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あなたのとりこ 431 [あなたのとりこ 15 創作]

「じゃあ、そう云う事にしようか。何だか夕美に悪いような気がして仕方がないけど」
「ううん、そんなに気にしないで。大体あたしは頑ちゃんと何処かに出掛けるよりも、二人きりでお家でウダウダしている方が好きなんだもの」
 夕美さんがニコニコと笑って頑治さんの腕に取り縋って、その腕にしなだれかかって顔を寄せるのでありました。そう云う夕美さんの望みにしても申し訳無いながら叶えてやれない模様でありますが、夕美さんの方はあくまでしおらしいのでありました。

 新宿駅東口を出て歌舞伎町のだらだら坂を抜け、靖国通り沿いに暫く歩くと目指す喫茶店が見えるのでありました。同じ名前の店が紀伊国屋書店の裏の辺にも在るのでありましたが、頑治さんはそちらの方は入った事がないのでありました。
 頑治さんは一時に十分程遅れてその喫茶店に到着したのでありました。なかなか広い地下フロアながら、すぐに那間裕子女史と均目さんが並んで座って、対面の席に袁満さんと出雲さんが座っている六人掛けの奥まった所にあるボックス席を見付ける事が出来るのでありました。未だ甲斐計子女史の姿は見えないようでありました。
「遅れてすみません」
 頑治さんはそう云いながら那間裕子女史の隣に腰掛けるのでありました。
「何だか、彼女さんとよろしくやっている最中に急に呼び出して悪かったわね」
 那間裕子女史が別に頭も下げずにそう云った後、頑治さんを見つめながら、謝罪三分にからかい七分の笑みを口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「いや別にそう云うのではありませんから」
 頑治さんは努めて無表情を装って、言葉の抑揚を抑えて返すのでありました。しかし、そう云うのではない、とは云ったものの、実はそういうのであった訳でありますから、何とはなしに那間裕子女史に対して嘘をついているようで、ほんの少々ながら心苦しさを覚えるのは一体どういう頑治さんの心根の内でありましょうか。
 そこへ丁度ウェイトレスが注文を訊きに来たものだから、頑治さんはフレンチローストのコーヒーを注文してから座の話しに加わるのでありました。
「ええと、どういう話しになっているんでしょうかね」
 頑治さんは対面に座っている袁満さんに訊くのでありました。
「まあ、昨日と同じで、出雲君の辞める意志の固さを確認したと云ったところかな」
「ところで片久那制作部長に紹介して貰った静岡の広告代理店の方の話しは、どうなっているんだろう? そっちに関してはあんまり進展具合なんかも聴かないけど」
 均目さんが出雲さんに訊ねるのでありました。
「ああ、それは片久那制作部長の紹介と云う事もあって、なかなか親身に話を聞いてくれたし、こちらから地図帖とかカレンダー類とか、それに販促品に使えそうな商品を何点か渡しているんですけど、未だ具体的に何か注文を貰ったと云う事はないですかね」
「今のところ先方の注文待ち、と云う事かな?」
「まあそうですね、引き合いの電話は時々掛かって来ますけど」
(続)
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あなたのとりこ 430 [あなたのとりこ 15 創作]

 要するに、まんまと那間裕子女史に押し出し強く、自分の気の弱さに付け込まれて仕舞ったような図でありますか。やれやれ。・・・
「遅れるのは構わないわ。兎に角こちらの人数が多い方が、出雲君に対して辞めないで欲しいと云う説得力が増すし、それが一番の狙いだからね」
「ああ成程。それはそうかな」
 またもや頑治さんは迂闊な科白をここで重ねて仕舞うのでありました。これで目出たく頑治さんが新宿の指定の喫茶店に行く事が決定されたと云う訳であります。
 頑治さんは那間裕子女史からの電話を切った後、面目無さそうな目をして横で成り行きを窺っていた夕美さんを上目遣いに見るのでありました。
「何だか話しの様子から、臨時の集まりがあって、そこに行く事になったみたいね」
 頑治さんは眉根を寄せて本意ではない事を表しながらも頷くのでありました。
「折角こうして久し振りに夕美と二渡で過ごしている最中だと云うのに、こう云う時に限って何だかんだと面倒臭いゴタゴタが起こって仕舞う」
「まあそれは巡り合わせみたいなもので、仕方が無いと云うしかないかしらね」
 夕美さんは、意ならずと云えども頑治さんが他の用事を作って仕舞った事に、残念さは見せるものの然程に怒ったり、臍を曲げて駄々を捏ねたりしないのでありました。
「何だか申し訳無いような心持ちがする」
 だから余計に夕美さんにそう云うしおらしいところを見せられると、頑治さんとしては済まなさに身の縮む思いがするのでありました。
「何時に出掛けるの?」
「一時に新宿の喫茶店で、と云う事らしい」
「ふうん。夕方には終わるのかしら」
「どんなに長くても、二時間は過ぎないんじゃないかな」
「だったらその後、新宿で待ち合わせして、映画でも観て、それから食事をすると云う事にしようか。何だか昨日と同じようなパターンだけど」
「申し訳無いけど結局そうなるなあ。二日連続で、こういう事で夕美との時間を邪魔されるとは夢にも考えなかったけど」
 頑治さんは悔しそうに舌打ちするのでありました。
「ああそうだ、これと云って観たい映画も無いから、末廣亭で落語でも聴く?」
「俺は何方でも構わない。夕美のお望み通りで」
「考えたら向うに帰ったら、演芸とか落語なんか滅多に観たり聞いたりしないからね」
「寄席見物なら池袋演芸場もあったし、昨日でも良かったかな」
「池袋なら水族館の方が興味としては寄席より優っていたのよ」
「ああ成程ね。夕美の中では、ウミガメは噺家に優る、と云う訳か」
「そうね。でももう少し正確に云うと、ウミガメとか水族館一般が噺家に勝ったと云う事じゃなくて、東京に居た頃に一度も行くチャンスがなかった、サンシャイン水族館、と云うトポスが噺家に優る、と云う事だけど、ま、それはこの際どうでも良いか」
(続)
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あなたのとりこ 429 [あなたのとりこ 15 創作]

