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あなたのとりこ 541 [あなたのとりこ 19 創作]

 結局社内全体会議をその週の金曜日修業時間後に設定して、組合員だけではなく日比課長も入れて開催すると云う段取りが調整されるのでありました。出来れば社長の出席も請うと云う事で、これは土師尾常務が声掛けを引き受けるのでありました。
 しかし労使の団体交渉よりは社内の全体会議でと云う案は、恐らく土師尾常務の頭からではなく社長から出た謀で、これは今更社長に招請をかける必要もないと云うところでありましょう。土師尾常務が社長に出席のお伺いを立てると云うのは、まあ、不要な手順、と云う以上の意味は何も無いと云うものでありましょうか。
 社内全体会議の議題は当面の会社存続策と将来像に関して、と云うものでありました。そのために経営側だけではなく従業員の意見も広く聴取して、全社的に納得のいくものを見出すと云う、尤もらしい意義のあるもののようでありながらも、何だか曖昧模糊とした通り一遍の議題に変容されて、従業員の雇用を守るための交渉と云う元々の議題の方は、何処かにこっそり隠れて仕舞ったような感じになったと云う風でありましたか。これはもう土師尾常務の、と云うよりは社長の思惑通りに運んだと云うところでありますか。

 その日午後五時の終業時間になるとすぐに、頑治さんは隣の机の那間裕子女史に一杯やっていこうと誘われるのでありました。団体交渉派の二人で誰彼を罵りながら事前の組合員間の申し合わせを反故にして、ぬるい全体会議の形式に落ち着いて仕舞った事態に対して、酒でも飲みながら大いに鬱憤を晴らそと云うところでありますか。
 先の経緯から、那間裕子女史は均目さんに声は掛けないのでありました。それに那間裕子女史の頑治さんへの声の掛け方なんと云うものは、自分を真ん中に頑治さんと反対側の隣の席に座っている均目さんは端から無視して、誘う気も更々無いと云う仕方でありましたか。均目さんにしても、那間裕子女史と頑治さんの遣り取りをまるで無視するかのように、未だ片付かない仕事に没頭していると云う風を装っているのでありました。
 今日の飲み会は屹度、那間裕子女史は自棄になってへべれけに酔っぱらうのであろうと頑治さんは推測するのでありました。そうなると神保町とか御茶ノ水駅の近辺なんかではなく、なるべく那間裕子女史の居所に近い飲み屋街の方が場所としては良いだろうと判断するのでありました。そう云う処なら若しへべれけに酔っぱらったとしても、タクシーに押し込んで手を振って見送って仕舞えば何とかなるでありましょう。そうなると新宿辺りの、時々立ち寄る洋風酒場なんぞが好適だと考えてそこを提案するのでありました。
 那間裕子女史はそんな頑治さんの危惧を知ってか知らでか、その方が均目さんや袁満さんや甲斐計子史と云う罵倒の対象たる全体会議派が宴会を催すとしても、パッタリ出くわす確率は低いだろうと云う判断で、何度か頷きながら同意するのでありました。
「片久那さんが居なくなった後の均目君を、唐目君はどう見ているの?」
 酒とチョロッとしたつまみ物を注文してから、カウンター席の横に並んで座っている頑治さんに、顔を横に向けて那間裕子女史が訊くのでありました。
「まあ、仕事だけじゃなく、会社の仲での立ち位置も何とか片久那制作部長に近付こうと頑張っている、と云った印象ですかね、好意的に見ると」
(続)
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あなたのとりこ 542 [あなたのとりこ 19 創作]

「好意的な目で見なければ?」
「従業員側から微妙に経営側の方に、少し立ち位地をずらしたようにも感じますかね」
「そうよね、向こうから頼まれた訳じゃないだろうけどね。でも自分の方から従業員側を離れようとしているみたいな感じがするわよね」
 那間裕子女史は一つ頷くのでありました。「ひょっとしたら片久那さんが会社を辞める時に、そうしろって秘かに云われていたのかしら?」
「いや、それはないでしょうね。あくまで自分の考えからじゃないですかね」
 片久那制作部長にはそんな指示ではなく、自分が会社を立ち上げた暁にはそちらに来いと誘われている訳でありますから、片久那制作部長は辞めた後の会社の在り様なんかには然程の関心は無いでありましょう。依って均目さんの態度の変容に関しては、片久那制作部長の関与は先ず以て無い、と考えるのがしごく妥当でありましょうか。
「じゃあ、あの二人の歓心を上手く買って、将来役員にでもなる心算なのかしら?」
 那間裕子女史はカウンターの内側から、丁度自分の前のコースター上に置かれたスクリュードライバーに手を伸ばすのでありました。
「そう云う気も均目君にはないでしょうね。均目君は社長や土師尾常務を大して買ってもいないだろうし、寧ろ人間的な在りようとしてもあの二人には批判的でしょうね。だからあの二人の側に擦り寄っていくと云う気は先ず無いでしょう」
「でも役員になれば報酬は上るでしょう」
「均目君の報酬が上る以上に、あの二人、と云うか社長の方は良く了見が読めませんが、少なくとも土師尾常務の方は姑息に、もっと自分の取り分を増やそうと秘かに企むでしょうから、屹度均目君の報酬アップ分は申し訳程度だと、もうちゃんと均目君自身が端から判っているでしょう。均目君にはそんな期待は初めからないんじゃないですかねえ」
「まあ確かにあの二人の側に居ても、ろくな事が無いのは判っているでしょうね」
 那間裕子女史は口を尖らせて得心の頷きをするのでありました。「でもそれならどうして組合員間の申し合わせを無視して迄、あの二人の方に擦り寄るのかしら」
 均目さんは別にあの二人の歓心を買っても何のメリットもなく、それ以前に、信頼を寄せている片久那制作部長との密約の方を第一番目に考えている筈であります。
「片久那制作部長が居なくなって仕舞って、そのために従業員と役員との間をつなぐ人間が居なくなるのは何かと拙いから、均目君としてはそれなら今後は自分が、代わりにその役を引き受けようと云う心算なのかもしれませんよ、片久那制作部長の後釜として」
 頑治さんは均目さんの目論見をそう解説して見せるのでありましたが、これは如何にも話しの体裁を整えるためだけの解釈と云うものでありますか。片久那制作部長との密約がある以上、均目さんにはそんな役割を積極的に担う気概は無いでありましょうから。
「それは烏滸がましいと云うものよ」
 那間裕子女史は鼻を鳴らすのでありました。「均目君に片久那制作部長の後釜に座るだけの器量と、社員と役員両方からの信頼があるとは、あたしには到底思えないわ」
「いやまあ、能力的なものではなく、あくまでも均目君の気持ちとして、ですけど」
(続)
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あなたのとりこ 543 [あなたのとりこ 19 創作]

「能力の無い人間が、妙な自信と思い違いから自分の器量以上の役割を担おうとすると、決まって破綻するのがオチね。それは寧ろ滑稽と云うものよ」
 那間裕子女史はスクリュードライバーを一気にグラス半分くらいの量口に含んで、頬を幾らか膨らませるのでありました。
「しかし片久那制作部長が居なくなって、その仕事を代わって担う事になった均目君がそのような役割意識を持つのも、あながち不自然でもないと思いますけど」
「己の限界をちゃんと知っていれば、そんな不遜で無謀な考えは持たない筈よ」
「それはあまりに、均目君を見縊っているんじゃないですかね」
 頑治さんは成り行きから、何やらここで均目さんの肩を持つような役割になっているのでありましたが、考えてみれば、片久那制作部長との密約を秘めている均目さんを弁護する謂れは何も無いというものでありましょう。寧ろ、適当なところで会社を出て行く心算の均目さんを擁護するなんと云うのは、心外な事だとも云えるのであります。
「もう、あたしも会社を辞めようかな」
 那間裕子女史は捨て鉢に云って、これまた一気にグラスの残り半分のスクリュードライバーを口内に流し込むのでありました。これはなかなかのハイピッチであると、頑治さんは那間裕子女史に覚られないように、内心冷や々々とするのでありました。未だ店に来て一杯目ではありますけれど、適当な頃合いでこの酒宴を切上げないと、後々面倒な事になりそうな気配であります。頑治さんは自分のジンフィズを一口嘗めるのでありました。
「那間さん迄辞めるとなると、会社が瓦解する一歩手前と云う感じになりますね」
「でもここに至ったらあたしの存在なんか、会社にとって殆どどうでも良いんじゃないかしら。出張営業は無くなったし、特注営業でも他社製品への依存が増えて自社製品の製作は減っているし、だから均目君と唐目君が居れば当面どうにかなるだろうし」
「俺はもう、制作の方の仕事は何もしていませんよ」
「でもあたしが居なくなれば、制作の仕事もせざるを得ないでしょう。多分均目君だけでは手が回らないから、均目君が土師尾常務に唐目君の製作仕事復帰を願い出るわよ」
「ひょっとしたら土師尾常務はこの儘他社製品の依存度を高めて、均目君一人でも何とか制作部を回していけるような業態を、秘かに企んでいるかも知れませんよ」
 こう云う事を云うと自分の意に反して、那間裕子女史の慰留には全くならないではないかかと、頑治さんはうっかり口を滑らせた事を云った後で悔やむのでありました。
「だったら余計、あたしは会社に必要の無い人間と云う事でしょう」
 当然、那間裕子女史はそう云うに決まっている事を口の上にのぼせるのでありました。そうら云わんこっちゃない、であります。
「そう云えば前に袁満さんが、日比課長と均目君だけを会社に残して、俺と那間さんと袁満さん、それに甲斐さんを馘首にする心算なんじゃないか、とか云っていましたねえ」
 嗚呼、これもここであっけらかんと云う必要の無い頓馬な言でありますか。
「それは案外当たっているかも知れないわね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 544 [あなたのとりこ 19 創作]

「まあ、ひょっとしたらそう云う風に、社長としては秘かに企んでいるのかも知れませんが、そうなると会社の規模縮小と、その縮小した中で更に利益率の相対的に高い自社製品割合が減る分、場合によっては土師尾常務の報酬の減額があるかも知れないから、土師尾常務はおいそれとその社長の方針には乗らないんじゃないですかね」
「でも内々に社長が土師尾さんの報酬の現状維持を保証していれば、土師尾さんは会社の規模縮小なんて大した思慮もなく、簡単に飲むんじゃないかしら。あの人の事だから、規模縮小した方が常務としての色んな煩わしさも減るから、自分には都合が好いと屹度考えるだろうし、それでも立ち行かないとなると日比さんを切ると云う手もあるし」
「しかし土師尾常務は、性質として激変よりは現状維持を只管願うタイプだと思うから、本心のところでは単に一人だけの人件費節約で、現状を乗り切りたいと思っているんじゃないですかね。ま、つまり俺だけを辞めさせたら御の字、だったんじゃないですかね。若し俺がダメな場合は、甲斐さんとかをターゲットとして考えているんだと思いますよ」
「確かに土師尾さんは肝っ玉の小さい、如何にも小者と云った人だから、会社の急激な変化みたいなものは、気持ちの上では実は望んでいないかも知れないわね」
 那間裕子女史はお代わりしたスクリュードライバーを、またもや先程と同様、グラス半分程グイと口の中に流し込むのでありました。

