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お前の番だ! 16 創作 ブログトップ

お前の番だ! 451 [お前の番だ! 16 創作]

 あゆみは万太郎のその表情を見て、今度は吹くだけでは収まらずに身を捩りながら大笑するのでありました。結構受けたかなと、万太郎の方はあゆみを大笑させた事に大いに満足を覚えながら、殆ど冷めて仕舞ったコーヒーを口に運ぶのでありました。
「洗面器に何度も顔をつけていたためか、その日以来ニキビも消えて、僕の顔は妙にスベスベになりましたが、まあ、それがこの騒動の意図しない収穫でしたかねえ」
 万太郎としては、これは冗談の止めの一発の心算でありました。しかし意図した程あゆみが大笑に輪をかける事がなかったのは、些か物足りない事ではありましたか。
「洗面器がどうした?」
 是路総士が不意に台所に入って来るのでありました。万太郎はすぐに立って是路総士に固いお辞儀を送るのでありました。
「押忍。いや別に何でもありません」
 万太郎は至極真面目くさった顔で返すのでありました。
「万ちゃんと、熊本のご両親とお兄様にお会いした時の事を話していたのよ」
 そう云うあゆみの横に是路総士も腰を下ろすのでありました。
「ああ、ご両親は態々人吉から出てこられて、お兄様共々私等の泊まっているホテルまでお越しになって、くれぐれもお前の事をよろしくとおっしゃっておられたぞ」
 是路総士は万太郎にそう云って笑顔を向けるのでありました。
「押忍。態々そのために時間をつくっていただいて有難うございました」
「いや何、とても楽しい時間だったよ」
「お父さん、お茶にする、それともコーヒーにする?」
 あゆみが立ち上がりながら是路総士に訊くのでありました。
「じゃあ、茶を貰おうかな」
 その言葉を聞いてからあゆみは流し台の方に向かうのでありました。
「何やら、両親や兄が僕の熊本時代のつまらない話しをあれこれお聞かせしたようで」
 万太郎はそう云って、何となく頭を下げるのでありました。
「ああ、色々聞かせて貰った。・・・ああ、お兄様から聞いたお前の自殺未遂の件を、今あゆみと話していて、それで洗面器が出.てきたわけだな?」
「押忍。ご明察の通りです」
「いや、あれには笑ったぞ。お前は、高校時代は相当味わい深いヤツだったようだな」
「お恥ずかしい次第です」
 万太郎は苦笑しながら頭を掻くのでありました。
「見ていると今でもその頃の片鱗が、多少残っているような、残っていないような」
「いやあ、どうも恐れ入ります」
 万太郎の体裁悪がる様子を是路総士は愉快そうに笑うのでありました。
「あたしもお父さんの意見に一票」
 あゆみが湯気立つ湯呑を是路総士の前に置いて、また元の席に座るのでありました。
「それから、ご両親に、お前に良い嫁さんを見つけてやってくれと頼まれたぞ」
(続)

お前の番だ! 452 [お前の番だ! 16 創作]

 是路総士はそんな話しを紹介するのでありました。
「そんな事まで頼んだのですか、ウチの両親は?」
「ああ。お兄様にはもう赤ちゃんもおありになるし、お姉様の方も地元の市役所に勤めていらっしゃる方とご婚約中だそうで、残る気がかりの種はお前だけだそうだ」
「彼奴は呑気の国から呑気教を広めに来たようなヤツだから、放っておくと一生嫁取りしないでいるかも知れない、なんてお父様が心配されていたわよ」
 あゆみが云い添えるのでありました。
「全く余計な事を。・・・」
 万太郎は苦った表情をするのでありました。
「一応、心がけておきますと私は返事をしておいたのだが、お前、何かそう云った浮いた話しなんぞは何もないのか?」
 是路総士は万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「押忍。今のところ生一本に無骨一辺倒でやっております」
「ふうん。秘かに思いを寄せる人とかもいないのか?」
「それがね、どうもいるらしいのよ、万ちゃんにもそんな人が」
 あゆみが横の是路総士に真面目な顔で頷いて見せるのでありました。
「ほう。誰だ?」
 是路総士は意外な、と云う目をして万太郎に見入るのでありました。
「あたしも追及している最中なんだけど、なかなか口を割らないの」
 あゆみが万太郎を睨むのでありました。
「ああそうか。しかしそれなら話しが早いじゃないか。何なら私が取り持とうか?」
「押忍。折角の総士先生のお言葉ですが今のところは遠慮させていただきたく思います。思いを寄せる、なんと云ってもそれは何と云うのか、・・・仄かな憧れのようなものでして、その人とどうこうなりたいと云った志望と云うのではないので、・・・」
 万太郎は深くお辞儀するのでありました。
「ほう、仄かな憧れ、ねえ」
 是路総士は口元に笑いを湛えるのでありました。それは嘲笑とも取れる笑い顔でありますが、確かに三十を過ぎた男の言葉にしては些か青過ぎると云うものでありますか。
「ま、高嶺の花、と云ったところでして。遠くで見ていたい存在、と云うのか、・・・」
 万太郎は照れ臭くなって云い直すのでありました。しかしこれも矢張り三十男の言葉としては嫌に浪漫的に過ぎるでありましょうかな。
 それより何より、その自分の今の言葉で、意中に在る人が誰であるのか是路総士やあゆみに、朧気ではあろうけれどもある程度の確度を以って特定されたのではないかしらと、云った後に万太郎は内心冷やりとして仕舞うのでありました。
「何か、高校生と話しているみたい」
 あゆみが是路総士と同様の笑みを口の端に浮かべるのでありました。あゆみは万太郎の言葉の幼さ加減の方に気が向いたようで、それならまあ好都合なのでありますが。・・・
(続)

お前の番だ! 453 [お前の番だ! 16 創作]

「ま、その高嶺の花が、里に下りてきて咲き始めそうなら私に相談してくれ。可愛い弟子のためなら一肌脱ぐのに私は大いに吝かではないからな」
 是路総士はそれ以上の追及を一旦脇に置くのでありました。
「押忍。有難うございます。しかしまあ、そう云う折は多分ないでしょうが」
 万太郎はそう云ってまた深く頭を下げるのでありました。

 所帯が膨らんだ分、常勝流総本部の仕事は繁忙になるのであました。指導にしても是路総士と鳥枝範士や寄敷範士、それにあゆみと万太郎と花司馬教士がフル稼働しても追いつかない程でありましたし、内弟子の来間や準内弟子のジョージ、片倉、山田、目白、狭間、高尾、それに山口の面々にもなかなかに忙しく立ち働いて貰う状況でありました。
 少年部創設も具体化して、いよいよ稽古を開始すると云う段取りにまで漕ぎ着けるのでありました。当面は週に二日、昼稽古と夕方稽古の合間に一時間、あゆみを筆頭責任者としてそれに万太郎と花司馬教士と来間が責任者として加わり、他にはその日道場に居る準内弟子も加えて複数での指導布陣で臨む事になるのでありました
 門下生達に、この度少年部を開設する事になったと声をかけたら、自分の子供やその知りあいの子供の入門者が何人かすぐに集まり、何処で聞き知ったのか近所に住む小学生達も数名集って来て、先ずは十人余りでスタートする事になるのでありました。
 少年部は常勝流の技法の習得と云うよりは、武道的礼儀作法や武道を学ぶための体育知育の見地に立った稽古を主眼とするため、指導者には大人の門人に指導するような高度の武術技能よりは、ある種の人格的な要素を先ず求められるのでありました。それに何より、子供が嫌いではないと云う事が指導者の第一の条件と云う事になりますか。
 あゆみはすぐに子供に懐かれるのでありました。単に懐かれるだけではなくて、そこには優しさと同時に威もあり、子供達の心服を一心に得ると云った風でありました。
 全体的には、あゆみの子供達に対して投げる眼差しは慈しむようなものではありましたが、時には無表情に近い厳かな顔をしてその無作法や指示への背違を、声を荒げる事なく、如何にも静かな物腰で窘め諭す事もあるのでありました。すると子供達はあゆみの再びの柔和な表情を求めるように、不思議に素直にその訓言に従おうとするのであります。
 あゆみが子供達のあしらいにこれだけ長けていると云うのは、万太郎には些か驚きでありました。それは殊更巧まない、あゆみの心根に由来するものなのでありましょう。
 これが万太郎以下の男共の仕儀となると、声を荒げて嚇らないと子供達は全く云う事を聞かないのでありました。それもその場逃れに悄気て見せるだけで、心から従順とするわけでは決してないのが十分に判るのでありました。
 こちらが差し当たりの歓心を得ようと少しふざけて見せれば、向こうはどこまでも羽目を外して後の収拾に一苦労するし、ややきつめに怒声を浴びせればすぐに泣いてその後は稽古の間中拗ね続けるのであります。だからと云って諄々と道理を説いてもちっともその甲斐現れる事なく詮ない事であるし、こちらが短気を起こして引っ叩く事は厳に慎まなければならないし、全く以って子供の扱いには手を焼くと云った按配でありましたか。
(続)

お前の番だ! 454 [お前の番だ! 16 創作]

 男と女の差、と云う事もあるかも知れないと万太郎は考えるのでありました。生物として、子供なるものは女性の方に懐きやすいもののように思われるであります。
 男共の困惑を尻目に、あゆみ一人が子供達の心服を得ているように万太郎には見えるのでありましたが、ここは一つあゆみに子供あしらいの秘訣を伝授して貰わなければならないでありましょう。まあ、男共と一括りしてはいるものの、花司馬教士は例外のようで、流石に子を持つ親であってみれば万太郎以下の若輩とは少し違うのでありましたが。
 とまれ、こうして少年部の立ち上げも成りはするのでありました。三か月が経過すると少年部門下生は倍増するのでありますから、先ずは順調な船出と云えるでありましょうし、万太郎としても只管困惑している場合ではないと自らの意を励ますのでありました。
 そうなると是路総士と寄敷範士も少年部に興味を示し始めて、万太郎やあゆみに、子供の稽古はどう云う具合だと訊ねるようになるのでありました。その顔の印象から、到底子供の歓心を買わないであろうと思われる鳥枝範士までもが気にはなるようで、ワシが少年部の稽古の一端を受け持つと云う目は全くないのか、等と云い出すに及んでは万太郎もあゆみも驚嘆の表情もて、その鬼瓦みたいな顔を思わず凝視するのでありました。
 是路総士も、たっての希望から一度見所に座って貰った事があったのでありましたが、その時は来間に怒られて拗ねて泣き出した子供を、態々見所から降りてきて慰めながら肩を抱くように見所に連れて戻って、二人並んで座って、稽古を見学させているのでありました。万太郎すら稽古中に見所には上がった事等はなかったものだから、その特別待遇には、何とも云えぬ奇妙な表情をして仕舞うしかないのでありました。
 寄敷範士も鳥枝範士も矢張りそのたっての希望から見所に招待した事もあるのでありましたが、寄敷範士は黙って見所に座っておられずに態々下に降りて子供に指導を始めるのでありました。おまけに気紛れに子供の受けを取って畳にゴロリと転がって見せて、アンちゃんはなかなか筋が良い、等と大袈裟に誉めそやしたりするのでありました。
 万太郎なぞは寄敷範士に褒められた事なんか滅多になかったものだから、その光景を見ながら何となく調子が狂って仕舞うのでありました。この三先生のはしゃぎようなんと云うものは、一体全体どういう風が道場に吹き回った故なのでありましょうや。
 意外や意外、子供達に一番人気があるのは鳥枝範士なのでありました。厳つい鬼瓦が偶にニコニコしたりすると、子供は不意に嬉しくなるもののようであります。
「流石に自分の孫で鍛えられているだけあって、ウチの道場の爺様連中は子供のあしらいが上手いものですなあ。自分等は到底敵いませんよ」
 花司馬教士が稽古合間の休息中に苦笑いながら万太郎に冗談を云うのでありました。
「まあ、総士先生は孫がおありにならないのですが、その人徳のせいか子供が妙に懐いていますよねえ。ああ云った雰囲気は僕には出せません。しかし花司馬先生は剣士郎君と云うお子さんがおありなのですから、子供あしらいの薀蓄をお持ちでしょう。僕なんかは今までそんなに子供とつきあった経験がないので、まるで七転八倒の苦しみです」
 万太郎も頬に苦笑を浮かべるのでありました。
「いやいや、自分なんぞの薀蓄はあの爺様達の年の功には全く及ばないようです」
(続)

