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枯葉の髪飾り 8 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りCCⅩⅠ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 先に吉岡佳世の葬儀に出るために佐世保に戻った時と同じルートで、拙生は帰郷するのでありました。前のように切羽詰まって心急いていたわけではなかったために、今度は気分的にはかなりのんびりとした旅でありました。彼女がもう佐世保には居ないことは判っているのでありましたが、それでも帰郷するとなると少し気持ちが和らぐのは、東京に来てから程々の日時が経過したとは云え、未だ東京暮らしに慣れきっていないための緊張が拙生の中に凝固していためでありましょうか。
 博多発の特急みどり号が佐世保駅のホームに滑りこむと、拙生は改札を抜けた後はゆっくりとした足取りで四ヶ町まで歩いて、それから四ヶ町と三ヶ町のアーケードを抜けて病院裏の公園に向かうのでありました。夏の強い日差しを避けるように、アーケードの中は多くの人が行き交っているのでありました。八月の最後の週の平日でありましたが、小学生や中学生、高校生達はもうすぐ終わる夏休みを惜しんで、家でじっとしているのに耐えかねて、なにかに急かされてでもいるかのように街に繰り出して来ているのでありましょうか。なんとなく拙生にも覚えのあることでありました。
 病院裏の公園は相変わらず人の気配が薄いのでありました。拙生はあの銀杏の木の下のベンチまで来るとそこに座って、過ぎゆく夏を惜しむように鳴くつくつく法師の声と、葉群れが風にさざめく音を聞きながら目を閉じるのでありました。一年前の夏に毎日のようにここで一人転寝をしながら過ごした時の気分が、懐かしさの薄衣を纏って蘇るのでありました。受験のための学校での補習授業と週一回の病院通いの憂さ晴らしに、拙生はこのベンチで不貞腐れたような顔をして寝転んで、本来はのんびりとしているはずの夏休みの情緒を暫し味わおうとしていたのでありました。そんな拙生に或る日偶々この公園に入って来た吉岡佳世が声をかけたのでありましたっけ。
 吉岡佳世のあの時の顔が蘇るのでありました。近づけられた彼女の顔はとても可愛くて拙生はどぎまぎとするのでありました。後ろに束ねた髪の毛が細い首の後ろで踊っているのでありました。その髪から仄かに漂うシャンプーの香りが、拙生の頭をくらくらとさせるのでありました。拙生はその一瞬で彼女に恋をしたのでありました。
 あれからたった一年しか経っていないと云うのに、吉岡佳世はもう拙生の前から居なくなっているのでありました。本当ならば今日此処で拙生と彼女は待ち望んだ再会を果たして、お互いの感奮を隠せない儘きつく抱きあって唇を重ねているはずでありました。それから、今後二年先も三年先も四年先も、もっとずうっと先まで続くはずの拙生と彼女の二人の時間のことを、しっかりと確認しているはずでありました。なのにたったの一年も、彼女は待っていてはくれなかったのでありました。彼女は、余りにせっかちであります。・・・
 いきなり横の銀杏の木でつくつく法師が鳴き出すのでありました。その声が頭上で舞っていた葉擦れの音をかき消すのでありました。拙生の頭の中は暫くつくつく法師の声だけに支配されるのでありました。名残を惜しむような余韻を残してそのつくつく法師の声が途切れると、その後にはなにも音のしない空間が現れるのでありました。銀杏の木から蝉が飛び立つのが見えるのでありました。まるで蝉が居なくなるのを待っていたかのように、始めは密やかに、そして次第に高くまたぞろ葉群れがお喋りを始めるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅡ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 一年前とまったく同じ光景でありました。しかしもう吉岡佳世は拙生の前に現れることは絶対にないのでありました。それはもう、残念で悔しくて堪らないのではありましたが、どうしようもないことでありました。してみると、この一年間だけが拙生の持つ時間の流れの中で際立って濃い色をした、特別の時間だったのかもしれないと思うのでありました。その特別の時間を拙生は綺麗なハンカチで大事に包んで、心の奥底に何時までも何時までも、拙生の生が終わるまで仕舞っておくべきものだと考えるのでありました。
 つくつく法師がまた横の銀杏の木にやって来て大きな声を張り上げるのでありました。葉群れのさざめきがまたもやその声に気押されたように消え去るのでありました。
 拙生はベンチから立ち上がると公園を出て三ヶ町の方へ戻るのでありました。三ヶ町のアーケードを入ってすぐの辺りにある花屋に立ち寄るためでありました。そこで小ぶりな花束を買い求めて、拙生は吉岡佳世が眠っている寺へと向かうのでありました。
 盆は過ぎたし、彼岸までは未だ間があるためか寺の中は閑散としているのでありました。母屋の玄関の受付には人が居ないのでありましたが、据えつけてある呼び鈴を押すとこの寺の主婦と思しき初老の女の人が奥から出てくるのでありました。
「納骨堂に、行きたかとですが」
 拙生はその女の人に云うのでありました。
「ああ、お参りですか。どうぞどうぞ。納骨堂は何時でも出入り出来ますけん」
「どがん行けば、よかとですかね?」
「本堂の裏にありますけん、本堂の横ば回って行けば、すぐに納骨堂の入り口になります。スリッパのあるけん、上がってそれに履き換えてから、お参りください」
「判りました。有難うございます」
 拙生はお辞儀をして本堂の方に向かうのでありました。
 本堂へ上がる石段の横手の灯篭脇に、納骨堂と書いて矢印を添えた立て札があるのでありました。その矢印通りに歩いて本堂を回ると、本堂裏から納骨堂へ降りる屋根つきの石段があってその段を降りた処が納骨堂の靴脱ぎ場でありました。母屋の方からも廊下がそこに繋がっています。拙生は高校の体育館の入り口を思い出すのでありました。それを小ぶりにしたような造りでありました。
 広い納骨堂の中は人が誰も居ないのでありました。締め切られた室内は温気が籠っているのでありましたが、訪れた拙生のために先程の女の人が急遽入れてくれたものか、クーラーの運転音が深閑とした中に少し場違いに響いているのでありました。入口の扉の横に納骨壇の区画図が掲げてあり、拙生はそれで吉岡家と云う表示を探すのでありました。
 吉岡佳世の納骨壇は中列端の小さな窓の脇にあるのでありました。薄暗い納骨堂の中でそこは外光が射すために明るくなっているのでありました。拙生はなんとなくその様子に安心するのでありました。壇の中には彼女の写真が飾られているのでありました。その写真も拙生が公園で写したものの中の一枚でありました。拙生は「おう、久しぶり」と口を閉じた儘写真に声をかけるのでありました。写真の彼女が拙生をその円らな瞳で見つめながら、恥ずかしそうに微笑んでくれるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅢ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 拙生は佐世保に居る間の約一ヶ月間、毎日吉岡佳世が眠る寺へ出かけるのでありました。花はそう毎日持って行くのも上手くないと思ったのですが、極めて小ぶりなものを三ヶ町の花屋で買って結局毎日持って行くのでありました。これは彼女へのプレゼントの積りでありました。線香とか蝋燭とかは持参しないのでありました。その代わり、万年筆をシャツの胸ポケットに入れて拙生は出かけるのでありました。だから拙生のこの寺詣では故人を偲ぶ本来の壇参りと云う風ではなくて、彼女とのデートのようなものでありました。
 拙生は壇の前に立つと決まって、万年筆を彼女の写真の前に置くのでありました。拙生の受験の時に病床に在る彼女に貸しておいた万年筆であります。これで彼女は拙生の受験が上手くいくようにと、彼女流の願かけをしてくれたのでありました。特に拙生に差し迫った願いがあったわけではなかったから、この行為はもう一度願かけを彼女に強請っているのではなくて、まあ、云ってみれば拙生のちょっとした思いつきによる儀式のようなものでありました。
 拙生はじっと立った儘壇の中の彼女の写真を、一時間程見つめて過ごすのでありました。彼女とのことを思い出していることもあれば、生きている彼女と再会したシーンなんかを仮想して写真と会話を交わしていたりするのでありました。それは当座の拙生にとってとても楽しい時間なのでありました。拙生と写真との間に万年筆を置くことによって、写真の彼女が少し血の気を帯びてくるような気がするのは、これは拙生の妄想以外ではないでありましょうけれど。
「じゃあ、また明日」
 瞬く間の一時間程の逢瀬が過ぎたら、拙生は写真の彼女にそう小声で告げて、万年筆をまた胸のポケットに仕舞うのでありました。それから写真に小さく手をふって壇を離れるのでありました。その後は決まってあの病院裏の公園に行って銀杏の樹の下のベンチに座り、蝉の声と、今を盛りと茂った銀杏の葉が風にさざめく音の中で過ごすのでありました。
 秋の彼岸の頃の何日間かは、納骨堂の中には彼岸参りに訪れる人の姿がちらほらあって、なかなか吉岡佳世と二人きりの時間を過ごすと云うわけにはいかないのでありました。そう云う時は拙生は万年筆を彼女の写真の前に置くこともせずに、花を供えたらこう云う場所でのお決まり通り壇に手をあわせて、早々に退散するのでありました。
 拙生の供えた花の横に新しい花立てがあって、そこに拙生のものよりは数等豪華な花が供えられていることがありました。これは屹度吉岡佳世の家族が壇参りに来て供えた花でありましょう。自分達の供えるべき花の他に、ちゃちな花束が花立てを占拠していることを、その時彼女の家族は奇異に思ったに違いありません。しかしどこの誰の仕業かは判らなくても、折角手向けられた花を棄てることも出来ずに新たな花立てを用意して、自分達の持ってきた花は其方に活けて、拙生の花にその儘従来の花立てを譲ってくれたものと思われるのでありました。拙生はそう推測して一人恐縮するのでありました。
 壇から花が溢れている様子を見ながら、この帰省中に一度彼女の家にも行かなくてはと拙生は考えるのでありました。葬儀の後過分の交通費を送ってくれたことと、その後の満中陰法要のこと等手紙で態々知らせてくれた礼をしなければならないでありましょうから。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅣ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「相変わらず気の利かんもんけん、こいは東京土産じゃなかとですけど」
 吉岡佳世の家の玄関で、中から出て来た彼女のお母さんにそう云って、拙生は三ヶ町のケーキ屋で急遽買った手土産のショートケーキを手渡すのでありました。
「よう来てくれたね、井渕君」
 彼女のお母さんは拙生に上がれと云う手招きをするのでありました。
 居間と襖で隔てられた部屋へ通された拙生は、先ず仏壇の前に正座するのでありました。今度の件で購入されたのであろう仏壇の如何にも真新しい様に、まだ吉岡佳世がこの世を去ってから程ないことを拙生は思い知らされるのでありました。
 形通り線香を立てて鈴を鳴らして合掌してから、拙生は彼女のお母さんの方へ向き直るのでありました。しかしこの場合どのような挨拶の言葉を発したら良いものか全く判らなかったものだから、拙生はただ不細工に一礼するのみでありました。
「何時、佐世保に帰ってきたと?」
 彼女のお母さんが聞くのでありました。
「はい、八月の終わりです」
「八月になったらすぐ夏休みに入ったとやろうに、随分こっちに帰るとの遅かったね。向こうで、なんかアルバイトでもしよったと?」
「いや、そがんわけじゃなたったとですけど、なんとなく暫くダラダラしよったとです」
「まあ今は、あっちが井渕君の生活の場けんが、ちょっと長う離れるてなると、色々用事ば片づけんばけん、結構忙しかったとやろうけど」
「いやあ、そがんこともなかったとばってん・・・」
 拙生がそう云い終ると彼女のお母さんは何かを思い出したかのように、畳に手をついて立ち上がろうとするのでありました。
