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あなたのとりこ 688 [あなたのとりこ 23 創作]

「均目君について、唐目君が何か知っているかと思ってね」
 那間裕子女史もビールを一口飲むのでありました。
「と云うのは?」
「会社を辞めた後、もう既に働き口とか決まっているのかとか」
「あれ、もう那間さんはそれを知っているのかと思っていましたけど」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。
「ううん、何だか新しく出来る出版の会社にコネがある、とかは聞いていたけど」
「具体的に、その出版社の名前とか会社の来歴とかは知らないのですか?」
「均目君の言に依れば、色んな会社の社史とかを編集したり、商業雑誌の記事を書いたりするプロダクションみたいな会社らしいんだけど、それ以上はよく知らないわ」
「その説明は均目君本人に聞いたのですね?」
「そう。・・・まあ、そうなんだけど、何だかはっきりとは話したくない気配だったから、あんまり根掘り葉掘り訊き質したりはしなかったわ」
「ああそうですか。成程ね」
 頑治さんは顎を擦りながら曖昧に頷くのでありました。「那間さんは均目君の向後の身の振り方に関して、均目君自身からもうすっかり話を聞いているのだとばかり思っていたんですが、実はそうではなかったんですね」
「どうしてそんな風に思ったの?」
「いやまあ、何となく。・・・」
 那間裕子女史にどうしてと訊かれて、考えて見たら迂闊にも別に何の確証も無く、本当にただ何となくそうなのだろうと頑治さんは勝手に思い做していたのでありました。
「その辺、唐目君は具体的に何か聞いていないの?」
「いやまあ、自分もあんまり具体的な事は聞いていないのですが」
 頑治さんは均目さんと片久那制作部長の間で交わされていた、片久那制作部長が興した会社に均目さんが採用されると云う約束を、ここで那間裕子女史に話して良いものかどうか迷ったので、あやふやに恍けておく方が無難だと考えてそう応えるのでありました。
「ああそう。均目君は唐目君には、はっきりとした事を話しているのかと思っただけど、どうやらあたしの目算違いだったようね」
 那間裕子女史は落胆の溜息を吐くのでありました。
「ところで那間さんと均目君は、ええと、その後、別にどうと云う事もなく上手くいっているとばかり思っていたんですが、そうでもなかったのですか?」
 これは少し無遠慮な質問かと頑治さんは云いながら思うのでありました。
「その後、と云うのは、つまりあたしが、酔い潰れて夜中にここに不躾に遣って来たあの日以後、と云う事よね?」
 那間裕子女史は含羞を少し含んだ笑いを頬に浮かべて訊き質すのでありました。
「ええまあ、あの日のその後、です」
 頑治さんも何となく居心地の悪そうな笑みを眉宇に湛えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 689 [あなたのとりこ 23 創作]

「あんまり上手くいっていたとは云えないわね」
 那間裕子女史は含羞の笑いを消すのでありました。「要するに断わりもなくあたしが唐目君の家に押しかけた、と云うのが気に入らないようよ。ま、当然だけど」
「俺もそこのところは未だに解せないところではあるのですが」
 頑治さんはそう云って遠慮がちに那間裕子女史の顔を見るのでありました。すると女史はその頑治さんのその視線に対抗するように、頑治さんよりも強い視線で見返すのでありました。頑治さんは何となくたじろぐのでありました。

 那間裕子女史は頑治さんのおどおどする様子を見透かすように、視線に尚一層の力を籠めるのでありました。まるで恨みを込めて睨むような目付きであります。
「あの時は前後不覚に酔っぱらっていたけど、でもね、ちゃんとそれなりにある種の計略みたいなものも、一応は持っていたのよ。ま、酔い潰れる前迄、だけどね」
「ある種の計略、と云うのは一体何ですかね?」
