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あなたのとりこ 451 [あなたのとりこ 16 創作]

 頑治さんが袁満さんの顰め面を何となく見遣りながら訊くのでありました。
「まあ特にはないけど、何となくこっちも終業時間になっても帰り辛いわよねえ」
 那間裕子女史が、云った後にそうなると決まったように溜息を吐くのでありました。
「その辺は、片久那制作部長はちゃんと判っているんじゃないの」
 均目さんが那間裕子女史の憂い顔に笑いかけるのでありました。「若しそんなような形勢なら、社長室にインターフォンで連絡してみれば良い事だし」
「それはそうだけど、・・・」
 那間裕子女史は一応頷くけれど、憂い顔は未だその儘なのでありました。「でも片久那さんが仕事そっち退けでこんなに長い時間自分のデスクを空けるのは、今迄なかった事だわね。少なくともあたしが会社に入ってからは初めてじゃないかしら」
「何か重大な話しをしているに違いないけど、その重大な話しの見当が付かない」
 那間裕子女史の憂い顔が均目さんに伝染するのでありました。「出雲君の退職金とか、或いは俺達社員に関しての何か重大な話しとかではないんだろうな、屹度。そんな話しなら適当に片付けて、こんなに異常に長い時間、社長と話し合いはしないだろうし」
「そうね、屹度自分に関わる重大な話しだから、日頃のクールさも、社長を手玉に取る事なんか訳がないとか云う嘗め切った余裕もすっかり忘れて、仕事そっち退けで談判しているんでしょうね。でもその談判の中身と云うのは一体何なのかしら」
 那間裕子女史は宙を見上げるのでありました。
「土師尾常務も帰って来ないところを見ると、こっちにも無関係ではないんだろうな」
 袁満さんが云うと那間裕子女史が袁満さんの方に顔を向けるのでありました。
「と云う事は、ひょっとしたらあの二人の待遇を、社長が見直すとか急に云い出したのかも知れないわ。だから二人結託して必死に社長に談判しているんじゃないかしら」
「そんな強気な事を、あの社長があの二人に云えるのかね?」
 均目さんが疑念を差し挟むのでありました。そこに丁度、茶を飲みたくなったためか、甲斐計子女史が均目さんのすぐ横を通り越そうとするのでありました。
「甲斐さん、ちょっと社長室に三人分の茶かコーヒーでも持って行って、中で何の話をしているのかとか三人の様子を探って来てくれないかな」
 袁満さんが甲斐計子女史の背中に云うのでありました。甲斐計子女史は話しには加わらないけど、自席でこちらの喋っている内容は聞いていたでありましょう。
「冗談じゃないわ」
 甲斐計子女史はすぐにふり返って首を横に何度か強く振るのでありました。「そんな厄介な場所に態々行くのは、誰に頼まれてもきっぱりお断りするわよ。何なら袁満君が行って様子を見て来れば良いじゃない。三人分のお茶はあたしが入れてあげるからさ」
 そう返されて、袁満さんもそんな勇気はないと及び腰を見せるのでありました。

 結局五時を過ぎた頃に片久那制作部長と土師尾常務は事務所に帰って来るのでありました。ほぼ一日の仕事時間一杯、二人は社長室に居たと云う計算であります。
(続)
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あなたのとりこ 452 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長はこれまで見た中で最上級の不機嫌顔をしていて、ぞんざいな手付きで椅子を引き出して、何だか嫌に荒々しい喧嘩腰を見せて椅子を軋ませながらそこに座るのでありました。頑治さんは丁度倉庫に行こうとしていたのでありましたが、片久那制作部長の妙に荒けない様子に何となく憚りを覚えて、こちらはなるべく音を立てないように椅子から立ち上がって、極力静穏且つ丁寧に椅子を机の中に仕舞うのでありました。
「唐目君は倉庫に行くのか?」
 片久那制作部長が不意に頑治さんに声をかけるのでありました。
「ええ。明日池袋の宇留斉製本所に行く用意がありますので」
「それは後にしてくれるか。ちょっと話しがある」
 片久那制作部長の言は懇願の口調と云うよりは命令調でありました。「唐目君だけじゃなくて、那間君も均目君も一緒に聞いてくれ」
 那間裕子女史はその日の夜は確か三鷹のアジア・アフリカ語学院での授業がある筈でありましたが、片久那制作部長の思いがけない厳色に少々まごまごした様子で、断りの言葉を発する機会を逸して椅子に座った儘身を固くするのでありました。均目さんも片久那制作部長の顔付きに染まって、険しい表情で肩と首に力を入れているのでありました。
「今迄社長と色々話したが、この会社を運営するに当たっての当面の方策も将来の方向性も、俺の考えとはまるで交わらないと云う実感を改めて持った」
 片久那制作部長はそこで息継ぎのために言葉を切って、頑治さん、均目さん、それに那間裕子女史の順に、夫々を刺々しい目付きで見据えるのでありました。まあ、この刺々しさはこの三人に向けられたものでは多分ないのでありましょうが、
「これ迄も大分我慢してきたが、・・・」
 片久那制作部長は益々こちらの気分が暗くになりそうなくらいの、慎に陰々滅々、且つささくれ立った物腰で続けるのでありました。「もう社長の考えには俺は付いていけないし、付いて行く気も完全に失せたからから、この辺できっぱりと去る事にした」
「と云う事はつまり、会社を辞める、と云う事ですか?」
 均目さんが忌憚の面持ちで確認するのでありました。
「そうだ」
 片久那制作部長は断固として頷くのでありました。均目さんは反射的に少し甲高い声で唸るのでありました。那間裕子女史も全く意外な片久那制作部長の言に、返す言葉を失くして茫然とした目付きをするのみでありました。勿論頑治さんも驚くのでありましたが、事務所に帰って来た片久那制作部方の顔を見た時に、何となくそう云う事がこれからその口で語られるのではないかと云う予感のようなものは持ったのでありました。
 暫くの間、重苦しい沈黙が制作部スペースの中に泥むのでありました。
「片久那制作部長が辞めたら、今後この制作部はどうなるんですか?」
 那間裕子女史が重苦しさに耐えかねたように言葉を発するのでありました。
「それより何より、この会社自体がどうなるんですか?」
 均目さんが空かさず続けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 453 [あなたのとりこ 16 創作]

「さあ知らない。それはもう俺には関わりの無い事になる」
 片久那制作部方は不愉快そうに慎につれない事を云うのでありました。
「そんな無責任な」
 那間裕子女史が憤慨したような目で片久那制作部長を睨むのでありました。その視線に臆した訳ではないでありましょうが、片久那制作部長は苦笑うのでありました。
「まあ、常務を中心に纏まって会社を盛り立てていって貰う事になるだろうよ。制作の仕事は既存の地図とか冊子類、それに工作物に関しては修正作業とかはこれ迄遣っていた通りだから問題無いだろう。商品管理や材料管理に関しては唐目君が疎漏なくちゃんと心得ているから、唐目君と密に打ち合わせを取っていれば、材料や商品類の発注とか製本関連の仕事も、つまり営業とのスムーズな連関も、均目君はなんとか熟せる筈だ」
「しかし制作部全般の管理とかなると、ちょっと自信が無いですよ」
 均目さんが眉根を寄せるのでありました。
「それは次第に慣れて貰うしかないし、多少煩わしいけど、そんなにくよくよする程大変な仕事ではないよ。これ迄よりも少し細心さを心掛ければな」
 こう云う辺り、片久那制作部長は均目さんの仕事振りにもっと細心さが欲しいと日頃から思っていると云う事でありますか。「那間君は、仕事は少し遅いけど、様々な修正作業とか編集仕事に関しては、まあまあそつが無いからこれも多分大丈夫だろう。管理の仕事も少しは分担して貰えば均目君も助かるだろう。ただ、懸念と云えば、毎朝のほほんと朝寝なんかしていないで、ちゃんと始業時間迄に会社に出て来るなら、特に問題は無い」
 那間裕子女史に関しては、時間のルーズさを一番苦々しく思っていると云う事でありますか。「唐目君は業務仕事では、各商品在庫と営業の動きとの兼ね合いとか、その辺にもちゃんと目配りも手配も疎漏無く出来るし、制作や編集仕事に関しても、もう充分戦力になる。第一出張営業が無くなったから、様々煩雑だった業務仕事が一つ無くなっている」
 頑治さんは片久那制作部長が云う程、自分が業務仕事に於いても製作仕事に於いても、頼りになる社員であるかどうかはあんまり自信が無いのでありました。依って頑治さんは片久那制作部長の評言に対して、小首を傾げて自信の無さを表明するのでありました。
 とまれ、片久那制作部長としては自分が会社を辞めたとしても、制作部の仕事は然程に混乱はしないし、滞りも起こらないだろうと考えているようであります。まあ勿論、会社に残る均目さんや那間裕子女史、それに頑治さんに対して、そう云わないと責任上、会社を辞め辛くなると云うある種の引け目みたいな気持ちもあるでありましょうし。
「慣れて仕舞えば、この会社の仕事でそんなに難しいものは何も無いよ」
 片久那制作部長はそう云って確信あり気に一つ頷くのでありました。
 しかし均目さんとしては仕事量がまた増えるのと、これ迄より格段に責任が重くなるのが大儀と云ったところでありますか。しかしこれは、取締役になると云う目はないとしても、課長とか部長待遇になってその分の手当がちゃんと付けば、それはそれで納得も出来ようと云うものであります。那間裕子女史の方は三鷹の専門学校通いとか、会社での仕事以外のところで実現したい志望もある事から、色々悩ましいところでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 454 [あなたのとりこ 16 創作]

 頑治さんとしては片久那制作部長が居なくなった後、会社が上手く回っていくのかどうか大いに気掛かりなのでありました。片久那制作部長と云う存在は、要するに扇の要のようなものでもあり、制作部に限らず、会社が会社として成立しているための結束点とでも云うべきでありましょう。要を失って仕舞うと、扇は扇でなくなるのであります。
 出雲さんが辞職すると云う既定の事実は、片久那制作部長のこの降って湧いたような衝撃的な発表に依って、頑治さんと均目さんと那間裕子女史の頭の中からすっ飛んで仕舞うのでありました。全く予期しなかった新しい展開と云うものであります。

 那間裕子女史が不機嫌そうに片久那制作部長の顔を窺い見るのでありました。
「抑々、何で急に会社を止める気になったのかしら?」
 これは質問と云うよりは、取りように依っては詰問の口調でありましたか。
「急に自棄を起こしたんじゃない。ここにきて竟に我慢の限界を超えたと云う事だ」
 片久那制作部長は不愉快そうに云うのでありました。
「それは社長に対して、と云う事ですか?」
 均目さんが那間裕子女史よりは柔らかな語調で訊くのでありました。
「そうだ。それに土師尾常務にもな」
 これは当然、制作部の空間を越えてマップケース越しに、営業部スペースの土師尾常務の席にも聞こえるような音量でありましたか。しかし何の気遣いも憚りも無く片久那制作部長がそう云い放っていると云うのではないのでありました。この言が発せられる前に、土師尾常務は疾うに家に帰るために事務所を出ていたのでありました。
 社長室から戻って直ぐに甲斐計子女史や袁満さん達に退社を告げる土師尾常務の声と、お疲れ様でした、と夫々バラバラに返す女史や袁満さんや出雲さんの声が制作部スペースにも漏れ聞こえていたのであります。依って気配として土師尾常務の不在は制作部の方にも了解されていた事でありました。尤も、土師尾常務が居ようが居まいが、今の片久那制作部長なら先の言を何憚る事なく発する事を何も躊躇わなかったかも知れませんが。
「一体社長と土師尾常務の何を、これ迄我慢していたって云うのですかねえ?」
 那間裕子女史が多少もじもじしながら質問を重ねるのでありました。
「何もかもだよ」
 片久那制作部長は応えるのも胸糞悪いのか、全く以って鮸膠も無いのでありました。
「そんな風に云われても、あたしには漠然としているだけですけど」
 那間裕子女史は、片久那制作部長の応えるぞんざいな態度に対してもカチンときたようで、当然ながらの不満の意を云い様で表明するのでありました。
「袁満君も出雲君も、それに甲斐君も、ちょっとこっちに来てくれるか」
 片久那制作部長は急に少し大きな声をマップケースの向こう側に送るのでありました。恐らく向う側では制作部のただならぬ様子が伝わっていたであろうから、その推移におどおどしながら聞き耳を立てていたでありましょう。依ってこの三人は片久那制作部長に呼ばれるとすぐに、マップケースのこちら側に顔を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 455 [あなたのとりこ 16 創作]

