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あなたのとりこ 732 [あなたのとりこ 25 創作]

「頑ちゃんが傍に居てくれたらって思うわ。あたしお母さんを見ていると時々すごく落ちこむの。頑ちゃんに何時でも逢えるんだったら、あたしはこんなにめげなくて済んだかも知れないなんて思うの。まあこれはあたしの自分勝手な願望なんだけど」
 夕美さんにこう云われて、頑治さんは悄気るのでありました。矢張りもう少し夕美さんの傍に居てあげる方が良かったようであります。暇は充分あったのに、さもしくも懐具合を気にしてこうして東京に戻って来た自分を、頑治さんは自責するのでありました。
「ご免よ。夕美にそう云われると、何だか自分が無神経でけしからぬ事をしたような気になるよ。今更後悔しても仕方がないけど」
「ううん、そんな心算で云ったんじゃないのよ。頑ちゃんには頑ちゃんの都合があるんだから気にしないで。今のはあたしのは身勝手な愚痴なんだから」
「若しどうしても、と云うのならまたそっちに戻っても構わないけど」
「そんな必要はないわ。本当にあたしの事は気にしないで就職活動に勤しんで頂戴」
 夕美さんは努めて快活に云うのでありました。
「いや本当に。夕美が苦しいのなら俺はそっちに行くよ」
 そう云いながら頑治さんは頭の隅で金銭勘定をするのでありました。かなり苦しいのは実状ながら、もう一度向うへ行くとしても、何とかかんとか遣り繰り出来ない事もないでありますか。いや、夕美さんが望むのなら、若し遣り繰りが叶わないとしても、寧ろ借金してでもここは夕美さんの傍に行ってやるべきでありましょう。
「ううん、いいの」
 夕美さんがきっぱり云うのでありました。「本当にいいのよ。頑ちゃんに無理をさせても今度はあたしの方が辛くなっちゃうもの」
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫。余計な心配させてご免なさい」
 夕美さんは消えも入りそうな声で謝るのでありました。
「どうしても必要なら、遠慮しないで来いと云ってくれて良いんだよ。夕美のためなら俺は何時だって駆けつける用意があるんだから」
「うん、有難う。でも当面は本当に大丈夫だから」
「そうか。そう云うのなら、一応判ったよ」
 頑治さんはこの言葉が不躾に響がないように気遣いながら云うのでありました。「そう云えば博物館の仕事で、夕美の方こそこっちの大学に来る予定はないのかな?」
「ない事もないんだけど、母の事があるから事情を話して、東京出張は勘弁して貰っているのよ。本当は大学院の考古学研修室に行きたい用事もあるんだけど」
「ああそうか。それはそうだよなあ」
「まあ、母が病院を退院出来て、容態が安定したら行く心算なんだけど」
「そうか。まあ、近い内に屹度そうなるだろうから、その時にまた夕美の顔を見るのを楽しみにして、俺も職探しに精を出すよ」
「近い内に、そうなるのかしら、ねえ。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 733 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんは頼りなさそうに呟くのでありました。
「そうなるさ。本当に近い内に」
「そうだと良いんだけど。・・・」
 夕美さんんはここで少しの間沈黙するのでありました。「それじゃあ頑ちゃん、また逢える日迄元気にしていてね。それから就職が決まったら連絡して」
「決まってからじゃなくて、その前でも近況報告の電話をするよ」
「そうね、あたしも頑ちゃんの声が聞きたくなったら、すぐに電話をするわ。でも声だけじゃあ、何だかつまらないけどね」
「そんなに先じゃなくて、また逢えるよ屹度。そっちかこっちかは判らないけど」
「そうね。あたしもそんな気がしてきたわ」
 夕美さんはここで努めて快活に云うのでありました。それから名残り惜しそうにさようならを云って、二人はほぼ同時に受話器を架台に戻すのでありました。

