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あなたのとりこ 361 [あなたのとりこ 13 創作]

「ざらに聞きますよ。その退職金で会社の株を半ば強制的に購入させられる、とか云う話しなんかも良く耳にします。だから一概に虫の良い話しとは云えないでしょう」
 頑治さんは那間裕子女史の剣幕に油を注ぐ愚を犯さないように、大いに内心配慮した物腰でそんな言葉を返すのでありました。この点に関して、那間裕子女史も均目さんも知見が無いようでありました。頑治さんは大学生時代からすっとやっていた色々なアルバイト先でそう云う事例が時にあったものだから、偶々知識が有ったと云う事であります。考えてみれば、そんな事例は普通の会社員にとっては全くの無関心事でありますかな。
「あの人達も退職金で会社の株を買わされるのかしら?」
「さあ、ウチの会社の場合に関しては、俺には判りませんけどね」
「ウチは一応株式会社だけど、別に株を公開している訳じゃなくて、社長やその親族辺りが分け持っているんだろう、多分」
 均目さんが考えを回らすような顔をするのでありました。
「まあウチぐらいの規模なら、大概の場合はそうだろうなあ」
 頑治さんは箸で摘んだ八宝菜の海老を口の中に放り込むのでありました。
「親族の誰かの分をあの二人に回すのかな」
「そうかも知れないけど、恐らく社長が他の誰よりも圧倒的に多く保有しているんだろうから、その中から幾らか回すんじゃないのかな。・・・」
 頑治さんはそこで口を閉じて少しの間を取るのでありました。「でもまあ、退職金で株を買わされるかどうかはあくまでも俺の推量であって、そうならない場合もあるだろうな。その儘有難く貰っておいてそれでお仕舞い、と云う可能性だってあるだろうけどね」
「そう云うところにあたしは全く疎いから、具体的にどうするのかは判らないしあんまり興味も無いけど、でも要するに、組合結成のゴタゴタにちゃっかり便乗して、自分が肥え太ろうとする魂胆自体があたしは気に入らないと云うのよ」
 那間裕子女史はそう云ってから春巻きを箸で摘み上げるのでありました。
「遣り口がこすっからいと云う感じはするな、俺も」
 均目さんも春巻きを摘み上げて自分の取り皿に移すのでありました。
 那間裕子女史も均目さんも、今次の組合結成騒ぎに巧妙に乗じて、土師尾営業部長と片久那精査宇部長が社長を良いように脅したり賺したりしながら丸め込んで、ちゃっかり自分達の余禄迄も確保した、と云う印象を先ずは持ったのでありましょう。これは多分甲斐計子女史も同じような印象を持ったのだろうし、それだからこそ頑治さんにこんな出金指示書が回って来たと告げ口して、大袈裟にして貰おうと目論んだのでありましょう。
 確かに土師尾常務と片久那制作部長の、抜け目が無く狡賢い遣り口の匂いを心情的に許し難いと怒る気持ちは判るとしても、それが不当な行為だと非難するのは少し無理じゃないかと、頑治さんは那間裕子女史や均目さん、それに甲斐計子女史とは異なる見解を有するのではありますが、それをここで云い出すと話しが長くなりそうなので、喉の奥に言葉を忍ばせて外に出さないのでありました。序に万全を期してその言葉が外に漏れ出さないように、蟹玉を多めに取り皿から摘んで蓋代わり口の中に押し込めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 362 [あなたのとりこ 13 創作]

「この件は一応組合員で話し合う方が良いのかしら?」
 那間裕子女史が均目さんと頑治さんの二人を交互に見るのでありました。
「その方が良いんじゃないかな。遣り口が如何にも不愉快だし」
 頑治さんがそれはどうだろうかと疑義を挟むより先に、均目さんが使っていた箸を取り皿の上に揃えて置きながら頷くのでありました。「まあ、組合として話し合って、その結果あの二人や社長に何か文句を云うかどうかは、今のところ別にして」
「一応組合員全員で、あの二人に退職金が支払われた、と云う事実を共有しておく方が良いと云う事ね。あたしも確かにその方が良いと思うわ」
 那間裕子女史はそう云った後頑治さんの方に顔を向けて、頑治さんの考えを質すように首をほんの少し傾げて見せるのでありました。
「全員で共有するのは別に反対ではないですが、抑々組合が口出し出来る事柄なのかどうかの点は、俺としたら少し疑問がありますけど」
「でも、その疑問は組合の中の話し合いで表明して貰えば良い訳で、取り敢えず組合で話し合う事自体には反対じゃないのよね、唐目君も」
「まあ、それはそうですけれど」
 頑治さんは曖昧に首を縦に微動させるのでありました。「でもそれは当然、会社の在り方と云うのか、将来の見取り図をあれやこれやと社長や土師尾常務、それに片久那制作部長に訊き質す全体会議の前に、組合員全員に告げておく訳ですよねえ?」
「まあ、そうでしょうね」
 那間裕子女史が力強く首肯するのでありました。
「そうすると将来の会社の在り方の話しよりも、当面の、二人の退職金の話しの方に組合員の関心は引っ張られて仕舞うんじゃないですかね。すると結局、全体会議は云ってみれば、土師尾常務と片久那制作部長の糾弾会議みたいになって仕舞うんじゃないかな」
「まあ、会議の席で文句を云うかどうかはあくまで別だけど、そうなるかも知れない」
 均目さんが眉根を寄せて頷くのでありました。「若し俺達がその事に関して何か云い出せば、会議は双方が一気に殺気立った感じになるんだろうなあ、屹度」
「将来の事を話し合うと云う当初の題目は何処かにすっ飛んで仕舞って、険悪な対立激化の場になる事が予出来るけど、それでも良いのかなあ」
 頑治さんは顎に指を当てて首を傾げて気後れを表するのでありました。
「そうなったらそうなったで仕方が無いんじゃないの」
 那間裕子女史はもう既に土師尾常務と片久那制作部長に対する敵意を満面に湛えて、突き放すような云い草をするのでありました。「狡賢く、しかもこそこそと、自分達の余禄を手に入れよとしたんだから、あたし達に詰られても自業自得よ」
「こそこそと、と云うのは俺達に対して断わりも無しにと云う事であって、向こうにすれば、敢えて断る必要のない事を断らないでおいただけと云う理屈もあるだろうし、退職金支給が至極当然であると云う判断からすれば、俺達に謂れの無い文句を付けられていると感じるかもしれないし、これはなかなか陰鬱な会議になりそうな気がするなあ」
(続)
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あなたのとりこ 363 [あなたのとりこ 13 創作]

「唐目君は向うの味方なの?」
「いや、別にそう云う訳ではありません。俺は何時でも正義の味方ですから」
 頑治さんはそんな通則的な軽口をうっかりものしたものの、これは見るも無残に適宜性の著しく低い冗談と云うものであって、云うべき時でない時に云って当然に滑った全く以って間抜けな言葉であると、云った傍から内心大いに悔やむのでありました。
「まあ、繰り返すけど、今度の会議の席上で、あの二人に退職金が出た話しを持ち出すかどうかは、未だ判らないと云う事だけどね」
 均目さんはその点を頑治さんに念押しするのでありました。
「会議の席で、文句を云うかどうかも含めて、組合員全員で話し合うと云う事よ」
 那間裕子女史もそう云うのでありますが、女史の顔は退職金の話しを一等最初に会議に持ち出す気満々、と云った風情に見えるのでありました。

 全体会議は週明けの月曜日に開催すると土師尾営業部長から提案されたので、組合員の事前打ち合わせ会議は当該週の金曜日の終業後に持たれるのでありました。これもそんなに格式張らない会議なので、神保町駅近くの居酒屋で開催されるのでありました、
「それは酷いよなあ」
 席に着いてビールで乾杯もしない前に、那間裕子女史から件の土師尾常務と片久那制作部長に退職金が支払われたと云う話しが先ず以って公表されるのでありましたが、袁満さんはそれを聞いて反射的に顔を顰めるのでありました。
「幾ら出たんスかねえ?」
 出雲さんが那間裕子女史の方に顔を向けて訊くのでありましたが、具体的な金額は甲斐計子女史が代わりに応えるのでありました。
「土師尾さんに七百万で片久那さんが六百五十万よ」
 甲斐計子女史は鼻に皺を寄せながらそう云うのでありました。
「ほう、それは大した額っスねえ!」
 出雲さんは頓狂な声で驚くのでありましたが、二人の退職金としてその金額が高額なのか妥当な線なのか、それとも低いと云う判断も成り立つものなのか、頑治さんには俄には判らないのでありました。まあ、羨ましい金額、ではあますけれど。
「経営不振で金が無いと嘆いていながら、そう云う金はちゃんとあるんだなあ」
「あたし達には随分ケチだけどね」
 甲斐計子女史が憤慨に耐えないと云う云い草をするのでありました。
「今年の賃上げと夏の一時金に関しては、組合結成もあって会社としては結構頑張って出したもんだと思ったけど、その評価はこれで一気に色褪せたなあ」
 袁満さんは丁度席に運ばれてきたビールの中ジョッキを、退職金の話しで喉が急に渇いたためか、乾杯もしないで早速一口煽るのでありました。しかし未だ乾杯をしていない事に気付いて、二口目は控えて皆にビールジョッキが行き渡るのを待つのでありました。
「それじゃあ、取り敢えず、乾杯」
(続)
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あなたのとりこ 364 [あなたのとりこ 13 創作]

 袁満さんの発声に皆はジョッキを少し持ち上げて和するのでありました。考えてみればこんな場面で屡、律義に乾杯をするのは全く以って無意味な慣習であるなあと頑治さんはふと思うのでありましたが、まあ、それは取り敢えずさて置くのでありました。
「あたしが頭にきたのは、今袁満君が云った事に尽きるのよ」
 那間裕子女史がジョッキを顔の前から下げて、口角に付着していたビールの泡を吹き飛ばしながら云うのでありました。「結局、あの二人を優遇するために、あたし達の賃金や一時金は抑えるだけ抑えようって云う魂胆でしょう。ふざけているわよ」
「あの土師尾常務と片久那制作部長の二人だけが会社に必要な人間で、俺達は居ても居なくてもどうでも良い存在だと云う訳だよなあ。だから待遇面だけじゃなくて、今度の妙な人事異動なんかを敢行して、俺達を酷く扱うんだ。一応組合が出来たんで体裁上はそれなりの回答をしたけど、あの二人の優遇に比べれば馬鹿にされているようなものだ」
 袁満さんも憤慨の声音で那間裕子女史に大いに和すのでありました。
「あの二人に退職金をそれだけ出す事が出来るのなら、俺達ももっと賃金も一時金も高額な要求をすれば良かったっスよねえ。業績不振は出鱈目っスかねえ」
「全くの出鱈目でもないだろうけど、悪乗りして大袈裟に云い募ったと云う事だろうな。俺達の暮れの一時金をケチってやろうと、初めの内は秘かにそれだけ目論んで」
「悪辣非道というものだよなあ、その遣り口は」
「その上に組合結成に付け込んで、自分達の待遇をもっと上げようとした土師尾常務と片久那制作部長の企みは、その悪逆非道な遣り口の更に上の醜さと云うものだ」
 袁満さんは口の中に充満していたそんな憤懣を吐き捨てて、その分の空いたスペースにビールをグイと流し込むのでありました。
「でも、役員になった時にそれまでの退職金が支払われると云う慣習は、そんなに突飛でも酷くもない、世間では良く行われる一種のルールですよ」
 頑治さんが皆の憤懣で盛り上がった気分に水を差すのでありました。
「そうなのかい?」
 袁満さんが目を剥いて頑治さんを睨むのでありました。
「俺もこの前、昼飯を一緒に食った時にそんな事を唐目君に云われて、ちょっと調べてみたんだけど、確かにそう云う事例は、ごく一般的に行われているみたいだよ。俺は今迄そんな事に縁も所縁も無かったから、ちいとも知らなかったけど」
 均目さんが静かに云って袁満さんの顔にクールな視線を向けるのでありました。「役員になるんだから当然その時点で従業員と云う立場から離れる訳で、それは要するに退職扱いとされる事だから、退職金が発生するのは全く不自然じゃない」
「そんなものなのかねえ」
 袁満さんはあくまで懐疑的な風情を崩さず、そんな事は全く気に入らないし受け入れ難いと云った顔付きでありました。出雲さんも甲斐計子女史も、それから那間裕子女史も、屹度袁満さんと同じ気分なのでありましょう。四人は頑治さんと均目さんを、重い沈黙と共に、土壇場での裏切り者を見るような目容で横目に窺っているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 365 [あなたのとりこ 13 創作]

