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大きな栗の木の下で 3 創作 ブログトップ

大きな栗の木の下で 61 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「小さな口なんだけど、子供のくせにきりっとしていて、口の端が少し上に跳ねていて」
 沙代子さんは子供の口元の様子を知らせてくれるのでありました。
「ふうん。それも可愛いらしそうだな」
 御船さんはそう云って、一応愛想をするのでありました。
「そうね。でも、見ようによってはちょっと色っぽい感じがするかも知れないわよ。お父さんの口元みたいにね」
 可愛かろうが色っぽかろうが、その子の父親に似ていると云うところの口元の様子は、御船さんにはどうでも構わないのでありました。沙代子さんの子供なら、沙代子さんだけの特徴を受け継いでいればそれで充分なのであります。矢岳と云う男の面影等、この際一切不要なのであります。ま、そんなことにいくら御船さんが熱り立った所で、遺伝と云う見地からは有り得ないことでもありましょうし、それこそ、御船さんのあらま欲しき思い等、全く以って赤の他人の一顧にも値しないいちゃもん以外ではないのでありましたが。

 <ことあるにつけ実家の母も兄嫁も、頻繁に手紙に添えて色んなものを送ってくれたり、電話もしてくれたり、あたしすごく二人を頼りにしていたの。何かあったら母なんかすっ飛んで来てくれるだろうしね。だからあたし、少し気持ちの余裕みたいなものも出来て、矢岳君と赤ちゃんとそれにあたしの三人の生活が、順調に動き出したんだって思えたの。
 曲がりなりにも矢岳君にはやりたい仕事があって、それは未だ充分な収入はないんだけど、当面事務所からの、ま、前借だけど、月々のお給料みたいな生活費もちゃんと入るし、あたしの実家からの仕送りもあるし、だから、一時的だけど安定感みたいなものも感じることが出来たのよ。後は矢岳君がフォークシンガーとして売れてくれて、あたしの実家との仲が丸く収まればもう、明るい未来に向かって、大方順調ってところ。
 でも、そんな甘い感触なんか、本当に、ほんの一時のことだったわ。良い時期はすぐに終わって仕舞うし、悪い時は良い時期のすぐ後ろで、少しでも早く前に出ようと、フライングするランナーみたいに、勢いこんで待っているものよね。ああ、こんな例えは如何にも陳腐かしらね。それと、悪い時期は良い時期よりもうんとうんと長いし。
 と云うのはね、矢岳君の様子がね、前に比べてちょっと変わってきたのよ。それは兄嫁が帰って間もなくだったわ。
 なんかさ、何につけても無愛想な感じになっちゃったのよ。実家の母とか兄嫁がたて続けに暫く居座って、ずうっとあたしと赤ちゃんのことに感けていたたでしょう。矢岳君にはその間なんとなく引け目とか緊張があったろうし、それに赤ちゃん第一のあたしに自分の存在が如何にも軽んじられているって感じて、その辺が綯交ぜになってさ、それでちょっと臍を曲げているのかなって、あたし最初はそう云う風にとっていたの。
 ま、それも本当に、大いにあった筈なの。あたしの出産から兄嫁が大阪に帰るまでの間、矢岳君がどんなことを考えていたのかちゃんとは判らないけど、でもその間、あんまり面白くなかったのは事実だったろうと思うのよ。自分に充分な収入のないことや、あたしの実家の不興を買っていたことは、母や兄嫁に対してすごい負い目だったろうしね。
(続)
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大きな栗の木の下で 62 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 矢岳君のプライドの高さからすれば、その頃の矢岳君の境遇と云うものは、仕事の上でも生活の上でもすごく不本意だったと思うの。不本意続きだったと思うのよ。矢岳君今まで周りの人に結構ちやほやされていたし、自分はちやほやされるべき者だって云う自信家でもあったからさ、そう云う人って、ほら、一般的に逆境に弱いじゃない。