「何よ、誤魔化す心算?」
「そう云う訳じゃないですが、兎に角、先ず要件の方をお願い出来ますかね」
 頑治さんは那間裕子女史の機嫌を損ねない程度を計量しながら、やや無愛想な調子で先の話しを要求するのでありました。
「出雲君と連絡が付いて、これから逢う事になったのよ」
 那間裕子女史は電話の先の、頑治さんの上擦っているに違いない表情辺りに大いなる興味は引かれるけれども、そうまで触れられたくないと云うのなら一先ずそれに関しては無関心を装ってやる、と云った風の何だかちょっと恩着せがましい語調で云うのでありました。まあ、頑治さんにはそうに聞こえたと云う事でありましたけれど。
「出雲さんと逢って決意の程を確かめる、と云うことですかね?」
「均目君も一緒にね。それに袁満君も来ると云うの」
 と云う事はお前も来いと云う事かと頑治さんは眉根を寄せるのでありました。
「袁満さんは昨日もう出雲君と池袋で俺と一緒に面会して、その辺は充分出雲さんと言葉を交わしたと云うのに、また今日も逢うのですかね」
 これは頑治さんの遠回しながら、自分は行かなくても構わないのではないかと云う一種の願望でありました。しかし一方で、それでも袁満さんの方は行くと表明しているのならば、袁満さんに倣って頑治さんも出て来て然るべきだと云う状況を、目論見とは逆に自ら作り出しているのかも知れない、とも云えるのではないでありましょうか。
「袁満君は出雲君に会社を辞めて貰いたくないから、チャンスがあれば何度でも逢って、出来れば説得を試みたいと云う気持ちなんじゃないの」
 頑治さんは出雲さんに対するそんな袁満さんのような真摯さやら愛情やらしおらしさは無いのかと、この言に依って暗に仄めかされているような気がするのでありました。頑治さんとしては正直な話し、それよりは夕美さんと過ごす時間の方を優先させたいのでありましたが、それは諸事情に依り欠席理由としてなかなか云い出し辛いのでありました。
「甲斐さんも少し遅れるけど来る、と云っているわ。まあ、急な話しだから唐目君にも都合もあるだろうし、是非来いとはこちらとしても云い辛いけどね」
「甲斐さんも来るんですか。・・・」
 頑治さんは窮するのでありました。「ええと、何時に、何処で逢うんですかね?」
 すこし沈黙してから、心中の苦渋を隠すような、その隠しているところをちょい出しして見せるような慎に潔くない口調で頑治さんは訊くのでありました。
「一時に、新宿の靖国通り沿いにあるDUGって云う大きなジャス喫茶の地下で、と云う事にしているのよ。そこは唐目君も確か知っていたわよね」
 那間裕子女史はこうして時間と場所を訊いてくるところを見ると、頑治さんがつまり来る了見になったのだと勝手に臆断したようでありました。
「行くとしても、ちょっと遅れるかも知れませんよ」
 嗚呼、慎に不本意ながら竟にこう云って仕舞った、と頑治さんは言葉を口から放り出した端から自責するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 428 [あなたのとりこ 15 創作]

「じゃあ、そう云う事で決まり」
 頑治さんは人差し指を顔の前に立てて断定調に云うのでありましたが、人差し指を立てる動きに関しては別に何か特段の意味がある訳ではないのでありました。
 出かけるまでの時間、夕美さんはこの部屋に監視のため残していたネコのぬいぐるみを弄びながら過ごすのでありました。役目ご苦労、この先も頼む、と云う慰撫と激励でありましょうか。であるならこの後、伊東静雄の詩集と野呂邦暢の小説を手に取ったなら、間違いなく頑治さんに対する監視連中への秘かな慰撫と激励と云う事になるのでありましょうが、しかしこの二冊の本には別に手を伸ばす気はないようでありました。

 もう今にも出掛けようとしている時に、再び電話の呼び差し音が鳴り出すのでありました。頑治さんは瞬間嫌な顔をするのでありました。ひょっとしたら出掛ける迄の間に無粋な電話機がまたもや騒ぎ出すのではないかと云うのは、頑治さんが秘かに恐れていた事でありました。悪い予感に限って屹度的中するものであります。
「電話に出ないの?」
 夕美さんが敢えて無視しようとしている頑治さんに訊くのでありました。
「何だか出たくない心持ちがするんだよ。どうせまた会社の人からだろうから」
「でも頑ちゃんの会社、何だかごちゃごちゃしている最中みたいだから、何か大事な要件で急にかかってきたんだとしたら拙いんじゃないの?」
「確かに今会社はごちゃごちゃしているけど、でもそんなに急な用でこの電話が鳴っているんじゃないと思うけどねえ。それより無視して早く出掛けようよ」
 頑治さんは玄関に歩き出すのでありましたが、すぐに後を追って来ない夕美さんを訝って振り返ると、夕美さんの、もしもし、と云う声が振り返った顔にぶつかって来るのでありました。夕美さんは電話がなかなか鳴りやまないので、見兼ねて受話器を取ったのでありましょう。やれやれ余計な事を、と頑治さんは小さく舌打ちするのでありました。
「頑ちゃん、那間さんて、女の人からよ」
 そう云われてそこでようやく頑治さんは、慎に不本意ながら夕美さんの方にゆっくり戻るのでありました。受話器を渡そうとする夕美さんに眉を顰めて見せてから、如何にも不承々々そうな手付きでぞんざいにそれを受け取るのでありました。
「あれ、今の人は誰よ?」
 那間裕子女史が電話を代わった頑治さんの耳に向かって早速、意外な展開に大いに戸惑ったような、且つ興味津々と云った風の口調で訊くのでありました。
「ああ、いや、まあ、ちょっと、・・・」
「ははあ、唐目君の彼女なのね」
 那間裕子女史はからかうように云うのでありました。
「いやまあ、別に、ええと、・・・で、用事は、何でしょうかね?」
 頑治さんは誤魔化すように、しかもこれ以上その事は訊かないように、聞かれても応える気は無いから、と云う意を語句にきっぱりと込めつつ返すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 427 [あなたのとりこ 15 創作]

