」
 逸茂厳記氏が首を傾げるのでありました。「いや、そう云う処はありませんねえ」
「ああそうですか」
 その辺は娑婆の様子とは違っているようであります。
 我々は公園の中を暫く散策して、それから街中に出るのでありました。行き交う霊の姿もそのやや急ぎ足の歩きぶりも、娑婆の永田町や霞が関辺りと殆ど同じなのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 224 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 街の中をつるっと回って日比谷公園に帰ってくると、丁度昼休み時間になったようで、公園の中には多くの霊が出ているのでありました。ぽつんと一人、いや一霊でベンチに座って携帯電話片手にパンを齧っている霊あり、三四霊で賑やかに弁当を広げている霊あり、公園内の散歩を楽しむカップルあり、或いは会社で着替えてきたのかスポーツウエアに身を包んで、ベンチを使ってストレッチ運動をしている霊もいるのでありました。
「公園のこう云う光景は、娑婆の日比谷公園とそんなに違いはないですね」
 拙生は公園内を見渡しながら云うのでありました。
「そうですか。昼休み時分の公園の様子なんと云うのは、何処も同じなのでしょうかね」
 逸茂厳記氏が同じように顔を方々に向けながら云うのでありました。
「こうして見ていると、邪馬台郡では住霊に対する仕事の絶対量が不足していて、働き口のない霊が大勢いるなんと閻魔大王官に聞いていたのですが、その説はあんまり現実味がないように思われますね。人出、いや霊出も多いし、皆きちんとした身なりをしていますし、表情も明るそうですし、如何にも失業者然とした霊なんかは全く見当たりませんし」
「まあ、この辺はこんな感じですが、西に南に北に邪馬台郡の中央を外れるに従って、次第に見かける霊の数も少なくなっていきますし、街の様子も寂しくなっていきます。農村では一軒当たりの耕地面積が小さいですから、若い者は多く近隣の工業団地なんかに流れて仕舞います。その工業団地にしても流入霊口に対して、総て就職口が確保されているわけではありませんからね。矢張り邪馬台郡は、未だ々々発展途上と云うべきでしょうね」
「ああそうですか。しかし娑婆の日本でも矢張り若い連中は都会に出たがりますし、多寡の波はあるにしろ失業者は絶対にいなくなりませんでしたがね。農村の崩壊とか、過疎とか、地域格差とか、一極集中とか、そう云った問題は先進工業国であり高度に資本主義が発達した、人口も一億人を越える娑婆の日本国にもある同じような問題ですからねえ」
「まあそうでしょうが、しかしこの邪馬台郡は先進工業地方でもないし、高度な資本主義システムの移植も充分ではありませんから、問題の切実さが娑婆の日本国とは雲と泥程も違うのだと思います。この辺の、邪馬台郡中央部に生まれた霊はまだしも恵まれているとしても、辺境に生まれた霊はなかなか厳しいものがあるようですよ。ま、そう云う身過ぎ世過ぎの道と霊としての幸福は、同一の地平では論じられない問題かも知れませんがね」
「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る、なんと云う言葉がありますなあ」
「おお、一定範囲に於いて達意ですなあ。それはどなたの言葉でしょうか?」
「娑婆の大昔の中国は春秋時代、斉と云う国の宰相であった管仲と云う人の言葉です」
「なんとなくその方は、高校生の頃の社会科の、娑婆史の時間に習ったような気がします」
 逸茂厳記氏は視線を拙生から離して、遠い虚空の一点に投げて、高校生だった頃の記憶を思い出すような表情をするのでありました。
「娑婆史、ですか?」
 拙生が訊くのでありました。
「そうです。高校の社会科の授業に、地理、政治経済、倫理社会、それに歴史として地獄史、この世史、それから娑婆史と云うのがあるのです」
(続)
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もうじやのたわむれ 225 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「こちらでは高校で娑婆の歴史も習うわけですね?」
「そうです。なかなか内容も微に入り細に入りで大変でしたね。霊の連中は皆各々の娑婆の記憶が蘇っておりますから、その分楽なところもあるでしょうが、そう云う記憶が何もない我々鬼は生まれて初めて習う事ばかりですから、年代順に娑婆にある色んな国々の関係性を念頭に、歴史事象を事細かに整理して覚えるのに大変難渋いたしました。娑婆史は大学入試センター試験の科目となっておりまして、我々鬼にとっては不利でありましたね」
「大学入試センター試験、なんというものも、こちらにあるのですか?」
「はい。聞くところに依ると娑婆にもそう云う制度があると云う事ですが?」
「そうですね。あります。尤も私なんかは、そう云う制度が出来る前の入試世代ですがね」
「共通一次試験、とか云う名前で最初は始まったのですが、今では大学入試センター試験、と云う名称に変わっております」
 逸茂厳記氏が説明してくれるのでありました。
「ああそうですか。娑婆でも確か始めはそんな名前でしたかなあ」
 拙生は娑婆で昨今行われている大学入試の形態は、殆ど何も知らないのでありました。
「・・・娑婆史、娑婆史求めて一鬼、一鬼彷徨えば、・・・なんと云う歌が最近の鬼の高校生の間で秘かに流行っているようです」
 これは発羅津玄喜氏が横から節をつけて歌い、且つ云う言葉でありました。カラオケが上手だと云うだけあってなかなかの節回しであります。
「お『長崎は今日も雨だった』と云う歌に似ていますなあ。結構古い曲ですが」
「ああ、そう云う題の歌なのですか?」
「ええそうです。前に娑婆で流行った歌謡曲です。曲の題名はご存知なかったので?」
「はい。CDになっているわけでもなくて、何でもラジオの深夜放送で、或るパーソナリティーが話しの合間に、それを鼻歌でよく歌っていたのが流行ったものらしいです。まあ私は最近、深夜放送なんかは全く聞かないですから、詳しくは知らないのですが」
 発羅津玄喜氏がそう云って頼りなさそうな顔をするのでありました。
「私が聞いた噂に依ると、少し前に娑婆からこちらにお見えになった或る亡者様が、座興に或る閻魔大王官の前で、その歌を披露されたのを後ろにいた補佐官の一鬼が聞いていて、家に帰ってそれを自分の高校生の息子に紹介したのが、流行る端緒であったと云う事です。件のラジオの影響もあってあっという間に、鬼の高校生の間に流布したのだそうです」
 これは逸茂厳記氏が云うのでありました。「屹度鬼の高校生の気分にピタッと嵌る歌詞だったのでしょうね。それから、何でも閻魔大王官の前でその曲を歌われた亡者様は、娑婆でその曲をレコードにした、何とかと云うグループに所属しておられたとか云う話しです」
「長崎県出身の、内山田洋とクールファイブ、と云うグループですね」
「ああそうですか」
 逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏がユニゾンでそう云って、カノンで数度頷くのでありました。
 まあ、そんなこんなのどうでも良いあれこれの事を二鬼と一亡者でだらだらと喋りつつ、公園の中をブラブラ歩き回って、寄席の六道辻亭に行くまでの時間を潰すのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 226 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 寄席の六道辻亭は、昼席だと云うのに大入りの盛況でありました。先ず前座の落語家が出てきて一席、客のご機嫌を伺い、その後二つ目が続き、年期の順に真打ちが何霊か登場してそれから大師匠のトリとなるのは、娑婆の寄席と同じ仕来たりなのでありました。合間に曲芸や手品、それに漫才漫談、紙切りとか講談とかモノマネの芸が入るのも娑婆と同様であります。めくりも置いてあるし、太鼓と三味線と笛の出囃子も鳴るのでありました。
 噺家はちゃんと和服に羽織を着て、角帯を貝結びに締めて、中には袴を着用している霊もあるのでありました。座布団を裏返したりめくりを捲ったりと、高座で前座が忙しく立ち働いている姿も、娑婆の新宿末広亭や浅草演芸ホールなんかでよく見た光景であります。
 噺家や色ものの芸人さん、いや芸霊さん、若しくは芸鬼さんは、娑婆とすっかり同じ名前の芸霊さん芸鬼さんもいるのでしたが、こちらで初めて聞く名前もあるのでありました。向うの世で落語家だった人がこちらに生まれ変わって、向こうと同じ芸名を名乗る場合もあれば、こちらで師匠からつけて貰った芸名を名乗る噺家もあるのでありましょう。
 娑婆で代々受け継がれたお馴染の名前が出てきたかと思えば、恐らくこちらの世にしかないであろう、位牌亭戒名、とか、座棺家寝棺、とか、敵味方合葬、なんと云う名前の落語家、それから、三途川渡、と云う名前の手品師、浮世亭彼岸・此岸、と云う漫才コンビ等が、入れ替わり立ち替わり出てくるのでありました。それに父親が地獄省の大旅館地方出身で、母親の方が邪馬台郡の霊だと云うエキゾチックな顔をした、墓石家カロート、なんと云う名前の紙切りの芸霊もいるのでありました。多士済々と云うのか、何と云うのか。
 領有軒尖閣・釣魚、なんと云う、娑婆の日本人と中国人風の服装のドツキ漫才コンビが出てきた時には、拙生は思わず椅子から落ちそうになりました。確かにタイムリーではありますが、思わず頭を抱えこんで仕舞う程デリカシーに欠けた名前の漫才コンビであります。しかし尤も、こちらでは別にタイムリーでも不謹慎でもない名前かも知れませんが。
 娑婆でお馴染だった名前の芸霊が出てきて、その霊が間違いなく娑婆でその名前を名乗っていた当人の生まれ変わりであるとしても、当然ながら娑婆時代とは似ても似つかない顔や体つきになっているから、見ていて何となく臍の裏がざわざわとするような、妙な落ち着かなさを覚えるのでありました。まあむこうの世で、先代師匠のファンだった場合、新しくその名前を継いだ新師匠に、何となく馴染めないと云う感覚と同じでありますかな。
 いや寧ろ風体も芸風も何もかもすっかり違っているくせに、娑婆と同じ芸名を名乗られると、当然その芸霊が悪いわけではないのですが、拙生としては何となく、悪く云えば偽モノを観せられているような気分も少しするのでありました。それなりに確かに芸風も確立されているし、噺ぶりも落ち着いていて熟れてはいるし、娑婆時代とはまた違う味わいもありはするのでありますが、しかし矢張り拙生には何か納得がいかないのでありました。
 そんなこんなを考えながら高座を観ているものだから、こちらの世の寄席見物が、思ったよりは面白くはないのでありました。矢張り寄席見物は、こちらの世に生まれ変わった後に楽しむもののようであります。憖じい亡者状態の、娑婆っ気を引き摺った儘の感覚では、何かと向うとこちらの個性を比較して、批判的な思考が働いて仕舞って、面白さも半減であります。これは実際こうして寄席に来るまで、考えもしなかった事でありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 227 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 拙生の両隣に座っている逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏は、高座の上の落語家の噺や仕草を観ながら体を揺すって笑いこけたり、曲芸師の鮮やかな手際に手を叩いて喜んだりしているのでありましたが、拙生は何となく、笑いはするものの、頬の皮が固くなったようにしか笑えないのでありました。恰も拙生の尻と客席の椅子の形状との相性が悪いように、拙生は落ち着きなく、頻繁に座る姿勢を変えたり足を組んだりするのでありました。
「いやあ、初めて寄席に来ましたが、実に面白いものですねえ」
 トリの師匠の高座が終わって、師匠の「有難うございました。お忘れ物のございませんように」の声を残して緞帳が下りると、逸茂厳記氏が椅子から立ち上がりながら、頬に未だ笑いの残滓を留めた儘で拙生に云うのでありました。
「私もこんなにじっくり、取っ替え引っ替え落語を聞いた事はなかったのですが、結構充実感がありますね。紙切りの芸なんかも惹きこまれるようでした」
 発羅津玄喜氏が肯うのでありました。
「またちょくちょく来たいものです」
 そう云う逸茂厳記氏の頬に残った笑いが、なかなか消えないのでありました。
「先輩、そう云う折は是非ご一緒させていただきます」
 発羅津玄喜氏がきびきびした体育会系のお辞儀をしながら、しかし頬の緩んだ顔で逸茂厳記氏に次回の同行を熱く強請るのでありました。
「どうでしょう、満足されましたでしょうか?」
 逸茂厳記氏が拙生に問うのでありました。
「ええ、まあ」
「あれ、然程でもないような感じですねえ?」
「いやまあ、面白かったは面白かったのですが、なんと云うのか。・・・」
「期待したほどは面白くなかったと云う事で?」
 別に拙生に対するそんな義理はどこにもないのでありましたが、逸茂厳記氏は顔から笑いをすっかり消して、恰も自慢の接待に、思ったよりは喜ばなかった取引先の様子を見た営業マンのような、たじろいだような、情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「まあ、娑婆でお馴染の名前の噺家が出て来ても声も顔も違うし、向うの面影がまるでなかったりするものですから、私としては少々戸惑いの方が先に立って仕舞いましてね」
「ああ成程ね。そう云う事ですか」
「矢張りこう云う処へは、生まれ変わった後に来た方が良かったようですね」
 拙生のその言葉に逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏は揃って、先程の笑い顔は何処へやら、急に気落ちした面持ちになるのでありました。
