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あなたのとりこ 749 [あなたのとりこ 25 創作]

「随分一区切りが遅くなったわね」
「まあ、俺はのんびり屋だからね」
「で、上手くいきそう?」
「そうえね、未だ何とも云えないけどね。そうおいそれとはいかないと思うけど」
 如何にも緊張感のない云い方かと、云いながら頑治さんは思うのでありました。
「頑ちゃんなら、屹度大丈夫なんじゃないかしら」
「まあ頑張ってみるよ。懐具合も心細くなってきた事だし」
 頑治さんは少しくらい切迫感とか深刻さを醸し出そうとするのでありましたが、自分でも何とも間抜けな云い草にしか聞こえないのでありました。
「お母さんの具合はどうだい?」
「一週間くらいで取り敢えず退院したんだけど、三日おきに通院しているわ」
「それは入院しているより大変そうだなあ」
「本人が病院を出たくて仕様がなかったようだし、その方が気持ちの上では楽みたいよ。通院と云っても車で十分もかからないから。父と兄とあたしが交代で連れて行っているんだけど、何だか皆に大事にされて少し嬉しそうよ」
「ふうん。まあ、次第に元気になっている気配が窺われるのなら、何よりだよ」
「そうね。それで、この儘お母さんの体調に特別変化がないようなら、ひょっとしたらあたし、短期間だけどそっちに行く事になるかもしれないわ」
「え、それは本当かい?」
 頑治さんは思わず嬉しそうな声を上げるのでありました。
「うん。大学の考古学研究室にも仕事上の用事があるから。まあ、本当に短期間の、仕事だけの出張だけど、でもそうなると頑ちゃんの顔も見る事が出来るしね」
「それは良いや。俺としてはそうなる事を祈るだけだ」
「未だはっきりしないけど、あたしとしても是非行きたいし」
 これは頑治さんにとっては思いがけない朗報でありました。
「そうなって欲しいなあ。今から楽しみだ」
「まあ、そんな訳で、あたしの近況としてはそんなところかしら。頑ちゃんの方もようやく就職に向けて動き出したようだし、これであたしもちょっと安心したかな。今度はあたしの方が頑ちゃんの朗報を期待しているわ。就職活動頑張ってね。何だか取り留めのない電話だけど、久しぶりに頑ちゃんの声を聞けて嬉しかったわ」
「うん。近々夕美に逢えるかも知れないと思うと、俄然元気が出てきた」
「じゃあ、体に気を付けてね」
「判った。夕美の方もね」
 そう云い合って、夕美さんからの電話は終わるのでありました。
 まあ、夕美さんの云うように特段の用事もない取り留めのない電話でありましたが、頑治さんは思わぬ朗報を聞く事が出来たのでありました。
 翌朝頑治さんは久々に、目が覚めると早々に布団を抜け出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 750 [あなたのとりこ 25 創作]

 身支度を整えると頑治さんはアパートを後にするのでありました。大した距離でもないから電車に乗る迄もなく、頑治さんは飯田橋の職安に向かって外苑通りを歩くのでありました。途中で食事をしようかとも考えるのでありましたが、さして腹も空いていなかったので用事が終わった後で、戻ってからにするのでありました。
 道中半ばに差し掛かった辺りで、靴の中で異変が起こるのでありました。靴下が歩の重なりに連れて次第に脱げて行くのでありました。屹度口の緩くなっていた靴下をうっかり履いて仕舞ったのでありましょう。足裏に這う不快に頑治さんは立ち止まって足を靴から引き摺り出して、土踏まず辺りに蟠る靴下を引っ張り上げようと思うのでありましたが、往来の真ん中でそう云う様の悪い行為をするのも何やら憚られるのでありました。
 足裏の不快に耐えながらも頑治さんは飯田橋の職安に辿り着くのでありました。その時には靴下はすっかり足から脱落して、靴中の爪先辺にいるのでありました。そう云えばこの前職安に来て贈答社を紹介された時にも、この靴下の不具合があったなと頑治さんは思い出すのでありました。先回の時に紹介された贈答社への就職は早々に不始末に終わったのでありましたが、これも不吉な予兆だと思えなくもないのでありました。
 頑治さんは気を取り直して職安の中に入るのでありました。するとカウンターの傍に見た事のある後ろ姿の人物を認めるのでありました。紛う事なく、それは刃葉さんでありました。頑治さんは慌てて横移動して、ポスターの張ってある衝立の傍にそれとなく身を隠すのでありました。別にこそこそ隠れる必要はないのではありましたけれど。
 衝立から顔を半分出して見ていると、刃葉さんは用事を済ませたようで出入り口の方に歩いてくるのでありました。真っ直ぐに前を見て頑治さんには全く気付かないのでありました。刃葉さんは例に依って不機嫌そうな顔でその儘職安を出て行くのでありました。
 職探しに来たのでありましょう。と云う事は刃葉さんが北海道を引き上げて、舞い戻って来たのは先ず確かなようでありました。もう全く関係ない人なのではありますけれど、仕事を辞めて以来三回も出くわすと云うのは、何やら妙な因縁を感じて仕舞うのでありました。これも不吉な前兆と云うべきかどうかは俄には判断出来ないのでありますが。
 頑治さんは刃葉さんに代わって、と云う訳ではないのでありますが、カウンターの方に進むのでありました。カウンターの向うには、これも顔に見覚えのある職員が座っているのでありました。先回も世話になった田隙野道夫氏でありました。
 田隙野氏は頑治さんを見て、おやと云う顔をするのでありました。どうやら頑治さんの事をうろ覚えながらも覚えていたのでありましょう。
「これはこれは、ええと、・・・」
 田隙野氏は頑治さんに笑いを向けながら、誰だったか思い出そうとしているようでありました。「名前は失念いたしましたが、前にこちらにいらした事がある方ですよね?」
「ああどうも。御無沙汰しております」
 頑治さんはカウンターを挟んで真向いの椅子に座るのでありました。「前にも仕事を紹介して貰った唐目頑治と云います。この度は前に紹介して貰った仕事をしくじりまして、また性懲りもなく何か仕事を紹介して貰おうとやって来たのであります」
「ああそうですか。それはどうも。・・・」
 田隙野氏は気の毒そうな顔を向けるのでありました。「で、また仕事探しにいらしたと云う事ですが、今回はどんな就職先をお探しですかな?」
「そうですねえ、まあ、こちらの希望としては、給料とか待遇なんかは特に気にしないのですが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云うそんな虫の良いようなところからの求人はありませんかねえ?」
 頑治さんが云うと、田隙野氏は妙な顔で頑治さんをまじまじと見るのでありました。
「成程ね。何やら前にも誰かから聞いた事のあるような条件ですが、そんな仕事があれば私の方が先にここを辞めて転職したいくらいです。ま、ちらと探してみましょうかな」
 田隙野氏は頑治さんの勝手な云い分を窘めもせずに、傍らの求人票のファイルを取り上げてペラペラと律義に頁を繰り始めるのでありました。
(了)
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