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もうじやのたわむれ 9 創作 ブログトップ

もうじやのたわむれ 241 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 発羅津玄喜氏がそう話しを広げるのでありました。それは先に審問官か記録官から聞いた無頼派とは違う連中なのでありましょうか。前に聞いた話しでは、蘇った娑婆時代の記憶と、現在のこちらの世に生まれ変わった自分との二律背反の、実際は成立するはずのない苦悩を、全く技巧的に描いた一連の作家連中の事を無頼派と呼ぶと云う事でありましたが。・・・まあしかし兎も角、その拙生の疑問はこの際どうでも良いとして。
「まあ要するに、何となく昔の文学青年みたいな男が好きなのかなと訊こうとしたのです」
 拙生は楚々野淑美さんに云うのでありました。
「いえ、あたしはあんまり心の複雑な方は好みません」
「じゃあ、考えるよりも行動が先に立つタイプがお好きなのでしょうかな?」
「そう云う方もちょっと一緒に居て疲れそうで、どちらかと云うと苦手です」
「先の文学青年みたいじゃないけれど、無口でクールなタイプの男でしょうかな?」
「冷たい印象の方はダメですね」
「何時もニコニコしていて無愛想ではなくて、それでいて物静かで、しかも不健康なイメージのない、腕っ節はそれ程強くなくても良い男?」
「あたしはお喋りが得意じゃないから、あんまり物静かと云うのも、・・・」
 楚々野淑美さんの好みの男のタイプは、なかなかイメージするのが難しいようであります。しかし拙生はふと、こう云う、こちらが提示する男の類型に対して、総てに満足しないような解答をする女性の現在心理に思い至るのでありました。いや、思い至るとは云っても、本当にそれが当っているのかどうかは自信ないのでありましたが。
「ひょっとして、今現在、思いを寄せている特定の方が実際におられるのですかな?」
 拙生が云うと楚々野淑美さんのそれまで拙生の顔を見ていた目が、ほんの少したじろぐように動揺して一瞬逸れるのでありました。「その実在のお方のお姿が、実在の方である以上色んな面を持っておられて、私が先程から提示している一個の典型には当然綺麗に当て嵌まらないものだから、そう云う風に明確な肯定が出来ないでいると云う事でしょうか?」
「おじさま、鋭い!」
 藍教亜留代さんが大袈裟にパチンと指を鳴らして、その後拙生を指差すのでありました。「淑美は今、ある鬼に夢中なの。目下のところその鬼以外目に入らないのよ」
「ああ矢張りそうなんだ」
 拙生は目を細めて改めて楚々野淑美さんの顔を見遣るのでありました。淑美さんはその拙生の視線をおどおどと避けて、横を向くのでありました。
「流石に、観察眼がお年寄りだけの事はあるわね。亀の甲より歳の功、ね」
 藍教亜留代さんが聞き様に依っては拙生に対して失礼千万な言葉を、あっけらかんとした口調で口走るものだから、拙生は思わず苦笑するのでありました。
「何、誰なの、その鬼って?」
 今まで黙っていた志柔エミさんが身を乗り出すのでありました。
「もういいわよその事は」
 楚々野淑美さんが些かげんなりしたように、億劫そうに掌を横にふるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 242 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「あたしも知ってる鬼?」
 志柔エミさんが楚々野淑美さんの解答拒否を無視して尚も身を乗り出すのでありました。
「エミは知らないと思うよ」
 藍教亜留代さんが淑美さんの代わりに応えるのでありました。
「同僚の人、会社の?」
「そうじゃなくて、高校生の頃の同級生」
 これも藍教亜留代さんの代言であります。
「ふうん、そうなんだ。ちっとも知らなかった」
 エミさんが何度か頷きながら、乗り出していた身を椅子の背凭れに引くのでありました。
「そんじゃあ淑美さん、その鬼の事を思いながら、一曲どうぞ」
 発羅津玄喜氏がそう云いながら歌詞集を淑美さんに渡すのでありました。楚々野淑美さんはそれを、思わず弾みで、と云った感じで受と取って仕舞うのでありました。
「あたし歌が下手だからなあ」
 淑美さんはそう云いながらも、膝の上に置いた歌詞集を捲るのでありました。その俯いた横顔の輪郭や、歌詞集の頁上を流す目の動きや、それに前に落ちかかる髪の毛をこめかみ辺りで指で止めている仕草なんぞが、すぐ横で見ていて妙に色っぽいのでありました。こんな婀娜な女性は、娑婆でもあまりお目にかかった事がないと拙生は思うのでありました。自分が亡者である事も忘れて、この女性から電話番号を聞き出すのに何か上手い秘策はないであろうか等と、拙生は実に不謹慎にも思わず考えを廻らしているのでありました。
 しかし淑美さんには思いを寄せる男性が既にいると云う事でありますから、これは徒な了見と云う事になります。実に以って残念至極であります。
 まあ尤も、徒な、と云う事で云えば、自分がこちらに未だ生まれ変わっていない亡者である事が、正に絶望的に決定的に徒ではありますか。しかしまあ、拙生が亡者ではなくて既にこちらに生まれ変わった霊であったとしても、淑美さんとはあまりに歳が離れ過ぎているので、この拙生のスケベ根性が成就する確率はかなり低いと云うものであります。拙生はそんな事をあれこれ考えながら、淑美さんの横顔に見蕩れているのでありました。
「あれ、おじさまが淑美に見蕩れている」
 拙生のスケベ根性を、迂闊にも藍教亜留代さんに見透かされるのでありました。
「いや、これはどうも、面目ない」
 拙生は慌てて淑美さんの横顔から目を離して、改めて拙生を正面から見る淑美さんに、愛想笑いながら頭を掻いて見せるのでありました。「娑婆でも、こんなに綺麗な人は見た事がなかった、なあんと思いましてね、竟々うっとりして仕舞ったのです」
 拙生がそう云うと、淑美さんが恥ずかしそうに拙生から目を逸らすのでありました。特段、天敵を見るような険しさがその表情に出ていないところを見ると、案外これは、少しは目があるのではないか等と、拙生は未だ性懲りもなく考えて仕舞うのでありました。
「ところで、今ちょっと思ったのですが、こちらでは鬼と霊の結婚は可能なのでしょうか?」
 拙生は体裁をとりつくろう意味もあって、そんな事を逸茂厳記氏に訊くのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 243 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「ええ、全く問題ありません」
 逸茂厳記氏が返答するのでありました。「鬼も遡って元を正せばあちらの世にいた人間の生まれ変わりですから、根っ子は一般の霊と同じです。只、我々代々の鬼の子孫はあちらの方の生まれ変わりではなくて、こちらの鬼と鬼の間に生まれた純生物学的存在と云う事で、云ってみれば娑婆での一生を経験していないと云うだけです。他には、角があるとか」
「では、鬼と霊が目出度く結婚したとして、その間に生まれてくる赤ちゃんは霊になるのですか、それとも鬼になるのですか?」
「霊です」
 逸茂厳記氏は即答するのでありました。
「向うの世にいた誰かの生まれ変わりが、生まれてくるのですね?」
「そう云う事になります」
「鬼は、鬼と鬼の間にしか生まれてこないわけだ」
「そうです。優性の法則、です」
「メンデルの?」
「いや、それは娑婆での法則でして、こちらで云う、優勢の法則、とは少し違います」
「娑婆のメンデルの法則をご存知なのですか?」
 拙生は少し驚いたような口調で訊くのでありました。
「一応高校生の時に学校の生物の時間にちょろっと習いました」
「メンデルの法則では確か、雑種の第一代では優性形質が現れて、分離の法則とか独立の法則とか、何となく小難しい理屈から、第二代以降は優性も劣性も生まれ得ると云う事だったと思うのですが、そうなると孫とかその辺の世代で鬼が生まれる事もあるのでは?」
「いや、雑種から鬼は絶対に生まれてきません。生まれてくるのは霊だけです。そこいら辺がメンデルの法則とは違うところです。こちらでは娑婆のメンデルの法則は当て嵌まりません。それとは無関係の、優性の法則、と云う名前の法則だけが存在しているのです」
 逸茂厳記氏はそう云って何故か拙生にお辞儀をするのでありました。
「鬼と鬼の間でしか鬼は生まれてこないし、霊の遺伝子が入りこむと鬼の遺伝子はその時点で消去されると云うわけですね?」
「実際はもうちょっと複雑な事情が絡むのですが、ま、そう云う感じの理解で結構です」
 逸茂厳記氏がもう一度お辞儀をするのでありました。「考えても見てください、鬼が生まれる確率が増えて仕舞えば、向うの世から来た亡者の皆さんの、こちらの世に生まれ変わるチャンスがそれだけ減るじゃないですか。そんな事では向うの世とこちらの世の連関を阻害する事になります。だから云ってみればそれは、こちらの世の節理と云うものです」
「節理、ですか。・・・」
 拙生は最初頷いてから、その後ちょいと首を傾げても見せるのでありました。
「あのう、・・・」
 横の楚々野淑美さんが拙生と逸茂厳記氏との会話に、遠慮がちな声で割って入ってくるのでありました。「あたしこれから歌を歌っても良いのでしょうか?」
(続)
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もうじやのたわむれ 244 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「おっと、これは失礼をいたしました」
 拙生はうっかりしたと云った感じで謝るのでありました。
「では歌います」
 楚々野淑美さんがそう云って歌った歌は、矢張り拙生には全く馴染みのない曲でありました。しかし何となく昔娑婆で流行った、荒井由実とかハイファイセットとかのニューミュージック系の歌に似ていて、それは如何にも若い女性が好みそうな曲調のもののように思えるのでありました。歌が終わると拙生はパチパチと拍手をするのでありました。
「恐れ入ります」
 楚々野淑美さんはそう云いながらお辞儀をして恥ずかしそうに笑って、可憐な仕草でマイクをテーブルの上に置くのでありました。
「なかなかどうして、上手いじゃないですか、歌が」
 拙生はべんちゃらを云うのでありました。
「いえとんでもない。あたしなんか」
 楚々野淑美さんが照れるのでありました。
「貴方の彼氏は高校の同級生だと云う事ですが、その頃からお二人で街のカラオケボックスなんかでデートをされていて、その美しい歌声を彼氏に聞かせていたのでしょうかな?」
「いえ、高校ではカラオケボックスに生徒だけで行くのは禁止されていましたから」
「え、そうだったの? あたしんところはそんな校則なんかなかったわよ」
 藍教亜留代さんが拙生と淑美さんの会話に割りこむのでありました。「淑美の行っていた高校は私立のお堅い学校だったから、色々校則が厳しかったんだ」
「お堅いかどうかは判らないけど、でも確かに色々煩い校則が多かったわね。廊下で先生とすれ違う時はちゃんと立ち止まってお辞儀をしろとか、制服の胸ポケットに何時も白いハンカチを少し覗かしていろとか、学生カバンに装飾品は一切つけるなとか」
「あたしんところは、廊下は走るな、くらいかな。まあ、走ってたけどさ」
「俺の通っていた学校、靴下は毎日換えろ、なんてお節介なのがあったな」
 発羅津玄喜氏が言葉を挟むのでありました。
「じゃあ、何処でデートしてたの?」
 志柔エミさんが発羅津玄喜氏の発言を無視して、淑美さんに訊くのでありました。
「高校生の頃は別につきあっていたわけじゃなかったから」
「何々、じゃあどうしてつきあうようになったの?」
「卒業してその年のクリスマスの日に、邪馬台銀座商店街の本屋さんで偶然逢ったのよ」
「へえ、そうなんだ。それで声をかけられて、何故か急に盛り上がった、みたいな?」
「ま、そんなとこかな」
 淑美さんがはにかみながら頷くのでありました。
「あ、おじ様が悔しそうな顔してる」
 藍教亜留代さんが拙生の方をまたもや指差して指摘するのでありました。拙生はたじろいで、おどおどと淑美さんから視線を外すのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 245 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「いや私は別に悔しくなんぞはありませんよ」
 拙生はそう云って小さな咳払いを一つするのでありました。
「ダメよおじさま、亡者のくせに鬼にちょっかいを出そうとしても。しかももう、彼氏のいる鬼になんか絶対にダメ。そんなの有り得ないんだからね」