「まあ、行われた事は問題が無いとしても、支払われた退職金の額が妥当であるのかどうかは、一応確かめてみる必要はあるかも知れませんけど」
 頑治さんは、四人の鋭角な視線に怖じたからと云う訳ではないのでありましたが、そんな風な、多少四人の剣幕に阿るような事を口にするのでありました。
「それはそうだな。退職金が土師尾常務と片久那制作部長の云いなりに、或いは社長の恣意に任せて支払われているのなら、これは問題だ」
 均目さんが頑治さんの言に早速乗るのでありました。「ウチの退職金の規定はどうなっているんだろう。退職金に関してはこれ迄何も話し合ってはいなかったからなあ」
 均目さんは云い終ると甲斐計子女史を見るのでありました。
「あたしは何も知らないわよ、そんな退職金規定の事なんか」
 酒を飲めないから一人だけグレープフルーツジュースを飲んでいた甲斐計子女史が、そのグラスをテーブルに置いて手を横に何度も振って見せるのでありました。
「就業規則には退職金の規定が確かに記述してあったと思うけど、退職者には退職金を支払う、とだけ書いてあって、額の算定に付いては何も書いてなかったかなあ、確か」
 均目さんが宙に目を遣って、何かを思い出すような風をするのでありました。
「山尾さんが辞めた時、退職金は出たんでしょう?」
 那間裕子女史は均目さんの方を見ながら訊くのでありました。
「多分出たんじゃないかな。本人に確かめた訳じゃないけど」
 均目さんも確証は無いようでありました。
「出たわよ、ちゃんと」
 甲斐計子女史が言葉を挟むのでありました。「額はちょっと忘れたけど、一応土師尾さんからメモを渡されて振り込んだわよ。でも、全然高額ではなかったと思うけど」
「額は後で、何かで確かめられるでしょう?」
「勿論、その時のメモも取って置いてあるから、それは確かめられるけど」
 那間裕子女史の質問に対して甲斐計子女史は一つ二つ頷いてから、先程机上に一端置いたグレープフルーツジュースのグラスをまた手にするのでありました。
「ところで月曜日に予定されている会議の席で、土師尾常務と片久那制作部長に支払われた退職金について、こちらの方から話しを切出すのかな?」
 均目さんが話頭を元の方向に戻すのでありました。「退職金の話しをし出すと、あの二人は何が問題だと開き直るだろうし、こちらはこちらで不当だと云う思いがあるし、本来予定していた会社の将来の見取り図とかの話しなんか脇に追いやられて、支払われた退職金の事一辺倒になって仕舞うんじゃないかなあ。それに多分大いに紛糾するだろうし」
「それは確かに。土師尾さんなんかは何を云い出すんだとすぐに感情的になって怒り出すじゃないかしら。まあ、あの人のそう云う態度には慣れっこになっているけどけど」
 那間裕子女史がビールのジョッキを空けてから云うのでありました。
「片久那制作部長も、その話しになったら面白くはないだろうなあ」
 袁満さんが身震いをして見せるのは、彼の人の顔を思い浮かべた故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 366 [あなたのとりこ 13 創作]

「退職金を貰うのは許せないと云う怒りは我々の感情の部分であって、世間一般の制度として瑕疵は無いとなれば、それを云い出しても結局詮無い話しだと云う事だよなあ」
 均目さんがやや消極的な気色を見せるのでありました。
「でも何も云わないで置くと、何だかあの二人の遣りたい放題を許す事になっちゃうんじゃないの。そう云う事が行われたと判っていながら、一言もこちらの不愉快を表明もしないのは、あの二人を憚って只管気後れしているだけると云うものよ」
 那間裕子女史はあくまでも月曜日の会議でその件を取り上げたいようであります。
「でも特段の問題は無いと云うのに、一種の憤慨に任せて態々問題視すると云うのは、態度としてどんなものかなあ。問題だと捉える論拠が無い、或いは薄いために、結局すごすごと引っ込む事になるなら、全く以って格好の悪い話しじゃないかなあ」
 均目さんは那間裕子女史に気弱そうな笑みをして見せるのでありました。
「じゃあまあ、今回は止しとくかい、会議の席で云うのは」
 袁満さんも尻窄まりの態のようであります。
「せめて退職金が幾ら支払われたのかくらいは、訊いても良いんじゃないの」
 甲斐計子女史がそう云ってグレープフルーツジュースを飲み干すのでありました。
「ただ、こちらがそれを訊いた途端、イチャモンを付けられているとすぐにピンときて、土師尾常務がいきり立って怒鳴り始めるんだろうなあ」
 袁満さんがその様子を想像してげんなりと云った顔をするのでありました。
「土師尾常務だけじゃなくて、ひょっとしたら片久那制作部長も怒り出すんじゃないっスかねえ。土師尾常務ならそう云う人だと慣れっこになっているから、別に怖くも何ともないっスけど、片久那制作部長が怒りだすと、これは結構怖いっスよねえ」
 出雲さんが態と身震いなんぞをして見せるのでありました。
 確かにそれは大いにたじろぐ事態だと頑治さんも思うのでありました。それにその一件に依って、少しは従業員に肩入れする気のある片久那制作部長を、すっかり敵に回して仕舞う恐れもある気がするのでありました。まあこれは頑治さんの杞憂で、片久那制作部長の度量を不当に矮小に見積もっているのかも知れませんけれど。
 押し並べて甲斐計子女史と那間裕子女史と云う女性二人は威勢が良くて、四人の男共は腰が引けていると云った風でありますか。頑治さんのこれ迄の実感として、いざとなったら勇気があるのは女で、男の方があれこれ事後を考え過ぎて優柔不断になる生きもののようであります。まあ、この場合どちらが吉になるかは判らないのでありますけれど。
「それに大体、出た金額は、甲斐さんはもう知っているじゃないか」
 袁満さんがテーブルの上の甲斐計子女史の前に置かれた、グレープジュースの空いたグラスを見ながら云うのでありました。
「それはそうだけど、一応二人の口からはっきり云わせるって云う事よ。はっきり云わないで云い淀んだり怒り出したりすれば、それは少しは後ろめたい気があるからよ」
 甲斐計子女史は恥じらうように袁満さんの不躾な視線から庇う風に、自分が飲み干した後のグラスを両手で包み隠す仕草をしながら云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 367 [あなたのとりこ 13 創作]

「金額そのものは山尾さんの退職金と比較して、妥当かどうかを判断する必要があるわ。到底妥当性なんか無くて、自分達に都合好く計算をして分捕ったと本人たちが自覚しているのなら、甲斐さんが云うように後ろめたいものだから、誤魔化すために荒い言葉を吐き散らしてくるでしょうし、そうなるとそれはつまり馬脚を現した事になるわね」
 那間裕子女史が皮肉っぽい笑いを口元に浮かべて云うのでありました。
「土師尾常務は妙な体裁や外聞には気を遣うけど、元々恥とか矜持とか云う感覚が薄いし、そんな感覚に嫌になるくらい縁遠い人だから、当然今の那間さんの試すような意図の向けられる先は片久那制作部長に対して、と云う事で良いのかな」
 均目さんがややまわりくどい云い方をして、那間裕子女史の一種の覚悟を確かめるような事を訊くのでありました。
「そうなるわね。片久那さんが言葉を荒げて何やかやと弁解するなら、どんなに正義面したところで、まあ結局自分の利害第一の、その程度の人と云う事よ」
「それを確かめて、何の意味があるんですかねえ」
 袁満さんが首を横に傾げるのでありましたが、これは片久那制作部長の剣幕のもの凄さを想像して、只管気後れているところから発する否定的言辞でありましたか。
「これから先の片久那さんに対する組合の態度が、それではっきり決まるじゃないの」
「要するに片久那制作部長が俺達の敵か味方かはっきりさせる、と云う事ね」
 均目さんも袁満さん同様の懐疑的な表情を以って首を傾げるのでありました。
「敵か味方か見極めると云うよりは、その試験をすることに依って、向後はっきり敵に回すと云う事になるんじゃないですかねえ」
 頑治さんが呟くのでありました。「それはあんまり意味が無い仕業に思えますけど」
「片久那制作部長を敵に回すと後々、何やかやと遣り辛くなるっスかねえ」
 出雲さんも首を傾げる側に回るのでありました。那間裕子女史はここで四面楚歌となるのでありましたが、それで項羽のように意気消沈する気配は無いのでありました。寧ろ何処迄も潔くない尻込みを見せる男共に軽蔑の視線を注ぐのでありました。
 結局四対二で、今次の全体会議の席で土師尾常務と片久那制作部長の退職金に関する質問をするのは見送る事になるのでありました。那間裕子女史は男共の弱腰に憤激して、それなら近いうちに個人的な立場で、貰った退職金に付いて片久那制作部長に訊いてみるから、それは自分の勝手でしょうと啖呵を切るのでありました。
 男共にはそれ迄止める権利は無いのでありましたし、寧ろ勇み足気味に那間裕子女史が一人の判断で片久那制作部長の真意を聞き質すのは、内心歓迎なのでありました。これなんぞはつまり、小心者の如何にも小狡い心底と云うべきでありますか。
 この後に会社の将来を聞き質すための方途とか、会議の進め方について話すのでありました。しかし退職金の話し程には盛り上がらないで、皆は何となく散漫な様子で打ち合わせを進めるのでありました。でありますからこの後は酒席としても勢いも出なくて、適当なところで切り上げとなるのでありました。勿論飲み足りない那間裕子女史は均目さんと頑治さんを誘って、近くにある酒場で二次会となるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 368 [あなたのとりこ 13 創作]

 那間裕子女史は珍しく冷の日本酒のグラスを片手に、頑治さんと均目さんの、先の居酒屋での弱腰を詰るのでありました。頑治さんと均目さんは恐縮の態で那間裕子女史のイチャモンを、首を竦めて頭の上に遣り過ごしているのでありました。その内屹度酔い潰れて目と口を閉じるでありましょうから、要はそれ迄の辛抱と云うところであります。

