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あなたのとりこ 384 [あなたのとりこ 13 創作]

「それは、まあ。・・・」
 土師尾常務は曖昧に、頷くような頷かないような仕草をするのでありました。
「じゃあ出雲さん、早速片久那制作部長に持ちかけてみますから同席してください」
 頑治さんは出雲さんの方に顔を向けるのでありました。
「ええ、お願いします」
 出雲さんは頑治さんに頭を下げるのでありました。頑治さんは微笑を返して頭を元の正面に戻す序に土師尾常務の顔をチラリと窺うと、仏頂面で眼鏡の奥の目を何度か瞬かせているのでありました。頑治さんの提案を許した事が後々自分の権威を貶める禍根とならないかとか、或いは益々頼りになる上司像に於いて片久那制作部長に差を付けられて仕舞わないかとか、恐らくそう云う辺りをあれこれ秘かに計量しているのでありましょう。
 何をどうしてしていいのやら今の今迄皆目見当がつかないと云った按配だったので、出雲さんは感謝に満ちた目で頑治さんを見ているのでありました。その視線を感じて頑治さんも、この自分も少しは役に立てるかしらと仄々と嬉しくなるのでありました。
 それにしても土師尾常務の当初の目論見では、出雲さんを崖際に追いつめて自ら眼下の海へ墜落させようとする心算だったのだとしたら、頑治さんは余計な差し出口をしたと云う事になるのでありましょう。それを恨みに思って後々色々と嫌がらせめいた事をされるのは、何とも厄介至極であると頑治さんはチラと考えるのでありました。
「袁満君の仕事に就いても、何か良い方策はないものかねえ」
 社長が頑治さんの顔を見ながら訊くのでありました。
「これはすぐに有効な方策と云う事ではないのですが、日本全国を幾つかに分割して、その分割された各地方に拠点を構築すると云う方法が常道だとは思います」
 頑治さんとしては、これはぼんやりと考えていた事で、具体策とかは未だ何も思い付いてはいないのでありました。「その拠点々々を袁満さんが差配する事にします」
「各地方に拠点、ねえ」
 社長がそう繰り返して首を傾げるのでありました。頑治さんの云っている事が何とも茫漠としていて、俄かには理解出来ないと云った表情でありましたか。
「要するに各地方々々に、前に袁満さんや出雲さんが出張営業でやっていたように、そのエリアの観光地やホテルや旅館、それにお土産屋さんなんかを細目に回る人員を配置して、その人を袁満さんがこの事務所に居て遠隔で統括すると云う事ですよ」
 これだけでは未だ茫漠具合が晴れなかろうと頑治さんは続けるのでありました。「その配置する人員と云うのは、勿論会社で新たに社員として雇用するのではなく、例えば各地のギフト関連や一種の卸業をやっている会社とか、或いは売り上げに応じて儲け分を支払うマージン取引契約を結んだ個人とかで、嘱託とか契約社員と云う身分で、担当地方を回って貰う訳です。まあ、そう云う会社や個人を見付けると云う手間はかかりますが」
「そう云うのは僕も前に考えた事もある」
 土師尾常務が口元に冷笑を浮かべて云うのでありました。「しかしなかなか、そんなウチに都合の好い人や会社なんか、今のこのご時世、おいそれと見つからないよ」
(続)
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あなたのとりこ 383 [あなたのとりこ 13 創作]

 この日比課長の間髪を入れない同調は社長に対するヨイショ狙いと、地方特注営業に対して大した意欲も定見も、端から持ち合わせていないであろう土師尾常務への遠回しの当て擦りの魂胆があると頑治さんは思うのでありました。まあしかし日比課長の魂胆はここでは取り敢えず脇に置いて、頑治さんは出雲さんに向かって続けるのでありました。
「烏滸がましいけど、自分の方から片久那制作部長に話しを振ってみましょうか?」
「ああ、そう云う事ならよろしく頼みます」
 出雲さんが藁をも掴むような表情で大いに乗り気を見せるのでありました。

 土師尾常務がここで咳払いするのでありました。それは、人を批判する事に総ての言を費やして会話を紛糾させ続ける自分を恥じて、これから先高次元の会議にするための心機一転の咳払い、と云う訳では勿論ないのでありました。はたしてと云うべきか、誰もの期待を裏切らない下らない下心からと云うべきか、どうやら頑治さんの発言以来、暫し自分が無視されている事を恨んでの、一種の自己主張のための咳払いのようでありました。
「今ここに居ない片久那制作部長の事は取り敢えず置いておいて、僕が出雲君と一緒に営業周りをする方が先じゃないかな、事の順序としては」
 どうしてそちらの方が先なのか云っている事がさっぱり判らないながら、それを指摘するとまた逆上して余計筋違いの雑言を撒き散らすに決まっているから、頑治さんは決して侮蔑的には見えない、寧ろ至極穏やかそうな笑みを浮かべて、土師尾常務に対してそれは正にご尤もである、と云った具合に何度か頷いて見せるのでありました。
「常務の親心は勿論多とすべきところではあります」
 頑治さんは畏れ入るように目を伏せるのでありました。「因みに例えば、出雲さんが回っている地方の街とかに、多方面に顔の広い常務の、昵懇にしているギフト会社とか、仕事関連の知り合いがいらっしゃる広告代理店とか、おありになりますかねえ?」
「いや、そっちの方面には特に、・・・」
 土師尾常務は首を小さく一度横に振って、歯切れ悪そうに云うのでありました。「多分業界の知り合いに声を掛ければ、何社かはピックアップ出来ると思うけど。・・・」
 だったらさっさとそれを実行して出雲さんの仕事を助けろよと、そう云いたいのは山々ながらそれをグッと堪えて、頑治さんは口元の無邪気そうな微笑と、彼の人に対する心服と謹慎さをそこはかとなく表するような顔付きの維持に努めるのでありました。
「それは好都合ですね。恐らくかなり有力な手掛かりになるでしょうからから、ご苦労をおかけしますけど、そちらの線に先ずは当たっていただけますでしょうか?」
「勿論それは、唐目君に云われる迄も無くやってみるけど」
「で、その有力な常務の伝が本格的に動き出す前に、小手調べと云うのも何ですけど、片久那制作部長の線を先ずは試してみると云うのはどんなものでしょうかねえ?」」
「まあ、僕の方を台無しにしないための小手調べなら、それも良いかも知れない」
「ああそうですか。今常務のお許しを得たようですから、僕がさっき話した片久那制作部長の線を先行して進めても、それは構わないですよね?」
(続)
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あなたのとりこ 382 [あなたのとりこ 13 創作]

