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あなたのとりこ 671 [あなたのとりこ 23 創作]

「まあしかし、向こうがそう云う意志なら致し方ないじゃないですか」
 均目さんがやや怒ったように云い棄てるのでありました。
「結局、向こうに負けたと云う事になるな」
「勝ち負けと云う観点は、少なくとも俺にはないですね」
「あたしもそうだわ。もし負けたと云われたとしても、会社のこの先の事を考えると、そうとも云えない気もしますしね。自分の事にしたって、変な勝ち負けとかに拘るよりも、将来の新しい道の事を考える方が余程生産的だと思うし」
 那間裕子女史もどこかつんけんした様子で云うのでありました。
「会社の非道に対してどこまでも抗戦する、と云う意志は全くないのかな?」
 横瀬氏はどことなく取り成すように語気を少し柔らかくするのでありました。
「そうですね。俺達にもこれからがありますし、そちらの方が大事ですから」
 均目さんも横瀬氏の語気の変化に応じるように少し大人し目に、言葉の棘先を丸くしながらも、しかしまたあくまでも断固とした云い草で云うのでありました。
「ここに居る四人全員がそう云う意志なのかな?」
 横瀬氏は頑治さんと袁満さんを見るのでありました。
「そうですね。自分もここいら辺で心機一転、と云う気持ちです」
 頑治さんが横瀬氏に視線を向けながら頷くのでありました。
「俺一人だけで、徹底抗戦を続ける訳にもきませんし。・・・」
 袁満さんは横瀬氏を見ないで小さく頷くのでありました。頑治さんと袁満さんの反応を観察して、横瀬氏は溜息を吐くのでありました。全総連麾下の労働組合員として、何とも不甲斐ない連中だと思いなしたのでありましょう。まあしかしこちらの考えもあるし、それは見解の相違と云う事で仕様のない事だろうと頑治さんは思うのでありました。
 袁満さんは項垂れているのでありましたが、均目さんはそんなそちらの勝手な思いなしなどなんとも思わないと云うような、ふてた顔をしているのでありました。那間裕子女史も変な期待なんかして貰っても困る、と云うようにふくれ面をするのでありました。
「君達がそう云う了見なら、まあ、仕方ないけど」
 横瀬氏はここで完全に頑治さん達を見限ったようであります。こんな労働者として意識の低い連中に何か手を差し伸べたとしても結局無意味だし、時間の無駄だし、寧ろ持て余すだけだと綺麗さっぱり匙を投げることにしたのでありましょう。まあ、それはそれでこの四人にとっては心外と云う訳でも無く、返って好都合と云うものでもありますが。
「色々面倒をおかけした事に報いられないのは、大変申し訳ないと思います」
 袁満さんが殊勝な事を云って頭を下げるのでありました。袁満さんだけに謝らせるのは気の毒だから、ここは他の三人も丁寧なお辞儀をして見せるのでありました。

 全総連に報告に赴くと云う大儀な仕事を終えて、四人は些か晴れ々々と全総連本部を後にするのでありました。気が軽くなった袁満さんが、この儘帰るのは何となく面白くないから、どこかで少し話しでもしていかないかと他の三人を誘うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 672 [あなたのとりこ 23 創作]

 まあ、他の三人には特に異存はないのでありました。依って四人は神保町駅の辺りまで戻って、件の居酒屋で酒でも酌もうと一決するのでありました。
「いやあ、案外すんなりと放免してくれたなあ」
 袁満さんがビールグラスを傾けながら云うのでありました。「そんなんじゃあ、自分の面目が立たないからもう少し粘れ、とか云われるんじゃないかとビクビクしていたけど」
「粘れ、と云うのは、つまり労働争議化して会社が非を認める迄闘え、と云う事?」
 那間裕子女史が熱燗の猪口を口元に運びながら訊くのでありました。どう云うものか那間裕子女史はこのところ日本酒づいているようであります。
「そうですね。無責任に放り出さないで、少しはこっちの労に報いたらどうなんだと凄まれたらと、ビクビクして仕舞いますよ。何だかちょっと弱いところを突かれるようで」
「でも何でそんな弱気になる必要があるんですか?」
