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あなたのとりこ 661 [あなたのとりこ 23 創作]

 土師尾常務はと云えば、昼を過ぎてもなかなか会社に現れないのでありました。
「屹度夕方頃電話して来て、得意先回りがまだ残っているので今日は直接帰る、と云う段取りなんじゃないのかな。と云う事は要するに今日一日会社をサボったと云うことになるけど、また内緒のアルバイトで檀家回りにでも行ってお布施をタンマリ稼いでいるんじゃないのかな。これ迄も朝に電話をしただけで、終日出社しない日は時々にあったしね」
 袁満さんがさも忌々しそうに云うのでありましたが、この袁満さんの推察は見事に当たって、土師尾常務は午後五時丁度頃、直帰するとの電話を寄越すのでありました。電話を取ったのは甲斐計子女史で、女史は極めて事務的な口調で、と云う事は如何にもぶっきら棒に、袁満さんに向かって顔も見ないで報告の声を張り上げるのでありました。
 序に云えば日比課長からも五時半頃に直帰の電話が入るのでありました。こちらは土師尾常務のようにサボりではなく、辞表提出四人組に対して何となく屈託があって、会社に帰って顔を合わせるのが気重だったからでありましょうか。
 終業後、辞表提出記念と云う訳ではないけれど、四人は誰云うともになく、会社を出た後に神保町駅近くに在る居酒屋に立ち寄るのでありました。
「まあ、これで清々したな」
 袁満さんがビールグラスを口元に運びながら云うのでありました。
「全く。あんな陰気で不愉快極まりない会社とこれで綺麗さっぱり縁が切れると思うと、妙にウキウキしてくるくらいだわ」
 那間裕子女史がこの日は珍しく日本酒の熱燗を注文して、それを手酌で自分の猪口に注ぎながら頷くのでありました。女史は自分の猪口に注ぎ終えると今度は、付き合えと云われて従った横に座る頑治さんの方に向かって徳利を差し出すのでありました。頑治さんは両手で猪口を捧げ持って、その酌を恭しく受けるのでありました。
「唐目君はそんなに長く会社に居た訳じゃないけど、でも清々したでしょう?」
「まあ、清々とかウキウキとかはしないけど、かと云って後悔はないですけどね」
「考えたら、変な会社に入ったものだと云う感じよね、唐目君としては」
「そう云う風にも云えますかね」
 頑治さんは返杯の心算で、那間裕子女史の一口で空けた猪口に日本酒をなみなみと注ぎ入れるのでありました。
「袁満君はどうよ? 屹度不安で一杯なんでしょうけどね」
 那間裕子女史は袁満さんの方を上目で見るのでありました。
「いやあ、そうでもありませんよ」
 袁満さんはビールをグイと煽るのでありました。
「何だかその飲み方は、自棄酒と云った雰囲気だけど」
 那間裕子女史はからかうのでありました。
「そんなんじゃありませんよ、別に」
 袁満さんはビールが苦いのか、それともそう云われたのが気に入らないのか、眉間に皺を寄せて上唇に付いた泡を掌底で一拭いするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 662 [あなたのとりこ 23 創作]

「でもその顰め面と合わせて、如何にも自棄酒と云った雰囲気だけど」
「いやもう、会社にいても何の将来像も描けないと云う事がはっきりしましたよ、あの全体会議で。社長も土師尾常務もてんで頼りにならないし、それに経営者としての気概も能力もないという事が判明しましたからね。そんな会社にこの先残ってあくせく働いていても甲斐がありませんし、ここでパッと考えを切り替えないとどうにもなりません」
「現状変更に臆病な袁満君がそう決心したと云うのは、大した進歩じゃない」
 那間裕子女史が猪口をテーブルに置いて、拍手しながらからかうのでありました。
「あそこ迄無茶苦茶な二人が、会社をこの先率いて行こうとしている訳だから、それは袁満さんに限らず誰だって嫌気が差すに決まっているよ」
 均目さんが自分のビールグラスを傾けるのでありました。
「何だか臆病で頓馬な俺ですら嫌気が差すんだから、他の普通の人は全く当然の事として嫌気が差すに決まっている、と云う風に云われているみたいだなあ」
 袁満さんが苦笑するのでありました。
「いやそんな意味で云ったんじゃないですよ」
 均目さんが慌てて云い繕うのでありましたが、まあ多少はそう云う人の悪い謂いも、均目さんは頭の片隅に浮かび持っていたのかなと頑治さんは疑うのでありました。
「それにしても散々土師尾常務の悪辣さと陰険さと、好い加減さと無能さを社長に捲し立てて、本人のいないところで悪口を思いの丈吐いてきたようで、何だかちょっと後味が悪いところもあるけど、幾らあんな酷い社長でも俺達の事を逆に軽蔑したかな」
 袁満さんが午前中の社長室での事を振り返るのでありました。
「いやあ、社長は寧ろ真顔で土師尾常務評に聞き入っていましたよ」
 頑治さんが徳利を取って自分の猪口に熱燗の酒を注ぐのでありました。
「そうね。嫌な顔はしていなかったかしらね。初めて聞く土師尾常務の悪評に、返ってあたし達に同調するような表情をして聞いていたかしらね」
 那間裕子女史が猪口を煽るのでありました。
「まあ、同調はしないでしょうし、熱心に耳を傾けていても、だからと云ってあの社長が俺達に何かしてくれる筈はないでしょうしからね」
 頑治さんは那間裕子女史の空いた猪口に空かさず酒を注ぎ入れるのでありました。
「それはそうだけどね」
 那間裕子女史は溜息を吐いてから猪口を口元に運ぶのでありました。
「要するに今後土師尾常務に遣りたい放題を遣らせないために、その首根っこを押さえる材料を色々仕入れようと大いに熱心に聞いていた、と云う事だろうな」
 均目さんが手酌でビールを自分のグラスに注ぐのでありました。「俺達に対して共闘している筈の社長と土師尾常務の間にも、猜疑と嫌悪の風が渦巻いているからなあ」
「なんだかおぞましいわね」
 那間裕子女史がまた一気に猪口の酒を飲み干すのでありました。「だから袁満君、安心して良いわよ。会社に辞表を出したのは丸っきり正解よ」
(続)
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あなたのとりこ 663 [あなたのとりこ 23 創作]

「安心も何も、別に後悔している訳じゃないですから」
 袁満さんは苦笑して見せるのでありました。
「ああそう。くよくよしているように見えたからね」
「そんな事はないですよ」
 まあこの袁満さんの言葉は本心六分に強がり四分、と云ったところであろうと頑治さんは思うのでありました。袁満さんはどこか元気がないのは確かでありましたから。

 ここで均目さんが話頭を曲げるのでありました。
「ところでこうなったからには、当然組合は解散と云う事になるかな」
「だって残った組合員は甲斐さんだけだもの。甲斐さんが一人で組合を続けるとは考えられないわ。日比さんが加担する筈もないし」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「いやあ、案外そうとも限らないかも知れませんよ」
 袁満さんが意味あり気に笑うのでありました。
「日比さんが組合に入って、甲斐さんと二人で活動を続けるかも知れないって事?」
「ないとは思いますが、でもまあ、ひょっとして」
 袁満さんは再び思わせぶりに笑うのでありました。日比課長が甲斐計子女史に妙な下心を抱いている、或いは、抱いていたのを、袁満さんも知っているのでありましょう。何時だったか、日比課長の甲斐計子女史を見る目が妙にいやらしく、昔風の云い方で云えば、何となくモーションをかけてくるのが不気味だから、会社帰りに神保町の駅まで一緒に付いて来てくれと、頑治さんも前に女史に頼まれた事があったのでありました。
 袁満さんは日比課長にそんな不埒で秘かな魂胆があって、甲斐計子女史に組合活動を口実に使って緊密なる接近を図ろうとしてくるかも知れないと、そう云う事を半分冗談交じりで云っているのでありましょう。しかしそれはないであろうと頑治さんは考えるのでありました。日比課長の甲斐計子女史に対する懸想の本気度は、実際、組合に入ると云う選択と、切実さに於いて、まあ、対置可能な程大きいとは云えないでありましょうから。
 これは那間裕子女史には無関係な事であり、女史の気質に即して云えば、知ったこっちゃない話しであります。袁満さんも、那間裕子女史に対して余計な思わせぶりを態々ここでしたものであります。話しがややこしくなるだけではありませんか。
「日比さんが労働組合に対する認識を改めて、組合活動に目覚めた訳?」
 那間裕子女史は日比課長の甲斐計子女史に対する懸想を全く以って知りもしないから、かなり頓珍漢な質問を袁満さんに投げるのでありました。
「いやあ、日比さんはそんな殊勝な人じゃないですよ」
 袁満さんは鼻を鳴らすのでありました。
「じゃあ、一緒に組合活動して、甲斐さんをナンパでもしようと云う目論見?」
 お、流石に那間裕子女史であります。袁満さんの思わせぶりな云い草に、ここはなかなか鋭いところを突いてきた、と云うところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 664 [あなたのとりこ 23 創作]

 しかしまあ、こう云う無意味な話しをダラダラ続けてこの酒宴を態々長引かせるのは叶わないから、頑治さんは話しを軌道に戻そうとするのでありました。
「組合を解散するとなると、先ずは一応甲斐さんの思いを聞き質した上で、解散と決定したら、全総連にその旨報告しなければなりませんよね」
「それはそうだね。信義の上からも、組合の事を放ったらかしにして、この四人がスパッと会社を辞める訳にはいかないよなあ」
 袁満さんが軌道修正に乗ってくるのでありました。
「まさか甲斐さんが組合活動を続ける筈がないし、組合解散は間違いない事だろうけど、その時はどういう手続きが要るのかしら?」
 那間裕子女史が猪口を置いて袁満さんを見るのでありました。頑治さんは空かさず徳利を取って小さく振って中身があるかどうかを確かめてから、那間裕子女史の猪口に日本酒を注ぎ足すのでありました。那間裕子女史はちらと自分の猪口に視線を向けたけれど、それはさて置いて、と云う感じですぐにまた袁満さんの方に目を戻すのでありました。
「それはその旨全総連に報告した時に、教えてくれるんじゃないですか」
「面倒な手続きとかなくて、すんなり解散できるのかしら」
「いやあ、バックに付いているあの政治政党の事だから、面倒な手続きなんかより以前に、何だかんだと難癖を付けたり、宥めたり賺したり脅したり誉めそやしたりのあの手この手を遣って、何とか解散させないようにしようとするんじゃないのかな」
 これは均目さんの言でありました。
「だって当のあたし達が会社を辞めて、向後贈答社とは無関係になって仕舞うんだから、思い止まらせようとする事なんか出来ないんじゃないの?」
 那間裕子女史が反論しながら、先程頑治さんが酒をなみなみ満たした猪口を徐にまた取り上げて口元に運ぶのでありました。
「だから、辞めないで闘争を貫徹しろ、とか指嗾するんじゃないのかな」
「そんな事云ったって、あたし達が辞めるのは全くの自由だし、その個人の選択を妨害する権利なんか全総連にはないじゃないの」
「でもそこがあの政党の狡猾なところで、これ迄献身的に何くれとなく協力をしたり、各方面に対しても様々便宜を図ってきた恩義とか、春闘の時もその前の組合結成迄も色んな協力を惜しまなかった、総連加盟の他の社の労働組合に対する情義はどうなんだとか、義理と人情とかに絡めて一種の恫喝をしてくるような気がするなあ」
「何それ。まるでヤクザみたいじゃないの」
 那間裕子女史は信じがたいと云った表情をして見せるのでありました。
「その辺の手練手管なら幾らでも保有しているよ、あの政党は。そう云う遣り口で長い歴史をしたたかに、と云うのか狡猾にと云うのか、生き抜いてきた政党だしね」
 均目さんは自得するように何度か頷くのでありました。
「しかし全総連はその政党そのものではないし、その政党と関わりはあるとしても、別組織だよ。均目君の今の論は、坊主憎けりゃ袈裟まで、と同じ類いじゃないの?」
(続)
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あなたのとりこ 665 [あなたのとりこ 23 創作]

