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あなたのとりこ 735 [あなたのとりこ 25 創作]

「知りもしないくせに、そんな無礼な事を云うんじゃないよ」
 日比課長は憮然とするのでありました。「少なくとも土師尾常務なんかよりは信用があったと思うよ、俺の方が余程」
「それはそうだ。でもあのインチキ野郎と比べて、自分の方が信用があると云うのは、大して自慢にもならない事だけどね」
 袁満さんはせせら笑うのでありました。
「その土師尾常務は今後どうするんですか?」
 頑治さんが手酌で自分の猪口に酒を注ぐのでありました。
「俺と同じ身分だよ」
 日比課長も自分の徳利を取ると自分の猪口を表面張力一杯に満たすのでありました。
「と云う事は紙商事の嘱託社員と云う事ですね?」
「そう。仕事も俺と同じギフト営業と云う事になる」
「社長は土師尾常務を、役員として紙商事に迎えなかったんですね?」
「そんなに買ってはいなかったんだよ、あの常務を、元々」
「でもインチキ野郎から、社長にそれなりの働きかけがあったんだろう?」
 袁満さんはもう土師尾常務の名前をちゃんと呼ばず、インチキ野郎、と云う呼称で向後いくようでありました。恨みと嫌悪と軽蔑の深さが窺えるようでありました。
「そりゃあ勿論、社長は自分を役員として紙商事に迎えてくれるだろうと思っていたんだけど、そうは問屋が卸さなかった訳だ」
「ブツブツネチネチとインチキ野郎は、話しが違うとゴネたんじゃないの?」
 袁満さんがそう訊いてから近くに居る店員に日本酒の追加を頼むのでありました。
「まあそうだけど、贈答社を清算するとなったら社長の方が立場が圧倒的に上になるんから、嘱託社員と云う条件以外なら紙商事で雇わないとつれなく云われれば、土師尾常務としてはそれ以上逆らえない訳だ。役員として処遇してくれると目論んでいたから退職金の割り増しも要求しなかったのに、これじゃあ踏んだり蹴ったりと云う按配さ」
 日比課長は鼻を鳴らすのでありました。
「ま、そんなところだろう。あのインチキ野郎らしい結末だよ」
 袁満さんは痛快そうに哄笑するのでありました。
「そう云う事になると、日比課長と土師尾常務の二人で、これから先、お得意先の取り合いみたいになるんじゃないんですか?」
 頑治さんは店員が持ってきた新しい徳利の一本の首を取って、先ず日比課長の方に、次に袁満さんの順で酌をしながら訊くのでありました。そこで日墓課長が、話しの途中だけどちょっとションベンに行ってくる、と云いながら出来を立つのでありました。

 日墓課長がトイレに行っている隙を狙ってか、袁満さんが頑治さんに顔を近付けてグッと声量を落として囁きかけるのでありました。
「ええと、日比さんには甲斐さんとのことは内緒にして置いてくれよね」
(続)
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あなたのとりこ 734 [あなたのとりこ 25 創作]

「それより、風の便りに贈答社が会社解散になると聞きましたが?」
 今度は頑治さんの方が日比課長に訊くのでありました。
「そうなんだよ。結局社長の意向が通ったと云うところかな」
「そうなら、日比課長はこれから先どうするんですか?」
「俺もこれから再就職先を見付けると云うのも億劫だし、賃金が少しばかり下がっても会社に残る心算でいたんだけど、会社解散となればもう致し方なしだね」
 日比課長は苦虫を噛み潰すような表情をして見せるのでありました。「まあ一応、社長に頼み込んで下の紙商事で嘱託として働かせて貰う事になったけど」
「紙の営業をするんですか?」
「いや今迄の得意先との繋がりがあるから、贈答社の時と同様でギフト関係の営業をやるんだよ。贈答社オリジナルの商品はないけど、他社商品を使ってね」
「紙の営業はしないんですか?」
「うん。俺は紙の種類や値段の出し方とかは全く判らないからね。今更覚えるのも面倒臭いし。幸い贈答社時代の仕入れ先とも未だコネクションはあるし、そっちの営業の方があれこれ遣り方も判っているし、どうせ紙商事から本給は貰えないんだし」
「贈答社時代に少しは紙の事も勉強していれば良かったんだよ」
 ここで袁満さんが口を挟むのでありました。
「俺は出来上がった商品を売るのが仕事だったし、制作部でもないから、材料の紙の事とか印刷とか製本の事とかは特に知る必要がなかったからね。袁満君もそうだろう?」
「まあ確かに車の運転が出来ればそれで良かったんだけど、でも一応紙の大きさの規格とか寸法とかは勉強したよ。それに上質紙とかコート紙とかの違いもね」
 袁満さんは日比課長の贈答社時代の、怠慢と不勉強を少し軽侮するような目をするのでありました。頑治さんは袁満さんの、自分が仕事として扱っている商品に対する真摯さのようなものをこの言葉で初めて知って、ちょっと見直すのでありました。
「紙商事に行っても紙の営業はやらないで、贈答社の時と同じギフト関係の営業をやるのなら、敢えて紙商事の嘱託社員になる必要はないんじゃないですか?」
 頑治さんは袁満さんへの評価はさて置いて、日比課長に問うのでありました。
「俺もそう思うよ。どうして態々社長との腐れ縁にそんなに拘るのかねえ。紙商事から給料が出ないのなら、紙商事の嘱託社員になる必要なんかないと思うけど」
 袁満さんが頑治さんに同調するのでありました。袁満さんもその辺の日比課長の考えを怪訝に思うようでありました。
「別に社長との腐れ縁に拘っている訳じゃないけど、ギフト関連の営業をやるにしても、俺個人でやるより、一応株式会社の社員格としてやる方が、信用やら安心感やら、お得意さんの受ける印象が違ってくるからねえ」
「そうかねえ。俺はあんまり関係ないと思うけどねえ」
 袁満さんは日比課長の猪口に酒を注ぎ足すのでありました。「まあ、つまり日比さんは元々お得意さんの信用がなかったと云う事かな」
(続)
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あなたのとりこ 733 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんは頼りなさそうに呟くのでありました。
「そうなるさ。本当に近い内に」
「そうだと良いんだけど。・・・」
 夕美さんんはここで少しの間沈黙するのでありました。「それじゃあ頑ちゃん、また逢える日迄元気にしていてね。それから就職が決まったら連絡して」
「決まってからじゃなくて、その前でも近況報告の電話をするよ」
「そうね、あたしも頑ちゃんの声が聞きたくなったら、すぐに電話をするわ。でも声だけじゃあ、何だかつまらないけどね」
「そんなに先じゃなくて、また逢えるよ屹度。そっちかこっちかは判らないけど」
「そうね。あたしもそんな気がしてきたわ」
 夕美さんはここで努めて快活に云うのでありました。それから名残り惜しそうにさようならを云って、二人はほぼ同時に受話器を架台に戻すのでありました。

