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この雑文なんてえものは [時々の随想など 雑文]

 あまり肩肘張らずに、そう、まさに合気道の構えのように、ゆるやかな心持で稽古や日常のあれやこれやを感じるままにここに書いていきたいと思います。拙生、さして為になる話などは出来もしないので、よろしければ御笑読あれと云った心持であります。
 広い世間でありますから、こんな雑文に目をとめていただく方もひょっとしてあるやも知れません故、多少は気を引き締めてものせんかなと、気持ちの出口辺りにある信玄袋の緒を、ほんのちょいと引き絞ってはおります。ほんの、ちょいと。感想など頂ければ望外の幸せであります。
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地図が好き [時々の随想など 雑文]

 地図を見るのが好きになったのは中学生の頃で、家でも学校でも、社会科の副教材で貰った帝国書院の地図帳を開いて飽かず眺めていた記憶があります。地図のどこが好きかと問われれば、判然とした答えは自分でも云い当てられないと云うのが本当のところでありましょう。等高線の粗密の表記がデザイン的に好きであるとか、山影のリアリティーに惹かれるとか、行政図の色分けのカラフルさに心躍るとか、なんとなくそれらしい理由は考えられるものの、そう云った理由のどれもが当たっているようでもあるし、それだけでは決っしてないし。
 地図中の地名とか山名とかなんでも、とにかく載っているものを誰かが云って、そこに居る連中がこぞって開いた己が地図帖でその文字を探し、一番早く探し当てた者が勝ち、という遊びは学校時代にやった覚えがある方も居られるでありましょう。拙生はこの遊びが得意であり、かなりの確立で最初に探し当てる名人でありました。
 出題側にまわったら世界地図なら国名、首都名、著名な都市名など大きな太い文字で表記されているものは決して出しません。等高線や山影の濃いところ、道路や河川のうねりに隠れて見つけにくい文字、川名、都市名、山名、盆地名、その他文字が混み入って判読しづらい辺りに潜むひときわ小さな文字を選んで出題せんかなと、意気ごむのであります。今思うとなかなか目の疲れる遊びではありました。
 微に入り細に入り地図を眺めまわし、世界地図ならニジェールのツッモと云うような小さな市名、日本地図なら秋田県にある及位(のぞき)とか読み方の独特な字名、都市図なら町外れを流れる川に架かる橋名など、中学校時代は結構マニアックな物知りとして知る人ぞ知る的な存在であったのであります。今ではほとんど忘却してしまいましたが。
 にも関わらず、中学校時代の社会科地理の成績はまったくもって芳しいものではありませんでした。と云うのも、あまりにも微に入り細に入り地図上の文字を追いかけていたものだから、例えばアメリカ合衆国の首都がワシントンであると云うような明白なことに、迂闊にも無頓着であったのでした。過ぎたるは及ばざるが如しであります。
(了)
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苛立つ汎武 [時々の随想など 雑文]

 歳のせいか、万事に苛立つ自分を感じるのであります。道を歩けば前を行く数人連れの高校生が横に並んでふざけながら歩く姿に苛立ち、買い物カートを引いた初老の女性がどう云うつもりか突然道の真ん中で立ち止まり、すぐ後ろを歩く拙生とぶつかりそうになってもなんの意も用いない様子に苛立ち、押しボタン式の横断歩道でこちらがすでに横断ボタンを押しているにも関わらず、道の向こう側でそれでもまだ苛立たしげに何度もボタンを押し続ける中年サラリーマンに苛立ち、原つきバイクに乗ったお兄ちゃんがふらふらこちらに突進してくる様子に苛立ち、カーステレオの音がこれ見よがしに音漏れしているスモークガラスの派手な自動車がすぐ横を失踪して行くのに苛立ち、横断歩道の真ん中まで進入して停車し、信号待ちしているやけに大柄の四輪駆動車を目にして、これまた大いに苛立つのであります。
 待っているエレベーターが順調に拙生の居る階へ降下してきていたのに、ある階で突然止って動かなくなったことに苛立ち、コンビニに入ろうとガラス扉を開いたら中にいた御仁が、こちらが扉を開くのを待っていたかのような風情で、先に堂々と我が前を出て行くその図々しさに苛立ち、電車に乗れば、カバンや大きな袋を座席に置いて前に立つ人に気をとめることなく、携帯電話を夢中になって操作している女子高校生に苛立ち、大きな荷物を通路上にいくつも置いて、その荷物を囲むようにだらしなく立って傍若無人な笑い声などたてて話しする、どこぞの大学の運動部員の一団に苛立ち、電車が停車して扉が開くと同時に降りようとするこちらが目に入らないかのように、すぐさま乗り込んでくる作業服を着た大柄な男のふてぶてしげな仏頂面に苛立ち、発車しようとする電車に是が非でも乗らんとして、前の人を突き飛ばしそうな勢いで階段を駆け登ってくる若いサラリーマンに苛立つのであります。
 嗚呼やれやれ、嫌な世情だ風俗だと、件の電車に乗り込んでくる作業服の大柄な男よりも尚一層の仏頂面で、そんな光景をやり過ごすのではありますが、こんな些事にいちいち目くじら立てている己が矮小さにも、当然これまた苛立つのであります。それにまた、同じような振る舞いで、こちらがが他人様に不快の念を与えていることもあるに違いないのです。しかし、さて、さりながら、この「に苛立つ」と云う言葉を「を楽しむ」と置き換えても、あながち間違った心情ではないなと最近なんとなく気づいたのであります。良きことも悪しきことも、自分のことも他人のことも取り混ぜてこの世の <味わい> のようなものかと云う気も、ちっとはするようになったのであります。拙生も大分悟ったものであります。こりゃひょっとして、先が短いと云うことでありましょうか。
(了)
タグ:苛々 鈍感
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三文得したような・・・ [時々の随想など 雑文]

 土曜日は大概七時に起床するのであります。顔を洗ってそれから朝食をとって七時半過ぎに家を出て、仕事場に寄って合気道の稽古着をバッグに詰め込んでそれから駅に向かうのであります。向かう先は稽古場でありますが、九時から稽古が始まりますから大体三〇分前には稽古場である体育館に到着しております。
 これが先日どうしたものか五時半に目が覚めて、まだ寝ていようと奮闘すれども意に反して頭の中は次第に冴え冴えと覚醒し、とんと寝付けない。ええいとばかり起き上がって顔を洗いながら、箴言にも早起きは三文の得と云うではないかと一人ごちて、不本意ながらいつもより一時間以上早くその日を始めたのでありました。
 しかし成る程、朝食までの一時間とちょっとをメールのチェックやら、我が合気道倶楽部のHPのチェック、ニュースサイトの見出しなどを覘いたり、普段の土曜日なら午後からの限定された時間でせわしなくやっていたことを早々に終えることが出来て、確かに三文くらいの得はしたような気分でありました。これで午後の時間がちいとばかりゆったり過ごせると思えば、なんとなく気分もおおらかになると云うものであります。
 土曜日午前の合気道の稽古を終え、いつもなら気ぜわしく仕事場に戻るのでありますがこの日は足取りも緩く歩幅も大きくもなく、最寄り駅から仕事場までの途中にある河の川面に並んで浮かんでいる鴨の親子の様子など、橋の上に立ち止まって眺めたりして仕事場までのそう長くもない道を歩くのでありました。早起きはするものであります。なんとか最低限の睡眠時間は確保していなければ辛いなどとケチな勘定は横に置いておいて、早く目が覚めたらそのまま自然に起き上がる方が寝覚めも爽やかでありましょう。気分の上では三文どころか一両ほど得したような心持ちになったのは嬉しい発見でありました。
 しかしところが午後四時を過ぎると、早起きのつけが回ってきたようで今度はどうにも眠たくて仕様がないのであります。何とか仕事を終え帰宅して夕食を終えた頃には上の瞼と下の瞼がお互いを求め合って今にもくっ付きそうな按配であります。食後もほとんど夢か現の境目でぐらぐら起きていて、結局いつもより二時間早く床についたのでありました。三文得したのか損したのか布団に入ってケチな勘定をしようとしましたが、答えの出る間もなく我が意識は現に手を振っていたのでありました。後でもう一度とくと、損得を勘定してみなければと、きっと思っております。
(了)
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五十歩が百歩にもの申す [時々の随想など 雑文]

 そう云うわけで、ぼやきの言葉を一つ、のたくらせます。
 若い頃は徒食家として鳴らしたものであります。食っても食っても四時間経つと腹がへり、丼様の茶碗で三杯の飯を食らってもまだもの足りず、箸を置いたそばから四時間後の空腹を儚んで憂鬱になるのでありました。夜中に腹の減る悲痛はなににも増して耐え難く、インスタントラーメンの買い置きがなくなっていれば、どうにも堪らずに夜中に開いているラーメン屋か牛丼屋へ前のめりに猛進するのでありました。学生の一人暮らしを哀れに慮って、近くに住む仏様の慈悲の心を持った叔母が夕食に呼んでくれたことがありましたが、拙生の胃袋が広大無辺であることを知り、あきれ返って以後昼間しか呼んでくれなくなりました。それでも拙生もさる者、たんと昼飯をよばれてきはしましたが。
 さて、昨今徒食を売りものにする女性テレビタレントをよく見受けます。彼女達の徒食振りたるや拙生の比ではなく、丼三杯どころか丼十杯分をけろっとして腹に収める兵であります。可愛らしい顔に反して鬼のようなその健啖家振りは、成る程テレビ向けではあるのでしょう。大したものであります。
 しかし、拙生が云うのもなんですが、無邪気に笑って大食らいを誇るその姿は、なんとなく正視に耐えない様と映ってしまうのであります。彼女達の食欲は人間一人の範疇を超えています。本当なら他人が食うべき分まで己が腹に収めてしまった彼女達のご満悦振りは、実はしごく醜い態度ではないのかと思ってしまうのであります。それに満腹の緩んだ顔よりも、本当は空きっ腹のくせして腹足れる顔を装っている方が美しいと云う、古い美意識の中からまだ片足が抜けない拙生には、彼女達の達成感に溢れた笑顔をどのように見ればよいのかよく解らないのであります。
 出されたとてつもなく大量の食物を、あの手この手を使ってなんとか食いきろうと奮闘する画面も流れます。奇抜な涙ぐましいまでの彼女達の努力に、拙生としてはまったく共感出来ないのであります。徒食のために徒労するよりは、これ以上は食べませんと潔く一礼してくれる方が、どの位爽やかかと眉根を寄せて拙生はテレビを見ているのであります。かつての徒食家としてはこの手の番組に対して、どこか体を斜めにして恥じ入りながら苦々しく横目で窺うしか、本当はその対する術を持たないのではありますが。
 目糞が鼻糞を笑うのはいただけません。しかし五十歩が百歩にもの申すことについては、まだ理が残っているのではないでしょうか。自分の五十歩を恥じ入り過ぎて、百歩に一言ももの申せないのでは、孟子さんにはまことに済まないでことではありますが、後の五十歩逃げるのを思いとどまった甲斐がないではありませんか。・・・いや違うかな。
(了)
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字(あざな)考 [時々の随想など 雑文]

 ことのついでに云っておくのでありますすが「汎武」とは一応"字"(あざな)のつもりであります。昔の中国や古の扶桑の一部の人達は、字をもつのが一般的であったと云うことで、本名とは別に字をもって世間と関係を取り結ぶのが、一人前の成人男児たる証明だったのであります。ですから本名はインフォーマルな場での呼称であり、フォーマルなところでは字がその個人を特定する記号であったわけです。なにを今更大時代的なとの謗りはあるでしょうが、ま、拙生の懐古趣味であり、ちょろっと成人男児たるを自覚するための決意表明のようなものであります。但し、この歳になっても成人男児としての実態が伴っているかどうかは、大いに自らも疑問ではありますが。
 有名なところでは夏目漱石の「漱石」は晋書にある、孫楚と云う御仁が「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す」と云い間違えた故事からとった字、と云うかペンネームであるそうであります。負け惜しみの強いこと、無茶なこじつけで自説をおし通そうとする態度を指すのでありますが、こう自らを号した漱石の心胆に、なんとなく共感を覚えたりするのであります。
 字の本家中国では、有名どころでは諸葛の亮さんの字が「孔明」、劉備が「玄徳」、関羽が「雲長」、曹操は「孟徳」てなところでしょうか。字の使用にもルールがあって、帝は臣下を本名で呼ぶことになっているので劉備は諸葛亮孔明を亮を呼び、関羽雲長を羽と呼び、諸葛亮と関羽の間ではお互いに「雲長」「孔明」と呼ぶわけであります。字をつけるにおいてもルールがあったようで、原則的にはその名にちなんだものをつけたそうであります。もう少し挙げると項羽の「羽」は字で名は籍、劉邦の字が「季」だそうですが、この「季」は末子と云う意味であります。劉邦の場合父の名が太公(爺様もしくは父君)母親の名が劉媼(劉家の婆様)と史記の高祖本紀にあります。つまり劉邦は爺様と云う人と劉家の婆様と云う人の間に生まれた子で、字を末っ子と云ったということであります。なんじゃいこれは、と云った感じであります。司馬遼太郎氏も作品で云っておられますが、司馬遷は漢帝国を築いた高祖劉邦に対してしごく冷淡だったのでありましょう。
 ところで拙生の「汎武」でありますが、最初秦帝国崩壊の端緒となった造反の指導者、陳勝の言葉「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(燕や雀のようなちっぽけな鳥に大鳥の志など解るまいと云う謂)から「燕雀」とせんかなかと思ったのでありますが、歌舞伎役者か飴に間違われる可能性がありますのでやめにしました。で、色々考えてこの字にしたのであります。「凡武」とか、人によっては「凡夫」と間違えられて、これには焦りました。しかしまあ、そういうのも悪くはないなとも思いましたが。
(了)
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あの時の珍客はⅠ [時々の随想など 雑文]