 頑治さんは場の雰囲気を変えるために伸びをして見せてから、勢いを付けて上体を起こすのでありました。釣られて夕美さんも、こちらは少し大儀そうに布団の上に横座りに座るのでありました。昨夜寝酒で飲んだワインが未だ少し頭に残っているせいか、夕美さんは人差し指で蟀谷を押しながら眉根を寄せるのでありましたが、久しぶりの逢瀬であるからか、こういう仕草も頑治さんには如何にも可憐に見えて仕舞うのでありました。
 先ず頑治さんが顔を洗って着替えをして、その後に夕美さんが続くのでありました。何かと色々洗顔一つにも手間をかける女性であるためか、それとも蟀谷の痛みがやや強いのが主因であるのか、夕美さんは頑治さんの約二倍の時間を使って洗顔と着替えを済ませるのでありました。顔を洗った夕美さんは少しサッパリしたようでありました。
「もうこの時間になると朝食のタイミングは逸して仕舞ったし、昼食には未だ随分早いから、早まらないでもう少し布団の中でグダグダして、それからのんびり起き出して、そろそろあちこちの店が開く頃に街中に朝飯兼昼飯を食いに出ても良かったかな」
 頑治さんが枕元に置いていた目覚まし時計を取ってテーブル代わりの炬燵の上にそれを置きながら云うのでありました。
「何だったら冷蔵庫の中にある物で、チョロチョロってあたしが朝食を作ろうか?」
 夕美さんはそう云ってからキッチンの冷蔵庫迄行って中を覗くのでありました。
「使えそうな物は何にも無いだろう?」
「そうね、料理の材料にする程の物は殆ど無いようね」
「買い置きのパンももう無いと思うし、米も確か切らしていたんじゃないかな」
「ああそう。じゃあ作るにしても買い物に行かないといけないわね」
「買い物で外に出るのなら、その儘外食で済ませた方が手間は無い」
「それじゃあ、十時を過ぎた頃に外に出でようか。その頃には食事する店も買い物する店もぼちぼち開いているんじゃないかしら」
 夕美さんは置き時計を覗くのでありました。
「まあ買い物も良いけど、何処かで食事した後は新宿にでも出て映画を観るとか、上野か浅草で寄席見物をするとか、まあそう云った、お出かけ、はしないのかな、今日は?」
「お出かけ、も良いけど、それよりこの部屋に閉じ籠って、まったり二人だけで一日中無為に過ごすのも良いんじゃない? その方が何となく気楽だしウキウキもするし」
「勿論俺に異存は無いけど、夕美が退屈しないかなと思ってさ」
 頑治さんは夕美さんの退屈の心配も然りながら、また会社の誰かから電話がかかってきそうな予感がして、それを大いに懸念してもいるのでもありました。だから留守にして置く方が安全かと考えたのであります。しかし夕美さんが、まったり二人だけでこの部屋に閉じ籠って過ごす方が良いのであって、敢えて外出するには及ばないのではないかと云うのなら、そっちの方が断然優先と云うものであります。若しひょっとして電話の呼び出し音が無粋に鳴り響いても、先程の失敗を省みて無視すれば良いのであります。
「退屈はしないわ。じゃあ、十時過ぎに取り敢えず近所で何か食べて、それからゆっくり今日の夕食と、明日の朝食だか昼食だかの買い物をすると云う事で良いんじゃない」
(続)
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あなたのとりこ 426 [あなたのとりこ 15 創作]

「まあ筋として、連休明けに土師尾常務に辞表を出す前に、組合に対して一応の説明、と云うのか話し合いを出雲さんに求める、と云う事で良いんじゃないですかね」
「出雲君の会社を辞める意志が固いと云うのなら、それでも構わないけど。・・・」
「何だったらそのように、俺から出雲さんに電話をしておきますよ」
「判ったわ。でも出雲君の声も聴きたいから、あたしの方から電話をしてみるわ」
「ああそうですか。誰が電話しようとそれは別にどうでも良いと思いますから、若しお手数でなかったら那間さんから電話をして貰っても構いませんよ」
「出雲君に電話をして、その結果も皆にあたしから電話するわ」
「ああそうですか。それならそう云う事でお願いします。まあ、その結果お知らせの電話を頂くのは、連休最終日でも構わないですけれどね」
 頑治さんは言外に、今日はもう、折角の自分のプライベートな時間を電話で潰してくれるなと云う意を込めてそう云うのでありましたが、その気持ちがどこ迄伝わったかは全く以って不確定でありましたか。那間裕子女史は結構度胸もあって人に対して押しと気は強い方ではありながら、なかなか人の機嫌や醸し出す気配に対する感受性も鋭い方で、相手の微妙な言葉の云い回しの裏にある機微みたいなものを見抜くのに敏い方ではありますから、ま、ちゃんと気分は伝わっている可能性もない事もないか、でありましょうか。
 それにまあ、那間裕子女史としては一応組合のナンバーツーと云う立場から、出雲さんとその他の皆への連絡の労を自ら買って出たのでありましょう。あれでなかなか、一面律義で義理堅いところも有している人でありますから。
 こんな具合で頑治さんは那間裕子女史の電話をようやく切るのでありました。やれやれやっと、一連の電話攻勢はこれで片付いたかと頑治さんは電話機を眺めながら思うのでありました。これでもう、誰からも電話が掛からない事を祈るばかりであります。

