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あなたのとりこ 241 [あなたのとりこ 9 創作]

 山尾主任は営業部に所属と云う事で営業部フロアの日比課長の隣の、ずっと空いていた席に移ったのでありました。そこは営業部関連の書類やバインダー立て、それに事務書類作成用のワープロ等が載せてあった机でありました。
 その書類とかバインダーとかワープロは甲斐計子女史の向いの、頑治さんの座っていた席に移され、頑治さんは制作部フロアの均目さんが使っていた机を宛てがわれるのでありました。山尾主任が使っていた席には均目さんが移ったのでありました。
 序列的には那間裕子女史が山尾主任の居た席に、均目さんが那間裕子女史の席に順繰りに移るのが順当な移動と云うところでありましょうが、那間裕子女史がこれ迄ずっと整理整頓する事も無く乱雑に、一種手当たり次第と云った按配に押し込んでいた自分の使っていた机の引き出しの中の物を全部出して、新たに山尾主任の席に移動する雑作を拒否したためにそうなったと云う次第でありました。頑治さんがチラと窺った感じでも、確かに手が付けられないと云った那間裕子女史の引き出しの中の在り様でありましたか。
 頑治さんは制作部の仕事も手掛けるようになっていたから、頑治さんの制作部フロアへの移動はあり得る自然な処置でありましょうか。頑治さんとしても土師尾営業部長の顔を間近に見ないで済むのは大歓迎でありましたし、下らない用事を気軽に云い付けられたしする事が無くなるのも大助かりでありました。発送指示書を、頑治さんの制作部の机迄持って来なければならなくなった甲斐計子女史の手間は増えるのでありましたけれど。
 山尾主任はこのところ出社後すぐに日比課長と打ち合わせして、挨拶旁、日比課長に付いて一日中得意先回りをするのが日課なのでありました。制作部の頃から然程人付き合いに熟れていると云う風ではなく、どちらかと云うと人よりモノを相手にコツコツ仕事をする方が性に合っているタイプでありましたから一日中、少しは見知った、或いは全く見知らぬ初対面の誰彼と会話を交わすのは不慣れで気の重い仕事でありましょう。
 その気疲れからか、夕方になってようやく帰社した山尾主任の顔はげんなりしたように見えるのでありました。制作の仕事を熟知している営業マンとして期待していると片久那制作部長に指嗾されて、一大決心をして営業部に移ったと云うけれど、頑治さんには矢張りその仕事は山尾主任には向いていないように思えるのでありました。
 どういう風の吹き回しか、他の営業社員の仕事振りには殆ど何の関心も示さない土師尾営業部長が山尾主任の帰りを待ち構えていて、あれこれとその日逢った人物やら訪問した成果やらを三十分程差しで訊き糺そうとするのも、山尾主任にはかなりの負担のようでありました。ただ論評抜きに報告を受けるだけなら未だしも、山尾主任の先方への名刺の渡し方の迂闊さやら、言葉遣いの不備やら、お辞儀の腰の折り方の角度なんぞ迄何やかやとイチャモンを付けるようなので、それはもう可哀想と云うべきものであります。
 不慣れな者を相手にその不手際を嵩にかかって責め立てて居竦ませて楽しんでいるみたいだと、日比課長も、まあ、土師尾営業部長の居ない場でではありますが吐き捨てるくらいでありました。頑治さんは成程あの土師尾営業部長の遣りそうな事だと思うのでありました。そのくせ当人が片久那制作部長程に人の意を酌む事に長けているとか、表面的な慇懃さだけではない慇懃さを持ち合わせているとは到底思えないのでありますけれど。
(続)
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あなたのとりこ 242 [あなたのとりこ 9 創作]

 山尾主任が冴えない顔色であるのは、仕事の事もそうでありますが、私事に於いても何事か問題を抱えているようにも頑治さんには思えるのでありました。しかしまあこれは頑治さんの勘と云う域からは出ないのでありましたが。
 如何にも新婚の隠せない浮付きが、山尾主任の言動に全く見られないのでありました。しかも照れて敢えて隠していると云うのでもなさそうな気配であります。目算違いと云うのか、順調に結婚まで事を運んだけれど、いざ結婚してみたら当初の目論見と何か齟齬があると云った戸惑いが、素直な喜びの手足を縛っていると云った感じと云うのか。
 均目さんに依れば、山尾主任は自分の頭の中で、あるべき理想の結婚生活風景を描いていたのだけれど、必ずしもそうはいかない現実を前に調子が狂ったのだろうと云う事でありました。云われてみれば確かに、山尾主任には理想主義者の横顔があって、了見を現実に合わせて変容させる生活者的な能力はあんまり高くはなさそうでありますか。
 しかしまるっきり融通の利かない理想主義者、と云う訳ではなく、それなりに功利的で妥協的なリアリストの側面も持ってはいると思われもするのであります。そうでなければ第一、極めて現実的な形態である結婚と云う形式を選択しはしないでありましょうし。まあ、山尾主任の顔付きに於いて、理想主義者とリアリストのどちらの側面が優勢か選べと云われると、それはもうすぐに理想主義者の方を指差す事になりはしますけれど。
 その辺のモヤモヤが山尾主任の顔色を冴えさせない原因と均目さんは見ているようでありましたが、那間裕子女史は少し違った見解のようでありました。
「何かふとした切っ掛けがあったのよ」
 那間裕子女史は確信あり気に頷くのでありました。「別にどうと云う事でもない些細な切っ掛けみたいなんだけど、でも実は大きな気掛かりになるのよ、そう云うものが」
「小難しくて何だか良く判りませんが」
 頑治さんは鈍そうに笑って見せるのでありました。那間裕子女史はそんな頑治さんを度し難い鈍附でも見るような目で眺め遣るのでありました。
「判らない? これこれこうと云うはっきりした理由ではないのよ。でも、まあ、ちょっとした感受性の誤動作みたいな事がふと起こって、何気ない相手の所作や、何でもない表情とか、例えば咳の仕方とか息を吸い込む時に偶々鼻が鳴ったとか、顎に一本髭が剃り残してあるとか、笑う時に出来る目尻の皺の様子とか、そんなのが急に気に障るような、そんな決定的に見えないけど決定的な何事かがあったかも知れないと云う事よ」
「山尾主任の相手さんだから、髭の剃り残しと云うのはないでしょうが」
 頑治さんは別に混ぜっ返す心算ではないながらそんな事を云い返すのでありました。
「まあ、髭の例はあたしが女だからうっかり云っちゃっただけ」
 那間裕子女史は訂正して、それは兎も角も自分の云っている事が理解出来るか、と問うように小首を傾げて頑治さんの目をじっと見るのでありました。
「つまり不条理と云うやつですかね」
「あっさり大袈裟に云って仕舞うと、そう云う風に云えるかな」
「なかなか詩的な理由ではあるけれど、俺には何かちょっと腑に落ちないですかね」
(続)
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あなたのとりこ 243 [あなたのとりこ 9 創作]

「如何にも普遍妥当で尤もらしくは聞こえないから?」
「そうですね。情緒的過ぎると云うのか。それに第一山尾主任の相手さんの顔とか性格とか、生まれ育ちとか、色んな事をこちらは何も知らないんだけど、先ずはその辺から探る方が、山尾主任の不機嫌の原因に迫る方法としては常道かなと思いますがね」
 頑治さんはそう云いながらも、今迄山尾主任が努めてその結婚相手の事を会社の同僚にも話そうとはしなかったのだし、これから先も会わせてくれる気配は殆ど無さそうな按配である以上、その彼女の顔も性格も生まれも育ちも、自分達にはさっぱり知る術も無いかと考えるのでありました。山尾主任の妙に依怙地で頑固で恥ずかしがり屋なところが、彼女の事を傍に喋りたがらない主因ではありましょうが、しかしそれ以外にも何か、秘匿すべき事情でもあるのでありましょうか。まあ、無さそうな感じではありますけれど。

 均目さんの理想主義とのギャップ説、那間裕子女史の不条理説以外に、袁満さんはこのところの仕事や生活の激変に依る体調不良説を唱えるのでありました。最近接触の増えた日比課長に到っては、夜の生活が上手くいかないのかも知れないと云う些か下衆っぽい性的不適合説を、半分面白がりながら口に上せるのでありました。出雲さんは全く斟酌不能と云う困惑の態度でありました。そんな、本人ならぬ者のある意味で勝手で無責任な諸説に囲まれながら、しかし山尾主任の仏頂面は益々その色を深めていくのでありました。
「相当参っているんじゃないかな、山尾主任は」
 二人で昼食後に喫茶店でコーヒーを飲みながら残りの休み時間を潰している時に、均目さんが頑治さんに少しばかり眉間に皺を寄せて云うのでありました。
「そうだなあ。このところ口数がグッと減ったかな」
「何か頬も随分こけたように思うし、顔色も良くない」
 均目さんは自分の頬をへこませて顎を掴んで見せるのでありました。
「本気で心配になって来るな、ああなると」
「仕事が上手くいっていないのは何となく察するけど」
「矢張り山尾主任は営業には向かない人なんだろうなあ」
 頑治さんは手にしていたコーヒーカップを、閉ざした口の前で静止させて暫し気持ちが内向するような目付きをするのでありました。
「相手のお喋りに調子よく合わせる事が苦手で、どちらかと云うと自分の話題に固守する嫌いが元々あったから、営業会話がぎくしゃくして上手く成立しないんだろうな」
 山尾主任は言葉の遣り取りの流れを無視して、何をさて置いても自分の興味の向いている話題だけに場の会話を誘導しようとする、と云った強引なところは無いのではありますが、話しの中身が興味の薄いものであると無表情に口を閉ざして会話から外れようとする傾向があるのでありました。一種の遠慮からそんな風にしているのかも知れませんが、それは傍から見ると如何にも無愛想で興醒めな態度と映る事もあるのでありました。俺は不器用だから人と上手く調子を合わせられない、と山尾主任自らそう自嘲的にものすところを見ると、そう云う面がある事を当人自身も充分承知しているようでもありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 244 [あなたのとりこ 9 創作]

