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お前の番だ! 391 [お前の番だ! 14 創作]

「まあまあ、少しお待ちなさいよ」
 そこまで聞いて、会長が掌を鳥枝範士の前に突き出して見せるのでありました。「そんな御託を聞きたいのではなく、創意とか工夫とかは必要ないのかと訊いているのですよ」
「御託ですと? ・・・まあ、良い。だからそれにお応えするために、態々懇切丁寧に喋っておるのです。そもそも会長さんは常勝流の稽古をしたことがおありなのですかな?」
「いや、実技の方は財団会長の職分とはまた別ですからねえ」
 会長は、それがどうした、と云うような、ふてた云い方をするのでありました。
「ああそうですか。別に財団会長だからって稽古をしてはいかんと云うわけではないのだから、常勝流の理解のためにもおやりになっては如何ですかな。まあ、それは兎も角として、ならば常勝流興堂派の会長であるのだから、常勝流と云う武道の考え方とか、道分先生が如何に修行してそれを身につけられたかとか、ちゃんと勉強されたのですかな?」
 会長は不機嫌そうに、首を縦に動かさずに鳥枝範士を睨むのでありました。
「勉強されていないようなら先ず、創意や工夫と云うものが常勝流にとって如何なるところにあるのかを理解するためにも、ワシの話しを仕舞までお聞きにならんといけませんな。お気軽に浮世の義理だけで、事の序に会長職を引き受けられたのではありますまい?」
「当たり前です」
 会長の言葉つきには不機嫌さがいや増しているのでありました。
「いいですかな、そもそも常勝流という武道は幕末の剣士であった是路殷盛先生を開祖として、この殷盛先生が剣術の理合いを元にそれに創意工夫を加えられて体術の体系を編み出され、それを明治初頭に常勝流として世に出された武道なのです。ところで今の話しの中で、ワシが、殷盛先生の創意工夫、と云ったところに先ず注意していただきたい」
 鳥枝範士はそう云って咳払いをするのでありました。「このようにして創始された常勝流も、昔は徒に強さを競った時代もあったが、それでは身体能力の高い者は伸びるが、習う大方の者が身につけるというわけにもいかん。依って当代是路総士先生が宗家となられてから、常勝流の稽古体系に理論的で、運動学的方法論に裏打ちされた創意工夫を加えられて、出来るだけシンプルに、出来る限り個別合目的的に、出来る限り普遍的に、万人の納得出来る、極めて魅力的なる一大体系として大いなる努力の末に整理されたのです。この話しの中でもワシが、創意工夫、と云う言葉を使ったのを再度注意していただきたい」
「要するに何を云いたいのです?」
 会長は鳥枝範士の長広舌に辟易したといった表情をして見せるのでありました。
「まあ、そう苛々しないでもう暫く黙ってお聞きなさい」
 鳥枝範士が落ち着き払ってこう云うのは、あくまでもこの後も暫くは滔々と弁を展開し続ける心算のようであります。「この当代総士先生のご努力の甲斐あって、常勝流は数ある古武道の中でも秀でて門下生が多い、秀でて現代的な理論性を有した武道と変貌したのです。云わば一古武道が現代的存在意義を獲得したのです。さてこの現代性とは、・・・」
 鳥枝範士のこの、意識的にそうしているのであろうまわりくどい話しは、これから興堂範士の、創意工夫、の逸話等も織り交ぜて、未だ々々当分の間続くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 392 [お前の番だ! 14 創作]

「もうそのくらいで結構ですよ」
 竟に会長の我慢の限界が訪れるのでありました。「貴方がそうやって独擅場に喋り散らしても、私に云いたい事が何なのかさっぱり判りませんねえ」
「つまりですなあ、創意工夫、なんと云う言葉は、今の話しで紹介したような、人に倍する努力と、秀でた先見性と、それを消化出来るだけの論理能力を後ろに秘めていて初めて使える言葉であってですなあ、そこの憖じいにしか稽古もしてきていない、常勝流の稽古をさして好きとも思われぬ、盆暗二代目如きに当て嵌まる言葉ではないと云う事ですな」
 鳥枝範士はそう云い放って威治筆頭範士を睨むのでありました。その眼光の強さに思わずたじろいで、威治筆頭範士は怖じ々々と下を向くのでありました。
「他派の筆頭範士に向かって、それは云い過ぎでしょう」
 会長は鳥枝範士の眼光の強さに呑まれたように、只管怯んだ様子の隣に座る威治筆頭範士に苛立ってか、一人で声を荒げるのでありました。
「他派の筆頭範士だか何だか知らんが、常勝流の中ではワシの後輩弟子には違いない。兄弟子弟弟子、先輩後輩の間柄は武道界にあっては厳に尊重すべきものでしてな、稽古もした事がない会長さんには判らないかも知れないが、その辺は弁えているよな、威治?」
 鳥枝範士にそう声をかけられて威治筆頭教士は上目で反射的に鳥枝範士を見てから、またすぐに下を向くのでありました。その仕草はまるで頷いたように見えなくもないのでありましたが、まあ、頷いたわけではないでありましょう。
「私が、創意工夫、と云ったのは」
 会長が仕切り直すのでありました。「何でも試してみると云う事で、それも丸きり無意味ではないでしょう。若し間違いだと判ればすぐに改めれば良いだけですからな」
「その間違った試みで、無駄に時間を取られる門下生の方は堪ったものじゃない」
 鳥枝範士は一歩も引かぬのでありました。「これまでの長い常勝流の稽古の中で自ずと、それに当代是路先生のご努力で創意工夫された、最も合理的で、最も効率的な稽古法が確立されていると云うのに、その地道な稽古法が嫌さに、大向うに迎合してお手軽にスポーツ感覚を持ちこむのは、常勝流の技法を崩す行為に他なりませんな」
「しかし、普及と云うところでは、そう云う稽古法もあるのじゃないでしょうかね?」
「崩れた技法を普及して、一体何の意味があると云うのでしょうかな?」
 鳥枝範士は会長の言を歯牙にもかけないような云い草をするのでありました。
「底辺を広げると云う事にはなるでしょう。常勝流を愛好する人が増えて、その中から本格的に稽古したいと云う者が現れれば、それはこちらの正真正銘生一本、ガチガチの正統派一本槍を気取る総本部で稽古しようと云う者も出てくるでしょう。そうなればこちらにも入門者が増えると云う事になって、大いに結構な事ではないですか」
 会長はやや揶揄の色あいを籠めた口調で云うのでありました。
「人数だけを只管集めるのが底辺の拡大とは思えませんな。そうやって広がった底辺の、間違った了見を正すのはこちらに圧しつけると云うのは、慎に無責任な話しですな」
 この鳥枝範士の言葉に、会長はほとほと辟易したような顔をするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 393 [お前の番だ! 14 創作]

「ま、確かに、それも一方の正論ではありますかな」
 会長はここで一旦、満更自分が話しの全く判らない人間ではないところを見せて、なかなかに懐が広い辺りを示そうとするのでありました。「しかしこの威治君とてお父さんから今まで厳しい稽古をつけて貰って、まあ未だ途上かも知れませんが、立派な後継者として立とうとしているのです。もっと温かい目で見てやっても良いのではありませんか」
「勿論、威治君が興堂派の後継者として道分さんの遺志を継ぐ気があるのなら、こちらも大いに後援したいところですが、今の威治君の稽古のやり方とか、支部への態度を見ていると、何やら道分さんの遺志とはまるで違う方に顔が向いているように見えます」
 今まで黙っていた是路総士が鳥枝範士に代わって云うのでありました。こちらの方が少しは話しがし易いかと踏んだのか、会長は是路総士の方に顔を固定するのでありました。
「総士先生は威治君を前から知っておられるから、それは未だお眼鏡に叶わないところもあろうけど、先代の興した興堂派をより立派にしたいと一心に思っている点は、充分お判りになっておられるでしょう。先程そこの鳥枝さんが云っていたけれど、道分先生の進取の精神の継承と云う事で、もう少し目線を緩めて見守っていただくと有難いですなあ」
「しかし、事には程と云うものがあります。一心の思いからだとしても冷静に程を弁えていないと、徒に多方面との間に摩擦を引き起こして、結局遺志を裏切る事にもなります」
「今が、総士先生の云われたような、威治君の危うい時期なのではないでしょうかな?」
 これは寄敷範士がこの場で初めて喋る言葉でありました。「畏れながら云わせて貰えば、会長さんの職務はそこを見極めて威治君を冷静にサポートする事と愚考しますがね」
「まあ、常勝流について知識も稽古経験も興味もないから、出来ない相談かも知れんが」
 鳥枝範士が無愛想な顔で、挑発的な事をまたすぐその後に云い添えるのでありました。
「こうやって聞いていると、お三方は威治君を全く評価してはおられないようですな」
 会長が憤然とした様子を見せるのでありました。「しかし威治君はお父さんと二人だけで、普通の稽古以外に色々と厳しい跡継ぎとしての体術等の稽古を積んできた男ですよ」
「ほう、そんな事は初めて聞いた。それは道分先生にお聞きになったのですかな?」
 鳥枝範士は大袈裟に驚いて見せるのでありました。
「いや、威治君本人から聞いた事です」
 会長はそう云って隣に座る威治筆頭範士を見るのでありました。しかし威治筆頭範士は俯いたままで頭を持ち上げないのでありました。
「おい威治、お前道分先生から何時、二人だけで稽古をつけて貰っていたんだ?」
 鳥枝範士が片頬にからかうような笑いを作って、詰問口調で問うのでありました。
「・・・まあ、その日の稽古が全部終わった後とか、道場が休みの日とか、・・・」
 威治筆頭範士はそう云う時だけ上目遣いに顔を起こしているのでありましたが、云い終るとすぐにまた下を向いて仕舞うのでありました。
「お前、稽古が終わると誰よりも早く道場から逃げるように退散して、仲間と何処かに遊びに行っていたんじゃなかったか? 前に道分先生がお前のそんな了見を、よく零していらしたぞ。彼奴は厳しい稽古が世の中で何よりも億劫らしい、とな」
(続)
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お前の番だ! 394 [お前の番だ! 14 創作]

「鳥枝さんは、先代と威治君の間にあった事の逐一を、総て知っているわけではないのだから、そんな事を断定的に云えるものではないでしょう。貴方の知らないところで、二人だけの、継承者のみに伝授する技の特別の稽古があったかも知れないしじゃないですか」
 会長は体面上、あくまでもそう強弁するのでありました。
「あったかも知れないし、なかったかも知れない。会長さんも威治からの一方通行の話しとしてそれを聞いただけで、道分先生に確認したわけでのないでしょうよ」
「それは、そうだが。・・・」
「おい威治、お前、会長が知らないのを良い事に調子の良い法螺を吹くんじゃないぞ。お前が今までどんな態度で稽古に臨んできたのか、内部の者で知らない人間はいないんだからな。こちらにもちゃんとお前の典型的な盆暗息子ぶりが逐一伝わっているんだぞ」
 そう云われて威治筆頭範士は顔を起こして鳥枝範士を睨むのでありましたが、鳥枝範士の迫力に対抗出来る筈もなく、また力なく気後れ気味に項垂れて仕舞うのでありました。会長はその威治筆頭範士の様子を、苦々しそうに横目で窺っているのでありました。
「しかし威治君は興堂派では実力随一です。私が見る限り道分先生の在りし日の演武されるお姿に、時にドキリとするぐらい似ているところがありますよ」
「似て非なり、と云う言葉もありますな」
 鳥枝範士は恬として全く取りあわないのでありました。
「非かどうかはまだ誰にも判らないでしょう。何より、まあ、そちらには異議があるようですが、この威治君は長年道分先生の薫陶を得てきたのですし、何より血を受け継いでいるのですから、将来お父さん並みの武道家に変貌する資質は充分と云えるでしょう」
 会長は是路総士に向って未だ強情に云い募るのでありました。
「血の事をおっしゃるのなら、威治君のお兄さんとて条件は同じ事になります」
 是路総士はそう云って会長の言を一笑に付すのでありました。「お兄さんは武道とは全く無縁に生きてきた人で、どちらかと云うと学究肌で運動は苦手でした。それが道分さんの血を受けているからと云って、あんまり好きでもない武道に気が向かない儘これから臨んだとしても、お父さんを凌ぐ立派な武道家になれる確率はかなり低いと思いますよ」
「要は武道に熟達するためには、血筋とか才能よりも稽古量が絶対だと云う事ですな」
 鳥枝範士が続けるのでありました。「その稽古量を保証するのが、武道が何よりも好きだ、と云う心根でそれが今一つの絶対条件ですな。他にまともにやれるものがないから仕様がないので武道をやっていると云うような魂胆では、大成する筈もないし、道分先生の域に達する事は地球が右回りしても無理だ。この道はそんな甘いものじゃないですな」
「要するにそちらとしては、威治君を全否定なさると云う事ですね」
 会長はこれ以上の話しあいは無意味と判断したようで、結論を急ぐのでありました。
「全否定ではありません。今現在の興堂派の運営の仕方を否定しているのです。支部に対して、興堂派の方針と組織が全く揺らいでいないところを顕示するためにも、稽古上のつまらない外連を排し、道分さんが長年やっていた元通りの様態に復して、威治君がその中で将来の大成を期して精進すれば、それが結局道分さん偉業を継ぐ事になるでしょう」
(続)
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お前の番だ! 395 [お前の番だ! 14 創作]