 頑治さんが寝転んだ儘如何にも億劫そうに受話器を架台に戻すのを、この間終始無言でしおらしくしていた夕美さんが間近でじっと見ているのでありました。
「誰からの電話だったの?」
 頑治さんの電話の相手がその漏れ聞こえてくる声から察して女性だったからか、夕美さんの声音には少し警戒の色が浮いているように感じられるのでありました。
「会社の人だよ。組合の書記長をやっている人。組合員が会社を辞めると云うんで心配して、俺が昨日池袋で逢ったからその首尾を聞こうと思って電話をしてきたんだろうよ」
「ふうん。で、経緯を説明するために今日その人と逢う、と云う事になったの?」
「いや、逢わないよ。総ては連休が明けてからだな。でもまあひょっとして、今日じゃないにしても、この連休中にもう一度連絡電話は掛かってくるかも知れないけどね」
 夕美さんは横で電話を聞いていたのでありますから、どんな方向で話しが決着したかは自然に察する事が出来たでありましょう。しかし敢えて態々逢う事になったのかそうでないのかを頑治さんに聞き質すその了見は、相手が女性だったためでありましょうか。
「さあて、もう朝寝と云う気分じゃないから起きようかな」
(続)
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あなたのとりこ 425 [あなたのとりこ 15 創作]

 均目さんと頑治さんの電話をすぐ横で聞いていてもいたし、その後の均目さんが話す内容の要領の掴めなさに苛々してか、それとも単に自分の耳で頑治さんの証言を確認のため再度聞こうとしてか、均目さんが置いた受話器を今度は自分が取って、こうして頑治さんに手ずから電話をしてきたと云う事かも知れません。となると二人は朝っぱらから一緒に居ると云う事になりますが、朝寝坊の那間裕子女史がこんな早くに均目さんの家を訪う事はないと見做すのが自然と云うもので、となると昨夜からそこに居たのでありましょう。まあこれはあくまで頑治さんの勘と云う域を今のところは出ないのではありますけが。
「池袋のその喫茶店で、三人で一体どんな話しをしたの?」
「まあ要するに、出雲君が会社を辞めるその意が固いと云う辺りに尽きますよ。俺もその後でちょっと用事があったものだから、一時間も話しは出来ませんでしたし、じっくり出雲さんの意中を質すとか、出雲さんの決心を覆させる目があるとすればどの辺りか、なんて事は微に入って話す事は出来ませんでした。でも、固そうは固そうでしたね」
「何だか組合にとってあんまり好い方向に事が推移していないって感じよね。でもそれはあたし達に決定的な非があるとか、事態の巡り合せとかよりは、土師尾さんの愚かさや無神経とか、先見性の無さとかの盆暗役員加減のせいと云う事になるけどね」
「それはまあ、概ね同意します」
 頑治さんは頷くのでありました。
「連休明け迄、何もしないで手を拱いていて良いのかしら、あたし達。この儘すんなり出雲君に辞表を提出させて、それで良いのかしら。その前に皆で集まって、この前の全体会議を踏まえて、何らかの話しをしなくて良いのかしら。・・・」
「いやあ、それはどうでしょうか」
 頑治さんは、今度は頷かないのでありました。と云うのも、それは出雲さんのためを思ってではなく、夕美さんと自分のためを思って、でありました。この上に尚も夕美さんとの久々の逢瀬を誰にも邪魔されたくはないという秘かな自分都合のためであります。
「出雲君に翻意させないと、組合の存続に関わるんじゃないかしら」
「つまり出雲さんが抜けると組合員は五人になって、三人の経営側に対して五対三では六対三の時より存在感が減じる、と云う意味で、ですかね?」
 これは、そんな危惧はあんまり意味が無いだろうと云う頑治さんの否定的考えを言外に滲ませての言葉でありましたが、そのような語調だったと云うよりは、素直な質問口調の体裁に過ぎていて、否定的な辺りは那間裕子女史に伝わらないかも知れないと云う反省と少しの後悔を、科白を全部云い切った後に頑治さんは抱くのでありました。何より、今日にでも緊急集合の提案がなされないかと云う警戒心は慎に以って大でありますから。
「まあそう云われると五対三と云うのは、そんなに危機的な感じじゃなさそうだけど」
「そうですよ。甲斐さんが未だ居なくて四対三なら、ちょっと微妙な数字ですけど」
「でもそう云うところだけじゃなくて、出雲君には、まあ、会社を辞めないと云う方向に立って、色々話しを聞いてみたい気もあるんだけどね」
 那間裕子女史は当然ながら頑治さんの意をちっとも介してくれないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 424 [あなたのとりこ 15 創作]

「やれやれ、折角のんびりと朝寝を決め込もうと思っていたのに、早朝から妙な電話で意に反して早起きさせられて仕舞ったなあ」
 頑治さんは欠伸をするのでありました。
「そんなに早起きでも無いわよ」
 夕美さんが枕元の目覚まし時計を手に取って、先ず自分が文字盤を凝視してから頑治さんの顔の前に近付けるのでありました。時計の針は九時を少し過ぎたあたりを指しているのでありました。これは成程、全く早朝と云うのではない訳であります。
「まだ起きないの?」
 頑治さが再びごろんと布団の上に寝そべるのを見て、今度は夕美さんが片肘をついて上体を少し起こしてから云うのでありました。
「寝ようと思えば幾らでも寝る事も出来そうだけど、この儘惰眠を貪ると云うのも勿体無いと云えば勿体無いか。折角夕美と一緒に居ると云うのに」
「あたしは別にこの儘惰眠の方でも構わないけど」
 夕美さんはそう云いながら、少しだけ起こした上体を頑治さんの上にかぶせるようにしながら抱きついてくるのでありました。
「じゃあ、もう少し布団の中でのほほんと時間を潰しているかな」
 頑治さんはその夕美さんを抱き竦めながら返すのでありました。