お前の番だ! 455 [お前の番だ! 16 創作]

「そう云うものですかねえ」
 万太郎は顎に手を遣って思いに耽る顔をするのでありました。
「ウチの剣士郎なんかも、道場に居る間は三先生にペッタリくっついていますよ。この前なぞは鳥枝先生に手を引かれて、師範控えの間にまで上がる始末です。そこでキャラメルか何かを貰って、鳥枝先生と一緒に食っていましたよ」
「しかし実のところ僕としては当初、子供を厳しく仕こもうと思っていたのですが、三先生がある意味あんなに甘やかされるとなると、些かまごついて仕舞います」
 万太郎はほんの少々、小難し気な顔をするのでありました。
「ま、子供に嫌がられたら少年部も続かなくなりますし、ここは一先ず仕方ありませんかな。連中は、大体は常勝流がやりたくて自らの意志で入門したわけではなく、今のところ親に唆されて来ているだけですから、厳しいだけでは閉口するでしょう」
「それはまあ、そうですが」
「人数がもっと増えたり、今の子供達の学年が上がったりしてくれば、少年部の雰囲気も少し変わってくるでしょう。ご老人方も子供あしらいに厭きるかも知れないし」
「それもそうですねえ。僕も一先ずここは宗旨替えといくべきでしょうかね」
「しかし、少年部の稽古始まりと終わりは、道場の内外が嫌に華やかになりましたねえ」
 花司馬教士が話頭を少し曲げるのでありました。
「ああ、お母さん方の送り迎えの事ですね?」
「そうです、そうです」
 花司馬教士は思わずと云った風にニヤニヤとするのでありました。「妙齢、とは云いませんが、まあ、若いお母さん方がああやって稽古始まりと終わりの時間に、何人も道場にやって来ると云うのは、何とも華やいだ雰囲気がありますよねえ」
「大体、花司馬先生と同い歳くらいの方々ですよね」
「いや、小学校一年坊主のお母さんが家の女房と同い歳か少し若いくらい、あゆみ先生よりはチョイ上、と云った感じですかなあ」
「花司馬先生、その妙に嬉しそうなデレデレした顔は止めてください」
「おっと、これは失礼をいたしました」
 そう云って表情を引き締めようとするものの、花司馬教士の顔には締まりのない笑いの残滓が未だ充分に消え残っているのでありました。
「ま、確かに今までの道場にはなかった光景である事は確かですね」
「そのお母さん方に、指導陣の男共の中で一番人気があるのは誰だと思いますか?」
 花司馬教士は含みのある物腰でそう云って、万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「さあ。花司馬先生ですか?」
「いやいや、私はカカア持ちですから員外です」
「じゃあ、総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生も員外と云う事ですかね?」
「総士先生はチョンガーでいらっしゃいますが、しかしお三方も当然幕の外です。お三方はお母さん方の父親と云っても良い歳回りなのですからねえ」
(続)

お前の番だ! 456 [お前の番だ! 16 創作]

「来間とか山田なんかは、女性受けする甘いフェースと云う感じじゃないし」
 そう云いながら万太郎は腕組みして考えこむ仕草をするのでありました。
「その通りです。準内弟子の連中は歳若過ぎて子共扱いでしょうし」
「ああそうですか。となると、・・・」
 万太郎は花司馬教士の顔を上目遣いで窺い見るような目つきをしながら、冗談交じりと云った風情で極めて遠慮がちに自分を指差して見せるのでありました。
「はいご名算。しかし折野先生、そのデレデレ笑いは止めてください」
「押忍。これは失礼をいたしました」
 万太郎は表情を改めるのでありましたが、先程の花司馬教士同様、口の端に締まらない笑いの痕跡が未だ残留しているのでありました。
「それから折野先生と同じくらい、ジョージもなかなか評判が良いですね」
「成程。そう云えば二人共、武道だけをやらせておくには惜しい程の、お母さん方に大いに持て囃されるような甘いマスクをしておりますからねえ」
 万太郎が云うと花司馬教士は鼻を鳴らして見せるのでありました。
「甘いマスクだかしょっぱいマスクだか知りませんが、ま、そう云う事です。ジョージはエキゾチックな顔の割に日本語がかなり堪能だから、そのギャップに先ず目を奪われるのでしょうし、折野先生は若いヤツ等を束ねている辺りが頼もしく見えるのでしょうね」
「そうですかね。僕はこの甘いマスクが第一の理由だと思いますがねえ」
 万太郎はもう一度自分の顔を指差して見せるのでありました。
「まあ、それはどうでも良いとして」
 花司馬教士はそう云って万太郎に少し顔を近づけるのでありました。「そのお母さん方に評判の良い折野先生の噂話しとして、こう云うものがありますよ」
 花司馬教士は万太郎の顔を下から覗き見るような目をするのでありました。
「え、何ですか一体?」
 万太郎も興味を惹かれて少し顔を近づけるのでありました。
「それはね、・・・」
 花司馬教士は少々体裁ぶってから続けるのでありました。「折野先生とあゆみ先生は、近い将来結婚する間柄のようだ、とか云うものですよ」
 万太郎はそう聞いて、思わず花司馬教士から顔を少し離すのでありました。
「何ですかそれは?」
「いやまあ、お母さん方の間の単なるあれこれの噂の一つですよ、あくまでも」
 花司馬教士は笑うのでありましたが、万太郎を上目で見る目つきはそのままにしているので、これは屹度、そう聞いた万太郎がどう云う反応を示すかを観察しているのでありましょう。ここは迂闊な応動は見せられないと咄嗟に思った万太郎は、強張った表情になるのを寸でのところで押さえて、一笑に付す、と云った具合のクールな笑いを口元に浮かべて見せるのでありましたが、上手に隠し果せたかどうかは判らないのでありました。
「そうですか。どうしてまた、そんな根も葉もない噂が立つのでしょうかねえ」
(続)

お前の番だ! 457 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は余裕の笑いを笑って見せるのでありました。
「火のない処に、・・・とかも一方で云いますが、それは兎も角、折野先生とあゆみ先生を見ていたら、年格好も何も如何にも丁度良いカップルに見えるのでしょうね」
「ふうん。そう云うものですかねえ」
「自分が見ても、そう見えない事もないですからねえ、実際の話し」
 花司馬教士はそう意趣あり気に云ってから、ようやく万太郎から目線を外すのでありました。万太郎は不覚にも胸の高鳴るのを制す能わず、と云った態でありましたか。

 不意にあゆみの声がするのでありました。
「お二人で何をコソコソお話しになっているのかしら?」
 万太郎と花司馬教士は稽古合間に食堂でこんな話をしていたのでありましたが、次の稽古のためにあゆみが着替えを済ませて食堂に現れたのでありました。二人は慌てて取り繕うように寄せていた頭を離して、起立してあゆみの方に体を向けるのでありました。
「いや、特段の話しと云うのではありませんが。・・・」
 花司馬教士がたじろぎを隠すように愛想笑いながら応えるのでありました。
「あたしに聞かれると拙い、男同士の密談ですか?」
「そう云うものでもありませんが、・・・どうと云う事のない、世間話しですよ」
「へえ。どうと云う事のない世間話し、ですか」
 あゆみは敢えて花司馬教士の言葉を繰り返しながら、万太郎の方に視線を移すのでありました。万太郎は目が躍らないようにあゆみの方を必死に睨むのでありました。
「それにしては、お二人の頭の寄せ方が近過ぎるように思いましたが、そう云う場合は大体、良からぬ相談をしている時と相場は決まっていますけどねえ」
「いや、少年部の現状について色々話していたのです」
 万太郎が応えるのでありましたが、これはあながち嘘でも誤魔化しでもないだろうと、少々冷や汗をかいた頭皮の内側で考えるのでありました。
「それならあたしも、その話しに参加したいわ」
「いやその、総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生がどうも少年部を甘やかし過ぎるんじゃないかとか、まあ、そんなような事を話していたんですよ」
 万太郎が花司馬教士と話していた後半の些か不謹慎とも云える部分を隠して、前半の件を、如何にもと云う風ではない口調で、如何にも取り繕うように云うのでありました。
「ああその事ね。でもその内にご三先生も子供の相手に厭きちゃうと思うから、もう暫く辛抱していれば解決すると思うわよ」
「花司馬先生もそう云うお考えのようです」
 万太郎はそう云いつつ花司馬教士の方に視線を向けるのでありました。花司馬教士は万太郎の視線に笑いながら頷いて見せるのでありました。
「ところで花司馬先生も万ちゃんも、今日は出稽古だったわよね?」
「そうです。花司馬先生が池袋で、僕は八王子です」
(続)

お前の番だ! 458 [お前の番だ! 16 創作]

 あゆみが好都合にも話題を変えるのでありましたが、万太郎は渡りに舟と、そちらの舟縁にさっさと飛び移るのでありました。「二人共、そろそろ着替えて出発しようかと云っていたところに、丁度あゆみさんがいらしたのです」
「ああそう。助手は誰を連れて行くんだっけ?」
「花司馬先生には狭間が、僕には高尾がつく事になっています。こちらには来間と、それから今日は珍しくジョージが残る事になります」
「ジョージは、学校の方は良いの?」
「今日は英会話講師の仕事は休みだそうで、一般門下生稽古に出ます」
 そんな話しをしていると来間が食堂に現れるのでありました。
「押忍。狭間と高尾はもう何時でも出発出来ます」
 来間は万太郎と花司馬教士の顔を交互に見ながら報告するのでありました。
「判った。我々もすぐに着替える」
 万太郎が頷くのでありました。
「押忍。それでは受付部屋に待機させておきます」
 来間が去るのを追うように、万太郎と花司馬教士は着替えのために内弟子部屋に向かうべく、椅子から腰を上げてあゆみにお辞儀するのでありました。
「押忍。ではこれから出稽古に行って参ります」
 万太郎と花司馬教士は声を揃えて道場長たるあゆみに申告するのでありました。
「押忍。ご苦労様です。よろしくお願いします」
 あゆみも立ち上がって二人にお辞儀を返すのでありました。
 着替えを済ませた万太郎と花司馬教士は、師範控えの間に行ってそこに居る是路総士に出稽古出発の挨拶をするのでありました。その後二人は高尾と狭間を引き連れて、来間とジョージに見送られて、連れ立って仙川駅まで歩くのでありました。
「花司馬先生は、来週は東北方面の出張指導でしたよね?」
 万太郎が隣を歩く花司馬教士に話しかけるのでありました。
「はい。一週間程の予定で行って来ます」
「僕は明後日から関西と山陰方面に行きます。と云っても大阪や京都や神戸ではなく、米原から敦賀を回って、後は福知山とそれから鳥取と云うルートですが」
「ああそうですか。なかなか一緒にじっくり稽古する時間が持てませんね」
「興堂派があのようになってから、総本部の所帯が急に膨らんで、地方出張指導が矢鱈と増えましたから致し方ありませんが、僕が神保町の興堂派道場に出稽古に行っていた頃のように、二人でまたみっちり稽古がしたいものですねえ」
 万太郎が往時を懐かしむような顔をするのでありました。
「ま、こう云った連中の心境が進んで、出稽古も任せられるようになったら、その暁には二人でみっちりと稽古をしましょう」
 花司馬教士は後ろを歩く狭間と高尾をふり返りながら云うのでありました。後ろの二人は花司馬教士の不意の視線にどぎまぎして「押忍」とのみ応えるのでありました。
(続)