 三人共に一様に緊張の面持ちをして、マップケースを背にして片久那制作部長の右斜め前に、袁満さんが先頭で、次に甲斐計子女史、出雲さんの順に居並ぶのでありました。
「未だ日比さんが営業回りから帰って来ていないが、ちょっと俺から皆に話しておきたい事があるんだが、先ずは今日の社長室での事だ」
 片久那制作部長は右側の今来た三人と、左側の夫々の席に座って、椅子を回して自分の方に顔を向けている制作部の三人を眺め回すのでありました。別に勿体を付けているのではないのでありましょうが、その目線に場の緊張がいや増すのでありました。
「社長室で一体何の話をしていたんですか?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「だから今からそれを話す」
 片久那制作部長は、不必要な質問を差し挟むな、と云う言外の叱責を袁満さんに向けるのでありました。袁満さんはおどおどと額に脂汗を光らせて畏れ入るのでありました。その袁満さんの緊張が伝播したのか、甲斐計子女史も居心地悪そうに身じろぎするのでありました。出雲さんは竦んでのどぼとけを上下させて固唾を飲み込むのでありました。
「土師尾常務が出雲君を社長室に連れて行ったのは、社長へ退職の挨拶をさせるためと云うよりは、社長の前で出雲君に何だかんだと難癖を付けるためだろうと思ったから、そう云う陰湿な真似はさせたくなかったので、俺も後を追った訳だ」
 片久那制作部長はそう云って出雲さんを見るのでありました。「案の定、社長室に行ってみると、社長の机の前に出雲君を立たせて、自分もその横に立って、折角の新規の仕事を任せたと云うのに、何の成果も出せない内に勝手に辞めると云うのは、一体全体どういう了見なんだ、とか何とか詰問と云うか、云い掛かりをつけていたよ。なあ、出雲君」
 片久那制作部長は出雲さんを見つめながら表情だけの笑いを送るのでありました。出雲さんも苦笑って一つ頷いて見せるのでありました。
「土師尾常務は、何でそんな真似を態々辞めていく出雲君にするのでしょうかね?」
 これは均目さんが訊くのでありました。この言葉は先の袁満さんの一言とは違って、片久那制作部長に依って不必要と見做された訳ではない模様で、片久那制作部長は窘めるような視線は特に均目さんに対しては送らないのでありました。
「自分が必要以上に辛く当たって虐めたから、出雲君が辞める事になった訳ではないと云う点を社長に強調するためでもあるし、ひょっとしたら出雲君の辞職を限りなく懲戒扱いみたいにして、退職金を払わないで済ませる魂胆だったかも知れない。それとも例に依って人の弱り目に付け込んで、苦痛を倍加させ弄んでやろうと云う人格のさもしさからかも知れない。何れにしろ邪な目論見から社長室に出雲君を連れて行ったのは間違いない」
 土師尾常務が居ないものだからか、片久那制作部長は今迄用心深く慎んで来た筈の彼の人への人格に対する否定的言辞を意外に平気な顔でものすのでありました。
「つまりそう云う土師尾常務の目論見を阻止するために、片久那制作部長はすぐに後を追って社長室に行ったと云う事ですね?」
 袁満さんがまた邪険にされる事への警戒心から、遠慮がちに云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 456 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君に何か瑕疵があって辞める訳じゃないからな」
「で、片久那制作部長は社長室に入って先ずは、要するに正義感から、出雲君に難癖をつけている土師尾常務に、そう云う陰湿な真似は止めろと云ったんですか?」
 均目さんが、正義感、と云う言葉に多少の揶揄を込めてか込めないでか、何となく言葉の遣り取り中にすんなりと収まりがよろしくないような云い草をするのでありました。
 片久那制作部長はその均目さんの言葉付きに対して、不愉快そうに眉根を寄せるのでありましたが、敢えて無関心を貫いて何も返答しないのでありました。
「片久那制作部長が突然入って来たものだから、驚いた土師尾常務がまごまごして俺を詰るのを中断してくれて、俺としてはすごく助かりましたっスよ。ちょっと肚の中でムカムカしてきていたところだったから、あれ以上土師尾常務の詰りが続いていたら、ひょっとしたら俺は歯向かうような事を竟、口走っていたに違いありませんからね」
 片久那制作部長の代わりと云う訳ではないでありましょうが、出雲さんが代わって均目さんに向かって云うのでありました。確かに出雲さんは普段は温厚そうであんまり人の云う事に拘るところがない風にしているのでありましたが、しかしこう云う人に限って怒りの感情に火が付くと、意外に強面になる事もありそうであります。
「具体的に土師尾常務は何て云ったの?」
 那間裕子女史が出雲さんのその言を受けて、片久那制作部長にではなく出雲さんに目線を向けて言葉を投げるのでありました。
「何とか俺の将来の事を考えて、頭打ちで先の見込みがまるでない出張営業から、新しい将来性の見込める地方の特注営業と云う仕事を任せる事にしたのに、その自分の恩義には一顧もくれずに、面白くないからとか上手くいかないからって早々に逃げ出すのは、人としてどうなのかとか、まあ、如何にも大仰にそんな事をガタガタ云ってきたんスよ」
「よくもまあ恥ずかしくもなく抜け々々と、そんな見え透いたお為ごかしを口に出来るわね。あの人は一体どう云う神経をしているのかしら」
 那間裕子女史は呆れたように云って舌打ちをするのでありました。
「まあ、根っからのインチキ野郎と云うのは疾うに判っていたけど」
 袁満さんも露骨に鼻に皺を寄せて見せるのでありました。
「土師尾常務がそう云う事を云うのは、その後に多分退職金を減額するとか、或いはまるっきり払わないで済まそうと云う魂胆があるんだろうし、屹度社長もグルだろうな」
 均目さんも顔色に怒りと軽蔑の色を添えるのでありました。それからチラと、そうとは知れないように片久那制作部長の方を見遣るのは、あんたもグルじゃないのか、と云う疑いをその視線に込めたのであろうと頑治さんは推察するのでありました。
「出雲君が辞めるとしたら退職金の件は、目論見として土師尾さんと社長は予め共有していたんでしょうね。だから態々出雲君を社長室に連れて行ったのよ」
 こう云いながら那間裕子女史も片久那制作部長を横目に見るのでありました。
「確かにそう云う話しは、前に土師尾常務から聞かされたことがある」
 片久那制作部長が頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 457 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長がこういう云い方をするのは、その話しは知ってはいたけど、自分は加担する心算は毛頭無かったと云う事を言外に明示していると云う事でありますか。
「これに限らず土師尾常務の遣り口と云うのは、何時も薄汚いよなあ」
 袁満さんが顔を顰めるのでありました。
「均目君が今云ったけど、社長も結託していると云うのはその通りだ」
 片久那制作部長は話しを続けるのでありました。「寧ろ社長の方が一枚上手で、そう云う社長の意を受けて、土師尾常務がその実現にせっせと動いていると云って良いだろう」
「と云う事はつまり、社長が出雲君の退職金を払わないで済むように処置しろと、土師尾常務に命じたと云う事ですか?」
 袁満さんは片久那制作部長を凝視するのでありました。
「はっきり命じたと云うんじゃない。どうせなら払わないで済ませた方が会社としては助かるなあとか、そう云う仄めかしをして、それとなく仕向ける遣り口だな」
「土師尾常務は傀儡として忠実に無邪気に、張り切って実行しようとする訳ですね」
「その類の取るに足らない下らない企てに関しては、不思議な事に土師尾常務と社長の頭の中は、何時も見事にシンクロするからなあ」
 片久那制作部長は憫笑するのでありました。
「息もピッタリ、二人はツーカーの仲、と云う事ですね」
 袁満さんも皮肉を込めた笑いをするのでありました。
「品性下劣な同士はオツムの構造もピッタリ同じなのね。馬鹿じゃないの」
 那間裕子女史も罵倒するのせありました。「まさか片久那さんもグルじゃ?」
「そう云う何の得にもならない策術は、流儀として俺は好まんよ」
 那間裕子女史のどこか揶揄を滲ませた云い草を、片久那制作部長は軽めに一蹴するのでありました。社長と土師尾常務の計略に対して理知と倫理と合理の側にあらんとする自分は、全く以って無関係であると、これを以てはっきり表明した事になりますか。
 まあ確かに、片久那制作部長はなかなか食えない人ではありますが、同等に、かなり気位の高い人でもありますから、誰かに見られて後ろ暗くて見栄のよろしくない企みは忌み嫌って、自ら進んで加担はしないでありましょう。役員の中で一番、社員の信用をかち取っているのは自分だと云う自覚もあるでありましょうし、その評判に対する未練もまあまああるでありましょうし。まあ、事情に依っては違う場合もあるかも知れませんが、

 事務所の扉が開く音がするのでありました。営業回りしていた日比課長が帰社したのであろうと、頑治さんに限らず大方はそう判ったでありましょうか。
 少しして日比課長は制作部スペースの方に来て、マップケース越しに顔を出すのでありました。皆が制作部の方に集まっている気配を感じて覗きに来たのでありましょう。
「ああ、日比さん」
 袁満さんが声をかけるのでありました。それに励まされたように日比課長は出雲さんの横に進んで、制作部スペースに出来ている人の輪の中に加わるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 458 [あなたのとりこ 16 創作]