「ああ、そうそう、お茶ば入れるけん、居間の方に行こうか。あっちの方が涼しかし」
 彼女のお母さんはそう云って立つと、拙生が立ち上がるのを待ってから、一緒に居間の方へ移るのでありました。仏壇の上方の壁には葬儀の時に祭壇に飾られていた吉岡佳世の写真がかけてあるのでありました。拙生はほんの暫くその写真を見上げるのでありました。
「暑かけん、お茶よりファンタグレープの方がよかやろう?」
 台所から彼女のお母さんが少し大きな声で居間に座っている拙生に聞くのでありました。
「いや、どっちでもよかですよ、オイ、いや僕は」
 待っているとすぐに彼女のお母さんは冷えたファンタグレープとコップと、それに拙生が手土産に持ってきたケーキを一つ盆に載せて居間に入って来るのでありました。
「お兄さんは、まあだ帰って来とらっさんとですか?」
 拙生はコップにファンタグレープを注いでくれている彼女のお母さんに聞くのでありました。
「ああ、あの人は佳世の四十九日の時に三日ばっかい帰って来たけど、すぐに京都に戻って仕舞うたと。なんか知らんばってん、あの人もなんだかんだて忙しか人けんねえ」
 彼女のお母さんは紫の液体に満たされたコップを拙生の前に静かに置くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅤ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「お寺の壇に、この頃何時も花ば供えてくれとるとは、井渕君やろう?」
 彼女のお母さんは自分はコップに注いだ麦茶を飲みながら聞くのでありました。
「はい、オイ、いや僕の仕業です」
「なんかしょっちゅうお参りに来てくれとるみたいで、有難うね」
「いやあ、ちんけな花ば持ってきて、勝手に花立てば占領して申しわけなかとばってん」
「とんでもなか、有難うね、本当に」
 彼女のお母さんは麦茶のコップを下に置いて拙生に頭を下げるのでありました。「屹度あの子も、井渕君が来てくれるとが、一番嬉しかやろうけん」
 彼女のお母さんはそう云いながら少し涙ぐむのでありました。拙生はその言葉にどう返してよいのか迷って、浅く一礼するのでありました。いや拙生なんかよりも家族の来訪の方が彼女は嬉しいに決まっていると、そんな風の言葉の遣り取りを拙生が敢えてここで彼女のお母さんと交わしあうのも、まったく以って間抜けな絵でありましょうから。
「肺の悪性腫瘍が原因で、亡くなったわけじゃなかとよ、あの子は」
 彼女のお母さんは急に吉岡佳世が死に至った原因を話し出すのでありました。「直接の死因は肺炎て云うことになるとばってん、肺癌はそがん進行しとったわけじゃなかと。あの子の肺自体がひどう弱っとって、ちょっとした菌にすぐ感染するごとなっとって、肺炎の治りかけたて思うたら、またすぐぶり返してしまうて云うとが続いたと。それで段々衰弱して、仕舞いには心臓の機能もおかしゅうなるし、心臓ば処置したら今度は腎臓のおかしゅうなるしで、手のつけられんような状態やったとよ」
「ああ、そうですか・・・」
 拙生はそう云って頷くだけでありました。
「意識も最後の方は朦朧としてきて、喉から妙な音ば出しながら昏睡して仕舞うたと。それまでは、話しかけたらちゃんと笑うてみたり、首ば振ってうんとか嫌々とか、しよったとばってんね。もう点滴でしか栄養も摂れんで、顔からみるみる肉の削げてしもうてね」
 拙生は聞いていられなくなって、顔を顰めて項垂れるのでありました。彼女のお母さんがどうして唐突に彼女の死因を拙生に語り出したのか、その真意がうまく掴めずに拙生は居心地悪く座っているのでありました。
「そいでもね」
 彼女のお母さんは続けるのでありました。「井渕君が夏休みに帰って来るけん、そいまで頑張らんばて耳元で云うぎんたね、その言葉にはあの子はちゃんと反応するとさ、意識のほとんどなかくせに。喉のゼーゼー云う音の急に止まって、なんか自分で呼吸ば調えようてしよるように見えると。もう吃驚したし、あたしはなんかそのあの子の反応の嬉しゅうして、井渕君の名前ば呪文のごとずうっと唱えてやっとれば、ひょっとしたら、恢復するとやなかろうかて思うたくらいよ。井渕君の名前には、何時も必ずあの子はそがん反応ばすると。最後の望みの綱は、井渕君の名前ば耳元で云うてやることやったとよ」
 彼女のお母さんはそう云って拙生に笑いかけるのでありましたが、その笑い顔は強張っていて、寧ろ悲痛な表情に見えるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅥ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「まあ、そいでも結局」
 彼女のお母さんは暫く黙った後にまた口を開くのでありました。「やっぱいあの子の衰弱は、止められんやったけど・・・」
 拙生は目を固く閉じて呼気を止めるのでありましたが、それは涙を堪えるためでありました。彼女のお母さんは両の掌で顔を覆って、時々引き攣るような嗚咽の声を指の間から漏らすのでありました。その儘少し長い時間、会話が途切れるのでありました。
「ご免ね、取り乱してしもうて」
 重苦しい数分間が過ぎて、どことなく未だ引き攣るような言葉つきの儘彼女のお母さんはそう云って、掌で涙を何度も拭ってから赤くなった目で拙生を見るのでありました。拙生は返す言葉が見つからなくて、弱々しく笑いかけながら何度か首を横にふるのでありました。堪えようとしたのでありましたが拙生の目からも涙が零れてしまったので、拙生の目も屹度赤く充血していたことでありましょう。拙生と彼女のお母さんはなんとなく照れて気まずそうに、お互いに目を逸らすのでありました。
「ばってんね、今考えると井渕君が最後の一年あの子の傍に居てくれて、本当に良かったて、あたしは思うとるとよ」
 彼女のお母さんはコップの麦茶を一口飲んでから云うのでありました。「あの子もこの世に居る間に、やっと女の子らしか感情とかも、ちゃんと経験させて貰うたしね。せめてそれだけでも、あの子が生まれてきた甲斐のあったて思えるもん。あの子も今頃、向こうで屹度そがん思いよるやろう」
「オイ、いや僕の方こそ、楽しか一年やったて思うとるとです。今は未だ残念でならんし、悔しゅうて堪らんとですけど、そいでも佳世さんのお蔭で、なんか気持ちの高揚した一年ば過ごさせて貰うたて思うとです」
 確かに受験勉強に明け暮れるだけの一年にならなかったのは、云うまでもなく吉岡佳世の存在があったからでありました。本当ならやりたいこともやれずに気が塞ぎこんで、なにかにつけ苛々としながら過ごすことになったであろう拙生のこの一年を、彼女が、今までに経験したこともない華やかな充実感に満ちた一年にしてくれたのでありました。
「あんた達の二年後とか三年後とか、もっと先も、そりゃあ、実際はどがんなるかは判らんやったやろうけど、こっそり楽しみにしながら、あたしは見てみたかったとばってんね」
 彼女のお母さんはそう云って力なく微笑むのでありました。
「お父さんは、どがんしとらすですか?」
 拙生はファンタグレープを一口飲んで聞くのでありました。
「うん、未だすっかりしょげ返っとらすけど、その内段々元気ば取り戻さすやろうて思うよ。元々が、そがん深刻にならん人やけん」
「最愛の娘やったとけんが、無理もなかやろうけど」
「そうね、時々佳世の部屋に入りこんで、暫く出てこらっさんこともあるけど・・・」
 彼女のお母さんはそう云った後に声の調子を変えるのでありました。「ああそう云えば、佳世の部屋は未だその儘にしてあるとけど、良かったら井渕君、もう一度見ていくね?」
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅦ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「どがん、しようかな」
 拙生は少し躊躇うのでありました。「まあ、そうしたら、せっかくけんが、帰りがけにちょこっと覗かせて貰いますけん」
 拙生はそう返してからコップのファンタグレープを飲み干すのでありました。
 主の居なくなった部屋の中は異様な静寂に支配されているのでありました。彼女が使っていた机も椅子もベッドも、本棚もそこに立て並べられている高校の教科書やノートや受験参考書や文庫本も、それに箪笥の上に置かれた幾つかの彼女のお気に入りだったぬいぐるみも、なにか急激に氷結させられたかのように、この部屋に入って来た者を一種圧倒するように、生気を全く失くして佇んでいるのでありました。
 拙生はこの静寂を乱すことを恐れるのでありましたが、ふと目について机の上の写真立てを恐る々々手に取るのでありました。それは拙生が東京土産に買ってきたものでありました。その中に入っていた拙生の写真は取り外されているのでありました。
「ああ、そこに入っとった井渕君の写真はね、あの子の遺影ば作る時にその裏に入れてあった写真ば使ったけん、その時一緒に出して、その儘机の引き出しに仕舞ってあると」
 彼女のお母さんはそう云って引き出しを開けるのでありました。中には幾冊かのノートが重ねて入れられていて、その上に確かに写真立てに飾られていた、固い表情をした拙生の写真が置いてあるのでありました。下のノートはひょっとしたら彼女が拙生の受験の時に願懸けをしてくれた、あのおまじないノートではないかと推察するのでありましたが、彼女が拙生にそれを見られるのを恥ずかしがったことを思い出して、手に取ることは控えるのでありました。拙生はなにも入っていない写真立てを、元の通りに静かに戻すのでありました。
 この部屋で拙生と吉岡佳世が胸を時めかせながら二人だけの時間を過ごしたことが、なにやら遥か昔に見た夢の中の出来事のような気がするのでありました。写真立て以外、あの時と部屋の様子はなにも変わってはいないのでありましたが、しかし部屋の中に満ちている空気はすっかり冷えてしまっているのでありました。未だ外は夏だと云うのに、拙生は足先が凍てるような感覚に襲われるのでありました。それは拙生がこれ以上ここに止まることを、部屋が厳しく拒否しているかのように思えるのでありました。
「ぼちぼち、帰りますけん」
 拙生はそう横に立つ彼女のお母さんに告げるのでありました。
 玄関で靴をはき終えてから振り返って、拙生は彼女のお母さんに云うのでありました。
「そいぎんた、お父さんにも、宜しゅう伝えてください」
「うん、有難う。井渕君はまあだ暫くこっちに居るとやろう?」
「はい、九月一杯は居ります」
「そしたらまた、線香ば上げに、ウチにも来ておくれね」
 拙生は深く一礼してから玄関を出るのでありました。前の様に彼女のお母さんは玄関を出たところまで出て拙生を見送ってくれるのでありましたが、当然のこととしてその横に吉岡佳世の姿はもうないのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCCⅩⅧ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 その足で、拙生は吉岡佳世の眠る寺へと向かうのでありました。吉岡佳世の居なくなってしまった部屋の寒々とした様子に圧倒された拙生は、寺の納骨壇に彼女の温もりを求めているのでありましたが、しかしもうこの世から去った吉岡佳世の「温もり」と云うのも、なんとも妙な云い方には違いありませんが。・・・
 拙生は納骨壇に向かうと、例によって万年筆を彼女の微笑んでいる写真の前に置くのでありました。お前の部屋はもうお前の部屋じゃなくなっていたぞと、拙生は声を出さずに写真に報告するのでありました。すると写真の前の万年筆が身震いするように少し動いたような気がするのでありました。
<あの部屋はね、本当にもう、あたしの部屋じゃないとよ>
 写真の吉岡佳世が云うのでありました。その声は耳を経由しないで、直接拙生の眼球の奥の方に電気が閃くように伝わるのでありました。
<前と殆どなにも、変わっとらんとにね>
 拙生はそう口を開くことなく云って、写真に首を傾げて見せるのでありました。
<ううん、もうあの中に在るものは、すっかり魂の抜けてしもうたものばかりやもん>
<寂しかもんけん、お前があの世に、魂ば全部一緒に連れて行ったとやろう?>
<ううん、そういうわけじゃないとやけど、あたしが好きだったものが、あたしが求めたわけでもないとやけど、あたしについて来てくれたと>
<そんなら、オイが一番最初に、そっちについて行かんばならんやったとに>