お前の番だ! 459 [お前の番だ! 16 創作]

 八王子支部の指導中でありましたが、体育館武道場の入口に白髪雑じりの総髪を後ろに束ねて、艶のない仙人髭のこれも白いもの雑じりを蓄えた男が不意に現れるのでありました。男は扉の陰に半分体を隠して暫く中の様子を窺っていたのでありますが、万太郎が技の説明を終えて門下生に反復を指示した辺りで、中へと入ってくるのでありました。
 その近づき様に無神経と無遠慮を感じたものだから、万太郎は男の面前に掌を差し出して男の歩行を制止するのでありました。
「稽古中は道場に無断でお入りになるのは控えていただけますか」
 万太郎は努めて穏やかな口調で、しかしキッパリと男の行動を窘めるのでありました。男は唐突に歩を止めて万太郎にお辞儀して見せるのでありましたが、道場中央辺りに突っ立った儘で浅いお辞儀を繰り返しながら万太郎に笑いかけているのでありました。
 白い稽古着姿の門下生達の中に在って、臙脂色のブレサーに黄色のノーネクタイのワイシャツ、それに白いスラックス姿の男の装いが如何にも不釣合いで不様なのでありました。万太郎は男を道場の隅に誘導するために、突き出した掌で何度か押すような仕草をして見せるのでありましたが、男はその謂いを察して踵を返すのでありました。
 その特徴ある風貌と、前に遠目に何度か見た事があったので、万太郎はすぐにその男が誰なのか判るのでありました。興堂範士の古い門弟で、以前は興堂派八王子支部、今は興堂流八王子道場責任者である、瞬間活殺法の洞甲斐富貴介氏でありました。
 その洞甲斐富貴介先生が一体何の用事でいきなり常勝流八王子支部の稽古中に姿を見せたのか、万太郎は訝しく思うのでありましたが、如何にも鈍感そうではあるものの万太郎の指示に素直に従う辺りとか、万太郎に投げる笑いが友好的な様相であるところから鑑みると、まさか道場破りに来たと云うわけでもなさそうではあります。しかし若しも道場破りに来たと云うのなら、万太郎は受けて立っても良いと思うのでありました。
「いやどうも、折野先生、稽古中に伺った不調法をどうかお許しください」
 道場入口の辺りまで下がって、傍に来た万太郎に洞甲斐富貴介先生は案外に低姿勢で頭を下げるのでありました。「私は興堂流八王子道場の洞甲斐富貴介と申します」
「存じております」
 万太郎は名刺を手渡す洞甲斐富貴介先生に浅く低頭して見せるのでありました。名刺には、武道興堂流八王子道場長、と云うものを始めとして、気精流剣術宗家、であるとか、深沈瞑想法研究会主幹、であるとか、陰陽の理心身調整法普及会会長、であるとか、その他にも何やら少々いかがわしそうな肩書が幾つも並んでいるのでありました。
「常勝流総本部道場の麒麟児と評判の高い折野先生が、私如きをご存知でいらっしゃると云うのは、慎に以って光栄の至りですなあ」
 肩書同様、洞甲斐富貴介先生はそんな胡散臭げな科白を、口の端にお追従のような卑俗な笑いを浮かべて宣うのでありました。万太郎は大いに興醒めるのでありましたが、一応礼儀からあからさまにそれを顔色に表わすのは控えるのでありました。
「洞甲斐先生が今日はどのようなご用件で、ここにお越しになられたのでしょうか?」
 万太郎はそう云って上目に洞甲斐富貴介先生を見るのでありました・
(続)

お前の番だ! 460 [お前の番だ! 16 創作]

 洞甲斐富貴介先生はおどおどと万太郎の眼光から逃れるように俯いて、その後にエヘヘと愛想笑って見せるのでありました。
「勿論折野先生のご指導ぶりを拝見させていただいて、今後の参考にさせていただきたいと云うのが第一番目の了見ですが、最近の興堂流の様子についてもお話ししたい事が少々ありまして、不躾かとは思いましたがこうして罷り越しさせていただいた次第で」
 何と云う胡散臭い科白かと万太郎は聞きながら大いに不快になるのでありました。
「今は稽古中ですので、長い話しになるようならご遠慮いただきたいと思いますが」
 万太郎は故意に不信感をやや語調の中に匂わすのでありました。
「それは勿論弁えております。突然罷り越しましたのは偏に私の無礼でして、その上この場で長話しをするような不届きを働く心算は毛頭ございません」
 洞甲斐富貴介先生は時代劇で見るような、大店の悪徳主人が権力者に揉み手して諂うような笑いを万太郎に寄越すのでありました。万太郎の不快は益々募るのでありましたが、興堂流の最近の様子、と云う言葉に興味を惹かれるのも事実ではありました。
「そうですか。では稽古後に少し時間を取らせていただきましょう」
 万太郎はそう応えてきっぱりとした様子で浅く一礼するのでありました。この場はこれで一先ず引こんでくれと云うサインであります。
「判りました。有難うございます。稽古が終るまで、隅の方で邪魔にならないように見学させていただいておりますよ」
 洞甲斐富貴介先生は万太郎に了解を貰えた事を如何にも嬉しがるように、満面に笑顔を湛えて慇懃な返礼をして見せるのでありました。万太郎はその頭が元の位置に上がり切れない内に、傍を離れて指導に復帰するのでありました。
 興堂流の指導陣の一翼を担っていると思われる洞甲斐富貴介先生が、万太郎に一体どのような情報を齎そうとしているのかなかなかに気になるところではあります。しかしながらこの、胡散臭い国から胡散臭い教を広めに来たような御仁の情報が、如何程の価値があるものなのかは大いに疑問であるとも万太郎としては考えるのでありました。
 稽古が終わったら親睦を兼ねて、事情の許す門下生達と伴に定食屋か、時には居酒屋に繰り出して懇親の時間を共にするのが恒例でありました。しかしどうやら今夜は、不本意ながらその恒例行事出席を遠慮する羽目になりそうであります。
 他流の、しかもあんまり仲がしっくりいっているとは云えない、常勝流総本部道場の者に態々こうして接触を求めてきたのでありますから、信憑性半分としても、この恒例行事を犠牲にするに足るだけの情報を洞甲斐先生は持ってきた、或いは少なくともご当人は大いにその心算であると云うのは疑いないところでありましょう。この行為は興堂流に対する背信である可能性もありますし、或いはそう見せかけて、常勝流総本部道場を陥れようとする或る策略を後ろに隠し持っていると云う可能性も考えられるでありましょう。
 まあ、聞くだけは聞いておいて構わないでありましょう。抜け目なさそうでしかしどこか抜けているような肌理の粗いその物腰と、醸し出す雰囲気の怪し気な辺りを別に隠そうともしない野放図さからは、然程の深謀があるようにも思えないのでありますし。
(続)

お前の番だ! 461 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は稽古後に今宵の親睦食事会の欠席を八王子支部の責任者に詫びて、洞甲斐富貴介先生と二人で体育館を後にするのでありました。調布にある総本部道場への万太郎の帰途を考えて、二人は西八王子駅から電車に乗って八王子駅まで移動するのでありました。
「京王線の方が、折野先生は帰りの都合が良いでしょう」
 洞甲斐富貴介先生はそう疎漏なく気を遣うような事を云って、万太郎を京王八王子駅近くの居酒屋に誘うのでありました。別に何処であろうと万太郎としては何ら構わないのでありましたが、まあ、ここは洞甲斐富貴介先生の配慮に従うのでありました。
「いやあ、折野先生の指導は実に細心ですなあ。技の理を明らかにして稽古生達の納得を得た上で、あれこれ動きを細かく指導する辺りは、私も大いに参考になりましたよ」
 生ビールの大ジョッキと幾品かの料理を注文してから、洞甲斐富貴介先生はそんなべんちゃら等を述べて、如何にも感心したように万太郎に一礼をするのでありました。
「いえ、未熟者です」
 万太郎は一応礼儀から謙遜のお辞儀を返すのでありましたが、この洞甲斐富貴介先生の万事に大げさに過ぎるような世辞も、そろそろ鼻についてきているのでありました。
「何をおっしゃいますやら。その若さで立派なものです。日頃から深く常勝流の技術を研究されている証しだと、益々以って尊敬の念を篤くいたしました」
 万太郎はもう、言葉を返すのも億劫になってくるのでありました。
「で、僕の耳に入れておきたい最近の興堂流の様子について、と云うのを、早速お聞かせいただければと思うのですが」
 万太郎は店員が持ってきた生ビールの大ジョッキを、特に乾杯の仕草もせずにすぐに口に運びながら、もう一つの話しとやらに取りかかってくれるのを促すのでありました。
「ああ、そっちの件ですがねえ。・・・」
 洞甲斐富貴介先生は万太郎に、何はともあれお決まりの、乾杯の仕草を肩透かしされて仕舞って、何となく調子が狂ったような風情でビールを一口飲むのでありました。

 朝稽古を終えた師範控えの間で、あゆみが万太郎の披露する話しに大いに興味を惹かれたと云う顔を向けて、その先を促すのでありました。
「それで昨日、洞甲斐先生は万ちゃんにどんな情報をくれたの?」
「まあ情報と云うより、威治宗家や洞甲斐先生、それに堂下と云った旧興堂派の生き残り連中が、今の興堂流では随分隅に置かれていると云った、愚痴のようなものでしたよ」
「ほう、愚痴のようなもの、ねえ」
 今度は是路総士が言葉を発するのでありました。「一見派手に新規蒔き直した観のあった興堂流だが、中では威治君を頂点とした体制が上手く運んではいないのかねえ」
「自分は早晩そうなるだろう事は、何となく想像はしていましたが」
 花司馬教士が言葉を挟むのでありました。「板場が抜けた後、威治宗家が招聘した新しい空手や柔道崩れの指導員連中の方が、旧興堂派の生き残りよりも人数で上回って仕舞いましたからねえ。それにそう云う連中は道分先生の薫陶も受けてはおりませんから」
(続)

お前の番だ! 462 [お前の番だ! 16 創作]