 口の中のスクリュードライバーを数度に分けて咳込まないように気を付けながら喉に流し込んでから、那間裕子女史は頑治さんの方に首を曲げるのでありました。
「唐目君もぼちぼち会社を辞める心算でいた方が良いかもよ」
「まあ、是が非でもしがみ付くと云う気はないですけど」
 頑治さんはジンフィズをほんの少し口の中に含むのでありました。
「どだい土師尾さんでは、この先上手く会社を運営していけるとは到底思えないし、景気の良い時だったらどんなボンクラ役員でも何とかなるかも知れないけど、不況下で会社存亡の危機と云う事なんだから、どう贔屓目に考えても土師尾さんじゃ無理よ」
「社長と土師尾常務の間で、ちゃんと将来の展望が共有されているんでしょうかね」
「それも怪しいものよね」
 那間裕子女史は溜息を吐くのでありました。「土師尾さんは只管社長頼みだろうし、社長には社長の、まあ、付け焼刃みたいなものだろうけど、願望に近い思惑があるだろうし、でもそれをちゃんと土師尾さんに説明してなんていないだろうし、土師尾さんも説明されても、自分で何とかする気が更々無いからさっぱり頭に入っていないだろうし」
「那間さんの云う事を聞いていると、全く絶望的ですね」
「だってどう考えても明るい将来像なんて見えないでしょう」
 那間裕子女史はまたもやグラスの中身をすっかり空けるのでありました。頑治さんはこっそり左手首の腕時計を見るのでありました。未だ終電には間があるから、時間をお開きの口実としては使えないでありましょう。那間裕子女史がこの儘のペースでグラスを干していれば、間もなくへべれけになるのは間違いないところであります。
(続)
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あなたのとりこ 545 [あなたのとりこ 19 創作]

 均目さんなら那間裕子女史を家に送って行けるでありましょう。それどころかひょっとしたら、均目さんと那間裕子女史は半同棲に近い間柄だと秘かに頑治さんは疑ってもいるのでありましたが、それは兎も角、頑治さんの方は那間裕子女史が何処に住んでいるのか知らないのであります。荻窪駅の近くだとは聞いた事があるのでありましたが。
 だとしたらへべれけの那間裕子女史を一人タクシーに押し込んで、それでさようならと云う訳にもいかないでありましょう。結局同乗して自分がアパート迄送り届ける羽目になるのであります。それより何よりタクシーの運転手が良い迷惑で、那間裕子女史を一人うっちゃってそれで遁走しようとする頑治さんの無責任を許さないでありましょう。
 そうやって否が応でも頑治さんが那間裕子女史を何とか家に送り届けたとして、その後はもう放ったらかしで退散するとしても、今度は頑治さんの帰路は一体どうなると云うのでありましょうか。那間裕子女史のへべれけがすんなり早い段階で完了したなら良いけれど、時間が掛かって仕舞ったら、頑治さんの帰路と云う段になって未だ電車が動いていると云う保証は無いのであります。勿論那間裕子女史の家に泊まる訳にはいかないし、そうなればまたタクシーと云う事になって、これはもう全く、弱り目に祟り目であります。
 ああそれから、那間裕子女史と均目さんが半同棲状態だと云う頑治さんの勘繰りが若し当たっているとしたら、ひょっとしたら送って行った那間裕子女史のアパートで均目さんと出くわすかも知れないと云う事であります。そうなると、それはそれで何だか別のところで、また妙にややこしくて気の重い事態の推移と云う訳であります。
 送っていく前に試しに那間裕子女史の家に電話を入れてみた方が好いでありますか。その電話に均目さんが出ないなら頑治さんが送って行くとして、若し均目さんが出たら、如何にも唐突の感を均目さんが抱くとしても、均目さんに迎えに来るように依頼すると云う手もありますか。その方が渋ちんながら頑治さんの散財は無くなるのであります。
「均目君に電話を入れて、ここに呼び出して、会社の将来像とか、これから先のあたし達との関係をどう云う風に考えているのか、聞き質してみたいものね」
 頑治さんの取り越し苦労と云えなくもないお先走りの思念の流れに、那間裕子女史が横からグイと竿を差し入れるのでありました。
「え、もう均目君に電話するのですか、未だへべれけになってもいないのに?」
「何の事、へべれけって?」
「いや、その、何でもないです、別に。・・・」
 頑治さんはまごまごしながらジンフィズを一口飲むのでありました。
「均目君は未だ会社にいるんじゃないかしら」
「そうですね、このところ連日残業しているようですからね」
 仕事に未だ慣れないせいもあって、均目さんの残業はここに来てかなり増えているのでありました。尤も残業代を払いたくない土師尾常務は、均目さんの仕事不慣れに依る自主的な居残り、と云う扱いしたいようでありましたが、これは流石に組合に認めさせる事は出来ないのでありました。まあ、土師尾常務としてはあわよくば、と云うところで提案した迄で、そんな事は認められないのは最初から判っていた筈でありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 546 [あなたのとりこ 19 創作]

 いやしかし、土師尾常務がその辺の事を本当にちゃんと理解していたかどうかは、これまた疑わしい限りであります。あの判らんちんの土師尾常務の事でありますから、しごく当たり前の要求として、正々堂々と均目さんの残業代不払いを宣したのかも知れません。その慎に以って堂々たる要求を組合が邪険に断ったと、そう云う手前勝手な解釈になるのかも知れないのであります。まあこれは、充分にあり得るところでありますか。
 さてところで、均目さんを呼び出すと云うのは、頑治さんとしては大いに賛成でありました。そうなれば恐らく、これ迄の経緯とか慣例から、均目さんが那間裕子女史のへべれけの面倒を見るのが妥当でありましょうからから。つまりお先走りではあるものの頑治さんのこれまでの那間裕子女史のへべれけに関する懊悩は、最終的に安堵すべき杞憂と云う事になる訳でありますから、これはもう、しめしめと云うものであります。
「ちょっと、会社に電話してみましょうか?」
「そうね、ここで待っているから仕事が片付いたら来いって誘ってみてくれる」
「判りました。じゃあ、ちょっと」
 頑治さんは椅子から立ち上がって、店の出入り口近くの棚に花瓶と並べて置いてある緑色の公衆電話の方へ行くのでありました。

 席に戻って来るなり、頑治さんは首を横に振って見せるのでありました。
「会社に掛けても誰も出ませんね」
「珍しく、今日はもう帰っちゃったのかしら」
「それで家の方にも掛けてみたんですが、こっちも出ませんね。拍子の悪い事に、丁度帰っている途中の電車の中なのかも知れませんよ」
「ふうん。あま、掴まらないのなら仕方が無いわね」
 那間裕子女史は然程の執着を見せないで、あっさりそれで均目さんを呼び出すと云う計画を放擲する心算のようでありました。
「また少ししたら、もう一回電話してみますよ」
 そう簡単に諦めきれない頑治さんとしてはもう一度、と云うか、均目さんが掴まるまでしつこく電話を掛けてみる心算なのでありました。
「まあ、タイミングが悪くて掴まらないのなら、今日はもう良いんじゃないの」
「いやまあ、折角思い付いてそうつれなく諦めるのも何と云うか、心残り、ですから」
「ふうん。そんなに均目君をここに呼び出したいの?」
「いやまあ、是が非でも、と云う訳ではないですが、まあ、でも、何となく。・・・」
「あたしと二人きりで飲むのは、厄介だと考えているの?」
 那間裕子女史が頑治さんの顔を覗き込みながら訊くのでありました。
「いや、そんな事は全くありませんけど」
 頑治さんは数度顔の前で掌を横に振って見せるのでありました。
「あたしは均目君抜きで、偶には唐目君とこうして二人だけで飲むのも悪くないと思っているんだけど、あたしと二人きりじゃしっくりこないと云う事?」
(続)
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あなたのとりこ 547 [あなたのとりこ 19 創作]

「いやあ、そんな事は全くありませんけど」
 頑治さんはしどろもどろにならないように気を付けながら、先程と同じ科白を吐いて笑うのでありました。必要以上に性急に打ち消して見せれば、返ってそうだと云っているようなものでありますから、ここは注意が要るところであります。
「あたしが例に依って、酔い潰れたら面倒だと思っているのかしら?」
「ああそうか、確かにそれは面倒ですね」
 これはおどおどするくらい図星でありますが、まさかそう云って仕舞う訳にはいかないから、頑治さんは那間裕子女史に云われて初めて気が付いて、成程そう云えばそんな面倒もあるかな、と云うような芝居気交じりの真顔をして見せるのでありました。
「唐目君にあたしの家まで送って貰うと云うのも、悪くはないわね」
 那間裕子女史が意地悪そうに笑い返すのでありました。
「勿論そうなれば、俺は責任を持ってちゃんと送りとどけますよ」
「無理しなくて良いわ。絶対嫌だ、と云う色が目に現れているわよ」
 那間裕子女史は頑治さんの目を覗き込むのでありました。思わず那間裕子女史の顔が接近してきたので、頑治さんは少しどぎまぎするのでありました。
「いや、喜んで送りとどけの任に当たりますよ」
「そんな風に目をパチパチしながら云われても、信用で出来る訳ないじゃない」
 那間裕子女史は苦笑いを頬に浮かべるのでありました。「それに第一唐目君にそんな事をさせたら、唐目君の彼女さんに悪いしね」
「いやまあ、そんな事もないでしょうけど」
 そう首を横に振りながら、頑治さんは夕美さんの顔をふと思い浮かべているのでありました。勿論例え夕美さんが知る由もないながらも、夕美さんに対する忠義に於いて、那間裕子女史を介抱しつつ家に送りとどけるなんと云う、経緯の上での不可避な事態であり、且つ止むに止まれぬ義務であり、何ら疚しい魂胆も妙な下心も絶対抱いていないと間違いなく正々堂々云い切れるものながら、しかしそれでも何となく夕美さんにちょいと後ろめたいような気分になるところの真似は、これはもう避けるに如かず、ではありますが。
「そんなに心配しないで大丈夫よ」
 那間裕子女史は頬の苦笑いを濃くするのでありました。「明日のスワヒリ語の授業の宿題と予習を少しだけどしなくちゃいけないから、今日はそんなにへべれけになるまで深酒しないで、日を跨がない内にちゃんとアパートに帰る心算よ」
「ああ、三鷹のアジア・アフリカ語学院、ですか?」
「そう。この前先生が代わって、宿題が出たりして最近色々大変なの」
「先生、と云うのは、向こうの人ですか?」
「そう。ケニアの人」
「ケニアにも宿題と云うのがあるんですかね?」
「ケニア一般、は知らないけど、その先生は出すわね。まあ社会人相手だからそんなに大量に出す訳じゃないけど、でも、負担は負担よ」
(続)
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あなたのとりこ 548 [あなたのとりこ 19 創作]