「威治君が、総士先生が今云われたようなところを真摯に改めて、今後常勝流の正統な稽古に邁進してくれれば、総本部としては威治君を盛り立てていく用意はあるのです」
 是路総士の言の後に、寄敷範士が発言するのでありました。「古い道分先生のお弟子さんで広島支部の須地賀さんが興堂派からの離脱を決意したのも、その辺りの不安や不満があったからでしょう。今までの流れとは全く趣を異にする独自の方針なんかを、代替わりしたからと云って性急に打ち出さないで、興堂派内が安定するまで、道分先生のやられていた方針を堅持して、もっと地道な流派運営を心がけると云うなら、どうして総本部が後援しない事がありましょうか。総士先生は、要するに、そうおっしゃりたいのです」
「成程ね。それなら将来なら、威治君の新方針を打ち出しても構わないのですね?」
「興堂派が落ち着いたなら、と云うのが大前提です」
 寄敷範士が頷くと是路総士も一緒に頷くのでありました。
「しかしあくまでも、常勝流の流儀を疎かにしない、と云うのも大前提ですな」
 鳥枝範士が云い添えるのでありました。
「ああそうですか。しかしどうも引っかかるのは、同じ常勝流を名乗っているとは云え、全く独立した別会派に対して、どうしてそこまで総本部が介入出来るのですかな?」
 会長の言は、何やら云いがかりめいてくるのでありました。
「同じ常勝流を名乗っている、からですよ」
 鳥枝範士が如何にも無愛想に、さも当然、と云った云い方をするのでありました。
「こちらが常勝流の宗家でいらっしゃるから、興堂派の逐一に対してもあれこれ煩く意見を差し挟めると云う判断ですかな?」
「興堂派にしても常勝流を名乗るからには、当たり前の事でしょう。総士先生を始め我々総本部門下は、常勝流と云う名を惜しむ者達でありますからな」
 鳥枝範士は勿体ぶってそう云ってから胸を反らすのでありました。
「じゃあ、常勝流と名乗らなければ何も云われる筋あいはないのですね?」
 今まですっかり小さくなっていて、そこに存在する事すら忘れられていたような観の威治筆頭範士が、急に顔を起こして、いやにきっぱりとそう云い放つのでありました。
「常勝流を名乗らなければ、勿論我々は何も口出しをしない。これも当たり前だ」
 鳥枝範士は威治筆頭教士を睨むのでありました。しかし威治筆頭教士は、今度は怖じて下を向く事なく、妙に血走った目で鳥枝範士を睨み返すのでありました。
「判りました。それなら今後一切、常勝流を名乗りません」
 威治筆頭範士の声はやや震えているのでありました。
「威治君、まあ待ちなさい」
 会長が慌てて取り成すのでありました。「そう云う事はここであっさりと云うべきではない。後で冷静に考えてみて、それからの判断としようじゃないか」
 会長としては常勝流の名前を使わない事が、興堂派にとって好都合か不都合か俄かには計量出来なかったので、一先ず即答を避けようとしたのでありましょう。会長は窘めた後で、威治筆頭教士の軽率を持て余すように不機嫌な顔をするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 396 [お前の番だ! 14 創作]

「まあ、威治君が常勝流の名前を棄てると云うもの、一つの判断ではありましょうな」
 是路総士が至極落ち着いた口調で云うのでありました。
「確かにそうなれば、無関係となった我々は興堂派の動静に何も関心を持つ必要はない」
 寄敷範士が頷きながら同調するのでありました。
「そうですな。常勝流でないのなら、細々と口出しする謂れは何もないし」
 鳥枝範士も頷くのでありました。
「三人揃ってそうおっしゃっているのだから、良いじゃないですか会長、我々は常勝流を敢えて名乗らなくても。その方がこちらもサッパリするし」
 威治筆頭教士は会長に云い募るのでありました。
「まあ、その件は後でゆっくりと考えよう」
 総本部の重鎮三人が、まるで常勝流の名前を棄てる事を威治筆頭範士に指嗾しているように感じて、会長は興堂派の名前から常勝流の冠を外すと何やらの不利益が生じるのかも知れないと、少し考えるような素ぶりをするのでありました。当人が、まあ、武道界のあれこれの事情に詳しくはないため、即断出来難いのでありましょう。
 ひょっとしたら常勝流の名前は、武道界に於いては、結構持て囃される利用価値の高い名前なのかも知れないし、そうなると簡単に棄てるのは惜しいと云うものであります。政界の寝業師は、実利と云うところに関してなかなか真摯なようであります。
「興堂派が常勝流と云う名称を流名から外すのなら、向後我々とは一切無縁となったと見做しましょう。そうなれば威治君が何をしようと勝手放題です」
 是路総士は威治筆頭教士の目の前に飴をちらつかせるような言葉、会長の不安をそそるような言葉を重ねるのでありました。
「そちらが勝手放題なのだから、こちらも遠慮なく自由にやらせて貰うぞ」
 鳥枝範士が威治筆頭範士をまた睨むのでありましたが、今度は何やら云い知れぬ不気味さを口の端の辺りに漂わせているのでありました。
「自由に何をやるのですか?」
 威治筆頭教士の声は対抗的な勢は辛うじて保って入るものの、その不気味さに撃たれたようにやや裏返って仕舞うのでありました。
「勿論、広島支部の総本部への加盟を認めると云う事が一つだ。他にそのような動きが出てきても、もう遠慮はしない。総本部に救いを求めてくるなら、どしどし興堂派の既存の支部も受け入れる。団体もそうだが、個人でこちらに移ろうとする者も同じだ」
 鳥枝範士が、自由、の一端を披露するのでありました。
「門下生や組織を興堂派から引き抜こうと云うのですか?」
「おい威治、気をつけてものを云えよ。総本部が何で引き抜きなんかする必要がある。救いを求めてくるなら、と云っただろう。こちらから働きかけをするのじゃない。そう云うのは云う迄もない道理だろう。お前のお得意の、手前勝手な勘違いをするな」
「だって、まわりくどく云ったとしても、結局同じ事じゃないですか」
「同じじゃない!」
(続)
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お前の番だ! 397 [お前の番だ! 14 創作]

 鳥枝範士が威治筆頭範士を鬼瓦のような顔で睨みつけて声を荒げるのでありましたが、その後一転して会長の方に少し柔らかい視線を送るのでありました。「威治にはその辺の機微が何も判らないようだが、会長さんならちゃんと了解されますよな?」
 そう云われて会長は思わず頷くのでありました。しかし思わず頷いたのは拙かったと思い直したのか、その後で一言添えるのでありました。
「ま、あくまでもこちらさんに、何の策動もないと云う事が大前提ですがね」
「当たり前です。こちらは頼って来たのを、ただ受け入れるだけです」
 鳥枝範士は瞑目して頷くのでありました。「じゃあ威治、広島支部はウチが引き受けると云う事で良いんだな。まあ、ここでお前に断りを入れる必要もないんだが、一応念のために訊いておく。後になって下らんイチャモンをつけられても叶わんからな」
 鳥枝範士はまた威治筆頭範士の方に目線を向けるのでありました。
「広島の須地賀さんが、興堂派から総本部に移りたいと云うのなら、別にいいんじゃないですか。こちらも敢えて引き留める気もないし」
 威治筆頭範士はふてた云い方をするのでありました。
「威治君、そう云う云い方はやめなさい」
 是路総士がそれを窘めるのでありました。
「だって仕様がないじゃないですか、移りたいと云っているんだから」
「おい威治、総士先生に対してその無礼な口のきき方は何だ!」
 鳥枝範士がまたもや鬼瓦に変身するのでありました。
「まあまあ、そう一々壊れた鉄瓶のような顔で怒らないで。そんな三下ヤクザみたいな脅し方をして見せなくとも結構ですよ。威治君の迂闊故の粗相は私が平に謝りますから」
 会長が鳥枝範士を苦笑しながら宥めるのでありました。
「壊れた鉄瓶とか三下ヤクザとか、陳腐な比喩だ。それでワシをからかった心算なら、ピント外れですなあ。会長さんも威治と同じで、手前味噌な勘違いがお得意と見える」
 鳥枝範士はお返しの揶揄を会長に献じるのでありました。
「別にからかう気はありませんよ。陳腐な例えしか使えないのは、偏に私の頭の悪さからです。つまらん体面のために、竟口にした私の無意味な文言に小心に拘りなさんな」
「竟口にした無意味な文言、のふりをして、実は結構、内心秘かに、ワシを傷つけるに十分効果があったと、お門違いの会心の笑みでも漏らしているのじゃないですかな」
 この鳥枝範士と会長の揶揄自慢は、なかなか果てないのでありました。

 結局のところ興堂派が向後、常勝流の名前を使わないと云うはっきりした言質は、威治筆頭範士からも会長からも取れないのでありました。威治筆頭教士はもうその気になったようでありますが、会長が実利に鑑みてその可否の判断を曖昧にしたからであります。
 話しあいも膠着して仕舞ったようだし、鳥枝範士との揶揄の応酬もどうやら種切れになったようだから、会長と威治筆頭範士は帰り支度を始めるのでありました。これ以上話しをしていても埒が明かないとげんなりしたのでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 398 [お前の番だ! 14 創作]

