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大きな栗の木の下で 2 創作 ブログトップ

大きな栗の木の下で 31 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「あんまり他の人に無闇に電話番号教えるなって、両親からも云われていたしね」
 沙代子さんが云うのでありました。
「でも若し俺に知らせておいてくれたなら、色々合気道部の用事とか、沙代子にも頼めたのにな。ま、今頃云っても詮ないことだけど」
「あたし、御船君には教えていたとばっかり思っていたけど、教えてなかったっけ?」
「うん、聞いていないぜ。さっきも云ったように」
 御船さんはそう云いながら草を多目に毟るのでありました。「いやまあ、何度も云うけど、今更別にどうでもいいんだけどさ」
 御船さんはそう云って沙代子さんに笑って見せるのでありました。沙代子さんが電話番号を自分に教えていた積りであったことが、ちょっと救いではありましたか。限られた者にしか与えられない沙代子さんの部屋の電話番号を知る特典を、行き違いはあったにしろ、本来自分は獲得してはいたと云うことになるのでありましたから。ま、沙代子さんのその話を素直に信じればではありましたが。

 <で、矢岳君とあたしのアパートで殆ど一緒に暮らしているなんてことは、勿論ウチの両親には秘密だったのよ。ウチの両親は偶に上京して来ることとかがあって、そんな時は困るから、矢岳君は友達の家に殆どの荷物を置いていて、必要なものだけウチに持ってきていたの。それに両親が来る時には、矢岳君自身もその友達の家に泊まりにいったりして。矢岳君、あたしと暮らし始めて暫くしたら、自分のアパート引き払って仕舞ったのよ。
 両親の上京のこともあるから、あたしはそんな時のために一応、自分の部屋を確保しておいた方がいいんじゃないかって云ったんだけど、それじゃ経済的に勿体ないし、偶にと云うことだったら、自分がその時だけ外に行っていれば済むんだからって云うの。実際、矢岳君はそんな時は、案外気軽そうに、そうかいなんて云って外で泊まったりしてくるのよ。度重なるとそんなことしているのが億劫になるだろうって、あたし思ったりしたんだけどさ、そうでもなくて、ごく自然に、て云うのか、当たり前のように外に出て行くの。
 まあ、矢岳君は音楽の活動もあったし、絶えずアルバイトはしていたんだけど、そんなにアルバイトに精を出すってわけにもいかなかったから、収入は少なかったの。だから部屋代は前の儘ずうっとあたしが払っていて、申しわけなさもあったんだと思うけど、矢岳君はそう云う面倒にも不満を云うこともなかったわ。
 まあそんなこんなで、あたしの両親の上京とか、矢岳君の音楽活動とかアルバイトの都合で少しの間二人離れることはあったけど、でも概ねあたし達二人の生活は甘くて幸せなものだったと思うの。学校帰りに二人で近所のスーパーで買い物したり、偶に二人で映画に行ったり、アパートから歩いて行ける公園なんかをぶらぶら散歩したり。それから他の大学の学園祭とか、矢岳君が前座として出るコンサートをあたしが観に行ったり、時々矢岳君のアルバイトのお金が入ると、二人で外で少し豪華な食事をしたり。
 矢岳君は一人暮らしの時から、色んなアルバイトしていたの。ビルの管理会社で掃除のアルバイトとか、居酒屋さんとか、カラオケの設置の助手みたいなこととか。
(続)
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大きな栗の木の下で 32 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 矢岳君は音楽に支障がない限りの、色んなアルバイトを今までにしてきたって云っていたわ。給料の良さに魅かれて、ちょっとヤバそうなキャバレーのボーイとか呼びこみなんかもしたんだって。それからどこだったかの職安の前で立ちん坊とかも。
 そのせいか、確かにあたしなんかには想像も出来ない位、矢岳君は世間磨れしたところがあったかしら。それは頼りになるって云えばそうなんだけど、ちょっと崩れた感じにも見えたりする時もあるの。あたしそれ、ほんのちょっと怖いって思う時もあったわ、正直。でも、そう云うのは十分の一以下で、十分の九以上は音楽に対して直向きだったし、それに絶対的に優しかったのよ、あたしに対しては。その頃はね。・・・>

 片肘をついて横になっている姿勢が次第に辛くなってきたので、御船さんは上体を起こすのでありました。
「合気道部の連中とは、ちょっと正反対な感じなのかな、そう云うのは」
 肘についた草を掃いながら御船さんは聞くのでありました。
「そうね、多分合気道部には居ないタイプかな」
「詰襟の学生服着て、押忍とか喚きながら目を剥いて固い礼をしている姿じゃなくて、顔から笑みを絶やさないで、もっと柔らかい物腰の礼をするような感じを想像すればいいかな、その矢岳君とやらの象徴的な姿は。まあ、その笑顔にちょっと翳があって、それに見ようによっては凄味もあって、瞼で半分隠してはいるけど目は決して笑っていなくて」
「そうね、まあ、云ってみればそんな感じかな。でも今の御船君の喩えみたいなのは、なんかちょっとややこし過ぎる感じだけどね」
「おう、これは失礼。イメージが偏っていて貧弱なものだから、なんとなくそう云う風な像を思い浮かべて仕舞うんだよ、俺としては」
 御船さんはそう云って頭を掻きながら、心の中で舌打ちして、なんともいけ好かない野郎だと吐き捨てるのでありました。そう云う野郎は屹度、その物腰の柔らかさにうっかり気を許して仕舞うと、いきなりこちらの寝首を掻きにくるような真似をする、卑劣なヤツに本性は違いないのであります。考えていることがはっきり知れないから、決してこちらの油断を見せてはいけないタイプであります。そんな野郎、絶対に近づきになりたくない男だと御船さんは急に、何故か一人で秘かに熱り立っているのでありました。

 <そうやって、まあ穏やかに時間が過ぎていったの。お正月とか春休みとかは、あたしどうしても帰郷しなければならなかったから、その間暫く矢岳君とは一緒に居られなかったけど、でもまあそれも、ウチの両親の手前仕方がないかって二人共諦めて我慢したのよ。
 四年生になってもそれは変わらなかったの。あたしは表面的には普通に大学生として過ごしていたし、矢岳君は矢張り同じ地理学科の学生として、それから音楽とアルバイトと、それに偶にコンサートとかオーディションとか、結構地道に日を送っていたの。
 九月から就職活動が解禁になって、十一月にあたし或る商社の事務に就職が内定したの。あたし達の時は滅茶苦茶就職難だったけど、あたし案外すんなりと就職出来たのよ。
(続)
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大きな栗の木の下で 33 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 矢岳君の方は、就職はしなかったの。だって音楽があったからさ。矢岳君は音楽で身を立てる決心を、もう遠の昔からしていたのよ。まあ、或る音楽事務所からも目をかけられていたし、それなりの音楽活動はしていたから、その儘順調に行って、レコードを一枚出せればなんとかなるって考えていたみたい。今思うとかなり甘い考えなんだけど、矢岳君の学内での人気とか、あの頃の忙しさとか、それにかなり自信たっぷりなところとか、それから、それはもう既定路線であって、後はタイミングの問題だけとか云う矢岳君自身の話しぶりなんかから、結構リアリティーのある将来像にあたしには見えていたの。
 だから大学を卒業して暫くの間は、部屋代だけじゃなくて二人の生活費と云うのは、あたしのお給料が土台になっていたかな。矢岳君の方の収入は不安定だったからね。もう、二人で暮らし始めて大分経っていたけど、考えたら始めの方からずっと、あたしの持ち出しの方が、矢岳君よりも遥かに多かったかな。ま、そんなことどっちだってよかったんだけど、現実のこととして敢えて今、云えばね。
「俺は、なんか、沙代子のヒモみたいだよな」
 なんて矢岳君は時々冗談で云うんだけど、あたしはそんな風に考えたことは本当になかったのよ。だって二人の生活を続けられるなら、別にそんなの、あたしは問題じゃなかったから。それに矢岳君は将来屹度、凄いフォークシンガーになれるって信じていたからさ。
 でも考えてみたら、そんな矢岳君とあたしのその頃の生活が、いくら離れているとは云え、ウチの両親に全然バレなかったのは本当に不思議だったわ。まあ、あたし達はかなり用心深くしていたからね。あたし内心は両親に済まないって思っていたの。矢岳君と一緒に生活していることがじゃなくて、それをちゃんと報告していないことがよ。矢岳君も何時か正式に、ウチの両親に挨拶に行かなくちゃなんて云ってくれてはいたの。
「でも今の俺の状態じゃあ、二人のこと、沙代子の両親に絶対許して貰えないだろうな」
 矢岳君は必ず自嘲的にそう云うの。それは確かにそうかも知れないわよね。だって矢岳君は、内実や将来のことは別として、今現在は定職がないってことになるんだろうからさ。いくらあたし自身はそれで良くたって、ウチの両親にしてみれば、大事な娘の彼氏がそんなじゃあ困るわよね。絶対認めてなんてくれるはずがないもの。・・・>

 俺だって、そんな野郎が沙代子の彼氏だなんて認められないよと、御船さんは心の中で叫ぶのでありました。まあ、男前で、定職についていて、堅実な生活観を持っていて、将来の出世も約束されていて、しかも両親が大金持ちで、志操堅固で、人格温厚で、溢れんばかりの愛情を沙代子さんに注ぐ男だったとしても、御船さんはだからと云ってそんな男をも、沙代子さんの彼氏とは決して認めないでありましょうけれど。
 それなのに、ちゃらちゃらと沙代子さんのおぼこぶりにつけこんで云い寄って来て、沙代子さんのアパートに早速転がりこんで生活費の殆どを負担して貰って、自分はのうのうと好きな歌を歌って生活しているなんと云うのは、とんでもない話であります。全く以ってふざけた野郎だと、御船さんは矢岳と云う男に対して大いに怒るのでありました。そんな御船さんの頭を冷やすように、海からの風が御船さんに吹きつけるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 34 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 眼下に広がる街を見下ろしながら、御船さんは沙代子さんに聞くのでありました。
「その頃二人は、その儘、結婚する積りでいたのか?」
「まあ、結婚するってちゃんと言葉にして約束したわけじゃないけど、流れから、そうなるだろうなってあたしは思ってはいたの。多分矢岳君もその積りだったと思うわよ。だから、ウチの両親に挨拶に行かなくちゃ、なんて云う言葉が出たんだと思うわ」
 沙代子さんも眼下に視線を馳せながら云うのでありました。沙代子さんの半分落とした瞼とその上の揃った長い睫に、御船さんの目が釘づけにされるのでありました。考えたらこんなに間近で、沙代子さんの横顔を見たことは今までになかったなと御船さんは思うのでありました。
「成程ね。そいつは、一応は沙代子と結婚する了見ではいたわけだ」
「そうね」
「してみると、まあ、沙代子のことを真剣に考えてはいたんだな」
「うん。ま、その頃はね」
「ちゃんと一定の自分の責任を弁えて、沙代子と暮らしていたと云うことになるわけだ」
 御船さんはそう云って市街地を越えて海まで視線を投げるのでありました。「なら、まあ、仕事をしていないのは問題だけど、それなりのけじめの感覚と云うのか、健全な指向のようなものは持ってはいたんだな」
「そうね、その辺の感覚は、案外古風な方だったかしら、矢岳君は」
「なら、まあ、根は善良な人間なんだろうな」
 御船さんはそう云って一気に視線を自分の手元まで戻すのでありました。それから手前の草を何度か毟りながら、あれま、こんな風なことを云う積りなんかなかったのにと思うのでありました。
 自分は矢岳と云う男に対して、端から好意的な評価など一つだに持ってはいないのであります。それなのにこんな肯定的なことを、なんで自分はここで云うのかと、御船さんは自分の思いと出てくる言葉の撞着に自分で戸惑うのでありました。仮にも沙代子さんが一時は愛した男であるから、沙代子さんのその男に対する思いの機微を思い遣って、男を悪しざまに評することを咄嗟に中止したと云うことになりますか。
 要するに自分は今、単に沙代子さんに阿ようとしているだけなのでありましょう。不愉快な気持ちを持たれるのを恐れる余り、ストレートに矢岳と云う男のことを罵倒する言葉を、弱気に回避したのであります。沙代子さんの一番の理解者として在ること、いや、沙代子さんの目に一番の理解者として映っていたいと云うことは、つまりこのように、矢岳と云う男を激しく罵りたい思いとは裏腹な、柔らかで大らかな言葉をのみ沙代子さんに返さざるを得ないと云うことであります。
 御船さんはそんな、言葉を窮屈に自制している自分に対して、なんとなく消化不良を起こした時のような苛々を感じるのでありました。それよりもなによりも、未だに沙代子さんに嫌われたくないと云う気持ちが濃厚にあって、相変わらずその線に沿った言葉を選んで返そうとしている自分を、御船さんは今改めてはっきり認識するのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 35 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「まあ、早くレコード出して、それが売れてくれて、名前も売れて、そこそこの収入が入るようになれば、堂々と沙代子の親御さんにも胸を張って挨拶出来ると云うわけだ、その矢岳と云う男も」
 御船さんは毟った草を前に放りながら云うのでありました。
「そうね、矢岳君もそんなようなこと云っていたわ。早くレコードの話が決まらないかなって。そうすれば、もっと色んなところであたしを安心させられるのにって」
 沙代子さんはそう云って御船さんがするのと同じように、自分も草を毟って前に投げる仕草をして見せるのでありました。