 この後も未だ頑治さんは本格的に就職活動を始めないのでありました。何となく気が乗らないのでありました。全く意欲的ではない気持ちで動き回っても、良い結果は招かないと云う云い訳で自分の怠惰を正当化するのでありましたが、まあ、そこのところは云い訳の分を差し引いて、二分くらいは当たっているような気もするのでありました。
 そんな折袁満さんから、久し振りに飲みに行かないかと云う誘いの電話が入るのでありました。別に断る理由も無いから頑治さんは気楽に誘いに乗るのでありました。
 お互いの最寄り駅から近いからと云うので、頑治さんは本郷三丁目駅から地下鉄に乗って待ち合わせ場所の池袋に出掛けるのでありました。
 袁満さんから指定された池袋演芸場に近い居酒屋に行くと、入り口の傍の席に居る袁満さんをすぐに見つけるのでありました。席にはもう一人袁満さんと差し向かいで座っている仁が居るのでありました。それは日比課長だとすぐに判るのでありました。
「袁満君が唐目君と飲むと云うんで、俺もついてきたんだ」
 日比課長は頑治さんが椅子に腰を下ろす動作の途中で云うのでありました。
「ああそうですか。お久し振りです」
「どうだい、次の仕事は決まったのかい?」
「いやあ、未だ全然決まってはいないですよ」
 頑治さんは先着の二人が日本酒を飲んでいるのを見て、自分も熱燗と、それに当てとして枝豆と冷や奴を注文するのでありました。
「袁満君のように、どこか職業訓練校にでも通っているのかい?」
「いや、俺は会社を辞めてから未だ一度も、職安にも顔を出していないです」
 頑治さんは店員が持ってきた猪口を取って日比課長の酌を受けるのでありました。
「随分悠長にしているんだなあ」
「まあ丁度良い機会だから、ちょっと故郷に帰ったりしていたものですから」
「ああ成程ね」
(続)
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あなたのとりこ 732 [あなたのとりこ 25 創作]