<人間は、別さ>
<そう云えば確かに、人が死んだらその人が大事にしとった花とかが枯れたり、飼っていた金魚が死んだりとか、時々聞くことのあるけど、詰まりそう云うことや?>
<そうね、まあ、そんな感じ。本当は生き物にはそう云うのが、適応されんことになっとるとやけどね。その辺は色々細かいルールのあると>
<へえ、ルールのあるとか、色々>
 拙生が云うと写真の吉岡佳世が微かに頷くのでありました。
<そいでもお前の部屋の、急に前とあんなに違う感じになってしもうたら、なんかひどう悲しゅうなってしまうやっか>
<でも、そうじゃなかったら、こっちに残った人の悲しさが、何時まで経ってもなかなか癒えんやろう。早う諦めばつけて、忘れて、落ち着いて貰うためには、その方が良かけん、そがんなっとると>
<へえ、そう云うもんかね>
 拙生はほんの少し頷くのでありました。<ばってん、オイはお前のことば、何時までも何時までも忘れんけんね、絶対に>
 拙生がそう云うと、写真の吉岡佳世はなにも云わずにただ微笑んでいる儘なのでありました。それは拙生の痛手も、その内に必ず癒えると写真の彼女が考えているためであろうと思うのでありました。なんとなく拙生はそう考えられているようなのが小癪で、写真に向かって口を尖らせて見せるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅨ [枯葉の髪飾り 8 創作]

<井渕君、帰りの列車の切符の手配はついたと?>
 写真の吉岡佳世が聞くのでありました。
<うん、十月一日のさくら号の切符のとれた>
<そうしたら、あっちに着くとは十月二日になるね。十月一日からもう、大学の後期の授業は始まるとやないと?>
<まあ、そうやけど、別に一日二日、遅れて行っても特に問題なかやろう>
<ふうん、そう>
 写真の吉岡佳世が少し顎を上に向けるのでありました。<ところで、大学は楽しか?>
<そうね、そがん楽しかて云う感じじゃなかばってんがね。第一もうお前が来ることはなくなったとやけんが、オイが東京に居るとも、なんか意味のなかごたる気のしとる>
<そがんことないさ。あたしが行く行かんていうことと、井渕君が大学生になったことは、全く別の次元の話やろう>
<いやあ、オイはお前と一緒に東京で大学生活ば送ることが、本当は一番大事な目的やったとばい。オイはただ、一足先に東京に行っただけで>
 拙生がそう云うと写真の吉岡佳世が少し俯くのでありました。
<・・・ご免ね、井渕君>
<ああ、いや別に、お前に恨みごとば云いよるわけやなかけん、そがん謝らんでもよかとぞ。謝られたら、オイの方が困るばい。お前が東京に行きたかったて云うことは、ちゃんとオイも判っとるけんね。行かれんようになったのは、お前のせいじゃなくて、もっと全然別の、なんか避けられんやった都合のせいけんが>
 拙生はうろたえてそう云いながら首を横にふるのでありました。
<井渕君さ、変な気ば起こして、大学ば辞めたりしたらダメよ。もし辞めたりしたら、あたしのあのおまじないノートが、結局無駄やったて云うことになるけん>
<ああ、そうね。そうなるたいね。それは確かに申しわけなか話ばい>
<あたし本当に一生懸命、気持ちばこめて、あのノートば書いたとよ。まあ、実際はおまじない以上じゃなかとやけど。でも、あたしの気持ちはあのノートに、確かに籠っとると。あたしが生きとった証拠みたいなものが、あのノートにまだちゃんと残っとるとよ>
<成程ね。確かに、そうね>
 拙生は頷いて見せるのでありました。<あのノートは、オイが貰ってよかやろうか?>
<うん、ちょっと見られるとは恥ずかしかけど、ノートは井渕君にあげる>
<そうや、そんなら、明日にでももう一度お前の家に寄って、貰ってこようかね>
<そがんことせんでも、ちょっと待てば、必ずあのノートは井渕君の手元に行くことになってるとよ。実はそれまで待っていてくれた方が、あたしとしてはもう少し、恥ずかしさの先延ばしになるわけやから、なんとなく嬉しかとやけど・・・>
<なんや、それは往生際の悪かて云うもんばい>
 拙生はそう云ったすぐ後で、今更彼女に「往生際」はないだろうと考えて、弾みで妙なことを口走ったものだと自分でも可笑しくなるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩ [枯葉の髪飾り 8 創作]

<隅田君とか安田君とかとは、帰って来てから会ったと?>
 写真の吉岡佳世が聞くのでありました。
<うん、何回か会うたばい、島ノ瀬町のエデンて云う喫茶店で>
 前にも云ったかとは思いますが島ノ瀬町は四ヶ町アーケードと三ヶ町アーケードの繋ぎ目で、丁度玉屋デパートの辺りであります。玉屋の前の道の斜向かいにちょっとした広場と云う感じの島ノ瀬公園があって、そのエデンと云う喫茶店は島ノ瀬公園横にあります。拙生が小学生の頃から在った喫茶店なので見知ってはいたのでありますが、隅田の指定によりそのエデンで待ちあわせをするとは終ぞ思いもよらなかったことでありました。
<エデンなら、あたしも知ってるよ>
 写真の吉岡佳世が云うのでありました。<久しぶりやから、色々話の弾んだやろう?>
<いや、お前の葬儀で会うたから、全くの久しぶりて云うことじゃなかったとやけど、まあ、隅田と安田とオイの三人で、東京の話とか博多の話とか、そいから同級生の消息の話とかで、結構盛り上がったかね>
<二人とも高校生の時とは、変わってた?>
<いやあ、あんまり変わっとらんね>
 そう云った後に拙生は話題を変えるように一つ手を打つのでありました。<そう云えばぞ、安田と島田がぞ、なんかあっちで良い仲になっとるらしかぞ>
<へえ、本当?>
<うん、安田は照れて曖昧な云い方しかせんやったけど、隅田が色々教えてくれた。何時も二人でデートしとるとて。隅田が、オイは完全に除け者にされとるて云いよった>
<なんか、そうなるのかなあて、前から思わんでもなかったけど>
 写真の彼女が云うとその前に置いてある万年筆が、少し身震いするように動いたような気がするのでありました。<井渕君も、そがん思わんかった?>
<うん、思いよった。あの二人はなんだかんだて反発して口喧嘩ばっかいしよるようやけど、そいでも全く口ばきかんようになるわけじゃなかし、それは詰まりお互いば、大いに気にかけとるからやろうて思うとったばい。なんかちょっとした切っかけさえあればその反発が、すぐに求愛みたいなやつにころっと変わるやろうて、なんとなく考えとった>
<そうそう、そうよね>
 また万年筆が震えたように見えるのでありました。<なあんか、羨ましかね>
<羨ましかことのあるもんか、お前にはオイが居るやっか>
 拙生がそう云うと万年筆が急に動きを止めたような気がするのでありました。万年筆はその後、完全な静物と化してしまったのでありました。
<今日はそろそろ帰ろうかね>
 拙生が云うと写真の吉岡佳世が悲しそうな微笑みをするのでありましたが、それは単に拙生が帰ることを寂しがっていると云うよりは、なにかもっと別のことで彼女はその微笑みを曇らせたような気がするのでありました。拙生は静物と化した万年筆を取り上げると、それを胸のポケットに仕舞うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 いよいよ佐世保を離れる日も、拙生は納骨堂の吉岡佳世を訪ねるのでありました。旅行カバンを持って立ち寄るのは、二月に拙生が大学受験に東京へ出発する当日、彼女を病院に訪ねたのと同じなのでありました。
<ほら、今日東京に戻るけん、ちょっと奮発して少し大きか花束ば買うてきたばい>
 拙生は何時ものように万年筆を壇に置いてから、三ヶ町の花屋で買って来た花束を写真の吉岡佳世に見せるのでありました。
<うわあ、有難う>
 写真の吉岡佳世が喜ぶのでありました。
<後で花瓶に水ば入れて、差しとくけんね>
<今日で最後ね、井渕君が逢いに来てくれるとも>
 写真の吉岡佳世が云うのでありました。
<うん、まあ、最後て云うか、今度は十二月に帰って来るけど、それまではちょっとお別れて云うことになるね。冬休みに入ったら飛んで帰ってくるけんね。寂しかかも知れんけど、それまで我慢しとかんばばい>
<うん、あたしは大丈夫よ>
 写真の吉岡佳世が微笑むのでありました。
 拙生は春に彼女と別れた時のことを思い出すのでありました。あと数日で拙生が佐世保を発つと云う日、彼女の家の彼女の部屋で、吉岡佳世は拙生に心配させまいとして矢張り同じように、拙生が傍に居なくても大丈夫だと云ってみせるのでありました。涙が出るくらいに寂しいのは確かだけれども、くよくよしていても始まらないから、自分のことは気にしないで、一杯色々なことを経験してねと彼女は健気に拙生を励ましたのでありました。
<冬にまた帰って来る時は、一杯お土産話ば持って帰って来るけんね>
 拙生はそう云いながら笑むのでありましたが、これも前に彼女に云ったことのある科白だったように思うのでありました。
<うん、また、色々東京でのことば聞かせてね。楽しみにしてるから>
 写真の吉岡佳世がそう云った後に、ふと拙生から目を逸らしたような気がするのでありました。その彼女の微細な表情の翳りに、拙生は今度もまた彼女が拙生のお土産話の披露を待つことなく、どこか遠い処に行ってしまうのではないかと案ずるのでありましたが、しかし考えてみたらもうこれ以上遠くに行くことなど、彼女には出来ない筈だと考えなおすのでありました。
<ああそうだ、オイのアパートの近所とか、お前ば連れて行こうて思うとった場所とかの写真ば撮って来るけんね。お前がひょっとしたら住むことになるかも知れんやった、豪徳寺辺りの写真とかも、撮って来ようかね>
<そうね、井渕君のアパートの辺りの写真は興味あるね、前に少し聞いたことあるから。でもね、あたしが一番興味のある写真は、井渕君の新しい彼女の写真かな、本当は。新しい恋人が出来たら、ちょっとその人の写真もあたしに見せてね>
 写真の吉岡佳世がそう云って全く無邪気に目を輝かせるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 8 創作]

<なんば云いよっとか。そがんとが出来るわけのなかやっか、お前が居るとに>
<あたしはもう、そっちには居らんとよ>
 写真の吉岡佳世が云うのでありました。<井渕君が居る処とあたしの居る処は、もうなんの連絡もない、全く違う世界やからね>
<ばってん現に、こうして話すことの出来るやっか>
<そうね、そうやけど、それでもやっぱり違う世界やもん>
 写真の彼女の云い種に拙生はひどく寂しくなるのでありました。
<オイはお前が違う世界に行って仕舞うたとしても、何時までもオイの恋人はお前て云う気持ちでおるとばい。これはそう簡単には変わらんとばい。お前の方はもうオイのことば恋人て思わんようになったとか、そっちに行って仕舞うたら?>
<ううん。前と同じくらい好きよ、今でも。そいでもそれは、完結を持たない思いて云うか、動きを持たない思いて云うか、そんな感じのものやもん>
<完結を持たない思いとか、動きを持たない思いとか、なんやそれは?>
<うまく説明出来んけど、そうね、もの凄く深い処を流れてる、地下の水脈みたいなものかな。何時までも何時までもずうっと流れ続けてるとやけど、絶対地上には噴出しない流れて云うのか・・・>
<よう判らんね、オイには>
<あたし頭の悪いけん、上手い説明の思いつかん>
<こうして、話すことの出来るとやから、相かわらずオイとお前は恋人同士やっか>
<そうやけど、詰まりね、そっちの世界の恋愛は、ちゃんとそっちで完結せんといかんの。そっちの世界に居る者同士が、相手に触れたり、相手の息を感じたりして、完結に向かって色々動かんといかんのよ、どんな完結になるにしてもね。云ってみれば、あたしと井渕君は、もう、完結してしまったの>
<ばってん、まだこうして話せるとなら、完結しとらんやっか。オイはそれで充分ぞ>
<でも多分、もうすぐ話せんように、なって仕舞うやろう>
 拙生はその言葉に衝撃を受けるのでありました。
<オイのことば、もう好きやなくなったて云うことか?>
<そうじゃなくて、違う世界に居ることになったて云うこと、あたしと井渕君とは>
<違う世界やろうとなんやろうと、オイは未だお前のことが好いとるとやもん>
 そう云いながらこの拙生の言葉が、なにやら子供が駄々を捏ねているような云い種にしか思えなくて、こんな言葉を吐く自分にうんざりするのでありました。