「宿題、なんと云うのは高校を卒業して以来、全く縁遠くなった言葉ですね。まあ、高校生の時だって、部活の疲労にかこつけて適当に片付けていましたけど」
「そうね、宿題があると気が滅入るのは小中学生や高校生の時と同じね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。「で、そう云う訳だから後一二杯飲んだらお開きにする心算だから、唐目君もそんなに気を揉まないで安心して大丈夫よ」
「ああそうですか」
 頑治さんは内心の気色を隠して極力無抑揚に云うのでありました。「じゃあ、均目さんを呼び出すと云うのは、もう無しで良いんですよね?」
「元々あたしは、均目君を呼び出して会社の将来像とか組合員との関係を訊き質したいと云うのは、是非ともそうしたいと云う事じゃなかったんだから。寧ろへべれけとか何とか云って唐目君の方が、均目君を呼び出すのに乗り気になったのよ。多分酔い潰れたあたしの介抱を均目君に押し付けようと云う肚からなんだろうけど」
 那間裕子女史は頑治さんの心の内なんかすっかりお見通しだと云う笑いを浮かべて、やや目を細めて頑治さんの様子を窺っているのでありました。
「いやまあ、そんな心算で均目君を呼び出そうとしたんでは、別にないんですけどね」
 頑治さんは少し小声で抗弁して見せるのでありました。「今迄は何時も三人で飲んでいたから、その方が那間さんも楽しいだろうと思っての事ですよ」
 頑治さんはさも、終電後に泥酔した那間裕子女史を介抱しつつタクシーでアパートに送り届ける仕事がほぼなくなった事を、案外と残念に思わないでもないようなちょっと有耶無耶な口振りで申し開きするのでありました。しかしこれはあくまでも那間裕子女史への一種の愛想とヨイショなのであって、実のところは残念に思うどころか、女史のお見通し通りホッとしていると云うのが偽りのないところでありましたが。
 でありますからもう一度均目さんにこちらに合流するように電話を入れる、と云うのはこの際無しにするのでありました。頑治さんとしても那間裕子女史の介抱と云う難題が無いのなら、このところ交流の冷えた均目さんを呼び出すのもどこか気持ちの上でしっくりいかないところでもあったから、心残りも何もさっぱり無いのでありました。
 まあ、この後アパートに帰った那間裕子女史を均目さんが恒例に依り訪問すると云うのも、ひょっとしたら那間裕子女史の方が頑治さんと別れた後均目さんのアパートの方に帰ると云うのも、何れにしてもそれは頑治さんの知った事ではないのであります。それにそう云う事であるから、那間裕子女史は頑治さんとの飲み会を適当に切り上げて、ほろ酔いくらいで押さえて、無難な時間中に帰路に就くと云う心算なのかも知れません。
 まあこれは、確たる裏付けの無い事であります。あくまでも二人のなさぬ仲らしきを秘かに濃く疑っている、頑治さんの憶測の域内のものでしかないのでありますけれど。
 と云う訳で、この後那間裕子女史が二杯のスクリュードライバーと、頑治さんが一杯のジンフィズを飲み干したところで、飲み会はお開きとなるのでありました。何と云う事もない飲み会でありましたが、要は均目さんの残業が終わるまでの那間裕子女史の時間潰しのための飲み会であったような気も、頑治さんはしない事もないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 549 [あなたのとりこ 19 創作]

 要するに頑治さんはそれに付き合わされただけと云う訳であるのかも知れませんが、しかし昼間の土師尾常務への申し入れの時に那間裕子女史が見せた、均目さんの態度に対する失望したような態度はどのように勘定したら良いのでありましょうや。那間裕子女史は団体交渉と云う従業員間の申し合わせを、社内の全体会議と云うものに変質させたいとの土師尾常務の提案に擦り寄った均目さんにがっかりして、申し入れの途中でその場を離れたのであります。それを鑑みれば、均目さんに好い感情は持てないでありましょう。
 依って、この後二人がそう云う経緯をすっかり脇に置いて、あっけらかんと逢瀬を楽しむとは到底考えられないのであります。となると頑治さんのこの推察てえものは、何だか随分見当外れで機微に目の届かない粗いものだと云えるでありましょうか。
 まあ、今日の昼間の土師尾常務への団交申し入れ以前はなかなかのなさぬ仲振りであったとしても、今日この後も続けて、二人が何時ものようななさぬ仲振りでいるとは限らないでありましょう。特に那間裕子女史の好悪のはっきりした頑な迄の潔癖性と、一端敵と見做したらとことん攻撃を貫く徹底性からすれば、少なくとも今日頑治さんと別れた後に均目さんと、何食わぬ顔して逢おうと云う気持ちには到底ならない筈でありますか。
 ところでしかし、那間裕子女史と均目さんの関係を頑治さんが縷々思い巡らす野暮なる謂れは、これは何も無いと云えば全く無いのであります。それは頑治さんにすれば知ったこっちゃない問題であり、二人からすれば余計なお世話と云うものでありまあすか。

 一人減り二人減り

 労使の団体交渉が社内の全体会議と云う形式になったから、袁満さんは全総連の横瀬氏にその経緯を説明して、恐縮ながら出席に及ばずと云う連絡を入れるのでありました。横瀬氏の方からは、これは体良く経営側に丸め込まれたのではないか、と云う危惧が発せられたのでありましたが、当該組合がそう合意した以上労働組合の上部団体としては、敢えてしゃしゃり出るべき事ではなくなったというところでありますか。
 袁満さんは横瀬氏への連絡を終えて、まんまと経営側の策略に乗って仕舞ったかも知れないと云う不安に駆られたのでありますが、もう既に遅いと云うものであります。ひょっとしたら自分達は頑治さんか甲斐計子女史か、それとも他の誰かの馘首を阻止出来ないかも知れないと、袁満さんは倉庫に来て頑治さんにその不安を漏らすのでありました。
 その公算は大であると頑治さんも考えるのでありましたが、経営側の誘導に乗って仕舞ったらしき事を組合の委員長として秘かに責任と後悔を感じているであろう袁満さんを、今頃遅いと詰る心算は全く無いのでありました。まあ、何となく事の経緯からすると、最初に馘首要員として土師尾常務に目を付けられた自分が辞める事になろうと頑治さんは観測するのでありましたが、そうなったらそうなったで仕方がないでありましょう。年季も社内で一番短いのでありますし、かけ替えも利く業務要員でもありますから。
 ま、この会社とは元々大して縁が深くはなかったと云う事でありますか。そう考えるとここで会社を辞める事に、怒りも絶望も未練も然程には感じないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 550 [あなたのとりこ 19 創作]

 まあ、また次の仕事を探さなければならないと云うのは厄介ではありますが、しかし次の仕事がなかなか見つからないかも知れない事に不安は然程無いのでありました。これ迄だって結局何とかなって来たのでありますし、いざとなったら新宿辺りの職安の前で立ちん坊でも何でもすれば、その日暮らしながらも飯にはありつけるでありましょう。
 ただ、夕美さんをまたもや失望させて仕舞うかも知れないと考えると、そこは些か気が引けるところではありますか。頑治さんのたつきの道がちゃんとしていないと、二人の将来像なんと云うものもちゃんとは描けないと云うものでありましょうし。
 さて、全体会議は一週間後に、社長も出席して終業時間の一時間前から社内の応接スペースで開かれるのでありました。終業時間の一時間前と云うのは土師尾常務から云い渡された事で、つまり社長と土師尾常務は一時間程度で全体会議を終わらせる心算なのであろうと推察されるのでありました。役員であるから残業手当が付かない土師尾常務が、終業時間後に居残って迄得の無い会議を長引かせる気なんぞは先ずないでありましょう。
 その日の朝、那間裕子女史から会社を休むと云う電話が入るのでありました。朝寝坊とか病気とかの欠勤理由ではなく全体会議をボイコットするためだと、偶々電話を取った袁満さんにはっきり宣したようでありました。
 勿論、団体交渉ではなく全体会議と云う形になったのでありましたから、これは団結破りとかの組合への裏切り行為とは認定出来ないのでありました。まあ、会社従業員としての、至ってけしからぬ行為には屹度なるでありましょうけれど。
 気が優しくて、大切な仲間であると見做している那間裕子女史の不届きを、態々全く以って仲間ならぬ土師尾常務に論う行為を袁満さんとしては潔しとしないのでありました。依って、止むを得ない病気扱いと云う事で土師尾常務に報告するのでありました。
 選りに選って大切な全体会議の日に欠勤するとはどう云う心算なのだと、ただ報告をしただけの袁満さんに一くさり土師尾常務は云い掛かりを付けるのでありました。袁満さんは体がつらくてこれから多分病院に行くのであろうし、そんな那間裕子女史に無理を強いて敢えて出社を強要する訳にはいかないだろうと、嘘と云うのか、余計なお世話的辻褄合わせと云うのか、そんな事迄云って那間裕子女史を弁護するのでありました。
 袁満さんはこの那間裕子女史からの電話と、その後の、ただ自分は欠勤すると言付かった事を報告しただけにも拘らず、土師尾常務に悪態を吐かれた一連のこの件を、仕事に託けて倉庫に下りて来て頑治さんに向かって縷々愚痴るのでありました。
「ふざけんじゃないよ」
 袁満さんは舌打ちして不快感を示すのでありました。「何で俺が文句を云われなきゃならないんだよ。それに那間さんにしても、何で今日会社を休むんだよ、全く」
「土師尾常務は例に依って陰険で歪んだあの性根からここぞとばかり、ガタガタ云って袁満さんをへこませる好機到来だと見当外れに勘違いして、調子に乗ったんでしょう」
「俺としても謂れの無い文句にはちゃんと抗議したいところだけど、那間さんが病欠だと嘘を云った手前、ちょっと後ろめたいところもあったからなあ」
 袁満さんは悔しそうにまた舌打ちするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 551 [あなたのとりこ 19 創作]

「病欠と云わないで、ちゃんとボイコットと云っても良かったんじゃないですかね」
 頑治さんのその言を配慮不足、あるいは非情と取ったようで、袁満さんは目を剥いて少し驚いたような表情をして見せるのでありました。
「そんな事を云ったら、明日以降の那間さんの立つ瀬がないじゃないか」
「多分、そんな事もありませんよ」
 頑治さんは静穏に云うのでありました。「那間さんの思惑としてはこの反抗的な行動が土師尾常務にその儘伝わる事を、端から承知の上だったんじゃないですかね。若しそれを不都合と思うなら、態々袁満さんにボイコットだとは云わなかったでしょうから」
「いやでも、それは電話に出たのが偶々俺だったから、敢えて、本当はボイコットのために休むんだと秘かに打ち明けたという事じゃないのかな」
「でも、例えば土師尾常務には欠勤の理由をボイコットとは云わずに、適当に誤魔化して置いてくれとか何とか、そんなお願いをした訳じゃないんでしょう?」
「それはそうだけど。・・・」
「那間さんとしては全体会議をボイコットする意志で会社を休むんだと、皆に向かってはっきり公言する心算でいたんだと思いますよ」
「つまり俺が那間さんの真意を測れないで、気を遣い過ぎたと云う事かい?」
「まあ、袁満さんも悪気があっての事では決してないでしょうけれど」
 袁満さんは顎に指を当てて考え込むような仕草をするのでありました。
「そんな那間さんの意志も知らずに、頓珍漢にも俺は野暮な事をしたと云う訳か」
「俺はそう云う風に那間さんの態度を理解しますけど」
「でもそうだったら、つまり那間さんは土師尾常務や社長に喧嘩を売る心算だと云う事になるよなあ。那間さんは、会社に見切りを付けたのかな?」
「見切りを付けたのかどうかは、このボイコット一事だけでは判断出来ませんけど。例えば単に後先は考えずに、土師尾常務と社長に自分の態度を断固表明して、動揺させて猛省を促す事が出来れば、と云う風に考えたのかも知れないし」
「社長と土師尾常務の事だから、猛省なんか絶対しないぜ。寧ろ那間さんを憎んで、しめしめとばかり抜け目なく待遇を悪くしたり、とことん虐めようとするんじゃないかな」
「まあ、そうでしょうかねえ」
 頑治さんは口をへの字にして一応頷くのでありました。「気持ちが社長や土師尾常務に伝わらないとなったら、その時は那間さんも何かしらのけじめを付けるでしょうね」
「つまり、結局は会社を辞める事になる、と云う事だよな」
「那間さんも相当の意地っ張りですから、そうなればおめおめとは引き下がらないでしょうね。感情が激して、じゃあ会社を辞める、と云い出すかも知れませんけどね」
「結局は要するに、そう云う事になるじゃないかなあ」
 袁満さんは顔を顰めるのでありました。「だったら、那間さんは病欠だと云う風にして置いて、なるだけ穏便に処理する方が得策だと云う事だよな」
「でも那間さんは、端から穏便な処理なんかを望んではいないと思いますけどねえ」
(続)
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あなたのとりこ 552 [あなたのとりこ 19 創作]