「その辺にまでは考えが回りませんでした」
「いや、護衛担当だけの貴方達が、そんなに立つ瀬がないような顔をする必要は全くありませんよ。寄席へ行ってみたいとリクエストしたのはこの私なのですから」
「まあ、そうですが、何となく私としてはそう云う残念な結果になって仕舞った事が、申しわけないような気もしたりなんかするのですけど。・・・」
(続)
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もうじやのたわむれ 228 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 逸茂厳記氏はしめやかに云うのでありました。なかなか<人の好い>鬼であります。
「いやとんでもない。それはそれとして、いや、それだからこそ別の面で面白かったとも云えます。落語なんと云う芸は噺自体の面白さと、観る側の演者への慣れと期待と云うものが揃って初めて、聞き応えのある芸となるのだと云う事が良く判りました。その噺を面白くするかつまらなくするかは、演じる側よりは観る側の心がけに多くかかっているのかも知れません。そう云う点が確認できたことは、こちらで寄席に来て得た収穫でしたよ」
 拙生はそう咄嗟の思いつきを並べて、取り敢えず逸茂厳記氏を宥めるのでありました。
「はあ、そう云うものでしょうか」
 逸茂厳記氏は何となく憂い顔を緩めるのでありました。
「実際こちらの芸人さんも、なかなかの達者でいらっしゃいましたよ」
「いや、それを云うなら、芸人さん、ではなく、芸霊さん、若しくは、芸鬼さん、です」
 それはもう判っているのでありますが、なかなか細かい事を指摘する鬼でもあります。
「ああそうでした、そうでした」
 拙生は頭を掻いて見せるのでありました。「寄席の雰囲気は娑婆と殆ど同じで、その点は何と云うのか、ちょっと安心しましたよ。こちらに生まれ変わっても、屹度また私は寄席通いを始めるでしょうね。ま、娑婆の嗜好がこちらでも連続するわけではないと云う事なので、今の時点でそう断言はする事は憚るべきかも知れませんがね」
「貴方様がこちらの世に生まれ変わって、寄席通いされる年齢に達する頃には、私達の方が寄席の常連として、大きな顔をしてここの客席に座っているかも知れませんよ」
「この先貴方が落語や漫才なんかの演芸を益々お気に召されて、頻々とこう云う場所にいらっしゃるようになるとしたら、そう云う事もあり得るでしょうね」
「ええ、今日初めて観させていただいて大変魅力的だと思いました。この先屹度、私の趣味に寄席通いと云うのが加わるでしょう。ひょっとしたら将来、ここの客席で貴方様と隣同士に座る偶然なんかがあって、初めていらした貴方様に対して私が如何にも通ぶった顔をして、寄席の蘊蓄を語って聞かせるなんと云う場面かあるかも知れませんね。私に寄席の楽しさを教えてくださった貴方様に、私が若しもそのような無神経で僭越な真似をするようでしたら、その時にはどうぞご容赦ください。特段の意趣あってではないですから」
「意趣がないのは当然でしょうね。なにせ生まれ変わった後の私に、今のこの面影はすっかり認められなくなっている筈ですからね。私だと貴方が気づくわけがないですから」
「それに貴方様も閻魔庁でのあれこれの記憶は蘇りませんですから」
「ま、お互いに全くの初対面と云う事になるわけですね、その場合は」
「ええ、そう云う事ですなあ」
 拙生と逸茂厳記氏は同時に笑うのであしました。
「そんな折りが若しありましたなら、どうか遠慮なく蘊蓄をお聞かせ下さい。私はこちらの世での寄席の初心者として、喜んで貴方のお説を拝聴いたしますから」
「いやいや、滅相もない」
 逸茂厳記氏は掌を横にふって、この拙生の戯れ言に笑ってお辞儀するのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 229 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 寄席の昼席が跳ねた後、未だ宿泊施設に戻るのは早かろうと云うので、拙生はこちらの世の巷で、こちらの世の霊がよく仕事帰りに遊ぶ遊びをしてみたい、等と提案してみるのでありました。逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏は顔を見あわせて、さて自分達は普段仕事帰りにどう云う遊びをしているのだろうかと、改めて考えるような顔をするのでありました。
「アフターファイブの過ごし方と云っても様々ですからねえ。まあ、そうですねえ、私の場合は、この発羅津とか職場の他の仲間と居酒屋でちょっと酒を入れてから、その後はカラオケとかでしょうかねえ。そいで最後に屋台のラーメンなんか食って、それで帰ります」
 逸茂厳記氏は親指で隣の発羅津玄喜氏を指差しながら云うのでありました。それにつけても、アフターファイブ、なんと云う逸茂厳記氏の言葉から推測すると、こちらの官吏とかサラリーマンなんかは、まあ、残業のあるなしとか職種で様々ではあるとしても、一応午後五時が一般的な終業時間のようであります。その辺は娑婆と同じでありましょうか。
「例えば女性とデートなんかはなさらないので?」
「発羅津の場合は学生時代からつきあっている彼女がおりますので、そう云う事もありますが、私の方は特にそう云う華やかな事はないですね」
「彼女はいらっしゃらないので?」
 拙生がそう訊くと逸茂厳記氏は口をへの字に曲げて、憂い顔を作るのでありました。
「私は学生時代から無骨一辺倒でして、生まれてこの方、彼女のかの字もありません」
「女嫌いという事で?」
「いや、そんな事はありません。高校三年生の時に行った自己省察に依れば、私は人一倍女性が好きな方だと云う結論が出ております」
 逸茂厳記氏は真面目な顔でそんな事を呟くのでありました。
「逸茂先輩は、案外シャイですからねえ」
 発羅津玄喜氏がそう遠慮がちに云いつつ、しかしニヤけるのでありました。
「おいこら、お前なんぞが無神経にそんな事を云うな」
 逸茂厳記氏がたじろいで発羅津玄喜氏の胸を、拳で意外に強くど突くのでありました。
「女性を見ただけで、顔がポオッと赤くなるタイプですか?」
 拙生が訊くのでありました。
「いや私のご先祖様は青鬼系統ですから、そう云う場合どちらかと云うと蒼くなります」
 逸茂厳記氏はこれも真面目に応えるのでありました。
「ああ、成程」
 拙生も真面目な顔で頷くのでありました。
「いや、女性を見ただけで赤くも蒼くもなりませんよ、実際の私の顔は。女性が苦手なわけでは全くありませんし、女性と普通に会話もします。つまり単純に、何となく今に至るまで私は、巡りあわせとして女性に疎遠であったと云う事です」
「そんなんじゃなくて、シャイだからですよ。チャンスがあっても、先輩が何時も物怖じしてそのチャンスを活かさないから、結果として女性と疎遠になるんですよ」