「それに門下生にしても興堂派以来の古手の主立った者達は、総本部系の道場に移ったり、武道をすっかり辞めて仕舞ったりと云った具合で、今では興堂流になってから新しく入門した人の方が全体としては多くなっているようですし」
 万太郎が花司馬教士の言に頷くのでありました。
「もう今は、常勝流の組形等は全く稽古されなくなったみたいですよ。新しい指導員連中が自分の身の丈で勝手に考案した打撃中心の技を、道分先生由来の技だと謀って教えていると云う話しです。道分先生に逢った事もないような連中が、です。新しい門下生達にしても、そう云うものか、と云った具合で、大方は納得しているらしいです。これは前に板場から直接聞いてもいますし、漏れ聞こえてくる噂もそう云ったものですね」
 花司馬教士は憤懣遣る方ないといった云い草をするのでありました。
「そう云う状態に対して、宗家である威治君は何も云わんのかな?」
 是路総士が疑問を呈するのでありました。
「新しい指導員連中の鼻息に圧されて、内心苦々しくはあるけど黙認していると云った按配のようです。威治宗家は云ってみればお坊ちゃんですから、狡賢くて世知に長けた連中にちやほやされたり威圧されたりすると、どうにも手出しする術がないのでしょう」
「そのような事は洞甲斐先生もおっしゃっていました」
 万太郎が口を挟むのでありました。「道場では常勝流の稽古をした事もない指導員連中が、一応威治宗家を立てるような素ぶりをしながら、大きな顔でのさばっていると」
「威治宗家としてはここでそう云った連中のご機嫌を損ねて造反されても困るし、実際試合してみればその連中の方が威治宗家なんかよりも遥かに強そうだし、ここは一つ苦々しくはあるけれど、連中の跋扈を黙認しておいた方が無難だと云った了見なのでしょう」
 そう云って花司馬教士は結んだ口の端に憤慨を籠めるのでありました。
「ふうん。それが本当なら、威治君もここに来て色々試練させられているわけだ」
 是路総士は特段皮肉るような口ぶりでもなく、無表情にそう云うのでありました。「で、洞甲斐さんはそれを昨日お前に愚痴ったと云うわけだ」
 是路総士は万太郎の方を見るのでありました。
「概ねそうですね。で、洞甲斐先生としては、そろそろ興堂流に見切りをつける潮時だとお考えになっておられるんだそうです」
「ほう。洞甲斐さんがようやく潮目をお読みになったか」
 是路総士は、こちらはやや皮肉るような笑いを添えるのでありました。
「期待した程興堂流で大事にあしらってくれないから、臍を曲げただけでしょう」
 花司馬教士が鼻を鳴らすのでありました。
「瞬間活殺法は、新しい指導員連中からも相手にされなかったのかな?」
 是路総士が薄く笑いながらそう云うと、花司馬教士も万太郎もあゆみも是路総士と同じような笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「それで折野先生に、総本部への移籍が叶うかを打診してきたと云う事ですか?」
 花司馬教士が口の端に先程の笑いを留めた儘万太郎の方を見るのでありました。
(続)

お前の番だ! 463 [お前の番だ! 16 創作]

「ま、そう云う事です」
 万太郎は笑いを消して頷くのでありました。「洞甲斐先生としては道分先生のご遺志に反するような真似は、先生の古い弟子として我慢がならないのだそうです」
「ほう。それはまたご殊勝な」
 是路総士は呆れ顔と頬の嘲笑を隠さないのでありました。
「道分先生のご生前から、先生のお考えとはまるで違うような胡散臭い事をやって、度々勘気を蒙っていたあの洞甲斐さんが、今更どの面下げて、と云ったところですなあ」
 花司馬教士も哄笑するのでありました。
「しかしご当人は到って真面目なお顔でそう云われました」
「図々しいと云うのか、諸事に鈍過ぎるというのか、大した大根役者ぶりと云うのか」
 花司馬教士は顔を顰めて見せるのでありました。
「若し総本部への洞甲斐先生の移籍が叶うのなら、こちらの八王子支部と自分のところを統合して、責任を持って自分が面倒を見る心算だと云う風にも云われました。そうやって自分に八王子を任せて貰えれば、総本部の負担も少しは軽くなるだろうとも」
「ほう。総本部の負担の点までご配慮頂いているとは、慎に以って忝い事だな」
 是路総士がそう云うと横のあゆみが笑うのでありました。
「全く、厚顔無恥にも程があると云うものです」
 花司馬教士は、今度は怒気を含んだ表情をするのでありました。「厚かましいだけじゃなくて、自分がどのような目で人から見られているのかも全くご存知ないようですね」
「概ねご存知の上で、しかし考えがあって恍けていらっしゃるのかも知れませんよ。尤もそんなお芝居をしても、得るものよりも失うものの方が多そうですけど」
 あゆみが口元に憫笑を浮かべて花司馬教士に云うのでありました。
「一般的には、そう云うヤツを、馬鹿、と呼ぶのですよ。最初折野先生に諂うような下手に出るような態度で近づいてきたのは、只管好印象を得ようとしての事でしょうけど、その上で云っている内容がそんな不届き千万で無神経な事ですから、なめた真似をするのも良い加減にしろと怒鳴りつけてやりたいくらいですよ、全くもう」
 花司馬教士は本当に怒鳴りつけるような語調で云うのでありました。
「僕はなめられたと云う事ですかね?」
 万太郎が花司馬教士に案外無邪気な顔で訊くのでありました。
「折野先生があの馬鹿野郎の事をあまり知らないだろうと、そう云う了見から折野先生を狙って近づいてきたのでしょう。あの馬鹿野郎の考えそうな姑息な手ですね」
 花司馬教士は洞甲斐富貴介先生の呼び方を、あの馬鹿野郎、と云う風に大いに格下げするのでありました。名前も口に出したくないと云うところでありましょうか。
「あまり知らなくても、話してみればそのどことない怪しさが判るでしょうけどね」
 あゆみが評言を加えるのでありました。
「僕も洞甲斐先生の為人は、評判として間接的にではありますが満更知らない事もなかったですし、話してみると、成程評判通りの方だとげんなりしましたよ」
(続)

お前の番だ! 464 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎はそう云ってあゆみに笑いかけるのでありました。「で、その洞甲斐先生の移籍願いの件は如何取り計らいましょう?」
 万太郎は是路総士の方に顔を向けるのでありました。
「折野はどうする心算だ?」
「移籍して貰ってもあんまり益もなさそうですし、返って総本部の見識が疑われて仕舞うのも叶いませんから、折角のお話しではありますがきっぱりお断りしようと思います」
「成程。その折野の考えに、私は針の先ほどの異を差し挟む心算はないよ」
 是路総士は静かに頷くのでありました。「あゆみはどうだ?」
「あたしも今回のお話しはお断りした方が良いと思います」
 あゆみがそう云って伏し目をするのは、是路総士への目礼でありましょう。
「花司馬はどうか?」
「自分は道場長先生と道場長代理先生のご判断に異存を述べる立場にありません。まあしかし、あの馬鹿野郎の移籍を許す等と折野先生が若しも云われたなら、ここはあの馬鹿野郎の本性を少しは知っている者として、敢えて遠慮なくお諫めする心算でいましたが」
「相判った。全会一致だ」
 是路総士はそう云って掌をポンと一つ打ち鳴らすのでありました。
「鳥枝先生と寄敷先生のご意見をお伺いしなくともよろしいでしょうか?」
「まあ、態々聞くまでもないだろうよ」
 是路総士は万太郎に笑って見せるのでありました。
「ではそれを、僕から明日にでも洞甲斐先生に伝達します」
「万ちゃんは明日、八王子に指導に行くんだったっけ?」
 あゆみが訊くのでありました。
「いえ、寄敷先生が行かれる予定ですが、代わって貰おうと思います」
「代わって貰うのは良いとして、でも、こちらの見解を正式に洞甲斐先生に伝達するのは、お父さんじゃなくて万ちゃんで良いのかしら?」
「僕に話しがあったのですから、敢えて総士先生にご出馬を願う迄もないでしょう」
「そうですね。あの馬鹿野郎はあんなヤツですから、総士先生が自らお出ましになるとそれをこちらの敬意の表れだとか、満更自分と繋がりを持ちたくない事もないのかも知れない等と、手前勝手な誤解をしかねません。間違ったサインを送らないためにも、ここは直接話しのあった折野先生から、つれなく因果を含める方が良策かと自分も思います」
 花司馬教士も万太郎の考えに同調するのでありました。「若し何でしたら、自分が同行しても構いませんよ。自分としてもこの際、少し云ってやりたい事もありますから」
「いやそれでは返って事が荒立つ事になりますから、ここはサラッと、事務的に処理する方が良いかと思います。それに花司馬先生は、明日は総本部の稽古を総て指導していただく事になっていますので、予定通りそちらをよろしくお願いします」
「ああそうですか。折野先生のご命とあらば、そういたします」
 花司馬教士は万太郎にお辞儀するのでありました。
(続)

お前の番だ! 465 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は早速その日の夜に予め聞いていた洞甲斐先生宅に電話を入れて、明日の面談を約すのでありました。洞甲斐先生は移籍の件が如何なったのか早く知りたいような口ぶりでありましたが、それは明日逢った上でと万太郎は勿体をつけるのでありました。
 万太郎が電話口ですぐに回答しないところやら、話しぶりが如何にも冷めた風であるところから大方を察してもよかろうと思うのでありましたが、洞甲斐先生は快活に、明日お逢いするのを楽しみにしていますと愛想良く云って電話を切るのでありました。だから万太郎としては、逢って口頭で移籍の願いを断るのが少し気重になるのでありました。
 洞甲斐先生は稽古終わりを見計らって、八王子の体育館まで万太郎を迎えに来るのでありました。二人は前と同じルートで京王八王子駅傍の同じ居酒屋に行くのでありました。
「早速ですが、総本部への移籍の件は如何なりましたでしょうか?」
 洞甲斐先生は万太郎が生ビールの一口目を飲み下すのを待って訊くのでありました。
「総士先生以下、総本部道場の主立つ者と協議いたしましたが、結論として今次は移籍を見あわせていただきたいと云う事に決しました」
 万太郎は別にご機嫌を取り持つ必要もなかろうからそう端的に応えるのでありました。
「ほう。そうですか。・・・」
 洞甲斐先生は口に運ぼうとしていたジョッキを胸の前で止めて、急に無愛想な顔つきになるのでありました。「それはまた、どう云った理由で?」
「洞甲斐先生の技法が常勝流の技法とはすっかり離れて仕舞っていると云うのが、第一の理由となります。それから興堂流に対する配慮、と云うのが次の理由です」
 先夜の是路総士やあゆみ、それに花司馬教士と交わした会話をその儘披露するのは礼儀上憚られるので、万太郎は尤もらしい理由を述べるのでありました。
「私とて、道分先生に厳しく常勝流を仕こまれた弟子の一人ですが?」
 洞甲斐先生はやや不本意と云った顔を万太郎に向けるのでありました。
「しかし常勝流には瞬間活殺法とか、気の遠隔操作で相手に触れずに倒す等と云う奇抜な技法は昔も今も存在しません。今の先生の武道の在りようは、全く先生独自の理によって成り立っているようで、常勝流の技法とはずいぶん遠いところにいらっしゃいます」
「しかしそれは結局常勝流を修行した上で到達したものですから、強ち外れているとも云えないと自分では考えておるのですがなあ」
 洞甲斐先生は余裕を見せるためか、そう云って笑って見せるのでありました。
「常勝流の理をどこまで敷衍しても、先生の為されている様な様態にはなりません」
 興堂範士に厳しく常勝流を仕込まれた、等と抜け々々と宣う洞甲斐先生に、万太郎は内心大いに呆れるのでありました。畢竟このお方も、興堂範士の盛名にぶら下がって、それを頼みの綱として自己主張を展開する類の武道人だと云えるでありましょうか。
「君のようにお若い方が、常勝流をそこまでお判りになっているのかな?」
 洞甲斐先生は今までの万太郎への丁寧な口調をここであっさり変えるのでありました。
「少し演繹する能力があればそのくらいは誰にだって判ります。当の道分先生にしても、洞甲斐先生のような技法には結局収束されませんでしたし」
(続)

お前の番だ! 466 [お前の番だ! 16 創作]