「頑ちゃんが傍に居てくれたらって思うわ。あたしお母さんを見ていると時々すごく落ちこむの。頑ちゃんに何時でも逢えるんだったら、あたしはこんなにめげなくて済んだかも知れないなんて思うの。まあこれはあたしの自分勝手な願望なんだけど」
 夕美さんにこう云われて、頑治さんは悄気るのでありました。矢張りもう少し夕美さんの傍に居てあげる方が良かったようであります。暇は充分あったのに、さもしくも懐具合を気にしてこうして東京に戻って来た自分を、頑治さんは自責するのでありました。
「ご免よ。夕美にそう云われると、何だか自分が無神経でけしからぬ事をしたような気になるよ。今更後悔しても仕方がないけど」
「ううん、そんな心算で云ったんじゃないのよ。頑ちゃんには頑ちゃんの都合があるんだから気にしないで。今のはあたしのは身勝手な愚痴なんだから」
「若しどうしても、と云うのならまたそっちに戻っても構わないけど」
「そんな必要はないわ。本当にあたしの事は気にしないで就職活動に勤しんで頂戴」
 夕美さんは努めて快活に云うのでありました。
「いや本当に。夕美が苦しいのなら俺はそっちに行くよ」
 そう云いながら頑治さんは頭の隅で金銭勘定をするのでありました。かなり苦しいのは実状ながら、もう一度向うへ行くとしても、何とかかんとか遣り繰り出来ない事もないでありますか。いや、夕美さんが望むのなら、若し遣り繰りが叶わないとしても、寧ろ借金してでもここは夕美さんの傍に行ってやるべきでありましょう。
「ううん、いいの」
 夕美さんがきっぱり云うのでありました。「本当にいいのよ。頑ちゃんに無理をさせても今度はあたしの方が辛くなっちゃうもの」
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫。余計な心配させてご免なさい」
 夕美さんは消えも入りそうな声で謝るのでありました。
「どうしても必要なら、遠慮しないで来いと云ってくれて良いんだよ。夕美のためなら俺は何時だって駆けつける用意があるんだから」
「うん、有難う。でも当面は本当に大丈夫だから」
「そうか。そう云うのなら、一応判ったよ」
 頑治さんはこの言葉が不躾に響がないように気遣いながら云うのでありました。「そう云えば博物館の仕事で、夕美の方こそこっちの大学に来る予定はないのかな?」
「ない事もないんだけど、母の事があるから事情を話して、東京出張は勘弁して貰っているのよ。本当は大学院の考古学研修室に行きたい用事もあるんだけど」
「ああそうか。それはそうだよなあ」
「まあ、母が病院を退院出来て、容態が安定したら行く心算なんだけど」
「そうか。まあ、近い内に屹度そうなるだろうから、その時にまた夕美の顔を見るのを楽しみにして、俺も職探しに精を出すよ」
「近い内に、そうなるのかしら、ねえ。・・・」
(続)
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あなたのとりこ 731 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんは頑治さんの次の職探しの首尾について訊いたりするのでありました。
「どう、その後の就職活動は?」
「うん、まあ、未だ何となく尻が重くて」
 頑治さんは何となく済まなさそうに小声で云うのでありました。
「会社を辞めるに当たってあれこれ気苦労があったみたいだから、ちょっと英気を養うと云う意味も含めて、のんびり仕事探しするのも良いかも」
「いやあ、そんなにしんどい退社劇でもなかったけどね」
「そう云う事なら、もう少しこっちに居ても良かったわね」
「ま、失業中の身の上だから、そんなに長くそっちに滞在する資力もないし」
「でも、そっちに帰ってのんびりしているのなら、こっちに居ても同じじゃない」
 夕美さんは何となくあっけらかんとした云い草をするのでありました。
「そうも云えるけど、でも、そっちに居るとなると友達に家に厄介になる事になるし、何かと色々物入りではあるからなあ」
「何ならあたしが援助してあげても良かったのに」
 これは夕美さんが、どうせ後々頑治さんと一緒になる、と云う前提を以ってそう云ってくれているのでありましょうか。
「いや、それは何だか、・・・」
「別に気兼ねは何も要らないんだからさあ」
「それはそうかも知れないけど、しかしまあ、何と云うのか」
「男としてのプライドが許さない?」
「別にプライドを云々する程の男ぶりは持ち合わせていないけどね」
 これは態々ここで夕美さんに改めて云う程の事ではなく、夕美さんも疾うに判っている事でありますか。慎に以って面目ない限りであります。
「ううん、あたしにとってはなかなかのものよ」
 夕美さんはそう持ち上げてくれるのでありましたが、これは持ち上げると云うよりは単なる冗談とか軽口として受け取るべきでありますか。
「ところで、お母さんの具合はその後どうなんだい?」
 頑治さんは話題を変えるのでありました。
「病院に入院したら、少しは元気になった感じがするけど、でも相変わらず食欲が全然なくて、意欲的に物を食べるってところはちっともないわ」
「でも少しは元気になったのなら、ちょっとは安心かな?」
「要するに栄養注射とか、看護が行き届くから元気になったように見えるだけで、快復していると云う事じゃないんだと思うわ」
「夕美も、心配だなあ」
 そうであるなら、頑治さんが向こうにもう少し長く滞在し続けて、そんなに大した助けにはならないかも知れませんが、夕美さんの傍に居てあげて、少しは夕美さんの気持の励みになるべきだったのかも知れないと思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 730 [あなたのとりこ 25 創作]

「均目君と唐目君は同い歳で気も合うようだったから、会社を辞めても付き合いが続いていると思っていたけど、そうでもないのかな」
「会社の中では歳が同じだから親しくしていましたけど、一端会社を出たら、プライベートではそれ程親密ではなかったですよ」
「休日に一緒に何処かに出掛けるとか、そう云う付き合いではなかったのかな?」
「なかったですね。均目君のアパートに行った事もないですしね」
 まあ、均目さんの方は那間裕子女史絡みで頑治さんのアパートに来た事はあるのでありましたが、これはここで敢えて袁満さんに話す必要はない事でありました。
「ふうん、そんな風の仲だったのか。傍からはもっと親密な感じがしていたけど」
「ま、実際はそんなところです」
「那間さんも入れて、よく三人で飲みに行っていたようだけど」
「まあ、会社帰りに時々、ですよ」
「均目君は那間さんとは未だ交流が続いているのかな?」
「さあ、俺にはその辺は判りませんけどね」
 恐らく均目さんと那間裕子女史の仲も、もう元に戻る事はないでありましょうし、この推察も敢えて袁満さんに云う事ではないでありましょう。
「じゃあ、会社を辞めた後は四人バラバラで、近況連絡もないと云う事か」
「そうですね。こうして電話をくれるのは袁満さんだけですよ」
「ふうん、そうか。・・・」
 袁満さんはどこか寂し気に呟いて少し黙るのでありました。
「その内、新宿辺りで一杯やりましょう」
 頑治さんは別に敢えて元気づけるためと云うのではないのでありましたが、袁満さんの寂し気な呟きに対してそう返すのでありました。
「そうだな。今度通う事になった学校の方が落ち着いたら、是非飲もう」
「日比課長の消息なんかも、それに袁満さんと甲斐さんのその後も聞きたいですし」
 頑治さんがこう云うと袁満さんは少し照れたように笑うのでありました。

