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あなたのとりこ 697 [あなたのとりこ 24 創作]

 まあこう云っては何ですが、那間裕子女史が部屋の電灯をちゃんと消してから帰って行った、と云うその律義さなんと云うのは、女史にはあんまり似つかわしくはないようにも思えるのであります。しかし電灯を消す生真面目さがあるとするなら、無施錠で部屋を去る不用心をも憚るでありましょう。と云う事は、消灯してはいるけど部屋に居る、と云う事も考えられなくもない訳であります。さて、そうならどうしたものでありましょう。
 頑治さんはドア口で部屋の中の様子を窺うのでありました。何となく人の気配はないような感じでありますか。しかしうっかりドアを開けて那間裕子女史が中に居たら、これはもう、これ迄の時間潰しが骨折り損と云う事になって仕舞うのであります。そればかりではなく那間裕子女史に、酔い潰れた人間を何故一人残して出て行ったのかと大袈裟に騒がれたりして、益々の窮地に追い込まれるかも知れないのであります。
 さあて、これは実に悩ましい事態であります。頑治さんはこの土壇場で、ドアノブを回す勇気がなかなか湧いてこないのでありました。
 しかし夜中にこうして外で部屋の中の様子を窺っているのを誰かに見られたら、不本意ながらあらぬ疑いを招くやもしれません。警察に通報されでもしたら、こりゃまた面倒であります。頑治さんは竟に意を決して、無施錠のドアノブをグイと回すのでありました。それから上がり込んで部屋の電灯を灯すと、中には誰も居ないのでありました。
 頑治さんは安堵の溜息を吐くのでありました。那間裕子女史は目論見通り、どうやら終電前に自分の家に帰って行ったようでありました。この辺りの那間裕子女史の様子てえものは、屹度本棚の上のネコのぬいぐるみがしっかり見ていた事ありましょう。
 まあこれで何となく無事に事が終わったと云うところでありますが、頑治さんはどこかモヤモヤが心根の内に残るのでありました。それは那間裕子女史のプライドを結果として傷つけた事になったと云う悔悟ではなくて、均目さんの向後の仕事に付いて頑治さんが何も知らないと、しらばくれて仕舞ったと云う点でありました。
 均目さんと片久那制作部長は、何も知らない那間裕子女史の想像が一定程度的を射ていた通り、片久那制作部長の始めた仕事を均目さんが手伝うと云う風に確約を取り交わしていたのでありましたし、それを頑治さんは均目さんから既に聞いていたのでありました。またそれは、先ず片久那制作部長から頑治さんに打診があった事なのでありました。
 頑治さんはその誘いを断ったのでありましたし、均目さんはそれをおいそれと引き受けたのでありました。また頑治さんはその後でひょっとしたら那間裕子女史にも誘いが行くのかも知れないと、何となく流れから考えていたのでありましたがそれはどうやらないようでありました。要は、片久那制作部長は那間裕子女史を選ばなかった訳であります。
 均目さんは選ばれたと云うのに、自分は片久那制作部長に選ばれなかったと云う点で、ひょっとしたら那間裕子女史はメンツを傷つけられたと感じるかも知れないと、頑治さんは慮ったのでありました。なかなかにプライドの高い那間裕子女史の気質を考えて、それで正直にこれを話す事が出来なかったのでありました。
 まあ、頑治さんの考え過ぎなのかも知れません。しかしこの辺に用心深いのは、強ち間違っているとも云えないようにも思うのであります。
(続)
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あなたのとりこ 698 [あなたのとりこ 24 創作]

 しかし後日、知っていたのに何故教えなかったのかと、那間裕子女史からその不実に対するお叱りを受ける事になるやも知れません。その時何となく那間裕子女史の体面を傷つけるのが憚られたためだと云い訳しても、それは返って女史のプライドをより一層傷つける事になって、到底理解しては貰えないかも知れないでありましょう。
 頑治さんはその辺の気持ちのモヤモヤが消えないのでありました。会社を辞めた後はもう那間裕子女史と逢う事もなかろうと思うのでありますが、それだけに余計、けりを付けられなかった痛恨事として、或いは那間裕子女史に対する引け目として、何時までもこのモヤモヤは頑治さんの心根の内に屹度長く残り続けるのでありましょう。