 <でもレコードを出すなんてそんな簡単なことじゃないのは当たり前で、なかなか矢岳君に順番が回ってこないのよ。大学出てからは矢岳君、目をかけてくれていた音楽事務所の、専属ってことになっていたの。まあ、仕事を回してくれたり、その報酬とかの管理はしてくれるけど、就職と云うんじゃないから固定給みたいなものは全くないんだけどね。
 その事務所の方は、レコードの話は、もう少しコンサートなんかで名前を売ってからって云う方針のようだったの。確かにウチの大学の学内で人気があったと云うだけじゃ、余りにも限定的だもんね。それにもう、卒業しているし。
 矢岳君は事務所経由の仕事で、有名歌手のコンサートの前座も精力的にこなしていたし、酒場で歌ったりとか、時々高校生の頃のように路上で歌ったり、小さなホールなんかで矢岳君単独とか、何人かの仲間でのコンサートとかもやったりしていたの。そのコンサートには結構お客さんが集まっていたのよ、まあ、あたしが観た感じでは。
 それなのにレコードの話は、一向にないわけ。で、矢岳君、時々腐ることもあったわ。
「事務所のお偉いさんに云わせると、俺の歌はちょっと古風過ぎるんだと」
 そんな愚痴を時々、冗談交じりにあたしに零すこともあったわ。それは多分事務所のプロデューサー辺りから、なにかの折りにそんなこと云われたんでしょうけど、レコード出すのには様々な関門があるみたいだったわ。
 でもあたし、矢岳君は見た目には想像出来ないけど、意外にこつこつ型の人なんだなって、そう思ったの。事務所からの仕事は、一つも断らずに律義にこなすのよ。まあ、断れないと云う事情はあるけど、でも、結構ハードなスケジュール組まれても、文句も云わずに一つ々々を黙々と丹念にこなそうとするの。矢岳君のような人が結構多く事務所の周辺に居て、その中には仕事に穴を開けたりする人も案外多くて、それに、そんな我が儘をするのが自己主張だなんて考えている不届き者も確かに居るんだけど、矢岳君はそんなこと絶対にしないのよ。まあ、世間一般では全く当たり前のことなんだけどさ。
 そう云うわけで、その分、あたしと過ごす時間は減ったけどね。それはあたしとしたら少し寂しかったけど、でも矢岳君が直向きに頑張っているわけだから、今は我慢しなきゃなんて思っていたの。それに矢岳君の音楽仲間には、ちゃんと家庭もあるのに遊んでばっかりなんて了見の人もいるのに、矢岳君の心がけはそんな人達とははっきり違うの。矢岳君は信頼出来る人だって、あたしそう信じて疑わなかったのよ。
(続)
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大きな栗の木の下で 36 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 だから、矢岳君は必ず成功する人だって、案外あたし呑気に将来のことを考えていたの。矢岳君が云うように、レコードさえ出せば、矢岳君の才能に加えて、そんな律義さとか誠実さとかが、業界の中でもファンの間でも肯定的に働いて、万事が上手く動き出すんだろうなってさ。まあ、そんな甘いものじゃ、実際はなかったんだけど。・・・>

 沙代子さんが草を前に投げるのでありました。御船さんはその軌跡を目で追うのでありました。宙に舞う草がほんの一瞬太陽にキラキラと輝くのでありましたが、沙代子さんの腕力の不足と、草の投擲物としての重量の儚さから、それは御船さんのほんの目の先で地に舞い落ちて、栗の古木の蔭の外には決して出て行かないのでありました。
「まあ、そう簡単にレコードなんて出せないんだろうなあ、俺はその業界と云うか、その方面のことはなにも知らないんだけどさ」
 御船さんが云うのでありました。
「あたしも全然詳しくはないんだけど、矢岳君の話によると、パッと注目を浴びてすぐにレコードを出して人気が出るなんて人は、余程の人じゃない限り先ずいないんだそうよ。そう云うのはデビューした後に、事務所とかレコード会社がそう云う物語にして、世間の耳目を集めようとかする作られた戦略が殆どなんだって。地道に事務所の理不尽な扱いなんかにも耐えて、一言も文句を云わないでひたすらお声のかかるのを待って、その間どれだけ事務所に貢献するかに大概の場合は因るんだそうよ。それにお声もかからない儘、消えていく人が殆どなんだって」
「まあ、多分そんなもんかなあ。どう云う仕事であれそう云った面はあるだろうし、厳然たる力関係とか、古い仕来たりとか風習のような部分も、大いにあるだろうし」
 御船さんはそう云ってまた寝転ぶのでありましたが、矢張り一定時間以上、同じ姿勢を保つのが未だにしんどいからでありました。「しかし兎に角、レコード出して、晴れて沙代子のご両親に二人のことを報告するのが、当面の沙代子と矢岳と云う男の一番の課題だったと云うことになるか」
「まあ、あたしはさっきも云ったように、それを焦ってもいなかったし、案外楽天的に考えていたんだけど、矢岳君の方はそのことが大きな懸案だったみたい」
 沙代子さんはそう云いながらまた俯いて草を摘むのでありました。

 <で、やっと、矢岳君にレコードの話がきたの。でもそれはソロじゃなくて、三人でグループを組んでデビューするって話だったの。矢岳君はずっとソロで活動してきたし、そう云うのは自分の描いていた見取り図とは違っていたから、かなり抵抗があったみたい。その三人が、音楽上でも活動上でも、同じ指向を持っているかどうかも判らなかったし。
 でも、矢岳君としては取り敢えずレコードを早く出したかったから、不本意だったけどその話に乗っかることにしたんだって。一枚でもヒットが出れば、その後ソロ活動って云う展開もあるから、なんて云っていたわ。その三人は、一応顔は知っていると云う程度だったらしいわ。一人とはなにかの折りに、一緒のステージに立ったことがあったのかな。
(続)
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大きな栗の木の下で 37 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 別に三人は意気投合したと云うんでもなく、音楽的な結びつきなんかも殆どなかったんだけど、まあ、三人共早くレコードデビューしたいって野心は満々だったから、事務所の方針通りグループを組んだのよ。矢岳君は三人が仲良くやっていけるのか、ひどく気にしていたわ。それに事務所の云いなりに、自分の考えている方向とは違うことを受け入れたことで、なんかちょっと自己嫌悪みたいなものに襲われているみたいだった。
 でも、顔あわせから何ヶ月かレッスンとか一緒にするようになると、最初は不安そうだった矢岳君の顔も次第に和んできたの。懸念していた程、三人の音楽の指向とかがかけ離れていなくて、好きな曲なんかも共通するものがあって、一人で活動するよりはなんとなく心強い感じもしてきたみたい。三人はレッスンの後で、よく居酒屋さんなんかで音楽談義とかしていて、矢岳君は何時も帰りが遅かったわ。まあ、それも仕方ないかって、あたしは我慢していたけどね。
 担当は矢岳君がリードギターでもう一人がサイドギター、もう一人の人がエレキベースなの。歌は三人共歌うんだけど、主にはサイドギターの人が殆どのボーカルをとるって云う感じ。曲創りは、大体は矢岳君が担当と云うことだったかしら。詩は三人共書くんだけど、曲となると、ちゃんと譜面を読んだり書いたり出来るのは矢岳君だけだったみたいよ。だから自然に、矢岳君がリーダー格ってことになったみたい。歳は、三人共同い歳なの。
 デビュー前に一度、矢岳君が他の二人をアパートに連れてきたことがあったわ。二人共明るくて、悪い意味じゃなく、なんとなく軽い感じで、ちょっとサイドギターの人は癖があったけど、まあ、そんなに気にならない程度だったかな。三人は冗談云いあってよく笑っていたし、なんか知りあってそんなに長くもないのに、妙に仲良いじゃんなんてあたし思ったの。三人でうまくやっていけそうだったから、あたしも安心したの。
 デビュー曲も決まって、レコーディングの日程がはっきりすると、三人で一週間、伊豆の方に合宿にも行ったりしていたわ。デビュー曲は有名な或るソングライターが曲を創って、それから専門の有名なアレンジャーもついて、事務所としては結構力を入れてその三人を売り出す算段だったらしいのよ。矢岳君としては曲も自分でやりたかったようだけど、事務所の方針でそうもいかないのが、ちょっと残念だったみたいだったけど。
 それでもその頃の矢岳君は、本当に活き々々していたわ。なんかあたしとの生活の、なんでもない普段のちょっとした動きまで、妙にきびきびしているの。気持ちが段々張りつめてきて、少しもじっとしていられないって感じだったかしら。あたしそんな矢岳君を見るのが好きだったわ。なんかこっちまで、気持ちが高揚してきてさ。・・・>

 沙代子さんは摘みあげた草を今度は前に投げないで、料理人が指を小刻みに動かしながら肉の上に塩をふりかけるような仕草で、自分のもう一方の掌に落とすのでありました。細かい針のような葉が沙代子さんの小さな掌の上に、とても小さなバッタが群れているように散らばるのでありました。沙代子さんは暫く自分の掌を見た後、両の掌を軽く擦りあわせて上に載った草を掃い落とすのでありました。御船さんはその草が足を折り曲げて座った沙代子さんの膝の横に落ちるのを、なんとなく観ているのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 38 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「なんてグループ名だったんだ、そのグループ?」
 御船さんが聞くのでありました。
「ほろにが・バンド」
「え、なんだって?」
 御船さんは眉根を上げて沙代子さんに聞き返すのでありました。
「ほろにが・バンドよ。ビター・スイートのほろにが」
 沙代子さんはそう繰り返して、何故か少し照れ臭そうに笑うのでありました。
「ほろにが・バンドねえ。ふうん。なんかちょっと奇抜な名前だな」
「デビュー曲が『ほろにがいエチュード』って曲だったから、事務所の考えでそんな名前になったんだって矢岳君が云っていたわ。ちょっと安直かなとも、云ってたけど」
「ふうん。まあ、デビュー曲そのものに対する事務所の意気ごみが窺えると云うべきかな」
「なんせ有名なソングライターに依頼した曲だったから、その手前もあってそんなグループ名を考えついたみたい。矢岳君はちょっと媚び過ぎだよって苦笑っていたけどね」
「まあ、そんな感じもするような、しないような」
 御船さんはそう云って少し笑うのでありました。しかしそんな奇抜な名前のグループなら、少しでも売れたのなら御船さんもどこかで聞いたことがありそうなものでありましたが、御船さんにとっては全く初めて耳にする名前なのでありました。
「御船君、知っている、そのグループの名前か、曲の方か?」
 沙代子さんは聞くのでありましたが、沙代子さんがまた首を傾げて御船さんを覗きこむような仕草をしたものだから、髪の毛の膨らみの中に再び沙代子さんの一方の白い耳朶が覗くのでありました。御船さんは秘かにほんの少し嬉しくなるのでありました。
「いやあ、ちょっと記憶がないなあ」
 御船さんはそう云いながら、自分にそう返された沙代子さんが少々気の毒なような気もするのでありました。
「そうよね、知らないわよね。そのデビュー曲はあんまり売れなかったし、それに一枚レコード出しただけで、グループは解散になっちゃったしね」
 沙代子さんはそう云って、耳朶を隠してまた海の方へ顔を向けるのでありました。