 その後も頑治さんは未だ本格的に就職活動で忙しく動き回る気が起きないのでありました。暇潰しの上野や浅草、それにアパート周辺の散歩、或いは神保町の古書店や新刊本を扱う本屋巡りなんぞで無為な時間を過ごしているのでありました。またもや刃葉さんに出くわすと云う事はなかったのでありましたが、街角で歳格好の似た人を偶々見ると竟その人が刃葉さんかどうか確かめるように視線を当てたりするのでありました。
 別に刃葉さんの動向が気になると云うわけではないのでありましたが、何となくそう云う事をして仕舞うのでありました。別に出会っても、何もないのでありますけれど。
 偶に夕美さんから電話が掛かってくるのでありました。夕美さんは夏休みに東京に頑治さんと同行出来なかった事を未だ残念がっているのでありました。夕美さんのお母さんの体の具合と云う余儀ない理由であるのは、重々承知しているのでありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 729 [あなたのとりこ 25 創作]

「そうだね。その方が自然かな」
 袁満さんの頷く様子が受話器から伝わってくるのでありました。「まあ、あの人の異常なプライドの高さと、その割に考えが甘くて、遣る事為す事が何につけても好い加減だから、修行の厳しさに耐えられなくなって早々に逃げ出したんだろうな。まあ、自分への好都合な云い訳を考え出して、その挫折感からも遁ズラしたと云う按配だろう」
「挫折感から遁ズラしたかどうかは、判りませんけどね。それに第一、全く違う余儀ない事情から東京に戻って来たのかも知れないし」
「おや、刃葉さんを庇っているのかな?」
「いや別に庇っているんじゃないですよ。庇う謂れは何もないですし」
 頑治さんは、袁満さんの推察が確かに当たっているようにも思うのでありましたが、そこは未だ曖昧なところでありますから、慎みから邪推を控えたいだけでありました。
「刃葉さんは贈答社が消滅したと聞いたら、屹度皮肉な笑いでもして、先に辞めた自分の先見性を秘かに誇るんだろうな。他の連中が優柔不断だからとか臆病だからとか、先を見る目がないとか、そんな手前味噌な決めつけなんかしながら」
 袁満さんは如何にも悔しそうに云うのでありました。
「さあ、それはどうですかね。刃葉さんの中ではもう、贈答社の事なんか取り立てて感想を抱く事もない、全くの無関心事になっているんじゃないですかね」
「まあ確かに、刃葉さんは何に付けても飽きっぽい方だったから、それもあり得るかな。こっちにしたって辞めた後の刃葉さんが何をしようが、全く興味も無いし」
 このすげない云い草からすると、袁満さんは会社で同僚だった時から、刃葉さんに対して良い印象は全く持っていなかったのでありましょう。まあ、そんな推察は疾うについていたのであります。同い歳のくせに何時も小馬鹿にするような態度をとる刃葉さんに、袁満さんは表面は穏和な態度でいながらも、内心忸怩たる思いでいたのでありましょう。
「その刃葉さんとも、この先はもう逢う事もないでしょうけどね」
「それはそうだな。敢えて逢いたいとも思わないし」
 袁満さんはあくまでつれないのでありました。「しかしこの間偶然二度も出逢ったんだから、ひょっとすると唐目君は刃葉さんと妙な腐れ縁があるのかもしれないぜ」
「そんな事もないでしょう。まあ、偶々ですよ」
 頑治さんは軽く笑って見せるのでありました。別にムキになって云い返してこない頑治さんの反応に、袁満さんは期待が外れたような少し白けた笑いを返すのでありました。
「均目君や那間さんからは何か連絡はないのかな?」
 袁満さんは話題を変えるのでありました。
「いや別に。辞めた後の二人の消息は不明ですよ。まあ、次の仕事探しのため、俺なんかには構っていられないんじゃないですかね。袁満さんには連絡とかないんですか?」
「ないよ、何も。唐目君にないんだから俺の方にある訳がない。まあ、あの二人の事だから抜け目なく、ちゃんと次の仕事を見付けるんだろうけど」
「そうでしょうね」
(続)
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あなたのとりこ 728 [あなたのとりこ 25 創作]

「向後の事、と云うと?」
「いや、次の働き口の事ですよ。勘違いかも知れないけどひょっとしたら今袁満さんは、俺が甲斐さんは向後どうする心算かと聞いたのを、まさか袁満さんと近々結婚する心算かどうか聞いたのだと勘違いしたんじゃないでしょうね?」
「いやまさか、そんなんじゃないよ。俺はそれ程おっちょこちょいではないよ」
「ああそうですか。それなら良いですが」
 頑治さんはやや疑うような調子を込めて云うのでありました。
「次の就職先を探すようだよ。まあ、俺も甲斐さんも現在失業者と云う事で、先の見通しも立たない状態だから、結婚とかそんな甘い将来像は今は描けないよ」
「では夫々次の仕事が見つかった暁には、結婚もあるんですね」
「いやさっぱり判らないよ、具体的なものは何も、今はないよ」
 しかしこう云うところを見ると、袁満さんは行く々々は甲斐さんと結婚して家庭を持つと云う見取り図を、描いていない事もないのでありましょう。そう云う事であるなら、袁満さんも甲斐計子女史も、就職活動に気合が入ると云うものでありますか。