 発羅津玄喜氏がそう評するのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 230 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「煩い! 体育会日本拳法部に籍のあった鬼なら、上級生に対する無礼は許されんぞ」
 逸茂厳記氏が発羅津玄喜氏の胸をまたど突くのでありました。
「押忍!」
 発羅津玄喜氏が拳を作った真っ直ぐに伸ばした腕を脇にやや広げて、如何にも大学の体育会系の学生、或いは往時の応援団がするような固いお辞儀をして見せるのでありました。
「判れば宜しい」
 逸茂厳記氏は腕を後ろに組んで胸を反らして、発羅津玄喜氏の頭を見下ろしながら横柄にそう云うのでありました。
「今の貴方のそう云う表情や態度なんかは、見ように依ればなかなか男っぽくて、或るタイプの女性にはウケそうな気もしないでもないですがねえ」
 拙生は顎を撫でながら云うのでありました。
「今どきの殆どの女性は、こう云う野蛮なタイプは軽蔑するものです」
 逸茂厳記氏はそうあっさり云って、後ろに組んでいた腕を解くのでありました。「いやまあ、この際私の事はどうでも良いとして、さて、この後はどうしましょうかねえ。・・・」
「カラオケにでも行きますか?」
 発羅津玄喜氏が遠慮気味に提案するのでありました。
「どうです?」
 逸茂厳記氏が拙生に伺いを立てるのでありました。
「そうですねえ、・・・」
 拙生はやや考えるのでありました。娑婆でもあんまりカラオケなんかに行った事がないと云うのに、こちらの世に来て早々、まだ正式に霊として生まれ変わってもいない内にカラオケに行ってみると云うのも、何やら軽率なような気がふとしたのであります。
「もし男三人、いや男一亡者と二鬼では色気がないとお考えなら、私の彼女に、女の子を二三人、いや二三鬼連れてくるようにと電話を入れても良いですが」
 発羅津玄喜氏が云い添えるのでありました。それを聴いた逸茂厳記氏が思わす少し気後れしたような気配を隠せなかったのは、矢張り氏は女性が苦手である事を自ら暴露した事になるのではないかと、拙生は腹の中で秘かに思うのでありました。
 女性とカラオケで同席した時のこの逸茂厳記氏の様子を観察するのも、何やら一興かも知れないと、拙生は少々人の悪い、いや亡者の悪い事を考えるのでありました。それに拙生としても、宿泊施設のフロントの女性とか、ロビーでコーヒーを持ってきてくれた女性以外の、こちらの世の若い女性の鬼達と色んなお話しなんかもしてみたいと云う、興味と云うべきかスケベ根性というべきか、そう云う了見も確かに心の片隅にありはしますし。
「そうですねえ、それではお勧めもありますし、カラオケにでも行きますかな」
 拙生は発羅津玄喜氏の提案にやんわりと乗るのでありました。
「先輩もそれで宜しいですか?」
 発羅津玄喜氏が逸茂厳記氏に聞くのでありました。
「俺達は護衛だから、亡者様が行きたい処があれば何処にでもお伴するのが仕事だし」
(続)
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もうじやのたわむれ 231 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 逸茂厳記氏がへの字に曲げた口で何となく不承々々と云った気持ちを表現しつつ、如何にも無愛想に発羅津玄喜氏に返すのでありました。
「若しお嫌なら、カラオケは止しにしてもいいのですが」
 拙生は一応、逸茂厳記氏に気を遣うような事を云ってみるのでありました。
「いや、亡者様のご意向は何が何でも尊重いたします。別に嫌でもありませんから、私は」
 逸茂厳記氏が硬い表情で拙生に恐縮のお辞儀をするのでありました。
「じゃあ、決定ですね」
 発羅津玄喜氏は拙生と逸茂厳記氏の顔を代わるがわる何度か見ながらそう念を押して、早速携帯電話を取り出して、恐らく氏の馴染みの店であろうカラオケ店に予約の電話を入れるのでありました。その電話が終わると今度は氏の彼女らしきに、女友達二三鬼連れてやってこいと云う指示と思われるメールを、素早い指遣いで打ち始めるのでありました。
 と云う事で我々は邪馬台銀座商店街アーケードに程近い映画・興行街を出て、夕暮れの街中を、徒歩で車を止めていた日比谷公園脇の駐車場まで戻るのでありました。考えたら閻魔庁の宿泊施設から日比谷公園や官庁街、それに寄席の六道辻亭までは車を使わずとも徒歩で行く事の出来る圏内ではありますが、態々車で移動するのは拙生の安全のための配慮でありましょうから、拙生はそれについて特段の文句は云わないのでありました。
 しかし考えたら車があると、却って煩わしいと云う事態も出来するのであります。特にこの場合のようにこれからカラオケに行こうと云う時には、どうせカラオケ店では酒を飲む事にもなりそうでありますから、当然ながら運転担当者は飲めないのであります。
「カラオケに行くんでしたら、・・・」
 拙生は逸茂厳記氏が車のドアを開ける前に提案するのでありました。「一旦閻魔庁まで戻って、この車を置いてから改めて出直す方が気楽ではないですか?」
「いや、そうはいきません。貴方様の街中での移動には、安全を考慮して車を使えと云う指示を、賀亜土係長から受けておりますから」
 逸茂厳記氏が生真面目な顔をして云うのでありました。
「そうすると、お酒が飲めないんじゃないですか、貴方達の内のどちらかは?」
「いや私達はどちらもカラオケ店ではお酒は飲みません。一応勤務中ですから」
「ああそうなんですか。お酒がないと何となく盛り上がらないんじゃないですか?」
「いや大丈夫です。我々はお酒が入らなくとも充分ノリノリで、カラオケで大騒ぎ出来ます。勿論、貴方様は遠慮なく存分に召しあがって頂いて結構です」
「ああそうですか。しかし貴方達が飲まないとなると、何となく私の方も気合いが入りませんなあ、しらふの人、いや鬼が相手では」
 拙生は情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「どうそご心配なく。後でやって来る女の子達が私達の分まで大いに飲むでしょうから。それに我々は飲まなくとも充分に愛想良くふる舞いますし、大いに場を盛り上げます。そう云う接客要領の講義も訓練も、閻魔庁の警護学校で受けておりますから」
「接客要領の講義とか訓練も受けられたので?」
(続)
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もうじやのたわむれ 232 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「そうです。閻魔庁付帯の警護学校ではそれは受講必須科目となっております」
「ふうん、そうですか」
 拙生は顎を撫でながら、どう云う表情を返したら良いのか咄嗟に判らないものだから、無表情の儘で頷くのでありました。まあ兎に角、我々は車に乗りこんで、これも日比谷公園からそんなに遠くない、発羅津玄喜氏の馴染みのカラオケ店へと向かうのでありました。