「何、今朝の出雲君の退職願の話し?」
 日比課長は横の出雲さんに喋り掛けるのでありました。
「いやまあ、それとは別っスけど」
 出雲さんは何となく返事を濁すのでありました。
「出雲君ばかりじゃなくて、片久那制作部長も会社を辞めると云う話しだよ」
 袁満さんが日比課長に眉根を寄せた顔を向けるのでありました。
「え、片久那制作部長も会社を辞める?」
 日比課長は目を剥くのでありました。「部長、それは本当ですか?」
「うん。止める」
 片久那制作部長が目を剥いた日比課長の顔を見据えて一つ頷くのでありました。
「何でまた、出し抜けにそんな事になったんですか?」
「それを今から訊くために、こうして集まっているんだよ」
 袁満さんが日比課長に応えてから片久那制作部長の方に顔を戻すのでありました。
「今話した出雲君の退職金の事にしてもそうだが、合理的な展望も無く相手の弱気とか面倒臭さに付け込んで、有耶無耶の内にとかあわよくばとかの当座の解決を目論む小人根性と云うのは、到底会社経営者の器とは思えない。そう云う社長と土師尾常務の姑息さと恣意と、良い加減さと気紛れに付き合うのにほとほと愛想が尽きたと云う事だ」
 姑息とか恣意とか良い加減とか気紛れとかの芳しからざる評言を四種類も並べ立てるのは、片久那制作部長の二人に対する甚大な悪感情を表わしているのでありましょう。軽蔑と侮り程度だけならこんな悪口の総棚浚えは多分しないでありましょうから、間違いなく片久那制作部長には二人に対する、憎悪、の念があるでありましょう。頑治さんとしては片久那制作部長の公式的な退職理由なんかよりは、その感情が形成されてきた経緯を、本人が自らどんな言葉で語るかのか、と云うところに寧ろ興味が湧くのでありました。
「出雲君の退職金の事以外に、社長と土師尾さんと一体何を話したと云うんですか?」
 那間裕子女史が片久那制作部長を上目で見るのでありました。
「それは会社の機微に属する事もあるから、ここではがさつに云えないが」
「そんな曖昧に誤魔化されたら、片久那さんが会社を辞めるはっきりした理由があたし達にはちっとも判らないし、理解を寄せる事も出来ないじゃないですか」
「これ迄あの社長と土師尾常務の為人を見てきたなら、あの二人がどういう人間なのかは既に那間君も判っているだろう。それに今迄我慢して付き合ってきた、と云うよりは、社員の手前、無理にも庇うような事をしてきた俺の苦衷も、判るだろう?」
「それは確かに、日頃から社長と土師尾常務にはうんざりさせられる事が多々あるけど、だからってこのタイミングで会社を辞める片久那さんの真意は矢張り判らないわ」
 こう云われて片久那制作部長は眉間に皺を寄せて少し黙るのでありました。このタイミング、と云う点は先程迄の社長室での遣り取りを披露するのが明快な説明と云う事になるでありましょうが、それをうっかり洗い浚い話して良いものか、洗い浚い話す事で自分の信頼度や侠気の評価が下がりはしないかとか秘かに見積もっているのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 459 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君が社長室を出て行った後、残った俺と土師尾常務に向かって、土師尾常務の報酬を上げる事にするとか、社長が急に云い出したんだよ」
 片久那制作部長は口重な風情で喋り始めるのでありました。「それはどういう文脈で発せられた言葉なのか、俺にはすぐにはピンとこなかったけど」
 とは云うけれど、何に付けても洞察の鋭い片久那制作部長の事だから、屹度すぐにピンときたろうと頑治さんは思うのでありました。
「どうしてそのタイミングでそんな話しが出たんだろう?」
 袁満さんが呟くのでありましたが、それはこの場では不必要な一言で、片久那制作部長の話しの腰を折る、と云ったような具合でありましたか。当人もそれに気付いて、ああご免、とこの不謹慎を小声でおどおど謝ってその後は口を噤むのでありました。
「俺も先ずそう思ったよ」
 片久那制作部長が袁満さんを見据えるのでありました。「当然考えられるような事としては、出雲君に退職届を出させたことに対する評価、と云う事になる」
「つまり出雲君に辛く当たって、出雲君が退職願を出したくなるように仕向けたのを評価して、報酬を上げる事にしたと云う事ですか?」
 均目さんが言葉を挟むのでありました。
「他には特に、何も妥当な理由は考え付かないわね」
 那間裕子女史が後に続くのでありました。均目さんと那間裕子女史のこの口出しに対しては、片久那制作部長は特に不愉快そうな顔を向けないのでありました。
「社長としては、売り上げがじり貧だと云うのに、従業員の賃金も上がって是正金も出して、これから先組合の目があるから思うような査定も出来そうにないのなら、人員を整理する事で人件費の総額を抑えたいと云う考えは自然に思い付くだろう」
「で、一人会社を辞めさせることに成功したんで、それに貢献した対価を土師尾常務に払うと云う訳か。でもそれは、何だか奇妙奇天烈な理由だよなあ」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。これは特に場にそぐわない科白と云う感じではないので、ここでは袁満さんは不興を買う事はないのでありました。
「確かに妙ちきりんな判断には違いない」
 片久那制作部長は一つ頷くのでありました。「予め出雲君を辞めさせると云う社長と土師尾常務共通の魂胆があって、それが成就したら土師尾常務の報酬を上げると云う約束が、ひょっとしたら俺の知らないところで成立していたのかも知れない」
「確かにあの二人なら、そんな阿漕な秘密の申し合わせもちゃっかりやりかねないな」
 日比課長が呟くのでありました。「碌でもない謀はすぐ考え付くからなあ」
「出雲君を辞めさせる事で人件費の総額を抑えると云うのなら、それに成功したのに土師尾さんの報酬を上げるのは、何となく謀として抜かりがあるように思えるけど」
 これは甲斐計子女史の科白でありました。
「出雲さんの年収を上回らない額を上乗せするなら、そう云う遣り口も成立するかな」
 頑治さんも一応話しに参加していると云う体面から言葉を発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 460 [あなたのとりこ 16 創作]

「それにしたって、社長にすればその上乗せ分も、姑息にケチりたいんじゃないのかな。社長は金に関してはえげつなく出し惜しみ屋みたいだから」
 袁満さんが頑治さんの観測に少しの疑問を呈するのでありました。
「あの二人は昵懇の仲のように見えて、実は牽制し合っているところもあるからね」
 甲斐計子女史が口の端を歪めて憫笑するのでありました。
「まあしかし社長は人一倍体面を気にするくせに、結構なリアリストでもあるからなあ。出雲君の年収分と土師尾常務の報酬を天秤にかけて、年収分より少ない額の報酬を出す方が算盤の上で得なら、気持ちの上では不本意でもそっちの方を選ぶだろうなあ」
 日比課長が先の頑治さんの意見に賛意を示すのでありました。
「二人の肚の内なんかどうでも良い」
 片久那制作部長が吐き捨てるのでありました。その語気にこの場の皆が気圧されて言葉を失うのでありました。で、現実に引き戻されるのでありました。確かにそうなのであります。この期に及んで社長と土師尾常務の気持ち等はどうでも良いのであります。あたふたの第一番目は片久那制作部長が会社を辞めると云う一事でありますから。

 日比課長が訊き難そうな風情で片久那制作部長に訊くのでありました。
「で、片久那制作部長には報酬の増額の話しは無かったんですか?」
「そんなものは無いよ。第一出雲君を辞めさせようなんて、俺は端から考えていない」
「折角組合が出来て、これから先色々と会社の運営やら従業員の待遇が透明になって、俺達個々としてもある程度納得出来るようになってすっきりする筈だったし、土師尾常務の専横も無責任も、かなり牽制出来るようになったと思った矢先だったのになあ」
 袁満さんが如何にも無念そうに呟くのでありました。「ここで片久那制作部長が辞めて仕舞えば、また元の木阿弥になってしまう」
 これは掛け値なしの本意のところで発せられる慰留の言葉でもありましょう。
「それどころか、片久那さんが居なくなると会社そのものが立ち行かなくなるんじゃないかしら。土師尾さんは全く頼りないし、抑々経営側のくせにどのように会社が動いているのかも、ちゃんとは知らないと思うわよ。これ迄何でもかんでも片久那さんに頼り切る心算でいて、自分ではする事もしないで呑気におんぶに抱っこを決め込んでいたから」
 甲斐計子女史も片久那制作部長の辞意に難色を見せるのでありました。
「あの人は単なる営業社員以上の仕事は今迄してこなかったし、さっぱりする気も無かったし、能力も無かったし。まあ、営業社員としてもそれ程有能とも云えないし」
 日比課長がここで意を得たように喋り出すのでありました。「片久那制作部長が居なければ、この会社は回らないだろうな。社長にしても下の紙商事と兼務だから、こっちばかりを見ている訳にはいかないし。それに大体、ウチの方の実務は何も出来ないし」
「もっと云えば社長は、実は全く手に負えない人物なんだよ」
 片久那制作部長が日比課長の顔を見据えるのでありました。「あの人は自分の金と会社の金のけじめが付かない人なんだから」
(続)
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あなたのとりこ 461 [あなたのとりこ 16 創作]

「それはどう云う事ですかね?」
「去年の十二月に売り上げが落ちてボーナスを出せないと云う事があったけど、あの時ちょっと会社の決算を調べてみたんだよ。俺もその時は未だ従業員だったから、当然俺のボーナスも出ない訳だから、それは大いに困るから、まあ、結構真剣にね」
 片久那制作部長はここで少し笑って見せるのでありました。「それで決算書を出せと云ったら、社長は最初渋っていたけど、従業員の一時金を出さないとなるとそれなりの根拠を示さなければ、それは受け入れられないと強く圧したら、嫌々ながらも出してきた」
「決算書の数字は、片久那さんは初めから知っていたんじゃないの?」
 甲斐計子女史が小首を傾げながら訊き質すのでありました。
「いや、決算とか税理とかの、経営に関する事は社長の専任で、俺はノータッチだよ。会社お抱えの公認会計士とか税理士とかと社長が共同でやっていたからね。決算書を作るための色々な数字は俺の方で出すけど、出来上がった決算書とか税務署に出す申告書なんかに関しては、当然社長は俺には一切見せてはくれなかったよ」
「ふうん、そんなものなんだ」
 袁満さんはその辺の少し込み入った事情が良く呑み込めないようでありました。
「そりゃあ、部長と云えども一従業員が経営に関する事に立ち入る事は出来ないさ」
 日比課長がしたり顔で袁満さんの不見識を笑うのでありました。
「まあ、案外そうでもないんだろうけどね。強く要求すれば俺も見る事が出来たんろうけど、そこ迄は俺はしない。社長には俺に見せたくない事情もあったろうしね」
 片久那制作部長が、日比課長の半可と袁満さんに対する高飛車を軽く咎めるような云い草をするのでありました。まあ、それはさて置くとして、片久那制作部長が決算書や申告書迄自分に見せろと社長に今迄要求しなかったのは、要するに社長に対する一種の侮りと、一種の寛恕の気持ちからであろうと頑治さんは推察するのでありました。
 そこ迄やると社長を体面が潰れる迄追い詰める事になるかも知れないし、ひょっとして体面の潰れた社長が破れかぶれに逆切れして会社を畳むとか云い出すと、それは元も子もないと云う判断があったのでありましょう。しかし、事が自分のボーナスに関わるとなると、それは寛恕の気持ちとか澄ましている場合ではなく、そんな余裕綽々はさて置いて、決算者を見せろと急に豹変して凄んで見せたと云う事でありますか。
 社長も片久那制作部長の剣幕に粟立って、算書を渋々出す破目になったのでありましょう。社長としたらうっかりそれを拒む事で、若し片久那制作部長にそれじゃあ会社を辞めるとか喧嘩腰になられたら怖い、と云う警戒心があったと思われるのであります。
「さあて、その決算書の数字なんだが、・・・」
 片久那制作部長は眉根を寄せて沈痛な面持ちをして見せるのでありました。「まあ、ありきたりなところで見てみると、例えば交通費なんかは従業員の通勤手当分を合算して、その他営業回りで使う分が土師尾常務と日比さんで、多く見積もって二千数百円として、それに営業日を掛けるとすぐに出て来るだろう。交通費は結構導きやすい数字だ」
 片久那制作部長はそこで一拍取るように深呼吸をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 462 [あなたのとりこ 16 創作]