「重々承知しております。こう見えても私は弁えのある亡者でして」
「本当? ならいいけどさ」
「いやね、この淑美さんが私の好みにピッタリな方でして、それで竟々、淑美さんの彼氏に少しの嫉妬を覚えたのは、まあ、事実です。しかし私は明日閻魔大王官の二回目の審理を終えると、もう亡者ではなくなって、こちらに霊として生まれ変わる事になっているようですから、今日淑美さんに惚れても、それは儚い思いだと云う事になります。霊として生まれ変わった後は、閻魔庁でのあれこれは記憶として蘇らないと云う事でもありますし」
「でも今日の内に淑美をなんとかしよう、なんて考えてるって事もあるかも」
 藍教亜留代さんが未だ疑わしげな上目で拙生を見るのでありました。
「いやいや、そんな無粋な事はしませんし、そんな元気も勇気も今の私にはありませんよ」
「因みに、これは敢えて云う必要もない事かも知れませんが一応申しておけば、亡者様の身体には性的機能は備わっておりません」
 今まで黙っていた逸茂厳記氏が、唐突に拙生にそんな事を云うのでありました。
「ああそうですか。一応承っておきますよ」
 拙生は如何にも思いもよらない、全く不必要な助言であると云う調子で、苦笑して見せるのでありました。特段の悪心は一切、誓って抱いてはいないのでありましたが、しかし実は内心、まあ一般的な意味で、残念なような寂しいような気も多少しない事もないのでありました。ふと拙生の頭の中に、今はもう小便だけの道具哉、なんと云う娑婆時代に寄席で聞いた老人臭い川柳がぼんやり現れるのでありました。いやしかしところで改めて考えてみると、亡者となって以来、拙生はその小便すらもした記憶がないのでありました。
 拙生がこれまでさんざん飲み食いした物は、それが物質である以上、雲消霧散して仕舞う事はなく、結果的に何か他のもの、つまり尾籠な話ながら、小便や大便等に一般的には変換されなければならない筈であります。若し大小便に変換されないとしても何か別の物、或いは其の儘の状態で、こちらの世に霊として生まれ変わるまでの亡者としての仮の姿ではあるにしろ、必ず我がこの体内に残存している筈であります。何時までも際限なくこの有限な体内にそれを多量に溜めこんでいるなんと云う事は、実態として出来ない相談でありましょうから、それは適当な時期に必ず体外に排出されなければならない筈であります。
 この辺の仕組みは、一体どう云う按配になっているのでありましょうや。この点も亡者には物質代謝が必要ないと云う事に関連した疑問として、閻魔大王官に質さなければならない事のようでありますが、何やらこれまでに色々な疑問が湧き出てきたのでありますが、宿泊施設に帰ったら、箇条書きにでもして整理してみなくてはならないでありましょう。
「もうお一つ、如何でしょう?」
 楚々野淑美さんが拙生の顔の前に、日本酒の徳利をささげてみせるにでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 246 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「ああこれはどうも」
 拙生は自分の猪口に残っていた中の日本酒を空けてから、その前に差し出すのでありました。何となく淑美さんにお酌して貰うのが気恥ずかしくて、猪口を支える人差し指と親指の、両指の力のバランスが取れないような感じがするのでありました。
「つかぬ事を唐突にお伺いするようですが、向うに残しておいでになった奥様は、あたしと似た方でしたのでしょうか?」
 淑美さんが酒を注ぎながら拙生に訊くのでありました。
「いや、全然似ていませんでしたね」
「どのような方だったのでしょう?」
「貴方のように長身でもありませんでしたし、どちらかと云うとチビな方で、髪も短かったし指も貴方のように長くはなかったですね。目は大きくて口はまあ小さい方でしたが、しかしその口てえものがですね、一旦開くと、これが矢鱈に煩いのなんの。止め処なく私にケチをつける厄介この上もない口でした。今思い出しただけでももげんなりしてきます」
「そうすると見た感じは、可愛らしいタイプの方だったのでしょうか?」
「ええまあ、知りあった初めの頃はね。しかしそれは世を忍ぶ仮の姿だったようで、結婚した途端に、見事に正体を表しました」
 拙生は軽く身震いをして見せるのでありました。
「例えばどんな事に口煩かったのでしょう?」
「万事に、です。私のやる事為す事総てが一々気に入らないのでしょうね。ま、云われている内に総て向うに理があるような気もしてくるのですが、それがまたこちらとしては余計癪に障るわけです。いつかギャフンと云わせてやりたいものだと狙っていたのですが、その念願を竟に果たさずに、私は娑婆にお娑婆ら、いやおさらばして仕舞ったのです」
「でも、こちらにいらっしゃるまで、向うではずっと夫婦でいらしたのでしょう?」
「ええまあ、不覚にも、と云うべきか、確かにそうでしたがね」
「そんな風に大袈裟に恐妻家を気取る方に限って、実は愛妻家だと云う事もありますし」
 淑美さんが拙生の心根を見透かしたような顔をして云うのでありました。
「いや、私に限っては、これは韜晦の言葉等ではありません」
「要するに奥様は、しっかり者だった、と云う事ですよね、屹度?」
「世間ではそう云う風に云われたり見られたりしていたわけですが、私としてはそれだけでは何かしっくりいかなくて、最重要なカカアの本性の一つを見逃しているように思えてなりませんでしたな。寡黙なしっかり者、と云うのもあって良い筈ですから」
「でもそんな風に仰っていても、結局向うの世では添い遂げられたわけですから、まあ、ひょっとして確かに、奥様に口煩い面はお有りだったかも知れませんけど、それが決定的な欠点だとは見做されていなかったと云う事でしょう、つまり?」
「うかうかしている内に添い遂げて仕舞ったのですよ!」
 拙生は未だ減らず口をたたいているのでありました。「ま、どなたかに夢中になっている最中の方とこんな事をお喋りするのは、無神経なようで気後れして仕舞いますけど」
(続)
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もうじやのたわむれ 247 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「後学のためにお伺いしております」
 淑美さんがクールにそんな事を云うのでありました。
「後学のため、と云う事は将来その意中の方と結婚を望まれているのでしょうかね?」
「ええ、まあ。・・・」
 淑美さんはそう云ってやや目を伏せるのでありました。その顔がまた何とも色っぽくて、拙生はたじろいで仕舞う程でありました。
「貴方のようなお綺麗な方には、是非とも幸せになって頂きたいものです」
「有難うございます」
 淑美さんは伏せた眼を上げて、やや上目遣いに拙生の顔を見るのでありました。これもまた色っぽい表情なのでありました。いやどうも堪りませんなあ。
「そこの二鬼、じゃなくて一亡者と一鬼、その辺だけで盛り上がってんじゃないの」
 藍教亜留代さんの指摘が、拙生と楚々野淑美さんの間に割って入るのでありました。「おじさま、淑美とお喋りばかりしてないで、何か歌ってよ」
 亜留代さんに催促されて拙生は慌てて、取り繕うように歌詞集を取り上げるのでありました。しかしところで、拙生はここで何を取り繕う必要があるのでありましょうや。
 その後に拙生が歌ったのは、これも娑婆にもあったクレージーキャッツの『ショボクレ人生』と云う曲でありました。もうちょいと淑美さんの気を引くような曲を選びたかったのでありましたが、そうするとその曲に因って拙生の下心を、自分から白状しているような按配になるように考えたものだから、態とそんなふざけた曲を選んだのであります。ま、それは拙生の不必要に体裁を気にした、取り越し苦労でしかないのでありましょうが。
 この後は発羅津玄喜氏と藍教亜留代さんのデュエットとか夫々のソロで、こちらで今流行っていると云う歌、それに逸茂厳記氏の娑婆の演歌調の歌、志柔エミさんのアニメの主題歌やら、拙生の『五万節』とか『これが男の生きる道』なんと云う歌で盛り上がるのでありました。楚々野淑美さんは聴き役に徹していて、自らは歌わないのでありました。拙生は淑美さんの歌声がもう一度聞きたかったものだから、大いに残念な思いがするのでありました。それに淑美さんと差しの話しも何となくそれ以降出来なくて、拙生は少しばかり物足りなくもありましたかな。ま、淑美さんの方はそうでもなかったでありましょうが。
「さて、そろそろお開きにいたしましょうか」
 歌も尽きたところで、拙生が腕時計を見ながら云うのでありました。
「もう宿泊施設の方にお帰りになりますか?」
 逸茂厳記氏が拙生に訊くのでありました。
「ええ、そうしようかと。本来私はこの三日間で、こちらの世の何処に生まれ変わるか思い悩まなければならなかったのですが、すっかり遊び呆けて仕舞いました。これは亡者としての本分を忘れた迂闊で不謹慎な態度みたいで、余りにも無責任かなと今ふとそんな気がしてきたものですから。ま、何処に生まれ変わるかはもう殆ど決めてはいるのですがね」
「このカラオケ宴会がつまらなかったのでしょうかね?」
「いやとんでもない。大いに面白かったですよ」
(続)
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もうじやのたわむれ 248 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生は両掌を横にふるのでありました。「こちらの世に生きる一般の女性の鬼さん達と一緒に過ごせて、大変味わい深い体験をさせていただきました」
「娑婆時代のタイプの女性と、期せずしてこちらで巡り逢えてよかったわね、おじさま」
 藍教亜留代さんがそんなからかうような事を云って、ニヤニヤと笑うのでありました。
「へい、お蔭さまで」
 拙生はそう云って楚々野淑美さんを見るのでありました。淑美さんは照れたように微笑んで、拙生の目から視線を外すのでありました。
 カラオケボックスの中に女性三鬼を残して、拙生と逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏は店の外に出るのでありました。外はもうすっかり夜更けているのでありました。
 カラオケ店の駐車場車からは、ほんの数分程度で閻魔庁の宿泊施設に到着するのでありました。我々は出発した時と逆コースで、職員専用の出入口から宿泊施設に入り、職員専用のエレベーターでホールまで向かうのでありました。
「私をホールまで無事に送り届けたら、それでお二人の、いやお二鬼の三日間宿直の護衛の仕事はお仕舞いという事になるのですかな?」
 拙生はエレベーターの中で逸茂厳記氏に訊くのでありました。
「ええ、一応報告書を書く事になっておりますがそれは明日の昼までに、かかった寄席の入場料やらの経費出金伝票なんかと一緒に、賀亜土係長に提出すればそれで良いのです。若し今日の夜、亡者様が外出される場合は、別の警護係りの鬼が護衛いたします」
「退社後はお二鬼で酒の飲み直しと云うわけですかな?」
「実は先程の彼女達に、あのカラオケ店で待って貰っているんです。我々二鬼はこの後また舞い戻って、再度カラオケで盛り上がる所存です」
 これは発羅津玄喜氏が云う言葉でありました。
「ああそうですか。それは知らなかった」
 何時の間にそんな話が纏まっていたのでありましょうか。
「逸茂さんも一緒に舞い戻るので?」
「ええ、まあ」
 逸茂厳記氏はあんまり意欲的でない、と云った按配の返答をするのでありました。
「若し億劫でなかったら、亡者様もご一緒されても構いませんよ。これから先は仕事外になりますが、ちゃんと責任を持って我々でタクシーでここまでお送りしますし」
 発羅津玄喜氏が愛想良く拙生を誘ってくれるのでありました。
「いや、止しておきましょう。これから先はお二鬼のプライベートの時間でしょうから」
「我々は全く構いませんよ」
「いやそれでも止しておきましょう。お若い鬼さん達で気兼ねなく盛り上がってください」
 拙生は遠慮するのでありました。「この三日間、本当に有難うございました」
「ああそうですか。私等は本当に構わないのですが。・・・」
 楚々野淑美さんともう一度話しがしてみたいとは思うのでありましたが、拙生はこれから亡者の本分に立ち返って、明日の審理に備えて思い悩む事にするのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 249 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 部屋に戻ると拙生は上着を脱いでポケットに入れていた一切を取り出して、ドレッサーの上に置くのでありました。それから腕時計を見て、昨日、億劫ガスのせいかどうか知らないけれど、眠たくなった時間まで未だ二時間ばかりある事を確認するのでありました。