「誰がそんな事を云いました!」
 那間裕子女史の方もなかなかの反応であります。
「だってそう云う事じゃないか!」
「あくまでも実のある話しをしてくれるのなら傾聴はしますよ。でも些末な事の揚げ足取りばかりして、結局実が無いのを誤魔化しているようにしか見えないもの」
「未だこちらが何も喋ってもいないのに、実が無いなんてどうして判るんだ!」
「それじゃあ、聞きましょうか」
 那間裕子女史は口元に挑発的な微笑を浮かべるのでありました。「さあ、その実のある話とやらをさっさと喋ってくださいよ」
「何だその云い草は!」
「何だ、じゃないわよ!」
 こうなっては収拾も何も付かないと云うものであります。土師尾常務と那間裕子女史の剣幕に怖れをなして他の誰もが口を開かないのでありました。袁満さんはあらぬ方向に目を遣ってあからさまにオロオロと狼狽の身じろぎを見せるし、社長も均目さんも取り成しの言葉を挟むタイミングも掴めないで目を瞬かせながら茫然と、対峙する二人の顔に視線を、目が合ったらすぐに逸らす備えをしながら投げているのでありました。
「そう云えば前に何かの折に片久那制作部長が、大学時代の友人で静岡の新聞社に勤めていた人が今度独立して、広告代理店の会社を始めた、なんて云っていましたかねえ」
 緊張に今にも破裂しそうな場の空気にまるで馴染まないのんびりした声色で、頑治さんがゆっくりと話し始めるのでありました。頑治さんの喋り方の穏やかさも然る事ながら、この会議に欠席している片久那制作部長の名前が唐突にここに出てきたものだから、皆の注意が一気に頑治さんの口元に集中するのでありました。片久那、なる姓をここで出す事の効果を、頑治さんとしては勿論充分に予め計量しているのではありました。
 その名前に限りなく気後れを感じている土師尾常務の俄かにたじろぐ表情が、頑治さんの横目にチラと映るのでありました。那間裕子女史の狼狽も確認出来るのでありました。頑治さんは二人の嵩じた気持ちの萎縮を認めてから徐に後を続けるのでありました。
「その友人と片久那制作部長は長い間の昵懇の間柄だそうで、何時か出雲さんをその人に紹介しても良いと云うような話しをされていましたよ」
 ここで頑治さんは出雲さんの方に目線を固定するのでありました。「そう云う具体的で有力な伝を取り掛かりとして営業活動をする方が、取り敢えず現地に行って限られた時間の内に手当たり次第にそれらしい会社を訪問して回る、と云った茫漠とした営業の仕方よりは、様々な点で効率が良いし商売の目算も立つのではないでしょうかね。まあ、業務担当の僕が身の程知らずに口出しするべき事では無いかも知れませんけど」
「ほう、そう云う話しがあるのかね?」
 社長が先ず興味を示すのでありました。
「それは正に好都合と云うものだ。願っても無い魅力的な話しじゃないかな」
 日比課長がここで空かさず賛同して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 381 [あなたのとりこ 13 創作]

「そんな事を云って、問題をはぐらかさないでくれるか均目君」
 土師尾常務は均目さんを睨むのでありました。先程の経緯もあって、均目さんが自分の一睨みに対して思いの外腰が引けないだろと云う感触は、慎に忌々しい事ながら端から有してはいるような風情が、その睨む瞳の中に色として現れているのでありました。
「いやいや、会議の大前提として、常務の了見が抑々おかしいと云っているんです」
 均目さんは拘って見せるのでありました。勘繰れば、そこに拘って譲らない振りをしながら、袁満さんへの攻撃の矛先を少し鈍らせてやろうとの意図からかも知れません。
「大体この会議の議題と云うのは、どのような形態に社長や常務が会社をしていく心算なのかとか、会社の将来の見取り図と云うのか、展望を伺うと云う趣旨で我々従業員が提案したものですから、まるで敵味方みたいな感覚で個人攻撃に徒に時間を費やさないで、本来話し合うべき事を淡々と話す方が建設的なんじゃないですかねえ」
 那間裕子女史がこの場を丸く収めようとしてかそんな事を云うのでありました。
「しかし、こちらがそう云う話しをしようとしても、君達が好い加減な態度でこの会議の臨んでいるのなら、どんなに真剣に話しをしても無駄じゃないか」
 土師尾常務としてはあくまで袁満さんが先ず以って自分の怠慢を認めない限り、話しを先に進める意志は更々無いと云う事のようでありました。
「確かに具体的な数字を確認しながら一つ々々の事柄に付いて話をしないと、将来の展望を語れとか催促されても、実際どう話して良いものか困るねえ。適当なスローガンをでもぶっ放せばそれでいいと云うのなら、それは幾らでも並べる事は出来るけど、それじゃああんまり会議の意味は無いだろうしねえ。そうは思わないかい那間君?」
 社長が畳みかける心算か、口の端に苦笑を湛えて云うのでありました。「抽象的な、如何にも綺麗な事を云って取り繕おうとするのは止めた方が良い。要するに会議に臨む姿勢がなっていないところを、誤魔化そうとしての事なんだろうから」
「どこが抽象的な綺麗事よ。冗談じゃない」
 那間裕子女史がいきり立つのでありました。「要するに経営者として、始めから会社の将来の展望も見取り図も頭に無いものだから、筋違いなところを何でもかんでも論って、些末な個人攻撃で本題を取り敢えず誤魔化そうとしているんじゃないか、と云う風にしか見えないわ、今の土師尾常務の態度や社長の話し振りからは。それでこの会議を乗り切れると云う目論見なら、ナメてかかるのもいい加減にして欲しい、と云うものよ」
 何か挑発的な事を云われたと感じたら反射的に、見境もなくその相手に喧嘩腰で対抗しようとする傾向は、那間裕子女史も土師尾常務もそんなに違いは無いのかも知れないと頑治さんは秘かに思うのでありました。まあ、ご当人達の総合的キャラクターの違いとか、個人的な付き合いの濃淡や、こちらのシンパシーの度合から、そこに一種の愛嬌を感じ取るかそれとも単なる軽蔑を感じ取るかの違いは両者の間に明快にあるとしても。
「何を失礼な事を云うんだ!」
 打てば響くように(!)、土師尾常務が目を吊り上げるのでありました。「要するに那間君にはこちらの話しなんか、初めから聞く気が無いと云う事だな」
(続)
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あなたのとりこ 380 [あなたのとりこ 13 創作]