「いやあ、それはあの政党の正体を知らないからだよ」
 均目さんはあくまでも自分の考えに拘るのでありました。
「兎に角、甲斐さんが組合を一人で続けていくなんて事はないし、甲斐さんがあたし達が辞めた後の面倒な全総連との遣り取りをしなくて済むように、あたし達が会社を辞める責任に於いて、組合解散と全総連からの離脱をはっきり申し入れていくべきよね」
 那間裕子女史は均目さんのあれこれ面倒臭い話しを打ち止めにするように、そう云って同意を求めるように頑治さんを見るのでありまいした。
「ま、それが筋でしょうからね」
 頑治さんは頷いて那間裕子女史に同調する意を表すのでありました。
「明日にでも我々四人で全総連に赴いて、組合結成以前からお世話になった横瀬さんに、先ずちゃんと報告する事にしようか」
 袁満さんが頑治さんを見ながら云うのでありました。「その時に組合存続やら長期の闘争を強く勧められたとしても、まあ、あくまでも俺達が会社を辞める意志の強さをしっかり示せば、横瀬さんとしてもそれ以上、慰留とか指示とかは出来ないんじゃないかな」
「そうね。こっちの意志次第よね、結局」
 那間裕子女史が何度か頷いて見せるのでありました。
「そんな風に、こっちの思い通りにいくかね」
 均目さんは首を傾げて未だ懐疑的なところを表するのでありました。
「でもまあ、結局全総連には俺達の考えをちゃんと伝えなければならないし、それを遣らなければ、俺達としても結局、すんなり会社を辞められないし」
 袁満さんは説得するように均目さんの方に少し強い視線を向けるのでありました。
「均目君は全総連にあたし達の態度を表明する事に嫌に消極的なようだけど、それじゃあ訊くけど、他にあたし達が、甲斐さんや全総連に対して無責任じゃなく、きっちり後始末をして会社を辞めていく、どんな方法があると云うの?」
 那間裕子女史もやや強めの視線を均目さんに送るのでありました。
「まあそう云われると黙るしかないけどね、俺としては。つまり俺が云いたいのは、全総連と云う組織は、俺達が考えている程正義の味方的な組織なんかじゃないし、単純に俺達の意志をちゃんと尊重してくれるだけの、甘ったるい組織でもないと云う事だよ」
 均目さんはそう云ってビールグラスを手にするのでありました。要は均目さんとしては敢えて反対の意を表したり茶々を入れる心算はなかったのかも知れませんが、しかしちょいとばかり理屈を捏ねてみたかったと云う事になりますか。別に均目さんとしても、全総連に報告に赴く事自体に断固反対する等と云う意は更々なかったのでありましょうし。

 次の日の朝頑治さんが出社してみると、珍しく土師尾常務が既に自席に座っているのでありました。土師尾常務は頑治さんを一瞬天敵を見るような目で睨むのでありました。頑治さんはどうしましたと敢えて静かに訊き質して、彼の人と同等程度の敵意を露骨にここで示して脅してやろうかと思うのでありましたが、まあそれは止めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 666 [あなたのとりこ 23 創作]

 土師尾常務は頑治さんの対抗心に気付いて慌てて視線を外したのでありましたが、未だ頑治さんが自分をじっと見ているのを頬に感じるようで、どこかおどおどした様子で居住まいを正したりするのでありました。本来肝っ玉の小さい人でありますし、どう云うものか頑治さんは苦手のようでありますから、こう云う反応になるのでありましょう。
 頑治さんの後に甲斐計子女史が出社して来るのでありました。その後数分置いて袁満さんが現れるのでありました。袁満さんは扉の開く音に振り返った頑治さんに手を挙げて挨拶を送るのでしたが、頑治さんの時同様天敵を睨むような目で袁満さんを見据える土師尾常務の視線に対しては、ちゃんと気付きながらもすげなく無視するのでありました。
 その後、出社時間ギリギリで扉を開けるのは均目さんでありました。均目さんは袁満さんと頑治さんに順に挨拶の言葉をかけるのでありましたが、袁満さん同様に土師尾常務は無視するのでありました。例によって那間裕子女史は朝寝坊で遅刻のようであります。
 制作部スペースに進む均目さんに対しても、土師尾常務はその姿が見えている間、敵意剥き出しの視線を向けるのでありましたが、均目さんも相手にしないのでありました。
「何か自分達三人に対して云いたい事でもあるのですか?」
 頑治さんは均目さんの姿を眉間に皺を寄せて目で追う土師尾常務に対して竟、不愉快を隠さないでそんな言葉を掛けて仕舞うのでありました。
 土師尾常務は反射的に頑治さんの方に視線を移して、頑治さんの鋭く睨む目に出くわすと慌てて視線を外すのでありました。この遣り取りで歩を止めた均目さんが頑治さんと土師尾常務を交互に見るのでありました。
「俺達三人をそんな妙な目で睨むのは、何か云いたい事があるからでしょう?」
 袁満さんがそう云いながら、自席を立って頑治さんの横にゆっくり遣って来るのでありました。均目さんもマップケース向うの制作部スペースに引っ込むのを止めて、その場に立ち止まって土師尾常務の方に視線を投げるのでありました。何やらかなりの険悪な雰囲気に、甲斐計子女史は関わり合いになるのを避けるように、慌てて席を離れて入り口脇のカーテンで仕切られた小さな炊事スペースの方に避難するのでありました。
「君達は社長に直接、辞表を提出したようだな」
 土師尾常務が不快感を眉宇に滲ませるのでありました。「そういうものを直接社長のところに持って行くと云うのは、実に不謹慎な行為じゃないか、と僕は思う」
「しかし常務に出そうにも、例によって常務は得意先直行とやらで会社に現れなかったじゃないですか。それにその後も思った通り結局会社には顔を出す事なく、出先から直帰したんだからこちらとしては、要するに止むを得ず社長に提出した迄ですよ」
 袁満さんが土師尾常務を睨みながら云うのでありました。
「それなら今日迄待てば良かったんだ」
「今日まで待っても、常務が朝から会社に現れると云う保証は何もないですからね」
「現に今日は、僕は誰よりも早く、朝一番に出社しているじゃないか」
「それはどうせ、昨日社長から電話か何かがあって、そこで散々叱責されたり苦情を云われたりしたものだから仕方なく、殊勝らしく朝から会社に出て来たんでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 667 [あなたのとりこ 23 創作]

 均目さんが皮肉な笑いを片頬に湛えながら云うのでありました。「それをどう云う勘違いか妙に偉そうに、しかも恩着せがましく、誰よりも早く朝一番で、とか抜け々々と云ってのけるのは、一体全体どう云う了見からなんですかねえ」
 そう云われて土師尾常務が何時になく何も云い返さず悔しそうに下唇を噛むのは、屹度均目さんの指摘てえものがドンピシャだったからでありましょう。
「我々が直接辞表を社長に提出した経緯も、社長は理解してくれましたからね」
 袁満さんが止めの一発の心算でそう告げるのでありました。「社長は俺達が常務を吹っ飛ばして直接辞表を渡した件については、特段何も云っていなかったでしょう?」
「それはそうだが、そこは社長の度量の大きさと云うもので、大いに問題行為だと認識していても、敢えて目を瞑ってくれたんだろうさ」
 土師尾常務はこの場に居ない社長の顔を、忠義立てからか告げ口される事への警戒心からかちょいと立てて見せるのでありましたが、これで昨日社長から叱責なり苦情なりの電話があった事を、間抜けにもうっかり認めて仕舞った事になる訳であります。
「社長は俺達が揃って辞表を提出した件とは別に、常務の仕事態度や部下に対する信頼のなさとか関して、何かあれこれ云っていませんでしたか?」
 袁満さんは口の端に憫笑を湛えて訊くのでありました。それに対して土師尾常務は鬼の形相で袁満さんを睨むのでありましたが、ここでも抗弁を控えるのでありました。まあつまり、昨日の電話でそのような言が社長からあったのでありましょう。それにひょっとしたら袁満さん達と社長との間には自分を介しない交通があって、下手な嘘をここでついたなら、後でそれを社長に報告されるかも知れないと疑心暗鬼したのでありましょう。
「まあ、良いや」
 ここで均目さんが言葉を発するのでありました。「そう云う事で俺と袁満さんと那間さん、それに唐目君の四人はもう既に正式に辞表を提出して、社長の承認によりこの二十日の締め日を以って退社する事になりましたので、よろしくお手配ください」
「判ったよ。云われる迄もなくそのように手配するよ」
 土師尾常務は不愉快そうに一度頷くのでありました。「念のために云っておくが、後に不手際を残さないように、キッチリと自分の仕事を完結してから辞めてくれよ」
「貴方に態々そう云われる迄もないですよ」
 袁満さんが鼻を鳴らすのでありました。
「それから、これはもう社長に同意を貰っている事項ですが、つまらない工作とか企まないで、就業規定で決まった額の退職金はちゃんと出してくださいよ」
 均目さんが云い添えるのでありました。土師尾常務はここでも大いなる不快感を満面で表しながら均目さんを睨み付けて、しかし何だか後ろめたそうにその目をすぐに外して、判るか判らないくらいの小さな頷きをして見せるのでありました。
 丁度そこに那間裕子女史が扉を開けて事務所内に入って来るのでありました。那間裕子女史は座った土師尾常務を小さな弧状に囲んで、辞表提出組が何やら詰め寄ってでもいるような気配に、少し戸惑ったような表情をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 668 [あなたのとりこ 23 創作]

「あら、皆で何の談判をしているの?」
 那間裕子女史は妙にあっけらかんとした口調で誰にともなく訊くのでありました。遅刻したくせにあっけらかんとしている態度にも不愉快を覚えたようで、土師尾常務は眉根を寄せてプイとそっぽを向いて何も答えないのでありました。
「別に談判じゃなくて、昨日直接社長に辞表を出した経緯を説明したり、退職金は変な謀なんかしないで、規定通りちゃんと出してくれと要望していたんだよ」
 均目さんが近寄って来る那間裕子女史に説明するのでありました。
「要望と云うより、そんなの当たり前の事じゃない。社長もそこは約束してくれたし」
「ただ常務のこれ迄の遣り口を考えると、ここでちゃんと念を押しとかないと、どんな無体な事を仕出かすか判ったものじゃないですからね」
 袁満さんは土師尾常務とは近々きっぱりおさらばする事が決まったためか、慎に遠慮の無い云い草をするのでありました。土師尾常務は袁満さんをまた睨むのでありましたが、何も云い返さないのでありました。袁満さんがもう自分に対して弱気に出る必要がないと判ると、生来の小心さから用心深く、と云うよりはちょいと及び腰になったのでありましょう。ひょっとしたらこれ迄の意趣返しも袁満さんは狙っているかも知れませんし。