 拙生の生まれた街は扶桑の西の外れにある佐世保と云う処であります。それまで鄙びた漁村であったのが、明治になって海軍鎮守府が置かれて俄かに軍港として開け、爾来主に造船と軍の街として今日に至っております。先の戦争の後も米軍が駐留し、後に自衛隊も置かれて、特にベトナム戦争の頃はアメリカ軍兵士の姿が街のあちらこちらで目に留まりました。今もポパイのような水兵姿はあまり目にしなくなったものの、米海軍に所属すると思しき大柄の外国人が早朝、まるで求道僧のような表情で歩道をジョギングする姿やら、海上自衛隊の歳若い隊員が隊服を着て、繁華街を足早に歩いている姿をしばしば見かけるのであります。やはりこの街は軍人とは切っても切れない縁のある処であります。特にアメリカ海軍の存在感は圧倒的と云ってもいいくらいのものでありました。
 今は高速道路工事のため別の地に移転したそうでありますが、九州文化学園と云う、バレーボールでやや有名になった女子高、短期大学があります。拙生は遠い昔にここの付属幼稚園に通っておったのでありますが、嘗てのこの幼稚園は米軍キャンプに隣接していて、敷地すぐ横にある古くて段差が不揃いな長い階段を降る途中で、日本の集落姿とは思えぬ、アメリカのテレビドラマに出てきそうな、塀のない植え込みで囲ったばかりの広い芝生の庭と、その真ん中に建つ白いペンキ塗りの、まるでグラバー邸のような造りの洋館が整然と並ぶ一画が、木の間越しに眼下に望めるのでありました。芝生の庭にはこれもよくテレビドラマで見る赤や青色をした玩具のトレーラーやら大人のゴルフバッグ等が、無造作に放置されていたりするのであります。随分長く拙生はこの一画は、日本有数の大金持ち達が集まって来て住んでいる場所であると信じていたのでありますが、勿論そんなものではなく、米海軍の将校住宅地であったのであります。高い金網のフェンスで囲まれていて、日本人は侵入不可でありました。
 拙生の通った中学校も米軍キャンプのすぐ横で、裏の高台に蒲鉾兵舎やら、幼稚園横の将校住宅ほど豪勢ではなかったものの、米軍の家族住宅がいくつも建っておりました。そんなとんでもないことがあるわけはないのでありますが、金網を超えてそこへ侵入すると機関銃の一斉射撃を受けると云う噂が、まことしやかに中学生の間で囁かれておりました。
 放課後のクラブ活動では拙生は体操部に所属していたのでありますが、キャンプに住む小学校低学年くらいのアメリカ人の坊主二人が、金網を越えて中学校の体育館に無断で遊びに来たことがありました。生憎と云うべきか好都合にと云うべきか、顧問の先生はおらず部員だけで練習をしていたのでありました。またその日は他の運動部がたまたま体育館を使用してはおらず、我々体操部が独占使用いしていたのでありました。
 彼等はにこにこしながら鉄棒の横に来て、拙生等の練習を可愛らしい顔して驚嘆と好奇の目で見ています。逆手車輪をして見せると歓声などあげてくれるのであります。我々はこの予期せぬ珍客をどう扱っていいのか判らず、出て行けとも云えずにまごまごするのみでありました。
(続)
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あの時の珍客はⅡ [時々の随想など 雑文]

 その内この珍客達が鉄棒をやりたそうな素振りを見せるので、手招きしてぶら下がらせてやると、そのあまりの高さに怖気づいて足をばたばたと泳がせます。下ろしてやると目を大きく見開いて、こんな高いところにぶら下がって、しかもぐるぐる回転など出来るあなた達はとんでもない偉大な人達だと云うような表情をしています。
 同級生の一人が「ホワット、イズ、ユア、ネーム」とべたべたの日本語発音で聞くと、なんとかなんとかと、こちらがうまく聞きとれない発音で名前を云ってくれます。ダンボだったかミッキーだったかその時聞いた名前はもう忘れてしまいましたが、同級生は己が英語の通じたことに感激して、その後知っている限りの成句を並べ、彼等と会話と云うもはなはだ貧弱ではあるにしろ、言葉でコミュニケーションを図ろうとするのでありました。
 そうこうして、すっかり打ち解けた我々はその後マットででんぐり返しやら、無謀にもバック転を彼等に教えてやったり、逆立ちしてマットの上を歩いて見せたり、腹筋の鍛錬をさっせてやったりして、下校時間までを一緒に遊んで過ごしたのでありました。彼等もすっかり懐いて、別れを惜しんで、また明日も来ていいか等と(まあ、多分そんなことを云っているのであろうと推測したのでありますが)拙生の手をとって揺すりながら懇願するのでありました。彼等は我々をいたく気に入ってくれたようでした。我々が体操服から学生服に着替える間も、彼等は更衣室代わりに使用していた小部屋の中までついて来て、我々の更衣が終わるのを待っていてくれるのでありました。
 体育館を出ると彼等は裏手の緩やかな土手の上を指差します。土手の上には金網のフェンスが続いていて、その向こうは米軍住宅地であります。ここから帰ると云うのでありましょう。彼等は更衣室を出る時からずっと繋いでいた手を離して、さよならと手を振ります。「Good-bye」と云うのは判りました。「グットバイ」と我々もべたべたの日本語発音で銘々手を振りながら返します。
 彼等は土手をよじ登り、振り返ってまた手を振り、フェンス沿いにしばらく歩いてからしゃがみこみました。彼等の頭が我々の視界から消えました。きっと人が通り抜けられるくらいの穴がその辺の金網に開いているのでありましょう。
 彼等の姿が消えてから、仲間の一人が「あのちび達が金網を越えたとたんに、機関銃で蜂の巣にされるとやなかろうか」などと云うのであります。「撃たるんもんか」と別の一人が返します。「日本人ならひよっとして蜂の巣かも知らんけど、あのちび達はアメリカ人けん、まさか撃たれはせんやろう」ああ成るほどと拙生は横で頷きます。確かにその後、幸いにも機関銃の一斉射撃の音はどこからも聞こえてはこず、遠くの方でカラスの鳴く声が夕空に響いているだけでありました。
 次の日、彼等は結局我々の前に現れることはありませんでした。その後も二度と彼等の姿を目にすることはなかったのであります。きっと帰ってから母親か誰かにその日の出来事を語って、きつく叱られでもしたのでありましょう。
 もう今は彼等も立派な中年男となっているはずであります。ひょっとしたら、子供の時に日本と云う国に暮らしていて、そこで経験したささやかな日本人中学生との交流を覚えていて、自分の家族にその時のことをたった今、懐かしげに語っているかもしれません。
(了)
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パソコンのことなど [時々の随想など 雑文]

 つい最近八年間使っていたパソコンがクラッシュしてしまったので、新しい機種を購入したのでありますが、新機種はWindows Vistaであります。前のXPに比べると素人の拙生が云うのもなんですが、表示が大分洗練されたかなと云う印象であります。拙生のパソコンが古くてメモリ不足だったと云う理由もありますが、先代のでは表示したい書類がパッと出たり、じわじわと上から不規則な速度で開いていたりしていたのが、ポワンと浮き出てくるように開いて、それだけで動作が安定しているような印象が持てます。
 最初にパソコンなるものに触ったのはもう二十年も前でありました。OSは勿論MS-DOSであります。なにやらよくそのメカニズムも理解していないのに、ワープロソフトや計算表ソフト、データベースソフトを低い次元で使っていたのであります。その内にMS-DOSのコマンドを幾つか覚えてそれを実行して面白がるようになり、コンフィグレーションファイルやらバッチファイルを弄ったりして遊んでおりました。バッチファイル作りに手を出すと、これが結構面白くて色々凝ったバッチ処理を作り出して、その通りの動作をパソコンがやってくれたりすると、秘かにしてやったりと思って有頂天になるのでありました。
 MS-DOSのコマンドやプロンプト画面の素っ気なさ、はては時々現れる「致命的なエラーが発生しました」などと云う大げさな脅し文句など、周りでは不評でありましたが、実は拙生、この愛想の無さや深刻面が結構好きでありました。人づきあいが苦手で不器用であると自分でも認める男が、その使命を一生懸命に果たそうとしている風情が感じられて、しかも命がけで仕事をしているといった風で、見ようによっては優しさの少し欠けた高倉健さんに似ているではありませんか。いや、そうでもないか。・・・
 フロッピーディスクとハードディスクの併用は当たり前で、ハードディスクの容量などは二十メガバイトで十分、四十メガもあればまるで広大な土地を所有する大地主のような気分になるのでありました。第一大容量(と云っても四十メガ)のハードディスクは高価でとても手が出ないのでありました。でありますから今みたいに画像を扱うなんぞと云うことは端から考えてもおりません。ひたすらテキストデータを弄りまわして喜んでいるのでありました。「ギガバイト」などと云う言葉は当時使いもしません。そんな単位は、街では車が空を飛んで、歩く歩道が空中にはりめぐらされて、超高層の奇抜な形をしたビルがにょきにょきと林立し、家事はエプロンをしたロボットが至れり尽くせりでやってくれて、立体テレビを見ながら一家団欒すると云う、小学生の考える未来予想図よりももっと現実感が希薄な単位でありました。
 最初に自前で購入したのはMS-DOSノートパソコンでありました。勿論ハードディスクなど装備してはおりません。フロッピーディスクを入れ替え差し替えして動かすのであります。これでもテキストデータを扱うには充分で重宝して使っておりました。しかし技術は日進月歩、次から次へと新しいスペックの機種が出てきて、否が応でもそちらに目が移るのであります。新しい機能を使い切るような能力も持ち合わせていないし、その新機能が拙生のパソコン活用に大して必要とも思えないのでありますが、しかし気にはなるし欲しくもなるのであります。
 マックがいいぞと聞いて一時期乗り換えたことがありました。初めてマウスなるものに触って、それであらゆる操作が出来ると云うのがとても新鮮でありました。その操作感も簡単さも捨て難かったのでありますが、周りはMS-DOS、その後のWindowsを使う連中ばかりだったので、その中にあっての孤立感についに負けて、結局はMSに戻ったのでありました。買い替える時はいつもふとマックにしようかしらと思ったりもします。しかしあの時の孤立感が尾を引いていて、結局マックに伸ばした手が徐々に離れてしまいます。
 と云うわけで、これからこのblogも新しいパソコンで書いていきます、と云うお話。
(了)

扉の外で犬が休んでおります [時々の随想など 雑文]