「でも今確かにそう云ったじゃないか」
「いやまあ、それは話しを始めるに当たってのちょっとした冗談ですよ」
 袁満さんはしどろもどろに取り繕うのでありました。
「そんな冗談や前置きは必要ない」
 土師尾常務は不愉快そうに吐き捨てるのでありました。「売り上げが出張に行っていた時と行かなくなってからとでは、どのくらい変化があったのか、それを云えば良い」
 そう窘められて袁満さんはすっかりしらけたと云う顔をするのでありました。
「俺が担当していた北関東の各県とか甲信方面とか、それに中部や関西地方の観光地に関しては、これ迄の付き合いとかあるから、今のところ電話対応でもそんなに極端な注文の落ち込みはありません。電話営業だけではなくその内顔を見せろとかは云われるけど、まあそれでも概ね顔を出していた時と同じ程度取引を継続してくれますよ」
「じゃあ、成績は出張していた時と殆ど変わらないと思って良い訳だね」
「いや勿論、営業に来ないのなら取引は終了すると云われるところもあります。でもそう云うところは比較的新しい得意先とか、元々小規模の取引先でしたから」
「で、結局どうなんだ、成績としては?」
 土師尾常務にそう訊かれて袁満さんは暫し瞑目して、頭の中で注文数の加減をあれこれ計算をする素振りをするのでありました。
「そうですねえ、ま、感触としては十五パーセントくらいの落ち込みと云うところでしょうかねえ。はっきり数字は出していませんが」
 袁満さんはここで声のトーンをグッと低くして、如何にも云いにくそうにものすのでありました。その云いにくそうな素振りから、実際の感触としてはその数字よりももう少し大きい落ち込みがあるのだろうと頑治さんは推察するのでありました。敢えて数字を小さく報告したのは、袁満さんの土師尾常務の剣幕に対する忌憚からでありますか。
「十五パーセントも落ち込んだなら、大変な落ち込みじゃないか!」
 袁満さんの土師尾常務の罵詈に対する備えも虚しく、彼の人は顔を歪めて露骨な顰め面をしてから、如何にも大問題だと云った感じで罵って見せるのでありました。袁満さんは小心そうにオドオドと土師尾常務から目を逸らして首を竦めるのでありました。
「まあ、ちゃんと集計してみなければ、正確なところは判りませんけど。・・・」
「と云うか、この今の段階で集計もしていないのか?」
 土師尾常務は畳みかけようとするのでありました。「会議をやろうと提案してきたのは組合の方じゃないか。それなのにその会議迄に売り上げの資料となる数字も弾いていないと云うのは、一体どういう了見なんだ袁満君は。ものぐさにも程があるだろう」
「今、提案したのは組合、とかおっしゃいましたけど、この会議は労働組合とか経営とか関係ない会社の全体会議の建前ですから、そう云うおっしゃり様はおかしいでしょう」
 均目さんが土師尾常務の文言に噛み付いて見せるのでありました。まあそう噛み付いては見せたものの、どうせ土師尾常務も社長も春闘での団体交渉の延長としてこの会議を認識しているのだろうと云うのは、均目さんも疾うに予想出来た事でありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 379 [あなたのとりこ 13 創作]