 全総連には辞表提出した四人が会社帰りに揃って説明に出向くのでありました。委員長の袁満さんと書記の那間さんの二人で行って貰っても良いのかも知れませんが、それでは何だか如何にも事務的だし軽々しいし、今まで何かと世話になった事に対して不誠実な気がするものだから、ここは全員揃って、と云う事に一決したのでありました。
 勿論、重大説明に袁満さんと那間裕子女史の二人が、二人だけで出向く事に気後れした事もありますか。それに頑治さんと均目さんにしても、袁満さんと女史の二人に縁切れの報告と説明を任せて、後は知らん振りと云うのも大いに気が引けるのでありましたし。
 出向いた四人は横瀬氏に、五六人が打ち合わせとかに使用する小さな会議室に案内されるのでありました。四人は横に並んで横瀬氏一人と対座するのでありました。
「何か会社の状況に変化でもあったのかな?」
 横瀬氏は当然これから為す四人の重大発表を未だ知らないものだから、何処かのんびりした口調でそう訊くのでありました。
「ええ、実は、・・・」
 袁満さんが気難しそうな顔をして後を云い淀むのでありました。その様子に横瀬氏は俄に普段ならぬ気配を感じてか、笑いを消し去ってパイプ椅子の背凭れから身を起こして、乗りだした身を支えるためにテーブルに両肘を乗せるのでありました。
「実は、唐突で恐縮なんですが、ここに居る四人は会社を辞める事にしたのです」
 何となく後を続け辛そうな袁満さんに代わって、均目さんが云うのでありました。
「えっ、辞めるって、・・・それは」
 横瀬氏は当然の反応として驚くのでありました。その後、険しそうな目で前に座る四人の顔を順に見遣るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 669 [あなたのとりこ 23 創作]

「藪から棒で、本当に恐縮なんですが、結局そう云う結論になったんです」
 袁満さんがようやく気分を立て直して均目さんの後から続けるのでありました。横瀬氏は怪訝そうな目を袁満さんに向けて、暫く言葉を発しないのでありました。
「その経緯をちょっと説明してくれないかな」
 横瀬氏は少しの間黙った後でそう返すのでありました。
「業績不振を云い訳に、せっかく春闘で獲得した我々の賃金やら待遇やらの成果を、社長と土師尾常務は簡単に反故にしようとしたからです」
 袁満さんが陰鬱な声で説明し始めるのでありました。「賃金は春闘の前の状態に戻すし、勿論年齢別同一賃金の体系も崩すし、果ては制作部を廃止してその後は他社商品中心の営業で遣っていくと云う提案を、ここにきて出し抜けに持ち出してきたんですよ」
「それでは約束が違うなあ」
 横瀬氏は舌打ちするのでありました。「春闘の妥結結果を何と思っているのだろう」
「その通りです」
 袁満さんが一緒に憤慨して見せるのでありました。
「そんな無茶な事を一方的に通告してきたのかい?」
「いや、向こうから社内の全体会議を開きたいとの要望があって、その中でそう云う提案と云うのか、宣告と云うのか、そう云うものがなされたのです」
「社内の全体会議、ねえ」
 横瀬氏は腕組みをして首を傾げるのでありました。「社内の全体会議とか云う閉じられた場で扱う議題じゃなくて、それは労働問題として扱うべきものだろうに」
「そう思ったのですが、・・・」
 袁満さんが語尾を濁すのでありましたが、目は向けないまでも、袁満さんの気持ちは均目さんの方に向いている気配が頑治さんに伝わるのでありました。向こうの持ち出した社内の全体会議と云う体裁をその儘受けるか、それとも労働問題として全総連も巻き込んで組合で受けるかは意見の分かれたところでありましたが、どちらかと云うと均目さんが、その思惑は確とは知れないながらも、自分達の意を社内の全体会議の方に引っ張ったと云う思いが袁満さんにはあるのであります。それはまあ、全くその通りであります。
 袁満さんのそう云う気持ちが判るようで、均目さんは何となく落ち着きを失くして身じろぎ等するのでありました。
「向こうから賃金の改変の提案があった時点ですぐにその全体会議とやらを打ち切って、こちらに一報を入れてくれたら方が良かったのに」
 この横瀬氏の指摘は実に以ってその通りでありますか。
「人員整理とかの話しも出ていたんで、我々としてはちょっと浮ついて仕舞って、適切な対応が出来なかったんですよ」
「人員整理の話しも出ていたのかい?」
 横瀬氏は呆れたように云うのでありました。
「ええ、向こうの提案に、制作部の廃止、と云うものがありますから」
(続)
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あなたのとりこ 670 [あなたのとりこ 23 創作]

「そう云う事なら益々、こちらにすぐに連絡を入れて欲しかったなあ」
 横瀬氏は恨みがましい目で四人の顔を見るのでありました。
「済みません。総てこちらの手落ちです」
 袁満さんはテーブルに額が付くくらい深くお辞儀して見せるのでありました。
「それで、二進も三進も行かなくなって、四人で会社を辞める事にしたのかい?」
 横瀬氏は何となく棘のある云い方をするのでありました。
「向こうに制作部廃止の目論見がある以上、あたしも均目君も会社を辞めるしかないじゃないですか。それは経営方針なんだから、向うの専権事項だし」
 那間裕子女史が横瀬氏の棘に対抗するようにぞんざいに云い棄てるのでありました。
「いや、向うの専権事項、と云って済ます問題じゃないよ」
 横瀬氏は那間裕子女史の不見識を批判するように、眉根に皺を寄せながら云うのでありました。「それは単なる労務対策と云うだけで、要は面倒な組合員達を会社から排除しようと云うのが本当のところかも知れないしね」
 それは確かにそう云う側面、いや、ひょっとしたら、正面、があるかも知れないと頑治さんは思うのでありました。その謀に自分達はまんまと乗ったのであります。
 と云うより、実は向こうの魂胆は薄々判っていたくせに、面倒になる事を嫌って意識的に見過ごして仕舞ったのでありますか。これは那間裕子女史にしてもそう諾うところがあるようで、横瀬氏に抗弁したそうに頬を膨らませて見せるものの、何も云い返さないのでありました。実は逃げたのでありますから、云い返す面目が立たないのであります。
「向こうに組合員を会社から追い出そうと云う肚があったとしても、それに対抗してうんざりするような対抗措置を長々と続ける気は、そもそも我々にはありませんし」
 均目さんが云い出すのでありました。「そんなようなら、綺麗さっぱり会社を辞めて次の道を探す方が賢明だと云う判断ですよ」
「会社側に不当極まりない扱いをされても、何も云わず黙って、情けなく会社の良いようにされっ放しになる、と云うのかい?」
 横瀬氏は眉根の皺の数を増やすのでありました。
「妙に事態が拗れて対決が長引くよりは、その方が余程マシだと思います」
 均目さんは悪びれない云い様を装うのでありました。
「ここに来てケロッととそう云われて仕舞うと、今迄君達の組合結成や春闘にあれこれ力を貸してきた全総連の立場がないね」
「いや、今までお世話になった事には感謝しています」
 袁満さんがまたもや深いお辞儀をするのでありました。「何も知らない我々が曲がりなりにも組合を結成して、春闘では多くの成果をかち取る事が出来たのは、偏に横瀬さんや全総連の皆さんのお蔭だと心から思っていますよ」
「でも、その感謝の意も、かち取った成果もここでサラリと捨てる訳だ」
 横瀬氏は皮肉な笑みを浮かべるのでありました。袁満さんは苦った表情で肩を竦めて、更なるお辞儀なのか単に俯いたのか判らないような所作をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 671 [あなたのとりこ 23 創作]

「まあしかし、向こうがそう云う意志なら致し方ないじゃないですか」
 均目さんがやや怒ったように云い棄てるのでありました。
「結局、向こうに負けたと云う事になるな」
「勝ち負けと云う観点は、少なくとも俺にはないですね」
「あたしもそうだわ。もし負けたと云われたとしても、会社のこの先の事を考えると、そうとも云えない気もしますしね。自分の事にしたって、変な勝ち負けとかに拘るよりも、将来の新しい道の事を考える方が余程生産的だと思うし」
 那間裕子女史もどこかつんけんした様子で云うのでありました。
「会社の非道に対してどこまでも抗戦する、と云う意志は全くないのかな?」
 横瀬氏はどことなく取り成すように語気を少し柔らかくするのでありました。
「そうですね。俺達にもこれからがありますし、そちらの方が大事ですから」
 均目さんも横瀬氏の語気の変化に応じるように少し大人し目に、言葉の棘先を丸くしながらも、しかしまたあくまでも断固とした云い草で云うのでありました。
「ここに居る四人全員がそう云う意志なのかな?」
 横瀬氏は頑治さんと袁満さんを見るのでありました。
「そうですね。自分もここいら辺で心機一転、と云う気持ちです」
 頑治さんが横瀬氏に視線を向けながら頷くのでありました。
「俺一人だけで、徹底抗戦を続ける訳にもきませんし。・・・」
 袁満さんは横瀬氏を見ないで小さく頷くのでありました。頑治さんと袁満さんの反応を観察して、横瀬氏は溜息を吐くのでありました。全総連麾下の労働組合員として、何とも不甲斐ない連中だと思いなしたのでありましょう。まあしかしこちらの考えもあるし、それは見解の相違と云う事で仕様のない事だろうと頑治さんは思うのでありました。
 袁満さんは項垂れているのでありましたが、均目さんはそんなそちらの勝手な思いなしなどなんとも思わないと云うような、ふてた顔をしているのでありました。那間裕子女史も変な期待なんかして貰っても困る、と云うようにふくれ面をするのでありました。
「君達がそう云う了見なら、まあ、仕方ないけど」
 横瀬氏はここで完全に頑治さん達を見限ったようであります。こんな労働者として意識の低い連中に何か手を差し伸べたとしても結局無意味だし、時間の無駄だし、寧ろ持て余すだけだと綺麗さっぱり匙を投げることにしたのでありましょう。まあ、それはそれでこの四人にとっては心外と云う訳でも無く、返って好都合と云うものでもありますが。
「色々面倒をおかけした事に報いられないのは、大変申し訳ないと思います」
 袁満さんが殊勝な事を云って頭を下げるのでありました。袁満さんだけに謝らせるのは気の毒だから、ここは他の三人も丁寧なお辞儀をして見せるのでありました。

 全総連に報告に赴くと云う大儀な仕事を終えて、四人は些か晴れ々々と全総連本部を後にするのでありました。気が軽くなった袁満さんが、この儘帰るのは何となく面白くないから、どこかで少し話しでもしていかないかと他の三人を誘うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 672 [あなたのとりこ 23 創作]