<あたしも何時までも井渕君のことは好きよ。でも、あたしの手にも唇にも触れることが出来んし、あたしの息も感じることが出来んとやから、井渕君の気持ちは時間が経つに従って次第に動きを失くしていって、最後には消えていくとよ、当たり前のこととして>
<そがんことの、あるもんか!>
 拙生は声を出さずにそう叫ぶのでありました。<どんなに時間が経とうが、それにお前に触れられんやろうと、オイは何時までもお前が恋人ぞ!>
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 この拙生の逆上に対して、写真の吉岡佳世は微笑を湛えた儘で云うのでありました。
<そう、あたしも気持ちは井渕君が恋人よ、何時まででも。でも、それはそっちの世界では成立しないことやろう?>
<そんなら聞くけど、もしもオイに、新しか恋人の出来たとしてぞ、そうなったら、お前は、嫉妬とか、せんとか?>
<うん、嫉妬とかはせんよ。だって違う世界で起こることやから>
<若しオイがお前の立場やったら、違う世界のことでも、絶対嫉妬するけどね>
<本当はこっちには、嫉妬とか、愛情とか、名誉心とか、羨望とか、野心とか、怒りとか、憐れみとか、そっちに溢れている感情て云う感情、まあ、そっちで人間が人間であるための感情て云うものが、全く存在せんの。そう云った感情はこっちでは全く必要ないの。だからあたし達の顔には、表情がすっかりないの>
<詰まらん世界やっか、そんな世界は>
<そうね、確かに詰まらんかも知れんね。尤も、詰まらないて云う感情も、こっちには存在しないとやけど。まあ、あたし達は人間やないとやからさ>
<そんならぞ、さっきからお前はオイと話しとって、有難うて感激してみせたり、オイのことばまだ好いとるて云うてみたり、オイが撮って来る写真ば楽しみにしてるて云うたりしとるけど、そいは詰まり感情じゃなかとか? 本当は感激もしとらんし、オイのことばもう好いてもおらんし、写真ば楽しみにもしとらんとに、調子ばあわせるためかどうか知らんけど、装いとしてそがん云うてみせとるとか?>
<ううん、あたしには未だ感情が残ってると。だからさっきからあたしが云ってることは、未だ、あたしの本当の気持ち。でも、それも次第に消えていくことになるの。何時完全に消えてしまうかは判らんけど。それが人間でなくなっていくことやから、仕方ないと>
 確かに吉岡佳世は嘗て人間ではあったけれど、今はもう違う「なにか」なのでありました。拙生は残念ながらその時それをはっきり認識するのでありました。写真の前の万年筆が一度身震いするように動いて、その後は全く自動出来ない静物と化すのでありました。拙生は写真の吉岡佳世との会話が閉ざされたことを知るのでありました。だから万年筆を取り上げると拙生はそれを胸ポケットに仕舞うのでありました。
 なにやら写真の吉岡佳世と喧嘩別れしたような気分になって、拙生は今しがたの彼女と交わした会話を悔やむのでありました。壇の中の彼女の写真が何時も通りの微笑を湛えているのでありました。拙生の落ち沈んだ気分とはまったく違うその「何時も通り」の微笑が、詰まり彼女から感情が消滅していくことの、明らかな兆しであるように拙生には思われるのでありました。拙生はなにやらひどく悲しくなるのでありました。
 拙生が壇から離れようとした時、僅かに胸ポケットの万年筆が振動したように感じるのでありました。拙生は万年筆を片手で押さえてもう一度壇の中を慌てて見るのでありました。写真の吉岡佳世の顔が、寂しげに拙生を見つめているのでありました。
<さようなら、井渕君>
 最後にそう云った後の彼女の目は、僅かに潤んでいるようにも見えるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 東京に戻っても拙生は、そこが自分の本来の居場所であるとはなかなか思えないでいるのでありました。大学の教室に居ても友達と喫茶店で話をしていても、電車に腰かけて窓の外を眺めていても、駅前の商店街で買い物をしていても、本屋で並んでいる本の背表紙を順番に追っていても、定食屋で夕飯を食っていても、どこか尻が落ちつかない気分の儘でありました。こんな処でこんなことを漫然としていて良いのかと暫し考えるのでありましたが、いったい何処が拙生の体がきれいに納まる居場所なのか、なにをすれば拙生の気分のざわつきが凪ぐのかはなかなか判らないのでありました。
 東京での生活を放棄して佐世保に帰る妥当な理由も、度胸もまたないのでありました。吉岡佳世の居ない佐世保での生活を考えたら、拙生には気持ちの落ち着く希望はその地にも殆ど見出せないのでありました。しかし佐世保には吉岡佳世の名残はあるのであります。吉岡佳世が眠る寺の納骨堂に花を持って毎日通うのは、それは確かに今一番の拙生の楽しみのようなものでありましょう。しかし二十歳にもならない男が周囲の目を憚らず、遠い先までずっとそんな風に生活していくだけの覚悟はと云えば、それは到底持ち得ないのでありました。
 第一納骨壇の中の吉岡佳世が何時まで拙生の訪問を喜んでくれるのか、心細くもあるのでありました。彼女は人間の時に持っていた感情を次第に失っていくと云うのであります。拙生が壇の写真の前に万年筆を置いても、写真の彼女がなにも反応をしなくなったらそれは屹度拙生には耐えられない現象でありましょう。そうなれば拙生は彼女を再び失うことになるのであります。・・・
 万年筆を机の上にある彼女の写真の前に置いてみるのでありました。拙生は頬杖をついて写真と万年筆を交互に見詰めるのでありましたが、佐世保の寺の納骨壇で起こった現象は、兆候すら見られないのでありました。花が添えられていないためかも知れないと小さな花束を買って来て、それを水を張ったマグカップに活けて写真立ての横に置いてみるのでありましたが、矢張り万年筆は何の信号も拙生に送ってこないのでありました。それは吉岡佳世の感情が遂に消え失せたためではなくて、佐世保の納骨壇ではないからなのだと、拙生はそれらしい理由を思いついて無理に納得するのでありました。
 俄かに大学の構内が騒がしくなるのでありました。学費値上げ反対を叫ぶヘルメットの学生の一団が連日学内でデモを繰り広げ、拡声器によるアジプロの声が日に何度も響き渡り、学生と大学当局の職員、或いは学生同士の小競りあいもそこ彼処で日常茶飯事となるのでありました。或る時は小教室でのクラス単位の外国語の講義の時間にヘルメットの一団がいきなり押しかけてきて、担当教員を有無を云わせず室内から追い出してアジ演説を始めたこともありました。大教室の講義がそこを占拠した学生の臨時集会とやらのために、休講になるのは稀なことでもないのでありました。
 以前に駅前で拙生につき纏ってきた二人のヘルメットの男達と、何時か学内で出くわすことがあるかも知れないと拙生は思うのでありました。彼等があの時のことを根に持っていて、意趣返しに今度は集団で拙生を袋叩きの目にあわせることだってあるかも知れません。それは恐ろしいことでもあり、実に以て面倒でもあると拙生は考えるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 しかし一方に、そう云う椿事を秘かに期待している自分が居るのでありました。そうなったら仕方がない、後先考えずに暴れるだけ暴れてくれようと秘かに拳に力を入れている拙生でありました。しかしまあ幸いなことにそれと思しき男達と出くわす事態など、とんと起こりはしないのでありました。
 同じクラスの友人が突然拙生のアパートを訪ねて来て、大学当局がロックアウト戦術に出たと教えてくれるのでありました。その日の早朝、大学当局は抜き打ち的に機動隊の出動を要請して、大学構内に居るヘルメットの学生を一挙に追い出し、固く校門を閉ざしてその前に厚い機動隊員の壁を作ったと云うのであります。その友人が朝大学に行ってみると、追い出されたヘルメットの学生達が投石したり機動隊員の壁に波状的に突入を試みたり、それを迎え撃つために学生目がけて放水車が強水圧の水を浴びせかけたりと、付近一帯は騒然たるあり様だったと彼は興奮気味に語るのでありました。
「新聞記者が大勢居たぜ。ヘリも飛んでたから、今日のニュースでやるんじゃねえか」
「ふうん、学生運動も大体が内ゲバに明け暮れしているばっかりで、今じゃ下火とか云う話しだけど、そうでもないのかね?」
 拙生の言い草はなにやら全くの他人事のようだと、云いながら思うのでありました。
「まあ、暴れているウチの学生は、全体からみれば確かに一握りだろうけどさ。それでも後ろに色んなセクトがついているから、それなりの規模にはなるんだろうな」
「で、俺等はどうすればいいんだ、ロックアウトになったら?」
「さあね。お前ん処に来る前に山口の処に行ったんだけどさ、山口の話によると間違いなく年内はロックアウトの儘で、ひょっとしたら年が明けても大学には入れなくて、後期試験はレポートになるかも知れんと云ってたけど」
 山口と云うのは矢張り同じクラスの友人で、長野出身の二年浪人して大学に入った男であります。我々よりは年嵩のためか諸事に通じているような顔をしているので、なんとなく世間知らずの他の連中は彼の言を頼りにしているところがあるのでありました。
「今後の指示とか、大学から通知のようなものが来るのかね?」
 山口の観測だけでは心許ないと思ったから拙生はそう聞くのでありました。
「さあ、それもどうかね。その内落ちついたら、張り紙くらいは校門に出るかもね」
「ほんじゃあ、その確認に一応毎日、学校には行かなくちゃならんわけだ」
「山口が殆ど毎日様子を見に行くと云ってたから、なんか動きがあったら、あいつが知らせてくれるだろう。山口はどちらかと云うと学生自治会寄りの意見だから、あいつもひょっとしたらその内、暴れる側の学生に交じってなんかやらかしたりするかもよ」
「ふうん。ま、そんじゃあ暫くは、山口からの連絡待ちと云うことでいいのか、俺達は?」
「そうね、それで大丈夫なんじゃないの」
「お前はどうすんだ、当面?」
 拙生はその友人に聞くのでありました。
「うん、丁度良いや、バイト三昧で、冬休みのスキー旅行の資金稼ぎだな」
 まあ、周りの一般の学生と云ったら大体はこのような気分でありましたか。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 拙生はそれなら冬休みの前倒しで、早々に佐世保に帰ろうと思い立つのでありました。夏休みにはぐずぐずしていて帰郷が遅れたのでありましたが、今度に限って矢鱈に気が急くのは、吉岡佳世と交感するためには佐世保の納骨壇の前に立つしかないからでありました。アパートの机の上の写真は万年筆を前に置いても、なんの反応も示さないのでありましたから、彼女との交流は東京では不可能なのでありました。それに自分から人間の感情が段々消え失せるのだと納骨壇の吉岡佳世が云っていたのでありましたから、なんとしてもその前に拙生は彼女の傍に帰らなければならないのでありました。冬休みまでの一月余りの時間を棒にふれば、ひょっとして取り返しのつかないことになるかも知れません。大学がロックアウトになったのは、もしかしたら天の配慮なのではないか等と拙生は考えるのでありました。
 帰郷する前に拙生は山口のアパートを訪ねるのでありました。大学のロックアウトの解除とか、なにか動きがあったら佐世保の実家の方に知らせてくれるよう依頼するためでありました。山口は先ず間違いなく年内の講義再開はないだろうと云うのでありました。
「他の大学とも連携して、かなり大がかりな闘争に発展しそうだぜ。もしかしたら来年の入試も出来なくなるかも知れない情勢だな」
 山口は顎をなでながらそう自分の観測を披歴するのでありました。
「山口もヘルメット被って闘争に参加するんじゃないかって、広瀬が云ってたぜ」
 拙生が云うのでありましたが、広瀬と云うのは大学がロックアウトになったと拙生のアパートまで知らせに来てくれたあの友人の名前であります。
「ああ、大学当局がこれ以上強硬な対抗措置に出てくれば、場合によっては俺も自治会と行動を共にするかも知れんな」
「それはお前の、義憤みたいなものからか?」
 山口は拙生よりは二つ年上ではありますが大学の同級生と云うことで、なんとなく拙生も他の友人達も彼に特別の敬意を示すこともなく、他の同年齢の友人と話す時と同じようにぞんざいな口の利き方をするのでありました。それに山口自身もそれを別に気にする様子は全くないのでありました。
「まあ、そうだ。已むに已まれぬ大和魂だ」