 この後も未だ頑治さんは本格的に就職活動を始めないのでありました。何となく気が乗らないのでありました。全く意欲的ではない気持ちで動き回っても、良い結果は招かないと云う云い訳で自分の怠惰を正当化するのでありましたが、まあ、そこのところは云い訳の分を差し引いて、二分くらいは当たっているような気もするのでありました。
 そんな折袁満さんから、久し振りに飲みに行かないかと云う誘いの電話が入るのでありました。別に断る理由も無いから頑治さんは気楽に誘いに乗るのでありました。
 お互いの最寄り駅から近いからと云うので、頑治さんは本郷三丁目駅から地下鉄に乗って待ち合わせ場所の池袋に出掛けるのでありました。
 袁満さんから指定された池袋演芸場に近い居酒屋に行くと、入り口の傍の席に居る袁満さんをすぐに見つけるのでありました。席にはもう一人袁満さんと差し向かいで座っている仁が居るのでありました。それは日比課長だとすぐに判るのでありました。
「袁満君が唐目君と飲むと云うんで、俺もついてきたんだ」
 日比課長は頑治さんが椅子に腰を下ろす動作の途中で云うのでありました。
「ああそうですか。お久し振りです」
「どうだい、次の仕事は決まったのかい?」
「いやあ、未だ全然決まってはいないですよ」
 頑治さんは先着の二人が日本酒を飲んでいるのを見て、自分も熱燗と、それに当てとして枝豆と冷や奴を注文するのでありました。
「袁満君のように、どこか職業訓練校にでも通っているのかい?」
「いや、俺は会社を辞めてから未だ一度も、職安にも顔を出していないです」
 頑治さんは店員が持ってきた猪口を取って日比課長の酌を受けるのでありました。
「随分悠長にしているんだなあ」
「まあ丁度良い機会だから、ちょっと故郷に帰ったりしていたものですから」
「ああ成程ね」
(続)
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あなたのとりこ 734 [あなたのとりこ 25 創作]

「それより、風の便りに贈答社が会社解散になると聞きましたが?」
 今度は頑治さんの方が日比課長に訊くのでありました。
「そうなんだよ。結局社長の意向が通ったと云うところかな」
「そうなら、日比課長はこれから先どうするんですか?」
「俺もこれから再就職先を見付けると云うのも億劫だし、賃金が少しばかり下がっても会社に残る心算でいたんだけど、会社解散となればもう致し方なしだね」
 日比課長は苦虫を噛み潰すような表情をして見せるのでありました。「まあ一応、社長に頼み込んで下の紙商事で嘱託として働かせて貰う事になったけど」
「紙の営業をするんですか?」
「いや今迄の得意先との繋がりがあるから、贈答社の時と同様でギフト関係の営業をやるんだよ。贈答社オリジナルの商品はないけど、他社商品を使ってね」
「紙の営業はしないんですか?」
「うん。俺は紙の種類や値段の出し方とかは全く判らないからね。今更覚えるのも面倒臭いし。幸い贈答社時代の仕入れ先とも未だコネクションはあるし、そっちの営業の方があれこれ遣り方も判っているし、どうせ紙商事から本給は貰えないんだし」
「贈答社時代に少しは紙の事も勉強していれば良かったんだよ」
 ここで袁満さんが口を挟むのでありました。
「俺は出来上がった商品を売るのが仕事だったし、制作部でもないから、材料の紙の事とか印刷とか製本の事とかは特に知る必要がなかったからね。袁満君もそうだろう?」
「まあ確かに車の運転が出来ればそれで良かったんだけど、でも一応紙の大きさの規格とか寸法とかは勉強したよ。それに上質紙とかコート紙とかの違いもね」
 袁満さんは日比課長の贈答社時代の、怠慢と不勉強を少し軽侮するような目をするのでありました。頑治さんは袁満さんの、自分が仕事として扱っている商品に対する真摯さのようなものをこの言葉で初めて知って、ちょっと見直すのでありました。
「紙商事に行っても紙の営業はやらないで、贈答社の時と同じギフト関係の営業をやるのなら、敢えて紙商事の嘱託社員になる必要はないんじゃないですか?」
 頑治さんは袁満さんへの評価はさて置いて、日比課長に問うのでありました。
「俺もそう思うよ。どうして態々社長との腐れ縁にそんなに拘るのかねえ。紙商事から給料が出ないのなら、紙商事の嘱託社員になる必要なんかないと思うけど」
 袁満さんが頑治さんに同調するのでありました。袁満さんもその辺の日比課長の考えを怪訝に思うようでありました。
「別に社長との腐れ縁に拘っている訳じゃないけど、ギフト関連の営業をやるにしても、俺個人でやるより、一応株式会社の社員格としてやる方が、信用やら安心感やら、お得意さんの受ける印象が違ってくるからねえ」
「そうかねえ。俺はあんまり関係ないと思うけどねえ」
 袁満さんは日比課長の猪口に酒を注ぎ足すのでありました。「まあ、つまり日比さんは元々お得意さんの信用がなかったと云う事かな」
(続)
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あなたのとりこ 735 [あなたのとりこ 25 創作]