「会話がぎくしゃくしてもそれを屁とも思わないあっけらかんとしたところがあれば、場の空気はそう重くはならないんだろうけど、山尾主任はそう云うタイプでもないし」
 頑治さんはここでようやくコーヒーカップを唇に当てるのでありました。
「片久那制作部長に唆されて営業に移ったけど、矢張り無理があったと云うしかない」
 均目さんは口に当てたカップを急角度に傾けてコーヒーを飲み干すのでありました。
「片久那制作部長は何かフォローしないんだろうか」
「しないだろう」
 均目さんが顔の前でコーヒーカップを小さく何度か横に振るのでありました。「好都合にも制作部から追い出したんだから、後は自分の知ったこっちゃないだろうな」
「何か冷たいな」
「大体がそう云う人だよ。気に入らないヤツとか有用と思われない人間に対しては、びっくりするくらい冷淡で過酷な真似をする時がある」
「それにしちゃあ土師尾営業緒部長や社長に対しては控え目だよな」
 こう云いながら頑治さんはこの後に、別に土師尾営業部長や社長が有用でない人と云う心算は毛頭無いけれど、と続けようとして続けないのでありました。
「控え目と云うのはその人間に対して無関心と云う事さ。社長には、一応誰彼は別にしてその役職に対しては敬意を払うと云うスタンスかな。後は経営者として臍を曲げられると現実的に拙いから無難に接していると云う都合もあるんだろうけど」
「まあ確かに土師尾営業部長に接する態度は、とても敬意のある接し方とは見えないけれどね。こっちも一応無難な線で納めてはいるようだけど」
「そう云う事、そう云う事」
 均目さんはコーヒーカップを受け皿にやや騒がしい音を立てて戻すのでありました。
「そうなると山尾主任は、元の上司である片久那制作部長のこの先の後援も期待出来ないと云う事になる訳か。益々山尾主任の頬はこけるな、これでは」
 頑治さんは眉根を寄せて見せるのでありました。「ところで、最近接触の増えた日比課長はどんな立ち位置なんだろうか、山尾主任に対して」
「こちらも後援と云うところでは期待薄だろうな。日比課長は元々山尾主任のような融通の利かない、日比課長流の冗談の通じないタイプは苦手にしているからなあ」
「確かにタイプが全く違うかな」
「山尾主任の夕方の儀式になっている土師尾営業部長との差しでの打ち合わせの時、山尾主任が何か仔細な事で土師尾営業部長のお小言を頂戴している時も、日比課長は自分にお鉢が回って来るのを警戒してか、全く我関せずのつれない態度だからなあ」
「すっかり孤立無援状態と云う訳か」
 頑治さんは一層眉根を寄せるのでありました。これはもう、頬もこければ口数も減るでありましょう。頑治さんは同情を禁じ得ないのでありましたが、かと云って歳下で新参者で部署も違う自分が手助けする術は特には無いし、励ましの言葉を掛けると云うのも身の程知らずに烏滸がましくて、或る意味不謹慎と云うものもでもあるでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 245 [あなたのとりこ 9 創作]

 これは憶測ではありますが、晴れがましい筈の新婚生活も何か上手くいっていない様子であるし、仕事の方も新しい職種に変わって心機一転と云う目算もどこか歯車の狂いが生じているとなると、山尾主任は次第に追い詰められたような気になって仕舞うのではないでありましょうか。その内自棄を起こさないか心配でありますが、山尾主任はどちらかと云うと短気の方だし、楽天的と云う訳でもないから心配はいや増すばかりであります。
 山尾主任ばかりではなく今のところ具体的な動きは保留中と云う感じでありますが、出雲さんも新しい仕事が動き出したら、山尾主任と同じ困惑と焦燥が待ち受けているのかも知れません。まあ、こちらの方は山尾主任よりは諸事呑気なタイプではありますが。
 また、今迄二人でやっていた仕事を一人で熟さなければならなくなった袁満さんも、大変な思いでありましょう。幾ら出雲さんよりももっと呑気な方だとしても。

 組合結成準備会議の席でも山尾主任は精力的ではなくなっているのでありました。今迄は会議を積極的にリードしてきたと云うのに、気も漫ろと云う事ではないのでありましょうが、万事に自信を失くしている所為か発言数も妙に控え目なのでありました。
 職種に関わり無く同一年齢同一賃金と云う採択された方針の下、その体系を保証する新たな賃金式の策定を話し合っている時、最近頓に元気が無いのを気遣ってなのか、均目さんが山尾主任に敢えて発言を求めるのでありました。
「今大体詰められた案として、十八歳で十七万円として一歳増える毎の年齢加算を六千円とする案で、山尾主任は基本給の賃金式は妥当だと思いますか?」
 机上の資料に、肩を窄めて何となく気弱そうな風情で目を落としていた山尾主任は、そう訊かれて生気の無い陰鬱そうな顔をゆっくり起こすのでありました。
「この前から気になっていたけど均目君、その、山尾主任、と云う云い方は止してくれるかなあ。俺はもう制作部の主任じゃないんだから、その呼び方は不本意だなあ」
「でも主任手当は今まで通り給料に付いているし、それに俺としては名前に、主任、と付けた方が、さん、付けなんかより余程しっくりいくし」
 均目さんは均目さんなりの一種の励ましからか笑いながら逆らうのでありましたが、その反応として山尾主任が眉根を寄せて気弱そうなげんなり顔をするのを見て、均目さんは気後れたのかすぐに言を改めるのでありました。「まあそう云われるのなら今後は、さん、付けに切り替えますが、慣れるまではうっかり山尾主任、と云うかも知れませんよ」
 山尾主任はこの均目さんの言葉に力ない笑い顔で応えるのでありました。
「ええと、賃金式だよね」
 山尾主任は均目さんから求められた意見に復帰するために、もう一度机上の資料に目を落とすのでありました。「そうすると例えば、日比さんの方が片久那制作部長や土師尾営業部長より基本給は多いと云う事になるよね。それに甲斐さんも両部長と同じ額になる」
「それは不都合ですかね」
「両部長が納得しないんじゃないかな、それではとても」
「でも役職手当に依って総額で差を出す事は出来ますが」
(続)
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あなたのとりこ 246 [あなたのとりこ 9 創作]

「技術的にはそうかも知れないけど、それにしたって面白くないだろうよ」
「良いじゃないですか。ざまあ見ろ、ですよ」
 袁満さんが嘲りの言葉を以て話しに加わるのでありました。
「確かに袁満君の留飲は下がるとしても、それじゃあとても飲めないと云うんで俺達と両尾部長の間に険悪な対立が生じるだろうな」
 山尾主任はそう反論するのでありましたが、これは片久那制作部長の腹の内を慮っての事でありましょう。土師尾営業部長の方は憤怒が心頭に発したとしても、高々陰湿で当て付けがましい嫌がらせに出るだけでありましょうし、そうなれば全総連のバックを頼みにその理不尽を根気強く、当人と同じ執拗さでこちらが追及すれば何とかあしらう事は出来そうな気もするのであります。まあ、あれこれあの人と言葉を遣り取りするのはげんなりでありますが、しかし遣り込められない事はないでありましょう。土師尾営業部長てえ人は、根っ子のところで性根の据わった硬骨の仁では全くないでありましょうから。
 しかし片久那制作部長は絶対に侮れないのであります。臍を曲げられたら従業員の誰一人としてその論にも手口にも迫力にも、到底太刀打ちする事は出来ないでありましょう。怒らせた時の恐ろしさは想像するだけで身の縮む思いと云うところでありますか。
 しかししかし、一面で、片久那制作部長は土師尾営業部長と違って理を尊ぶ人でもあります。それに我利に走るのを、或いは我利に走っていると人に思われるのを潔しとしない義侠の心根も持ち合わせていると云う辺りのが、救いと云えば救いでありましょうか。その片久那制作部長の義侠心が、同一年齢同一賃金、とか、働く者の自主権、とかの理に多少でも共鳴すれば、何が何でもの抵抗と報復は無いとも思われるのであります。
 それに片久那制作部長は学生時代に全共闘運動に没頭したと云う事でもありますから、その左翼的心情に於いて、経営側よりは労働者側により強く思いを寄せると云う期待もあるのであります。まあこの了見は楽観中の楽観かも知れませんけれど。
 しかししかししかし、片久那制作部長は自分一人が会社を実質的に動かし支えていると云う強い自負があるだろうから、その思いとの兼ね合いで、如何なる態度に出て来るかは全く以って未知数と云うところでありますか。労働組合結成と云う行為が片久那制作部長のプライドに反旗を翻す行為と見做されない事を祈るのみであります。
「確かに土師尾営業部長の方はどうでも良いけど、片久那制作部長を敵に回すのは何とか避けたいよなあ。後の報復が怖そうだしなあ」
 袁満さんが身を縮める仕草をして見せるのでありました。
「その片久那と云う名前の制作部長は、労働運動とかに多少は理解がある人だと云う風に前に聞いていたけれど?」
 横瀬氏が山尾主任の顔を見ながら云うのでありました。
「昔は全共闘運動の闘士だった訳ですから」
 山尾主任がそうは云うものの、それ以上の事は不祥、と云う曖昧な表情を作って一応肯うのでありました。まあ多分、片久那制作部長が学生時代に全共闘運動の闘士だったと云う情報は、山尾主任が横瀬氏に何かの折に齎したものなのでありましょうけれど。
(続)
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あなたのとりこ 247 [あなたのとりこ 9 創作]

「全共闘、かあ」
 これは派江貫氏の言でありました。何となく、シンパシーを感じられないと云った語調でありましたか。同じ左翼的な考えの人だと思うのでありますが、派江貫氏は嘗てあった全共闘運動をあんまり評価していない風でありました。その理由は特にはここで誰も聞かないのでありましたし、派江貫氏もその後に全共闘運動に対する論評を続ける意思は無さそうでありましたが、頑治さんはその派江貫氏の言に呼応して横瀬氏がニヤリと笑ったのが少し気になるのでありました。派江貫氏に同調する気持ちを表わす笑いのようでありますが、と云う事は横瀬氏も全共闘運動には批判的な立場と云う事でありましょうか。
「でもまあ、我々としてはすっきりした賃金体系を会社の中に確立さっせなければ、労働組合を創る意味は無いと云う事になるんじゃないかな」
 均目さんが力説するのでありました。
「それはその通りね。そうじゃないならあたし達は個別に、片久那さんなり土師尾さんなりと自分に見合う賃金の交渉をするしかないものね」
 那間裕子女史が均目さんに調子を合わせるような意見をものすのでありました。
「え、個別に交渉するんですか」
 袁満さんが及び腰を見せるのでありました。
「だから労働組合を創って団体交渉、と云う訳ですよ。ここで私が今更改めて、こんな応答をするのも何だか間抜けな感じがしますけどね」
 横瀬氏が袁満さんを見ながら少し皮肉っぽい感じで言葉を挟むのでありました。
「ああ、成程ね」
 横瀬氏が億劫そうな口調である謂いを殆ど意に介さず、袁満さんは素直に頷いて、一先ず個別交渉は無さそうな様子に無邪気に安堵するのでありました。
「山尾主任、片久那制作部長がムクれないような方策は何かありますかね?」
 均目さんが山尾主任に水を向けるのでありました。
「要するに役職手当で納得して貰うしかないんじゃないの」
 山尾主任が口を開く前に那間裕子女史がしゃしゃり出るのでありました。
「山尾主任もそう思いますか?」
 均目さんが山尾主任にもう一度考えの表明を促すのでありました。
「俺もそれしか考え付かないなあ」
「役職手当が多ければそれは基準内賃金に含まれるから一時金も高くなるし、基準内賃金が高いと云う事は時給も高くなるんだから、残業手当の計算でも有利になる訳よね」
 那間裕子女史がここでも山尾主任の前に嘴を開くのでありました。
「どうです、山尾主任?」
 均目さんはあくまで山尾主任の方に訊ねるのでありました。
「那間さんの云う通りかな」
 山尾主任はそう云って頷くだけでありました。何やら均目さんが山尾主任に代わって、この会議の進行役をやっているような按配だなと頑治さんは思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 248 [あなたのとりこ 9 創作]