「私のは邪道と云うわけか?」
「今の洞甲斐先生は、常勝流とは異質のものに変化されていると申しているのです」
 万太郎はあくまでも言葉を丸くするのでありました。
「しかし常勝流の技法を発展昇華させればこのようになると云う信念を持って、私は今の自分の技法を行っている。もう少し云えば、常勝流に限らず、あらゆる武道の究極の姿は、結句こうならざるを得ないとも考えているのだがなあ」
 万太郎はこの洞甲斐先生の大論説を聞きながら甚だうんざりするのでありました。そこまで大悟なされている人とは、今の今まで思いもしなかったと云うものであります。
「僕にはそうは思えませんが」
「いやいや、君ももう少し修行すれば私の考えが段々判ってくるだろうよ」
 万太郎の語調に嘲弄の気配が忍んでいるのを全く感じられないようで、そう云って達観したような笑みを笑って見せる洞甲斐先生は、何処にでもいるような、検証する作業を端から放擲した単なる経験のみをその思想の拠り所とする、おっちょこちょいの老人のようでありましたか。まあ、洞甲斐先生は未だ老人と云う程の歳ではないでありましょうが。
「敵も然る者、という言葉もありますが、自分を害しようと襲ってくる相手をそんなに思い通りに操れるのなら、洞甲斐先生は武道技すら最早必要とされないのでしょうね?」
「武道の最終的な姿と云うものは、結局武道技から離れて仕舞うのだろう」
 万太郎の仄めかす揶揄も洞甲斐先生の鉄面皮には通用しないようでありました。
「何やら、不射之射、みたいですね?」
「何だね、その、くしゃくしゃ、とか云うのは?」
「いや、何でもありません」
 予想通り洞甲斐先生は、中島敦はご存知ないようでありました。
「私の目指すところは人知の限界を超えた技だ。大宇宙の法則とそれを造り給うた根源的な存在を感じ取り、その意志の儘に動けばそれが無敵の技となるような境地、もうそれは人の為す武道の技を超えて、云ってみれば、神技、とも表すべものだな」
 それは典型的な観念論的武道観であって、万太郎としては俄には与するものではないのでありましたし、武道はあくまで人が為すもの以外ではないと思うのであります。まあ、道場の上座に神棚が設けられていると云うのは、ここでは一先ず置くとして。・・・
「いや、神技、と云う表現はあくまでも比喩的表現であって、実体としては人間技の域にある最高度の技の事をそう云うのではないでしょうか?」
 万太郎は、ここは引けないと思うので、穏やかな語調ながら抗うのでありました。
「ああそうかね。君がそう考えるのは君の自由だがね」
 洞甲斐先生は侮るような笑みを万太郎に返すのでありました。万太郎としては洞甲斐先生を相手にそんな武技論をここで延々と戦わせるのはげんなりでありました。
「兎も角、技法の統一と云う観点から、総本部としては洞甲斐先生を常勝流にお迎えする事は平にご遠慮申し上げたいと云う事です。これは総士先生のお考えでもあります」
 万太郎は仕切り直しにそう云ってお辞儀して見せるのでありました。
(続)

お前の番だ! 467 [お前の番だ! 16 創作]

「成程ね。・・・まあ、私の技術が見た目は常勝流から外れているとしても、視点を変えて、組織運営の上では、私は大いに常勝流に貢献するつもりでいるのだがなあ」
 洞甲斐先生は今度は搦手から未練を示すのでありました。
「そうであるとしても、先程申し上げた技法の統一と云う流派の根幹から、折角のお申し出ではありますが、このお話しはきっぱりお断りさせていただくと云う事です」
 万太郎はあくまでつれないのでありました。
「私はこう見えてもなかなかの有名人ではあるのだよ。その私が常勝流に在籍すると云う事は、常勝流にとっても損はないし利用価値もあると思うのだがねえ」
 洞甲斐先生はそれでもしぶとく自分の売りこみに精を出すのでありましたが、万太郎は思わず口の中のビールを吹き出すところを寸でのところで堪えるのでありました。それは確かに或る意味で有名人ではありましょうが、しかしその名前を聞いた大凡の者に、一様に口の端に冷笑とか憫笑とかを浮かべさせて仕舞う類の有名人でありますかな。
「洞甲斐先生がどんなにご高名でいらしたとしても、あくまでも武道流派である常勝流は技法の統一と云う事を第一と考えます」
 万太郎はそう云いながら、顔には出さないまでも胸糞悪さを覚えるのでありました。
「ああそうかね。私如き者なんか、常勝流には要らんと云うわけだ」
 洞甲斐先生は不貞腐れたようなもの云いをするのでありました。
「目指すものが、我々と洞甲斐先生では全く違うと云う事です」
「そう云う云い方は、まるで君が常勝流を代表しているような云い草だな」
 洞甲斐先生は万太郎に不興気な視線を投げるのでありました。
「僕が代表しているのではなく、先程も云いましたように、ここでは総士先生のご意志をお伝えさせていただいているのです」
 是路総士の名前を出せば、幾ら無神経な洞甲斐先生でも怯むだろうと踏んだのでありましたが、洞甲斐先生は一向に怖じる気配はないのでありました。
「そうであるのなら、総士先生も如何にも器量の狭いお人だ」
 この言葉は、万太郎は許せないと思うのでありました。と同時に、移籍を受けつけない理由に於いて、つけ入る隙を見つけたような気がするのでありました。
「例え洞甲斐先生でも、総士先生に対して無礼な発言は許しませんよ」
 万太郎は急に抑揚を抑えた声でそう云って、目を半眼にして洞甲斐先生を見据えるのでありました。幾ら鈍感な洞甲斐先生でも今の自分の言葉で、万太郎の気色が一変したのは充分判ったようで、気押されたように目線を逸らすのでありました。
「ああいや、別に総士先生をどうこう云う心算はないのだが。・・・」
「今はっきりと、どうこう云われましたよね?」
 万太郎は無抑揚の声と鉄壁の無表情を以って応えるのでありました。これはある種の喧嘩腰と云うもので、猛り狂うのではなくあくまでも静寂であるところに洞甲斐先生は余程迫力を感じたようでありますが、この程度の威迫でたじろいでいるようでは洞甲斐先生の、神技、なるものもその程が知れると云うものでありましょうか。
(続)

お前の番だ! 468 [お前の番だ! 16 創作]

「誤解が生じたのなら謝りますよ。私は総士先生に無礼を働く気は毛頭ないのだし」
 洞甲斐先生は泳ぐ目で万太郎を見ながら、しどろもどろにそう云って頭を下げるのでありました。この人は基調としては鈍感に由来する不遜な人のようではありますが、その割に実は極めて小心な人でもあるなと万太郎は心の端で侮りを覚えるのでありました。
「ところで移籍のご意志は、もう興堂流の宗家にはお話しをされているのでしょうか?」
 万太郎は暫し不興気に黙った後、語調をやや緩めて話頭を変えるのでありました。
「いや、未だ話してはいませんよ」
 洞甲斐先生はここでまた万太郎に対して丁寧な言葉つきに返るのでありました。「移籍が叶ってから話しても良かろうと思いましたのでね」
「それでは今まで在籍した興堂流に対する礼儀からも、洞甲斐先生のお覚悟と云う点から考えても、順序が逆ではないかと思うのですが?」
「そうですかな?」
 険悪なムードが少し変わった事に安堵したのか、洞甲斐先生はそうあっけらかんと云ってジョッキのビールを飲むのでありました。それを見ながら万太郎の方もビールのジョッキをゆっくりとした手つきで取り上げるのでありました。
 まあ、旧興堂派の広島支部等が移籍した経緯も、先ず総本部の意向を確認してから、その後に旧興堂派に三下り半をつきつけたのでありましたから、今次の洞甲斐先生と大差ない対応であったと云えるでありましょう。依って興堂流を辞める前に総本部の許諾を貰おうとした行為は、万太郎がそれ程つめ寄れる筋合いはない事になりましょうか。
 ここは偏に洞甲斐先生を撃退する方便として、万太郎はそんな筋論を展開していると云うわけであります。でありますから、後ろ暗さが全くないわけでもないのであります。
「技法の統一と同時に、洞甲斐先生をお迎え出来ないのは興堂派に対する配慮からと云う事を先に申しましたが、以前旧興堂派の支部が総本部に移った経緯の中で、まるで総本部が指嗾して興堂派の支部を移籍させたかのような、根も葉もない噂が飛び交いました。それはこちらとしては全く不本意な話しで、向後移籍に関しては明快さを第一にしたいと考えております。ですから手続きとして、先に興堂派に支部を辞する旨通達をしてから、その後にこちらに接触していただかないと、話しを進める事は出来かねると云う事です」
「随分と堅苦しい事ですな」
 洞甲斐先生は苦相をして見せるのでありました。
「移籍しようとする方の覚悟の程と云うのも、こちらとしては勘案いたします」
「若し興堂流に先に辞意を伝えて、その後に私が話しを持ってきたとしたら、私の移籍を受け入れていただけたのでしょうかな?」
 万太郎はここで少し口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「手続きの正統性は評価させていたします。洞甲斐先生のご人徳に対しても敬意を評させていただきます。しかしそれでも移籍の件はきっぱりお断りする事になるでしょう」
「なあんだ、あれこれおっしゃるが結局ダメと云う事じゃないか。向こうにも立つ瀬がない状態になって、移籍もダメだとしかもなると、私は路頭に迷わされるようなものだ」
(続)

お前の番だ! 469 [お前の番だ! 16 創作]

「まるで何かの被害者の様なもの云いをされますが、それは事を起こす前の洞甲斐先生の熟慮の方に属する事柄で、こちらに責任をふられても困ります」
 万太郎は相変わらずつれないのでありました。
「結局、移籍の件は全く受け入れる余地はないと云う事ですかな?」
「そうご理解頂いて結構です」
「それは総士先生のご意志であるのですな?」
 万太郎は無言で頷くのでありました。万太郎のすげない頷きを見た後、洞甲斐先生は眉根を寄せて万太郎から視線を背けるのでありました。
「お断りの件は電話で済ませても構わないと云う話しも出ましたが、こうして直接お会いしてお話しさせていただいたこちらの礼意を、後は斟酌していただければと思います」
 万太郎はそう云って、ジョッキに残っているビールを飲み干すと矢庭に立ち上がるのでありました。洞甲斐先生は万太郎の突然なこの動作に何を勘違いしたのか、顔を引き攣らせて慌てて腰を少し椅子の後ろに引くのでありました。
「では不躾ですがこれで失礼させていただきます」
 万太郎は動揺を隠せない目で見上げる洞甲斐先生に向かってお辞儀するのでありました。その後にテーブルの隅にある勘定書きを手に取って席を離れるのでありました。

 その日調布の道場に帰りついたのは夜の十時半を少し過ぎた頃でありました。
「ご苦労様でした。首尾は如何でしたか?」
 迎えに出てきた来間が玄関を入った万太郎に早速訊くのは、勿論洞甲斐先生との話しはどうなったかと云う事であります。
「まあ、ほぼ円満に話しをつけた心算だが。・・・」
「あれこれごねたりはしなかったですか、洞甲斐先生は?」
「何だかんだ、あっさりとはいかなかったが、思った程手古摺る事はなかったな。しかしまあ、あの手の人と話しをするのは何とも骨が折れるけどなあ」
 万太郎は苦笑って見せるのでありました。「ところで総士先生はどうされている?」
「押忍。控えの間で鳥枝先生と一緒に、折野先生のお帰りを待っておられます」
「鳥枝先生も一緒なのか?」
「小金井の出張指導の後道場にお戻りになって、その儘残っておられます。それに花司馬先生も居残っておられますよ」
「ああそうか。じゃあ早速報告に伺うか」
 万太郎は靴を脱ぐとその儘師範控えの間に向かうのでありました。
「押忍。折野です。ただ今戻りました」
 万太郎はそう声をかけた後、障子戸を開いて中に向かって座礼するのでありました。
「おう、ご苦労さん。早速だが報告を聞こう」
 鳥枝範士が手招きをするのでありました。それに応じて万太郎が座敷に上がるとすぐに、母屋からあゆみも姿を見せるのでありました。
(続)