 暫く二人抱き合ってうつらうつらしていると、そこにまた電話が無粋な呼び出し音を無遠慮に響かせるのでありました。頑治さんは舌打ちしてまた受話器を竟、無造作に架台から外して仕舞うのでありました。その後で、ああそうか、無視して電話に出ないと云う手もあったかとも考えるのでありましたが、しかしもう手遅れと云うものであります。
「ああ唐目君、出雲君の事だけど、・・・」
 今度は那間裕子女史の声が聞こえて来るのでありました。「昨日池袋の喫茶店で逢ったと云う事だけど、どんな感じだったかちょっと訊こうと思って電話したのよ」
「那間さんには矢張り、袁満さんから電話があったんですか?」
「ええと、まあそう云うところだけど。・・・」
 頑治さんが訊くと那間裕子女史は何故か少し云い淀むでありました。「結局出雲君の、会社を辞めると云う決心は覆らないような感じだったのかしら?」
「そうですね。決心は固そうでしたね」
 頑治さんはそう応えながら、那間裕子女史は何で今云い淀んだのだろうと考えるのでありました。ひょっとしたら袁満さんの電話でその事を知ったのではなく、今し方均目さんから聞いたのではないでありましょうか。それも電話ではなく直接に。
 まあそれは当面どうでも良い事でありますが、しかしあの朝寝坊にかけては人後に落ちない那間裕子女史が、こんな時間に均目さんの電話に続いてすぐに頑治さんに電話をかけてくると云うのは、まあ、腑に落ちないと云えば腑に落ちない仕業でありますか。電話をかけるにしても、もう一眠りした後でならば未だ納得も出来ると云うものであります。
(続)
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あなたのとりこ 423 [あなたのとりこ 15 創作]

「昨日の夜遅くに袁満さんから電話を貰って、何でも出雲君が会社を辞めると云い出したそうじゃないか。昨日袁満さんと唐目君の二人で、池袋の喫茶店で出雲君と逢って話しをしたと云う事だけど、どんな具合だったのかちょっと訊こうと思って電話したんだよ」
「ああ、袁満さんから電話があったんだ。確かに出雲君とちょっと話したけど、まあ、仕事が変わって今後の目途も無く、始めて遣る特注営業で土師尾常務や日比課長からのこれと云った援助も無いし、出雲さんとしては途方に暮れていたところに、土師尾常務と仕事で水戸に同行して一日中、手際が悪いだの何だのと遣る事為す事難癖を付けられて、果ては給料泥棒みたいな事まで云われて、ほとほと愛想が尽きたと云うところなのかな」
「成程ね。その辺は想像が付くな。出雲君も云ってみれば元々それ程ウチの会社に思い入れがある訳でもないし、そうまで無責任に土師尾常務に詰られるくらいなら、いっそこんなストレスの多い会社なんか辞めて仕舞おうと億劫序に決心したと云う事かな」
「億劫序、と云う事もないだろうけど、水戸の一件が明快な契機ではあるようだね」
 頑治さんはそう云いながら空で頷くのでありました。その仕草を、寝そべった儘片目を開けた夕美さんが下から見ているのでありました。まあ、気を遣ってもこんなに近いところで電話していれば、自ずと夕美さんも起きて仕舞うと云うものでありますか。
「出雲君の決心は固そうだったかい?」
「そうだな。熟慮に熟慮を重ねたと云う訳じゃなくて、ふと思い付いて辞めようとしたのかも知れないけど、そう決心してみると急に気持ちが楽になって視界も開けたんじゃないかな。だからおいそれとはその了見は翻らないと思うよ」
「ふうん、成程ね。唐目君がそう見立てるのならそうなんだろうなあ」
 均目さんは電話の向こうで納得の頷きをしているのでありましょう。
「袁満さんも、出雲君を敢えて強く引き留めるような様子を見せなかったしね」
「ああそう。・・・朝早くに電話して申し訳無かったね。それじゃあまあ、出雲君が辞表を出した後の事はまた連休明けに皆で話し合うとして」
 均目さんからの電話はそう云う言葉で終わるのでありました。
「会社の人からの電話?」
 頑治さんが受話器を置くのを待って夕美さんが寝そべった儘で訊くのでありました。
「そう。昨日の人とはまた別の人」
「それは聞いていて判ったけど、また今日も、今度はその人と逢う事になったの?」
 夕美さんは首を傾げるのでありました。
「いやそう云う訳じゃない」
 頑治さんが首を横に振るのを見て夕美さんは上体を起こすのでありました。
「なんだかここにきて色々慌ただしくなってきたわね」
「それはそうだけど、まあ、何事も連休明けに、と云う事になるだろう」
 折角の夕美さんとの久し振りの逢瀬をこれ以上邪魔されたくなかったから、頑治さんは願望も込めて、そう断言調に云うのでありました。
「そうだと良いけどね」
(続)
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あなたのとりこ 422 [あなたのとりこ 15 創作]