 礼儀から会長と威治筆頭範士を玄関まで総出で送りに出るのでありましたが、来た時と同様、会長は如何にも尊大な仕草で使った靴箆を万太郎に返すのでありました。
「それじゃあ、これで失礼します」
 会長はふり返って云うのでありましたが、威治筆頭教士の方はぞんざいに中に向かってお辞儀した後は、もう体半分を玄関から外に出しているのでありました。
「常勝流の名称の取り扱いについては、明日とは云わんが、しかし一月以内に連絡してくださいよ。商標として登録してあるから、使用すると云う事になれば今後色々権利上の話しあいが必要になりますからな。使用料を出せ、なんぞと今更云う心算はありませんが」
 鳥枝範士が常勝流の名称が商標登録してある事をそれとなく知らせるのでありました。
「判っていますよ。態々念には及びません」
 会長は無愛想に返答してから背を向けるのでありました。
「ああそれから、田波根増五郎先生によろしくお伝えください。今度また一緒に美味い酒でも飲みましょうと、鳥枝が云っていたともお伝え願えれば有難い」
 田羽根増五郎先生とは会長の本業の方の、属する政党の幹事長の名前でありあました。鳥枝範士から思わぬ大物の名前が出たものだから、会長はふり返るのでありました。
「鳥枝さんは田羽根先生をご存知なので?」
「ええ。田羽根先生は建設畑の大物ですし、随分と昔からのつきあいですかな」
「ああそうですか」
 会長は鳥枝範士を暫し見上げるのでありました。「逢う機会があれば伝えますが、一緒に飲もうとか、そう云う伝言なら私に頼むより自分で電話でもされた方が早いでしょう」
「ああそうですなあ。会長さんにそんな使い走りのような伝言を頼むのは失礼でしたかな。これはうっかりしました。これじゃあワシも威治の事をあれこれ云えませんなあ」
 鳥枝範士はそう云って笑いながら頭を掻くのでありました。会長は苦々し気に鳥枝範士を睨んでから玄関を出るのでありました。
「折野、今の話しあいを見ていてどうだったか?」
 師範控えの間に戻ってから鳥枝範士が万太郎に訊くのでありました。
「そうですね、概ねこちらの方が話しの主導権を握っていたとは思います。まあこちらが呼びつけたのだから、立場からして当然と云えば当然ですが。しかし鳥枝先生は口より手の方が早く出る方だと思っていたのに、案外に雄弁家ですよね」
 本当は雄弁と云うよりは、多弁と云った方が万太郎の実感に合致しているのではありましたが、そう云って先程の威治筆頭範士のようにどやされるのも間尺にあわないと思ったので、万太郎は多少のべんちゃらもこみでそう云うのでありました。
「威治だけなら、もっと怒鳴り散らして徹底的にげんなりさせてやったのだが、会長がついてきたのであれでも多少控えたのだ。しかし会長は如何にも篤実そうな顔をして、相手を立てるような言辞を弄するその裏で、相手を嵌めるような事を色々企むヤツだと聞いていたが、意外にこちらの読んだ通りの反応をする単純な漢のようで、政界の寝業師、とか云う異名程の、得体の知れなさとか懐の奥深さを感じなかったのは些か気抜けしたぞ」
(続)
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お前の番だ! 399 [お前の番だ! 14 創作]

「道分先生の葬儀の時の印象から、僕はもっと威張りくさった態度で話しあいに臨んでくると思っていましたが、特段そんな風でもありませんでしたね」
「鳥枝さんに端から捲し立てられて、調子が狂ったのだろう」
 寄敷範士がニヤニヤと笑いながら云うのでありました。「まあしかし、今日は大いに不愉快であったろうから、今後何か意趣返しを企むかも知れんな」
「そうだな。ヤツは根が陰湿そうでもあったからな」
 鳥枝範士が頷くのでありました。「まあしかし、一応、ヤツより遥かに大物政治家の名前を面前にかませて牽制はしておいたから、少しは腰が引けるとは思うが」
「鳥枝さんは田羽根増五郎と知り合いなのかい?」
「ああ勿論。ワシの娑婆での仕事柄、色々世話になったり世話したりの間柄だよ。田羽根増五郎は実はワシの大学の先輩でもあるのだ。同時期に在学したわけではないが」
「へえ、そうか。流石に建設会社の会長だけの事はある」
「武道に娑婆っ気を持ちこむのはご法度だが、今次の場合は仕方なかろう」
「しかし鳥枝先生と会長の揶揄合戦は、見応えがありました」
 万太郎がそう云って鳥枝範士に笑いかけるのでありました。
「ああそうかい。もっとヤツを苛々させるからかいが出来なかったかと、今反省していたところだ。次の機会のために、一層この三寸の舌を磨いておかねばならんなあ」
 鳥枝範士は満更、冗談だけとも云えぬ表情をするのでありました。
「それともう一つ思った事は、・・・」
 万太郎はそう云ってから少し云い淀むのでありました。
「何だ? この際次の作戦のためにも、何でも云っておいくれ」
 鳥枝範士が先を促すのでありました。
「まあ何と云うか、鳥枝先生は勿論ですが、寄敷先生も総士先生にしても、遠慮のない云い方ですが結構人が悪い食えない方達だなと、そう云う風に思いました」
「ほう、これまたどうして?」
 寄敷範士が興味津々と云った顔をするのでありました。
「そもそも始めから興堂派を切り捨てる腹積りで、今日の話しあいを設定されたと云うところもそうですが、若先生を追いつめて自爆に誘導するために、鳥枝先生が恫喝の手口、総士先生と寄敷先生がお為ごかしの手口で連携されているところなんかを見ていると、いやあ、何と云うのか、お三方もなかなかに悪人だなあと感心したわけです」
「ふうん、そうか」
 寄敷範士がニヤニヤ笑って頷くのでありました。
「武道家をやっている者なんと云うのは、まあ、実は決まって根はそんな風だよ」
 是路総士が無表情で云うのでありました。
「勝負に於ける騙しあいとか駆け引きとかを何時も考えている、と云う点で、ですか?」
「そうだな。それと自分の技が他に比べてどのくらい凄い威力を持っているかを、何時も最大に気にしている一種の陰険なナルシシストも多いな」
(続)
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お前の番だ! 400 [お前の番だ! 14 創作]

「陰険なナルシシストで人が悪いし食えないのが武道家一般なのですか?」
「ま、そうかな。相手に対する優恤がないと云う点で、人が悪いし始末も悪い」
「だから武道では、礼容とか思い遣りとかを特に厳しく云い募るのでしょうか?」
「そう云うところが確かにある。人が悪い陰険なナルシシストである武道家は、先ず自分がそう云う性向を有している事を知るところから始まって、次第に相手に対する優恤とか思い遣りとかを考え始める。そこからその人の武道がようやく始まると云える」
 何やら小難しい話しになってきたと万太郎は眉間に皺を寄せるのでありましたが、是路総士の云わんとしているところは反射的に了解出来たような気がするのでありました。実は是路総士は本心で、威治筆頭教士を何とか救いたいと思っているのかも知れません。
 これは頭の中に思いもよらず突然生じた閃きのような思念であって、これまでの是路総士の言葉からは、はっきりとそうだとも何とも万太郎は云えないのでありますが、何やらそんな確信めいた気がするのでありました。まあ、威治筆頭範士の方に救うに足る器量があるかどうかという点は、かなり疑わしいところではありますが。
「総士先生は若先生を、嫌っておられるわけではないのですよね?」
「勿論嫌いではない。道分さんの息子でもあるし、同じ武道を志す者同士なのだからなあ。威治君は子供の時は、あれでなかなか無邪気な可愛らしい少年だったんだぞ」
「確かに、小さい頃は我儘だけど愛嬌のある、憎めない子供でしたなあ」
 鳥枝範士が懐かしそうな顔をするのでありました。
「そうそう、からかうとムキになって怒るけど、何とも愛らしい怒り様でしたな」
 鳥寄敷士も表情を緩めるのでありました。「何時からあんな風になったかなあ」
「高校入試に失敗した辺りから、何やら妙に依怙地で斜に構えるような素ぶりが見え出したかな。学校なんて何処に行こうが大してどうと云う事はないんだが、あいつはそれで挫折した。強すぎる自尊心が現実を上手く噛み熟せなかったのだろう」
 鳥枝範士はそう云ってまた苦い顔になるのでありました。
「武道にしても、自分の力量がクールに測れなかった。だから周りから大抵、大した事がないくせにやけに尊大なヤツだと思われて仕舞う。それがまた自尊心を傷つける」
「すぐに親父さんと比較されるのも、威治を益々頑なにしたんだろうなあ」
 鳥枝範士は顔を顰めて頷くのでありました。「結局、偉大な武道家の子供として生まれたのが、彼奴の不幸の本源だったと云う事になるかな。まあしかし、それを不幸にして仕舞ったのは、実はアイツ自信の所為という事になるのだが」
「総士先生は、若し若先生がこれまでの経緯を悔いて只管援助を求めてきたら、勿論助ける気はおありなのでしょうねえ?」
 万太郎が訊くのでありました。
「それは勿論、そうしてくれるのなら全力で助ける」
 是路総士は口を引き結んできっぱりと云うのでありました。
「しかし、威治はこの先そんな態度には決して出ないだろうよ」
 鳥枝範士が万太郎に諭すように云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 401 [お前の番だ! 14 創作]

「そんな態度に出ない限り、決して助けないのですね?」
「総士先生は常勝流を守るお立場に、先ず、おありになる。威治に限らず、お前でもこのワシでも、若しも常勝流の名前に傷をつけるような事をすれば、容赦なく排除される」
 鳥枝範士は万太郎を強い眼差しで見るのでありました。「情に於いてどうであれ、道統を守るために宗家がなさる事は、何時も明快でなければならんのだ」
 なかなかに厳しいものだと万太郎は腹の中で溜息をつくのでありました。自分なぞは到底そのような立場には立てないでありましょう。
 まあ尤も、若し望んだとしてもそんな立場に立つ卦は、自分には全くないであろうと万太郎は考えるのでありました。将来、その立場に立つ可能性の最も近くに居るのはあゆみでありましょうが、あゆみにはこう云った峻厳な覚悟が持てるでありましょうか。・・・
 さて、この日から四日後に、興堂派会長と威治筆頭範士の連名で総本部に封書が送られてくるのでありました。これは興堂派が以降、常勝流、の冠を外して、武道興堂流、と名を変えて完全に総本部との繋がりを切ると云う宣言の手紙でありました。
 書簡の中で威治筆頭範士は武道興堂流の初代宗家を名乗るとも記してあるのでありました。云ってみれば、是路総士と同等の立場に立つと云う事になるのであります。
 また発起人として会長を始め、幾人かの世間に名の知れた政治家や実業家の名前も書き留めてあるのでありました。この書簡にそれは敢えて記す必要のない事と思われるのでありますが、その中に会長が属する政党の田羽根増五郎幹事長の名前もあって、これは鳥枝範士への当て擦り、或いは逆恫喝の心算で態々書いてきたと思しいのでありました。
 その手紙を是路総士から見せられた鳥枝範士は、後ろの方にある発起人の件を読んだ後、鼻を鳴らして嘲弄の笑みを片頬に浮かべるのでありました。
「発起人の中に田羽根増五郎さんの名前がありますね」
 是路総士は事の序と云った感じで鳥枝範士に云うのでありました。
「そうですな。あの陰険な会長がワシを嬲ろうとして態々書いてきたのでしょう。しかし実は一昨日の夜に、その田羽根さんからワシの家に電話がありましてね、興堂派について色々聞かれましたので、威治の人となりも含めて一通りの情報や経過等はワシから話しておいたのです。会長にたってとせがまれたのでつきあいから一応名前は貸す事にしたが、それ以上に興堂派に深入りする心算は更々ない、と云う言葉を既に貰っております」
「田羽根さんとの仲は、会長より鳥枝さんの方が濃いのですかな?」
「そうですな。学校の先輩で、今は色々と持ちつ持たれつの間柄でもありますから」
 鳥枝範士はそう云って何となく意味有り気に笑うのでありました。「しかしこの様な書状が届くとは思っておりましたが、こうも早く来るとは思いませんでしたなあ」
「あれこれ考えて、常勝流の名称を外しても然して影響はないと判断したのでしょう」
「まあ、この前の話しあいで、云ってみればこちらが追いつめたような按配ですから、こう結論するしか、結局はないと云えばないでしょうからな」
「常勝流の名前を使わない方が、威治君の思い描いている興堂派のこれからの在り方には、寧ろ有利に働くと勘定したのでしょうね」
(続)
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お前の番だ! 402 [お前の番だ! 14 創作]