「しかし抑々役職手当なるものは本来、労働組合の側がその手当額を決められるものではなくて、経営側に決定権があるものなんじゃないですかね」
 これは頑治さんの疑問でありましたが、向けられる先は山尾主任の顔でありました。
「でもまあ、役職手当が基準内に入っているのなら口出しは出来るんじゃないの」
 ここでも矢張り那間裕子女史が山尾主任より先に口を開くのでありました。那間裕子女史はなかなか均目さんや頑治さんの意を酌んでくれないようであります。
「大体、基準内賃金には基本給にプラスして、家族手当とか住宅手当とかが入って来るのが妥当なように思えるけどね。一般的にそうではないんですか?」
 那間裕子女史が横瀬氏に訊ねるのでありました。
「まあ、一概にそうとも云えませんけどね。会社に依って様々ですよ。しかし役職手当よりは家族手当なんかの方が、多くの従業員に恩恵があるとは云えますけど」
「基準内に役職手当が入らなければ、土師尾営業部長や片久那制作部長の納得を到底得られないんじゃないかな。そうじゃないとあの二人の基準内賃金がガクンと減るから」
 これは袁満さんの懸念表明でありました。袁満さんは両部長に吠え面をかかせて遣りたいと願う反面、若しそれで臍を曲げられて、先々土師尾営業部長に見境の無い報復にでも出てこられるのは大いに億劫で、尚且つ恐怖にも思っているようであります。
「山尾さんの主任手当も含まれない事になるし」
 那間裕子女史が山尾主任の方に顔を向けるのでありました。
「でも、主任の役職手当は四千円だけど、山尾主任は今般結婚したんで妻の家族手当がその分付くよ。妻の家族手当は確か八千円だから、増えると云う事になるな」
 均目さんが訂正するのでありました。
「ああそうか」
 那間裕子女史はあっさり納得するのでありました。「じゃあ、山尾さんの場合は、役職手当よりも家族手当が付いた方がお得な訳ね」
「俺は別にどっちでも良いよ」
 山尾主任は自分だけ役職手当を貰っている事を後ろめたく考えてか、或いはここに居る五人の中で自分だけに家族手当が付く事を恐縮してか、はたまた本当にどうでも良いと云う了見なのか、何となく捨て鉢な語調で曖昧に意思表明しないのでありました。
「まあ、営業部長は兎も角として制作部長の賛同を狙うなら、ここは矢張り役職手当を基準内に入れるのが妥当な線じゃないですかねえ」
 横瀬氏が纏めようとしてかそうアドバイスするのでありました。
「こうなったら役職手当も家族手当も両方含めて仕舞えば良いんじゃないですか。ま、どっちにしても俺に関係無い事になるけど」
 袁満さんが横瀬氏の意を酌まないでそんな事を云い出すのでありました。
「社長が絶対納得しませんよ。両部長にしたって緊縮財政方針を打ち出しているんだし、それでは方針と矛盾する事になるから体裁として絶対飲まないんじゃないですか」
 均目さんが云うその口調は袁満さんをあしらうような感じでありました。
(続)
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あなたのとりこ 249 [あなたのとりこ 9 創作]

「じゃあ、基準内賃金は基本給プラス役職手当、と云う事で全従業員の賃金式や時給額、それに夏の一時金の額を弾き出すとして、それは均目君にお願いしても良いかな?」
 山尾主任が役目を均目さんに投げるのでありました。山尾主任はこれ迄なら自分が率先してある意味嬉々としてそう云う仕事を買って出ていたのでありましたが、これは均目さんに任せる意向のようであります。こんな辺りがここに来て山尾主任が組合結成活動に、或いはもっと云えばその他の諸事に対しても、急速に冷えたのではないかと思わせるところかなと、頑治さんは山尾主任に向かって気掛かりの眼差しを送るのでありました。

 ある時均目さんが、山尾主任の結婚が危機にあるらしいと云う情報を頑治さんに齎すのでありました。倉庫で偶々二人になった折、均目さんが他に誰も居ないにもかかわらず声を潜めて梱包作業をしている頑治さんに話し掛けるのでありました。
「旅行から帰って以来、予想通りどうも上手くいっていないようだぜ、山尾主任は」
 それだけ聞いて頑治さんは結婚の事とピンときたのでありましたが、恍けて鈍そうに何の話しだか判らないと云った表情で均目さんに視線を送るのでありました。
「それは仕事に行き詰っていると云う話しかい?」
「それもそうだけど、新妻さんとどうもしっくりいっていないらしい」
 何となくそう云うところがあるのかなと云う推察を、何処と云ってはっきりした兆しも何も無いのでありますが、頑治さんは前からしていたのは件の如しでありました。
「山尾主任が自分でそんな事を漏らしたのかい?」
「うん。この前或る紙加工会社の大々的な創立二十周年パーティーがあって、片久那制作部長は態々行きたくないらしくて、命令に依り二人で金一封を持って代参したんだ。その帰りに飲もうかって事になって、山尾主任と二人で上野の居酒屋に入ったんだ」
「へえ。山尾主任と均目君の取り合わせは珍しいんじゃないの?」
「そうね、二人だけで飲んだのは初めてかな。あんまり話しが合う方じゃないと思っていたから、こちらから誘う事も無かったし、向こうも同じだろう」
「ふうん。で、その席で新妻さんと上手くいっていないと云う話しが出たのかい?」
「そうだね。そんな事はこっちとしたらあんまり聞きたくはなかったけど、会話の流れからそんな話題になっちゃってね。ちょっと内心げんなりだったけど」
 均目さんは顰め面をして見せるのでありました。
「何でまた、上手くいっていないって云うんだろう」
 頑治さんは梱包作業の手を止めて均目さんに訊ねるのでありました。
「それが、これと云って決定的な理由は特に無いらしいんだよ」
「何となく感触として上手くいかない、と云うのかな」
「そうね。結構期待に満ちて結婚してみたものの、何処かのタイミングでちょっとした気持ちの行き違いか何かがあって、歯車の噛み合わせが微妙にズレて、関係がギクシャクしてきた、みたいな事を云っていたかな。言葉は正確な再現ではないけど」
「ふうん。歯車の噛み合わせ、ねえ」
(続)
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あなたのとりこ 250 [あなたのとりこ 9 創作]

「歯車の噛み合わせ、と云うのは間違いなく山尾主任の使った言葉だ」
 そう云えば以前に均目さんも那間裕子女史も、グアム島での結婚旅行から帰って来た早々の山尾主任の、無表情ながらもその下に隠れているかも知れない浮かない気分を察して、均目さんは理想主義と現実とのギャップ説、那間裕子女史は不条理説を頑治さんの前に披露してくれたのでありました。上手くいかないけれど決定的な理由が特に無い、と云うのもそうでありますが、歯車の噛み合わせ、と云う、使われたレトリックの象徴性からも、ここは那間裕子女史の不条理説に近いのかなと頑治さんは考えるのでありました。
「前に均目君や那間さんが感じて危惧していた通りの事が起こっているみたいだな」
「ま、そうね」
 均目さんは深刻顔で頷くのでありましたが、反面、自分の洞察が見事的中した事に、少しの誇らかな満足を覚えているような不謹慎も仄見えるのでありました。
「確かに最近頓にどこか悩んでいるような気配があったけど、仕事だけじゃなくて私生活の方でも色々と気苦労があったんだなあ」
「上手くいかない時は全部重なって上手くいかないものらしい」
 均目さんは箴言めいた事を口にしてしかつめ顔で頷くのでありました。
「勿論、山尾主任はそう云う状態を打開しようとしているんだろう?」
「どうなんだろうかねえ」
 均目さんは懐疑的な表情をするのでありました。「手をこまねいていると云うんじゃないだろうけど、何か積極的に動こうとしている様子は無さそうだなあ。焦ってはいるんだろうけど、どうして良いのか方策が見当たらないと云った感じかな」
「そんなもの、二人で腹を割って話し合うしかないじゃないか」
 と頑治さんは少し強い語調で云うのでありましたが、こう云う云い方は如何にも傍観者の、様々な辺りに思いを致さない無責任な暴言のようだと自分で思うのでありました。
「山尾主任にそれが出来れば、もっと前に危機は回避出来ただろうよ」
「まあ、それもそうだけど」
 頑治さんは語気を落として悄気たように云うのでありました。

 それから暫く経った或る日、また均目さんが倉庫に遣って来るのでありました。
「何か知らないけど、山尾主任の新妻さんが竟に家を出たらしいぜ」
「家を出た?」
 頑治さんはやっていた作業の手を止めるのでありました。
「この前の上野の居酒屋以来気を許したのか、相談がてら時々結婚生活の事を俺に知らせてくれるんだけど、今朝偶々片久那制作部長が未だ出社していなくて、俺と山尾主任しかいない時にそんな事をさらりと教えてくれたんだ。すぐに片久那制作部長が来たんでそれっきり話しは途切れたけどね。勿論那間さんは遅刻常習犯だから居なかった訳だが」
 この際那間裕子女史の遅刻は置くとして、竟に迎えるべき結果を迎えたと云ったところでありましょうが、頑治さんは少なからずの動揺を覚えるのでありました・。
(続)
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あなたのとりこ 251 [あなたのとりこ 9 創作]

「結局山尾主任は何の方策も打てなかったのかな」
「いやそうでもない、と云えばそうでもないしけど、・・・」
 均目さんは言葉を中断して、困惑気に何度か目を瞬いて、何故かその先を続けるのを躊躇うような気配を見せるのでありました。
「何かしらの手は勿論打ったんだろうなあ」
「手を打ったと云うのは適切な表現じゃないかな」
 均目さんは再度この先を続けて良いものかどうか少し躊躇うように、一拍の間を置くのでありました。「大いに悩んで考えた方策と云うのが、まあ、何と云うのか。・・・」
「何だよ、思わせぶりだな。で、山尾主任はどんな対処をしたんだい?」
 頑治さんは先をせっつくのでありました。
「山に行ったんだ」
「ふうん。二人で山に登った訳か」
 頑治さんは、山尾主任は新妻さんと二人で共通の趣味である山登りをして、何時もとはガラっと違う環境で二人でじっくり話しをして、関係を修復しようとしたのだろうと咄嗟に考えたのでありました。しかしどうやらそんな訳ではないのでありました。
「いや、山尾主任一人で山に行ったんだよ」
「一人で? 何だいそれ」
 頑治さんは呆れるのでありました。「それが何の解決を導くんだい?」
「自分の心の整理をしようとしたんだろうな、多分」
「何云ってんだい。それじゃ単なる遁走じゃないか」
 頑治さんは吐き捨てるのでありました。
「俺に怒っても仕方が無い」
 均目さんは頑治さんの初めて見せる剣幕にたじろぐのでありました。
「ああいやご免。均目君に怒っているんじゃないよ、勿論」
「俺も正直呆れたよ。何を考えているんだこの人はってね。本気で新妻さんとの関係を修復する心算があるのかしらって。がっかりしてこっちの力が抜けたくらいだ」
「下らん。無意味と云うのも馬鹿らしい」
 そう云って舌打ちした後で頑治さんは前に会社に居た刃葉さんを思い浮かべるのでありました。刃葉さんはよく、下らん、と独り言をしていたのでありましたか。
「ここが正念場だと云うのに、或る意味、好い気なもんだよな」
 均目さんもそれ以外の言葉が無いと云った風でありましたが、しかしこの後ほんの少し山尾主任の了見の解説を試みるのでありました。「一人で山に登って心の整理をしたら、その後新妻さんとの話し合いに臨もうと云う目論見だったのかも知れないけど」
「そうだとしても、悠長と云うのか、呑気と云うのか、ピンボケと云うのか」
「確かに山登りなんかに行っている場合じゃない。先ずやる事は、間違いなく山登りじゃない。でも山尾主任は真っ先にやる事として山登りを選んだんだ」
「若しもそうだとしたなら、もう、付ける薬は無いな」
(続)
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あなたのとりこ 252 [あなたのとりこ 9 創作]