 翌日例によって那間裕子女史は朝寝坊のために、一時間程遅刻して会社に現れるのでありました。もう辞めていく女史に対して態々教誨を垂れるのも無意味と考えているのか、あの三度の飯よりガタガタと些細な事にもケチを付けるのが大好きな土師尾常務も、扉を開けて入って来た女史と目も合わせないで無関心を決め込んでいるのでありました。
「おはよう」
 那間裕子女史は先ず袁満さんに明るくそう声を掛け、次に頑治さんにも屈託なく声を掛けて、少し暗い調子で甲斐計子女史に声を掛けるのでありました。土師尾常務には彼の人の無視との釣り合いで、ここに居ない者の如く一瞥も呉れないのでありました。
 頑治さんに対する声の掛け方は何時ものようにあっけらかんとしていて、昨日二人の間であった擦った揉んだをまるで反映していない様子であったのは、まあ、那間裕子女史のプライドか或いは照れ隠しかのどちらかにしろ、一先ず頑治さんは胸のつかえがほんの少々下りたような心地でありましたか。勿論頑治さんの顔を見た途端、どうして昨日は自分を一人残して何処かへ遁走して仕舞ったのかと詰りだす程、那間裕子女史は極度の独りよがりでもなく非常識人でも多分ないのは重々判っているのではありましたが。
 まあ、那間裕子女史も努めて何時も通りに頑治さんと接しようとしているのでありましょう。昨日のゴタゴタを翌日の会社に持ちこむ必要は何もないのでありますし。
 頑治さんはその日の配送伝票が出ていないことを確認して、一階の駐車場奥の倉庫に下りて行くのでありました。取り敢えず制作部関連の仕事もその日はないようでありましたから、午前中は倉庫の整理に時間を使えそうであります。
 箒で床を掃いていると袁満さんが遣って来るのでありました。
「今日は朝から日比課長の姿がありませんでしたが、何処かに直行ですか?」
 頑治さんがそう声を掛けると袁満さんは下唇を突きだして、肩を竦めて首を左右に何度か傾げて見せるのでありました。
「知らないよ、俺は。まあ、大方得意先に直行なんだろうけど、その連絡の電話は俺は取ってはいない。土師尾常務にでも聴いて貰わないと」
 何となく素っ気ない云い方でありました。もう日比課長の事なんか、自分は知ったこっちゃないよと云うところをこう云う云い方で表しているのでありましょう。
「別に態々日比課長の動向を土師尾常務に確認する気はありませんよ」
(続)
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あなたのとりこ 699 [あなたのとりこ 24 創作]

