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あなたのとりこ 750 [あなたのとりこ 25 創作]

 身支度を整えると頑治さんはアパートを後にするのでありました。大した距離でもないから電車に乗る迄もなく、頑治さんは飯田橋の職安に向かって外苑通りを歩くのでありました。途中で食事をしようかとも考えるのでありましたが、さして腹も空いていなかったので用事が終わった後で、戻ってからにするのでありました。
 道中半ばに差し掛かった辺りで、靴の中で異変が起こるのでありました。靴下が歩の重なりに連れて次第に脱げて行くのでありました。屹度口の緩くなっていた靴下をうっかり履いて仕舞ったのでありましょう。足裏に這う不快に頑治さんは立ち止まって足を靴から引き摺り出して、土踏まず辺りに蟠る靴下を引っ張り上げようと思うのでありましたが、往来の真ん中でそう云う様の悪い行為をするのも何やら憚られるのでありました。
 足裏の不快に耐えながらも頑治さんは飯田橋の職安に辿り着くのでありました。その時には靴下はすっかり足から脱落して、靴中の爪先辺にいるのでありました。そう云えばこの前職安に来て贈答社を紹介された時にも、この靴下の不具合があったなと頑治さんは思い出すのでありました。先回の時に紹介された贈答社への就職は早々に不始末に終わったのでありましたが、これも不吉な予兆だと思えなくもないのでありました。
 頑治さんは気を取り直して職安の中に入るのでありました。するとカウンターの傍に見た事のある後ろ姿の人物を認めるのでありました。紛う事なく、それは刃葉さんでありました。頑治さんは慌てて横移動して、ポスターの張ってある衝立の傍にそれとなく身を隠すのでありました。別にこそこそ隠れる必要はないのではありましたけれど。
 衝立から顔を半分出して見ていると、刃葉さんは用事を済ませたようで出入り口の方に歩いてくるのでありました。真っ直ぐに前を見て頑治さんには全く気付かないのでありました。刃葉さんは例に依って不機嫌そうな顔でその儘職安を出て行くのでありました。
 職探しに来たのでありましょう。と云う事は刃葉さんが北海道を引き上げて、舞い戻って来たのは先ず確かなようでありました。もう全く関係ない人なのではありますけれど、仕事を辞めて以来三回も出くわすと云うのは、何やら妙な因縁を感じて仕舞うのでありました。これも不吉な前兆と云うべきかどうかは俄には判断出来ないのでありますが。
 頑治さんは刃葉さんに代わって、と云う訳ではないのでありますが、カウンターの方に進むのでありました。カウンターの向うには、これも顔に見覚えのある職員が座っているのでありました。先回も世話になった田隙野道夫氏でありました。
 田隙野氏は頑治さんを見て、おやと云う顔をするのでありました。どうやら頑治さんの事をうろ覚えながらも覚えていたのでありましょう。
「これはこれは、ええと、・・・」
 田隙野氏は頑治さんに笑いを向けながら、誰だったか思い出そうとしているようでありました。「名前は失念いたしましたが、前にこちらにいらした事がある方ですよね?」
「ああどうも。御無沙汰しております」
 頑治さんはカウンターを挟んで真向いの椅子に座るのでありました。「前にも仕事を紹介して貰った唐目頑治と云います。この度は前に紹介して貰った仕事をしくじりまして、また性懲りもなく何か仕事を紹介して貰おうとやって来たのであります」
「ああそうですか。それはどうも。・・・」
 田隙野氏は気の毒そうな顔を向けるのでありました。「で、また仕事探しにいらしたと云う事ですが、今回はどんな就職先をお探しですかな?」
「そうですねえ、まあ、こちらの希望としては、給料とか待遇なんかは特に気にしないのですが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云うそんな虫の良いようなところからの求人はありませんかねえ?」
 頑治さんが云うと、田隙野氏は妙な顔で頑治さんをまじまじと見るのでありました。
「成程ね。何やら前にも誰かから聞いた事のあるような条件ですが、そんな仕事があれば私の方が先にここを辞めて転職したいくらいです。ま、ちらと探してみましょうかな」
 田隙野氏は頑治さんの勝手な云い分を窘めもせずに、傍らの求人票のファイルを取り上げてペラペラと律義に頁を繰り始めるのでありました。
(了)
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あなたのとりこ 749 [あなたのとりこ 25 創作]