「あの時間に訪ねれば、まさか追い返されはしないだろうなって云う読みよ」
 それは確かに、終電後でもあるから追い返しはしなかったのでありました。
「追い返されないなら、好都合な一夜の宿代わりにはなると踏んだんですかね」
 那間裕子女史は鼻を鳴らして口の端を歪めて一笑するのでありました。
「単に家に帰る電車がなくなって仕舞ったから、唐目君のアパートをホテル代わりに使おうと思った、なんてそんな興醒めな理由なんかじゃないわ」
 那間裕子女史は少し怒ったような云い草をするのでありました。しかしその云い草の割には、その両目に何やら妙に色めいた潤んだ光沢が宿っているのでありました。ここでまた頑治さんはあたふたして仕舞うのでありました。
「まあ、酔い潰れて仕舞ったから、その計略も結局おじゃんになっちゃったけどね」
 那間裕子女史は哄笑するのでありました。「それに予想もしなかった事だけど、均目君を呼び出したりとかされたからね」
 那間裕子女史はここで缶ビールをグビと飲むのでありました。「まさか唐目君があの局面で、均目君を呼ぶとは思ってもいなかったわ。そんな当意即妙な逃げ方もあったかと、後で感心もしたわ。ま、憎らしさが八分で感心が二分、と云うところだけど」
「ひょっとして褒められているんですかね?」
 頑治さんは頭を掻くのでありました。
「何を無邪気に喜んでいるのよ。当然褒めている訳じゃないわよ」
 那間裕子女史は怒って見せるのでありましたが、そんなに激しく怒っていると云う風ではないのでありました。寧ろこれは拗ねていると云った感じでありますか。
「だから今日は、均目君の事を訊きにきたと云うのは単なる口実で、実はあの時の恨みを晴らしにきた、と云うのが本当の目的よ」
 那間裕子女史はそう云って意味有り気に笑うのでありました。
「いやあ、それは、・・・」
(続)
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あなたのとりこ 690 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんは怯んで少し後退りするのでありました。それを見て那間裕子女史はカラカラと愉快そうに笑うのでありました。
「随分嫌われたものね」
「別に、そんな心算ではないのですが。・・・」
「冗談よ。そんな気は、今日はないから安心して良いわ」
 那間裕子女史は頑治さんの臆病を笑う心算か、鼻を鳴らすのでありました。「唐目君には相思相愛の彼女さんが居るようだし、あたしの出る幕はどうやらなさそうだしね」
「あのネコも彼女さんとの間での、いわく付きのものなんでしょう?」
 那間裕子女史は本棚のネコのぬいぐるみを指差すのでありました。
「まあ、そんなような、そんなんでないような。・・・」
「何を曖昧な事云って誤魔化そうとしているのよ。でもそれはそれで別に良いわ。とことん拘る程の関心はもうないから」
 那間裕子女史は興味無さそうにネコのぬいぐるみから視線を外すのでありました。「ところで片久那さんのその後に関しては、唐目君は何も聞いていないの?」
 女史は話頭を曲げるのでありました。
「片久那制作部長の事、ですか?」
 均目さんとの絡みがあるから、ここで那間裕子女史が片久那制作部長の名前を出した事に、頑治さんはどぎまぎするのでありました。別に頑治さんがどぎまぎする必要はないのでありましょうが、均目さんが片久那制作部長の興す会社に誘われている、と云う事をここで、実は、と云う感じで自分の口から那間裕子女史にバラすのは、何やら潔くない告げ口のような気がしたものだから、竟々云い淀んだのでありました。先程も均目さんの次の就職の話しで、何となく確たることは知らないような口振りをした手前もありますし。
「唐目君が会社に入るのより随分前だけど、酒の席か何かで、もし今の仕事を辞めたとしたら、新宿のゴールデン街だったかで小さな飲み屋でも遣りたい、なんてことを聞いた事があったから、ひょっとしたらそう云う仕事を始めたのかしら、とか思ったのよ」