 発羅津玄喜氏に案内されたカラオケ店は、雑居ビルの一階から三階までを占有する、娑婆の盛り場なんかによくあるタイプの店と同じで、受付の様子も個室の並ぶ店内の内装なんかも、向うの世のものとさして違わないのでありました。受付を済ませてから我々は個室に入って、拙生は日本酒を、それに両鬼はウーロン茶を内線電話で注文して、皮切りにと発羅津玄喜氏が一曲、成程の美声でこちらで今流行っていると云う歌謡曲を歌い終えた頃、徐に部屋のドアが開いて若い女性が三鬼「お待たせ~」なんと云いながら入って来るのでありました。女性の出現で、部屋の中が急に華やいだ雰囲気になるのでありました。
「おう、意外に早かったなあ」
 発羅津玄喜氏がマイクを持った手を上に上げて大袈裟な仕草で、その三鬼の中の一鬼に挨拶するのでありました。女性の方も目を見開いてこれも愛嬌たっぷりの喜びの表情を作って、両掌をひらひらと馴れ々々しい仕草でふり返すのでありました。髪をポニーテールに纏めていて、朱色のジーパンに黄色のTシャツ姿と飾り気のない服装ではありますが、なかなかスタイルの良い、美人の鬼であります。どうやらその女性が発羅津玄喜氏の彼女なのでありましょう。他の二鬼もカジュアルな服装の、なかなか魅力的な女性であります。
「何々、未だ仕事中なの?」
 発羅津玄喜氏の隣に座った、氏の彼女と思しき女性が訊くのでありました。
「そう。この亡者様の警護中」
 発羅津玄喜氏が掌を上に向けた手で拙生を指すのでありました。
「ああどうも、はじめまして」
 女性が上体と首をやや横に傾げて前に倒しながら、拙生に挨拶するのでありました。
「これはどうも」
 拙生は上体を真ん前に折ってお辞儀するのでありました。
「何か、素敵なおじ様って感じの方ね」
 女性が発羅津玄喜氏に云うのでありましたが、これは拙生に聞かせるためのべんちゃらでありましょう。そう云われた拙生は、ま、悪い気は全くのところしません。
 馬蹄形の席の端に発羅津玄喜氏が座り、その左横に氏の彼女、その左に逸茂厳記氏、そのまた左横にブルージーンズのショートカットの小柄な女性、そうして拙生、拙生の左には三鬼の中で背の一番高い、セミロングでストレートの髪を肩に垂らした、それに唯一のスカート姿の、三鬼の中では一番大人の雰囲気を漂わせた女性が座るのでありました。
「何飲む?」
 発羅津玄喜氏が三鬼の女性に夫々の飲み物を聴いてから、席を立って出入口脇にある内線電話で注文を入れ、きびきび且つかいがいしく世話を焼くのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 233 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 先程から場の中に逸茂厳記氏の声が全く聞こえなくなっているのでありましたが、氏の方を窺ってみると、眉根を寄せて口をへの字に結んだ硬い表情で、肩を縮めて女性二鬼の間に窮屈そうに座っているのでありました。これは面白くないからそのような風情を作っているわけではなくて、両横の女性を意識して、大いなる緊張のためにそのような居住まいをしているのであろうと思われるのでありました。成程シャイな鬼のようであります。
「先輩、一曲お願いします」
 発羅津玄喜氏が逸茂厳記氏に水を向けるのでありました。
「あ、うん。・・・」
 逸茂厳記氏はカラオケ歌詞集の分厚い冊子をテーブルの上から取り上げて、膝に載せてペラペラと頁を繰っているのでありましたが、注意は両脇の女性の方から離れないと云った風情であります。氏の高校生の時の自己省察では、氏は人一倍女性が好きだと云う結論でありましたが、成程その様子から、これも全く以ってその通りのようであります。
 両脇に女性が座っていると云うだけで妙にたじろいで仕舞って、それを隠そうと必死になっている様子が、頁に添えられた指のぎごちない動きから拙生にも見て取れるのであります。拙生と話しをしている時の、あの落ち着いた感じはどこへいったのでありましょうや。まるで思春期の初心な少年と云った風情であります。拙生の観光散歩につきあっている時の落ち着いた態度と、この肩を鯱張らせて座っている様子のギャップが、拙生の眉宇とか目尻とか唇の端とかの顔の備品を、思わず緩めさせずにはおかないのでありました。
「おじさまが先に何か歌ってよ」
 歌う曲が一向に決まらない逸茂厳記氏を見限ったのか、発羅津玄喜氏の彼女が拙生の方に声を向けるのでありました。
「私ですか? そうねえ、こちらに私の知っている曲なんかあるかしらねえ」
 拙生がそう云うと拙生の左横のスカートの女性が、すかさず拙生にもう一冊ある歌詞集を、ニッコリと魅力的な笑いを添えながら手渡してくれるのでありました。
「どれどれ、・・・」
 拙生は同じように愛想のニッコリ笑いを女性に返してカラオケ歌詞集を受け取ると、逸茂厳記氏と同じように自分の膝の上にそれを置いて、しかし逸茂厳記氏よりは余程リラックスした物腰で頁を捲ってみるのでありました。前に逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏との会話に出た『長崎は今日も雨だった』みたいな、向うの世に在った曲がこちらにも在るようでありますから、他の拙生の知っているであろう娑婆の曲も屹度あるはずであります。
 とは云うものの、考えたら向うにいた頃から拙生は、あんまり流行り歌を知らないのでありました。特段のお気に入りの曲も、何もありません。娑婆時代に偶に仕事のつきあいなんかでカラオケ店に行っても、拙生は歌う歌がなくて困るのが常でありました。
 そう云えば拙生はそんな折、何を唄っていたのでありましたかなあ。演歌は別に嫌いと云うわけではないのですが、殆ど知らなかったから全く歌わなかったですかな。高校とか大学時代に流行ったフォークソングは、時々歌ったような気がします。と様々思い巡らしていると、そうだ、あの曲があったと拙生は急に思いつくのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 234 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 探してみると、おお、幸運にもちゃんとあるではありませんか。
「一八一八の九〇四番をお願いします」
 拙生がそう云うと発羅津玄喜氏が慣れた手つきでリモコンを操作するのでありました。
「なあに『ホンダラ行進曲』って?」
 正面の大きなテレビ画面に出てきた曲のタイトルを見ながら、発羅津玄喜氏の彼女が拙生に訊くのでありました。
「娑婆で私が偶に歌っていた曲です」
「作詞の青島幸男って?」
「この間まで娑婆にいたコント作家の方で、娑婆では参議院議員やら、日本国の首都である東京の都知事もやった事のある方です。歌っているのはクレージー・キャッツと云う、コントもやれば歌も歌うし映画やテレビにも出ると云う有名なコミックバンドです」
「ネコ好きな人達の集まったバンド?」
「いやいや、別にそう云うのではありませんが」