お前の番だ! 470 [お前の番だ! 16 創作]

「少しもめたようだな?」
 鳥枝範士が口の端に薄笑いを浮かべて云うのでありました。
「いや、概ね円満に話しを収めてきたつもりですが」
「折野から今回の移籍話しは断ると聞きはしたが、その確認のためだと、私の方に先程洞甲斐さんから電話がかかってきたんだよ」
 是路総士が云うのでありました。
「ああそうですか。それで洞甲斐先生は何とおっしゃっておられましたか?」
「移籍が叶わないのは慎に残念だと云う繰り言と、お前の態度が随分横柄だったと云う苦情を延々と喋っておったな。お前、横柄な対応をしたのか?」
「いや、自分では丁重な態度や言葉遣いで通した心算でしたが」
「何か云うと凄い目で睨まれたり、取りつく島もないような風だったと云っておったぞ」
「洞甲斐先生から総士先生に対して無礼な言があって、その時は確かに睨みました。しかし概ね一定の距離を保って、あくまでも穏やかに云うべき事を云っただけです」
「あの人を相手にする時は、折野先生が今云われたように、ある程度距離を取った、無愛想なくらいの態度の方が良かったと思いますよ。こちらが懇意を見せたり、下手に出たりすれば、すぐに勘違いをしてどこまでもつけ上がるような人ですからね」
 花司馬教士が横手から口を添えるのでありました。
「まあ、私の方からは、折野の云った事がその儘私の考えであり態度であると云っておいたし、何か不服の申し立てがあるのならもう一度折野を寄越すから、相談してみたらどうだと持ちかけた。そうしたら先方は折野とはもう会いたくないそうだ」
「随分と不興を買ったものですね、僕は」
 万太郎はそう云って自嘲するような、呆れたような笑いを浮かべるのでありました。
「おいそれと総本部に迎えてくれるだろうと云う思惑が見事に撥ねつけられたので、腹いせに直接話しをした折野の事を、大袈裟に私にあれこれ詰っただけだろうよ」
 是路総士は万太郎に笑みながら頷いて見せるのでありました。
「どうせなら居酒屋なんかで逢わずに、彼奴の家に乗りこんで、つべこべ御託を並べだしたら、即座に実力行使に及んでも良かったくらいだ」
 鳥枝範士が、勿論冗談ではありましょうが不穏な事を云うのでありました。
「僕も洞甲斐先生の瞬間活殺法と対決してみたい気は、ない事もなかったですが」
 万太郎が鳥枝範士の冗談に乗って見せるのでありました。
「ま、態々対決するまでもないでしょうがね」
 花司馬教士がそう云って哄笑するのでありました。
「しかし当初、洞甲斐先生は僕如きに対しても、随分と遜った物腰で対されておられたのですが、移籍お断りの話しをすると途端に横柄な云い草になられました。それからその例の、僕が睨んだ局面後は、また一定の丁寧な言葉遣いをされるようになりましたし、別れ際はまた不貞腐れたような態度に変わられました。こちらの出方に一々、余りに判り易い態度変更をされるのには、僕としたら竟々、笑って仕舞いそうになりました」
(続)

お前の番だ! 471 [お前の番だ! 16 創作]

「先ずはお前の若さを見縊って良いようにあしらえると踏んでいたのだろうが、話してみるとお前が思いの外冷厳で強面だったものだから、すっかり上擦って仕舞ったのだろうよ。まあ、時に横柄になったり、かと思うとすぐに諂ったり及び腰になったり、際物が正統に対して往々にして見せる、典型的な卑屈が出たと云うところだな」
 鳥枝範士は鼻を鳴らすのでありました。
「まあ、それでは順を追って、今日の経緯の詳細を聞くとしようか」
 是路総士が仕切り直すようにそう云うので、万太郎はなるべく細かく、洞甲斐先生の言葉をその儘再現しつつ、八王子の居酒屋での経緯を満座に披露するのでありました。
「興堂流に居づらくなったからこちらに移ろうとされたのでしょうけど、こちらからも断られたとなると、洞甲斐先生はこれからどうなさる心算なのでしょうね?」
 一通りの万太郎からの説明を聞いた後で、あゆみがそんな事を呟くのでありました。
「独立しかなかろうよ」
 鳥枝範士が応えるのでありました。
「しかしあの人は、何かしらの権威の尻尾にしがみついていないと安心出来ない人でしょうし、自信たっぷりに見えて、その実は尻の穴の慎に小さな人ですからねえ」
 花司馬教士がそんな下品な表現をして申しわけなかったかなと、あゆみの方にちらと視線を投げるのでありました。あゆみの方は無表情にそれを聞き流すのでありましたが。
「まあ、だからすんなり独立を選ばないで、こちらに色目を遣ってきたのだろうが」
 鳥枝範士は一応花司馬教士の言に頷くのでありました。「しかし、あちらもこちらもダメだとなると、残された道は独立しかないのは確かだ。まあ、ワシとしては彼奴が独立しようが消えてなくなろうが知ったこっちゃないがなあ」
「洞甲斐先生は、色々な事を根に持つタイプでしょうかね?」
 万太郎が花司馬教士に訊くのでありました。
「いや、どうでしょう。本心は判りませんが、今までを顧みると、あれで意外にあっさりしたところもあるように見受けられます。ま、忘れっぽいのか、根が図々しくて鈍感なためか、一晩寝ると次の日にはケロッとして、あんまり拘らない風と云うのか、すぐに次の展開を考えるタイプと云うのか、私の印象としてはそんな感じでしたかねえ」
「へえ。意外にポジティブな人なのですねえ」
「いや、厚かましい人、と云うべきでしょう」
「厚かましくなければ、道分先生の生前から、瞬間活殺法なんぞと云う怪し気な事は云い出さないだろうよ。ま、ワシに云わせれば単なる馬鹿だが」
 鳥枝範士がまた鼻を鳴らすのでありました。
「そう云えば僕も話していて、鈍いなと思うところも時々ありましたか。しかし今考えると、憎めないタイプではあるかなとも、思うような、思わないような。・・・」
「憎むだけの価値もないヤツだと直感したから、今になってそう思うだけだろうよ」
 鳥枝範士は到って鮸膠もないのでありました。
「まあ確かに、敢えて一緒に武道を研鑽しようと云う気は一切起きませんでしたが」
(続)

お前の番だ! 472 [お前の番だ! 16 創作]

「あの人のしている事は、武道と云うよりオカルトに近いですからね」
 花司馬教士も冷淡一辺倒のようであります。
「一緒にはやれないが、我が道を行く分にはこちらも何も云う心算はない。まあ、あの人の鈍さやがさつさからこちらに累が及ぶようなら、その時はその時できっぱり諌めればそれで良い。折野は洞甲斐さんの性格を気にしているようだが、それは多分洞甲斐さんが今回の事を恨みに思って、何らかの意趣返しをしてくる事を警戒しているのだろうが」
 是路総士はそう云って万太郎を見るのでありました。
「まあ、そう云う事です」
 万太郎も是路総士を見つめるのでありました。「しかし花司馬先生に依ると、意外にあっさりとした性格のようですから、それも恐らくないでしょう。洞甲斐先生の拠点が八王子と云う事なので、同じ地域に支部がある我々としては向後何かしらの鞘当てがあったり、無用な摩擦が起ったりするのは叶わないと思ったもので、その辺を憂慮したのです」
「そんな度胸は彼奴にはなかろうよ。しかし若し不埒な事を仕かけてきたなら、こちらとしては軽く捻り潰すだけだ。へでもないわい」
 鳥枝範士は哄笑するのでありました。
「ま、必要以上に意識する事も、敵視する事もなさそうですかね」
 万太郎はそう云って言を納めるのでありました。しかし万々が一のための警戒は怠らぬ方が良かろうとも、一方で思うのでありました。
「じゃあ、洞甲斐さんの一件はこれで一先ず収束、と云う事で良いかな?」
 是路総士が訊きながら一同をゆっくり見回すのでありました。一同は小さく、押忍、と発声しながら是路総士に夫々目礼するのでありました。
「さて、どうですかな、話しも収まったところで、皆で一杯やりますかな。寄敷さんは親戚の法事と云う事で欠席だが、暫くぶりに幹部がこうして顔を揃えたと云うのに、この場に酒がないと云うのは如何にも寂しいですからなあ」
 鳥枝範士が掌をポンと打つのでありました。
「ああ、ではお酒の用意をして参ります」
 そう云ってあゆみが、少し遅れて万太郎と花司馬教士が立つのでありました。
「いやいや、これから用意するのは億劫でもあろうから、今日は一つ久しぶりに雲仙にでも繰り出す事にしよう。如何ですかな、総士先生?」
 鳥枝範士が云う、雲仙、とは別に長崎の温泉地ではなく、駅前にある居酒屋の屋号でありました。まあ、これは敢えて断るまでもない事でありましょうが。
「偶にはそれも良いですかな」
 是路総士が破顔するのでありました。
「それじゃあ、来間も呼んでこい」
 鳥枝範士が指示するのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎はそう云って母屋の食堂に控えている来間を呼びに行くのでありました。
(続)

お前の番だ! 473 [お前の番だ! 16 創作]

 その後、洞甲斐先生の消息をふつと聞かなくなるのでありました。それまで洞甲斐先生の一派は八王子の体育館で定期的に稽古をしていたのでありましたが、万太郎がひょっと気づいてみると、それが何時しかなくなっているのでありましたし、他の市内にある体育施設でも稽古をしている形跡は全く窺えないのでありました。
 洞甲斐先生は自宅に八畳間二つを、仕切りを外して十六畳にした小さな道場を持っていると聞き及んではいたので、そこでの稽古だけに専念しているのでありましょうか。それともひょっとしたら、すっかり武道から足を洗って仕舞ったのでありましょうか。
 これは万太郎の小さな気がかりにはなりましたか。総本部への移籍を断った経緯があるのだから、それも原因の一つとして洞甲斐先生が活躍の場を失くしたと云うのなら、万太郎としては多少の済まなさも感じないわけではないのでありました。
 まあ良きにつけ悪きにつけ、到って楽観思考の洞甲斐先生の事でありますから、何処か万太郎の窺い知れない別天地で屹度、例の瞬間活殺法とやらに磨きをかけているのかも知れませんし、武道よりは神秘主義的な活動の方に重点を移したのかも知れません。いずれにしても、もう万太郎とは関わりの薄い人となって仕舞ったのではありますか。
 しかしながらその洞甲斐先生の消息が、思わぬところから知れるのでありました。それは八王子支部に出張指導に来ていた体育館で、今は興堂派の指導員で興堂範士の最後の内弟子となった堂下善郎が、万太郎の前に突然現れた事からでありました。