「しかし、ここで那間さんに会社を辞められたら、組合としても痛手だし」
「矢張り団交を全体会議に変容させたと云うのが、気に入らなかったんでしょうね」
「でも殊更経営側と対立する必要も無いし、穏やかな方が話しもし易いし」
「那間さんとしては穏やかでない方が、余計な配慮がいらない分、或る意味で話しがし易いと考えていたんじゃないですかね」
「そうかなあ」
 袁満さんは、穏やかならざる方が話しがし易い、と云う辺りが全く判らないようでありました。まあ、那間裕子女史が本当に穏やかな話し合いを求めない方を良しとしているかどうかは、確かめた訳でもないので頑治さんにも実は判らないのではありますが。
「で、結局今日の全体会議には、こちらとして打ち合わせとか意見の擦り合わせとかは何もしないで臨むと云う事になるのですか?」
「まあ、団交と云う訳じゃないから、今日のところはそうなるかなあ」
「申し入れみたいな事も当面しないんですね?」
「向こうの話しを、先ずは聞くと云うスタンスかな」
 成程これは大したトーンダウンであるなと、頑治さんは顔には出さないけれど些か失望するのでありました。話しを聞く、と云う態度で臨むだけなら、今日の全体会議は頑治さんか甲斐計子女史の馘首に対する何らの対処もないと云う事でありましょう。
「先ずは話を聞いて、それから後日、向こうが狙っている従業員の誰かを辞めさせると云う謀の対処をする、と云う事になるのですか?」
「そう云う順序かな」
「それは全くの後手で、向うのペースにすっかり乗ると云う事になりませんか?」
「いやまあ、向こうの企みがはっきりした上での方が、こちらの具体的な対処法が練り易いんじゃないかな。その上で、組合の団体交渉と云う次の手段も取り易いし」
「そうですかねえ」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。これはどうやら那間裕子女史に連動して頑治さんもボイコットに加担すべきだったかも知れないと、竟々思って仕舞うのであります。
 袁満さんは倉庫に来た時よりももっと憂鬱そうな顔をして、上の事務所に引き上げて行くのでありました。今後の那間裕子女史の取り扱いと云う点も、会社の将来とか自身の仕事の進捗とかに加えて、また一つ頭の痛い事態が増えたというところでありますか。

 新宿の件の洋風居酒屋のカウンター席に隣り合わせに座る頑治さんに、一口飲んだモスコミールをコースターの上に置きながら那間裕子女史は喋り掛けるのでありました。
「結局全体会議は、こちらから何も云い返さないで無様に終わったのね」
「そうですね。まんまと社長と土師尾常務に主導権を奪われたと云う感じでしたね」
 頑治さんは自分のジントニックをコースターから取り上げるのでありました。
「心配した通り、矢張り外部の人が入らないとウチの連中はしおらしいだけね」
 那間裕子女史は舌打ちするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 553 [あなたのとりこ 19 創作]

 全体会議のあった次の日にその首尾を聞きたいと云う事で、那間裕子女史は頑治さん一人を仕事が終わった後で新宿の何時もの居酒屋に誘うのでありました。その日那間裕子女史は全体会議を自分一人ボイコットした手前、傍目には何と云う事もなく何時も通りに振る舞っている心算でありましょうが、どことなく居心地悪そうで屈託有り気に軽口も云わないで、必要な事以外は誰とも口を利かないようにしながら過ごすのでありました。
 しかし全体会議がどのように進められたのか、そこで社長と土師尾常務からどのような突拍子も無い話しが出たのか、それに誰がどのような受け応えをしたのか、その辺りは当然ながら大いに気になっていたようでありましたから、それを頑治さんに訊き質す心算で居酒屋に誘ったのでありましょう。朝から会社の中で何となく、誰彼となくつんけんしていたから、その話しを聞き出す相手は頑治さんしかいなかったという事でありますか。
「その辺を狙って、土師尾常務は団交ではなく社内の全体会議と云う形をとろうとしたのでしょうしね。まあ、土師尾常務の思う壺、と云う事になりますかね」
「まんまと術中に嵌った訳ね。ま、肚の中は疾うに知れていたけど」
 那間裕子女史はモスコミールをまた一口飲むのでありました。「疾うに判っていて、それでも態々それに乗って仕舞うんだから、ウチの会社の連中もお人好しと云うのか頓馬と云うのか、策が無いと云うのか頼りないと云うのか。・・・」
「まあ俺も、その頓馬の一人ではありますが」
 頑治さんは頭を掻いて見せるのでありました。
「で、会議の席で唐目君は名指しで会社を辞めてくれって、また乞われたの?」
「いや、殊更俺を標的にするような事はしませんでしたよ」
「じゃあ、甲斐さんはどうだったの?」
「俺が云われないんだから、甲斐さんも当然そんな事を云われませんでしたよ」
「じゃあ、誰か会社を辞めたい人は居ないのかと、手でも挙げさせられたの?」
「そんな具体策に話しを持って行くんではなくて、社長と土師尾常務はこの儘だと年末を待たないで会社を畳む事になるとか、只管脅す事に専念していましたね」
「会社を存続させるためにどうすべきか、とかの話しは何も無かったのね」
「お前達どうする心算だ、とか云うトーンでしたね」
「そう云うのは役員として、全くの無責任と云う以外ないじゃない」
 那間裕子女史はグラスを取り上げて、口元で止めて憤慨するのでありました。
「袁満さんがその点を指摘しましたけどね」
「で、指摘されてあの二人は何と云ったの?」
「社長は会社を畳む方向で検討する心算だと只管鸚鵡のように繰り返すだけだし、土師尾常務は他の対処があるなら従業員側からそれを示せと逆挑発するような始末でした」
「経営として無責任も窮まったわね」
 那間裕子女史は口の中の液体を喉に流し込んだ後鼻を鳴らすのでありました。「袁満君以外誰も、そんな二人の云い草に対して何も云い返さなかったの?」
「そうですね。会社解散と聞いて、皆意気消沈と云った様相でしたか」
(続)
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あなたのとりこ 554 [あなたのとりこ 19 創作]

「やれやれ、皆さんやけに殊勝でいらっしゃる事」
 那間裕子女史は憫笑するのでありましたが、さて女史なら、若しボイコットしないでその場にいたとしたらどのような反応をしたでありましょう。社長と土師尾常務の怠慢と無責任に対して、大いに食ってかかったでありましょうか。それとも食ってかかる機を逸して、皆と同様意気消沈してダンマリを決め込んだでありましょうか。
 日頃からの生意気と血気盛んに照らして、一種の義務感のようなものに駆られて、ここは自分が何か云い返さなければと恐らく那間裕子女史は沈黙を破るでありましょう。そういう意味で確かに女史は頼りになる存在でありますか。社長の、会社を清算する心算だと云うと云う恫喝に屈せず、喧嘩腰を貫けるのは女史以外には居ないでありましょう。
「唐目君も何も云い返す事はしなかったの?」
 那間裕子女史は頑治さんの顔を覗き込むのでありました。
「そうですね」
 頑治さんはちょっと恥じ入るような笑いをして見せるのでありました。
「唐目君は最初に馘首するターゲットにされたんだからここは、黙っていればいい気になりやがって、とか何とか声を荒げて怒りを爆発させても良い場面じゃない?」
「結局、俺が会社を辞めれば、当面は何とか会社消滅の危機は凌げるのかしらとか、そんな事を考えていましたね。それで他の人の首が繋がるのなら、ま、仕方が無いかと」
「諦めが早いのね」
 那間裕子女史は半眼になって、その頑治さんの考えには大いに批判的であるような視線を投げて寄越すのでありました。「それとも唐目君は面倒臭がり屋さんなのかしら」
「万事に面倒臭がりの傾向は。確かにありますね」
 頑治さんはジンフィズを一口飲むのでありました。
「駄目よ、会社を辞めちゃ」
 那間裕子女史の口調ははっきりしていると同時にどこか懇願調でもありましたか。「唐目君が辞めれば会社の中であたしが魅力を感じるような人は誰も居なくなっちゃうわ」
「まあ、そんな事も全然ないでしょうけど」
 頑治さんはそう云って女史の言葉を否定した直後に、ひょっとしたら自分はこの場面に於いて、あまりに無造作で無神経で、鈍くて頓珍漢な言葉を今ここで返したのではないかしらとふと思うのでありました。会話中の返答の言葉としての妥当性と云うだけではなく、那間裕子女史の思わず吐露したようなしないような心根に対しても。・・・

 袁満さんが社長の言に思わず息を飲んで、次の句が告げなくなった様子であるのを見てから、均目さんが代わりに受け答えするのでありました。
「つまり社長は、会社がどん詰まりの窮地に陥る前に会社を解散させた方が良いと、今そう云うような提案をされたと受け取って良いんですね?」
「まあ、未だ多少の余力のある内にそう決断した方が、辞めていく皆さんにも少しは手厚く出来るだろうから、より良い方策じゃないかとは考えているよ」
(続)
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あなたのとりこ 555 [あなたのとりこ 19 創作]

 社長は自分が口にした会社解散と云う言葉のインパクトが、思った通り甚大である事に大いに満足して、如何にも勿体付けたような口調で云うのでありました。
「手厚く、と云うのは退職金を手厚く、という事ですか?」
「まあ、そう云う事にも、なるかも知れないだろうね」
 社長の言はどこか歯切れが悪いのでありました。
「規定額よりも多く出せると云う事ですね?」
 均目さんがここで食い下がるのでありました。
「今はっきり保証しろと云われても困るが、まあ、そう云う事も可能だと。・・・」
社長は語尾を曖昧にするのでありました。いざそうなった時、期待されていた程増額出来ない、或いはしない点をここで早々に弁解しておこうち云う肚でありましょう。
「会社の現状はそこ迄差し迫っているんですか?」
 日比課長が社長に向かって心配そうに聞くのでありました。
「まあ、予断を許さない、と云うところではあるかな」
 社長がこれに関してもここでトーンダウンしたような曖昧な云い方をするのを、頑治さんは得心がいかないのでありましたが、それは均目さんも同じようでありました。
「あれ、会社解散と云うのは差し迫った現実ではないのですか?」
「もうにっちもさっちもいかないと云う訳じゃないし、明日にも、と云う事でもない」
 ここで社長が俄に、社員の受けた衝撃を一先ず少しばかり和らげるような事を云い出すのは、一体全体どう云う考えからでありましょう。大袈裟に如何にも深刻ぶって見せたけれど、実情としてはそれ程でもない事に少しの良心の呵責を感じたのでありましょうか。いや、そんな可愛気のある社長でもないようにも思えるのでありますけれど。
「事態は少しも油断出来ないところに来ているよ」
 土師尾常務が横から口を挟むのでありました。「ここに来て売り上げが相当減っているし、資金繰りもなかなか思うようにいかない」
「矢張り片久那制作部長が居なくなったのが原因と云う事ですかね、会社がそんな風に、一層左前になって仕舞ったのは」
 均目さんが土師尾常務の顔を見ながら云うのでありました。
「それは関係無いよ!」
 土師尾常務はムキになって不快感を表するのでありました。矢張り土師尾常務ではどうにも頼りにならないと云う事かと、均目さんにズバリ指摘されたと感じたのでありましょうが、均目さんは別に土師尾常務の会社運営の無能さ加減をここで論う意図は特に無かったのかも知れません。しかしそうであってもここは常務取締役としてのプライドに関わる問題でありますし、片久那制作部長へのずっと抱き続けていた陰火のような嫉妬や引け目もあって、土師尾常務としてはここは竟逆上して仕舞ったと云う事でありましょう。
 いやまあ、土師尾常務の無能ぶりを論おうと云う意図を、均目さんは暗にしっかり持っていたのかも知れません。人の悪さでは均目さんもなかなかのものでありますから。
「当面の売り上げの落ち込みは、土師尾君の器量とは関係ないと思うよ」
(続)
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あなたのとりこ 556 [あなたのとりこ 19 創作]