 出雲さんとしては一日中土師尾営業部長と行動を共にすると云うのも息が詰まると云うのに、お辞儀の仕方とか愛想笑いの方法とかで聞いた風な指導をされたり、ひょっとしたら一緒に昼食を摂っている時に、箸の上げ下ろしに迄も一々なっていないと小言を言われたりするのは、実に以ってまっぴらご免蒙りたいと云った心境でありましょう。しかしながら出雲さんの困厄は内心察しながらも、袁満さんも均目さんも出雲さんへの援助の無さを詰った手前、この土師尾常務の提案に異を唱える訳にはいかないのでありました。
「それが良いでしょうねえ」
 社長が発言するのでありました。「土師尾君が一緒に付いて行って色々指導するなら、出雲君も特注営業の遣り方をしっかり学べると云うものだ」
 出雲さんの心根を慮れば、そんな好都合な話しではなかろうと頑治さんは思うのでありました。袁満さんも均目さんも口には出せないけれど同様の思いでありましょう。
「今週は都合がつかないから、後でスケジュールを調整して、来週の適当な日に僕が出雲君と一緒に営業に回る事にする。出雲君の仕事振りも見る事が出来るから丁度良い」
 土師尾常務は背広の内ポケットから手帳を取り出して、そこに書き込んであるのであろう自分の仕事予定を確認するような真似をして見せるのでありました。その様子を見る出雲さんの頬の辺りには怨嗟の色が波打っているのでありました。
「よろしく指導してやってくださいよ」
 社長は横の土師尾常務に口添えの心算かそう云うのでありました。
「判りかました」
 土師尾常務は社長に対して一つ頷いてから、手帳を閉じてそれを背広の内ポケットに仕舞うのでありました。この場で日取りを決める気が無いのなら、手帳を取り出してそれを尤もらしく繰って見せるのは無意味な行為と云うものでありましょう。
「ところで折角の機会だから、袁満君の仕事の具合も聞いて置こうか」
 土師尾常務は背凭れからゆっくり身を起こして、今度は袁満さんの方に顔を向けるのでありました。「今年になって一度も出張には出ていないけど、どんな感触かな?」
 袁満さんは土師尾常務の、兎にも角にも人を詰る事を目的とした質問の矛先が自分に向いたと思ったようで 言質を取られるようなうっかりした事は云えないと身構えて、不自然にならない程度の間、口籠もって即答をしないのでありました。
「出張に行かないで済むのは、体は楽ですね」
 これは察するに、これから縷々仕事の様子を説明する前の、一種の、まくら、みたいな心算の言葉と云ったところであったかもしれません。しかしそうであったとしても、洒落や冗談の通じる相手かどうかの判断にミスがあったと云うべきでありますか、
 案の定、土師尾常務の鼻の上の黒縁眼鏡が微動して、その上縁の辺りにあった眉根がピリッと寄せられるのでありました。
「袁満君は、楽な仕事になって良かったと、今そう云ったのか?」
「いや、そんな訳ではありませんけど」
 袁満さんは首を横に振りながら狼狽えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 378 [あなたのとりこ 13 創作]

「何だその云い草は!」
 土師尾常務はいきり立つのでありました。
「云い草の問題にすり替えないでくださいよ」
 均目さんは相手にしないような素振りで返すのでありました。しかし目は土師尾常務の目に据えた儘で全く微動もさせないのでありました。土師尾常務の一種の演技として逆上して見せる様子には、何らたじろがないところを確と表明するためでありましょう。
「均目君、そんなに喧嘩腰にならないでも良いだろう」
 社長が取り成そうとするのでありました
「こちらは終始冷静で、思った事を淡々と喋っているだけで興奮なんかしていませんよ。寧ろ土師尾常務の方が急にエキサイトしたんじゃないですか。まあ、そうして見せると俺が怯んで、口を噤むとでも考えて態とそうして見せているのかも知れませんけど」
 均目さんは至って静かな語調で、冷笑なんかも浮かべもしない無表情で、及び腰にも喧嘩腰にもならないところを見せるのでありました。
 胆力と云うところでは、土師尾常務よりは均目さんの方が上手でありましょうか。若しくは均目さんが然程の豪胆者でないとしても、土師尾常務が自分よりは小心者である事を、これ迄の観察から読み切っているのでありましょう。
 土師尾常務なんと云う御仁は、先ずは方法的に怒って見せて、それで予想に反して相手が全然怯まないとなると、元々次の一手が用意されていないものだから、今度は自分の方が逆にオロオロして仕舞うと云うところがあるのでありました。自分の怒り顔が絶大なる迫力を有しているとでも、お目出度く勘違いしているのでありましょうか。
 頑治さんすらそれを読んでいるのでありますから、況や頑治さんより付き合いの長い均目さんは勿論疾うに承知、と云うところであります。どだい髭の薄そうなツルっとしたその童顔やら、自信たっぷりな物腰でいながら、そういう時に限って何時も自信無さそうに微動する眼鏡の奥の目やら、華奢と云う方が当たっているような、威圧感とか迫力とかのまるで感じられない体躯とか、何かと一目置かれる要素が不足している人であります。
 この時も均目さんにじっと目を合わせられているのが相当に苦痛らしく、気後れのために眼球が微動しているのが頑治さんにも良く判るのでありました。しかし典型的な意気地無しである一方でプライドが高くて執念深い仁でもありますから、この屈辱を晴らすために後々均目さんに対する陰湿な報復を屹度秘かに決意しているのでありましょう。

 土師尾常務は仕切り直しの心算か咳払いを一つして背凭れに身を引いて、均目さんとのにらめっこから遁走する気配を見せるのでありました。
「それなら近い内に、僕が出雲君と一緒に営業に回ってみよう」
 これが土師尾常務の出雲さんへの指導の具体的方策のようでありました。そこで特注営業のノウハウを直接伝授してやろうと云う事でありましょうか。まあ、自ら出雲さんをフォローしようと云う所存は評価に値すると云うものでありますが、しかしこの降って湧いたような土師尾常務の提案には、出雲さんが露骨に嫌な顔をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 377 [あなたのとりこ 13 創作]