「その青島幸男とかクレージー・キャッツとか、玄ちゃん知ってる?」
 発羅津玄喜氏の彼女が発羅津玄喜氏に顔を向けるのでありました。
「聞いた事があるような気がするけど、よくは知らないなあそんな名前のバンド」
 発羅津玄喜氏が首を傾げながら返答するのでありました。どうやらクレージー・キャッツは、ひょっとしたらこちらでももう結成されているのかも知れませんが、しかし未だ有名ではないようであります。まあ、ハナ肇さんやら植木等さん、それに谷啓さん等のメンバーの方々がこちらにいらしてから、そんなに時間が経っていないのでありましたから、娑婆のような誰もが知っている大変な人気者と云うわけではないのでありましょうか。
 しかし、例えば谷啓さんが向うの世を引き払われたのは、竟最近の筈でありますし、そうなるとこちらでは未だ全くの少年と云う歳頃であります。クレージー・キャッツのメンバーになるには、到底早すぎると云うものでありましょう。他の方々にしてもジャズをやるにも、大人の笑えるコントをやるにしても、普通に考えれば無理な年齢でありましょう。となると、こちらにいるかも知れないクレージー・キャッツと云う名前のバンドは、娑婆のクレージー・キャッツのメンバーではない、全く他の連中が作ったバンドなのでありましょうか。青島幸男さんにしても、こんな歌を創るには未だ早すぎる年齢でありましょうし。
 クレージー・キャッツのメンバーや青島幸男氏が未だこちらに来ていないのを幸いに、全く違う横着な霊が娑婆を真似てクレージー・キャッツや青島幸男を名乗って、先に人気者になろうと企てたのかも知れません。しかしこれは剽窃と云うのでも、娑婆にいるバンドや人物になりすまそうとする胡散臭い仕業、と云うのでも多分ないのでありましょう。
 何故なら娑婆の記憶は、存念等の消去された淡いものでありますし、娑婆での人間関係とかも御破算になるのでありますから、向うとこちらの歴史的連続性は設定し得ないわけであります。そうであるからには、前にも云ったように著作権も版権も存在しようがありませんし、こちらに生まれ変わった霊が娑婆での事跡を盾に、剽窃であると非を鳴らす心性もないわけであります。敢えて云えば全くクールに早い者勝ちと云う按配であります。
(続)
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もうじやのたわむれ 235 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 とか何とかまわりくどく考えている内に『ホンダラ行進曲』の前奏が始まって仕舞うのでありました。拙生は慌ててテーブルの上のマイクを掴むと、徐に、一つ山越しゃ、なんと歌い出すのでありました。ホンダラホダラダホーイホイ、のところで上手く舌が回るかどうか不安でありましたが、何とか無難に切り抜けるのでありました。
 拙生の歌を聴く鬼達は初めて聞くその曲に、最初は何となくとまどっているようでありましたが、覚えやすくて調子の良い曲調に自然に手拍子が始まり、ホンダララホンダララ、ホンダラホダラダホーイホイの部分では、ぎごちないながら和昌しつつ笑い転げているのでありました。歌い終えると喝采と拍手の雨霰であります。
「すっごい面白い歌!」
 発羅津玄喜氏の彼女が手を叩いて喜ぶのでありました。拙生の隣のスカートの女性も口を掌で隠して、なかなかキュートに眉尻を下げて破顔しているのでありました。ここまで大ウケすると、拙生としても大いに気分が良いのでありました。
 場が一気に和むのでありました。しかし只一鬼、和まないヤツがいるのでありました。当然それは逸茂厳記氏であります。
 氏は時々触れる両横の女性の肩先から意識を外せないで、身を竦めて固まっているのでありました。眉間には皺が寄せられています。この、ちんちんにようやく毛が生え始めた頃の、娑婆の中学校の生徒のような居住まいは、見ていて痛ましいくらいであります。
「先輩、楽しんでます?」
 発羅津玄喜氏がウーロン茶を飲みながら訊くのでありました。
「おう、ちゃんと楽しんでるよ」
 逸茂厳記氏は少し舌を縺れさせながら返すのでありました。
「なんか、一鬼だけ面白くなさそうですね?」
 左横に座っているショートカットの小柄な女性が氏に話しかけるのでありました。
「いやそんなこたア、ありません。これで充分楽しいんです」
「でもさっきからずっと表情が硬い儘だし」
「大体がもの凄く硬いんです、私の表情は。先祖代々の血で、顔の皮膚が厚いんです」
 逸茂厳記氏はたじろぎながら、何やらわけの判らない説明をするのでありました。
「屹度横に座っているエミの事が気になって仕方がないのよ」
 これは発羅津玄喜氏の彼女が云う言葉でありました。
「エミと云うお名前でいらっしゃるので?」
 拙生は日本酒の猪口を口に運びながらその小柄な女性に訊くのでありました。
「はい。志柔エミと云います」
 女性が可愛らしい微笑を湛えて拙生に返すのでありました。
「笑い顔がとてもキュートで、ご容姿にピッタリの如何にも可憐なお名前ですね」
「有難うございます」
 女性は肩を竦めてやや下を向いて、恥ずかしそうに笑うのでありました。その風情は横の硬くなって座っている逸茂厳記氏と、何となく同じ居住まいに見えるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 236 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 この二人は、いや二鬼は、まるでその並んで座っている様子が、ありふれた表現ながら一対のお雛様みたいで、見た感じが結構良いではないかと拙生は思うのでありました。
「逸茂さん、横の女性のグラスが空になっていますよ」
 拙生は逸茂厳記氏にそう指摘してあげるのでありました。逸茂厳記氏とエミさんが一緒に前のグラスに目を落とすのでありました。
「ええと、・・・お代わりをしますか?」
 逸茂厳記氏が義務感と気後れから、何やら小難しい顔をして訊ねるのでありました。
「今度はワインを貰おうかしら、赤の」
 エミさんがそう云うと逸茂厳記氏が発羅津玄喜氏の顔を見るのでありました。
「はいはい、赤ワインね」
 発羅津玄喜氏は頷くとすぐさまインターフォンの方に行って受話器を取って、幹事役をきびきびとこなすのでありました。
「貴方もグラスが空いていますが、同じレモンハイをもう一杯注文します?」
 拙生は拙生の左横のスカートの女性に話しかけるのでありました。
「ああ、お気遣い有難うございます」
 スカートの女性は楚々とした一礼を拙生に返すのでありました。「でも今度はあたしも日本酒にしようかしら。おじ様が飲んでいるのを見ていたら、何か欲しくなっちゃったし」
「はいよ。日本酒も追加ね」
 発羅津玄喜氏はそう云って、受話器に向かって赤ワインと日本酒の二合徳利二本と猪口をもう一つと、それから氏の彼女のためにカシスソーダ、序でにウーロン茶を二杯注文するのでありました。氏の彼女に何を飲むか確認しないのは、彼女のこう云う場所で飲む好きな酒がカシスソーダである事を、もうすっかり心得ているからなのでありましょう。