 洞甲斐先生の時と同じで、常勝流八王子支部が使用している体育館の武道場の出入り口に立っている男が、ふと目があった万太郎にお辞儀して見せるのでありました。万太郎はすぐにそれが、前から見知っている堂下である事を認知するのでありました。
「おや、堂下じゃないか」
 万太郎は不審気な面持ちをして、刺子のない一枚布の空手着に黒帯を締めた姿の堂下に近づいて行って声をかけるのでありました。
「ご無沙汰しています」
 堂下は多少ぎごちない笑顔を向けてもう一度頭を下げるのでありました。
「何だ、どうしてお前がここに、しかも稽古着姿で居るんだ?」
「今度興堂流の八王子の稽古を本部が引き継ぐ事になったので、ちょっとご挨拶に」
 堂下はそう云い終ってまたもや低頭するのでありました。
「興堂流は洞甲斐先生が八王子を統括しているじゃなかったのか?」
「この前まではそうでしたが、洞甲斐先生は興堂流を除名になったので、今後は本部師範が出張して指導に当たる事になったのです」
「洞甲斐先生は興堂流を除名になったのか?」
 万太郎は思わず眉宇を曇らせるのでありました。「それはまた、一体どうした按配でそんな無粋で荒けない仕儀になって仕舞ったんだ?」
 早晩洞甲斐先生は興堂流を辞するであろうとは予想していた事でありました。しかし除名となると、些か穏やかならぬ辞め方と云うべきではありませんか。
(続)

お前の番だ! 474 [お前の番だ! 16 創作]

「宗家先生の再三の指令を全くお聞きにならないもので。・・・」
 堂下は眉宇を曇らせながら云うのでありました。
「宗家の指令とは一体何だ?」
「新しく制定した組手の形をちゃんと指導しろとか、年に二回ある選手権大会に八王子の門下生を必ず出場させろとか、本部に納める登録料を滞納するなとか、まあ、色々と」
「ふうん」
「他にもあれこれ除名理由はあるのですが、まあ、それは内部の事なので。・・・」
 堂下はそう云ってその後を曖昧に濁すのでありました。
「しかし除名とは、なかなか思い切った処置だな」
「もっと穏当な取り計らいをと云う意見もあったのですが、宗家先生のお怒りが相当なもので、結局除名処分と云う仕儀になったのです」
「そう云う処置について門外の自分が何か云うのは控えるけれど、・・・」
 万太郎はそう云って顎を撫でるのでありました。「しかし驚いたな」
「洞甲斐先生のされている活動と、それに宗家先生のご気性から、お察しください」
 堂下は興醒め気に眉を少し寄せて見せるのでありました。
「ところで、組手の形を新しく制定したのか?」
「ええ。今の本部筆頭師範が組形稽古を取り入れなければ技が上達しないとおっしゃって、宗家の許可を得て殆ど総ての形、八本ですが、それを考案されたのです」
「ほう。失礼な云い方だが、宗家もなかなか上達論が判っているじゃないか」
「いや、宗家は形の制定には何も関与されていません。総て筆頭師範の仕事です」
「筆頭師範と云うのは、・・・?」
「前に実戦派の空手をされていた人で、田依里成介と云う人です」
 堂下は筆頭師範の名前を云って俄かに、自分がここに現れた理由を思い出したと云う顔をするのでありました。「その田依里が今日こちらで指導しておりまして、若し可能ならば今後ともご交誼をいただきたいので、折野先生にご挨拶をしたいと申しております」
「それはご丁寧な事だが」
 万太郎がそう云った辺りで門下生の一人が近寄って来て、そろそろ次の技の指導をお願いしたいと、お辞儀しながら申し出るのでありました。万太郎は、ああうっかりしていた、と云った顔をして頷いてから堂下の方にもう一度顔を向けるのでありました。
「それじゃあ稽古が終わってから、若し良ければ体育館の一階ロビー辺りでお逢い願えたらと、その田依里先生にお伝えしてくれないか?」
「判りました。そう伝えます」
 堂下はそう云って万太郎に一礼してから武道場を離れるのでありました。
 稽古が終了して着替えも済んで、万太郎と門下生達が体育館一階のロビーに行くと、堂下とその横に、それが田依里成介筆頭師範であろう二人が立っているのでありました。田依里筆頭師範はなかなか立派な体躯をした花司馬教士と同年配と思しき人で、堂下とお揃いの、胸元に興堂流と名入れした紺色のスポーツウェアを着ているのでありました。
(続)

お前の番だ! 475 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎が一列横隊に並んだ門下生達と別れの挨拶とお辞儀を終えるまで、二人は少し離れた処で控えているのでありました。万太郎がその後二人に近づいて行くと、二人は万太郎より先に、やや深めに低頭して見せるのでありました。
「急遽にお呼び立てしたようで、慎に申しわけございません。この後に何かご用でもおありだったのではないでしょうか?」
 田依里筆頭師範が万太郎に恐懼の顔を向けるのでありました。
「いえ、普段だとこれから、八王子の門下生達と食事に行くだけですから」
「ああ、それをお邪魔したような形になって、恐縮に存じます」
 田依里筆頭師範はまたもや深めに頭を下げて見せるのでありました。実戦系の空手流派崩れで、今は到底良好とは云えない因縁のある興堂流の筆頭師範をしているのでありますから、もう少し尊大な態度で万太郎に対するかと思っていたのでありましたが、存外に低姿勢であるものだから万太郎は少々面食らって仕舞うのでありました。
 ひょっとしたら丁度良い折と、喧嘩でも売る心算かとも当初は疑ったのでありました。しかしこの田依里筆頭師範の低姿勢は、一体全体どんな了見に依るのでありましょう。
「食事だけですから、恐縮を頂く程の事ではありません」
 万太郎は警戒を未だ心の隅に残しつつお辞儀を返すのでありました。
「申し遅れました。私は興堂流の筆頭師範を務めております田依里成介と申します。空手の方は少々嗜みがありますが、常勝流に関しては経験の浅い私が、興堂流の筆頭師範を務めるのは慎に畏れ多い事なのですが、行きがかり上こういう仕儀になっております」
「いや、今では常勝流とは一線を画された興堂流なのですから。・・・」
 万太郎は後の言葉を濁してから、語調を改めるのでありました。「こちらこそ申し遅れました。常勝流総本部道場の教士をしております折野万太郎と申します」
「折野先生のお名前は、以前から存じ上げております」
 田依里筆頭師範はあくまでも辞を低く保つのでありました。「それに私としてはあくまでも、興堂流は今でも常勝流の流れを汲んでいると思っておりますから、勝手な云い分に聞こえるかも知れませんが、常勝流に対する畏敬の念は常に保持しております」
 これはなかなか、威治宗家とは趣が違って、話しの出来る人かも知れないと万太郎は内心驚くのでありました。威治宗家は常勝流とは絶縁した心算でありましょうが、そこの筆頭師範が今、常勝流とは無関係ではないと万太郎に云っているのであります。
「あのう、お話し中ですが、もうすぐ体育館が閉まりますので場所を変えませんか?」
 今まで脇に立った儘黙っていた堂下が横から言葉を挟むのでありました。
「ああそうだな」
 田依里筆頭師範はちらと堂下を見て、その後でまたすぐに万太郎の方に視線を戻すのでありました。「若し億劫でいらっしゃらないならば近くの居酒屋か、食事の出来る処に場所を移してゆっくりしたいと存じますが、折野先生のご都合等は如何でしょう?」
「良いですね。おつきあいさせていただきます」
 万太郎は笑い顔を見せて頷くのでありました。
(続)

お前の番だ! 476 [お前の番だ! 16 創作]

 三人は体育館近くの居酒屋に席を移すのでありました。注文したビールを待つ手持無沙汰の間に、万太郎は対面に座る田依里筆頭師範に言葉を向けるのでありました。
「先程そこの堂下さんに伺ったところ、洞甲斐先生は興堂流を辞められたとか」
 万太郎は田依里筆頭師範の横に居る堂下の方をちらと見るのでありました。
「折野先生、以前の儘の、敬称略、でお願いします」
 空かさず堂下が、頭を掻きながら万太郎に決まり悪そうな笑いを送るのでありました。
「折野先生、どうぞ何のお気遣いもなく、前通りに呼び捨てにしてやってください」
 田依里筆頭師範が云って万太郎に軽く低頭して見せるのでありました。
「ああそうですか。では向後はそうさせていただきます」
 万太郎もお辞儀を返すのでありました。丁度そこへつき出しの小皿と伴にビールの大ジョッキが運ばれてきたので、三人は初対面及び再会の挨拶代わりに、伏し目をしながら夫々のジョッキを目線の高さまで持ち上げて見せるのでありました。
「洞甲斐先生に関しては、なかなか本部の指示を尊重していただけませんでしたし、それより何より、八王子の支部が本部派の門下生と洞甲斐先生派とに分裂したような状態になって仕舞いまして、本部派の方が多数だったために洞甲斐先生の方が身を引かれたと云う形になったのです。それで私共が新たに指導に乗り出したと云う経緯です」
 田依里筆頭師範が大雑把に説明するのでありました。
「立ち入った事をお聞きするようですが、洞甲斐先生は今の田依里先生のご説明よりはもっと穏やかならぬ形で興堂流を辞められたと、先程堂下から聞いたのですが?」
 万太郎はやや遠慮がちにそう訊くのでありました。
「洞甲斐先生は除名になったと、さっき自分がもう云って仕舞いましたよ」
 堂下が横の田依里筆頭師範の方に首を捻じるのでありました。
「ああそうなのか」
 田依里筆頭師範は万太郎に向かって苦笑って見せるのでありました。
「まあ、内部の事として話し難い事でしたら、これ以上伺う事は慎みますが」
 万太郎はその苦笑いの謂いを察するように云うのでありました。
「私としましてはそう云う荒けない仕方よりは、例えば分派とか云う結果を模索もしたのですが、宗家の、破門と云う意向がどうしても覆せませんでしたので。・・・」
 と云う事は、洞甲斐先生の除名処分は威治宗家の強い意と云う事になるでありましょうが、洞甲斐先生は威治宗家の勘気を招くような何事かを仕出かしたのでありましょうか。それとも洞甲斐先生の興堂派に於ける在りよう自体に、威治宗家が苦々しさを覚えていて、八王子の分裂騒動を除名の方便として使ったと云う事なのでありましょうか。
「洞甲斐先生は以前からあのようなお方でしたから、興堂派でも浮いた存在であったろうとは僕にも想像出来ます。その辺が破門の実の理由と云うところでしょうかねえ?」
 万太郎はそう云いながらジョッキを口に運ぶのでありました。
「まあ、流派の実体を守るための宗家の苦渋の判断、とも概観出来るでしょうか」
 田依里筆頭師範はやや無理をするような表情で、そう総括して見せるのでありました。
(続)

お前の番だ! 477 [お前の番だ! 16 創作]