「片久那制作部長は酒が好きだったし強かったし、それに日本中の地酒のことを良くご存知でしたから、或いはどこかで飲み屋でも始めたのかも知れませんね」
 頑治さんはそう調子を合わせるのでありました。
「まあ、片久那さんの事だから抜け目なく、と云うか手抜かりなく確実に、ちゃんと次の仕事を見付けるか、或いは自分で興しているんでしょうけどね」
「ご家族もおありになるし、そこは着実なんじゃないですかね。色々各方面に学生時代からのお知り合いもいらっしゃるようだし、その辺りからの援助もあるだろうし」
「そうよね、あたしが心配する事じゃないわね。ま、そんなに心配もしていないけど」
「片久那制作部長の事に関しては、俺なんかに訊くより那間さんの方が、その後に連絡なんかもあるだろうから詳しいと思っていましたけどねえ」
「連絡なんて何もないわ、片久那さんが会社から居なくなって以来。寧ろ唐目君の事がお気に入りのようだったから、唐目君には何か連絡があったのかと思っていたわ」
(続)
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あなたのとりこ 691 [あなたのとりこ 24 創作]

「いやあ、特には何もありませんよ」
「そこで、均目君よ」
 那間裕子女史は人差し指を一本立てて見せるのでありました。「何だか均目君は片久那さんと連絡を取り合っていて、今度のあたし達四人の退職とか組合解散なんかにも、均目君を通して片久那さんの思惑が反映されているような気がしているのよ、あたしには」
「ああそうですか」
 頑治さんはどこか鈍そうなもの云いをするのでありました。しかしこの鈍感な反応なんと云うものは、実は頑治さんの偽装と云うべきものなのであるました。腹の中では那間裕子女史は流石に鋭いと、少しばかり舌を巻いているのでありました。
「本来の均目君は結構な悲観論者で、大凡の事に対してネガティブ思考の人の筈なんだけど、今回の会社を辞めると云う事でも均目君はそんなに焦ってはいない風なのよ。何だか妙にのんびりとしているように見えて、ちっとも何時もの均目君らしくないのよね」
 ここで那間裕子女史は自得するように一つ頷くのでありました。「それは多分、もう次の仕事が決まっているからだと思うの。で、その次の仕事と云うのはつまり、片久那さんと何やら繋がりのある仕事なんじゃないかなとあたしは思うのよ」
「何かそれっぽい情報とかあるんですか?」
「そうじゃなくて、これは全くの、あたしの勘なんだけどね」
 那間裕子女史は頑治さんを上目で見るのでありました。
「均目君に直接確認してみる、と云うのはないのですかね?」
「あの日以来均目君とは没交渉、と云うか、会話すらも殆どないし」
「互いの家に行き来する回数とかが減ったんですかね?」
「行き来はないわ。と云うか電話もしないし、かかっても来ないし」
「絶交状態、と云う「感じですかね?」
「まあ、会社の中ではあれこれ喋るけどね」
 二人の仲もすっかり解消でありますか。均目さんにとっては那間裕子女史が頑治さんの家に酔い潰れながらも意志に依って行って仕舞った、と云う事実が、何やら女子への思いを急激に薄くした原因なのでありましょうか。那間裕子女史にしても、前から均目さんに対してどこか冷めていて、だから頑治さんの方に気紛れに目移りしたと云う事なのでありましょうか。まあ、これはあくまで頑治さんの推察以上ではないのでありますが。
「ま、均目君との事は終わったようなものね」
 那間裕子女史はグイと缶ビールを空けるのでありました。

 均目さんは那間裕子女史が酔い潰れて頑治さんのアパートに来て、それを厄介を厭わず自ら連れ帰った後は、女史にそんな真似をさせた事に対する後悔と云うべきか反省と云うべきか、そう云う心根から殊勝に女史に対してつれない態度を改めるようになるだろうと頑治さんは考えたのでありましたが、どうやらそうではないのでありました。那間裕子女史に依れば、均目さんと女史との関係は終わったようなものだと云うのであります。
(続)
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あなたのとりこ 692 [あなたのとりこ 24 創作]