 頑治さんは溜息を吐くのでありました。それは確かに山尾主任にしたらそれなりの考えがあっての事かも知れませんが、しかしそれは如何にも独りよがりの甘ちゃんの仕業でありますか。外形的には、何もかも放ったらかしにして山に逃げ出したと云う以外の意味は付与出来ないでありましょう。まさに茶番と云うべきであります。
「で、山から帰って来ると、新妻さんが居なくなっていたと云う事らしい」
 均目さんが茶番の後段を語るのでありました。「一緒に暮らしている山尾主任のお母さんの話しだと、山尾主任が一人で山に出掛けたその日の内に、新妻さんは家を出て行ったらしい。ちょっと実家に行って来ると云い残してその儘帰らず、と云う話しだ」
「嫁さんも山尾主任の仕業に呆れたんだろうさ」
 頑治さんは同情を寄せないでぶっきらぼうに云うのでありましたが、心底から冷ややかなら、こんなに頑治さんが悔しい気持ちになる事はないでありましょうか。

 それは確かに唐突な事態でありましたが、頑治さんはそうなるであろう予測は前から付いていたと云えば付いていたのでありました。恐らく均目さんも同じでありましょう。そのための兆候も不足無く、充分過ぎるくらい揃っていたとも云えるのであります。
 その山尾主任が辞表を土師尾営業部長の前に置いたのでありました。均目さんにも頑治さんにも、誰にも相談する事無く、山尾主任一人の判断と決意からでありました。
 出社してすぐだったので頑治さんもその場に期せずして居合わせたのでありました。他には出雲さんと甲斐計子女史が居たのでありましたし、マップケースの壁の向こうにある制作部のスペースには、片久那制作部長と均目さんが居たのでありました。制作部にもこちらのただならぬ緊張感は充分伝わった事でありましょう。
 前に置かれた山尾主任の、辞表、と表書きしてある白封筒を手に取って、土師尾営業部長は勿体を付けた仕草で中を確認するのでありました。
「どう云う事だろう?」
 土師尾営業部長は山尾主任を見上げながら、如何にも落ち着いた物腰で問うのでありました。慎に意外、と云った驚きを落ち着きの中に籠めていると云った体裁を装っているのでありますが、頑治さんにはどこか芝居じみて見えるのでありました。たじろがないところを見ると土師尾営業部長にとっても意外中の意外、ではなかったのでありましょう。
「そこに書いている通り一身上の都合です」
 山尾主任は無愛想に応えて浅くお辞儀するのでありました。
「ちょっと待ってて」
 土師尾営業部長は立ち上がって、山尾主任の前を擦れ違うように通り抜けて制作部の方に行くのでありました。それから片久那制作部長を伴って戻ると、その儘突っ立っていた山尾主任に向かって声を掛けるのでありました。
「山尾君、ちょっと話し合いたいから社長室に一緒に来てくれるか」
 その後土師尾営業部長を先頭に三人で事務所を出て行くのでありました。社長室は二階にあるのでありました。もう社長も出社しているのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 253 [あなたのとりこ 9 創作]

 均目さんが頑治さんの傍に遣って来るのでありました。
「何だか急展開だな」
 均目さんはやや上擦った声で話しかけるのでありました。
「そうでもないだろう」
 頑治さんは陰鬱な声で応じるのでありました。「遅かれ早かれこうなるだろうとは予想していたじゃないか、均目君も俺も。違うかな?」
「まあ、そうだけど。・・・」
 均目さんは眉根を寄せて頑治さんから視線を外すのでありました。丁度そこで出入口のドアが開いて、袁満さんが慌てた様子で入って来るのでありました。
「いやあ、人身事故で電車が止まって仕舞って参ったよ。遅刻だ遅刻、・・・だ」
 袁満さんは自分の呑気そうな声が事務所内の重苦しい空気に溶けないのに気付いて、戸惑ったように語尾を窄めるのでありました。見ていると、席に着いた袁満さんに出雲さんが今ここで起きた事件について小声で説明をしているようでありました。
 電話が鳴るのでありました。
「ああ、日比さん」
 受話器を取った甲斐計子女史の声が妙に大きく響くのでありました。電話の様子で、得意先に直行した日比課長が、先方で待ち合わせる手筈になっていた山尾主任がちっとも現れないので、どうかしたのかと確認の電話をしてきたようでありました。こちらも甲斐計子女史が今さっきの事件について日比課長に説明しているのでありました。
「思っていたより追い詰められていたと云う事かな」
 均目さんが声を潜めて頑治さんに云うのでありました。
「まあ、そうかな」
 頑治さんは向かいの席の甲斐計子女史の手前、多くを語らず曖昧に返事するのでありました。そんな頑治さんの一種の用心を察して均目さんは頑治さんに、後で、と云うような目配せをしてからマップケースの向こうの制作部スペースに戻るのでありました。
 また電話が鳴って、今さっき日比課長からの電話を切った甲斐計子女史がまた受話器を取るのでありました。これは取引先からの仕事の電話のようで、土師尾営業部長が席を外しているので後程こちらから電話をかけ直すとか応答しているのでありました。立て続けにもう一本電話の呼び出し音が響くのでありましたが、これには袁満さんが出るのでありました。ようやく何時もの朝の事務所の風景に戻ったと云う感じでありますか。
 頑治さんは席を立って倉庫の方に向かうのでありました。事務所のドアを押し開けて前の階段を二階と三階の踊り場迄下りた時に、下から階段を慌てて駆け上がって来る那間裕子女史と出くわすのでありました。例に依って大幅な遅刻であります。
「お早いお着きで」
 頑治さんは冗談口調の皮肉を以って朝の挨拶に代えるのでありました。
「今日は珍しく早起きして家を出たんで間に合うと思ったんだけど、こういう日に限って人身事故で電車が遅れるのよ。全くついていないわ」
(続)
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あなたのとりこ 254 [あなたのとりこ 9 創作]

 擦れ違いざまに那間裕子女史はそんな事を云って事務所に急ぐのでありました。色んな鉄道路線で今日は人身事故流行りのようであります。
 途中、二階の社長室のドアを見るのでありました。勿論中の気配は窺えないのでありましたが、あの中で今恐らく陰鬱な話し合いが展開されているのでありましょう。

 那間裕子女史は態と、と云った風に少しばかり荒けない音を立ててコーヒーカップを受け皿の上に戻すのでありました。それから不機嫌そうに向いの席の山尾主任から目を背けて、これも態と小さな溜息を吐きながら横を向くのでありました。
 御茶ノ水駅近くの喫茶店で甲斐計子女史と日比課長を除く従業員で、定例の組合設立会議とは別に緊急に会合がもたれるのでありました。
「皆には本当に済まないと思っている」
 山尾主任が消えも入りそうな声で呟くように云うのでありました。
「全くよ。今こう云うのは酷かも知れないけど無責任よ」
 那間裕子女史がそっぽを向いたままで吐き捨てるのでありました。
「まあまあ那間さん、山尾主任にも止むに止まれない事情があったんだろうし」
 横に座っている均目さんが那間裕子女史の項に向かって宥めるのでありました。那間裕子女史を挟んで均目さんと頑治さんが横に並んで座っていたので畢竟、均目さんは那間裕子女史の項に話し掛けるような風になったのであります。と云う事は当然、那間裕子女史の顔は頑治さんの方に向いた訳であります。しかし女史の視線は頑治さんを遥か飛び越えて、そのずっと先の方に向いているのでありました。そこには那間裕子女史の目を惹くようなものは特に何も無い、と云うのは敢えて断わる迄も無い事でありましょうが。
「俺も悩んだんだ。でも、もうこれ以上堪えられなかったんだよ」
 山尾主任は眉根を寄せて、深刻そうにテーブルの上の自分のコーヒーカップに視線を落とした儘、身じろぎせずにカチカチに固まった様子で云うのでありました。
「新しく就いた仕事に、と云う事ですかね?」
 袁満さんが気遣うような声で訊くのでありました。
「それもあるし、プライベートでも、・・・」
 山尾主任の陰気な声がテーブルの上に蟠るのでありました。プライベート、と云うのは勿論、山尾主任が山に行っている間に新妻さんが家を出て実家に帰った経緯を差すのでありましょう。袁満さんはその事を未だ知らないようであります。
 那間裕子女史もプライベートと云われるとそれ以上の非難の言葉を重ねにくそうでありました。遠くに向いていた女史の視線が頑治さんの目に向けられるのでありました。その目が困惑を頑治さんに伝えようとしているのでありました。
「考え直す余地は無いでしょうかね?」
 袁満さんが山尾主任に問うのでありました。
「考えた末の事だし。それにもう辞職願を出してしまったし」
 山尾主任の決意は翻らないようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 255 [あなたのとりこ 9 創作]

「辞表を出す前に我々に相談する事は、考えの他だったのでしょうかね?」
 均目さんが遠慮がちに訊ねるのでありました。
「これは自分一人で考えて、考え抜くべき問題だからね」
 山尾主任は決然とそう云うのでありましたが、本当に考え抜いたのかどうか、頑治さんは山尾主任のその云い草を聴きながら少しく不審を覚えるのでありました。と云うのも、酷な云い方になるのかも知れませんが、山尾主任は一種の悲壮感とか潔さとか云う気分に酔っているのではないかと云うような気が、ふと兆したからであります。
 それに、考え抜く筈が途中で考えるのが億劫になってやけを起こして考える事を止めたがための短絡として、今の自分の抱え持つ状況を一切合切放擲して仕舞うと云う方法を選び取ったのではないでありましょうか。前に均目さんが、山尾主任の新妻さんが家を出て実家に帰ったのは山尾主任が山に遁走した故と云ったのでありましたが、あの時は山に、そして今度は会社を辞めると云う選択に只管縋り付いて、今の苦境を固く目を閉じて遣り過ごそうとしているちっとも潔くない営為と云う風に見えて仕方が無いのであります。まあそれは兎も角として、情に於いて色々と気の毒に思うのは勿論ではありますけれど。
「組合の方はどうなるのかねえ?」
 袁満さんが溜息を吐くのでありました。
「それは副委員長の袁満君を中心に、新しい体制でやっていって貰うしかないかな」
 山尾主任はか細い声で云って俯くのでありました。
「そこが無責任と云うのよ」
 那間裕子女史が俯いた山尾主任の旋毛に向かって云い立てるのでありました。「抑々と云うもの、労働組合を創ろうと云い出したのも、誰にも相談せずに独断で全総連に話しを持って行ったりしたのも、当の山尾さんじゃないの」
 那間裕子女史に詰られて山尾主任は痛々しそうに身を縮めるのでありました。
「今更それを云い出したって無意味じゃないか。それより、先を考えようや」
 均目さんが那間裕子女史の怒りの消火活動を担うのでありました。確かにこの期に及んで縷々、山尾主任に何時までも怒りをぶつけていても埒が明かないと云うのは判るので、那間裕子女史は不愉快そうな顔はその儘ながら嘴の方は噤むのでありました。
「山尾主任が抜けても、組合は創るんだよね?」
 今この状況で那間裕子女史に話し掛ける事に袁満さんは何となく及び腰になっているようで、均目さんの方に念押しするような云い草で確認するのでありました。
「事がここまで動き出して仕舞った以上、今更後には引けないでしょう」
「それはそうだよなあ。全総連との兼ね合いもあるしなあ」
 袁満さんはまた大きな溜息を吐くのでありました。
「矢張りここは、結成迄は袁満さんを新しい委員長として、新体裁で組合創りを継続する事になるでしょうね。結局それしか無いもの」
「どうしても俺が委員長になるのかい?」
「それが順当だし、そう云う不測の事態に備えての副委員長でもあるし」
(続)
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あなたのとりこ 256 [あなたのとりこ 9 創作]