「強い意志、ねえ。・・・」
 頑治さんはまた右前方斜め上に視線を向けるのでありました。「意志の具合に関して云えばそんなに強くはないかな。あくまでも夕美への配慮が一番だよ」
「ふうん、そう」
 夕美さんはこれもまたさっきと同じ返答をして、頑治さんから目を逸らして、もう大分柔らかくなって仕舞ったレモンシャーベットにスプーンを刺すのでありました。
 頑治さんの今夏の帰省の話しではあるけれど、夕美さんとしては頑治さんの言葉の中から、故郷に帰る、と云う営為の一時的か永続的に限らない、指向そのものの強弱を読み解こうとしているのかなと思うのでありました。夕美さんは心の底では、頑治さんに今夏に限らず、ずうっと故郷に帰って来て貰いたいのでありましょう。何となくそこいら辺を、頑治さんの今夏の帰郷の件に言寄せて探っているような気がするのであります。
 そうなれば頑治さんとしては、今夏は成り行きから帰るけれど、それとは別に東京での生活を引き払って故郷に引っこむと云う指向は、今のところ持ち合わせてはいないのでありました。しかし敢えてその事をきっぱりここで宣明するのは憚るのでありました。何より久し振りに逢った夕美さんをがっかりさせるかもしれないと思ったが故に。
「頑ちゃん、レモンシャーベットはあんまり好きじゃない?」
 スプーンの動きが止まった頑治さんを見て夕美さんが小首を傾げるのでありました。
「ああいや、そんな事もないけど」
 頑治さんはスプーンの動きを再開させるのでありました。
「若し好きじゃないのなら、あたしが貰おうと思ってさ」
「ああ、そう云う事なら、あげるよ」
 頑治さんはスプーンを置いて、食い掛けではあるけれど自分のレモンシャーベットの器を夕美さんの方にそろりと押し遣るのでありました。

 明くる日早々に均目さんから電話が入るのでありました。
 休日の朝でありますから頑治さんは朝寝を決め込んでいたのでありましたが、電話の呼び出し音に夢と現の境目で朦朧とした意識が、一気に現の側に手繰り寄せられるのでありました。頑治さんは億劫ながら仕方なく横に寝ている夕美さんを起こさないように気遣いながら上体を起こすと、腕を伸ばしてそそくさと受話器を握るのでありました。
 何となく嫌な予感が頭の隅に兆して、少しの警戒心から受話器を握る手に妙な力が籠るのでありました。しかしうっかり架台から受話器をもう既に外して仕舞った限りは、嫌でもそれを耳に押し当てるしかないのでありました。
「未だ寝ていたのなら申し訳ないなあ?」
 受話器を耳に運んでいる時に何故かちらと予想した通り均目さんの声でありました。
「ああいや、別に大丈夫だけど」
 頑治さんはそう応えるのでありましたが、口と咽喉が渇いているものだから言葉が掠れるのでありました。これは如何にも寝起き然とした発声でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 421 [あなたのとりこ 15 創作]

「この前帰ったのは、ええと、二年前の正月だったかな」
 頑治さんは徐に右前方斜め上に視線を馳せるのでありました。
「そう云えば頑ちゃんの家族は、頑ちゃんに時々帰ってこいなんて仰らないの?」
「云わないなあ。ウチは兄弟が多くて、親父も疾うに他界しているからねえ」
 頑治さんは男ばかりの四人兄弟でありました。「一番上の兄貴がもう結婚していてお袋や他の兄弟と同居しているし、まあ、その嫁さんの手前、俺がそこに気儘に帰って当然のような顔してのほほんと滞在するのも、何となく気が引けるからなあ。別にその嫁さんと折り合いが悪いと云う訳じゃないんだけど、でもまあ、何となく遠慮があってさ」
「お兄さんのお嫁さんだから、頑ちゃんやあたしと同年齢くらい?」
 夕美さんは頑治さんの兄嫁に対して多少の関心があるみたいでありました。
 考えて見れば頑治さんの家庭の事を夕美さんに話したのはこれ迄に殆ど無かったのでありました。別に隠そうと云う気は無かったのでありましたが、かと云って積極的に話す気も無いのでありました。会話の流れから断片的に少しくらい話した事もあるし、夕美さんも頑治さんの家族構成くらいは、中学校の同級生で、秘かに好意を寄せていた対象の事でもありましょうからぼんやりとは知っているようでありました。頑治さんにあんまり話す素振りが無いものだから、気を遣ってあれこれ訊くのを控えていたのかも知れません。
「いや、兄貴の嫁さんは兄貴より二つ歳上で、俺なんかより四つも上だな」
「ああそうなんだ。ひょっとして同い年なら、頑ちゃんもそんなに気兼ねしなくても済むかなって、そう思ったものだから」
「でも、同い年なら、返って余計気兼ねするかも知れない」
 頑治さんはそう応えて、四つ年の離れた兄嫁と、自分と同い年の兄嫁ではどちらが気兼ねの度合いが大きいか、ちょっと考えてみるのでありました。
「その結婚しているお兄さんが頑ちゃんの二つ歳上で、その次が頑ちゃんで、その下に弟さんが二人居るんだったわよね、確か?」
「そう。俺と下の弟達は一つ違いで三人並んでいる」
 この辺りは前に話したような記憶があるのでありました。
「下の弟さん達は未だ学生?」
「俺のすぐ下の弟は高校を出たらすぐに繊維関係の会社に就職して、今は大阪で一人暮らしをしているよ。一番下のヤツは地元で理学療法士の専門学校に通っている」
「お母さんはもう悠々自適?」
「いやいや、俺が学校を卒業してようやく学費はからなくなったけど、一番下が未だ専門学校生だからなかなかそうはいかない。ウチはそんなに金持ちじゃなしから」
「ふうん、そう」
 夕美さんはここでちょっと会話に間を入れるのでありました。「で、さっきの話しに戻るけど、頑ちゃんとしては、今年の夏は帰って来る気はあるのよね?」
「夕美にばかりに交通費とか使わせるのは何となく申し訳無いからなあ」
「と云う事は、帰りたいって云う強い意志がある訳じゃないって事?」
(続)
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あなたのとりこ 420 [あなたのとりこ 14 創作]

