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あなたのとりこ 571 [あなたのとりこ 20 創作]

「たった今、那間さんから電話があったんだ」
 先程新宿駅で別れた袁満さんからでありました。
 洋風居酒屋を出てから頑治さんは袁満さんと那間裕子女史と一緒にブラブラ新宿の街を駅まで歩いて、那間裕子女史からもう一軒付き合えと云うお誘いがからなかったものだから、三人はその儘夫々違う電車に乗って帰宅の途に就いたのでありました。那間裕子女史が珍しく二件目の酒場行きを誘わないで、意外にもあっさりと帰宅の方を選んだのは、どこか調子が狂ったような具合であると頑治さんは何となく思ったのでありました。
しかしそれを云ってそれなら二件目と云われるのも少々煩わしかったものだから、勿怪の幸いとさっさと駅の地下通路で二人にさようならを云ったのでありました。女史に特に変わった様子は見受けられなかったのでありましたが、ひょっとしたら自宅アパート近くの居酒屋か何処かで、一人で己が将来を考えながら飲んでいたのかも知れません。
 袁満さんは荒い息の気配を受話器から滲ませながら続けるのでありました。
「それで、色々考えたけど、結局会社を辞める事にしたって云うんだよ」
「でも、新宿で飲んでいた時には、そんな素振りは見受けられませんでしたけど」
「そうね、その時意外には思ったけど、何となく激昂するような素振りも、取り乱して仕舞うような風もなくて、結構淡々としていたように俺も感じていたけどね」
「電話の那間さんはどんな感じで、会社を辞める事を切り出したんですか?」
「新宿で別れた時よりもかなり酔っているような口調だったかな。まあそれでも、感情が昂って平静でいられない、と云った感じじゃなかったようだったけど」
「今、自分のしている事や云っている事が、ちゃんと判っているようでしたか?」
「酔ってはいるけど、意識はちゃんとしているようだったけど」
「袁満さんをからかっているような感じはありませんでしたか?」
「いや、それもなくて、ちゃんとした報告、と云った調子だったよ」
「じゃあつまり、全くの正気で、会社を辞める決断をした事を、袁満さんにその電話で明らかにしたと云う事になるんですかね?」
「そう、だと思うけど」
 袁満さんの、受話器の向こうで頷いている気配が伝わるのでありました。
「で、袁満さんはそれに対してどう云う反応をしたんですか?」
「それはすごく慌てたよ」
 袁満さんはそう云って落ち着くためか一拍の間を空けるのでありました。「だって新宿で飲んでいた時には、そんな事を後で云い出すとは思ってもいなかったから」
「まあ確かに、土師尾常務が那間さんに対する、ある事無い事の悪口を袁満さんにぶち撒けたって聞いても、意外にも落ち着いた受け止め方でしたね」
「俺も、反応から見ると大して応えてはいないと思っていたんだけどなあ。でも自分よりも歳下で後輩でもある俺や唐目君の手前、激しい怒りとかくよくよしているところとかは見せられないと、努めて気丈に、落ち着いている風を装っていたんだなあ」
「まあ那間さんは、気が強い、と云うキャラクターで売っている人ですから」
(続)
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あなたのとりこ 572 [あなたのとりこ 20 創作]

「なかなかの姉御肌のところもあったしなあ」
 袁満さんはそう云ってから黙るのでありました。
「しかし、土師尾常務が袁満さんに那間さんの批判を聞かせたと云うだけで、それが那間さんを辞めさせる布石なのかどうかは、未だあくまで俺達の推量と云うだけなんですけどねえ。まあ、その可能性はかなり高いと云う感じは、至って濃厚にしますけど。でもひょっとしたら土師尾常務は日頃から那間さんに好い印象を抱いていないところにきて、何やら那間さんのちょっとした言動がふと面白くなくて、しかし苦手意識から本人に直接云い辛いものだから、それでその代わりに、袁満さんに吐き出したのかも知れませんし」
 袁満さんの話しが途切れたから、この間の場繋ぎをしなくてはならないと云う義務感に駆られて、頑治さんはぼちぼちとそう喋るのでありました。
「いやあ、土師尾常務は何か秘かに含むところがあって、その段取りとして、俺に那間さんの悪口を態々聞かせたんだと考える方が正解かなあ」
 袁満さんは頑治さんの場繋ぎの言葉には然程の賛意を示さないのでありました。まあ頑治さんとしては、それはそれで全く構わないのでありました。どだい頑治さん自身も実のところそんな風には考えてなんかいないのでありましたし。それに元々、土師尾常務が那間さん批判を袁満さんに聞かせたのは、那間さんを辞めさせるための布石だと云うこの推量てえものは、頑治さんが袁満さんに倉庫で話したところの可能性でありましたし。
「ここで那間さんに辞められると、組合としても困りますよねえ」
 頑治さんは話しの舳先を少し曲げるのでありました。
「そりゃそうだよ。組合員がたったの三人になって仕舞う」
 袁満さんがそう云うのを聞きながら、別に三人でも二人でも、それはそれで問題と云う事ではないのではないかと頑治さんは考えるのでありました。一人と云うのは通常あり得ないでありましょうけれど、しかし上部組織に加入していたら一人と云うのも、やりにくくはあるけれど、まあ、それはあるかも知れません。ここではしかし、話しが横道に逸れるから、頑治さんはその意見開示は差し控えるのでありました。
「那間さんはあの後誰かに相談して、会社を辞める結論を出したんですかね?」
「さあ、それはどうだろう」
 袁満さんの首を傾げる気配が頑治さんに伝わるのでありました。「新宿駅で別れた後、誰かに逢ったかどうかは俺には全く判らないし」
「それはそうですかね」
 頑治さんはひょっとしたら前に上司であった片久那制作部長に、まあ、あの時間に呼び出すと云うのはどうかとしても、電話ででも相談したのかしらとふと考えたのでありました。しかし那間裕子女史は片久那制作部長を、会社の中では大いに頼りにはしてはいたけれど、仕事を離れたところで一緒に飲んだり、遠慮も忌憚も無く何時でも電話を掛けたりする程の仲でもなかったように思うのでありました。那間裕子女史と片久那制作部長がそんな昵懇の間柄であるとの話しも、女子からも片久那制作部長からも聞いた事も仄めかされた事もなかったのでありますし、噂としても耳にした事はなかったのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 573 [あなたのとりこ 20 創作]

 それに若し相談をしたとしても、片久那制作部長は自分がこれから始めようとしている仕事に那間裕子女史を誘う気はないようでありましたから、好い機会だから会社を辞めて自分の方に来たら、とか云うアドバイスは先ずしないでありましょう。寧ろ曖昧で一般論風の、明快な言葉を避けた助言に終始したろうと考えられるのであります。
 では均目さんに相談したと云う目は無いでありましょうか。均目さんと那間裕子女史はなかなかに親密な関係だと頑治さんは踏んでいたので、これはかなりな確率であり得べき事ではありますか。均目さんなら、新宿駅で頑治さんや袁満さんと別れた後の那間裕子女史がどこかの酒場か、若しくは自分の家に呼び出す事も如何にもありそうであるし、或いは均目さんの処に那間裕子女史の方が行くと云うのも実にあり得る事でありましょう。
 しかし何となく二人の仲にはここのところ齟齬の薄紙が一枚挟まったような、どことなくギクシャクとした気持ちの行き違いが生じているようではありましたか。それが何に起因するのかは頑治さんには確とは判らないのではありますけれど、多分制作部の責任者となった均目さんの頼り甲斐に対する那間裕子女史のちょっとした見込み違いだとか、その内秘かに片久那制作部長の方へ行く心算でいる均目さんの、それを未だ打ち明けていない後ろ暗さであるとかお呼びの掛かっていない女史に対する忌憚とか、まあ、色々。・・・
「兎に角、那間さんに今会社を辞められると、組合としては非常に痛い」
 袁満さんの苦渋の声が頑治さんの思念の中に流れ込んでくるのでありました。「組合として、と云うだけでなく、会社存続と云う点でも、衝撃が大きいと思うよ俺は」
「まあ、それはそうでしょうかね」
 組合としてとか会社存続の観点からと云うよりは、那間裕子女史の突然の辞意表明に一番ショックを受けて冷静さを喪失しているのは、どちらかと云うと何に依らず事態の激変を嫌う、のんびり気質の袁満さん自身でありましょうか。
「那間さんは明日にでも辞表を提出する心算でいるんだろうか?」
 袁満さんが頑治さんにそんな事を訊くのでありまあした。しかしそれは元より頑治さんには判断の付かない事でありました。
「何時提出するとか、そこのところは電話で那間さんは云わなかったですか?」
「うん。取り敢えず会社を辞めると云う決断を、電話で俺に知らせたという感じかな」
「まあ、実際に会社を辞める時期としては、明日辞表を提出したとしても、提出から一か月後、と云う事にはなりますかねえ」
「いやいや、そう云う事ではなくて、俺としては那間さんに辞表そのものを出して欲しくないと思っているんだよ。会社を辞めないで欲しいと」
「しかし辞めるとか辞めないとかは個人の判断だし」
「何だか、唐目君は冷たいんだなあ」
「いや、冷たいとか温かいとか云う話しではなくて、進退は結局本人だけの意志だと、単にそう云っているだけですよ、俺は」
「つまり他人にはどう仕様もないと、すげなく云っている訳ね?」
「まあ、そうです」
(続)
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あなたのとりこ 574 [あなたのとりこ 20 創作]

「それはそうだけど。・・・何だか冷たいよなあ、そう云うのは」
「袁満さんは那間さんに、会社を辞めないでくれと即座に云ったんですか?」
 頑治さんが訊くと袁満さんの一瞬口籠もる様子が伝わってくるのでありました。
「いや、ショックが大きくてそれは云えなかったけど、うっかりして」
「うっかりしなくとも、こういう云い方は申し訳無いですけど、那間さんの機嫌を損ねたくないから、結局袁満さんは弱気から云えなかったんじゃないですかね」
「まあ、実はそうかな」
 袁満さんの力なく頷く気配が受話器から伝わるのでありました。
「いやまあ、俺も多分同様だろうから袁満さんの弱気をどうこう云う心算は更々ないんですが、例え周りが止めたとしても、結局那間さんの意志次第だと思うんですよ」
「それはそうには違いないけど、でもしかし、・・・」
「ま、ここであれこれ那間さんの退職と直接関係の無い事で云い争っていても始まらないから、明日にでも俺も那間さんの真意を直接聞いてみますよ。ひょっとしたら酔った勢いで袁満さんに会社を辞めると断言してはみたけど、一晩寝て、朝起きたら少し冷静になっていて、ちょっと気持ちが変わっている、なんて事もない事もないでしょうから」
「そうだね。唐目君の方からちゃんと聞いてみてくれると有難い。確かに一晩寝ると気持ちが整理されて、迂闊に辞めると云った事を悔いているかも知れないし」
 袁満さんは那間裕子女史の気持ちの変化に対する切なる願望を述べるのでありました。
「まあ、那間さんが朝一番で土師尾常務に辞表を出さない事を祈ります」
「そうだね。そうなったらもう手遅れだしね」
「ま、大丈夫でしょう。今夜痛飲したようですから、何時にも況して明日は朝寝して遅刻する確率が非常に高いと思いますから。それに土師尾常務にしたって恐らく明日の朝も、例に漏れず得意先に直行すると云う電話が入るに違いありませんからね」
 頑治さんの軽い冗談に袁満さんは力無く笑うのでありました。