 全くの正論でありますか。しかしこれが後に出雲さんを思わぬ窮地に陥れる一言になるとは、袁満さんにはこの時点で考えだにしない事なのでありました。
「私は別に特注営業に関して全く指導をしようとしない訳じゃないし、出雲君の新しい仕事に関して冷淡と云う訳でもない。そんな事は当たり前じゃないか」
 土師尾常務は袁満さんに敵意剥き出しの視線を向けるのでありました。「ただ、その役目は、先ずは日比君の役目と云う事になるから、控えていただけだ」
「出雲君の直接の上司は日比課長だから、日比課長に任せていると云う訳ですね」
 均目さんがここで徐に顔を上げて、土師尾常務に向かって今の言をもう一度聞き質すような言葉を発するのでありました。
「それが筋だからね」
 土師尾常務は憮然とした顔をしで腕組みをするのでありました。
「山尾主任が会社を辞めたから、日比課長はその後始末やら何やらで、今に至るまで新しい地方特注営業と云う仕事に就けないでいるんですよね」
 均目さんは土師尾常務の顔に視線を留めた儘クールな語調で聞くのでありました。
「まあ、忙しくて全く手も足も出ない、と云う訳ではないけどね」
 ここで日比課長が横からそんな事を喋り出すのでありました。
 土師尾常務に釘付けていた視線を均目さんは反射的に日比課長の方へちらと動かして、すぐにまた土師尾常務の顔へ戻すのでありました。無表情ではあるものの日比課長に対して、貴方に訊いているのではないからつまらない口出しは控えてくれ、と些か迷惑に思ったような色が均目さんの頬骨の辺りにほんのり浮かぶのでありました。
「日比課長がなかなか出雲君をフォロー出来ないのなら、常務がその仕事を肩代わりしても別に構わないじゃないですか。そんな大会社じゃあるまいし、常務として多くの社員の仕事に目を光らせている訳でもないんだから、杓子定規に、筋だから、とか云って呑気にしていないで、日比課長の手が回らないようなら自ら手伝っても良いでしょうよ」
 均目さ日比課長の言を一先ず無視してそう続けるのでありました。しかしそう続けてみるものの、日比課長の余計な科白が混入したせいで、計量していた自分の言葉の鋭さとその迫真力がぼんやり半減して仕舞った結果には、大いにがっかりと云ったところでありましょうか。不謹慎ながら頑治さんは心中で少しの微笑ましさを覚えるのでありました。
「何だ、均目君は僕が仕事をサボっているとでも云いたいのか!」
 それでも土師尾常務の怒気を誘い出すには充分の迫真力だったようであります。
「営業部全体の効率の問題を云っているんですよ」
 均目さんは内心の秘かながっかりを励ましてたじろがずに抗弁するのでありました。
「そんな事は態々均目君に云われる迄もなく、僕も常日頃から考えているよ」
 土師尾常務の眼鏡の奥の目が相当の剣幕で吊り上がるのでありました。
「常日頃から考えているけど、実行は億劫でなかなかしないと云う訳だ」
 日比課長の邪魔な一言が秘かに内心では結構応えたためか、日頃に無く均目さんの語調が険しさとぞんざいさを増すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 376 [あなたのとりこ 13 創作]

「ああ、多分そうですね。その数字で先方に見積書を送りましたから」
 出雲さんは何度か頷くのでありました。
「先方に商品説明はちゃんとしたんだろうね?」
 土師尾常務が出雲さんに聞くのでありました。恐らく土師尾常務の狙いとしては、出雲さんに無理を課して窮地に追い詰める魂胆だったのでありましょうが、どうした按配か出雲さんの仕事に乗って来た会社があると聞いて、ひょっとしたら、等と少しここで当初の目論見をうっかり失念して、妙な色気なんぞを出してみたのでありましょうか。
「いやあ、カタログに載っている商品で、今迄の出張営業で扱っていた物はなんとか商品説明みたいな事は喋れたんですが、特注営業の方に限られた商品に関しては、自分の知識不足もあって、いろんな点であんまり捗々しくは説明出来ませんでしたねえ」
「その、説明出来なかった点、と云うのは?」
 日比課長が出雲さんの顔を覗き込むようにして訊くのでありました。
「今迄の評判とか、出荷実績とか、それに商品そのものの特性とか、まあ、色々・・・」
「向こうに訊かれて、口籠もったと云う感じかな?」
「まあ、そうですね、」
 出雲さんは申し訳なさそうに笑んで見せるのでありました。
「そう云う事を予めちゃんと日比君に聞いたりして、勉強していかなかったのか?」
 予想通り盆暗な営業をして仕舞ったんだなと云う非難が、土師尾常務のこの言葉に籠るのでありました。竟、妙な色気なんぞ出して損した、と云うところでありましょうか。
 出雲さんは恐懼の態で俯くのみでありました。出雲さんとしてはそう云われれば、幾ら気乗りのしない仕事ではあるとしても、自分の新たに割り振られた仕事に対する不勉強と無関心と怠慢に関して、弁解する余地も無いと云ったところでありましょうか。
 しかし出雲さんが全く経験した事の無い特注営業の仕事でありますから、そう云う迂闊がある事こそ予め想像出来ると云うもので、そこを前以て入念にフォローするのは、直接の上司たる日比課長ばかりではなく、そんな営業形態を出任せにでも考え出して出雲さんに割り振った、当の土師尾常務の務めでもあったであろうと頑治さんは思うのでありました。ここで非難されるべきは寧ろ土師尾常務のものぐさではないでありましょうか。
「先方に何を質問されてもあたふたしないための、自分のこれからやる仕事に対する基本的な勉強すらないがしろにして、それで無邪気にのほほんと、日比君や僕の目に映る姿だけを繕うようにしながら今迄営業に出ていたと云う事か、出雲君は?」
 土師尾常務が出雲さんを追い詰めようとするのでありました。
「そんな云い方はないでしょう」
 袁満さんが声を尖らすのでありました。「出雲君は今迄やった事の無い全く初めての営業を、当初の計画にあった日比さんと二人で、と云う条件も叶えられないで、まるで放り出されるようにいきなり担当させられているんですから、後でそんな取って付けたような詰り方をするのは間尺に合わない酷い遣り口と云うものですよ。それを云うならば常務の無指導振りとか冷淡とか、フォローの無さ加減は何も問題にならないのですかね」
(続)
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あなたのとりこ 375 [あなたのとりこ 13 創作]

「経費がかかろうがかかるまいが、仕事の効率を考えるならば、目先の経費削減よりも出張扱いの方が良いんじゃないですかね。僕はそう思いますがねえ」
 こう返す辺り、どうやら社長は別に察してはいないようであります。
「要するに出張にかかる経費を極力ゼロに近づけようと云う事ですよね」
 日比課長が口を開くのでありました。この日比課長の言を一種の助け舟と取るかそれとも自分への批判と取るか土師尾常務は俄には判断出来ないようで、不愉快極まりないと云った顔は一応その儘保持しながら、一つ頷いてもみるのでありました。
「何でもかんでも節約すれば良いと云うものじゃなくて、それが非効率になるようなら、出すところは出すことも必要でしょうよ」
 なかなかに気前の良い社長の言葉ではありますが、これは社員に対してさももの分かりが好い経営者だと云う格好を演じて見せているだけで、先の甲斐計子女史への仕打ち等からすると、額面通りに受け取らない方が賢明と云うものでありましょうか。