「随分一区切りが遅くなったわね」
「まあ、俺はのんびり屋だからね」
「で、上手くいきそう?」
「そうえね、未だ何とも云えないけどね。そうおいそれとはいかないと思うけど」
 如何にも緊張感のない云い方かと、云いながら頑治さんは思うのでありました。
「頑ちゃんなら、屹度大丈夫なんじゃないかしら」
「まあ頑張ってみるよ。懐具合も心細くなってきた事だし」
 頑治さんは少しくらい切迫感とか深刻さを醸し出そうとするのでありましたが、自分でも何とも間抜けな云い草にしか聞こえないのでありました。
「お母さんの具合はどうだい?」
「一週間くらいで取り敢えず退院したんだけど、三日おきに通院しているわ」
「それは入院しているより大変そうだなあ」
「本人が病院を出たくて仕様がなかったようだし、その方が気持ちの上では楽みたいよ。通院と云っても車で十分もかからないから。父と兄とあたしが交代で連れて行っているんだけど、何だか皆に大事にされて少し嬉しそうよ」
「ふうん。まあ、次第に元気になっている気配が窺われるのなら、何よりだよ」
「そうね。それで、この儘お母さんの体調に特別変化がないようなら、ひょっとしたらあたし、短期間だけどそっちに行く事になるかもしれないわ」
「え、それは本当かい?」
 頑治さんは思わず嬉しそうな声を上げるのでありました。
「うん。大学の考古学研究室にも仕事上の用事があるから。まあ、本当に短期間の、仕事だけの出張だけど、でもそうなると頑ちゃんの顔も見る事が出来るしね」
「それは良いや。俺としてはそうなる事を祈るだけだ」
「未だはっきりしないけど、あたしとしても是非行きたいし」
 これは頑治さんにとっては思いがけない朗報でありました。
「そうなって欲しいなあ。今から楽しみだ」
「まあ、そんな訳で、あたしの近況としてはそんなところかしら。頑ちゃんの方もようやく就職に向けて動き出したようだし、これであたしもちょっと安心したかな。今度はあたしの方が頑ちゃんの朗報を期待しているわ。就職活動頑張ってね。何だか取り留めのない電話だけど、久しぶりに頑ちゃんの声を聞けて嬉しかったわ」
「うん。近々夕美に逢えるかも知れないと思うと、俄然元気が出てきた」
「じゃあ、体に気を付けてね」
「判った。夕美の方もね」
 そう云い合って、夕美さんからの電話は終わるのでありました。
 まあ、夕美さんの云うように特段の用事もない取り留めのない電話でありましたが、頑治さんは思わぬ朗報を聞く事が出来たのでありました。
 翌朝頑治さんは久々に、目が覚めると早々に布団を抜け出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 748 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると、取り敢えずの手段として飯田橋の職安にでも出向くと云う事になるのであります。他に新聞の求人欄とか、折り込み広告に掲載されているところとかもあるでありましょう。この前贈答社に就職する折は職安で紹介を受けたのでありましたが、それも結局短期間で職を失うと云う結果になったのでありました。
 依って、別にげんを担ぐとか云う訳ではないのでありましたが、今回は新聞とか折り込みを先ず利用してみると云う手もあるかと考えるのでありました。学生時代からあんまり詳しく読むと云うのではありませんでしたが、一応新聞は朝刊だけは惰性でずっと取り続けているので、今朝のものを手に取ってペラペラと紙面を繰ってみるのでありました。
 職種は特に拘りはないのでありましたけれど、まあ何となく気楽な仕事で、そこそこ生活が立ち行く程の賃金が得られればそれで良かろうと思いながら、並んでいる順にいくつかの記事を読んでみるのでありましたが、なかなかピンとくるものは見付けられないのでありました。そんな漠然とした希望で探しても、それは確かにこれと云った仕事は探し得ないでありましょう。まあそうなると、贈答社で遣っていた倉庫の仕事とか梱包配送及び車での配達仕事云うのが、まあ当面一番無難な線と云う事になるでありましょうか。
 帯に短し襷に長し、なんと云う言葉を頭の隅に思い浮かべながら暫く求人欄の紙面に見入っていると、突然電話の呼び出し音が頑治さんの耳朶を揺らすのでありました。頑治さんは受話器を取り上げてそれを耳に宛がうのでありました。
「ああ、あたし。こんな時間にご免なさい」
 それは夕美さんの声でありました。
「別にそんな夜更けでもないから謝る必要はないよ」
 そう応えながら、しかし電話を掛けるには不自然な程遅い時間だと夕美さんの方は思ったから、先ずそう謝ったのでありましょう。と云う事は夕美さんとしては大いに遅いにも関わらずこうして電話をしてきたという事でありますか。それはつまり何か不測の事態でも出来したから時間を憚らず電話をした、と云う事なのでありましょうか。
「そうね、未だ寝る時間には早いわね」
「何かあったのか?」
 頑治さんはそう訊きながら、ひょっとしたら夕美さんのお母さんの身に、良からぬ何かが起こったのかと心配するのでありました。
「ううん、何かあった訳じゃないけど、頑ちゃんが元気にしているかなって思って」
 あんまり切羽詰まった語調でもなく夕美さんがそう云うのを聞いて、頑治さんは一先ず胸を撫で下ろすのでありました。
「体調はまあまあだよ。今、コーヒー飲みながら新聞の求人欄を見ていたところだ」
「ふうん。と云う事は、未だ就職は決まっていないのね」
「そう云う事。何だかんだあってようやく今の今、その気になったところかな」
「何だかんだって、何かあったの?」
 今度は夕美さんが心配そうな気配を見せるのでありました。
「いやあ、つまりようやく一区切りついたような気になったと云う事だよ」
(続)
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あなたのとりこ 747 [あなたのとりこ 25 創作]