 仕事場の入口の扉はガラス扉で、足から下は目隠しがなくて前の通りを覗けるようになっております。外を通る子供等は中の様子が気になるのか通る度に足を止めて中を窺い、机に向かう拙生と目が合うと急いで走り去って行ったりします。
 朝、机でパソコンを立ち上げていると、ここのところ決まって犬の散歩を目にするようになりました。柴犬で、もう老犬のようで、歩き方も落ち着いていてきょろきょろと辺りに絶えず気を配っていると云った様子もなく、かと云って堂々としているわけでもなく、まるで飼い主の散歩につき合ってやっていると云った風情であります。
 この犬も立ち止まってガラス扉越しに中の様子を窺います。拙生と目があうと「お、今日もちゃんと来て仕事をしているな」と云った風に、出していた舌を引っ込めて、ちょいと顎を上げてから拙生から目を離し、まるで扉に異変がないか調べるかのように、そこここに鼻づらを押しあててから立ち去って行くのであります。
 夏になると疲れるのか鼻づらの押しあてを終えてから、どっこいしょと云った風情で、ガラス扉に背中を押しつけるようにして犬はそこへ座りこみます。ガラスの冷んやりとした感触が気持ち好いのか、しばらくそうやって休んでから飼い主に促されてやれやれと云う感じで腰を上げ、飼い主の引き綱に別に強く抗うのではなく、ゆるりとした足取りで、やや引かれる綱の強さに負けているような歩調で立ち去って行きます。
 子供の頃住んでいた家の隣りには伯母一家が住まっていて、この家で飼われていた犬は大きな白色の雑種犬でありました。もっとも拙生が小さかったから大きく見えただけで、実のところは中型犬と云ったところでありましょうか。この犬は「なち」と云う名前で結構拙生に懐いておりました。拙生が学校へ行こうと家から出ると必ずわんと一声掛けて尻尾を振るものですから、拙生も近寄って行ってその頭を撫でて顔中ぺろぺろやられて、それから登校するのが毎朝の仕来たりのようでありました。もう老犬で、拙生が物心つく頃には「なち」は既定の隣りの家の住人でありました。
 老犬でありますから「なち」にとって小学校低学年の拙生などは、手下の部類に属する者と認識されていたに違いありません。しかし「なち」は拙生に優しかったように思います。拙生が「なち」の頭を結構な力で叩いたり、尻尾を引っ張ったり、ぴんと立った耳をくるくると巻いて耳の穴に押しこんだりしても、彼は別に怒るでもなく、拙生のしたいようにさせてくれるのであります。拙生が引き綱を持って散歩に連れ出しても、決して拙生を引きずるようなことはなく、拙生が走れば同じ速度で走ってくれて、拙生が急に止まれば慌てて自分も止まって、拙生の手と彼の首を繋ぐ引き綱がぴんと張るような状況を極力食い止めていてくれていたように思います。「なち」は拙生の保護者のつもりだったのかも知れません。
 この「なち」が一度だけ拙生の云うことを頑として聞かなかったことがありました。それは夜半から大雨が降りだして雷が家を震動させるように鳴り響いた時のことでありました。雷に驚いた「なち」は何故か自分の家ではなく、拙生の家にとてつもない速さで飛びこんできて、あっと云う間にテレビの下に入りこんで蹲って戦々と震えているのであります。拙生がいくら引っ張り出そうとしても踏ん張って、てこでも動かないと云った覚悟のようでありました。首輪を持って引っ張る拙生の手を、そればっかりは堪忍してくれと云うつもりか、ぺろっと一回舐めて申しわけなさそうな顔で蹲っております。父親が引っ張り出そうとしても動かず、ついに根負けしてそこに「なち」を放置したまま、我が家は全員就寝したのでありました。とうとうテレビの下で「なち」は一夜を過ごし、朝になってご飯をよばれて帰って行きました。
 「なち」はその後老衰で死んでしまいましたが、拙生はその時大泣きに泣いたのを覚えております。仕事場のガラス扉の向こうで背中をガラスに押しつけて暫し休息している散歩の犬に、なんとなく「なち」の姿が重なって見えてしまいます。拙生は「おお、気のすむまでそうやって休んでいきな」と口の中で犬の背にいつも語りかけるのであります。
(了)
タグ: 散歩 佐世保
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素足に雪駄で [時々の随想など 雑文]

 二十代後半からずっと雪駄を愛用してきたのであります。雪駄はその手軽さと、下駄のように高らかな音を出して我此処に在りと宣言しながら歩くような、云ってみれば傲慢さがないので好きな履物であります。特に道と云えばアスファルトやコンクリートだらけの昨今、そこを歩く下駄の音はいかにも時代錯誤的な感じがするではありませんか。その点雪駄なら比較的静かでありますし、静寂を尊ぶ図書館に入るのも大丈夫であります。雪駄ならいざと云う時にそのまま走ることも出来ます。ま、その履物としての姿形は下駄も雪駄も、アナクロと云う点で五十歩百歩ではありましょうが。
 荷風散人の『日和下駄』の出だしには、いつも日和下駄を履き蝙蝠傘を持って歩くと記してあります。その効能が以下綴られているのでありますが、永井荷風が歩いた大正時代の東京と今の東京では道路の事情はまったく変わってしまっているでありましょう。彼の人が述べる下駄の効能も今の東京では、さほど大げさに云いつのるほどの有難味はないでありましょう。荷風は自筆のイラスト等によると足袋を履いておりますが、この足袋が泥濘のために汚れないようにするには、成程高下駄の方が適していたのでありましょうか。
 しかし、拙生は今の東京を生きております。それに足袋を用いません。いつも素足であります。濡れても汚れてもつるっと拭けばそれでよしであり、足袋を守るために地面からの一定の高さを必要としないのであります。履物の好みは、これは彼の人と拙生の生まれ育ち、気風の違いでありましょう。ついでに云うと蝙蝠傘も持ち歩きません。生来根性がずぼらに出来ているせいか拙生は手ぶらを尊ぶ者であります。しかしそれにしても下駄で歩きまわるとなると、きっと荷風散人は散歩の度にひどく疲れたでありましょうに。
 荷風も晩年の写真を見るとスーツにネクタイ姿、皮靴に、トレードマークの蝙蝠傘と財産一切を入れたボストンバックでありますから、やはり戦後は道路事情の変化によって日和下駄を必要としなくなったのでありましょうか。ちなみに帽子は中折れ帽、時にベレー帽、ボストンバックの代わりに買い物籠と云う出で立ちもあり、時々名残のように下駄姿の写真も見られます。自筆イラストのような和服に足袋に日和下駄、蝙蝠傘に鍔つき帽子と云った姿はやはり大正時代限定のものでありますか。
 それにつけても拙生の雪駄であります。昨年は電車に乗る場合を除いてついに雪駄で一年を通しました。家から仕事場までは歩いて数分でありますが雪駄は拙生の通勤履であります。雪の積もった日も台風の日も雪駄で通ったのであります。仕事場でも靴下を履くのが面倒でそのまま裸足でおりました。冬場は拙生の裸足をみる人悉くが奇異の目を拙生の足元に落とし寒くはないかと聞くのでありますが、拙生は平然と「貧乏で靴下を買うお金もありませんから」と莞爾として云い放つのであります。「なんせ一年中雪駄ですから、靴下足袋の類は一切用いないのであります」と雪駄の件もそれとなく云い添えます。
 拙生としては冬場の素足を褒めてもらうより、雨の日も風の日も雪の日も雪駄で外を歩くそのへそ曲がり振りに驚嘆してもらいたいのでありますが、冬に靴下も履かないで居るへそ曲り振りの方が他所様には思いの他であるらしく「一年中雪駄」の方には食いつきがいま一つ芳しくありません。まあしかし、通勤の数分であるから冬の戸外にあって素足に雪駄でも我慢の内でありましょうが、これで一時間も外を歩くとなるとさすがにそう云う豪胆さは持ちあわせてはいない拙生であります。
 ふとパソコンから目をそらした先に愛用の雪駄があったものですから、こう云ったことを少々書いてみた次第であります。つまらん事でまことに恐縮であります。・・・
(了)
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今、美味しいコーヒーを [時々の随想など 雑文]

 二十歳まではインスタントコーヒーを啜っておりました。子供の頃、真偽は別にして成長が止まる等と親に云われて、コーヒーを飲めるのは大人になってからだとなんとなく思っておりましたが、十八歳で東京で一人暮らしを始めるともう体もこれ以上成長することもなかろうと、大人の飲料たるコーヒーにワクワクしながら手を出したのでありました。アパートでは粉末ミルクと砂糖をたんと入れて悦に入って暫く飲んでいたのでありますが、喫茶店に出入りするようになって挽きたての味を覚えると、アパートでももうちっと本格的に淹れたものを飲みたくなって、小型のコーヒーミルに陶器で出来たドリップ、濾過紙などを買ってきて、豆は既に炒ってあるものを適当に調達して、がりがりと豆を挽きドリップにセットして湯をそろりそろりと注ぎ入れ、あたかも茶の作法宜しく一連の手間暇を楽しんでいたのでありました。ミルで豆を挽くと欠片が飛び散ったり粉がこぼれたりで後の始末が大変でありましたが、立ち上るふくよかな香りは事後の煩わしさを忘却させるに充分でありました。
 サイフォン式も暫く試みたのでありますが、どちらかと云うとドリップ式の方がその簡素な様式から拙生の性にあっているようであります。挽いた豆をミルの引き出しから濾過紙に移す時の様と云うのか、引出しの横を指でトントンと叩いて最後に残った黒褐色の粉を白い濾過紙に振り入れる時の風情と云うのか、それが何故か気に入ってもいたのでありました。来客があれば、今、美味しいコーヒーを入れて差し上げましょうと云って、恰も犬にお預けを喰わせる飼い主の面持ちで、この一連の手間暇をじっくり見せつけながら焦らして、徐に出来上がったコーヒーをカップに注ぎ分け、その一つを彼の人の前に押し遣るのでありました。実になんとも厭味で高飛車なもてなしであります。
 今も在ると思いますが神保町の交差点傍のビルの地下にトロワバグと云う喫茶店がありまして、昔よく通っておりました。ここでは毎回違うとりどりのカップにネルドリップのコーヒーを淹れてくれるのであります。狭い店内にコーヒーの香りが籠って、壁と木の床にもその香りが仄かに移っていて、いかにもコーヒーそのものを売りにしているこの店の風情は拙生の好みでありました。照明が薄暗くて本を広げるには少々目の疲労を覚悟しなければならないくらいでありましたから、ただ片隅の席に座って店内に流れる音楽を聞きながら、一人静かにコーヒーを飲むと云うのが似合っている喫茶店でありましたかな。
 さてところで、一昨年の夏に突然豆アレルギーを発症したのであります。何を思ったか今まであまり口にしたことのない納豆を、毎日しこたま食ったのが災いしたようでありました。医者から醤油と味噌は仕方がないので少々は許容の範囲としても、他の豆類の接種は当分の間固く禁じられたのでありました。具体的なところを質すと「大豆で作られたもの、インゲンや鞘豌豆等凡そ豆っぽい食物、それにチョコレートもコーヒーもココアも紅茶もダメ」とのことであります。「紅茶?」と聞き返すと「ああ、紅茶は関係ないか」と云って医者殿は笑うのでありました。しかしコーヒーについても、これはその姿形から豆とは云うものの、本当は木の実ではないかと拙生は心中呟くのでありました。よってコーヒーは恐る恐るではありますが、今もちょいちょい飲んでいるのであります。今、美味しいコーヒーを急にお預けされても、コーヒー好きにはこれは結構辛いのであります。
(了)
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麦茶売りの声 [時々の随想など 雑文]

 最近は街中に流しの物売りの声が昔ほど多く聞かれなくなってしまいました。居住環境や交通事情の変化、或いは売り買いの形態に対する意識の変化等理由は多々ありましょうが、これは少々残念なことであると思ったりするのであります。落語家の春風亭小朝師匠の高座で豆腐売りのラッパの音と売り声が聞こえる夕暮れの街の風物、町内で遊ぶ子供の情景が織りなされた話を、かつて寄席で聞いたことがありましたが、今は懐かしい東京の夕景でありましょう。
 拙生の生まれた扶桑西端の地でも季節ごとに様々な品を商う物売りの声が町内に流れていたのでありました。もっとも拙生が中学生になる頃には、もうその声はあらかた街から消えてしまっていたのでありますが。
 一番印象に残っているのは麦茶売りの声であります。夏の盛り、午後の一番日差しがきつい頃、天秤棒の両端にブリキで出来た円筒の大きな容器を吊下げて、坂の多い街を「麦茶にコーセン」と語尾を長く伸ばしながら売り歩くのでありました。「コーセン」とは「香煎」のことで、麦を煎って粉にした菓子でありまして、これを湯で練って食すのであります。甘味料を加えなくとも仄かに甘く、素朴な味の菓子でありました。別名「糗麨粉(はったいこ)」或いは「麦こがし」と云うものであります。今でも東京西郊の高尾山ケーブルカー駅辺の土産物屋で売っているのを見かけたりします。麦茶売りの天秤棒に吊るされた二つの大きな容器には、大麦の実を炒った黒々とした麦茶粒が一方に、夏の海岸の白砂と同じ色をした、しかしもっともっときめの細かいこの香煎の粉がもう一方に平らに均して入れてあり、上に大中小の量り売りの桝が半分埋まって置かれているのでありました。
 ちょうど坂の途中の拙生の家の庭先でランニングシャツにタンクズボン、地下足袋姿のその麦茶売りのおじさんは荷を下ろし、つば広の麦藁帽子を取って首に掛けたタオルで日焼けした顔を一拭いしてから、声を張り上げて「麦茶にコーセン」とゆっくり何度か呼ばわります。そうすると近所からそれを買い求めようと、奥さん連中や夏休みで暇な子供等がぼちぼち集まって来るのであります。
 当然拙生の家がその俄か商店から一番近いものでありますから、拙生は真っ先にそこへたかるのでありました。別に買う必要はなくとも、そこで展開される商売風景を見るのがなんとなく楽しかったものであります。母親が麦茶を買う序でに強請って香煎を小桝で買ってもらうのでありましたが、ブリキの丸い入れ物の蓋が開けられると、綺麗に均された内容物の表面から粉がふわりと舞い上がり、それだけでなにか大変貴重なものをこれから買い求めるのだと云う気がして嬉しかったのでありました。湯で練る前に粉をそのまま口に含んで唇を窄めてふうと吹くと、煙のように粉が空に舞います。それは父親の口から吐き出される煙草の煙のようでありました。気に入ってそんなことを何度かしていると勿体ないと母親に叱られるのでありました。
 スーパーで麦茶のパック製品が売られているのを見ると、成程今は麦茶を作るのも簡便になったものと思うのであります。昔は件の麦茶売りのおじさんから桝で買った麦茶を薬缶で煮出していたのであります。薬缶ごと冷蔵庫に入れてそこからコップに麦茶を注いで飲んだあの麦茶の味は、心なしか今より濃くて香ばしかったような気がするのであります。
(了)
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寝台特急さくら号のはなし [時々の随想など 雑文]