 均目さんが袁満さんの退路をやんわりと断つのでありました。
「でも、山尾主任がここで抜けるなんて思いもしなかったし、俺は元々そんな風に順送りに委員長になるなんて考えもせずに副委員長を引き受けたんだけど」
「それは色んな若しもの事態を考えなかった袁満君の迂闊よ」
 那間裕子女史が潔くない袁満さんに少し苛々したような口調で云うのでありました。
「そうは云われても、なあ。・・・」
「じゃあ、皆の決を採りましょう」
 均目さんも往生際の悪い袁満さんに少し焦れたようでありました。「出雲君は袁満さんが新しい委員長になる事に賛成かい、反対かい?」
「まあ、袁満さんで良いんじゃないっスか」
 出雲さんは袁満さんの心根を憚ってか、大賛成という訳ではないけれど、かと云って反対ではないと云った曖昧さを口調に籠めるのでありました。
「唐目君はどうだい?」
「袁満さんが委員長になるのが順当と云えば順当かなあ」
「那間さんは?」
「袁満君で問題無いと思うわ」
「俺も賛成だな」
 那間裕子女史の返答に頷いてから均目さんが最後に意志表明するのでありました。「これで当の袁満さんを除いて全会一致ですよ」
 均目さんが詰め寄るのでありました。
「俺なんかより弁の立つ均目君辺りが適任だと思うけどなあ」
 袁満さんはここに来て未だ気後れを表明しているのでありましたが、他の四人がそれを許してくれそうにない気配である事は重々判っているような口調ではありましたか。
「大丈夫ですよ。四人でしっかり支えますから」
 均目さんが受諾表明を迫るのでありました。「こうなったらもう、四の五の云わないで、きっぱりと引き受けてくださいよ、袁満さん」
 何となく有無を云わさない迫り方であります。下手をして自分にお鉢が回って来るのを避ける秘かな魂胆から、均目さんは少々強引にここで袁満さんに委員長就任を迫っているのだろうと、均目さんの様子を見ながら頑治さんは推察するのでありました。
「仕様が無いかなあ」
 袁満さんはようやく諦めたようでありました。「でも委員長になっても、何をやったら良いのか俺はさっぱり判らないんだからね」
「大丈夫ですよ。何もかも袁満さんに責任を押し付けるような真似はしませんよ。俺達全員でちゃんと支えます。一応の体裁として委員長と云う役目が必要なんだから」
 均目さんの口調はここで懇願の色を濃くするのでありました。
「じゃあ判ったよ。体裁として一応俺が委員長になるよ」
「よろしくお願いします」
(続)
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あなたのとりこ 257 [あなたのとりこ 9 創作]

 この遣り取りを山尾主任は全く無言で傍観しているのでありました。しかし自分の抜けた後の委員長ポストが決まった事に一先ず安堵したような様子でありました。

 那間裕子女史が舌打ちした後で、手に持ったグラスに残っていたジントニックを一息でグイと飲み干すのでありました。
「全く無責任で好い加減なんだから」
 那間裕子女史は飲んだ後の吐息に乗せてそう吐き捨てるのでありました。
「山尾主任も相当に追い詰められていたんだよ」
 均目さんが宥めるように話し掛けるのでありました。「仕事でもプライベートでも」
「自業自得でしょう」
 那間裕子女史は寸分の同情すら見せないのでありました。
 緊急の会合の後、例によって那間裕子女史と均目さん、それに頑治さんの三人で新宿の何時もの洋風居酒屋で飲むのでありました。
「山尾主任は明日から会社に出て来ないんだよね?」
 頑治さんが均目さんに確認するのでありました。
「明日は出て来るんだろうな。あれこれ仕事の引継ぎなんかもあるだろうし」
 均目さんはそう云ってから近くを通ったウエイターに、那間裕子女史と自分の分のジントニックのお代わりを注文してから先を続けるのでありました。「明後日からは有給休暇の残りを消化すると云う名目で出てこないという事だったよね。で、辞める一月二十日の日に私物の整理もあるから出社すると云う話しだったけど」
「仕事の引継ぎと云っても、それは殆ど必要無いんじゃないかな。日比課長と一緒に動いていたんだから、日比課長が大体は掌握しているだろうし」
「ま、それでも明日は出て来るんじゃないの」
「出て来ても居辛いし、周りもどう接して良いのか困るし、仕事の引継ぎも無いのなら、明日も出社する意味なんか実のところは無いのよ。まあ、新しい仕事になって早々に逃げ出して仕舞う会社への引け目があるから、一応来るのかも知れないけど」
 若し山尾主任が聞いたら立つ瀬も無い居た堪れないような事を口角に上せながら、那間裕子女史が話しに加わるのでありました。
「那間さんは山尾主任に対して優恤の気持ちは微塵も無いのかな?」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「ま、色々気の毒には思うけど、でも、結局自分で招いた結果だもの」
「仕事が替わったのは山尾主任のせいじゃないぜ」
「そう云うけどさあ、制作の仕事で片久那さんの期待に応えるような仕事振りじゃなかった事とか、気質や性格の不一致のために片久那さんに何となく疎まれたのは、半分くらいは山尾さんのせいだと云う云い方も、まあ、出来るんじゃないの」
 那間裕子女史はまるで、大いに曖昧且つ、世間で屡使用されるところの夫婦の離婚理由のような事をものすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 258 [あなたのとりこ 9 創作]

「それはマッチングのミスみたいなもので、山尾主任が悪い訳じゃない」
「じゃあ、奥さんに逃げられた点は?」
「それも山尾主任が一方的に悪い訳じゃないし、これも云ってみればマッチングのミスと云う事も出来るさ。ま、山尾主任が結婚を焦り過ぎたのもあるかも知れないけど」
「山尾主任は屹度、愛妻家になったと思うけどなあ」
 頑治さんが独り言のように呟くのでありました。
「確かに。でもちょっと重たい愛妻家かな」
 均目さんが首を傾げる動作を加えた曖昧な頷きをするのでありました。
「そうね。山尾さんの愛妻家振りは多分妙に鯱張っていて気が滅入るかもね。それに間違い無く、その当分の見返りを奥さんに心根の内で期待するだろうしね」
 那間裕子女史が賛同するのでありました。「あたしはそう云うのはまっぴらご免だわ」
「確かに那間さんに山尾主任は向かないだろうな」
 均目さんが笑うのでありました。
「こっちの方で始めからお断りよ」
 那間裕子女史はジントニックをグイと煽るのでありました。
「労働組合の方はどうなるんだろう」
 頑治さんが会話の流れの分岐を左に曲がるのでありました。
「さあ、どうなるのかねえ」
 均目さんが力なく笑ってまたもや首を傾げるのでありました。
「袁満君が委員長となると大分頼りなくなるわね」
 那間裕子女史がまたまたグラスを唇の上で急角度に傾けるのでありました。先程、八割くらいグラスの中に残っていたジントニックが、これで一気に残量五割を切るのでありました。何時もながらになかなかのハイペースであります。
「そう云うけど、那間さんは山尾主任もそんなに買ってはいなかったじゃないか」
 均目さんが未だ口を付けていないお代わりしたジントニックを持った手の人差し指のみをピンと伸ばして、那間裕子女史の方を指差して見せるのでありました。
「それは確かにそうだけど、でも未だ袁満君よりはマシかな。袁満君は労働運動に付いて基本的な知識すらとんと無いようだからねえ。山尾さんも認識が浅かったけど、自分が労働組合を率先して創ろうとした分、あれこれ学ぼうとする姿勢はあったみたいだし」
「そう云う那間さんだって労働組合とか労働運動に対して、大して深い認識を持っているとは云えないような気がするんだけど」
「そりゃあ、あたしも大した認識は持っていないわ。未だにあんまり関心もないし。だから間違いなく、あたしが委員長と云う線は無い訳よ」
「まあ俺も大して認識も興味も無いから、そんな七面倒臭い役割はご免だけどね」
「それで無責任に、袁満さんに委員長就任を何とか押し付けようとしたんだな」
 頑治さんが指摘すると均目さんは苦笑ってそれを肯うのでありました。
「そう云う億劫の前に俺は第一、全総連と云う組織に全くシンパシーを感じないんだ」
(続)
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あなたのとりこ 259 [あなたのとりこ 9 創作]

「そう云えば確かに、均目君の態度はそんな風だよなあ」
 頑治さんは納得する風を見せるのでありました。
「何でそんなに全総連が嫌いなの?」
 那間裕子女史が多少興味があるらしく均目さんの表情を窺うのでありました。
「あそこは何だかんだと抗弁していても、或る左翼政党と全く一体なんだよ」
「ふうん、そうなの?」
 那間裕子女史が少し口を尖らすのでありました。
「確かにそれは良く聞く話しではあるな」
 頑治さんが頷くのでありました。戦後すぐに出来て状況がその頃と一変しても未だにその頃の理念とかを振りかざす、国会でそこそこの勢力を誇る万年野党である事に甘んじている老舗政党とか、無節操なくらいに離合集散を繰り返すだけの自分達の都合最優先の政党ではないけれど、そういうのとは一線を画した事を売り物にしている、発する理念や政策が如何にも左翼的でげんなりするくらい潔癖で頑なで、それ故妙に胡散臭い印象のある政党の事を均目さんは云っているのでありました。その政党の政策とか在り方の良し悪しとは別に、好き嫌いで云えば頑治さんも好きな方とは云えない政党でありましたか。
「あそこは世間に売り出す目的で如何にも民主的で、正義と弱い者の味方として戦っていると云う表の顔と、俺に云わせれば、典型的に排他的で攻撃的で権力主義的な裏の顔があって、正体であるその裏の顔を隠すための方便として表の顔を技巧的に遣っているとしか思えないんだよなあ。お前等、実はそんなヤツ等じゃないんだろう、って云う感じ」
「それはどんな政治政党だってそうなんじゃないの?」
 那間裕子女史が首を傾げて見せるのでありました。
「そりゃあ確かに政党ならそう云う面も大なり小なり持っているし、それがある意味でその政党の奥深さにもなる訳だけど、あそこはちょっと度が過ぎているように思える」
「度が過ぎているって?」
「これは片久那制作部長が云っていたんだけど、例えば色んな集団が同じ目的の闘争を展開していたとしても、いざ共闘と云う話しになるとあそこは必ず裏切るらしい。それは同じ考えの様々な集団の中で、自分達がその運動のヘゲモニーを絶対握らないと気が済まないと云った邪な狙いがあって、他の集団を蹴落としに掛かろうとする了見らしいんだな。そのやり方がこれまた露骨で冷血で狡猾で、一片の愛嬌も愛想も無いと云う事らしい」
「それは片久那さんの学生時代の話しかしら」
「そうだね。闘争の中で主導権を握るためにはどんなことだってやるし、敵方に覇を争っている集団なり人間なりを売り渡すことだって平気でやりかねないみたいだぜ」
「それは悪辣だなあ」
 頑治さんが呟くのでありました。
「正義は自分達だけにあると云う考えに凝り固まっているから、自分達以外の仲間への裏切りを平気でやらかすし、それを屁とも思っていない。闘争によって何かを実現する事じゃなくて、その闘争の主導権を握るのがアイツ等の第一の行動目的なんだ」
(続)
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あなたのとりこ 260 [あなたのとりこ 9 創作]