 まあ、他の三人には特に異存はないのでありました。依って四人は神保町駅の辺りまで戻って、件の居酒屋で酒でも酌もうと一決するのでありました。
「いやあ、案外すんなりと放免してくれたなあ」
 袁満さんがビールグラスを傾けながら云うのでありました。「そんなんじゃあ、自分の面目が立たないからもう少し粘れ、とか云われるんじゃないかとビクビクしていたけど」
「粘れ、と云うのは、つまり労働争議化して会社が非を認める迄闘え、と云う事?」
 那間裕子女史が熱燗の猪口を口元に運びながら訊くのでありました。どう云うものか那間裕子女史はこのところ日本酒づいているようであります。
「そうですね。無責任に放り出さないで、少しはこっちの労に報いたらどうなんだと凄まれたらと、ビクビクして仕舞いますよ。何だかちょっと弱いところを突かれるようで」
「でも何でそんな弱気になる必要があるんですか?」
 均目さんが袁満さんにビールを注いで貰いながら訊くのでありました。
「ヤクザじゃあるまいし、施した恩に対しては相応の働きで示せとか、義理と人情を絡めてこっちに何かを要求するのは、労働組合として妥当な遣り口じゃないですよ。まあ、背後にいる政党なら、自分達の利益のためならそんな事も遣りかねないけど」
「そんな政党が背後にいるなら、全総連も同じ遣り口をしてきてもおかしくないと云うことになるんじゃないかな、均目君の後の方の云い草からすれば」
 頑治さんが、まあ別にそんなに拘る気もないのでありましたが、ちょっとばかり均目さんに反駁して見せるのでありました。
「しかし、表面上全総連はあの政党とは無関係だと云う事になっているし、あの政党の影響下にあると云う事は、どうしても隠しておく必要があるからねえ」
「しかしそれは既に公然の秘密、と云うところだろう?」
「知っている者は知っているけど、まあ、世間的には未だそう知れ渡ってはいないし」
「確かに俺もあの政党と親密な関係にある労働組合の連合体だとは、均目君に聞く迄全く知らなかったし、全総連が労働組合の元締めの一つだとはかろうじて知っていたけど、どんな性格の組織かと云う事は、今に至っても未だぼんやりしているしなあ」
 袁満さんが均目さんの言に頷くのでありました。
「巧妙に正体を隠していますからね、全総連は。と云うより、あの政党に深く関係している組織は、どんな組織でも、関連なんか全くないように偽装をしていますからね」
 均目さんは自得するように頷くのでありました。
「どうして無関係を装う必要があるんだろう?」
 袁満さんがビールをグイと呷るのでありました。
「或る方面を中心に、あの政党の歴史的悪辣さとか遣り口の汚さが知れ渡っていて、そこと関係があると云うだけで生理的に嫌悪される恐れがあるからでしょう」
「生理的に?」
「そうです。云わば不倶戴天の敵、みたいなものです」
「あの政党はそんなに酷い政党なの?」
(続)
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あなたのとりこ 673 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんが均目さんのグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「まあ、あの政党の内部では、限りなく真っ当で倫理的で強固な意志による諸政治運動、と云う事になるんでしょうけど、それが如何にも世間の常識を無視していて、遣る事為す事が独善的で、薄気味悪く胡散臭く映って仕舞うんでしょうね」
「と云う事は、世間が誤解している、と云う事もあるかな」
「いや、誤解じゃなくて本能的に判るんですよ、あの政党のヤバさが」
「でも、他の政党によくある薄汚い金の匂いはあんまりしないかな」
「党員からの苛烈なカンパの強制とか、関係団体からの凄い額の上納金なんかが、汚くない金と云うのなら、それは確かに薄汚くはないですかね」
 均目さんは皮肉に笑って見せるのでありました。「あの政党は学術会にも、ある方面の産業界にも、それに新聞社や出版社と云ったマスコミ業界にも相当食い込んでいて、色んな組織にあの政党の細胞が送り込まれて活動しているし、或る一面ではその組織を支配していると云っても良いくらいですよ。それにまたこの細胞達が、実に献身的に働くときているし、党のためなら命も要らないと云う狂信的な人間もいるくらいですからね」
「まるでこの国の深い部分で、この国を陰で支配しているみたいな云い草だな」
 袁満さんは信じられないと云った顔をするのでありました。
「ある一面では、そう云ってもそんなに大袈裟でもないでしょうね」
 均目さんはしたり顔でゆっくりビールグラスを口元に運ぶのでありました。
「しかしそんなに凄い政党なら、この国の中でもうとっくに政権でも取っていて良い筈だけど、実情としては全くそうはなっていないよなあ」
 頑治さんが話しに加わるのでありました。
「議会制民主主義を屁とも思っていないんだよ。表面の顔としては如何にも議会を尊重しているような風を装っているけど、そんなものは打倒して、あの政党の一党独裁を実は目論んでいるから、現状の議会の中で政権を取る事に然程の重きを置いていないのさ」
「そうかなあ」
 頑治さんは首を傾げて見せるのでありました。「他党との連立を指向して、議会で今の政権を打倒する事を狙っているんじゃなかったっけ、あの政党は」
「いやそれはあくまでも表向きの顔だろう。若し他党との連立が成功して政権を奪取したとしても、それが本当の狙いじゃないから、その連立の中で他党をお得意の陰謀とか策略でかき回してグチャグチャにして、その連立を結局崩壊させて、その混乱に抜け目なく乗じて、最後には一党独裁を実現しようと云う将来戦法を画策しているんだよ」
「ふうん。そうなのかねえ」
 頑治さんは懐疑的な顔で猪口の酒をグイと飲み干すのでありました。「でも、その遠大なる謀は、今に至っても未だに全く成就していない、と云う事になるね」
「あの政党の正体は、片久那制作部長がよく知っているから、聞いてみると良い」
 自説に頑治さんがまるで信頼を置いていない様子であるのが気に障るのか、均目さんはここで説の信憑性を担保するつもりで片久那制作部長の名前を出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 674 [あなたのとりこ 23 創作]

「要するに、確かにあの政党は熱烈な信奉者と強靭な後援団体を組織しているのかも知れないけど、結局はその信奉者と後援団体は全国的な、と云うか、全大衆的な広がりのあるものではなくて、ごく一部の人間と組織の塊に過ぎないと云う事なんじゃないかな」
「いやいや、あの政党は陰でこの国のあらゆる分野に根深く浸透して、色んな謀を裏で秘かに指導している、と云っても決して云い過ぎではないと思うよ」
「そうかなあ。・・・」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。「それは誇大妄想と云うのか、そう云われるのが気に入らないのなら、買い被り過ぎ、と云うものじゃないかな」
「いいや、そんなに楽観的なものじゃないよ」
 均目さんは真顔で頑治さんを見つめるのでありました。「唐目君がそう考えているのは、あの政党の怖さを未だ知らないか、巧妙なカモフラージュに騙されているんだよ」
「でもそうなら、さっきも云ったけど、もうとっくにこの国で政権を奪取していてもおかしくないんじゃないかな。しかし現実にはそうなっていないと云うのは、考えている程誇大な組織ではなくて、矢張り全体から見れば少数派だと云う事になりはしないかなあ」
「そうよね。そう云われてみれば確かに、均目君はあの政党の事を過大評価しているような気がするわ。と云うよりは過大に恐れている、と云うべきかもしれないけど」
 那間裕子女史が頑治さんの意見に同調するのでありました。
「そう云うのなら片久那制作部長によく聞いてみれば良い」
 均目さんは形勢不利と踏んで、少しつんけんした調子で云うのでありました。
「均目君はあの政党に何か実害を受けた事があるの?」
 那間裕子女史が頑治さんの酌を猪口に受けながら訊くのでありました。
「いや、俺は別にこれと云ってないけど、片久那制作部長は昔の学生運動の中で、様々嫌な思いをさせられたし、実害を蒙ったと聞いているよ」
「じゃあ、つまり均目君は片久那さんの学生時代の話しを色々聞いて、その影響であの政党が嫌いになったと云う事かしら?」
 那間裕子女史はどことなく均目さんを軽んじるような云い草をするのでありました。均目さんは咄嗟に何か云い返そうとするのでありましたが、那間裕子女史に軽んじられているらしい事に激してか、口の外に出すべき言葉を急には何も思い付かないようで、悔しそうな顔で唇を引き結んだ儘、自分のビールグラスを握り締めているのでありました。

 袁満さんが欠伸をするのでありました。頑治さんと均目さん、それに那間裕子女史も参加してのこの手の会話には殆ど無関心なようで、畢竟放ったらかしにされているような按配で、竟々欠伸の一つも出て仕舞うと云うものでありましょうか。
「そろそろお開きにしましょうか」
 頑治さんが袁満さんを思い遣ってそう提案するのでありました。
「未だ全然飲み足りていないんだけど」
 那間裕子女史が目の前の猪口を差し上げて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 675 [あなたのとりこ 23 創作]

「しかし袁満さんが退屈そうな顔をしていますし」
「ああいや、俺は別に退屈している訳じゃないよ」
 袁満さんが片手を横に振りながら云うのでありました。「昨夜はちょっと寝不足で、それでつい欠伸が出ただけだよ。三人の話しは興味深く聞かせて貰っているよ」
「ああそう。なら、もう一本徳利の追加をして良いかしら?」
 那間裕子女史が徳利の首を掴んで、それを如何にも軽そうに差し上げて横に何度か振って見せて、残量が少ない事をアピールして見せるのでありました。
「ああ勿論、どうぞ」
 袁満さんは苦笑して何度か頷いて見せるのでありました。本当のところはこの辺で切り上げたかったのでありましょうが、生来の優しさから、袁満さんは那間裕子女史の要望を聞いてあげたのでありましょう。それにこれも生来の律義さから自分一人だけ帰るとも云わずに、皆の納得いくお開き迄付き合う心算なのでありましょう。
「兎に角片久那制作部長に云わせれば、あの政党は遣る事為す事到底信頼に値しないし、自分達の魂胆のためには平気で他人を犠牲に供する事を厭わない連中で、左翼のリーダー面をしたいくせに、リーダーと認めるに値しない下劣な政党だと云う事だ」
 均目さんがまた先程の話しを蒸し返すのでありました。
「それは新左翼運動出身の片久那制作部長の意見で、穏健な議会主義に転向して、左翼運動の、或いはその延長としての革命の前衛に値しなくなった、と云う批判だろう?」
 頑治さんがその蒸し返しに乗るのでありました。「あくまで片久那制作部長は自分の信じる左翼運動の、理想的で典型的な政党はかくあらねばと云う考えとの比較の上で、あの政党に見切りを付けたのだろうし、具体的にもいろんな場面で相当の被害や妨害を受けた経験があるんだろう。それならまあ、同調はしないけど気持ちは判りはする。しかし左翼運動の経験も、シンパであると云う事も今迄聞いた事のない均目君が、片久那制作部長の云うあの政党批判に余りに無造作に乗っかると云うのは、ま、どう云うものかねえ」
「別に無造作に乗っかっている訳じゃないよ」
 均目さんは少しムキになるのでありました。「あの政党の遣る事為す事、それに考えとか聞いていると、成程片久那制作部長の批判も尤もだと思えるんだよ」
「それは少し弱いな」
 頑治さんは無表情に均目さんを見るのでありました。「その均目君の云い草には、何と云うのか、切実さと云うのか、切迫感と云うのか、そう云うものがないんだよ。あるのは、片久那制作部長に対する無条件の追従、と云ったらちょっと云い過ぎになるかな」
 頑治さんは口元を笑いに歪めて猪口を口元に運ぶのでありました。均目さんは頑治さんのその云い草が甚く気に入らなかったようで、頑治さんから不意に視線を背けて不機嫌そうにビールをグイと一口飲むのでありました。
「兎に角、俺はあの政党は嫌いだし信用ならないと思っているよ」
「お酒をもう二本、持ってきて貰えます?」
 那間裕子女史が不意に、傍にいた店員に徳利の追加を注文するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 676 [あなたのとりこ 23 創作]