「それはそうですね」
 袁満さんが納得気に頷くのでありました。
「そうしたら、実際の数字の三倍の額が計上してある」
「実際の数字の三倍!」
 均目さんが大仰に驚いて開けた口を閉じないのでありました。
「そうだ。少し多めに見積もっているから三倍以上と云う事になる」
 片久那制作部長は云った後に口を尖らせて頷くのでありました。「次にこちらで見当がつくのが人件費だが、これにしてもそうだ」
「人件費も片久那さんが、従業員全員の一時金の額も、残業代を含めた毎月の賃金も何時も計算しているから、これも確かに誤魔化し様がない数字だわね」
 甲斐計子女史が先の袁満さんのように頷くのでありました。
「そうしたらこれも約二倍、迄はいかないけど、それに近い額になっていた」
「二倍に近い額!」
 今度は日比課長が口を閉じないのでありました。
「まあ、他の勘定項目に関しても何やかやと問題が一杯あったよ」
「各項目の数字を適当に上乗せしていた訳ね、社長が」
 那間裕子女史が舌打ちするのでありました。
「そんなに上乗せしていれば、経営ピンチを装う数字に簡単に偽装出来るよなあ」
 均目さんが眉根を寄せるのでありました。「それじゃあ、売り上げが落ちて一時金が出せないと云うのは真っ赤な嘘で、本当は出しても充分な余裕があったって事か」
「道理で、賃上げとかはこっちが驚くくらい気前良く出した訳だ」
 袁満さんが唇を引き結んで悔しそうな顔をするのでありました。
「いやまあ、決算の数字の出鱈目さは出鱈目さなんだけど、前の期と比べて売り上げがかなり落ちていて、先が見通せないと云うのは確かに嘘ではないが」
 片久那制作部長がそう付け加えるのは、暮れのボーナスを前例のない金一封みたいな風にした事に、自分も一枚噛んでいたと云う疚しさがあるからでありましょうか。云ってみれば片久那制作部長も、社長の一時金支払い逃れに結託していた事になると頑治さんは考えるのでありました。しかしそう考えるのはどうやら頑治さん一人のようで、他の皆はそこには殆ど拘りを持たないようでありましたか。しかし皆も実は拘りを持ったけれど、片久那制作部長がおっかなくてうっかりした事は云えないでいるのかも知れませんが。
「そうやって誤魔化して置いて、社長はそのお金をどうする心算だったのかしら」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。「只管貯め込む心算だったのかしら?」
「そうじゃない。株だよ」
 片久那制作部長があっさり種明かしするのでありました。
「ああ成程ね。矢張り株を買うのにこっそり流用していたのか」
 日比課長が露骨に愛想尽かしするような顔をするのでありました。
「社長は株をやっているの?」
(続)
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あなたのとりこ 463 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが日比課長の思い当る節がありそうな云い方に驚くのでありました。
「昔から社長は株をやっていたよ。まあ道楽みたいなものかな」
「その道楽に、誤魔化した会社の金を注ぎ込んだ、と云う事になる訳ね。酷いわね」
 那間裕子女史が憤慨するのでありました。
「それは横領、と云う風にも云えるんじゃないのかな」
 均目さんも目を怒らすのでありました。「社員の一時金を出し惜しんで、その分を秘かに会社の業務とは全く関連の無い、株の購入と云う私的な楽しみに遣い込んだ訳だから」
「そう云うところのある人よ、あの社長は。それを別に後ろめたくも思わないし」
 甲斐計子女史がシニカルな笑いを浮かべるのでありました。
「その辺を片久那制作部長にジワジワと突かれたら、それは社長もオロオロするしかないかな。下手をすれば犯罪行為と云われ兼ねないからね」
 均目さんが甲斐計子女史と同じような笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「そりゃあ、片久那瀬利作部長と土師尾常務を役員待遇にして、俺たち以上に優遇しなければならなくなった訳だ。ふうん、成程ね」
 袁満さんが思わずそう云い出すと他の皆は夫々、片久那制作部長の手前、少し居心地悪そうにもじもじと或いはそわそわと佇まいを改めるのでありました。
「そこを指摘された社長は良心の呵責を感じて、すっかり観念したのかしら」
 那間裕子女史が少し間を取ってから片久那制作部長に問い掛けるのでありました。
「いいいやどうしてどうして。社長もなかなかの狸だからなあ」
 片久那制作部長は苦笑するのでありました。「ああ成程そうなりますかねえ、なんてしれっと云って、まあ内心の動揺はあったろうけど平然を装っていたよ」
「これが土師尾常務だったら、弱みを突かれたら反射的に逆上して、すぐに大騒ぎし始めるんだろうな。その点社長は人生経験が常務より豊富だから、余程性根が座っている」
 日比課長が社長を変な風に持ち上げるのでありました。
「あのう、若し話しが長くなるようなら、お茶でも淹れてこようか?」
 甲斐計子女史がここで今迄の話しとは無関係にそんな事を提案するのでありました。
「それとも場所を変えるか?」
 日比課長がこう云うのは居酒屋か何処かで酒の入った猪口でも遣り取りしながら、じっくり腰を据えて話しをしようかと云う提案でありましょう。
「いや、お茶も場所変えも要らないわ」
 那間裕子女史がきっぱり云うのでありました。余計な事をしないで、今この場で話しに集中しようと云う意でありましょう。それともこの後何か私用があって、実は早く話しを切り上げて家に帰りたいと云う肚であるのかも知れません。ただ話しの内容が内容なだけに、うっかり軽々にそれを云い出せないと云う板挟みの悩ましさでありますか。
「結局、片久那制作部長は、どう云った理由で会社を辞める事にしたのですか?」
 那間裕子女史の思いを察したから、と云う訳では別にないのでありますが、頑治さんが話しを迂路から大筋の辺りに戻そうとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 464 [あなたのとりこ 16 創作]

「それは要するに、社長がその暮れのボーナスを巡る一件とこの前の春闘で、俺を心底から煙ったく思ったのか、俺と土師尾常務の待遇に差をつけようとしたからだ」
 片久那制作部長はその折の社長の顔を思い出したように、唸る犬のような皺を鼻頭の辺りに寄せて見せるのでありました。

 片久那制作部長の話しを掻い摘めば、社長は土師尾常務と片久那制作部長の間の待遇の差を、片久那制作部長が許容出来る範囲を超えて広げようとしたのでありました。要するに事あるに付け様々苦言を呈する片久那制作部長よりは、耳触りの良いお追従を専らとする土師尾常務の方を、残念ながら社長はより愛でたと云う事でありましょう。
 おまけに、恐らく未だにモダニズムと弁証法的唯物論の徒たる片久那制作部長は、君君たらずと雖も臣臣たらざるべからず、なんと云う中国の伝統的儒教美学なんぞには見向きもしない人でありましょうから、それはまあ、利害関係者としてのそんな了見の社長を見限るのに然程の痛痒は感じないで済むと云う具合でありますか。それに利害関係とは云っても、常に社長の利の方を自分のそれよりは少し先にしていた心算の片久那制作部長の目には、そんな配慮に一顧もしない社長が歯痒い程に盆暗と映っていたでありましょう。
 片久那制作部長は土師尾常務より自分の方が、これ迄の生き様も人間の格も遥かに優っているという矜持は、まあ当然の事として持っていたでありましょうから、土師尾常務の待遇の多少の優位は、会社の落ち着きを考えて、自分が余裕をもって許容してやっていると云う思いがあったでありましょう。そう云う少し下がった位置に自分を敢えて置く事がまた、片久那制作部長の美意識にも沿っていたとも思われるのであります。
 しかしそれは或る微妙な一定の距離迄であって、それを越えようとするなら、これはもう社長の自分への裏切りであると見做すでありましょう。或いは社長の盆暗加減に、綺麗さっぱり愛想を尽かしてこの辺が見限り時であるとも考えるでありましょう。
 で、出雲さんが社長室から出て行った後で、そう云えばところで、と云った感じで、実は満を持してそんな提案が社長から、片久那制作部長にすれば唐突になされたのであります。社長の心底には、これ以上片久那制作部長に社長たる自分が良いように操られ、会社を牛耳られ続ける苦々しさが沸々と滾り立っていたのであります。
 社長としての権威も旨味も、平の取締役風情にこれ以上侵害され抑制され、或る意味軽視され続けるとなると、社長の方の我慢の方も好い加減この辺で限界に達していたのでありましょう。そこで、そんな片久那制作部長にけじめと云うものを思い知らせてくれようと云う逆襲の目論見が、竟にここに来て俄然発動されたと云う次第でありますか。
 これで片久那制作部長がしゅんと悄気て、怖れ畏まるようになればしめたものであります。それに若しもそうならなくて、久那制作部長が自棄を起こして会社を辞めるとかもの凄い剣幕で云い立てるとしても、それならそれで結構と肚を括ったのでありますか。まあ色々厄介で大して思い入れのある会社でもないし、社長には紙商事と云うもう一つの本業たる会社もある事だから、片久那制作部長に辞められて会社が立ち行かなくなっても、もう構うものかと云う、こちらにはこちらの自棄のやんぱちがあった訳であります。
(続)
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あなたのとりこ 465 [あなたのとりこ 16 創作]

「社長は会社を畳む心算で、片久那さんにそんな仕打ちをしようとしたのかしら?」
 那間裕子女史が小首を傾げるのは社長の本心を量りかねての事でありましょう。
「そうかも知れないけど、社長が自棄を起こして会社を畳んだら、土師尾常務が行き場を失くして困るんじゃないかな。この会社に居ればこその好待遇と勝手放題なんだから」
 均目さんが同じく小首を傾げて、土師尾常務の立場に言及するのでありました。
「社長としては会社を放り出す気は今のところ無いんだと思うよ。そこ迄本気で覚悟している訳じゃなくて、どうしたら俺をギャフンと云わせる事が出来るか、その辺の意趣返しの魂胆だけで云っているだけのように思うよ」
 片久那制作部長が均目さんの顔を見ながら云うのでありました。
「そんな子供じみた魂胆だけで!」
 那間裕子女史が呆れるのでありました。
「でもあの社長の事だから要は後先の考えはなくて、本当にその程度かも知れない」
 日比課長がシニカルな笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「でも片久那さんが辞めると云ったら、別に引き留めなかったんでしょう?」
 甲斐計子女史が片久那制作部長を上目遣いに見ながら訊くのでありました。
「その場では興奮して意地になって突っ張っていたけど、後で考えてみて怖くなって、明日になったら昨日の事は忘れてくれと愛想笑いしながら謝って来るかも知れない」
 袁満さんが片久那制作部長に代わってそんな観測を述べるのでありました。
「いや、俺が会社を辞める事に関しては、社長はもう敢えてそれを止める心算はないだろうな。その方が社長には色々好都合なところもあるんだろうから」
 片久那制作部長は袁満さんの観測をすげなく否定するのでありました。「当初は色々とあたふたしていても、会社を畳むと云う考えは多分頭の中には全く無いと思うよ」
「でも片久那さんが居なくなったとしたら、結局この会社は立ち行かなくなるんじゃないかしら。で、遅かれ早かれ会社も解散になるんじゃないかしらね」
 甲斐計子女史は暗い観測を口にして沈痛な面持ちをするのでありました。
「大丈夫だろう」
 方久那制作部長はあくまで楽観論に徹するのでありました。「俺が居なくなっても、何とか会社は回っていくよ。どんな組織でも大体はそんなものだ」