 だから、ちょっとひどい云い方をすれば、矢岳君は赤ちゃんの父親だと云う自覚の前に、先ず咄嗟に、あたしと赤ちゃんが世界の中心に居ることに、或る意味で僻みみたいなものを持ったんだと思うの。勿論順境だったら、矢岳君はもっと大らかな心根で居られたんだと思うの。でも折り悪く逆境のど真ん中に立っていたから、気持ちが隘路に追いこまれて仕舞っていたのよね。
 本人は一方ではちゃんと判っていたんだと思うの、自分の了見の狭さや、依怙地な態度や、それを改めたいのに改められないって云う潔くないところを。でもプライドの高い人って、それがなかなか出来ないのよね、判っていても。
 まあ、今でこそあたしこんな、その時の矢岳君の気持ちの分析みたいなこと、こうしてわけ知り顔で話しているんだけど、当時はただ、矢岳君はどうして、自分の子供がこの世に誕生したって云うのに、こんな冷たくなっちゃったんだろうって、そんな悲しい思いだけだったかしらね。矢岳君もあたしと同じに、ちょっとだけど安定感みたいなもの、一緒に感じてくれればいいのにってさ、そう思うばかりだったわ。
 でも赤ちゃんの世話をするって云うのは、生活がもうそれ一色になって、他のことなんか気にしていられないのよ。特にあたしみたいに、今までのほほんと呑気に生きてきた人間にとってはさ。赤ちゃんの為にやることが、もう、一杯あるの。だから矢岳君のそんな態度は大いに気にはなるけど、それはそれとして、そっちの方まで構っている暇なんか全くないのよ。なにより先ずあたしは、赤ちゃんの世話が第一なの。
 矢岳君にすれば、それがまた不満なわけ。それを不満になんか思っちゃいけないってこと、ちゃんと判っているから余計、矢岳君は不満が募るの。あたしへの不満ばかりじゃなくて、思い知らされた自分の狭量さにも、自分がちゃんとあたしをフォロー出来ない無力さみたいなものにも、それに仕事が予想に反して上手く運ばないもどかしさや不安なんかもひっくるめて、やりきれなくなっちゃうのよ。
 だから矢岳君は、結局、家に居ようとしなくなったの。そうなることは、あたし実は、もう前から予測していた気がするの。だってそうなるしか、ないものね。・・・>

 沙代子さんは急に曲げた両膝を立てて、それを両手できつく抱いて、膝の中に顔を伏せるのでありました。それは屹度、意ならず急にこみ上げてきた涙と、そうやって不用意にも涙を流してしまった顔を御船さんから隠すためであったのありましょう。御船さんはその沙代子さんの様子を見て、甚だしく動揺するのでありました。
 御船さんは咄嗟に沙代子さんの背に掌を置こうとするのでありました。しかしその行為がこの今の場合、沙代子さんとの関係の濃淡から鑑みて、礼を失していないかどうか判断出来なかったものだから、御船さんの掌は途中で動き失くして躊躇うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 63 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは掌を沙代子さんの背に翳した儘、声を出せずに何時までも体を強張らせているのでありました。急に泣き出すことはないじゃないかと、強張った頭皮の奥の方で思うのでありました。まあ、当時の心境を思い出して感情が激したからでありましょうが、こう云う状況は実に困るのであります。何が困るかと云うと、挙げた掌の持って行き場がなくて、この儘では肩が疲れて仕舞うではありませんか。・・・
 沙代子さんがゆっくり頭を起こすのでありました。その動作で翳した儘にしている掌が沙代子さんの後頭部に触るのを避けるため、御船さんはおずおずと掌を引くのでありました。引っこめられた御船さんの掌は御船さんの頭に着地して、そこを三指で何度か掻き毟るのでありました。
 沙代子さんは膝を抱えていた手を解いて、拳で瞼を押さえるのでありました。それから傍らにずっと置いていた小さな手提げバッグを取って、中から白いハンカチを取り出すとそれで涙を拭うのでありました。