 ここで少し話題が途切れて、お互いほんの少しの時間黙るのでありました。
「ああそう云えば、この前刃葉さんと逢いましたよ」
 頑治さんが突然思い出したように云うのでありました。
「刃葉さん、と云うとこの前まで会社に居た刃葉さんかい?」
「そうです。あの刃葉さんです。今日の昼間に何か本でも探しに行こうかと、神保町の三省堂書店に立ち寄った時に、偶然姿を見かけたんですよ」
「へえ、今日かい」
 袁満さんは頓狂な声を上げるのでありました。「それで言葉を交わしたのかな?」
「いや、エスカレーターですれ違ったんですが、向うは俺に全く気付かなかったようで、前に会社に居た時同様に、世の中の万事が不愉快、と云うような顔をしてすぐ横を通り過ぎて行きましたよ。俺の方も別に声を掛けたりしませんでしたけど」
「北海道に空手の修業に行ったんじゃなかったかな、刃葉さんは?」
「俺も確かにそう訊いていましたけど」
「修行の厳しさに音を上げて、早々にケツを捲ったのかな」
 これは頑治さんも前に考えた事でありました。
「いやあ、事の詳細は何も判りませんけど」
「偶々一時的に東京に戻って来ていた、と云う事も考えられるけど」
「その可能性もなくはないですが、実は退職した次の日、ブラブラ散歩に出た時に上野公園でも刃葉さんを目にしていたんですよ」
「退職した次の日となると、結構前と云う事だなあ」
「そうですね。その日から今日までの期間を考えると、これは矢張りケツを捲って逃げ出したんだと解釈する方が正解かと思いますが」
(続)
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あなたのとりこ 727 [あなたのとりこ 25 創作]

「そうだね。日比さんは社長や土師尾常務がその場に居ない時には、二人に対して妙に強気の喧嘩腰を披露してくれるんだけど、面と向かうとおどおどしたり、やけにしおらしい態度に出る人だからなあ。ま、精々退職金の少しの増額を懇願するくらいかな」
 そう云う袁満さんの言葉には、多少の皮肉と侮蔑が含まれているようでありました。
「会社を辞めるとなると、甲斐さんよりは日比課長の方が色々大変でしょう」
「それはどうしてそう思うのかな?」
 袁満さんは、甲斐さんよりは日比課長の方が、と云う頑治さんの言葉に少し引っかかったようでありました。つまり大変さと云う点に於いて、甲斐計子女史が軽んじられているように感じたのでありましょう。大事な甲斐計子女史を差し置いて、日比課長の方が大変だと云うのは何たる不見識且つ、不届き千万な妄言ではないか、と。
 頑治さんにはそんな謂い等、毛の先程もなかったのでありました。まあこれは、一種の袁満さんの身贔屓と云うものに近いでありますか。
「だって日比課長は養うべきご家族がおありでしょう。確かお子さんは今年中学校に入ると云うお歳じゃなかったですかね。まあ、こういう云い方は袁満さんにはカチンとくるかも知れませんが、独り身の甲斐さんに比べるとそこは矢張り日比課長の方が、早く次の就職先を見付けないといけないと云う焦りもあるし、大変なんじゃないですかね」
「甲斐さんにだって、お母さんとお兄さんがと云う家族が居るし」
「でも甲斐さんのお母さんもお兄さんも、夫々に収入の道をお持ちでしょう?」
「それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは、確かに頑治さんの云う通りだけれども、しかし甲斐さんと日比課長の比較に於いて、日比課長の方がより大変だと云う論には、未だ完全には承服出来かねる、と云った口調で、不本意ながらも渋々と云った風情で諾うのでありました。
「ああところで、先程甲斐さんの家に夕食に招かれたとかおっしゃいましたが、その折には甲斐さんのお母さんやお兄さんもいらしたんでしょう?」
 若しそうなら、これは正式に甲斐計子女史のご家族に、二人の交際の報告をするために行った、と云う事になるのではないかと頑治さんは考えたのであります。
「いや、お母さんとお兄さんは、信州の親戚の家に法事で行っていて、その日は甲斐さんだけだったんだよ。甲斐さん本人は会社でのゴタゴタの真っ最中で多事多忙だからと云うので、同行しなくて一人で留守番と云う事だったんだよ」
「と云う事はつまり、ご家族の不在に付け込んで、二人で秘かに俄か夫婦気取りを楽しんだ、と云う事になるのですかね?」
 頑治さんは人の悪い推察を敢えて披露して袁満さんを冷やかすのでありました。
「そんなんじゃないよ!」
 袁満さんは躍起になって否定するのでありました。しかしそう冷やかされて、満更でもないようなところが語気に表れているようでありましたか。
「で、それは兎も角、甲斐さんは向後どうする心算なんですかね?」
 頑治さんはここで前の話題に戻るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 726 [あなたのとりこ 25 創作]