「威治の思い描いているこれからの在り方、なんと云う尤もらしい云い方はそぐわないとワシは思いますな。威治はまともに稽古を積んでこなかったものだから、常勝流の体術も剣術も大して上手くもないのです。親父さんのように常勝流の本道で体裁を張るわけにいかないから、結局際物勝負するしかないと云うだけの話しです。それも大して思慮もしないで、思いつきと浅知恵で捻り出した世間受けしそうな際物で、と云う事でしょうな」
 鳥枝範士は身も蓋もない云い方をするのでありました。
「ま、何れにしても威治君の翻意は、詮ずるところなかったと云う事ですなあ」
 是路総士はやや落胆の口調で云うのでありました。
「こうなれば、早速に広島の須地賀さんに加盟受入れの連絡をせねばなりませんな」
「今日は寄敷さんの予定は、・・・」
 是路総士は座敷の、障子戸の辺りに控えている万太郎の方を見るのでありました。
「押忍。夜に八王子へ出張指導に行かれます」
「向後の打ち合わせをしたいから、少し早い目にこちらに寄って貰えると有難いな」
「そうですね。では電話してみましょう」
 鳥枝範士はそう云って立つと是路総士の後ろに回って、床の間の端に置いてある電話の受話器を取り上げるのでありました。
 寄敷範士は昼稽古が終わった頃に総本部道場にやって来るのでありました。早速の打ちあわせの席には万太郎もあゆみも同席するのでありました。
「広島の須地賀さんにはもう、総士先生の方から加盟受入れの連絡はされたのですね?」
 寄敷範士は来間が持ってきたコーヒーを啜りながら訊くのでありました。
「ええ、もう済ませました。また近々上京して挨拶に伺うとのことでした」
 是路総士もコーヒーを口に運ぶのでありました。
「その折、岡山の黍野段吾さんと徳島の宇津野馬和留さんも帯同するとの事だよ」
 鳥枝範士が云い添えるのでありました。
「ああ、須地賀さんと一緒に離脱した興堂派の支部長だね?」
「興堂派の、元支部長、だ」
 鳥枝範士が訂正するのでありました。「須地賀さんに依ると岡山も徳島も、あれからすぐに離脱届を興堂派に郵送したそうだ。興堂派からは受理するともしないとも云ってはこないらしいが、まあ、放り置かれたと判断して、離脱は完了したと云う判断らしい」
「何も云ってこないのなら、敢えて引き留めない、と云う事になるだろうからね」
「そうだね。どうせそんな風だろうとは思っていたが、長年興堂派を盛り立てた支部に対して、せめて挨拶の一言でもあって然るべきだろうが、まあ、今の興堂派の威治とあの会長にそんな大度を期待しても、端から詮ない話しだろうがな」
「興堂派、ではなく、今は、武道興堂流、です」
 不必要かとは思うのでありましたが、万太郎がそう訂正を入れるのでありました。
「ああそうだ、興堂流か。確かにそんな風な名前だったな」
 そう訂正する鳥枝範士の言葉つきには、多少嘲弄の響きが籠っているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 403 [お前の番だ! 14 創作]

「長年、道堂派と云い慣わしてきたから、どうもしっくりこないね」
 寄敷範士が、こちらは他意なく笑うのでありました。
「ま、興堂流だか荒唐流だか知らないが、広島と岡山も徳島からも一緒に三下り半を食らうとなると、如何にも体裁が悪かろう。そればかりではなくて痛手でもあろうが、それでも只管無愛想を決めこんで慰留もしないのは、如何にも威治のやる事らしい」
 鳥枝範士が鼻を鳴らして見せるのでありました。
「その三支部ばかりじゃなくて、これから他にも離脱する支部が出るんじゃないかしら」
 あゆみが他人事ながらも心配顔で云うのでありました。
「ま、確実に出るだろう。特に地方の古くからある支部は、挙って離脱するかも知れんな。道分先生の古い門弟達は、その後継に威治を総帥として担ぐ気にはなかなかなれないだろう。道分先生と威治とじゃあ、存在感も信頼感も較べようもないからなあ」
 寄敷範士があゆみの心配顔をより陰らせるのでありました。
「興堂流から離れた支部がウチに所属を求めてきたら、悉く受け入れるのですか?」
 万太郎がコーヒーカップを受け皿に戻しながら訊くのでありました。
「そうせざるを得ないだろう。頼ってきたのに断るわけにもいくまい」
 寄敷範士がコーヒーカップを持ち上げながら云うのでありました。
「八王子の洞甲斐さんみたいな人が所属を求めてきた場合、どうされるのですか?」
「うーん。瞬間活殺法の洞甲斐大先生か。実際は、それはないとは思うが。・・・」
 寄敷範士は困惑顔をするのでありました。
「そんな類はきっぱりと断る」
 鳥枝範士が横から云うのでありました。「当然、今までやってきた稽古の実績や指導者の器量と技量は考査する。ウチに移るに当たっての心懸けもな」
「例えば八王子や新宿みたいに、同じ地域にウチの支部と向こうの支部が両方ある処があるじゃないですか。そう云う場合でも受け入れるのですか?」
「八王子や新宿のように大都市では支部が二つあっても構わんだろうが、地方の狭い地域でとなると、そりゃ確かにあれこれ問題が出そうだな」
 鳥枝範士は腕組みをして小首を傾げるのでありました。
「大都市でも、同じ域内で向こうの支部がウチの看板を急に上げたなら、元からあるウチの支部の方はあんまり面白くないのではないでしょうか?」
「その辺は調整が必要になるだろうな。興堂派の、いや元い、興堂流のゴタゴタにウチの支部は全く無関係なのだから、それが不利益を被るとなると申しわけない。そうかと云って、所属を求めてきたのに無下に断るわけにもいかんからなあ」
「一つ折野とあゆみで、その辺の調整法を考えておいてくれ。誰が考えても妥当でどこからも文句の出ない、如何にもすっきりとした方法を、な」
 寄敷範士が依頼すると云うよりは、そう命じるのでありました。
「お、押忍。承りました」
 万太郎はそう返事するのでありましたが、大いに悩まし気な顔になるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 404 [お前の番だ! 14 創作]

「ところで話しは変わりまして、花司馬の事なのですが、・・・」
 鳥枝範士が是路総士の方にやや身を乗り出すのでありました。
「ああ、花司馬君ですね」
 是路総士は鳥枝範士の顔を見ながら一つ頷くのでありました。
「興堂派、いや、興堂流とこうなったからには、晴れて花司馬の処遇を変更しても差支えなくなったので、ここら辺で総本部に指導者として迎えては如何でしょう?」
「そうですね。そう致しましょうかな」
「花司馬は鳥枝建設の愛好会でのウケも良くて、面能美とも良好にやっています。花司馬の方があれこれ遠慮して、自分は新参者だからと面能美を立てて、面能美の煩いにならないように諸事に気を遣って、大いに遜った態度で稽古に励んでいますよ。さすがに道分先生が筆頭教士を任せただけの事はあって、なかなか心胆の出来た男です」
「花司馬先生を総本部の指導者に迎えるのですか?」
 あゆみが驚いた顔をするのでありましたが、万太郎の方は鳥枝範士が元々そう取り計らう魂胆なのだろうと推察していたので、さして驚きはしないのでありました。まあ、実はあゆみも何となく既にそう予想していたに違いないでありましょうから、この場合の驚いた顔は一種の言葉の遣り取り上の鳥枝範士に対する愛想と云うものでありましょう。
「そうだ。ずうっと鳥枝建設の社員にしておく心算は、端からない」
「折野もあゆみも、花司馬君を招くのに異存はないか?」
 是路総士が二人の顔を交互に見るのでありました。
「勿論あたしに異存なんてありません」
 あゆみがすぐに応えるのでありました。
「僕も全く異存はありません。花司馬先生にいらしていただけるのなら、返って道場の運営面でも大助かりです。技法についても色々教えていただく事も出来ますし」
 万太郎も同調するのでありました。
「総本部の主たる運営者の二人から許可を貰ったと解釈して良いな?」
「許可なんてそんな烏滸がましい事ではないですが、花司馬先生に加わっていただければ総本部の指導陣に厚みが増しますから、寧ろ好都合と僕は思います」
「よし、これで決まった。明日早速、花司馬にこの件は伝えておこう」
 鳥枝範士はそう云って掌を一つポンと打ち鳴らすのでありました。

 広島と岡山、それに徳島の旧興堂派の支部が総本部への移籍を表明すると、確かに予想された通り総本部への所属替えの流れは加速するのでありました。矢張り威治筆頭範士がやろうとしている新方針は、古い門弟達や地方からの反発が強いのでありました。
 一旦急となった流れは、幾ら財団会長や新宗家が躍起になって堰を高くしても、そう簡単に収拾出来るものではなくて、新しい活路を求めて奔流すると云った様相でありましたか。興堂範士の頃その儘に、威治筆頭教士が花司馬筆頭教士と手を携えて会派運営をしていれば、こうまで激流とはならなかったろうと万太郎は思うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 405 [お前の番だ! 14 創作]

 しかし威治筆頭範士に興堂範士程の実力も魅力もないのであってみれば、詮ずるところは花司馬筆頭教士頼みとなり、それでは総帥となった実利も甲斐もないと云うものでありましょう。威治筆頭範士が自分より格上で目の上の瘤である花司馬筆頭教士を、まるで追い出すように辞めさせたのでありましたが、こうして辞めさせても威治筆頭範士に思惑通りの実利も甲斐も、結局は転がりこまなかったと云いう事でありますか。
 嘗ての興堂派には日本国内に企業や学校なども含めて、八十を超える支部や団体が直属していたのでありましたし、海外にも二十程の支部を抱えているのでありました。それがあれよあれよと云う間に、関東近辺に二十数支部を残すだけとなるのでありました。
 しかも古くから活動していた支部が挙って抜けて、比較的新興の支部ばかりが残ったのでありました。抜けた国内の支部の内で総本部に新たに誼を結ぼうとするのが、抜けた内の三分の二程、後は独立か解散と云う道を選ぶと云う事になるのでありました。
 海外では離脱の動きは国内程顕著ではないのでありましたが、それは普段から興堂派本部とは地理的条件のために縁遠い活動をしていると云う事情のためでありましょうか。中には目が届かないのを逆手に、既に半独立したような形で自分の団体を率いる支部長もあって、日本国内の動きに鈍感でも然して影響がないと云うところでありましょう。
 要は海外では、興堂範士の名前と純然たる日本古武道の流れを汲む団体であると云う売り文句が最重要なのでありました。でありますから実力や常勝流指導者としての気概とは別物に、全く恣意に、云うなればまるで威治筆頭範士の先を行くように、自分勝手な、或いは自分独自の考えで団体運営をしているようなところが多いからでありましたか。
 それは中には、興堂範士の遺志を大切に守ろうとする団体指導者もいるのでありましたが、そう云うところは大概は独立の道を選ぶのでありました。でありますから、総本部に誼を通じてきたのは海外では二団体に過ぎないのでありました。
 この二団体の海外支部長は一定期間神保町の興堂派道場で修業を積んだ人で、その折に総本部の是路総士とも交流があったのでありました。まあ、そう云う縁がないのなら、海外の支部が敢えて総本部に所属するのを躊躇うのは宜なる哉と云うものであります。
 話しを国内に戻せば、総本部に所属替えを希望する団体は、同じ地域にある総本部系の支部に先ず交誼を求めて、間接的な形で総本部に所属を移そうとするところもあれば、同一域内でも殆ど総本部系と交流がなかった団体等は、直接総本部に連絡を入れてくる場合もあるのでありました。支部経由ならば然程の問題は生じないのでありましたが、そうでない場合は既存の総本部系支部との間で調整が必要となるのでありました。
 寄敷範士にその調整を任された万太郎とあゆみは、新しく所属を求めてくる団体にも既存の支部に対しても、その心証や利害を損なわないような配慮と云う点で大いに苦慮するのでありました。こちらを立てればあちらが立たずの片手落ちな調整なんぞをすれば、総本部の器量を疑われる事になりかねないのでありますから。
 何度か話しあいをするうちに万太郎とあゆみは、先決には既存の支部の不利益を除くと云う点で意見の一致を見るのでありましたが、それはそうでありましょう。前からある総本部系支部が、今回の事態で不利益を被る謂れは何もないのでありますから。
(続)
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お前の番だ! 406 [お前の番だ! 14 創作]