 拙生は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ドレッサーの上に置いた可愛いイラストの描いてあるメモ帳と、ボールペンをピックアップしてソファに腰かけるのでありました。これから、明日の審理で閻魔大王官に質問するつもりの、この三日間で拙生が疑問に思ったこちらの世のあれこれの事を、箇条書きに整理してみようと云う了見であります。
 缶ビールを開けて一口それを口に含んでから、拙生は最初の、審理を終えて補佐官筆頭にこの宿泊施設のロビーに案内された辺りから、ぼつぼつと記憶を蘇らせるのでありました。宿泊施設のロビーでは補佐官筆頭にチェックインを代行して貰って、その後確か、合気道の達人の鵜方三四郎さんと云う亡者に声をかけられたのでありました。
 娑婆にあったカトレアと云う喫茶店に噴水があったのなかったの、と云う話しが取りかかりで、その後拙生が散歩に誘ったのでありましたか。その辺りでは特段、閻魔大王官に訊き質すべき疑問はなかったでありましょうかな。その後、フロントの女性従業員の勧めで、散歩に出る前にコンシェルジュに色々アドバイスを貰ったのでありました。
 それから散歩に出発して、邪馬台銀座商店街をぶらついて、喫茶店に入って、・・・。と、ここまでを思い出してみても、なかなか閻魔大王官に質すべき質問が頭の中に浮き上がってこないのでありました。疑問に思った事が多々あった筈でありましたが、こうして順次に場面をなぞってみても、拙生の迂闊さ故か容易には思い出せないものであります。拙生はビールを一口飲んで、ボールペンで頭を掻きながら溜息をつくのでありました。
 すると頭皮の刺激が功を奏したのか、疑問の一つが唐突に拙生の頭蓋の内側にふわりと姿を表すのでありました。それはもう準娑婆省の諜報員らしきに因る我々の誘拐騒ぎも落着して、事情聴取も済んで警察署からこの宿泊施設まで警護員に送って貰った後、ロビーの噴水近くのソファに座って、鵜方氏とこれでお別れするのが名残惜しいものだから、コーヒーを飲みながらまた色々、先程の誘拐騒ぎの事等雑談していた時でありましたか。
 その疑問と云うのは、亡者は誘拐される危険があるが、邪馬台郡の住霊に生まれ変わって仕舞えば、そう云う危険はなくなるだろうからと云った鵜方氏が、その続きの言葉を途中で止めて「いや、しかし考えてみたら、住霊も拉致されるなんと云う可能性はないのでしょうかね?」なんぞと、急にその点を思いついたように呟いた疑問でありました。そうなると住霊に生まれ変わった後も、準娑婆省に拉致される危険は残るわけであります。
 しかしコンシェルジュも警察署の刑事も、我々を護送してくれた閻魔庁警護係の賀亜土万蔵係長も、我々亡者に対してはその危険を大いに鳴らして、最大限の警戒を喚起していたものの、住霊に対する誘拐事例については何も言及していなかったように思うのであります。それは亡者の我々には特段云う必要がないから云わないで置いたのか、それとも準娑婆省の諜報員は実際に住霊の方は狙わないのか、その辺が良く判らないわけであります。
 この疑問は鵜方氏も屹度、次の日の二回目の審理で、担当の閻魔大王官に訊ねている筈であります。それを漏れ聞く事は出来ないから、拙生の方も訊き質さなくてはなりません。
(続)
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もうじやのたわむれ 250 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生はメモ帳に、住霊は誘拐されないのか? と先ず書き入れるのでありました。それからええと、・・・。拙生はまたビールを一口飲んでボールペンで頭を掻くのでありました。
 ああそうだそうだ、と拙生はボールペンを握り直すのでありました。次の疑問は我々亡者がこの世に生まれ変わるまでの、この仮の姿についてであります。
 ところでボールペンで頭を掻くと云う刺激は、脳を活性化さて、色々な事を思い出すにはなかなか有効な刺激のようであります。これは向うの世に居る人間様も、我々亡者の仮の姿も同じでありますか。いや尤も拙生は娑婆に在った時は齢を重ねるに従って、幾ら頭を掻き毟ろうが髪の毛を引っ張ってみようが、思い出せないものはちっとも思い出せないで、我が記憶力の衰えにげんなりする事始終でありましたかな。この仮の姿にくっついている今の頭部、娑婆の頃の拙生のモノよりは幾分か性能は良く出来ているようであります。
 それはさて置き疑問の方に話しを戻すと、亡者は食事が不要なくせに食う事は出来ると云うのは、全く不要な機能なのではないのかという疑問であります。確かに腹は特に減らないのであります。まあこの食欲てえものは、強い生存欲求に因ると云うよりは、食えると云うのであれば試しに食ってみようかという、単なる好奇心と云うものに依拠する欲求のように思われるのであります。これは娑婆の名残として、食べると云う無意識の習慣が未だ亡者には濃厚に残存していて、その習慣を宥めるがためだけに、食う気なら食えると云う体の構造になっていると云う事ありましょうか。それに審理期間中の手持無沙汰を慰めると云う配慮から、食事くらいは出来るように身体が造られているのでありましょうか。
 と云う事になると、そう云う風に配慮したのは誰か、と云う疑問も新たに湧き上がってきます。何処の誰が、そのように亡者を在らしめているのか、という事であります。この亡者の仮の姿てえものは、高々数日間の審理期間中のためだけの仮の姿でありますから、進化と云う文脈で我々亡者の体の構造を云々するのは、どこか大袈裟過ぎるしピント外れのようにも思われますから、そうするとこちらには娑婆で云うところの、神様、みたいな超存在が実は居て、我々亡者の体をそう云う風に規定しているのかと云う疑問であります。
 まあこうなると娑婆と同様、夫々個人の、いや個亡者の考え方とか心の在りように因る、なんと云う結論にこちらでも結局なりそうな気もしますが、まあ、疑問としては質してみても良いのではないでしょうか。こちらでも観念論的思考があっても妙ではないのですし。
 それからええと、亡者の体の構造についての疑問の一つとして、食事を必要としない亡者の活動エネルギーは一体何なのか、と云う疑問もありました。娑婆風に考えれば、亡者の活動エネルギーは、怨念とか不満とか憎しみとか云う非身体的なものでありましょうが、亡者の一たる拙生は、そんなもの一向に持ちあわせていないのであります。まあ、亡者が娑婆で活動する場合のエネルギーが怨念とか憎しみとかであって、こちらの世で活動するためのエネルギーとしては、そんな有耶無耶で陰鬱なものでは屹度ないに違いありません。
 亡者は幾ら食っても腹一杯にならないし、幾ら酒を飲んでも酔わないのは何故か、と云う疑問もありました。亡者であってもこうして仮にも、識別のためにしろ個体として存在しているのでありますから、食物の摂取には自ずと限界がありましょうし、酒だって一定限度を超えて仕舞ったら、酩酊と云う現象が体に現れても良さそうではありませんか。
(続)
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もうじやのたわむれ 251 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 まあ、閻魔大王官に依れば、亡者は質量のない幽霊みたいなものだと云う事でありましたから、基本的にはそれで食事とか排泄とかの必要もなければ、満腹もしないし酒にも酔わないし幾ら動いても疲れないと云うのでありますが、そうすると質量のない亡者が質量のある物質を摂取出来る、或いは摂取して問題がないと云うのは、一体どう云う按配の事なのかという疑問もありましたか。摂取した食物は、先の疑問と関連しますがその後一体どうなるのでありましょうか。全く無茶な事を行っているように思えるのでありますが。
 それに、拙生には色んな意味で好都合に出来ているようにも思える亡者の体ではありますが、なのに車には酔うと云うのも、今一つ解せない話しでありませんか。三半規管の弱い亡者、なんと云うのも何やら間抜けな感じであります。まあ、我々亡者のこの仮の姿に、そのような器官があるかどうかは全く知らないのでありますが。
 拙生はメモ帳に箇条書きに、亡者はどうして食事が出来るのか? 亡者は何故酒に酔わないのか? 酒には酔わないのに車にはなんで酔うのか? 亡者の活動エネルギーは何なのか? 体に摂取した質量のある物質は質量のない亡者の体の中でどうなるのか? 亡者と云えども排泄の必要はないのか? 亡者をこのように在らしめている、或いはこちらの世を根本的なところで司っている観念論的超存在は本当に居ないのか? と書きこむのでありました。まあ、亡者の体の仕組みについての疑問はこんなところでありましょうか。
 次はええと、・・・。拙生はまたボールペンで頭を掻いてみるのでありました。ああそうであります。億劫ガス、或いは億劫電磁波についてでありました。
 夜になって当てがわれた宿泊施設の部屋に戻ると、一定時間を過ぎると急に動くのが億劫になったり、睡眠の必要もないくせに眠って仕舞うのは何故かという疑問であります。夜も眠らずに亡者が終日好き勝手に活動すると、閻魔庁の予算が嵩んで仕方がないから、或る時間になると亡者に作用するところの億劫電磁波が出たり、億劫ガスが部屋の中に充満する仕かけになっていて、それで亡者の活動を秘かに強制的に制限しているのではないのか、と云う拙生の勘繰りであります。閻魔庁の予算にも限りがあるでありましょうし。
 まあ、閻魔庁の予算を抑制するためと云うケチな了見かどうかは定かではありませんが、兎に角、拙生が眠たくなったのは事実でありますし、朝まで一度も起きる事なく眠っていたのであります。娑婆では必ず夜中に一度か二度、小便に起きていたと云うのに。
 それからええと、・・・。またボールペンで頭を掻くのでありました。すると同じところを強く摩擦しているためか、頭皮がひりひりするような感覚が起こるのでありました。擦り剥いたかなと思って手を当てると、触って浸みるような痛みのある個所もありませんし、指に血がついてくるわけでもありませんから、別に頭皮に変化はないようであります。この痛みは娑婆の名残でありましょうか。この辺りもちょろっと質問してみましょうかな。
 で、その他はと云うと、これはこちらの世の地名の件でありますが、娑婆と同じ地名の処もあれば違うものもあるのは何故か、と云う点であります。何か原則があるのでありましょうか。それともこちらに住む霊達の、娑婆への郷愁の濃淡とかがそう云う違いを生じさせているのでありましょうか。まあ、娑婆の記憶は、淡く無関心に蘇るだけと云うのでありますから、郷愁の濃淡なんという情緒は成立しないようにも思われるのであります。
(続)
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もうじやのたわむれ 252 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 この疑問に対する解答は色々想像出来るのでありますが、決定打となる解答が在るのかどうか、確認と云う意味で質問してみる事にしましょうか。まあ、こちらに生まれて仕舞えば、娑婆の地名との関連なんぞは普通の生活に殆ど関係のない事でありましょうが。
 それから次の疑問は、ええと、・・・。拙生は頭皮のヒリヒリ感を厭って、もうボールペンで頭を掻くのは止めるのでありました。代わりにボールペンのキャップで、頭を軽く叩いてみるのでありました。これだけでも或る程度の脳の刺激には充分なのでありました。
 何らかの事情で霊に生まれ変わる事を拒否した場合、亡者は一体どうなるのかという事も疑問の一つでありました。それに付随して、亡者の識別のためのこの仮の姿の耐用時間は、はたしてどのくらいなのかというのも訊ねてみたい事であります。
 例えば準娑婆省に拉致された亡者は、霊への生まれ変わりを阻まれるのでありましょうから、そうなるとその亡者はその後どのような末路を辿るのでありましょうか。亡者の儘の姿で、準娑婆省で生きていくのでありましょうか。それとも亡者の儘では不都合があるので、霊とは違った、何か全く他のモノに変身して仕舞うのでありましょうか。
 それにそうなった場合、一般の霊と同じに今度はその次の世たる、素界、に行けるのでありましょうか。それとも素界への旅立ちを断たれて仕舞うのでありましょうか。
 素界に行けないとなると、見方を変えればこちらの世で、或る意味、不滅の生を手に入れる事になるのでありましょうか。それはそれで別に悪くはないようにも思われるのでありますが、それではこちらの世の摂理に反するでありましょうから、何やら大いに分の悪い罰則のようなものが屹度あるに違いないと想像出来るのであります。