「知りもしないくせに、そんな無礼な事を云うんじゃないよ」
 日比課長は憮然とするのでありました。「少なくとも土師尾常務なんかよりは信用があったと思うよ、俺の方が余程」
「それはそうだ。でもあのインチキ野郎と比べて、自分の方が信用があると云うのは、大して自慢にもならない事だけどね」
 袁満さんはせせら笑うのでありました。
「その土師尾常務は今後どうするんですか?」
 頑治さんが手酌で自分の猪口に酒を注ぐのでありました。
「俺と同じ身分だよ」
 日比課長も自分の徳利を取ると自分の猪口を表面張力一杯に満たすのでありました。
「と云う事は紙商事の嘱託社員と云う事ですね?」
「そう。仕事も俺と同じギフト営業と云う事になる」
「社長は土師尾常務を、役員として紙商事に迎えなかったんですね?」
「そんなに買ってはいなかったんだよ、あの常務を、元々」
「でもインチキ野郎から、社長にそれなりの働きかけがあったんだろう?」
 袁満さんはもう土師尾常務の名前をちゃんと呼ばず、インチキ野郎、と云う呼称で向後いくようでありました。恨みと嫌悪と軽蔑の深さが窺えるようでありました。
「そりゃあ勿論、社長は自分を役員として紙商事に迎えてくれるだろうと思っていたんだけど、そうは問屋が卸さなかった訳だ」
「ブツブツネチネチとインチキ野郎は、話しが違うとゴネたんじゃないの?」
 袁満さんがそう訊いてから近くに居る店員に日本酒の追加を頼むのでありました。
「まあそうだけど、贈答社を清算するとなったら社長の方が立場が圧倒的に上になるんから、嘱託社員と云う条件以外なら紙商事で雇わないとつれなく云われれば、土師尾常務としてはそれ以上逆らえない訳だ。役員として処遇してくれると目論んでいたから退職金の割り増しも要求しなかったのに、これじゃあ踏んだり蹴ったりと云う按配さ」
 日比課長は鼻を鳴らすのでありました。
「ま、そんなところだろう。あのインチキ野郎らしい結末だよ」
 袁満さんは痛快そうに哄笑するのでありました。
「そう云う事になると、日比課長と土師尾常務の二人で、これから先、お得意先の取り合いみたいになるんじゃないんですか?」
 頑治さんは店員が持ってきた新しい徳利の一本の首を取って、先ず日比課長の方に、次に袁満さんの順で酌をしながら訊くのでありました。そこで日墓課長が、話しの途中だけどちょっとションベンに行ってくる、と云いながら出来を立つのでありました。

 日墓課長がトイレに行っている隙を狙ってか、袁満さんが頑治さんに顔を近付けてグッと声量を落として囁きかけるのでありました。
「ええと、日比さんには甲斐さんとのことは内緒にして置いてくれよね」
(続)
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あなたのとりこ 736 [あなたのとりこ 25 創作]