 社長が土師尾常務に代わってまた話し出すのでありました。
「じゃあ、何処に原因があると云うんですか?」
 袁満さんが少し気色ばんで社長に訊き質すのでありました。袁満さんが気色ばむと云う事は、袁満さんとしては売り上げの落ち込みの責は、全く以って偏に土師尾常務の好い加減な仕事振りにあると思っているのでありましょう。
「まあ、そこは様々な原因があるんじゃないかと思うよ」
 社長はあやふやに応えるのでありました。
「そこをちゃんと分析していないんですか?」
 袁満さんが詰め寄るのでありました。
「一応思い当たる要因は、幾つかありはするよ」
「つまりちゃんと分析出来ていないと云う事ですよね。ちゃんとした分析もしていないで、どうして社長は土師尾常務の器量とは無関係だとここで断言出来るのですか。何となく社長と土師尾常務で結託して、危機を演出しているような疑いがどこかしますね」
 ここで均目さんが首を傾げて見せるのでありました。
「僕と社長で何を結託するんだ! けしからん事を云わないでくれるか」
 土師尾常務が先程の袁満さんに代わってやおら気色ばむのでありました。
「そうやってすぐにカッカとするところが、全く怪しいですね」
 均目さんも負けていないのでありました。「若し会社を解散した方が良いと云うのなら、ちゃんと数字を出て、是々こう云う訳でそうする方が良いんだと、筋道立てて説明して貰わないと納得出来る訳がない。そう云うきちんとした説明もなく、ただ業績が悪いとか売り上げが伸びないとか云い募られても、その儘信用も出来ないし、何か別の効果を狙って危機を煽っているんじゃないかって、そんな疑いも湧いてくると云うものですよ」
「何のためにそんな事をする必要があるんだ」
 土師尾常務が均目さんを、目を怒らせて睨むのでありましたが均目さんは全く怯む様子はないのでありました。日頃からその人間性を見縊り切っている土師尾常務如きの威迫なんぞは、均目さんにとっては笑止千万で屁の河童、と云うものでありますか。
「まあ、何かしらの布石を打つ心算で一生懸命危機を演出しているんだろうし、そんな邪な肚の中のは口が裂けても云えないでしょうけれど」
「それは失礼だろう均目君。どうしてそんな邪推をするんだ!」
 土師尾常務は顔色を変えるのでありましたが、眼鏡の奥の黒目が例に依ってそわそわと微動しているのでありました。単細胞で尚且つ小心者が一生懸命に凄んだり怒ったりして見せるのもなかなか骨が折れるのだろうと、頑治さんは内心で笑うのでありました。
「まあまあ、落ち着いて」
 社長が土師尾常務を宥めるのでありました。土師尾常務のように何か云われたらせっかちにいきり立って対抗するよりも、ここで余裕のあるところを見せておかないと、益々均目さんだけではなく、対面する従業員全員に増長されるばかりだとの判断でありましょう。まあ、社長の方が土師尾常務より少しは細胞の数が多いと云う事でありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 557 [あなたのとりこ 19 創作]

「要するに均目君は、私等が危機を煽って昨年の暮れのボーナスみたいに、出さずに済ませられるのならそうしようと企んでいると思っている訳かな?」
「そうですね」
 均目さんは何の屈託も遠慮もなく頷くのでありました。「それに春闘で妥結した我々の新賃金やら賃金体系も、あわよくば反故にしたいと考えているんでしょうし」
「何だ、社長に対するその失礼なもの云いは!」
 またここで土師尾常務が大変な剣幕でしゃしゃり出て来るのでありました。「それに勝手な憶測で、妙な云い掛かりを付けられるのは大いに心外だ」
「そんな風にすぐにムキになるところが益々怪しいですね」
 土師尾常務が幾ら凄んで見せても、この人物に針の先程も心服していない均目さんには端から利かないようであります。寧ろ益々鼻で笑われるのがオチでありますか。

 社長が土師尾常務を手で軽く押し退けて背凭れから身を起こすのでありました。「春闘での約束は原則的にはこちらとしても誠実にしっかりと守りますよ。その辺は変に疑り深くならないで、信用して貰っても別に良いんじゃないかな」
「ここに至って会社解散なんかを仄めかして我々を脅しに掛かる人に、春闘の時の妥結事項を誠実に守ろうとする気なんか果たしてあるんでしょうかね」
 均目さんは社長に猜疑の目を向けるのでありました。
「脅してなんかいないよ。会社の現実を、誤魔化さずに話しているだけだよ」
 社長はさも誠意のあるところを見せようとしてか静謐に云うのでありました。
「裏付けとしてちゃんとした数字が出てこないと、今のその、社長の云う会社の現実を素直に信用する事は出来ないじゃないですか」
 袁満さんが口を挟むのでありました。
「数字を出してもそれが君達に判るのか、甚だ疑問だが」
 袁満さんが均目さんと社長の会話に口を挟むのだから、自分も遠慮なく喋っても構わないじゃないかと云う道理からか、ここでまた土師尾常務が横から、袁満さんを露骨に見縊って、からかうような語調で茶々を入れるのでありました。
「数字はちゃんと読めますよ。馬鹿にしないでくださいよ」
 袁満さんは憤然とするのでありました。
「まさか全総連に持ちこんで、判断して貰おうと思っているんじゃないだろうね?」
「そう云う手もありますね」
「それはダメだよ。労使の団体交渉で出す数字ではなくて、社内の全体会議での数字なんだから、それを社外の人に教えるなんてルール違反だ」
「未だ数字は出ていませんけど」
 頑治さんが土師尾常務のお先走りの危惧に冷笑を向けるのでありました。
「つまり、数字はちゃんと我々に出すと云う事と受け取って良いんですね?」
 均目さんが土師尾常務の言質を捉えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 558 [あなたのとりこ 19 創作]

「それは、・・・」
 土師尾常務はここでちょっと口籠もるのでありました。「・・・君達が、全総連にその数字を洩らす恐れがある以上、おいそれと出す事は出来ないじゃないか」
「別に洩らしませんよ、そんなもの」
 袁満さんが小さく舌打ちするのでありました。
「そんな如何にも慎重そうな躊躇いなんかここで披露して見せて、要するに会社の現状をはっきり示す数字を出す気なんか元から無いと云う事でしょう」
 均目さんが見透かしたような笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「君達が社外にその数字を洩らさないと云う保証がないなら、それは当然会社の経営に責任を持つ者として出す事は出来ない、と云っているんだ」
「だから数字を洩らしたりしないと、さっきから云っているじゃないですか」
 袁満さんが言葉を少し荒げるのでありました。従来から社員としても人物の出来の具合としても、遥かに自分よりも劣ると見下している袁満さんなんぞが食って掛かって来たとしても、そんなものに端から負けはしないぞと云うところを見せ付ける心算か、土師尾常務は袁満さんを睨む眼鏡の奥の目の表情を思い切り凄ませるのでありました。
 まあ、元来童顔もあり、体躯も細くて片久那制作部長とは比べ物にならないくらい迫力に欠けているし、何時もどこかおどおどしている目付きの御仁が、どんなに怖そうに凄んで見せても、本人が思っている程大した威迫効果は生まれないと云うものでありであります。この辺の自己分析が全く足りない人だと頑治さんは改めて思うのでありました。
「いやまあ、数字は出しても別にちっとも構わないですよ。その方が君達に会社の現状をはっきり判って貰えるだろうからね」
 社長がまた土師尾常務の無用な警戒心が満ちているらしき細っこい腕を掌で制して、顔の表情も特に歪めないで、もの分かりの良いところを示して見せるのでありました。
「じゃあ、お願いしますよ」
 袁満さんが社長の気が変わらない内に、また土師尾常務の社員に対するむやみな対抗心が発露される前に、せっかちに数字の提出を社長に確約させようとするのでありました。社長はそれに頷いて、背凭れに上体を沈めるのでありました。
 結局その会社の窮状を示す数字なるものが出て来ない限りは、この後の話は進まないだろうと云う事で、この日の全体会議は終了となるのでありました。社長に依れば二三日でそれは用意出来るであろうから、そうしたら近々追って全体会議を招集すると云う段取りになるのでありました。まあつまり、この日の会議では何も事態は進展しなかったのでありました。その事が袁満さんとしては甚く気に入らないような素振りでありましたか。

 頑治さんは自分のジンフィズと那間裕子女史のモスコミールのお代わりをカウンターの中の中年のウェイターに頼むのでありました。
「俺よりも、ひょっとしたら那間さんの方が、ここのところの一連の出来事で会社に魅力を全く失って、辞めようと考えているんじゃないかと俺は心配しているんですけどね」
(続)
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あなたのとりこ 559 [あなたのとりこ 19 創作]