 袁満さんはこのところ日比課長とは、何だかしっくりとはいっていないような感じであります。前はあんなに、互いに冗談半分の悪態をつき合う程の名コンビであったのでありましたけれど。まあ、労働組合が結成されて、その組合に対する二人の態度の違いが明らかになった辺りから、どことなく屈託が生まれたと云う感じでありましょうか。
 それに甲斐計子女史に対する態度も変化したような風でありますか。昼休み等、袁満さんと甲斐計子女史が連れ立って何処かで昼食を共にしたり、食事の後始業時間迄喫茶店なんかでコーヒーを飲みながらよく二人で過ごしているようでありましたが、このところそう云う付き合いもさっぱりなくなったようであります。
 袁満さんと甲斐計子女史は、ひょっとするとひょっとする仲、なのではないかと、或いはそうなるのではないかと頑治さんは考えたりしたのでありましたが、もうそのような気配は全く感じられないのでありました。寧ろ袁満さんは土師尾常務も日比課長も出掛けて仕舞って、営業部スペースに二人だけで残されるのが何だか気重のようでもあります。だからこれと云った用もないのに、袁満さんは頻繁に倉庫に遣って来るのであります。
「袁満さんは最近、甲斐さんと食事したりはしていないのですか?」
 頑治さんは如何にも軽い調子、と云った口調で訊いてみるのでありました。
「いやあ、最近は全くないな。一緒に食事するどころか、朝と帰りの挨拶や仕事に関する事以外、滅多に言葉すらも交わさないし」
「那間さんと、袁満さんと甲斐さんが時々昼休みに一緒に歩いていたりするのを見て、案外好い仲なのかも知れない、とか話していたんですけどねえ」
「甲斐さんに昼飯を奢って貰って一緒に会社に帰っていたところを、偶々唐目君と那間さんに目撃されただけだろう」
「いや、偶々ではなく、何度となく目撃しましたよ」
「ああそうだったかな」
 袁満さんは恍けて見せるのでありました。「しかし、好い仲も何も、俺と甲斐さんは十歳も歳が離れているんだから、そんな仲になる訳がないじゃないか」
「いや、その気なら十歳の歳の差なんかは、さしてどうと云う事はないでしょう」
「いやあ、十歳と云う年齢差は結構重大な要素だよ」
 そんな風に袁満さんが云うところを見ると、ひょっとしたら袁満さんは甲斐計子女史と好い仲になる可能性について、結構真剣に考えた事があるのかも知れないと頑治さんは考えるのでありました。それ故に返って事ここに到ると、何だか二人の仲が急激にギクシャクして仕舞ったのだと云う風にも推察出来なくもないでありますか。
「俺と甲斐さんより、唐目君と那間さんの仲はどんな按配なんだい?」
 袁満さんが頑治さんにそう訊き返すのでありました。
「俺と那間さんの仲、ですか?」
 今度は頑治さんが恍けて見せる番でありました。「俺と那間さんと云うより、均目君と那間さんの仲の方が深いんじゃないですかね」
 頑治さんは昨日の事を竟思い浮かべて平静ではいられないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 700 [あなたのとりこ 24 創作]

「でも傍から見ていると、那間さんはどちらかと云うと均目君より唐目君の方に興味がありそうに見えるけどね。均目君と話している時より唐目君と話している時の方が、目が生き々々しているように見えるよ。これは甲斐さんも前にそう云っていたけどね」
「そんな事は特にないんじゃないですか。それより袁満さんは、そんな事も甲斐さんと二人で居る時に話題にしているんですね」
「まあ喫茶店でコーヒーを飲んでいる時のちょっとした話しでね。もう前の事だけど」
「で、端的に訊きますけど、袁満さんは甲斐さんの事を、歳の差はさて置くとして、どのように思っているんですかね?」
 頑治さんは自分と那間裕子女史の話題を避けようとそう話しを振るのでありました。
「どのように、とは?」
「つまり、好い仲になっても良いなとか、そう云う風に思っているんですかね?」
 そう訊かれて袁満さんは少しどぎまぎするのでありました。
「さっきも云ったように、歳の差十歳と云うのは、俄かにはさて置けない事だよ」
「そうですかね。俺はそんなに重大事だとは思いませんけどね」
「いやあ、でもあれこれ考えると、矢張りかなり大きな要素だよ」
「と云う事は、あれこれ考えた事もある、と云う事ですね?」
 そう訊かれると袁満さんは決まり悪そうに、返す言葉を失ったように口を閉ざすのでありました。しかしここでおっとり沈黙した儘でいると頑治さんの余計な勘繰りを許す事になると考えてか、急いで何か云い繕うべき言葉を探すように目玉を微揺動させるのでありました。まるで土師尾常務の気の弱さを思い起こさせるような仕草でありました。
「いやまあ、竟うっかりそう云う風に云ったけど、別に真剣にあれこれ考えたと云う事ではないよ。変な誤解は止してくれよ」
「そうですか。実は俺は、袁満さんと甲斐さんは全くお似合いのカップルだと、ずっと前から思っていましたけどねえ」
「そうかなあ」
 袁満さんは、そんな筈はないよ、と云うニュアンスを出そうとしてそんな曖昧な返事をものすのでありましたが、しかし頑治さんは袁満さんの目がやにさがっているのをしっかり確認するのでありました。内心満更でもない、と云う感じでありますか。
「甲斐さんだって未だ三十代半ば、と云うところですから女盛りですよ。そんなに袁満さんと不釣合い、と云うものでもないんじゃないですか」
「まあ確かに、二人で話していると年齢差程老けていると云う感じじゃないし、話題も俺とそんなに合わない訳でもないし。・・・」
 おやおや、風向きが微妙に変わってきましたかな。
「偶々甲斐さんの会社に居残ると云う判断と、俺達の退社と云う思惑の違いで変なしこりが出来たみたいだけど、それはちゃんと話し合えば判り合える事柄じゃないですかね。だからそれで甲斐さんとの仲を諦めて仕舞うのは、如何にも癪じゃないですか?」
「うーん、まあ、そうかなあ。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 701 [あなたのとりこ 24 創作]

