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あなたのとりこ 254 [あなたのとりこ 9 創作]

 擦れ違いざまに那間裕子女史はそんな事を云って事務所に急ぐのでありました。色んな鉄道路線で今日は人身事故流行りのようであります。
 途中、二階の社長室のドアを見るのでありました。勿論中の気配は窺えないのでありましたが、あの中で今恐らく陰鬱な話し合いが展開されているのでありましょう。

 那間裕子女史は態と、と云った風に少しばかり荒けない音を立ててコーヒーカップを受け皿の上に戻すのでありました。それから不機嫌そうに向いの席の山尾主任から目を背けて、これも態と小さな溜息を吐きながら横を向くのでありました。
 御茶ノ水駅近くの喫茶店で甲斐計子女史と日比課長を除く従業員で、定例の組合設立会議とは別に緊急に会合がもたれるのでありました。
「皆には本当に済まないと思っている」
 山尾主任が消えも入りそうな声で呟くように云うのでありました。
「全くよ。今こう云うのは酷かも知れないけど無責任よ」
 那間裕子女史がそっぽを向いたままで吐き捨てるのでありました。
「まあまあ那間さん、山尾主任にも止むに止まれない事情があったんだろうし」
 横に座っている均目さんが那間裕子女史の項に向かって宥めるのでありました。那間裕子女史を挟んで均目さんと頑治さんが横に並んで座っていたので畢竟、均目さんは那間裕子女史の項に話し掛けるような風になったのであります。と云う事は当然、那間裕子女史の顔は頑治さんの方に向いた訳であります。しかし女史の視線は頑治さんを遥か飛び越えて、そのずっと先の方に向いているのでありました。そこには那間裕子女史の目を惹くようなものは特に何も無い、と云うのは敢えて断わる迄も無い事でありましょうが。
「俺も悩んだんだ。でも、もうこれ以上堪えられなかったんだよ」
 山尾主任は眉根を寄せて、深刻そうにテーブルの上の自分のコーヒーカップに視線を落とした儘、身じろぎせずにカチカチに固まった様子で云うのでありました。
「新しく就いた仕事に、と云う事ですかね?」
 袁満さんが気遣うような声で訊くのでありました。
「それもあるし、プライベートでも、・・・」
 山尾主任の陰気な声がテーブルの上に蟠るのでありました。プライベート、と云うのは勿論、山尾主任が山に行っている間に新妻さんが家を出て実家に帰った経緯を差すのでありましょう。袁満さんはその事を未だ知らないようであります。
 那間裕子女史もプライベートと云われるとそれ以上の非難の言葉を重ねにくそうでありました。遠くに向いていた女史の視線が頑治さんの目に向けられるのでありました。その目が困惑を頑治さんに伝えようとしているのでありました。
「考え直す余地は無いでしょうかね?」
 袁満さんが山尾主任に問うのでありました。
「考えた末の事だし。それにもう辞職願を出してしまったし」
 山尾主任の決意は翻らないようでありました。
(続)
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