 均目さんが袁満さんにビールを注いで貰いながら訊くのでありました。
「ヤクザじゃあるまいし、施した恩に対しては相応の働きで示せとか、義理と人情を絡めてこっちに何かを要求するのは、労働組合として妥当な遣り口じゃないですよ。まあ、背後にいる政党なら、自分達の利益のためならそんな事も遣りかねないけど」
「そんな政党が背後にいるなら、全総連も同じ遣り口をしてきてもおかしくないと云うことになるんじゃないかな、均目君の後の方の云い草からすれば」
 頑治さんが、まあ別にそんなに拘る気もないのでありましたが、ちょっとばかり均目さんに反駁して見せるのでありました。
「しかし、表面上全総連はあの政党とは無関係だと云う事になっているし、あの政党の影響下にあると云う事は、どうしても隠しておく必要があるからねえ」
「しかしそれは既に公然の秘密、と云うところだろう?」
「知っている者は知っているけど、まあ、世間的には未だそう知れ渡ってはいないし」
「確かに俺もあの政党と親密な関係にある労働組合の連合体だとは、均目君に聞く迄全く知らなかったし、全総連が労働組合の元締めの一つだとはかろうじて知っていたけど、どんな性格の組織かと云う事は、今に至っても未だぼんやりしているしなあ」
 袁満さんが均目さんの言に頷くのでありました。
「巧妙に正体を隠していますからね、全総連は。と云うより、あの政党に深く関係している組織は、どんな組織でも、関連なんか全くないように偽装をしていますからね」
 均目さんは自得するように頷くのでありました。
「どうして無関係を装う必要があるんだろう?」
 袁満さんがビールをグイと呷るのでありました。
「或る方面を中心に、あの政党の歴史的悪辣さとか遣り口の汚さが知れ渡っていて、そこと関係があると云うだけで生理的に嫌悪される恐れがあるからでしょう」
「生理的に?」
「そうです。云わば不倶戴天の敵、みたいなものです」
「あの政党はそんなに酷い政党なの?」
(続)
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あなたのとりこ 673 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんが均目さんのグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「まあ、あの政党の内部では、限りなく真っ当で倫理的で強固な意志による諸政治運動、と云う事になるんでしょうけど、それが如何にも世間の常識を無視していて、遣る事為す事が独善的で、薄気味悪く胡散臭く映って仕舞うんでしょうね」
「と云う事は、世間が誤解している、と云う事もあるかな」
「いや、誤解じゃなくて本能的に判るんですよ、あの政党のヤバさが」
「でも、他の政党によくある薄汚い金の匂いはあんまりしないかな」
「党員からの苛烈なカンパの強制とか、関係団体からの凄い額の上納金なんかが、汚くない金と云うのなら、それは確かに薄汚くはないですかね」
 均目さんは皮肉に笑って見せるのでありました。「あの政党は学術会にも、ある方面の産業界にも、それに新聞社や出版社と云ったマスコミ業界にも相当食い込んでいて、色んな組織にあの政党の細胞が送り込まれて活動しているし、或る一面ではその組織を支配していると云っても良いくらいですよ。それにまたこの細胞達が、実に献身的に働くときているし、党のためなら命も要らないと云う狂信的な人間もいるくらいですからね」
「まるでこの国の深い部分で、この国を陰で支配しているみたいな云い草だな」
 袁満さんは信じられないと云った顔をするのでありました。
「ある一面では、そう云ってもそんなに大袈裟でもないでしょうね」
 均目さんはしたり顔でゆっくりビールグラスを口元に運ぶのでありました。
「しかしそんなに凄い政党なら、この国の中でもうとっくに政権でも取っていて良い筈だけど、実情としては全くそうはなっていないよなあ」
 頑治さんが話しに加わるのでありました。
「議会制民主主義を屁とも思っていないんだよ。表面の顔としては如何にも議会を尊重しているような風を装っているけど、そんなものは打倒して、あの政党の一党独裁を実は目論んでいるから、現状の議会の中で政権を取る事に然程の重きを置いていないのさ」
