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大きな栗の木の下で 47 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 木蔭の中で二人して少しの間黙るのは、もう一度蜩が鳴くのを待っているためでありました。しかし先程の一声の後には、公園の中に鳴き声が響くことはないのでありました。
「その後、・・・」
 御船さんはゆっくり言葉を上せるのでありました。「その後、お父さんが沙代子を連れ戻しに、東京まで出て来たりなんてことはなかったのか?」
「うん、そう云う、すったもんだみたいなことはなかったわ。母が色々、父を宥めたり賺したりとかしたみたいだから。父も、本来は穏健な人だしね。それに他にも、そんな手荒なことが出来ない事情が、ちょっと出来たものだから。・・・」
「ふうん。アメリカン・フットボールのお兄さんとかも、乗りこんでこなかったのか?」
「兄は身勝手で、自分のことしか考えないタイプでさ、あたしのことなんかで自分の労力使う人じゃないわ。知ったこっちゃないって云うスタンス」
「ああ、そうか。ふうん」
 御船さんがそう云いながらまた栗の木の幹や梢を見渡すのは、先程見つけることが出来なかった蜩の姿が、どうしたものか妙に気になるからでありました。

 <東京に帰ってからは、矢岳君はレコードの発売日に向けて、いろんな仕事で急に忙しくなったわ。コンサートの出演とかキャンペーンとか、何度かラジオ番組に呼ばれたこともあったの。矢岳君、ギター抱えて飛び回っていたわ。前評判を煽るとか云ったことなんでしょうね。最初のレコードが好評なら、すぐ次にアルバムの作成なんて話もあって、新しい曲も幾つか創らなくちゃいけなかったし。矢岳君はその頃、活き々々していたわ。
 あたしは、なんかずっと体調が優れなかったの。帰りの寝台列車の中でもずうっと気分が悪くてさ、それが帰った後も続いていたの。食欲はあるんだけど、食べ物を口に入れると、もう食べたくなくなるの。朝も、会社に行くのが億劫で、何度も今日は休もうかなって思ったくらい。
 で、或る日会社休んで病院に行ったの。そうしたら、あたしさ、妊娠、していたのよ。その辺はあたし達気をつけてはいたんだけど、でも、それでも、妊娠していたの。
 お医者さんにそう告げられた時、あたし視界が急に暗くなっていったわ。本来は喜ぶべきことなんだろうけど、あたしの実家とのこともあったし、矢岳君も一番大変で大事な時期だったし、それに矢岳君には未だ充分な収入がなかったから、あたしがすぐに仕事を辞めるわけにはいかないし。だから、・・・
 その日は矢岳君は地方に行っていて、帰って来なかったの。あたしアパートに戻って部屋で一人、夜まで電気も点けないで色々思い悩んでいたわ。矢岳君がこのことをどう思うかってことが、一番気がかりなことだったんだけど。
 矢岳君は絶対喜んではくれないって思って、ひどく暗い持ちになるし、なんてタイミングの悪いことが起こったんだろうって、腹立たしくもなるし。あたし、とうとう泣いちゃったの。泣いてどうかなるわけじゃないんだけどね。結局外が白んでくるまで、あたし小さなテーブルに腕を載せてそこに顔を伏せて、シクシクやっていたのよ。
(続)
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