 月曜日の全体会議に片久那制作部長は出席しないのでありましたが、これは慎に以って不測の事態でありましたか。片久那制作部長は前日の朝から、風邪で熱が四十度近く出て仕舞って、身動き儘ならないから欠勤すると云う電話をかけてきたのでありました。
 先ずその電話を取ったのが甲斐計子女史で、上のような欠勤理由が述べられた後、電話は片久那制作部長の指示で均目さんに回されて、均目さんはその日の仕事の指示をあれこれ受けるのでありました。因みに電話が均目さんに回ったのは、例に依って那間裕子女史は遅刻しているに違いないと云う片久那制作部長の判断からでありました。
 この電話は均目さんの後に今度は袁満さんに回されて、余儀ない理由で全体会議に出席出来ない事を片久那制作部長は律義に詫びるのでありました。病気を押してでも大事な全体会議に出て来いとは、気の優しい袁満さんは到底云えないものだから、その件は心配しないでどうかお体をお大事にと見舞いの一言を吐いた後に電話を切るのでありました。
 受話器を置いた袁満さんが制作部のスペースに、少し慌てふためいた風情で遣って来るのでありました。袁満さんがこの気儘な行動を為すに土師尾常務を全く恐懼していないのは、云う迄もなく片久那制作部長の電話の前に、例に依って上野の得意先に直行するから会社に出るのは昼近くになると云う電話が彼の人から既にあったが故でありました。
「片久那制作部長が病気で会社に出て来ないとなると、今日予定していた全体会議は土師尾常務一人と遣り合う事になる訳かなあ」
 袁満さんは陰鬱そうな面持ちで均目さんに云うのでありました。
「まあ、そうなりますかねえ」
 均目さんも戸惑ったような目をするのでありました。
 その場に日比課長も姿を見せるのでありました。
「片久那制作部長が来ないのなら、全体会議をやっても無意味なんじゃないの」
 別に組合と云う括りではなく全従業員参加の会議であるから、そんな事を云いながら同じく憂い顔をする日比課長をこの席から排除する理由は何も無いのでありました。
「それはそうなんだけど、・・・」
 均目さんが顎を撫でながら考え込むような風をするのでありました。
「土師尾常務相手にちゃんとした会議なんか、多分出来る筈がないよなあ」
 袁満さんは溜息を吐くのでありました。「屹度会議とか云うものから程遠くなって、何時ものあの人の自分勝手な繰り言やお説教の独壇場になりそうだ」
「でも片久那制作部長が居ないから逆に一対七になって怖じ気付いて、無難に遣り過ごそうと云う魂胆から、静穏な話し振りになるかも知れないじゃないですか」
「それでも結局、実の無い会議になるのは間違いない」
(続)
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あなたのとりこ 369 [あなたのとりこ 13 創作]

 袁満さんは均目さんの言はさて置いて、眉根を寄せて首を横に振るのでありました。
 そこに、例に依って別に悪びれた風も無く、二十分遅刻の那間裕子女史が姿を見せるのでありました。那間裕子女史は朝っぱらから袁満さんと日比課長が揃って制作部スペースに来て、二人で同じような渋い顔をしているのを当然訝るのでありました。
「何、どうかしたの?」
「片久那制作部長から、風邪で今日は休むと云う電話が今し方入ったんですよ」
 頑治さんが説明するのでありました。頑治さんはその日は池袋の宇留斉製本所に朝一番で向かう予定でありましたが、何となく出そびれて未だ居残っていたのでありました。
「へえ、片久那さんはお休みなの、今日は」
 那間裕子女史が云うのでありましたが、それは驚きの口調ではあるものの、聞きように依っては少し弾んだような云い草と云えなくもないものでありました。一向に反省の様子も無く例に依ってその日も遅刻した決まり悪さに対して、片久那制作部長の軽蔑交じりの叱責の視線を身に受けなくて良い事に、思わずホッとしたためでありましょうか。
「甲斐さんも出雲君もちょっとこっちに来てくれるかな」
 袁満さんが営業部スペースの方に声を掛けるのでありました。出雲さんはすぐに遣って来るのでありましたが、丁度かかってきた電話を取った甲斐計子女史は少し遅れるのでありました。甲斐計子女史を待つ間にこれはどうやらすぐに動けないだろうなと判断して、頑治さんは宇留斉製本所に一時間程遅れると云う電話を入れるのでありました。
「で、今日の全体会議はお流れとした方が良いかな」
 従業員全員が揃ったところで袁満さんが一同を見渡しながら訊くのでありました。
「そうね。土師尾営業部長と形式的に会議をやっても意味が無いからなあ」
 日比課長が先程と同じ事を繰り返すのでありました。
「誰かが何か云うと、つまらないところにすぐに引っ掛かってきて喧嘩腰になって、肝心の、会社の将来の見取り図とかの話しは間違いなく脇に置かれて仕舞うでしょうね」
 甲斐計子女史も流会に賛成のようでありました。
「第一あの人の頭の中には、将来の見取り図なんか何も描かれていないでしょうし」
 この侮るような物腰に依れば那間裕子女史もお流れ派の模様であります。
「でも、片久那制作部長が出席しないからって、それを理由につれなくお流れにすると、如何にも土師尾常務を軽く見ているような感じで、臍を曲げて仕舞いませんかね」
 均目さんが容易に予想出来る当然の懸念を表するのでありました。
「まあ実際、誰も重く見てなんかいないっスけど」
 出雲さんが冗談口調ながら、全く以って本当の事を云うのでありました。
「確かに会議にも何にもならないで、刺々しいあの人と従業員の対立構図だけが結局際立つだけで、後味悪く散会する事になるのは目に見えているかな」
 均目さんはげんなり顔をして、今度は悲観的観測を表して先の懸念を引っ込めるのでありました。つまり均目さんもお流れ派に入会したと云う事になりますか。
「でもこっちから会議を催促した手前、そんな無造作にお流れにして良いのかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 370 [あなたのとりこ 13 創作]

 当初からお流れ派の筈の袁満さんが、ここでなかなかきっぱりしない素振りを見せるのでありました。まあ、信義に於いて正当な意見と云うべきではありますが。
「事実とか方針だけ聞き質すと云うスタンスで、出来る限り内容の具体的な議論を避ける、と云う態度で臨むかな。どうせ土師尾常務相手では話しを掘り下げようとしても実のある議論にならないだろうから。そんな風に会議の意味が薄くなるのを承知で、円満に短時間で切り上げる事のみ念頭に置けば、一応会議を要請したこちらの顔も立ちはするか」
 均目さんが一種の打開策を披露するのでありました。
「そう云う事なら、態々会議をする意味なんか無いじゃない」
 那間裕子女史が舌打ちするのでありました。
「そりゃそうだけど、土師尾常務との余計な軋轢回避のみを考慮して、ま、会議を予定通り開くは開くとしても、あんまり意気込まないで、チャッチャとやっつけ仕事的に片付けると云う、弱腰の方策と云う意味でね、まあ、そう云う方法も、・・・」
 均目さんは歯切れ悪く語尾を収めるのでありました。
「下らない」
 この那間裕子女史の言は、別に前に会社に居た刃葉さんの口真似と云う心算ではないのだろうなあと、頑治さんはここでは何の関係も無い事を、ふと考えるのでありました。
「そんなんだったら、矢張り会議はお流れにした方がマシじゃない」
 甲斐計子女史も何となく鮸膠も無いのでありました。
「でも、アンタじゃ話しにならないからお流れにしたって云う、如何にもぞんざいに扱っているところは露骨にあの人にも伝わるだろうし、そうなるとまた臍を曲げて色んな陰湿な報復をしてくるかも知れないし。お流れにしたその後が何だか怖い気もするなあ」
 袁満さんが女性二人の強気に弱々しく抗うのでありました。
「まあ、怖いと云うよりも、面倒臭いと云った方が良いっスかねえ」
 出雲さんもお流れ派弱気連合に加担のようであります。
「何と云ってもこちらから云い出した会議なんだから、時間の無駄を承知で一応ちゃんと開いてチャッチャと終わらせれば、何はともあれ無難に片が付くんじゃないかなあ」
 均目さんも弱気連合に入会であります。
「唐目君はどう思う?」
 那間裕子女史が頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「俺も信義上の弱みを作らないと云う意味で、均目君のチャッチャに賛成ですかねえ」
 これで強気連合二人対弱気連合四人と云う勘定であります。
「確かにつまらない時間潰しで不本意ではあるけど、その方が後々穏やかかもね」
 甲斐計子女史が弱気連合側に擦り寄るのでありました。これで一対五であります。依って会議は鬱陶しくはあるけれど予定通り開催と決まるのでありました。

 昼休みが終わる頃に土師尾常務が会社に出て来るのでありました。袁満さんがすぐに片久那制作部長が本日風邪で休みである事を土師尾常務に告げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 371 [あなたのとりこ 13 創作]

 土師尾営業部長は眉根を寄せるのでありました。袁満さんに依ればその目にはたじろいだような色が浮かんだと云う事であります。例に依って会議の件は片久那制作部長にすっかりお任せの心算でいたのでありましょうから、その怯みも宜なる哉でありますか。
 これも後に聞いた袁満さんの言に依るのでありますが、土師尾常務はすぐに片久那制作部長の家に電話を入れたのでありました。勿論片久那制作部長に全体会議の件で指示を仰ごうとしての事でありました。しかし電話の様子では、発熱のために不機嫌になっているであろう片久那制作部長に、自分の器量で適当に切り抜けろとか返されてけんもほろろにあしらわれたようで、困じた顔をして受話器を架台に戻したのでありました。
 こうなるとどうして良いものやらさっぱり見当も付かず、暫し自分の机で椅子の背凭れに身を預けて腕組みして考えを回らせていたのでありましたが、ふと何やら方策を思い付いたのか事務所を出て行ったのでありました。自分ではどうにもこうにも手に負えないから、ここは屹度社長に応援を依頼しに行ったのでありましょう。
 この袁満さんの推察は見事に御明算と云う事で、夕方五時を回った頃に珍しく社長が事務所に上がって来るのでありました。
「これから全体会議と云う事のようだから、僕も参加するから」
 社長は入り口を入って最初に顔を見合わせた袁満さんにそう告げるのでありました。そんな事は聞いていないと不審そうな表情の袁満さんと社長の間に割って入るように、土師尾常務が社長を迎えるためにそそくさと小走りして来るのでありました。
「どうも急なお話しで申し訳ありません」
 土師尾常務は袁満さんに背を向けて社長に二度程お辞儀するのでありました。「本来は社長にご出席いただく程の会議ではないのですが、片久那の方が風邪のため急に会社を休んだもので、私一人だと色々行き届かないところもあるかも知れませんから、お忙しいとは思いましたが社長にもご出席をお願いした次第です」
 土師尾常務はとっくに社長とはそう云う経緯も何も話しが付いている筈であろうに、袁満さんに聞かせるためなのか態々その辺りをなぞって見せるのでありました。
「いや何、会社の会議には無精がらずにら、僕も出来るだけ参加する心算でいたから」
 社長は土師尾常務の顔の前で掌を横にひらひらと振って見せるのでありました。
「慎に恐縮です」
 土師尾常務はまたもや二度ぺこぺこと社長に向かって頭を下げるのでありました。
「僕が出席しても、組合の方でも勿論大丈夫だよね?」
 社長が土師尾常務の肩越しに袁満さんに視線を投げるのでありました。
「ええまあ、それはもう、・・・」
 そう断りを入れられて袁満さんは少ししどろもどろになったのでありました。「別に労働問題の会議とかじゃないし、組合とは無関係な会議ですから」
 咄嗟にそう応えはしたものの、一方で袁満さんは社長の全体会議への出席をうっかり独断で受け入れた事に、これは自分の勇み足ではないかと云う悔いを、事後ながら感じたようでありました。まあしかし、状況からこれは仕方無いでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 372 [あなたのとりこ 13 創作]