「貴方のお名前は何と仰るのですか?」
 拙生はスカートの女性に訊くのでありました。
「楚々野淑美と申します」
「おお、これも貴方の雰囲気にピッタリの清楚なお名前ですね」
「いえそんな。恐れ入ります」
 女性は拙生の方に向けた目をやや細めて、笑いながら軽く頭を下げるのでありました。そんな仕草が結構色っぽくて、全く以って拙生の好みのタイプであります。こう云う魅力的な女性と、娑婆にいる時に出逢いたかったと拙生は秘かに悔しがるのでありました。
「序でにお伺いしますが貴方のお名前は?」
 拙生は発羅津玄喜氏の彼女に訊ねるのでありました。
「あら、私の名前は序でに訊くんだ」
 発羅津玄喜氏の彼女が頬を膨らませて不満の表情を拙生に送るのでありました。
「失礼しました。そうではないのですが、言葉の拍子で竟、序で、なんと口走ったのです」
 拙生はお辞儀して見せるのでありました。
「ま、いいや。どうせあたしはもう買い手がついているって思ったんでしょうからね」
(続)
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もうじやのたわむれ 237 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 発羅津玄喜氏の彼女がそう自得して、すぐに機嫌を直すのでありました。「あたしの名前は、藍教亜留代って云うの。お察しの通りこの玄ちゃんのフィアンセでーす」
「おお、お二人、いや違った、お二鬼はもう婚約されているので?」
「そう。先月葛飾柴又の帝釈天裏の川甚って料理屋さんで、両家が集まって婚約式したの」
「あれ、そうなのか? 俺には何も云わなかったなオマエ」
 これは逸茂厳記氏が発羅津玄喜氏に無愛想に問う言葉であります。
「ええまあ。大学の体育会の上級生を差し置いて自分が先に婚約なんかするのも、何か後輩として生意気なような気がしたものですから、何となく云い出し辛かったんですよ」
「オマエは昔から奇妙な気の遣い方をするヤツだったが、別にそんな事があるかい」
 逸茂厳記氏がそう云って舌打ちをするのでありました。
「押忍! 申しわけありません」
 発羅津玄喜氏が頭を下げるのでありました。
「発羅津玄喜さんに藍教亜留代さんですから、名前からしても、何か明るい家庭が出来そうですね。いやそれはおおめでとうございます」
「どうも恐れ入ります」
 発羅津玄喜氏がはにかみながら拙生にお辞儀をすると、一緒に亜留代さんも口元を掌で押えてぴょこんと頭を下げるのでありました。名前の通りに愛嬌のある仕草であります。
「発羅津玄喜さんと藍教亜留代さんもそうですが、逸茂厳記さんと志柔エミさんと云うのも、何となく相応しい名前の取りあわせのような気がしますね」
 拙生がそちらの方に水を向けると、逸茂厳記氏と志柔エミさんは咄嗟に顔を見あわせるのでありました。それからみるみると二人の、いや二鬼の顔が紅潮してきて、互いに目を逸らして仕舞うのでありました。逸茂厳記氏はたじろぎと気恥ずかしさのために、苦虫を噛み潰したような表情をしてはいるのでありますが、それでも満更でもない気配も充分に窺えます。エミさんの方は俯いて口元を両手で隠して、恥じらいの素ぶりを見せてはいるのでありますが、こちらも然程悪い気はしていないようだと拙生は踏むのでありました。
「確かに!」
 亜留代さんが叫ぶのでありました。「今日初めて逢ったんだっけ、この二鬼?」
「多分そうだな。合コンとかでも過去に同席した事はなかったと思うぜ」
 発羅津玄喜氏が応えるのでありました。「確かそうですよね、先輩?」
 これは逸茂厳記氏に問う言葉であります。
「あ、うん。まあ、そうね。・・・」
 逸茂厳記氏は未だ動揺が収まらないためか、しどろもどろに返事をするのでありました。
「あんた達もあたし達と同じで、名前の相性もぴったりって感じじゃん」
 亜留代さんがはしゃぐのでありました。「この際だから二人つきあってみいれば?」
「そんな、急に何よ」
 エミさんが亜留代さんを叩く仕草をして見せるのでありました。逸茂厳記氏の顔色は赤を通り越して紫に近づくのでありました。頭から湯気が上がってきそうであります。
(続)
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もうじやのたわむれ 238 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「そんなげんなりするような無駄口叩いていないで、歌え、発羅津」
 逸茂厳記氏がたじろぎを隠して命令口調で云うのでありました。
「そうよ。カラオケに来て話してばかりじゃつまらないじゃない」
 エミさんが愛嬌のある顰め面で同調するのでありました。
「お二鬼の息のあったお小言を有難うございます」
 発羅津玄喜氏がニヤニヤと笑いながら、あくまで先輩をからかうのでありました。「そんじゃあ、まあ、一曲つかまつりましょうかね、先輩の頭から角が出ない内に」
 そう云うと発羅津玄喜氏は歌詞集を取り上げるのでありました。
 発羅津玄喜氏が歌った曲は、拙生は全く初耳でありました。娑婆にその歌はないでありましょう。まあ、拙生が知らないだけで、実はあったのかも知れませんが。
「それは何と云う曲ですか?」
 歌が終わってから拙生は発羅津玄喜氏に訊くのでありました。
「これは今こちらで流行っている歌謡曲で、晩生の男の恋心を切々と詠った、オクターボと云う名前の八人グループの『晩生のオクテット』と云うオクテ尽くしの曲です」
「ふうん。そう云えば歌の始まる前に、そこのテレビの画面にそんなような曲名が出ていましたね。そんな歌は娑婆にはありませんでしたね、確か」
「ああそうですか。八重唱と云うのが珍しくて、今こちらでは話題の曲です」
 話題の曲かどうかは別にしても、要するに、発羅津玄喜氏のとことん先輩をからかおうと云う魂胆からの選曲でありましょう。
「俺も歌うぞ」
 逸茂厳記氏が無愛想な顔で歌詞集を取り上げるのでありました。
 逸茂厳記氏が歌った曲は『鬼生劇場』という演歌調のもので、これは娑婆の『人生劇場』とほぼ同じ歌詞でありました。なかなかに男臭い歌であります。
 しかし如何せん今般の若い衆が愛唱するような歌ではないようで、この逸茂厳記先輩の歌に、発羅津玄喜氏と藍教亜留代女史は顔を秘かに見あわせて、なんとなく困ったような白けたような表情をするのでありました。困ったような白けたような顔をしたのは、要するにそんな古めかしい無粋な歌なんぞを得意になって歌っても、横に座っている志柔エミさんの気持ちは微塵も靡かないであろうと云う心配、或いは落胆からなのでありましょう。この二人、いや二鬼、どうやら期せずして逸茂厳記氏と志柔エミさんの間を、この場で同席したのを所縁として、取り持とうかなと云う仲人の了見になっているようであります。