 それ以上の探索は他流派の内部事情に属する事柄でありましょうから、万太郎の方も控えるのでありました。洞甲斐先生が早晩興堂流を離れる事になろうと云うのは当然予想される結果の内でありましたし、その予想通りに事が進んだと云うだけであります。
「洞甲斐先生の時は、確か他の曜日に体育館を使用されていたようですが?」
 万太郎は話題を少し変えるのでありました。
「はい。しかし本部の指導となった以上本部の都合もありますし、今までの週二回の稽古を週一回として曜日を変えたのです。まあそれが偶々、常勝流の皆さんが稽古される曜日と同じとなったので、それで今日、折野先生にご挨拶出来たと云うわけです」
「興堂流の稽古は畳敷きの道場を使わないで大丈夫なのですか?」
「ええ。技術としては旧興堂派以来の投げ技も固め技もありますが、打撃とか蹴り技の稽古の方が主になりますから、板張りの処でも構わないのです」
 そこで田依里筆頭師範は、あああそうかと云うような顔をするのでありました。「ああ、向後我々は畳敷きの武道場ではなく、板張りのホールの方を使用いたしますので、常勝流の皆さんとの稽古場所の取りあい等は決して致す心算はございませんから」
 別に万太郎はそこを心配して先の質問をしたわけではないのでありましたが、まあ、そう聞いて些か安堵も覚えるのでありました。
「ああそうですか。それは助かりますね」
「この先は、友好的におつきあいさせていただきたいと考えておりますから」
 田依里筆頭師範はそう云って律義らしく万太郎にお辞儀して見せるのでありました。しかし田依里筆頭師範がそう云う了見であったとしても、興堂流が常勝流の名前を棄てた経緯から鑑みて、威治宗家もそうであるとは限らないと万太郎は考えるのでありました。
 それならば田依里筆頭師範の今日の万太郎への接触は、威治宗家の意を体したものと云うのではなくて、田依里筆頭師範の独断と見た方が良いでありましょう。田依里筆頭師範と威治宗家の間に、ひょっとしたらここに来て隙間風のようなものが吹き始めたのかも知れないと忖度するのは、果たして万太郎のお先走りでありましょうや。

 話しに依ると、後日八王子に出張指導に行った寄敷範士も、興堂流の田依里筆頭師範から挨拶を受けて、その後に万太郎と同じように居酒屋で持て成されたと云う事でありました。花司馬教士からもそう聞くのでありましたし、偶々鳥枝範士の急遽の拠ない欠席に依り一人で初めて指導に行った来間も、流石に結果として教士補の身分で居酒屋での接待は遠慮したものの、田依里筆頭師範からの丁寧な挨拶は受けたと云う事でありました。
「威治とは違って、なかなかしっかりとした人物と見たぞ」
 寄敷範士に依る田依里筆頭師範の評判は上々のようでありました。
「助手として来ていた堂下が、すっかり頼りにして懐いているようでしたね」
 これは花司馬教士の感想であります。
「自分如きが云うのは烏滸がましいですが、誠実そうな方のようにお見受けしました」
 来間の印象もなかなかに好意的なものでありました。
(続)

お前の番だ! 478 [お前の番だ! 16 創作]

「あの田依里さんと云う人は高校生の頃から空手をやっていて、或る実戦派の空手の団体の中ではかなりの腕前だったそうです」
 来間はそんな情報も万太郎に披露するのでありました。
「なかなか詳しいじゃないか」
 万太郎は少なからず興味をそそられるのでありました。
「まあ、調べられる範囲で、自分としても調べてみたのです。で、一時はその団体の試合大会なんかでは中量級の部で優勝の常連だったようですね。しかし或る時を境にして、全く試合に出なくなったと云う事です。未だ二十代で力も充実していた頃だそうです」
「ふうん。どうして試合から遠ざかったのかな?」
「それは判りませんが、どんなに勧められても頑として試合には出なかったようです。武道観と云うのか、心境がある日を境に変わって仕舞ったのでしょうかね。それで結局その団体をきっぱり辞めて、その後は伝統派の空手や合気道とか居合道を始めたらしいですね。これは、自分が求めているものがそれまでの空手では手に入らないと覚悟して、転向したと云う風に見えます。そう云う人を時たま見ますし、結局宗教や神秘主義の方に走ってみたりするのですが、あの田依里さんはそんな道には行かなかったようですね」
 来間の話しで万太郎は洞甲斐氏の事を思い浮かべるのでありました。しかし田依里筆頭師範の方には、洞甲斐先生よりは余程態度に真摯なところを感じるのでありましたが。
「自分の気持ちや実像に対して、生真面目な人なのかな?」
「行動から見ると、そう云うところも窺えますね」
 来間が続けるのでありました。「それで、暫くするとそう云う武道もあっさり辞めて仕舞って、今度は二三人の仲間と、また空手の修業を始めたと云うのです。それは特に誰かに師事すると云うのではなく、空手道稽古研究会と云う名前をつけて、極々内輪で研修稽古のような事をしていたと云う事です。なかなか激しい稽古だったらしいですよ」
「で、そう云う人がどう云う経緯で興堂派の指導員になったんだ?」
「田依里さんの知人が興堂流会長と知りあいで、その人の伝で、と云う事らしいです」
「しかし田依里さんが興堂流の指導員を引き受けたと云う事と、それまでの田依里さんの歩いてきた道とが自然にシンクロするようには全く見えないがなあ」
「その知人と云う人に大変な恩義があって、是非にと頼まれて断れなかったとか、或いは何か別に秘めた魂胆があっての事か、まあ、その辺は自分にも判りませんが」
「組織的に衰退して仕舞って、その上已むに已まれず常勝流から独立せざるを得なかった興堂流なら、自分が組織ごと乗っ取るに好都合かも知れないと踏んだのかな?」
 万太郎は敢えて人の悪い想像を披歴して見せるのでありました。
「それはどうでしょう。そんな事を考える人のようには見えませんでしたが」
「まあ、確かにそうだな。お前の話しからするとそんな政治性には無縁のようだし」
「もう少し調べられるだけ調べてみますよ」
 来間が一体何処からそんな情報を取ってくるのか、一方で万太郎は不思議でありました。これまでも来間は、色んな事に妙に事情通なところがあるのでありました。
(続)

お前の番だ! 479 [お前の番だ! 16 創作]

 田依里筆頭師範が如何にして興堂流の指導員になったのかは、花司馬教士から多少は蓋然性のある情報を聞く事が出来るのでありました。花司馬教士の言に依ると田依里筆頭師範は威治宗家の、大学時代の上級生に当たる人なのだそうであります。
「ゼミか何かで一緒だったのか、それとも何らかの縁で遊び友達になったのか、或いは威治が道分先生の息子だと云うところに田依里氏が興味を持ったのか、その辺は窺い知れませんが、居酒屋で飲んだ時に田依里氏からそう云う話しを聞きましたよ」
「成程、大学の先輩後輩の仲ですか」
「田依里氏はその頃は空手一辺倒で、常勝流にはそんなに興味があったわけではないけど、道分先生の名前とかその活躍は良く知っていたと云う事です」
「その辺の縁で威治宗家が是非指導員にと声をかけたのですかね?」
「直接には会長の線が決定打でしょうが、そんな因縁も無関係ではないでしょうね」
「丁度良い機会で、道分先生の常勝流を齧る事が出来ると考えたのでしょうかね?」
「それは本人も云っていましたね。大学時代はそうでもなかった常勝流への興味が、合気道や居合道をやってみて、俄かに昂ってはいたのだと」
「しかし今の興堂流には、道分先生の技を本格的に受け継ぐ人は居ないのでは?」
 万太郎は疑問を表明するのでありました。
「確かにそうですね。板場はもう居ないし、威治じゃ全く心許ない。況や堂下ではどう仕様もない。まあ、板場が居たとしても道分先生の技を再現するのは無理でしょうが」
 花司馬教士は情けなさそうな顔をするのでありました。
「花司馬先生が居れば、田依里さんの思いも叶ったでしょうがね」
「いやいや、自分だってとてもとても」
 花司馬教士は顔の前で掌を何度も横にふって見せるのでありました。「田依里氏にもその辺を云ってはみたのです。威治の技を道分先生の技と勘違いしてはダメだとね」
「すると田依里さんはどんな顔をされましたか?」
 その折の田依里筆頭師範の反応に万太郎は興味を惹かれるのでありました。
「それはそうかも知れませんが、しかしまあ、一端はご教授していただいております、等とやや苦しそうに云っていましたね」
 まあ、無難な応えと云うべきでありましょうか。
「ところで花司馬先生、田依里氏に興堂流に戻らないかと誘われませんでしたか?」
 万太郎は冗談に紛らわしてそう聞いてみるのでありました。
「いや、そう云う気配は全く感じられませんでしたね」
 花司馬教士は至極真面目に応えるのでありました。「それはそうでしょう。どうせ自分の事を威治は周囲にぼろくそに云っているでしょうから、そんな自分を宗家の手前、リクルートするわけにはいきませんでしょうよ」
「威治宗家は花司馬先生の事をぼろくそに云っているのですか?」
「漏れ伝わるところに依れば、そうみたいですな」
「それはお門違いでしょうに」
(続)

お前の番だ! 480 [お前の番だ! 16 創作]

「自分もそう思いますが、まあ気にもしません。判っている人には判っている事ですから。それにそんな戯言につきあっている暇もありません。云いたい奴には云わせておけば良いのです。勿論、男が廃るからこちらは一切何も反論しません」
「流石に花司馬先生、出来た態度だと思います」
 万太郎は敬服のお辞儀をして見せるのでありました。「しかしそんな花司馬先生にも、田依里さんは憚りなく接触してきたと云うのは、勘繰ってみれば何か威治宗家とは違った、田依里さん独自の思惑でもあっての事なのでしょうかね?」
「さあ、その辺は今の段階では何とも云えませんが、田依里氏の態度や会話する物腰からは、何やらの胡乱な魂胆なんかを秘めているようには見受けられませんでしたね。寧ろ如何にもこちらに敬意を表していると云う風に、全般として自分には感じられました」
 花司馬教士も田依里筆頭師範を全く悪くは云わないのでありました。寄敷範士になると、花司馬教士以上に田依里筆頭師範に好意的な印象を持ったようでありました。
「あの田依里と云う男は、なかなか人間が出来ているなあ」
 寄敷範士は感心したような表情をするのでありました。「話しぶりも控え目で落ち着いていて好感が持てる。私に対してあくまでも風下に徹していた。横に座っていた堂下が如何にも心服している風だったのが、あの男の誠実な人柄の左証のようにも思えた」
「確かに僕も、威治宗家とは全く趣の違った人のように感じました」
 万太郎は寄敷範士に頷いて見せるのでありました。
「何より、あの男はその威治に対する自分の評言を、一言も口にしないように注意しているところが好もしく見えたよ。屹度威治に対しては不満や云いたい愚痴も多々あろうと推測されるのだが、威治が宗家である事を最大限尊重して自戒しているのだろう」
「ああ確かに、そう云えばそんな感じを受けましたね、僕も」
 万太郎はもう一度頷づいて見せるのでありました。
「こちらが、威治の下じゃあ色々やり難かろうとか、威治の勝手放題で支離滅裂で、単なる思いつきみたいな指示に一々従わなければならないのは、大層気骨が折れるだろうとか水を向けてみても、いえ、宗家には大事にして貰っていますとか、筆頭師範としての自分の立場を尊重していただいておりますとか、そんなようなあっさりとした返答をして、悪口の欠片も口の外に出そうとしなかったな。あれはなかなか見上げた心根だ」
「そうですね。かといって無闇に持ち上げるような事もおっしゃらないですし」
「そうそう。恬淡としていて、しかしどんな場合でも矩は決して越えず、と云った心がけだな。自分の属ずる組織の顔、或いは上位者に対しては、それがどんなに虫の好かない嫌なヤツだとしても、外に対しては常にああいう清々しい態度でありたいものだな」
 寄敷範士は口の端に笑いを浮かべて、万太郎をジロリと睨むのでありました。
「押忍。僕も田依里さんみたいに在りたいと思います」
 別に是路総士や寄敷範士、或いは鳥枝範士を陰でとやこう云っているわけではないのでありましたが、何となく万太郎はその寄敷範士の言で、その点お前はどうなのだと問われているように感じて、竟々たじろぎなんかを覚えて仕舞うのでありました。
(続)
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