「ご免ね、泣いたりして」
 沙代子さんは小さく鼻を啜ってから、照れ笑いながら云うのでありました。いやどう致しましてと云うのも妙だから、御船さんはなんとなく気弱そうに笑っているしかないのでありました。頭に載せた儘の三本の指が、またもや御船さんの頭皮の上を何度か行ったり来たりするのでありました。
 零れる涙がほぼ止まったためか、沙代子さんはハンカチで目頭を押さえる仕草を止めるのでありました。しかしハンカチはバッグの中に仕舞わずに、沙代子さんは両手に隠すように握った儘にしているのでありました。
「なんか急に、勝手に涙がでちゃったのよ」
 そう云って少し上目に御船さんを見る沙代子さんの睫が未だ少し濡れていて、瞼がほんのりと赤く腫れているのでありました。御船さんは不謹慎であるとは思うのでありましたが、その沙代子さんの目が妙に色っぽく見えるのでありました。御船さんはたじろいで沙代子さんの目から怖ず々々と視線を外すのでありました。
 女の涙なんぞと云うものは、確かに急に勝手に出てくるものであるらしいと云うことは、女性の友達が少ない御船さんとしても、なんとなく聞き知ってはいるのでありました。本当に、当人の了見に関わりなく、それが不随意に出るのを避けられないのであれば、これは実に厄介な代物であろうと思われるのであります。況やそれを見せられるにたち至った男共にとっては、当の女本人よりももっと扱い難い厄介至極なものであると云えます。それにまた、全く忌み嫌うべきものであるとは云い難いところが、益々以て厄介至極なところでもあるのでありますが。
「本当にご免ね、あたしが突然泣いちゃったものだから、白けさせたみたいね」
 沙代子さんが手持無沙汰に俯いて黙りこんでいた御船さんに云うのでありました。
「いやいや」
 御船さんはそう返しながら頻りに手を横にふって見せるのでありました。「白けてなんかいないよ。落ち着くまで、こうして黙って腕時計と沙代子の按配とを見ていただけだよ」
(続)
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大きな栗の木の下で 64 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「もう大丈夫よあたし、落ち着いたから」
 沙代子さんがそう云って御船さんに笑むのでありました。
「女の涙と云うのは、取り扱い注意だって職場の先輩とか同僚に、酒の席でよく云われていたから、それを守っていたまでだよ。決して白けてなんかいないし、寧ろ、・・・」
「寧ろ、何?」
「いやまあ、慎に申しわけないことながら、ちょっとドキドキさせて貰ったかな、随分久しぶりに女の人が泣くところを見せて貰ってさ」
 御船さんはそんなことを、半分云い澱む素ぶりをしながら云うのでありました。
「でもそんなこと、しらばくれて云って、本当は大勢、御船君のために泣いた女の人いたんじゃないの、今までに?」
「いや、それはないな。昔のクレージー・キャッツの歌じゃないけど、俺がそんなにモテるわけないよ。第一沙代子が今云ったのは一種のレトリックとしての『泣いた女』であって、俺が云ったのは現象の描写としての『泣いた女』だし」
「でも御船君、独特の雰囲気って云うか、ちょっと凛々しそうない気配とか持っているから、それにグッときて、案外秘かにモテていたのかもよ。それをちっとも御船君が気づかないで、優しい言葉の一つも口に出さないものだから、隠れて泣くわけよ、女が」
「いやあ、なんとなくお褒めに与っているようで、有り難いと云うか、これこそ白々しいと云うか、実態を鑑みれば面目ないと云うか、そんな心持ちだな」
 御船さんはそう云いながら、今度はふざけた調子で頭皮の上で三本の指を行ったり来たりさせるのでありました。指の動きと連動して、そんなこと云うくせに当のお前はちっとも俺にグッとはこなかったじゃないかと、掻き毟られる頭皮の裏面で考えて、喉仏の奥で云い捨てるのでありました。