 土師尾常務は強い調子でそう云い切るのでありましたが、その必死さがどこか妙に痛々しいと頑治さんは感じるのでありました。
「ああそうですか。それならそれで良いですけどね」
 頑治さんは軽くあしらうように返すのでありました。
「で、そう云う憎まれ口を叩くところを見ると、僕のところに来る気はないんだね?」
「別に憎まれ口を叩いていると云う心算はありませんが、勿論常務のお話しに乗る気は綺麗さっぱりないですね、折角のお誘いではありますが」
 頑治さんはきっぱりとそう伝えるのでありました。
「判った。それじゃあこれ以上は時間の無駄だからこれで電話を切るよ」
「そうしてください。じゃあ、お元気で」
 頑治さんがそう云って受話器を耳元から離そうとすると、土師尾常務は頑治さんに先に電話を切られてたまるものかと、急いで自分の方から少し乱暴に受話器を架台に戻すのでありました。頑治さんは電話の切れる音を聞いてから、静かに受話器を架台に載せるのでありました。幼稚な仕業ながら、これもこの人のメンツと云うところでありますか。
 しかし、今になってまあよくも頑治さんにこのような仕事のお誘い電話を掛けてきたものであります。その間抜け具合に思い至らないのでありましょうか。
 いくら紙商事で居場所をなくしていて、早晩辞める事になるだろうからと、自分で今迄の経験を活かして新しい会社を立ち上げようとするところは、新たな活路としては然程不自然ではないでありましょう。まあ、成功するか失敗するかは別として。
 頑治さんとはしっくりいっていなかったのだし、幾つもの嫌な経緯もあると云うのに、そんな誘いに頑治さんがおいそれと乗ってくると本気で考えたのでありましょうか。頑治さんが仕事探しに窮していると考えてそんな頑治さんなら薄給でこきつかえると踏んで、弱みに付け込む魂胆で誘ってきたのなら、考えがお目出度いと云うのも程があると云うものであります。この人は自分が相手にどのように思われているのか、一顧もしないのでありましょうか。まあそうだから、こう云う事を仕出かすのでありましょう。
 そう云う人でありますから、ひょっとしたらこの後袁満さんにも無神経なお誘い電話をするのかも知れません。袁満さんにつれなくされたら、場合によっては均目さんにも電話を掛けるのかも知れません。まあ、苦手な那間さんにはしないでありましょうが。
 で、袁満さんにも均目さんにもまんまと断られて、折角温情からこうして誘ってやっているのに何と恩知らずな連中かと、逆恨みして眉間に皺でも寄せるのでありましょう。何だかその不愉快顔が今から見えるようでありますが、まあ、これはあくまでも頑治さんの推量で、あの土師尾常務でも流石にそんな事はしないかも知れませんが。

 さて、この土師尾常務からの電話で、頑治さんは何だか一区切りのような気がするのでありました。漸く贈答社関連の事態はこれにてけりが付いたと云う思いでありました。
 こうなれば愈々頑治さん本人の就職と云う訳であります。ここいら辺で竟に腰を上げる潮時だと云う事になるのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 746 [あなたのとりこ 25 創作]

「新しく興す会社に専念する、と云う事ではないのですか?」
「贈答社にいた時から僧侶は続けていたから、問題なく両方遣っていけるよ」
「これまでは遣っていけたのではなく、社長や片久那制作部長と云うしっかり会社を見てくれる人が別にいたから、無頓着でいられたんじゃないのですか?」
 頑治さんにそう訊かれて土師尾常務は電話の向こうから、明らかにムッとしたような気配を伝えて来るのでありました。
「社長なんか贈答社の具体的な仕事なんか何も判っていなかったよ」
「しかし経営面ではちゃんと、社長と云う職責を果たしていたんじゃないですか?」
「どうだかね」
 土師尾常務はあくまでも懐疑的なのでありましたが、寧ろ土師尾常務自身が取締役としての職責を果たしていたのかどうかも疑わしいのであります。殆どを片久那制作部長に任せきり状態だったくせに、それを、問題なく両方遣っていた、と抜け々々と云い切る辺り、この人の神経は一体どうなっているのかと頑治さんは呆れるのでありました。
「しかし自分の目には、経営とか取締役としての働きは片久那制作部長が一人で引き受けていたし、常務はすっかりノータッチだったように見えていましたけどね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少し熱り立つのでありました。「僕が営業をしっかりやらないと、他に頼りになる人間が居なかったからそう見えていただけで、僕だってちゃんと取締役としての働きは熟していた心算だ。日比君が全く頼りにならなかったから仕方ないじゃないか」
 この意見にも頑治さんは呆れるのでありました。この人の自己肯定の強さなんてえものは慎に以って筋金入りで、自己省察と云う思考は頭の片隅にも持ち合わせていない人のようであります。これでは何を云っても話しにならない訳であります。
「それなら何故今、日比課長の後塵を拝するような体たらくになっているんですか?」
 頑治さんにそう云われて、明らかに土師尾常務は電話の向こうでたじろぐのでありました。どうしてそんな情報を頑治さんが知っているのかと驚いたのでありましょう。
「別に後塵を拝するような事にはなっていないよ!」
 土師尾常務はあたふたしながらそう抗弁するのでありました。「どうしてそんな難癖を付けるんだ! 社長から電話でもあったのか?」
 これは間抜けにも頑治さんの指摘をうっかり認めたようなものであります。
「社長が自分にそんな電話をしてきたと、どうして咄嗟に考えたんですか? そんな事を云うのは社長に違いないと思ったんでしょうが、別に社長から電話なんかありませんよ。どこをどう考えても、社長が自分に電話をしてくる訳がないじゃないですか。まあ、社長に対する不信感とか負い目から、竟そう考えて仕舞ったんでしょうけど」
 頑治さんは落ち着き払って返すのでありました。
「じゃあどうして僕が日比君の後塵を拝しているとか無礼な出鱈目を云うんだ?」
「出鱈目ではなく図星だと今の常務の慌てぶりが証明しているんじゃありませんか?」
「僕に日比君如きより劣るところなんか全くないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 745 [あなたのとりこ 25 創作]

「そう。短期間で優秀な営業マンにしてみせるよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは無抑揚に云うのでありましたが、その声音に何となく不愉快そうな気分がしっかり漂っていたであろうと、云った後で思うのでありました。
「どうだろう、僕の下で働いてみる気はないかな?」
「待遇はどうなるのでしょうかね?」
「待遇とか、その辺はこれからの相談と云う事になるがね」
 土師尾常務は急に興醒めたような云い草になるのでありました。「まあ、一応営業見習いと云う事になるから、最初からそんなに賃金は出せないけど」
「でも梱包とか発送とか、配達なんかの仕事もやるんでしょう?」
「そう云う仕事は、まあ、誰にでもやれる仕事だしね」
「何だか待遇の話しをしたら急に、物腰から不快感が滲み出しましたね」
「そんな事はないよ」
 土師尾常務は少しムキになって全く心外であるような口振りで云うのでありました。と云う事はズバリ、そんな事、であったと云う証明でありましょう。