「そうかなあ」
 頑治さんは首を傾げて見せるのでありました。「他党との連立を指向して、議会で今の政権を打倒する事を狙っているんじゃなかったっけ、あの政党は」
「いやそれはあくまでも表向きの顔だろう。若し他党との連立が成功して政権を奪取したとしても、それが本当の狙いじゃないから、その連立の中で他党をお得意の陰謀とか策略でかき回してグチャグチャにして、その連立を結局崩壊させて、その混乱に抜け目なく乗じて、最後には一党独裁を実現しようと云う将来戦法を画策しているんだよ」
「ふうん。そうなのかねえ」
 頑治さんは懐疑的な顔で猪口の酒をグイと飲み干すのでありました。「でも、その遠大なる謀は、今に至っても未だに全く成就していない、と云う事になるね」
「あの政党の正体は、片久那制作部長がよく知っているから、聞いてみると良い」
 自説に頑治さんがまるで信頼を置いていない様子であるのが気に障るのか、均目さんはここで説の信憑性を担保するつもりで片久那制作部長の名前を出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 674 [あなたのとりこ 23 創作]

「要するに、確かにあの政党は熱烈な信奉者と強靭な後援団体を組織しているのかも知れないけど、結局はその信奉者と後援団体は全国的な、と云うか、全大衆的な広がりのあるものではなくて、ごく一部の人間と組織の塊に過ぎないと云う事なんじゃないかな」
「いやいや、あの政党は陰でこの国のあらゆる分野に根深く浸透して、色んな謀を裏で秘かに指導している、と云っても決して云い過ぎではないと思うよ」
「そうかなあ。・・・」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。「それは誇大妄想と云うのか、そう云われるのが気に入らないのなら、買い被り過ぎ、と云うものじゃないかな」
「いいや、そんなに楽観的なものじゃないよ」
 均目さんは真顔で頑治さんを見つめるのでありました。「唐目君がそう考えているのは、あの政党の怖さを未だ知らないか、巧妙なカモフラージュに騙されているんだよ」
「でもそうなら、さっきも云ったけど、もうとっくにこの国で政権を奪取していてもおかしくないんじゃないかな。しかし現実にはそうなっていないと云うのは、考えている程誇大な組織ではなくて、矢張り全体から見れば少数派だと云う事になりはしないかなあ」
「そうよね。そう云われてみれば確かに、均目君はあの政党の事を過大評価しているような気がするわ。と云うよりは過大に恐れている、と云うべきかもしれないけど」
 那間裕子女史が頑治さんの意見に同調するのでありました。
「そう云うのなら片久那制作部長によく聞いてみれば良い」
 均目さんは形勢不利と踏んで、少しつんけんした調子で云うのでありました。
「均目君はあの政党に何か実害を受けた事があるの?」
 那間裕子女史が頑治さんの酌を猪口に受けながら訊くのでありました。
「いや、俺は別にこれと云ってないけど、片久那制作部長は昔の学生運動の中で、様々嫌な思いをさせられたし、実害を蒙ったと聞いているよ」
「じゃあ、つまり均目君は片久那さんの学生時代の話しを色々聞いて、その影響であの政党が嫌いになったと云う事かしら?」
 那間裕子女史はどことなく均目さんを軽んじるような云い草をするのでありました。均目さんは咄嗟に何か云い返そうとするのでありましたが、那間裕子女史に軽んじられているらしい事に激してか、口の外に出すべき言葉を急には何も思い付かないようで、悔しそうな顔で唇を引き結んだ儘、自分のビールグラスを握り締めているのでありました。

 袁満さんが欠伸をするのでありました。頑治さんと均目さん、それに那間裕子女史も参加してのこの手の会話には殆ど無関心なようで、畢竟放ったらかしにされているような按配で、竟々欠伸の一つも出て仕舞うと云うものでありましょうか。
「そろそろお開きにしましょうか」
 頑治さんが袁満さんを思い遣ってそう提案するのでありました。
「未だ全然飲み足りていないんだけど」
 那間裕子女史が目の前の猪口を差し上げて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 675 [あなたのとりこ 23 創作]