 <矢岳君は或る日の夜、音楽関係の仲間や先輩のミュージシャンやレコード会社の人と飲んでいて、もう終電もなくなったし、まだ酒宴が続きそうで、義理からもつきあわなければならないから、その日は帰れないって電話をしてきたの。その電話があったのはもう十二時を回っていた頃だったわ。
 前にも時々そんなこともあったんだけど、何故かその日に限って、あたしは、ああ、矢岳君は帰ってくる気がないんだなって、そうはっきり思ったの。あたしと赤ちゃんの居るこの家に帰ることが疎ましいんだって、そう云う風に、なんて云うか綺麗に了解したの。
 それは凄く悲しい了解だったけど、でも凄いショックと云うんではなかったのよ。なんか最近の矢岳君の様子とちゃんと辻褄があっていたから、それはそれで理路整然としたって云うのか、あっけらかんとしたって云うのか、なんかそんな感じでさ。
 どうやら矢岳君は自分の子供に愛情を持てないでいるらしいの。それは多分、まあ、今から考えればのことだけど、矢岳君なりの自分の将来の見取り図の、一種の破綻から生じた出来事だったからだと思うのよ、自分の子供がこの世に誕生したって云うことが。それが矢岳君には上手く了解出来なかったのよ、屹度。
(続)
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大きな栗の木の下で 65 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 自分は未だフォークシンガーとして大成とは云わないまでも、地歩も固めてもいないと云うのに、そんな折りに、もっともっと先に予定していた筈の自分の子供が誕生するなんて云う事態は、俄かには容認できない事柄だったのよ。それは、自分に充分な気持ちのゆとりが出来てから発生するべきことであったの。
 勿論ひどく楽観的で、確実な根拠も見通しもない、矢岳君の自信だけから描き出された勝手な将来の見取り図には違いないんだけど、でも矢岳君にすれば見取り図通りの順調な推移の果てに、輝かしいフォークシンガーとしての未来が、全くの既定事実として思い描かれていたはずなの。その輝かしい未来、まあそこまでいかなくとも、輝き始めた将来に自分の子供がこの世に誕生するのならば、矢岳君は間違いなく良い父親になる筈の人なのよね。自分の予見が裏切られないで、その線に則って事態が推移する限りにおいてはね。
 でもその見取り図が、少し歪んだって云うのか、考えようによってはやや停滞しているって云うのか、まあ、そういう時期に突発した、将来のことである筈の自分の子供の誕生って云うのは、矢岳君にとっては、それは上手く許容出来ないことだったの。つまり赤ちゃんが誕生したってこと自体も矢張り、破綻の一つに思えたのよ。
 矢岳君は基本的に聡い人だし、現実主義者の側面もちゃんとあったから、自分の見取り図が自分本位の、勝手な、根拠のない願望であることは自分でも一応判っていたと思うの。でも相当の自信家である側面の方が優位に働き続けたの、見取り図を描き上げる段階では。だからその見取り図は、或る意味ですごくリアルな細部を持っていたし、まるで間違いのない事実のように硬直したものに出来上がっていたの。まあ自分の将来像を描く時って、結構そう云うものよね、多分。良い気になって色々細かく描けない見取り図なんか、逆に魅力も何もないものね。でも、矢岳君はその傾向がちょっと強過ぎたみたい。
 それに矢岳君は大学に入学するまでは、まあ、裕福な家庭に生まれて、自由な気風の家庭で何不自由なく育って、学校の成績も良くて、感受性も豊かで、それに運動も出来て、皆の憧れの存在で、誰からもちやほやもされて、将来を嘱望されて、望むものは強引にでも今まで殆ど手に入れて来たって云う、強い自信もあったと思うの。だからそう云う人がちょっとした破綻や停滞に一端陥ると、驚くくらい脆いだろうなって、なんとなく想像出来るじゃない。つまり矢岳君は、そのタイプなのよね。・・・>

 御船さんは草を摘むのでありました。
「つまり、要は、お坊ちゃん、と云うことかな?」