 何となく気まずい沈黙の時間が少々流れるのでありました。
「すぐにとはいかないけど、将来営業の仕事も熟せると云う目鼻が付いたら、まあ、贈答社で払っていたのと同じ給料くらいは出す心算でいるよ」
「将来ではなく、現在ではどのくらいの待遇をしていただけるんですかね?」
「それはまあ、はっきりこのくらいと確約は今は出来ない。未だ会社を立ち上げようと云うタイミングだから、将来を期して貰うしかないな」
 土師尾常務は頑治さんが待遇面の話しを持ち出すとは思ってもいなかったようでありました。失業者の分際なんだから雇って貰うだけで有難い筈だし、幾ら貰えるかとか、そんなさもしい希望はこの際棄てて、少ししおらしくしろと云うところでありましょう。
「待遇の話しをされるのが不愉快なんですか?」
「そう云う訳じゃない」
「常務の始められる会社に来いと誘われて、それならば待遇面はどうなるのか、と聞くのは不遜で不謹慎な事なんですかね?」
「そうじゃないよ」
 土師尾常務は不機嫌を露骨にするのでありました。少なくとも自分の興す会社に来て欲しいと持ちかけるのなら、少しくらいは下手に出ても良さそうなものであります。自分の意にそぐわない返答が相手から返ってきたり、聞かれたくはない事を聞かれたりするとすぐにこう云う感情的な反応を示す辺り、まあ、相も変わらずのようであります。
「ところで常務は、お寺の仕事は続けていらっしゃるのですか?」
 頑治さんは話頭を変えるのでありました。
「ああ、うん。副住職としての責任もあるし、僕は僧職を天職と考えているから」
(続)
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あなたのとりこ 744 [あなたのとりこ 25 創作]

「贈答社で遣っていたのと同じ仕事を始めるのですか?」
「そう。今迄の仕入れ先とか得意先からも、新たに会社を興してやらないのか云うリクエストが頻繁にあるものでね。それに応えると云うところもあって」
「贈答社時代の得意先なんかとは、今でも付き合いが続いているんですか?」
「そうだね。向こうで態々僕の家の電話番号を調べて、前の仕事をまた続ける気はないのかとか、何時新たに始めるのかとか、色んなところから問い合わせがくるんだよ」
「へえ、そうですか」
 頑治さんはげんなりしながらも全くの愛想で感心して見せるのでありました。日比課長の証言に依れば紙商事の嘱託社員としての土師尾常務の業績は、全く以ってさっぱりだと云う事でありました。そう云う事だから社長にも疎まれ軽んじられて、身の置き所もない有様だと聞いているのでありますが、しかし土師尾常務のこの電話に依ればなかなか景気が良さそうな風であり、慎に以ってバラ色の将来像と云った感じであります。
「今現在僕は、社長に懇願されて一応紙商事の社員と云う身分なんだけど、そんな立場は実に窮屈で、一人で自由に活動する方が将来も開けるような気がしているんだよ」
「ほう、今は紙商事に籍を置いているんですか?」
 頑治さんは知っていながら知らない素振りを決め込むのでありました。
「そう。僕はどうでも良かったんだけど、社長がどうしてもと云うんで、一応ね」
 土師尾常務は社長の懇願だと云うところを強調するのでありました。
「それで紙商事を辞めて、新しい会社を始める事にしたのですか?」
「まあ、そう云う事だよ。ギフト関連の仕事は素人の社長にあれこれ指図されると、返って僕の力を存分に発揮出来ないし、営業活動上も何かと不自由だしね」
 これはこの人の、前からお得意の大言壮語の類いであろうと頑治さんは推察するのでありました。日比課長の話しの方にこそリアリティーがありそうでありますし。
「そうですか。そう云う事なら頑張ってください。成功を祈っています。ところで、それはそうと、今日はどうして自分に電話をされたのですか?」
「うん。実はその新しく始める会社に、唐目君が来てくれないかと思ってね」
「自分が、ですか。どうしてまた?」
「贈答社に居る時、唐目君が一番仕事振りが堅実だったからね」
「ほう、それは今初めて聞きました」
「いや僕は、口には出さなかったけど唐目君を一番評価していたんだ」
 何を今更どの口がそう云う事を云うのでありましょう。一番評価していた割りに、会社が左前になったら、色々難癖を付けて早々に辞めさせようとしたくせに。
「それは恐縮です」
 頑治さんは大笑いしたい気分でありました。
「まあ、営業の事は経験がないから暫くは僕の下で勉強して貰う事になるけど、商品の梱包発送とか配達とか、そう云う倉庫仕事みたいな事はすぐに出来るだろうしね」
「営業見習いもやる訳ですね、常務の指導を受けながら?」
(続)
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あなたのとりこ 743 [あなたのとりこ 25 創作]