 那間裕子女史としては頑治さんと均目さんの会話がちっとも面白くないし、鼻に付いてきたものだから水を差してやろうと云う魂胆で、そう云う真似をしたのだろう頑治さんは思うのでありました。それに袁満さんも如何にも退屈そうにしているのでありました。
「ま、均目君が云う程、あの政党の力は日本の各界に及んでなんかいないと云うのが実際のところで、例え政治的工作が色んな所に浸透しているとしても、矢張り全体から見ればそんなに大したものになっていない、と云うのが掛け値なしのところじゃないかな。だからと云って俺も均目君度同様、あの政党はあんまり好きにはなれないけど」
 頑治さんはこの話しをここら辺で切上げようと思ってそう云うのでありました。
「俺はもっと深刻に、あの政党の害悪を考えているけど」
 均目さんも未だ頑治さんの意見には同意しかねると云うところを表明して、ビールをグイと飲み干して、読点を打つようにグラスをテーブルの上に置くのでありました。
「それにしてもあんなにあっさりと、ウチの会社の組合解散を全総連が受け入れてくれるとは思ってもいなかったわ。もっと手古摺るんじゃないかと考えていたけど」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの話しが一段落したと踏んで、新しくきた日本酒の熱燗徳利の胴を如何にも熱そうに持って、頑治さんに差し出しながら早速話頭を変えるのでありました。頑治さんは自分の猪口を先ず飲み干してそれを受けるのでありました。
「未だ受け入れられたとは限らないよ」
 均目さんが手酌で自分のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「あたしはそう受け取ったけど?」
「そんなにもの分かりの良い政党じゃないと云う事だよ」
「政党じゃなくて、全総連の話しよ」
 那間裕子女史が未だ均目さんが先程の頑治さんとの話しに一区切りを付けていないようだと思って、少しうんざりした表情をして見せるのでありました。
「まあ、全総連はあの政党と表向きは別だと装っているけど、殆ど一体だからね」
「それはどうでも良いけど」
 那間裕子女史はぞんざいな云い草をして、均目さんのくどさに少しの不快感を表明するのでありました。「あたし達みたいな、労働運動と云うものにそれ程熱心でもない態度をとる意識の低い連中なんかは、この際だからバッサリ切って仕舞った方が清々すると考えたのかしらね。まあ、そう云う事でも別にちっとも構わないけど」
「そうでもないんじゃないかと思いますけど」
 袁満さんが首を横に振るのでありました。「確かに俺達は全総連に相談を持ち掛けた当初から、組合結成に際しても頓珍漢な事ばかりしていると思われていたかも知れませんけど、しかしそれでも手取り足取り、熱心に助力してくれたじゃないですか」
「それは、つまりあの人達の、仕事、だからじゃないの」
「まあ、ああ云う組織はオルグと云う点に於いて兎に角熱心だし、それに選挙の時には、あの政党に一票入れてくれるに違いないと云う読みもあっただろうし」
 均目さんがそう云って鼻を鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 677 [あなたのとりこ 23 創作]

「あの政党の事はもう良いわよ」
 那間裕子女史が白けたような口調で云うのでありました。
 ここで何となく宴会は盛り上がらない雰囲気になるのでありました。依って誰云うともなくその日はこれにて解散と相成るのでありました。
 居酒屋を出て均目さんとは地下鉄神保町駅の入り口辺りで別れるのでありました。袁満さんは丸ノ内線に乗って池袋方面に帰るし那間裕子女史は中央線に乗ると云うので、頑治さんを含めた三人はそぞろ歩きに錦華公園の横の坂を通り抜けて、JRの御茶ノ水駅の方に向かってくねくねと脇道を上って行くのでありました。
 那間裕子女史をJRの駅で見送り、御茶ノ水橋を渡って袁満さんは外苑通りの横断歩道付近で別れて、頑治さんは一人自分のアパートに向かってゆっくり歩を進めるのでありました。湿り気を帯びた生暖かい夜風を妙に心地悪く感じるのでありました。
 まあ考えてみれば均目さんが云うように、全総連がこうもあっさりと贈答社の組合解散を認めてくれるとは思われないのでありました。この後も何か色々面倒なすったもんだがありそうであります。頑治さんは一人溜息を吐くのでありました。

 次の日の朝、全総連の横瀬氏から袁満さんに電話がかかって来るのでありました。先ず甲斐計子女史に代われと云う指示があったようで、袁満さんは受話器を耳から外して話口を手で押さえて、甲斐計子女史を呼ぶのでありました。
「全総連の横瀬さんから、ちょっと甲斐さんに訊きたい事があるってよ」
 そう云われても甲斐計子女史の方としては、横瀬氏とは特に何の話しもないでありましょうから、女史は自分の顔を自分で指差して怪訝な表情をして、尻込みするように首を竦めて手を何度も横に振って、電話を代わる意志は全く見せないのでありました。
「何であたしに話しがあるのよ?」
 そう訊かれてあんまり察しの良い方ではない袁満さんは、そう云えばどうしてだろうと考えてもう一度受話器を耳に押し当てて、横瀬氏に要件を訊き質すのでありました。
「組合の存続の件で、会社に残る組合員である甲斐さんに確認したいんだそうだよ」
「そりゃあ会社に残るけど、組合を続ける気なんかないわよ、あたしは」
 甲斐計子女史は憮然とそう云うのでありました。
「その辺の確認を直接したいんだろう、横瀬さんは」
「別に出る気はないわよ、そんな電話に。適当に云っておいてよ」
「いやまあ、そんなに変な警戒をして避けなくても、甲斐さん一人で組合を遣る気があるのか、それともここで組合とは一切関わらない心算なのかを、甲斐さんの口から直接、聞き質したいだけなんじゃないかな横瀬さんとしては」
「そんな事決まっているじゃない。嫌よあたしは、組合とこれ以上関わるのは」
「だから、その辺を直接聞きたいんじゃないの」
「直接も何もあたしは出ないからね。袁満君が適当に云っておいてよ」
 これはもう取り付く島もない云い草でありました。
(続)
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あなたのとりこ 678 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんは甲斐計子女史から目を離して、小さく舌打ちしてから気を取り直すように、ゆっくりとした手付きで再び受話器を耳に宛がうのでありました。
「甲斐さんは電話に出たくないそうです」
 そう受話器に向かって話す袁満さんを、甲斐計子女史は険しい目付きをして睨むのでありました。確かに出たくないのはその通りだけども、先方に対してもそっと無難な無愛想でない云い方はないのか、と云った恨みがましさがあるのでありましょう。
 甲斐計子女史はその後、その通りですね、とか、いや嫌悪している訳ではないと思いますが、とか、要するにそう云う労働問題とかに本人は至って無関心な方で、とか云う袁満さんを観察しながら、袁満さんと横瀬氏とで話されている電話の内容が、どうやら自分に変なお鉢が回って来る事なく決着しそうな具合であるらしい事に、胸を撫で下ろすのでありました。辞職四人組のお蔭で気分が陰鬱になるような、本来、これ迄の人生で毛の先程も興味のない面倒が自分に回ってくるのは、それは確かにひどい災難でありましょう。
「もうあたしは向うと話さなくて良いのね?」
 甲斐計子女史は袁満さんが電話を切った後に念のため確認するのでありました。
「ああ、もうその件は片が付いたよ」
 袁満さんは不機嫌そうに一つ頷いて見せるのでありました。ただ後で訊くと更にもう一度しっかり確認したい事があるから、その日の夕方に委員長の袁満さんと書記の那間裕子女史に、全総連の本部迄来てくれないかと云う依頼があったのでありました。
「また今日も行くの?」
 それを聞いた那間裕子女史は心底げんなりしたように云うのでありました。
「何か再度確認したい事項があると云うんですよ」
 袁満さんは些か遠慮気味の口調で返すのでありましたが、それは何だか、那間裕子女史に悪い事をしているような気がしたためでありますか。当然の事として、別に袁満さんは女史に対して済まなく思うべき何事もないのであります。まあそれは、不愉快そうな云い草をした那間裕子女史の方もそれは重々判ってはいる事ではありましょうけれど。
「今更何を確認したい事があるって云うの。あたし達四人はこの会社を辞める事になったんだし、甲斐さんは組合活動を続ける気はないんだし、それで充分組合の件はもう決着した訳じゃないの。確認したい事ってそれ以上一体何があると云うのよ」
「要するに俺達に辞意を撤回させて、労働争議を継続しろと指嗾するのが目的だろう」
 均目さんがそう云って口の端に笑いを作るのでありました。
「冗談じゃないわ。労働争議の継続より会社を辞める方が優先よ」
 那間裕子女史は憤慨するのでありました。
「勿論、俺達の誰もが労働争議の継続なんかご免ですよ」
 袁満さんも同じく怒りを表するのでありました。
「それでも向うは、何だかんだと辞意撤回の方向に教導したいんでしょう」
 均目さんはどこか他人事のように云うのでありました。
「ああもう、気が滅入って来たよ」
(続)
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あなたのとりこ 679 [あなたのとりこ 23 創作]

 袁満さんは溜息を吐いて項垂れるのでありました。しかし袁満さんの事だから、全総連からそう云う依頼がある以上、律義に出向く心算でいるのでありましょう。しかし那間裕子女史はすげなく袖にするのかと思いきや、袁満さんだけに嫌な役を押し付けるのは気が引けるのか、散々悪態を吐きながらも一緒に出向く事に同意するのでありました。
「何なら俺達も一緒に行きましょうか?」
 均目さんが頑治さんの方をチラと見て目で同意を確認してから、袁満さんに云うのでありました。頑治さんも均目さんとしても、袁満さんと那間裕子女史にだけ嫌な役回りをさせる事に、どこか気後れを感じたためでありますか。
「いや、俺と那間さんでと云う向うの依頼だから、二人で行ってくるよ。ちょっとした確認だけと云う話しだから、至って事務的にこちらも対応した方が無難じゃないかな。またここで四人揃って出向くとなると、返って妙に大袈裟な気がするし」
「それもそうですね」
 均目さんは納得気に頷くのでありました。「まあ本当に、ちょっとした確認だけで、早々に放免してくれるなら良いですけどね」
「もう俺達の意志は会社を辞めると決まっているんだし、例え向こうが何だかんだと労働争議を持ちかけてきたとしても、断固拒否すれば良いだけの話しだし」
 袁満さんが力強く一回頷くのでありました。しかし至って気の良い袁満さんが向こうの手練手管にうっかり乗せられないとも限らないと、頑治さんはその力強い頷きを見ながら疑うのでありました。横瀬氏は袁満さんなんぞより多分余程抜け目がなく、企み事にかけては大いに長けているでありましょう。依って袁満さんを二進も三進もいかないところに追い詰める術とかは、こう云う仕事柄、実にお手のものでもありましょうし。