「そう簡単に均目君との関係を終わらせて良いのですか?」
 頑治さんも缶ビールを飲み終えるのでありました。それからそう云いながら立ち上がって、未だ飲み足りていないであろう那間裕子女史のために、炊事場からコップを二つ持ってきて自分と女史の前に置いて、本棚脇から日本酒の一升瓶を徐に取り出して、夫々のコップになみなみと冷や酒を注ぎ入れるのでありました。
「徳利も猪口もウチにはないので、冷やで勘弁してください」
 頑治さんはそう云って掌を上に向けて差し出して、好ければどうぞ飲んでくれと云う仕草をやや慇懃にするのでありました。
「うん、有難う」
 那間裕子女史は零さないように気を付けながらコップを取り上げて、一口飲むのでありました。「考えてみれば、実はとっくに均目君とは終わっていたような気がするわ」
 那間裕子女史は取り上げる時よりはぞんざいにコップを下に置くのでありました。
「とっくに終わっていた、のですか?」
 頑治さんは女史の言葉を繰り返して見せるのでありました。
「そうね。この人とはこの先長く一緒にいる事は出来ないと、随分前からそう思っていたのよ、あたしは。まあ、惰性とほんの少しの未練から、付き合い続けてはいたけど」
「随分前、と云うのは何時頃ですかね?」
「そうね、唐目君が会社に入って来た頃かしらね」
 那間裕子女史はそう云ってから頑治さんを上目で見るのでありました。頑治さんはその言葉にどう反応して良いのか判らず、おどおどと視線を逸らすのでありました。
「随分と長い、惰性とほんの少しの未練、ですね。・・・いや、そんなに長くもないか」
 頑治さんは少しおどけたような物腰で受け応えるのでありました。
「長いか長くないかは判らないけど、潔いと云える時間は疾うに過ぎているかしらね。まあつまり、唐目君が会社に入って来たのが転機ね」
 これにも頑治さんはどんな言葉を返して良いのやら判りかねて、自分のコップを取り上げて中の酒をやや多めに、しかし噎せない程度に口の中に流し込むのでありました。何やら那間裕子女史は均目さんとの別れに、何かと頑治さんを絡めようとしているように思えるのでありましたが、これは頑治さんの邪推、あるいは思い過ごしでありましょうか。
「あくまでも転機で、原因だとは云っていないからね、念のため云っておくけど」
 頑治さんが何だか困っているような妙な表情をしているのを認めて、那間裕子女史はそう後に続けるのでありました。頑治さんは自分の好い気な勘違いを指摘されたような心持ちになって、何となくもじもじとして仕舞うのでありました。
「均目さんとその事について、ちゃんと話し合ってはいないのですかね?」
「別に話し合う必要はないんじゃないかしら。これ々々こう云う訳だから別れましょうなんて、態々そう宣言して終わる必要もないんじゃないの、こう云う事は」
「まあそうですけど、何となくけじめを付けると云うところで。・・・」
「お互いの気持ちが離れた事は、態々云わなくてもお互いに判るでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 693 [あなたのとりこ 24 創作]

 それはそうでありますか。那間裕子女史も均目さんもそんなに鈍感な性質ではないし、お互いの心持ちに察しがついたならば、後は出来るだけ穏やかに背を向ければそれで済む事でありますか。確かにその方が如何にも自然かも知れないでありましょうか。
「まあ、妙なけじめ意識はこの際不要ですかね。俺の性分としては何だか曖昧に事が終わるのは、どうしてもどこか落ち着かない気がして仕舞いますけどね」
「終わったとお互いが感じれば、それが決着よ。事後処理なんかは何もなしよ」
 那間裕子女史はそう云ってコップの中の日本酒を干すのでありました。
「なんだか妙にさばさばし過ぎているような気がしないでもないですけど」
「唐目君は律義な性格なのね、屹度。それとも実はウェットな人なのかしらね」
「ウェットと云うのはつまり、めそめそしていると云う事ですかね?」