 拙生が初めて東京に遊びに出て来たのは中学生の時でありました。十三歳年齢の離れた従兄弟に連れられて、東京に住む叔母の家に、夏休みを利用して遊びに出かけたのであります。その時に乗ったのが寝台特急さくら号でありました。
 先日、九州へ向う寝台特急が竟に最後の運行を終えたと云うニュースに接して、もうこの先二度と寝台特急列車に乗ることもあるまいなと、なんとなくシンミリしたのでありますが、拙生も随分とこのさくら号にはお世話になったクチでありました。尤もさくら号はもう四年前に一足先に運行を終えていたのではありますが。
 中学生で初めてさくら号の乗客となる光栄に浴す前は、東京から親類がこのさくら号に乗って遊びにやって来るのを送迎するだけでありました。帰京する親類を佐世保駅に送りに行った時、ちらと車内へ乗りこんで、まだ寝台がたたまれた状態の車内の対面のシートに座ってみると、子供心にも妙に旅情を掻きたてられるのでありました。
 さて、初めての寝台列車の旅に興奮して列車内をうろつき回る中学生を、歳の離れた従兄弟は食堂車に連れて行くのでありました。そこでポークカツを馳走され、慣れぬフォークとナイフでそれを口に運びながら、これぞ寝台列車のゴージャスな旅と田舎の中学生は感動するのでありました。それにつけてもこの従兄弟でありますが、自分はサーロインステーキとビールを注文して、前に座る中学生を胡散臭げに見ながらゆるりと食事を摂るのであります。やたらに脂物が好きな従兄弟で外食と云ったら常にサーロインステーキで、後年心臓を患って大変な手術をするはめに陥ったのでありますが、まあ、それはさて置き。
 当時佐世保から東京まで十九時間を要していたでありましょうか。午後四時半に出た列車は翌日の午前十一時半に東京駅に滑りこむのであります。朝の七時頃には寝台がたたまれてしまい、そのたたまれた寝台からだらしなく毛布の端がはみ出していたりして、なんとなく弛緩した朝の列車内の空気の中で、興奮と、駅に列車が停まる度にガタンと大きく揺れるものだからなかなか寝つけずに、すっかり寝不足となった中学生は虚ろな目で車窓を流れる景色を目の端に遣り過ごしつつ、ぼんやり東京到着を待つのでありました。
 爾来、後に東京の大学に進学するに及んでは、このさくら号は拙生にとって東京と佐世保を行き来するための重要な足となったのでありました。さくら号の列車内にはいろいろな思い出が詰まっているのであります。同席になった横浜の大学に通う同年の女子大生との淡い桜色した思い出、やたらに手間のかかるお婆さんに東京到着まですっかり面倒を見させられた苦笑の思い出、小学校一年生の女の子にどうしたものか妙に気に入られて、これもすっかり佐世保到着まで遊び相手をさせられてしまった思い出等々。
 一九七五年に新幹線が博多まで開業すると所要時間はぐっと短縮したのでありました。東京博多間が七時間、それから博多佐世保間が在来線特急で二時間半の都合九時間半であります。かなりの時間節約に心動かされて偶にこれを利用することもありましたが、やはり基本は寝台特急さくら号でありました。第一さくら号を利用する方が値段が安かったのでありました。まあ、もっと安く上げたかったら鹿児島から来る急行さくらじま号に鳥栖駅で乗り換えて東京へ向うと云う手もありましたが、これは寝台車ではなくて、しかも東京まで丸一日乗っていなくてはならなかったので、かなりの体力の消耗を覚悟しなければならなかったのでありました。
 大学を出て東京で職を見つけると学生時代のように長い休暇は望めなくなり、しかも毎回さくら号の指定席券を取るために要する手間と時間が惜しくなったこともあって、次第に自由席のある新幹線を利用する場合が増えていくのでありました。偶には奮発して飛行機を利用する時もありました。
 愚息が幼稚園児の頃、さくら号で佐世保に連れて行ったのが最後の乗車でありましたか。もう随分と前の話であります。愚息は拙生の中学生の頃以上に興奮してやたらと車内で騒いでおりましたが、そこは幼稚園児、騒ぎ疲れてすぐに寝てしまいましたが。
 二〇〇五年にこのさくら号は竟に運行が終わったのでありました。愚息を佐世保に連れて行った頃にはもう食堂車の連結もなくなっており、なんとなく往時を知る者としては寂しい心地ではありましたが、再び線路の上にその雄姿を見ることが出来なくなってしまうとなると、なにやら体の一部を捥がれたような喪失感を覚えるのでありました。心の内壁にこびりついた思い出の中の、さくら号に纏わる部分がすっかり剥がされて封印され、深い穴の中に納められてしまったような寂寥感と云うと大袈裟に過ぎるでありましょうが。ま、拙生が生きている限りさくら号に纏わる思い出は消えはしないのでありますが、それでももう、その思い出の残滓には二度と触れることが出来なくなったのでありました。
 ところで考えてみたら、佐世保にももう何年帰っていないのやら。実家がなくなってしまったと云うのがその主な理由ではありますが、親類も居るし友人も居るし、第一さくら号の運行がなくなった後も、他に帰る手段は幾らでも残っていると云うのに。・・・
(了)
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「ギターをとって弦をは」ったはいいが・・・ [時々の随想など 雑文]

 ふと思いついて、三十数年前に押入れの最奥に仕舞っておいたフォークギターを、苦労して取り出すのでありました。そう強くは感じないし、不便はなかったのでありましたが、手指のほんの少しの強張りが気になっていたので、一丁このギターを使って指先の老化防止をと、気紛れに企んだのでありました。
 今を去ること三十数年前にギターをものせんかなと思い立ったのは、アメリカのフォークシンガーで民衆詩人ウディ―・ガスリーの自伝“BOUND for GLORY”(邦題『ギターをとって弦をはれ』中村稔氏・吉田廸子氏訳、晶文社刊)に影響されてのことでありました。いやまあ、ギターを弾けるようになりたいと云う取りかかりの高揚感をその本から貰ったと云うだけで、日本の民衆詩人になろうとかそんな大それたことは勿論考えだにしなかったのでありました。ま、ギターが弾ければモテるかしらんと、そう云った下世話な魂胆等は充分過ぎるくらい持っておりましたが。で、考えたら、今回の魂胆は老化防止であります。どちらにしても拙生のギターを手に取る契機てえものは、音楽的に純粋な心がけからとはまったくもって云い難いのであります。
 前にギターを手にした時はフォークソング真っ盛りの頃でありました。吉田拓郎氏、井上陽水氏、チューリップ、かぐや姫等と錚々たるフォークシンガーが時めいていた頃であります。拙生は当初ウディ―・ガスリーとかボブ・ディランとかサイモンとガーファンクルの曲を弾き語ろうと目論んだのではありましたが、Septemberを「しぇぷてんばー」、sensationを「しぇんしぇーしょん」と九州弁混じりで英語の歌詞を怒鳴っても、これは返って恰好がよろしくなかろうと悟って、先ずは扶桑のフォークシンガーの曲をマスターしようと励むのでありました。しかし元々がだみ声で抑揚に癖があり、しかも音域が狭いときておりますから、これも見事に挫折するのでありました。それにギターも、不器用な左手は余計な弦まで押さえてしまうし、バレーコードではどの弦かが充分押さえきれないし、ミュートしたくない音がミュートしてしまうで、これもさっぱりなのでありました。短気でものぐさな拙生でありますから、コツコツと練習を積み重ねるのに倦んで、人はギターのみにてモテるに非ず、等とわけの判らないことを叫んで何時しかギターの練習は沙汰やみになるのでありました。
 それで今回、再度のギター登場であります。老化防止とはなんとなく色気のない了見に聞こえますが、なあに、あんな顔してギターが弾けるなんて案外イカしたオジサマとかなんとか云われて脂下がろうと云う魂胆は、それはやっぱり在りはするのであります。指先の老化が防止出来てその上モテれば、これはもう云うことなしでありましょう。それをこの前奥に話すと彼の房は片頬に憫笑を湛えて「ま、今回も挫折決定ね」と一言の下に断じるのでありました。斯くの如くに相方の向上心をせせら笑うとんでもないヤツであります。
 と云うわけで気を取り直して懐にギターを抱えてはみるものの、矢張り三十有余年の空白は埋め難く(まあ、元々埋めるほどの深さに達してはいないのではありましたが)、右も左も手指は縺れに縺れて、出る音はとても音楽と云う代物ではないことに辟易とするのでありました。よってまたもや沙汰やみになるのも時間の問題かとも思われるのであります。でありますから、ここにきてまことに申しわけありませんがこの頁、忘れてください。
(了)
タグ: 音楽 ギター
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ここを過ぎてお笑いの市Ⅰ [時々の随想など 雑文]

 以前はよく布団に入って、傍らのカセットテープレコーダーから落語を流しながら眠りに就くのでありました。夜中に夜具にもぐりこんだら丁度一席終わる頃に眠りに落ちると云う寸法であります。寝しなの、現の時間からお笑いの市(まち)への些細な旅行であります。きっと夢見も良かろうと思われるのでありましたが、そこは思惑通りに運ばないもので、殊更笑いに満ちた吉夢を見ることもなかったように思うのでありますが。
 その頃好んで聴いた噺と云えば、先ずは三代目古今亭志ん朝師匠の『愛宕山』『品川心中』『居残り佐平次』『火焔太鼓』『二番煎じ』、志ん朝師匠のアニさんの十代目金原亭馬生師匠の『花見の仇討』、十代目柳家小三治師匠の『天災』『付き馬』『野ざらし』、五代目春風亭柳朝師匠の『宿屋の仇討』、上方落語では三代目桂小文枝(五代目文枝)師匠の『稽古屋』『天王寺詣り』、三代目桂春団冶師匠の『野崎詣り』『代書屋』、二代目桂枝雀師匠の『鷺とり』『八五郎坊主』『宿替え』『住吉籠』、三代目笑福亭仁鶴師匠の『池田の猪買い』『初天神』『延陽伯』、前の桂小染師匠の『うどん屋』等でありました。時折三代目三遊亭圓歌師匠の『中沢家の人々』、五代目春風亭柳昇師匠の新作もの、柳家かゑる(五代目鈴々舎馬風)師匠の『落語協会会長への道』、ちいとお古いところで六代目三遊亭圓生師匠の『死神』『寝床』、志ん朝師匠のお父さん五代目古今亭志ん生師匠の『替り目』、三代目三遊亭金馬師匠の『小言念仏』等も聞くのでありました。
 噺家と噺の組み合わせは聞く人によって夫々好みがあるでありましょうし、上記はその師匠の十八番と云うわけでもないかも知れません。『火炎太鼓』は志ん生師匠の方を好む方もおられましょうし、『池田の猪買い』は枝雀師匠の方を面白いと思われる仁もいらっしゃるに違いありません。上記はあくまで拙生の好みと云うことであります。
 拙生の落語の聴き方てえものは、日によって色々な噺家の色々な噺を聞き替えると云うものではなくて、荷風散人の食事の癖と同じで、一つ噺を一週間でも二週間でも、場合によっては一月でもそれ以上でも、繰り返し枕辺に流すと云うものでありました。まあここで永井荷風の名前を態々出すのも唐突ではありますが、そう云えば散人も若かりし頃の一時期、六代目朝寝坊むらく師匠に弟子入りして、三遊亭夢之助と名乗って落語家を志したこともあったのでありましたか。
 それはさて置き、これは拙生が目的を持ってその噺を覚えんかなと目論んでいるとか、拙生の偏屈とか、そう云うことではなくて詰まり何時も噺の途中で不覚にも寝入ってしまうがためで、なんとなく尻切れトンボが嫌さに毎夜々々同じ噺を聞き続けるのでありました。拙生としては噺の下げに聴衆からの拍手が沸き起こった端、ストンと眠りに落ちるのを理想としておりましたが、そう上手くはことが運ぶことなんぞ、ざらにはないのでありました。
 長い間、夜な々々一つ噺と格闘(!)して、噺半ばで寝入ることなく最後まで噺を聞き了えて達成感があったならば、ようやくにその噺はお仕舞いとなって、次の日の夜から別の噺に取りかかるのであります。尤も、時に噺が終わってもまだ寝つけずにいる場合も稀にあって、そう云う時はなんとなく無人の荒野に只一人取り残されたような寂寥感に苛まれるのでありました。
(続)
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ここを過ぎてお笑いの市Ⅱ [時々の随想など 雑文]