「お、吉田松陰か。なんか右側の人みたいだな、その云い方は」
「心情と云う一点は、同じかも知れん。ま、判ってくれとは云わんから、棄て置け」
「その義憤を横目に、これ幸いと俺が佐世保に帰るのも、なんか気が引けんでもないな」
「気にするな、個人の問題意識の違いだから。ああ、これは意識の程度をどうこう云ってるんじゃなくて、感受性の違いと云う意味だからな。別に俺が高慢を気取っているんじゃないぜ、云っとくけど」
「まあどっちにしても、結局俺の頭には、ヘルメットは馴染まんだろうからなあ」
 前に駅前で拙生をオルグしようとした連中とは違って、山口は議論を吹っかけて友人連中を闘争に引きこもうとする意図があるわけではないのでありました。考え方の上でお前はお前俺は俺と云う節度を、クラスの友人間ではあくまでも保っているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 冬休みには未だかなり間があるせいか、寝台特急さくら号の指定寝台券はすぐに手に入るのでありました。晩秋の情緒濃厚な山の景色海の景色の中を、拙生を乗せたさくら号は佐世保までの軌道を疾走するのでありました。
 さくら号が佐世保駅ホームに止まると、東京よりは未だ幾らか暖かい潮の香りを含んだ海からの風が拙生を出迎えるのでありました。拙生は改札を出ると何時もの通り四ヶ町までの道を歩くのでありましたが、右手の高台に立つカトリック教会の十字架が晴れた秋空に溶けこんでいるのでありました。教会の前には白亜のキリスト像が街を見下ろしています。別に何の関係もないのではありましょうが、大学がロックアウトになって期せずしてこんなに早く佐世保へ戻って来ることが出来た天の配慮を、拙生はそのキリスト像に勝手に感謝するのでありました。
 四ヶ町を通り抜けてデパートの玉屋を尻目に三ヶ町を歩き、吉岡佳世と最後のデートの場所になった三ヶ町外れの喫茶店に入って、拙生は彼女がここで食した野菜サンドとホットミルクの昼食を摂るのでありました。昼食時で喫茶店の中は結構混んでいて、あの時ののんびりとした雰囲気とは様が違っていたので、拙生は吉岡佳世との外での最後の邂逅を懐かしむ暇もなく、食べ終わると早々にそこを出て花屋に立ち寄るのでありました。
 花屋で小ぶりの花束を買った後は市民病院裏の公園に入って、銀杏の樹の下のベンチに座って暫く秋風に前髪を乱されているのでありました。もうすっかり黄色く変色した銀杏の落葉が、拙生の座るベンチの周りの土を秋の色に彩っているのでありました。銀杏の木の横に吉岡佳世が立って、カメラを構える拙生に笑って見せる姿が蘇るのでありました。
 拙生がなかなか公園のベンチから尻を上げないのは、これから後に行うはずの行為を怖じているせいでありました。それは勿論吉岡佳世の眠る寺に行って、納骨堂の壇に向かうことでありました。拙生が万年筆を彼女の写真の前に置いた後万年筆に何の反応も起きなかったら、拙生の呼びかけに写真の吉岡佳世が表情を全く変えなかったとしなかったとしたら、拙生はいったいどうしたら良いのでありましょうか。
 しかし考えてみればこうして早く佐世保に戻って来ることが出来た天の配慮があったのだから、屹度写真の吉岡佳世とは未だ確実に交感出来るはずであります。そのためこその天の配慮であるはずであります。そのようにことが運ぶために、ちゃんと天が筋立てしたのであります。・・・
 一時間以上も拙生は意をなかなか決しかねて、銀杏の木の傍のベンチから腰を浮かすことが出来ずにいるのでありました。手にしている吉岡佳世へのプレゼントたる先程買った小ぶりの花束が、拙生の臆病を笑っているのでありました。
 折角購入した吉岡佳世へのプレゼントを無駄にするわけにはいかないと、拙生は漸くに立ち上がるのでありましたが、寺に向かう決意の裏打ちが、贖った花束を惜しむ吝嗇と云うのもなんとも情けない話しであります。しかし兎に角拙生は寺に向かわなければなりませんし、その契機はこうなったら何だろうと構わないのでありました。
 拙生は騒ぐ心臓を抑えて寺の門をくぐるのでありました。こんなに臆病だったとは今の今まで知らなかったと、靴を脱ぎながら拙生は自分で自分を笑うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 納骨壇は前と何も変わってはいないのでありました。吉岡佳世の微笑む写真をちらと見遣ってから、壇の中の花立てを取ってそれを持って一端納骨堂を出るのは、すぐ脇にある水道から水を取るためでありました。持ってきた花束の結束を解いて拙生はそれを花立てに立てるのでありましたが、何時も活け方には拘らなくて無造作に花を差すだけであったのに、今回は見栄えをいやに丁寧に調えているのは、壇の中の彼女の写真の前に万年筆を置く瞬間を、少しでも先延ばしにしようとする潔くない魂胆からでありました。
 しかしそうも長く見栄えを気にしていても仕方がないから、拙生はいい加減に踏ん切りをつけて花立てを持ち帰って壇の中に戻すと、一呼吸して、上着の内ポケットから万年筆を取り出して吉岡佳世の写真の前に置くのでありました。
<ちょっと大学の都合で早う帰ってきたばい。吃驚したやろう?>
 拙生は写真の彼女にそう話しかけてから、万年筆と彼女の写真とを交互に凝視するのでありました。何時まで待っても前のような変化は、何も起こらないのでありました。遅かったのかと、拙生は眉根を寄せて考えるのでありました。この二ヶ月足らずの間に、吉岡佳世は人間であった頃の感情の残滓をすっかり失くしてしまったのでありましょうか。
<ちょっと、大学の都合で、早う帰ってきたばい。吃驚、したやろう?>
 拙生はもう一度同じ言葉を繰り返すのでありました。同じではあるものの、それは念じるとか祈るとかに近い無声の叫びでありました。しかしやはり万年筆は微動だにしないし、写真の彼女はほんの些細な表情の変化も見せてはくれないのでありました。
 拙生はなにやら茫漠とした異界に、一人取り残されたような寂寥感をいきなり感じるのでありました。いや寧ろ恐怖と云っても云い過ぎではないかも知れません。遂に吉岡佳世との交通が遮断されたのでありました。それは、仕方のないことなのでありましょうが、しかし拙生には耐えられない喪失なのでありました。それでも一縷の望みを託して、拙生は小一時間も万年筆と吉岡佳世の写真を見続けているのでありました。如何にも未練な仕業でありました。
 夏休みが終わって東京へ戻る日に、ここで最後に壇の中の吉岡佳世と交感した時を思い出すのでありました。拙生がまるで写真の彼女と喧嘩別れをしたような気分になって、項垂れて帰ろうとしたその時、まるで拙生をもう一度ふり返らせるように胸ポケットの万年筆が微かに振動したのでありました。拙生が驚いて壇の中を見ると、写真の彼女が逡巡の後に云いそびれたことを遂に口にするように、寂しげな表情で目を潤ませながらさようならと云ったのでありました。今となっては、その時が拙生との交通がかろうじて出来る最後の瞬間であることを、彼女は判っていたのかも知れないと思うのでありました。
 拙生は万年筆を取るのでありました。冷たいその感触が、なにやら拙生への最後通牒のような気がするのでありました。それでも壇の前からなかなか離れられないのは、拙生の諦めの悪さからなのでありました。ようやくに一歩遠退いてまたすぐに壇の中をふり返るその仕草も、拙生の御し難い意気地のなさからなのでありました。それにそんなことがあっても、ひょっとしたらと云う針の穴よりも小さな望みに縋って、矢張り次の日も寺を訪ねてしまうところも、拙生の覚悟に厳しさが決定的に足りないためなのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 佐世保へ帰って暫く経ってから、突然拙生の実家に吉岡佳世のお兄さんから電話が来たのでありました。母親に吉岡さんと云う人から電話だと云われて、拙生が佐世保に帰っていることを彼女の家の人は知らない筈であるのにと不思議に思いながら、玄関の電話機の傍に行って拙生は受話器を取り上げるのでありました。
「ああ、やっぱり帰って来とったとばいね」
 吉岡佳世のお兄さんはそう云って電話の向こうで少し笑うのでありました。
「なんで判ったとですか?」
「ここのところ寺に新しか花の供えてあって、ひょっとしたら井渕君が来てくれとるとやなかやろうかて、ウチのお袋さんの云わすけん、ちょっと試しに電話してみたとくさ」
「ああ、そうですか」
 拙生も少し笑い返すのでありました。
「まあだ冬休みでもなかとに、なんでこがん時期に佐世保に居るとや?」
「いやあ、大学のロックアウトになってですねえ。なんでも来年の入試も危なかて云うことけん、そんなら東京に居っても仕方なかて思うて、帰って来たとです」
「ふうん。それで、帰って来とって大丈夫とや?」
「はい。なんか動きのあったら、友達の連絡ばしてくれることになっとるけん」
「成程ね。何処も同じ、か」
 その後に少し言葉が途切れるのでありました。
「いや、オイもそうばってん、ひょっとしたらお兄さんも今佐世保に居るとでしょう?」
 拙生はそう聞くのでありました。
「うん、家から電話しとると。ウチの大学もロックアウトばい」
「やっぱい学費値上げ反対闘争、ですか?」
「うん。韓国のこととか、原子力船とか、東京のビル爆破とか、色々あるばってん、まあ学費値上げ反対が一番の理由かね」
「ああそうですか。京都の方も、騒がしかとばいねえ」
「もう騒がしか騒がしか。学費値上げ反対も、闘争方針で新左翼と既成左翼とか、新左翼のセクト同士とかでもいがみおうとるけん、なんか話しの余計ややこしゅうなっとる」
 彼女のお兄さんはそう云った後少し間を取ってから続けるのでありました。「いや、そがんことより、今日電話したとは、もし井渕君が帰って来とるとなら、一遍昼飯かなんかば食いがてら、ウチに寄ってくれんかねて思うてくさ」
「ああ、そうですか」
「どがんや?」
「はい、オイは別に暇にしとるけん大丈夫とですけど、迷惑やなかやろうか?」
「そがんことのあるもんか。未だ佳世のことば気にかけて貰うて、寺にも参ってくれとるとけんが、こっちの方こそお礼ばせんばならんと。井渕君に来て貰いたかとは、ウチの親父さんとお袋さんの意向でもあるけんがね。どがんや?」
 彼女のお兄さんはどがんやを繰り返して、拙生の返事を待つように黙るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 拙生が吉岡佳世の家を訪ねたのは、お兄さんからどがんやの電話を貰った二日後でありました。それは拙生がその日を希望したのではなくて、お兄さんが調整してくれたのでありました。お兄さんは拙生に気を遣って、お土産なんかは買ってこなくていいからとも云い添えてくれるのでありましたが、昼食を馳走してくれると云うのに厚意に甘えて手ぶらで行くのも気が引けるので、どうせその日の午前中も寺の納骨壇に行く予定でありましたから、ことの序でにまたケーキでも買っていこうと拙生は思うのでありました。
 約束の日に吉岡佳世の家の玄関では彼女のお父さんとお母さん、それにお兄さんが揃って拙生を出迎えてくれるのでありました。平日だと云うのにお父さんまで家に居るのはどうした事だろうと、拙生は挨拶に頭を下げながら思うのでありました。
「なあんも、買うてこんでよかて云うたとに」
 拙生がお土産のケーキを差し出すと、お兄さんが困ったような顔をしながらそれを受け取るのでありました。
「なんか何時も悪かねえ、こがんことして貰うて」
 お母さんが云うのでありましたが、それは訪れる度に歓待して貰っているこちらの云うべきことだと、拙生は手を横にふりながら返すのでありました。
「今日は仕事はお休みですか?」
 居間に通された拙生は座卓の座布団に促されるまま座った後、拙生の対面に座を取ったお父さんに聞くのでありました。
「うん、実はちょっと前に会社は辞めたんだよ」
「え、辞められたとですか?」
「うん、まあ、これを機に岡山に戻ろうと思ってね」
「親父さんも大分ショックやったみたいやからね、今度のことでは」
 拙生の横の席についたお兄さんがそう云うのでありました。その言葉にお父さんは少し俯いてなんとなく口元を笑うように動かすのでありましたが、その笑いは弱々しくて悲しみを誤魔化すための笑いのようでもあり、やや自嘲の気持ちの籠められた笑いのようでもありました。その様子から拙生は最愛の娘を失ったお父さんの悲しみが、到底癒えないことを察するのでありました。