 頑治さんは那間裕子女史のコップに一升瓶を傾けて酒を注ぎ足すのでありました。
「めそめそと云うのじゃなくて、実は感情が後を引くタイプと云うのか」
「感情が後を引く、という表現が今一つ俺には判りにくいのですが、まあ要するに、未練がましいヤツだと云う事ですかね」
「白黒をはっきりさせないと気が済まないとか、綺麗さっぱり物事に終止符を打たないと落ち着かないとか云うのは、実は最後の最後迄物事をはっきりさせたくないとか、完全に終わりだと云う認識を持ちたくないとか云う気持ちの裏腹な現れなんじゃないかしらね。何だか自分でも云っている事がよく判らなくなってきたけど」
 那間裕子女史はコップの酒を一気に半分程口の中に流し込むのでありました。
「難しい事になってきましたね」
 頑治さんは腕組みして首を傾げて見せるのでありました。
「もうこの話しは止しましょう」
 那間裕子女史はコップに残っている酒をまたほぼ一口で飲み干すのでありました。随分早いペース、と云うよりは無茶な飲み方と云うべきでありましょうか。
「まあ、俺もこの手の話しは苦手だから、止す事に一票、ですねえ」
「ところでさあ、・・・」
 那間裕子女史はそう云って頑治さんに視線を向けるのでありました。何やら目が妙に座っているように見えるのは、コップの中身を二口で空けた酔いが急に回ったためでありましょうか。頑治さんはその眼容に気圧されたようにおどおどしながら、また那間裕子女史の空いたコップに酒を急いでなみなみと注ぎ足すのでありました。
「ところで、・・・そう云う訳で、あたしは今フリーと云う事よ」
 那間裕子女史は一升瓶の口際を持った頑治さんの右手の甲に、自分の左掌を重ねるのでありました。「云っている事、判るわよね?」
 那間裕子女史の掌が妙に熱いのは、屹度酔っているために違いないと頑治さんはどぎまぎしながら考えるのでありました。それで一升瓶を畳に置く動作に紛らわせて、那間裕子女史の掌をやんわりと自分の手の甲から、不自然にならないように振り解くのでありました。なかなか上手にそれはやれたと頑治さんは秘かに満足するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 694 [あなたのとりこ 24 創作]

 しかし、それくらいで許してくれる那間裕子女史ではないのでありました。女史は離れた掌を懲りずにまた頑治さんの右手の甲に左掌を重ねて、今度は容易に振り解かれないように頑治さんの手を、力を入れてグイと握り締めるのでありました。
「いやあ、もう、こう云うのは、まごまごして仕舞いますねえ」
 頑治さんは態とお道化たように云うのでありました。しかし変な風に険悪な雰囲気になる事を恐れて、無理に那間裕子女史の手を振り解く事は避けるのでありました。
 那間裕子女史は頑治さんの右手を持った儘、先程頑治さんになみなみと日本酒を注がれたコップを右手で持ち上げるのでありました。中の酒がほんの少し縁から零れてコップを持つ那間裕子女史の指を濡らすのでありました。
「もうこうなったら、覚悟を決めるのね」
 那間裕子女史はそう宣した後、ほぼ一息でコップを空けるのでありました。
「いやあ、そう云われても、何と云うのか、・・・」
 頑治さんは怖じたように硬い表情で那間裕子女史を見るのでありました。頑治さんの優柔不断に那間裕子女史は舌打ちをして、決然と頑治さんの右手を引き寄せると、挑むように自分の左胸に押し付けるのでありました。意外にふくよかな柔らかい感触に頑治さんは一瞬息を飲むのでありました。この那間裕子女史のむやみな大胆さなんと云うものは、屹度今立て続けにコップ二杯をがぶ飲みしたところの酒の為せる業なのでありましょう。
 いや! そんな事をここで悠長に考えている場合ではないと、頑治さんは慌てて那間裕子女史の胸の上にある己が右手を強引に自分の胸元に引っ込めるのでありました。それでも那間裕子女史の左手は、頑治さんの右手の甲から離れないのでありました。