 こんな事を敢えて訊くのは亡者としての道義に反するようで、閻魔大王官に不謹慎極まりないと怒られて仕舞うかもしれませんが、まあ、単なる好奇心からの戯れ言、と云った雰囲気でちょろっと訊いてみる事といたしましょうか。若しこの質問に閻魔大王官が顔色を変えたりしたら、愛想笑いながら早々に引っこめて仕舞えば良いのであります。
 それからこれはつまらない疑問ではありますが、宿泊施設のカフェテリア黄泉路は、夜は四更までバーラウンジとして営業していると云う事でありますが、どうせ一定時間になると亡者は部屋で眠たくなって仕舞うわけでありますから、結局利用出来ないのではないか、なんと云う疑問もありましたか。これは先の億劫ガスとか億劫電磁波のところで、事の序でに、と云った感じで質問する事といたしましょう。ま、こんなのは確かに、全然大した疑問ではありませんなあ。態々訊くのも気後れして仕舞いそうでありますし、別に訊かないで置いても、訊いて何らかの解答が得られたとしても、それで特段の高揚感も何も生まれないでありましょう。ま、ご愛嬌と云う事でさらっと訊いてみる事としましょうか。
 そう云えばコンシェルジュに、夜の夜長の徒然を慰めるために和室で芸者や幇間を挙げて、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ、なんと云う観光オプションも提案されたのでありましたが、これも宴会途中で亡者は眠たくなって、返って疎ましくなって仕舞うのではないでしょうか。こんなのも無意味な観光オプションと云う事になります。亡者に出来ない、或いはやらせないような観光オプションが態々設定されているのは、何やら欺瞞の匂いがするのでありますが、ま、これも敢えてしかつめ顔で大袈裟に問い質す事もありませんか。
(続)
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もうじやのたわむれ 253 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生はメモ帳に、娑婆と同じ地名とこちらの世独自の地名が併存するが、何か明確なわけとか由縁でもあるのか? 亡者が生まれ変わりを拒否した場合、その亡者はその後どうなるのか? 準娑婆省に拉致されるとか拠無い理由で生まれ変わりが阻害された場合、その亡者の末路はどうなって仕舞うのか? 亡者の仮の姿の耐用時間は? 億劫ガスとか億劫電磁波の影響かどうかは知らないが、結局亡者は一定時間になると眠って仕舞うのに、カフェテリア黄泉路が四更まで営業しているのは無駄ではないのか? 夜を徹してのどんちゃん騒ぎなんと云うオプションが亡者のために設定されているが、それは結局利用出来ないオプションなのではないのか? と書きこむのでありました。その後少し考えて、(亡者の生まれ変わり拒否とかの質問は冗談めかして)、と注意書きも書きこむのでありました。
 さて、この他に何か疑問に思う事があったかしらと、拙生はボールペンのキャップで頭を叩きながら、天井の一点を見上げて思案するのでありました。しかし特段思い出せないのでありました。ま、要するにこんなところでありましょうか。他にもあったかも知れませんが、どうせ拙生の疑問でありますから、そんな深刻なもの等はないでありましょう。
 でもそう云って仕舞えば、亡者の頭に浮かんでくる疑問なんぞと云うものは、総てほんの一時の泡のような懐疑以上ではないのかも知れません。歩いていて路辺に遺棄された骨の折れた新品らしき傘とか、丸めたティッシュの少し大き目の塊を見止めた時のような、一場の戸惑いのような疑問なんぞとほぼ同類でありますか。直後にすっかり忘れて仕舞っても別に痛くも痒くもなく、波打つ水面に投じた石ころと同じで、その疑問が発せられようが発せられまいが、こちらの世での今後には何ら波紋を生じさせないのでありましょう。
 まあ、閻魔大王官への拙生の一種の愛想と考える事にしましょうか。それで会話が円滑に友好的に進行するならば可、という事であります。
 拙生は缶に残っていたビールを一気に飲み干すのでありました。外さないでいた腕時計を見ると、疑問の事を考え出してからほぼ一時間を経過しているのでありました。眠たくなるまでには、多分まだもう一時間程度残っているのでありました。
 しかし一時間では、下のカフェテリア黄泉路でたらふく食事を摂るには多分足りない時間であります。カクテルとかだけを飲みに態々行くのも何やら癪であります。今日もまたテレビを観るのも能がない仕業ですし、娑婆で読みかけの儘にしていた本もこちらにはありませんし、さてこの一時間弱の徒然を如何でか潰さんと考えていると、拙生の頭の中に先のカラオケボックスで同席した、楚々野淑美さんの面影がふと過ぎるのでありました。
 いやあの楚々野淑美さんと云う鬼は、なかなかの美人で拙生の好みのど真ん中の女性でありました。願わくはああ云う女性に娑婆でお目にかかりたかったものであります。
 ここでせっかく楚々野淑美さんの面影が浮かび上がったのでありましたから、これから寝間着に着換えてベッドに入って、眠りに落ちる準備を万端整えて、淑美さんの面影を佳肴としてビール片手に、明日の閻魔大王官の二回目の審理に備える、なんと云うのはどうでありましょうかな。拙生は娑婆でも布団に潜りこんで、碌でもない妄想に耽るのを無上の歓びとする性質でありましたから、これはなかなか魅力的な時間の潰し方であろうと思われるのであります。何も、亡者として寸暇を惜しんで動き回るだけが能ではありません。
(続)
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もうじやのたわむれ 254 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生はそう決めると、立ち上がって寝間着に着換えるのでありました。それから腕時計を外してドレッサーの上に置き、その横にメモ帳とボールペンも置くのでありました。
 その後ベッド脇のサイドテーブル上のスタンドの灯りを点けてから、他の照明を落とすのでありました。窓に顔を近づけて眼下の三途の河の夜景を見ると、多分夜釣りの釣り船の明かりでありましょうか、黄色い燈火が所々に瞬いているのでありました。
 暗い中でその燈火を暫く眺めた後、カーテンを閉めて冷蔵庫から、拙生は少し迷った後、缶ビールではなくて緑色の五合瓶に入った日本酒を出して、ミニバーの上にあった大き目の碗も一緒に取って、ベッドの中に潜りこむのでありました。喉の渇きを癒すためではなくて、寝入るまでの手持無沙汰を慰めるためにチビチビやろうと云うのでありますから、冷えた発泡酒よりは、こっちの方が適しているかなと思い直した故でありました。
 それにしても楚々野淑恵さんでありますが、あのタイプが拙生の理想の女性となったのは、娑婆で拙生が幼稚園の頃から中学三年生の時まで隣家に住んでいた、三つ年上のお姉さんの面影が、その遠因であるのは明白でありましょう。幼友達であり、とても優しいお姉さんでありました。今思い出しても、胸に微電流が走るようにときめく程であります。
 そのお姉さんは拙生が幼稚園の頃に隣に引っ越してきたのでありました。お姉さんはもう小学生でもあり、幼稚園児の拙生には既に大人の範疇に入る人と云う認識でありました。
 体が余り丈夫ではなくて、背は高い方でありましたが痩せ気味の人でありました。中高の顔で目が大きくて睫毛が長くて、低くはないけれど小ぶりな鼻をしていて、笑うと両方の頬に深い笑窪が出来るのでありました。今思うとなかなかの美人でありましたなあ。
 お姉さんは体が弱かったので学校を屡休んでいたようで、転校生でもあったし、同級生の友達は少ないようでありました。そのためかどうか然とは判りませんが、お姉さんはよく隣家に住む拙生と遊んでくれるのでありました。お姉さんには二つ年上のお兄さんがいたのでありますが、このお兄さんの方と遊んだ記憶は拙生には殆どないのでありました。
 拙生が小学校二三年生の頃までは、お姉さんは拙生の実のお姉さんのような存在でありました。いや実のお姉さんだったら、実際には弟にあんなに優しくはしてくれないのでありましょう。お姉さんは拙生がチャンバラをやりたいと云えば、嫌な顔もせずにそれにつきあってくれて、ぎごちない仕草ながらちゃんと斬られ役を演じてくれるのでありましたし、拙生に欲しいプラモデルがあれば、少し離れた街の模型屋まで一緒についてきてくれて、それを作る時も、拙生の手に余るところは要領良く手伝ってくれるのでありました。
 拙生は一人っ子でありましたから、このお姉さんに遊んで貰える事がとても嬉しくて、まあ、便利でもあり、何かあるとすぐ頼りにしていたのでありました。お姉さんは拙生の云う事なら大抵は、優しく笑って聞いてくれるのでありました。
 拙生に対するお姉さんの優しさは、お姉さんが中学生になっても変わらないのでありました。尤もその頃になると、拙生の方にお姉さんに優しくされる事への忌憚のような感情が芽生えてきたり、男友達との間の体裁を気にし出したりするようになって、本意ではないのに無愛想にふる舞ってみたり、自分でもたじろぐくらいに突慳貪な口のきき方をしてみたりするのでありました。お姉さんの存在が、決して疎ましいわけではないと云うのに。
(続)
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もうじやのたわむれ 255 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生はお姉さんの容姿がとても眩しくなったのでありました。もう小学生の頃のように、痩せっぽちでニコニコと笑っているだけの女の子ではなくて、見つめられるとこちらの方がどぎまぎして仕舞うような目線とか、時にこちらの非を責めるような潔癖そうな無表情なんかも仄見せてくれる、中学生の制服を纏った大人びた女性と云う風に見え出したのでありました。そのくせ拙生に接する態度とか口のきき方とかは全く前の儘で、拙生としたらお姉さんの外見の変化と、前と何も変わらない親愛に満ちたそのふる舞いのギャップに秘かに戸惑っていて、だから竟、無愛想になったり突慳貪に接して仕舞うのでありました。
 お姉さんは拙生の事を以前から変わらず弟のような存在と思っていいたのであろうし、事実弟のように何時も接してくれるのでありましたが、拙生は段々と、単に弟としてだけ見られているであろう事にも苛立ちを覚えるのでありました。しかしだからと云ってそれならどう云う風に見られたいかと云うと、それは拙生にも上手く説明出来ないのでありました。拙生がお姉さんの恋人、とは云わないまでも、対等の立場にある異性、だと云うには、拙生は如何にも幼過ぎるようでありますし、三歳の歳の差と云うのは、その頃はそう云う関係を設定するには、決定的な隔たりのように拙生には思えていたのでありました。
 拙生は以前のようにお姉さんと上手く噛みあえなくなって、次第にお姉さんを疎んじるようになったのでありました。勿論本心は、疎んじたりなんか決してしたくはないのでありましたが、しかし下手に噛みあおうとして、返ってうっかり、無様な自分をお姉さんに曝け出して仕舞う事にでもなったら、それこそ立つ瀬がないではありませんか。
 そう云う風になって、拙生が中学二年生の頃でありましたか、拙生の両親が東京に住む親類の結婚式に上京出席するために、拙生が一人で一週間足らず、家で留守番をする事になったのでありました。中学生ともなると勉強もクラブ活動の方も忙しかったし、一週間も学校を休むのは憚らなければならないと、拙生も両親も考えたからでありました。
 その間、まあ、一人で留守を預かるのは何でもないのでありましたが、拙生の食事の問題が出来するわけであります。勿論拙生が自炊をすればそれで良いのでありますが、あのおっちょこちょいに火を扱わせるのはどうしても避けたい、と云う両親の強い懸念と、三度の食事の支度なんと云うものは面倒臭くてげんなりである、と云う拙生の忌避の表明から、朝食と夕食は隣のお姉さんの家で引き受けてくれると云う相談が、両方の家の間ですんなり纏まったのでありました。まあ、お姉さんと拙生の間は随分と疎遠にはなったけれど、しかし家同士のつきあいとしては、ずっとそれくらい密ではあったのでありました。
 一週間程、朝起きると拙生は隣家に行って一家と伴に朝食をよばれ、昼の弁当は学校でパンでも買って、それからクラブ活動が終わって帰宅したら、夕食をまた隣に摂りに行くのであります。日に二度も隣家にお邪魔するのは少し億劫ではありましたが、自炊の面倒に比べれば大いに結構と、横着な拙生はその両家の合意にあっさり乗るのでありました。