 さてそうなると今度は頑治さんの身の振り方であります。頑治さんとしてはまた贈答社での仕事を得た時のように、職安に出向いて新たな仕事を紹介して貰うと云うのが順当な方策と云うものであります。しかし何だか、未だ腰が重いのでありました。
 これは頑治さんのだらしなさが第一の理由でありますか。未だ多少の金銭的余裕(!)があるものだから、なかなか焦らないのでありますし、生来ののほほんとした性格が災いしているとも云えるのであります。焦らなくとも、仕事が見つかる時にはちゃんと見つかるものだと、慎に以って楽観的な考えから抜け出せないのであります。
 頑治さんは己がそんな性格を以前から持て余すところもあるのでありましたが、まあ、焦らないものは、これはどうにも仕方がないではありませんか。と云う訳で、頑治さんは散歩とか、寄席通いなんかで無為な時間を過ごしているのでありました。まあ、泊りの旅に出る程の金銭的余裕なんぞはないのでありましたが。
 そんな折しも、どうした事か土師尾常務から電話がかかってくるのでありました。まさかこの人からは贈答社を辞めた後に連絡等はこないだろうと、思う迄もなく思っていたのでありましたが、そのまさかが現実に起こってみると、変なものでこれも成り行きと云う点で、当然あり得る事ではあると妙に納得するところもあるのでありました。
 他の元贈答社社員の動向は何となく知れたのでありましたが、この人だけは袁満さんと日比課長からの間接情報だけで、ちゃんとは知れていなかったのであります。しかしまあ別に、頑治さんに総ての元社員の情報が集まる謂れは特にないのでありましたけれど。
「どう、元気にしているかい?」
 土師尾常務は贈答社でのこれ迄の経緯をすっかり忘れたかのように、実に屈託ない調子で頑治さんにそう言葉をかけるのでありました。
「ええ、まあ、何とか」
 頑治さんは不快と迄はいかないけれど、抑揚を押し殺してやや無愛想な感じで返すのでありました。久々に声を聞いたからと云って歓喜する事は別にないのでありますし。
「ああそう。それは良かった」
 土師尾常務は頑治さんの懐かしそうな驚きの声を期待していた訳ではないのでありましょうが、しかしその可愛気のない受け答えが少し心外だったようで、急に声の張りを抑制して、負けじと自分も不快を滲ませて見せるのでありました。この相も変わらずの対抗的な反応に、頑治さんはやれやれとうんざりするのであります。
「ご用件は何でしょうか?」
 頑治さんは心の内は別として礼は一応弁えていると云った風の、不躾をあからさまにはしない、と云う気遣いを逆にあからさまにして見せながら訊ねるのでありました。
「今度ね、新しい会社を立ち上げる事にしたんだよ」
 土師尾常務は少し云い淀んで、気を取り直すようにそう話し出すのでありました。
「新しい会社、ですか?」
「そう。贈答社でやっていたギフト関連の会社で、贈答社時代に仕入れ先として取引のあったところと組んで、事業を始めようと思っているんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 742 [あなたのとりこ 25 創作]

「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ」
「それから、お土産を持って行く時には、予めちゃんと電話してから行くわよ。お酒に酔った勢いで突然訪ねると云う事はしないから、安心して構わないわよ」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「そう云う事なら、まあ、楽しみにしています」
 頑治さんが応えると女史は尚一層の哄笑を返すのでありました。

 袁満さんのその後の話しに依ると、日比課長は自分の生活費くらいはそこそこ稼いでいるようでありました。紙商事にも取引先を通じて紙販売の仕事を持ち込む事もあって、贈答社時代よりも社長の覚えも目出度くなって、将来は紙商事の新しいギフト関係の仕事の責任者として、正社員として雇用して貰える希望も出てきたようでありました。
 それに比べて土師尾常務の方は新しい仕事では全く鳴かず飛ばずと云う按配らしく、華々しく前宣伝していた割りに取ってくる仕事の量は実に大した事がなく、社長の信頼もすっかり地に堕ちて、殆ど見縊られて仕舞っているようでありました。それはそうでありましょう。贈答社時代から社長に対してご大層な自己喧伝ばかりに現を抜かして、実際の面倒な仕事は横着を決め込んでのうのうと威張り散らしていただけでありましたから。
 そんな欺瞞が長く通用する程に世間は甘くはないと云う事であります。ここにきて竟に化けの皮が剥がれて、日比課長の意外な働きぶりとの対比もあって、社長の失望と軽蔑を一手に引き受ける羽目になったのでありましょう。
 まあしかし土師尾常務にも家族があって、家のローンとか、お子さんの教育費とか、これから先益々お金がかかるのでありましょうから、何処かの寺の副住職と云う、肩書きだけで実は大した実入りのない稼業と、殆ど稼ぎの出せない紙商事の嘱託社員と云う身分等では、この先どうにも生活が立ち行かなくなるでありましょう。土師尾常務に対して恨み骨髄の袁満さんなんぞは、身から出た錆と鼻で憫笑するだけでありますが、頑治さんとしては、彼の人もなかなか大変だろうと、多少の同情心もない事もないのでありました。
 それでも土師尾常務は欺瞞まみれながらも、贈答社の中で常務取締役を社長から拝命していた訳で、これはつまり、あれでなかなか生活力旺盛な一面もあったと云う事でもありましょうか。であるなら、これから先も贈答社時代のようには上手くは立ち回れないとしても、なんとかかんとか世過ぎの道は切り開いていく事でありましょう。
 それも出来ないで破滅一直線と云う事であっても、頑治さんとしては多少の哀情は催すとしても、顔を顰める程気の毒とは感じないのでありました。まあ、袁満さんの云う通り、身から出た錆、と云う語の中に納める事が出来るところでありますか。
 結局、贈答社で知り合った夫々は、本意不本意は別として、自ずと夫々の適所に落ち着くのでありましょうし、新しい居場所に落ち着けば、もう消息も知れなくなるのでありましょう。それで頑治さんも一区切りと云う事でありますか。まあ、暫くは時々、袁満さんからはその後の就職とか甲斐計子女史との仲の進展とかの報告はあるのかも知れません。しかしこれも、結局のところ次第にフェードアウトしていくのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 741 [あなたのとりこ 25 創作]