「もう全員揃っているのなら、未だ終業時間前だけど、ぼちぼち始めるとしましょう。別にそれでも仕事上の不都合は無いよね?」
 社長は土師尾常務に聞くのでありました。
「未だ日比君が帰って来ていませんが」
 土師尾常務がそう云い終らない内に、当の日比課長が扉を押し開いて事務所の中に入って来るのでありました。日比課長は社長の姿をすぐに認めて、別に特段後ろめたい訳ではないけれどそこに社長が居る事が意外だったせいか、少し臆したような表情をするのでありました。日比課長は全体会議が夕方ある事は既に知っているのでありました。
「これで全員揃ったかな」
 社長にそう訊かれた土師尾常務が日比課長、袁満さん、それに出雲さんを無表情で順に見るのでありました。それから返事まで未だ少し間を取るのは、甲斐計子女史も勘定に入れてして、制作部の二人もちゃんと居る筈だと頭で確認する作業なのでありましょう。
「唐目君は下の倉庫に居るのかな?」
 土師尾常務は袁満さんに確認するのでありました。
「ええ、発送荷物の未だ梱包作業中ですが」
 袁満さんはそう応えてすぐに自分の机上に置いてある電話の受話器を取り上げて、内線で倉庫を呼び出すのでありありました。
 呼び出し音が鳴ると頑治さんは受話器を取り上げる前に、会議が始まるからすぐに上がってこいと云う指示だろうと推察するのでありました。
「仕事は片付いたかな?」
 袁満さんが受話器の向こうから訊くのでありました。
「まあ、概ね梱包は片付きましたけど」
「少し早いけど会議を始めるから事務所に上がって来てくれるかな」
「ああそうですか。判りました。それじゃあ発送伝票を書いて運送会社に引き取り依頼の電話をしてから、すぐに上に行きます」
 頑治さんは受話器を置くと残務を手早く終わらせて、荷物を駐車場脇に出して、何時ものように自分が不在でも遣って来たトラックの集荷が滞りなく行われるように、荷物の結束バンドに運送会社の発送伝票を挟んで按配してから扉に鍵を掛けるのでありました。

 頑治さんが事務所に上がっていくと、前の団体交渉の時のように社長と土師尾常務、それに社員全員が応接スペースに集っているのでありました。二つ並んだ一人掛けソファーに社長と土師尾常務が座り、対面の三人掛けのソファーに袁満さんを挟んで左奥に日比課長、右手前に那間裕子女史が座り、均目さんと出雲さん、それに甲斐計子女史が自分の机の事務椅子をソファー傍に持ってきてそこに座っているのでありました。
 年季からすれば那間裕子女史の席には甲斐計子女史が座るのが順当ではありますが、甲斐計子女史は土師尾常務と面と向かうのはまっぴら御免と遠慮したのでありましょう。頑治さんも制作部スペースから自分の椅子を持ってきてその輪に加わるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 373 [あなたのとりこ 13 創作]

「じゃあ会議を始めたいと思いますが、主な議題は、営業部の改変がどのような会社のこれから先の見取り図によって行われたのか、その辺を伺いたいと云うものです」
 袁満さんが誰に云われるでもなく議事進行役を担うのでありました。何となく前の春闘時の団体交渉時の空気と同じ色合いを頑治さんは感じるのでありました。社員側から提案した会議であるから、まあ尤もとは云えるのでありましょうが、何となく労働組合と経営側と云う対立図式がその儘ここにも持ち込まれて仕舞うような気配でありますか。
「会社の経営方針に関わる事は別に君達社員全員と相談して決める事ではなくて、経営者の専権事項なんだから、それに君達が一々口出しする権利は無いんじゃないかな」
 冒頭から早速、土師尾常務が例に依ってこの会議を台無しにするような言挙げを行うのでありました。この会議を提案されたこと自体が不本意なのでありましょう。
「経営の決めた事には、従業員は何の意見も差し挟まずに、ただ只管云われた通りその命に従順に従っていればそれで良い、と云う事ですか?」
 袁満さんの眉間と声音にすぐに険しさが宿るのでありました。
「ただ只管と云うんじゃないが、不謹慎な差し出がましさは慎めと云っているんだ」
「別に僭越な事をしようと云うんじゃなくて、仕事をするに当たっての納得を得たいと云う事ですよ。そうじゃなければ意欲も何も持てないじゃないですか」
「高度な経営判断なんだから、黙って云われた通りにすれば良いんだよ」
 この土師尾常務の言に、袁満さんだけではなく、甲斐計子女史と均目さんと、それに社長を除いた辺りから思わず失笑が漏れるのでありました。選りに選って土師尾常務の口から、その為人に全くそぐわない、高度な経営判断、なんと云う何とも大袈裟で聞いた風な言葉が出るとは誰も予期していなかったのだから、意表を突かれた皆が反射的反応として失笑したと云う事でありますか。出雲さんと頑治さんが辛うじて笑うのを堪えたのは、比較的年季の浅い社員としての土師尾常務への遠慮と礼儀と弁えからでありました。
「何が可笑しいんだ、袁満君?」
 自分の言葉に大方がうっかり失笑を洩らした事態に早速昂奮した土師尾常務は、右総代で袁満さんを選んで名指しするのでありました。
「いや別に何も」
 袁満さんは態と口の端に冷笑を含んで、土師尾常務から目を逸らして見せるのでありました。これがまた土師尾常務の逆上を招くだろう事は判っていながら。
「まあまあ、そんなにお互いに喧嘩腰にならないで」
 土師尾常務が言葉を発する寸前に社長が両掌を斜め下前方に差し向けて、それを上下にゆっくり小さく上下させながら如何にも大人風に云うのでありました。「土師尾君もそんな愛想の無い事をのっけから云い出したら、話しが何も進まないじゃないかな」
 社長に制された土師尾常務は恨めしそうな横目で社長をチラと窺うと、不承々々ながら嘴を閉じるのでありました。土師尾常務の感情だけに支配された迷走を、ここに居ない片久那制作部長に成り代わって社長が制御する役を担う心算なのでありましょうか。袁満さんもここは社長の顔を立てて、しおらしく口の端の笑いを消し去るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 374 [あなたのとりこ 13 創作]

「ところでどう云う感触なんだろうかな、新しい営業の仕事は?」
 社長が出雲さんに目を向けるのでありました。
「はあ、未だ何とも。・・・」
 出雲さんはそう訊かれて下を向いて云い淀むのでありました。
「何かしらの成果みたいなものは未だ出ていないのかな?」
「そうですねえ。・・・」
 顔を上た出雲さんは申し訳無さそうに愛想笑うのでありました。
「当初こちらが考えていた一日の訪問件数より実数がかなり少ないようだけど?」
 土師尾常務がここで口出しするのでありました。
「まあ、朝に遠方まで出掛けて日帰りでこちらに戻って来る訳ですから、そんなには回れませんよ。おまけに車を使える訳でもないですし」
 出雲さんは土師尾常務の方に顔を向けず、社長を見ながら応えるのでありました。
「北関東とか静岡県や山梨県なんかの街を回る訳なんだから、向こうに一泊とかして営業する方が都合も効率も良いんじゃないの?」
 社長がこう云うのは至極尤もだと頑治さんは聞きながら思うのでありました。
「そうしたいのは山々ですが、宿泊代も出張旅費も出ませんから」
「出雲君の営業はあくまで、出張営業と云うものではありませんから」
 土師尾常務が横に並んで座っている社長に説明するのでありました。「遠距離の通常の特注営業と云う事になります。だから日帰りが原則になります」
「遠距離なんだから、向こうに到着するのも遅いし、帰りも時間を考えて早切り上げにもなるんだから、少しは融通を利かせないと如何にも効率が悪いんじゃないですかな」
 社長も顔を横に向けて土師尾常務に云うのでありました。この社長の言に対して、土師尾常務が些かの戸惑いと迷惑そうな色をちらと見せるのでありました。
「しかし、出張の経費の絡みとか様々、そこはありますから、・・・」
 土師尾常務はやや上目遣いで眼鏡越しに社長を見据えるのでありました。この土師尾常務の眼容てえものは、今更そんな質問をされても困るではないかと云う訴えのようでありました。土師尾常務にすればまさかの社長の言であったのでありましょう。
 つまり穿った見方ながら、土師尾常務の目論見としては出雲さんに無理難題を押し付けて、出雲さんが嫌気を起こして自ら会社を辞めるように仕向けると云う裏の魂胆が元々あったのでありました。それは既に社長にも秘密裏に方針として共有して貰っていた筈なのに、まさかこの場に及んで忘却した訳でもあるまいし、そんなぞんざいに、出雲さんに同情的な云い草を急にしれっとされるのは何とも心外であると云う事でありましょう。
 土師尾常務としては、これは社長の全く以ってうっかり至極な発言だと、そう捉えてそれを詰る気持ちを暗黙に眼容に込めたものと頑治さんは斟酌するのでありました。しかし見ように依っては、そう云った裏の秘めておくべき企みを思わず目に表わして仕舞う土師尾常務の方が、頑治さんには余程迂闊者のように映るのでありました。それに、そんな土師尾常務の心根を社長がすぐに察したかどうかも判らないのではありますけれど。
(続)
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あなたのとりこ 375 [あなたのとりこ 13 創作]

「経費がかかろうがかかるまいが、仕事の効率を考えるならば、目先の経費削減よりも出張扱いの方が良いんじゃないですかね。僕はそう思いますがねえ」
 こう返す辺り、どうやら社長は別に察してはいないようであります。
「要するに出張にかかる経費を極力ゼロに近づけようと云う事ですよね」
 日比課長が口を開くのでありました。この日比課長の言を一種の助け舟と取るかそれとも自分への批判と取るか土師尾常務は俄には判断出来ないようで、不愉快極まりないと云った顔は一応その儘保持しながら、一つ頷いてもみるのでありました。
「何でもかんでも節約すれば良いと云うものじゃなくて、それが非効率になるようなら、出すところは出すことも必要でしょうよ」
 なかなかに気前の良い社長の言葉ではありますが、これは社員に対してさももの分かりが好い経営者だと云う格好を演じて見せているだけで、先の甲斐計子女史への仕打ち等からすると、額面通りに受け取らない方が賢明と云うものでありましょうか。

 社長の言葉の後にほんの少しの間、この会議の出席者の誰もが何故か話しの接ぎ穂を失って押し黙るのでありました。とは云っても長く沈黙すると云う訳ではなくて、ほんの一二秒、まあ、居心地の悪い間が空いたと云った感じでありましたか。
「山尾君が急に抜けたものだから、なかなか出雲君の仕事を見てやる事も出来ないでいるけど、実際どんな按配なんだい新しい仕事の方は?」
 不自然に空いた間に耐えかねたのか日比課長が出雲さんに問うのでありました。
「そうですねえ、・・・」
 出雲さんは先程の社長と同じ質問をまた繰り返す日比課長に、少し戸惑うように小首を傾げるのでありました。日比課長としても、この質問は重苦しい沈黙を破る事が主な目的で、質問の中身そのものは然して意味のあるものではなかったのでありましょう。
「何処か一社くらいはじっくり話を聞いてくれたところはなかったのかな?」
「殆どは関心も示されずに玄関払いと云う感じですが、小田原の広告会社だったか、妙に愛想良く応接間に通された事がありました。そこで少し話しを聞いてくれましたよ」
「ほう、それはどんな感触だったのかね?」
 社長が興味を示すのでありました。
「ウチの商品カタログを見せて、それから色々訊かれたんですけど、企業の販促品にと交通案内図とか全国旅行ガイド、出張営業で売っている絵地図を利用したカレンダー、それにペーパークラフトの十二面体カレンダーなんかに興味を惹かれたようでした」
「でも結局、商談としては具体的にならなかったのかな?」
「そうですね。まあ、その後に何の連絡も入りませんから」
「ああ、確か全国の交通案内図カレンダーとか関東の絵地図カレンダーとか十二面体カレンダーとかの、千部と五千部と一万部作製の見積もりを片久那制作部長に云われて出した事があったけど、あれは出雲君の仕事に必要な数字だったのかな、そうすると?」
 均目さんが思い当るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 376 [あなたのとりこ 13 創作]