 眩しくなったお姉さんと一緒に食卓を囲むのは、大いに気が重くもあったのでありますが、なあに、勉強があるとか何とか云って、食い終えたら早々に自分の家に引き上げてくればよいのであります。それにあのお姉さんと、拠無い理由、から一緒に食事の卓を囲む事が出来るのであります。この、拠無い、と云うのが、実に好都合ではありませんか。
(続)
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もうじやのたわむれ 256 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生は久しぶりにお姉さんと大いに言葉を交わすのでありました。お姉さんとはこのところずっと何となく疎遠になっていた事だし、拙生は屈託なく自然な感じで会話等が出来るだろうかと、実は内ひどく気後れしていたのでありましたが、お姉さんの方がこの、拠無い、機会を大いに嬉しがってくれて、拙生に学校の勉強の事やらクラブ活動の事等を、会話が滞らないように気を遣って、自分の方から色々訊ねてくれるのでありました。
 お姉さんとの会話が悲観的な予想に反してえらく快調である事に、加えて隣家でよばれる夕食が新鮮だと云う事もあって、拙生の気分は大いに高揚するのでありました。結構長い時間的な隔たりが間に入っても、こうしてあっさり、前の気さくな関係を取り戻せた事が、拙生は嬉しくて仕方がないのでありました。勿論これは、お姉さんの方の一方的な気遣いに依るものでありましたし、その分お姉さんは拙生より確かに大人なのでありました。
 夕食後には、お姉さんの部屋で二人してトランプなんかもして遊ぶのでありました。その時はすっかり、子供時分の懐かしい二人に戻っているのでありました。拙生は大いに喋り、お姉さんに大いに甘えるのでありました。拙生には至福の一週間でありました。
 しかしその一週間が瞬く間に過ぎて、元の隣家の中学生と高校生に返って仕舞うと、拙生は急にまた、お姉さんに対して陰鬱な顔しか見せられない、挨拶も碌にしない無愛想な中学生に忽ち戻っているのでありました。どうしてそうなるのか、拙生は自分でも良く判らないのでありました。折角以前の楽しい二人の関係が復活したはずなのに、そしてそれが拙生は大いに嬉しかったくせに、その感奮を自ら台なしにして一人勝手に落胆しているのであります。拙生は自分でこの依怙地で小難しい自分の心理を持て余すのでありました。
 拙生が中学三年生の時、お姉さんは亡くなるのでありました。元々心臓に重大な疾患を抱えていて、それが原因で肺の機能不全を引き起こして、竟に帰らぬ人となったのでありました。突然の訃報に接して、拙生は驚愕して暫く身動きが叶わなくなるのでありました。
 結局また子供の頃の親しい二人の間柄に戻れない儘、お姉さんは永遠に拙生の傍からいなくなって仕舞ったのであります。無念でありました。それに申しわけなくもありました。拙生は笑顔の一つもお姉さんに、結局その後見せる事も出来なかったのでありました。それはお姉さんの笑顔も、竟に再び拙生は見る事が出来なかったと云う事でありました。
 ・・・ええと、で、楚々野淑美さんは、そのお姉さんに面差しとか雰囲気が似ていたように思うのであります。ひょっとしたらひょっとして、楚々野淑美さんはあのお姉さんの、こちらの世での生まれ変わりなのではないでしょうか。お姉さんが向うの世を去ってから数十年が経っているのでありますから、今まで聞いてきた事で想像するところの、こちらの世での年齢とその容姿の兼ねあいとかから推察しても、そう云う可能性は充分考えられるのであります。拙生はそう思うと、心の中にざわざわ騒ぐものを覚えるのでありました。
 いやしかし、楚々野淑美さんは確か霊ではなくて鬼の筈であります。鬼は向うの人間の生まれ変わりではないのでありますから、つまりこの拙生の推測の成立する余地は毛程もないと云う事になります。拙生の心の中のざわつきが、急に止むのでありました。
 拙生は日本酒を一口飲むのでありました。娑婆にいた頃は殆ど思い出しもしなかったお姉さんの面影ではありましたが、亡者になってから思い出すとは、因果な事でありますか。
(続)
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もうじやのたわむれ 257 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 ひょっとしたら拙生はこちらの世で、あのお姉さんに逢えるかもしれません。尤も、娑婆時代のお姉さんへのときめきとか、無念とか申しわけなさとかの濃い感情は蘇らないようでありますから、それは少々味気ない事ではあります。それに外見も娑婆の頃と違っているのでありましょうから、あのお姉さんと気づく事もなく、またこちらの世でも隣同士の家に住んでいるのかも知れません。ま、そんな偶然もない事もないようでありますから。
 今日カラオケボックスで一緒になった楚々野淑美さんは、今現在思いを寄せている鬼がいるらしいのですが、彼女がその彼氏と結婚でもして子供が生まれるとしたら、拙生がその赤ちゃんに生まれ変わると云うのも、これは何となく悪くはないように思うのであります。まあ、どう悪くはないのかは、俄かには上手く説明出来ないのでありますが。
 悪くない事の一つは、あんなに綺麗な淑美さんの子として生まれ変わるとするなら、拙生もこちらの世では結構な美男子に生まれ変われるであろう事であります。そうなれば大いにモテモテの男として、娑婆時代とは違った生を生きる事が出来るでありましょうし、こちらの世での拙生の人生、いや霊生も、屹度バラ色でありましょうなあ。
 しかし鬼同士の男女からは鬼が生まれると云う事でありますから、霊に生まれ変わる筈の拙生にはその実現性なんと云うのは、さっぱり芽すらもないと云う事になりますか。残念な事であります。拙生は少し顰め面をしてまた日本酒を一口飲むのでありました。
 それにつけても、出来るなら我がバラ色の霊生のために、美男美女のカップルの間に生まれ変わりたいものであります。しかもあんまり躾とかに厳しくなくて、勉強しろと煩くもない、全くの放任主義の両親の子供として生まれ変わりたいものであります。
 ま、新たに生まれ変わった個体の運動能力は、人に倍してあった方が良いですかな。それに身長も高いに越した事はありません。体重は身長につりあった理想的なバランスで。ギターを上手く弾ける器用さも欲しいところであります。それから機知に富んだ会話能力なんというのも、モテモテの霊生を生きるためにはあった方が良いでありましょうかな。
 しかし運動能力とか器用さとか会話能力なんと云うものは、生まれつきと云うよりは生まれた後に、相応の努力をして一定程度度身につけるべき能力でありますか。こちらの世にあっても、怠け者ではダメなのでありましょうなあ。後は、モテモテの霊生には関係ありませんが、長じてから豆アレルギーが出ない体であって欲しいものであります。
 いやところで拙生はこちらの世でも、また男の霊に生まれ変わるのでありましょうか。娑婆で男だったからと云って、こちらの世でもそれが連続するとは限らないのではないでしょうか。娑婆のあらゆるものが御破算になるのなら、性別もクリアになると考えるべきでありありましょう。ま、態々ベッドから起き出して、メモ帳に新たに書き足すのは億劫だからやりませんが、この疑問もまた明日の審理で閻魔大王官に訊く事といたしましょう。
 いやいや、こんな事をウダウダ考えながら眠りに着くのではなくて、楚々野淑美さんの美しい面影を、頭蓋の内側に投影しながら就眠する筈でありました。拙生は仕切り直しのつもりで、碗を傾けて残っていた日本酒を干すと、またなみなみと注ぎ入れて、それを一口飲み下すのでありました。するとどうしたものか、楚々野淑美さんの面影を手でグイと脇に押し遣って、選りに選って娑婆に未だ居るカカアが登場してくるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 258 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「そっちに行っても、そんな戯けた事ばかり考えているなんて、浮かばれない人ね」
 カカアが怒気に満ちた目で拙生を睨んで、口元を嘲笑に歪めて云うのでありました。
「浮かばれるも浮かばれないも、こちらの世に生まれ変わる場合、娑婆の因果応報みたいな考え方は全く反映されないようだから、その発言は的外れと云う他ない」
 拙生は無表情の儘、娑婆に居た頃と同様に口応えするのでありました。
「ああそうですか。それは良かったわね!」
 カカアはそう吐き捨てて、そっぽを向くのでありました。拙生の葬儀の時はしおらし気に涙を流していたと云うのに、この憎々しい口の利き方はどう云う了見でありましょう。大体、亡者になった拙生の頭の中にまでしゃしゃり出てくる事自体、いけ図々しいにも程があると云うものであります。人としての弁えも何もないのでありましょうか。全くもう。
「何しに出て来た?」
 拙生は無愛想に訊くのでありました。
「そっちでどうしているのか心配だったからよ」
「うっそ、吐け!」
 拙生は思わず吹き出すのでありました。そんな言葉は娑婆でも絶えて久しく聞いた事はなかったのでありました。いけしゃあしゃあと、よくもそんな事が云えるものであります。
「何が嘘よ。あたしが心配してやっているのに、何よその態度!」
「はいはい、それは悪うございました」
 拙生は面倒なので娑婆の時と同様、すぐに謝るのでありました。ま、娑婆の時よりは少々揶揄する調子を強めにして云うのは、今はもう亡者となった大胆さからであります。
「何よ、その言い種!」
 カカアが突っかかってくるのでありました。「ちっとも変ってないのね、こっちに居る時と。そっちに行ったんだから、もう少し悟りの境地を開いているかって思っていたのに」
「いやどういたしまして。そんな、悟るとか悟らないとか云うような事は娑婆の方の勝手な言い種で、実際には、こっちではそんなもの一切問題にはならないんだぜ」
 拙生はこちらの世に生まれ変わる場合の実状を、少し説明してやるのでありました。
「そんな事あるもんですか、冗談じゃないわ!」
 カカアがムキになって反論するのでありました。
「そんな事あるもないも、実際そうなんだから仕方がない。亡者の俺が云うんだから、これ程間違いのない事はないと思うが」
「そんな事云って、何時もみたいにはぐらかすんでしょ」
「いやいや、はぐらかすとか云う問題じゃなくてさ。・・・」
 拙生はげんなりするのでありました。こちらに来た者は誰でも悟りの境地に至るなんと考えるのは、何の根拠もないカカアの勝手な思いこみ以上では決してないのであります。それに大体からして、拙生が悟ろうが悟るまいが、カカアには関係のない事であります。しかしそう云った事をカカアに縷々説明するのは無意味でしょうし、審問官でも記録官でも、閻魔大王官でもない拙生がそう云う解説をするのは無責任と云うものであります。
(続)
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もうじやのたわむれ 259 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 こちらが抗えば抗う程、意地っ張りのカカアはもっとムキになって、荒唐無稽だろうが支離滅裂だろうが一向に構わず、益々感情的に拙生への抗弁を募らせるのでありましょう。これには娑婆時代に散々てこずったのでありました。でありますから、拙生は一呼吸置いて、ニンマリと親愛に満ちた笑いを目尻に湛えて見せるのでありました。
「ところで、もう逢えないとばかり思っていたのに、よく来れたなあここまで」
 拙生は話頭をひん曲げるのでありました。「幾ら俺の頭の中の思念とは云え、嬉しいよ」
 拙生が穏やかな調子でそう云うと、カカアは急に眼の中の険を消すのでありました。
「何であたしがこうしてここに出て来たのか、あたしにも判らないんだけどさ。・・・」
 カカアは拙生から目を離して、少しモジモジとするのでありました。
「ま、実際にこっちにオマエが来る事は出来ないんだから、せめて俺の亡者としての頭の中にだけでも現れてくれて、なんかホッとした心持ちになったよ。俺がこっちに来てどうしているか、本心ではオマエ、気を揉んでいたんだろうなあ屹度」
「まあ、ほんの少しはね。・・・」
 カカアはそう云って珍しくはにかむように笑むのでありました。
「俺がこっちに来るについては、結構突然だったからなあ」
「そうよ。鯖に中って最期を迎えるなんて思ってもいなかったわ」
「いや、当の俺がびっくりしたよ。まさか鯖に命を取られるとは。・・・」
 拙生がそう云った後、何となく先程までの棘々した雰囲気が沈静して、拙生とカカアの間にしめやかな空気が遥蕩うのでありました。
「まあ案外、元気にしているみたいじゃない?」