 寄席に頻繁に通っていた頃ではありましたが、噺の入手先は寄席ではなくて専らラジオでありました。勿論、寄席での録音は御法度であります。最近はラジオを殆ど聞かなくなってしまったので、今の番組事情はしかとは判らないのでありますが、嘗ては落語の番組がそこそこ流されていたのでありました。
 同好の仁が一人在って、拙生が録音し損ねた噺をその仁が幸いにも録音していたりすると、カセットテープを貸してもらってダビングするのであります。これは逆の場合も勿論あるのであります。こう云う奇特な仁が居てくれて拙生としては大いに助かるのでありました。尤も同好の士二人が打ち揃うて寄席に出かけるなんぞと云うことは稀で、寄席通いは一人でと無言の内に互いに了解しているのでありました。
 寝しなに枕辺に流す噺は、まあ云ってみれば他愛もない噺が多くて、そう云う類の噺が好きだと云うこともありますが、『芝浜』等の人情噺とか彦六師匠(当時は林家正蔵師匠)の怪談噺とかは相応しくなかろうと流石に避けるのでありました。間の悪い拙生としては多分そう云う噺に限って仕舞いまで聞き了えるでありましょうし、カセットテープを止めた後の例の無人の荒野の寂寥感が、一際大きな波となって襲って来るのは必至であろうと思われたからでありました。人情噺も彦六師匠も勿論好きではあるのでしたが、それは矢張り夢見はよろしくなかろうと思われたのであります。笑いに満ちた吉夢は期待してもなかなかに実現するものではありませんでしたが、間の悪い拙生のことでありますから屹度、怪談噺の類はその儘そっくり夢に出てくるに違いないと思われたのでありました。
 気どり屋の或る小説家が彼の最初の作品集の、幾つかの自分の未発表の作品から断片を拾い集めて並べたような構成の冒頭の一篇で「役者になりたい」とノタマわっておりますが、まったく現実感はこれっぽっちもなかったものの、拙生も将来噺家にでもなってやろうかしら等と考えることもあるにはあったのでありました。拙生の場合は「役者になりたい」ではなくて「噺家になりたい」であります。そんな才能の欠片も持ちあわせていないことは拙生自身判っておりましたから、微風がふうと拙生の頭の中で吹いた程度の気紛れで、考える端から、鼻息と伴に頭蓋から外へ飛んで出て行った将来像であります。しかし着流しに角帯を貝殻結びにきつく締めて、白足袋に雪駄で浅草寺から六区辺りを涼しい顔して軽やかに歩けば、それは屹度なんとも良い心地であろうと考えたりするのであました。
 さて、ところで、ふと思いついてこの前押入れの最奥から三十年程前に使っていたギターを取り出した時、以前収集していた落語のカセットテープが一緒に、段ボール箱に詰まってゴッソリと出てきたのでありました。このところ落語を聞くことも絶えてなかったことでありましたから、懐かしさに時を忘れてカセットテープの表題と演者の名前に見入るのでありました。
 一丁聞いてみようと思ったものの、今の我があばら家にはカセットテープレコーダーがないのでありました。考えたらCDだのMDだのDVDだの携帯メモリーだのという御時世であります。それに音楽ファイルをパソコンで再生する時代であります。今となってはカセットテープの再生装置は身の回りに必要なく、それで不便を感じることなく暮らせるのであります。
 そうなるとこの押入れから出てきた落語のテープを聞こうとしたら、カセットテープの再生装置を新たに買い求めることになるのであります。しかしそれを買い求めても、使うのは結局この落語のテープの再生のみであります。今更音楽をカセットテープで聴くと云うのも腰が引ける仕業でありますし。
 カセットテープ再生装置を買うか買わぬかと云う懊悩は、今は拙生の安眠を掠め取ること彦六師匠の怪談噺の如くであります。「ここを過ぎて悲しみの市」。嗚呼、なんとも悩ましや。
(了)
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万年筆のはなしⅠ [時々の随想など 雑文]

 そんなに筆記用具に凝る方ではないのでありますが、そう云えば最近とんと手にしないのが万年筆であります。何時頃から日常の筆記にそれを使わなくなったのかと考えたら、もう二十年以上も経つでありましょうか。
 万年筆と云うくらいでありますから一万年使えるペンと云うことでありましょう。なんとも自信に満ち満ちた筆記用具であります。尤も鶴は千年亀は万年の万年で単に非常に長持ちするペンの謂い、万年床が敷きっぱなしの蒲団でありるのと同じで、いちいちインクをつけなくても書きっぱなしが出来るペン、と云うことで「万年」筆なのかも知れません。しかしその筆記用具としての風格や歴史からすれば、充分にプライドの表明を許すに値すると思うのであります。それでも一万年とはちと自信過剰の気味で大風呂敷の類ではありますかな。まあ、その命名の経緯を知らない拙生の勝手な憶測であります。
 鶴は千年亀は万年とは云うものの、この前縁日で買ってきた亀が三日目に死んでしまったので文句を云いに行ったら、露店のオヤジにその日が丁度一万年目だったのですなあと云われて納得して帰って来たと云う話がありますが、これは確か上野の鈴本かどこか寄席で聞いた噺であります。そう云えば前に子供にせがまれて新井薬師の縁日だったかで買ってきた亀は、適当な水槽がなかったので透明のプラスチックの虫籠に入れて飼っておりました。掌に載る程の大きさの頃はそれで良かったのでありますが、次第に成長して虫籠の中では窮屈になったようなので、大きめのこれもプラスチックの衣装ケースに移してやったのでありますが、なにやら虫籠の中に居た頃に比べて急に動きが鈍くなって、みるみる元気がなくなるのでありました。これはいかんと思ってまた住み慣れた虫籠に移すと、今度は元気にガタガタと天井の蓋を開けようとしてみたり、仕辛そうに中で体の向きを変えてみたりと忙しなく動くのでありました。恐らく虫籠が透明で衣装ケースが不透明であったために、虫籠に入れられている時の方が広い空間に居る気がして、なんとか動き回ろうと始終ガタガタやっていたのでありましょう。
 その亀の姿は楕円ではなくて真ん丸に近くなっていて、これは狭い虫籠と云う環境に彼が適応した結果でありましょうか。しかしもっと長じて遂に虫籠の中では身動きがとれなくなるのでありましたが、それは井伏鱒二の『山椒魚』の悲しみを思わせるのでありました。これは何が何でも宜しくなかろうともう一度衣装ケースの方に転居願ったのでありましたが、またそこでは蹲るように手足首尻尾を縮めてあたかも石像と化した風情であります。それはそれでなんとなく東洋的虚無を体現しているようで、拙生としては美しい姿であると思うのでありましたが、しかし彼の健康を慮ってペットショップに引き取って貰うことにしたのでありました。その広い水槽で他の仲間との交流を通じて彼に社会化してもらおうと云う思惑であります。しかしこんな真ん丸亀をペットショップが引き取るかしらと危惧したのでありましたが、店の人はほうと唸って「珍しい形ですなあ」と云いながらニタと笑って、快く亀の社会化に一肌脱いでくれるのでありました。勿論タダでよいなら引き取りますと云う店長の提案を受け入れること、拙生は全く吝かではないのでありました。思えばこの亀もこの先九千九百九十年以上も生きるわけでありますから、見事亀社会の中でその姿形と同じに異彩を放つ存在として立たんことを拙生は祈るのみでありました。
(続)
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万年筆のはなしⅡ [時々の随想など 雑文]

 いや、それにつけても万年筆であります。
 最初にそれに触ったのは小学生の頃でありました。父親の机の木の筆入れの中に芯の先を平らにした幾本かの鉛筆や、ペン軸に装填された丸ペン等に混じって、黒い万年筆が無造作に横たわっているのでありました。まだインクカートリッジが普及していない頃で、その万年筆はインクを本体に吸いこんで使うものでありました。鉛筆より遥かに太い黒い艶のある本体と同色のキャップ、如何にも重厚な金色のペン先、軸中に隠れた銀色に輝くインクタンク等が如何にも大人の筆記用具と云った趣でありました。秘かにそれを取り出してキャップを外してペン軸の尻に差し、紙に金色のペン先を恐る々々押しつけると藍色のインクが滲むのであります。普段鉛筆しか持ったことのない小学生は、こう云ったもので字を書くようになるのが大人になる条件だと考えるのでありました。
 自分の万年筆を手に入れたのは高校生になってからで、その頃になるとインクカートリッジ式の物が主流で、インクタンク式の物はもう殆ど姿を消しているのでありました。しかし初めて手にしたの己の所有になる万年筆であります。最初、鉛筆しか持ったこのとのない手にはそれはいかにも使いにくい代物でありました。しかし万年筆で字を書くことが大人としての嗜みであるからには、それに是が非でも慣れなくてはいけないのであります。拙生は授業のノートを万年筆でせっせととるのでありましたが、誤記をしても消しゴムで消せないし、カートリッジのインクの残量を何時も気にしていなくてはならないし、インクカートリッジの嵌りが悪くてインクが漏れ出して、学生服ばかりではなく下のシャツの白い胸ポケットや下着までもが漏れたインクで汚れ、手は藍色に染まり爪の中に忍びこんだインクは何時まで経っても其処に居座っているで、厄介なその取扱いになんとも苦慮するのでありました。
 それで結局シャープペンの手軽さに心が動き、何時からか万年筆は、めったには出さない手紙を書く時くらいしか手にすることはなくなってしまうのでありました。その後は主にシャープペンが拙生の内ポケットに格納されるのでありましたが、時にボールペンであったりペン先がプラスチックの細書き用の水性ペンであったりで、万年筆の出番など全くなくなっているのでありました。
 万年筆は何時しか拙生の周りでは殆ど見ることもなくなり、高校時代に手に入れた万年筆はその行方も今は知れないのであります。家に居た真ん丸の亀と同様に、一万年の寿命を持つ万年筆のことでありますから、拙生の目には触れないながら今も何処かでひっそりと、拙生に再び手にされることを待っているかも知れないと考えると、なにやら切ない気もするのであります。そう云えばあの真ん丸の亀も、未だ亀社会の中で異彩を放つ存在になったと云う噂を聴き及びませんが、今頃どうしているのやら。・・・
 最近まで万年筆に対する小学生の頃の憧憬は、置き火のように拙生の気持ちの底の方に燻ってはいるのでありました。時々思いついたように万年筆が欲しくなって、百貨店の文房具売り場で長い時間幾本も陳列されたキラキラと輝くその姿に見入ったり、買いもしないのに神保町の金ペン堂で、恐縮しながらモンブランの太字の高級万年筆を見せて貰ったりするのでありました。
(続)
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万年筆のはなしⅢ [時々の随想など 雑文]