「しかし袁満さんが退屈そうな顔をしていますし」
「ああいや、俺は別に退屈している訳じゃないよ」
 袁満さんが片手を横に振りながら云うのでありました。「昨夜はちょっと寝不足で、それでつい欠伸が出ただけだよ。三人の話しは興味深く聞かせて貰っているよ」
「ああそう。なら、もう一本徳利の追加をして良いかしら?」
 那間裕子女史が徳利の首を掴んで、それを如何にも軽そうに差し上げて横に何度か振って見せて、残量が少ない事をアピールして見せるのでありました。
「ああ勿論、どうぞ」
 袁満さんは苦笑して何度か頷いて見せるのでありました。本当のところはこの辺で切り上げたかったのでありましょうが、生来の優しさから、袁満さんは那間裕子女史の要望を聞いてあげたのでありましょう。それにこれも生来の律義さから自分一人だけ帰るとも云わずに、皆の納得いくお開き迄付き合う心算なのでありましょう。
「兎に角片久那制作部長に云わせれば、あの政党は遣る事為す事到底信頼に値しないし、自分達の魂胆のためには平気で他人を犠牲に供する事を厭わない連中で、左翼のリーダー面をしたいくせに、リーダーと認めるに値しない下劣な政党だと云う事だ」
 均目さんがまた先程の話しを蒸し返すのでありました。
「それは新左翼運動出身の片久那制作部長の意見で、穏健な議会主義に転向して、左翼運動の、或いはその延長としての革命の前衛に値しなくなった、と云う批判だろう?」
 頑治さんがその蒸し返しに乗るのでありました。「あくまで片久那制作部長は自分の信じる左翼運動の、理想的で典型的な政党はかくあらねばと云う考えとの比較の上で、あの政党に見切りを付けたのだろうし、具体的にもいろんな場面で相当の被害や妨害を受けた経験があるんだろう。それならまあ、同調はしないけど気持ちは判りはする。しかし左翼運動の経験も、シンパであると云う事も今迄聞いた事のない均目君が、片久那制作部長の云うあの政党批判に余りに無造作に乗っかると云うのは、ま、どう云うものかねえ」
「別に無造作に乗っかっている訳じゃないよ」
 均目さんは少しムキになるのでありました。「あの政党の遣る事為す事、それに考えとか聞いていると、成程片久那制作部長の批判も尤もだと思えるんだよ」
「それは少し弱いな」
 頑治さんは無表情に均目さんを見るのでありました。「その均目君の云い草には、何と云うのか、切実さと云うのか、切迫感と云うのか、そう云うものがないんだよ。あるのは、片久那制作部長に対する無条件の追従、と云ったらちょっと云い過ぎになるかな」
 頑治さんは口元を笑いに歪めて猪口を口元に運ぶのでありました。均目さんは頑治さんのその云い草が甚く気に入らなかったようで、頑治さんから不意に視線を背けて不機嫌そうにビールをグイと一口飲むのでありました。
「兎に角、俺はあの政党は嫌いだし信用ならないと思っているよ」
「お酒をもう二本、持ってきて貰えます?」
 那間裕子女史が不意に、傍にいた店員に徳利の追加を注文するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 676 [あなたのとりこ 23 創作]

 那間裕子女史としては頑治さんと均目さんの会話がちっとも面白くないし、鼻に付いてきたものだから水を差してやろうと云う魂胆で、そう云う真似をしたのだろう頑治さんは思うのでありました。それに袁満さんも如何にも退屈そうにしているのでありました。
「ま、均目君が云う程、あの政党の力は日本の各界に及んでなんかいないと云うのが実際のところで、例え政治的工作が色んな所に浸透しているとしても、矢張り全体から見ればそんなに大したものになっていない、と云うのが掛け値なしのところじゃないかな。だからと云って俺も均目君度同様、あの政党はあんまり好きにはなれないけど」
 頑治さんはこの話しをここら辺で切上げようと思ってそう云うのでありました。
「俺はもっと深刻に、あの政党の害悪を考えているけど」
 均目さんも未だ頑治さんの意見には同意しかねると云うところを表明して、ビールをグイと飲み干して、読点を打つようにグラスをテーブルの上に置くのでありました。