 電話を架台に置くと頑治さんはその日の、と云うか、もう夜中の十二時を回っているから前の日の夜の、那間裕子女史の新宿の洋風居酒屋での様子を思い浮かべてみるのでありました。見た目には土師尾常務が自分への中傷を袁満さん相手に並べ立てたという事を聞いても、それで激昂した様子とか思い詰めたような感じは窺えなかったのでありました。敢えて内心の動揺を只管隠そうとしているような風でも無かったのでありました。
 頑治さんの印象としては、那間裕子女史は土師尾常務の罵詈雑言なんぞは全く以って意には介さない、と云った余裕すら窺えたのでありました。元々土師尾常務その人を大した人物とは思ってはおらず、歯牙にかけるにも値しない小者だと評するような云い草も、普段から事あるにつけ頑治さんは聞かされてもいたのでありましたし。
 しかし内心は腸が煮えくり返っていたのでありますか。それに土師尾常務が袁満さんに自分の悪口を縷々並べて見せるのは、後日自分を攻撃する布石であろうとは想像が付くから、それなら先手を打ってやろうと云う一種の自棄を起こしたと云う事でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 575 [あなたのとりこ 20 創作]

 それにそれとはちょいと違う事ながら、那間裕子女史が先ず袁満さんに会社を辞めるぞと電話をしたと云う事に、頑治さんは少し落ち着きの悪さを覚えるのでありました。組合の委員長としてその立場を尊重したからと考えれば考えられるでありましょうけれど、しかしこれ迄の付き合いとか親密さの度合いとか狎れとかを考慮すると、先ずは袁満さんではなく均目さんか自分に電話をかけて来ても良さそうなものであります。
 まあ、均目さんとはここのところ何となくしっくりいっていないような雰囲気でありましたから、それなら袁満さんよりは頑治さんの方に先に電話を寄越すのが順当のような気もするのであります。別に嫉妬とか隅に置かれているような不快感みたいなものからそう思う訳ではなく、順番の妥当性と云う点で落ち着きの悪さを感じて仕舞って、それは何やら那間裕子女史の一種の屈託がそこに挟んであるように思えるのであります。その屈託てえものが一体何であるのか、頑治さんには容易には目星が付けられないのであります。まあ、那間裕子女史には那間裕子女史なりの考えがあっての事ではありましょうけれど。
 頑治さんは電話機を何気なく見るのでありました。那間裕子女史の夜も遅いからと云う配慮の故か、それとも袁満さんに電話した後に遂に酔い潰れて寝て仕舞ったためか、何の音も気配も発することなく頑治さんの家の電話機は静まり返っているのでありました。まあ、結局は明日になれば色々と事情ははっきりするでありましょう。
 それならばもう寝るかと、頑治さんは布団を敷き延べるために立つのでありました。するとそこで不意に玄関のチャイムが鳴るのでありました。
 はて、こんな時間に訪う非常識者の心当たりはないのだがと訝るのでありましたが、しかしすぐに勘が働いて、那間裕子女史の顔が思い浮かぶのでありました。今の今迄袁満さんと電話でその人の事を話していたのでありましたが、まさかその当人がこんな時間に態々訪ねて来ると云うのは、それなりの妥当性はあるでありましょうか。いやまあ、那間裕子女史の事だから、まあ、妥当性なるものはあるかも知れないと云えはしますか。
 玄関の扉の覗き穴から外を窺うと、誰の姿も見えないのでありました。しかし頑治さんの幻聴と云うには余りにはっきりと、チャイムの音は部屋に鳴り響いたのであります。と云う事は、ひょっとしたら誰かの悪戯なのでありましょうか。
 それでも耳を澄ますと、何やら扉の下の方で何かをそこに擦りつけるような微かな音が聞こえて来るのでありました。この不気味な音は一体何でありましょうか。
 頑治さんは恐る々々玄関の扉を外に開こうとするのでありましたが、扉は微かに動きはするけれど、外から抑えられているようにそれ以上開こうとはしないのでありました。こんな夜中に誰が、全くどういう思惑を以ってこんな戯れをしているのでありましょう。
 頑治さんは重みに抗して強引に扉を押し開こうとするのでありました。すると僅かに空いた隙間の下方に、何か棒状のものが倒れるようににゅっと横に投げ出されるのが見えるのでありまあした。これは要するに扉に脱力して依りかかって座っていた誰かが、扉が押し開かれる力の影響に依って横様に頽れたという現象でありますか。
 ようやく顔が出せる程の隙間が空くのでありました。頑治さんは外に頭を突き出して、この状況を正確に把握しようとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 576 [あなたのとりこ 20 創作]

 扉の前に人が倒れているのでありました。頑治さんが推し量ったように、寄りかかっていた扉が押し開かれたのでそれに押されて倒れたのでありましょう。そうやって倒れたのであるし、倒れた儘特段身じろぎもしないで横たわっている様子から、これは気を失っているのか、或いは酩酊して前後不覚に陥っているのでありましょう。
 頑治さんは隙間から身を外に出すのでありました。それからしゃがんでその倒れている人物の顔を覗き見るのでありました。間違いなく、那間裕子女史でありました。
「那間さんじゃないですか。しっかりしてくださいよ」
 身動き一つしない女史に頑治さんは声を掛けるのでありました。しかし何の反応も無いのでありました。昏々と眠っているようであります。
 この儘にしておく訳にはいかないので、頑治さんは女史を何とか抱え起こすのでありました。全身脱力して頑治さんにグニャリと寄りかかって来る那間裕子女史はやけに重いのでありました。まあ、重いと云うよりは扱いづらいと云うべきかも知れませんが。
 どうにかこうにか部屋の中に運んで本棚に寄りかからせて座らせるのでありましたが、酩酊のせいで座位を保っている事が出来ずに、那間裕子女史はうっかり支えの手を離したりすると、すぐに横様に倒れようとするのでありました。よくもまあ、こんな様子でいながら頑治さんのアパート迄辿り着けたものであります。
 それに第一、那間裕子女史は頑治さんのアパートにこれ迄一度も来た事はなかったし、その在り処も詳しくは知らない筈であります。まあ、ぼんやり本郷に在ると云う事は知っていたとしても、詳しい地番やらアパートの名前なんかは、頑治さんは正確に伝えた覚えは無かったと思うのでありました。頑治さんが歩いて会社に通勤しているという事は知っていたし、順天堂大学病院の近くであるとか本郷給水所の近所だと云うのは、まあ、喋った事があるかも知れませんから、それを頼りに何とか探し当てたのでありましょうか。
 しかしそうやって訪ね歩くにはちょいとばかり酒が過ぎてはいないでありましょうか。こんな状態でフラフラと初めての訪問先を歩き探すと云うのは、これは如何にも無謀と云うものであります。まあ、酔った勢いがあるから無謀にもなれたとも云えますが。
 それにまた、那間裕子女史と別れたのは新宿であります。新宿で別れた後で那間裕子女史が態々その新宿からお茶の水とか神保町とかにまた遣って来て、そこで一人で飲酒していたと云うのは、ま、普通なら有り得ないような気もするのであります。それなら新宿に在る別の見知っている酒場とかバーとか、或いは女史のアパートの在る荻窪近辺の酒場と云うのが、妥当と云えば極めて妥当な場所と云えるでありましょうか。
 まあこの辺の事情なんぞは那間裕子女史本人に訊いてみないと良くは判らないのであります。しかしこうして前後不覚に酔い潰れて、自分で座っている事も出来ないような状態であるとなれば、訊いても全く以って詮無い事と云うべきでありましょう。
 でありますから当面、ずっと体を支えて座らせているのも頑治さんの腕が持たないと云うものでありますので、取り敢えず手を離してごろんと転がして、風邪を引かせては拙いので毛布でも掛けてやる事にするのでありました。しかしその儘頑治さんのアパートに朝迄寝かせておくのは、何やら少々具合の悪い事のようにも思われるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 577 [あなたのとりこ 20 創作]

 頑治さんはどうすべきか思いあぐねるのでありました。もう電車も動いていない時間でありますから、何とかして那間裕子女史の家迄送っていくと云うのも叶わない事でありますか。まあ、タクシーを使って、と云う手もありはしましょうが、それでは仕様が大袈裟に過ぎるようにも思われるのでありました。こんな頑治さんの困厄の視線にはまるでお構いなしに、那間裕子女史は昏々と本棚の前で眠り呆けているのでありました。
 幾ら酒に酔い潰れてはいるとしても、一夜をこの部屋の内で女史と一緒に過ごして朝を迎えると云うのは、何やら非常に拙い事と思われるのであります。頑治さんは先程から夕美さんの顔を思い浮かべているのでありました。遠く離れていて頑治さんのこの窮状を知る由もないとしても、それを良い事にこの儘事態をうっちゃっておくと云うのも、夕美さんへの殊勝と云う点に於いて怠惰な裏切りを働いているようにも思うのであります。であるなら、さて、ここは一番、夕美さんの手前、どうすべきでありましょうか。・・・

 頑治さんはふと思い付いて電話の受話器を取り上げるのでありました。この窮状打開には多分この手しかないと思うのであります。
 呼び出し音二回で、もしもしと云う応答の声が返って来るのでありました。
「ああ均目君、夜遅く申し訳ない。もう寝ていたのかな?」
 頑治さんは別に必要は全く無いのでありましょうが、寝ている那間裕子女史に憚りを見せて小声で話し掛けるのでありました。
「いや、未だ寝てはいないけど、しかし何だいこんな時間に?」
 均目さんが訝るのは当然でありましょう。
「つかぬ事を訊くけど、さっき迄那間さん一緒だったよね?」
 頑治さんがそう云うと電話の向こうで、均目さんの少しばかりたじろぐ気配がはっきりと伝わってくるのでありました。
「何でそんな事、唐目君が知っているんだろう?」
 少し長い間が空いた後で均目さんが頑治さんの小声に呼応する程の、少し陰気な調子が混じった低い声で応えるのでありました。まあこの均目さんの返事が、つまり頑治さんの勘がすっかり当たっている事を見事に証明していると云うものでありますか。
「ふとそんな気がしただけだけど、図星かな?」
「ふとそんな気がしたので、態々確認するために電話をしてきたのかな?」
「いや、それだけなら、こうして電話なんかしないよ」
「じゃあ、どう云う訳でこの電話を掛けて来たんだろう?」
 均目さんは頑治さんの少し持って回ったような云い草に機嫌を悪くしたようで、如何にも不愉快そうな口振りで返すのでありました。
「今、那間さんがウチに来ているんだよ」
 この頑治さんの言葉に均目さんがすぐさま言葉を返さないのは、全く思ってもいない展開に大いに驚いて、言葉を一瞬失くしたからでありましょう。
「那間さんが、さっき迄俺と一緒だったと話したのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 578 [あなたのとりこ 20 創作]