 まあしかし、頑治さんのこの思いは杞憂に帰するのでありました。横瀬氏には何やらの企みはなく、本当に会社を辞めて仕舞うのかと聞き質す場面はあったようでありますが、だからと云って四人の決定に強引に立ち入ってくる気はなかったようでありました。
 何かしらの書面にサインやら押印を求められたりする事もなく、ただ日を置いて、もう一度冷静に四人の辞意と組合解散を訊き質すと云う心算で袁満さんと那間裕子女史を呼んだようでありました。袁満さんと那間裕子女史の二人としては些か緊張して出向いたのでありましたが、ちょっと拍子抜けであったようであります。
「結局、雑談で終わったと云う感じかな」
 重荷から解放された袁満さんが感想を述べるのでありました。
「そうね。あれなら態々出向く必要もないみたいな感じだったわよね」
 那間裕子女史も安堵の顔色を浮かべているのでありました。
「執拗に、会社を辞めるなとか、労働争議ともなれば全面的に後援するから徹底的にやれとか、そんな説得はなかったんですね?」
 均目さんが信じられないと云った顔で袁満さんに訊き質すのでありました。
「まあ、こっちとしてもどこか後ろめたかったけど、仕様がない事なんだし」
(続)
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あなたのとりこ 680 [あなたのとりこ 23 創作]

「向こうの、もっとお偉いさんとかが出てきてあれこれ話を聞くとか、今迄見た事のないような顔がそこに一緒にある、とか云う事もなかったんですね?
「うん、横瀬さんだけだったよ」
 均目さんとしてはひょっとしたら党関係の人間迄出て来て、労働争議を唆すのではないかと考えていた節があって、袁満さんのどこかあっけらかんとした報告を聞きながら、見ように依っては少しがっかりしたような表情で袁満さんを見ているのでありました。まあこれは均目さんのあの党に対する、一種の過剰反応、或いは過大評価と云うべきものに類するところでありますか。それ程警戒心を持つ必要は実際ないのでありましょう。
「要するに、この前の決着通りで、変更とかは特にないんですよね?」
 頑治さんが袁満さんに訊き質すのでありました。
「そうね。別段変更はないよ」
「それなら、またどうして袁満さんと那間さんを態々呼びつけたんでしょうね?」
「まあ、念のためにもう一度確認したかったんじゃないかな」
「それなら朝にかかって来た電話で訊けば、それで充分じゃないですか」
「直接面と向かって、再度訊きたかったんだろう」
「それだけですかねえ?」
 頑治さんは何となく釈然としないのでありました。
「本当は会社を辞めるなと再度説得する心算だったけど、あたしと袁満君の如何にもさっぱりしたような顔を見たらその気も失せた、と云う感じじゃないの」
 那間裕子女史があっけらかんと云うのでありましたが、まあそう云う事なら、特段自分が引っかかる必要はないかと、頑治さんは未だ充分納得いかないながらも思うのでありました。横瀬氏は兎に角四人の退社に関しては許容しているようであるし、それをどうこう批判する了見もなさそうだし、そこは多分拗れる気配はなさそうであります。ただ一種の徒労感と云うのか、当て外れのような、そんな気持ちはあるのではありましょうが。
 それなら態々袁満さんと那間裕子女史を呼び出したのはどういう意図からなのでありましょうか。袁満さんの云う単なる再確認なのでありましょうか。それとも那間裕子女史の云うように、説得する気が二人の顔を見たら急に失せたからなのでありましょうか。頑治さんとしてはその辺はどうしても気持ちの上でのモヤモヤが残るのでありました。
「唐目君は横瀬さんが今日改めて、袁満さんと那間さんを呼び出したその意図が、未だちょいとばかり判然としないようだね?」
 均目さんが頑治さんの表情を見ながら訊くのでありました。
「まあ、それはそうなんだけどね」
「俺も同じだよ。何か隠された謀があるんじゃないかと、そう疑っているんだけどね」
 均目さんとしては恐らく、均目さんが云い募るところの、あの党の恐ろしさ、と絡めてそんな疑問を発するのでありました。
「均目君は、全総連の後ろに隠れているあの党への恐怖、と云うのか不信感からそう云うんだろうけど、その辺はそんなに深刻だとは思っていいないけれどね、俺は」
(続)
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あなたのとりこ 681 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんはややぞんざいな口調で、この前以来の自説を繰り返すのでありました。
「あたしと袁満君を呼び出した割には、大した話もなかったけど、まあ確かに、唐目君が奇妙がるように、そうならどうして態々名指しで呼んだのかしら?」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「ひょっとしたら今後何か、アクションがあるかも知れないぜ」
 均目さんが意味あり気に云うのでありました。「一応ここで顔繋ぎをしておいて、組合の立ち上げから春闘に於ける助力なんかを恩に着せて、例えば近々あるらしい参議院議員の選挙であの党の候補の選挙活動を手伝えとか、そんな要求をして来る可能性もある」
 またそんな話しかと、頑治さんは些かげんなりするのでありました。
「そんなのは困るわよ、あたしは基本的に国政選挙なんて無関心な方なんだから」
「国政選挙?」
 均目さんが那間裕子女史を横目で見るのでありました。「国政選挙どころか、那間さんは地方選挙とか、大凡政治向きの事には何の興味もないくせに」
「それはそうね」
 那間裕子女史はあっけらかんと笑うのでありました。「確かに生臭い政治向きの話しなんかに、あたしは何の興味もないわ。そんなに暇でもないし」
「暇なら政治向きの話しをすると云うのも、どこか了見違いのような気もするけど」
 均目さんが皮肉っぽく云うのでありました。
「兎に角、選挙の手伝いなんて願い下げだわ」
「俺も困るよ。第一あの政党を普段から特に支持している訳でもないし、そんな政党の候補者の選挙応援する義理なんかは何もないもの」
 袁満さんも首を横に振りながら云うのでありました。
「でも義理と情に絡めて、頼むよと横瀬さんから電話がくるかも知れないですよ」
「そんな電話がきてもきっぱり断るよ」
 袁満さんは断言するのでありましたが、しかし気の優しい、相手の押しの強さに弱い袁満さんなら、横瀬氏に頼まれたら渋々でも、依頼を受けるのではないかと頑治さんは思うのでありました。そこが袁満さんの良いところでもあるのでありましょうから。
 この一連の会話は昼休みに四人で一緒に摂った食事の後に、倉庫の中に何となく集まって行われたのでありましたが、そろそろ午後の始業時間になるので、この辺りで誰云うともなく切り上げとなるのでありました。まあ暇潰しの雑談の類であります。
 後で纏めて棄てておきますとよ云う頑治さんの言に皆が甘えて、それぞれが飲んだコーヒーの空き缶が荷造り台の上に残されるのでありました。頑治さんはその儘倉庫に残って三階の事務所に戻っていく三人を駐車場から見送るのでありました。

 頑治さんは会社を辞す前に倉庫の整理をしようと思っているのでありました。自分が辞めた後に、ひょっとしたら新たに雇われた人間が仕事を受け継ぐかも知れないから、その後釜がまごつかないで済むようにしておかなければと考えた故であります。
(続)
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あなたのとりこ 682 [あなたのとりこ 23 創作]

 とは云っても、入社早々に結構大々的に倉庫の整理整頓はしていたし、その後もむやみに倉庫内が荒れないように気を付けていたので、後は少々散らかっていた材料類や商品類を識別に従って片付けるだけでありました。庫内の美化にも気を付けていたし、前の駐車場の清掃も日課にしていたから、そう大した手間もかけずに済みそうであります。
 午後三時を過ぎた頃再び袁満さんが顔を出すのでありました。袁満さんは頑治さんが倉庫整理に勤しんでいる姿を見て少し感心するのでありました。
「唐目君も律義なものだなあ」
「どうせならあれこれ後腐れなく辞めたいですからね」
「立つ鳥跡を濁さず、と云う訳ね」
「まあ、そんな感じですかね」
「俺も手伝おうか?」
「袁満さんは上での後片付けとか仕事の締め括りもあるでしょうし、ここは気にしないで大丈夫ですよ。俺一人で充分出来ますから」
 頑治さんはお辞儀しながら掌を横に振って見せるのでありました。
「いやまあ、商品の出し入れなんかで俺も倉庫を使っていたから、手伝うよ。それに第一営業スペースに甲斐さんと二人でいるのは何となく気が重いし」
 袁満さんは、察しろよ、とでもいうように苦笑うのでありました。
「ええと、何か用があって倉庫に下りて来たんじゃないんですか?」
「いや今も云ったように、甲斐さんと二人で上の営業スペースに居るのが気まずいから、ちょっと息抜きの心算で下りて来たんだよ」
 そう云う事なら何か倉庫整理を手伝って貰っても良いかなと、頑治さんは得心するのでありました。袁満さんも辞めるとなってもなかなか気が休まらないようであります。
「じゃあ、通路に出ている商品の段ボールを棚に片付けて貰いましょうかね」
「ほいきた。お安いご用だよ」
 袁満さんはどこか嬉々とした風情で早速仕事にかかるのでありました。その後も袁満さんはなかなか上の事務所に戻らず、倉庫整理とは無関係な、頑治さんの当日発送する荷物の荷造りまで手伝ってくれるのでありました。
「そろそろ四時半か」
 袁満さんは大方の荷作りが終わると腕時計を見て云うのでありました。「ちょっと一休みに缶コーヒーでも買ってくるか。奢るよ」
「いやいや、手伝って貰ったんだから俺の方が奢りますよ」
「そんな事は別に良いし、返って俺の方が助かったから、俺が奢るよ」
「・・・そうですか。済みませんね」
 ここでどっちが奢るか云い合っていても始まらないから、頑治さんは袁満さんの申し出を不承々々ながら受ける事にするのでありました。袁満さんは頷いて倉庫を出て行って、近くの自動販売機で缶コーヒーを二本買ってくるのでありました。
「どうも有難うございます」
(続)
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あなたのとりこ 683 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんは受け取ってやや丁寧にお辞儀をするのでありました。
「いやいや、缶コーヒーくらいでそんな風に礼を云われたら返ってまごまごするよ」
 袁満さんは大仰に掌を横に振るのでありました。
「その後、全総連からは何も云ってこないですか?」
「うん、今のところ」
「もう決着したと云う事でしょうかね」
「そうあって欲しいものだけど」
 袁満さんとしてもまた呼び出されたりするのはご免蒙りたいでありましょう。
「この儘退職まで、すんなり縁切りとなると良いですけどね」
「こっちの意志が退職と決まっているから、向うとしてもそれ以上どうしようもないだろうなあ。まあ、均目君に依ると、一度取り憑かれたらなかなか縁を切らせてくれない、悪霊みたいに執拗な政党がバックに付いていると云う事らしいけど」
 袁満さんも均目さんにしつこくそう云って脅かされているようであります。均目さんのこの手の執拗さなんと云うものも、全総連とかあの政党に充分匹敵するくらい、なかなかなものだと云えるでありましょうか。
「ところで土師尾常務は、例に依って今日も直行直帰ですかね」
 頑治さんは話題を変えるのでありました。
「多分そうだろうね。上がってみたらひょっとして事務所に居るかも知れないけど」
 袁満さんが、それは先ずないだろうと云う風の語調で云うのでありました。
「社員が四人辞めて、後には甲斐さんと日比課長だけしか残らないとなっても、当人は相変わらず無責任で気儘な仕事振りと云う訳ですかね」
「まあ、どんな事になろうと、端から役員としての自覚も責任感も期待出来ない人なんだから、結局はそんなところだろう」
 袁満さんは軽侮を露骨にするのでありました。
「事ここに到っても、社長はそれを許しているんでしょうかね」
「社長にしても、ウチの会社を何とかしようとか云う意欲はもうすっかり失せて仕舞ったようだし、どうなろうと構やしないと云う気持ちだろう」
「結局、贈答社を整理する心算なんでしょうかね」
「まあ、そんなところだろう」
 袁満さんは鼻を鳴らすのでありました。「日比さんも甲斐さんも早晩この会社を辞めさせられるんだろうし、会社を整理した後で残った資産を土師尾常務に文句を云われない程度分け与えて、それで目出度く一件落着させると云う肚だと思うよ」
「土師尾常務はそれで納得するんでしょうかね」
「まあ、土師尾常務と社長の間で、手切れ金を幾ら寄越せだの、そんなに無茶に吹っ掛けるなだのと、醜い争いが起こる事になるんだろうな」
「おぞましいですね、それは」
 頑治さんは冗談半分で大仰に身震いして見せるのでありました。
(続)