「ケニア旅行から帰ってきたら那間さんも片久那制作部長に渡りを付けて、そこで働かせて貰ったらば良いじゃないですか」
 頑治さんは均目さんの動向をまるで知らないと云う点を仄めかせるために、そんな事を云ってみるのでありました。均目さんが居たら、当然那間裕子女史は片久那制作部長の下には屹度行かないであろう事は、勿論承知の上でのお惚けであります。
「まあ、そんな手もあるけど、でもそうはいかない事情があるのよ」
「そうはいかない事情、と云うのは何ですか?」
 頑治さんはあくまでも惚け続けるのでありました。
「片久那さんの会社には既に均目君が就職していたのよ」
「へえ、均目さんが既に居るんですか」
 ここ迄惚けると、これはもう惚け芝居の免許が貰えるくらいでありますか。
「そう。均目君も抜け目がないところがあるから、片久那さんがそう云う会社を興したのを聞きつけて、早速就職運動をしたのね、屹度」
「或いは片久那制作部長にスカウトされた、と云うのもあるかも知れませんね」
「まあ、ない事はないけど、でも片久那さんは実は均目君をそんなに買ってはいないようだったら、片久那さんの方からアプローチしたと云うのは、ちょっとどうかしら」
「ああ、そうですかねえ」
「まあ兎に角、また均目君と一緒に仕事をするのはまっぴらだから、あたしは関わり合いを持つ気はないわ。気持ちの方も今はケニアの事で一杯だし」
 那間裕子女史は、それはちょっとげんなりだと云った口調で云うのでありました。「と云う事で、まあ、唐目君の御機嫌伺いと、あたしの近況御報告と、聞き知った片久那さんと均目君のその後でも耳に入れておこうと思って、こうして電話したって訳よ。唐目君にとってはもう、どうでも良い余計な事かも知れないけどさ」
「いやまあ、那間さんの事も、片久那制作部長や均目さんの事も気にはなっていたんで、余計な事なんてとんでもないですよ」
「ああそう、それなら良いけど」
 那間裕子女史は、それは電話をした自分への労わりで、別に頑治さんの本心ではなかろうと思っているのか、ぞんざいな云い振りでそう云うのでありました。
「袁満さんも就職活動の一環で、医療関連の専門学校へ暫く通うみたいですよ」
「ふうん、これから学校通いをするんだ」
 那間裕子女史は大して興味もなさそうに云うのでありました。
「職安の紹介らしいですよ。この前電話でそんな事を聞きました」
「皆あれこれと頑張っているのね」
 これも無関心そうな云い様でありました。この上に日比課長や土師尾常務の動向を報告したところで、那間裕子女史からは無愛想な反応しか返ってこないでありましょう。
「まあそう云う事で、ケニアに行ってくるわ。お土産買ってくるからね」
 那間裕子女史は語調を明るく変えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 740 [あなたのとりこ 25 創作]

「ところで均目君の事だけど、・・・」
 那間裕子女史は話頭を曲げるのでありました。語調から、ケニア旅行の話しよりも、その均目さんの話しの方がこの電話の本題かなと頑治さんは思うのでありました。
「均目君がどうかしたんですか?」
「この前ちょっと大学時代の先輩と話していたら、片久那さんの話題が出たのよ」
「その先輩と云う方は、片久那制作部長とは前からのお知り合いなんですかね?」
「そうじゃなくて、最近、仕事で知り合ったと云う事なの」
「ほう、仕事で、ですか」
 頑治さんは意外そうな口調で云うのでありました。
「そうなの。あたしが大学時代に入っていた冒険部の先輩で、今は比較的大手の出版社で雑誌の編集者として働いているのよ」
 那間裕子女史が大学時代に冒険部に入っていたと云うのは、今初めて耳にする事でありました。そんな話しはこれ迄の付き合いの中で、全く聞いた事がなかったのでありましたがそれは兎も角、その比較的大手出版社で出している雑誌と云うのは、女性向けのファッションとか化粧品とか、それに気の利いた生活雑貨の紹介とか、国内と海外を問わず街歩きの記事等を掲載するもので、そこそこ世間に名前の通った雑誌でありましたか。
「その雑誌で片久那制作部長を取り上げたんですか?」
「そうじゃなくて、旅行関連の記事の中に載せる地図とか図版の製作依頼で、或る地球儀の会社の社長から片久那さんを紹介されて知り合いになったようなのよ。先輩の方は、その地球儀会社とは雑誌の中で事務雑貨の特集をした時に知り合ったようなの」
「ああ、そう云えば片久那制作部長は、贈答社の仕事関連で知り合ったどこだったかの地球儀の会社の社長に随分気に入られていて、そこの仕事を一応贈答社として受けていましたね。片久那制作部長は贈答社を辞めた後も、その地球儀会社の社長とは昵懇の仲が続いていて、その社長の紹介で那間さんの先輩の会社に紹介されたんですかね」
「そう。まあ、そんなところね」
 那間裕子女史は頑治さんの察しの良さに満足したように云うのでありました。
「で、ね、つまり片久那さんは地図の製作とかどこかから依頼された記事の作成とか、そんな事をするプロダクションを自分で立ち上げたようなの」
 それは片久那制作部長から既に聞いていた事でありました。後は自費出版本の編集とか制作とか、片久那制作部長のこれも大学時代の知り合いの伝を頼りに始めた仕事のようでありました。それが愈々軌道に乗って、会社を興して、そこに頑治さんも、既にきっぱり断ったのでありましたが、来ないかと誘われたのでありました。
 と云う事は推測すると女史は、その片久那制作部長の興した会社に何故か均目さんが居る事を、つまりその先輩とやらから聞き知ったと云う事なのでありましょう。
「へえ、片久那制作部長はそう云う会社を創業したんですね?」
 頑治さんは恍けてそう訊くのでありました。
「そう云う事ね」
(続)
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あなたのとりこ 739 [あなたのとりこ 25 創作]