 均目さんは努めて冷静な調子で訊くのでありました。
「いやそうじゃない。それは全く俺の勘だよ」
「那間さんはがそこに居るのなら、ちょっと代わってくれないかな」
 均目さんは少し苛々した調子でそう乞うのでありました。
「ここに居るんだけど、電話には出られないよ」
「那間さんが出たくないと云っているのかな?」
「いや、そうじゃないけど、状態として電話に出る事が不可能なんだよ」
「どういう事だい。二人して俺をからかっているのかな?」
 頑治さんが何やら持って回った云い方で自分を弄ぼうとしていると思ったのか、均目さんは如何にも静かな調子を装って逆上を表現するのでありました。
「那間さんはすっかり酔い潰れて寝ているんだよ、この電話機の横で。俺の家に来た時にはもう既に意識朦朧としていたのを、ようやく部屋の中に抱え入れたんだよ」
「ふうん、そうか」
 均目さんは何となく様子が呑み込めたようで、先程迄の怒気を払った云い方をするのでありました。那間裕子女史が屡、意識を喪失する迄痛飲するのはよくある事態でありましたから、頑治さんの部屋の電話機の横で前後不覚で転がっている那間裕子女史の姿が、容易に且つリアリティーをもってはっきりくっきり想像出来たのでありましょう。
「それでこの儘那間さんを俺の部屋で朝まで寝かせておくと云うのも、俺としては何となく憚られるような気がするし、実際大いに困るんで、それでまあ、那間さんがここに遣って来る迄の経緯をあれこれ想像して、まあ、全くの俺の勝手な勘だけなんだけど、均目君に助けを求めるためにこうして電話を掛けていると云う訳なんだよ」
「確かに那間さんは十時近くに突然ウチに遣って来て、その後に俺の家を出たのは丁度十一時半頃で、未だ充分荻窪迄帰る事の出来る時間だとぼんやり思ったけど、まさかその足で本郷の唐目君のアパートに行くとは、全然思いもしなかったよ」
 均目さんは那間裕子女史が遣って来た事を潔く認めた上で、那間裕子女史がその後自分の家に帰らず、頑治さんのアパートに足を向けたと云うのが全く思いもしなかった事のようでありました。那間裕子女史が時々突拍子も無い事を仕出かす事があるとしても。
「均目君の家を出た時には、那間さんはもうぐでんぐでんに酔っていたのかな?」
「いやあ、確かに結構酔ってはいたけど、然程でもなかったように思ったけどなあ」
「均目君の家でも飲んだのかな?」
「うんまあ、愛想で冷蔵庫にあった焼酎をオンザロックにして出したけど」
「それでもぐでんぐでんになった様子は無かったと云う事かな?」
「そうだね。来た時とあんまり変わらないような気配だったけど」
「しかし現実として、俺の家に来てピンポンを押した後にもう完全に意識を喪失したようで、外廊下でへたり込んで玄関の扉に寄りかかっていたよ。時間から見て、均目君の家を出てから何処か街中で飲むと云うのはなさそうだけどなあ。そうすると那間さんはどうやって俺の家に来る迄の間に、あんだけとことん酔っちまったんだろう?」
(続)
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あなたのとりこ 579 [あなたのとりこ 20 創作]

「それは俺には判らない。後で那間さんに聞くしかないかな」
 これは尤もな均目さんの意見でありましたか。
「まあそれはそれとして、・・・」
 頑治さんは語調を改めるのでありました。「こう云うお願いはひょっとしたら筋違いかも知れないけど、と云うか、俺としては強ち均目君に頼むのがそんなに不自然でもないとも思うけど、つまり、今から那間さんを迎えに来てくれないかな」
 頑治さんにそう云われて均目さんはすぐには返事しないのでありました。この頑治さんのお願いが突拍子もないもので思わず言葉を失ったのかも知れませんが、若しそう云う事でないとしたらすぐさま、自分には関わりない事とか、そう云う義理も義務もないと億劫がるだろうと踏んでいたのでありましたが、まあ、そうではないのでありました。これはあくまで頑治さんの胸中で拵えた文脈の上での均目さんの反応ではありましたけれど。
「判った。今から迎えに行くよ」
 暫くあれこれ慮って逡巡していたからか、ちょっと長い目の間を挟んでから均目さんはボソッとそう請け合うのでありました。
「うんまあ、頼むよ」
「判った」
 均目さんはもう一度そう云って静かに電話を切るのでありました。

 約一時間してから、頑治さんの部屋の呼び出しチャイムが鳴るのでありました。
「電車もない時間なのに、ご苦労さんだったかなあ」
 頑治さんは開けたドアの取手から手を離しながら云うのでありました。
「仕方がないからタクシーで来たよ」
 均目さんはやや不機嫌な口調でそう返してから、素早く玄関の中に身を入れて自分の手でドアを静かに閉めるのでありました。
「那間さんは未だ目を覚まさないのかな?」
 均目さんは部屋の奥を覗き込むような仕草をするのでありました。
「ずっとこんな感じで、無邪気に高いびきだな」
頑治さんはやや持て余したような笑いを作って云うのでありました。
 それから二人で那間裕子女史の寝姿を見下ろしてから、頑治さんに促されて均目さんは那間裕子女史の腹側に胡坐をかいて座るのでありました。
「俺に那間さんを迎えに来いと催促してきたのは、つまり唐目君は俺と那間さんの関係をとっくに知っていたという事だよね?」
 均目さんは女史を挟んでその背中側に、同じく胡坐に座った頑治さんに向かって特に表情を作らずに訊くのでありました。
「ちゃんと認知していたと云うんじゃなくて、そうじゃないかと当たりを付けていたと云うところかな。実はかなりあやふやな勘繰りで、図星の確信があった訳じゃないよ」
「ふうん、なかなか鋭い、と云うのか、侮り難いよなあ」
(続)
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あなたのとりこ 580 [あなたのとりこ 20 創作]

 均目さんはそう云って余裕を見せるためにか片頬に笑いを作るのでありました。ただその笑いなんと云うものは、不用意に油断したり疎かにしたりは出来ないなと云った、頑治さんへの一種の畏怖を宿したような引き攣った笑いになるのでありましたか。
「まあ、俺の認識については一先ず脇に置くとして、でも、均目君の家を出た那間さんが、その後どうして俺のアパートに態々やって来たんだろう?」
「那間さんは俺の家を出た時には、かなり怒っていたからなあ」
 均目さんは直接頑治さんの質問とは無関係な事を云うのでありました。
「何に対して那間さんは怒っていたんだろう?」
「まあ、ちょっと順を追って詳しく話した方が良いかな」
 均目さんは少し語調を改めるのでありました。「俺の家に来た時、那間さんはかなり酒に酔っていたんだよ。まあ、ぐでんぐでんに、と云う感じではなかったけれど」
「那間さんは会社が終わってから俺と袁満さんと、新宿の、均目君とも時々行った事のある洋風のあの居酒屋で飲んでいたんだよ。まあ、二時間くらい」
「そこに袁満さんが居るのが、ちょっと俺にしたら奇異と云えば奇異な感じがする」
「今度予定している会社の全体会議で、ひょっとしたら那間さんが解雇要員としてやり玉に挙げられる可能性があるから、予め那間さんにその恐れを承知して置いて貰うためと、まあ出来たら何らかの対策を考える心算で、三人で会合したんだよ」
「うん、その辺の経緯は那間さんからちょろっと聞いた」
 均目さんは二度程頷いて見せるのでありました。
「ところで那間さんは、何時頃均目君の家に来たんだい?」
「さっきも云ったように十時頃だったかな」
「と云う事は俺と袁満さんと新宿駅で別れたのが八時を回った頃だったから、その後すぐに均目君のところに行ったんじゃなくて、屹度一人で何処かで飲んでいたんだな」
「まあそうだろうな。会社帰りに二時間程飲んだだけの酔い方ではなかったからなあ、俺の家に来た時の様子は。あれはもう結構きている感じだったからなあ」
「均目君と那間さんは、まあ殆ど毎日、どちらかの家で、二人で一緒に過ごしていたんじゃなかったのかな、まあ、会社を出る時間は違っていたとしても」
 頑治さんはちょっと質問の色を変えるのでありました。
「いや、殆ど那間さんの家で週末を一緒に過ごすくらいだったかな。平日は大体はお互いの家で別に過ごしていたんだ。その方が始終一緒にいるより気楽だし」
「と云う事は今日、と云うかもう昨日になるけど、那間さんが均目君のアパートに遣って来たのは、イレギュラーな出来事と云う事か」
「まあそうだね。それに団体交渉の申し入れをした時以来、何となくお互いつんけんしていて、気まずい感じでいたから余計にね」
「ああ、均目君が団体交渉を土師尾常務の意に沿うように、社内の全体会議の方に誘導したあの申し入れね。あの時那間さんはとことん団体交渉派だったからなあ」
「いや別に俺は、土師尾常務に阿た訳では無いよ」
(続)
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あなたのとりこ 581 [あなたのとりこ 20 創作]

「でも那間さんはそう考えていた」
「それはそんな感じだったかな」
 均目さんは小さく頷くのでありました。「でも俺としては、穏便な会議にした方が今後の土師尾常務や社長との関係が良好に行くと考えたんだよ」
 ここで頑治さんはやや険しい顔になるのでありました。
「関係が良好に行く必要を、均目君は本当に考えていたのかな?」
 これは勿論、均目さんが片久那制作部長の誘いに依ってそう遠くない将来、確実に会社を辞める心算である事を踏まえた質問でありました。その頑治さんの思いは均目さんにもすぐに伝わったようで、均目さんは決まり悪そうな笑いをするのでありました。
「まあ、確かに俺はこの先そう長く会社に残らないだろうから、会社の将来像に対して実は何の切実さも有していないと見做されても仕方ないけどね」
「要は大袈裟な労働問題になったりして、社長や土師尾常務との関係を妙な具合に拗らせたくなかったと云う事だろう。関係が拗れると何となく辞め辛くなるから」
「まあ、本音はその辺に在るのは認めるよ」
 その均目さんの云い草を聞いて、頑治さんは特に頷きもしないのでありました、それから不意に、と云った感じで立ち上がるのでありました。均目さんは何か頑治さんの気に障るような事を云ったかしらと、やや身構えるような様子を見せながら頑治さんを、息を詰めたような強張った顔で見上げるのでありました。
「話しが長くなると云う事だから、ここいらでちょっとコーヒーでも淹れてくるよ。何となくその方が手持無沙汰じゃないからね。勿論、飲むだろう?」
 頑治さんは均目さんの警戒心を解すように静かな調子で云うのでありました。
「ああ。コーヒーなら貰うよ」
 均目さんは遠慮しないのでありました。

 横たわる那間裕子女史を挟んで、頑治さんと均目さんは酒酔いのために少し早い目の寝息を立てている女史を、夫々の方向から見下ろしているのでありました。
「疑いを持って聞いていてくれても構わないけど、俺としては社長との関係を拗らせない方が、俺が辞めたとしてもその後も未だ会社が存続する目はあると思ってはいたんだ。社長が労使対立でうんざりして、自棄でも起こしたらそれこそお仕舞いだからね」
 均目さんはそう云ってからコーヒーを一口啜るのでありました。
「会社存続のためにも、社長のご機嫌を取り結びたかったと云う事かな?」
「ご機嫌を取り結ぶ、と云うのはちょっと俺の本意とは違うけど、でもまあ、そう取られても別に構わないけどね。社長の方は土師尾常務よりは話せるところが少しはありそうだから、そこに何とか手を施して会社存続の可能性を残したかったんだ。じきに辞める俺ではあるけれど、これでも会社が無くなる事を避けたいと本当に思っていたんだよ」
「余計なお世話、と云う感じも、ま、するけどね」
 頑治さんはあくまで冷たく反応するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 582 [あなたのとりこ 20 創作]