 カカアは柔らかい上目で拙生を見ながら云うのでありました。
「こっちに来たんだから、娑婆の人間に、元気、とか云われると何と云うか、ちょっと気後れみたいな心持ちがしてくるけどなあ」
「ああそうか」
 カカアはそう云って笑うのでありました。
「突然だったんで、オマエもその後、葬式の段取りとか大変だったろう?」
「うん、大変だったわ」
 カカアはやや目に憂いの色を添えて一度頷くのでありました。しかしどう大変だったのか、具体的なところは別に何も云わないのでありました。
 これは実は意外でありました。大変だったろうなと聞いたすぐ後に、それを取りかかりに大袈裟に微に入り細に入りあれこれ長々と、その大変だったところを洗い浚い云い募られるのではないかと危惧したのでありましたが、案外あっさりと繰り言を口の中に仕舞った儘にしているのでありました。一応、亡者への礼儀を弁えているからでありましょうか。
 まあ兎に角、拙生は話題を変える事にするのでありました、
「ところで、家の冷蔵庫に残して置いた鯖の片身はどうした?」
「良おく焼いて、供養のつもりであたしが食べたわ。あたしは別に何でもなかったわ」
「ふうん、それは何よりでした。オマエは前から、意外と勇気がある方だったからなあ」
(続)
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もうじやのたわむれ 260 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「ちゃんと焼けば大丈夫だったのよ。いい加減の生焼けなんか食べるからこうなったのよ。大体する事が何にしても横着なんだから」
「まあまあまあ」
 拙生は両掌を見せてカカアのそれ以上の言葉を遮るのでありました。これを切っかけに繰り言が始まって仕舞うと、元も子もないのであります。
「ま、もう済んだ事だから今更云っても仕方がないけどさ」
 カカアは意外にも、自らそれ以上の言葉を抑えるのでありました。娑婆にいた時にせめてこのくらいのしおらしさがカカアにあったなら、向うでやってきた数々の喧嘩の何分の一かはしなくて済んだものを等と、拙生は手前勝手に考えるのでありました。
「俺が居なくなってもう大分時間が経ったから、少しは落ち着いたか?」
「未だそんなに時間が経ってなんかいないわよ」
「いや、今俺は閻魔大王官の審理中という状態なんだから、娑婆の方ではもう、三十五日が経ったと云う事じゃないのか?」
「何云ってるの。未だお葬式の最中よ」
「ん、未だ葬式の最中?」
 拙生は少し考えこむのでありました。冥土では三十五日目が閻魔大王のお裁きと確か娑婆時代に『往生要集』の解説書か何かで読んだ記憶があるのでありますが。
「今はお坊さんの読経中で、あたしアナタが病院へ担ぎ込まれて以来、てんやわんやで寝てないもんだから、ちょっとうとうとしたの。そうしたら何故かここに来ちゃったのよ」
「あれま、そうなのかい。・・・」
 拙生は葬儀の途中までは記憶があるのでありました。棺桶の隙間から、自分の葬儀の次第を覗き見していたのでありますから。
 大袈裟に泣くヤツ、しめやかに俯くヤツ、大袈裟に泣き且つしめやかに俯きながら、退屈そうな欠伸を堪えているヤツ、堪えるならまだしも、憚りもなく欠伸の大口をおっ広げる無神経なヤツ、隣同士でひそひそと私語を交わして、時々二人して卑俗な笑いを漏らす不謹慎なヤツ、斜め前に偶々座った喪服の美人をちらちら覗き見する胡散臭いヤツ、きょろきょろと献花の数や祭壇の様子を見回して、一体この葬儀は幾らくらい金がかかっているのかと検分している無粋なヤツ、何故か坊主の後頭部を一心に睨みつけているヤツ等々、様々な会葬者達の表情や居住まいを見ながら、拙生は結構楽しんでいたのでありました。
 しかし確か、何度目だったか坊主の叩く鐘がゴンと鳴ったタイミングで、拙生の視界は急にまっ暗闇になるのでありました。その後意識が、いやまあ、亡者の意識、と云うのも何やら妙な話しでありますが、兎に角、渦巻に吸い込まれていくように、急激に遠のくのでありました。それが屹度、拙生が現し世から離れた瞬間でありましょう。そうしてふと気がついたら、拙生は港に浮かぶ豪華客船に乗りこむ行列に並んでいたのでありました。
 こちらの世と娑婆とでは、流れる時間に差があるのでありましょうか。拙生はこちらで思い悩みの三日間を過ごしたというのに、娑婆の方では未だ拙生の葬儀の最中だと云うのであります。この時間のずれは閻魔大王官も誰も、話してはくれなかったのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 261 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 まあ、訊けば審問官か記録官辺りが話してくれたのかも知れませんが、そんな事思いもよらなかったから訊かないで仕舞ったのであります。ま、これも明日の審理で、閻魔大王官に訊ねる事といたしましょう。後でメモしておかなければなりません。
 ええとメモするべき質問はもう一つ、拙生はこちらでも男に生まれ変わるのか、それとも娑婆の男女の別はこちらの世では引き継がれないのか、と云うのもありましたか。序でだからこちらの疑問もちゃんと書き留めておかなければ、竟忘れて仕舞いそうであります。
「あ、お坊さんの読経がもう直ぐお仕舞いになりそうだわ」
 カカアが云うのでありました。「あたしそろそろ、葬儀会場に戻らなくっちゃ」
「向うの葬式の進行状況が判るのか?」
「うん。頭の隅の方で、別画面で実況が流れているのよ」
「なんかデジタル放送のテレビみたいだな。ところでオマエがこっちに来ている間、向うのオマエの体はどうなっているんだ?」
「電池切れの人形みたいな感じで、動かない儘座っているのよ。まあ、突然連れあいを失った喪主だから、周りには上手い具合に、放心状態って感じに見えるんだと思うわ」
「ああ成程ね」
 拙生は頷くのでありました。痛々しくて声もかけられない、なんと云う感じでありましょうか。こちらに来ているとは誰も思わないと云う按配であります。
「兎に角、何でか知らないけど、こうして今一応、お別れの言葉を交わせてよかったわ」
 カカアが云うのでありました。
「そうだな。何となく俺もそこいら辺は気になっていたんだよ。オマエとの娑婆での夫婦関係が、拠無く尻切れ蜻蛉に中断したみたいでさ」
 まあそれは、心残りと云うよりは、綺麗にエンドマークを出さなかったための落ち着かなさ、とでも云うところでありましょうか。
「じゃあね。元気でね、あの世でも」
 それはしんみりとした調子でそう云ったのではなくて、何やら急ぎの用事があって気が急いているために、挨拶を早々に切り上げてサヨナラしようとしている、と云った風のぞんざいなカカアの云い様でありました。ま、湿っぽくなくて結構でありますが。
「ほんじゃ、オマエも元気でな。親類とか友達連中に宜しく云ってくれ」
 拙生もカラッとした感じで応えるのでありました。しかしすぐに、宜しく云ってくれ、と頼んでも、そんなもの云えるわけがないかと考えるのでありました。拙生とした事が、竟うっかり、何とも間抜けな事を云ったものであります。
「判った。そう伝えとく」
 拙生の不覚の一言に早速カカアがツッコむかと思ったのでありましたが、カカアは葬儀の進行の方が気になるらしくて、あっさりそう返すだけでありました。これは今度はこっちがツッコむ番でありますが、ここでそんな遣り取りをカカアとしていても始まらないから、拙生は無精してニコニコと笑って愛想をふり撒くだけにするのでありました。
「じゃあ、また近い内にな」
(続)
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もうじやのたわむれ 262 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 これも間抜けな一言でありますか。案の定、これにはカカアが反応するのでありました。
「何云ってんの。近い内、なんてとんでもないわ。断わっておくけど、あたしはそんなに早く、こっちに来るつもりなんかないからね。冗談じゃない」
「あ、そうですかい」
 拙生は無表情で頷くのでありました。「ま、それはそうとして、命日には俺の供養を宜しく頼むぜ。お盆やお彼岸の墓参りも、出来たらお願いします」
 拙生は合掌するのでありました。
「ま、気が向けばね」
 カカアは如何にも気乗りがしない風に云うのでありました。
「まあそう云わずに。それに墓参りに来た時は、花とか線香なんか別に供えなくても構わんけど、日本酒の良いヤツを墓石にかけてくれると実に有り難いなあ」
「そんな勿体ない! 良いお酒を石に吸わせてもつまらないじゃないの」
「そんな事云わずによお」
「ま、一応ご要望は承っておきますけど」
 こりゃどうも望み薄のようであります。そう云えば立川談志師匠の落語の枕で、酒飲みの男に、俺が死んだら毎日墓に酒をかけてくれと頼まれたヤツが、任せておけと請け負ったは良いものの、しかし何となく惜しいような気がしてきて、酒をかけてやっても良いが、その場合一辺俺の体を通ってからじゃダメか、と訊いたと云う噺がありましたなあ。それからこれは誰の噺の枕だったか忘れましたが、一年間の禁酒を誓った男が、どうしても酒が飲みたくて友達に相談したところ、そう云う時は一年の禁酒を二年に延ばせと助言されて、そんな無体なと抗弁すると、友達曰く、一年を二年に延ばして一日おきに飲めば良いじゃないか、なんと云うのもありましたか。いやまあ、こんな噺はどうでも良いですが。
「ところで、そんな愚図々々していないで、早く向うに戻った方が良いんじゃないか?」
 我が遅ればせの末期の頼みだと云うのに、カカアに気持ちの良い返事が貰えないものだから、拙生は少し無愛想にそう云うのでありました。
「何云ってんの。あたしが帰ろうとしてんのに、命日がどうのこうのなんて下らない事云い出して、足止めしたのは誰よ!」
「はいはい、それは済みませんでした。どうぞ娑婆の方に早々のお引き取りを」
 拙生は上にした掌の甲をひらひらとさせて見せるのでありました。
「全くもう、失礼しちゃうわね。その憎たらし態度、全然変わってないんだから。そんなんじゃあ、そっちでも誰にも可愛がられないわよ。大体あたしは、別に来たくてここに現れたんじゃないんだからね。態々来てやったって云うのに、何で最後までそんな無神経な対応されなきゃいけないの。どうせ、そう云う人だったのよね。そう云う人と一緒になったのがあたしの不幸の始まりだったのよね。亭主運が悪かったのよ。良おく判ったわ。あたし一人になって、これから大いに弾けまくって、今まで不運だった分を取り返さなきゃ」
 カカアはそう不平を云い散らかしながら、拙生の頭の中なら去るのでありました。カカアのぼやきの聞き納めでありますか。ま、もう聞けないとなると多少寂しくもありますが。
(続)
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もうじやのたわむれ 263 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 折角楚々野淑美さんの事を思い返そうとしているのに、何やら雑念ばかりが頭蓋の内側で展開して仕舞うのは、これは娑婆時代の、寝る間際の我が脳の働きと全く同じであります。あらま欲しき方向にちっとも思考が向かわない事にうんざりして、拙生は仕切り直しに酒をぐっと空けて、楚々野淑美さんの事に思いを集中しようとするのでありました。
 しかしどうした事か碗を持った右手が、拙生の意に反して麻痺したように動こうとしないのでありました。これは一体どう云う按配でありましょうか。
 億劫ガスが相当強く作用してきたのでありましょうか。ほんの数秒後には、拙生のこの仮の姿の中にある脳が働きを止めて、拙生は眠りの中に入って仕舞うのでありましょうか。ま、それならそれで別に構わないのでありますが、しかし未だ手にしている碗の中には酒が残っている筈であります。この儘意識を失って手の力が抜けて仕舞うと。碗を取り落として、中の酒が零れて仕舞うではありませんか。それは何とも勿体ない事であります。残って、いる、酒、だけでも、飲んで、仕舞わなく、ちゃ。・・・。残っている、酒だけ、・・・。
 と云う感じで、拙生は結局その儘寝入って仕舞ったのでありました。・・・酒だけ、でも、飲んで、仕舞わなく、・・・、ちゃ! と云いながら、拙生は起き上がるのでありました。すっかり朝になっているのでありました。右手はちゃんと碗を持った儘で、中の酒も零れてはいないのでありました。拙生は反射的にそれを喉の中に流しこむのでありました。それでやっとほっとするのでありました。懸案解決であります。何とも意地汚い事であります。