 十年程前に出た赤瀬川原平氏の『悩ましき買い物』(フレーベル館刊)と云う本をパラパラと読んでいたら、万年筆に関する項があってモンブランの特太のそのまた上の「3B」の書き味が記されているのでありました。「ペン先を紙に接した瞬間からするすると濡れた線があらわれる感じ」と云うところで、拙生の目は少し見開かれるのでありました。「当然のようにするするっとインクが出てきて、その感じがじつに上品で、しかも力強く、凄い」等と読まされるに及んで、拙生の目に妖しい光が屹度宿ったに違いないのであります。いやいや、これは危険であります。
 勿論、正気に返った拙生は高価な万年筆を買いはしません。拙生には高額過ぎるのであります。日常殆ど使わない筆記用具にそんな金は出せません。拙生は審美よりは実用を尊ぶ無粋な男であります。しかし魔がさすと云うこともありますし。・・・
 第一、今一番頻繁に使用する筆記用具はパソコンなのであります。シャープペンやらボールペンですら手にする時間が一日の内で一時間あるかないかと云う日常であります。高級万年筆一本を買う金でパソコンが一台買えるのでありますから、どう考えても拙生に冷静な判断力があれば万年筆に手が伸びる環境では絶対ないのであります。この辺は本によると赤瀬川原平氏がパソコンを殆どやらないのとは違って、拙生はパソコンを大いに使います。まあそんなこみ入った使い方や、様々なソフトを駆使してとか云ったことではないのでありますが。ですから万年筆を買うくらいであればハードディスクを一つ買い足す方が、今の拙生には適宜な買い物と云うことになるのであります。しかしまあ、ひょっとしたら魔がさすと云うこともありますし。・・・
 考えてみれば昔は万年筆を片手で操って字を書いていたのでありますが、今はパソコンを両手を使って操るわけであります。以前は片手でしていたことを今態々両手を使ってやっているのでありますから、これは進歩と云えるのでありましょうや。筆記は両手を塞がれるよりも片手の方が、空いた手で頭を掻いたり鼻を穿ったり耳朶を弄んだり、額を指の腹でトントンと叩いて言葉を思いつこうとしたり出来るのでありますから、好都合のような気がするのであります。両手が塞がれているとこの何れの所作も制限されてしまい、そうなると良い文章等はなかなか書けなくなるのかも知れません。その好例がこの駄文かと云われれば、恐れ入りましたと頭を下げる拙生であります。
 一万年後の世に万年筆が使われているであろうとは、今誰も保証出来ない話であります。パソコンも怪しいものであります。今から千年前の平安時代に藤原道長は毛筆を使っていたのであります。彼の人が幾ら英邁の人であってもまさか万年筆やパソコンの出現は想像だに出来なかったでありましょう。これが鶴は千年の昔であります。それが亀は万年の世界となると洪積世から沖積世への分岐時期、先土器文化の晩期でありますから、当然文字すらもなかったのであります。してみると拙生が高校時代に手に入れた万年筆は、いったいどのような晩年を迎えるのでありましょうや。家で飼っていた真ん丸の亀はどのような世界を、その目の閉じられる瞬間に見ているのでありましょうや。そんなことよりなにより、この数年中に拙生に魔がさして、万年筆をこの手に握ってなにやら文字を書いていることになど、本当にならないのでありましょうや。
(了)
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腹痛のはなしⅠ [時々の随想など 雑文]

 近来、頓に夜中に腹痛に襲われて目を覚ますことがあるのであります。この腹痛は激痛という程ではなくて、鳩尾辺りがシクシクと不快に収縮するような感じで、それでもそこそこ痛いは痛いものでありますから安眠を妨げられるのであります。
 夕食が十時頃と遅いものでありますからそれも影響しているのでありましょうか。拙生の胃の就労時間が終了した後に、この遅い夕食で胃に残業を強いるものでありますから、胃がサボタージュして摂取した食物が滞留してしまい、それが原因で不具合が起こっているのかも知れないとは素人考えでありますが、まあ、なにやらそんな風に思えるのであります。
 夕食後暫く経って、或いは食事の最終段階辺りで微少ながら前触れのような不快感を感知すると、その後に決まって件の苦痛の来襲であります。寝る頃には立派な腹痛に成長している場合もあれば、寝入るには不都合がなかった程度のものが一眠りの後に確然たる痛みとなって拙生の腹の中で屹立し、夢から現に拙生を引き摺り戻すような場合もあります。
 夕食の時間はもう二十年来夜の十時辺りと決まっていて、以前はそんなに頻繁な腹痛に悩まされたことはなかったのでありました。食事の内容にしても食事時間と同様に然程に変化はしていないはずでありますが、しかしここに来て頻発するようになったのであります。一頃は三日置きとか、腹痛の日が三夜に腹痛ならぬ日が四夜と云う周期の時もありましたか。しかも厄介なことに、どう云うタイミングで、或いはなにを食せばこの腹痛が発生するのか法則性がはっきり判らないのであります。拙生は忽然と現れ出るこの腹痛のために、睡眠時間の減少に大いに参るのでありました。
 うつ伏せになって鳩尾を圧迫してみたり、仰向けで腹を摩り続けたり軽打を繰り返したりと、なんとか気を紛らわしながら鎮静するのを持つのでありましたが、漸くに痛みの高波が凪に変わる頃には、もう外は白やかに物の形も見分けがつく頃となり、鳥の囀りも聞こえ始めるのでありました。ほんの僅かまどろむと、もう起床時間であります。
 これはひょっとしたら大病の前兆ならんと恐怖して医師の診断を仰ぐものの、医師もウーンと唸りを発するばかりで、取り立てて何処とて顕著な不具合を見出せない様子に、こちらもそんな義理はないものの、なにやら不必要に師の手を煩わせたような心持ちになって恐縮したりするのでありました。恐縮序でに、然らば拙生のこの腹痛の因は那辺に在り也と問えば、医師は唇の端を薄ら笑いに動かして「まあ、ストレスと老化現象でしょうかなあ」と、なにやら恐縮をして損をしたような言葉が返って来るのでありました。
 ストレスは置くとして、老化現象と一言で片づけられれば、もう打つ手なしと引導を渡されたような気分であります。而も老化現象は生物としてこの世に在る以上止める能わざるものでありますから、これから益々腹痛の頻度も程度も酷くなりますぜと、診療代を払って態々脅かされに行ってきたようなものであります。
 まあしかし確かに、それが真ならんと云うところでもありましょうか。幸いにも頻度も程度も未だ増大をしている風はありませんし、どちらかと云うと今は減少傾向にあるような気もするのであります。それは屹度老化が益々進んで鈍くなったからと云われれば、拙生は憮然たる表情を披露するしかないのでありますが。
(続)
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腹痛のはなしⅡ [時々の随想など 雑文]

 若い頃は腹痛と云えば食い過ぎか腹の減り過ぎ以外の因は見当たらないのでありました。しかも我慢の内も内、痛くたってそれでも尚更食っていれば次第に治ると云う類のものでありました。どんなに脂っこいものでも、胃の壁から炎が立ち上る程辛いものでもへの字でありました。心臓が停止してしまったとしても、我が胃と腸のみは活動を決して止めはしないであろうと思ったくらいでありました。
 友人と二人で新幹線に乗って帰省する折横浜でシウマイ弁当を食い、浜松でうなぎめしを贖い、名古屋駅で一旦降りてきしめんを腹に収め、神戸でしゃぶしゃぶ弁当に手を出し、岡山で祭ずしの蓋を開け、広島であなごめしに箸を刺し、終点博多では街に出て川端ぜんざいを平らげたと云う、嘗ては拙生も剛の者であったのであります。この後佐世保に着いてから駅の地下道にあるお富さんのラーメンでとどめを刺したのでありました。ラーメンの出来あがるのを待つ間に、ことの序でとおでんも一串二串。まあ、きしめんとぜんざいとラーメン以外は二人で一つの弁当を食するのではありましたが。
 その拙生が、今や腹痛持ちであります。序でに云うと、なにを食ってもこの身にアレルギー等あろう筈もないと思っていたのでありますが、先年納豆の食い過ぎから豆アレルギーを発症し、髪染めしたら染料にかぶれるしで、なにかにつけて尫弱になったこの頃であります。盛者必衰、実者必虚、朝に紅顔ありて暮に白骨の無常観、今や一入であります。
 いや、妙に老寂びた話になって恐縮でありますが、なあに実際はそんなに老けこんではいないのでありますから、ひょっとしてご心配の向きがあるとするなら何卒ご安心を。若い者程老弱を気取りたいし老いたる者程若気を誇示したいと云う、その口であります。
 拙生の腹痛の因が器質に問題を見出せないのであれば、それは機能の問題となるのでありましょう。胃なり腸なりを支配する自律神経的な不具合と云うことでありましょうか。 カイロプラクティックのメリック・チャートによれば胃の症状は胸椎六番から八番辺りの問題であります。拙生の腹痛は鳩尾辺りを摩りたくなるわけでありますから、その辺りの皮膚が過敏になっていると云えますし、これは皮膚節(デルマトーム)では胸椎六番から胸椎八番辺りの神経が支配する皮膚知覚領域であってメリック・チャートと一致します。腸なら臍の上下のレベルでありますから、因って拙生の腹痛は胃の問題であると見当をつけるのであります。まあ、胃弱であります。認めるに抵抗はあれども、詰まり老化現象による胃の機能低下と云うことでありますか。やれやれ。
 腹痛と云えば荷風散人も胃弱で苦労したとのことであります。大久保余丁町の本宅六畳間の書院「断腸亭」の命名は、庭に植えたところの日陰を好んで咲く秋海棠の別名「断腸花」と、自らの胃弱に因っているのであります。
 荷風文学は若者よりは年配者、女性よりは男性の方に圧倒的に好まれる云うことでありますが、まあ、散人の残した作品が作品なだけに、そりゃあ確かに女性読者は少なかろうと想像出来るのであります。この身が男であることはとうの昔、生まれた時から持ち合わせている条件ではありますが、この度晴れて老化現象と胃弱をも我がものとしたのでありますから、ここにきてようやくに荷風文学を楽しむ下地を色々手に入れたと云う心持ちがして、少々やけっぱちな表情をつくりながら喜ぶ拙生であります。
(了)
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傘がない! (1) [時々の随想など 雑文]

 今までに何本の傘を失くしてしまったことか。人間が粗忽に出来ているものだから、小学生の頃は色々な処に傘を置き忘れて、その都度母親に散々叱られてきたのでありました。いやひょっとしたら幼稚園の頃から既にそうであったかも知れません。
 反省すること頻りではあるのですが、朝降っていた雨が下校時に上がってしまうと、もうすっかり持ってきた傘のことは失念してしまうのであります。折よく下校時にまだ雨が降り続いていてちゃんと傘を持って学校を出たとしても、途中友人の家等に寄り道したりするともう傘のことは頭から消し飛んで仕舞い、結局は母親の怒声を項垂れた後頭部で聞くことと相成るのでありました。
 長ずるに及んでも傘との相性が悪いのは変わらずであります。これは屹度、前世で傘職人かなにかに悪さを仕掛けたために違いないとつくづく考えたりするのでありますが、そうなると償いようも既になく、精々悔悟と反省に明け暮れる後生を送って、この因縁の解消は来世に期するしかないと覚悟するのであります。と云っている傍から、昨日も傘を電車の中に置き忘れてくるのでありますから、拙生の悔悟と反省なんと云うのも程度が知れているのであります。実に以って面目ない。
 さて、若い頃には傍目にはどんなに大袈裟で愚かしく見えることでも、当人は至って真面目、寧ろその自らの振舞いの一貫性に秘かに酔ってすらいると云うことがあるもののようであります。若気の至りとして片づけてしまえる程度のことではありますが、老人の頑固とはまた別の趣があって、そこはかとない色気も漂う場合があります。まあ、これから話す随分昔の拙生の若気の至りはそんな色気なんぞ特段漂わないのでありますが、大袈裟加減と愚かしさの点では大いに人に誇れるシロモノなのであります。
 雨上がりの駅で拙生は最終電車を待っているのでありました。なかなか来ない電車に焦れて拙生は煙草を一本燻らさんかなと、灰皿のあるホームの端に移動して持っていた傘を後ろの壁に立てかけて、ポケットから煙草とマッチを取り出すのでありました。一本を吸い終えてもまだ電車は姿を現さず、拙生はもう一本に取りかかるのでありました。その二本目も終えて三本目の半ば位に煙草の長さが変わった頃、ようやくに電車が到来するのでありました。
 拙生は慌てて煙草の火を消してそれを灰皿に捨て、空いたドアから電車の中に滑りこむのでありましたが、ドアの窓越しにホームを見ると、薄ら灯りの中に拙生の傘が灰皿の横で寂しげに立っているのでありました。あっと思った時にはもう既に手遅れで、拙生はそこでも得意芸たる傘の置き忘れを仕出かしてしまったのでありました。悔やむこと頻り、拙生は傍に聞こえないように舌打ちをして、遠ざかる拙生の傘を見ているのでありました。
 その傘は拙生にしたら比較的長く使っていた傘で、不思議と拙生の置き忘れ癖を上手く回避してきた剛の傘、或いは拙生との相性の良い奇特な傘なのでありました。ですから拙生の方にも少なくない愛着のようなものがあったのでありました。ようやく巡りあった反りのあう相棒を失ったような無念さに、拙生は暫し茫然と電車の中で立ちつくしているのでありました。自分の不注意からその傘に対して許し難い裏切りを働いたような気分でもありましたか。
(続)
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傘がない! (2) [時々の随想など 雑文]