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あなたのとりこ 684 [あなたのとりこ 23 創作]

「実際どんな醜い争いをするのか、ちょっと覗いてみたい気がしないでもない」
 袁満さんは人の悪そうな笑みを浮かべるのでありました。
「そこには関心ないですね、俺は」
「そんなものを見ると目が穢れるか」
 袁満さんはそう云って哄笑するのでありました。
 まあ、頑治さんとしても無関心だと云ってはみたけれど、実は社長と土師尾常務との間で執り行われるのであろう暗闘に対して、多少の興味がありはするのでありました。これは行儀の悪い覗き願望であり、慎に悪趣味だとも云えるでありましょうか。

 倉庫の整理整頓と掃除と、自分の次に倉庫業務に当たる人がまごつかないで済むような気遣い等で、頑治さんとしては意外に早く退職迄の日時が過ぎて行くのでありました。まあ恐らく業務の人員を新たに雇う気は社長にも土師尾常務にもないでありましょうから、そうなると恐らく日比課長が専ら業務仕事を熟す事になるのでありましょう。でありますから頑治さんは一応、日比課長が困らないように気遣いするのでありました。
 しかし日比課長の方はこれから後の会社の存続やら自分の遣るべき仕事の方が気になっていて、倉庫業務の方は上の空と云った按配でありましたか。だから頑治さんは機会がある毎にあれこれ仕事の要領とかを伝授しようとするのでありましたが、日比課長の方としては、それは逆に煩わしいお節介と云う事だったかも知れないのでありました。
 袁満さんももうこの先出張営業と云う仕事は会社からすっかりなくなるのでありましたから、全国にあるこれ迄のお得意さんに業務終了の挨拶とお礼の電話、と云うのが主な仕事なのでありました。入社以来の付き合いがあった地方の旅館とかお土産屋に惜しまれたり、素っ気なく応対されたりする中で色々思うところもあるでありましょう。嫌々さ加減九分に多少は旅行のワクワク気分一分も確かにあったこれ迄の仕事に区切りを付けると云うのは、嬉しさ八分に寂しさ二分程度は、まあ、感慨深いものがあるでありましょう。
 均目さんと那間裕子女史の場合は、これはもう制作部廃止でありますから、綺麗に会社から痕跡を失くすと云う作業になるのでありました。要するに頑治さんの整理整頓よりはもっと乱暴に、悉くを破棄するなんと云う仕事であります。
 とは云っても、まあ、版権の管理上、印刷所に預け放しにしていた製版用のフイルムの回収やらその整理、自社出版の地図類や様々な本類のフイルムの整理等、なかなかに気を遣う仕事もありはするのでありました。特に印刷所等に預け放しにしていたフイルムなんかは、所在が判らなくなっていたりするものもあって、大いに手古摺る仕事のようでありました。この辺を好い加減にしておくと後で土師尾常務辺りに、ここぞとばかり因縁や文句を並べ立てられそうでありますから、ここは大いに気を遣うところでありますか。
 この間土師尾常務は実に珍しく、朝、得意先に直行すると云う何時もの不埒な行状は極力控えて、誰よりも早く会社に出て来るのでありました。これは彼の人がこれ迄の己が不埒なる行いを反省して実直なる人間に立ち返ったと云う訳では更々なく、社長に叱咤された故の渋々の行儀改めであるのは全く以って明々白々なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 685 [あなたのとりこ 23 創作]

 とは云っても先ずは会社に来ると云うだけで、暫く自分のデスクの椅子を温めた後は営業回りと称して早々に事務所を出て行くのでありました。まあ、会社に居ても彼の人のする仕事はないでありましょうし、居て貰っても返って他の従業員にとっては迷惑と云う事でもありますか。慎に珍妙なる存在感の御仁と云えるでありましょう。
 土師尾常務が居なくなった事務所の営業部スペースには、勿論日比課長も殆どの時間外回りに出ているのでありましたから、甲斐計子女史と残務整理をする袁満さんが如何にも気まずそうな雰囲気の中に残されるのでありました。袁満さんも次第にその気まずさに耐えかねて、下の倉庫に下りて来る機会が増えると云うところであります。
「前に全体会議で唐目君に、せっかく俺一人でも、何とか地方出張営業の仕事をこの先回していく術を教示して貰ったのに、結局こう云う結果になってそれも実現出来なくなって仕舞って、俺としては何だか唐目君に悪いような気がしているんだよ」
 袁満さんは用もないのに倉庫に居る事に気を遣って、屡お愛想の缶コーヒーを差し入れてくれるのでありましたが、それを手渡す時にそんな事を云うのでありました。
「いやあ、そんな事はありませんよ。事がこうなった以上致し方なしですし、袁満さんが負担に思う必要は何もありませんから」
「でも、仕方が無い事だとしても、俺としては唐目君の策は、屹度上手くいくような気がしていたからなあ。何だかここでご破算にするのは惜しいような気もするし」
「しかしあれは結局、急場の一策、と云う事以上ではないし、だから確実に上手くいくとも限りませんしね。今になってこんな事を云うのはちょっと気が引けますけど」
「でも真っ暗闇の中で、ポッと灯りが燈ったような気がしたんだよ、本当に」
「そう云って貰えるだけでも嬉しいですよ」
 頑治さんは苦笑いをして頭を掻くのでありました。
「ところで屹度会社は早晩解散になるだろうと云うのに、日比さんと甲斐さんはそれでも未練がましくこの会社にしがみつきたいのかねえ」
 そう云った後、袁満さんは自分の缶コーヒーを飲み干すのでありました。
「日比課長と甲斐さんの思いをちゃんと訊き質してはいないから、俺としては何とも云えませんけど、でも日比課長も甲斐さんも俺達よりずっと古い、地名総覧社時代からの社員ですから、会社に対する思い入れも俺達とは全然違うでしょうね」
「しかし近々会社がなくなるのは、先ず間違いないと云うのに」
「お二人は未だ、その事にリアリティーを感じられないのかも知れませんね」
「事ここに到っているんだから、それは鈍感にも程があると云うものじゃないかな」
 袁満さんは缶の中身が空になったのを態々確かめるように、それを耳元で二三度振ってみて、中で液体が騒ぐ音がしないかどうか試すのでありました。
「土師尾常務は論外だとしても、最終的には社長が、何とかしてくれるかも知れないと、期待しているのかも知れませんね」
「あの社長にそんな事を期待しても無意味だろうけど」
 袁満さんが舌打ちの後に溜息を吐くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 686 [あなたのとりこ 23 創作]

「それどころか寧ろ、この二十日で辞める俺達四人には、社長の言を信じるとするなら、一応退職金が出るようだけど、愈々となって日比課長と甲斐さんが辞める、と云うか、辞めさせられる時には、それも出るかどうか判りませんよね」
「そうだね。出ない公算の方が大きいんじゃないかな」
 袁満さんは大きく頷くのでありました。「そう云う意味では、俺達四人はここで賢明な判断をした、と云う事が出来るのかな」
「まあ、残る二人に退職金が出るのか出ないのか、未だ判りませんけどね」
「でも組合もなくなるし、二人の退職時の立場としては、今より悪くなるのは確実だな。それも日比さんと甲斐さんの選択だから、総ての結果の責任は二人にあるけどね」
 袁満さんは突き放すような云い草をするのでありました。

 退職もすぐそこ迄迫った或る日曜日の午後に、頑治さんのアパートを那間裕子女史が訪うのでありました。これは予め約束をしていたのではなかったので、頑治さんはアパートのドアを開ける事に少し躊躇いを感じるのでありました。
 以前真夜中に、那間裕子女史は突然何の前触れもなく、泥酔状態で頑治さんのアパートに来た事があったのでありました。その時は殆ど意識のない那間裕子女史を、持て余しながらも何とか苦労してアパートに上げたのでありました。しかしながら上げたは良いものの、それからどうして良いのか判らなかったので、急いで均目さんに救援を求めたのでありました。幸い均目さんはご苦労にも頑治さんの家まで遣って来て、那間裕子女史を引き取って帰って行ったので、何やら面倒臭い事にはならずに済んだのでありました。
 今次は真夜中と云う訳ではなく午後の六時を回ったころでありましたし、女史は意識を失くすほどに泥酔しいる訳ではないようでありました。
「電話もしないで急に来て悪かったかしら?」
 那間裕子女史は珍しく殊勝な顔をするのでありました。
「いや、別にそんな事はないですけど」
 頑治さんは如何にも歓迎すると云った風でもなく、かと云って大いに迷惑だと云う風でもなく、まあ、無表情でそう返すのでありました。
「この前みたいに酔ってはいないわよ」
 那間裕子女史は少しはにかむように、且つしおらしそうに云うのでありました。
「そうみたいですね」
 頑治さんは苦笑いをして見せるのでありました。「でも、ほんのちょっとだけど、アルコールの匂いがしない事もありませんけど」
「あら、バレたかしら、矢張り」
 那間裕子女史は面目なさそうに旋毛を見せるのでありましたが、そんなにあたふたする風でもなく、ま、上目遣いして笑っているのでありました。
「まあ、別に法律にふれている訳でもないから良いですけど」
「ちゃんと御茶ノ水駅の自動販売機で、唐目君の分も買って来たわよ」
(続)
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あなたのとりこ 687 [あなたのとりこ 23 創作]