「要するに盟主になりたい訳ね。でもなんでそんなに盟主になりたがるのかしら?」
 那間裕子女史が先程より少し角度を増して首を傾げるのでありました。
「反対派を自分達の下に纏める事で敵と取引するためさ。その取引に於いて仲間から出る否を強圧的に封じ込められるし、益々ヘゲモニーは強化されると云う寸法だ」
「取引、って何?」
「条件闘争の条件取引さ」
「何だか良く判らないわね。条件取引、って?」
「色んな政治課題の中で、ここは譲るから見返りにこれを寄越せとか、反対デモを終息させて反対派を封じ込めるから代わりに、こちらの出した条項を法案の中に盛り込めとか、まあ、そう云った条件の売り買いみたいな事だよ」
「それは政治の中では良くある事じゃないの?」
「確かにね。でもあそこの政党は自分達の利益最優先で、反対派の中の他の会派に涙を飲ませるような事を強圧的にやるんだ。若し内部で自分達の意向に背く団体や個人が在ったら、それを徹底的に弾圧する。本来の敵よりも酷薄にね。そのために主導権闘争には何をさて置いても全力を傾けるんだ。盟主の座を断固守るためなら何でもする」
「ふうん。そんなものかしらね」
 那間裕子女史は半信半疑と云った顔つきで頷くのでありました。
「そいで以って自分達の努力で、これこれこう云う成果を立派にかち取ったのだと意気揚々と喧伝するんだ。そのために犠牲にした仲間に一顧も与える事無くね」
 均目さんはそこで如何にも嫌悪丸出しの表情をして見せるのでありました。

 ジントニックを一口飲んで、均目さんは続けるのでありました。
「片久那制作部長なんかはあの政党が大嫌いだよ。名前を聞いただけで何か天敵を思い浮かべるみたいに憎悪を剥き出しにするな。さっき云ったような遣り口で学生運動のヘゲモニーを握ろうとしてくるから、色々煮え湯を飲まされたんだろうな。インチキ左翼と詰るのはその時の経験があるからだろうな。あの政党は右翼よりも憎いという感じだな」
「それは要するに左翼同士の内ゲバみたいな感じ?」
「いや、片久那制作部長に依ると路線とか闘争方針の違いとかじゃなくて、もう、裏切り者と云う規定じゃないかな。最も不謹慎で陰湿な贋左翼、と云ったところかな」
「ふうん。あたしにはそんなの、何となくピンとくる話しではないけど」
 那間裕子女史はここで手にしていたグラスをグッと空けるのでありました。「ところで均目君は、嫌に片久那さんの事についてあれこれ詳しいのね。あたしは片久那さんの大まかな経歴とかしか知らないけど、そんな話しを何時片久那さんとしているの?」
 那間裕子女史がそう聞いた時、一瞬均目さんがたじろぐような色を眼中に浮かべたのを頑治さんは見逃さないのでありました。
「ほんの偶に皆で飲む時があるだろう、その折にちょっと話すだけだよ」
 均目さんの口調は多少しどろもどろに聞こえない事も無いのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 261 [あなたのとりこ 9 創作]

「皆で飲む時って、片久那さんと均目君が二人で何やら話し込んでいるところなんか、あたしは見た事が無いように思うけどね」
 那間裕子女史は均目さんの言に疑わし気な気配を見せるのでありました。那間裕子女史も均目さんのたじろぐ眼容を見逃さなかったようでありました。
「後は会社で、山尾主任も那間さんも偶々外に出ている時に、とかさ」
「片久那さんは、自分からそんな事を均目君に話し掛けるような人ではないでしょう。会社では仕事と無関係の事は、なるべく喋らないでいるタイプの人よ」
「片久那制作部長も大概は無愛想にしているけど、あれでなかなか冗談を云ったりお喋りになる時があるんだよ。どういう気紛れからかは判らないけど」
「あたしや山尾さんにはそう云うところは見せた事が無いわね。均目君だけにそんなところを見せると云うのは、均目君が気に入っているからかしらね」
「那間さんや山尾主任は、政治性のある話は全く無関心だと思っているんだろう。俺は多少はその辺の興味もあると思われているんだろう」
「ふうん、そうかしらね」
 那間裕子女史は何となくの疑問をその今の均目さんの説明からは未だすっかりは拭えない、と云ったような色を濃厚に眉宇に残留させた儘、一応頷いて見せるのでありました。これはこれ以上片久那制作部長と均目さんの関係に興味が無いためでありましょうか。
「ところで山尾主任が抜けた後、特注営業はどうなるのかねえ」
 この均目さんの話題転換は、片久那制作部長と自分との関係に付いてこれ以上の追及を免れようとの魂胆からだと、取ろうと思えば取れなくもないのでありました。
「また前みたいに、土師尾さんと日比さんで受け持つんでしょう」
「そうすると出雲君と日比課長の新しい仕事の、地方特注営業はどうするんだろう」
 均目さんが渋面を作って見せるのでありました。
「都内営業と掛け持ちで、日比さんが面倒を見るんじゃないの。要するにその分、土師尾さんが前より少し多めに働けば良いのよ」
「あの人は余計な口出しはするけど、結局自分が楽をする事ばかり考えているんだから、少し多めに働くなんて、それは望むべくも無い要望と云うものだな」
 均目さんが失笑するのでありました。
「じゃあ、日比課長は益々大変だ」
 頑治さんが話しに加わるのでありました。
「そうだね。出雲君は特注営業はやったことが無いから、そっちの方面に関しては全くの素人だし、出雲君一人であれこれ考えてやるには荷が重過ぎるかな」
「今迄の出張営業にしても、そんなに意欲的に取り組んでいた風でも無いし」
 那間裕子女史が溜息を吐いてその後ほんの少しの間を置いてから、声を落として語調を変えて続けるのでありました。「でも、それより何より、あたしはここ最近、今度の人事異動にはもっと別の意図があるんじゃないかって考えているのよ」
 この女史の言に頑治さんは頷くところ大なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 262 [あなたのとりこ 9 創作]

 頑治さんもこの、今年に入って早々の人事異動にはどことなく胡散臭さがあると思っていたのでありました。何としても売り上げを伸ばすための思い切った人事異動と云う触れ込みでありましたが、その唐突感も然りながら、新方策とやらとそのためのロスとの兼ね合いを、然程深く考察されたものとは思えないのであります。当初からそんな事とは全く別の、何やら隠された目論見が実はあるように思えて仕方が無いのでありました。
「要するに、山尾さんと出雲君を切り捨てようとしたんじゃないのかしら」
 那間裕子女史はそう云って頑治さんと均目さんを交互に見るのでありました。
「それでその二人に先ず、無理難題を押し付けたと云う事か」
 均目さんが興味を惹かれたように少し身を乗り出すのでありました。
「那間さんは何故その二人が選ばれたと考えたんですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「山尾さんは片久那さんに疎まれていたし、出雲君は一番若手で袁満君の二番手に自分でも甘んじていたから、切り捨て易いと考えたんじゃないかしら」
「では山尾主任は片久那制作部長の意図から、それに出雲さんは土師尾営業部長の意に依って、この二人が選ばれたと云う訳ですかね?」
「まあ、要するにそうなるかしらね。山尾さんも出雲君も、会社にとって絶対掛け替えのない人材、と云うのではなさそうだから」
 那間裕子女史はその後に慌てて付け足すのでありました。「勿論これは、片久那さんと土師尾さんが心根の内でそう見做しているだろうと云う意味で、だけどね」
「しかしそんな云い訳しても、両部長の了見とは云うものの、那間さんがそう推察する訳だから、那間さん自身もそう云う風に見做していると云う事になるよね」
 均目さんが少し意地悪そうに指摘するのでありありました。
「客観的に見て、そうじゃないの。均目君もそう思わない?」
 これには均目さんは無応答を決め込んで態度を曖昧にするのでありました。
「しかし片久那制作部長が、山尾主任を自分の配下から外す意図はあったとしても、土師尾営業部長と結託して、会社を辞めさせようとまでするとは考えられないですがね」
 頑治さんが那間裕子女史の説に異論を挟むのでありました。
「確かにね。山尾主任は、一応は今迄自分の配下の人間だったんだからね」
 均目さんが頑治さんの考えに同調するのでありました。「あれで片久那制作部長は男気とか義理人情を結構気にするタイプだから、土師尾営業部長と一緒になってそんな陰湿な悪企みはしないだろう。土師尾営業部長の方はやりかねないけど」
「山尾さんと出雲さんの二人を切ると云うのは、人件費の点を考慮して、先ずは切り易い二人を切ろうとした、という事になりますかね?」
 頑治さんが那間裕子女史の顔を見て質問を進めるのでありました。
「そうね。人件費の削減と云う意味が濃厚よね」
「だったら、どうせ切るのなら出雲さんじゃなくて、日比課長の方が効果は大きいんじゃないですか? 日比課長が我々従業員の中では一番人件費が高いでしょうから」
(続)
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あなたのとりこ 263 [あなたのとりこ 9 創作]

「それはそうだけど」
 那間裕子女史は少し応えに窮するような表情をするのでありました。
「確かに日比課長も、二番手と云う意味では土師尾営業部長の二番手には違いないけど、日比課長を辞めさせると土師尾営業部長は楽が出来なくなるじゃないか。日比課長を目一杯働かせて自分は楽をしようと云う心算なんだから、それでは困るだろう」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「だから制作部の山尾主任を営業にコンバートしたしたんじゃないのかな、要するに日比課長の挿げ替え要員として。つまり両部長の魂胆としては山尾主任じゃなくて、日比課長と出雲さんを狙った首切りを目論んだと云う風にも思えるんだけど」
「ああそうか。配下である山尾主任の切り捨ては片久那制作部長の義理人情が許さないけれど、日比課長となるとその辺は自分に云い訳が立つ。序に連動して出雲君も辞めて貰えれば、二人の二番手が居なくなる訳だから慎に好都合と云う判断か。山尾主任が営業に移れば、少し時間が掛かるとしても、土師尾営業部長は相変わらず楽が出来そうだし」
 均目さんが頷くのでありました。
「それで新規の地方特注営業とか云う仕事に二人を配置したと云う訳ね」
 那間裕子女史も納得気に頷くのでありました。
「と云う事は、地方特注営業と云う仕事は、始めから新規の営業として力を入れる心算は無かったと云う事か。目論見としては二人を辞めさせる事が狙いで、そのための口実としてそんなまことしやかな新規営業形態を思い付いたと云う事になるな」
 均目さんが義憤に駆られたような云い草をするのでありました。
「若しそれが本当なら、陰険な遣り口ね」
 那間裕子女史が顔を顰めるのでありました。
「しかしこれはあくまで想像だから、実のところは確とは判らないけど」
 頑治さんが二人の義憤に少し水を差すのでありました。
「でも片久那さんならそんな手の込んだ事も遣りかねない、かも知れないわね」
「それに社長も一枚噛んでいるって事も考えられる」
「そう云う事なら日比さんも組合に入って貰ったらどうかしら。その辺りの社長と片久那さん土師尾さんの悪巧みから自分の身を守るためにも」
「でも、繰り返しますがあくまでも推察の域を出ない話しですから、日比課長がその辺の事情にリアリティーを感じてくれるかどうか判りませんよ」
「そうだよなあ。日比課長はあの通り呑気な人だから、まさかそんな事がある筈がないと一笑に付す可能性の方が大きいかな。それに日比課長に組合結成の件を話したら、それこそ間違いなく両部長にあっさり筒抜け、と云う事になるだろうな」
「あたし達の中で組合結成の話しが進んでいる、と云う事を早速ご注進に及んで、その律義な忠義立てを以って保身を図るかも知れないと云う事ね。有り得なくも無いわね」
 那間裕子女史が眉根を寄せるのでありました。どうやら日比課長の事を那間裕子女史も均目さんも、その人間性の辺りではあんまり信用してはいないようであります。
(続)
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あなたのとりこ 264 [あなたのとりこ 9 創作]