 <でも、デビュー曲のレコーディングが終わって、ジャケットの写真撮影なんかも終わって、後処理に少し時間がかかったから、ちょっと矢岳君は時間が出来たの。それでこのタイミングで、矢岳君はあたしの両親に挨拶に行こうって云い出したの。まあ、レコードも出るし、プロのフォークシンガーだって、まあ肩書きのような、生業の実態のようなものも晴れて出来たわけだから、良いチャンスだってことになってさ。で、二人で寝台特急に乗って両親に逢いに来たのよ、この街まで。
「へえ、ここで沙代子は生まれて、高校生まで過ごしたのか」
 なんて、駅に降りて街中を歩きながら矢岳君が云うの。二人共列車の中でものんびり旅行気分だったけど、それはあたしの家に着くまでのことだったわ。
(続)
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大きな栗の木の下で 39 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 丁度日曜日で、父も居て、玄関入ったら母が出てきたんだけど、その母のあたし達を迎える顔が如何にも屈託あり気でさ、その顔を見た瞬間、あたしはなんか急に気が重くなって仕舞ったの。母には前以って電話で、大事な人を連れて行くからって知らせておいたの。それに手紙で矢岳君の写真も送ってはいたし、矢岳君がなにをしている人かってことも、その折ちらっと知らせてはいたのよ。そうすれば父に対しても、事前によしなに取り計らってくれるかなって思ってさ。
 でも実際は、様子が変なのよ。母の顔も妙に強張っていてさ。矢岳君もなんとなく母の顔から重苦しい雰囲気を察したみたいで、靴を脱ぐ時も、母に先導されて廊下を歩く時も、固い表情で一言喋らなくなったわ。
 居間では父がテーブルの前に胡坐をかいて座っていたけど、なんか天敵にでも逢ったように、入ってきたあたし達二人を睨むの。父が矢岳君の、ジーパンにジージャン姿を下から上にゆっくり眺め上げて、それからその後視線がちょっと下にさがったのは、矢岳君が持っていたギターケースに目が行ったからだったわ。初対面なのに、背広にネクタイの正装もしないで、ギターケースを持って現れた矢岳君を、父が一瞬で嫌悪したのが判ったわ。そんな父の方だって、普段着の儘だったけどさ。
 まあ確かに、その辺に気が回らなかったのはあたしの所為なんだけど、気軽な雰囲気で、普段の儘の矢岳君の姿で両親に逢った方が、なんとなく良いかななんてことも、あたし勝手に考えていたの。でも、それ、見事に裏目に出たみたい。なんとなくあたし達は父の傍に近寄れなくて、居間の入り口の襖の処におずおずと正坐したの。
 母が台所からお茶を持ってくる間、父もあたしも矢岳君も、一言も口をきかなかったわ。父にしたら自分から話しかけるのは、必要もない機嫌取りみたいでご免だったろうし、矢岳君も矢張り雰囲気から口を開けなかっただろうから、あたしがちゃんと場を取り持つべきだったんだけど、あたしも、なんかげんなりしちゃってね。
 お茶が出て来たって、相変わらず雰囲気は重苦しい儘で、話が始まるわけでもないの。母はそわそわして頻繁にあたしの顔を窺うし、あたしも母と目があうものの、どうしていいか判らないから、なんか困った視線を送るしかないの。
 その内に矢岳君が意を決したのか、口を開いたのよ。
「あのう、突然お邪魔して恐縮です。・・・」
 でも父はそっぽを向いた儘よ。
「お父さん、久しぶり」
 あたしもなんか喋らなくちゃって思って、父の仏頂面に話しかけるの。
「正月でもないのになんで帰って来んだ? それも、こんな男の友達なんか連れて」
 暫くしてやっと父が喋るの。如何にも冷淡に、無愛想に。
 父はあたしが連れてきた矢岳君が、あたしにとってどう云う人であるのかも、矢岳君が何をしに来たのかも、多分母から聞いてちゃんと判っているはずなのにそんなことを云うのよ。だからあたしは、勿論矢岳君を紹介するために来たんだし、それはもう判っているんでしょうなんて、ちょっと不機嫌に云ったの。
(続)
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大きな栗の木の下で 40 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 そうしたら、なんだその口をききようはって、急に怒鳴りだすの。その口調の変わり方が突然だったからあたし吃驚して、目を見開いて息をつめたわ。父が怒鳴ったのを見たのは、あたしが中学生の時以来多分なかったから。
 父も瞬間的に激昂して声を荒げたことを、すぐに悔やんだみたい。父の顔にたじろいだような色が浮かんだのが、あたしには見えたもの。
「まあまあ、お父さん」
 なんて母が慌てて取りなすんだけど、多分その必要はないって、あたし、なんか意外に冷静にそんな状況分析みたいなことしているの。父は常識人だし、体面とか体裁とかをかなり気にするタイプの人だから、自分の興奮した姿をあたしや矢岳君に見せたことを、直後に拙いなと後悔した筈なのよ、屹度。・・・>

 沙代子さんは言葉を切って、横に崩していた両足の膝をゆっくり立てて、それを抱くように両手を膝の屈曲した辺りに巻いて座りなおすのでありました。
「沙代子は、場合に依っては、妙にクールなところがあったもんなあ、高校生の頃から」
 御船さんは少し丸まった沙代子さんの背を、横目で見ながら云うのでありました。
「どう云うタイミングで急に冷静になるのか自分でも判らないけど、確かにあたし子供の頃から、怒られていてもその怒られている内容とかには気が向かずに、その人の唇の皺の動きとか、歯並びとか、鼻の穴が膨らんだりする様子とか、眉の動きとかを、へえとか云う感じで面白く眺めていたりすることが時々あったわ。これ、なんなんだろうね? でも大概の場合は、おっ魂消て、目をしっかり閉じて、わなわなしているんだけどね」
「根本的に、いけ図々しく出来ているんじゃないのか、人間が?」
 御船さんは笑いながらそう茶化すのでありました。
「そうかも知れないけど、そうじゃないかも知れないもん」
 沙代子さんが横目をして、その大きな目で御船さんを睨むのでありました。この表情も御船さんにとってはとても可愛らしく思えて、大好きな沙代子さんの表情の中の一つなのでありました。