「会議の様子を聞いていると、どの道会社の命脈はそう長くはなさそうね」
 那間裕子女史は前を向いた儘少し考えるような表情をするのでありました。
「社長の会社解散の話しは俺達をビビらせる目的だけで口にしたのではなくて、実は結構本気でそう考えているのかも知れませんね」
「組合が出来て、苦手でも会社の中で唯一頼りにしていた片久那さんも辞めて、何だかすっかり悲観的になって仕舞ったのかも知れないわね」
 那間裕子女史は前を向いたまま同意の頷きをするのでありました。
「土師尾常務は始めから頼りにならないと見做しているのですかね」
「それはそうでしょう。片久那さんとは比べものにならないくらいショボいと云うのは、ウチの社長に限らずどんな盆暗な経営者でも判るでしょう」
「まあ、確かにそれはそうですかね」
 頑治さんが二度程頷いたタイミングで丁度、注文したジンフィズとモスコミールが夫々の前のコースターに載せられるのでありました。
「唐目君に云われるまでそんなに深刻には考えていなかったけど、でも本当に、あたしもそろそろ会社を辞める潮時かも知れないわね」
 那間裕子女史はモスコミールをグビと一口飲むのでありました。
「ケニア旅行の話しはどうなっているんですか?」
 頑治さんも自分の新たなグラスを持ち上げるのでありました。
「後一年後かなあ。一緒に行く計画の学校の友達とはそんな予定を立てているんだけど、まあ、お互い仕事をしている身の上だから、何となくもたもたしている感じ」
「ああ、三鷹のアジアアフリカ語学院、ですか?」
「そう。お互いの資金の溜まり具合とか、色々な調整がちゃんと付いているという訳じゃないから、はっきりと行く時期は今の段階では未だあやふやかな」
「どのくらいの期間行ってくる予定なんですか?」
「まあ様々な都合で多分二週間程かしらね。もっと長い期間で行ってみたいんだけど、金銭的な事情からなかなかそうもいかないでしょうね」
「ふうん、二週間ですか。それは有給休暇で消化する心算ですかね」
「前に片久那さんにそれとなく訊いたことあるけど、まあ、手抜かりなく仕事の区切りを付けられるなら大丈夫だろうと云う事だったけど、土師尾さんが、例えば夏休みの三日間とかを入れても、そんなに長い有給取得を許可するかどうか、大いに疑わしいわね」
 那間裕子女史はもう一口モスコミールを飲むのでありました。この二口でグラスの半分くらいが女史の胃の中に消えるのでありました。
「確かに土師尾常務は片久那制作部長程話しの判る人じゃないですかね」
「自分以外の人間にはまるで理解が無くて、寧ろ平気で酷な要求をする人だからね」
 那間裕子女史は小鼻に皺を寄せて見せるのでありました。
「土師尾常務が有給休暇の取得を認めなかったら、どうしますか?」
「その時は会社を辞めるしかないわね」
(続)
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あなたのとりこ 560 [あなたのとりこ 19 創作]

「つまり会社よりもケニア旅行の方が大事だと云う事ですかね?」
「それは当然よ」
 那間裕子女史はまた一口飲むのでありました。「特に会社がこんな風になって、それでも態々居残る程の魅力的な何かなんて無いもの。会社解散とか仄めかされたら尚更よ」
「まあ、それはそうですかね」
 頑治さんは納得の頷きをするのでありました。
「唐目君は従業員の誰にも先駆けて土師尾さんから辞めてくれないかと云われて、それでもこの先未だ、会社に居残る事に執着する心算なの?」
「いやまあ、執着みたいなものはないですが、しかし皆さんの手前、それなら辞めますとあっさり自分勝手に返事するのは拙いかなと思いまして」
「そんな事気にする必要は無いんじゃないの。自分の進む道なんだから」
「そうかも知れませんけど、でもまあ、何となく、・・・」
 頑治さんは曖昧に語尾を濁して、那間裕子女史の飲酒ペースに当てられた訳ではないのでありましたが、ジンフィズを口いっぱいに頬張るのでありました。
「唐目君は妙に義理堅いからねえ」
 この那間裕子女史の言葉は褒め言葉なんかでないのは判るのでありましたが、別にげんなりする程の毒気も感じないのでありました。
「要するに那間さんは、ケニア旅行の一定の資金が貯まったなら、その時点で会社を辞めても良いと思っているんですかねえ?」
 頑治さんは那間裕子女史の事情の方に話しを戻すのでありました。
「そうね。会社を辞めないでケニアに行けるのならそれでも良いけど、土師尾さんがそれを認めないのなら、潔く辞める心算よ」
「じゃあ、ひょっとすると那間さんも、あと一年もしたら会社を辞めるかも知れない、と云う事になるんですかねえ」
「那間さんも、と云う事は唐目君も辞める心算になったのかしら?」
「まあ確かに一年後の事は、今から全く予想が付きませんかねえ」
「じゃあ、この際だから一緒に辞める?」
 そう云われて頑治さんは頷かないで曖昧に笑うのでありました。
「こちらから辞める迄もなく、会社解散と云う風になるかも知れませんし」
「自己都合でなくて会社都合で失業となった方が、失業手当は早く出るわね」
「ああそうなんですか?」
「そうよ、自己都合なら半年くらい経たないと支給されないんじゃなかったかしら。その出るまでの期間に関しては、三か月だったか半年だったかあやふやだけど」
「出る額は同じなんですか?」
「それは多分同じだったと思うけど、これも確信は無いわ」
「その辺は念のため、今からちゃんと調べておく方が良いですかね」
 と云いつつ頑治さんは、自分は特に調べもしないだろうと思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 561 [あなたのとりこ 19 創作]

「そうね。リアルな問題として失業と云うのは想定しておいた方が良いかもね」
 そう云う那間裕子女史にしても失業を、云う程リアルな可能性として捉えているような口振りではないと、頑治さんは聞きながら思うのでありました。
 まあ二人とも若気の至りで、それ程自分の将来像を深刻且つ悲観的に、どんよりと暗いものとして想定してはいないようであります。特に頑治さんは生来がのほほんとした気質であり、万事に適当で好い加減だと云う自覚もある事からか、失業を然して深刻には捉えられないのでありました。ま、失業しても、気持ちをすぐに切り替えて次の仕事探しをすればいいだけの事でありますし、今迄もそんな感じでやってきたのでありましたから。
「まあ、全体会議は社長に会社解散と脅されて従業員全員大いにビビッて大慌てして、結局それだけで終わったって感じね」
 那間裕子女史が全体会議の方に話しを向けるのでありました。
「ま、大凡としてはそんな感じでしたかね」
「で、次の、何日か後の全体会議は社長から会社が危急存亡の危機にある証拠の数字が出て来て、また従業員一同で震えあがって意気消沈すると云う図式ね」
「どうなるかは今のところはっきりとは判りませんが、まあ、結局あんまり建設的な話し合いになる公算は限りなく小さいでしょうかねえ」
「あたし、また次の会議もサボろうかしら」
 那間裕子女史はそう云ってニヤリと笑うのでありました。
「いやいや、是非出席して社長と土師尾常務につんけん意見を述べてくださいよ」
「それが有意義なら述べもするけど、結局あの二人には無駄でしょうしねえ」
 那間裕子女史は二杯目のモスコミールをグイと空けるのでありました。

 次の全体会議は次の週の月曜日に設定されているのでありました。そこで社長から会社が存亡の危機にある左証としての数字が示されると云う事でありました。その数字と云うのは要するに対前年比の売り上げとか、新賃金体系になった後の人件費の総計とかでありましょう。その他のあんまり従業員には見せたくない数字、例えば自身や土師尾常務の報酬とか余禄とか、或いはひょっとしたら社長が秘かに売上金からピンハネしている分とかの、怪し気で疚しいであろう数字は、勿論綺麗さっぱり省かれたものでありますか。
 その数字に付随して土師尾常務からは、これも例に依って耳にタコの、怪し気で誇張に満ちた悲観論とか愚痴とか誰彼への誹謗中傷なんかが縷々、陰々滅々と述べられるのでありましょう。頑治さんは考えただけでもうんざりでありました。
 さてところでこの週の金曜日に袁満さんが土師尾常務に呼び出されて、二人は何やらの話しをするために連れ立って会社の外に出て行くのでありました。恐らく前に頑治さんが連れていかれたあの喫茶店で、全体会議を月曜日に控えて、袁満さんはまたつまらない牽制か良からぬ工作を土師尾常務から仕掛けられるのであろうと頑治さんは推察するのでありました。ひょっとしたら性懲りもなく今度は袁満さんに退職の勧告するのかも知れませんが、当然それは頑治さんの時に倣って袁満さんは屹度撥ね退けるでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 562 [あなたのとりこ 19 創作]

 袁満さんはなかなか戻っては来ないのでありました。土師尾常務と二人だけの話し合いが思いがけず紛糾しているのでありましょうか。二回目の全体会議を目前に控えて、一体全体何を二人で熱心に話していると云うのでありましょう。
 昼休み近くなってから袁満さんは土師尾常務と連れ立って会社に戻って来るのでありました。一時間半程、二人は喫茶店で話していた事になりますか。
 昼休みの終了ギリギリまで頑治さんが神保町のすずらん通り沿いの三省堂書店と冨山房書店、それに東京堂書店を例の如く回って数冊の本を購入して戻って来ると、丁度事務所のドアを押し開けて外に出て来る袁満さんと出くわすのでありました。
「唐目君は、午後はずうっと倉庫に居るのかな?」
 袁満さんは頑治さんの目の前に立ち止まってそう話し掛けるのでありました。
「二時になったら配達に出ますが、それ迄は梱包作業がありますから居ますよ」
「その梱包作業は急いでやらなければならない仕事かな?」
「いやまあ、今日中に発送すれば良い商品の荷造りですから急ぎではありませんよ」
「じゃあ、ちょっと話しがあるんだけど、後で倉庫に行っても良いかな?」
「それは構いませんけど、何の話しですか?」
 頑治さんは袁満さんの顔を覗き込むのでありました。
「うん、まあ、ちょっと唐目君に聞いて置いて貰いたい事があって」
「土師尾常務に何事か云われたんですか?」
「まあ、そうなんだけど」
 袁満さんはそこで眉根を寄せて陰鬱そうな表情をするのでありました。
「袁満さんが即答に困るような提案でもあったんですかね?」
「提案、と云うのではないけど、ちょっと気になる事を云われたんだよ」
「全体会議に関わる事ですか?」
「その件もあるけど、それとは別に、ね」
 袁満さんは腕組みして瞑目しながら徐に首を横に傾けるのでありました。何やら少々思い煩っていると云った風情であります。
 そこに丁度那間裕子女史が事務所の中から出て来るのでありました。昼一番でバス路線案内図修正の資料を貰うために有楽町の交通会館迄行くと云っていたから、そのために外に出て来たのでありましょう。那間裕子女史は扉の外で何やらこそこそと話している頑治さんと袁満さんを見て、怪訝そうな表情をして見せるのでありました。
「こんな処で、二人して何をひそひそ話しているの?」
「ああ、いや、別にひそひそではないですが」
 袁満さんはそう誤魔化すのでありましたが、不意に那間裕子女史の姿を見て、妙に狼狽しているように頑治さんには見えるのでありました。
「それじゃあ、後で」
 袁満さんはあたふたと事務所の中に消えるのでありましたが、頑治さんとの鉢合わせは偶然で、本来袁満さんは別の用で外に出て来たと思われるのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 563 [あなたのとりこ 19 創作]

「袁満君と何を話していたの?」
 那間裕子女史が改めて頑治さんに訊くのでありました。
「いやまあ、特段の事は何も話さなかったんですが、昼から外に出掛ける用でもあるかと何となく訊かれたので、二時から配達に出掛けると応えただけですよ」
「偶々出くわして、単なる挨拶みたいな言葉の遣り取りをしただけって事?」
「まあそんな感じです。でも、袁満さんは何か用があって出て来たのだろうけど、那間さんの顔を見たら急にそわそわとまた事務所に引っ込んだのは、少し妙ですけど」
「ふうん。あたしに対して何か秘かに疚しい事でもあるものだから、用事も放ったらかしにして慌てて引っ込んじゃったのかしら」
「心当たりの事とか、ありませんかね?」
「取り立てて何も無いわね」
 那間裕子女史は少し考える風の表情をするのでありました。
「何となく袁満さんの今の様子は、ちょっと引っ掛かりはしますかねえ」
「でもまあ、別にどうでも良いけど」
 那間裕子女史は大して拘らないように表情を改めるのでありました。「じゃあ、交通会館迄行ってくるわ。このところ会社絡みのゴタゴタ続きでげんなりだから、ちょっと有楽町界隈のバス停チェックも兼ねて、気晴らしにその辺の街歩きでもして来ようかしら」
「まあ、お早いお帰りを」
「大丈夫よ。前にウチの会社に居た業務の刃葉君みたいに、こっそり仕事をサボってブラブラ散歩を楽しもうとか云う気は無いから。用が済んだら早めに帰って来るわ」
「ああそうですか。ではお気を付けて」
 頑治さんは笑って一礼するのでありました。それに那間裕子女史は片手を上げて応えてから、クルリと身を翻して階段を軽やかな足取りで下りて行くのでありました。