 頑治さんは夕美さんの冗談を何時になく案外真面目にあしらうのでありました。
「考えてみれば水族館なんて行くのはどのくらい振りかしら」
 夕美さんは結構嬉しそうな風情でありました。「ずっと前だったか、頑ちゃんと上野動物園には行った事があるわよね、確か」
「まあ、上野は云ってみれば俺のアパートからの散歩コースの一つだから、上野公園迄は良く歩くし、その流れで動物園にも夕美と一緒に何度か入った事があるよなあ。でも水族館は東京に出て来てから一度も入った記憶がないかな」
「あたしは前に江の島の水族館に行った事があるわ」
「ふうん。俺以外の男とデートで、かい?」
 頑治さんは冗談めかしてそう訊ねるのでありました。
「そんなんじゃなくて、前にお父さんとお母さんが東京に出て来た時に、観光ではとバスに乗って、あたしも一緒に来いと云うんでそれにお付き合いしたのよ」
「そう云えば、お母さんの様子はどうなんだい?」
 頑治さんは急に話題を変えるのでありました。
「あんまり良くないかな。もうすぐ手術だけど」
「病院に入院しているんじゃないの?」
「手術までは家に居るわ。手術の一週間前に入院と云う手筈になっているの」
「ふうん、そうか。・・・」
 頑治さんは少ししめやかな顔になるのでありました。「手術が上手くいって、経過もずうっと順調で、その儘前のように元気になってくれるといいね」
「まあ、そうだけどね」
 夕美さんは頑治さんの顔を見て笑むのでありましたが、その笑みは頑治さんの心配への感謝と云うだけで、その冴えない表情からお母さんの容体はなかなか捗々しくはないのだろうと想像するのでありました。夕美さんも色々大変そうであります。
 サンシャイン水族館見学の後、頑治さんと夕美さんは高層ビルからの夜景を楽しみながら都内では結構名前の通った懐石料理店の出店で、頑治さんにすれば大いに豪勢な食事を楽しむのでありました。その日の昼に夕美さんには不如意に時間を潰させて仕舞ったと云う思いがある手前、頑治さんがそこは奮発して奢る心算でありました。
「先の話だけど、今度こっちに来るのは夏休みと思っていたんだけど、仕事の関係でその前にもう一度、多分六月の終わり頃に出て来る事になりそうよ」
 夕美さんが水菓子のレモンのシャーベットを口に運びながら云うのでありました。
「へえ、じゃあまた二か月もしない内に逢える訳だ」
「そうね。その後は夏休みもあるから、当面ちょくちょく逢える事になるわね」
「夕美ばかりがこっちに出て来るのは交通費とかが大変だろうから、夏休みは俺が向こうに行こうかな。考えていればもう何年も帰っていないし」
「それは良いわね」
 夕美さんが目を輝かせて乗り気を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 419 [あなたのとりこ 14 創作]

「忙しいのに態々呼び出したようで悪かったなあ」
 袁満さんがレジまで一緒に歩く間に云うのでありました。
「いや、そんな事はありませんけど」
 頑治さんはそう云いながらも、申し訳無さ解消に頑治さんのコーヒー代を持ってくれると云う袁満さんの申し出を、大いに遠慮を見せながらも結局断らないのでありました。
 喫茶店を出た後、そこですぐに袁満さんと別れた頑治さんは池袋駅東口の西武百貨店に歩を向けるのでありました。夕美さんとの待ち合わせ時間迄には未だ余裕があるのでありました。気が急いていたとは云え、喫茶店での滞在は思っていたより短時間で済んだのでありました。とは云っても、優に一時間は過ぎてはいましたけれど。

 西武百貨店の正面玄関脇に夕美さんはもう来ているのでありました。頑治さんはすぐに遠目ながらも行き交う人波の向こうに立つ夕美さんの姿を見付けるのでありました。
 頑治さんは手を挙げて夕美さんの目に自分をアピールしながら近付いて行くと、夕美さんもすぐに頑治さんを見付けて破顔して手を振り返すのでありました。
「かなり待ったかな?」
「ううん、今さっき来たところ」
 夕美さんは俯いて自分の左手の腕時計を覗くのでありました。「意外に早く済んだみたいね。ひょっとしたら深刻な話しだから長引くんじゃないかって思っていたけど」
 夕美さんは一旦左手を下ろしてから、頑治さんの右手を改めて握るのでありました。
「いやまあ、成るべく早切り上げを秘かに心掛けて、こちらから根掘り葉掘り訊き質す事は控えたからね。ま、人の決心は変えられないだろうし」
「会社を辞める気持ちは固そうだったの、その人?」
「まあそうだね。それに関して他の者が容喙出来そうな感じは無かったかな。まあ、今後の事は総て連休明けに、と云う事になるかなあ」
「ふうん。なんだか色んな懸念が次から次に発生するわね、頑ちゃんの会社」
「そう云えばそうだなあ」
 頑治さんはやれやれ云った風に、顔をゆっくり低振幅で横に何度か動かして見せるのでありました。「でも取り敢えず夕美がこっちに居る間は、もう何も無いと思うけど」
「そうなら良いけどね」
 夕美さんは少し不安そうに眉根を寄せるのでありました。
「じゃあ、サンシャイン水族館に向かおうか」
 頑治さんは気分を変えるように夕美さんと繋いだ手を一振り動かすのでありました。
「あたしもそうだけど、頑ちゃんも初めて行くんでしょう。行き道は判るの?」
「前に仕事でこの辺に納品にも来た事があるから、朧気には判っているよ」
「ああそう。それにまあ、頑ちゃんの会社は地図も扱っているようだから、その社員たる者が道に迷ったりすると会社の信用に関わるわよね」
「それはあんまり、この際関係が無いような気がするけど」
(続)
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あなたのとりこ 418 [あなたのとりこ 14 創作]