「ああ、多分そうですね。その数字で先方に見積書を送りましたから」
 出雲さんは何度か頷くのでありました。
「先方に商品説明はちゃんとしたんだろうね?」
 土師尾常務が出雲さんに聞くのでありました。恐らく土師尾常務の狙いとしては、出雲さんに無理を課して窮地に追い詰める魂胆だったのでありましょうが、どうした按配か出雲さんの仕事に乗って来た会社があると聞いて、ひょっとしたら、等と少しここで当初の目論見をうっかり失念して、妙な色気なんぞを出してみたのでありましょうか。
「いやあ、カタログに載っている商品で、今迄の出張営業で扱っていた物はなんとか商品説明みたいな事は喋れたんですが、特注営業の方に限られた商品に関しては、自分の知識不足もあって、いろんな点であんまり捗々しくは説明出来ませんでしたねえ」
「その、説明出来なかった点、と云うのは?」
 日比課長が出雲さんの顔を覗き込むようにして訊くのでありました。
「今迄の評判とか、出荷実績とか、それに商品そのものの特性とか、まあ、色々・・・」
「向こうに訊かれて、口籠もったと云う感じかな?」
「まあ、そうですね、」
 出雲さんは申し訳なさそうに笑んで見せるのでありました。
「そう云う事を予めちゃんと日比君に聞いたりして、勉強していかなかったのか?」
 予想通り盆暗な営業をして仕舞ったんだなと云う非難が、土師尾常務のこの言葉に籠るのでありました。竟、妙な色気なんぞ出して損した、と云うところでありましょうか。
 出雲さんは恐懼の態で俯くのみでありました。出雲さんとしてはそう云われれば、幾ら気乗りのしない仕事ではあるとしても、自分の新たに割り振られた仕事に対する不勉強と無関心と怠慢に関して、弁解する余地も無いと云ったところでありましょうか。
 しかし出雲さんが全く経験した事の無い特注営業の仕事でありますから、そう云う迂闊がある事こそ予め想像出来ると云うもので、そこを前以て入念にフォローするのは、直接の上司たる日比課長ばかりではなく、そんな営業形態を出任せにでも考え出して出雲さんに割り振った、当の土師尾常務の務めでもあったであろうと頑治さんは思うのでありました。ここで非難されるべきは寧ろ土師尾常務のものぐさではないでありましょうか。
「先方に何を質問されてもあたふたしないための、自分のこれからやる仕事に対する基本的な勉強すらないがしろにして、それで無邪気にのほほんと、日比君や僕の目に映る姿だけを繕うようにしながら今迄営業に出ていたと云う事か、出雲君は?」
 土師尾常務が出雲さんを追い詰めようとするのでありました。
「そんな云い方はないでしょう」
 袁満さんが声を尖らすのでありました。「出雲君は今迄やった事の無い全く初めての営業を、当初の計画にあった日比さんと二人で、と云う条件も叶えられないで、まるで放り出されるようにいきなり担当させられているんですから、後でそんな取って付けたような詰り方をするのは間尺に合わない酷い遣り口と云うものですよ。それを云うならば常務の無指導振りとか冷淡とか、フォローの無さ加減は何も問題にならないのですかね」
(続)
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あなたのとりこ 377 [あなたのとりこ 13 創作]

 全くの正論でありますか。しかしこれが後に出雲さんを思わぬ窮地に陥れる一言になるとは、袁満さんにはこの時点で考えだにしない事なのでありました。
「私は別に特注営業に関して全く指導をしようとしない訳じゃないし、出雲君の新しい仕事に関して冷淡と云う訳でもない。そんな事は当たり前じゃないか」
 土師尾常務は袁満さんに敵意剥き出しの視線を向けるのでありました。「ただ、その役目は、先ずは日比君の役目と云う事になるから、控えていただけだ」
「出雲君の直接の上司は日比課長だから、日比課長に任せていると云う訳ですね」
 均目さんがここで徐に顔を上げて、土師尾常務に向かって今の言をもう一度聞き質すような言葉を発するのでありました。
「それが筋だからね」
 土師尾常務は憮然とした顔をしで腕組みをするのでありました。
「山尾主任が会社を辞めたから、日比課長はその後始末やら何やらで、今に至るまで新しい地方特注営業と云う仕事に就けないでいるんですよね」
 均目さんは土師尾常務の顔に視線を留めた儘クールな語調で聞くのでありました。
「まあ、忙しくて全く手も足も出ない、と云う訳ではないけどね」
 ここで日比課長が横からそんな事を喋り出すのでありました。
 土師尾常務に釘付けていた視線を均目さんは反射的に日比課長の方へちらと動かして、すぐにまた土師尾常務の顔へ戻すのでありました。無表情ではあるものの日比課長に対して、貴方に訊いているのではないからつまらない口出しは控えてくれ、と些か迷惑に思ったような色が均目さんの頬骨の辺りにほんのり浮かぶのでありました。
「日比課長がなかなか出雲君をフォロー出来ないのなら、常務がその仕事を肩代わりしても別に構わないじゃないですか。そんな大会社じゃあるまいし、常務として多くの社員の仕事に目を光らせている訳でもないんだから、杓子定規に、筋だから、とか云って呑気にしていないで、日比課長の手が回らないようなら自ら手伝っても良いでしょうよ」
 均目さ日比課長の言を一先ず無視してそう続けるのでありました。しかしそう続けてみるものの、日比課長の余計な科白が混入したせいで、計量していた自分の言葉の鋭さとその迫真力がぼんやり半減して仕舞った結果には、大いにがっかりと云ったところでありましょうか。不謹慎ながら頑治さんは心中で少しの微笑ましさを覚えるのでありました。
「何だ、均目君は僕が仕事をサボっているとでも云いたいのか!」
 それでも土師尾常務の怒気を誘い出すには充分の迫真力だったようであります。
「営業部全体の効率の問題を云っているんですよ」
 均目さんは内心の秘かながっかりを励ましてたじろがずに抗弁するのでありました。
「そんな事は態々均目君に云われる迄もなく、僕も常日頃から考えているよ」
 土師尾常務の眼鏡の奥の目が相当の剣幕で吊り上がるのでありました。
「常日頃から考えているけど、実行は億劫でなかなかしないと云う訳だ」
 日比課長の邪魔な一言が秘かに内心では結構応えたためか、日頃に無く均目さんの語調が険しさとぞんざいさを増すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 378 [あなたのとりこ 13 創作]

「何だその云い草は!」
 土師尾常務はいきり立つのでありました。
「云い草の問題にすり替えないでくださいよ」
 均目さんは相手にしないような素振りで返すのでありました。しかし目は土師尾常務の目に据えた儘で全く微動もさせないのでありました。土師尾常務の一種の演技として逆上して見せる様子には、何らたじろがないところを確と表明するためでありましょう。
「均目君、そんなに喧嘩腰にならないでも良いだろう」
 社長が取り成そうとするのでありました
「こちらは終始冷静で、思った事を淡々と喋っているだけで興奮なんかしていませんよ。寧ろ土師尾常務の方が急にエキサイトしたんじゃないですか。まあ、そうして見せると俺が怯んで、口を噤むとでも考えて態とそうして見せているのかも知れませんけど」
 均目さんは至って静かな語調で、冷笑なんかも浮かべもしない無表情で、及び腰にも喧嘩腰にもならないところを見せるのでありました。
 胆力と云うところでは、土師尾常務よりは均目さんの方が上手でありましょうか。若しくは均目さんが然程の豪胆者でないとしても、土師尾常務が自分よりは小心者である事を、これ迄の観察から読み切っているのでありましょう。
 土師尾常務なんと云う御仁は、先ずは方法的に怒って見せて、それで予想に反して相手が全然怯まないとなると、元々次の一手が用意されていないものだから、今度は自分の方が逆にオロオロして仕舞うと云うところがあるのでありました。自分の怒り顔が絶大なる迫力を有しているとでも、お目出度く勘違いしているのでありましょうか。
 頑治さんすらそれを読んでいるのでありますから、況や頑治さんより付き合いの長い均目さんは勿論疾うに承知、と云うところであります。どだい髭の薄そうなツルっとしたその童顔やら、自信たっぷりな物腰でいながら、そういう時に限って何時も自信無さそうに微動する眼鏡の奥の目やら、華奢と云う方が当たっているような、威圧感とか迫力とかのまるで感じられない体躯とか、何かと一目置かれる要素が不足している人であります。
 この時も均目さんにじっと目を合わせられているのが相当に苦痛らしく、気後れのために眼球が微動しているのが頑治さんにも良く判るのでありました。しかし典型的な意気地無しである一方でプライドが高くて執念深い仁でもありますから、この屈辱を晴らすために後々均目さんに対する陰湿な報復を屹度秘かに決意しているのでありましょう。

 土師尾常務は仕切り直しの心算か咳払いを一つして背凭れに身を引いて、均目さんとのにらめっこから遁走する気配を見せるのでありました。
「それなら近い内に、僕が出雲君と一緒に営業に回ってみよう」
 これが土師尾常務の出雲さんへの指導の具体的方策のようでありました。そこで特注営業のノウハウを直接伝授してやろうと云う事でありましょうか。まあ、自ら出雲さんをフォローしようと云う所存は評価に値すると云うものでありますが、しかしこの降って湧いたような土師尾常務の提案には、出雲さんが露骨に嫌な顔をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 379 [あなたのとりこ 13 創作]

 出雲さんとしては一日中土師尾営業部長と行動を共にすると云うのも息が詰まると云うのに、お辞儀の仕方とか愛想笑いの方法とかで聞いた風な指導をされたり、ひょっとしたら一緒に昼食を摂っている時に、箸の上げ下ろしに迄も一々なっていないと小言を言われたりするのは、実に以ってまっぴらご免蒙りたいと云った心境でありましょう。しかしながら出雲さんの困厄は内心察しながらも、袁満さんも均目さんも出雲さんへの援助の無さを詰った手前、この土師尾常務の提案に異を唱える訳にはいかないのでありました。
「それが良いでしょうねえ」
 社長が発言するのでありました。「土師尾君が一緒に付いて行って色々指導するなら、出雲君も特注営業の遣り方をしっかり学べると云うものだ」
 出雲さんの心根を慮れば、そんな好都合な話しではなかろうと頑治さんは思うのでありました。袁満さんも均目さんも口には出せないけれど同様の思いでありましょう。
「今週は都合がつかないから、後でスケジュールを調整して、来週の適当な日に僕が出雲君と一緒に営業に回る事にする。出雲君の仕事振りも見る事が出来るから丁度良い」
 土師尾常務は背広の内ポケットから手帳を取り出して、そこに書き込んであるのであろう自分の仕事予定を確認するような真似をして見せるのでありました。その様子を見る出雲さんの頬の辺りには怨嗟の色が波打っているのでありました。
「よろしく指導してやってくださいよ」
 社長は横の土師尾常務に口添えの心算かそう云うのでありました。
「判りかました」
 土師尾常務は社長に対して一つ頷いてから、手帳を閉じてそれを背広の内ポケットに仕舞うのでありました。この場で日取りを決める気が無いのなら、手帳を取り出してそれを尤もらしく繰って見せるのは無意味な行為と云うものでありましょう。
「ところで折角の機会だから、袁満君の仕事の具合も聞いて置こうか」
 土師尾常務は背凭れからゆっくり身を起こして、今度は袁満さんの方に顔を向けるのでありました。「今年になって一度も出張には出ていないけど、どんな感触かな?」
 袁満さんは土師尾常務の、兎にも角にも人を詰る事を目的とした質問の矛先が自分に向いたと思ったようで 言質を取られるようなうっかりした事は云えないと身構えて、不自然にならない程度の間、口籠もって即答をしないのでありました。
「出張に行かないで済むのは、体は楽ですね」
 これは察するに、これから縷々仕事の様子を説明する前の、一種の、まくら、みたいな心算の言葉と云ったところであったかもしれません。しかしそうであったとしても、洒落や冗談の通じる相手かどうかの判断にミスがあったと云うべきでありますか、
 案の定、土師尾常務の鼻の上の黒縁眼鏡が微動して、その上縁の辺りにあった眉根がピリッと寄せられるのでありました。
「袁満君は、楽な仕事になって良かったと、今そう云ったのか?」
「いや、そんな訳ではありませんけど」
 袁満さんは首を横に振りながら狼狽えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 380 [あなたのとりこ 13 創作]