 <暫くして、矢岳君が話し出したの。
「突然こんなのが現れて、しかもちゃんとした格好もしないで、不届きな奴だって思われるのはそちらの勝手ですし、僕の方としても申しわけないかとは思いますけど、でも、話しておかなければならないことがあるから、今日こうしてお邪魔したんです」
 これ、別に挑戦的な調子じゃなかったんだけど、でもちょっと言葉が粗いなって感じもしたし、父が冷静じゃなくなっていたから、また発作的に怒鳴るんじゃないかって、あたしは冷や々々したの。ああ、ええと、ところでこの場面では、クールな方のあたしじゃなくて、三対七で、わなわなの方のあたしだったわけね、一応念のため断わっておくけど。
 で、父の眉がピクンと動いて、あたし怖くて叫び出したいくらいだったわ。でも、父は一応堪えたみたいで、矢岳君の次の言葉を待つように口をへの字にして黙っているの。
(続)
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大きな栗の木の下で 41 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 矢岳君は父の顔をしっかり見ながら続けるの。それは矢岳君にしたら真剣さを伝えようとしているんだと判るんだけど、でも、あたし内心、矢岳君の目ってどこか鋭い険があるから、それを父が反抗的に挑んできているって解釈しないか冷や々々していたの。
「僕達は学生の頃からつきあっていて、勿論将来一緒になることを前提に真剣につきあっていて、そろそろお父さんやお母さんに挨拶しておく時期だって判断したから、こうして逢いにきたんです。僕たちは誰がなんと云おうと二人一緒になるつもりでいます。でも一応は、ものごとをすっきり安着させておくべきだと思うから」
 この矢岳君の科白も、あたし内心拙いなって思いながら聞いていたの。言葉も矢張り、なんか粗いし。だってあたし達が今日来たのは報告のためと云うだけで、これから先の交誼を宜しくお願いしますとか、家族の一員に僕も加えてくださいって云うような慎み深くてそれに友好的なトーンなんか、これじゃあちっともなくてさ。そりゃあ、別に殊更お追従みたいなことを云ってみたり、必要以上に下手に出ることなんかもないけど、それに結局結婚は本人たちの意志にのみよるんで、周りの意向は原則的に関係ないなんて云う筋みたいなところは、それはそうに違いないんだけど、でも始めからそれを大前提にして話をしようとしたら、それじゃあ矢張り、あたしの親とすればカチンとくるわよね。
 まあ、矢岳君は相当の自信家だから、人になにかを請うなんてことは大の苦手だし、誰にであろうと、そう云う態度は見せたくないのは判るんだけど、でも場合が場合なんだから、もうちょっと云いようがあるじゃないってあたし聞きながら思ったの。なんかあたし、全く不本意なんだけど、その場での矢岳君の口から出てくる言葉に対しては、ウチの父の方と感受性が近いのかなって、そんなことちょっと考えたりしていたの。
 で、事実、矢岳君の言葉が終わると、父の眉がまたピクンなんて動いたの。あたしもう本当に、咄嗟に悲鳴をあげたいくらいだったのよ。でも父は矢張り常識人で、まあ、歳が歳だから矢岳君なんかよりは世間慣れしているからなのか、すぐにあたし達から目を逸らして、一拍調子をとるように、ズズズなんて音たててお茶をゆっくり飲むの、無愛想な顔して。それから、話し出すの。
「君はどう云う仕事をしているんだ?」
 これね、あたし母への手紙にもその後でかかってきた電話でも、矢岳君は音楽関係の仕事をしている人だってだけ、なんとなく曖昧に伝えていたのよ。フォークシンガーとかそう云った具体的な情報はなしで。母はなんとなくレコード会社の社員だって云う風に、勝手にすぐ矢岳君の仕事を勘違いしたみたいで、普通のサラリーマンだと思ったみたい。
 それ、あたしにもすぐ判ったんだけど、でもなんとなく、フォークシンガーだってちゃんと説明すること、あたし何故かひどく億劫になって仕舞って云わなかったの。まあ、未だレコードデビュー前だし、一般に名前が売れているわけじゃないし、話が面倒な方に行くのが嫌だったからさ。でも、予めちゃんと云っておけばよかったのよね、あたしが。
「音楽、やっています」
 矢岳君が云うの。それから矢岳君があたしの方を見るのは、そこいら辺をちゃんと両親に伝えてかったのかって、そうあたしに問うためだったのよね。
(続)
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大きな栗の木の下で 42 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 なんかあたし、矢岳君を見ることが出来ずに俯いて仕舞ったの。
「音楽をやっている?」
 父が矢岳君の言葉を繰り返すの。
「レコード会社に勤めているんでしょう?」
 これは母の言葉。そこで矢岳君がまたあたしを見るの。
「俺のこと、ちゃんと話していなかったのか?」
 これは矢岳君があたしに対して聞く言葉。あたしは俯いて小さくなっているだけ。
「レコード会社のサラリーマンなのか?」
 父が聞き質すの。
「いいえ、そんなんじゃありません。僕は、歌詠いでギター奏者です」
「歌詠いでギター奏者?」
 父は、勿論母も、その矢岳君の言葉をすぐに理解出来なかったみたい。
「一般的に云えば、シンガー・ソングライターと云うことになります」
 矢岳君が云うの。
「なんだその、シンガーなんとかと云うのは?」
「作詞作曲して、それを自分で歌うんです」
「要するに、テレビに出てくるような歌手か?」
 矢岳君は困惑して父を見返すの。矢岳君としては自分を所謂「歌手」だけだとは思っていなかったし、寧ろそう云った規格の外に居る「アーティスト」だと思っていたから、その父の言葉を首肯するわけにはいかなかったんだろうけど、でも、その辺を相手に判るように説明するのはしんどいと云うような顔をしていたわ。
「まあ、大雑把な括りで云えば、そうも云えるかも知れません。ちょっと違うんだけど。それに、僕はテレビには出る気なんかないし」
「結局、いったいなんの商売をやっているんだ?」
 父が焦れたように言葉を荒げるの。
「だから、シンガー・ソングライターです。フォークの」
「今流行りのニュー・ミュージック? 荒井由実とかハイ・ファイ・セットみたいな」
 これは母が云うの。母が荒井由実とかハイ・ファイ・セットとか知っているの、全く意外だったから、場の険悪なムードとは別に、あたしちょっと驚いたわ。
「いや、僕はあくまで自分の歌はフォークだと考えています」
「だから結局、なにをして食っているんだ?」
 父はもう今まで保っていた常識人の顔をかなぐり捨てて、殆ど怒りだしているの。
「具体的にはレコードの売り上げと、コンサート活動ですよ」
 矢岳君も売り言葉に買い言葉みたいに、ちょっと語気を荒げるの。まあ、売り語気に買い語気って云うのが正しいかな。別にどっちでもいいんだけど。でもね、あたしはあくまで、矢岳君にはすぐに父の語気の荒さに反応しないで、クールに、誠実で律義な感じで対応して欲しかったんだけどね。でもまあ、矢岳君の性格から、それは無理だったかな。
(続)
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大きな栗の木の下で 43 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「まあ、要するに、歌手だな」
 父が云うの。父なりの理解なのよね、それ。「それでちゃんと、食えるのか?」
 勿論まだレコードも出ていないし、音楽活動での収入と云ったら殆どなかったわけだから、矢岳君はそう聞かれてちょっと俯いてしまったの。
「いや、それだけでは、未だ。・・・でも、もうじきレコードを出します」
「さっきから歌手だと云っているくせに、つまり、本当は未だ歌手でもないわけだな?」
「でも、コンサート活動の方は順調にやっているのよ」
 これはあたしが父に横から云った言葉。父はあたしを睨んだわ。
「なんて云う芸名だ?」
「三人のバンドで、芸名と云うか、バンドの名前は、・・・」
 矢岳君がちょっと云い澱んだのは、そのバンド名を云うことが内心ちょっと気恥ずかしかったからだと思うの。「バンド名は、ほろにが・バンドと云うんです」
「なんだって?」
 父は眉根を寄せて頓狂な声で聞き返したわ。
「ほろにが・バンドです」
「なんだそりゃ。そんな胡散臭い名前のバンドなんか、聞いたこともない」
 今度は吐き捨てるような言い種。矢岳君はその父の言葉にかなり屈辱を感じたようで、凄い顔して父を睨み返したわ。
 で、その矢岳君の表情が、父の堪忍袋の緒が完全に切れる切かけになったのよ。父はいきなりテーブルを両手で叩いて立ちあがったの。
「ふざけるな、なにが歌手だ。要するに就職もしないで、芸能人面してチャラチャラ遊んでいる、詐欺野郎じゃないかお前は。いったいどう云う了見で、ここに現れたんだ!」
 父のこの言葉、矢岳君の自尊心が耐えられる限界を越えていたわ。矢岳君も釣られるように立ち上がったの。もうあたし、泣き出すしかなかったの。
「お父さん、止めてください!」
 母が叫んで父に縋りつこうとするの。
「お前みたいなインチキ野郎に、大事な娘をやれるか!」
 父は矢岳君の胸倉を両手で掴んで、渾身の力で矢岳君を揺さぶるの。あたしは矢岳君がそれに抗って父を突き飛ばしはしないかと、思わず母に縋りついて泣きながらハラハラしているだけ。
 流石に父に暴力で抵抗するのは拙いと思ったのか、矢岳君は手は上げなかったわ。まあ、父の背は矢岳君の鼻の下程だし、大して力もなかったから、矢岳君はそんなに激しく揺れてもいなくて、だから矢岳君の方が倒れる心配なんかはなかったけど。・・・>

 海からの風に乱された前髪を御船さんは掻き上げるのでありました。
「沙代子には、確かお兄さんが居たよな?」
 御船さんが聞くのでありました。「その時、お兄さんは居なかったのか、その場に?」
(続)
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大きな栗の木の下で 44 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「うん、兄はその頃大阪にいたのよ。もう、とっくに就職もして、結婚もして」
 二人が座る木蔭のすぐ上の葉群れの騒ぎが納まるのを待ってから、沙代子さんも同じように前髪を掻き上げるのでありました。
「お父さんとしたら、そんな何処の馬の骨だか知れない、・・・」
 そこで言葉を切って御船さんは、いや失礼、と云い添えてから続けるのでありました。「まあ、お父さんの理解を越えることをやっている男に、大事な娘を嫁がせることは絶対出来ないと考えるのは仕方ないとしても、お兄さんがその場に居たら、お父さんの反応自体はちょっと違うものになっていたかも知れないな。それにお兄さんなら歳が近い分、お父さんのように頭ごなしに、その矢岳と云う男のことを否定的に観なかったろうし、状況によってはうまくとりなしてくれたかも知れない」
「それはどうかな」
 沙代子さんは首を傾げるのでありました。「うちの兄は父よりも古風な考えの持ち主だから、ひょっとしたら父以上に逆上して仕舞って、矢岳君と取っ組み合いの喧嘩なんか始めていたかもよ」
「あれ、そうなんだ?」
「うん、兄は短気で単純で、目茶々々保守的でさ、音楽と云ったら演歌好きだし、それに力自慢で、大学時代はアメリカン・フットボールなんかやっていたし、矢岳君みたいなタイプとは、屹度先天的に相容れない人間だと思うわ。それこそ天敵、みたいな感じよ」
「ふうん。まあ、俺はお兄さんには逢ったことがないから、知らなかったけどさ」
「屹度兄なんか居たら、もっとひどいことになっていたわよ」
 沙代子さんはそう云って手を横に何度かふって見せるのでありました。先程よりやや強い海からの風が高台の公園に吹きあがってきて、栗の古木が暫く葉擦れの音を旺盛に辺り一面にふり撒くのでありました。せっかく掻き上げた御船さんと沙代子さんの前髪は、またもや乱暴に乱されて仕舞うのでありました。

 <で、まあ、矢岳君は追っ払われるようにして、あたしの家を出たの。あたしも、あんな男と一緒になりたいなんて云う娘は、もう娘とも思わん、なんて父に怒鳴られて一緒に追い出されたの、その日は。矢岳君は一応、のっけからあたしの家に泊めて貰う積りで来たと云うのは、如何にも図々しいからって、予め駅前のビジネスホテルを予約していたんだけれど、結局あたしも一緒に、そこに泊まることになったの。
 矢岳君はホテルに入ってからも、随分不機嫌だったわ。あたしの方も、矢岳君の子供っぽさと云うのか、ことの処し方の稚拙さみたいなものに、内心ちょっと失望なんかしていたものだから、それに勿論、矢岳君への申しわけなさもあったから、口をきく元気もなかったわ。二人共黙って、部屋の中で、矢岳君はベッドに横になって、あたしは椅子に座って、なんとなく気まずい感じで暫く居たのよ。矢岳君、その気まずさに耐えかねたのか、ギターを取り出してそれを弄んだりし始めたけど、あたし、なんか急に悲しくなってきて泣いちゃったの。暫くそうしていたら突然、部屋のドアがノックされたのよ。
(続)
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大きな栗の木の下で 45 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 入って来たのは母だったわ。あたし達が父に家を追い出された時、母が心配して玄関の外まで出てきたの。その時矢岳君の予約していたホテルを、おろおろ顔の母にあたし教えといたのよ。だから、適当に父を宥めた後に、ホテルまで訪ねてきたの。まあ多分、父も本心はあたしのことが心配だったから、あたしの居場所を屹度母が聞き出していて、後で訪ねるだろうってことは予測していたみたいで、だから母の夜遅くの外出を、別に何処へ行くともなんとも聞かないで黙認したのよ。母が後でそんなこと云っていたわ。
 母はギターを抱えている矢岳君を見て、ちょっと嫌な顔をしたわ。こんな時にギターなんか弾いている場合か、とか云った風の顔。矢岳君はその母の顔を見てすぐにギターをベッドの上に置いて立ち上がったの。母が入ってきたと云うのに、ベッドに半分横になった儘、居住まいも正さないと云うのは如何にも拙いと、当たり前に判断したからよ。だって母のことを、どちらかと云うと自分達の味方になってくれる人だと矢岳君は見做しただろうから、その人の前では殊勝なところを見せないとね。
 部屋と、後から母に誘われて行ったホテルに併設されているレストランで、あたし達が一緒になることにした理由や経緯を、母に訊ねられる儘あたしと矢岳君で交互に話したわ。まあ、殆どあたしが喋って、矢岳君は訊ねられた自分のことをぼつぼつ話すと云った感じだったかな、実態としては。
 あたし達は、矢岳君がレコードデビューすることを、両親に承諾して貰う最大の拠りどころにしていたのよね。矢岳君の生業って云うのか、それでちゃんと仕事に就いている社会人の外観が整ったような感じがしてさ。だから、あたし達はあたしの両親に報告に来たわけ。だってレコードがヒットしたら、矢岳君は名前も売れてお金も稼げるんだもの。
 でもそんなの、とんでもなく呑気で甘っちょろい認識以外じゃなかったのよね。第一その時点では未だレコードも出していないし、レコードが売れるなんて保証は何処にもないんだしね。母が、それは投機みたいなもので、父を説得する材料になんかなるわけがないって云っていたけど、まあ、確かにその通りだとあたしも思ったわ。
「一曲ヒットを飛ばした後に挨拶に行ったら、話も上手く運んだかもしれない」
 なんて矢岳君後で話していたけど、そうかも知れないし、だからと云ってそう上手く話が運ぶものでもないような気も、その時あたしはしたけどさ。
 で、母の方は、あたし達二人がその積りでいるんだし、実態としてもう一緒に暮らしているんだから、今更何を云っても仕方がないって感じの、消極的な承諾の態度だったかしらね。少し話して、矢岳君の人と為りやフォークシンガーとしての期待度なんかも、多少は判ったみたいだったから、幾分安心はしたみたいだったし。時間をかけて父を説得すれば、父も、母に云わせれば「諦めてくれる」だろうって、これがその時の結論だったわ。
「でも、例えレコードの話とかがどんな風になっても、将来この子に悲しい思いだけは絶対させないでね。それだけは約束してね」
 これは母が帰る時、矢岳君を睨むような目で見ながら云った言葉。あたしはその言葉に涙が出たわ。でも、矢岳君の方としてはそんなことを今更ここで、改めて念を押されるのがちょっと不本意だったみたいで、ただむすっと無愛想に頷くだけだったけど。
(続)
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大きな栗の木の下で 46 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 それであたし達は翌日の寝台特急で東京へ帰ったの。夕方まで時間があったんだけど、別に何処にも行かなかったわ。本当は、あたしが通っていた小学校とか中学校とか、他にも色々な処に矢岳君を案内する計画していたんだけど、なんか出歩く気も起こらなくてね。矢岳君は夕方までホテルの部屋でギターなんか弾いていて、あたしは秘かに母と待ちあわせして昼食を摂ったり、ちょっと買い物に繁華街を歩いたりして過ごしたの。帰りの寝台特急の中でも、まあ、矢岳君の機嫌も少しはなおったけど、でもなんとなく気まずい感じで、あんまり会話もしないで帰ったわ。
 あたしさ、二人共黙った儘列車に揺られながら、なんか初めの頃に比べると、矢岳君があたしに対して、優しくはなくなったように思ったの。前は嫌なことがあっても、自分のことはさて置いてあたしのこと色々気遣ってくれたんだけどね。まあ、自分のことを普通に、さて置かなくなったってことだけど、なんかちょっと寂しかったわ。あたしの全くの身勝手かも知れないけどさ。
 でも一端そう思って仕舞ったら、今後のことだって、当然不安になって仕舞うわけよ。あたし達には色んな事がこの先あるんだろうけど、それをちゃんと上手く乗り越えていけるかしらってさ。あたしにしても、色んな事、ちゃんと我慢出来るかしらって。あたしその日、朝から妙に体調が優れなかったから、悲観的なことばかり考えていたの。・・・>