「矢張り社長の目論見は会社清算なんですかね?」
「いやもう、疑いなく、はっきりその方向に向かって進んでいるみたいだよ」
 袁満さんの電話の向こうで顔を顰める様子が見えるようでありました。
「その手始めとして甲斐さんを解雇したと云う事ですか?」
「甲斐さんだけじゃなくて、日比さんも辞めさせられるようだし」
「日比さんも、ですか?」
「そう。日比さんも会社に残る心算で居たのに、社長の気持ちは会社清算に向かってまっしぐら、と云う感じだろうしね」
 袁満さんの語調は少し皮肉めいた風を帯びるのでありました。
「じゃあ、土師尾常務はどうなるのですかね?」
「あの人は抜け目がないから、紙商事の方で雇ってもらう事になっているんだろう」
「それは、甲斐さんの情報ですかね?」
「そう。甲斐さんが会社を辞める前の日、甲斐さんに家に食事に誘われて、そこで聞いたんだよ。甲斐さんは社長室に呼ばれて、社長からそんなような事を直接聞いたらしい」
「そう云えば組合が出来た時に、甲斐さん一人が社長室に呼ばれて、賃金を据え置くのを承知したら、その儘会社で働いて貰っても良い、なんて提案されたんでしたね」
 頑治さんは前にあったいざこざを思い出すのでありました。その提案の理不尽さと卑劣さによって、結局甲斐さんも結局組合に入る事になったのでありましたか。
「前の時は土師尾常務も同席していたけど、今度は社長一人だったみたいだけど」
「今度は社長の独断で、土師尾常務は無関係だったんですかね?」
「土師尾常務とは既に会社清算を秘かに打ち合わせしていて、その時点ではもう紙商事で雇ってもらう約束が纏まっていたんじゃないかな」
「成程ね。それでもう態々土師尾常務の同席は必要なかった、と云う事ですかね」
「土師尾常務にしても、自分の事以外には何の興味もないだろうからね。まあ、最後の最後迄相変わらずの無責任役員振りと云うところさ」
 袁満さんは鼻を鳴らしてして見せるのでありました。
「で、甲斐さんは一方的に解雇を云い渡されるだけで、別に抵抗と云うのか、ゴネたり、或いは条件闘争的な事はしなかったんですかね?」
「組合も既にないから、受け入れるしかないだろう。一人だけじゃ無力だし」
「今回は社長の思う壺、と云う事になりますかね」
「まあ、そんなところだろうね」
「日比さんも解雇の憂き目に遭うようですけど、日比さんはどうするんですかね?」
 甲斐計子女史の日比課長の、いやらしそうな目、に対する警戒心から、二人共闘する訳にもいかないのは頑治さんも想像出来るのでありました。
「どうするのかね。その辺は良く判らないけど、その内俺から日比さんに電話でも入れて探ってみよう、とは思っているんだけど」
「まあ、日比課長も社長の意向には逆らえないでしょうけれど」
(続)
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あなたのとりこ 725 [あなたのとりこ 25 創作]

「スポーツトレーナーとか医療補助とかの学校だよ」
「具体的にはどう云う事を学ぶんですか?」
 スポーツトレーナーと云うのは何となくどう云う事を学ぶのか想像出来るのでありましたが、医療補助と云うのが漠然としていて、一体何を習得出来るのか、今一つ曖昧でよくつかめなかったので頑治さんはそう聞くのでありました。
「まあ、三か月だから大した事は学べないだろうけどね」
 袁満さんはこう応えるのみで具体的な内容は云わないのでありました。実は袁満さんも未だそれ程よく理解してはいないのかも知れません。しかし学校に通う事に然程の期待を抱いていないようであるのは理解出来るのでありました。まあ、職安が紹介してくれるのでありますから、そんなに怪し気な事を教える学校ではないでありましょうけれど。
「学費とかはどうなるんですか?」
「職安の紹介だから少しは安くなるらしいけどね。まあ、貯金で何とかなるだろう。暫くの就職猶予期間と云う事で、学生身分に託けて、少しのんびり骨休めと云う寸法だよ」
「三か月したら病院とかスポーツ施設で働けるんですか?」
「どうなんだろう。実は卒業後の事に関しては俺も未だ良くは知らないんだよ」
「ふうん、そうですか」
「まあその学校に通うのは、一応就職活動をちゃんとしていると云う職安への弁解のようなものだから、俺としてもそんなに乗り気だと云う訳じゃないしね」
 今の時点であれこれこの話しをこれ以上進めるのは無意味のようでありましたから、頑治さんはここいら辺で話題を変える事にするのでありました。
「甲斐さんとは上手くいっているんですか?」
「あああ、甲斐さんね。まあ、ぼちぼちと」
 こう質問されて、電話の向こうの袁満さんの顔がニヤけるのが判るのでありました。と云う事は、取り敢えず順調なのでありましょう。
「結婚とか、そう云う話しは未だ出ないんですか?」
「まさか、そんなのは全然ないよ。時々逢って食事したり、コーヒーを飲んだりしているくらいだからね。会社に居た頃と然して変わらないよ」
「まあ、徐々の進展を期待していますよ」
「いや、その甲斐さんだけど・・・」
 袁満さんはここで急にニヤけた語調を改めるのでありました。「三日前に贈答社を辞めたんだよ。まあ、辞めさせられたと云うのが正しいかな」
「え、そうなんですか?」
 頑治さんは驚いたように云うのでありましたが、実はそんなに寝耳に水、と云う事ではないのでありました。早晩そうなるであろう事は予想の内でありましたから。

 袁満さんの口調が陰鬱な感じに変わるのでありました。
「社長の企みが着々と実現していると云ったところかな」
(続)
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あなたのとりこ 724 [あなたのとりこ 25 創作]