 社長の言葉の後にほんの少しの間、この会議の出席者の誰もが何故か話しの接ぎ穂を失って押し黙るのでありました。とは云っても長く沈黙すると云う訳ではなくて、ほんの一二秒、まあ、居心地の悪い間が空いたと云った感じでありましたか。
「山尾君が急に抜けたものだから、なかなか出雲君の仕事を見てやる事も出来ないでいるけど、実際どんな按配なんだい新しい仕事の方は?」
 不自然に空いた間に耐えかねたのか日比課長が出雲さんに問うのでありました。
「そうですねえ、・・・」
 出雲さんは先程の社長と同じ質問をまた繰り返す日比課長に、少し戸惑うように小首を傾げるのでありました。日比課長としても、この質問は重苦しい沈黙を破る事が主な目的で、質問の中身そのものは然して意味のあるものではなかったのでありましょう。
「何処か一社くらいはじっくり話を聞いてくれたところはなかったのかな?」
「殆どは関心も示されずに玄関払いと云う感じですが、小田原の広告会社だったか、妙に愛想良く応接間に通された事がありました。そこで少し話しを聞いてくれましたよ」
「ほう、それはどんな感触だったのかね?」
 社長が興味を示すのでありました。
「ウチの商品カタログを見せて、それから色々訊かれたんですけど、企業の販促品にと交通案内図とか全国旅行ガイド、出張営業で売っている絵地図を利用したカレンダー、それにペーパークラフトの十二面体カレンダーなんかに興味を惹かれたようでした」
「でも結局、商談としては具体的にならなかったのかな?」
「そうですね。まあ、その後に何の連絡も入りませんから」
「ああ、確か全国の交通案内図カレンダーとか関東の絵地図カレンダーとか十二面体カレンダーとかの、千部と五千部と一万部作製の見積もりを片久那制作部長に云われて出した事があったけど、あれは出雲君の仕事に必要な数字だったのかな、そうすると?」
 均目さんが思い当るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 374 [あなたのとりこ 13 創作]

「ところでどう云う感触なんだろうかな、新しい営業の仕事は?」
 社長が出雲さんに目を向けるのでありました。
「はあ、未だ何とも。・・・」
 出雲さんはそう訊かれて下を向いて云い淀むのでありました。
「何かしらの成果みたいなものは未だ出ていないのかな?」
「そうですねえ。・・・」
 顔を上た出雲さんは申し訳無さそうに愛想笑うのでありました。
「当初こちらが考えていた一日の訪問件数より実数がかなり少ないようだけど?」
 土師尾常務がここで口出しするのでありました。
「まあ、朝に遠方まで出掛けて日帰りでこちらに戻って来る訳ですから、そんなには回れませんよ。おまけに車を使える訳でもないですし」
 出雲さんは土師尾常務の方に顔を向けず、社長を見ながら応えるのでありました。
「北関東とか静岡県や山梨県なんかの街を回る訳なんだから、向こうに一泊とかして営業する方が都合も効率も良いんじゃないの?」
 社長がこう云うのは至極尤もだと頑治さんは聞きながら思うのでありました。
「そうしたいのは山々ですが、宿泊代も出張旅費も出ませんから」
「出雲君の営業はあくまで、出張営業と云うものではありませんから」
 土師尾常務が横に並んで座っている社長に説明するのでありました。「遠距離の通常の特注営業と云う事になります。だから日帰りが原則になります」
「遠距離なんだから、向こうに到着するのも遅いし、帰りも時間を考えて早切り上げにもなるんだから、少しは融通を利かせないと如何にも効率が悪いんじゃないですかな」
 社長も顔を横に向けて土師尾常務に云うのでありました。この社長の言に対して、土師尾常務が些かの戸惑いと迷惑そうな色をちらと見せるのでありました。
「しかし、出張の経費の絡みとか様々、そこはありますから、・・・」
 土師尾常務はやや上目遣いで眼鏡越しに社長を見据えるのでありました。この土師尾常務の眼容てえものは、今更そんな質問をされても困るではないかと云う訴えのようでありました。土師尾常務にすればまさかの社長の言であったのでありましょう。
 つまり穿った見方ながら、土師尾常務の目論見としては出雲さんに無理難題を押し付けて、出雲さんが嫌気を起こして自ら会社を辞めるように仕向けると云う裏の魂胆が元々あったのでありました。それは既に社長にも秘密裏に方針として共有して貰っていた筈なのに、まさかこの場に及んで忘却した訳でもあるまいし、そんなぞんざいに、出雲さんに同情的な云い草を急にしれっとされるのは何とも心外であると云う事でありましょう。
 土師尾常務としては、これは社長の全く以ってうっかり至極な発言だと、そう捉えてそれを詰る気持ちを暗黙に眼容に込めたものと頑治さんは斟酌するのでありました。しかし見ように依っては、そう云った裏の秘めておくべき企みを思わず目に表わして仕舞う土師尾常務の方が、頑治さんには余程迂闊者のように映るのでありました。それに、そんな土師尾常務の心根を社長がすぐに察したかどうかも判らないのではありますけれど。
(続)
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あなたのとりこ 373 [あなたのとりこ 13 創作]