「でも、今の組合員は誰も、組合活動に対してそれ程積極的でもないし」
 袁満さんはやや上目で頑治さんの方をチラと見るのでありました。何となく自分が組合活動に熱心でない事をやんわり批判されているような気がして、頑治さんは少し申し訳無いような、面目無いような気分になるのでありました。
「そう云われると恥じ入るしかありませんが。・・・」
[それに急進的な左翼的信念でグイグイ組合をリードするような人材も居ないし」
「まあ確かにそうですけど、でも寧ろその方が組合の中に於いても対外的にも、妙な軋轢やらいざこざが発生しなくて、好都合と云えば好都合なんじゃないですか」
「しかし経営と対峙する時に、何となく弱いよなあ」
「急進的左翼となると片久那制作部長の顔が思い浮かびますが、それなら、もう今となっては無い話しですが、若し片久那制作部長が役員になる前に組合に入る事になったとしたら、それこそ我々を置いてけ堀にしてもグイグイとリードして行って、全総連の方針なんかとも無関係に、組合をドンドン闘争的な組織にして仕舞うかもしれませんよ」
「ああそうだなあ。そうなるとちょっと付いていけないかなあ」
 袁満さんは尻込みするように席の背凭れに身を引くのでありました。まあ、片久那制作部長も今では家庭もあるし年齢も重ねているし、全共闘時代のようにそうそう過激な熱意は多分無いでありましょうけれど。でもなかなかに頑迷ですから、経営と対峙する局面では、他の組合員がちょっと引いてしまうくらいに闘争的にはなるかも知れません。
「ところで袁満さんとしては出雲さんの辞意を容認すると云う事で良いんですね?」
 頑治さんは出雲さんの件に話題を戻すのでありました。
「まあ、仕方ないだろうなあ。出来るものなら俺だって辞めたいくらいなんだから」
 袁満さんは一種の弱気を吐露するのでありました。「辞めたいと云うのを無理に引き留めるような権利は俺達には無いもの。組合の都合で、辞めるなとは云えない」
「それはその通りです」
 袁満さんはそうは云うものの、狎れ親しんだ同僚と云うのか、同じ営業部の弟分に身近を離れられる事に気の毒になるくらい寂しそうな佇まいを見せているのでありました。その袁満さんの姿から目立たぬように視線を離して、頑治さんは俯いて腕時計にそれとなく目を遣るのでありました。ぼちぼちこのしめやかな場を切り上げて、夕美さんと待ち合わせている池袋駅東口の西武百貨店正面玄関に向かった方が良い時間であります。
「ああ、一時間くらいしか居られなかったんだよね、唐目君は」
 袁満さんは頑治さんのそわそわしているような風情に気付いたようでありました。
「ああ、ええ、まあ。・・・」
 頑治さんが妙に言葉を濁すのは、何となくがっかりしている傷心の袁満さんを残してこの場を去る事が、如何にも不人情な振る舞いのように思われるからでありました。
「じゃあ、俺もぼちぼち帰るかな」
 袁満さんが立ち上がるのでありました。まあ、頑治さんは勿論断然夕美さんの方が優先でありますから、ここはグッと無愛想の振る舞いに徹するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 417 [あなたのとりこ 14 創作]

 とは云うものの、袁満さんの呟いた事も満更当たっていない事も無いと頑治さんは考えるのでありました。何となく昨年の暮れからここまで、陰鬱とか不安とか不信とか憤怒とか落胆とか、そんなネガティブな感情ばかりが会社での諸事に纏わり付いていたような気もするのでありました。勿論それとは反対の好もしき感情も全く無い事もなかったでありましょうが、概観すると矢張り気の滅入る事の方が多かったような印象であります。
 出雲さんはそう云うあんまり心躍らない感情の波間に、自ら好んでと云う訳ではなく浮かんでいる内に諸事に愛想尽かししていた訳で、今次の土師尾常務と一緒の水戸での営業活動が会社を辞す決断の決定打となったのでありましょう。だから早々にこの場から遁走を図って、次の全く新たな展開に期するところ大なるものがあるでありましょう。出雲さんのこれから先の方便の道は、結局出雲さんだけが決定出来るものでありますし。
「あーあ、俺ももう辞めたいよ」
 袁満さんが少し捨て鉢な口調で愚痴るのでありました。しかしその愚痴にはリアリティーが然程無いと頑治さんは感じるのでありました。どんなに多く見積もっても四分程度の願望で、残り六分は辞める気は無いと云う事でありましょうか。
 そんな袁満さんの心根も然る事ながら、この言葉は出雲さんの辞意に対して、それを確定的に認める事を表明したと云う風にも捉えられるでありますか。つまり袁満さんは説得を諦めたと云う態であります。まあ、袁満さんが認めようが認めまいが、この件に関しては畢竟、出雲さんだけにしか最終的決定権は無いのでありますけれど。
「すみませんねえ、本当に」
 出雲さんはまた訪れた暫しの重苦しい沈黙の時間を破るようにそう云って、再び袁満さんと頑治さんに向かって深くお辞儀するのでありました。
「いやまあ、仕様が無い事ですよ」
 もう袁満さんは意を表したと云う事になるでしょうから、これは頑治さんが説得を放棄すると表する科白と云う事になるのでありあした。

 出雲さんが一足早く席を立つのでありました。喫茶店に残された袁満さんと頑治さんは隣り合って座った儘、冷めたコーヒーをしめやかに口に運ぶのでありました。
「これで組合員は、五人、と云う事になるのか」
 袁満さんが寂しそうに云うのでありました。「この春に旗揚げして、あたふたしながらやっと春闘を一度経験しただけと云うのに、もう二人も組合員が減った訳だ」
 出雲さんは兎も角、恐らく袁満さんの計算には組合旗揚げ前に会社を辞めた山尾主任が入っているのでありましょうが、それは計上すべき人数かどうか頑治さんは少し迷うのでありました。まあ、だからと云って敢えてその事を云いはしないのでありますけれど。
「でも甲斐さんが新たに入ったじゃないですか」
「それはそうだけど、若し甲斐さんが入らなければ四人の組合と云う事になっていて、これじゃあ経営三人に対してあんまり体裁がよろしくないし、迫力が無いよなあ」
「いや、人数だけが組合の拠り所と云う訳ではないでしょうけれど」
(続)
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