 那間裕子女史は意地になって、またもや頑治さんの右手を自分の胸の上に乗せようと引っ張るのでありました。それは案外強い力なのでありましたが、しかし頑治さんは自分の胸元から自分の手を動かさないのでありました。
 その後何度か小さな振幅で押し引きがあって、那間裕子女史は到底頑治さんの力には叶わないと諦めて、頑治さんの手からぞんざいに自分の左手を離すのでありました。
「全く、愛想もクソもないんだから」
 那間裕子女史はその後つんけんした語調で云うのでありました。
「いやあ、愛想とか無愛想とか、そう云う事では、ないんですけど、・・・」
「唐目君は案外意気地なしなのね」
「ええもう、こう見えて至って気の小さい男でして、・・・」
 頑治さんがそう云うと那間裕子女史は暫く頑治さんの顔をまじまじと見て、それから徐に溜息を吐いて苦笑いを浮かべるのでありました。
「判ったわ。つまり彼女さんの方に忠義を立てている訳ね」
「と、云いますか、まあ、つまり、そんなような、そんなようでないような。・・・」
「立派な心掛けだと褒めてあげるわ」
 那間裕子女史はすっかり白けたような云い草をするのでありました。
「どうも、面目ありません」
(続)
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あなたのとりこ 695 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは頭を掻くのでありました。それを見た那間裕子女史はまた舌打ちして、一升瓶を取り上げて自分のコップに自らなみなみと酒を注ぐのでありました。こうなったら飲むしか他に遣るべき何事もないと云うところでありますか。
「そんなにハイピッチで飲むと体に悪いですよ」
「つべこべ云わないの」
 頑治さんの心配顔を横眼に、那間裕子女史はまたそれを一気飲みで喉に流し込むのでありました。もうこれは自棄酒の類いとも云うものであります。
 こうなってはもう、傍でなんと諌めても聞き入れる筈はないでありましょう。頑治さんは嫌な予感に苛まれながら那間裕子女史の飲む姿を見据えているのでありました。

 那間裕子女史の体がぐらりと揺れるのでありました。女史の目が半眼になっているからその目玉の状態は確とは判らないのでありましたが、屹度何物もフォーカスしてはいないのでありましょう。止まろうとする独楽が揺れながら回るように体が揺れていて、それは屹度酔いのために目が回っているのを反映しているのでありましょうか。
 那間裕子女史の体軸の揺れが重心軸の補正域外にはみ出した後、女史は頑治さんの肩に崩れかかるのでありました。それは気を失ったような倒れ掛かり方でありました。
「大丈夫ですか?」
 これで大丈夫な訳がないと判っていながらも、頑治さんは自分の肩の上の那間裕子女史の頬に訊くのでありました。勿論返答はないのでありました。これではこの前、酔い潰れてこのアパートに遣って来て、玄関先で倒れていた時の焼き直しであります。
 頑治さんはその儘無体に肩をどけて、那間裕子女史の頭を畳の上に落とすのも気が引けるものだから、左手で女史の頭を支えてそろりと肩を抜くと、女史をゆっくり畳の上に仰向けに寝かせるのでありました。女史は前後不覚と云う感じで、体の力が抜けているものだから、無事に横たわらせる迄が一苦労なのでありました。
 さてどうするかと、頑治さんは那間裕子女史の寝顔を見下ろしながら考えるのでありました。未だ電車の動いている内に寝覚めてくれれば良いものだけど、若し終電を過ぎても寝た儘だとすれば、これはまた厄介な事であります。今次は、均目さんとの経緯を聞かされた以上、均目さんに救援を求める事も出来そうにないでありましょうから。
 しかしそれにしても那間裕子女史は先回と合わせて二回も、曲がりなりにも男児たる頑治さんの家に遣って来て、その前でこうも簡単に酔いつぶれて仕舞うと云うのは、如何にも不用心な人であります。若し頑治さんに悪心があるなら、この油断は格好の餌食にされると云う事ではありませんか。まあ、酔いつぶれる前に那間裕子女史は頑治さんに迫って来たのではありますから、寧ろこれは意中の事だと云えなくもないかも知れませんが。