 風が去った後に、いきなり、蜩の鳴き声が聞こえるのでありました。
「あ、蝉が鳴いている」
 沙代子さんがそう云って顔を上げるのでありました。御船さんも木蔭の中で栗の木の葉群れの辺りを見上げるのでありました。
「この時期、未だ蝉が居るんだ。」
 御船さんはそう云いながら幹や梢を見回すのでありましたが、蝉の姿は見つけられないのでありました。
「蜩って、夕方とか鳴くんじゃなかったっけ?」
 沙代子さんが聞くのでありました。
「大体はそうだよな」
「もう夕方?」
 沙代子さんはそう聞きながら自分の腕時計に目を落とすのでありました。
「いやあ、未だ夕方と云う時間じゃないけどな」
 御船さんも自分の腕時計を見るのでありました。自分の細った腕に、如何にも重たく腕時計が巻きついているのでありました。
「あたし蜩の鳴き声聞くと、すごく寂しくなるの、子供の頃から」
 沙代子さんは腕時計から目を上げて空を見上げるのでありました。
「俺もそうだったよ。なんかそろそろ遊びを止めて、早く家に帰れって合図みたいで」
「うん、そうよね」
 沙代子さんはゆっくり頷くように顎を戻して、下界の方に視線を向けるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 47 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 木蔭の中で二人して少しの間黙るのは、もう一度蜩が鳴くのを待っているためでありました。しかし先程の一声の後には、公園の中に鳴き声が響くことはないのでありました。
「その後、・・・」
 御船さんはゆっくり言葉を上せるのでありました。「その後、お父さんが沙代子を連れ戻しに、東京まで出て来たりなんてことはなかったのか?」
「うん、そう云う、すったもんだみたいなことはなかったわ。母が色々、父を宥めたり賺したりとかしたみたいだから。父も、本来は穏健な人だしね。それに他にも、そんな手荒なことが出来ない事情が、ちょっと出来たものだから。・・・」
「ふうん。アメリカン・フットボールのお兄さんとかも、乗りこんでこなかったのか?」
「兄は身勝手で、自分のことしか考えないタイプでさ、あたしのことなんかで自分の労力使う人じゃないわ。知ったこっちゃないって云うスタンス」
「ああ、そうか。ふうん」
 御船さんがそう云いながらまた栗の木の幹や梢を見渡すのは、先程見つけることが出来なかった蜩の姿が、どうしたものか妙に気になるからでありました。

 <東京に帰ってからは、矢岳君はレコードの発売日に向けて、いろんな仕事で急に忙しくなったわ。コンサートの出演とかキャンペーンとか、何度かラジオ番組に呼ばれたこともあったの。矢岳君、ギター抱えて飛び回っていたわ。前評判を煽るとか云ったことなんでしょうね。最初のレコードが好評なら、すぐ次にアルバムの作成なんて話もあって、新しい曲も幾つか創らなくちゃいけなかったし。矢岳君はその頃、活き々々していたわ。
 あたしは、なんかずっと体調が優れなかったの。帰りの寝台列車の中でもずうっと気分が悪くてさ、それが帰った後も続いていたの。食欲はあるんだけど、食べ物を口に入れると、もう食べたくなくなるの。朝も、会社に行くのが億劫で、何度も今日は休もうかなって思ったくらい。
 で、或る日会社休んで病院に行ったの。そうしたら、あたしさ、妊娠、していたのよ。その辺はあたし達気をつけてはいたんだけど、でも、それでも、妊娠していたの。
 お医者さんにそう告げられた時、あたし視界が急に暗くなっていったわ。本来は喜ぶべきことなんだろうけど、あたしの実家とのこともあったし、矢岳君も一番大変で大事な時期だったし、それに矢岳君には未だ充分な収入がなかったから、あたしがすぐに仕事を辞めるわけにはいかないし。だから、・・・
 その日は矢岳君は地方に行っていて、帰って来なかったの。あたしアパートに戻って部屋で一人、夜まで電気も点けないで色々思い悩んでいたわ。矢岳君がこのことをどう思うかってことが、一番気がかりなことだったんだけど。
 矢岳君は絶対喜んではくれないって思って、ひどく暗い持ちになるし、なんてタイミングの悪いことが起こったんだろうって、腹立たしくもなるし。あたし、とうとう泣いちゃったの。泣いてどうかなるわけじゃないんだけどね。結局外が白んでくるまで、あたし小さなテーブルに腕を載せてそこに顔を伏せて、シクシクやっていたのよ。
(続)
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大きな栗の木の下で 48 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 シクシクやっていると、そのことにかまけて、考えが重苦しい方に向かわないで済んだの、実は。でもさ、油断していると矢張り次々に浮かんでくる色んな考えを持て余して、あたし疲れきって少しうとうととしたの。目が覚めたらもう朝の八時半を回っていて、会社に行く時間を過ぎていたの。それでまたどっと力が抜けて、もう、それでも会社に行くなんて云う気力は到底湧いてこなかったから、その日も会社を休んだの、あたし。
 夜遅く矢岳君が帰ってきたんだけど、あたし、妊娠しているってことをなかなか云い出せなくて、それに矢岳君の顔を見るのが妙にしんどくて、なんてことない会話もちぐはぐになって仕舞うの。まあ、東京に戻って以来、矢岳君の忙しさもあってそんなにあからさまに表には出ないんだけど、あたし達の仲はずっと、前とは違ってどこかちぐはぐではあったんだけどね。で、矢岳君は何時もにも増してあたしの口が重いのを変に思ったみたいで、少し苛々したような調子であたしに聞いたの。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
 そう聞かれてもあたし話す勇気がどうしても湧いてこなくて、また泣いたの。あたしさ、そんなにめそめそするタイプじゃないと、自分ではずっと思っていたんだけどね。
「そうやって泣いていても、判んないじゃないか」
 矢岳君があたしの俯いた顔を覗きこむの。あたし矢岳君の目を横目で見たの。その目に、あたしを本当に気遣う色があるのかどうか、確かめようとして。
「これから話すこと、怒らないで聞いてね」
 あたしは意を決して、そう前置きして、あたしが妊娠していることを告げたのよ。
 矢岳君の目の様子が、一瞬変わったわ。それはあたしが告げたことを、迷惑に感じた色が思わず出たためなのか、それとも単純に驚いただけなのか、それは判らなかったの。だからあたしは、矢岳君が次にどう云う言葉を返すのか、緊張してその唇を見つめていたの。
 矢岳君は暫く無表情で天井を向いて黙っていたけど、徐にあたしの方へ視線を戻して、それからニッコリ笑ったの。あたし、その笑い顔を見て、思わずホッとして目眩がしたわ。
「そんなこと、泣きながら話すことじゃないじゃないか」
 矢岳君がとっても優しげな調子で云うの。「お目出度い話なんだからさ」
「本当に、そう思う?」
「当たり前だろう」
「今が矢岳君にとってとても大事な時なのに、迷惑なことだなんて、思わない?」
「今、俺にそのこと以上に大事なことなんか、ないよ」
「本当?」
「本当に決まっているじゃないか」
 そう云われて、あたしまた大泣きするわけ。一気に、あたしの中で固まっていた氷が融けて、蒸発してしまうみたいな気分。いきなりの解放感みたいなものかな。
 でも実は、そんな有頂天の最中にも、どこかで矢岳君の言葉を疑っているあたしが居るの。ここで怒ったり取り乱したりとか、明け透けにみっともないことは出来ないと云う体裁だけから、要するにそんなこと云っているんじゃないか、とかね。
(続)
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大きな栗の木の下で 49 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 あたしに侮られたり、器量を見透かされたりすることが、矢岳君はことの他嫌みたいだったからさ、それまでも。あたしに対しては「エエ恰好しい」だからさ。まあ、あたしに対してだけじゃないかも知れないけど。兎に角、浅はかな心根のヤツだって思われるのが、何より耐えられない人なのよ。
 だからさ、その優しい言葉も、その線に沿っているだけかも知れないって、あたし一方で疑うわけ。ああ、でも別にだからってあたし勿論、矢岳君を軽蔑なんか決してしていないのよ。寧ろそう云うところ、実は可愛いなんて思うのよ。まあ、こんなことはどうでもいいんだけど。
 で、だから、矢岳君の本心は実のところは判らないんだけど、でも、取り敢えずはその矢岳君の言葉に力いっぱい掴まるしか、あたしなかったのよ。
「そうなると、俺ももっと頑張らないとなあ」
 矢岳君が云うの。
「でも、どうしよう。当面の問題として、今の状態じゃあ、あたしがすぐに会社を辞めるわけにはいかないだろうし」
「いや、体のためにも、会社はなるべく早く辞めた方が良いんじゃないか?」
「でもそう云うけど、それじゃああたし達の生活が、成り立たなくなるんじゃないの?」
 あたしが云うと矢岳君は暫く黙って、なにか考えている風だったわ。
「赤ちゃんが生まれるのは、何時になるんだ?」
「予定では、あと半年くらい先かな、病院でそう云われたわ」
「その頃には、俺の活動の方もなんとか目鼻が立つかも知れない。まあ、未だなんとも判らないけど。それにレコードの歌唱印税とか諸々入るようになると、少しは先の生活の目途も立つだろうし」
 あたしは、今考えると甘かったんだけど、矢岳君のデビュー曲は絶対ヒットするって確信していたから、実は将来の不安とかはそんなにはなかったのよ。差し当たっての生活が、不安だったの。まあそうは云っても、間違いなく矢岳君の曲がヒットするとは限らないんだけど。でも要するに、あたしとしたら矢岳君との生活がとても大事だったから、楽観的な見取り図に闇雲に縋りつこうとして、その他の好ましくない観測なんか、端から寄せつけようとしなかったと云うことなんだろうけど。
「あたし達、貯金なんてそんなに持ってはいないわよね」
 あたしはそう云ったの。「デビュー曲は屹度ヒットするとは思うけど、でもそれまで、どうやって生活していけばいいのかしら。お金が入ってくるのは少し先の話でしょう?」
「コンサートとかの出演料は入るよ。まあ、そんなに大した額ではないけど」
「それで当面、乗り切れる?」
 そう聞くと矢岳君は横のギターケースを見ながら、暫く黙った儘でいたわ。なんかあたしの聞き方が矢岳君の自尊心を傷つけなかったかなって、あたし内心ハラハラしていたの。
「事務所に、相談してみようかな」
 矢岳君はそう云ってあたしの方を見るの。そんなに怒ったような顔じゃなかったわ。
(続)
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大きな栗の木の下で 50 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 どちらかって云うと、その顔はなんか心細そうな顔だったわ。なんか不安を解消して貰おうとして、子供がお母さんの目を見るような感じの。
「事務所には、あたしと暮らしているってこと内緒なんじゃなかったの?」
「いや、ちょろっと話してはいるよ。まあ、事務所はあんまり良い顔はしてないんだけど。でもそのことと俺の音楽とは無関係だし、俺の自由だし。第一俺はテレビタレントになろうとしているわけじゃないんだから、事務所にそこまでプライベートを管理される謂われはないし」
「でも、人気とか云う点を考えると、その辺も大事なんじゃないかしら。同棲している女がいるなんて、矢張りちょっと、新人としてはマイナスポイントなんじゃないの?」
「関係ないよ」
 矢岳君はそう云ってあたしの云うことを笑うの。それは矢岳君の人一倍の強がりだったろうし、フォークシンガーとしての矜持なんだろうけど。まあ、確かに身辺とか過去とかが、余りに取ってつけたように綺麗々々したフォークの歌い手なんて、そんなに魅力なんかないかなってあたしも思ったの。まあ、綺麗々々していてもいいんだけどさ。
 で、つまり、矢岳君は事務所にお金を借りようと思ったみたい。まあ、将来のギャラの前借りって感覚かしらね、矢岳君としては。上手くいくかどうかは判らないけど、当面の金策としてはそれが最も確実かも知れないって云うの。事務所が自分を高く買っているって云う自信があるからだろうけどね。
 あたしさ、事務所があたしと矢岳君が同棲していることにあんまり良い顔をしていないって云う矢岳君の言葉が、一方でかなりショックではあったのよ。これから売り出そうとしている商品として矢岳君を見れば、それは確かにそうかもしれないけどさ。でも、なんかあたし、自分が矢岳君の将来にとって邪魔者だって見做されているみたいで、ひどく寂しかったのよ。事務所の方はあたしの存在が快くないんだって思ってさ。だからあたし、また泣いたの。
 あたしその時、屹度妊娠しているせいで、情緒不安定だったのよね。だから、すぐ泣いたりするの。本当はあたし、なんに依らず呑気な性質なんだけどね。・・・>