「これからウチの会社はどうなるんだろうな」
 均目さんが嘆息するのでありました。
「会社の先行きとか組合結成の事を考えるのも、何となく億劫になってきたわね」
 那間裕子女史も溜息を吐くのでありました。頑治さんも二人に同調して力無い呼気に及ぶのでありましたが、実は頑治さんは、恐らくこの二人よりももっと無惨な推移を考えているのでありました。しかしこの席で酒の肴にそれを口にしようとは思わないのでありました。酒の肴にするには少々腹凭れが過ぎるように思われたからでありました。

 夕美さんは前髪が額に落ち掛かるのを留めていたヘアピンを外して、それを両手で弄びながら頑治さんの顔色を窺うのでありました。
「そうなる可能性の方が、今のところ高いと云う事ね」
 そう云ってから夕美さんは頑治さんから目を逸らすのでありました。
「矢張りお母さんの病気が一番大きな理由かな」
「そうね。でもまあ、それだけじゃないけど」
 食欲を失くして久しい夕美さんのお母さんは、精密検査の結果、胃に悪性腫瘍が見つかったのでありました。二月の下旬には市立病院で手術と云う段取りのようであります。
「大分悪いのかな?」
「そうね。お兄ちゃんに依ればかなり進行していると云う話しね」
「お母さんご本人は自分の病気の事をちゃんと知っているのかな?」
「ううん。当然本人には知らせてはいないの。胃潰瘍とか云ってあるみたい」
「そうか。まあ、一般的な対応としてはそうだよなあ」
 頑治さんは陰鬱な顔をして俯くのでありました。
「手術が成功しても大体は一年で、別の部位に転移したのが見つかって再入院、と云う事になるだろうって、お父さんとお兄ちゃんはお医者さんから告げられているらしいの」
「ああ、そうなのか。・・・」
 頑治さんと夕美さんが差し向かいで座っている炬燵の上に、重苦しい空気が泥むのでありました。その気圧に手指の自由を奪われたせいでもないでありましょうが、夕美さんが弄んでいたヘアピンが、竟うっかりと云った風情で夕美さんの指の間から毀れて炬燵の上に落下するのでありました。ヘアピンはほんの小さな落下音を立てるのでありました。
 そう云うお母さんの状態、それにその先行きがあるものだから、夕美さんは博士課程への進学か在京企業への就職と云う選択を諦めて、故郷に帰る心算になったようでありました。そう云う可能性の方が高い、等と未だはっきりと決断した訳ではないような話し振りではあるけれど、夕美さんの気持ちはもう既に大方のところは決しているように見えるのでありました。頑治さんにとっては全く好ましからざる事態の推移でありました。
「じゃあ、故郷に帰った後は県立博物館の研究員になるのかな?」
「そうね。そのために帰ると云う体裁の方が、お母さんに変な憶測をされないで済むだろうし。まあ、これはあたしが余計な気を回しているだけかも知れないけど」
(続)
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あなたのとりこ 265 [あなたのとりこ 9 創作]

「あっちで仕事もありそうだし、お母さんの傍で暮らせるのなら、それは夕美にとって今のところベストな選択と云うものだろうなあ」
 頑治さんは自分の主観よりも客観的妥当性に重きを置くような事をものすのでありましたが、それは夕美さんには嫌にクールな云い草に聞こえるかもしれないと、云いながら思うのでありました。決して頑治さんの心の内は穏やかな筈がないのでありましたが。
 結局のところ夕美さんは修士課程を終えた後、郷里に帰って仕舞うのだろうと云う予感は前からしていたのではありました。少し前に本郷の中華料理屋だったか、そこで二人で食事をしていた折にお母さんの病気の事を訊いて兆したその好ましからざる予感に、頑治さんは意ならずも妙なリアリティーを感じて仕舞ったのでありましたか。
 夕美さんとそんな形で別れたくなんかないのでありました。二人が互いを強く求め合っているならば、どんな障害も何とか乗り越えられると思いたかったのでありましたし、その誠心がありさえすれば、様々な不都合も好都合に変えて仕舞うに違いないと云う、何の根拠の無い確信も一方に強く保持していたのでもありました。しかしそう云う得体の知れない楽観は何時か必ず打ち砕かれるに違いないと云う悲観にも、リアリティーを感じて仕舞う自分が居るのでありました。頑治さんの不安はいや増すばかりでありましたか。

 それはこの日より少し前の、ちょっとした一人散歩の折りの事でありました。アパートに近い本郷給水所傍に在るなかなかに豪壮な邸宅の庭から、板塀を越して道の方に松の枝が伸びているのでありました。枝は少し高い位置にあるため通行の邪魔にはならないのでありましたが、手を上に伸ばせば針葉の塊に届くのでありました。
 道に延びた松の枝を何の気無しに見上げていた時に、頑治さんの頭の内に故郷の子供の頃に暮らした実家の庭がふと現れるのでありました。そう云えば一頃、庭の松葉を組み合わせて引っ張り合いをして、右手に持った葉が左手の葉を割いて棄損しなければ何やらの慶事がその日の内に身に訪れるし、格別の良き事が無くともその日一日が幸運に包まれる筈だと云う吉凶占いを、秘かに毎朝、熱烈に繰り返していたのでありました。
 その占いが当たっていたのか外れていたのか、今となってはもう有耶無耶なのでありましたが、今こうして将来の大望も無く、しがない安月給の体力仕事で口を糊しながらフラフラと、無意味と云うも疎かに生きているところを見ると、大方のところ、外れ、と云うべきが正しいのでありましょう。それにまあ、これ迄の己が生の時々のディテールに於いてもさしたる幸運な椿事なんぞは、そうは無かったようにも思えるのでありましたし。
 とまれ頑治さんは、片手を伸ばして二股の松葉を二葉、枝の先から摘み取るのでありました。右手に持った松葉が事後に健在ならば夕美さんは東京に残るし、その松葉が千切れたならば夕美さんは東京に見切りを付けて故郷に帰る、と頑治さんは左右に持った二股の葉を搦め合わせて、少年の頃と同じように念を送りながら心の内で呟くのでありました。その直後、意を決したように固く目を閉じて、息を詰めて左右の前腕を、出来るだけ公平に引く力を作用させるようにしながら外に引き放すのでありました。ゆっくり瞼を開くと左手の松葉の元は千切れ、右手の松葉は二股の姿を健在に保っているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 266 [あなたのとりこ 9 創作]

 思わず頑治さんはしたり、と笑むのでありました。天意は夕美さんが東京に残る事を示したのであります。天の意志ならば諸般の事情は屹度乗り越えられるでありましょう。
 いやしかし、ひょっとしたら微妙な力加減で右手の松葉の方が有利に作用したとも考えられるのであります。そうなるとこれはもう天意なんかではなく、単に頑治さんの願望に依る贔屓が働いた結果とも云えるのではないでありましょうか。
 頑治さんは再び松葉を取ると同じ事を繰り返すのでありました。前以上に慎重に、今度は松葉を掴む左右の親指と人差し指の力加減にも気を払って、公正無比に両腕を小さな振幅で引き離すのでありました。今度も右手の松葉は崩れないのでありました。
 これでも未だ確信が持てない頑治さんは三度目を試みるのでありました。そうして三度目も右手の松葉が強固に二股を保持しているのでありました。
 三度占って三度共に右手の松葉が勝利したのでありますから、これはもう、間違いのない天意がここに示されたのだと云えるのではないでありましょうか。そう考えて、或いはそれ以外の疑いを敢えて考えないで、頑治さんは暫し感奮に包まれるのでありました。
 しかしその感奮は俄に吹き過ぎて行った冬の夕風に、すぐに剥ぎ取られて仕舞うのでありました。頑治さんは苦く笑うのでありました。それから右手の松葉をぞんざいに前に放るのでありました。左手の松葉も同じように放るのでありました。道に落ちた松葉はまた吹き来った風に翻弄されながら、頑治さんの視界から消えるのでありました。

 あの時の松葉占いでは夕美さんは故郷へ帰る事無く東京に残る、と天意が明快に示された筈なのに。・・・頑治さんは心の中で力無く笑みながら呟くのでありました。
「頑ちゃん、どうしたの?」
 夕美さんが頑治さんの顔を覗き込んでいるのでありました。
「夕美が故郷に帰る事になるかも知れないとは、一応覚悟はしていたんだけどさ」
「そんな悲しそうな顔をしないで」
 夕美さんが手を伸ばして頑治さんの頬を触るのでありました。
「でもまあ、この二年間は、まあ二年とちょっとだけど、兎に角楽しかったよ。大学の学食で思わぬ形で夕美と再会して、それから二人で色んな楽しい事をしたし」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは頑治さんの頬に触っていた手を急に引っ込めるのでありました。如何にも唐突なその仕草の謂いが了解出来なくて、頑治さんは夕美さんの顔を戸惑ったような目容で見るのでありました。
「何だかこれで、あたしと頑ちゃんの永遠の別れ、みたいな云い方ね」
「永遠かどうかは判らないけど、でもまあ、重たい一区切りではある。少なくとも夕美はこれから先は、何時も俺の傍には居ない」
「確かに体は何時も傍に居ないけど、それでも何時も傍に居る事は、出来るわ」
 それはレトリックとしては成立しても、現実には、ほぼ永遠の別れではないかと頑治さんは首を傾げるのでありました。別れと云う現象は、大方は或る切っ掛けから関係が次第に希釈されていって、竟には跡形も無く解消するものではないでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 267 [あなたのとりこ 9 創作]