「でも今確かにそう云ったじゃないか」
「いやまあ、それは話しを始めるに当たってのちょっとした冗談ですよ」
 袁満さんはしどろもどろに取り繕うのでありました。
「そんな冗談や前置きは必要ない」
 土師尾常務は不愉快そうに吐き捨てるのでありました。「売り上げが出張に行っていた時と行かなくなってからとでは、どのくらい変化があったのか、それを云えば良い」
 そう窘められて袁満さんはすっかりしらけたと云う顔をするのでありました。
「俺が担当していた北関東の各県とか甲信方面とか、それに中部や関西地方の観光地に関しては、これ迄の付き合いとかあるから、今のところ電話対応でもそんなに極端な注文の落ち込みはありません。電話営業だけではなくその内顔を見せろとかは云われるけど、まあそれでも概ね顔を出していた時と同じ程度取引を継続してくれますよ」
「じゃあ、成績は出張していた時と殆ど変わらないと思って良い訳だね」
「いや勿論、営業に来ないのなら取引は終了すると云われるところもあります。でもそう云うところは比較的新しい得意先とか、元々小規模の取引先でしたから」
「で、結局どうなんだ、成績としては?」
 土師尾常務にそう訊かれて袁満さんは暫し瞑目して、頭の中で注文数の加減をあれこれ計算をする素振りをするのでありました。
「そうですねえ、ま、感触としては十五パーセントくらいの落ち込みと云うところでしょうかねえ。はっきり数字は出していませんが」
 袁満さんはここで声のトーンをグッと低くして、如何にも云いにくそうにものすのでありました。その云いにくそうな素振りから、実際の感触としてはその数字よりももう少し大きい落ち込みがあるのだろうと頑治さんは推察するのでありました。敢えて数字を小さく報告したのは、袁満さんの土師尾常務の剣幕に対する忌憚からでありますか。
「十五パーセントも落ち込んだなら、大変な落ち込みじゃないか!」
 袁満さんの土師尾常務の罵詈に対する備えも虚しく、彼の人は顔を歪めて露骨な顰め面をしてから、如何にも大問題だと云った感じで罵って見せるのでありました。袁満さんは小心そうにオドオドと土師尾常務から目を逸らして首を竦めるのでありました。
「まあ、ちゃんと集計してみなければ、正確なところは判りませんけど。・・・」
「と云うか、この今の段階で集計もしていないのか?」
 土師尾常務は畳みかけようとするのでありました。「会議をやろうと提案してきたのは組合の方じゃないか。それなのにその会議迄に売り上げの資料となる数字も弾いていないと云うのは、一体どういう了見なんだ袁満君は。ものぐさにも程があるだろう」
「今、提案したのは組合、とかおっしゃいましたけど、この会議は労働組合とか経営とか関係ない会社の全体会議の建前ですから、そう云うおっしゃり様はおかしいでしょう」
 均目さんが土師尾常務の文言に噛み付いて見せるのでありました。まあそう噛み付いては見せたものの、どうせ土師尾常務も社長も春闘での団体交渉の延長としてこの会議を認識しているのだろうと云うのは、均目さんも疾うに予想出来た事でありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 381 [あなたのとりこ 13 創作]

「そんな事を云って、問題をはぐらかさないでくれるか均目君」
 土師尾常務は均目さんを睨むのでありました。先程の経緯もあって、均目さんが自分の一睨みに対して思いの外腰が引けないだろと云う感触は、慎に忌々しい事ながら端から有してはいるような風情が、その睨む瞳の中に色として現れているのでありました。
「いやいや、会議の大前提として、常務の了見が抑々おかしいと云っているんです」
 均目さんは拘って見せるのでありました。勘繰れば、そこに拘って譲らない振りをしながら、袁満さんへの攻撃の矛先を少し鈍らせてやろうとの意図からかも知れません。
「大体この会議の議題と云うのは、どのような形態に社長や常務が会社をしていく心算なのかとか、会社の将来の見取り図と云うのか、展望を伺うと云う趣旨で我々従業員が提案したものですから、まるで敵味方みたいな感覚で個人攻撃に徒に時間を費やさないで、本来話し合うべき事を淡々と話す方が建設的なんじゃないですかねえ」
 那間裕子女史がこの場を丸く収めようとしてかそんな事を云うのでありました。
「しかし、こちらがそう云う話しをしようとしても、君達が好い加減な態度でこの会議の臨んでいるのなら、どんなに真剣に話しをしても無駄じゃないか」
 土師尾常務としてはあくまで袁満さんが先ず以って自分の怠慢を認めない限り、話しを先に進める意志は更々無いと云う事のようでありました。
「確かに具体的な数字を確認しながら一つ々々の事柄に付いて話をしないと、将来の展望を語れとか催促されても、実際どう話して良いものか困るねえ。適当なスローガンをでもぶっ放せばそれでいいと云うのなら、それは幾らでも並べる事は出来るけど、それじゃああんまり会議の意味は無いだろうしねえ。そうは思わないかい那間君?」
 社長が畳みかける心算か、口の端に苦笑を湛えて云うのでありました。「抽象的な、如何にも綺麗な事を云って取り繕おうとするのは止めた方が良い。要するに会議に臨む姿勢がなっていないところを、誤魔化そうとしての事なんだろうから」
「どこが抽象的な綺麗事よ。冗談じゃない」
 那間裕子女史がいきり立つのでありました。「要するに経営者として、始めから会社の将来の展望も見取り図も頭に無いものだから、筋違いなところを何でもかんでも論って、些末な個人攻撃で本題を取り敢えず誤魔化そうとしているんじゃないか、と云う風にしか見えないわ、今の土師尾常務の態度や社長の話し振りからは。それでこの会議を乗り切れると云う目論見なら、ナメてかかるのもいい加減にして欲しい、と云うものよ」
 何か挑発的な事を云われたと感じたら反射的に、見境もなくその相手に喧嘩腰で対抗しようとする傾向は、那間裕子女史も土師尾常務もそんなに違いは無いのかも知れないと頑治さんは秘かに思うのでありました。まあ、ご当人達の総合的キャラクターの違いとか、個人的な付き合いの濃淡や、こちらのシンパシーの度合から、そこに一種の愛嬌を感じ取るかそれとも単なる軽蔑を感じ取るかの違いは両者の間に明快にあるとしても。
「何を失礼な事を云うんだ!」
 打てば響くように(!)、土師尾常務が目を吊り上げるのでありました。「要するに那間君にはこちらの話しなんか、初めから聞く気が無いと云う事だな」
(続)
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あなたのとりこ 382 [あなたのとりこ 13 創作]

「誰がそんな事を云いました!」
 那間裕子女史の方もなかなかの反応であります。
「だってそう云う事じゃないか!」
「あくまでも実のある話しをしてくれるのなら傾聴はしますよ。でも些末な事の揚げ足取りばかりして、結局実が無いのを誤魔化しているようにしか見えないもの」
「未だこちらが何も喋ってもいないのに、実が無いなんてどうして判るんだ!」
「それじゃあ、聞きましょうか」
 那間裕子女史は口元に挑発的な微笑を浮かべるのでありました。「さあ、その実のある話とやらをさっさと喋ってくださいよ」
「何だその云い草は!」
「何だ、じゃないわよ!」
 こうなっては収拾も何も付かないと云うものであります。土師尾常務と那間裕子女史の剣幕に怖れをなして他の誰もが口を開かないのでありました。袁満さんはあらぬ方向に目を遣ってあからさまにオロオロと狼狽の身じろぎを見せるし、社長も均目さんも取り成しの言葉を挟むタイミングも掴めないで目を瞬かせながら茫然と、対峙する二人の顔に視線を、目が合ったらすぐに逸らす備えをしながら投げているのでありました。
「そう云えば前に何かの折に片久那制作部長が、大学時代の友人で静岡の新聞社に勤めていた人が今度独立して、広告代理店の会社を始めた、なんて云っていましたかねえ」
 緊張に今にも破裂しそうな場の空気にまるで馴染まないのんびりした声色で、頑治さんがゆっくりと話し始めるのでありました。頑治さんの喋り方の穏やかさも然る事ながら、この会議に欠席している片久那制作部長の名前が唐突にここに出てきたものだから、皆の注意が一気に頑治さんの口元に集中するのでありました。片久那、なる姓をここで出す事の効果を、頑治さんとしては勿論充分に予め計量しているのではありました。
 その名前に限りなく気後れを感じている土師尾常務の俄かにたじろぐ表情が、頑治さんの横目にチラと映るのでありました。那間裕子女史の狼狽も確認出来るのでありました。頑治さんは二人の嵩じた気持ちの萎縮を認めてから徐に後を続けるのでありました。
「その友人と片久那制作部長は長い間の昵懇の間柄だそうで、何時か出雲さんをその人に紹介しても良いと云うような話しをされていましたよ」
 ここで頑治さんは出雲さんの方に目線を固定するのでありました。「そう云う具体的で有力な伝を取り掛かりとして営業活動をする方が、取り敢えず現地に行って限られた時間の内に手当たり次第にそれらしい会社を訪問して回る、と云った茫漠とした営業の仕方よりは、様々な点で効率が良いし商売の目算も立つのではないでしょうかね。まあ、業務担当の僕が身の程知らずに口出しするべき事では無いかも知れませんけど」
「ほう、そう云う話しがあるのかね?」
 社長が先ず興味を示すのでありました。
「それは正に好都合と云うものだ。願っても無い魅力的な話しじゃないかな」
 日比課長がここで空かさず賛同して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 383 [あなたのとりこ 13 創作]

 この日比課長の間髪を入れない同調は社長に対するヨイショ狙いと、地方特注営業に対して大した意欲も定見も、端から持ち合わせていないであろう土師尾常務への遠回しの当て擦りの魂胆があると頑治さんは思うのでありました。まあしかし日比課長の魂胆はここでは取り敢えず脇に置いて、頑治さんは出雲さんに向かって続けるのでありました。
「烏滸がましいけど、自分の方から片久那制作部長に話しを振ってみましょうか?」
「ああ、そう云う事ならよろしく頼みます」
 出雲さんが藁をも掴むような表情で大いに乗り気を見せるのでありました。

 土師尾常務がここで咳払いするのでありました。それは、人を批判する事に総ての言を費やして会話を紛糾させ続ける自分を恥じて、これから先高次元の会議にするための心機一転の咳払い、と云う訳では勿論ないのでありました。はたしてと云うべきか、誰もの期待を裏切らない下らない下心からと云うべきか、どうやら頑治さんの発言以来、暫し自分が無視されている事を恨んでの、一種の自己主張のための咳払いのようでありました。
「今ここに居ない片久那制作部長の事は取り敢えず置いておいて、僕が出雲君と一緒に営業周りをする方が先じゃないかな、事の順序としては」
 どうしてそちらの方が先なのか云っている事がさっぱり判らないながら、それを指摘するとまた逆上して余計筋違いの雑言を撒き散らすに決まっているから、頑治さんは決して侮蔑的には見えない、寧ろ至極穏やかそうな笑みを浮かべて、土師尾常務に対してそれは正にご尤もである、と云った具合に何度か頷いて見せるのでありました。
「常務の親心は勿論多とすべきところではあります」
 頑治さんは畏れ入るように目を伏せるのでありました。「因みに例えば、出雲さんが回っている地方の街とかに、多方面に顔の広い常務の、昵懇にしているギフト会社とか、仕事関連の知り合いがいらっしゃる広告代理店とか、おありになりますかねえ?」
「いや、そっちの方面には特に、・・・」
 土師尾常務は首を小さく一度横に振って、歯切れ悪そうに云うのでありました。「多分業界の知り合いに声を掛ければ、何社かはピックアップ出来ると思うけど。・・・」
 だったらさっさとそれを実行して出雲さんの仕事を助けろよと、そう云いたいのは山々ながらそれをグッと堪えて、頑治さんは口元の無邪気そうな微笑と、彼の人に対する心服と謹慎さをそこはかとなく表するような顔付きの維持に努めるのでありました。
「それは好都合ですね。恐らくかなり有力な手掛かりになるでしょうからから、ご苦労をおかけしますけど、そちらの線に先ずは当たっていただけますでしょうか?」
「勿論それは、唐目君に云われる迄も無くやってみるけど」
「で、その有力な常務の伝が本格的に動き出す前に、小手調べと云うのも何ですけど、片久那制作部長の線を先ずは試してみると云うのはどんなものでしょうかねえ?」」
「まあ、僕の方を台無しにしないための小手調べなら、それも良いかも知れない」
「ああそうですか。今常務のお許しを得たようですから、僕がさっき話した片久那制作部長の線を先行して進めても、それは構わないですよね?」
(続)
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あなたのとりこ 384 [あなたのとりこ 13 創作]