 那間裕子女史がここで舌打ちするのでありました。その音が少しばかり狙ったよりは高らかに響いた事に女史は少しおどおどするのでありました。
「辞めていく人は何時もそう云う無責任な事を云うのよ」
「そう云うのじゃない」
 片久那制作部長は少し気色ばむのでありました。「どうにもならないように見えても、大概の事は何とかなるものだ。君等が本気で何とかしようとするなら、だが」
「気持ちだけで会社が回っていくのなら、こんな簡単な話しは無いわ」
「誰も気持ちだけとは云ってはいない」
(続)
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あなたのとりこ 466 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ何を根拠に、大丈夫だなんて安請け合い出来るのかしら」
「制作部に関しては均目君も殆どの見積もりは出来るし、と云う事は制作部でかかっている月々の経費も把握出来るから、取引先から貰った請求書の処理や支払いの方も熟せる。会社に依って銀行振り込みにするか手形にするかは後で教えて置くし、発行する手形の種類とかも原則は簡単だ。新規商品の編集作業も製作も、これは今迄に熟している」
「それはそうですけど、でもちゃんとやれるか自信は今一つだなあ」
 均目さんは心許ないような事を云うのでありました。自分でも何とかやれるとは思うのでありましょうが、経験不足と億劫から、少々弱気になっているのでありましょう。
「慣れてくれば特に難しい事じゃない。誰にでも出来る作業だ。多少面倒だけど」
 片久那制作部長は均目さんの懸念を掃うのでありました。「それから那間君の方も今迄の仕事をその儘熟すだけだから特に問題は無かろう。製作に関わる作業はほぼ判っているし、地図類や冊子や旅行案内類の経年変化修正の要領も今迄やっていたその儘だ。多少スピード感は欲しいところだがな。懸念があるとすれば朝寝して遅刻する事だけだ」
 那間裕子女史は、始めは片久那制作部長の顔に視線を投げていたのでありましたが、中盤のスピード感云々と云う辺りでもじもじし出して、後段の遅刻云々の所で肩を竦めて俯くのでありました。案外しおらしいと云えばしおらしいような仕草であります。
「後は均目君が今以上に忙しくなる分のサポート、と云う事になる。それは二人で良く打ち合わせして分担を決めれば良いし、そこは二人の裁量だ」
 片久那制作部長は目を上げない那間裕子女史にそう云い置いて、今度は頑治さんを見るのでありました。自分は何を指示されるのかと半分身構えて、頑治さんは片久那制作部長の目を見返すのでありましたが、片久那制作部長は少し目を留めただけで頑治さんから視線を外して日比課長に目の焦点を合わせるのでありました。
「営業の方は別に俺が居ても居なくても問題は無いかな」
「まあ、それは多分そうですけど、・・・」
 日比課長はすぐには胸を叩かないのでありました。「片久那制作部長が居なくなると、土師尾常務の遣りたい放題を抑える人が誰も居なくなって仕舞うかな」
「そんなのは無視すれば良いだけの話しだ」
 片久那制作部長は平然と云い放つのでありました。
「いやあ、しかし、・・・」
 日比課長が顔を歪めるのでありました。「そうは云っても、なかなか執念深い人だし、無視したら後でどんな仕打ちをされるか判ったものじゃないし」
「日比さんが毅然としていれば良いだけの話しだよ」
 片久那制作部長は暗に日比課長の土師尾常務に対する弱腰と無用な阿りを、あんまり露骨にならないようにそれとなく批判するのでありました。
「日比さんは土師尾常務の前ではおどおどするだけで、全く頭が上がらないと云った感じだしなあ。何か弱みでも握られているんじゃないかと疑いたくなるよ」
 袁満さんが前にも聞いた科白で日比課長の日頃の態度を揶揄するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 467 [あなたのとりこ 16 創作]

「別に弱みなんか握られてないよ」
 日比課長は、これも前に聞いたように憮然として云い返すのでありました。
「土師尾常務に遠慮する事なんか要らないよ」
 片久那制作部長が励ますように云うのでありました。「別にあの人は人より仕事が出来る訳じゃない。社長の手前、積極的に営業している振りをしているだけで、その実ただ単に得意先から入る注文を、電話の前で手を拱いて待っているだけに過ぎない。第一あの人に本当に営業力があるのなら、こんなに売り上げが落ちたりはしないよ。物欲しげな顔を晒して、すっかり相手任せに仕事が転がり込むのを待っているだけだ」
「それは間違いなくそうだけど、・・・」
 日比課長は頷くのでありました。
「それが判っているのなら、そんな人間をどうして畏れる必要があるの?」
「そう云いますけどねえ、何か一言でも云うと十言くらい云い返されるし、云っている事が一々癪に障るし、煩わしいからなるべく関わりを持たないようにしていたいし」
「そうやって逃げているから、増長するんだよ」
 片久那制作部長は少し厳しい目で日比課長を睨むのでありました。「冷静に、あくまで冷静にあの人の云う事に一々反論していれば、あの人は執念深そうに見えてもこちらが腰を据えてクールな文言で、あくまで強気に云い返していれば、段々、と云うか案外すぐに腰が引けて来て、こんな会話が延々と続いていけば次第に自分の云い分に破綻が生じて、相手につけ入られると云う恐怖に駆られてきて、みっともないくらいにしどろもどろになってしまうよ。一度そう云う目に遭わせると、後は警戒心と畏れで何も云わなくなる」
「まあ確かに、元来が小心者ですからねえ」
 日比課長は調子を合わせるのでありました。土師尾常務がそう云う人であるのは日比課長も既に判っていたのでありましょう。しかし今迄そう出来なかったと云う事はつまり、日比課長も五十歩百歩に小心者なのだと云う事になりますか。
「一度そう云う風にしてみれば、以後変な云いがかりなんか付けなくなるさ」
 片久那制作部長は日比課長の顔を見据えるのでありました。
「片久那制作部長だからこそそれが出来るんで、日比さんとなるとどうかなあ」
 袁満さんが懐疑的な笑みを浮かべて日比課長を上目に見るのでありました。
「俺だって冷静なら、あんなヤツに云い合いで負ける筈はないよ。でも話していると段々頭に血が昇ってきて、これ以上喧嘩腰で云い合っていると間違いなく胸倉を掴みそうで、それに面倒臭くなって、上司でもある事だから竟々こちらから矛を収めて仕舞うんだ」
 これは日比課長が自分の気後れを反省している言葉なのか、それとも頑是ない子供にするように大人の対応をしているんだと弁解して見せているのか、頑治さんには良く判らないのでありました。まあ、その両方の謂いがあると取れば良いのでありましょうが。
「無精していないで一度、やってみればいいんだよ」
 片久那制作部長はそう唆してから袁満さんの方に視線を向けるのでありました。「それにこれは、袁満君にも同じように云っているんだからな」
(続)
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あなたのとりこ 468 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが思わず怯むのを確認して片久那制作部長は続けるのでありました。「出張営業にしてもあの人は実情を何も理解していない。単に俺が出している数字を見て、ねちねちと袁満君に難癖を付けているだけだ。あんな大した論拠もない御託に、どうして袁満君が反駁しないのか得心がいかなくて、何時も苛々しながら不思議に思っていたよ」
「まあ、先ずは面倒くさいから、の一言ですかね」
 袁満さんは弱々しく一応弁明するのでありました。
「袁満君は小心者だからなあ」
 日比課長が先程の意趣返しとばかり皮肉な笑みを頬に浮かべるのでありました。「頭ごなしに強い口調でがみがみ云われると、すぐに金玉が縮み上がって仕舞う」
 この日比課長の些か品位に欠ける表現に、甲斐計子女史と那間裕子女史が眉根を寄せてげんなり顔をして見せるのでありました。まあ、日比課長は女性陣に顰蹙を買うような事を態と口の端に上せて面白がると云う、ある種の悪趣味の人でもありますけれど。

 頑治さんが咳払いをしてから喋り始めるのでありました。
「片久那制作部長は、それは無いのかも知れないけれど、若し社長が考え直して、会社に残ってくれと引き留めに掛かったとしても、結局辞める決心は変えないのですかね?」
「まあ、そうだな」
 片久那制作部長は頑治さんを一直線に見るのでありました。
「もう社長とこれ以上付き合うのは、まっぴらご免だと云う事ですね?」
 頑治さんは念押しするのでありました。
「それに土師尾常務ともね」
「それじゃあ、同時に俺達と付き合うのもこれ以上はご免だと云う事ですかね?」
 そう訊かれて片久那制作部長の目に少し動揺の色が浮かぶのでありました。
「ああそうか。つまり俺達にも愛想が尽きたと云う事か」
 袁満さんが顎を撫でながら頷くのでありました。「大して仕事も出来ないし、出来ないなら出来ないなりに懸命に打ち込もうとする意気地も窺えないし、面倒見切れないからそんな社員達も、この際纏めて打っちゃって仕舞おうと云う魂胆ですか」
「袁満君は良く自分の事が判っているようじゃないか」
 片久那制作部長は袁満さんを睨みながらさらりと頷いて、頬に冷笑を浮かべて見せるのでありました。そんな当て擦りの言葉なんぞは屁でもないと云うところでありますか。寧ろ木乃伊取りが木乃伊で、袁満さんの方がそわそわと狼狽を見せるのでありました。
 確かに片久那制作部長にしてみれば社長や土師尾常務に限らず、自分以外の誰もが歯痒いくらいに無能で優柔不断で好い加減で、御し難い程の盆暗に見えるのでありましょう。そう云う奴原は纏めて疎み遠ざけるに限ると云うものであります。これ以上付き合うのはもううんざりであり癪にも障るから、只管手間と時間の無駄でありますか。
 しかしそう簡単に肯われると、これはもう立つ瀬も無いと云うものであります。袁満さんは少しばかり控え目にではありますが口を尖らせて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 469 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長は袁満さんのごく控え目な不満表明に対して、何ら頓着する様子も見せないで後を続けるのでありました。
「袁満君の仕事振りにしても俺にすれば物足りないところが多々ある。他の者に対しても夫々に云いたい事もありはする。しかしそれとは比べものにならないくらいに社長と土師尾常務の態度は、俺にとって許せないものがあると云う事だ」
 この制作部スペースに集っている従業員共としては、何だか少しはホッと息を抜いて良いのやら、それとも緊張し続けていなくてはいけないのやら良く判らないような、何とも妙に居心地のよろしくない片久那制作部長の云い草でありました。
 皆はもう少し得心が出来るくらいに具体的で生々しい、片久那制作部長が社長と土師尾常務を許せないところの理由を訊き質したいのではありましたか。しかし何となくそれ以上根掘り葉掘り片久那制作部長に言葉を要求するのが、非常に大儀であり不躾であるような雰囲気が場に重く泥んでいるのでありました。依ってここに集う皆は口をすっかり閉ざした儘で、一様に深刻顔をして項垂れているのみでありました。
「つまり片久那制作部長としては、今となっては、何があろうと会社を辞める事を考え直す気はないと云う事になりますかね?」
 頑治さんが念押しするのでありました。
「ないな」
 片久那制作部長は簡潔、且つまた慎に素っ気なく云い放つのでありました。
「あたし達を見捨てていく訳ね?」
 甲斐計子女史が少し尖ったような口振りで云うのでありました。
「君等には申し訳無い気が少しする。でもさっきも云ったように、これは無責任に聞こえるかも知れないけど、俺が居なくなっても大概の事はそれなりに何とかなるものだ」
「会社を辞めて、片久那制作部長はその後何をする心算なんですか?」
 日比課長がその辺に探りを入れるのでありました。
「未だ何も決めていないけど、まあそれは余計なお世話、かな」
 片久那制作部長に鮸膠も無くそう返されて日比課長は後の言葉を継げなくなるのでありました。日比課長としては片久那制作部長が実は既に、何やらその後に目算があって会社を辞めるのかも知れないと見当をつけたから、そこら辺りを訊き質したかったのでありましょう。少々穿って勘繰るとその片久那制作部長の目算に、あわよくば自分もちゃっかり乗っからせて貰いたいと、秘かに目論んだのかも知れないと頑治さんはふと考えるのでありました。日比課長は皆を出し抜く心算も、秘かに隠し持っているかも知れませんし。
「寸分も考える余地なく、生一本で会社を辞めると云う事ですね?」
 頑治さん同様に均目さんが念押しするのでありました。こちらの念押しには半分以上、もうそれを既定の事実として受け入れたような色があるのでありました。案外なかなかにもの分かりの良い、と云うのか、切り替えの早い均目さんであります。
「この会社はこの後、一体どうなるんだろう」
 袁満さんが殆ど自棄っぱちな調子で大仰に嘆くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 470 [あなたのとりこ 16 創作]