 結局、楚々野淑美さんの面影を追いながら、やや甘美な思念の中で安らかに眠りにつく事は叶いませんでしたが、ま、それは仕方がないとあっさり思い直して、拙生は空になった碗をサイドテーブルの上に置くのでありました。それからベッドを抜けて立ち上がると、着替えを持ってバスルームの方に向かうのでありました。これから寝覚めのシャワーを浴びて、気分もさっぱり、また爽快に今日の一日を始めようと思うのであります。
 今日は閻魔大王官に、生まれ変わり地を申告する最終審理の日であります。今日の審理が、云ってみれば拙生のこちらの世での一生が決まる端緒、となると云えるのでありますが、しかし別に特段の気負いも緊張もないのでありました。もう生まれ変わり地は邪馬台郡と、とっくに決めているのでありますし、そこは娑婆の日本と同じような感じの場所で、実見もちゃんと済ましているのでありますから、実に以って気楽なものであります。
 拙生はこの部屋に入る以前に着ていた、元々の服に着替えるのでありました。まさかこの部屋に用意されていた服をその儘着て出て行くのは、如何にも無神経でありエチケットに反するであろうと判断したからでありましたし、それがこの宿泊施設を利用させてもらった亡者の、云わば嗜みと云うものであろうと、一応律義に考えたからであります。まあ、着替えなくとも別にそれでも誰も、文句は云わないであろうとは思うのでありましたが。
 上着のポケットに入れた儘にしていた、閻魔大王官の最終審理の受付票がちゃんとある事を確認してから、フロントに返却すべき携帯電話やらメモ帖やらも一纏めに、空いているポケットに押しこむのでありました。観光案内のリーフレットとか施設案内のパンフレットは、返却した方が良いのかどうか少し迷うのでありました。観光絵地図にはコンシェルジュに依る書きこみもしてありますし、再利用は出来ないでありましょうから。
(続)
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もうじやのたわむれ 264 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 まあそれは下で指示されるだろうと考えて、拙生は忘れ物がないか一通り部屋の中を見回して廊下に出るのでありました。部屋のキーがついたアクリル製のキーホルダーを握って、拙生はキーをぐるぐる回しながら廊下を歩いて、エレベーターホールの方に向かうのでありました。来た時と同様、廊下では誰ともすれ違ったりしないのでありました。下のカフェテリア辺りの混み具合からしても、屹度多くの亡者が宿泊しているであろうと思われるのに、宿泊の部屋がある上階ではどうして亡者の誰とも逢わないのでありましょうや。
 下に降りると拙生は先ず、フロントに寄る前にコンシェルジュのデスクの方に向かうのでありました。コンシェルジュは、片手を挙げて軽く挨拶する拙生を認めると、親愛に満ちた笑みを浮かべて立ち上がって、深々とお辞儀をするのでありました。
「いよいよ今日が、生まれ変わり地を決定する閻魔大王官の最終審理ですね」
 コンシェルジュは娑婆のアイビーファッション風の、三つボタンの紺のブレザーを纏った上体を、完全に起き上がらせない畏まった物腰で拙生にそう云うのでありました。
「ええそうです」
「何やら緊張されておられますか?」
「いやあ、もう私の気持ちはとっくに決まっていたから、意外とリラックスしていますよ。寧ろ審理後のこちらの世への生まれ変わりが今から楽しみです」
「ああそうですか。それはそれは」
 コンシェルジュはそう云って、揉み手をしながら愛想笑うのでありました。
「いやこの三日間、色々お世話になりました。懇切丁寧にあれこれアドバイスやら手配を頂いて、大変助かりました。お蔭さまで有意義で楽しい三日間を堪能させて貰いました」
「いえとんでもない。ご満足頂けたようなら、私の方こそ幸いです」
「また何か機会がありましたら宜しくお願い、・・・。いや、またお世話になるような機会なんぞ、あるわけがありませんか」
 拙生はそう云って笑って頭を掻くのでありました。
「そうですね。まあ、万々が一、何か考えもつかない事情で、またお世話させて頂く事もないこともないかも知れませんが、普通はこれにてもうお目にかかる事はないでしょう」
 コンシェルジュが何やら、ちょいと気になるような事を云うのでありました。
「ほう。その万々が一の事情、と云うのは、例えばどう云った事でしょう?」
「いやいや、そんなに拘りになられると私も困るのですが、まあ、私の前言はさらっとした冗談だとお受け取りください」
「さらっとした冗談、ねえ。・・・」
 妙に気になる云い草でありますが、しかしまあ、単に礼が云いたくて声をかけただけの事で、ここでコンシェルジュと長話しする気は元々なかったのだから、拙生はこれ以上は食い下がらないのでありました。若し覚えていたら後で閻魔大王官に聞けば済むのですし。
「散歩先とか観光地でお買い求めになったお土産等、お忘れ物はありませんでしょうか?」
「いや、別に買い物は何もしませんでしたから。それに亡者の時に買い物しても、それを抱えて新しいお母さんの胎内から、オギャアと生まれてくる事は出来ないでしょうし」
(続)
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もうじやのたわむれ 265 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「それはそうですが、この思い悩み期間中に亡者様のお買い求めになったお土産品なんかは、亡者様がこちらの世に霊として生まれ変わられたら後日、何時とは限定出来ないですが、何らかの形で、確実にお手元に届く仕組みになっております」
「ほう、そうなんですか?」
「ええ。例えば霊として生まれ変わりになられた後に、その霊様が何処かへ旅行されたりすると、そこのお土産屋とかにそれがちゃんと並べられていて、ふと、思わず知らず霊様はそれを手に取られて、結局お買い求めになったりするようになっているわけです。また、そう云う場合もあれば或いは、誰か友達とか家の者とか近所の霊から何気なく貰ったりした物が、実は亡者様がこの三日の間にお買いになった品物であったりとかするのです。まあ時期と、どう云う形でかは今は何とも云えませんが、しかし間違いなくお手元に届く筈になっておるのですよ。ですからこの三日間に亡者様がお買いになった品物があれば、それを閻魔大王官の後ろに控えている、物的因縁担当の補佐官に提示して頂く事となります」
 コンシェルジュはそう云って何度か頷いて見せるのでありました。
「ふうん。アフターサービスも万全と云った風ですかなあ」
「まあ、この三日間でお土産を街でご購入になったとしても、どうせサインだけでお求めになられたわけですから、霊となった後にその品物に若し代価を支払われた場合でも、決して損はなさっていない事になります。二重払いと云うのではありませんから」
「それはそうですけど、亡者がサインで購入した場合、それを売った店のオヤジが後日閻魔庁に代金を請求するのだと、確か審問官だったか記録官だったか、或いは閻魔大王官だったかに聞いた記憶があるのですが、そうなると例えばその亡者の生まれ変わりである霊が、後にその同じ店でそれをまた購入したりすると、店のオヤジはその代金を閻魔庁と、その生まれ変わりの霊から、二重に受け取る場合もあるわけですよね? 店のオヤジとしたらそれは嬉しいでしょうが、しかし制度としてそれは何となく不備なように思いますが」
「確かにそう云う場合はあります」
 コンシェルジュは少し小難し気な表情をするのでありました。「しかしまあ、その生まれ変わりの霊様は、亡者時代にも元々代金をお払いになってはいないのですから、二重払いした事にはなりませんので、畢竟、霊様の損はないわけです。ま、私共閻魔庁がそれを被れば万事円満に事が成るのであれば、それはそれでいいか、と云うのが閻魔庁の見解です」
「ふうん、そうですかね。ま、私ごときが茶々を入れる話しではないのでしょうが」
 拙生はそう云いながら、昔娑婆の上野鈴本で聴いた志ん朝師匠の『三方一両損』と云う落語を思い出しているのでありました。その『三方一両損』も、厳密に考えれば大岡越前と三両落としたヤツが一両損して、それを拾ったヤツだけが二両儲かったと云う、損得だけで云えば不備と云えば不備な噺ではありますか。まあ、そんな事はどうでも良いですが。
「先程、物的因縁、とか云う言葉が出ましたが、そう云う因縁なんと云うものは、閻魔庁で管轄管理している事象なのでしょうか?」
「そうです。閻魔庁の仕事の中に含まれます」
「閻魔庁の仕事も、あれこれ多岐に渡るのですなあ」
(続)
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もうじやのたわむれ 266 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生は感心するような顔をして見せるのでありましたが、直後にその顔が呆れているような表情にコンシェルジュに見えたりはしないかと、ちらと危惧するのでありました。
「我が閻魔庁は、亡者様の便宜を最大限お図りすることを第一番目の庁是としております」
 コンシェルジュはそう云って律義そうなお辞儀するのでありました。
「娑婆の高級ホテルも及ばない行き届いたサービスを享受して、それは充分感得出来ます」
 拙生は多少のべんちゃらで返すのでありました。
「ま、そう云う事で、・・・お忘れ物がないようなら、フロントに部屋のキーと一緒に、携帯電話とか腕時計とかの貸与品をご返却いただいて、一緒に閻魔大王官の最終審理の受付票もご提出ください。その後はこのロビーを出られて、先の審理室の前のソファでお待ちいただくようになりますが、それはフロント係の方から改めて丁寧に案内させて頂きますよ」
 コンシェルジュはフロントの方に掌を上に向けた腕を差し出すのでありました。
「ま、貴方に大いにお世話になった事に対して、最後に感謝の意を評させて頂きます」
 拙生はコンシェルジュに頭を下げながら云うのでありました。
「いえ、どういたしまして」
 コンシェルジュは拙生より深めに丁寧なお辞儀を返すのでありました。
 その後フロントの方に行くと、中にいた若い女性係員が拙生の方に向き直って、先程のコンシェルジュと同じ程度の深さの礼をするのでありました。
「思い悩みの三日間を終えた亡者ですが、チェックアウトしたいと思いまして」
 拙生が云うと、その女性係員はチャーミングな愛想笑いを向けてくれるのでありました。
「畏まりました。では恐れ入りますが部屋の鍵と最終審理の受付票をお出しください」
 云われる儘に拙生は鍵と受付票を渡すのでありました。女性係員は先ず受付票を鍵棚の横の、審理受付票、と書いてある棚の、もう既に拙生のよりも先に提出されたのであろう、一センチ程の厚さに重ねてある紙の一番上に乗せるのでありました。それから鍵棚の方に拙生が返却したキーを戻して、代わりにそこに置いてあった紙片を取るのでありました。
「後は、私共からお貸しさせて頂いたものがありましたら、それもお出しくださいませ」
 また拙生の方にふり返った女性が云うのでありました。
「はいはい。ではこれを」
 拙生はポケットから携帯電話やらボールペンやらを取り出して、女性の前に並べるのでありました。メモ帖の一番上の頁には閻魔大王官に訊くべき事柄が書いてあるので、それのみは引き剥がして、またポケットに仕舞うのでありました。
 女性係員は拙生の差し出したものを、先程鍵棚から取り出してきた紙片と突きあわせながらチェックするのでありました。その紙は貸与品の控え書きなのでありましょう。
「はい。これで全部、間違いございません」
 女性係員はそう云って、また魅力的な笑顔を向けてくれるのでありました。
「この施設の見取り図とか、街の絵地図とかはどうすれば良いのでしょうか?」
 拙生はそう聴きながら、二本の指を施設案内のパンフレットと観光案内のリールレットの上に夫々乗せて、指先で軽く交互に叩いて見せるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 267 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「それはもう不要かと存じますので棄てて頂いて結構ですが、もし何なら私共の方でお預かりして廃棄いたしても宜しいですが?」
「ではお手数ですがそのようにお願いします。因みに訊きますが、これは私が霊に生まれ変わった後、何時か必ず私の手元に届くなんと云う事はないのでしょうか?」
「このパンフレットとリーフレットは、亡者様だけに限定してお渡ししている物ですので、霊になられた後は物的因縁が途切れて仕舞います。ですから後日お手元に届くと云う事はございません。その点、悪しからずご了承くださいませ。大変申しわけございませんが」