 倉庫に下りると早々に袁満さんが遣って来るのでありました。何やら思い余る事があるらしく、表情は冴えないのでありました。
「さっきは油断していたら那間さんが出て来て、まごまごして仕舞ったよ」
 袁満さんは胸に掌を当てるのでありました
「どうして那間さんと出くわすとまごまごするんですか?」
「いやね、唐目君に訊いて置いて貰いたい事と云うのは、その那間さんの事なんだよ」
「土師尾常務との話しの中で、那間さんについて何か云われたのですか?」
「まさにそうだったんだよ。で、那間さんを見てどぎまぎして仕舞ったんだ」
「一体何を云われたんですか?」
 頑治さんはそう云って袁満さんに傍らにあるパイプ椅子への着席を勧め、自分は梱包台代わりの長机から前は上の事務所で使っていた結構な年季物の、多少車輪の動きがギクシャクしている事務椅子を引き出しにくそうに引き出して座るのでありました。
「土師尾常務に依れば、那間さんの仕事態度は色々ずば抜けて問題があるそうなんだ」
(続)
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あなたのとりこ 564 [あなたのとりこ 19 創作]

「その、ずば抜けて、と云うのは、全社員の中で、と云う事ですかね?」
「まあ、そうだね」
 袁満さんは下唇を噛んで頷くのでありました。
「どう云うところに問題があると云う訳ですか?」
「先ず、朝の遅刻の件だそうだ」
 それを訊いて頑治さんは思わず吹き出すのでありました。
「ほう、那間さんの朝の遅刻の件だと、あの土師尾常務が云う訳ですか」
「役員になる前からそうだったけど、自分が定時に出社してこない事をさて置いて、一体どの面下げて那間さんの遅刻を論えるのか、俺もその神経に呆れるしかないけどね」
 袁満さんが、俺も、と云うのはつまり、頑治さんがこれを聞いて思わず吹き出して仕舞ったのをしっかり受けての云い草でありましょう。
「確かに朝の遅刻は、那間さんが付け込まれ易いところではありますけど」
「しかし土師尾常務がしれっとそこに付け込むのは、どうかと思うけどね」
「でも本当かどうか大いに疑わしいけれど、一応仕事で得意先に直行しているからだ、と言い逃れる余地は確保してはありますか」
「そんなの大嘘に決まっているじゃないか。現に、前にちょっとした行き違いでその嘘がバレかけた事もあるくらいだからね」
「そう云えばそんな話しを前に聞いた事がありましたかねえ」
「アイツの云う事なんか、これっポッチも信用出来ないよ」
 袁満さんは鼻を鳴らしながら、右手の親指と人差し指を立ててその二指で僅かの隙間を作って、これっポッチの具合を頑治さんの目の前に示すのでありました。
「それなら、人の遅刻をあれこれ云う前に、土師尾常務自信がその自分の那間さん批判に恥じる事が無いのかと、袁満さんはその場で毅然と云い返したんですか?」
「いやあ、それは、・・・」
 袁満さんは頑治さんからおどおどと目を逸らすのでありました。
「それはその場では云わなかったのですね?」
「だって、云っても何だかんだと聞いたような事をほざいて云い逃れするし、喫茶店の中と云う場も弁えないで、急に怒り出したりされたら厄介だもの」
 袁満さんは自分の弱気をもじもじと弁解するのでありました。
「あの人が怒って見せるのは単なるポーズで、実はかなりの小心者だから相手が逆に怒気を露骨に表すと、すぐにへなへなと萎むんじゃないですかね」
「まあ、そうかも知れないけど。・・・」
 袁満さんは頑治さんの目を見ないで、居心地悪そうに身じろぎするのでありました。
「まあ、袁満さんの土師尾常務への態度のところはさて置いて、遅刻の他に土師尾常務が云う那間さんの仕事上の色々ずば抜けた問題態度、と云うのは何なのですかね?」
 頑治さんは話しを先に進めようとするのでありました。
「後は、言葉遣いと云う点も云っていたな」
(続)
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あなたのとりこ 565 [あなたのとりこ 19 創作]

「ああ、言葉遣い、ですか」
 確かに那間裕子女史は目上とか目下とかの順には殆ど無頓着で、土師尾常務に対する言葉遣いは対等な者同士のような風でありましたか。まあ、社長に対しては、多少は敬語を使うところもありましたが。それに徹頭徹尾拘らないと云う訳ではなく、例えば偶々応対しなければならなくなった不意の来客とか、誰彼を問わず仕事上の初対面の人とか、問い合わせする交通機関とか役所とかの電話の相手に対しては、それは丁寧でありました。
 まあ、それだからこそ土師尾常務としては自分に対する言葉遣いのぞんざいさに、軽んじられているような不愉快を感じて仕舞うのでありましょう。那間裕子女史の方としては殊更土師尾常務を侮っていると云う心算はないようで、その証拠に前に会社に居た片久那制作部長に対してもため口でありましたし。云って見れば一種の昵懇さの表明としての敬語の省略であろうと、取ろうと思えば取れない事もないでありましょうかな。
「要するに自分に対して敬語を使わないのが、土師尾常務は気に入らないんだろうな。確かに那間さんの口の利き方は、お世辞にも丁寧とは云い難いしね」
 こう云うところを見ると袁満さんとしても、もの怖じもしないで上司に対してですます調を全く使わない那間裕子女史に、日頃からちょっとばかり違和感を抱いていたのでありましょう。しかし袁満さんは面と向かっては然程でもないながら、陰で屡土師尾常務の事を糞味噌に貶すのでありますから、那間裕子女史と袁満さんとではどちらが不謹慎の度合いが大きいのか、そこは俄に軍配を上げられないところでありますか。まあ、那間裕子女史のこの生意気さなんぞは、流儀として、袁満さんには無いと云う事でありますか。
「しかし自分以外の人間をまるで人扱いしない土師尾常務の卑劣さと、単に土師尾常務に対する時には敬語を使わないと云う那間さんの不埒さとでは、土師尾常務の方が遥かに性質が悪いし、非難されて当然のもののように思いますがねえ」
「確かに那間さんに敢えて敬語を遣いたくないようにさせて仕舞う、土師尾常務の在り方そのものに先ず何か問題があるとも云えるかも知れないかな」
 袁満さんは取り敢えず一つ頷いて見せるのでありました。「でも那間さんの言葉遣いの方にも、土師尾常務に態々付け入る隙を与えているようなところもあるし」
「で、那間さんは遅刻と言葉遣いの他にどんな不興を買っているのですか?」
 頑治さんは話しを先に進めようとするのでありました。
「他には、片久那制作部長に対してはそうでもなかったくせに、自分に対する時には一々口応えするとか、反抗的な態度を取るとか、社長に対しても全く敬意の欠片も見られないだとか、生意気だとか、小憎らしいとか、まあそんな感じで色々ね」
「それは土師尾常務の目にはそう見えると云う恣意的な印象であって、那間さんへの客観的評価としては取るに足りないものではないですかね」
「俺もそう思うけど、まあ、土師尾常務は道理の通じない頓珍漢なヤツだからねえ」
 袁満さんは眉根に皺を作るのでありました。
「で、そう云う事を並べ立てて、要するに那間さんをどうしたい訳ですかね?」
 頑治さんは尚も話しの先を促すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 566 [あなたのとりこ 19 創作]

「まあ、どうしたい、とか云う具体的な話しは特には無かったけど」
「しかし何か変じゃないですか。那間さんの事を単にあれこれ腐したり批判するだけの目的で、当人でもない袁満さんを何で態々喫茶店に連れて行ったのですかねえ?」
「それは良く判らないけど、俺が組合の委員長、だからかなあ」
 袁満さんは腕組みして首を傾げるのでありました。「要するに、俺の方から那間さんに注意をして欲しいと云う事なのかも知れないな」
「そう云われたんですか?」
「いや、那間さんの不謹慎を論うだけで、俺に特段どうしろとは云わなかったけど」
「どうして態々袁満さんに向かって、那間さんの行状の問題を論っているのかとか、土師尾常務のそう云う行為を不審に思わなかったんですか?」
「うんまあ、思わない事もなかったけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らすのでありました。「俺としては一刻でも早くその場から解放されたかったものだからね。それを訊く事で話しが長くなるのはご免だったし」
「まあ、袁満さんの気持ちは判りますが、しかし何とも変じゃないですか」
「云われてみれば確かに、変は変だけど」
 袁満さんはばつが悪そうに下を向くのでありました。
「袁満さんに那間さんの態度の問題を詰って見せて、それでいて袁満さんにその辺への対処を何も要求しないと云うのは、つまりこれから秘かにやろうと考えている土師尾常務の何事かの策謀の布石、と云う風に考えられるでしょうかね」
「まあ確かにね」
 袁満さんは頷くのでありました。「でも、それはどう云った策謀なんだろうか?」
「考えられるのは、こう云った不良社員は会社を辞めて貰う方が良いと云う考えを、組合の委員長である袁満さんにも共有して貰いたいと云うところですかねえ」
「それは出来ない相談だ」
 袁満さんは首を横に何度も振るのでありました。
「しかし土師尾常務の那間さんをあれこれ論う行為に対して、袁満さんはその場で即座に不同意を表明しなかったのですから、袁満さんも那間さんに対しては問題ありと日頃から考えていると、常務が誤解したとしてもそれはそれで仕方が無いかも知れませんよ」
「でもそれはあくまでも誤解で、俺は別にそんな事考えていないもの」
「しかし土師尾常務が今度の全体会議で、袁満さんが特段自分の那間さん評に抗わなかったというところを、しっかり利用するかも知れないじゃないですか」
「いやあ、それはその時にきっぱり否定すればいいし」
 袁満さんは多少顔を引き攣らせながら否定して見せるのでありました。
「しかし会議で土師尾常務が那間さんの無礼について急に縷々喋り出して、これは袁満君も同意している事だけど、とか何とか付け足したとしたら、袁満さんがその時に慌ててあたふたしながら否定しても、ペースとしては土師尾常務の方にまんまと乗せられた形になって、その否定はちゃんと那間さんには伝わらないかも知れないじゃないですか」
(続)
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あなたのとりこ 567 [あなたのとりこ 19 創作]

「それは拙いなあ」
 袁満さんは尚一層表情を引き攣らせるのでありました。
「土師尾常務の事ですから、そのくらいの欺瞞は平気で遣りかねないですよ」
「もしそうなったら本当に拙いから、今の内に手を打っておかないと」
 袁満さんは視線を頑治さんから宙に移して、腕組みしたりそれを解いたりしながら、俄かにそわそわと落ち着き無く、気持ちの動揺を体の外に表出し始めるのでありました。