 御船さんは自分が矢岳と云う男をこう云う風に短絡に評することで、沙代子さんがどのような目で自分を見返すのかを少々心配しながら、その横顔を窺うのでありました。
「そうね。早く云うと、そう云うことになるわね」
 沙代子さんは御船さんの方を見ないで、遠くの海に視線を馳せているのでありました。
「まあ、俺も自分の将来の見取り図は、大いに無責任に、甘々に描く方だな」
 御船さんは続けるのでありました。「俺は屹度大物になるってさ。何の大物になるのかは特にないけど。まあ、そんなぼんやりしているのは、見取り図とは云えないか」
(続)
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大きな栗の木の下で 66 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「合気道の大物?」
 沙代子さんが云うのでありました。
「いやあ、合気道を知る以前から描いていた見取り図のことだけどさ、それは。第一、合気道は知れば知る程、俺は端っこの方で地味に地道にやっていく方が性にあっているような気になったしね。その世界で誰でも知る大物になるってことと、自分の合気道の境地が進むってことは、全く別物のような気もするし」
 御船さんはまた草を摘むのでありました。「尤も、合気道から遠ざかって久しい俺が、今更こんなこと云ってみせるのも、なんかおこがましいような無責任なような気がするけど」
「合気道、また始める気はないの?」
「今のところはね。第一こんな体だし」
 御船さんはそう云って細った両腕を前に伸ばして、それを沙代子さんに披露しながら気弱な笑い顔をするのでありました。
「でもそれを元に戻すには、合気道は恰好の運動なんじゃないの?」
「それは確かに、そうかも知れないなあ。・・・」
 御船さんは摘んだ草を前に投げるのでありました。幾ら腕力がなくなったとは云え、それは沙代子さんの投擲よりは遠くに放ることが出来るのではありましたが、しかしそれでも草はひらひらと宙に舞って、木蔭の外までは飛ばないのでありました。
 海の方からすこし強い風が公園に吹き上がってくるのでありました。旺盛な葉擦れの音が栗の古木の蔭の中を満たすのでありました。その音に気押されたように、御船さんも沙代子さんも少しの間黙るのでありました。
「ところでさあ」
 葉擦れの音が収まってから御船さんは話しかけるのでありました。「ところで、今までの沙代子の話の流れの中で、一点気になるところがあってさ、それが未だ話の中に出てこないのが、俺はちょっと消化不良気味なんだけどさ」
「なあに、気になる一点て?」
 沙代子さんが首を傾げて御船さんを見るのでありました。肩にかかった髪がやや膨らみをつくるのでありましたが、今度は沙代子さんの耳朶はその中に見えないのでありました。御船さんはそれが少し残念なのでありました。
「いやね、その矢岳と云う男の方の、親とか家のことだよ」
「矢岳君の方の?」
「うん。まあつまり、沙代子はそっちの方とは面識とかあったのか?」
「ううん、それまでは逢ったこともないの」
 沙代子さんが首を何度か横にふるのでありました。
「一緒になるんだから、そっちの実家の方にも挨拶に行かなくてもよかったのか?」
「ちょっと複雑な事情があったから」
「孫が出来て、倅にちゃんとした収入もなくて経済的に困っているわけだから、そっちからの援助と云うのか、差し伸べられる手と云うのか、そんなものもなかったのか?」
(続)
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大きな栗の木の下で 67 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 沙代子さんは顔を上に向けて古木の下枝の暗がりを見上げるのでありました。
「矢岳君のお父さんは横浜の方で、輸入食材を扱う商社を経営していたの。お父さんはかなりの遣り手で、事業は順調に推移していたんだって。矢岳君は相当裕福な家庭に生まれたのよ。それが、矢岳君が大学一年生の頃、本業以外の株で大きな欠損を出して、それを契機に、本業の業績まで急激に悪化して仕舞ったんだって」