「そう云う風に云われると、もう後は黙るしかないけどね」
 均目さんは不機嫌に云い棄てて頑治さんから目を逸らして、自分の口元を盾で隠すようにコーヒーカップを唇の前に翳すのでありました。
「片久那制作部長からそろそろ来い、と云う話しは未だないのかな?」
 頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「そんな事は余計なお世話だけど、まあ、未だないよ」
 確かにその通りで、均目さんは先程頑治さんに云われた、余計なお世話、と云う語に対してここで意趣返しするのでありました。
「ところでさっき、十時頃那間さんは均目君の家に来て、十一時半頃出て行ったと云っていたし、その時にはかなり怒って出ていたとも云っていたけど、それはどういう経緯で、それに何に対して怒って均目君の家を出て行ったんだろう?」
「来て早々に那間さんが俺を、何だかここのところ、組合員である筈の俺がまるで経営側に阿るように変節していると詰り出して、そんな事があるとかないとか暫くあれこれ云い争っていて、で、まあ何となくの話しの流れから、片久那制作部長に将来片久那制作部長が興す筈の会社に来るように俺が誘われている、と云う話しをポロっとしたんだよ」
「その話しを聞いて、那間さんが逆上したって事かな?」
「まあ、そんなところだな」
 均目さんはコーヒーを一口啜るのでありました。「成程それで俺の態度がこのところおかしいのが良く判った、なんてさも軽蔑するように云って、俺が愛想に出した缶ビールを無愛想にグッと空けて、それで引き留めるのも構わずにプイと出て行ったんだ。まあ、もう既に電車の終わっている時間でもなかったし、俺も何だかムシャクシャして仕舞って、別に引き留めもしなかったよ。まあ、ちゃんと自分のアパートに帰ると思ったんで」
「那間さんにしたら、突然均目君が裏切り者の正体を現した、と云ったところかな」
「まあ、そんなところなんだろうな、屹度」
 均目さんは特にその点に関して弁解しないのでありました。
「那間さんがそうやってプイと出て行くのを、ムシャクシャして仕舞ったからと云う理由だけで、全く引き留めなかったと云う事になるのかな?」
「まあその内、那間さんが落ち着いた頃を見計らって、その辺の経緯とか俺の気持ちとかを縷々説明すれば、那間さんも判ってくれるだろうと思ったんだよ」
「で、出て行くのに任せたと云う事ね」
「逆上している時に俺が何か云ったところで、返って逆効果になるしね。で、俺としては那間さんはその儘自分のアパートに帰るんだと思っていたんだよ」
「ところが然にあらずで、突然俺から電話が入った、と云う経緯か」
「そう云う事、だね」
 均目さんは寝ている那間裕子女史を見下ろしながら頷くのでありました。
「まあしかし、こうしてちゃんと那間さんを迎えに来たのは、殊勝ではあるか」
 頑治さんは少し語調を緩めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 583 [あなたのとりこ 20 創作]

「知ったこっちゃないと不貞腐れないだけ、未だ俺にも救いがあると云う訳か」
 均目さんはそう云って自嘲的になのか、或いはひょっとして頑治さんの、殊勝ではあるか、と云う評価を冷笑する心算でか、歪んだ笑いを頬に刻むのでありました。
「余計な事かも知れないけど、那間さんを那間さんの家に送り届ける心算かな?」
「いや、取り敢えず俺の家に連れて帰るよ。その方が手間が少ないだろうから」
「均目君のアパートは調布の仙川だったっけ?」
「まあ最寄り駅は仙川だけど、住所は世田谷区の上祖師谷だよ」
「タクシーで帰る心算かな?」
「それしかないだろうからね」
 均目さんはそう云って苦笑うのでありました。
「ここからはかなりの距離だなあ」
 頑治さんはタクシーの代金の事を気の毒に思うのでありました。均目さんにすれば思ってもみなかった散財、と云う事態でありましょうから。
「若し負担なら、始発電車が動き出すまでここで過ごしていても、俺は構わないぜ」
「いや、酔いつぶれた那間さんを運ぶのは、まあ、慣れているから、折角だけどこのコーヒーを飲み終えたらタクシーで帰るよ」
 どう云う考えからかは確とは判らないけれど、均目さんはそう云って頑治さんの申し出をきっぱり断るのでありました。ここに居続けるのも頑治さんに対して何やら気まずいと云う気持ちもあるだろうし、これ以上自分と那間さんの事で頑治さんに世話は掛けられないと云う、生真面目な遠慮からでもあるでありましょうか。
「どうしても帰ると云うのなら、それはそれで構わないけどね」
 頑治さんは自分の厚意を無にされたと云う不快感は全く無いのでありましたが、何となく云い方に、取りように依ってはそれが滲み出ているかのように受け取られるかも知れないと恐れるのでありました。若しそうならそれは慎に不本意ではありましたから。
 ところでしかし、那間裕子女史はどうして均目さんとの喧嘩の後で、頑治さんのアパートに態々やって来たのでありましょう。しかもほとんどへべれけに酔い潰れて前後不覚の状態で。女史の何が、そう云う行動を導いたのでありましょう。
 これは屹度均目さんの抱いた疑問でもありましょう。どうして頑治さんがここで俄かに二人の間に登場してくるのか、と云うのは一種の苦さに包まれた疑問と云うものでありましょうか。頑治さんからの突然の電話がある迄、那間裕子女史と均目さんの仲に頑治さんの登場する余地なんかは、殆どないものであった筈でありましょう。
 例え多少の気持ちの行き違いが起きる場合もあったとしても、那間裕子女史の気持ちが均目さん以外の男にも向かうとは、均目さんは屹度考えてもいなかったでありましょう。そこは恐らく那間裕子女史を信頼していたでありましょうし、あのプライド高い那間裕子女史に選ばれた男として、自信も恍惚れも多分に持っていたでありましょう。
 であるのに酔った那間裕子女史は均目さんではなく、頑治さんに一場の救いを求めたのであります。これは単なる当て擦りと云うだけではなさそうな気配であります。
(続)
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あなたのとりこ 584 [あなたのとりこ 20 創作]

 それは一体どんな那間裕子女史の思いから来た行動なのでありましょうか。まあ、様々な詮索やら手前味噌な想像は働くのではありますが、しかしそれは取り敢えず面倒を回避するために知らん振りを決め込んで、さらっと脇に避けておくに如くはない思案であると頑治さんは思うのでありました。まあ、要は一種の遁走でありますけれど。
 均目さんがここで高く付くタクシー代と云う痛い出費も顧みず、那間裕子女史を連れてコーヒーを飲み終えたら是が非でも帰ると云い張るのは、つまり頑治さんを自分と那間裕子女史の間から綺麗さっぱり排除したいと云う意図が明快にあるためでもありますか。那間裕子女史の身に関しては自分だけに決定権と全責任があるのであり、頑治さんの容喙する余地は全くないと云うところをはっきりさせたいが故の態度表明であります。
 頑治さんとしてはそれはそれで、面倒回避の魂胆からも尊重するに全く吝かではない均目さんの態度でありました。夕美さんの手前、と云うのか夕美さんへの忠義の証と云う点に於いても、均目さんのこの行動は大いに歓迎すべきものでもあります。
 コーヒーを飲み干した均目さんは横たわる那間裕子女史に目を落として、ごく小さくではあるけれど溜息を吐くのでありました。それから不可能だろう事は承知の上で、那間裕子女史の覚醒を期待してその体を少し強めに揺さぶるのでありました。
「ねえ、起きてくれよ」
 そんな均目さんの声掛けに対して那間裕子女史は慎につれなく、微動だにしないのでありました。均目さんはもう数度那間裕子女史の体を揺するのでありました。
「何ならハイヤーを呼ぼうか?」
 均目さんの徒労を見兼ねて頑治さんが訊くのでありました。
「いや、大通り迄出るとタクシーが掴まるだろう」
 頑治さんの申し出にそう返して、均目さんは未だ那間裕子女史への揺さぶりを止めないのでありました。何とか薄っすらでも意識を取り戻してくれれば、脇を支えて大通り迄歩かせる事が出来るかも知れませんが、昏睡した儘なら、抱き上げて運ぶしかないでありましょう。それは全く以ってげんなりと云うものでありましょうか。
 均目さんは那間裕子女史を覚醒させる事を諦めたのかその腕を取って自分の肩に回し、もう片方の腕を女史の腰に回して女史を何とか引き起こそうとするのでありました。すっかり意識も力も抜けきった那間裕子女史の体は重く、グニャリと支えどころなく柔らかくて、如何にも扱い難そうでありますが、しかし頑治さんが手助けすると云うのはどこか憚られるのでありました。ここは均目さんの独壇場でなければならない筈であります。
 均目さんが何とか那間裕子女史を起き上がらせて殆ど自分の肩にその全身を支えると、那間裕子女史が垂れていた頭をぐらりと揺らすように少し起こすのでありました。それから小さく不快気な呻き声を上げるのでありました。
「起きたの?」
 均目さんが声を掛けると那間裕子女史は片目を薄く開いて、またすぐにその目を閉じるのでありました。起きたと云う訳ではなく、まあ、不如意に起き上がらされたことが心外で、反応として無意識に薄目を開いただけなのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 585 [あなたのとりこ 20 創作]

 頑治さんは那間裕子女史を背負った均目さんと一緒に通りに出るのでありました。が、那間裕子女史の介抱は均目さんに任せて頑治さんは全く手を出さないのでありました。
 夜中の街はすっかり人気が失せていて、本郷通りを行き交う車の通りも至って疎らでありました。那間裕子女史を背負った均目さんと頑治さんは、大通りを偶に通りかかる空車のタクシーを目当てに無言で目を前の道路に釘付けているのでありました。
「大概は客を乗せているタクシーばかりで、なかなか空車が見つからないなあ」
 頑治さんが声を掛けると均目さんは頷くのでありました。それから背負っている那間裕子女史が背中を滑り落ちないように、全身で少し跳ね上がるような仕草をして女史の体を抱え直すのでありました。眠っている女子の体はさぞや重たかろうと頑治さんは均目さんを気の毒に思うのでありましたが、ま、手出しは決してしないのでありました。
 ようやく一台、頑治さんと均目さんは同時に駒込方面へ向かう空車のタクシーを発見するのでありました。均目さんの両手がふさがっているものだから、頑治さんが少し大仰にそのタクシーに向かって手を挙げるのでありました。若そうな男二人連れでしかもその内の一人は背に女性を負ぶっているものでありますから、タクシーの運転手が胡散臭く思っておいそれと止まってくれないのではないかと、頑治さんは冷や々々するのでありましたが、均目さんと頑治さんの目の前にタクシーはゆるゆると停車するのでありました。
 ドアが開くと均目さんは先ず那間裕子女史を奥に押し込めるのでありました。何となくぞんざいな押し込めようであるのは、タクシーが来る迄の間背負っていた那間裕子女史の体の重さを、ほとほと持て余していたからでありましょうか。
 後に続いて均目さん自身が乗り込むと、すぐに閉まろうとするドアを手でつっかい棒に遮って車内から均目さんが脇に立つ頑治さんを見上げるのでありました。
「何だかあれこれ世話を掛けて悪かったなあ」
「いやまあ、均目君がそんなに気に病まなくても良いよ。このすったもんだは、云ってみれば思いがけない事故みたいなもの、・・・だから」
頑治さんが特に笑いも添えずにそう云うと均目さんは思わず、と云った感じで口の端を笑いに動かすのでありましたが、別に何も言葉は返さないのでありました。
 均目さんがつっかい棒の手を離すと、ドアは待っていましたとばかりすぐに閉まるのでありました。未だドアが閉まり切らないくらいのタイミングで、タクシーはいやに焦って動き始めるのでありました。このがさつさは真夜中に不審な男女を拾う羽目になった運転手の不愉快の無言の表明であろうかと、頑治さんは思うともなく思うのでありました。

   夫々の思惑

 二回目の全体会議に於いても社長と土師尾常務の態度てえものは全く変わらないのでありました。会議の皮切りに於いて一回目のそれよりも寧ろ、脅し半分ではありましょうが会社解散の意をより強く仄めかすような風でありましたか。その挨拶代わりみたいな脅しの後に、早速土師尾常務による那間裕子女史への攻撃が開始されるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 586 [あなたのとりこ 20 創作]

