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傘がない! (1) [時々の随想など 雑文]

 今までに何本の傘を失くしてしまったことか。人間が粗忽に出来ているものだから、小学生の頃は色々な処に傘を置き忘れて、その都度母親に散々叱られてきたのでありました。いやひょっとしたら幼稚園の頃から既にそうであったかも知れません。
 反省すること頻りではあるのですが、朝降っていた雨が下校時に上がってしまうと、もうすっかり持ってきた傘のことは失念してしまうのであります。折よく下校時にまだ雨が降り続いていてちゃんと傘を持って学校を出たとしても、途中友人の家等に寄り道したりするともう傘のことは頭から消し飛んで仕舞い、結局は母親の怒声を項垂れた後頭部で聞くことと相成るのでありました。
 長ずるに及んでも傘との相性が悪いのは変わらずであります。これは屹度、前世で傘職人かなにかに悪さを仕掛けたために違いないとつくづく考えたりするのでありますが、そうなると償いようも既になく、精々悔悟と反省に明け暮れる後生を送って、この因縁の解消は来世に期するしかないと覚悟するのであります。と云っている傍から、昨日も傘を電車の中に置き忘れてくるのでありますから、拙生の悔悟と反省なんと云うのも程度が知れているのであります。実に以って面目ない。
 さて、若い頃には傍目にはどんなに大袈裟で愚かしく見えることでも、当人は至って真面目、寧ろその自らの振舞いの一貫性に秘かに酔ってすらいると云うことがあるもののようであります。若気の至りとして片づけてしまえる程度のことではありますが、老人の頑固とはまた別の趣があって、そこはかとない色気も漂う場合があります。まあ、これから話す随分昔の拙生の若気の至りはそんな色気なんぞ特段漂わないのでありますが、大袈裟加減と愚かしさの点では大いに人に誇れるシロモノなのであります。
 雨上がりの駅で拙生は最終電車を待っているのでありました。なかなか来ない電車に焦れて拙生は煙草を一本燻らさんかなと、灰皿のあるホームの端に移動して持っていた傘を後ろの壁に立てかけて、ポケットから煙草とマッチを取り出すのでありました。一本を吸い終えてもまだ電車は姿を現さず、拙生はもう一本に取りかかるのでありました。その二本目も終えて三本目の半ば位に煙草の長さが変わった頃、ようやくに電車が到来するのでありました。
 拙生は慌てて煙草の火を消してそれを灰皿に捨て、空いたドアから電車の中に滑りこむのでありましたが、ドアの窓越しにホームを見ると、薄ら灯りの中に拙生の傘が灰皿の横で寂しげに立っているのでありました。あっと思った時にはもう既に手遅れで、拙生はそこでも得意芸たる傘の置き忘れを仕出かしてしまったのでありました。悔やむこと頻り、拙生は傍に聞こえないように舌打ちをして、遠ざかる拙生の傘を見ているのでありました。
 その傘は拙生にしたら比較的長く使っていた傘で、不思議と拙生の置き忘れ癖を上手く回避してきた剛の傘、或いは拙生との相性の良い奇特な傘なのでありました。ですから拙生の方にも少なくない愛着のようなものがあったのでありました。ようやく巡りあった反りのあう相棒を失ったような無念さに、拙生は暫し茫然と電車の中で立ちつくしているのでありました。自分の不注意からその傘に対して許し難い裏切りを働いたような気分でもありましたか。
(続)
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