 でありますから、同一地域で活動をしている旧興堂派の団体は、原則としては既存の総本部系の支部下に形式上所属して貰って、実体としてはこれまで通りの独立した団体運営を許可するのでありました。これでそこの団体間に友好的な交流が新たに芽生えるのであれば、それは最も万太郎とあゆみが望む調整となるのでありましたが、実際のところはなかなかそうもいかない、個々の地域の事情もあれこれ存在するのでありました。
 例えば旧興堂派の団体を率いる指導者が総本部系の指導者よりも、歳も年季も力量も、それに規模でも上で、しかも活動歴も古いとなれば、格下と見做している団体の傘下に収まるのは、一方ばかりではなく双方にしっくりこないものが残るでありましょう。双方に目の前の現実を受け入れる器量があれば、向後の事は取り敢えず置くとしても、一旦は円満な収拾が図れるのでありますが、そうすんなりとはいかない事もあるのでありました。
 しかし既存の総本部系団体の不利益を回避すると云う前提を、先ずはきっぱりと示す事が旧興堂派団体への明快な態度と思い定めて、万太郎とあゆみはその線から外れない態度で調整に臨むのでありました。後は旧興堂派団体指導者の度量と勘定次第であります。
 そうは云っても折角総本部を頼った旧興堂派の団体に、新参だからと云ってつれなく原則通りを押しつけると云うのも、万太郎もあゆみも情に於いて忍びないところもあるのでありました。興堂派の混乱は云ってみればその団体には不慮の災難でもありますから。
 そう云う場合は、万太郎とあゆみは総本部の誠心誠意を見せるために、手分けして現地に赴く事もあるのでありました。勿論、是路総士の一任を取りつけた上で。
 万太郎とあゆみは日本地図を広げて、毎夜、苦慮の表情で、調整具合を確認するのでありました。調整が成ったところは色鉛筆で赤く塗り潰すのでありますが、地図上に塗り潰しのない未調整の地域がなくなるまでには、三か月と云う時間を要するのでありました。
 ほぼ調整が成った時点で、万太郎とあゆみは首尾を是路総士と鳥枝範士、それに寄敷範士に報告するのでありました。三人は万太郎とあゆみの話しを、途中で何も質問や疑問や自分の思いを差し挟む事なく、黙して謹慎に聞いているのでありました。
「思ったより時間がかかって申しわけありません」
 締めくくりの言葉として万太郎がそう云うのでありました。
「いやいや、何かと扱いの面倒なヤツ等が多い武道の世界で、三か月程で大方の合意を取りつけたのだから、これは大したものだと云えるな」
 珍しく鳥枝範士が万太郎とあゆみを誉めるのでありました。
「しかも結局は、揉めて所属を取り消すところが幾つか出ると思っていたが、移籍を望む団体がほぼ欠ける事なく、こうやって綺麗に纏まったのだから大した手腕だ」
 寄敷範士もやや大袈裟に誉めそやすのでありました。
「まあ、向こうとしても総本部に所属しなければ常勝流の名前を使えないし、孤立した儘でこの先団体を維持するのは至難であるとか、或いは寄らば大樹の陰、と云った気持ちもあったのだろうが、それにしても三か月で一応円満にここまで良く纏められたものだ」
 鳥枝範士が万太郎にニンマリと笑いかけるのでありました。
「いや、二人共ご苦労だった。暫くゆっくり休めと云いたいが、そうもいかんかな」
(続)
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お前の番だ! 407 [お前の番だ! 14 創作]

 是路総士がそう云うのは、これですっかり落着したわけではなく、その後も色々と目配りを怠らず状況に注意せよとの命でありましょう。
「この調整結果は花司馬先生のご助力のお蔭でもあります。もしそれがなくてあたし達だけで処理しようとしていたら、ここまで纏まったかどうか判りません」
 あゆみが花司馬筆頭教士、いや、今では花司馬総本部教士の名前を上げるのでありました。花司馬教士はこの度の調整に、大いに手を貸してくれたのでありました。
 花司馬教士の献身的な仲立ちや口添えそれに強い指導力があればこそ、旧興堂派の各団体は万太郎とあゆみの調整を呑んだとも云えるのであります。花司馬教士は必要とあらば万太郎やあゆみの現地訪問に、進んでつきあったりもしてくれたのでありました。
 花司馬教士としても旧興堂派時代に誼のあった各団体のその後の動向には、少なからず気を揉んでいたのでありましょう。それだからこその献身でもありましたか。
 その花司馬教士でありますが、威治筆頭範士と会長連名の断交の手紙が来てから一週間ほど経って、鳥枝範士と一緒に総本部道場に姿を見せるのでありました。その日より総本部道場に身柄を置くと云うので、些か緊張の面持ちをしているのでありました。
「先ずはこの度のご高配に、幾重にも感謝申し上げます」
 花司馬教士はそう云って両手をついて律義な座礼を是路総士に送るのでありました。
「一時の間、稽古以外の煩いが多々ありましたが、これからは常勝流の稽古に励んで、素晴らしい武道家として立ってください。道分さんの遺風を継承すると云う意味でも、花司馬さんなら立派に果たされる事でしょう。これからに大いに期待していますよ」
「身に余る激励のお言葉、胸に刻みます」
 花司馬教士は再び深々とお辞儀するのでありました。
「さて、貴方の処遇だが」
 是路総士は頭を起こした花司馬教士に告げるのでありました。「花司馬さんのこれまでの興堂派での年季と実績に鑑みて、総本部範士補、と云う称号を与えて、総本部の門下生を指導して貰いたいと考えているのだが、それで異存はありませんかな?」
 是路総士に云われて、花司馬教士は居心地悪そうな及び腰を見せるのでありました。
「いや、自分は興堂派では筆頭教士でしたし、総本部に移ってすぐに、範士補、と云う称号は相応しくないと考えます。同じ常勝流とは云え、興堂派と総本部では多少の技術の違いがありますし、総本部の術理をすっかり呑みこんでいるわけでもありませんから」
「しかし私と鳥枝さんや寄敷さんにしても多少の違いはあります。折野だってあゆみだって自儘を消そうとして努力してきましたが、結局残るべき個性は残るのです」
「いやそれでも自分としては、暫くは総本部の技法にしっくり馴染むまでは、見習いと云う了見で修業させていただきたいと考えております」
「見習いが、ウチのあゆみや折野や来間よりも貫録があっては妙だろうよ」
 鳥枝範士が笑い顔で横あいから云うのでありました。
「それは自分が歳嵩であると云うだけで、総本部での修業歴はお三方には及びません」
 花司馬教士は案外、と云うよりは、予想通りなかなか頑固なのでありました。
(続)
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お前の番だ! 408 [お前の番だ! 14 創作]

 結局、見習い、と云うわけにもいかず、教士、と云うところで両者は折りあいをつけるのでありました。これは万太郎と同格、筆頭教士のあゆみの下、という席次であります。
 しかもあゆみの総本部道場長、万太郎の道場長補佐と云う役職を加味すれば、平役の花司馬教士は万太郎よりも格下に位置する事になるのであります。花司馬教士は出来るなら教士補の来間の下を希望するくらいの心算だったようでありますが、逆にそれは平に勘弁をと、是路総士と鳥枝範士に丁重に懇願されているのでありました。
 律義で四角四面を尊ぶ如何にも花司馬教士らしい態度だと、障子戸を背にして控えている万太郎は、その遣り取りを不謹慎ながら微笑ましく聞いているのでありました。万太郎の横に座っているあゆみも、窺えば、口元が綻んでいるのでありました。
 花司馬教士が不意に万太郎とあゆみの方へ体ごと向き直るのでありました。花司馬教士は両手を畳に着いて、前屈みの姿勢で二人に対座する形を取るのでありました。
「あゆみ先生、それに折野先生、どうぞこれからよろしくご教導ください」
 花司馬教士の格式張った座礼に、万太郎とあゆみはオロオロと急ぎお辞儀を返すのでありました。万太郎は、折野先生、等と初めて花司馬教士に呼ばれて、無闇に尻の辺りがむず痒くなるのを抑えられないのでありました。
「あのう、花司馬先生、・・・」
 万太郎は頭を恐る々々起こしてから、花司馬教士の顔を仰ぎ見るのでありました。「出来ましたら呼び捨てか、せめて今まで通り君づけくらいで勘弁しては貰えませんか?」
 万太郎が消えも入りそうな声でそう云うのを鳥枝範士が吹き出しそうな顔で見ているのが、万太郎の目の端に映るのでありました。
「いやいや、それはいけません。折野先生は総本部に於いては自分の先輩格に当たりますので、こうして総本部に席を戴いた限りは、弟弟子の了見で努めさせていただきます」
 花司馬教士は揶揄でも何でもなく、断固真面目にそう云ってまたもや格式張って万太郎に座礼するのでありました。万太郎はあたふたと再度礼を返すのでありました。
 どうにも困った事になったと、万太郎は心中で唸るのでありました。花司馬教士の頑固一徹の、しかも生一本の形式重視を持て余しているのであります
「しかし、花司馬先生にそう呼ばれると、僕の尻が痒くなって仕方がありません」
「いや、尻が痒ければ弟弟子の務めとして、何なら自分が掻かせて貰いますが」
「いや、そればかりはどうぞ真っ平ご容赦ください」
「いやいや、兄弟子のためなら何でもするのが弟弟子たる者の覚悟です」
「いやいや、何と云いますか、それでは僕の立つ瀬がないと云うもので、それに第一、僕の尻のどの辺りが痒いかは、本当のところは僕にしか判らない事でもありますから」
 この万太郎と花司馬教士の遣り取りを聞きながら、先ずあゆみが堪え切れずに口を両手で押さえて吹き出すのでありました。それを契機に是路総士も鳥枝範士も大笑するのでありましたが、万太郎と花司馬教士の二人は笑う三人を無表情に眺めるのみでありました。
「花司馬さんと折野は、この先良いコンビになりそうだな」
 笑い収めた是路総士が、未だ口の端に笑いの残滓を留めてそう云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 409 [お前の番だ! 14 創作]

「まあ、折野の尻をどっちが掻こうが、それはお前達に任せるから、花司馬、一つよろしくあゆみと折野と協力して総本部を盛り立ててくれ」
 鳥枝範士もやはり笑いの余波を頬に宿した儘で云うのでありました。
「押忍。あらん限りの力を以って努めさせていただきます」
 花司馬教士は鳥枝範士にも格式張ったお辞儀するのでありました。
「花司馬先生、これからよろしくお願い致します」
 これはあゆみの言葉でありますが、そう云う傍から、先程の笑いが再びこみ上げてきたようで、語尾が笑い混じりと化して仕舞うのでありました。
「あゆみ先生、よろしくお引き立てください」
 花司馬教士はあゆみの目を見て慎に真摯な面持ちで云うのでありましたが、花司馬教士と視線があった途端、あゆみがすぐにまた我慢出来ずに吹き出すのでありました。花司馬教士はあゆみの制御不能らしき笑いの発作に困じ果てて、頭を掻くのでありました。
「それから、旧興堂派の多くの支部が今回のゴタゴタに窮して、総本部に援助を求めてきているのだが、その辺の事情は花司馬さんも既にご存知だと思います」
 是路総士が表情と話頭を改めるのでありました。
「押忍。鳥枝先生からも、旧知の支部の連中からもあれこれ聞いております。直接自分の方に相談をしてくる支部長もおりました」
「総本部の支部との兼ねあいもあって、おいそれと無条件に受け入れると云うわけにはいかんので、今折野とあゆみに調整させているところです。こちらの方も二人の力になってやってください。花司馬さんは興堂派の支部長さん達とは旧知なのですからな」
「その件は自分も気になっているところで、これも誠心誠意努めさせていただきます。自分が関わる事で難事がすんなりと決着するとすれば、喜ばしい事でありますから」
「よろしく頼みます。委細は後程、二人と打ちあわせてください」
「押忍。承りました」
 花司馬教士は是路総士に向かって深く頭を下げるのでありました。
 と云う事で前に述べた如く、花司馬教士は万太郎とあゆみの助力に進んで奔走してくれるのでありました。花司馬教士の人望と旧興堂派内に於ける指導力は、威治筆頭教士とは比べものにならない程絶大で、それにその花司馬教士自らが総本部に移ったと云う事実の効果は、旧興堂派支部の不安を取り除く上で大きく作用するのでありました。
 さて、花司馬教士の道場における謹恪な態度は、万太郎やあゆみに不要な負担をかけまいとしてか、実に頭の下がるものがあるのでありました。花司馬教士は万太郎とあゆみに対するに、先生、の尊称を忘れず、如何にも遜った物腰で接するのでありました。
 あゆみは前からそう呼ばれていたので然程抵抗はないようでありましたが、万太郎は自分より歳上で修業歴も長い、前から心服していたその人から急に慇懃な態度を取られる事に大いに閉口するのでありました。万太郎は花司馬教士に、兄弟子弟弟子の関係は絶対だと云うのなら常勝流の中では自分の方が後輩に当たるのだし、余りの遜りは困ると申し入れるのでありましたが、持ち前の頑固さにあっさり撥ね返されるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 410 [お前の番だ! 14 創作]