「那間さんの事だから、着実に就職活動をしているんじゃないのかな」
 袁満さんが自分の猪口にまた手酌で酒を注ぐのでありました。
「そうですね。那間さんは大学時代の友人とか先輩とか、その辺の交友関係も広そうだったから、その伝も頼って堅実に次の仕事を探しているでしょうね」
「もう、どこかに就職したのかも知れない。それこそ贈答社なんかよりも遥かに大手の出版社とかに。そうなれば返って、贈答社を辞めたのが吉と出た事になるかな」
 袁満さんはそんな推察を披露するのでありました。
「まあ、実際のところ、その後の動向はさっぱり知れませんけどね」
「そりゃそうだけど」
 袁満さんは自ら注いだ猪口の酒をグイと呷るのでありました。

 この池袋での酒宴で、後半に那間裕子女史の名前が出たのでありましたが、その女史から数日後に、不意に頑治さんに電話が掛かってくるのでありました。頑治さんとの間にすったもんだがあったのに、意外に屈託なく快活な声でありましたか。
「どう、元気にしている?」
「ええ、まあ、お陰様で」
「お陰様、と云われても、別にあたしは何も唐目君の元気に貢献していないけれどね」
 那間裕子女史はそう云ってケラケラと笑うのでありました。
「那間さんの方はどうですか?」
「別に唐目君のお蔭じゃちっともないけど、元気にしているわ」
 そう云う心算であったのではないでありましょうが、この那間裕子女史の科白は何となく頑治さんへの皮肉にも、聞こうと思えば聞けるのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたのですか?」
「未だよ。それよりもあたし、来週の金曜日からケニアに行く事になったのよ」
 そう云われて那間裕子女史が長い事温めていたケニア旅行の計画を、頑治さんは思い出すのでありました。この間の何だかんだで、すっかり失念していたのでありました。
「ああ、ケニアですか、愈々ですね」
「そう。やっと行く事になったのよ。二週間のケニア旅行」
「一人で、と云う事ではないんですよね?」
「うん、大学時代からの知り合いで、一緒にスワヒリ語の学校にずっと通っていた友人と二人でね。云う迄もない余計な事だけど、それは女友達よ」
「そうですか。やっと念願達成と云う訳ですね」
「ここにきて失業しちゃったから、ちょっと懐具合が心許ないけど、好い加減踏ん切りをつけないと、何時になっても行く事が出来ないし、思い切ったのよ」
「次の仕事に就いたらなかなか二週間も休暇は取れないでしょうから、そう云う意味では今がチャンスと云えばチャンスですよね」
「まあ、そう云う事ね」
(続)
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あなたのとりこ 738 [あなたのとりこ 25 創作]

 頑治さんが当り障りのない無難な線で応えるのでありました。
「均目君とか那間さんは未だ若いからそうでもないけど、甲斐さんの方は再就職するとなると、色々大変なんじゃないかなあ」
 日比課長はこう云うものの、実はこの三人の動向について然して心配もしていないし、殆ど無関心な様子でありましたか。しかし甲斐計子女史の動向についての言葉が出て来たものだから、袁満さんはまたもや目立たぬようにではあるけれど、何となく身構えるような素振りを見せるのでありました。日比課長に甲斐計子女史に対する良からぬ興味が未だあるのではないかとの猜疑、まあ、思い過ごしも抱いて仕舞うのかも知れません。
「甲斐さんの動向とか、日比さんにはもう関係ないだろう」
 袁満さんは不機嫌そうにソッポを向きながら、日比課長に徳利を差し出す様子もなく、手酌で自分の猪口に酒を満たすのでありました。
「そりゃそうだけど、まあ、ちょっとは気になるし」
 日比課長は袁満さんが無愛想な顔で、今度は酌をしてくれない事が何となく気になるようでありました。ひょっとしたら自分が嘗て、全く気軽な魂胆から甲斐計子女史にちょっかいを出そうとした事実を、袁満さんが聞き知っているのかも知れないとふと疑うのでありましたが、それは甲斐計子女史自身の口から語られなければ袁満さんが知り様もない事に違いないのであります。これ迄の観察から、甲斐計子女史が袁満さんにそんな事を打ち明ける程には二人の仲は親密ではない筈、とか、日比さんは考えたのでありましょう。
 ところがどっこい、甲斐計子女史と袁満さんは既にもうなさぬ仲なのでありますし、女史の不安と鬱憤からその辺の事情は、そんな仲になる前から疾うに袁満さんにも、それに頑治さんにも知れているのでありました。ここは日比課長の考え足らずであります。
「均目君はもう、何か仕事に付いたようですよ」
 頑治さんが日比課長に話し掛けるのでありました。
「へえ、何の仕事だい?」
「書籍の編集とか、雑誌に請負で記事を書いたりする仕事の様ですよ」
「どこかの出版社にでも就職したのかい?」
「いや、直接本人から聞いたのではないのでその辺は良くは知らないのですが、まあ、風の便りに、と云うか何と云うか」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
「那間さんはどうなんだい?」
「那間さんの方は特に情報は入っていませんね」
「那間さんからは連絡はないのかい?」
「ないですね。会社を辞めた後は」
「唐目君と那間さんは結構仲が良かったように思っていたけど」
「会社の中では軽口を云ったりする、と云うか一方的に俺が云われている仲だったけど、まあ、会社を離れると特段気が合う仲、と云う訳でもなかったですからね」
 そう云えば那間裕子女史は、その後どうしたのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 737 [あなたのとりこ 25 創作]