「まあ、すぐに辞めて仕舞うとは云わないよ。俺が居なくなっても後の憂いが無いと見極めてからにするし、そのようにちゃんと遺漏なく引継ぎしてからにする」
 片久那制作部長は袁満さんを慰めるような事を云って、項垂れている一同をぐるりと見渡すのでありました。「しかしまあ、俺としても自分や家族の向後の事を考えなければならないから、それも六月一杯が限度と云うところになるかな」
 そう具体的な期限を切られてみると、一同は片久那制作部長が会社を確実に去ると云う事実に、妙なリアリティーを感じて仕舞うのでありました。
 と云う事で、出雲さんの退職の件は片久那制作部長の辞意表明と云う一大事に依って、すっかり翳んで仕舞った風でありました。会社に於ける存在感の大きさからそれは仕方のない事かも知れませんが、頑治さんは何とはなしに出雲さんが気の毒になるのでありました。すっかり主役の座を片久那制作部長に奪われたような形でありましたか。

 今後の事を緊急に話し合っておかねば、と云う深刻さと切迫感から一同は帰宅を、或いはこの後の残業を取り止めて、片久那制作部長と辞意を表明した出雲さんを除いた皆で打ち揃って会社を後にするのでありましたが、向かったのは件の神保町駅近くにある居酒屋で、そこでじっくり今後の話しをしようと云う算段であります。日比課長が混じっているから組合会議と云うのではなく、臨時の全社員会議と云ったところでありますか。
 長方形の座卓の一辺に均目さんと那間裕子女史と頑治さん、対面する一辺に袁満さんと日比課長、それに甲斐計子女史が何となくの流れから座を取るのでありました。
「エライ事になっちゃったわね」
 夫々の前に飲み物が来てから那間裕子女史が口火を切るのでありました。
「まさか片久那制作部長が辞めるなんて、さっきまで考えもしなかったなあ」
 誰にも酌をしようと云う風が窺えないものだから、日比課長は日本酒の徳利を取って手酌で、自分の前に置かれた猪口に熱燗の酒を注ぎ入れながら云うのでありました。
「社長に片久那制作部長を切り捨てる勇気があるとも、考えなかったしなあ」
 均目さんが生ビールのジョッキを口元に持ち上げるのでありました。
「社長はひょっとしたらこの後、怖くなって片久那さんを引き留めに掛かるかも知れないわよ。小心者の社長は片久那さんの報復が怖い筈だから」
 甲斐計子女史が、こちらはアルコールがダメなものだから、大きめのグラスに入れて出された冷たいウーロン茶を飲みながら云うのでありました。
「若し社長が引き留めにかかっても、片久那制作部長の辞意は固そうですよ」
 頑治さんはレモンサワーのグラスを取って否定的な観測を述べるのでありました。
「でもかなりの好条件を出されれば、或いは辞意を撤回しないかしら」
 甲斐計子女史は小首を傾げて頑治さんを見るのでありました。
「どうかなあ。片久那さんは社長と土師尾さんにすっかり愛想尽かししているし」
 頑治さんの代わりに那間裕女史が生ビールのジョッキをテーブルに置きながら、顰め面で何度か首をゆっくり横に振りながら云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 471 [あなたのとりこ 16 創作]

「社長も会社の金を勝手に遣いこんで株を遣っていたと云う弱みを握られたから、片久那制作部長が会社を辞めるとなると、一面でホッとしているところもあるだろうし」
 均目さんが卓上に置いたジョッキを両掌で触ってその冷たさを楽しんでいるような手付きをしながら、那間裕子女史の言を補足するような事を云い添えるのでありました。
「そう、それがあるものだから社長は片久那さんを冷遇しようとして、会社を自分から辞めるように仕向けたんだろうからね。その後で弱気になったとしても、是が非でも片久那さんを引き留めに掛かるかと云うと、それはちょっとどうかしらねえ」
「片久那さんが居なくなるとすっかり土師尾さんの天下になって、社長には適当な事ばっかり云って誤魔化しながら、自分には好都合な事ばかり、あたし達には無体な事ばかり遣り出すに決まっているわ。社長の方も会社の金を自分勝手に使い放題になるし」
 甲斐計子女史はお先真っ暗と云った顔つきで首を横に振りながら、卓上に置いていたウーロン茶のグラスを持ち上げるのでありました。
「でもそれを防止するために組合を創ったんだろう、ねえ袁満君?」
 会社で片久那制作部方に話しを聞いている時以来、すっかり何も喋らなくなって仕舞った袁満さんを訝ってか、日比課長が話しを向けるのでありました。
「ああ、うん、それはそうだけど、・・・」
 袁満さんはようやくそれだけ呟くように云うのでありました。何となく心ここに在らずと云った風の、茫洋とした云い方でありました。片久那制作部長が会社を辞めると云う事にかなりのショックを受けて、茫然自失と云ったところでありましょうか。
「土師尾常務は実は頗る付きの小心者だから、片久那制作部長が辞めると聞いて、さあこれからは俺の天下だ、とか太々しくほくそ笑むよりは、先々の自分にのしかかってくる会社を動かす上での役割とか責任とかの重さを考えて、これは大変な事になったと狼狽しているんじゃないかな。そう云う事はすっかり片久那制作部長に任せっきりだったから」
 均目さんが袁満さんの口の動きが一向に捗々しくならないのを見取って、その代わりと云う訳ではないでありましょうがそんな事を云い出してみるのでありました。
「そうね、あの人は薄っぺらな見栄や体面の事はちまちま考えても、会社をちゃんとやっていく能力も器量も持ち合わせていないからね。根性無しだからひょっとしたら自分も、責任が重くなる前に慌てふためいて会社から遁走しようとするかもよ」
 今度は那間裕子女史が均目さんの説を補足するのでありました。
「ま、確かにその恐れは多分にあるか」
 日比課長が日本酒の徳利を自分の猪口に手酌で傾けながら頷くのでありました。
「でも社長との間で片久那さんを追い出して、土師尾さんが実質的に会社をやっていくと云う密約が既にあったから、あの席で社長が待遇の件を切り出したんじゃないかしら」
 甲斐計子女史がグラスを置くと読点のように卓が小さな音を立てるのでありました。
「それも確かに考えられるな」
 日比課長がこれにもしたり顔で頷くのでありました。
「全く、日比さんときたら調子が良いだけで、実は何も考えていないんだから」
(続)
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あなたのとりこ 472 [あなたのとりこ 16 創作]

 甲斐計子女史がそう詰った後で舌打ちするのでありました。
「いや俺は、どっちも可能性があるなと思うものだからさ」
 日比課長は急いで云い訳するのでありましたが、その言は虚ろに響いただけでありましたか。寧ろ甲斐計子女史は日比課長をすっかり頼りにならないと見切ったようで、真向かいに座っている頑治さんの方に眉尻を下げて眉根を寄せて、それから下唇を僅かに突きだして、日比課長に対するがっかり感と侮りを表情で表わして見せるのでありました。
「土師尾常務は軽忽で己を知らない愚か者で、尚且つ見当外れの自信家でもあるから、自分だって片久那制作部長に引けを取らない有能なる人間であると勘違いしていている節がある。まあ、でも実は大いに引けを取っている事を自覚していて、一生懸命見栄を張っているのかも知れないけど。しかし兎に角、片久那制作部長の居なくなった会社を自分が充分動かしていけるだろうと云う、虚けた自信と観測は秘かに有しているかも知れない」
 均目さんがそう云ってからビールを一口飲むのでありました。
「何、つまりどう云う事を云おうとしているの?」
 均目さんのこの中途半端に分析的でまわりくどい云い草を嫌に間怠っこく感じたためか、甲斐計子女史が小首を傾げて訊き質すのでありました。
「要するに、土師尾常務は片久那制作部長が居なくなっても、自分が居るから今後も大丈夫だと、既に社長に対して根拠のない大見栄を切っているのかも知れない」
「それは如何にもあの人がこっそり吹きそうな大法螺だけど」
 甲斐計子女史は同意の頷きをするのでありました。
「でも土師尾さんにそんな実力は端から無い事くらい、長い付き合いなんだから社長も疾うに判っているんじゃないかしら」
 那間裕子女史が先程の甲斐計子女史と同じ程度に首を傾げるのでありました。
「いや、同じくらいに社長も鈍くて能天気で、会社が赤字を出さないで回っていて、時々その儲けを自分のポケットの中にくすねる事が出来れば、それで御の字と云う程度にしかウチの会社に関与していないから、土師尾常務の営業能力とか会社切り盛りの能力なんかは実は無関心じゃないのかな。それに大会社でもないから、実際、税理士とか公認会計士とかの手をしっかり借りれば、土師尾常務でも何とかなるかも知れないし」
 均目さんがやや穿った知見を披露するのでありました。
「まあ、それはそうかも知れないけどね」
 那間裕子女史もここで頷くのでありました。