「未だ日比課長には云ってはいないんですね?」
「そう。甲斐さんとしては俺が日比さんと付き合うのも嫌みたいなんだ。日比さんは徹底的に甲斐さんに嫌われているんだよ」
 さもありなん、と頑治さんは思うのでありました。日比課長は前に甲斐計子女史に懸想して、付き纏ったりして忌避されていたのでありましたから。
「それじゃあ今日、俺と日比課長と袁満さんで、ここで飲む事になったと云う事も、甲斐さんには一切内緒なんですね?」
「そう。偶々昨日日比さんから電話が掛かってきて、唐目君と池袋で今日飲む事になっていると云ったら、俺も一緒に行くと勝手に乗り気になって付いてきたんだよ。まあ俺としても来るなとは敢えて云えないしね、甲斐さんが一緒と云う事でもないし」
 そう云った後、袁満さんがおどおどと目配せをするのは、日比課長がトイレから戻って来た故でありました。日比課長は手を拭いたハンカチを折り畳んでズボンの尻ポケットに仕舞いながら、籐の腰掛けに尻を落とすのでありました。
「ええと、話しは何だったかな?」
 日比課長が猪口を取って残りの酒を飲み干すのを待って、頑治さんは徳利を取って徐に日比課長に差し向けるのでありました。
「日比課長と土師尾常務がこれから先同じような仕事をすると云う事なら、二人の間でお得意さんの取り合いになるんじゃないか、と云う話しですよ」
「ああその事ね。それは俺としてはあんまり心配していないよ」
 日比課長は次の一杯もグイと喉の奥に流し込むのでありました。「あの人は会社に居て電話で適当に営業していただけだし、俺の取って来た仕事の仕上げの部分を掠め取って、それを自分の実績にしていたようなもので、実際にお得意さんに顔出しして仕事を取るために動き回っていたのは俺の方だよ。俺の方がお客さんとは昵懇だからね」
「つまり日比さんの方が、お得意さんとの結びつきは濃いと云う事ね」
 今度は袁満さんが日比課長の空いた徳利に酒を注ぐのでありました。
「そう。それにあの人は坊主である事を売り物にして、如何にも篤実そうに振る舞ってはいたけど、殆どのお客さんはその嘘っ八を疾うに見破っていたし」
「そりゃそうかな。あのインチキ野郎の浅薄な表面は大概の人は嘘だと見破れるし。それにお客さんとより昵懇である日比さんが、日頃から土師尾常務の卑劣さやら信用出来ない辺りを、露骨にあれこれお客さんに喧伝していただろうしね」
 袁満さんがまたまた哄笑するのでありました。
「そんな真似は俺はしていないよ。まあ、愚痴はこぼした事はあるかも知れないけど」
 日比課長は袁満さんの注いだ酒も一気に飲み干して仕舞うのでありました。このピッチで飲んでいると、日比課長は早々に酔い潰れるんではないかと頑治さんは心配するのでありましたが、まあ、那間裕子女史よりは日比課長の方が酒には強い方だろうから、その心配は要らないと思い直すのでありました。それに若し酔い潰れたとしても、その後を介抱して家まで送っていく役目は、頑治さんではなく袁満さんでありましょうから。
(続)
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あなたのとりこ 737 [あなたのとりこ 25 創作]

「要するに日比さんは同じ嘱託社員と云う立場で競争するなら、土師尾常務になんか絶対負けないと云う自信があると云う事か」
 袁満さんが自分の猪口に酒を手酌で注いだ後、頑治さんに徳利を差し向けるのでありました。頑治さんは自分の猪口を取ってその酌を受け、唇を濡らす程度に口に含むのでありました。袁満さんはその後また日比課長の猪口に並々と酒を注ぐのでありました。
「当然さ。あんな奴に負ける訳がない」
 日比課長は今度も一気飲みで猪口の酒を干すのでありました。
「それよりあの自尊心過剰な土師尾常務がよく、前の部下だった日比課長と同じ嘱託社員と云う自分の立ち位地を呑み込みましたよね」
 頑治さんがまたチビリと猪口の酒を口の中に入れるのでありました。
「まあ、社長に縋り付くしか、当面生きる術がないからね」
 日比課長が皮肉っぽく笑うのでありました。
「坊主に専念する、と云う選択はなかったのですかね?」
「それは無理々々」
 これは袁満さんが手を横に何度も振りながら云う言葉でありました。「あのインチキ野郎は自分で売り込んで、何度も頼み込んでようやく寺の副住職にして貰ったんだろうし、坊主としての修業も、徳も器量もさっぱりないヤツだから、そっちの道で食う事は出来ないだろうよ。お盆や命日の檀家回りだけじゃなかなか食えないだろうしね」
「坊主の方も嘱託、と云う訳ですかね」
 頑治さんがそう云うと袁満さんも日比課長も、持っている猪口から酒がこぼれるくらいに体を揺すって大笑いするのでありました。
「紙商事の嘱託社員としても、それに嘱託坊主、としても立ち行かないとなると、あのインチキ野郎の将来像はとても暗いと云う事か」
 袁満さんがどこか愉快そうに云うのでありました。
「営業マンとしても坊主としても、向上心もなく楽な事ばかりやって、結局は三流に甘んじていたから、そうなるのは自業自得というものさ」
 日比課長は突き放すような云い草をするのでありました。
「しかし日比さんの方も、安閑としてはいられないぜ」
「まあ、そうかも知れないけど、畑違いではあるけど一応、会社と云う組織の後ろ盾はあるし、何とかやっていくよ。常務とは違って目途が全く立たない訳でもないしね」
「ご家族もあるし、頑張ってください」
 頑治さんはエールを送るのでありました。
「甲斐さんはどういているんだろう。それに均目君とか那間さんとかも」
 日比課長が土師尾常務の事から話題を転じるのでありました。ここで不意に甲斐計子女史の名前が出てきたものだから、袁満さんは日比課長に気取られないようにではありますが少しおどおどする気配を見せるのでありました。
「夫々次の仕事を見付けようと心機一転、頑張っているんじゃないですかね」
(続)
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あなたのとりこ 738 [あなたのとりこ 25 創作]