 蜩はもう鳴かないのでありました。木蔭の中には、街の佇まいを撫でて山の斜面を吹きあがってくる海からの風に、栗の古木の葉群れが揺れる音が強弱をつけて降り積もるだけなのでありました。御船さんは公園の静けさをいや増すように堆積する葉擦れのさざめきの中に、沙代子さんと自分とが二人だけ、この世から切り離されて埋もれていくような錯覚を覚えるのでありました。
「それで、その金策は、うまくいったのかい?」
 御船さんは沙代子さんに聞くのでありました。
「うん。まあ、借用と云うことなんだけど、向こう半年は月々のお給料みたいな感じで、一定の金額を保証してくれることにはなったの。それに必要なら出産費用も立て替えてくれるってことでさ。矢岳君は事務所がそれを認めたことで、かなり有頂天になっていたわ」
(続)
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大きな栗の木の下で 51 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 沙代子さんは脚を倒してまた横座りになるのでありました。
「なんかデビュー前の新人にしては、破格の待遇って感じだな」
 御船さんが街を眺め下ろしながら云うのでありました。
「そうね。確かに事務所の方も矢岳君のことすごく期待していたようだから、矢岳君の頼みを、結局受け入れたみたい」
「つまり、奇貨居くべし、と云うところかな」
「なに、それ?」
 沙代子さんが御船さんの顔を覗きこむのでありました。
「いや、中国の古典にある言葉だよ。『史記』だったかな」
「どう云う意味?」
「将来有望なヤツは今の内に買っておけってこと。それで大いに恩を売れば後で必ず大儲けが出来るぞ、とか云う風の意味だよ」
「それ、高校の時に習った、漢文かなにかの授業で?」
「どうだったかな。多分そんなのやらなかったんじゃないかな」
 御船さんはそう云って体を支えるためについていた掌を地面から離して、付着した泥と草を掃ったのではありましたが、さてその掌の次の置き処に窮するのでありました。仕方がなく、御船さんは先程沙代子さんがしていたように膝を立てて、それを抱くように腕を回して膝頭の辺りで掌同士を連結するのでありました。御船さんの座り姿が落ち着いたのを見て、沙代子さんは海の方へ視線を戻して話を続けるのでありました。

 <あたしさ、実家を追い出されたような形だったけど、母とはずっと連絡はとっていたのよ、手紙とか電話で。父は、体面上はあたしを勘当扱いだったし、意地でも自分からはなにか打開策を試みて、あたし達との関係を修復しよとするようなことは一切しなかったんだけど、でも、あたしと母が秘かに連絡をとりあっていることは気づいていたはずなの。あたしと母がそうするだろうことは、予めちゃんと推察してもいたと思うの。だから、知らんぷりしながらもそれは黙認するって云う感じでいたの。だって、一応手塩にかけた娘だもん、あたし。だから父もとても心配してくれていたことは、間違いないもの。
 電話でね、母にあたしの妊娠を告げた時、母は先ず深いため息をついたわ。母はそう云う事態が何時か起こるだろうことはもう予測していたみたいで、母のその時のため息は、それが予想以上に早く到来したことへの嘆息だったわけ。
 ため息の後、母は電話口で長々とあたしの計画性のなさとか不首尾とか、色々なじったり小言を云ったりしていたわ。でもあたしが、じゃああたしのお腹の子は誰からも望まれないで、邪魔者としてこの世に生まれて来るのね、なんて涙声で云ったら、それっきりもう愚痴みたいなことは云わなくなったの。多分あたしとお腹の子が、とても不憫に思えたからでしょうね。その後は、切羽つまって妙なことは絶対考えるなよって念押ししただけ。
 で、結局、経済的な面に関しては、母も幾許かの仕送りをするからって云ってくれたの。それに出産に必要な物はなんでも、何時でも送ってくれるとも云い添えてもくれたの。
(続)
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大きな栗の木の下で 52 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 あたし実は、事務所から月々或る程度の生活費を貰えるって云う矢岳君の話より、この母の仕送りをしてくれるって云う話の方が、比較にならないくらい頼もしく思えたし、安心出来たのよ、矢岳君には悪いんだけど。だって矢岳君のお金は結局、前借と云うことなんだし、こんな云い方は変かも知れないけど、なんかそれは冷たいお金なのよね。まあ、あたしはそう感じたの。でも実家からのお金と云うのは、負い目も少なくてさ、どことなく体温があるような感じがするわけよ。あたしの身勝手な思いこみ以外じゃ決してないのは、重々判っているんだけどさ。お金は、お金でしかないけどさ。
 でも、あたしは母から仕送りの申し出が貰えたので、それでなんかやっと、薄明かりが見えたような気がしたのよ。そうすることを父も、苦々しくは思うだろうけど、反対はしないだろうって母は云い添えたわ。あたしさ、実は内心、中絶なんてことも考えていたの。
 で、だとしても一応、母からの申し出の件は、矢岳君には内緒にしておこうとは思ったの。だって、あたしが矢岳君の工面するお金より、母からの仕送りの方を頼りにしているなんてことになれば、矢岳君のプライドがひどく傷つくに決まっているものね。
 まあ、大学を出た後も親の仕送りに頼っているなんて、それは凄く恥ずかしいことなんだけどね。あたしだって妊娠さえしていなかったなら、勘当されたも同然の子なんだから、意地でも頑張って、矢岳君が音楽で成功するまで支えていく覚悟はあったのよ。それで両親を見返してやるって云う気持ちも、充分あったの。でも、現実はそんな自分の思い通りには進行しないわけ。で、あたしは会社を辞めたの。・・・>

 沙代子さんが倒した膝を立てて、もう一度膝を抱く座り方に座り直すのでありました。御船さんと沙代子さんは同じ座り姿で、御船さんは眼下の街の様子を、沙代子さんはその先の海を眺め下ろしているのでありました。
 風が納まった後、先程の白い中に黒い斑点のある鳥が、また木蔭の縁あたりに飛来するのでありました。鳥は今度も同じように地面を嘴で突きながら、うろうろと歩き回って木蔭の中に侵入して来るのでありました。
「あの鳥、さっきも来たわよね」
 沙代子さんが云うのでありました。
「うん、俺が声を出したら急に飛んでいったけどな。もうそろそろ俺達が居なくなったかと思って、またぞろやって来たのかな」
「でもあたし達居なくなっていないんだから、もしそうなら、ああやってさっきと同じ処に降りては来ないんじゃないかしら」
「まあ、俺にはあの鳥の了見は、聢とは判らないけどさ」
 御船さんはそう云って首を少し前に伸ばして鳥を見つめるのでありました。
「今度は、逃げないわね。あたし達が喋り出しても」
「そうだな。俺達に害意がないってことが判ったんだろう。さっきは慌てて逃げたけど、それ程ビクつくこともなかろうって踏んだんだ。そいで、前のおっちょこちょいを反省して、今度はああやってたじろぎもしないで、地面とのキッスを繰り返しているんだ」
(続)
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大きな栗の木の下で 53 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「鳥って、反省するの?」
 沙代子さんが聞くのでありました。
「そりゃするさ。俺みたいなのも時々反省するくらいだからから」
 御船さんがそう云うと沙代子さんは口に手を当てて笑うのでありました。
「御船君、鳥以下?」
「そう。実はね。今まで一生懸命隠していたんだけど」
 沙代子さんが今度は声を立てて笑うのでありました。その沙代子さんの笑い声にも驚かずに、鳥は木蔭の中を歩き回るのでありました。しかしさすがに、一定以上は距離をつめてはこないのでありましたが。
「あたしは、鳥以上ね」
 沙代子さんが云うのでありました。「だってあたし、あの鳥よりもっともっと、反省ばかりしているもの。ま、反省ばかりって云うか、悔やんでばかりって云うか。同じような失敗を繰り返して、その都度反省して、また相変わらず同じ失敗して。・・・」
「それはつまり、実は反省していないと云うことだろう?」
「そう、結局、反省しているふりをしているだけかもね」
 沙代子さんはそう云って海から自分の膝頭に視線を移すのでありましたが、その口元には自嘲的な笑みが浮かんでいるように見えるのでありました。
「じゃあ、本当は、鳥以下の俺以下じゃんか」
 御船さんはそう頓狂な声で云って、大袈裟に顎を上げて見せるのでありました。
「ああそうか。面目ない」
 沙代子さんが御船さんを見て頭を掻く真似をするのでありました。
「俺も、ほんの時々だけど反省はするわけだ。でも、或る時、大学時代だけど、考えたね。なまじ反省なんかするから、俺はちっとも合気道が上手くならないんだってさ。反省する暇があったら、嫌って云う程同じ失敗を繰り返した方が、結局は技なんかも身に染みつくんじゃないかなってさ。だから俺は反省しないことにしたんだ。でもなかなか反省しないと云うのは出来ないものでさ、ついつい意志の弱い俺としては、まあほんの時々だけど反省なんと云う真似を仕出かして仕舞うわけだ。ああ、これではいかんと思うんだけど、またこれが反省なわけだ」
「なんかややこしい話になってきたわね」
「反省なんかするから、話もややこしくなる。俺は将来、あいつはちっとも反省しないヤツだ、なんて人様に云われるような一廉の人物になりたいと願っているわけだ。まあ、あの鳥には申しわけないんだけどさ」
「ふうん」
 沙代子さんが簡単にそう返事するのでありましたが、それは御船さんの今ものしている冗談が、妙にまわりくどくなってきたのに少々辟易したからなのでありましょうか。
「まあ、なんだ、沙代子はつまらない反省なんかしないで、これからもあの鳥以下の俺以下の了見でずうっと頑張れ。そう云うキャラクターも得難いものがあるぞ」
(続)
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大きな栗の木の下で 54 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「ああ、そうなの?」
「そうそう。あの鳥もああやって、そうだそうだって何度も頷いている」
「でもあたし、結構反省、て云うか後悔なんか一杯すると思うよ、これから先も」
「まあつまり、沙代子にはいつだってニコニコしていて欲しいわけだ、俺は」
 この言葉はちょっと戯れ言の波に隠れて見つけにくくはありましたが、御船さんの紛うことない本心なのでありました。
「じゃあ、自分に対して、反省するふりを止めればいいわけだ」
「そう云うこと。俺と沙代子でこれから、元合気道部反省しない同盟を創って、反省と云う愚行に対して共闘することにしよう」
「押忍!」
 沙代子さんはそう云ってニコニコと笑って敬礼して見せるのでありましたが、それは大学の合気道部の初稽古の後、二人で定食屋へ行って話をした時に見せた沙代子さんのお茶目な仕草と同じなのでありました。御船さんはなんとなく嬉しくなるのでありました。