 しかし意外や意外、志柔エミさんは横の逸茂厳記氏の歌う様子を、何となく熱い視線で眺めているように見えるのでありました。まあ、人の好みは十人十色、いや違った、鬼の好みは十鬼十色、であります。この『鬼生劇場』と云う歌とそれを熱唱する逸茂厳記氏が、傍が窺い知れぬ程、志柔エミさんの目には大いに好ましく映っているのかも知れません。
 この全く意外な志柔エミさんの反応に気づいたのは、発羅津玄喜氏とそのフィアンセの藍教亜留代女史も同様のようであります。二人して呆気に取られたような顔つきで、身じろぎも忘れて、逸茂厳記氏と志柔エミさんの顔色を見比べているのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 239 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 歌い終えた逸茂厳記氏に、横に座っている志柔エミさんが一際大きな拍手を送るのでありました。逸茂厳記氏は横目でちらと志柔エミさんの方を窺って、この予想外の喝采にたじろぎながら照れ臭そうに笑むのでありました。
「男っぽい歌ですね」
 エミさんが逸茂厳記氏に云うのでありました。
「ま、そうですね」
 逸茂厳記氏は頭を掻きながらマイクをテーブルの上に置くのでありました。
「そういう感じの歌が好きなんですか?」
「いや、特段そう云うわけではないけど、他に知っている歌がないものですから」
「大学では体育会の日本拳法部にいらしたんでしょう?」
「ええ。そこに座っている発羅津の二年上級生になります」
 逸茂厳記氏は発羅津玄喜氏を指差すのでありました。
「逸茂先輩は一年生の頃から大学選手権では何時もベストフォーに入っていたんだぜ」
 発羅津玄喜氏がエミさんに逸茂厳記氏のキャリアを紹介するのでありました。
「ま、結局卒業までに優勝は一度もしなかったけどな」
 逸茂厳記氏が謙遜するのでありました。
「でも、すごいじゃないですか、ベストフォーなんて」
 エミさんが熱い尊敬の眼差しを逸茂厳記氏に送るのでありました。
「エミは昔から、女の鬼の前では無愛想で、しかも実は腕っ節の強い男が好きなのよね」
 藍教亜留代さんがそう云うと、エミさんは恥ずかしそうに目を伏せるのでありました。
「おお、逸茂先輩がどんぴしゃじゃんか、そう云う事なら」
 発羅津玄喜氏が頓狂な声で囃し立てるのでありました。その発言に逸茂厳記氏と志柔エミさんは共に下を向いて、頬を赤く染めて大いに照れるのでありましたが、何となくこの二人、いや二鬼、良い感じになっているのではありませんかな。
「逸茂さんはどう云った女性が好みですかな?」
 拙生が言葉を挟むのでありました。
「いや私は、特段これと云った女性の好みはありませんが、・・・」
「先輩は前からずっと、可憐で、仕草にどことなく愛嬌のあるなタイプが好みですよね」
 発羅津玄喜氏が代わりに応えるのでありました。その発羅津玄喜氏の言葉に逸茂厳記氏は苦笑うのでありましたが、敢えて否定もしないのでありました。
「それならこちらも、エミなんかぴったりじゃん」
 亜留代さんがそう云って手を一回叩くのでありました。逸茂厳記氏と志柔エミさんはまたもや照れて同時に下を向くのでありました。
「成程そうやって隣同士で座って照れている様子なんと云うものは、傍から見るとなかなか微笑ましいカップルと云った風情ですよねえ」
 拙生が発羅津氏と藍教女史の仲人了見に不謹慎に乗るのでありました。しかし確かにこの二人、実にお似合いのカップルに見えると云うのは拙生の掛け値なしの感想であります。
(続)
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もうじやのたわむれ 240 [もうじやのたわむれ 8 創作]

「お一つ如何でしょう?」
 拙生の左横のスカートの女性が日本酒の徳利を翳して拙生に云うのでありました。
「ああ、これはどうも」
 拙生は中に残っていた酒を口の中に空けてから、猪口を女性の翳した徳利の口前に差し出すのでありました。スカートの女性、確か名前は楚々野淑美さんが、拙生の猪口に楚々とした手つきで酒を注いでくれるのでありました。この楚々野淑美さんと云う女性は、今までずっと寡黙に、我々の会話に自ら進んで口を挿む事は殆どしないで、ただ微笑みを浮かべてそれを聴いているだけなのでありました。その様子もグッと大人びていて、他の二鬼とは少し雰囲気が違います。この三鬼の女性達はどう云う知りあいなのでありましょう。
「貴方はどう云った男性がお好みですかな?」
 拙生は楚々野淑美さんが両手のか細い指で徳利を持って、日本酒を拙生の猪口に注す手つきを見ながら訊くのでありました。「矢張り無愛想で腕っ節の強い男性がタイプですか?」
「いえ、あたしはそう云う方は、・・・」
 楚々野淑美さんは微笑みを湛えた儘、ゆっくり控え目に首を横にふるのでありました。その控え目なところが返って、きっぱりとした否定である事を訴えているのでありました。
「ほう。そうすると、想像するに、ひょっとしたら細身でやや面窶れがあって、浴衣なんかを着崩しに着て、バサッと垂れた前髪が、険がありながらしかし優しげでもある片目を隠していて、時々肺に疾患のあるような咳をして、笑うと目尻にシニカルな色が浮かぶけれど、しかし妙にあどけない印象も見逃せないような、そんな男なんかでしょうかね?」
「何か、まわりくどそうな方ですね」
 楚々野淑美さんは眉根に皺を寄せて、情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「いやこれは面目ない。まわりくどいのは私の描写の方ですかな。こんなんじゃあ上手くイメージ出来ないですよねえ、私の云わんとした男の様子が?」
 拙生は嘗て娑婆にいた、小説家の太宰治とかその辺の雰囲気を実はイメージしているのでありましたが、前に審問官か記録官から聞いた、こちらにいる無頼派と呼ばれる一群の作家の話しをふと思い出して、そう云う男を表現しようとしたのでありました。いやしかし考えたら、こう云う雰囲気の男は、太宰治と云うよりは、それより前に活躍した芥川龍之介辺りの写真のイメージかも知れませんが。ところでそう云えば、芥川龍之介はこちらに生まれ変わって後、はてさてどう云う霊になっているのでありましょうか。細い糸のようなロープを肩に担いで、地獄省と極楽省を行ったり来たりしているのかも知れません。
「まあ、なんとなくは判りますけど」
 楚々野淑美さんは申しわけなさそうに拙生に頭を下げるのでありました。
「今時そんな男、いるわけないじゃない」
 藍教亜留代さんが頓狂な声で口を挟むのでありました。「そんな男、ダサ過ぎ!」
「高校時代に、国語の邪馬台文学史で、第二次省界大戦後の一時期、生きていく確固たる規範を喪失した人間を描いた、そんな感じの一群の小説家がいたって習ったかな。俺はあんまり小説とか昔から興味がないから、そいつらの小説を読んだ事はないけどさ」
(続)
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