 沙代子さんはそこまで云って顔を元へ戻すのでありました。「お父さんは会社を立て直そうとして色んなところに借金を作って、結局それがどんどん膨らんでいって、二進も三進もいかない状態に陥ったんだって。で、会社は倒産して、借金だけが残って、お父さんは逃げるように矢岳君のお母さんの実家のある新潟の方に、一先ず身を隠したの」
「ふうん。・・・」
 御船さんはそう云って沙代子さんの横顔を見るのでありました。沙代子さんの顔にはなんの表情も浮かんではいないのでありました。
「そう云う経緯があって、矢岳君はお父さんやお母さんと別れて、大学の近くで一人暮らしを始めたの。お父さんはその時、矢岳君に大学を卒業するまでの学費と、それからかなりの生活費をくれたのよ。借金塗れのくせにそう云うお金はちゃんと工面出来るんだって、矢岳君はちょっと不思議な気がしたんだって。でも、それは親として最大限子供に煩いをかけまいとしてのことで、お父さんもかなり無理をしてこさえたお金だったんだろうって、そんなこと矢岳君は云っていたわ」
「そんな風な話は、まあ、聞かないこともないか。それが世間でよくある話だとは、云えないかも知れないけど」
 御船さんは抑揚を抑えた云い方でそう沙代子さんの話に相槌を入れるのでありました。
「色々面倒なことも起こると思うから、新潟の方にはお父さんの方から指示が出るまで、来ないようになんて云われたらしいわよ、矢岳君。お父さんが落ち着いて、生活の目途が立ったら、その時は連絡を入れるからそれから逢いに来いって、それはまるで今生の別れの言葉みたいな感じだったんだって」
「兄弟はいなかったのか、その矢岳と云う男には?」
 御船さんが聞くのでありました。
「五歳年上のお姉さんが一人居るんだけど、高校を出た後はカナダの大学に留学して、大学出た後もそっちの方で就職して、生活の拠点はもう日本にはなかったんだって。年に一度、日本には帰ってくるか来ないかって感じだったらしいわ」
「そんな話を聞くと、矢岳と云う男の境遇には、ちょっと同情出来ないこともないか」
 御船さんは顎を摩りながらそう云って、先程沙代子さんが見上げた栗の木の下枝を見上げるのでありました。
「でも矢岳君は、意外にさばさばした気分だったんだって」
 沙代子さんが云うのでありました。「それは唯一で最大のパトロンを失ったのは衝撃で、途轍もなくこの先が不安だったけど、でも、お父さんから貰った学費と生活費があったから、一方で一人暮らしが出来ることに、呑気な解放感みたいなものもあったんだってさ」
(続)
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大きな栗の木の下で 68 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 海からの風がまた御船さんと沙代子さんの前髪を乱すのでありました。
「案外肝が太いのかも知れないな、その矢岳と云う男は」
 御船さんが前髪を掻き上げながら云うのでありました。
「お父さんの借金や会社の整理に関しての累は、幸いにも矢岳君自身にはなにも及ばなかったみたい。だから一人暮らしを始めて暫くは、矢岳君が云うには格段に快適だったんだって。どれだけ本当かは知れないけど」
「まあ確かに、気儘だよな一人暮らしは。俺も大学を出てこっちに帰って来て、また高校生の頃と同じに親と暮らし始めたら、色々な面で随分窮屈に感じたもの。そりゃあ、食事や洗濯や掃除とか、そんな細々とした生活上の面倒さからは解放されたけどさ」
「でも、矢岳君は自分は計画性がないからなんて云っていたけど、つまりお父さんから貰った生活費は、気儘な生活を続けていたらあっと云う間に尽きちゃって、それからはすっとアルバイト三昧と、それに余った時間に音楽と偶に大学の勉強なんて云う生活になっちゃったんだって」
「まあ、それでも大学は卒業出来たんだから、つまり学費の方には感心にも手をつけなかったわけだ。計画性がないんじゃなくて、実は根は手堅い性質の男なのかもしれないな」