「それはそうと、袁満君、大丈夫?」
 那間裕子女史は徐に袁満さんの顔を覗き込むのでありました。「放心したような目をした儘、店に入って来て以来ずうっと黙りこくっているけど、体の具合でも悪いの?」
「いやあ、そうじゃないですけど」
 突然そう声を掛けられた袁満さんは、ゆっくり顔を上げて那間裕子女史に力ない笑いを送るのでありましたが、その顔からは生気が全く感じられないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 473 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君が会社を辞めるし、その上に片久那制作部長も六月一杯で辞める事になったと聞いて、お先真っ暗になって放心状態に陥ったんだな」
 日比課長が少しからかう口調で袁満さんの心理解析をするのでありました。袁満さんは日比課長の方に顔を向けるのでありましたが、特に抗弁する気配も見せず、焦点の良く定まらないような目で日比課長をぼんやり眺めるのでありました。これはどうやら本当に、放心状態と表現してもあながち外れていない状態でありますか。
「まあ取り敢えず一息入れて、落ち着いてくださいよ」
 真向いの均目さんがビール瓶を少し傾けて袁満さんの方に差し出すのでありました。袁満さんは条件反射的に自分のグラスを持ち上げて、均目さんの酌を受けようとするのでありましたが、グラスの中身は殆ど減ってはいないのでありました。乾杯した時に少し口に含んだけれど、その後はグラスを卓上に置いた儘にしていたのでありましょう。
「片久那制作部長が会社を辞めるのが、余程ショックだったのね」
 甲斐計子女史が云うと袁満さんはそちらの方へ顔を向けるのでありました。しかし目は格段の意識を何も宿していないような全くの無表情なのでありました。
「これから先、土師尾常務が会社を取り仕切るのかと思うと、もう将来は絶望的だ」
 袁満さんは何とか言葉を吐き出すのでありました。「あんな人にリーダーシップは望めないし、売り上げ不振を乗り切れるだけの力量も無いし」
「片久那制作部方に比べて、先ず圧倒的に人望が無い。それに誰よりも強欲で、自分の事しか考えていない。アイツがこれから先のさばるかと思うと、確かに絶望的だ」
 日比課長はここでは吐く言葉の中のからかいの色を薄めて、寧ろ土師尾常務への敵意剥き出しで袁満さんの憂いに相乗りして見せるのでありました。
「制作部の方は片久那さんが居なくなっても、何とかやっていけるの?」
 甲斐計子女史が均目さんを見ながら訊くのでありました。
「まあ、最初はあたふたするかも知れないけど、ここのところ色々、片久那制作部長がやっていた管理の仕事を委譲されているし、大凡のところは何とかなりそうな気がする」
 均目さんはそう云いながら、横に座っている那間裕子女史を横目で縋るように窺い見るのでありました。任せておけとドンと胸を叩く、と云った風ではないながらも、均目さんとしては全然自信がないと云うところでもないようでありますか。
 均目さんに横目で窺われた那間裕子女史は、その視線は頬に感じながらも特に反応を見せないで、ビールのグラスに視線を落としてそれを弄んでいるのでありました。自分の視線にしっかと応えてくれない那間裕子女史に均目さんは少し目算違いしたようで、今度は那間裕子女史越しに頑治さんの方に視線を投げるのでありました。
 頑治さんは一応礼儀から均目さんの方に顔を向けるのでありました。半分制作部要員で半分業務担当と云う自分の仕事上の立ち位置から、均目さんに和して安請け合いするのはちょっと憚られるような気がするのでありました。あくまで自分は立場の上では制作部の補助要員でありましょうから。依って同意の頷きは遠慮するのでありましたが、均目さんとしてはこの頑治さんの反応も、何だか拍子抜けのつれない反応のようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 474 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ、制作部の方は片久那さんが居なくても何とかなるとして、営業の方はどうなるのかしらね。こちらは従来と何も変わらないのかしら?」
 甲斐計子女史は横を向いて自分の左隣りの日比課長の顔を見るのでありました。
「そうねえ、特に変わらないと云えば変わらないかな」
 日比課長はそう云って、別に質問をした甲斐計子女史が酌をしてくれる様子でもなさそうなので、自ら徳利を傾けて自分の猪口に日本酒を注ぎ入れるのでありました。
「変わるよ!」
 袁満さんが日比課長に断固異を唱えるのでありました。「日比さんは当座の自分の仕事だけしか頭に無いいから、特に変わらない、とか好い加減な事を云うんだよ。出雲君が居なくなって地方特注営業が無くなると思ったら大間違いだぜ。今度は日比さんがそっちに回されて、追い詰められて会社を辞める羽目になるかも知れないじゃないか」
「地方特注営業は、これで立ち消えになるんじゃないかな」
 日比課長は未だ楽観の座布団の上に座って猪口を傾けているのでありました。
「それは甘いと思うわよ、あたしも」
 甲斐計子女史が眉根を寄せるのでありました。「土師尾さんは、今度は日比さんにターゲットを絞って、会社を辞めさせるように露骨に意地悪し出すに決まっているわよ」
「あたしもそう思うわ」
 那間裕子女史にもそう云われて、日比課長は自分の右隣の甲斐計子女史から、真正面の那間裕子女史の方にも首を九十度回してキョトンとした顔を向けるのでありました。
「何だか当事者意識の薄い、如何にも鈍そうな顔だなあ」
 袁満さんが日比課長の横顔に向かって云うのでありました。日比課長が少し険しい表情で今度は左側の袁満さんを見るのは、鈍いと云われて憤慨したからでありましょう。
「だって俺が辞めたら、土師尾常務は楽が出来なくなるじゃないか」
「それは前にも聞いたよ」
 袁満さんはビールを一口飲むのでありました。確かにそう云う話しを前にした事があるのでありました。その折も日比課長はどこかのほほんと構えて馬耳東風を決め込んでいたのでありまあしたか。そう云う運びに現実味を感じられないのでありましょう。
「でもどんな場合でも土師尾常務は自分が楽をする術を考え出すんじゃないかな、例え日比さんが居ようが居まいが無関係に。そんなヤツだよ、あのインチキ増長野郎は」
 袁満さんがそう云うと甲斐計子女史も那間裕子女史も冷笑を頬に浮かべて、インチキ増長野郎と云う呼称も込みで同意の頷きをするのでありました。
「日比さんを地方特注営業に回して、前の山尾さんの場合のように自分の代わりに骨身を惜しまず働く手下として、今度は均目君を営業に引っ張り込むかもしれないわね」
 那間裕子女史が右隣の均目さんのグラスにビールを注ぎながら云うのでありました。
「いや、寧ろ那間さんが営業にコンバートされるかも知れないぜ」
「それはどうかな。あんなインチキ増長野郎でも、那間さんを相手に遣りたい放題は出来ないんじゃないかな。そんな事をしたら逆にすごい剣幕で食って掛かられそうで」
(続)
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あなたのとりこ 475 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが均目さんの言を即座に否定するのでありました。まあそう云う事もあり得るかなと頑治さんは心の内で首肯するのでありました。
「確かに那間さんを怒らせる程の勇気も根性も、土師尾常務には無いか」
 均目さんは袁満さんの言に納得するのでありました。「じゃあ矢張り、俺が営業部にコンバートされる公算は、可能性として大ではあるか」
「均目君は大概の原価見積もりは出来るし製作工程も把握しているから、そういう意味では土師尾常務よりも、営業要員として戦力になるかも知れない」
 日比課長が均目さんコンバート説を補強するのでありました。
「成程ね、それはそうだ」
 均目さんが他人事のように頷くのでありました。「ただそれの第一番のネックは、俺に営業に移る気が更々ないと云う事ですけどね。俺は営業向きの人間じゃないし」
「若し営業に移れと、土師尾さんに本当に云われたら?」
 甲斐計子女史が多少身を乗り出すようにして訊くのでありました。
「その時はけじめと云う点から、俺も会社を辞めますよ」
 均目さんはきっぱりと云うのでありました。
「片久那制作部長が居ないから、山尾君の時のように均目君を説得する人も居ないか」
 日比課長がそちらの方面から納得の頷きをするのでありました。
「まあ、均目君が営業にコンバートされると云うのは、今ここで全くの仮定の話しとして出ているだけで、そう云う兆候があると云う訳でも未だないですからねえ」
 頑治さんが背凭れに身を引いた位置から云うのでありました。「それより、念を押すようだけど、片久那制作部長が会社を辞めても、会社は何とかやっていけるんですよね」
「今まで通りの機能と効率で、と云うのは当初はしんどいかも知れないけれど、まあ、曲がりなりにも何とかやってはいけると思うよ」
 均目さんがそう応えて横の那間裕子女史を見るのでありましたが、今度も那間裕子女史は均目さんの方を向いて同意の仕草をして見せる事もなく、卓上の自分のビールグラスに手を添えて、そこに視線を落とした儘の素っ気ない素振りなのでありました。
「営業も、地方特注営業と云うのはなくなるとしても、従来通りの特注営業はその儘の形態でやっていけるんですよね?」
 頑治さんは日比課長の方に日本酒を差し翳すのでありました。
「まあ、やっては行けるよ。売り上げがどうなるかは保証出来ないけれど」
 日比課長は消極的な云い方ながらも頷いて見せるのでありました。
「地方出張営業はどうですかね?」
 頑治さんは今度は袁満さんに問うのでありました。
「この前唐目君にアドバイスを貰った方向で調整しているよ。それに社長が云っていた紙商事を退職する矢目さんともこの前面談して、嘱託としてウチの出張営業を遣ってくれそうな感触を貰っているから、まあ、ちょっとは目途も立ってきているかな」
 その言葉を聞いて頑治さんは大きく頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 476 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ、まあ、片久那さんが居なくても製作も営業も何とかなるのね」
 甲斐計子女史が確認するのでありました。
「最初はまごまごするとしても、まあ、確かにどうにか大丈夫かな」
 均目さんは充分の確信、とはいかない迄も一定の力強さで頷くのでありました。
「あくまでもあの土師尾常務が下らない魂胆から、妙な邪魔や謀をしない、と云う前提があれば、と云う事になるけどね」
 日比課長も条件付きながら明るい見通しを表明して見せるのでありました。
 片久那制作部長が辞めても何となくの目途としてではありますが、それで会社がすっかり立ち行かなくなると云う訳ではなさそうな按配であります。会社存亡の危機と云う認識から、その緊張に拉がれてこの場に集った者達の切迫感が少し緩むのでありました。

 一番打ち拉がれていた袁満さんに多少の元気が戻ったようで、袁満さんは近くを通りかかった店員に、日比課長の前に置いてある日本酒の徳利を見遣りながら自らもう二本ばかり徳利の追加と、それに自分用の猪口も要求するのでありました。それに刺激された訳ではないのでありますが、頑治さんも自分用の猪口を一緒に頼むのでありました。
「懸案は、結局、土師尾さんとの折り合いと云う事になりそうね」
 那間裕子女史が自分のグラスに残っていたビールを空けるのでありました。
「それが一番の難問と云うところかな」
 横の均目さんが那間裕子女史のグラスにビールを注ぎ足すのでありました。それから瓶に残った分を自分のグラスにすっかり空けるのでありました。
「片久那制作部長が居なくなったら、それこそ晴れて自分の天下が到来したと思って、これ迄以上に遣りたい放題をやらかし始めるだろうなあ」
 日比課長が新たに袁満さんに依る徳利二本分の日本酒の注文に安心してか、それ迄飲んでいた徳利の酒を猪口に空けるのでありました。猪口には表面張力に依ってやや縁より盛り上がった酒が、ギリギリ溢れないでユラユラと揺れているのでありました。
「そこはしっかり組合で牽制して、自儘を許さない雰囲気を作っておかないとね」
 袁満さんが未だ頼んだ徳利と猪口が来ないので、手持無沙汰そうに卓上の空のビールグラスを握ったり放したりしながら云うのでありました。
「考えてみればあたし達には、あの人を必要以上に恐れる理由は何も無い訳だしね」
 甲斐計子女史は云った後でウーロン茶を一口飲むのでありました。
「あんなちんけなヤツなんか恐れている訳じゃないけど、何となく付き合うのが面倒臭い人ではあるよ。話していてもちっとも愉快じゃないし、苦手なタイプだな」
 袁満さんが顰め面をするのでありました。
「その割に袁満君がアイツと話しているところを見ていると、緊張してビクビクしてしどろもどろになっているように見えるのは、俺の目が悪いせいかな」
 日比課長がからかうのでありました。
「別にしどろもどろになんかなっていないよ、俺は」
(続)
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あなたのとりこ 477 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんがそう抗弁したタイミングで、ようやく注文した徳利と猪口二つが運ばれて来るのでありました。日比課長が早速徳利を取って袁満さんの手にした猪口に酒を注ぎ入れるのは、別に先の言を詫びる心算からと云う訳ではないようでありますけれど。
「土師尾さんは、その顔を見るだけで誰でも鬱陶しくなる人だわね」
 甲斐計子女史が袁満さんへの助け舟としてそう云った訳ではないのでありましょうが、袁満さんは日比課長の揶揄から逃れるためにその言に食い付くのでありました。
「話す事が総て胡散臭くてまともに聞いちゃいられない。それに人の話しを聞くにしてもただ単に粗探しするためだけに神経を尖らせていて、内容に関しては殆ど聞いちゃいないし、兎に角話し相手をうんざりさせる名人だから、なるべく早くあの人から遠ざかりたいと云う気持ちが、日比さんにはしどろもどろになっているように見えるんだよ」
 袁満さんはなみなみ酒が注がれた猪口を、零すのを恐れてその場から動かさないで、尖らせた口で迎えにいくのでありました。
「いやあ、本当に緊張して心臓がバクバクしているように見えるけどねえ」
 日比課長はニヤニヤしながら揶揄の言をなかなか止めないのでありました。
「組合で牽制するとか云ったけど、つまり具体的にはどうする訳?」
 甲斐計子女史が袁満さんと日比課長の遣り取りを無頓着にさて置いて、均目さんのグラスにビールを注ぎ足しながら訊くのでありました。
「誰かが何か云われたら、その場で一対一で云い合いをしないで、何に依らず組合に持ち帰って、組合員全員で対抗すると云う形を取るって事ですよ」
「あの人はこの前の団交で残業の件を指摘されて以来、組合にはちょっとおどおどするところがあるみたいだから、組合を前面に押し立てるのは確かに有効かもね」
 那間裕子女史も均目さんの云う遣り方に頷くところがあるようでありまあす。
「即答を求められた場合、なかなかそうもいかないかも知れない」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「あの人の話しで、即答を要するようなものなんか殆ど無いんじゃないかしらね」
 甲斐計子女史が少し考える風の目をして云うのでありました。
「まあ無いですね。若しあったとしても逆に即答をしないで、勿体付けて後でゆっくり考えてから返答するとか云ってしかつめ顔なんかして見せて、あの人を不必要に苛々させてやる方が痛快かも知れませんよ。苛々すると同時に不気味にも思うだろうし」
 均目さんがもう既に痛快そうな顔をして云うのでありました。
「根が小心者で、こっちが何やら訳あり気な素振りでもすればすぐに警戒心たっぷりになるから、そんな風な何やら一計がありそうな様子を見せるのは確かに有効だろうな」
 袁満さんがそう得心してから猪口の酒を空けるのでありました。
「ま、要するに組合員全員でまるで団交しているような雰囲気で対峙すれば、そうそう土師尾常務を怖れる必要は無いと云うことですかね」
 頑治さんが話しを纏めようとして云うのでありました。
「怖れちゃいないけどね、初めから」
(続)
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あなたのとりこ 478 [あなたのとりこ 16 創作]