「岡山で、前に云っとられた実家の方の仕事ばされるとですか?」
「うん、何時でも受け入れ可能だと向こうも云ってくれているから、ちょっと予定よりは早くなったけど、心機一転そっちをやってみることにしたんだよ。こっちでずっと抱えていた仕事もなんとなく目鼻がついたし、このところの船舶不況で仕事も激減しているし、人員削減の話も現実味が出てきたし、丁度頃あいかなとも思ってねえ」
「何時、帰られるとですか、岡山には?」
「出来たら年内に帰ろうかと思っているんだよ。クリスマスの頃とか。まあ、慌ただしいけどね。新しい年は、あっちで迎えたいと思ってね」
 お父さんはそう云ってから、拙生を何処か申しわけなさそうな顔で見るのでありました。拙生はそのお父さんの目から逃れるように俯くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「なんか、急に慌ただしゅうなったみたいですねえ」
 昼食の料理を並べ終えて座についたお母さんと目があったものだから、拙生はそう話しかけるのでありました。
「うん、実はそうでもなかと。この話は、もう九月頃からあったとやもん。井渕君には云わんやったけどね。お父さんは佳世の葬儀の後、そがん経たん内に自分の中ではもう決めとらしたごたるし」
 お母さんがそう云った後急に手を一つ叩いて席を立つのは、醤油を持ってくるのを忘れたためでありました。「ああ、仕舞うた、醤油々々。ころっと忘れとった」
「刺身ば食うとに醤油のなかぎんた、どがんもならんやろうに。相変わらずそそっかしかちゃもんねえ、このおばちゃんは」
 お兄さんがそう云ってお母さんが台所に立つのを見送るのでありました。
 卓に並んだ料理は昼食にしてはかなり豪勢で、特に石鯛やきっこりとか白身魚のふんだんな刺身の量に拙生は先ず感激するのでありました。東京では叔母の家で偶に夕食をよばれる時くらいしか刺身などは口にしないのでありましたし、しかも赤身の柔らかい魚が多くて、拙生はきっこりのような歯応えのある刺身の味をすっかり忘れていたのでありました。だからと云って拙生の食事なんと云うものは、目の前の料理を四の五の云わずに手当たり次第がつがつと胃袋に収めると云う流儀でありましたから、賞味すると云う風情は元々希薄なのではありましたが。
「岡山に行ったら、この佐世保の刺身が食えなくなるのは、ちょっと惜しいけどね」
 お父さんが拙生が刺身を頬張るのを見ながら云うのでありました。
「そいでも、瀬戸内の魚も美味かでしょう」
 拙生はそう返すのでありました。
「まあ、そうだけどさ。でもこっちで食った刺身の味は、ちょっと忘れられないね。それに私の処は岡山って云っても山の方だから、子供の頃から普段は刺身なんかあんまり食べなかったし」
「こっちではまるで付出しの感覚で、飯の時はいつも刺身の出てくるばってん、そがん風な感じは京都にもなかもんねえ」
 お兄さんが云うのでありました。
「あたしはそがん思い入れはなかよ、刺身には」
 お母さんが話しに加わるのでありました。「大体小さか時から刺身とか生ものは、あんまい好かんやったし。別になくてもどがんも思わんよ」
「そりゃあ、お袋さんはアンパンとかきんつばとか羊羹とか、そがんとのあれば満足しとるとやけんが、刺身の味なんかよう判らんやろうくさ」
「甘党の人は脇に置いて、さあどうだい」
 お父さんが拙生にビールを継ぎ足してくれようとするのでありました。拙生は頭を下げて箸を置いて、両手でコップを差し出します。拙生のコップに液体が満たされるのを、どう云うものか皆無言で見つめているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 実は拙生にとっては吉岡佳世の一家が岡山へ引越しすると云うのは、かなりショックな情報でありました。そうなると佐世保に今在る吉岡佳世の納骨壇も引き払われて、彼女の遺骨は岡山の方に改葬されると云うことでありましょうから。
「当然、今の納骨堂に在る佳世さんの遺骨も、岡山の方に移されるとでしょうねえ?」
 拙生はお父さんにそう聞くのでありました。
「うん、私は長男じゃあないから、本家の墓に移すと云うわけにもいかないけど、本家の寺の墓地に新しい墓を建てて、そこに移すことになるね」
「そうでしょうねえ・・・」
 拙生のこの言葉には自分ではそんなに意識してはいなかったのでありましたが、彼女の遺骨が佐世保からなくなって仕舞うことへの無念さが籠っていたようで、拙生の心境を気遣うようにお父さんがその後に云うのでありました。
「まあ、佐世保に在った方が井渕君も参ってくれるし、生まれて育った佐世保に眠る方が佳世にも良いとは思うんだけど、そうすると世話をする人が居なくなって仕舞うからね」
「いやあ、オイ、いや僕の都合なんかより、家族の住んどらす処に眠る方が、佳世さんも寂しゅうはなかでしょう」
 拙生はそう云ってビールを一口飲むのでありました。
「ひょっとしたら、少々非情なことを云うと思われるかもしれないけど」
 お父さんはそう云って言葉を切ってから拙生の目を見るのでありました。「井渕君もまだ若いんだし、これから良い出逢いが一杯あると思うんだよ。今すぐにはそんな気にはならないかも知れないけど、これを機になるべく早く佳世のことは忘れて、自分のこれからを大事にした方がいいとも、私は思うんだけど」
 拙生は父さんの顔から視線を外して下を向くのでありました。
「まあ、親父さんがそがん心配せんでも、時間が経てばなんとなく良い方に解決するて思うばい、井渕君の気持ちも。井渕君はオイなんかより、余程しっかりしとるけんね。ねえ、井渕君」
 お兄さんがそう云うのでありましたが、拙生がお兄さんの方を見て何も云わずに微かに笑って見せるのは、別に拙生がしっかりしていると云う今のお兄さんの言葉を、肯うためではないことは勿論でありました。
「親父さんにしたら、岡山に佳世の墓ば移すことで、なんとなく気持ちの整理のつくとやろう。そうせんことには、この儘佐世保に居るとは苦痛のごたるしねえ、親父さんは。傍で見とってそがん思うとくさ、オイは」
 お兄さんが続けるのでありました。お父さんは無言で頭の後ろに当てた手で、ゆっくり何度も髪を撫でつけるような仕草をしているのでありました。
「まあ、岡山に帰られる方が、お父さんの気持ちも安らぐやろうしですね。オイ、いや僕も葬儀の時の様子とか見とって、お父さんの消耗しとらすとが、かなり心配やったとですよ、実は。まあ、生意気なことば云うようやけど」
 拙生はお父さんを見ながら、なんとなく遠慮がちにそう云うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「井渕君、ご免ね、なんか、佳世を井渕君から引き離すようで」
 お父さんが云いながら拙生に軽く頭を下げるのでありました。「井渕君があれ以来ずうっと、納骨堂に花を供えてくれているのは、もう佳世の親としたら有難くて、本当に涙が出るくらいなんだけど、半面、井渕君のこれからを考えると、申しわけないと云うのか、申しわけなさ過ぎると云うのか、そんな気もしていてね。なんか偉そうに聞こえるとか、勝手な理由を云っているとか思われると不本意なんだけど、ここら辺でちょっと、状況を変えることは、私もそうだけど、井渕君のためにも必要な気もするんだよ」
「オイ、いや僕のことで心配ばかけとったり、重荷に感じさっせて仕舞うとるてしたら、逆に、ちょっと申しわけなかとです、こっちの方が。そがん風には考えもせんやったけど」
 拙生はそう云って頭を下げるのでありましたが、拙生の気持ちの中で急に噴き出してきた面目ないような気分が、下げた拙生の頭を重苦しく押さえつけるのでありました。拙生が好きで毎日吉岡佳世の納骨壇に参るその行為が、思わぬところで彼女の家族に余計な負担をかけていたようなのでありました。全くの拙生の、至らなさでありました。
「いや、花を供えに来てくれることを、どうこう云っているんじゃないんだ。井渕君には感謝以外はないんだからね。今の私の言葉を変な風にとらないでね」
「はい、判っとります。そがんへそ曲がりにはとっとらんです」
「ほら、面倒臭かことば喋っとらんで、刺身ばもっと食べんね。たっぷり買うて来たとやから、余っても仕方なかとやけんね」
 お母さんが拙生にともお父さんにともつかず云うのでありました。それから拙生の醤油の小皿を覗いて醤油を注ぎ足してくれるのでありました。
「そう云えば佳世も、あんまい刺身は好いとらんやったね」
 お兄さんが話頭を変えるように云うのでありました。「甘党のところは、お袋さんに似とったとばいね、屹度」
「そう云えば、岡山から桃が送って来たら、母さんと佳世とで早々に食って仕舞って、私がありつけるのは残った一個か二個だったっけ」
 お父さんがそう云って笑うのでありました。
「そりゃあ、岡山の桃は美味しかけんね。お父さんは小さか時から散々食べてきたやろうけん、もう飽きとるやろうて思うてさ」
 お母さんがそう返すのでありました。
「そんなことがあるもんか。実際岡山の地元の人は普段は、そんなに桃なんか食べないんだから」
「そりゃそうばい。折角の売りものとに、自分で食べとったら仕方なか」
 お兄さんがお父さんに同調するのでありました。「お袋さんと佳世のお蔭で、桃の賞味に与れんやったとは、オイも同じけんね」
「そがんことのあるもんね。ちゃあんとあんた達に、一番に食べさせよったたい」
 お母さんが二人の共同戦線に果敢に抗うのでありました。「そりゃあちょっと味見のために、最初の一個はあたしが食べたかも知れんけどさ」
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「矢張り、岡山に行かれる一番の理由は、桃ですか?」
 拙生がお母さんに尋ねるのでありました。前にお母さんが、桃をふんだんに食べられるのだから、将来岡山に移ることをそんなに苦にしていないと云っていたのを、ちらと思い出したからでありました。勿論拙生の云いようは冗談めかした云い方であります。
「いや、そうじゃなかとよ。井渕君まで、なんば云いよるとね。あたしはお父さんの意見に従順に従いよるだけけんね。夫唱婦随さ」
「よう云うばい、このおばちゃんは。明らかに桃が目的に決まっとるとに」
 お兄さんがそう云って箸をお母さんの顔の前でぐるぐると回すのでありました。
「桃狙いは桃狙いてしてですよ、しかし結構潔かですね、パッて岡山に引っ越すとば決断さすところは。佐世保で生まれてずうっと生活してきて、不安じゃなかですか?」
 拙生がお母さんに聞くのでありました。
「桃に魅かれてじゃなかて云いよるたい、もう」
 お母さんがあくまで桃が目的ではないことを強調するのでありました。「ばってん、まあ少しは心細かところもあるよ。そいでも佐世保にはあたしの兄が二人と、後は姪とか甥とか、叔母や従兄妹しか今は居らんけん、佐世保ば出るとにそがん抵抗はなかと。岡山に引っ越した後、全く佐世保に帰って来られんようになるわけやなかしね。それにお父さんの田舎は佐世保よりのんびりしとって、あたしの性にもあっとるし、人も優しか人の多かし」
「オイも京都からは格段に近うなるしね」
 お兄さんが云うのでありました。「友達とかはこっちに多かけん、その点ではなんか寂しか気もするけど、まあ、親類が未だ居るとやから、時々帰って来ることも出来るしね」
「そいでも一家で佐世保から居らっさんようになるとは、なんか寂しかですね、オイ、いや僕としては。尤も、僕ももう、佐世保に住んどらんとですけど」
「井渕君は岡山に行ったこと、ある?」
 お父さんが聞くのでありました。
「いやあ、なかです。新幹線とか寝台列車のさくら号の車内販売で岡山辺りで桃ば売りに来るとか、駅弁の祭ずしとかの印象とかくらいしかなかですねえ」
「ほう、祭ずしを知ってるの?」
「ああ、新幹線に乗った時食うたですよ。あれは結構好きですよ、オイ、いや僕は」
「井渕君も、東京から佐世保に帰る途中なんだから、一度は岡山にも寄ってよ」
「はあ、有難うございます」
「佳世の墓参りも、兼ねてさ」
 そのお父さんの言葉で、ああそうか、これからは吉岡佳世の面影に花を手向けようとするなら、岡山に行かなくてはならないのかと改めて拙生は思うのでありました。吉岡佳世と岡山で逢うと云うことが、今一つ拙生の中で納得がいかないのでありました。
「井渕君、絶対岡山に来んばよ、あたし達が引っ越したら」