「じゃあ会議を始めたいと思いますが、主な議題は、営業部の改変がどのような会社のこれから先の見取り図によって行われたのか、その辺を伺いたいと云うものです」
 袁満さんが誰に云われるでもなく議事進行役を担うのでありました。何となく前の春闘時の団体交渉時の空気と同じ色合いを頑治さんは感じるのでありました。社員側から提案した会議であるから、まあ尤もとは云えるのでありましょうが、何となく労働組合と経営側と云う対立図式がその儘ここにも持ち込まれて仕舞うような気配でありますか。
「会社の経営方針に関わる事は別に君達社員全員と相談して決める事ではなくて、経営者の専権事項なんだから、それに君達が一々口出しする権利は無いんじゃないかな」
 冒頭から早速、土師尾常務が例に依ってこの会議を台無しにするような言挙げを行うのでありました。この会議を提案されたこと自体が不本意なのでありましょう。
「経営の決めた事には、従業員は何の意見も差し挟まずに、ただ只管云われた通りその命に従順に従っていればそれで良い、と云う事ですか?」
 袁満さんの眉間と声音にすぐに険しさが宿るのでありました。
「ただ只管と云うんじゃないが、不謹慎な差し出がましさは慎めと云っているんだ」
「別に僭越な事をしようと云うんじゃなくて、仕事をするに当たっての納得を得たいと云う事ですよ。そうじゃなければ意欲も何も持てないじゃないですか」
「高度な経営判断なんだから、黙って云われた通りにすれば良いんだよ」
 この土師尾常務の言に、袁満さんだけではなく、甲斐計子女史と均目さんと、それに社長を除いた辺りから思わず失笑が漏れるのでありました。選りに選って土師尾常務の口から、その為人に全くそぐわない、高度な経営判断、なんと云う何とも大袈裟で聞いた風な言葉が出るとは誰も予期していなかったのだから、意表を突かれた皆が反射的反応として失笑したと云う事でありますか。出雲さんと頑治さんが辛うじて笑うのを堪えたのは、比較的年季の浅い社員としての土師尾常務への遠慮と礼儀と弁えからでありました。
「何が可笑しいんだ、袁満君?」
 自分の言葉に大方がうっかり失笑を洩らした事態に早速昂奮した土師尾常務は、右総代で袁満さんを選んで名指しするのでありました。
「いや別に何も」
 袁満さんは態と口の端に冷笑を含んで、土師尾常務から目を逸らして見せるのでありました。これがまた土師尾常務の逆上を招くだろう事は判っていながら。
「まあまあ、そんなにお互いに喧嘩腰にならないで」
 土師尾常務が言葉を発する寸前に社長が両掌を斜め下前方に差し向けて、それを上下にゆっくり小さく上下させながら如何にも大人風に云うのでありました。「土師尾君もそんな愛想の無い事をのっけから云い出したら、話しが何も進まないじゃないかな」
 社長に制された土師尾常務は恨めしそうな横目で社長をチラと窺うと、不承々々ながら嘴を閉じるのでありました。土師尾常務の感情だけに支配された迷走を、ここに居ない片久那制作部長に成り代わって社長が制御する役を担う心算なのでありましょうか。袁満さんもここは社長の顔を立てて、しおらしく口の端の笑いを消し去るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 372 [あなたのとりこ 13 創作]

「もう全員揃っているのなら、未だ終業時間前だけど、ぼちぼち始めるとしましょう。別にそれでも仕事上の不都合は無いよね?」
 社長は土師尾常務に聞くのでありました。
「未だ日比君が帰って来ていませんが」
 土師尾常務がそう云い終らない内に、当の日比課長が扉を押し開いて事務所の中に入って来るのでありました。日比課長は社長の姿をすぐに認めて、別に特段後ろめたい訳ではないけれどそこに社長が居る事が意外だったせいか、少し臆したような表情をするのでありました。日比課長は全体会議が夕方ある事は既に知っているのでありました。
「これで全員揃ったかな」
 社長にそう訊かれた土師尾常務が日比課長、袁満さん、それに出雲さんを無表情で順に見るのでありました。それから返事まで未だ少し間を取るのは、甲斐計子女史も勘定に入れてして、制作部の二人もちゃんと居る筈だと頭で確認する作業なのでありましょう。
「唐目君は下の倉庫に居るのかな?」
 土師尾常務は袁満さんに確認するのでありました。
「ええ、発送荷物の未だ梱包作業中ですが」
 袁満さんはそう応えてすぐに自分の机上に置いてある電話の受話器を取り上げて、内線で倉庫を呼び出すのでありありました。
 呼び出し音が鳴ると頑治さんは受話器を取り上げる前に、会議が始まるからすぐに上がってこいと云う指示だろうと推察するのでありました。
「仕事は片付いたかな?」
 袁満さんが受話器の向こうから訊くのでありました。
「まあ、概ね梱包は片付きましたけど」
「少し早いけど会議を始めるから事務所に上がって来てくれるかな」
「ああそうですか。判りました。それじゃあ発送伝票を書いて運送会社に引き取り依頼の電話をしてから、すぐに上に行きます」
 頑治さんは受話器を置くと残務を手早く終わらせて、荷物を駐車場脇に出して、何時ものように自分が不在でも遣って来たトラックの集荷が滞りなく行われるように、荷物の結束バンドに運送会社の発送伝票を挟んで按配してから扉に鍵を掛けるのでありました。

 頑治さんが事務所に上がっていくと、前の団体交渉の時のように社長と土師尾常務、それに社員全員が応接スペースに集っているのでありました。二つ並んだ一人掛けソファーに社長と土師尾常務が座り、対面の三人掛けのソファーに袁満さんを挟んで左奥に日比課長、右手前に那間裕子女史が座り、均目さんと出雲さん、それに甲斐計子女史が自分の机の事務椅子をソファー傍に持ってきてそこに座っているのでありました。
 年季からすれば那間裕子女史の席には甲斐計子女史が座るのが順当ではありますが、甲斐計子女史は土師尾常務と面と向かうのはまっぴら御免と遠慮したのでありましょう。頑治さんも制作部スペースから自分の椅子を持ってきてその輪に加わるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 371 [あなたのとりこ 13 創作]