「それは、まあ。・・・」
 土師尾常務は曖昧に、頷くような頷かないような仕草をするのでありました。
「じゃあ出雲さん、早速片久那制作部長に持ちかけてみますから同席してください」
 頑治さんは出雲さんの方に顔を向けるのでありました。
「ええ、お願いします」
 出雲さんは頑治さんに頭を下げるのでありました。頑治さんは微笑を返して頭を元の正面に戻す序に土師尾常務の顔をチラリと窺うと、仏頂面で眼鏡の奥の目を何度か瞬かせているのでありました。頑治さんの提案を許した事が後々自分の権威を貶める禍根とならないかとか、或いは益々頼りになる上司像に於いて片久那制作部長に差を付けられて仕舞わないかとか、恐らくそう云う辺りをあれこれ秘かに計量しているのでありましょう。
 何をどうしてしていいのやら今の今迄皆目見当がつかないと云った按配だったので、出雲さんは感謝に満ちた目で頑治さんを見ているのでありました。その視線を感じて頑治さんも、この自分も少しは役に立てるかしらと仄々と嬉しくなるのでありました。
 それにしても土師尾常務の当初の目論見では、出雲さんを崖際に追いつめて自ら眼下の海へ墜落させようとする心算だったのだとしたら、頑治さんは余計な差し出口をしたと云う事になるのでありましょう。それを恨みに思って後々色々と嫌がらせめいた事をされるのは、何とも厄介至極であると頑治さんはチラと考えるのでありました。
「袁満君の仕事に就いても、何か良い方策はないものかねえ」
 社長が頑治さんの顔を見ながら訊くのでありました。
「これはすぐに有効な方策と云う事ではないのですが、日本全国を幾つかに分割して、その分割された各地方に拠点を構築すると云う方法が常道だとは思います」
 頑治さんとしては、これはぼんやりと考えていた事で、具体策とかは未だ何も思い付いてはいないのでありました。「その拠点々々を袁満さんが差配する事にします」
「各地方に拠点、ねえ」
 社長がそう繰り返して首を傾げるのでありました。頑治さんの云っている事が何とも茫漠としていて、俄かには理解出来ないと云った表情でありましたか。
「要するに各地方々々に、前に袁満さんや出雲さんが出張営業でやっていたように、そのエリアの観光地やホテルや旅館、それにお土産屋さんなんかを細目に回る人員を配置して、その人を袁満さんがこの事務所に居て遠隔で統括すると云う事ですよ」
 これだけでは未だ茫漠具合が晴れなかろうと頑治さんは続けるのでありました。「その配置する人員と云うのは、勿論会社で新たに社員として雇用するのではなく、例えば各地のギフト関連や一種の卸業をやっている会社とか、或いは売り上げに応じて儲け分を支払うマージン取引契約を結んだ個人とかで、嘱託とか契約社員と云う身分で、担当地方を回って貰う訳です。まあ、そう云う会社や個人を見付けると云う手間はかかりますが」
「そう云うのは僕も前に考えた事もある」
 土師尾常務が口元に冷笑を浮かべて云うのでありました。「しかしなかなか、そんなウチに都合の好い人や会社なんか、今のこのご時世、おいそれと見つからないよ」
(続)
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あなたのとりこ 385 [あなたのとりこ 13 創作]

 頑治さんは抑々、前に考えた事もある、と云う土師尾常務の言を虚偽だと勘繰るのでありましたが、まあそれは兎も角、頑治さん如きが考える事くらい自分は疾うに考え付いていたと云う事を、つまり体裁上社長の前で云いたいのでありましょう。
「常務は例えばそう云う会社があるかどうかとか、或いはそう云う仕事をやってみても良いと云う人がいないかを、実際に探してみたのでしょうかね?」
 頑治さんは反発の言と取られないように、穏やかな口調で訊くのでありました。
「まあ、少しは当たってはみたよ」
 これも、実際は当たってなんかいないのだろうと頑治さんは穏やかな表情の裏で考えるのでありました。万事が上の空のくせに、好い加減な事を如何にもしかつめぶった顔で宣うのは、この人の特技でありますか。要するに一種の法螺吹き気性でありますか。
「少しは、ですか?」
 頑治さんは愛嬌の色をやや消して、追及するような険しさを微妙に宿した目付きで重ねて訊ねるのでありました。その頑治さんの目から土師尾常務は微妙に視線を逸らすのでありました。それは竟うっかり、頑治さんの言にたじろいだからでありましょう。
「まあ、僕も様々仕事を抱えているから、それ専門に動き回る訳にはいかない」
「自分で動けないなら、袁満さんに僕が今云ったような、と云うか、常務が疾うに考え付かれていたと云うその方策を、アドバイスされた事がありますかね?」
「いや、そんなアドバイスなんか受けた事はないよ。まあ、営業方法に関するアドバイスと云う事に関しては、それに限った事じゃなく、今迄一切受けた例がない」
 袁満さんが横から受け応えるのでありました。その言に不愉快を感じて土師尾常務は袁満さんをジロリと睨むのでありましたが、袁満さんが故意に目を合わさないようにしていたためか、特段それ以上何か云い募る事はしないのでありました。
「袁満さんには、今迄の地方出張営業経験から、袁満さんの仕事を代行してくれそうな会社とか個人とか、思い当りませんかねえ?」
 頑治さんは、今度は袁満さんに聞くのでありました。
「今ここでは何とも云えないけど、でも、唐目君が云った方法は有力かも知れない」
 袁満さんは少し乗り気を見せるのでありました。こちらも茫漠とした暗闇の中でほんのりながら現実的な具体策の炎が見えたと云った感奮があるようであります。
「探せば、何か突き当たるものがありそうですかね?」
「無い事も無いような気がする」
「そう云う事なら、僕にも心当たりの人材がありますよ」
 社長がここで口を挟むのでありました。「いやね、下の紙商事をもうすぐ定年退職するけど、未だ働きたいので嘱託で構わないから何か継続して仕事をやらせてくれと云う男が居るんだよ。全く新しい会社に改めて就職すると云うのは、年齢的にもこのご時世的にもなかなか難しいので、出来たら紙商事関連の仕事をしたいようなんだが、この男は紙商事の専務と相性が悪くて、専務はこれを機に綺麗さっぱり縁切りする心算なんだよ」
 紙商事の専務と云うのは社長の奥さんの弟さんなのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 386 [あなたのとりこ 13 創作]

 下の紙商事の実情に於いて社長と社長の奥さんの弟である専務と、どちらが実際上の支配力が上なのか頑治さんには全く詳らかではないのでありましたが、この場合社長としては専務の意向を尊重する心算のようでありまあすか。
「僕としては何とかその男に仕事をさせてやりたい気があるんだけどね。まあ、紙商事関連の仕事ではないけれど、ちょっと話しを持ち掛けてみようかな」
「どんな感じの人なんですか、その方は?」
 袁満さんが社長に訊くのでありました。贈答社と下の紙商事は兄弟会社であるけれど、殆ど社員間では交流が無いため袁満さんはその人を知らないようでありました。
「始めは上野にある紙商事の倉庫の管理要員として雇ったんだけど、なかなか仕事振りが手堅くて目端が利くから僕が営業をやらせてみたんだ。その後はその儘ずっと営業社員として働いてきたんだ。矢目奈伊蔵と云う名前の男だけど、袁満君は知らないかなあ」
「いやあ、知らないですかねえ。ひょっとしたら顔は見知っているかも知れませんが」
 袁満さんは頭を掻くのでありました。「ところでその人は、例えば長期の車での行商、みたいな仕事なんかは大丈夫なんでしょうか?」
「矢目君はずっと独り者でねえ、家族が居ないから状況としては多分大丈夫だろうけど、まあ、当人がそんな仕事ははやりたくないと云うかも知れないけど」
「ああそうですか。それは話しをしてみてから、と云う事になりますかねえ」
「ま、そう云う事だなあ、今のところは」
「でもまあ、どういう風な様相になるか具体像ははっきりとしませんけど、でも、唐目君の提言から、何となくやるべき仕事の目鼻が見えてきたような気がするよ」
 袁満さんが頑治さんの方を見て微笑みかけるのでありました。そうであるのなら、頑治さんとしても僭越ながら提案した甲斐があったと云うものでありますか。

 この間土師尾常務は自分を脇に置いて話しが色々と進行しているのが気に入らないように、ソファーの背凭れに深く身を沈めて腕組みをして外方を向いているのでありました。どだい今取り上げられている袁満さんの仕事の話題には、無神経な茶々や云いがかりを付けるのは吝かならぬけれど、元々この御仁には大して興味も無いようであります。
 それに売り上げ上昇のための秘策を練っていると云うよりは、大した能力も無い奴原が無い知恵を絞って愚策をとやこうしているようにしか、その目には映っていないのでありましょう。まあ、ご当人自身の営業力とか行動力とか、延いてはオツムの出来不出来に関してはうっかり脇に置いて、と云う事ではありましょうけれど。
「未だ全く具体的な話しでは無いですけど、その矢目さんと云う方がウチの出張営業を手助けしてくれる事になったら、少し大型の営業車両が必要になるかも知れませんねえ」
 袁満さんが随分のお先走りにそんな事を云うのでありました。それは自分のこれからの仕事に少しの目鼻が付いたような気になって、嬉しくなって竟、口から零れた一種の軽口か冗談の心算であったのでありましょうが、それに今迄口を閉ざしていた土師尾常務が、待っていましたとばかりに俄然噛み付いてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 387 [あなたのとりこ 13 創作]