「この場合はそうはいきません。総本部の温情に依り末席に連なる事を許された者が、そこに古くから居た方々に不遜であったら、この花司馬の面目が全く立ちません」
 花司馬教士は目を剥いて眉根を寄せて万太郎にそう返すのでありましたが、その大袈裟な物腰に万太郎は心中やれやれと頭を抱えるのでありました。前にあゆみも、先生、は止めてくれと申し入れて、頑なに拒まれたと云う経緯を聞いていたのでありますが、成程この花司馬教士の了見を変えさせるには相当の粘り強い交渉が要るようであります。
 花司馬教士はあゆみや万太郎ばかりではなく、来間に対しても先生と云う尊称をつけるのでありました。これには来間が魂消てオロオロするのでありました。
 思い余ったか、来間はある時万太郎にこの窮状を切々と訴えるのでありました。
「あのう、折野先生、ちょっと良いですか?」
 来間は母屋の食堂で椅子に腰かけている万太郎に背後から声をかけるのでありました。
「おう何だ、来間先生?」
 ふり返った万太郎のその受け応えに、来間は露骨に嫌な顔をするのでありました。
「折野先生まで、花司馬先生の真似は止めてくださいよ」
 来間はそう云いながら万太郎の向いに腰を下ろすのでありました。
「何だ、どうかしたか?」
「実は、その花司馬先生の事なのですが」
 来間はそう云ってその先を喋る事を少し逡巡するのでありました。「別に花司馬先生がどうこうと云うわけじゃないんですが、自分まで先生をつけて呼ばれるのは、何と云いますか、自分としては非常に困るんですけど。・・・」
「ああ、その事か」
「自分如きにまで先生つきで敬語で話されたりすると、自分の方は花司馬先生にどう話し返して良いものやら、まごついて仕方ありません」
「こうなったら花司馬先生に対しては、名前呼び捨ての命令口調で良いんじゃないか」
「茶化さないでくださいよ。これは冗談で云っているのではないのです」
 来間は万太郎をげんなり顔で睨むのでありました。
「ま、それは実は俺も困っているんだが。・・・」
「折野先生から花司馬先生に、どうぞご勘弁をと話して貰うわけにはいきませんか?」
「もう話したよ。しかし花司馬先生に依るとそれ絶対ダメなんだそうだ」
「そこをもう一度」
 来間は万太郎に合掌して見せるのでありました。
「二人して、何を深刻な顔で話しているの?」
 食堂に入ってきたあゆみがテーブルの二人に話しかけるのでありました。
「ああ、あゆみ先生」
 来間はそう云って立ち上がるのでありました。
「来間が花司馬先生に、来間先生、と呼びかけられるのが困ると訴えているのです」
 万太郎は横の席に座りかけるあゆみに云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 411 [お前の番だ! 14 創作]

「あゆみ先生は前から花司馬先生に、先生をつけて呼ばれていらっしゃいますけど、そう云う呼び方を納得されていますか?」
 来間があゆみの方に深刻顔を向けるのでありました。
「納得しているわけじゃないけど、もう拘らないようにしているの」
「俺は納得する途上にあるかな、云ってみれば」
 万太郎が背凭れから上体を起こしながら来間に云うのでありました。
「しかし、常勝流の大先輩である花司馬先生が僕等をそう呼ぶのは、如何にも不自然で、落ち着きの悪い事態だと自分は思うのです」
 来間は力説するのでありました。「ここは矢張り年季の順を守って、まあ、お二人の事はさて置いて、少なくとも自分の事は呼び捨てにしていただかないと」
「さて置かないで、俺もそっちの方に入れろ」
 万太郎は冗談っぽくそう云って情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「折野先生、自分は本気で訴えているのですよ」
 来間は万太郎の不謹慎な態度に大袈裟に不快感を示すのでありました。
「注連ちゃんもあたしを、あゆみさん、と呼んでいたのに、いつの間にか、あゆみ先生、なんって最近は呼んでいるじゃない」
「それは道場長補佐の折野先生を先生と呼んで、道場長のあゆみ先生を先生と呼ばないのはおかしいと思ったからです」
「ああ成程。それなりの理由はあるわけね。でも自然か不自然かは別にして、花司馬先生にもそれなりの理由があって、注連ちゃんを先生と呼んでいるんじゃないの」
「この場合、自然である事が大事なのです」
「それなら来間、俺に頼まないで自分で呼び捨てにしてくれと花司馬先生を説得しろ。まあ、序に俺も呼び捨てにしてくれと云い添えてくれたら助かる」
 万太郎がそう云うと、来間は急に及び腰になるのでありました。
「え、自分が云うのですか?」
「序の序に、あたしの呼び捨ての件もよろしく云ってくれる?」
 あゆみが万太郎に同調するのでありました。
「いやあ、僕が云うのは、後輩としての遠慮がなさ過ぎると云うか、何と云うか。・・・」
「花司馬先生にそう云うのは、なかなか億劫でしょう?」
「億劫でしんどそうです」
 来間はあゆみから目を逸らすのでありました。
「だからこちらで拘らないようにするのが得策なのよ。ひょっとしたらその内、状況が変われば花司馬先生の考えも変わるかも知れないから、それを期待して」
「いっその事、指導部全員で、お互いに相手を先生と呼びあうと云うのはどうですか?」
 万太郎はあくまで茶化す態度であります。
「成程、それも一策ではあるわね」
 今度はあゆみが万太郎の茶々に同調するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 412 [お前の番だ! 14 創作]

「そう云うのは、絶対止しましょうよ」
 来間は大いにたじろぐのでありました。
「まあ、それは冗談として、折があったら注連ちゃんの思いは、お父さんにそれとなく云っておくわ。お父さんはだからと云って、笑うだけで何もしないかも知れないけど」
「よろしくお願いします」
 来間はあゆみに一縷の望みを託して合掌するのでありました。
 結局、来間の尻がむず痒いところのこの件は、是路総士から花司馬教士に伝えられて、今度は尻を自分が掻こう等とは特に云い出さないで、花司馬教士は来間に関しては、君づけ、と云う妥協策で折りあうのでありました。しかし万太郎とあゆみに関しては断固譲らず、将来の総本部を背負うべき人に無礼はなりませんと、先生づけを止めない方針を是路総士に明らかにするのでありましたが、是路総士はここまで妥協を引き出すのが自分の力の限界であると、これ以上の説得を諦めてあっさり引き下がったようであります。
 是路総士に説得を諦めさせるとは、花司馬教士の頑固一徹、慎に恐るべし、でありますが、この話しを漏れ聞いた鳥枝範士と寄敷範士が、それ以降時々万太郎とあゆみを面白半分に先生づけで呼ぶようになったのは、これは困った誤算でありました。ま、来間の態度に不謹慎であったための天罰だと云えなくもないでありましょうか。
 こんな花司馬教士でありますが、序につけ加えれば、花司馬教士は心機一転の意気ごみを示すため、一家して調布の道場近くに引っ越して来るのでありました。総本部の一員となった事に対するその志操の程は、慎に以って敬すべしであります。

 花司馬教士はすぐにも総本部道場の中心指導をと云う万太郎やあゆみ、それに是路総士の企図に対して、慇懃に辞退を申し入れるのでありました。自分は未だ興堂派の技法に染まっている儘で、それは総本部の技法とは微妙な差異があるから、そんな状態で中心指導をすれば門下生が混乱する事になるに違いないと云うのがその理由でありました。
 花司馬教士は興堂派での自分の技量をすっかりさて置いた態度で、総本部の技法を吸収するために直向きに稽古に打ちこむのでありました。また稽古中に感じた少しの疑問も疎かにせず、稽古後には万太郎やあゆみを捉まえて確認を取るのでありました。
 でありますから、自然に夜の内弟子稽古の場が技法の細かなお浚いの場と化すのでありました。しかしこれは万太郎やあゆみ、それに来間や他の準内弟子達にとっても、今まで曖昧な儘にしていた技法上の疑問を、細かなところに到るまで明確化統一化して、言語化するための実に有益な稽古となるのでありました。
 流派における技法の統一や深化のためには、こう云った稽古が必ず要るのでありましょうし、こういう稽古を半年程積む内に、当然自身の直向きさと、既に技術に熟達していたところもあって、花司馬教士は総本部の技法やその依って立つ考え方にすっかり溶けこむのでありました。まあ、その態度の堅苦しさは然程変化なさそうではありましたが。
 この間、興堂派改め武道興堂流の動静はと云うと、本部道場を神保町から葛西の外れの方に移すのでありました。家作も随分小ぢんまりした構えのようであります。
(続)
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お前の番だ! 413 [お前の番だ! 14 創作]

 支部数が約三分の一になり、本部道場の門下生も相当数減ったようで、神保町の道場を維持するのに支障を来たしたためでありましょう。これは威治筆頭範士、今現在は宗家と称しているようでありますが、その威治宗家の自業自得と云うものであります。
 道分興堂の興堂流、と自流の冠に必ず興堂範士の名前をつけて呼び慣わそうとしているのは、もうすっかり興堂範士の威名頼みと云う風情で、威治宗家では世の耳目を引かないし、門下生もさっぱり集まらないと云うのが現実なのでありましょうか。
 最近総本部道場に移って来た旧興堂流の門下生辺りから漏れ聞くところに依れば、葛西の新道場は借家との事で、畳の数で云えば五十畳程、後は小さな受付部屋に数人の指導員等が屯しているとの事であります。他には六畳程の男女の更衣室、それに威治宗家専用の宗家部屋があるくらいで、神保町にあった興堂派道場が広い玄関を持つ自前の鉄筋コンクリート二階建てで、百畳程の大道場の他に三十畳の小道場もあり、後は受付部屋、指導員室、興堂範士が居た師範控えの間、内弟子達の合宿部屋、シャワーつきの男女更衣室、それに食堂を備えていたのに比べれば、随分様変わりしたと云えるでありましょう。
 受付部屋の顔ぶれも、板場や堂下は良いとして、他は例の瞬間活殺法の先生に空手や柔道界の溢れ者先生達で、これがまた稽古着の着方が到ってだらしのない、やけに脂の浮いた顔を厳めしく装った連中で、何やら破落戸の巣窟と云った様相のようであります。こう云う事を聞くと、凋落の一途、と云う言葉が万太郎の頭の中に浮かぶのでありました。
 また、旧興堂派の多くの支部が総本部の傘下に移ったのは、興堂範士の突然の他界に巧みに便乗した、総本部の陰湿な策謀があったためだと云う流言が流布しているようなのでありました。まるで興堂流の衰退は総本部の悪辣な目論見であるかのような、この噂の出処なんと云うものはほぼ推察はつくのでありましたが、こう云う無責任な浮説を流布させようと陰謀する辺りも、興堂流の凋落の明らかな兆候と云えるでありましょうか。
 この噂に万太郎と花司馬教士は憤慨するのでありましたが、是路総士は恬淡としているのでありました。それから鳥枝範士も寄敷範士も、皮肉な笑いを浮かべて舌打ちはするものの、こちらの二人も特段その噂に感情を昂じさせる事はないようでありました。
 鳥枝範士までもがこうも呑気にしているのは解せないのであります。万太郎と花司馬教士は何か対策を講じる必要があるのではないかと談判に及ぶのでありました。
「豎子は相手にしないのが一番の方策だ」
 鳥枝範士は全く歯牙にもかけていない様子でありました。
「しかし有る事ない事云いたい放題を放置しておくのも、あの威治の事ですから益々増長して、言説がエスカレートして仕舞うのではないでしょうか?」
 花司馬教士が危惧を表明するのでありました。
「増長すればする程、返って足元が疎かになって勝手に転倒するだろうよ」
「確かに噂の真偽は少し調べればすぐに判る事ですが、調べもしないで尻馬に乗る騒ぎ屋連中も出てくる事が考えられます」
「そいつらにしても、結局のところはお里が知れると云うだけだ。そんな下らん噂に律義にかかずらっていないで、折野も花司馬も淡々と自分の稽古に打ちこめ」
(続)
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お前の番だ! 414 [お前の番だ! 14 創作]