 日比課長が鼻を鳴らすのでありました。
「元々怖れてはいないとしても、土師尾常務と差しで話をする鬱陶しさとか大儀さとかからは、それで免れる事が出来ると云う事になりますよね」
 頑治さんはそう云いながら、日比課長が土師尾常務を怖れていようがいまいが、そんな事はこの際どうでも良いと思うのでありました。一々そんなところに拘られるのは、土師尾常務と差しで話しをするのと同じ程度に鬱陶しい事でありますか。
「まあ、何かしらの難癖を付けようものなら、組合員総出で当たってくると土師尾常務が考えるなら、それはそれで一定の牽制は働くと云うものかな」
 袁満さんが日本酒を微量、口の中に流し入れるのでありました。
「こっちとしてもそれはなかなか心強いしね」
 甲斐計子女史が眉宇に載せていた憂いを少し払った面持ちで頷くのでありました。ここで何となく、場に張りつめていた緊張が少し緩んだような気が漂うのでありました。
 片久那制作部長が会社を辞めると云い出した時には全員お先真っ暗と云った心持ちになったのでありました。しかしそれでも何とかかんとか会社の業務は回してゆけるだろうと云う目途も立ったようだし、片久那制作部長の居なくなった後の土師尾常務の増長に対しても、万全とはいかないながらも一応の備え方も確認出来たと云う事もあって、ここに集う全員に多少の安堵感が芽生えたための空気の弛緩でありましょう。
 まあひょっとしたらこの安堵感は、思考停止と、結論迄の道筋の荒さのために誘導された根拠の薄い楽観と云うだけかも知れません。窮地に於いては、得てして心の安寧のためにそのような思考の短絡が行われるものであろうと頑治さんは思うのでありました。
 しかしそれでも仄見えた一筋の光明に、多少の油断が窺えるとしても、今日のところはそれで構わないではありませんか。そうでないと、絶望から会社はすぐに瓦解するでありましょうし、何より今宵の安眠が阻害されて仕舞うと云うものであります。

   意外な目算外れ

 片久那制作部長の退職表明のお蔭で、出雲さんの退職する衝撃の方は何となく翳んで仕舞うのでありましたが、これは多少気の毒と云うものかなと頑治さんは思うのでありました。会社に於ける存在感と云うのか、両者の間の掛け替えの無さの違いと云う点で、ま、仕方が無いと云えば仕方が無いと云うものでありましょうか。
 その月の締め日で出雲さんは退職するのでありましたが、前以ってお別れの酒宴等は五月の連休中に新宿で執り行われていたから、その日迄にお別れ会の二次会の提案の声は誰からも上がらないのでありました。尤も頑治さんは夕美さんとの事があったのでそれには出席しなかったのでありましたから、日比課長と袁満さんと出雲さんが集う会社帰りの、インフォーマルな御茶ノ水駅近くの居酒屋での酒宴に参加させて貰うのでありました。
 袁満さんはその席でもくよくよと土師尾常務のこれから先の跳梁跋扈を心配するのでありました。矛先が先ず自分に向くのは必定だと思いなしているのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 479 [あなたのとりこ 16 創作]

 会社に残る袁満さんの陰鬱な顔色とは対照的に、出雲さんは何方かと云うと晴れやかと云うのはちと云い過ぎでありましょうが、しかしなかなかにさっぱりとしたような面持ちでありましたか。これでようやく土師尾常務との悪縁が切れると云うのが、その如何にも清々したような表情の主たる要因でありましょうか。一応礼儀から日比課長と袁満さんへの惜別の気持ちは吐露するものの、それよりは遥かに、失職と引き換えながらもやっと手に入れたところの解放感と安堵の方が、より優っていると云った按配でありますか。
 出雲さんは何でも実家が信州の松本で小さな印刷屋さんをしているそうで、退職後はそこを手伝うために帰ると云う事でありました。東京に残って新たな職を見付けるのなら、またちょくちょく逢えるかもしれないけれど、松本に帰るとなるとそうもいかないなあと袁満さんは寂しがるのでありました。袁満さんとしては出雲さんに置いてけ堀を食らって仕舞って、一人寂しく取り残されたような心持ちになっているのでありましょう。
「ご実家の印刷屋を手伝うのなら、まあ、これ迄の仕事と関連性が無い事も無いか」
 日比課長がそう云って出雲さんのグラスにビールを注ぐのでありました。
「でも、俺は営業だったから、印刷の知識は何も持っていないっスよ」
 出雲さんはそう云ってあっけらかんと笑うのでありました。まあ確かに出雲さんは印刷や製本なんかの制作部的知識は何も有してはいないようであります。
 これは、幾ら業種が違うとは云っても、そう云う事業もやっている会社に居た人間としては些かがっかりな云い草と云うものだと、上辺は一緒になって笑いながらも、頑治さんは何となく内心物足りなくも不満にも思うのでありました。出雲さんのそう云うあっさりとし過ぎたところが結局、何の仕事を割り振られようともそれを粘り腰で何とか切り抜けるだけの自信と度量を獲得出来なかった原因ではないでありましょうか。
 まあこんな事を今更残念がってみたところで詮無い事ではありますけれど。・・・
「ご実家はどんな印刷物を取り扱っていらっしゃるんですか?」
 頑治さんは先程日比課長が注いだビールが未だ半分以上呑み残してある出雲さんのグラスに、勝手にビールを継ぎ足すのでありました。
「名刺とかスーパーなんかの新聞の折り込みチラシなんかがメインですかね」
「例えば頁物とかちょっとした書籍みたいなものはないんですか?」
「まあ、ちょろっとした旅行案内とか観光案内とか、求人案内なんかのパンフレットはやっているみたいですけど、ちゃんと製本してあるような物はやっていないっスかねえ」
「中綴じとか無線綴じなんかもしていない物ですかね?」
「何っスか、中綴じとか無線綴じって?」
 そう訊かれて頑治さんは自社の製品の中から例示するのでありましたが、出雲さんの応えは、そう云うものは無いけれど二つ折りとか四つ折りとか、或いは観音折りの折りっ放しの物はあるようでありました。それに滅多にはないけれど若しも頁物の依頼があれば、東京の馴染みの印刷屋に丸投げで外注するようでありました。
「その丸投げの物で、若し何でしたらウチにも見積もりを取らせてくださいよ」
 頑治さんは座興の心算でそんな営業なんぞをして見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 480 [あなたのとりこ 16 創作]

「親父に云っておきますよ」
 出雲さんは何となく興味薄気に云って愛想笑うのでありました。
「東京の知り合いの印刷屋に仕事を依頼する事があるのなら、偶にはそんな仕事絡みで東京に出て来ることもあるのかな?」
 袁満さんが頑治さんの酌を受けながら訊くのでありました。
「まあ、無い事もないっスかね」
「じゃあ、若しそう云う場合があるなら、連絡してくれよ」
「ええ、勿論連絡します」
 出雲さんは頷くのでありました。「仕事が絡まなくても、時々出て来ますけどね」
「ああそうなんだ。東京に何か時々出て来る用でもあるの?」
「ええまあ。・・・」
 出雲さんは思わせぶりに笑むのでありました。
「ははあ、その用と云うのはちょっとばかり艶っぽい用事ですかね?」
 頑治さんが口の端に笑いを溜めるのでありました。
「まあ、そんな感じっスかねえ」
「彼女に逢いに来るんだな?」
 日比課長も思い付いたように笑むのでありました。
「まあ、そんなところっス」
 出雲さんはもじもじと頷くのでありました。
「へえ、出雲君は今現在付き合っている彼女が居るんだ」
 袁満さんは今迄その辺には全く考察か及んでいなかったようでありました。同僚で時には一緒に仕事帰りに一杯酌み交わす間柄であるとは云え、そう云う話しはこれ迄出雲さんからはとんと出なかったのでありましょう。
「そりゃあ、モテないから水商売一本槍の袁満君と違って、出雲君はその辺りの手抜かりは無いだろうよ。そっちにかけては袁満君より余程ちゃっかりしているだろうし」
 日比課長が袁満さんをからかうのでありました。
「今迄そんな話しは聞いた事がなかったなあ」
 袁満さんは頻りに首を傾げるのでありました。
「別に隠す心算は無かったけど、何となくまごまごして云いそびれていたっス」
 出雲さんは頭を掻きながら袁満さんへの詫びのお辞儀をするのでありました。
 袁満さんはここでも何だか出雲さんに取り残されたような心持ちになったようで、寂しそうな顔色を一層濃くするのでありました。そんな袁満さんの佇まいを見て頑治さんは気の毒に思うような事も、まあ別にないのでありましたけれど。

 そんなこんなで、出雲さんはこの酒宴から丁度三週間して退職の日を迎えるのでありました。当日はもう別に従業員仲間で送別の酒盛りをする事もないのでありましたが、一同で金を出し合って帰り際に豪勢な花束を出雲さんに手渡すのでありました。
(続)
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