 <レコードが発売になると、矢岳君はその前にも増して、途轍もなく忙しくなったわ。それはレコード会社と所属事務所の設定したキャンペーンを、つまり誠実に、忠実にこなしているってことなんだけどね。もう、家に帰る暇もないって感じ。
 レコード会社も事務所も、それに当の矢岳君達のグループも、レコードを売ろうとして必死だったのよ。期待の新人が満を持してデビューしたわけだから、関係者としてはかなりの力の入れようだったの。先輩シンガーのコンサートにゲスト出演するとか、ラジオの収録だとか、ライブハウスでの自分達のコンサートだとかも前よりも格段に増えたし、大きなレコード販売店でのデモンストレーションだとか、毎日々々、朝から夜遅くまで矢岳君はとび回っていたわ。地方にも泊まりがけでキャンペーンに行ったりとかもあったし。
 偶に半日程空いた時間が出来ると、身重のあたしを何時も放ったらかしにしているのが少し気が引けるのか、矢岳君は疲れているだろうに、家事を手伝ってくれたり、買い物につきあってくれたりするの。それに地方に行っていても、毎日欠かさず夜に電話をしてくれるの。他のミュージシャンや音楽仲間とか、それに事務所の人とかと夜飲みにいっても、どんなに遅くなっても矢岳君は帰れる場合には必ず家に帰って来たわ。あたしがもう寝ていると思って、そっとアパートのドアを開けて、静かに部屋に入ってきて、それで起きて待っているあたしと目があうと、ちょっと驚いたような顔した後、なんか如何にも嬉しそうに笑うの。で、あたしもそんな矢岳君の顔が嬉しくて、目を大きくして笑い返すの。
 矢岳君の忙しさからあんまり一緒の時間を過ごせなかったけど、でもその頃があたし、一番幸せだった気がする。一番、矢岳君のことが好きだった気がするの。
 一生懸命矢岳君はあたしとの生活を守ろうとして張り切っていたいたし、あたしもそんな矢岳君と一緒に居られることがとても嬉しかったわ。あたしの実家とのことも、忘れるくらいだった。それにもうすぐ、あたし達の子供も生まれて来るんだし、こんな幸せはないと本当に思ったわ。もう、それは、怖いくらいの幸せだった。そう、怖いくらい。・・・
(続)
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大きな栗の木の下で 55 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 あたしの実家に行った帰りの、寝台特急の中で感じた矢岳君と一緒にいることへの気づまりな感覚だとか、逢った当時よりも少し冷ややかに隔たって仕舞ったような距離感だとか、そんな不安なんかもすっかり消し飛んでしまった気がしたの。あれはあたしの妊娠からくる情緒の乱れみたいなもので、そんなものは実際は存在しなくて、矢張り矢岳君は前の矢岳君と何も変わってはいないんだと、あたしは心底納得出来たんだけどね。
 その内遠からず、矢岳君のレコードがヒットして、矢岳君が有名になって、収入も格段に増えて、父も母も矢岳君のことをすっかり見なおして、とかさ、あたし将来の見取り図をひどく楽観的に思い浮かべられるようになったの。怖いくらいの幸せが、その内屹度怖くもなんともない本当の幸せになるってこと、信じて疑わなかったんだけどね、その頃のあたしは。
 でも、そうあたしの思った通り上手い具合に、世の中のことは運ばないもののようね。と云うのは、発売になったデビュー曲が、関係者の期待した程売れ行きが伸びなくて、キャンペーンに力を入れているにしては反響も今一つって感じなの。
 レコード店での売り上げが芳しくなくても、コンサート会場でのレコードの売れ方が見こみ以上であるとか、実売数の割に反響が予想以上に多く寄せられるとか、どこか地方のラジオ局が頼まないのに曲をよく流してくれるとか、音楽関係ばかりじゃなくてそれ以外の雑誌の取材申しこみなんかが一つくらいは入るとか、他に色々、ヒットする曲にはなにかしらの前触れみたいなものがあるらしいんだけど、そんな感触も殆どなくてね。コンサートやライブも、小さな会場なんかでも、ほろにがバンド単独ではお客さんの入りもそれ程伸びないの。
 二か月後のレコード会社の販売会議が分岐点だったわ。そこでは見あう効果が得られないからって、宣伝とか営業活動費も大幅に削られたの。そうなると、後は所属事務所の営業戦略で動くしかないの。レコード会社は流石に版権は手放さないけど、でもプレスした分のレコードは事務所の買い取りになって、事務所は欠損を出さないためにその買い取り分を、いろんな手段を使ってなんとか売ろうとするわけよ。
 当然、矢岳君なんかに対する事務所の待遇も急に冷淡になるわけ。ライブハウスじゃなくて、普通の大きな酒場のステージとか、ホテルの宴会場とかが主な活動の舞台になるし、そこにレコードを持って行って、自分達でそこのお客さんに売ったりしなければならないの。マネージャーもそれまでは専属の人が一人ついていたんだけど、そうじゃなくて、一人の人が複数の歌手を纏めて管理するその下に移されたりとかね。地方の小さなレコード店を丹念に回って、店先でちょっとしたデモンストレーションをやって、それで集まって来た人にレコードを売るなんて仕事もあったかな。
 演歌歌手になったんじゃないのになんて、矢岳君は家に帰るとあたしに自嘲的な愚痴を零していたわ。でもまあ、そうやってレコードを一枚でも多く売るしか、矢岳君としては当面ないわけよ。矢岳君はプライドの高い人だから、そう云う地道な仕事は、それは大事な仕事には違いないけど、でもすごく屈辱的だったでしょうね。この俺の歌を、どうして世間のヤツ等はもて囃さないんだってね。その辺がどうしても判らない人だから。
(続)
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大きな栗の木の下で 56 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 地道に、地味な活動をしていたら、その内にひょっとしたら急に人気に火がつくかもしれないなんて、事務所の偉い人に云われたりもするらしいけど、偉い人にそう云われて急にヒットした曲なんて、今までにそんなにあるわけがないじゃないかって、矢岳君はあたしに云うの。それに自分がやっている今の活動は、結局関係者皆の尻拭いじゃないかとも云うのね。出す時は皆で寄ってたかってひと儲けしようとレコード出したくせに、それが目算違いになると歌を担当した俺達のバンドだけに後片づけを押しつけているってさ。
 そう云う云い方って、あたしはなんか潔くないと思ったけど、でもそれは矢岳君には云わなかったけどね。だってそんなこと、云えるわけないじゃない。
 矢岳君はそんな愚痴を零しつつも、まあ、生真面目に云われた仕事をしていたわ。それは、矢岳君は否定したけど、でもひょっとしたら万が一本当に、急に人気に火がつくことだってあるかも知れないって、そう云う期待みたいなものを、結構本気で持っていたからだと思うの。それがなかったら、屹度矢岳君すぐに仕事を辞めていたでしょうね。なにも期待せずに、ただ、目前のことを秘かに全力で、地道にこつこつやるってタイプじゃないからさ。そんな持久力のある人じゃ、絶対ないからさ。・・・>

 白地に黒い斑点のある鳥は、何時の間にか木蔭の中から居なくなっているのでありました。鳥が飛んで行ったところを、御船さんは目撃してはいないのでありました。
「それはそうと、さっきの鳥だけど、いなくなっちゃったなあ」
 御船さんが沙代子さんに云うのでありました。云った後ですぐ、ここで急に鳥のことを自分が云い出したのは、沙代子さんの話を疎んでいることのサインであると、沙代子さんが誤解しはしないだろうかと心配になるのでありました。
「そう云えば、そうね」
 沙代子さんは海に向けていた視線を一端御船さんに戻して、それから鳥を探すために辺りを見回すのでありました。
「俺達が話にかまけていてちっとも注意を向けないものだから、お呼びでないかって、拗ねて飛んでいっちゃったかな」
「そうかもね」
 沙代子さんはそう云って肩を竦めて御船さんに笑って見せるのでありました。肩を竦めた時に片方の髪の毛が少し持ちあがって、沙代子さんの白い耳朶が髪の間に仄かに覗くのでありました。御船さんの目はすぐそこに向かうのでありました。
「この近辺のどれかの木に、巣があるんだろうか?」
「そこに、屹度子供が居るのね。だから餌を運ばないといけないから、ああやって時々この木蔭なんかにも降りて、赤ちゃん鳥のために餌を探しているのよ」
「でも、鳥の子育ての時期と云うのは、この時期なのかい?」
「さあ。鳥の生態とか、本当はあたしそう云うのは全く知らないんだけど、でも、なんとなくそうかなって思ってさ。あの鳥は親鳥で、家で待つ子供のために毎日朝から日が落ちるまで、ああやって一生懸命餌を探しているのかなって」
(続)
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大きな栗の木の下で 57 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 沙代子さんはそう云ってまた肩を竦めて見せるのでありました。
「つまりあの鳥は一家を支えるために、ああやって健気に働いているんだな。人間の姿にビクついたり、ビクつく必要なんかないんだって反省したりしながら」
「そうかもね」
「鳥の世界も親は大変だ」
 御船さんはそう云いながら、膝に回していた腕を解いてそれを尻のやや後方の地面について、少し上体を仰け反らすのでありました。見上げた栗の古木の葉群れの一部が眩しく輝くのは、傾いてきた日輪がそこを照らしているからなのでありました。御船さんはほんの暫くそれを見つめてから、大きなくしゃみ一回するのでありました。
「ところで、沙代子のお腹の子は?」
 御船さんは地面についていた一方の手を挙げて、鼻の下を人差し指で小刻みに何度か擦りながら聞くのでありました。