「ここは一番、もう少し強気に出る時じゃないですかね」
 頑治さんが云うと袁満さんは、小さくではあるけれどしっかり頷いて見せるのでありました。折角好い感じになってきた甲斐計子女史との仲をこれで終了させたくないと云う袁満さんの真情が、この頷きではっきり吐露されたと云う事になるのでありましょう。
「その内また昼飯にでも誘ってみるかな。まあ、何時もは甲斐さんが先ず俺を昼飯に誘ってきて、その後でコーヒーを俺が誘っていたんだけどね」
「そんなのはどっちが先でどっちが後でも良いじゃないですか」
 袁満さんは妙なところに拘るのでありましたが、これはひょっとしたら二人の仲に於いて甲斐計子女史の方が積極的だったと云うところを、見栄から敢えて頑治さんに強調したかったのでありましょうか。ま、ここでこう云うのは無用な自尊心でありますけれど。とまれ袁満さんは甲斐計子女史との今迄の仲を、この先もずっと続けていきたいと願っているのであります。これは疑いのない明快な気持ち、と云えるでありましょう。
 袁満さんは向後の指針を得たような気になったのか、これで意気揚々と、と云うとやや大袈裟の誹りを免れないでありましょうが、それでも倉庫に現れた時よりは溌剌として上の事務所に引き上げて行くのでありました。序ながら、頑治さんと那間裕子女史の件に関しても、それ以上の質問やら追及はなくて済むのでありました。

 翌日の昼休みに頑治さんは均目さんから、珍しく昼食に誘われるのでありました。このところ均目さんとは昼食を一緒に摂る機会は失せているのでありました。それどころか、朝に慣習的な挨拶を交わす以外は一日殆ど口を利かない日もあるのでありました。
 食事は近くの中華料理屋でさっさと済ませて、その後均目さんの誘いで神保町の喫茶店ラドリオに入って午後の始業迄の時間を潰すのでありました。
「唐目君は会社を辞めた後の仕事は、もう目途を付けているのかい?」
 均目さんは珍しく紅茶を飲みながら訊くのでありました。
「いや、未だ何も。この分だと当分はその日暮らしかな」
 頑治さんは何時も通りウィンナーコーヒーを啜るのでありました。
「暫く骨休めでもする心算かい?」
「骨休めする程この会社で働いていないよ」
「それはそうだな」
 均目さんは口の端を歪めて苦笑するのでありました。
「均目君の方は片久那制作部長から、何時から仕事に来てくれとか、そう云った具体的な話しなんかはもうあったのかな?」
「うんまあ、ぼちぼちね」
 均目さんは紅茶カップの縁から唇を離すのでありました。「片久那制作部長は地下鉄の新宿三丁目駅の傍に仕事場をもう構えていて、何度かそこに行った事があるし、仕事の手伝いなんかも少しさせて貰っているよ、そんなに本格的にと云う訳ではないけど」
「へえ。もうそっちの仕事に取り掛かっているんだ」
(続)
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あなたのとりこ 702 [あなたのとりこ 24 創作]

