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もうじやのたわむれ 250 [もうじやのたわむれ 9 創作]

 拙生はメモ帳に、住霊は誘拐されないのか? と先ず書き入れるのでありました。それからええと、・・・。拙生はまたビールを一口飲んでボールペンで頭を掻くのでありました。
 ああそうだそうだ、と拙生はボールペンを握り直すのでありました。次の疑問は我々亡者がこの世に生まれ変わるまでの、この仮の姿についてであります。
 ところでボールペンで頭を掻くと云う刺激は、脳を活性化さて、色々な事を思い出すにはなかなか有効な刺激のようであります。これは向うの世に居る人間様も、我々亡者の仮の姿も同じでありますか。いや尤も拙生は娑婆に在った時は齢を重ねるに従って、幾ら頭を掻き毟ろうが髪の毛を引っ張ってみようが、思い出せないものはちっとも思い出せないで、我が記憶力の衰えにげんなりする事始終でありましたかな。この仮の姿にくっついている今の頭部、娑婆の頃の拙生のモノよりは幾分か性能は良く出来ているようであります。
 それはさて置き疑問の方に話しを戻すと、亡者は食事が不要なくせに食う事は出来ると云うのは、全く不要な機能なのではないのかという疑問であります。確かに腹は特に減らないのであります。まあこの食欲てえものは、強い生存欲求に因ると云うよりは、食えると云うのであれば試しに食ってみようかという、単なる好奇心と云うものに依拠する欲求のように思われるのであります。これは娑婆の名残として、食べると云う無意識の習慣が未だ亡者には濃厚に残存していて、その習慣を宥めるがためだけに、食う気なら食えると云う体の構造になっていると云う事ありましょうか。それに審理期間中の手持無沙汰を慰めると云う配慮から、食事くらいは出来るように身体が造られているのでありましょうか。
 と云う事になると、そう云う風に配慮したのは誰か、と云う疑問も新たに湧き上がってきます。何処の誰が、そのように亡者を在らしめているのか、という事であります。この亡者の仮の姿てえものは、高々数日間の審理期間中のためだけの仮の姿でありますから、進化と云う文脈で我々亡者の体の構造を云々するのは、どこか大袈裟過ぎるしピント外れのようにも思われますから、そうするとこちらには娑婆で云うところの、神様、みたいな超存在が実は居て、我々亡者の体をそう云う風に規定しているのかと云う疑問であります。
 まあこうなると娑婆と同様、夫々個人の、いや個亡者の考え方とか心の在りように因る、なんと云う結論にこちらでも結局なりそうな気もしますが、まあ、疑問としては質してみても良いのではないでしょうか。こちらでも観念論的思考があっても妙ではないのですし。
 それからええと、亡者の体の構造についての疑問の一つとして、食事を必要としない亡者の活動エネルギーは一体何なのか、と云う疑問もありました。娑婆風に考えれば、亡者の活動エネルギーは、怨念とか不満とか憎しみとか云う非身体的なものでありましょうが、亡者の一たる拙生は、そんなもの一向に持ちあわせていないのであります。まあ、亡者が娑婆で活動する場合のエネルギーが怨念とか憎しみとかであって、こちらの世で活動するためのエネルギーとしては、そんな有耶無耶で陰鬱なものでは屹度ないに違いありません。
 亡者は幾ら食っても腹一杯にならないし、幾ら酒を飲んでも酔わないのは何故か、と云う疑問もありました。亡者であってもこうして仮にも、識別のためにしろ個体として存在しているのでありますから、食物の摂取には自ずと限界がありましょうし、酒だって一定限度を超えて仕舞ったら、酩酊と云う現象が体に現れても良さそうではありませんか。
(続)
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