 頑治さんが当り障りのない無難な線で応えるのでありました。
「均目君とか那間さんは未だ若いからそうでもないけど、甲斐さんの方は再就職するとなると、色々大変なんじゃないかなあ」
 日比課長はこう云うものの、実はこの三人の動向について然して心配もしていないし、殆ど無関心な様子でありましたか。しかし甲斐計子女史の動向についての言葉が出て来たものだから、袁満さんはまたもや目立たぬようにではあるけれど、何となく身構えるような素振りを見せるのでありました。日比課長に甲斐計子女史に対する良からぬ興味が未だあるのではないかとの猜疑、まあ、思い過ごしも抱いて仕舞うのかも知れません。
「甲斐さんの動向とか、日比さんにはもう関係ないだろう」
 袁満さんは不機嫌そうにソッポを向きながら、日比課長に徳利を差し出す様子もなく、手酌で自分の猪口に酒を満たすのでありました。
「そりゃそうだけど、まあ、ちょっとは気になるし」
 日比課長は袁満さんが無愛想な顔で、今度は酌をしてくれない事が何となく気になるようでありました。ひょっとしたら自分が嘗て、全く気軽な魂胆から甲斐計子女史にちょっかいを出そうとした事実を、袁満さんが聞き知っているのかも知れないとふと疑うのでありましたが、それは甲斐計子女史自身の口から語られなければ袁満さんが知り様もない事に違いないのであります。これ迄の観察から、甲斐計子女史が袁満さんにそんな事を打ち明ける程には二人の仲は親密ではない筈、とか、日比さんは考えたのでありましょう。
 ところがどっこい、甲斐計子女史と袁満さんは既にもうなさぬ仲なのでありますし、女史の不安と鬱憤からその辺の事情は、そんな仲になる前から疾うに袁満さんにも、それに頑治さんにも知れているのでありました。ここは日比課長の考え足らずであります。
「均目君はもう、何か仕事に付いたようですよ」
 頑治さんが日比課長に話し掛けるのでありました。
「へえ、何の仕事だい?」
「書籍の編集とか、雑誌に請負で記事を書いたりする仕事の様ですよ」
「どこかの出版社にでも就職したのかい?」
「いや、直接本人から聞いたのではないのでその辺は良くは知らないのですが、まあ、風の便りに、と云うか何と云うか」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
「那間さんはどうなんだい?」
「那間さんの方は特に情報は入っていませんね」
「那間さんからは連絡はないのかい?」
「ないですね。会社を辞めた後は」
「唐目君と那間さんは結構仲が良かったように思っていたけど」
「会社の中では軽口を云ったりする、と云うか一方的に俺が云われている仲だったけど、まあ、会社を離れると特段気が合う仲、と云う訳でもなかったですからね」
 そう云えば那間裕子女史は、その後どうしたのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 739 [あなたのとりこ 25 創作]

「那間さんの事だから、着実に就職活動をしているんじゃないのかな」
 袁満さんが自分の猪口にまた手酌で酒を注ぐのでありました。
「そうですね。那間さんは大学時代の友人とか先輩とか、その辺の交友関係も広そうだったから、その伝も頼って堅実に次の仕事を探しているでしょうね」
「もう、どこかに就職したのかも知れない。それこそ贈答社なんかよりも遥かに大手の出版社とかに。そうなれば返って、贈答社を辞めたのが吉と出た事になるかな」
 袁満さんはそんな推察を披露するのでありました。
「まあ、実際のところ、その後の動向はさっぱり知れませんけどね」
「そりゃそうだけど」
 袁満さんは自ら注いだ猪口の酒をグイと呷るのでありました。