「そんなに本格的にではないけど」
「まあ、着々と、会社を辞めた後の生計の道を実行している訳だ」
「いや、当初はそんなに賃金を貰える訳がないから、生活は今より苦しくなるかな」
「それでも、今後の方途が未だ決まっていない俺よりはマシだ」
「片久那制作部長に付いていけば、将来は取り敢えず間違いないと思うよ。あれこれ心配する事もない訳じゃないけど、今はそう考えるしかないかな」
「まあ、重畳と云うところじゃないか」
 頑治さんは湯気の向こうの均目さんの顔を薄っすら見ながら、泡立った生クリームの下に隠れているコーヒーを一口啜るのでありました。
「那間さんとはその後どうなんだい?」
 頑治さんはそれとなく訊いてみるのでありました。
「もう最近はすっかり付き合いはないよ」
 これは、那間裕子女史から聞いたのと同じような応えでしました。
「もう仲を解消した、と云う事かな?」
「はっきりとけじめを付けたような感じじゃないけど、何となく互いにもう連絡もしなくなったし、それでも別に心騒ぐ訳じゃなし、この儘フェードアウトしていく感じかな」
「フェードアウト、ねえ」
 頑治さんは何となく均目さんの言葉を繰り返すのでありました。「で、今はそのフェードアウトの途中と云う事かな?」
「いやもう殆ど、収束段階と云う事になるだろうな。お互いに、電話連絡どころか、近況伺いもしないし、それに別段寂しさも感じなくなったし」
「何だかやけにあっけない感じだな」
「今更、未練タラタラ、と云う感じで全くはないよ」
 均目さんは紅茶を飲み干すのでありました。「それより那間さんは実は唐目君に気があるんだろうな。だから俺が見限られた訳だ」
「いや、そんなんじゃないんじゃないかな」
「だってこの前、那間さんはグデングデンに酔っぱらって突然唐目君を訊ねたんだし、それは酒の勢いを借りて、唐目君に自分の思いを伝えようとした所行に他ならないし。まあ結局は唐目君が持て余して、俺が彼女を迎えに行ったんだけど。しかし、つまりは俺より唐目君の方に、那間さんの思いは移ったって事に違いないだろう」
「いやあ、そうとばかりも云えないだろう」
 頑治さんは数日前に那間裕子女史が家に来た事を思い浮かべるのでありましたが、それはここでは口にしないのでありました。
「そう考えないと事の辻褄が合わないと思うけどね」
「そうじゃなくて、実は那間さんは均目君との仲が、意に反してギクシャクしだしたのをくよくよ思い悩んでいて、それをなんとかしようとして、ああ云う傍から見れば妙な行動に打って出たんじゃないのかな。俺はそんな気がするけど」
(続)
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あなたのとりこ 703 [あなたのとりこ 24 創作]

「俺に対する当て付けとして、と云う事かい?」
「当て付けと云うよりは均目君に対する、レトリックとしての訴え、と云うのか、もっと云えば、求愛、と云うのか、まあそんな感じの。・・・」
「求愛?」
 均目さんは首を傾げるのでありました。
「那間さんなりの、均目君を標的とした愛情表現としての行為だったんじゃないかな」
「云っている事がよく判らないな」
 均目さんは腕組みして頑治さんから視線を外すのでありました。
「要はそう云う不埒な事を態とする事によって、那間さんは何となく関係がギクシャクし出した均目君に、もう一度自分の方を振り向いて貰いたかったんだと思うんだよ」
「しかし那間さんが唐目君の家に酒に酔って押しがける事を俺は知らなかったし、仄めかされてもいなかったんだから、あの那間さんの行為に俺は無関係な筈だ」
「そこが那間さんの心の動きの、ユニークなところだよ」
 頑治さんは何やら自分の云っている事が、如何にも不自然で込み入り過ぎていて、明らかに作り事めいていると、云いながら思うのでありました。つまり均目さんに対する誤魔化しでありますか。那間裕子女史の気持ちが頑治さんではなく均目さんの方をターゲットにしているのなら、数日前に頑治さんの家を再度訪ねては来ないでありましょうし。
「何だか唐目君は、那間さんから逃げる口実として、俺をここで無理矢理持ち出してきているような感じがするなあ。無茶な論の立て方は何の説得力もないぜ」
 均目さんは苦笑するのでありました。
「いやあ、那間さんの思いは、まだ均目君に向いていると思うけどなあ」
 もうこれは、頑治さんの引っ込みがつかないための苦しい戯れ言と云わざるを得ないでありましょう。それを均目さんにちゃんと見透かされているのは、もう判っているのでありましたし、これ以上、ああだこうだと下らない屁理屈を捏ね続けるのは、いやはや寧ろ屈辱的であり、見苦しいだけと云うものでありますか。