 そうお母さんも云うのでありましたが、拙生はその言葉には笑い返すだけで明確な返事をしないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 食事が済んだ後に拙生に渡したいものがあると云って、お母さんが仏壇の置いてある部屋から紙袋を持ってくるのでありました。袋の中には吉岡佳世の遺品が入っているのでありました。
「佳世の荷物ば整理しよるとやけど、井渕君に所縁のある物の幾つかあってさ、もし迷惑じゃなかなら、貰てくれんかねて思うてね」
 お母さんが云うのでありました。
「佳世のことは早く忘れて、新しい出逢いを大切にする方が良いよとか云っている割には、こんなものを井渕君に渡そうとしているのも、なんか矛盾しているような感じだけど」
 お父さんがそう続けて頭を掻くのでありました。
「まあ、あたし達はこれをどがんしてよかもんか一寸判らんもんやから、一応井渕君の目に入れようて考えてさ。貰うとが嫌やったら、気兼ねせんで、嫌て云うてよかとけんね」
 お母さんはそう云いながら紙袋から幾つかの品を取り出すのでありました。先ず吉岡佳世が拙生の受験の為に願懸けをしてくれた、あのおまじないノートが三冊出てくるのでありました。それから拙生が東京土産に彼女に買ってきた写真の入っていない写真立てに、片手では少々持て余す程の大きさの犬のぬいぐるみが拙生の前に並ぶのでありました。ぬいぐるみは多分彼女の部屋に飾ってあったものでありましょうが、拙生にはあまり馴染みがないのでありました。
「そのぬいぐるみは、ひょっとしたら、なんで自分に所縁のあるものか井渕君は判らんかも知れんけど、尻尾のところについとるタグば、ちょっと見てみんや」
 拙生がぬいぐるみを持って、どうしてこれが拙生に渡されるべきものなのか要領を得ない顔をしているものだから、お兄さんがそう云ってくれるのでありました。手をかえして犬に後ろを向かせて尻の辺りを覗くと、そこには少し大きめの白いタグが毛に半分埋もれて見えるのでありました。タグには拙生のインシャルと思しき「S.I君」と云う文字と、その横にハートのマークが赤いペンで書いてあるのでありました。
「佳世はなあんも云わんとやったけど、その犬は何時やったかあの子が何処かで買って来て、大事に机の横に置いとったとさ。多分井渕君の代わりにしとったとて思うよ」
 お母さんが説明してくれるのでありました。拙生は彼女が三ヶ町のペットショップで買いそびれてしまった、ケージの中に居た仔犬を思い出すのでありました。
「実は井渕君が四月に東京に行って仕舞う日、佳世が駅まで見送りに行ったやろう、その時佳世は結構体調の悪うして、ちょっと動ける感じじゃなかったとばい」
 お兄さんがそんなことを云い出すのでありました。「井渕君には後で事情ば説明すれば、判って貰えるて説得したとやけど、佳世はどがんしても行くて云うて聞かんでね」
「死んでも行くて、涙ば流して云うとやもん。妙に必死やったねえ、あの時の佳世は。もう井渕君に逢えんことば、なんかしら判っとたとかも知れんね、今考えてみるとさ」
 お母さんが言葉を足すのでありました。
「結局根負けして、オイが一緒につき添って、井渕君ば見送りに行ったとばい、あの日は」
 お兄さんはそう云って口元を苦笑に動かすのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 8 創作]

「お兄さんの来とらしたとは、オイ、いや僕も知っとったです。動き出した列車の車窓から、佳世さんの後ろにお兄さんの姿の、ちらって見えたですけん」
 拙生はそう云うのでありました。
「ああ、さくら号の出発するまで、オイは離れた処に居ったけんがね、二人の邪魔ばしたら悪かて思うて。佳世にも傍にくっついてなんか居らんでくれて云われたしね」
 あの日吉岡佳世は体調が悪いところを拙生に微塵も見せなかったのでありましたし、拙生もそうとは全く気づかなかったのでありました。彼女は拙生の門出の時に拙生に心配をさせまいとして、相当頑張っていたのでありましょう。犬のぬいぐるみを見ながら、見事な彼女の餞であったと、拙生は切なく思うのでありました。
「その日家に帰って来て、熱の高うなって、佳世はすぐに部屋のベッドに横になったとやけど、寝とる間ずうっと、そのぬいぐるみば胸に抱いとったとばい。そがんして寂しさば堪えとったとやろうね。なんか妹ながら、いじらしゅうなってきたばい、オイは」
 もう叶わないことではありますが、拙生は激しく吉岡佳世にもう一度逢いたいと思うのでありました。そうして彼女をきつくきつく抱き締めたいのでありました。
「ひょっとして他に、なんか井渕君の欲しかもんとか、あるやろうか?」
 お母さんが犬のぬいぐるみを見つめて言葉を失くしている拙生に聞くのでありました。「もしよかったら、佳世さんの赤い水筒のあったなら、それも頂きたかとですけど」
 拙生はゆっくり顔を上げながら云うのでありました。ふと思いついたから拙生はそれを強請っているのでありました。
「ああ、ええと、確か体育祭の時に佳世が失くして、そいで井渕君が探し出してきてくれた、あの水筒のことやろうか?」
「ええ、そうです。佳世さんが病院に行ったけん、本部席のテントに置きっ放しになっとった、あの赤い蓋と紐のついとる水筒です」
 お母さんは立ち上がって台所の方に行くのでありました。台所の戸棚か何処かへそれは仕舞ってあったのでありましょう。
「この水筒やろう?」
 お母さんはまたすぐに居間に戻って来て水筒を拙生に手渡してくれるのでありました。「そがん云えば、これも井渕君に所縁のあるものやったねえ」
「この水筒も、貰うて、よかでしょうか?」
「うん、よかよか。持って行って」
「有難うございます。そんなら遠慮なく、この遺品は全部オイ、いや僕が貰うて行きます」
「後で邪魔になったら、処分してくれていいんだからね」
 お父さんが云い添えてくれるのでありました。
 なんとなく居間に居る皆がしんみりしてしまって、その後は会話が途切れがちになるのでありました。拙生は饗応と形見分けの礼を篤く繰り返して立ち上がるのでありました。三人に玄関で見送られて吉岡佳世の家を後にしたのでありましたが、少し離れて一度ふり返って、もうこの家に足を運ぶこともこの先ないだろうと思うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 拙生はその足で吉岡佳世の眠る寺へと向かうのでありました。その日の午前中、彼女の家に行く前に一度立ち寄ったのではありましたが、彼女の壇に饗応と形見分けのことを報告しようと思い立ったからでありました。
 万年筆を壇の写真の前に置いても、彼女との交感の始まりを予感させるどのような気配も見せないで、それは単なる万年筆としてそこへ横たわっているだけでありました。拙生は貰って来た紙袋から写真立てを取り出すのでありました。それから架台のついた裏の板を外して壇の中の写真をそこに入れるのでありました。架台を出すと上手く壇の中に納まらないように思えて、台を折りたたんだ儘万年筆の後ろに立て懸けるのでありました。
<オイがお前に買うて来た写真立てば貰うてきたとばってん、またオイがそれば貰うて云うともなんか妙な気のするけん、こがんしてお前ば入れて、ここに置いとくけんね>
 拙生はそう、写真立てに入った彼女に口を開くことなく語りかけるのでありました。実は秘かに、彼女の写真を写真立てに収納することで、なにかしらの気配の変化を期待していたのでありましたが、なにも起こらないのでありました。拙生は今度は犬のぬいぐるみを取り出すのでありました。
<このぬいぐるみは、あん時に三ヶ町で買いそびれた、あの仔犬の代わりに買ってきたとやろう、オイの身代わりに?>
 拙生はそう云って笑って見せるのでありましたが、壇の中の空気はやはり重く泥んだ儘僅かも動かないのでありました。
<これは貰うていくけんね。東京のオイの部屋に、今度はお前の身代わりとして飾っとくばい。それから・・・>
 拙生は赤い蓋と紐の水筒と三冊のノートも取り出すのでありました。
<水筒は、なんかお前の分身のような気のしたし、オイとお前との繋がりの強さば証明しとるごたる気もするもんけん、強請って貰うてきた。それからおまじないノートも、前にお前が云うとった通り、ちゃんとオイの手元に来ることになったばい。このノートは後でじっくり見させて貰うけんね。どうや、恥ずかしかや? 尤も、去年の夏に公園で始めてお前と二人きりで話した時、いいや、その次二回目にお前と二人で逢うた時やったか、お前に頼まれて、オイの倫理社会とか英語とかのノートば、お前の夏休み中に受けるて云う期末試験のために貸したやろう。あの時のオイのノートも、汚か字で要領悪く適当に書いとったとやけど、そればお前に見られるとは、本当はオイは恥ずかしかったとばい、如何にもオイの頭の悪さば見られるごたる気のして。云うてみれば、今度はその仕返しばい>
 拙生はそう云って歯を剥いて笑って見せるのでありましたが、壇の中の彼女の微笑は、相変わらず重い空気の中に溶けこんで少しの揺らぎも見せてはくれないのでありました。
<なあんか、少しも反応せんようになって仕舞うたね、お前は>
 拙生はため息をつくのでありました。
<もう遂に、人間としての感情とかが、すっかり消えて仕舞うたて云うわけか、前にお前が云うとったように?>
 拙生は力ない仕草で水筒とノートを紙袋の中に仕舞うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 拙生はもう一度壇の中の吉岡佳世の写真を見つめるのでありました。
<もうお前と話の出来んようになったとなら、オイがこうしてこの寺に来ても仕方なかやっか。この壇も今年の内に引き払われて、お前は岡山に行って仕舞うらしかし、こうやってお前と話せるとも、いや実際はもう話せんようになっとるとやけど、後少しの間て云うとに。もうこうなったら、佐世保に居っても仕様のなかけん、東京に戻ろうかね>
 拙生はそんな、面当てとも恨みごとともつかないようなことを口走って、壇の中の彼女の写真に向かって拗ねて見せるのでありました。そうして当然すぐに、自分のやっていることの愚かしさに気づくのでありました。
 万年筆をポケットに仕舞ってから、めずらしく拙生はこう云う場所での仕来たり通りに、壇に向かって手をあわせるのでありました。全く当然のこととして、写真立てに納まった彼女はなんの変化もしないのでありました。その明らかに静止した儘の微笑が、詰まり、なにかとても冷厳な事実を拙生に示しているように思えるのでありました。
 夕暮れが迫った公園に、拙生は向かうのでありました。冬の到来が間近であることを知らせるような冷たい風が、殆ど葉が落ちた銀杏の木の梢を揺らしているのでありました。拙生は紙袋を傍らに置いてベンチに座るのでありました。もう納骨壇の中の吉岡佳世との交感も叶わなくなってしまって、拙生はベンチから伝わる冷たさのように彼女の不在を痛感しているのでありました。結局一人になってこの公園のベンチに座っている自分が、救いようもなく孤独な存在になり果てたような気分でありました。目や肌に馴染んだこの公園の風景も空気も、寒々としているのでありました。
「井渕、やろう?」
 突然拙生を呼ぶ声が背後から聞こえてくるのでありました。男が一人立っているのでありました。それが誰なのか一瞬判らないのでありましたが、しかしすぐに高校三年生の時の同級生だった大和田であることに気づくのでありました。大和田は高校時代よりも前髪が伸びて、少し風貌が変わっているのでありました。
 拙生が黙っていると大和田は拙生の傍に来て、遠慮がちに拙生の横に腰を下ろすのでありました。その多少おどおどした様子から拙生は大和田が嘗ての意趣返しに、今ここに現れたわけではないのであろうと判断するのでありました。
「偶然、何日か前からここに、井渕が時々座っとるとば見かけとってくさ、そいで、ちょっと声ばかけたとやけど。・・・」
 そう云って大和田は少し笑った後に拙生から目を逸らして続けるのでありました。「まあだ、冬休みでもなかとに、なんで佐世保に帰って来とるとか?」
「学生運動の激しゅうなって、大学のロックアウトになったけんね」
 拙生は抑揚のない云い方でそう応えるのでありました。
「ふうん、そうや。・・・」
「なんか用のあるとか、オイに?」
 拙生のその云い方は特に意識したわけではないのでありましたが、明らかに迷惑そうな色あいであったたようで、大和田は怯えたように表情を凍らせるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 8 創作]