「この前問題になった那間君の件だけど、今日は本人も居る事だし、云うべき事をちゃんと僕の方から云わせて貰おうと思う」
 土師尾常務は如何にも深刻ぶって重々しく口を開くのでありました。「那間君はどうして毎朝、前に居た片久那君からも屡注意を受けながら、今も相変わらず遅刻を繰り返しているんだ? どうしても朝定時に会社に出て来られない事情でもあるのか?」
 面と向かってそう訊かれても、何と応えて良いのかまごまごするしかないでありましょうが、その当惑を隠して、那間裕子女史は土師尾常務から目を背けて、取りように依っては嘗めたような笑いを片頬に浮かべて返事するのでありました。
「朝は苦手なんですよ」
「苦手だったら遅刻しても構わないと云う訳か?」
「別にそうは云っていませんけど」
 那間裕子女史は呟くように云うのでありましたが、どこか太々しそうでありました。
「そう云っているじゃないか!」
 土師尾常務は女史のこの、自分に対する畏怖の欠片も感じられない云い草に喧嘩腰になるのでありました。小馬鹿にされていると感じたのでありましょうが、まあ、那間裕子女史としても小馬鹿にしているのでありましょう。しかしそこは本心をグッと抑えて体裁だけでも地位の上下に対する弁えは示しておいた方がよかろうと云うものであります。
「遅刻するのはあたしの落度だってことは承知しています。どうも済みません。今後は気を付けて始業時間に間に合うように出社しますよ」
 那間裕子女史は浅く頭を下げて見せるのでありましたが、この態度てえものも、畏れ入っていると云うよりはどこかふざけていると云った感じでありましたか。まあ、咎められて素直に畏れ入るよりは寧ろ、ムラムラと対抗心の方を掻き立てられて仕舞うと云う女史のある種仕方のない性格からだと云うところでもありましょうか。
「そんな事を云うくせに、実は全然反省してなんかいないようだな」
 土師尾常務は那間裕子女史を睨み付けるのでありましたが、睨まれた那間裕子女史は全く以って怯む様子もなく、寧ろ自分以上の敵意満々の視線を投げ返してくるのはちょっと読み違えたと云った按配だったようで、土師尾常務の方がうっかり先に視線を外して仕舞うのでありました。ここら辺りが土師尾常務の生来の弱気の表れでありましょうか。
「那間さんは自分の落度を認めて、今後は態度を改めると殊勝に云っているんですから、今日のところはその件はもう良いじゃないですか」
 袁満さんが土師尾常務の弱気を見透かしてか、間に入ろうとするのでありました。
「入社以来今日まで続いてきた遅刻が、そう簡単に改まるとは思えないね」
 土師尾常務は袁満さんを睨むのでありました。強気に於いて那間裕子女史には叶わないけれど袁満さんには些かも負けないと思っているのでありましょう。それに確かに、その日の朝も那間裕子女史は遅刻をしていたのでありました。この辺りが那間裕子女史の隙でありましょうが、逆に土師尾常務なんぞには隙を見せようがどうしようが別に無頓着と云うのなら、これはもう土師尾常務にしたら立場も体面もないと云うものであります。
(続)
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あなたのとりこ 587 [あなたのとりこ 20 創作]

「では要するに、常務としては那間さんに何を要求したいのですか?」
 ここで均目さんが口を挟むのでありました。土師尾常務はすぐに袁満さんから喧嘩腰の目を均目さんの顔の方に移すのでありました。
「この際はっきり云わせて貰うけど、これ迄の仕事に対する態度から判断して、就業規則を順守しようと云う意志なんかとことん持ち合わせていないようだし、実際の行動も不実極まりないのだから、相応のペナルティーを受け入れて貰うしかないと考えている」
 土師尾常務は如何にも陰鬱な語調で重々しく云うのでありましたが、那間裕子女史の方には視線を向けないのでありました。これはうっかり女史の方を見て仕舞って、実際の地位は自分の方が上である筈なのに、また不本意にも位負けみたいな醜態を晒してしまうのを恐れたためでありましょう。これもまあ、なかなかの弱気振りではありますか。
「相応のペナルティー、と云うのはつまりどういうものですか?」
 均目さんが土師尾常務の弱気を見透かしたように口の端に憫笑を湛えて、少しばかり身を乗り出しながら訊くのでありました。
「賃金の減額とか、当分の間出社停止とか、その辺は色々考えられる」
「賃金の減額は受け入れられませんよ」
 袁満さんが横からすぐに発言するのでありました。「組合として、賃金に対する勝手な操作は断じて受け入れられませんからね」
「それじゃあ訊くけど、那間君の社員としての弁えの無さとか不良態度に対して、組合として何の問題も無いとでも考えているのか?」
 そう詰め寄られて袁満さんはすぐに反駁する機を逸するのでありました。袁満さんとしても那間裕子女史の長年の度重なる遅刻には、心の内ではうんざりしていたのでありましょう。しかしここで土師尾常務に調子付かれてはまんまと向うの思う壺だと焦って、何とか反論の言葉を大至急探すのでありましたがもたもた感は拭えないのでありました。
「組合として何の問題も無い、とは云っていませんよ」
 袁満さんの当惑をカバーしようとして均目さんが云うのでありました。「しかし黙って会社の云いなりに、那間さんに対する懲罰を受け入れる気もありませんけどね」
「それはどういう事だ、均目君?」
「懲罰を理由に、組合員の一人に対する賃金面での不利益を認める事はしないと云う事ですよ。それはようやくかち取った賃金体系の崩壊につながりますからね」
「それは組合の勝手な云い分だ。人事考課は会社の専権事項だろう?」
「著しく不当なら、組合としても容喙せざるを得ないじゃないですか」
「どうせ何でもかんでも不当だと云い募る心算なんだろう?」
 土師尾常務は見透かしたような笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「そうでもないですけど、まあ大方は、そうなるでしょうね」
 均目さんも大いに負けてはいないところを示すため、土師尾常務の片頬の笑いを茶化すように笑って見せるのでありました。当然ながらそれが全く気に入らないようで、土師尾常務の顔に険しさがみるみる表れるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 588 [あなたのとりこ 20 創作]

「均目君はどうしてそう、僕を小馬鹿にするような云い草をするんだ?」
 土師尾常務は例によって今度は、均目さんの自分に対する不謹慎な態度にイチャモンを付け始めるのでありました。
「強いご要望であるなら、今日の議題は脇に置いてその話しに移っても構いませんが、そうなるとまた、誰彼の態度が気に入らないだとか、自分が蔑ろにされているのはけしからぬ事だとかの、全く以って下らない云い合いをこれから展開する事になりますが、どうやら常務は大切な議題よりも、そう云う罵り合いみたいな展開をお望みのようですね」
 均目さんは茶化すような笑いを未だ湛えた儘でありました。
「まあ土師尾君、そう云う不毛な云い合いは止して、会社存続が深刻な危機にある事を社員の皆さんに理解して貰う方を先にした方が良いだろう」
 土師尾常務のあまりの頓珍漢振りにほとほと呆れてか、社長がソファーの背凭れから少し身を起こしながら口を挟むのでありました。「那間君にもその危機感をちゃんと共有して貰いたいから、土師尾君は反省を促そうとして敢えて遅刻の件を持ち出した訳だ、云い方が悪くて上手く伝わらなかったかもしれないが。その辺は均目君も売り言葉に買い言葉みたいな反応をしないで、少しは弁えてくれても良いんじゃないか?」
「社長はそうおっしゃいますけど、那間さんとしても充分反省はしているんだけど、常務に頭ごなしに罵るような語調で噛み付いてこられれば、それは反発して竟々無礼なものの云い方をして仕舞うのは、これはもう仕方が無いじゃないですか」
「それは確かに目上の者としての在り方には問題があるかも知れない」
 社長は分別有り気に頷いて見せるのでありました。自分だけ格好を付けようとしてか、そんな事を云う社長に土師尾常務が驚いて、体ごと横に座る社長に向き直るのでありました。土壇場でちゃっかり梯子を外されて仕舞ったような具合でありますか。
 しかしところで、均目さんは土師尾常務の何時も通りの、ちょいと挑発されると肝心のところをすっかり脇に置いて、まんまとその相手の言に乗っかって仕舞う迂闊さに、実は上手に付け込もうとしているようにも頑治さんには見受けられるのでありました。要は均目さんの方が土師尾常務の短気と単細胞を利用して、この全体会議での話題を本来の議題からするりと遠ざかるように仕向けるよう秘かに画策しているようにも思えるのであります。まあ、何のためにそうしているのかは未だ確とは判らないのでありますけれど。
「ここら辺で話しを本題に戻そう」
 社長は仕切り直すのでありました。「前の会議の時にも、その前からも繰り返し云っているように、会社の存続そのものが危機的な状況にある事を社員の皆さんも判って貰うために、本当は無闇に出したくはないのだけれど、こういう資料を見て欲しいんだがね」
 社長はそう云って持参したファイルケースから一枚のA4用紙を一枚取り出して、均目さんか袁満さんか少し迷った上で、先ずは袁満さんの前に置くのでありました。
「何ですかこれは」
 袁満さんは徐に紙を取り上げて目を近付けるのでありました。
「正式の決算書類ではないけど、会計事務所で作って貰った会計報告だよ」
(続)
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あなたのとりこ 589 [あなたのとりこ 20 創作]

 社長はそう云って袁満さんをじっと見つめるのでありました。袁満さんが手に取った紙の上辺の一角が細かく震えているのは、自分を見る社長の視線に袁満さんが緊張を覚えたからでありましょう。成程社長の眼光には、どうだこれを見ても未だ四の五のお気楽な御託を並べられるのか、と云った威迫が濃く込められているのでありました。

 袁満さんはつるっと紙面に目を通した後、まるでこの持て余すべき社長の強い視線ごとすっかり預けて仕舞うように、それを均目さんに渡すのでありました。均目さんも袁満さんよりは少し長めに目を通して、今度はそれを日比課長に回すのでありました。
 日比課長の次は那間裕子女史に、その後は甲斐計子女史と一渡り従業員が回覧した最後に、頑治さんがそれを手にするのでありました。その間社長は、書類を手にした者に順次むやみに挑むような視線を送り、無言の威圧を与え続けようとするのでありました。
 この書類てえものは、この全体会議が開かれる前月迄の三年間の月毎の売り上げ比較表なのでありました。それにその三年間の自社製品と他社製品の売り上げ比率の比較表も付してあるのでありました。売り上げ比較の後に、敢えてのように付されたこの自社製品と他社製品の比率比較は、つまり利益率の低い他社製品の比率が次第に多くなっているところを開示する事に依って、売り上げと同時に利益も急激に薄くなっている辺りを見せようと云う魂胆からであろうと、頑治さんは先ずここでは推察してみるのでありました。
「それが偽らざる会社の惨状と云う事ですよ」
 社長はこれでまんまと社員の意気地を挫き得たと云った風に、見様に依ってはさも得意気に胸を反らすのでありました。頑治さんは、偽らざる会社の惨状、への深刻な危惧よりも社員を今見せたペーパー一枚で決定的な迄にとことん遣り込めた心算になって得意になっている社長の無邪気を、まあ、半分程の軽蔑を以って秘かに笑うのでありました。
「要するに、これ程のっぴきならないところに会社の現状はあるんだから、ガタガタ待遇とかに文句をつけないで、この際、先の団交で妥結した諸事も綺麗さっぱり御破算にして、不利益や各人への差別的待遇も甘んじて蒙れ、と云う事をおっしゃりたいのですね」
 均目さんが、こんな紙一枚なんぞで以ってへこんでなんかいられるかと云うところを見せようとして、不遜な笑いを湛えた目を社長向けるのでありました。
「こんな数字の羅列は、作ろうと思えば幾らでも作れるだろうし」
 那間裕子女史も均目さんに倣って口の端に笑いを湛えるのでありました。この辺の息の合ったコンビネーションなんと云うのは、ひょっとしたら先の頑治さんを巻き込んでのゴタゴタをその後二人で何とか乗り越えた、と云う事の左証であろうかと頑治さんは全く関係の無い事を不意にぼんやり考えて仕舞うのでありました。
「何だその云い草は!」
 ここで土師尾常務がしゃしゃり出るのでありました。「折角社長が君達に会社の現状を理解して貰おうと誠実に思って、無理にも会計事務所に頼んでこの書類を作って貰ったと云うのに、その労を嘲笑うとはどういう了見なんだ君達は!」
 これはもう大変な剣幕であります。
(続)
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あなたのとりこ 590 [あなたのとりこ 20 創作]