「それにしてもあんなにあっさりと、ウチの会社の組合解散を全総連が受け入れてくれるとは思ってもいなかったわ。もっと手古摺るんじゃないかと考えていたけど」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの話しが一段落したと踏んで、新しくきた日本酒の熱燗徳利の胴を如何にも熱そうに持って、頑治さんに差し出しながら早速話頭を変えるのでありました。頑治さんは自分の猪口を先ず飲み干してそれを受けるのでありました。
「未だ受け入れられたとは限らないよ」
 均目さんが手酌で自分のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「あたしはそう受け取ったけど?」
「そんなにもの分かりの良い政党じゃないと云う事だよ」
「政党じゃなくて、全総連の話しよ」
 那間裕子女史が未だ均目さんが先程の頑治さんとの話しに一区切りを付けていないようだと思って、少しうんざりした表情をして見せるのでありました。
「まあ、全総連はあの政党と表向きは別だと装っているけど、殆ど一体だからね」
「それはどうでも良いけど」
 那間裕子女史はぞんざいな云い草をして、均目さんのくどさに少しの不快感を表明するのでありました。「あたし達みたいな、労働運動と云うものにそれ程熱心でもない態度をとる意識の低い連中なんかは、この際だからバッサリ切って仕舞った方が清々すると考えたのかしらね。まあ、そう云う事でも別にちっとも構わないけど」
「そうでもないんじゃないかと思いますけど」
 袁満さんが首を横に振るのでありました。「確かに俺達は全総連に相談を持ち掛けた当初から、組合結成に際しても頓珍漢な事ばかりしていると思われていたかも知れませんけど、しかしそれでも手取り足取り、熱心に助力してくれたじゃないですか」
「それは、つまりあの人達の、仕事、だからじゃないの」
「まあ、ああ云う組織はオルグと云う点に於いて兎に角熱心だし、それに選挙の時には、あの政党に一票入れてくれるに違いないと云う読みもあっただろうし」
 均目さんがそう云って鼻を鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 677 [あなたのとりこ 23 創作]

「あの政党の事はもう良いわよ」
 那間裕子女史が白けたような口調で云うのでありました。
 ここで何となく宴会は盛り上がらない雰囲気になるのでありました。依って誰云うともなくその日はこれにて解散と相成るのでありました。
 居酒屋を出て均目さんとは地下鉄神保町駅の入り口辺りで別れるのでありました。袁満さんは丸ノ内線に乗って池袋方面に帰るし那間裕子女史は中央線に乗ると云うので、頑治さんを含めた三人はそぞろ歩きに錦華公園の横の坂を通り抜けて、JRの御茶ノ水駅の方に向かってくねくねと脇道を上って行くのでありました。
 那間裕子女史をJRの駅で見送り、御茶ノ水橋を渡って袁満さんは外苑通りの横断歩道付近で別れて、頑治さんは一人自分のアパートに向かってゆっくり歩を進めるのでありました。湿り気を帯びた生暖かい夜風を妙に心地悪く感じるのでありました。
 まあ考えてみれば均目さんが云うように、全総連がこうもあっさりと贈答社の組合解散を認めてくれるとは思われないのでありました。この後も何か色々面倒なすったもんだがありそうであります。頑治さんは一人溜息を吐くのでありました。

 次の日の朝、全総連の横瀬氏から袁満さんに電話がかかって来るのでありました。先ず甲斐計子女史に代われと云う指示があったようで、袁満さんは受話器を耳から外して話口を手で押さえて、甲斐計子女史を呼ぶのでありました。
「全総連の横瀬さんから、ちょっと甲斐さんに訊きたい事があるってよ」
 そう云われても甲斐計子女史の方としては、横瀬氏とは特に何の話しもないでありましょうから、女史は自分の顔を自分で指差して怪訝な表情をして、尻込みするように首を竦めて手を何度も横に振って、電話を代わる意志は全く見せないのでありました。
「何であたしに話しがあるのよ?」
 そう訊かれてあんまり察しの良い方ではない袁満さんは、そう云えばどうしてだろうと考えてもう一度受話器を耳に押し当てて、横瀬氏に要件を訊き質すのでありました。