 次の日の朝、曇天ではあるものの雨は上がっているのでありました。拙生は何時も通り朝の不機嫌な顔の儘混みあった電車に揺られて件の駅に着いてみると、その傘は昨夜拙生が立てかけたその儘の姿で、ホーム端の灰皿の横にまだあるのでありました。忘れられたように(いや、本当にそれは拙生に忘れられたのでありましたが)密やかに佇むその姿は、ぞろぞろと改札口に流れる人波の中に拙生の姿を、消沈した面持ちで探しているような風情にも見えるのでありました。それは店先に繋がれて店内を一心に見詰めながら、買い物をしている主人が出てくるのを待っている犬の姿を連想させるのでありました。
 当然今の拙生なら、おおラッキーと内心指を鳴らして莞爾として傘を我が手に取り、そのまま何ごともなかったような顔をして改札へ向かうのでありましょうが、その時の愚かしき若者たる拙生は、そう単純に明快に我が喜びを表出出来ないでいるのでありました。いや正確に云うと、喜びを表出するのが傘に対して甚だしく気恥ずかしかったのでありました。拙生は立ち止まって、後ろから追い抜く人の迷惑気な一瞥を頂戴しながら、眉間の皺を深くして小難しい表情もて傘を見つめるのでありました。
 この傘は一端は拙生の手から離れた、いや我が落度によって手放された傘なのであります。云わば傘と拙生の縁は、どのような経緯に因るにせよ、事実として昨夜断たれたのであります。その離別は突然に、そしていかにも呆気なく行われたのであります。突然で呆気ないだけに、それは別離と云うもののリアリティーを確然と有した幕切れであったように感じていたのであります。だから、ここで拙生がその別離の、云わば「麗しき」リアリティーを乱してまでこの傘を再び我が手に取ることが、果たして執るべき「麗しき」行為であるのかないのか、拙生は大いに懊悩するのでありました。
 そんな躊躇をしているものだから拙生はなんとなく傘を取り戻す機を結局逸して、愚かにも傘をその儘にして駅を出て仕舞うのでありました。改札を出てから、今の拙生の振舞いてえものは、拙生の流儀に照らして、果たして正しい行いだったのか否かと何時までも煩悶しているのでありました。
 ここでプッと吹き出したり、細めた瞼の奥の目ん玉を横に流して拙生を見たりしてはいけません。それは誰ならぬ拙生自身が今やっているのでありますから。
 傘はその日の夕刻もその儘の姿でホームにあるのでありました。そうして次の日の朝も、変わらずホームの端に立っているのでありました。いい加減駅員が片づけないものかなと、拙生は駅の服務規定に疑問すら抱くのでありました。いや律義に片づけるよりは、こうして忘れた時の儘の姿で放置しておく方が、忘れた主が持ち帰りやすいかも知れないと云う駅側の配慮かも知れないとも考えるのでありました。
 やっと三日後に、傘はホームから姿を消したのでありました。拙生は漸くに物語が完結したような安堵感を抱くのでありました。と同時に、やっぱりちゃんと取り戻せばよかったかなと少し悔いたり、あの傘に改めて申しわけないような気分にもなるのでありました。
 嫌に大袈裟な思いこみ、噴飯ものの誇張性、必要のない潔癖感、律義に過ぎる教条主義、どんなに詰まらないことに対しても物語性を付与してしまう浅はかなロマン主義、・・・若気の至りであります。面目ない。今となっては欠片も御座んせんが。
(了)
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方言のはなし (1) [時々の随想など 雑文]

 前に『枯葉の髪飾り』を読んで頂いた方から、この中に出てくる二三の方言が判りにくいとのご指摘を頂戴したのでありました。少々の気遣いはしていた積りでありますが、確かに「やぐらし」とか「よそわし」とか「そいぎんた」と云った方言は判りにくかろうとは思いながら、なんとなく別の言葉で置き換えると気分が出ないものだから、そのまま使って仕舞うのでありました。
 佐世保近辺の方言を詳しく分類整理したことはないのでありますが、幾つかの系統で整理してみると面白いかも知れないと思うのであります。古語がそのまま生きている表現やら、使われる内に音韻が転訛したもの、強調の接頭語がついたもの、或いはそんな色々な要素が混合したもの等、なんとなく推測はつくのでありますし、またその使用域は佐世保に限らず、長崎県全般、九州地方全般と云うものもあるでありましょう。ここは気楽に、分類整理癖なんぞは脇に置いて、佐世保の方言について少々文字をばのたくってみたいと思うのであります。ちなみに先の「やぐらし」は「「煩わしい」でありますし、「よそわし」は「汚い」で、「そいぎんた」は「然様ならば」と云った意味の方言であります。
 「いっちょん」は「ちっとも」とか「全く」であり「よんにゅう」は「いっぱい」とか「多く」の意で副詞、或いは副詞的に使われるものであります。細君から部屋の片づけを命じられてちっとも捗らないでいると「いっちょんしとらんたい!」とお小言を頂戴するのでありますし、スナックでカウンターの内側のママに水割りを作ってもらっていて、ウイスキーに対する水の割合がやけに多いと判断した場合には「もっと酒の方ばよんにゅう入れんか!」と文句を云うのであります。
 「おもやいで」と云うのは「共同で」とか「一緒に」と云った意であります。刺身の醤油の小皿が足りない場合で、もう一つ小皿を出してくるのが面倒な時等に「醤油の小皿はお父さんと汎ちゃんでおもやいしなさい」と母親に云い渡されたり、運動会の鉢巻きが足りない場合、クラスの気の弱そうなヤツ二人に「鉢巻きの足らんけん、お前達は二人で一本ばおもやいで使え」と小学生が先生に云い渡されたりするのであります。兄弟の多い家庭に育った方はこの「おもやい」を、色んな場面で強制された経験が屹度おありでありましょう。
 「えすか」は「恐ろしい」の意で、「おめく」は「喚く」であります。これは古語がそのまま今に使われている例であります。夏の夜に近所の兄ちゃんの家に遊びに行って聞かされる廃院になった病院の噺は「えすか」噺であり、喧嘩を売られたチンピラが、内心怖いけれど引っ込みがつかなくなって、やけくそ気味に大声で相手を罵り騒ぐのは「おめく」ことによって自らの怯みを相手に見透かされまいとする魂胆からであります。
 「びっしゃげる」は「拉げる」の転訛で「潰れる」であることは判るのでありますが、「うっかんげる」は「壊れる」でありまして、どうしてこのような表現が生まれたのか俄かには判らないのであります。またところで、蛙を指す言葉に「ビッキ」と云うのがあり、これは「ヒキガエル」からきたのであろうと推察するのであります。子供の頃はヒキガエルに限らず確かに蛙一般を「ビッキ」と云っておりましたか。なんとなく可愛らしいような、そうでもないような呼称であります。
(続)
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方言のはなし (2) [時々の随想など 雑文]

 叔母がうら若き頃東京に出てきて、春まだ浅い候、デートの最中に道に冬眠から覚めたばかりの蛙が車に轢かれているのを見て、衝撃のあまり思わず「うわあ、ビッキのびっしゃげとる!」と叫んでしまって、その意味不明な悲鳴に因って、最愛の彼氏を失ったと云う話を聞いたことがあるのでありました。実に悲しい出来事であると、悲哀の色を瞳に浮かべながら、内心ニタニタ笑って拙生はそれを聞いたのでありました。
 それから「うっかんげる」でありますが、古語に「穿ぐ」と「かなぐる」と云う言葉があります。『徒然草』第五十三段の「これも仁和寺の法師」に、稚児が法師になる名残りの宴席で、ある法師が座興に鬼踊りの積りで足鼎を頭から被って舞い出たのはいいけれど、その鼎が抜けなくなると云う話があります。手を尽くした後乱暴な話でありますが耳や鼻が切れてなくなっても、死ぬことはないから無理矢理引き抜けと云う者があって、そうしたら抜けはしたものの予想通り耳鼻が削ぎとられてその傷は長く治らなかったと云う話しであります。この中に「耳鼻欠けうげながら抜けにけり」とあり、この「うげながら」は「穿げながら」で、詰まり欠け落ちるであります。また「かなぐる」は『竹取物語』にある表現でありましたか、引き抜くとか掻き毟ると云う意味であります。何れも壊れると云う意味あいであり、この「穿ぐ」と「かなぐる」があわさって「穿きかなげる」となり、「うっかんげる」になったのではないかと愚考するのであります。当たっているかどうかは全く以って自信がないのでありますが。
 かの『徒然草』のお稚児趣味に加担するお調子者の俗物法師も「うっかんげる」のが鼎ではなくて自分の顔であったのは、まことに以て気の毒なことでありました。大事にしていた玩具が友達の手に因って「うっかんげた」くらいに、或いは高価な古本を友達に貸したら、表紙の一部に傷がつけられて少し「うっかんげた」状態で、しかもコーヒーか醤油染みをつけられて返ってきた場合程度には、気の毒な話であります。
 「ととしか」と云うのは「不器用だ」という意味であります。最近は殆ど見ることはないのでありますが、レコードに針を乗せるのがやけに下手クソなヤツとか、饅頭を食おうとしたら自分の指まで噛んでしまうヤツは実に以て「ととしか」ヤツなのであります。ズボンを穿こうとしてすっ転ぶのも、部屋の中で足の小指を箪笥に打ちつけるのも、髭を剃ると必ず鼻の下に傷をつけるのも、他所の家で靴を綺麗に脱ごうとして、足を靴から離す最後の瞬間で、片方の靴をちょろっと蹴ってしまうのも己が「ととし」さ故であります。多少おっちょこちょいと云うニュアンスもこの言葉には含まれますか。
 「ぬっか」は暑いと云うことで「温い」であり、この云い方は多湿な感じが籠っていて扶桑の夏の暑さを上手く表現していると思うのであります。「ぐらいする」は「うんざりする」と云う意味であります。「ぐらいするぐらい」は「うんざりするくらい」で、なんとなくドイツ語のような語感に聞こえるような聞こえないような。「ずんだれ」は「だらしない」で「ズボンのずんだれとる」は今の若者の腰パンを見たら佐世保のオバチャンは屹度そう云うのであります。うんにゃくさ、あんまいこがんふうけたはなしばっかいいつまででんしよるぎんた、しぇんしぇいにがらるっかもしれんばい。そいにみんなにいっちょかれでんしたらみたんなかけん、こんぐらいにしとかんば。そいぎんた、バイバイばい。
(了)
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家が建つぞ(1) [時々の随想など 雑文]