 この界隈での恒例で、頑治さんは神保町の東京堂書店と三省堂書店に立ち寄るのでありました。三省堂書店の店内でブラブラと書架にある本を手に取ったりしながら三階から四階迄来る途中、頑治さんはすれ違う下りのエスカレーターに、前に上野公園で目撃した刃葉香里男さんの姿をまたもや見付けるのでありました。
 頑治さんは目が合う事に何とはなしに気まずいものを感じて、それとなく目を逸らすのでありましたが、刃葉さんの方はすぐ横を行違った頑治さんには気付かないようでありました。まあ、以前から広角の視界を有する人ではなかったのでありましたが、刃葉さんは前に据えた半眼の目を微動たりともさせずに、頑治さんの流し目に無表情な横顔を見せてゆっくり下って行くのでありました。通り過ぎてから振り返った頑治さんの目に、刃葉さんの、若いくせに少しばかり髪が薄くなった旋毛の辺りが見えるのでありました。
 会社を辞めてすぐに上野公園で目撃した時から少し時間が経っているところからして、刃葉さんは何かの用事で、一時的に東京に戻って来たのではないのだろうと頑治さんは推察するのでありました。そうなると刃葉さんは北海道の空手の師匠の元を、何らかの理由で引き払って居所を東京に移したと云う事になるでありましょうか。
 何らかの事情でそうしたのであろうとしても、もう頑治さんにとっては無関係の事であります。刃葉さんの向後の動向に対しても、然程の関心ももう無いのであります。まあ、どう云う経緯で北海道の空手の師匠の元を去る事にしたのか、そこら辺りに関しては多少の興味も無くはないのでありますけれど、それに関しても別に敢えて知りたい事ではないのであります。刃葉さんとはもう疾うに、接点は何もないのでありますから。
 その日の夜遅くに珍しく、と云うべきか、久しぶりに袁満さんから近況報告の電話がかかってくるのでありました。
「暫く居なかったようだけど、どうしていたのかな?」
 袁満さんは少し心配そうな声で訊くのでありました。
「と云う事は、前に電話をくれたんですかね?」
「うん、会社を辞めてちょっとしてからね」
「暫く故郷に帰っていたんですよ」
「ああ成程。会社を辞めて時間が出来たから、と云う事かな?」
 袁満さんは頑治さんの動向が知れたので、少しの危惧を払ったようでありました。
「まあ、随分帰っていなかったし、久しぶりに、と云う事です」
 頑治さんは少し快活に応答して見せるのでありました。
「ふうん。で、新しい勤め先はもう見付けたのかい?」
「いやあ、帰郷とか色々あったんで、未だ失業者の儘ですよ」
「ああ、そうなんだ」
「袁満さんの方はどうなんですか?」
「俺も未だ失業中だよ。職安で就職に有利だからって職業学校を紹介されたから、三か月程そこに通ってみようかなって思っているよ」
「へえ、なんの学校ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 723 [あなたのとりこ 25 創作]

 何となく気まずくなった雰囲気を切り裂くように、もうすぐ列車がホームに入ると云うアナウンスが頭上で響くのでありました。それから程なく列車の走行音が近付いて来るのでありました。頑治さんは徐に立ち上がるのでありました。
「じゃあ、これで」
 頑治さんは少し遅れて立ち上がった夕美さんの手を握るのでありました。
「うん、それじゃあ、・・・」
 夕美さんは応える言葉を見失ったように語尾を濁して口を噤むのでありました。
 到着した列車のドアが開くのでありました。数人の乗客が頑治さんを残して先に列車に乗り込むのでありました。
 頑治さんは夕美さんの手を、少し力を籠めて握り直してから列車に乗り込むのでありました。夕美さんが名残惜しそうに、頑治さんの離れようとする手に縋って自分の手を前に伸ばすのでありました。しかし当然、二人の手は離れるのでありました。
「また東京に行けるようになったら連絡するわ」
 ドアが閉まる間際に夕美さんが云うのでありました。返事をする少し前のタイミングで頑治さんの目の前でドアが閉まるのでありました。頑治さんは言葉の代わりに首を縦に三度程動かして、今の夕美さんの別れの言葉に応えるのでありました。
 発車のベルの後で、列車は頑治さんの思いを振り切るようにホームを滑り出すのでありました。呆気なく夕美さんの姿がドアの窓から後方へ消え去るのでありました。頑治さんの手の中に、夕美さんの寂しそうな顔の名残のように、先程夕美さんが買って手渡してくれた、既に冷感の失せた缶コーヒーが握られているのでありました。

 東京に戻った頑治さんは、この帰路が夕美さんと一緒でなかった落胆と、故郷で過ごした夕美さんとの思いでの余韻から、何となく塞ぎこんで、アパートの部屋の中に引き籠っているのでありました。本棚の上のネコのぬいぐるみが、そんな自堕落を決め込んでいる頑治さんを咎めるように見下ろしているのでありました。
 数日経って少しは体を動かす意欲が出てきた頑治さんは、気晴らしに近所にある喫茶店に出向いたり、無縁坂を通って上野迄歩いてみたり、三省堂書店や東京度書店、それに神保町の古本屋とかに足を向けるのでありました。その折に贈答社の前を通る事もあるのでありましたが、日比課長や甲斐計子女史、それに土師尾常務には出会わないのでありました。社長の車も駐車場に見当たらないのでありました。駐車場の奥の倉庫の鉄の扉も閉まった儘で、中で人が働いているような様子もないような風でありましたか。
 会社は件の四人が辞めた後も恙無く日々の業務を続けているのでありましょうか。まあそんな事は、今となっては頑治さんには関係のない事ではありますが。
 袁満さんや那間裕子女史はもう別の仕事を見付けたのでありましょうか。均目さんは恐らく片久那制作部長の下で働いているのでありましょうが、こちらも特に問題もなく新しい仕事に励んであるのでありましょうか。未だ辞めてから一月も経っていないのでありますから、そんなにすぐに色々、夫々に大きな変化はないのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 722 [あなたのとりこ 25 創作]