 鳥枝範士はあくまでもつれないのでありました。「ひょっとして花司馬は、そう云う流言が出る事に対して、お門違いの責任とかを感じているのではないか?」
 そう云われて花司馬教士は俯くのでありました。
「成り行きから、全く責任なしと云うわけにはいかないような気がしております」
「無意味な思い過ごしだ。お前の思いとは関わりなく、威治がお前を追い出すように仕向けたのだし、そんなヤツに愛想尽かししたので、支部が離れていったんだ。元凶は総て威治の不徳にあるのだから、お前が責任を感じる必要は何処にもない」
「しかし自分がもっと色々尽力すれば、興堂派がこんなに衰退して仕舞うのを、幾らかでも防げたかも知れないという、何やら道分先生に対しての慙悸は拭えないでいます」
「お前がどんなに尽力しても、それは結局徒労に終わったろうよ。まあ、威治を興堂派から追い出すと云うくらいの覚悟があったならば、それはまた別の話しになろうが」
「いや、そこまでは。・・・」
 花司馬教士は口籠もるのでありました。それはそうでありましょう。
 花司馬教士は興堂範士の興した興堂派と云う流派から、その血脈を切り捨てるわけにはいかないと考えるでありましょう。そこまで非情にはなれない人なのであります。
「流言は何時かは消える。殊に根も葉もない流言はすぐに姿を消す。その尻馬に乗って騒いだ連中もたちまち、しれっと何もなかったような顔をするようになる」
 鳥枝範士は到って無愛想にそう云って、花司馬教士の気持ちを軽くしてやろうとするのでありました。こちらも、実際は優しい心根の人なのであります。
 さて、新加盟の道場が急増したものだから、総本部の指導陣はかなり忙しくあちらこちらの支部を駆け回らなければならないのでありました。総本部から近い処ならば、向こうから稽古に来る事も可能でありますが、地方となるとおいそれとはそうもいかないので、畢竟、請われる儘総本部指導陣が出張指導に出向く事になるのであります。
 特に当初は指導と免許審査の依頼が引切りなしで、その調整を受け持つ万太郎とあゆみは一苦労するのでありました。しかも一回だけ指導や審査に行けば済むと云うものでもないし、元々出向いていた総本部系の道場への出張指導を等閑にするわけにもいかないので、指導陣の出張ローテーションを組むのは大いに気骨の折れる仕事でありました。
 総本部は単なる営利調整機関ではなく流派の総元締めなのでありますし、武道では技術の統一と免許発行元が単一である事が流派の根幹要件で、そのためには出張指導と免許審査は代行の利かない重要なものであります。特に新たな加盟団体に対しては、そこの指導者をも含めて、新たに総本部の免許を交付しなければならないのでありますから。
 これは花司馬教士も例外ではなく、教士としての技量が十分かどうかの審査はあったのでありました。勿論問題なく、花司馬教士はそれに悠々合格したのでありました。
 旧興堂派は体術では微妙な総本部との違いはあったものの、興堂範士が常勝流の理合いに忠実だったので全く別物という程ではないのでありましたが、剣術に関しては興堂範士が得手ではなかったせいか、その技量に総本部との大きな落差があるのでありました。先ずはここから、技も理も、水準を上げていかなければならないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 415 [お前の番だ! 14 創作]

 旧興堂派の古手支部長の中には、体術に関しても剣術に関しても、総本部の技法と相容れない事を説く人もいるのでありました。万太郎は、理の面では、相手を説き伏せるだけの論を有していると自信を持っていたのでありますが、技の面では、門下生に対するその人の体裁と、自分より年季も歳も上である事に対する遠慮もあって、自信は充分にあったのではありますが、はっきりと組み伏せて仕舞うわけにはいかないのでありました。
 新しい境地に対して意欲的な支部長なら、万太郎の指導を素直に受け入れてくれるのでありましたが、そうはいかないなかなか偏狭な仁も居るには居るのでありました。しかしこう云う人は自分の在り方に何人の容喙も許さないようなタイプで、例え是路総士がその理や技の変更を迫ったとしても、おいそれとは受け入れられないのでありましょう。
 圧倒的な強さを示せばそれで良いのでありましょうが、そうやってあらぬ恨みを買っても無意味と云うものでありましょう。こういう場合、万太郎は鳥枝範士の迫力と押しの強さを、ないもの強請りに大いに羨ましく思うのでありました。
 依って慎に残念ながら折角総本部に移籍を決めながら、そんな体面や狷介さのために、結局は総本部からも離れて独立独歩を選択する旧興堂派の支部が二三出るのでありました。そう云うところも当然出るだろうと鳥枝範士は全く問題にしないのでありましたが、万太郎としては自分が指導と審査に関わったところがその離れた中に一団体あったので、何となく自身の責任でもあるような、後味の悪い思いに暫く苛まれるのでありました。
 しかし概ね、万太郎の指導は新加盟した支部から好評を得る事が出来たのではありました。旧興堂派の多くの支部が総本部に移る端緒をつけたと云える広島支部の須地賀支部長等は、万太郎の来訪を殊に喜んで迎えてくれた一人でありました。
 それは花司馬教士や亡くなった興堂範士から、時折万太郎の事を常勝流の逸材と聞かされていた事もありましょうが、須地賀支部長が移籍の打ちあわせ等に総本部へ訪ねて来た折に、万太郎の立ち居ふる舞いや稽古に対する姿勢、須地賀支部長への接し方等を見て大いに好感を持ってくれたからでもありましたか。自分の方が歳も年季も上であるにも拘わらず、須地賀支部長は万太郎を総本部の代表派遣指導者として返って万太郎の方が恐縮するくらい、例え自分の門下生達の前であろうと大いに立ててくれるのでありました。
「この折野先生は長く総士先生のお側に仕えてきた将来の常勝流を背負って立つエリートで、その指導を受けるチャンスなのだから、先生の技と理をしっかり学ぶように」
 須地賀支部長は稽古の前に門下生にそう訓戒するのでありました。これには万太郎にとって頭の下がる程の有難い配慮と云うものでありました。
 須地賀支部長は立場をさて置いて、少しでも疑問があれば万太郎に何でも指示を仰ごうとするのでありました。万太郎としてもその心意気に甚く感じ入った以上、誠心誠意を以って理をふるい技を披露するのでありました。
 勿論万太郎に須地賀支部長の心意気に応ずるだけの十分な技量がなければ、これは徒な配慮となって仕舞うのであります。万太郎はそう云う無様だけは避けたいと、実のところは相当なプレッシャーを感じたのでありましたが、しかしまあ、何とか無事に須地賀支部長の配慮を徒とする事なくこの出張指導を務めたのでありました。
(続)
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お前の番だ! 416 [お前の番だ! 14 創作]

 中には万太郎を年季も歳も格下と、初めから見下して接する支部長もいるのでありました。出張指導に是路総士ではなくまた鳥枝範士でも寄敷範士でもなく一介の教士風情がやって来たのが、軽んじられているようで気に入らないと云う事でありましょう。
 こんな場合は組形稽古後に決まって万太郎に乱稽古を挑んでくるのでありました。流石に遠慮から支部長と試合うのは憚られるのでありますが、道場の古手で強面の門弟をあっさり抑えたり投げ飛ばして見せれば、大抵は万太郎の並々ならぬ技量に驚嘆して、支部長以下意外に素直に万太郎に畏敬の視線を注ぐようになるのでありました。
 常勝流指導の常道から見れば、なるべくなら乱稽古は避けたいのでありました。しかし初めて行く指導先では論より証拠と云うところもあるにはあると、万太郎は鳥枝範士に前以てこっそり助言されていたと云う事もありましたから、ここは一つその鳥枝範士の助言を尊重させて貰った、と云うような次第となるのでありましょうか。
「折野、但しその場合、圧倒的に勝たなければならんぞ」
 鳥枝範士はそう云ってニヤリと笑うのでありました。「総本部の内弟子であるからには組形稽古も乱稽古も、体術剣術に限らず門下の他の者よりも豊富に、しかも厳しく仕こまれているのだから、誰に挑まれたとしてもよもや不覚は取らないだろうが、しかし辛勝と云うのでは説得力に欠ける。そこは圧倒的に勝たなければ無意味なのだからな」
「圧倒的に勝つ、のですか?」
「そうだ。しかし気絶とか怪我をさせるような技をかけるのではないのは判るな?」
「結果の強烈さではなく、技をかける過程で技量の差を見せつけると云う事ですね?」
「そうだ。投げる前に、これは全然叶わんと畏怖させるような圧倒だ」
「若しもそう云う場合があれば、努めてみます」
「ま、何時もの稽古相手とは違う相手と乱稽古するのも、良い修行になるだろうよ」
 鳥枝範士はそう云って万太郎を送り出すのでありました。
 とまれ、こうして是路総士、鳥枝範士と寄敷範士、それに万太郎が出張指導の主要員となって新加盟支部を回るのでありました。是路総士は大分良くはなったとは云え腰に問題を抱えているし、鳥枝範士も寄敷範士も体の事を何も気にせずに飛び回れるような歳でもないので、畢竟万太郎が最も目まぐるしく動き回る事になるのでありました。
 それに三先生には必ず助手がついて行くのでありましたが、万太郎の場合は一人で先方を訪うのが常でありました。勿論、指導に行くのでありますが、万太郎は何やら昔の諸国行脚の兵法修行者のような心持ちもして、実は多少愉快ではあるのでありました。
 九州に行った折には、熊本の実家にもちらと立ち寄る事が出来たのでありました。
「お前もぼちぼち嫁ば貰うても良か歳ばってん、その辺はどぎゃんなっとるとやろか?」
 と云う母親の質問には閉口するのでありました。
「総士しぇんしぇいの誰か良か人ば紹介してくださらんとか?」
 父親が母親の質問に同調するのでありました。
「どぎゃんもこぎゃんも、未あだ一人前になっとらんとやけん無理たい」
 万太郎はそう返事してほうほうの態で熊本を後にするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 417 [お前の番だ! 14 創作]