「頑ちゃんさえ、例え傍にあたしが居なくても、あたしの事を何時も大事に考えていてくれるなら、そうじゃない?」
 夕美さんはたじろぐ程強い眼差しで頑治さんを見るのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 頑治さんはオドオドと気圧されたように呟くのでありました。
「そんな自信が無い、って云う訳?」
「いやそうじゃないけど、でも、傍に居るか居ないかは重大な問題じゃないのかな」
「当人次第よ」
 夕美さんは力強く頷いて笑むのでありました。
「夕美の方はどうなんだろう。故郷に帰って新しい環境で色んな人と出会うだろうし、仕事を始めればあれこれこちらでは体験出来なかったような事も体験するだろうし、そんな事を押し退けて、遠く離れている俺の事を第一番に考え続ける事が出来るのかな」
「勿論よ」
 夕美さんはあっさりと請け合うのでありました。そのあまりのあっさりした云い草に頑治さんはほんの少しの疑義を感じて仕舞うのでありました。如何にも心強そうに請け合う手合いに限って、後日決まって断言した事とは違う結果を導き出すものであります。
「嫌に簡単に云うなあ」
「信用出来ない?」
「いや、そんな訳でもないけどね」
「そんな訳でもないけど、でも信用出来ない?」
「まあ、遠く離れた人を変わらず思い続けられるなんて、きっぱり請け合える程簡単な事じゃない、と云う事だよ。何と云っても生身の人間なんだから、了見が変わる事だって無いとも云えないし、それにこの世の中、先に何が起きるか判らないし」
「でも、あたしは大丈夫なの」
 夕美さんは子供のような天真爛漫さで云うのでありました。「色々考えも変わったし、色んな人とも出逢ったし、高校生になってからは頑ちゃんが傍に居た訳でもないけど、でもあたしの気持ちは中学生だった頃と何も変わらなかったわ、頑ちゃんの事に関しては」
「中学生の頃から?」
「そう。天地神明に誓って、それは本当の事よ」
 夕美さんはそう云った後で少し気恥ずかしそうに頬を赤らめるのでありました。「あたし中学生の時から、間違いなく頑ちゃんと将来一緒になるんだって信じていたの」
 頑治さんはこれ迄の生の中で、これ程熱烈で、排他的で、独りよがりの、しかも蕩けるように心地の良いお惚気を聴いた事が無いのでありました。しかも自分を対象として、と云うのでありますから、もう、どう云う言葉を返して良いものやらさっぱり見当も付かずに、当座の反応としては唸るしか手は無いと云うものでありましたか。そんなにっちもさっちも行かなくなった頑治さんを尻目に夕美さんは続けるのでありました。
「運命、とか云う感じよ。あたしは中学生にして将来の自分の運命を知っていたの」
(続)
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あなたのとりこ 268 [あなたのとりこ 9 創作]

「大学院で科学、しかも色んな史学の中でもとりわけ唯物的な考古学をやっている研究者にしては、嫌に観念論的な見解だな。何となく夕美から、運命、とか云う言葉を聴くのは、尻の辺りがムズムズするような気がするけど」
 自分の秘かな松葉占いの件はすっかりさて置いて、頑治さんとしてはそんな揶揄をものすのが精一杯というところでありましたか。
「だからさ」
 夕美さんは頑治さんの茶々を無視して続けるのでありました。「あたしは、頑ちゃんとどんなに遠くに離れていても、頑ちゃんの声が何時も間近で聞けないとしても、でもそんなのに関わり無く、将来必ず頑ちゃんと結ばれるの」
 夕美さんはそう云って、別に照れる風でも無く頑治さんの顔を一直線に見てニコニコと笑い掛けるのでありました。何と云うタフさ、そしてまた、可憐さでありましょう。頑治さんは全く以ってタジタジと、且つ恍惚となるのみでありました。

 夕美さんはまた指先でヘアピンを弄ぶのでありました。
「今ね、県立博物館とウチの大学の考古学教室が協力して、田舎にある弥生遺跡の大掛かりな共同発掘調査の話しが進んでいるの」
「ふうん、そうなんだ」
 急に夕美さんがそんな話しを始めたものだから、頑治さんは恍惚の上の空から現実の夕美さんとの炬燵の差し向かいの場面に引っ張り戻されるのでありました。
「あたしが県立博物館でこの四月から働き始めると、その共同発掘調査の仕事に回される事になる筈よ。これはほぼ間違いないの」
「そりゃそうだろうな。夕美は博物館に就職する迄ずっと、共同調査する相手の大学の考古学教室に在籍していたんだから、博物館にとっても大学にとっても、他の誰よりも打って付けの担当と云う事になるになるだろうしね」
「そうね。そう云う点もあたしが博物館から期待されている部分でもある訳よ」
「また良いタイミングで博物館は夕美と云う人材を獲得したものだな」
「そうなるとね、・・・」
 夕美さんはヘアピンの尻で炬燵の上板をワルツのリズムのような三連打で、複数回軽く叩きながら続けるのでありました。「あたしは発掘調査が終わるまでこれから屡、多分年に二三回は、大学や文部省とかの担当課に、出張する機会があると思うの」
「へえ。それなら時々はこっちで逢える訳だ、上手くすると」
 頑治さんは指をパチンと鳴らすのでありました。
「そう云う事。だから例えばゴールデンウィークとか夏休みとかお正月とかにも、プライベートであたしが東京に出て来るとして、そうすると頑ちゃんとは少なくとも三か月に一回くらい、ひょっとすると二か月に一回くらいの割合で逢えるって云う算段になるんだけどね。そのくらいのペースで逢えるのなら、それは今迄のように逢いたい時に何時でも会える、という訳じゃないけど、でも、そんなに寂しくないかなって思うのよ」
(続)
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あなたのとりこ 269 [あなたのとりこ 9 創作]

「夕美が故郷に帰ったら、それで二人の仲は事切れと云う事じゃないんだ」
「勿論よ、少なくともあたしは」
「俺だってこれですっかりさようならと云うのは絶対嫌だし」
「だったらそうやって、この後もずうっと二人の関係を続けて行こうよ。この世の中には電話と云う利器もあるんだし、手紙と云う手段だってあるし、遠くに離れていたって二人が繋がる手立ては幾らでもあるわ、少しの不自由を我慢すれば」
 夕美さんの目に懇願の色が浮くのでありました。こうなると頑治さんとしては益々夕美さんへの愛おしさが募り募ると云うものでありますか。
「遠距離恋愛、と云うやつだな」
「そうね。そう云う仲も世の中では普通に成立しているようだし、そんなに稀な例でもなさそうだしね。でもそれがずっと続くのはちょっと困るけど」
「何か急に展望が開けたような気がする。そうやって離れても、俺達の仲が途切れる事はなさあそうだし。夕美が帰郷して、それが二人の別れだとばかり考えていたから」
「そんなヤワな関係を創って来た心算はないもの」
 夕美さんは頼もしそうに頷くのでありました。こうなるとあの松葉占いは無意味な仕業であったなと、頑治さんは心の内でニンマリと笑いながら舌打ちするのでありました。
 夕美さんは頑治さんなんかよりも遥かに大度で、柔構造の、しなやかで且つ強靭で、したたかでもある芯を持った人間のようであります。頑治さんとしては完全に畏れ入ったと云うところでありますか。大きくて強固そうに見えていた懸念がみるみる薄まったと云う少なからぬ安堵で、夕美さんの事を大いに見直している頑治さんでありました。
「頑ちゃんは、東京の生活を切上げて郷里に帰る、と云う選択肢は持っていないの?」
 夕美さんがほんの少しの間を取ってそんな事を訊くのでありました。
「そう云う事も考えない訳じゃないけど、でも現実感は無いかな」
「無神経な云い方になるけど、こっちに留まっている明快な意味はあるのかしら?」
「今ようやくこっちで仕事にありついたばかりだしねえ。・・・」
 頑治さんはそう云いながら夕美さんの質問にたじろいでいるのでありました。そんな事を云ってしがみついている程今の仕事が自分にとって、天職とは云わないまでも、やりたかった仕事でありましょうか。これ迄口に糊するためだけでやってきたその場凌ぎのアルバイトと、一体どれくらいの違いがあると云うのでありましょう。
「頑ちゃんはこっちで何がやりたいの?」
「何だろうかなあ」
 頑治さんの応えは曖昧にしかならないのでありました。
「こっちに居ないとやりたい事がやれない、という訳じゃないのなら、こっちでの生活をきっぱり清算して、向こうに帰って仕事を新たに見付けても良いんじゃないかしら?」
「それはまあ、そうだけど」
「ならばどうして、帰郷すると云う選択肢に現実味を感じないのかしら?」
 夕美さんは頑治さんの困じた顔を覗き込むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 270 [あなたのとりこ 9 創作]

「この不況下、向こうの方がこっちより仕事が無いだろう」
「まあ比較すればそうだろうけど、でも頑ちゃんなら屹度、上手く何処かの会社に就職出来るわよ。今の頑ちゃんがやっているような仕事なら、向こうにだってあれこれあるだろうし。何ならウチのお父さんに就職の事頼んであげても良いわよ」
「いやあ、それはどうかなあ。・・・」
 頑治さんとしては選りに選って夕美さんのお父さんに就職斡旋を頼むと云うのは、何とは無しに後ろめたい気がして及び腰になって仕舞うのでありました。
「それは別としても、頑ちゃんが向こうに帰ってくれると、あたしとしてはこんなに願ったり叶ったりの事は無いわ。まあ、全くあたしの勝手な希望だけどさ」
「敢えて向こうに帰らない理由を云うとすれば、・・・」
 頑治さんは夕美さんの持つアピンを見ながら云うのでありました。「向こうよりこっちの方が様々な人間が蠢いていて、そんな様々な人間達を見る事が出来るから、かな」
「何、それ。良く判らないけど」
 夕美さんはヘアピンを弄ぶ指の動きを急に止めて、頑治さんが云わんとしているところが上手く解せないと云うような困惑顔になるのでありました。「様々な人間性達が蠢いている様を見るために、頑ちゃんはこっちに残るって云う訳?」
「まあ、折角この世に人間として生まれたんだから、この世に居る色んな人間をより多く見てみたいと云う事だよ。何か茫漠とした理由にしか聞こえないかも知れないけど」
「向こうにだって色んな人達が居るじゃない」
「でもその、色んな、の辺りが、街が小さい分、こちらよりも限定的かな」
「それは人の多さから考えてそうかも知れないけど、でもこっちに居たって、出会う事の出来る人間達と云ったら、結局矢張り限定的にしかならないんじゃないの」
「現実はそうかも知れないけど、でも可能性として、ね」
 頑治さんは云いながら如何にも自分の言葉は歯切れが悪いと思うのでありました。
「でも、地球という視点に立てば」
 夕美さんは云った後、その自分の言葉が如何にも大袈裟過ぎると思ったようで、少し照れるような、恥じ入るような弱気な表情をするのでありました。「こっちでの可能性もあっちでの可能性も、殆ど無意味な程の僅差で、大した違いにはならないと思うわよ」
「そう云って仕舞えば、それ迄だけど」
 まあ、夕美さんの云っている事は間違いは無いのでありました。「でも中途半端でちゃらんぽらんで、嫌に楽天的かも知れないけど、向こうよりはこっちの方が色んな人間達と出会えるチャンスが大であると云う前提は、俺としてはなかなか捨て切れないんだよ」
「だったらいっその事、放浪者にでもなれば良いのよ」
 夕美さんの言葉には頑治さんの考えに対する揶揄が込められているのでありましたが、頑治さんは腹は立たないのでありました。慎に得たり、と云う指摘でありますから。
「尤も、そう云ってみれば確かに、頑ちゃんには放浪者の雰囲気があるにはあるわね」
 夕美さんはその後に付け加えるのでありました。
(続)
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