 紅茶を飲み終えた均目さんが、手持無沙汰にテーブルの上を人差し指と中指と薬指を使ってリズミカルに連打しているのでありました。
「コーヒーでもお代わりするかい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「いや、もう一杯飲む程時間はないだろう」
 均目さんは腕時計を見ながら云うのでありました。それから頑治さんの顔を、何事か云いた気にじっと見据えるのでありました。
「何か云いたい事があるのかな?」
 頑治さんはヒョイと眉を上げて見せるのでありました。
「片久那制作部長が、唐目君にも自分の今の仕事を手伝って貰いたいようだよ」
 均目さんは頑治さんの顔を見据えた儘でそう云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 704 [あなたのとりこ 24 創作]

「それはもう、前にきっぱり断った事だけど」
「でも片久那制作部長は、唐目君のスカウトを諦めていないようだぜ」
「そう云われても、なあ。・・・」
 頑治さんは困じたように眉根を寄せるのでありました。
「片久那制作部長の新しく興した会社に入ると云う目は、全くないのかい?」
 均目さんは頑治さんの顔を覗き込むのでありました。
「その気はないよ」
「何か殊更の問題でもあるのかい?」
「いやそう云う訳じゃないんだけど」
 頑治さんは首を小さく横に振るのでありました。
「しかし会社を辞めた後すぐに、好都合にも折角片久那制作部長が誘ってくれているんだから、再考してみる余地もありそうなものじゃないか」
「何となく気が乗らないんだよ」
「気が乗らない?」
 均目さんは怪訝な顔をするのでありました。「つまり、はっきりとした理由なんかは何もない、と云う事なのかな?」
「まあ、そうだけど」
 頑治さんは均目さんの顔から視線を外して頷くのでありました。
「だったら考え直しても良いんじゃないか?」
 均目さんは片久那制作部長の意を受けて、彼の人に成り代わって、ここでもう一度頑治さんを熱烈にスカウトしているのでありましょうか。
「均目君は俺をもう一度誘えと、片久那制作部長から頼まれたのかな?」
「ま、そう云う事だよ。もう一度唐目君の気持ちを確かめて来いと」
「どうして片久那制作部長は、そんなに俺を誘いたいのだろう?」
「それは当然、唐目君を大いに買っているからだろう」
「そんなに買われるような覚えは、ちっともないんだけどなあ」
 頑治さんが苦笑するのを見て、どう云う訳か均目さんはここで、変に険のある尖った表情をして見せるのでありました。片久那制作部長の厚意をちっとも解していない頑治さんの不躾と鈍感さに、思わず苛々したのでありましょうか。
「唐目君には片久那制作部長の会社に来る気なんか、全くない訳だね?」
 均目さんは念を押すように訊き質すのでありました。
「気が乗らないのは今でも変わってないよ」
「そうか。判った」
 均目さんはあっさり頑治さんのスカウト話しをここで打ち切るように云うのでありましたが、特段これで不愉快を抱いたような様子はないのでありました。寧ろ頑治さんにはこの頑治さんの返事を聞いて、どこか安堵したような気配すら窺われるのでありました。この場合の均目さんの思いなんと云うものは、一体どう云うものなのでありましょうや。
(続)
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