 夕美さんが売店に歩いて行く後ろ姿を見ながら、頑治さんはどうしたものか急にもの寂しくなるのでありました。またもやここで夕美さんの傍を離れるのは、自分の本意に明らかに反しているのではないでありましょうか。
 しかし夕美さんのお母さんの病状が優れないし、近々病院に入院する可能性もあると云う現実は、頑治さんの本意なんぞと云うものは簡単にさて置くべき重たい事態に違いないのであります。それでも尚、夕美さんの傍を離れるのが辛いと云うのなら、頑治さんが東京に戻るのを先送りして、もう少しこちらに残るしかないでありましょう。
 とは云うものの、これ以上の滞在は頑治さんの懐具合が許さないのでありました。それに宿代わりに居候させて貰っている友達にも、この上尚も厄介はかけられなと云うものであります。何ともはや実に情けない事情でありますけれど。
「何をそんな不機嫌そうな顔して遠くを眺めているの?」
 自動販売機で缶コーヒーを買って来た夕美さんが、それをやんわり手渡しながら首を傾げて頑治さんに訊くのでありました。
「何だかこれでまた暫く夕美と逢えなくなると思ったら、急に寂しくなったんだよ」
 頑治さんがそう応えると、夕美さんは缶コーヒーを受け取った頑治さんの右手を自分の右手で包むように握るのでありました。
「いっその事、こっちに戻ってくれば良いのよ」
 夕美さんは少し力を籠めて頑治さんの手を握るのでありました。「向うでの生活を切上げてこっちに生活の拠点を移せば、あたし達は逢いたい時に何時でも逢えるじゃない」
「まあ、そうだけど。・・・」
 頑治さんはそう云ってまた遠くに視線を馳せるのでありました。
 その儘黙って仕舞った頑治さんの手が何だか少し冷えたように感じたのか、夕美さんは頑治さんの手を包んでいた自分の手をそっと離すのでありました。
「東京で遣りたい事があるから、向うに未練があるるのね、頑ちゃんは」
「確かに会社を辞めたこの機が良いチャンスではあるけど、でも俺としては向うの生活をきっぱり切上げてこっちに戻って来るには、少し速すぎるような気がするんだよ」
 そう云いながらも頑治さんは一体何が早すぎるのか、自分でも茫漠としているのでありました。確かに自分は向うの生活にどう云う未練を持っていると云うのでありましょう。単に向うを切上げてこちらに戻って来ると云う事が、何やら隠遁者になるような気がして仕舞うからでありましょうか。そう云うのは何とも好い気な勘違い以上ではないでありましょうし、了見違いも甚だしいと云うのも頭の中では了解している事であります。
 単に現状に変更を加えるだけの勇気がなくて、現状にめそめそと縋り付いているだけかも知れません。度し難い現状維持派であります。
「ああご免ね、頑ちゃんには頑ちゃんの考えがあるのよね。それなのにあたしがそれをどうこう云うのは、鈍感と云うものだし筋違いよね」
 夕美さんが気を遣って、そう云って頑治さんに笑んで見せるのでありました。その笑みを見ていると頑治さんは夕美さんに対する済まなさで消えも入りそうでありました。
(続)
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あなたのとりこ 721 [あなたのとりこ 25 創作]

 この儘故郷での一時の延長として一緒に東京に帰る事が出来るのならと思うのでありましたが、それは叶わないことでありました。夕美さんのお母さんの体の具合があんまり思わしくなくて、ひょっとしたら近々病院に入院する事になるかも知れないと云う事であれば、夕美さんはこちらを気軽に離れる訳にはいかないのでありました。
 頑治さんが夕美さんとの暫しの、惜別の情に後ろ髪を引かれるような心持ちで久々の帰郷を切上げて東京に戻るその日に、夕美さんは駅まで見送りに来るのでありました。
「それじゃあ、また近い内に」
 夏の斜陽が駅の待合室の窓から差し込むのを目の上で翳した掌で遮りながら、少し沈んだ声で夕美さんが云うのでありました。
「ああ、また。向こうに帰ったらすぐに電話をするよ」
「何だか未だずうっと頑ちゃんと一緒に居たいんだけど、・・・」
「そうだな。でもまあ、今回は仕方がないかな」
 頑治さんは夕美さんの手を周りの目を憚って少し遠慮がちに握るのでありました。
「お母さんの具合次第で、今後どういう風になるのか判らないし」
「変な風に取らないで貰いたいけど、この儘長く逢えなくなる訳じゃないと思うよ」
「うん、あたしもそう長く待たない内に逢えるような気がする」
 夕美さんがこちらも遠慮がちに頑治さんの手を強く握り返すのでありました。
「俺には決して、夕美のお母さんの身の上に然程遠くなく何か良くない事が起こって、それで俺達が長く会えなくなる訳じゃない、なんて不謹慎な予感がある訳ではないよ」
「それは判っているわ」
 夕美さんは真顔で一つ頷くのでありました。「例えばお母さんの体の調子が、入院を境に急に良くなる事だってあるからとか、そう云う事でしょう?」
「そうそう。そうなったら夕美が東京に出て来る事も出来るだろうし」
「そうなると、良いわねえ」
 夕美さんのこの云い様は、何となくか細く弱々しい物腰でありましたか。
「ちょっと早いけど、そろそろ改札を入った方が良いかな」
 頑治さんは自分の腕時計を見ながら云うのでありました。
「そうね。その方が無難かしら」
 夕美さんも頑治さんの腕時計を覗き込むのでありました。「あたし入場券を買っているから、ホームまで一緒に行くわ」
 改札を抜けてから、列車が到着するのを待つ間、二人はホームにあるベンチに並んで腰を下ろすのでありました。ここの方が西日を真正面から受けるのでありました。
 ホームには頑治さんと同じ列車に乗るのであろう人達が数人、或いはベンチに腰掛けたり、或いは立って列車の来る方向をぼんやり眺めていたりしているのでありました。
「あたしそこの売店で何か買ってくるわ」
 夕美さんが立ち上がるのでありました。「飲み物は何が好い?」
「コーヒーかな。ブラックの」
(続)
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