 この池袋での酒宴で、後半に那間裕子女史の名前が出たのでありましたが、その女史から数日後に、不意に頑治さんに電話が掛かってくるのでありました。頑治さんとの間にすったもんだがあったのに、意外に屈託なく快活な声でありましたか。
「どう、元気にしている?」
「ええ、まあ、お陰様で」
「お陰様、と云われても、別にあたしは何も唐目君の元気に貢献していないけれどね」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「那間さんの方はどうですか?」
「別に唐目君のお蔭じゃちっともないけど、元気にしているわ」
 そう云う心算であったのではないでありましょうが、この那間裕子女史の科白は何となく頑治さんへの皮肉にも、聞こうと思えば聞けるのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたのですか?」
「未だよ。それよりもあたし、来週の金曜日からケニアに行く事になったのよ」
 そう云われて那間裕子女史が長い事温めていたケニア旅行の計画を、頑治さんは思い出すのでありました。この間の何だかんだで、すっかり失念していたのでありました。
「ああ、ケニアですか、愈々ですね」
「そう。やっと行く事になったのよ。二週間のケニア旅行」
「一人で、と云う事ではないんですよね?」
「うん、大学時代からの知り合いで、一緒にスワヒリ語の学校にずっと通っていた友人と二人でね。云う迄もない余計な事だけど、それは女友達よ」
「そうですか。やっと念願達成と云う訳ですね」
「ここにきて失業しちゃったから、ちょっと懐具合が心許ないけど、好い加減踏ん切りをつけないと、何時になっても行く事が出来ないし、思い切ったのよ」
「次の仕事に就いたらなかなか二週間も休暇は取れないでしょうから、そう云う意味では今がチャンスと云えばチャンスですよね」
「まあ、そう云う事ね」
(続)
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あなたのとりこ 740 [あなたのとりこ 25 創作]

「ところで均目君の事だけど、・・・」
 那間裕子女史は話頭を曲げるのでありました。語調から、ケニア旅行の話しよりも、その均目さんの話しの方がこの電話の本題かなと頑治さんは思うのでありました。
「均目君がどうかしたんですか?」
「この前ちょっと大学時代の先輩と話していたら、片久那さんの話題が出たのよ」
「その先輩と云う方は、片久那制作部長とは前からのお知り合いなんですかね?」
「そうじゃなくて、最近、仕事で知り合ったと云う事なの」
「ほう、仕事で、ですか」
 頑治さんは意外そうな口調で云うのでありました。
「そうなの。あたしが大学時代に入っていた冒険部の先輩で、今は比較的大手の出版社で雑誌の編集者として働いているのよ」
 那間裕子女史が大学時代に冒険部に入っていたと云うのは、今初めて耳にする事でありました。そんな話しはこれ迄の付き合いの中で、全く聞いた事がなかったのでありましたがそれは兎も角、その比較的大手出版社で出している雑誌と云うのは、女性向けのファッションとか化粧品とか、それに気の利いた生活雑貨の紹介とか、国内と海外を問わず街歩きの記事等を掲載するもので、そこそこ世間に名前の通った雑誌でありましたか。
「その雑誌で片久那制作部長を取り上げたんですか?」
「そうじゃなくて、旅行関連の記事の中に載せる地図とか図版の製作依頼で、或る地球儀の会社の社長から片久那さんを紹介されて知り合いになったようなのよ。先輩の方は、その地球儀会社とは雑誌の中で事務雑貨の特集をした時に知り合ったようなの」
「ああ、そう云えば片久那制作部長は、贈答社の仕事関連で知り合ったどこだったかの地球儀の会社の社長に随分気に入られていて、そこの仕事を一応贈答社として受けていましたね。片久那制作部長は贈答社を辞めた後も、その地球儀会社の社長とは昵懇の仲が続いていて、その社長の紹介で那間さんの先輩の会社に紹介されたんですかね」
「そう。まあ、そんなところね」
 那間裕子女史は頑治さんの察しの良さに満足したように云うのでありました。
「で、ね、つまり片久那さんは地図の製作とかどこかから依頼された記事の作成とか、そんな事をするプロダクションを自分で立ち上げたようなの」
 それは片久那制作部長から既に聞いていた事でありました。後は自費出版本の編集とか制作とか、片久那制作部長のこれも大学時代の知り合いの伝を頼りに始めた仕事のようでありました。それが愈々軌道に乗って、会社を興して、そこに頑治さんも、既にきっぱり断ったのでありましたが、来ないかと誘われたのでありました。
 と云う事は推測すると女史は、その片久那制作部長の興した会社に何故か均目さんが居る事を、つまりその先輩とやらから聞き知ったと云う事なのでありましょう。
「へえ、片久那制作部長はそう云う会社を創業したんですね?」
 頑治さんは恍けてそう訊くのでありました。
「そう云う事ね」
(続)
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