 女性係員は眉根を上げて恐縮の目の表情をして見せるのでありました。
「いや別に貴方が謝る事はないですが、成程そう云う事だと了解しました。何やら余計な事を訊いたようで済みませんねえ」
「いえ、とんでもございません」
 女性係員は恐縮の表情の儘でお辞儀した後、首をゆっくり何度か横にふって、拙生が詫び言を云う必要は何もないと云う意を表して見せるのでありました。
「さてこの後、私は前に審理を受けた審理室の方に行って、そこの前で名前を呼ばれるのを待っていればいいのですかな?」
「はい。後はこの確認用紙にサインを頂いて、それでチェックアウト手続きの方は総て完了ですので、そのようにお願いいたします。それからこれはお節介な事かも知れませんが、亡者様が先に審理をお受けになった部屋は三十五番審理室でございますので、出来ましたらその部屋の近くでお待ち頂ければと存じます。念のためご案内申し上げておきます」
「はいはい、態々親切なご教示を有難うございます」
 拙生はそう云って傍らのペン立てにあるボールペンを取って、チェックアウト及び貸与品返却確認用紙に認めのサインをするのでありました。
「それからお手を煩わせるようで恐縮ですが、これは宿泊施設の各サービスや、施設の使いやすさ等のアンケートとなります。若し宜しければ審理までの待ち時間にご記入頂いて、審理室入口横にあるアンケート用紙回収箱にご投函頂ければ幸いに存じます。これは私共のお願いでして決して強制ではありませんので、投函するもしないも亡者様のご随意です」
 女性係員はそう云いながら、拙生の前に遠慮がちにアンケート用紙と筆記のためのサインペンを差し出すのでありました。
「はいはい、判りました。待ち時間潰しには返って好都合ですな」
 拙生は気安くそれを受け取るのでありました。
「サインペンは回収箱の横にペン立てがありますので、そこへお戻しください。それではこの宿泊施設のご利用を有難うございました。またのご利用をお待ちしておりません」
 この、お待ちしておりません、のところで拙生はちゃんと小さくコケるのでありました。
「ま、兎に角、色々お世話になりました。お蔭で快適な一時を堪能する事が出来ました」
 そう云って片手を上げた拙生に、女性係員は可憐な笑いを最後に送ってくれるのでありました。拙生はその笑顔で大いに良い心持ちになるのでありました。こんなに客あしらいの良いホテルは、本当に、娑婆にもそうざらにはないと思うのであります。
(続)
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もうじやのたわむれ 268 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 三十五番審理室前のソファには誰も座っていないのでありました。拙生は三人がけのソファの真ん中に座ってから、先程のアンケートを書こうとするのでありましたが、紙が薄いものだから下に敷く台紙か何かないものかと辺りを見回すと、ソファ横のサイドテーブルの上に黒い厚紙のA四判サイズの、クリップつきの台紙が置いてあるのでありました。
 勿論これはアンケート記述のために設置してあるのでありましょう。最初の審理を待っていた時には、サイドテーブルは目に入ったのでありましたが、後にアンケートを書くなんと云う事を知りしもしなかったので、この台紙には注意が向かなかったのでありました。
 拙生は台紙を取ってきて用紙の天をクリップに挟んで、アンケート用紙を書き始めるのでありました。殆どが、大変良い、良い、普通、悪い、大変悪い、と云う五つの選択肢から選ぶものでありましたが、偶に、例えば、カフェテリアの朝食に追加して貰いたい料理は何かありますか、なんと云う記述式の応答を要求する質問があるのでありました。
 カフェテリア黄泉路の朝食メニューに関しては、あれ以上の料理のレパートリーは必要ないかと思うのでありましたが、しかし何も書かないのは愛想がないので、麦御飯、とか何とか書き入れるのでありました。いやひょっとしたら麦御飯もあったのかも知れないと思い直して、その横に、なめこ汁、と云うのも書くのでありましたが、いやこれも、あれだけ多種多様な、娑婆の各国料理が揃えてあったのだから、実はあったのかも知れません。
 そう思ってまたその横に、挽き肉とキャベツと玉ねぎの微塵切りを混ぜあわせて油で炒めて、塩と胡椒とラー油で味つけして少量の片栗粉で纏めた具の入った焼き餃子、なんと云う嫌に具体的な料理を書き足すのでありました。実はこれは拙生が子供時分に、娑婆の実家で作っていた餃子でありました。時にこれをオムレツの具にする場合もありましたか。
 それから子供時分と云う事で思い出して、ミルクセーキ、と云うのも書き加えるのでありました。でも只単に、ミルクセーキ、とだけ書いても、拙生が子供の時分に食していたミルクセーキと同じものを想像出来ないであろうと考えて、近所の氷屋で買ったかき氷に全卵と砂糖と練乳を適量加えて、少し泡立つ程度までかき混ぜて深めのグラスに盛ったもの、但しストローでは最初は吸い上げ辛いので、柄の長い小ぶりのスプーンも一緒につけた方が無難である、なんと云うお節介な事まで、括弧つきで書き入れるのでありました。
 因みにこのタイプのミルクセーキは、拙生が子供時分の佐世保ではごく一般的なもので、街中の喫茶店なんかでもこれとほぼ同じものが出されておりましたなあ。軽い風味にするなら練乳を少な目に、濃厚な風味にするなら大目にすると良いであります。
 それから佐世保繋がりで、トルコライス、とも書き加えるのでありました。しかしこれはドライカレーとケチャップ塗しのスパゲティと、豚カツレツと野菜を一枚の皿に盛りつけて、豚カツレツにドミグラスソースをかけるだけでありますから、作ろうと思えば今のカフェテリアの料理でも再現可能でありますか。それなら態々ここに書くのも間抜けかと思って、拙生は、トルコライス、と書いた文字の上に取り消し線を引くのでありました。
 こんな風な事をあれこれ記していたものだから、アンケート用紙の空欄までもが、不揃いの文字で汚く埋め尽くされるのでありました。これを懇切丁寧な解答と見るか、それとも一瞥でげんなりして脇に放って仕舞うかは、担当の鬼の性格に因るでありましょうなあ。
(続)
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もうじやのたわむれ 269 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 女性の声で、拙生の名前を呼ぶアナウンスが聞こえるのでありました。丁度アンケートを書き終えたところで、実にタイミング良く呼び出されるのでありました。
 拙生はソファから立ち上がって、アナウンスの通りに三十五番審理室の扉を開くのでありました。今日は二回目の審理で極楽省の説明は要らないためか、手前の壁際の机には極楽省から出張してきているお地蔵さん、正確には極楽省地蔵局の石野地造氏の姿は見えないのでありました。拙生はこのお方は苦手なものだから、少し安堵するのでありました。
「おう、良う来たのお。待っておったぞい」
 香露木閻魔大王官が片手を上げて、官服の長い袖を手繰りながら云うのでありました。
「ああどうも。宜しくお願い致します」
 拙生は閻魔大王官の前まで歩きながら、浅いお辞儀をするのでありました。
「ええとお手前は、今日が二回目の審理じゃったわいのう」
「そうです。今日、生まれ変わり希望地を申告する事になっております」
「うんうん。ま、立った儘では何じゃから、椅子に座ってリラックスして話そうかいの」
 閻魔大王官はそう云って、拙生に文机の前に置いてある椅子に座れと促すのでありました。拙生は一礼してからその椅子に腰を下ろすのでありました。
「長く待つのかと思っていましたが、案外早く私の順番が回ってきて良かったです」
「ま、閻魔庁の事務処理は迅速を旨としておるでのう」
 閻魔大王官は顎髭を手で梳きながら数度頷くのでありました。「ところでお手前が手に持っておる紙は、それは宿泊施設のアンケート用紙かいの?」
 そう云われて、拙生は自分の持っているアンケート用紙を見るのでありました。扉を入ったすぐのところにあると云う、アンケート回収箱に入れ忘れていたのでありました。
「ああ、箱に入れ忘れて、迂闊にもここまで持ってきて仕舞いました」
 拙生が後ろをふり返って椅子から立ち上がり扉の方に戻ろうとすると、閻魔大王官の後ろに控えている補佐官筆頭が拙生に声をかけるのでありました。
「ああ、態々お戻りにならなくとも結構ですよ。私の方で入れておきましょう」
 補佐官筆頭は親切にもそう云って拙生の傍に来て、拙生からアンケート用紙とサインペンを受け取ると、道服の裾を翻しながら軽快な物腰で扉の方まで行って、アンケート用紙を回収箱に入れ、サインペンをペン立てに立てるのでありました。
「ああどうも。私が間抜けなもので、余計な手間をおかけして申しわけありません」
 拙生は立ち上がって、戻って来た補佐官筆頭に我が横着を謝るのでありました。
「いえ、とんでもない。どうぞ座ってお楽にしてください」
 補佐官筆頭は愛想良く云いながら、元の閻魔大王官の後ろに戻るのでありました。「ところで、アンケート用紙の他に、お土産品は何も持ってこられなかったのでしょうか?」
 補佐官筆頭は戻った位置から拙生に訊ねるのでありました。
「ええ、何も」
 拙生は掌を上にして両手を前に出して、何も持っていない事を示すのでありました。
「思い悩みの三日間中、散歩とか観光とかに出かけられたのでしょうに?」
(続)
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もうじやのたわむれ 270 [もうじやのたわむれ 9 創作]

「ええもう、三日間出突っ張りで」
「それで何もお買いにならなかったのでしょうか?」
「ええ、特に何も」
「気に入ったお土産品が何もなかったのでしょうか?」
 補佐官筆頭は怪訝な顔をするのでありました。
「いや特にそう云う事ではなくて、私は根が無精な方ですから。何か買おうと云う意識そのものも、頭の中にちらとも湧き上がってこなかったのですなあ。それにお土産を買ったとしても、今の私には渡すべき相手が誰もいませんから全く無意味な気もしましたしねえ」
「それはそうですが、外に散歩やら観光に出られた他の亡者の皆さんは、大体は色々ショッピングをお楽しみになりますよ。それに渡すべき相手がいないと云う事ですが、しかしこちらに生まれ変わった後何時か必ず自分の手元に届くのですから、将来の自分のために買う、と云う動機は成立いたしますし。亡者様の中にはどうせ一銭も要らないんだからと、もう抱え切れないくらい沢山のお土産品を持ちこみになられる方もいらっしゃいますよ」
「ふうん、そうですか。しかし私に関しては、宿泊施設の階下の店とか、それに街中にある色んなショップとか、邪馬台銀座商店街の中のデパートとか、寄席の六道辻亭の売店とか、その他の観光先のお土産品屋さんなんかを覗いても、何か買おうと云う気は全く起きませんでしたねえ。まあ、愛想のない話しで慎に申しわけない次第ではありますが」
 拙生はそう云って苦笑うのでありました。
「娑婆におられた時は、至極あっさりしたご性格でいらしたのでしょうか?」
「いや、そんなには淡白ではなかったように思いますがね」
「ま、お土産を買おうが買うまいが、それは個人の、いや個亡者の勝手じゃわい」
 閻魔大王官がそう口を挟むのでありました。
「じゃあ、まあ、それならそう云う事で。この亡者様の場合、お土産品はなしだな」
 これは補佐官筆頭が横に立っている、恐らく物的因縁担当補佐官に云う言葉でありました。云われた補佐官は頷きながら、はい判りました、と返事して、何となく手持無沙汰そうな風情で、補佐官筆頭を見返して浅く一礼するのでありました。
「お土産は買わなんだとしても、どうじゃな、思い悩みの三日間を大いに楽しんだかいの?」
 閻魔大王官が話頭を転じて拙生に訊くのでありました。
「ええお蔭さまで。私は生まれ変わり地はとっくに決めておりましたから、何も思い悩む必要はありませんでしたからね。もう三日間、申しわけないくらい遊び呆けておりました」
「ああそうかいの。それは重畳じゃったのう」
 閻魔大王官は拙生の応えに呵々大笑して顎髭を手で梳くのでありました。「随分遠方まで、一泊旅行とかして観光に出たのかいの?」
「いや、一泊までして遠くの方へは行きませんでしたが、高尾山までは行きました」
「ああ、あそこは手頃な観光地じゃわい。ワシも時々孫を連れて登ったりするわいの。いや、孫に連れられて登ったりする、と云う方が正確な表現かのう」
 閻魔大王官はそう云ってまた顎髭を梳くのでありました。
(続)
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