 大和田は拙生の問いにうんと云って目を逸らし、両膝に両肘をついて前かがみになって俯くのでありました。
「オイには、井渕に、どうしても謝らんばならんことのある」
「体育祭の時のことか?」
 拙生はすぐにそう推察するのでありました。他には大和田に謝られるような筋あいの事柄は、特に拙生は有していないのでありましたから。
「うん。あん時オイの軽はずみな言葉で、井渕ば傷つけたようで」
「オイが傷ついたとやなか。お前が傷つけたとは吉岡ぞ」
 拙生がそう云うと大和田は首を大きく前に落とすのでありました。
「井渕にも、吉岡に対しても、オイは酷かことば云うたて思う」
 大和田はそう云うと不意に立ち上がってベンチの横に正座するのでありましたが、これは全く思いがけない彼の振舞いでありました。大和田はベンチに座っている拙生を切羽詰まった表情で見上げてから、額を地面につける程に腰を折るのでありました。
「おい、大和田、そがん真似は止めろ。誰かに見られたら、変に思われるやっか」
 拙生は彼の後頭部に向かって云うのでありました。
「済まん、井渕。許してくれ」
「止めろて云いよるやろうもん。おい、大和田」
 拙生が制止しても大和田は額を上げようとしないのでありました。
「ずうっと、謝りたかったとばってん、なんか、どうしても出来んやった」
 大和田はそう声を喉から絞り出すように云った後に、ようやく頭を起こすのでありましたが、両手はまだ地面についたままなのでありました。「オイはひねくれ者で、そのくせプライドばっかい高かもんけん、相手ば傷つける積りなんかは本当はなかとに、ついうっかり皮肉なことば云うてみたり、厭味ば云うてみたり、人ば蔑むようなことば云うてみたりして仕舞うと。詰まりそうやって、自分の高過ぎるプライドば今までなんとか保とうてしよったと。なんか如何にもちんけな人間て、つくづく思うばってん。そいけん、自分の仕出かしたことの尻拭いも、今まで自分でちゃんと出来んで居った。井渕の顔ば見る度に、謝らんばとは必ず思うとやけど、ずうっと出来んやった。全く情けなかことやけど」
 大和田がこの一年間そのことで悶々とし続けていたことは、彼の枯れ木のように跪いた姿から、本当のことであろうと想像出来るのでありました。
 やや強い風が公園の中を吹き抜けていくのでありました。大和田の旋毛の辺りの髪がその風に乱されるのでありました。その毛は寒風に凍えたように立っている儘なのでありました。旋毛の毛を立てて跪いている大和田を見ていたら、不意にどうしたものか拙生は彼を許す気になるのでありました。尤も拙生はもう体育祭のその日に彼を殴っていたのでありましたから、今に至って許す許さないと云う程に、彼のあの時の言動を長く深く恨みに思っていると云うわけでは実はなかったのでありました。しかし以降彼と深く交わる気は、更々持ちあわせてはいませんでしたけれど。第一、それまでも大和田とは深く交わることなどなかったのでもありましたし。
 拙生はベンチから腰を上げて大和田の脇に手を差し入れて、彼を立たせようとするのでありました。大和田は拙生に誘われて力なく立ち上がると、もう一度ベンチに座り直すのでありました。
「井渕、オイば許してくれるやろうか?」
 大和田が拙生を上目遣いに見ながら聞くのでありました。
「許すも許さんも、あん時にオイはお前ば殴っとるとけん、オイとしてはもう、一応は片のついた話て考えとったばい」
「て、云うことは、許して貰えるて思うて、よかとやろうか?」
 拙生は無言で頷くのでありましたが、はっきり「許す」と言葉に出して云わないところは、やはり心の奥深い何処かで、大和田を許さない気持ちが蟠っているからなのかも知れません。
「なんか今、ようやっと少し、胸の閊えのとれた気のする」
 大和田はそう云って少し笑って見せるのでありました。それから拙生から目を逸らすと前を向いて、両膝に両肘をついた前屈みの姿勢の儘目の前に広がる公園の風景を見ているのでありました。風が幾度か拙生と大和田の横を吹き過ぎるのでありました。
 多分大和田は吉岡佳世がこの世から去ったことを、恐らく未だ知らないのだろうと拙生は推察するのでありました。大和田がそのことを知っているなら、彼は吉岡佳世を失った拙生の未だ生々しい心情を慮って、拙生に今日声をかけることはしなかった、或いは出来なかったのではないでしょうか。
そうであるなら、拙生が吉岡佳世の死を今ここで敢えて大和田に知らせるのは、如何にも彼に対して酷なことであるかと思うのでありました。その事実を新たに彼に告げることは、彼に別の懊悩をこれから強いることになるかも知れませんから。まあしかし、それにしても、大和田に対してそんな気遣いをしている自分を、拙生は少し意外に思うのでありました。
「そんなら、オイはこれで」
 暫くして大和田はそう云って立ち上がるのでありました。拙生は片手をゆっくり挙げて彼に別れを告げるのでありました。拙生の挙げた掌に、冷たい風が突き当たるのでありました。
「それから、もし井渕の都合のつく時にぞ」
 大和田は拙生に応答の片手を挙げて見せながら云うのでありました。「その内、まあ、今年でも来年になってからでもよかけど、隅田とか安田とかと、勿論吉岡も一緒に、何処かで集まって皆で酒でも飲もうで」
 大和田は云い終ると再び笑いかけてから拙生に背を向けるのでありました。
「おい、大和田」
 拙生は少し間をあけて彼に声をかけるのでありました。「・・・、来年こそは、受験、頑張れよ」
「うん、有難う」
 大和田はもう一度拙生に片手を挙げて見せ、その拙生の言葉が嬉しかったのかほんの少し長く拙生を見つめて、拙生の傍を離れて行くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCCⅩL [枯葉の髪飾り 8 創作]

 銀杏の梢が木肌の擦れあう音を立てるのは、少し強い風が吹いたからでありました。拙生は傍らの紙袋から犬のぬいぐるみと赤い蓋と紐の水筒をなんとなく取り出すのでありました。吉岡佳世の温もりを宿しているはずのそれは、如何にも冷たい手触りを拙生の掌に伝えるだけでありました。多分彼女の温もり等、もうこの世の何処にも残ってはいないのでありました。
 拙生はその二つを自分の頬に強く押し当てるのでありました。吉岡佳世の髪の匂いを、柔らかい唇の感触を、かき抱いた時の彼女の竦んだ肩の華奢な感覚を、頬の暖かさを、大きな瞳で拙生を見るあの視線の強さを、笑った時に唇の端に切れこむ可愛らしい小さな線を、耳朶の下の後れ毛に隠れた小さな黒子を、そんな拙生が秘かに知っていた彼女が彼女であるための些細な特徴を、なにも拙生に伝えてこない、単なる犬のぬいぐるみと水筒なのでありました。ぬいぐるみにも水筒にも、おまじないノートにも、寺の納骨壇にも、彼女の残していった部屋にも、この公園のベンチにも、銀杏の木にも、彼女の体温の気配はなにも残ってはいないのでありました。
 拙生はこの世から去った吉岡佳世との交感が、総て閉ざされてしまったことを改めて悟るのでありました。彼女は全く拙生の手の届かない処へ行ってしまったのでありました。せめて納骨壇での会話が残されているなら、それだけで一生満足出来たろうにと考えて、拙生は苦く笑うのでありました。その彼女の納骨壇も今年の内にあの寺から撤去されて、彼女の遺骨は岡山に移されるのであります。なにもかも、吉岡佳世に纏わるものから拙生は遮断されてしまったのであります。第一もう既に、納骨壇での彼女との会話は、出来なくなっていたのだし。・・・
 納骨壇での会話? さて、そんなものが本当に成立していたのでありましょうか。それは彼女の喪失と云う強い衝撃から身を守ろうとする、拙生の頭の錯乱が引き起こした単なる妄想として片づけられるだけのシロモノなのではないでしょうか。有り得ないことに縋りついて吉岡佳世の不在を受け入れるのを何時までも拒んで、拙生は虚ろな目の儘、意気地なく未練の涎を弛緩した唇の端から垂れ流していたのでありましょう。つまりそれが納骨壇での会話の正体なのでありましょう。だから、吉岡佳世の残した犬のぬいぐるみや赤い蓋と紐の水筒は在っても、彼女の書いたおまじないノートは在っても、彼女の微笑む写真は在っても、それに拙生の度し難い妄想は在っても、吉岡佳世はもうこの世の何処にも居ないのでありました。拙生はそれを思い知らなければならないのでありました。
 拙生は犬のぬいぐるみと赤い蓋と紐の水筒を、ベンチに並べて置いて立ち上がるのでありました。それから紙袋からおまじないノートも取り出してそれも置くのでありました。思いついて拙生はポケットから万年筆を出して一緒にベンチの上に横たえるのでありました。単なる犬のぬいぐるみと、単なる赤い蓋と紐の水筒と、単なる三冊の大学ノートと、単なる万年筆が、ベンチの上に残されるのでありました。拙生は銀杏の木の下まで離れて、ベンチの上の決別すべきであろうそれらのものを見入るのでありました。
 その品々を目を凝らして見ていると、少し気分が変わるのでありました。ベンチの上に並んだそれ等の品は、吉岡佳世の所縁のものではありますが、吉岡佳世そのものではないのであります。ぬいぐるみと水筒とノートと万年筆が、吉岡佳世であるはずはないのであります。それは大切に保管しておかなければならないものではありますが、だからと云って吉岡佳世と等値にこの世に在るものでは決してないのでありました。それ等の品を見ていて、拙生はやっとそう判るのでありました。拙生の気持ちに、ほんの少し落ち着きのようなものが生まれるのでありましたが。・・・
 風が吹いて来て、銀杏の梢を揺らすのでありました。枝の先に残っていた銀杏の枯葉が一枚、落ちるのでありました。枯葉はゆっくりと宙を舞いながら降りてきて、赤い水筒の蓋の上に止まるのでありました。それはまるで髪飾りのようでありました。すると俄かに、ベンチの前に枯葉の髪飾りを頭に飾った吉岡佳世の等身大の姿が、ぼんやりと浮かび上がるのでありました。
 拙生は息を飲むのでありました。その一瞬の場面に、目を奪われるのでありました。つい先程萌したはずの拙生の気持ちの落ち着きが、激しくかき乱されるのでありました。拙生の目の前に立つ吉岡佳世の姿が、淡い光を帯びるのでありました。
<井渕君、どうも有難う、今まで>
 吉岡佳世が頭を下げながらそう云うのでありました。それに応えようと拙生は口を開くのでありましたが、舌が麻痺したように動かないのでありました。
 枯葉の髪飾りは彼女がお辞儀をした時に彼女の頭に止まり続けることを躊躇うように、ひらひらと地面に落下するのでありました。顔をゆっくりと上げて拙生を見つめる吉岡佳世の姿が、すぐに発光を止めるのでありました。そうして彼女の姿は淡く消え去って、背後のベンチの上に赤い蓋と紐の水筒が残るのでありました。水筒の上に止まった枯葉も、既に落ちているのでありました。
 拙生は目眩に襲われるのでありました。その後に猛烈な睡魔が全身に覆いかぶさってくるのでありました。拙生はベンチまで辛うじて戻って、そこへ倒れるように腰を落とすのでありました。一方で感奮の只中に在るのに、拙生の意識は急速に薄れていくのでありました。これは屹度、妄想の見納めと云うものであろうと、薄れる意識が少し冷静な判断をするのでありました。その冷静な判断が激しく時化る海の大波に翻弄されながら、気を失ったように浮かんだり沈んだりしているのでありました。
 それでも、妄想でもなんでも、構わないのでありました。もう完全に途絶えてしまったと思っていた吉岡佳世との交感が、今の一瞬、叶ったのだから。
 冷たい風が拙生の額を撫でて、前髪を乱して通り過ぎていくのでありました。ひょっとしたらと、拙生は消え去ろうとする意識の中でふと考えるのでありました。ひょっとしたらこの眠りの後に、吉岡佳世とこの公園で最初に出逢った時と同じに、拙生の寝惚けた顔を覗きこむ彼女の目と拙生の名を呼ぶその声によって、自分は目覚めることになるのではないだろうか、と。
 そんなこと、まさかと、拙生は苦く笑いながら口を動かして、しかし声は出さずにそう独りごちるのでありました。全くそれも、甘美な一瞬の妄想なのでありました。甘美であるだけに、堪らなく切なくなるのでありました。拙生はもう一度吹いてきた風に残った意識をすっかり奪い取られるように、深い眠りに落ちていくのでありました。目覚めたら一年半前の高校三年生だったあの日と同じに、吉岡佳世が再び拙生の目の前に現れることを、実はかなり本気で期待しながら。
(了)
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