 その日の内に頑治さんは那間裕子女史を仕事が跳ねた後で、件の新宿の洋風居酒屋に誘うのでありました。那間裕子女史はおいそれと諾の返事をするのでありましたが、その席には袁満さんも一緒に加わると付け足すと、ほんの少しだけながら眉宇を曇らしたのを頑治さんは認めるのでありました。ちょっと意外であったのでありましょうか。
「袁満君とここで飲むのは初めてかしら」
 洋風居酒屋の奥まったボックス席に三人で座ると、那間裕子女史は袁満さんに話し掛けるのでありました。この時は那間裕子女史と頑治さんが並んで座って、袁満さんが一人向かいの席に着いたのでありましたが、これは本来であれば均目さんが頑治さんの席に、頑治さんがこの折の袁満さんの席に着くという事になるのでありましたか。
「そうですね。ここは一度も来た事がなかったかな」
 袁満さんはそう云いながら少しもの珍しそうに、店のあちらこちらに視線を投げているのでありました。「この近くに在る、ここと同じような内装と雰囲気の店には、前に確か一度だけ行った事があったように思うけど」
「ああ、確か寄席の末廣亭近くの、エルザ館と云う酒場じゃないですかね」
 頑治さんが云うと袁満さんは頷くのでありました。
「そうそう、その時は日比さんと唐目君とで来たんだっけかなあ」
「確かそうでしたね。会社の宴会か終わった後の流れだったか何かで」
 頑治さんは袁満さんとエルザ館で飲んだ記憶はあるのでありましたが、どう云う経緯でそこで飲む事になったのかはもうすっかり忘れているのでありました。
「ところで何の話しで、袁満君と唐目君があたしをここに誘ったのかしら?」
 那間裕子女史は横の頑治さんにではなく、向かいの席に座る袁満さんに一直線に視線を向けて首を傾げて見せるのでありました。
「今日俺は土師尾常務に誘われて、二人で喫茶店に行ったのは知っていますよね?」
 袁満さんが何となく緊張した風情を見せながら語り出すのでありました。
「ううん知らないわ。営業の方の気配はあんまり気にしないし、漏れてくる声にも、余程の大声とか只ならぬ感じだったりする時以外は、それ程注意もしていないから」
 那間裕子女史はすげなく掌を横に振るのでありました。
「ああそうですか」
 袁満さんはちょっと調子が狂ったように一つ納得の頷きをするのでありました。
「まあ兎に角、土師尾常務と喫茶店で二人で話しをすることになったんですよ」
(続)
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あなたのとりこ 568 [あなたのとりこ 19 創作]

「まさかこの前のストライキにもめげずに、性懲りもなく今度は袁満君に会社を辞めるように促すために喫茶店に誘った訳?」
「いやそうじゃなくて、何と云うのか、・・・」
 袁満さんは何とも話しにくそうに眉間に皺を寄せて、その後助けを求めるように頑治さんをちらと窺い見るのでありました。
「その席では袁満さん自身に関する事ではなく、どうしてかは俺にはさっぱり判りませんけど、那間さんの事が話題になったそうなんですよ」
 頑治さんがあっさりと代わりに云うのでありました。
「あたしの事?」
 那間裕子女史は自分の鼻を指差すのでありました。「つまりあたしを辞めさせたいと云う話しを、土師尾さんが袁満君にしたって事?」
「いや、はっきりとそう云う訳では、これがなさそうなんですよ」
 ここは袁満さんが口重そうに云って首を横に振るのでありました。
「じゃあ、あたしがどうして、二人の話しに登場したの?」
「それは未だにあやふやで、俺も良く判断出来ないんですけどね」
「で、内容は何だったの?」
那間裕子女史は袁満さんのこう云う話し振りが如何にももどかしいようで、視線をやや険しくして袁満さんを睨みつつ先を促すのでありました。
「那間さんが遅刻の常習犯であるとか、自分に対して敬語を使わないとか、社長に対しても敬意不足だとか、傲慢だとか、まあ、そう云った悪口です」
「ふうん。あたしの悪口をあれこれ云うために袁満君を喫茶店に誘ったって訳?」
「どういう魂胆があったのかは知れませんが、でもまあ、何だかんだと那間さんの行状について、批判がましい事ばかりを喋っていたと云うのは事実です」
「ふうん、そう」
 那間裕子女史はここで顎に右手の曲げた人差し指の背を添えて、視線は袁満さんに向けた儘ながらややその険しさを緩めて、考え込むような仕草をするのでありました。
「何かの布石として那間さんに対する批判をベラベラ並べ立てたのでしょうけど、それが何の布石であるのかは結局得心出来ませんでしたけど」
「で、袁満君はどうしてそんな話しを始めたのか、そこで確かめはしなかったんだ?」
「ええまあ。一方的に捲し立てるんで、こちらから喋るきっかけがなくて」
 袁満さんは面目なさそうに俯くのでありました。
「要するにあたしを退社に追い込むための布石、と云う事だわね」
 那間裕子女史はそう云って横の頑治さんを見るのでありました。
「まあ、俺も多分そんな辺りだろうとは思います」
「先ず袁満君にあたしへの批判を聞かせてみて、袁満君がその批判に敢えて反論しないようなら、それはつまり他の従業員も同様に積極的ではないにしろ反論はしないだろうと勝手に判断して、それを以って今度はあたしを喫茶店に連れ出すと云う算段かしらね」
(続)
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あなたのとりこ 569 [あなたのとりこ 19 創作]

「俺は那間さんが怠慢であるとか傲慢であるとかの土師尾常務の批判には、全く同意しませんし、それが那間さんを辞めさせる理由となるとも断固として思いません」
 袁満さんは決然として宣するのでありました。
「でもその場でそう云わなかったから、土師尾常務は全従業員を代表する形で袁満君も、強弱は別にして、自分と同じ考えを持っていると無理にも判断したと思うわよ」
「それは強引な誤解と云う事じゃないですか」
「そう云う自分勝手な誤解を得意とする人じゃないの、あの土師尾さんと云う人は?」
 そう詰め寄られて袁満さんは不本意ながら二の句が継げないのでありました。
「那間さんに辞意を迫るのが土師尾常務の次ぎの目論見だとして、それは明日にでも那間さんに直接告げる心算なのか、それとも今度の全体会議で社長や全従業員の前で電撃的に提起する心算なのか、その辺は袁満さんはどう考えますかね?」
 頑治さんが自分の前に置かれたグラスを触りながら訊くのでありました。
「土師尾常務は那間さんを、女性でもあるし、少し苦手にしているところがあるから、直接那間さんに差し向かいで云う事はしないんじゃないかな」
「では全体会議で、と云う事になるのですか?」
「その方が他の者にも衝撃度が大きい、とか考えているんじゃないかな」
「でもそれは著しく穏当ではないし、下手をすれば紛糾して従業員との仲が決定的に悪化すると云うくらいは、幾ら土師尾常務が頓珍漢な人でも容易に想像出来るでしょう。そうなったら会議は紛糾して、土師尾常務や社長が避けようとしていたのに、結局社内の会議では収まらずに労働問題化して、全総連の介入を許す事になるんじゃないですかね」
「確かにそのくらいは誰でも判るわよね」
 自分に対する理不尽であり、尚且つ不当に辱めるようなシチュエーションでの攻撃が予想出来ると云うのに、那間裕子女史が案外冷静な語調で口を挟むのでありました。
「それに土師尾常務には全総連介入以前に、全体会議の場で従業員全員を向うに回して、本気で怒りを態と買う程の度胸はないと思いますよ。勿論社長にも」
「それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは考え込むのでありました。
「でも話し合いのどこかのタイミングで急に逆上して、後先を考えられなくなって、意図的じゃなくうっかり人の感情を逆撫でして仕舞うところはあるしねえ、あの人には」
 那間裕子女史がモスコミールを一口飲んでからそうも云うのでありました。まあ確かにその危険も、まあまあ排除は出来ないかもと頑治さんは考えるのでありました。
「要するに袁満君があたしの事を、口を極めて腐す土師尾さんの本意が何処に在るかを、その場でちゃんと問わなかったのが不味かったと云う事ね」
 これも別に激したところもない那間裕子女史の云い様でありました。しかし袁満さんは自分の落ち度を那間裕子女史に厳しく指弾されたと解したようで、抗弁したそうな表情はするものの、しかし土師尾常務と同じでこちらも那間裕子女史に対してどこか苦手意識があるものだから、無念そうに口を噤んで俯いて仕舞うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 570 [あなたのとりこ 19 創作]

「しかし土師尾常務の言に変なところを感じたから、こうして那間さん本人に会議の前に予め話しをしている訳でもありますから」
 頑治さんがここでは不要ではあろうけれど、一応袁満さんを庇うのでありました。
「ま、そこには感謝するわ」
 那間裕子女史はそれ程恩に着ている風でもない無表情な顔付きながらも、一応の礼儀からか袁満さんの計らいに小さくお辞儀しながら謝意を表すのでありました。
「ひょっとしたら近々、この前の唐目君の場合と同じように、あたしが土師尾さんに喫茶店に同行を求められる事があるかも知れないわね」
 那間裕子女史はそう云ってグラスを口元に運ぶのでありました。「そうなったら丁度良いからあたしの方も、土師尾さんに対する批評をうんとぶち撒けてあげようかしらね」
 袁満さんはこの言が本気なのか冗談なのか俄かには判断出来ないようで、ちょっと怯んだような表情を見せるのでありました。屹度那間裕子女史なら対抗上咄嗟に、土師尾常務に大変な剣幕で食って掛かると云う図も慎にリアルに想像出来るのであります。
 確かに那間裕子女史なら、頑治さんがしたように抑制的に不快感を表して、予めの組合の申し合わせに依るとして土師尾常務の依頼を柔らかながらきっぱり拒絶する、なんと云う応対は先ず考えられないと云うものでありましょう。あの自尊心の強い女史でありますから、特段の仕事上のミスも落度も無いのに、会社を辞めてくれないかと云われて激昂しないで居られる筈がないのであります。まあ、朝寝坊の件はこの際脇に置くとして。
「その場で土師尾常務批判を展開するのですか?」
「まあ、土師尾さんの出方に依ってはね」
 那間裕子女史は袁満さんに思わせぶりに笑んで見せるのでありました。
「若し、そう云う事になった場合は、興奮に任せてその場で勝手に、と云うか自分だけの判断で変な返答なんかしないで、一応持ち帰って組合の方に相談してくださいね」
 袁満さんが、勝手に、と云うのを、自分だけの判断で、とかちょっと丸めた感じに云い直すのは、土師尾常務の言に堪忍袋の緒を切らす前に、自分の今の言に激昂されては困ると云う忌憚の表れでありますか。頑治さんもその弱気は、まあ、理解出来ますけれど。
「心配しなくても大丈夫よ、多分」
 那間裕子女史はここも思わせぶりに笑むのでありました。「こうしてあたしが辞職勧告のターゲットになっていると云う事を予め聞いていたら、この先予見出来る土師尾さんとの遣り取りにも冷静に対処する事も出来ると思うわ、恐らく、ね」
「恐らく、ですか?」
 袁満さんはこの那間裕子女史の云い様に不安を見せるのでありました。
「まあ、恐らく、よ」
 那間裕子女史は袁満さんをからかうような笑みを頬に浮かべるのでありました。

 その日の深夜、もう既に日を跨いだ時間になってから突然電話が鳴るのでありました。未だ寝てはいなかったので頑治さんはすぐに受話器を取るのでありました。
(続)
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