 那間裕子女史は持っていたバッグから缶ビールを二本取り出して、頑治さんのすぐ目の前に差し上げて見せるのでありました。二本と云う事は、一本は頑治さんの分でありましょうが、後の一本は自分のものに違いないでありましょう。
「まあ、上ってください」
 頑治さんは缶ビールを受け取ってから、体を斜にして女史の通る空間を空けて那間裕子女史を部屋の中に通すのでありました。
「突然来て、唐目君が何処かに出掛けていたらどうしようと思っていたのよ」
「若し出掛けていたら?」
「その時は缶ビールを飲みながら、上野でも散歩すれば良いかと考えていたわ」
「ああ、成程」
「この前は寝て仕舞って中の様子が良く判らなかったけど、本ばかりで余計なものがまるでない、見事に殺風景な部屋ね」
 座卓代わりの炬燵を前に座った那間裕子女史は、頭を回して部屋の中をグルっと眺め回しながら云うのでありました。
「あら、でも、この部屋にちょっと似つかわしくないものがあるわ」
 那間裕子女史は立ち上がって、本棚の上に置いてあるネコのぬいぐるみを手にするのでありました。「何これ。唐目君の趣味?」
「いやあ、別に好き好んでそんなものをそこに置いている訳ではないんですが。・・・」
 頑治さんは少しもじもじするのでありました。
「彼女さんに貰ったの?」
「貰ったと云うのか、置いていったと云うのか。・・・」
「その彼女さんが置いていったものを、律義にこうしてここに飾っている訳?」
「飾っていると云うのか、目的があってそこに据え付けられていると云うのか」
「据え付けられている?」
 那間裕子女史は怪訝な事を云う頑治さんを上目に見ながら、やけにゆるりとした手付きでぬいぐるみを本棚の元の位置に戻すのでありました。「何かしら、事情がある訳ね」
 那間裕子女史はその後もう、そのネコのぬいぐるみをどうして頑治さんが所持しているのか、それにそこに何故置いてあるかと云う経緯には興味がなくなったように、ぬいぐるみを置いたすぐ近くの棚から一冊の本を引き摺り出すのでありました。
「伊東静雄の詩集ね」
 那間裕子女史はペラペラと頁をめくるのでありました。この本がどうしてここに在るのかとか、その理由や経緯を訊かれたら、これまた何やら面倒な説明になると頑治さんは考えるのでありましたが、まあ、那間裕子女史はその本の所在理由にネコのぬいぐるみ程不自然な感じを抱かなかったようで、別にその辺りは探りを入れてこないのでありました。女史はその本を本棚の元の所に戻すと、また座卓の前に座るのでありました。
「ええと、今日いらしたのは、つまりどう云う目的ですかね?」
 頑治さんは貰った缶ビールを一口飲んだ後に訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 688 [あなたのとりこ 23 創作]

「均目君について、唐目君が何か知っているかと思ってね」
 那間裕子女史もビールを一口飲むのでありました。
「と云うのは?」
「会社を辞めた後、もう既に働き口とか決まっているのかとか」
「あれ、もう那間さんはそれを知っているのかと思っていましたけど」
 頑治さんは首を傾げるのでありました。
「ううん、何だか新しく出来る出版の会社にコネがある、とかは聞いていたけど」
「具体的に、その出版社の名前とか会社の来歴とかは知らないのですか?」
「均目君の言に依れば、色んな会社の社史とかを編集したり、商業雑誌の記事を書いたりするプロダクションみたいな会社らしいんだけど、それ以上はよく知らないわ」
「その説明は均目君本人に聞いたのですね?」
「そう。・・・まあ、そうなんだけど、何だかはっきりとは話したくない気配だったから、あんまり根掘り葉掘り訊き質したりはしなかったわ」
「ああそうですか。成程ね」
 頑治さんは顎を擦りながら曖昧に頷くのでありました。「那間さんは均目君の向後の身の振り方に関して、均目君自身からもうすっかり話を聞いているのだとばかり思っていたんですが、実はそうではなかったんですね」
「どうしてそんな風に思ったの?」
「いやまあ、何となく。・・・」
 那間裕子女史にどうしてと訊かれて、考えて見たら迂闊にも別に何の確証も無く、本当にただ何となくそうなのだろうと頑治さんは勝手に思い做していたのでありました。
「その辺、唐目君は具体的に何か聞いていないの?」
「いやまあ、自分もあんまり具体的な事は聞いていないのですが」
 頑治さんは均目さんと片久那制作部長の間で交わされていた、片久那制作部長が興した会社に均目さんが採用されると云う約束を、ここで那間裕子女史に話して良いものかどうか迷ったので、あやふやに恍けておく方が無難だと考えてそう応えるのでありました。
「ああそう。均目君は唐目君には、はっきりとした事を話しているのかと思っただけど、どうやらあたしの目算違いだったようね」
 那間裕子女史は落胆の溜息を吐くのでありました。
「ところで那間さんと均目君は、ええと、その後、別にどうと云う事もなく上手くいっているとばかり思っていたんですが、そうでもなかったのですか?」
 これは少し無遠慮な質問かと頑治さんは云いながら思うのでありました。
「その後、と云うのは、つまりあたしが、酔い潰れて夜中にここに不躾に遣って来たあの日以後、と云う事よね?」
 那間裕子女史は含羞を少し含んだ笑いを頬に浮かべて訊き質すのでありました。
「ええまあ、あの日のその後、です」
 頑治さんも何となく居心地の悪そうな笑みを眉宇に湛えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 689 [あなたのとりこ 23 創作]

「あんまり上手くいっていたとは云えないわね」
 那間裕子女史は含羞の笑いを消すのでありました。「要するに断わりもなくあたしが唐目君の家に押しかけた、と云うのが気に入らないようよ。ま、当然だけど」
「俺もそこのところは未だに解せないところではあるのですが」
 頑治さんはそう云って遠慮がちに那間裕子女史の顔を見るのでありました。すると女史はその頑治さんのその視線に対抗するように、頑治さんよりも強い視線で見返すのでありました。頑治さんは何となくたじろぐのでありました。

 那間裕子女史は頑治さんのおどおどする様子を見透かすように、視線に尚一層の力を籠めるのでありました。まるで恨みを込めて睨むような目付きであります。
「あの時は前後不覚に酔っぱらっていたけど、でもね、ちゃんとそれなりにある種の計略みたいなものも、一応は持っていたのよ。ま、酔い潰れる前迄、だけどね」
「ある種の計略、と云うのは一体何ですかね?」
「あの時間に訪ねれば、まさか追い返されはしないだろうなって云う読みよ」
 それは確かに、終電後でもあるから追い返しはしなかったのでありました。
「追い返されないなら、好都合な一夜の宿代わりにはなると踏んだんですかね」
 那間裕子女史は鼻を鳴らして口の端を歪めて一笑するのでありました。
「単に家に帰る電車がなくなって仕舞ったから、唐目君のアパートをホテル代わりに使おうと思った、なんてそんな興醒めな理由なんかじゃないわ」
 那間裕子女史は少し怒ったような云い草をするのでありました。しかしその云い草の割には、その両目に何やら妙に色めいた潤んだ光沢が宿っているのでありました。ここでまた頑治さんはあたふたして仕舞うのでありました。
「まあ、酔い潰れて仕舞ったから、その計略も結局おじゃんになっちゃったけどね」
 那間裕子女史は哄笑するのでありました。「それに予想もしなかった事だけど、均目君を呼び出したりとかされたからね」
 那間裕子女史はここで缶ビールをグビと飲むのでありました。「まさか唐目君があの局面で、均目君を呼ぶとは思ってもいなかったわ。そんな当意即妙な逃げ方もあったかと、後で感心もしたわ。ま、憎らしさが八分で感心が二分、と云うところだけど」
「ひょっとして褒められているんですかね?」
 頑治さんは頭を掻くのでありました。
「何を無邪気に喜んでいるのよ。当然褒めている訳じゃないわよ」
 那間裕子女史は怒って見せるのでありましたが、そんなに激しく怒っていると云う風ではないのでありました。寧ろこれは拗ねていると云った感じでありますか。
「だから今日は、均目君の事を訊きにきたと云うのは単なる口実で、実はあの時の恨みを晴らしにきた、と云うのが本当の目的よ」
 那間裕子女史はそう云って意味有り気に笑うのでありました。
「いやあ、それは、・・・」
(続)
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あなたのとりこ 690 [あなたのとりこ 23 創作]

 頑治さんは怯んで少し後退りするのでありました。それを見て那間裕子女史はカラカラと愉快そうに笑うのでありました。
「随分嫌われたものね」
「別に、そんな心算ではないのですが。・・・」
「冗談よ。そんな気は、今日はないから安心して良いわ」
 那間裕子女史は頑治さんの臆病を笑う心算か、鼻を鳴らすのでありました。「唐目君には相思相愛の彼女さんが居るようだし、あたしの出る幕はどうやらなさそうだしね」
「あのネコも彼女さんとの間での、いわく付きのものなんでしょう?」
 那間裕子女史は本棚のネコのぬいぐるみを指差すのでありました。
「まあ、そんなような、そんなんでないような。・・・」
「何を曖昧な事云って誤魔化そうとしているのよ。でもそれはそれで別に良いわ。とことん拘る程の関心はもうないから」
 那間裕子女史は興味無さそうにネコのぬいぐるみから視線を外すのでありました。「ところで片久那さんのその後に関しては、唐目君は何も聞いていないの?」
 女史は話頭を曲げるのでありました。
「片久那制作部長の事、ですか?」
 均目さんとの絡みがあるから、ここで那間裕子女史が片久那制作部長の名前を出した事に、頑治さんはどぎまぎするのでありました。別に頑治さんがどぎまぎする必要はないのでありましょうが、均目さんが片久那制作部長の興す会社に誘われている、と云う事をここで、実は、と云う感じで自分の口から那間裕子女史にバラすのは、何やら潔くない告げ口のような気がしたものだから、竟々云い淀んだのでありました。先程も均目さんの次の就職の話しで、何となく確たることは知らないような口振りをした手前もありますし。
「唐目君が会社に入るのより随分前だけど、酒の席か何かで、もし今の仕事を辞めたとしたら、新宿のゴールデン街だったかで小さな飲み屋でも遣りたい、なんてことを聞いた事があったから、ひょっとしたらそう云う仕事を始めたのかしら、とか思ったのよ」
「片久那制作部長は酒が好きだったし強かったし、それに日本中の地酒のことを良くご存知でしたから、或いはどこかで飲み屋でも始めたのかも知れませんね」
 頑治さんはそう調子を合わせるのでありました。
「まあ、片久那さんの事だから抜け目なく、と云うか手抜かりなく確実に、ちゃんと次の仕事を見付けるか、或いは自分で興しているんでしょうけどね」
「ご家族もおありになるし、そこは着実なんじゃないですかね。色々各方面に学生時代からのお知り合いもいらっしゃるようだし、その辺りからの援助もあるだろうし」
「そうよね、あたしが心配する事じゃないわね。ま、そんなに心配もしていないけど」
「片久那制作部長の事に関しては、俺なんかに訊くより那間さんの方が、その後に連絡なんかもあるだろうから詳しいと思っていましたけどねえ」
「連絡なんて何もないわ、片久那さんが会社から居なくなって以来。寧ろ唐目君の事がお気に入りのようだったから、唐目君には何か連絡があったのかと思っていたわ」
(続)
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