「こんな紙一枚を急に出してきて、それであたし達を丸め込もうとしても、それは余りに虫の好い算段と云うものじゃないかしら」
 那間裕子女史は土師尾常務を睨み付けるのでありました。土師尾常務は苦手意識から竟その眼光に少しの怯みを見せるのでありましたが、ここで怖じている訳にはいかないと自分を励まして、那間裕子女史と同じ程度に目を怒らせるのでありました。しかしおどおどするのを恐れてか言葉は何も発しないのでありました。
「この会計報告を、那間君は信用出来ないとでも云うのかね?」
 社長も那間裕子女史のこの発言を実に不謹慎で忌々しいものだと感じたようで、眉根を寄せて細めた瞼の奥の眼容を如何にも鋭くして女史を睨むのでありました。まあ、気の強い那間裕子女史にその程度の怒りの表出が通用する筈もなく、女史の社長を見る目に可愛気の宿る余地は全く以ってないと云うものでありましたが。
「この紙に書いてある数字の根拠なり信憑性を示しもしないで、頭ごなしに信用しろと云われても、それは無理に決まっているじゃないですか」
 那間裕子女史は全く無愛想な口調で云ってそっぽを向くのでありました。
「那間君は製作の方しか知らないから、その程度の認識しかないのも無理もないかも知れないが、営業の日比君なら、この数字の信憑性はちゃんと理解出来るよなあ?」
 社長は日比課長の顔を見るのでありました。
「ええ、まあ、・・・」
 いきなりここで名指しさた日比課長は、目を上下左右に揺動させながら如何にも曖昧に応えるのでありました。
「日頃から営業回りをしているんだから、ここのところの売り上げ不振の実情なんかは、身を以って思い知っているだろう?」
「確かに前程の売り上げは、ずっとないように感じますけどねえ」
 日墓課長の応答に土師尾常務が聞えよがしに鼻を鳴らして見せるのでありました。
「日比君の営業成績が、このところさっぱり芳しくないのはちゃんと自覚している筈だろう。それなのにそんなあやふやな応えしかしないのはどうしてなんだろう?」
「それは確かにここ最近捗々しい数字が稼げていないのは認めますよ。でもそんな事を云うなら、常務だって大した数字は出せていないんじゃないですか?」
 日比課長は不愉快そうに返すのでありましたが、土師尾常務の指摘に多少ばつが悪いところもあるせいかそっぽを向いた儘でありました。
「それは僕だってなかなか思うような数字があげられない。でも大口の見積もりを幾つか請われていて、今はそれの回答待ちと云ったところだ。尤も自社製品ではなく他社製品での見積もりだから、利益はそんなに上げられないが」
「見積もりなら、私だって何社かに出してありますよ」
 日比課長は口を尖らせて土師尾常務を反抗的な目で見るのでありましたが、すぐに視線を逸らせて仕舞うのは那間裕子女史に対する土師尾常務と同じ心根からでありますか。
「あの、この前報告を受けた少部数の実用書の名入れとかの事かい?」
(続)
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あなたのとりこ 591 [あなたのとりこ 20 創作]

「それもありますけど、他にもあれこれと・・・」
「ほう、何も報告は受けていないけど、他にもあるのかい?」
 土師尾常務は端から信用なんぞしていないと云った風に、眼鏡の奥の目に侮りの笑いを浮かべて口の端を歪めて見せるのでありました。
「まあ、未だ報告する迄煮詰まっていないですけれど。・・・」
 日比課長は弱々しく且つ多少の悔しさを滲ませて語尾を収めるのでありました。
「実現する可能性は限りなく小さいと云う事だろう、要するに」
 土師尾常務は聞えよがしに鼻を鳴らすのでありました。
「そんな事を云うなら、常務のその大口の見積もりとやらにしたって、未だちゃんと本決まりしたと云う訳じゃないんじゃないですか?」
 袁満さんが日比課長に助け舟を出そうとしてか口を挟むのでありました。
「それはそうだが、日比君の話しとは元々確度が違う」
 土師尾常務は如何にも心外、と云った風に眉根を寄せて口をへの字に曲げて、袁満さんを不愉快そうに睨むのでありました。「そんな事を云うのなら、袁満君の地方出張営業を現地の代理店に任せると云う仕事は、ちゃんと捗っているんだろうな?」
「鋭意努力していますよ」
 袁満さんは無愛想に云って土師尾常務の顔から目を逸らすのでありました。
「前から袁満君が担当していた旅館とかお土産屋とかには、最近でもちょくちょく商品を送ってはいるようだけど、それも前と比べれば随分分量は落ち込んでいるし、出雲君が担当していたところなんかはさっぱり売り上げが上がっていないし、それどころか取引自体が全くなくなっているところもあるようだが、それはどうしてなんだ?」
「それはちゃんとこちらが出向いて、直接得意先と遣り取りしている頃のきめ細かさが無いから、売り上げはどうしても落ちて行きますよ」
「いや、袁満君の遣り方が的を射ていないんじゃないのか?」
「こっちだって一生懸命やっていますよ」
 袁満さんは声を荒げるのでありました。
「出雲さんが辞めた後に人員補填もしないで、袁満さんの出張に対しても好い顔をしなくなって、経費をケチって営業の遣り方をきっぱり変えろと指示してみたり、地方出張営業がじり貧になるのは、土師尾常務も始めから織り込み済みだったんでしょう?」
 ここで土師尾常務のあまりに一方的な云い草に遂に癇癪を起したようで、那間裕子女史が露骨に敵意を剥き出してしゃしゃり出てくるのでありました。
「のほほんと観光旅行気分で出張営業に行っても、会社にとって何のメリットもない」
「のほほんと観光気分で出張に行っていたと思っていたんですか、今迄!」
 袁満さんは激昂して思わずと云った感じで立ち上がるのでありました。立ち上がった袁満さんはこれ以上出来ないと云ったくらい目を剥きだして、今迄頑治さんが見た事がない程の、これぞまさに典型的、と云った具合の鬼の形相で土師尾常務を睨み下ろすのでありました。両の拳が、込められた力に依ってわなわなと震えているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 592 [あなたのとりこ 20 創作]

 今迄見縊っていた袁満さんのこのただならぬ剣幕に、土師尾常務は思わず怯んで仕舞うのでありました。この辺りは、体裁は大いに気にしていながら結局のところ全く腹の座ったところのない小心の輩は、こうしてすぐに馬脚を現すと云うものでありますか。
「人が我慢して黙っていればそれを良い事に調子に乗りやがって、そうやって小馬鹿にするようなものの云い方は好い加減にして貰いたいものだよなあ」
 袁満さんがそう捲し立てる間、土師尾常務は口を半開きにして怯みのために瞬きも忘れて、喧嘩腰の袁満さんに目を釘付けているだけでありました。まあ、袁満さんのこの日頃からは到底考えられないような変貌ぶりに驚いたのは、土師尾常務だけではなく頑治さんを始めとするこの場に居るほぼ総ての者共、とも云えるでありましょうか。
 袁満さんのこの短い反撃の言葉が終わると呆気に取られた土師尾常務も他の者共も、当面発するべき言葉を見付けられないのでありました。重苦しいような遣る瀬無いような、はたまた尻がモゾモゾするような沈黙が応接スペース中に重く泥むのでありました。
 その重苦しさてえものが袁満さん自身も大いに意外であったようでありました。袁満さんは何となくばつが悪そうにこそこそと、あっけらかんとは到底云えない身ごなしで着席するのでありました。土師尾常務の口は未だ半開きの儘でありました。
「袁満君を馬鹿にする心算で云ったんではなく、売り言葉に買い言葉で、土師尾君も竟心にもない不穏当な言葉を遣って仕舞ったんだと思うよ」
 社長が袁満さんを宥め且つ、場を取り持つように云うのでありました。
「最初に無神経な言葉を売ったのは袁満君じゃなくて土師尾さんの方だけどね」
 那間裕子女史が皮肉な笑い顔をして社長の言葉を訂正して見せるのでありました。
「まあ、あんまり罵り合いみたいなことはしないで、お互いに冷静に話しをしようと云う事だよ、私が云わんとしているのは」
「罵り合いをしているんじゃなくて、土師尾さんが先ず日比さんを、それからまるで事の序と云った風に次に袁満君を一方的に罵っているだけじゃないかしら」
「そんな心算は無いよ!」
 ようやく半開きの口を閉じ得た土師尾常務が、眼鏡の奥の目を何度も瞬かせながら身を乗り出そうとするのでありました。その言葉を制するように社長が掌を下にした自らの左手を大仰な仕草で、土師尾常務の顔の前で何度か上下に振って見せるのでありました。
「まあまあ、兎も角そのくらいにして」
 社長は土師尾常務と那間裕子女史、それに袁満さんを窘めるように見遣った後で徐に重苦しい口調で続けるのでありました。「今ここで土師尾君と日比君の営業成績の比較をしたいのでもなく、袁満君の仕事態度や、仕事の進捗状況に対してどうこう云いたいのでもない。それより話しを会計報告書の方に戻すと、一昨年より去年、去年より今年と、売り上げがかなり下降しているし、特に今年は去年に比べて急激な程の落ち込みと云える」
「まあ、この数字を信用すれば、確かに」
 日比課長がそう云いながら数度頷くのでありました。
「そうだろう。日比君も判るだろう、ウチの会社が今どんな状況にあるのか」
(続)
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あなたのとりこ 593 [あなたのとりこ 20 創作]

「実際の営業回りしてみての実感も、まあ確かに前に比べて良くはないですね」
「それは僕も最近頓に感じている」
 ここで待っていましたとばかりに、土師尾常務が日比課長の言に乗っかってしゃしゃり出てくるのでありました。「特に利益率の高い自社製品の評判が芳しくない。昔から一定の人気のあった定番商品すら、ここのところ全く見積もり対象として挙がってこないし、魅力的な新開発商品も片久那君が辞めてからは何も出来ていない」
 土師尾常務はそう云いながら均目さんの方に目を向けるのでありました。
「新開発商品の方はどうなっているのかね?」
 社長も均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「常務の方に全く提案していない訳、ではありませんが、・・・」
 均目さんがどこか居心地悪そうに身じろぎするのでありました。