「組合の存続の件で、会社に残る組合員である甲斐さんに確認したいんだそうだよ」
「そりゃあ会社に残るけど、組合を続ける気なんかないわよ、あたしは」
 甲斐計子女史は憮然とそう云うのでありました。
「その辺の確認を直接したいんだろう、横瀬さんは」
「別に出る気はないわよ、そんな電話に。適当に云っておいてよ」
「いやまあ、そんなに変な警戒をして避けなくても、甲斐さん一人で組合を遣る気があるのか、それともここで組合とは一切関わらない心算なのかを、甲斐さんの口から直接、聞き質したいだけなんじゃないかな横瀬さんとしては」
「そんな事決まっているじゃない。嫌よあたしは、組合とこれ以上関わるのは」
「だから、その辺を直接聞きたいんじゃないの」
「直接も何もあたしは出ないからね。袁満君が適当に云っておいてよ」
 これはもう取り付く島もない云い草でありました。
(続)
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あなたのとりこ 678 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんは甲斐計子女史から目を離して、小さく舌打ちしてから気を取り直すように、ゆっくりとした手付きで再び受話器を耳に宛がうのでありました。
「甲斐さんは電話に出たくないそうです」
 そう受話器に向かって話す袁満さんを、甲斐計子女史は険しい目付きをして睨むのでありました。確かに出たくないのはその通りだけども、先方に対してもそっと無難な無愛想でない云い方はないのか、と云った恨みがましさがあるのでありましょう。
 甲斐計子女史はその後、その通りですね、とか、いや嫌悪している訳ではないと思いますが、とか、要するにそう云う労働問題とかに本人は至って無関心な方で、とか云う袁満さんを観察しながら、袁満さんと横瀬氏とで話されている電話の内容が、どうやら自分に変なお鉢が回って来る事なく決着しそうな具合であるらしい事に、胸を撫で下ろすのでありました。辞職四人組のお蔭で気分が陰鬱になるような、本来、これ迄の人生で毛の先程も興味のない面倒が自分に回ってくるのは、それは確かにひどい災難でありましょう。
「もうあたしは向うと話さなくて良いのね?」
 甲斐計子女史は袁満さんが電話を切った後に念のため確認するのでありました。
「ああ、もうその件は片が付いたよ」
 袁満さんは不機嫌そうに一つ頷いて見せるのでありました。ただ後で訊くと更にもう一度しっかり確認したい事があるから、その日の夕方に委員長の袁満さんと書記の那間裕子女史に、全総連の本部迄来てくれないかと云う依頼があったのでありました。
「また今日も行くの?」
 それを聞いた那間裕子女史は心底げんなりしたように云うのでありました。
「何か再度確認したい事項があると云うんですよ」
 袁満さんは些か遠慮気味の口調で返すのでありましたが、それは何だか、那間裕子女史に悪い事をしているような気がしたためでありますか。当然の事として、別に袁満さんは女史に対して済まなく思うべき何事もないのであります。まあそれは、不愉快そうな云い草をした那間裕子女史の方もそれは重々判ってはいる事ではありましょうけれど。
「今更何を確認したい事があるって云うの。あたし達四人はこの会社を辞める事になったんだし、甲斐さんは組合活動を続ける気はないんだし、それで充分組合の件はもう決着した訳じゃないの。確認したい事ってそれ以上一体何があると云うのよ」
「要するに俺達に辞意を撤回させて、労働争議を継続しろと指嗾するのが目的だろう」
 均目さんがそう云って口の端に笑いを作るのでありました。
「冗談じゃないわ。労働争議の継続より会社を辞める方が優先よ」
 那間裕子女史は憤慨するのでありました。
「勿論、俺達の誰もが労働争議の継続なんかご免ですよ」
 袁満さんも同じく怒りを表するのでありました。
「それでも向うは、何だかんだと辞意撤回の方向に教導したいんでしょう」
 均目さんはどこか他人事のように云うのでありました。
「ああもう、気が滅入って来たよ」
(続)
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