「まあ、それでも矢岳君ひどく苦労をしたみたい、それから後は色々と」
 沙代子さんが云うのでありました。
「お父さんとの交信は、大学を卒業する時になっても、途絶えたような儘だったのか?」
 御船さんが聞くのでありました。
「多分、そうなんでしょうね、あたしを紹介するためにお父さんやお母さんの処に連れて行ってはくれなかったわけだからね、矢岳君は」
「ふうん。・・・」
 御船さんはそう云って頷くのでありました。
 一際強い風が吹き上がって来て、頭上の葉群れが盛んに騒ぎ立てるのでありました。その騒ぎに公園全体の木々が呼応して、辺り一面が騒然となるのでありました。これではとても、普通の声では会話が出来ないような具合なのでありました。だから御船さんと沙代子さんはその騒ぎが収まるまでの間、口を噤んでいるのでありました。
「・・・で、だから、矢岳君は、つまりアパートに帰ることを、避けるようになったの」
 騒ぎが去ってから、沙代子さんが静かに話を元のところに戻すのでありました。

 <つまりあたしと赤ちゃんが居るアパートの中に、矢岳君は自分の居場所がないように感じたんだと思うのよ。だからそこは、自分が安らぐべき場所ではないってさ。だから、帰ってくる気が突然、失せたの。
 そうよね。随分勝手よね、そんなの。でもあたしは実はあんまり腹も立たなかったのよ。腹を立てないあたしもあたしよね、全く。でもあたし、なんか矢岳君の思いみたいなものが、それはそれで了解は出来たから、だから取り乱したりしなかったの。矢鱈に悲しくはあったけどさ。勝手に涙がポロポロ零れてきたけどさ。
(続)
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大きな栗の木の下で 69 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 矢岳君は次の日の昼過ぎに一端帰って来たの。でもなんか譜面とかノートとかそんなものをかき集めて、次のレコードの打ちあわせで今日も帰れないかも知れない、なんて云ってすぐにアパートを出て行ったわ。赤ちゃんを抱きもしないで。
 二三日帰って来ないで、それでまたふらっと帰って来ては必要な荷物を持って出て行って、また数日間姿を晦まして。そんな感じで一月程経ったかしらね。家に泊まることがあっても、次の日には早々に出て行くの。でも一応たまにでも帰ってくるところが、つまりあたしへの気兼ねであり、申しわけなさだったんでしょうね。そう云う意味で、あたしは矢岳君のあたしへの愛情が、未だ完全に失せてはいないんだって、なんとなく思ったわ。
 あたしに促されて赤ちゃんを抱く時もあったけど、矢岳君は自分の方からは遠巻きにして、赤ちゃんには関わらないようにしているって風だったわ。赤ちゃんも自分に愛情を注がない父親には懐かないもので、矢岳君が抱くとすぐに憤って、その手から逃れるような動きをするの。だから矢岳君は余計赤ちゃんに対して愛情を抱けないで、寧ろ蟠りみたいな感情を募らすの。
 それに、二三日帰って来ないのが、次第に三四日、四五日、その内殆ど帰って来ないなんて云う風になっていったの。矢岳君はこのアパートに帰ることを忌避しているって、あたしは完全に納得したの。それは確かに、次のレコードの話もあったんだとは思ったわ。それで一枚目のレコード出す時のように途轍もなく忙しくなったってことも、それは本当にそうかも知れないって思った。でも、一枚目のレコードの時は、矢岳君はどんなに帰り難い事情があっても、ひどく遅くなっても、なんとか帰ってこようとしたものね。・・・>

 つい先程までとはうって変わって、下界の街から公園に向かって暫くの間風が全く吹いてはこないのでありました。栗の古木の蔭の中は、ぎりぎりまで引き延ばされて緊張し切ったギターの弦のように、不穏に静まり返っているのでありました。
「でも、赤ん坊の父親なんだから、・・・」