 拙生が小学校六年生の時に父親が家を建てたのでありました。それまで住まっていたのは二軒長屋のような造りで、元々義伯父の所有になる古い家でありました。そこに義伯父一家と拙生の家族が住んでいたのでありましたが、義伯父一家が離れた郊外に引っ越すと云うので、土地と建物を拙生の父親が買い取って古屋を解体して新しい家を新築するのでありました。父親は佐世保重工業の下請け仕事をする小さな設計会社をやっていて、丁度日本経済が高度成長を続けている頃で造船業も随分と羽振りが良かったのでありました。
 古い家には北向きの六畳間が在って、そこには一間半の縁側がついているのでありました。ここに父親が会社から持ってきた机を置いて、それが拙生の勉強机となっているのでありましたが、その一間半の縁側が拙生の占有空間なのでありました。拙生としては、ここはここでなかなかコンパクトな良い空間であると気に入っていたのでありましたが、しかし如何せん手狭の誹りは免れ難く、新しい家が建つともっと広い自分のちゃんとした部屋が与えられるはずであると大いに期待に胸を躍らすのでありました。
 二軒長屋の隣には初老の寡婦と、もう中年に達した末娘が二人で住んでいて、日頃から我が家とは懇意にしていたのでありましたが、この隣家の二階は六畳と三畳の二間とそれに台所のついた貸し部屋となっているのでありました。それが丁度空いたものだから、拙生の一家は新しい家が出来上がるまでそこへ住まわせて貰うのでありました。家財道具の入り切れない物は下で預って貰えるのでありました。
 古い家が解体されて建築工事が始まると父親は毎日早めに会社を切り上げてきて、隣の敷地で繰り広げられている工事を熱心に監督するのでありました。なんとなく面白そうであったから拙生も勝手に監督助手を買って出て、父親について新しい家の建ちあがって行く様を、真新しい白木の柱を撫でながら見守るのでありました。
 基礎のコンクリート打ちから棟上げまでは順調に推移し、上棟式には拙生も屋根に上がって祝い餅を投げたりしたのでありました。近所の人やら同じ小学校に通う同級生、下級生、或いは中学生達の見上げる中、その連中の頭上に餅をふり播くなんと云う儀式は、拙生をなんとなく晴れやか且つ誇らかなる気分なんぞにさせるのでありました。
 さて、その後の工事が滞るのでありました。それは壁塗り仕事が全く捗らないためでありました。六十年配で小柄な大工の棟梁の娘婿に当たるのが左官で、こちらは立派な体格をした子供の目には少々怖いような風体と言葉つきの人でありましたが、この人が酒に目がない性質でついつい毎日過ごして仕舞って、飲むと次の日の仕事には全く出て来ないものだから壁塗りが捗らないのだと云う話でありました。
 大工の棟梁はこの件に関して請け負った工事会社の担当にも拙生の父親にも、頭の下げ通しでありました。しかしこの棟梁、働きぶりが律義で仕事にそつがなく大層腕の良い職人さんで、下の者から心服されている信頼に足る人物だと云うことなので、その人柄に免じて、娘婿の左官の了見違いも少しは大目に見られるのでありました。棟梁に任せていれば屹度上手く運んでくれると、工事会社も父親も万事棟梁の差配に任せてつべこべと口出しをしないのでありました。まあ、今なら工事の進捗には結構神経質なのでありましょうが、当時はなんとなく発注側も請負い側も鷹揚な風であったのでありましょうか。
(続)
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家が建つぞ(2) [時々の随想など 雑文]

 暫く経って久しぶりに、大工の棟梁の娘婿の姿を工事現場に見るのでありました。彼は棟梁の指示に何度も頭を下げ、おどおどと従い、その態度は如何にも恐懼甚だしいと云った風なのでありました。只その顔は、人相を見違える程に腫れあがっているのでありました。片頬が赤く異様に膨らみ片目は腫れて、紫色になって肥大した瞼が目を覆い尽くしていて、額の至る所に生々しい傷が浮いているのでありました。それは義父にして工事の差配者たる大工の棟梁によって手酷く折檻された痕であることは、小学校六年生にも容易に推察出来るのでありました。
 棟梁は娘婿より矮躯で、その頭頂は娘婿の肩を少し出る位までしかないのであって、娘婿の筋骨隆々たる胸板や腕に比べれば、確かに肉体を酷使する職人の体ではあっても、それは矢張り痩せ気味の初老の男の体格なのでありました。義父にして棟梁と娘婿にして下僚である双方の弁えはあるにしろ、しかしこれ程までに手酷く打擲してその仕置きに一切逆らわせないでいられる棟梁の気魄を、拙生は秘かに大いに畏怖するのでありました。
 しかしこの棟梁も娘婿の左官も、非常に優しい人でもありましたか。と云うのは、棟梁の方は横にいて興味津津にその仕事を見ながら話しかける拙生が、昨日段ボール箱の中で飼っていたひよこが、暖を与えるために置いていた湯たんぽの下敷きになって死んでしまったと訴えると「ああ、そうね」と云って、急に傍らの余り木を取って瞬く間に小さな卒塔婆を拵えてくれるのでありました。竹箆を墨壺につけて「ひよこの墓」と綺麗な文字で書いた後、棟梁が「埋めた処に、こいば立てとかんばばい」と云って渡してくれるその小さな、しかし精巧に本物の形を模した卒塔婆を拙生は感動して押し頂くのでありました。
 また矢張り傍で仕事を見ていた拙生に、棟梁は「坊も釘ば打ってみるや?」と出し抜けに聞くのでありました。棟梁は拙生のことを「坊」と呼ぶのでありましたが、こんな呼称でそれまで呼ばれたことがなくて、拙生はなんとなくその呼び方に違和感を持っていたのでありましたが、まあそれは兎も角、拙生が大いに乗り気で頷くと、壁土を塗る土台の板に打つ釘を一本打たせてくれるのでありました。なにやら大事な仕事を任せられたような気になって、拙生は緊張して棟梁の持つ釘の頭に金槌を打ちつけるのでありました。
 また娘婿の左官はと云えば、両手に夫々持った鏝と鏝板をリズミカルに動かして、塗りつける前にモルタルや壁材を念入りに捏ねるその仕草が、拙生としては大いに興味をそそられる仕草でありましたが、彼は怖い顔に満面の笑みを湛え、拙生を手招きしてその手ほどきをしてくれたりするのでありました。「結構筋のよかばい、坊は」と彼も棟梁に倣って拙生のことを「坊」と呼ぶのでありましたが、それは兎も角、拙生の手捌きを大いに褒めてくれるのでありました。拙生はこの軽妙な手の操作がなにやら如何にも職人芸に見えて、この仕事を一生の仕事として選択せんかなと本気で考えたりするのでありました。
 それからもう一つ、殆ど毎日昼の弁当の時間にお茶を、三時のおやつ時間にもお茶と茶菓子を仕事に来た人達に振舞うのでありましたが、これは母親の仕事で、殆ど毎日それを出すものだからおちおち外出も出来なければ、菓子をそれなりの量用意するお金もかかって叶わないと頻りにこぼすのでありました。しかし拙生としてはそのお零れに与ることも間々あったりして、これは大いに嬉しい風習であると思うのでありました。
(続)
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家が建つぞ(3) [時々の随想など 雑文]

 ほぼ二月遅れで、家は大方完成するのでありました。棟梁と建築会社の担当者の案内で、拙生は父親と二人で、二階の自分の占有空間になる予定の板張りの部屋を検分するのでありました。一間半の縁側よりは遥かに広くて、矢鱈に細長くもないその部屋を、拙生は大いに満足の面持ちで眺め回すのでありました。南側には大きな窓が設えられていて、木目も艶やかな白い床木と染み一つないクリーム色の壁で出来たその空間が、なにか自分にはえらく勿体ないもののようにも思えるのでありました。
 壁や床の状態を点検する父親に、特に問題がないのなら掃除も含めて二日後には総ての工事が終了する予定であると、建築会社の担当は説明するのでありました。大工の棟梁は拙生を見ながら「こがん広か自分の部屋の出来て、よかったねえ、坊」と云って笑いかけるのでありました。「坊が見て、なんか足らんもんのあるなら、なんでも云うてよかぞ」そう棟梁に云われても、部屋の広さと美しさに幻惑されている坊にはなにも思い浮かばないのでありました。
 それならばと拙生に代わって父親が、横手の壁に三段の吊り棚を拵えてくれぬかと申し出るのでありました。棟梁はそれを心安く請け負ってくれるのでありました。尤も、この吊り棚は父親にすれば、拙生の教科書やら学習参考書やらの勉強に用いる本類を収納するためのものとして拵えて貰う積りであったのでありましょうが、実際には拙生がその頃凝っていたプラモデルと、それを塗装するための絵の具やシンナーや艶消し剤の炭酸マグネシウムの粉や、様々の太さの筆類の置き場所となるのでありました。
 棟梁はこの吊り棚だけではなくて引き出しの五つついた、飾り彫の施してある大き目の収納箪笥も予算の予定外に拵えてくれたようでありましたが、それは娘婿の体たらくで工事が遅れて仕舞ったことへの詫びであると云う話でありました。この収納箪笥は後々まで、母親が大いに重宝に使っていたのでありました。
 検分を終えて外へ出ると、外水道の水受けを娘婿の左官がモルタルで制作しているのでありました。彼は棟梁に促されて作業を中断すると、立ち上がって父親に自分のせいで工事が遅れて申しわけなかったと頭を深々と下げるのでありました。「こうしてちゃんと仕上がったとやけんが、まあ、よか」と父親は寛容なことを云って彼の肩を一つ叩くのでありました。いよいよあと二日で家が建つぞと拙生は大いに嬉しかったのでありましたが、これで大工の棟梁や娘婿の左官と逢えなくなることと、それに茶菓子のお零れに与れなくなることを寂しく思うのでありました。
 名残を惜しんで父親が退散した後も居残って、拙生は娘婿の左官の横でその作業を見ているのでありました。娘婿の左官は「こがんしてコンクリば打つぎんた、必ず次の日の朝に、犬の足跡のついとるとばい」と拙生に云うのでありました。確かにその頃は野良犬が多くて、どう云うものか未だ乾かないコンクリートを必ず踏みに来るのでありました。野良犬と云うのは塗りたてのコンクリートがことの他好きな生き物のようであります。
 確かに次の日、その水受けには犬の足跡が三つ四つついているのでありました。それはまるで工事終了の検印のようでありました。拙生はこの水受けについた犬の足跡を見ると、大工の棟梁と娘婿の左官のことを後々までも懐かしく思い出すのでありました。
(了)
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朝寝がしたい [時々の随想など 雑文]

 この間までは何時までも寝ていることが出来たのでありました。起こされなければ丸一日、いや丸二日でも布団に潜りこんで夢と現の境を、何時果てることもなく彷徨い続けられたのであります。それが家に杖つく歳となった途端、朝七時に目を覚ましたらもう再び意識が枕に奪われることは屹度なくなり、この儘寝そべっていても仕様方もなく、のそりと上体を布団の上に起き上がらせるようになるのでありました。かくなりたるは、要するにもう先が短いのだからなるだけ長く現の世界を生きろと云う、天の慈愛に満ちた配慮かともちらと思ったりするわけであります。
 もう少し微に入って云えば、朝七時に目を覚ますのではなくて払暁に前以って目を覚ますのであります。それは小便の用をなさんがための場合もあるのでありますが、特にその用なくとも何故かその刻決まって我が眦を開かしめるのは、これは先に云った天の配慮ならなにもこの時間に一端、夢の淵から我が意識を水面に引っ張り上げることもなかろうと、その念の入ったお節介ぶりを疎ましくすら思うのであります。いくらなんでもこの時刻に起き出すのも勿体ないような半端なような気分でありますから、その後はうつらうつらと寝ているのか覚めているのか定かならぬ境地で、七時の目覚ましの鳴るのをぼんやり待つのであります。そう云えば小便に行く間隔なんぞも、随分と短くなった昨今でありますか。
 で、ありますから、かの有名な膀胱炎、いや元へ、孟浩然の『春暁』にある「春眠不覺暁」の句を、実に以って恨めしく思うこの頃なのであります。春眠に限らず、厳冬の最中だろうが盛夏の只中だろうが、拙生の睡眠と起床は大概このような按配なのであります。
 ところで、この孟浩然は中国は唐の時代の玄宗期に重なる人でありますが、この期は唐の文化が絢爛と花開いた時であると同時に、佞臣李林甫の登場や玄宗の楊貴妃への耽溺、安史の乱と云った乱雲がその国土を覆い、頂点を越した国運が衰退へ向かう分岐点でもあったのでありました。孟浩然は李白、杜甫と云う盛唐を担う代表的詩人の登場のやや前に位置づけられる詩人であり、中央に出仕することもなく土地の名望家としてその一生を終えた、云わば或る意味で結構幸福な詩人であったと云えます。『春暁』の、朝寝から覚めて鳥の声を聞きながら、足りた睡眠に満足して伸びをしながら、昨夜の風雨の激しさに庭の花がどれだけ散ったかを気にかけると云った、緩やかで、温よかで、脳天気で、他愛もない詩情が、時代が急激に暗転するほんの一瞬前の、砌の、名残のような静けさの中で詠われた詩であると見るなら、それは或る意味で悲痛な詩の顔にも見えるのであります。
 それから「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」と云うのは、幕末の志士高杉晋作の手になる都々逸でありましたか。これも高杉の革命児としての苛烈な生き様を背景に秘め持つところの、即興的な他愛ない色恋の戯れ唄として読んでみれば、そこに儚い文学性を認めることも充分出来るでありましょう。
 てなことを払暁から目覚ましの鳴るまでの間、夢と現の汀で、考えているような考えていないような風にダラダラとぽつねんと過ごす拙生は、当然高杉の苛烈さなど毛ほども所有してはいないのでありますし、残念無念、いや元へ、孟浩然のような豊かな詩情も持ちあわせていないのであります。只、どうせ七時以降は眠れないのであるし、昼間に眠たくなるのは叶わないので、単に眠りたいと焦っているだけのことなのでありました。
(了)
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