 兎に角何れにしても、頑治さんは困るのでありました。この窮地を脱するためには、無責任且つ不人情ながら、三十六計しかないようであります。そうするとその内に酔いも去って覚醒した那間裕子女史は、頑治さんがこのアパートに居ない事に気が付いて、途方に暮れてすごすごと自分の家に帰って行くしかないと云う寸法であります。
(続)
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あなたのとりこ 696 [あなたのとりこ 24 創作]

 若し那間裕子女史が何処までも頑治さんのアパートに居座るとしたなら、頑治さんは今夜帰るべき家を失う事になる訳であります。しかしまあ、時候は真冬の寒風吹き荒ぶ頃でもなし、一夜くらい外で過ごしても別に過酷な事でもないというものであります。
 頑治さんは決して潔くはないそんな決定をすると、そおっと立ち上がって玄関先に向かうのでありました。部屋の電灯は点けっ放しにしておいても構わないし、鍵は掛けるとしても内側からそれは解除できるから、那間裕子女史は帰る事は出来る筈であります。女史が帰った後暫くの無施錠の不用心は仕方のないところでありますけれど。
 ドアノブの回る音を極力たてぬように扉をゆっくり押し開けて、また閉まる時の音も注意深く無音に済ませて、頑治さんは誰憚る事のない自分の家であるにも関わらず、妙にビクビクしながら部屋の外に出るのでありました。無事に外に出ると溜息を吐くのでありましたが、ここで何故か急に腹がかなりへっている事に思い至るのでありました。那間裕子女史を放ったらかしにして、自分一人だけ食事を摂るのも何やら気が引けない事もないのでありましたが、まあ、相手は昏睡しているのだから仕方がない事でありますか。
 頑治さんは地下鉄の本郷三丁目駅近くの、夕美さんが上京してきた折等、時々一緒に食事に入った事のある中華料理屋に向かうのでありました。
 ところで若し夕美さんが東京に来ている時に、那間裕子女史が今日みたいな感じで頑治さんの家を訊ねて来ていたとすれば、何だか非常にややこしい事に相成った事でありましょう。しかし今日の場合、来た時には未だ那間裕子女史は酔い潰れてはいなかったから、ひょっとしたらすったもんだはあったにせよ、結局は何とか円く片が付いたかも知れませんが、前の時のようにすっかり酔い潰れて前後不覚で玄関先に倒れていたとしたら、これはもう、考えただけでげんなりする程厄介な事件になった事でありましょうか。
 てな事を考えながら炒飯とラーメンを食い終って、頑治さんは腕時計を見るのでありました。終電には未だ時間があるのでありました。
 もう少し帰るのを遅らせる必要があると考えて、頑治さんは本郷三丁目駅近くの喫茶店で時間を潰すのでありました。そこは夜中の二時迄遣っている店で、飲んだ帰りのサラリーマンらしき客が二組程、離れた席に座って、緩んだ姿勢でコーヒーを啜りながら、テニスのテレビゲームを夢中でやっているのでありました。何やらあんまり好ましい雰囲気ではないのでありましたが、まあしかし、ここは仕方がないところでありますか。
 喫茶店を出たのは夜中の一時を過ぎた頃で、もう正気に戻ったなら、那間裕子女史は確実に帰った頃でありましょうか。外からアパートの自分の部屋を窺うと、点けっ放しにして出て来た電灯は消えているのでありました。
 と云う事は那間裕子女史は頑治さんが出て来る時の儘で、ずうっと寝ていると云う事ではないのでありましょう。ずうっと寝ているとすれば、電灯は点けられている儘である筈でありますから。頑治さんは思わず指を鳴らすのでありました。
 しかし単に電灯を消して、部屋の中でぼんやり座っている可能性もあると云えばあるのであります。しかししかし、電灯を態々消して座っている謂れはないでありましょう。これは矢張りもう帰ったと云う事でありましょう。そう願うばかりであります。
(続)
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