 <そうね。そうこうしている内に産み月になったの。母が心配して、東京に出てこようかって云ってくれたんだけど、まあ、体面上は実家とは断絶状態で、父の手前もあるだろうからってそれは断ったの。心配しないでも、かかりつけの産婦人科のお医者さんがとても好くしてくれるからって、そんなこと云ってね。それに矢岳君としてもウチの母に出て来られたら、なんとなく面白くないだろうって思ってさ。
 出産はそんなに大変じゃなかったの。三千二百五十グラムの元気な男の子。でもなんせ初めてのことだったから、その後の赤ちゃんの世話の方が大変だったわ。なにをどうしていいのか判らずに、途方に暮れることばっかりだったわ。赤ちゃんが泣いても、なんで泣いているのか判断出来なくて、なにをやっても赤ちゃんが泣き止んでくれなくて、あたしただ苛々するばかり。病院で助産婦さんとか看護婦さんに色々教えて貰ってはいたんだけど、なかなか手際よくそれがこなせなかったのよ、オロオロしちゃって。
 病院は一週間程で退院したんだけど、その後アパートで一人で赤ちゃんの面倒を見るの、あたし全く自信がなかったわ。でも、病院は出なくちゃならないの、特に体に支障が起きていないのなら、そう云う決まりだから。
 アパートに帰って来て、もう三日で、あたし神経が磨り減ってしまって、もうなんか、どんづまりまで追いこまれたような気分だった。何かあっても誰にも相談出来なくて、あたし一人で解決しなければならないってことが恐怖で、頭がおかしくなりそうだったわ。
 矢岳君は、退院の日はなんとか仕事に都合をつけて一緒にいてくれたけど、もう次の日から、仕事で地方回りに出かけなければならなかったの。矢岳君、一人で大丈夫かって心配顔で云うんだけど、大丈夫って云うしかあたしないじゃない。本当は全然大丈夫じゃないんだけどさ。
 で、矢張りとても心配だったのね、結局、母が五日目に出てきてくれたの。あたしもう、天の助けって感じで、感激して母に縋りついたわ。なんか全く頼りにならない新米お母さんで、赤ちゃんには本当に申しわけないんだけどね。
(続)
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大きな栗の木の下で 58 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 母は赤ちゃんの一ヶ月検診まで傍に居てくれたの。勿論矢岳君も毎日じゃないけど帰ってくるし、母の寝具もウチにはないから、近くのホテルにずっと泊まって、朝から夜まであたしと赤ちゃんと一緒に居てくれたわ。その間、折につけ色んな子育てに関することも教えてくれたし、兎に角母を、あたしすっかり頼りにしていたのよ。
 父は母があたしの処へ行くって云った時、ちょっと不機嫌な顔はしたけど、でも勿論、あたしのことが心配だから、行くなとは云わなかったみたい。寧ろもし母がちっとも腰を上げなかったとしたら、逆に、なにを愚図々々しているんだ、早く行ってやれって怒ったかも知れないって母が云っていたわ。ま、父の心根もそんな感じ。あたし両親には今でも本当に感謝しているわ、不肖の娘として。勿論、そんなこと滅多に云わないけどさ。
 矢岳君は、本心は母が来たのが面白くはなかったみたい。自分達の結婚を認めてくれないあたしの実家になんか頼らないで、自分も出来る時は手伝うから、子育てくらいあたし一人でなんとかしろって、当然そんな横柄なこと口には出さないけど、そんな風な心境だったと思うの。男の人って結局出産とか子育ての大変さが、肌身に沁みるような感じでは判らないと思うから、まあ、仕方ないけどね。
 それに手伝うって云っても、実際は矢岳君、殆ど家に居ないんだからさ。地方での仕事があるから仕方がないかも知れないけど、でも、必要な時に必要な、心からの手助けがなければ、それに面倒臭がらないでちゃんと、あたしの悩みを聞いて欲しい時に聞いてくれなければ、矢張りそんなには頼りには出来ないわけじゃない。だからあたしとしては、母が居てくれないと、本当に困るの。
 でもその母も一ヶ月検診の後帰って仕舞って、あたしはまた赤ちゃんを抱っこした儘途方に暮れるの。母はなんかあったらすぐ出て来るから、欠かさず連絡を入れろって云ってくれたんだけど、でも、矢張り東京まで出て来るのは大変だしね、そう頻繁に呼び出すわけもいかないじゃない。
 そうしたらさ、母と入れ替わるように、大阪の兄嫁が来てくれたの。兄嫁は兄と高校の同級生で、兄と結婚する前からあたしも知っていた人なの。田舎で結婚式挙げた後は兄の仕事が大阪だから、そこでずっと暮らしていたのね。
 兄嫁はちょっと姉御肌の人でさ、母からあたしのひどく心細そうな様子を聞いて、ここは一番、自分が行ってやらなくちゃって云う感じで来てくれたわけ。出産経験のないオマエが行っても何にもならんとか、俺の面倒は誰が看るんだとかぶつぶつ云いつのる兄を一喝して、敢然と出て来てくれたのよ。
「お兄ちゃんを放って置いていいの?」
 なんてあたし兄嫁に聞いたの。
「まさかあの図体で飢え死になんかしないよ。偶にはあたしの有り難さが身に沁みるように、一人で何でもやらせてみるのも良い薬よ。家のことなんかあたしに頼り切って普段から何にもしない無精者なんだから、様見ろってところよ。まあ、実の妹のアンタに兄さんへのこんな邪険な云い草を披露するのも、なんか妙な感じがしないこともないけどさ」
 だって。あたし笑っちゃったわ。
(続)
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大きな栗の木の下で 59 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 出産経験のない兄嫁の方があたしなんかより、赤ちゃんのミルク作るのもオムツの交換なんかもてきぱきとこなして、それに赤ちゃんがどうしてムズがるのかも、的確に判断して対処するものだから、実際赤ちゃんも快適そうなのよ。あたしもう、兄嫁を尊敬しちゃったわ。なんでそんなに細かいところまで気が回って、仕事の手際も良いのか、呑気なあたしにはまるで芸当を見ているみたいだったわ。
 兄嫁が云うのにはね、自分は今後四人以上の子供を産んで、賑やかに大忙しに暮らす積りでいるから、出産や育児に関してはもうすっかり知識が頭につまっているんだって。その実地訓練みたいな要領で、色々興味津々に試そうとしているところが、傍で見ていててきぱきと見えるんじゃないか、だってさ。何の用意もなく子供を持ったあたしとは、もう既に予めの周到さからして、月と鼈と云ったところね。でも本当に、とても頼もしかったわ。あれなら例え子供が一ダース居たとしても大丈夫ね、屹度。
 因みに、今兄夫婦には三人の子供が居るの。それだけでも充分賑やかよ。でも兄嫁の目論見ではもう一人以上子供をつくる予定だから、これは未だ先のある話よ。
 で、兄嫁は気が強い人だから、矢岳君が偶に家に居てギターなんか弾いていると、そんな子供の遊びみたいなものにかまけていないで、アンタも買い物とか色々手伝いなさいよ、なんて遠慮なく叱るの。あたしそれ、ちょっと冷や々々したんだけど、でも一方で、兄嫁の言葉に心の中で秘かに拍手したりするの。それはあたしも矢岳君の、マイペースな分、つまり非協力的であるところを普段から少し苦々しく思ってもいたからなの。
 矢岳君も疲れているんだけど、兄嫁には逆らえないと云った感じで、渋々兄嫁に云われた仕事をするわけ。矢岳君はやっとあたしの実家の母が帰ったと思ったら、すぐにもっと強面の口煩いのが来たと云うんで、ちょっとうんざりだったみたいよ。あんまり兄嫁が煩いと、仕事でスタジオに行って来るとかなんとか云って、ギター持ってアパートを出て行ったりしていたわ。
 そんな時、男も何時までも見栄え良くはないんだから、好い加減あの男の顔の造作になんかポオッとしていないで、今の内から亭主教育に励んだ方がいいぞって兄嫁はあたしに云うの。あたしも兄嫁みたいに、何でも忌憚なくポンポン矢岳君にものが云えるようになりたいなんて思うんだけど、まあ、あたしには無理みたい。あたしがポンポン云うとしても、屹度兄嫁みたいにあっけらかんとした陽性な感じにはならないものね。
 で、兄嫁は十日間くらい居てくれたかしらね。矢岳君の居ない日は家に泊まってもくれたの。その十日間であたし、なんか気持ちが随分楽になったのよ。兄嫁の育児ぶりを見て、色々勉強にもなったしさ。まあ、育児の当事者のあたしが、出産経験のない兄嫁の育児ぶりが勉強になると云うのも、なんとも情けない話なんだけどもね。・・・>

 沙代子さんは横座りにした足を前に伸ばすのでありました。片手を地面についていたのでありましたが、今度は両手をついて体を支えるのでありました。御船さんは脚を伸ばして座る沙代子さんの横顔を見るのでありました。海からの風が沙代子さんのシャツの襟を忙しなくはためかせるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 60 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 離れた処から時折聞こえてくるのは、先程の鳥の囀りでありましょうか。海からの風に乗って、それはこの木蔭の中に運ばれてくるのでありました。と云うことは、鳥は御船さん達の後方奥に広がる公園の草原、或いはそのまた奥の林の中に居るのではなくて、下の団地前の道路か、道路脇に峙つこの公園に続く夏草に覆われた土手の何処かで鳴いているのでありましょう。その辺での餌漁りに厭いたら、その内また、木蔭の下に居る御船さんと沙代子さんの視界の中に現われるのかも知れません。
 沙代子さんは少しの間黙るのでありました。空の青さに溶ける、少し上を向いた沙代子さんの中高の横顔の稜線が、御船さんにはやけに眩しく映るのでありました。
「その赤ちゃんが、今や小学校の二年生ともなると、もうやんちゃな盛りかな?」
 御船さんが話しかけるのでありました。
「ああ、うちの子のこと?」
 沙代子さんはそう云って御船さんの方を向いて、少し笑うのでありました。「そうね、まだ何にも判らんちんのくせに、色々舌足らずな理屈は云うし、そのくせ妙に甘えん坊で、場合に依らずすぐにふざけたがるし、そのふざけに相手になると何時までもふざけ続けるし、それに男の子だから、結構力も強いの。何かの拍子に足とか手とかがあたしに当たると、それがまた結構痛くてさ」
「なんか、可愛くって仕方がないって感じの云い方だよな、それ」
「うん、可愛いよ」
 沙代子さんはあっけらかんとそう云って、肩を竦めて見せるのでありました。
「目鼻立ちなんかも、そりゃあ、沙代子の子供だから、当然可愛いだろうな」
「目は、確かにあたしにそっくりかな。それに少し下がった眉も」
 御船さんは沙代子さんに似た、愛嬌たっぷりの子供の顔を想像するのでありました。
「沙代子の顔をそのまま少し縮小したような男の子を想像すれば、良いわけだな」
 御船さんはそう云って、正面から沙代子さんの顔に暫く見入るのでありました。
「なんかそんな風に見られると、妙に恥ずかしくなっちゃうね」
 沙代子さんはそう云って、照れ笑いながら御船さんから目を逸らすのでありました。それは可憐な仕草でありました。実は見入る御船さんの方も、こうして真正面から沙代子さんの顔を改めて見つめると云う行為が気恥ずかしくなって、内心大いにたじろぎながら何時目を逸らそうかと焦っているところでありましたから、先に沙代子さんが視線を外してくれたのは、実に以って好都合であったのでありました。
「でも、口元はお父さん似かしら」
 沙代子さんが目を逸らした儘云うのでありました。御船さんはその言葉で、ニヤけ顔を急に曇らすのでありました。口元が似ているところのお父さんとは、つまり矢岳と云う男のことであります。沙代子さんが目を逸らして居てくれたことで、いきなり曇った自分の表情の変化を沙代子さんに見られなくて済んだので、御船さんは秘かに安堵するのでありました。まあ、別に見られても構わないのでありましたが、しかし自分の表情の暗転を沙代子さんに見せるのは、なんとなくきまりが悪い気もするのでありましたから。
(続)
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