 こうやって出張依頼のあった新加盟支部の総てを一通り巡回するのに、半年程の時間を要するのでありました。当然新加盟団体への出張指導専門に動くわけではなく、総本部の元々の支部にも定期指導に赴くし、勿論総本部道場の指導も滞らせる事は許されないのでありますから、この間万太郎は体が幾つあっても足らないと云う感じでありましたか。
 総本部道場への新入会員数も急増するのでありました。これも当然旧興堂派の離脱者の入会が多いのでありますが、その中には万太郎が出稽古に行っていた頃の顔見知りも多いのでありましたし、巨漢で好漢の目方吾利紀の顔もその中にあるのでありました。
 その目方の情報に依れば、元々からの興堂範士の内弟子である板場と堂下は技法の大幅な変更とか、乱稽古一本槍の稽古法に内心すっかり辟易していると云う話しであります。興堂流を辞める気もあるようでありますが、何となく時宜を逸したような按配で、ずるずるとその日その日の課業に追われていると云ったところの様であいましょうか。
「要するに威治宗家に良いように扱き使われている、と云ったところでしょうね」
 目方はそう云ってから苦々し気に口を歪めるのでありました。「まあ、板場さんは亡くなった道分先生への忠義立てと云う面が大きくて、もう一度何とか元の興堂派のような賑わいをと期する気持ちの張りがあるようだけれど、堂下君はもう、すっかり腐って仕舞って、何につけても投げ遣りな風になっていましたよ」
 目方から堂下の事を聞いて、万太郎は遣る瀬ない思いに駆られるのでありました。前はまるで弟のように、自分に懐いていた堂下なのでありましたから。
 また旧興堂派から移って来た者には、嘗て筆頭教士として興堂範士の次席で指導に当たっていた花司馬教士が、是路総士や鳥枝、寄敷両範士にならまだしも、当初は稽古で万太郎やあゆみに対しても助手みたいな立ち位置をとっている事が、かなり違和感を以って見られていたようでありました。総本部に移ったのは良いけれどそのために花司馬教士は前の処遇からすれば、すっかり冷遇されているかのように見えたとのでありましょう。
 しかしここは花司馬教士が溌剌と稽古に臨んでいる姿から憶測が妙な風には発展しないのでありました。花司馬教士自身も心機一転、範士補と云う厚遇を辞退して、一介の教士として努めさせてくれと自ら願ったのだと、訊かれれば公言するのでありました。
 新加盟支部の巡回指導が一通り終わった半年後辺りで、花司馬教士の方も万太郎とあゆみと同格に、総本部での中心指導を任されるようになるのでありました。その頃はもうすっかり総本部の技法と指導法が身についていて、新しい指導者として、旧興堂派から移って来た者は勿論の事、前からの総本部の門下生の間でも人気があるのでありました。
 しかしだからと云って花司馬教士はその四角四面好きの性格から、謹恪な態度を決して崩す事なく、相変わらず万太郎とあゆみは先生づけで呼ばれてたじろがされているのでありました。来間は、来間君、と、ちゃんと格下げして貰っているようでありますが。
 鳥枝範士と寄敷範士は時々面白がって万太郎とあゆみを先生づけで呼ぶようになるのでありましたが、これは明らかに花司馬教士の真似をして喜んでいるのであります。冗談とは云え、万太郎もあゆみもそう呼ばれると何時も悄気た顔になるのでありましたし、それがまた面白いのか両範士はこのからかいをなかなか止めないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 418 [お前の番だ! 14 創作]

 まあ、他愛もないからかいであります。
「おい折野先生、さっさと来月の出張指導の割りふりを出さんか」
「あゆみ先生、そろそろ帰るからワシの靴を揃えておいてくれ」
 ま、こう云った遣い方であります。しかしこれでは何時か万太郎とあゆみ、それに来間で話していた時出た冗談の、指導部全員でお互いを先生と呼びあうと云う気持ちの悪い状況に現実が近づいたと云う事になるのかも知れないと云うものであります。
 その内鳥枝範士も寄敷範士もこのからかいに厭きるでありましょうし、それを待つしかないでありましょう。でなかったら自分も腹いせに、来間や準内弟子共を先生づけで呼んでやろうかしらと万太郎はちらと考えるのでありましたが、そうすると件の、気持ちの悪い状況を自ら進んで作り出すだけなので、これは自制するのでありました。

 さて、暫くの間すっかり鳴りを潜めていた興堂流と威治宗家の動静が、俄かに万太郎の耳にも届くようになるのでありました。それはあるテレビ番組に威治宗家が出ているのを門下生の何人かが見ていて、それを万太郎に語ってくれたためでありました。
 何でも民放の深夜番組で『現代の格闘家列伝』と云うタイトルの、戦後の格闘家と呼ばれた人達を、プロレス界キックボクシング界、それに柔道や空手等の武道界から抜粋して紹介すると云うものだったそうであります。確かに興堂範士は武道家の中では色々と武勇伝の豊富な人ではありましたが、自身で自身を特段、格闘家と規定をしていた節はなく、あくまでも常勝流の武道家及び指導者であり続けた人でありましたから、万太郎にはそのタイトルと、興堂範士その人の在りようがしっくりと馴染まないのでありました。
 それは兎も角、その番組中で興堂範士の為人を紹介する件で現在の葛西の興堂流道場が映し出され、そこで威治宗家が父親である興堂範士の、格闘家(!)としての生前の様子や、自分だけに教授された特別稽古の様子を語る場面があったようでありました。ここでも威治宗家は、興堂範士の特別稽古を如何にも大袈裟に語っていたそうであります。
 これは威治宗家その人の武道に対する姿勢や興堂範士への仕え方、それに今現在の力量、また鳥枝範士や寄敷範士、花司馬教士等の証言により、虚偽の疑いが濃いとされている事であります。そう云う虚偽を持ち出さなければならない、現在の威治宗家の武道家としての苦境を、逆に万太郎は推し量ってうら淋しい思い等するのでありました。
 また番組中に威治宗家に依る組形演武の場面があって、そこには板場と堂下が受けを取っている姿が在ったとの事でありました。二人共前のような緊張感もなく、何となくダラダラとした印象で投げやりに威治教士の技を受けていたとも聞こえるのでありました。
 このテレビ番組にどう云う経緯で現在の興堂流と威治宗家が取り上げられる事になったのか、その辺が万太郎を始め多くの門下生達の疑問でありましたが、これは花司馬教士が、恐らくはこういう事に依るのだろうと種明かしするのでありました。
「そのテレビ局のお偉いさんが旧興堂派の財団理事をしていて、前に興堂範士の特集番組を制作した事があったんですよ。その後局関係の人が何人か入門して暫く稽古をしていましたね。そのお偉いさんと会長との繋がりからじゃないでしょうかね」
(続)
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お前の番だ! 419 [お前の番だ! 14 創作]

「そのテレビ局のお偉いさんは、今は理事をしていないだろう?」
 鳥枝範士が訊くのでありました。
「そうですね。もう随分前に辞められました。だから鳥枝先生はご存知ないでしょう。その方が辞められたと同時に、局関係の門下生達もすっかりいなくなって仕舞いましたね。しかし会長との繋がりは随分濃いようで、恐らく会長が話しを持っていってそれで今回の威治宗家のテレビ出演となったのでしょう。番組としては元からそう云う企画があったのかも知れませんが、屹度その中に職権で威治教士の出演を捩じこませたのでしょうね」
「成程ね、そう云う経緯なら威治の唐突のテレビ出演も頷けるか。それにしてもその推察が当たっていれば、あの会長もちゃんと、会長としての仕事はしているわけだ」
 鳥枝範士は皮肉な笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「テレビの影響力は絶大だから、ひょっとしたら今後、これを契機に興堂流に入門者がドッと押し寄せるかも知れませんね」
 万太郎がそう云う感想を述べるのでありました。
「それは一理あります、折野先生」
 花司馬教士はそう云って万太郎を見るのでありました。「前の道分先生の特集番組でも、これも深夜の時間帯だったですが、放送後の三か月は入門者が、普段の月の二倍程ありましたから。まあ、すぐに波は引いて、その中で結局数人しか残りませんでしたがね」
「数人残ったと云うのは、道分先生にそれだけの実質があったためだ。要するに実質がないなら、一時的にドッと沸いても単なる儚い徒花で、誰も居なくなるだけの話しだ」
 鳥枝範士はそう云ってまた口の端に皮肉の笑いを浮かべるのでありました。
「しかし徒花でも、今の威治宗家としては嬉しいでしょう」
 花司馬教士がしごく真面目な顔でそう云うのでありました。
「そりゃそうだ。凋落の一途の途中で少し息がつけるのだからな。しかしその一息をあの威治の事だからまた自分の良いように勘違いして、お目出度く嘗ての賑わいの復活と有頂天になるのだろうな。今からその了見違いの得意満面が見えるようだ」
 確かに、暫くは殆ど鳴りを潜めていた興堂流の消息が、この頃俄かに頻繁に万太郎の耳にもあれこれ届くようになるのでありました。曰く、入門者が増えて葛西の新道場が手狭になったのでまた神保町へ道場を移すらしいとか、独立を指向した旧支部が興堂流の傘下に戻ったとか、総本部に移った支部も大挙して興堂流に戻ろうとする動きがあるとか、威治宗家がもうすぐ興堂流の本やらビデオを賑々しく出すとか、出さないとか。
 この内、総本部に移った支部が興堂派に戻ると云うのは、これは全く根も葉もない噂以上ではないのでありましたし、道場を再び神保町に移すと云うのも、まあそう云った威治宗家の志望はあるのかも知れませんが、当面は実現しないようでありました。しかし、興堂流が前に比べれば殷賑になったのは事実でありましたし、独立を選んだ旧支部が二三復帰したのも事実で、それにまた新しい支部も幾つか増えてもいるようでありました。
 これは鳥枝範士の云う徒花でありましょうか。それとも威治宗家が潮目を的確に捉えて興堂流が勢を再び盛り返す、なんと云う事も考えられなくもないかも知れません。
(続)
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お前の番だ! 420 [お前の番だ! 14 創作]

 それでも鳥枝範士の予想はあくまでも冷淡なのでありました。
「あの横着者の威治にそんな手際なんかあるものか。聞くところに依ると少しは繁忙になった事務をすっかり人任せにして、そのくせ金庫の鍵だけは自分以外の者には絶対触らせないらしい。彼奴は自分が宗家になった途端、急に吝くなったらしいぞ。その前までは銭勘定は好い加減で、道分先生に下らん使い途の金の無心ばかりしていたと云うのに」
 この鳥枝範士の、聞くところに依ると、とは、前に広島の須地賀志部長と一緒に総本部を訪った、佐栗真寿史理事からの情報と云う事のようであります。佐栗理事は未だ向こうの理事をしているようでありますが、これは鳥枝範士の要請故でありましょう。
 興堂流の消息は、幾つかの武道やスポーツの雑誌にも取り上げられたりするのでありました。装いを全く新たに勇躍する二代目宗家率いる武道興堂流、であるとか、昭和の天才武道家道分興堂の技を継承し発展させた二代目宗家、であるとか、新武道興堂流は古武道常勝流を超えた、とか云う威勢の良い文字がその中に躍っているのでありました。
 万太郎はそう云う文字を見ると面食らったり苦笑ったり立腹したりと、なかなか表情の忙しい変化を強いられるのでありました。鳥枝範士は憫笑一辺倒、花司馬教士は只管の困惑顔、是路総士と寄敷範士は殆ど無表情、と云ったところでありましたか。
 鳥枝範士によれば、これは会長が総本部を見返そうとして色々働いているからであろうと云う事でありました。会長の政治的影響力ならそう云った情報戦略は武道界と云う狭い世界は勿論の事、大手メディア相手でもそれなりに展開出来るのだとの事であります。
「しかしそんなキャンペーンを幾ら張っても、結局実質がなければすぐに耳目を引かなくなる。世間はそう甘くはない。第一あの会長は政治家として興堂流だけに関わりあっているわけにはいかないし、それ程本腰を入れる対象だとは実は考えてはいないだろう。だから精々、金のかからない口利き程度で打てるキャンペーン以上にはならない」
 鳥枝範士は徒花説を堅持してせせら笑うのみでありました。「その内あの会長も威治の余りの盆暗加減にげんなりして、冷淡に興堂流から手を引いてしまうのがオチだな」
 興堂流は乱稽古紛いの稽古ばかりをしていると云う事でありましたが、竟に地元江戸川区の体育施設で、第一回道分興堂杯争奪自由組手選手権大会、と云う催しを開催するのでありました。これは云うなれば柔道や空手の試合大会のようなものでありましょう。
 自由組手、と銘打っているからには、威治宗家が連れて来たと云う空手家崩れの指導員の発案であろうかと万太郎は推測するのでありました。まあ、規模の程は知れないながらこうして大会なるものを企画実施するのでありますから、その指導員もなかなかの事務手腕を持っていると云えるかも知れませんし、それとはまた別に会長の息のかかったプロデューサー的な才を有する何者かが、威治宗家の後ろについているのかも知れません。
 まあ、自由組手、と云う言葉もそうでありますが、選手権大会、と云う命名にしても、常勝流には如何にも馴染まない言葉であると万太郎は思うのでありました。本来、古武道は特にそうでありますが、毎日の直向きな稽古そのものがただ一つの目的であり、大会、等と銘打つ催しは無用と云うよりは寧ろ有害でありましょうし、試合、も稽古法の一手段以上ではなく、それを殊更強調しようとするのは邪道であると思うのであります。
(続)
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