 土師尾常務が均目さんの言を聞いて、小さく鼻を鳴らすのでありました。その後勿体ぶった身ごなしでソファーの背凭れから身を起こすのでありました。
「新商品と云っても、均目君の持って来る案は従来品の焼き直しとか、微調整品とか、その程度のものが殆どでちっとも斬新なところがないからなあ」
 土師尾常務はそう云いながら、如何にも高飛車な態度で均目さんを小馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべるのでありました。
「いやいや、新案の企画もちゃんと出していますよ」
 均目さんは不本意そうに口を尖らせるのでありました。
「まあ、新案と云っても恐ろしく金のかかりそうな企画とか、随分長い時間を掛けないと商品にならないような企画は確かに出てはいるけどね」
「例えばどんなものかな、その均目君の出す企画とやらは?」
 社長が均目さんをソファーの背凭れに身を埋めた儘で見るのでありました。
「竟この前に出してきた企画が、それも僕が散々催促してようやく出してきたのが、日本全国のローカル駅を厳選して三百程紹介するB五判の八十頁程の小冊子、とか云うものだったけど、そんなものは如何にも陳腐でどこにでもありそうな企画で、営業サイドの意見としては、ウチの販促品のラインアップ中の有力商品になるとは到底思えないけどね」
「しかし本の中の案内図は今ある一枚ものの百万分の一の全国地図を流用出来るし、図版は在京の各県の観光物産課から借りて来れば良いし、記事も関東周辺の幾つかの駅は現地取材するにしても、殆どは観光パンフレットや既存の旅行案内本や鉄道企画本なんかを参考にして書けば良いし、そんなに大金を掛けないで出来る商品だとおもいますがねえ」
「で、経費と製作期間はどんなものなんだい?」
 社長があんまり乗り気でないような素振りで訊ねるのでありました。
「その辺の細かな経費計算とか製作時間の割り振りなんかをする前に、土師尾常務に端から相手にされなくて即刻没にされました」
 均目さんは未練たっぷりと云った風情で土師尾常務に目を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 594 [あなたのとりこ 20 創作]

「ああ、成程ね」
 社長はソファーの背凭れに沈めた体をその儘に、先程の土師尾常務と同質の薄ら笑いを浮かべて、何事か納得するように首を縦に数度動かすのでありました。「まあ今の、日本全国のローカル駅案内、みたいな陳腐な企画なら僕も没にするだろうね」
 社長にそう云われて均目さんは少しムッとした顔をして見せるのでありましたが、特に何も云い返すような仕草はしないのでありました。それは要するに、自分でもその企画のつまらなさを重々判っているからでありましょうか。
 土師尾常務にやいのやいのと催促されてものぐさと苦し紛れから、均目さんはそんなやっつけ仕事的な陳腐極まりない企画をうっかり提案したのかも知れないと頑治さんは考えるのでありました。本人も屹度提案したその場で自分の怠惰を悔いたに違いないでありましょう。結局社長にも今、その辺りを図星されたと云う次第でありますか。
「矢張り均目君は、クリエーターとしては片久那君に到底及ばないと云うところかな」
 土師尾常務がそう云って侮るように口の端を笑いに歪めるのでありました。
「ま、常務が指導力とか部下を心服させる上司としての器量とかに於いて、片久那制作部長の足下にも及ばないのと似たり寄ったりで、自分でも慎に面目無い次第ですかね」
 均目さんも大いに負けていないところを見せるべく、こちらも口の端に薄ら笑いを浮かべて土師尾常務に尚更無礼を働いて見せるのでありました。
「何だその云い草は!」
 土師尾常務が均目さんの思惑通りすぐに頭から湯気を出すのでありました。
「そう云う科白にしても、片久那制作部長に比べると全く迫力に欠けますよね」
 均目さんは怯まないところを見せるべく、冷静な口調で返すのでありました。
「まあまあ、二人共」
 社長が掌を下にしてそれを腕ごと何度か縦に振って宥めに掛かるのでありました。
「ああ、また話しを脱線させるように仕向けて仕舞って、社長には申し訳ありません」
 均目さんが今度は社長に向かって何とも生真面目な形相をしながら、頭を過剰なくらい低く下げて謝って見せるのでありました。それに対して社長はさも不快そうに眉根を寄せて、頷かないで均目さんに寧ろ鋭角な視線を投げるのでありました。
「まあ、均目君も制作部の責任者になって未だ間がないから、いきなり片久那君と同じレベルの仕事は無理と云うものだろう」
 社長はその口振りから判断するとしたら、仲裁なのか均目さんへの労わりなのか、それとも侮りなのか良く判らないような事を口にして薄く笑って見せるのでありました。
「しかし片久那君の場合は僕と一緒にこの会社を率いるようになった時にはもう、一端の仕事はしていた筈だし、均目君はその頃の片久那君と同じくらいのキャリアになっている筈だ。それなのに片久那君に遠く及ばないと云うのは、偏に均目君の怠慢か無能のなせるところと云う事になるんじゃないのか。その辺は均目君自身はどう考えているんだ?」
 土師尾常務は社長の、ひょっとしたら仲裁なの労わりなのかを全く無視するように、あくまで均目さんを追い詰めてやろうと云う心算のようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 595 [あなたのとりこ 20 創作]

「常務のお眼鏡に叶わないと云う点は慎に申し訳無いところです」
 均目さんはちっとも申し訳無いとは思っていない顔でしれっと云うのでありました。
「そうやって態と僕の言葉を茶化そうとしているが、要するにそれは負け惜しみのひねくれた表現で、本心は敗北感と悔しさで一杯なんだろう」
 土師尾常務は自分をあくまでも侮るような態度をとる均目さんの魂胆を、さもしたり顔で分析して見せるのでありました。それに対して均目さんは思わず、と云った風にちょいと吹いて見せて、対抗上こちらも更々応えていないところを見せようとするのでありました。これは見ように依ってはなかなか面白いジャブの応酬、と云うものでありますか。
「ところで、売り上げの比較表の方はどうなっているんです?」
 土師尾常務と均目さんの鞘当て応酬合戦を仲裁する、或いははたまたこれ以上聞くに堪えないと思ったのか、日比課長がそんな言葉を差し挟むのでありました。
「そうそう、無意味で何も得るところのないつまらない意地の張り合いみたいな事はどうでも良くて、そろそろ話しを本題に移して貰えるかな、二人共」
 社長は土師尾常務と均目さんを先ず交互に見て、次に土師尾常務の方に遣った目をそこに固定するのでありました。「特に土師尾君は均目君より歳上なんだし、おまけに取締役であり上司なんだから、もう少し弁えて大人の対応をしても良いんじゃないのかな」
「・・・、判りました」
 土師尾常務はそう呟いて一応社長の訓戒を受け入れるのでありました。しかしその表情には、ここで均目さんを恐縮させる事もなしに自分の方が引き下がるのは、全く以って不本意で道理に合わないではないか、と云った不満が滲み出しているのでありました。
「確かにこの前期との売り上げ比較を見ていると、会社は相当危ないところにあるとも云えますよね。まあ、誰が悪いとか、その辺はこの際置くとしても」
 日比課長は顎を撫でつつ社長の前に置かれた紙を覗き込むのでありました。
「そう云う事だ。早急に対策を打たないとこの儘では会社解散は免れないと思うよ」
「会社が解散して明日にも失業するような事態よりは、待遇が少しくらい落ちても、何とか会社が存続する方が未だマシかな」
「私も、つまり敢えて厳しい事を云うようだけど、皆さんのためにはこの四月からの賃金や待遇をここでもう一度見直して、会社を何とか存続させる事が出来るように、方向転換する方が賢明な選択だと考える。そうは思わないかな皆さんは?」
 社長はここでゆっくりグルっと、この全体会議出席者全員の顔を値踏みするように見渡すのでありました。ようやく自分の思っていたペースに会議を誘導出来たと云う、一種確信犯的な太々しさがその目の中に仄かながらくっきり見えるのでありました。

 この場に居る全員が一様に深刻そうな面持ちで、口をへの字に結んで俯いたり天井の一点を見つめたりしながら、身動きを忘れて重苦しい沈黙を保っているのでありました。
「待遇を今年の春闘前に戻す、と云う事ですかね?」
 袁満さんが警戒心を露わにしながら先ず言葉を発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 596 [あなたのとりこ 20 創作]

「そうして貰わなければ会社の存続が危うくなると云うのは、この報告書の数字から明白だろうね。この危機はかなり差し迫ったものと云うしかない」
 社長は眉間に皺を寄せて、さも深刻そうに囁くのでありました。
「何だか会社存続の危機を云い募る事で、要は従業員の賃金や待遇を落とそうと云う策謀と考えられなくもないわね、その芝居じみた顔や云い方を聞いていると」
 ここで那間裕子女史が喋り出すのでありました。「この会計報告書にしたって、春闘の時には出してこないで、如何にも急拵えにこの局面で出してくると云うのも、何だか社長の秘かな策略を疑わせるに十分、と云わざるを得ないのじゃないかしら」
「何て事を云うんだ那間君は!」
 ま、お決まりにここで土師尾常務が大変な剣幕で出張ってくるのでありまいた。「社長は真摯に会社の危機を訴えていると云うのに、そのふざけた云い草は何だ!」
「社長は春闘の時に散々組合に遣り込められた意趣返しに、売り上げの低迷をちゃっかり利用して、春闘での決定事項をここで反故にして遣ろうとしていると推理するのは、強ち不自然でもないし、そうやって土師尾さんが一々過敏に目くじらを立てるのも、その秘かな目論見の発覚を恐れての事だと疑う事も出来るんだけど、どうかしら?」
「何なんだその云いがかりは!」
 土師尾常務が一気にヒートアップするのでありました。「云うに事欠いて、那間君は何て下らない聞き捨てならない悪態をついているんだ!」
「まあ土師尾君、ここは冷静に」
 社長がまた掌を下にしてそれを腕ごと何度か土師尾常務の胸の前で縦に振って、宥めにかかるのでありました。「私はあくまでも道理を尽くして、率直に会社の現状を説明しているんだから、そうやって一々興奮して横から大声を出されると困るよ」
 社長にそう窘められて土師尾常務は一応は口を閉じるのでありましたが、未だ昂奮抑え難いように、肩を上下しながら荒い息遣いを見せているのでありました。
「しかし社長、そうはおっしゃいますけど、出し抜けに一方的にこんな報告書なんかをここで持ち出してきて、かくかく然々なんて一方的に云い募られても、こちらとしては成程左様でございますかと、俄かには首肯出来るものじゃない、と云うのも道理でしょう」
 均目さんが荒い息遣いの土師尾常務には態と目もくれないで、やや下から、社長一人の顔を凄みを利かせてゆっくりと睨め上げるのでありました。社長はいざ知らないけれど、頑治さんはそんな均目さんの目付きに対して然程の迫力は感じないのでありました。
「しかし、この報告書は掛け値なしの真実の報告書なんだし、この数字がどうしても信用ならないと云うのなら、近い内にこれを作成して貰った会計事務所の公認会計士さんを呼んで、説明をそちらからして貰っても構わないよ」
 社長は睨め上げる均目さんをちょっと見苦しそうな薄目をして見下ろしながら、努めて冷静な語調で返すのでありました。
「是非そうしていただきたいですね。しかし社長と会計士さんが結託して、適当に丸め込まれるのも癪だから、その時にこちらも専門の人を呼んでも構わないですよね?」
(続)
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あなたのとりこ 597 [あなたのとりこ 20 創作]