「要するに日比さんは同じ嘱託社員と云う立場で競争するなら、土師尾常務になんか絶対負けないと云う自信があると云う事か」
 袁満さんが自分の猪口に酒を手酌で注いだ後、頑治さんに徳利を差し向けるのでありました。頑治さんは自分の猪口を取ってその酌を受け、唇を濡らす程度に口に含むのでありました。袁満さんはその後また日比課長の猪口に並々と酒を注ぐのでありました。
「当然さ。あんな奴に負ける訳がない」
 日比課長は今度も一気飲みで猪口の酒を干すのでありました。
「それよりあの自尊心過剰な土師尾常務がよく、前の部下だった日比課長と同じ嘱託社員と云う自分の立ち位地を呑み込みましたよね」
 頑治さんがまたチビリと猪口の酒を口の中に入れるのでありました。
「まあ、社長に縋り付くしか、当面生きる術がないからね」
 日比課長が皮肉っぽく笑うのでありました。
「坊主に専念する、と云う選択はなかったのですかね?」
「それは無理々々」
 これは袁満さんが手を横に何度も振りながら云う言葉でありました。「あのインチキ野郎は自分で売り込んで、何度も頼み込んでようやく寺の副住職にして貰ったんだろうし、坊主としての修業も、徳も器量もさっぱりないヤツだから、そっちの道で食う事は出来ないだろうよ。お盆や命日の檀家回りだけじゃなかなか食えないだろうしね」
「坊主の方も嘱託、と云う訳ですかね」
 頑治さんがそう云うと袁満さんも日比課長も、持っている猪口から酒がこぼれるくらいに体を揺すって大笑いするのでありました。
「紙商事の嘱託社員としても、それに嘱託坊主、としても立ち行かないとなると、あのインチキ野郎の将来像はとても暗いと云う事か」
 袁満さんがどこか愉快そうに云うのでありました。
「営業マンとしても坊主としても、向上心もなく楽な事ばかりやって、結局は三流に甘んじていたから、そうなるのは自業自得というものさ」
 日比課長は突き放すような云い草をするのでありました。
「しかし日比さんの方も、安閑としてはいられないぜ」
「まあ、そうかも知れないけど、畑違いではあるけど一応、会社と云う組織の後ろ盾はあるし、何とかやっていくよ。常務とは違って目途が全く立たない訳でもないしね」
「ご家族もあるし、頑張ってください」
 頑治さんはエールを送るのでありました。
「甲斐さんはどういているんだろう。それに均目君とか那間さんとかも」
 日比課長が土師尾常務の事から話題を転じるのでありました。ここで不意に甲斐計子女史の名前が出てきたものだから、袁満さんは日比課長に気取られないようにではありますが少しおどおどする気配を見せるのでありました。
「夫々次の仕事を見付けようと心機一転、頑張っているんじゃないですかね」
(続)
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あなたのとりこ 736 [あなたのとりこ 25 創作]

「未だ日比課長には云ってはいないんですね?」
「そう。甲斐さんとしては俺が日比さんと付き合うのも嫌みたいなんだ。日比さんは徹底的に甲斐さんに嫌われているんだよ」
 さもありなん、と頑治さんは思うのでありました。日比課長は前に甲斐計子女史に懸想して、付き纏ったりして忌避されていたのでありましたから。
「それじゃあ今日、俺と日比課長と袁満さんで、ここで飲む事になったと云う事も、甲斐さんには一切内緒なんですね?」
「そう。偶々昨日日比さんから電話が掛かってきて、唐目君と池袋で今日飲む事になっていると云ったら、俺も一緒に行くと勝手に乗り気になって付いてきたんだよ。まあ俺としても来るなとは敢えて云えないしね、甲斐さんが一緒と云う事でもないし」
 そう云った後、袁満さんがおどおどと目配せをするのは、日比課長がトイレから戻って来た故でありました。日比課長は手を拭いたハンカチを折り畳んでズボンの尻ポケットに仕舞いながら、籐の腰掛けに尻を落とすのでありました。
「ええと、話しは何だったかな?」
 日比課長が猪口を取って残りの酒を飲み干すのを待って、頑治さんは徳利を取って徐に日比課長に差し向けるのでありました。
「日比課長と土師尾常務がこれから先同じような仕事をすると云う事なら、二人の間でお得意さんの取り合いになるんじゃないか、と云う話しですよ」
「ああその事ね。それは俺としてはあんまり心配していないよ」
 日比課長は次の一杯もグイと喉の奥に流し込むのでありました。「あの人は会社に居て電話で適当に営業していただけだし、俺の取って来た仕事の仕上げの部分を掠め取って、それを自分の実績にしていたようなもので、実際にお得意さんに顔出しして仕事を取るために動き回っていたのは俺の方だよ。俺の方がお客さんとは昵懇だからね」
「つまり日比さんの方が、お得意さんとの結びつきは濃いと云う事ね」
 今度は袁満さんが日比課長の空いた徳利に酒を注ぐのでありました。
「そう。それにあの人は坊主である事を売り物にして、如何にも篤実そうに振る舞ってはいたけど、殆どのお客さんはその嘘っ八を疾うに見破っていたし」
「そりゃそうかな。あのインチキ野郎の浅薄な表面は大概の人は嘘だと見破れるし。それにお客さんとより昵懇である日比さんが、日頃から土師尾常務の卑劣さやら信用出来ない辺りを、露骨にあれこれお客さんに喧伝していただろうしね」
 袁満さんがまたまた哄笑するのでありました。
「そんな真似は俺はしていないよ。まあ、愚痴はこぼした事はあるかも知れないけど」
 日比課長は袁満さんの注いだ酒も一気に飲み干して仕舞うのでありました。このピッチで飲んでいると、日比課長は早々に酔い潰れるんではないかと頑治さんは心配するのでありましたが、まあ、那間裕子女史よりは日比課長の方が酒には強い方だろうから、その心配は要らないと思い直すのでありました。それに若し酔い潰れたとしても、その後を介抱して家まで送っていく役目は、頑治さんではなく袁満さんでありましょうから。
(続)
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