「営業車両は会社としては今後購入する心算は無いよ。車を所有すると色々経費もかかるし、その経費に見合うだけの成果が見込めないのに、そんな無駄な出費はしない。また従来の効率の悪い出張営業の形態を繰り返すのは、もう懲り々々だからね」
「ああそうですか。別に、そんなお先走りの説教を頂戴するくらいなら、今の俺の発言は取り消しますよ。ちょっとした話しの接ぎ穂の心算だったんだから」
 袁満さんは小さな舌打ちの後に如何にも不愉快そうに云って、一端土師尾常務の顔を敵意満載の喧嘩腰の目で睨んでから外方を向くのでありました。
「どういう事だ、その舌打ちと不貞腐れたような態度は!」
 土師尾常務が熱り立つのでありました。常務取締役たる自分への敬意が微塵も無い態度だと袁満さんの仕草を取ったようであります。日頃から薄々推察は付いていたものの、袁満さんが自分に対して寸分の敬意すら抱いていないし、心服もしてもいないに違いないと云う一種の強い欲求不満が、ここでも竟、堪え切れずに口から溢れ出て仕舞ったと云う感じでありますか。まあ、袁満さんの方も確かに些か粗野ではありましたけれど。
「まあまあ、そんなに興奮しなくても」
 社長が土師尾常務を宥めるのでありました。「車の件なんかは、今ここでどうこう云わなくてはならない事ではないし、それは後々考えれば良い事で」
 社長がどちらかと云うと袁満さんの味方に付いた風なのが面白くないようで、土師尾常務は不興気な顔を社長に向けるのでありましたが、そんな顔を見せて判らず屋が駄々を捏ねているような印象に取られるのを恐れてか、すぐに眼容の露骨な不満の色を消すのでありました。一応社長に対しては常務としての体裁を気にしているようであります。
「具体的な出張営業形態とかは後に袁満さんと常務がじっくり詰めるとして、当面袁満さんは今迄の仕事を代行してくれそうな会社なり個人なりを探すと云う方針で動くし、その一環として今社長からご紹介いただいた矢目さんと云う方に話しを持って行ってみると云うところで、今日の会議の決定事項としては充分なんじゃないですかねえ」
 頑治さんが云い出しっぺの責任から、そんな総括を述べるのでありました。
「そうね、今日のところは充分だね。方針が見えただけでも俺としては御の字だし」
 袁満さんが頷くのでありました。
「じゃあ、僕の方で矢目君に話しをしてみよう。若し矢目君がこの申し出を受ける気があるようなら、後で土師尾君なり袁満君なりに報告する事にしよう」
「私に云っていただければ結構です。袁満君には私の方から話します」
 土師尾常務が空かさず社長に云うのでありあしたが、袁満さんはこれを、初めは袁満さんの仕事なんかには無関心の上の空だったくせに、社長が乗り気を見せると俄然横から袁満さんと社長との間に顔を差し挟んできて、袁満さんより手前で社長の面前に対しようとする土師尾常務の厚顔無恥な烏滸がましさだと取ったようでありました。
 袁満さんはまたも土師尾常務を、まるで天敵に対するような表情を以って睨むのでありましたが、今度は舌打ちは控えるのでありました。それをグッと堪えて、また土師尾常務につまらない難癖の口実を与える愚を避けたと云ったところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 388 [あなたのとりこ 13 創作]

「ところで日比君の方の営業は、少しは回復の兆しが見えてきたのだろうか?」
 土師尾常務が日比課長の方に顔を向けて話題を変えるのでありました。急に自分の事に話しが移ったので、日比課長は多少面食らったような表情をするのでありました。
「まあ、見積もりの依頼は少し増えてきたような感触ですかねえ」
「実際にどの得意先からどのような見積もり依頼が来ているんだろう?」
「色んな会社から、色々と。・・・」
 日比課長は暫し云い淀むのでありました。「そうですねえ、一番最近の事では、東西商事から車のディーラーが商談成立した顧客に配る豪華版のロードマップの見積もり依頼がありましたかね。あの商品にしては少し部数多めの見積もり依頼でしたかねえ」
 日比課長の云う東西商事とは、或る大手の自動メーカーの特定のキャンペーン商品とか販促品を専門に扱っている、池袋に本社のある広告代理店でありました。頑治さんも小口商品を納品するために以前に車で訪問した事がある会社でありました。
「豪華版のロードマップと云うのは当然ウチの商品じゃないよね」
「そうですね。全日本地理出版社のやつです」
 全日本地理出版社の豪華版ロードマップと云うのは、贈答社が時々仕入れて、表紙に箔押しで企業の名前入れして売っている商品であります。大判で値段が張るので大量部数捌けると云うような商品ではないのでありましたが、そこそこ堅実な売り上げが見込める人気商品ではありましたか。勿論他社製品でありますから仕入れた価格に数割の儲け分を乗せて売るので、自社製作製品よりは利は薄いのでありますけれど。
「一体何部の見積もり依頼があったのかね?」
「五十部と百部で夫々の見積もりです。ま、ウチで製作している商品ではないから、そのくらいの部数差では殆ど単価は変わらないんですがね」
 この日比課長の言葉の、最初の方の部数を聞いた段階で、土師尾常務は露骨にもう既にがっかりして興味を失った、と云うような表情をするのでありました。然程、起死回生的売り上げを期待出来るような部数なんかでは到底ないとの落胆からでありましょう。
「なあんだ、その程度の数字か」
 土師尾常務は小さく舌打ちするのでありました。「そんな小口じゃ、焼け石に水、と云ったところじゃないか。それはここのところの売り上げ低迷を吹き飛ばすような商売ではないな。他にもっと大量の売り上げにつながるような見積もり依頼とかは無いのか?」
「そう云われてもなあ。・・・」
 日比課長は土師尾常務のその評言で自尊心を甚だ傷つけられたみたいで、顔を顰めて彼の人を睨むのでありました。「だったら常務の方には何かないのですかね、売り上げ低迷を軽く吹き飛ばすような、景気の良い取引の話しは?」
 そう訊かれて土師尾常務は不愉快そうに口を歪めるのでありました。しかし口を歪めるだけで何も云わないところを見ると、これと云って紹介出来る景気の良い取引話しを有してはいないのでありましょう。それでも、ここで口を噤んでいると日比課長に遣り込められた体裁になるので、何か云い返そうと考えを急いで回らしているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 389 [あなたのとりこ 13 創作]

「有力な話しも幾つかあるけど、未だ発表出来る段階ではない」
「なあんだ、要するに何も無いと云う事か」
 日比課長は侮るような口振りながら、上司への憚りからかそれとも単なる小心からか、土師尾常務の顔から目線を逸らして独り言めかして呟くのでありました。
「しかし私が今進めている有力な商談と云うのは、豪華版ロードマップの五十部とか百部とかの、大して有難くもない小さな儲け話しなんかとは違うよ」
 日比課長如きの肚の座っていない侮りなんぞは、歯牙に掛ける程の重さも無いと云うところを表するためか土師尾常務は、ここは喧嘩腰にはならすにあくまで日比課長を見下したような余裕の口振りで云うのでありました。しかしこれは取り敢えず日比課長への自分の優越を誇示するため以上の云い草ではなく、実際その素振りから、然程に有力で大きな商談をどこかの会社と進めているような気配は何ら窺えないのでありました。
 この人は自分を大きく見せるためのホラ話しを何の躊躇いも無く、効果の見込みや計算も無く、単にその場凌ぎと対抗心から、口から出任せに吹いて見せるのは得意中の得意でありましたか。ちゃんとした状況分析も無いものだから、元来からその言動を疑っている向きには他愛なく魂胆を見透かされて仕舞うのであります。その見透かす最有力者が片久那制作部長で、片久那制作部長の前では自分の吹いたホラが端から通用しない事を知っているから、用心して結果的に軽蔑されるような虚言は極力控えているのでありました。
 とまれ、日比課長は土師尾常務にそう軽く往なされて不本意ながら沈黙するのでありました。何とはなしの苦手意識から来る土師尾常務に対する弱腰でありますか。
「でも常務のその有力な商談と云うのは、何処の会社からの話しで、どの商品を大体どのくらいの部数でとか、その程度は具体的に話せるでしょう?」
 これは、日比課長の無意味な弱気と追及言葉の全然鋭利でないところに焦れた那間裕子女史の、土師尾常務に向かって発せられる言葉でありました。思わぬ方向から追及の礫が飛んで来たものだから、土師尾常務は那間裕子女史を睨むのでありました。

 那間裕子女史は、追及するに於いての言葉の鋭さと緻密さと云う点で、日墓課長よりは少し手厳しいでありましょう。それに勿論、那間裕子女史は直接の上司である片久那制作部長との対比に於いて、土師尾常の方には畏敬の念も薄かろうし、だから然して心服する謂れも無いし、畏れ入ってもいないでありましょう。土師尾常務はその那間裕子女史を睨む目線に、日比課長に対するそれとは違って警戒の色を込めるのでありました。
 元々土師尾常務には、片久那制作部長程の怖さではないにしろ、自分の口八丁に、均目さんも含めた制作部の連中は、営業部とは違って簡単には丸め込まれないだろうと云う認識があるようであります。まあ尤も、頑治さんの机も制作部スペースにあるのではありますが、この認識中に、頑治さんはどうやら含まれてはいないようでありますけれど。
「今は未だ、特に披露するべき時じゃない」
 土師尾常務は言を濁して逃げようとするのでありました。しかし那間裕子女史は端からホラと見做しているから、追及の手をそれで緩める事はしないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 390 [あなたのとりこ 13 創作]

「つまり本当は、具体的に進展している話しなんか何もないと云う事ね。如何にもそんな話しがあるように仄めかして、勿体付けているけど」
「勿体なんか付けてはいない。失礼な事を云うな」
 土師尾常務はそうに吐き捨ててソッポを向くのでありました。
「そうやってこう云う場合の常套手段としてすぐ声を荒げるくせに、でも目をあたしからオドオドと逸らせるのは、要するに何も無いと云う証拠じゃないのかしら」
 那間裕子女史は土師尾常務が視線を逸らしたその仕草を、ばつの悪さから逃れるためだと解したようで、手を緩めずに益々追い詰めていく魂胆のようであります。「実は披露出来る話なんか何も無いくせに、まあ、もう少し配慮してあげて柔らかく云うと、未だ披露出来る程に具体化もしてもいない、一種の自分に都合の好い勝手な感触だけしか無い段階のくせに、それを以って日比さんの事を罵るなんて云うのは全くいただけない遣り口だわ。少なくとも日比さんの話しの方が、土師尾さんのそれよりは遥かに具体的だもの」
 これではちっとも、配慮してあげた柔らかい云い方、にはなっていないだろうと、聞きながら頑治さんは内心で竟々笑って仕舞うのでありました。
「製作の人間が営業の事に、半可通に口出ししないでくれるか」
 土師尾常務は流石にこう迄云われると、自尊心と常務取締役と云う地位から、那間裕子女史を怖い目で睨んで見せるしかないのでありました。それでも返す言葉が無いから取り敢えず凄んでいるのだろうと云う風に見えないように配慮したのか、口角から遠慮なく泡を飛ばす程嵩じた云い口にはなっていないのでありましたが、それでも自分の持てる凄みを目一杯利かせて、強い口調にはしているようでありましたけれど。
「そんなに凄まなくても別に良いですよ」
 那間裕子女史は挑発的な物腰で、そんな剣幕なんぞは屁とも思っていないと云うところを見せるのでありました。挑まれるとしおらしくなるどころか余計感情をエスカレートさせて挑み返すと云う那間裕子女史の性向の方に、土師尾常務は先ず配慮すべきであろうと頑治さんは思うのでありました。全くの下手なあしらいと云うべきでありますか。
「まあまあ、二人共落ち着いて」
 社長が間に入るのでありました。「那間君、仮にも会社の常務取締役と云う立場の人に対して、そんな不謹慎なもの云いは良くないよ」
 社長は先ず那間裕子女史を諌めてから土師尾常務の方を向くのでありました。「土師尾君もすぐにカッカとして売り言葉に買い言葉みたいな対応をしないで、常務としてもう少し高いところから話しをした方が、皆の心服を得られるんじゃないかねえ」
「誰も元々、心服する気なんかありませんけど」
 那間裕子女史は、これも万事に対して反発力旺盛なその性格から社長の折角の取り成しをも台無しにしようとするのでありました。社長はこれに思わずムッとしたようでありましたが、今の土師尾常務の態度を諌めた手前ここで怒りを見せるのも示しが付かないと、ぎゅうと堪忍袋の緒を引き絞り、ぎごちない笑みなんぞを浮かべるのでありました。
「まあまあ、そんな風に云わないで」
(続)
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