「専門の人、と云うのはどう云う人の事かな?」
 社長は少しの警戒心を見せるのでありました。
「お察しのお通り組合の上部団体である全総連の、経理の専門家ですよ」
「労働組合にそんな専門家がいるのかね?」
「そりゃいますよ、勿論。これ迄に色んな企業であった経営側の色んな悪巧みをあれこれ熟知していて、その対抗策をサポートしてくれたり、態と判りにくく書かれた会計資料なんかをちゃんと読み解くのを専門にする、全総連専従の職員ですよ」
 均目さんのその説明を聞いて社長は既にもう自分の邪な謀を暴かれて仕舞ったような、慎に嫌そうな表情をするのでありました。
「あくまで社内会議の体裁なんだから、社外の人が参加するのはどうかと思うけど」
「だって社長の方も、ウチの社の人ではない会計事務所の会計士さんを呼んで説明して貰おうと云うんですから、その論法は通用しませんよ」
 均目さんはそんな云い草は端から相手にしない、と云うような、社長に対するものとしては慎に不謹慎な不敵な笑みを浮かべてゆっくり首を横に振るのでありました。
「いやそれは、私や土師尾君が説明するより信憑性が増すだろうとの配慮から、敢えてそうしようかと提案した迄だよ、つまり。ま、私や土師尾君は君達にあんまり信用がなさそうだからね。勿論会計士さんの説明は必要がないなら、それでも別に構わないし」
 社長はそう云って皮肉な笑いを頬に刻むのでありました。
「じゃあ、その社長の押す会計事務所の会計士さんの説明の時に、こちらが押す全総連の人も同席する、と云うのはどうですか? その方が手っ取り早いと思いますけど」
「いや、外部の組合の人が来るのなら、会計士さんの説明の話しは無しだね」
 社長は自分の方から云い出した提案をつれなく取り下げるのでありました。
「その会計士さんでは組合運動の手練れに、太刀打ち出来そうにないからかしら」
 那間裕子女史がここで挑発的なちょっかいを出してくるのでありました。
「部外者の会計士さんを団体交渉みたいなものに、態々同席させる必要はないと云っているんだよ。会計士さんにしたって迷惑千万な事だろうし」
「でも組合の団体交渉ではなく、あくまでも全体会議の体裁だし」
 袁満さんも那間裕子女史に次いで参戦するのでありました。
「労働組合の人が同席するなら、それはもう全体会議じゃない」
「あくまでもオブザーバー参加ですよ、その会計士さんにしても同様でしょう?」
「外部の労働組合の人が参加すれば、それはもう全体会議とは云えない」
「だからあたしは、社内の全体会議と云う形じゃなくて、労働組合事案として団体交渉と云う形式の方がベターだと云っていたのよ」
 那間裕子女史がそう云って、社長の口車に乗ってこの会議を全体会議と云う形にミスリードした犯人たる均目さんをジロと睨むのでありました。均目さんはその那間裕子女史の視線に気付いたのか気付いていないのか、女史の方に目を向ける事はなく、腕組みして如何にも難しそうな顔をして口を尖らせているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 598 [あなたのとりこ 20 創作]

 この会議に於いて均目さんと那間裕子女史は、連携を取って言葉を社長と土師尾常務に投げかけているようでもあると、頑治さんはうっすら思ったりしていたのでありました。と云う事は、頑治さんのアパートに泥酔した那間裕子女史が表れて、それを均目さんが介抱しながら引き取っていったあの一件後、その経緯はさっぱり判らないながらも一応目出度くも仲直りをした、と云う事になるのでありましょうか。で、ちゃんと仲直りして一件落着の後に、この全体会議に二人して臨んでいると云う事になるのでありましょうか。
 しかし今の那間裕子女史の均目さんを見る目とその恨み言から察すると、未だ二人の間の蟠りはちっとも解けてはいないようにも見えるのであります。あの一件後にこの二人はどう云う風に互いの気持ちを整理整頓したのでありましょう。ま、今の全体会議の話しの流れとは全く無関係ながら、頑治さんをそんな事を秘かに考えているのでありました。

 社長はソファーの背凭れにふんぞり返るように身をあずけて、均目さんの顔を忌々しそうな目をして睨むのでありました。
「均目君は元々、組合と我々の団体交渉と云う形ではなく、社内の全体会議と云う形に賛成だった筈じゃなかったかね?」
「まあそうでしたけど、社長が外部の経理の専門家を呼んできて、その人に我々の説得を依頼すると云うんですから、そうなると話しは違ってきますよ。我々としても一方的に社長の側に立った計理士さんに縷々説得されると云う構図は、これは如何にも拙いから、こちら側も経理の専門家を呼んできて、同等の立場で対抗するしかないじゃないですか」
「いや、どうしても経理士さんを呼ぶと云っているんじゃないよ。君達が私や土師尾君の説明ではすんなり納得出来ないと云う事らしいから、それなら、と云う事だよ。別に私や土師尾君の説明で構わないのなら、計理士さんの手を態々煩わせる必要はないよ」
 社長は別に懇意の計理士に従業員に説明と説得を依頼すると云う事に、殊更拘っていると云う事ではないのでありました。まあ、会話の流れから、そう提案をした迄で、特に予めそのように図っていたのではないのは頑治さんも得心するところでありましたか。
「じゃあ、まあ、経理士さんを呼ぶとか呼ばないとかはこの際置いて、話しを前に進めましょう。つまり社長と土師尾常務はこの会計報告を出す事に依って、その次に用意してあるであろう忌憚のない具体的な解決策を、曖昧にしないで、それにあんまり粉飾したり、脅かし効果を秘かに狙ったりしないで、率直に明快に話していただきましょうか」
 均目さんが社長の顔を見ながら仕切り直しの心算でそう云うのでありました。
「まあ、はっきり云えば、君達の待遇を見直したいと云う事だ。他の会社や他の組合との釣り合いと云う観点ではなく、我が社の身の丈と現状に合った待遇に改めないと、もうどう仕様もないところに来ていると云う危機感を、君達にもちゃんと持ってもらいたいと云う事だよ。はっきり云ってそうしないと、君たちは失業の憂き目を見る事になる」
 社長はこの科白が、均目さんに脅しの効果を狙ったけしからぬものと受け取られないように、何となく深刻らしさと懇願の調子を語句の端々に散りばめるのでありました。
「失業の憂き目、ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 599 [あなたのとりこ 20 創作]

 均目さんがその言葉に拘りを見せるのでありました。
「いや、脅しと取られたら不本意だが、しかしその収支報告書の数字を見れば、私の云っている事が冗談や下らない謀ではない事はちゃんと判るだろう?」
「そう云われるとまたこの報告書が、ちゃんと信用出来るものか出来ないものかの話しに戻って仕舞いますが、ま、それは一先ず置いておくとして」
 均目さんは皮肉な笑いを片頬に浮かべるのでありました。「話しを続けると、若しも我々従業員が待遇の見直しに応じない場合は、次にどう云う手を考えている訳ですかね?」
「そうなれば、こちらとしても避けたいところだが、人員整理、しかないだろうね」
「よく云うわ!」
 那間裕子女史が吐き捨てるのでありました。「先ず唐目君、その次にあたしを土師尾さんを遣って馘首しようと策謀していたくせに、何が次の手が、人員整理、なのよ。先ず人員整理があって、それがダメなら待遇の改悪、と云う肚でいたんでしょう。順番がまるで逆じゃない。社長が態とそんな誤魔化しを今更使うのなら、誠意を疑うわ」
「そのどちらが先か後かなんかは、大した問題ではないだろう」
 また土師尾常務がしゃしゃり出てくるのでありました。
「人員整理と云う方法が先か、それとも待遇改悪と云う方法が先かでは、少しそちらの誠実さのところに違いがあるような気がしますけどねえ」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「ほう、どんな違いか、説明してくれるか?」
 土師尾常務は袁満さんを睨むのでありました。
「いや、言葉では上手く説明出来ないけど。・・・」
 袁満さんは土師尾常務の迫力に圧された訳ではないでありましょうが、腕組みしながら少し俯いて語勢を後退させるのでありました。
「まあいいや」
 均目さんが社長の方を向いて仕切り直すのでありました。「どちらが先でどちらが後かは知らないけれど、結局どちらか一方ではなく人員整理して後に待遇改悪も、待遇改悪して後に人員整理もと両方込みで策謀していたんでしょうからね」
 均目さんはそう云って自得するように一つ頷いて、また続けるのでありました。「結局じゃあ、人員整理、と云うのは、具体的には一体誰を整理する心算なんですか?」
 均目さんのやけに率直な問いかけに対して、社長はおどおどと目の玉を揺動させるのでありました。社長だけではなく土師尾常務も、この人の狼狽えた時のお決まりで、そわそわと落ち着き無く眼鏡の奥の目を微動させるのでありました。
「まあ、特定して名前を上げるのは気が進まないが、・・・」
 社長がそんなたじろぎを見せると、ここは仕方が無いながら社長への忠義の見せどころと覚悟してか、土師尾常務が珍しく気丈にも目の微動を収めるのでありました。
「それは僕の方から云わせて貰う」
 この場の皆の目がそう云った土師尾常務の顔に向けられるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 600 [あなたのとりこ 20 創作]

「まあ、そんなに凄まなくても、二人の候補の名前はもう知れていますけどね」
 均目さんも負けていないところを見せるために、眼容に精一杯の迫力と大袈裟な対抗心を込めて土師尾常務を見据えるのでありました。
「先ず唐目君で、その次があたしね」
 那間裕子女史が土師尾常務を喧嘩腰の目で見据えるのでありました。
「その通り」
 土師尾常務は何故かここで力強く頷いて見せるのでありました。「その心算で僕は半ば公然と動いていたので、別に誤魔化す必要もない」
「何だか開き直っているようですね」
 均目さんが皮肉っぽく笑うのでありました。
「開き直る必要すら、別にない。こんな窮状にある会社にとって、社業に不可欠ではない人から切るのは、それは経営として当然の判断だろう」
 この言に依ると頑治さんは会社で最も無用な人物として経営側から見られていると云う事のようであります。まあ確かに、頑治さんが今遣っている業務仕事は、云わば誰でも熟せるような単純労働で、高度の習熟度も専門性も必要のないものではありますか。
「唐目君は会社に必要ではない人だと云うのね」
 那間裕子女史が歯を剥き出すのでありました。「それに唐目君の次ぎには、このあたしが社員の中での厄介者と云う事ね」
「はっきり云えば、そう云う事だ」
 土師尾常務は如何にも遣りにくそうにではあるものの、この時は那間裕子女史から視線を外さないで、目玉の微動も極力抑えながら断言するのでありました。
「唐目君の真価を、それに那間さんの真価も、常務はまるで判っていないようですね」
 袁満さんが抗弁を開始するのでありました。「唐目君は前に片久那制作部長から大いに評価されていて、恐らく片久那制作部長は唐目君を将来、制作部の中心人物に育てようと云う気でいたんだと思いますよ。だから業務仕事の合間に、と云うか業務仕事は俺や出雲君が出張に行っていない時にはこちらに割り振って、制作部の手伝いとか自分の助手みたいな仕事をさせていたんですよ。それは常務も判っていたでしょう?」
「まあ、ぼんやりとは、判っていたよ。社内の規律上、苦々しくは思っていたけど」
 土師尾常務は顔を顰めて見せるのでありました。
「その時には片久那制作部長のそう云う遣り方に何の口出しも出来なかったくせに、今になって唐目君を余計者みたいに云うのは、一体どう云う了見からですか」
「別に口出し出来なかった訳じゃなくて、時期を見てきちんと云う心算だったんだ」
「そうかしら、今頃つべこべ言い訳しているけど、要するに片久那さんが畏れ多過ぎて、萎縮してとても云い出せなかったんじゃないの?」
 那間裕子女史が可愛気の欠片もなく嘲笑うかのように鼻を鳴らすのでありました。
「無礼な!」
 土師尾常務は全くお決まりにここで逆上するのでありました。
(続)
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