 土師尾営業部長は眉根を寄せるのでありました。袁満さんに依ればその目にはたじろいだような色が浮かんだと云う事であります。例に依って会議の件は片久那制作部長にすっかりお任せの心算でいたのでありましょうから、その怯みも宜なる哉でありますか。
 これも後に聞いた袁満さんの言に依るのでありますが、土師尾常務はすぐに片久那制作部長の家に電話を入れたのでありました。勿論片久那制作部長に全体会議の件で指示を仰ごうとしての事でありました。しかし電話の様子では、発熱のために不機嫌になっているであろう片久那制作部長に、自分の器量で適当に切り抜けろとか返されてけんもほろろにあしらわれたようで、困じた顔をして受話器を架台に戻したのでありました。
 こうなるとどうして良いものやらさっぱり見当も付かず、暫し自分の机で椅子の背凭れに身を預けて腕組みして考えを回らせていたのでありましたが、ふと何やら方策を思い付いたのか事務所を出て行ったのでありました。自分ではどうにもこうにも手に負えないから、ここは屹度社長に応援を依頼しに行ったのでありましょう。
 この袁満さんの推察は見事に御明算と云う事で、夕方五時を回った頃に珍しく社長が事務所に上がって来るのでありました。
「これから全体会議と云う事のようだから、僕も参加するから」
 社長は入り口を入って最初に顔を見合わせた袁満さんにそう告げるのでありました。そんな事は聞いていないと不審そうな表情の袁満さんと社長の間に割って入るように、土師尾常務が社長を迎えるためにそそくさと小走りして来るのでありました。
「どうも急なお話しで申し訳ありません」
 土師尾常務は袁満さんに背を向けて社長に二度程お辞儀するのでありました。「本来は社長にご出席いただく程の会議ではないのですが、片久那の方が風邪のため急に会社を休んだもので、私一人だと色々行き届かないところもあるかも知れませんから、お忙しいとは思いましたが社長にもご出席をお願いした次第です」
 土師尾常務はとっくに社長とはそう云う経緯も何も話しが付いている筈であろうに、袁満さんに聞かせるためなのか態々その辺りをなぞって見せるのでありました。
「いや何、会社の会議には無精がらずにら、僕も出来るだけ参加する心算でいたから」
 社長は土師尾常務の顔の前で掌を横にひらひらと振って見せるのでありました。
「慎に恐縮です」
 土師尾常務はまたもや二度ぺこぺこと社長に向かって頭を下げるのでありました。
「僕が出席しても、組合の方でも勿論大丈夫だよね?」
 社長が土師尾常務の肩越しに袁満さんに視線を投げるのでありました。
「ええまあ、それはもう、・・・」
 そう断りを入れられて袁満さんは少ししどろもどろになったのでありました。「別に労働問題の会議とかじゃないし、組合とは無関係な会議ですから」
 咄嗟にそう応えはしたものの、一方で袁満さんは社長の全体会議への出席をうっかり独断で受け入れた事に、これは自分の勇み足ではないかと云う悔いを、事後ながら感じたようでありました。まあしかし、状況からこれは仕方無いでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 370 [あなたのとりこ 13 創作]

 当初からお流れ派の筈の袁満さんが、ここでなかなかきっぱりしない素振りを見せるのでありました。まあ、信義に於いて正当な意見と云うべきではありますが。
「事実とか方針だけ聞き質すと云うスタンスで、出来る限り内容の具体的な議論を避ける、と云う態度で臨むかな。どうせ土師尾常務相手では話しを掘り下げようとしても実のある議論にならないだろうから。そんな風に会議の意味が薄くなるのを承知で、円満に短時間で切り上げる事のみ念頭に置けば、一応会議を要請したこちらの顔も立ちはするか」
 均目さんが一種の打開策を披露するのでありました。
「そう云う事なら、態々会議をする意味なんか無いじゃない」
 那間裕子女史が舌打ちするのでありました。
「そりゃそうだけど、土師尾常務との余計な軋轢回避のみを考慮して、ま、会議を予定通り開くは開くとしても、あんまり意気込まないで、チャッチャとやっつけ仕事的に片付けると云う、弱腰の方策と云う意味でね、まあ、そう云う方法も、・・・」
 均目さんは歯切れ悪く語尾を収めるのでありました。
「下らない」
 この那間裕子女史の言は、別に前に会社に居た刃葉さんの口真似と云う心算ではないのだろうなあと、頑治さんはここでは何の関係も無い事を、ふと考えるのでありました。
「そんなんだったら、矢張り会議はお流れにした方がマシじゃない」
 甲斐計子女史も何となく鮸膠も無いのでありました。
「でも、アンタじゃ話しにならないからお流れにしたって云う、如何にもぞんざいに扱っているところは露骨にあの人にも伝わるだろうし、そうなるとまた臍を曲げて色んな陰湿な報復をしてくるかも知れないし。お流れにしたその後が何だか怖い気もするなあ」
 袁満さんが女性二人の強気に弱々しく抗うのでありました。
「まあ、怖いと云うよりも、面倒臭いと云った方が良いっスかねえ」
 出雲さんもお流れ派弱気連合に加担のようであります。
「何と云ってもこちらから云い出した会議なんだから、時間の無駄を承知で一応ちゃんと開いてチャッチャと終わらせれば、何はともあれ無難に片が付くんじゃないかなあ」
 均目さんも弱気連合に入会であります。
「唐目君はどう思う?」
 那間裕子女史が頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「俺も信義上の弱みを作らないと云う意味で、均目君のチャッチャに賛成ですかねえ」
 これで強気連合二人対弱気連合四人と云う勘定であります。
「確かにつまらない時間潰しで不本意ではあるけど、その方が後々穏やかかもね」
 甲斐計子女史が弱気連合側に擦り寄るのでありました。これで一対五であります。依って会議は鬱陶しくはあるけれど予定通り開催と決まるのでありました。

 昼休みが終わる頃に土師尾常務が会社に出て来るのでありました。袁満さんがすぐに片久那制作部長が本日風邪で休みである事を土師尾常務に告げるのでありました。
(続)
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