 御船さんがそう言葉を口から出すのでありました。「兎にも角にも、血を分けた父親なんだから、全く愛情を抱けないなんてことは、あるのかなあ?」
 御船さんがそう聞いても、沙代子さんは海の方へ目を向けた儘なにも応えないのでありました。それは本当のところなんと応えていいのか、矢岳と云う男ならぬ身には俄かには判じられない事柄、寧ろ実は、沙代子さんの方が知りたいくらいの事なのでありましょう。
 自分の血を分けた子供に愛情を抱くのは疑うべくもない性理であり、当の当然の普遍的な感情であります。まあ、そう一般的には頭から納得されているのであります。しかしそれはあくまで、ある意図の下で人倫の範疇に整理されたところの、あらま欲しき情と云うだけであって、人の、クラゲのように何処を知れず漂う感情の実態ではないのかも知れないと、沙代子さんの返答を待たずに、御船さんはそんな結論を先に下すのでありました。
 自分の子供に滝のような愛情を注ぐ親もいれば、なんの気持ちの波立ちも感じない親がいても、殊更驚くことではないのかも知れません。或いは愛情を感じたり、全く感じなかったりと云った大振幅の揺らぎが、同じ人間の中に同時に内在していると云うのか。・・・
(続)
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大きな栗の木の下で 70 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 おっと、自分は今、ややこしい思索の領域に足を踏み入れようとしているようだと、御船さんは秘かに眉根を寄せるのでありました。そこいら辺に思惟を致すなんと云うものは、御船さんとしてはどちらかと云うと不得手なことなのでありました。
 そう云った場合は大体、ええい面倒臭い、なるようにしかならんわいと御船さんはそう勝手に、早々に脳ミソの頂上で高らかに宣して、自分の側頭部を一つ掌底で強めにドヤしつけて、陰翳深くなりそうになった考えの断片を頭から総ざらい追い出して、スッキリするのが常なのでありました。
「それは、愛情は、矢岳君にも屹度あったと思うの」
 御船さんの掌底が側頭部を叩く直前に、沙代子さんのそんな言葉が返ってくるのでありました。「なんて云っても、赤ちゃんの実の父親なんだからさ。・・・」
 御船さんは気勢を削がれたように掌を柔らかく自分の頭に当てて、仕方がないので指を立てて頭皮を軽く掻くのでありました。
「まあ、そこいらの心情は矢岳と云う男にしか説明出来ないことなんだろうな。矢岳と云う男にしても、ちゃんと説明することは先ず出来ないのかも知れないし」
 御船さんがそう云うと沙代子さんは下界の方を向いた儘、ゆっくり頷くのでありました。
「でも、要は実態として、結局矢岳君は家に寄りつかなくなってしまったわけ」
 急に木蔭の中に海からの風が舞いこんできて、栗の古木の下枝の葉を騒がすのでありました。停滞して密度を増していた蔭の中の緊張が僅かに緩むのでありました。

 <多分一端そんな風になると、矢岳君としても家にはなかなか帰り辛くなっちゃったんだと思うの。それにあたしに対して体面を取り繕うことも、結局放棄しちゃったの。ううん、あたしへの体面ばかりでなくて、あたしとの生活、あたしと赤ちゃんと三人の生活そのものを、矢岳君は早々に諦めたの。あの、あたしに対して見栄っ張りでエエ恰好しいの矢岳君が、そうすることをもうきっぱり止めたの。あたしに自分がどう思われるかを気にすることを、もう気にしないことにしたの。
 それは矢岳君としてはそうなる前に色々悩んだり、気持ちが引き裂かれるようになったこともあったろうとは思うのよ。矢岳君は本来、優しい心根の人だから。
 ずっと後になってだけど、父が矢岳君のことを評して云っていたわ。矢岳君は自分の描いた見取り図通りに全くことが上手く運ばないわ、だから将来の目途もちっとも立たないわ、それに加えて到底持て余すような色々な柵が出来して仕舞ったわで、大体がお坊ちゃん育ちで、上手くいかないことがあるとすぐに放り出してその後始末も出来ない人間だったんだろうから、そんな自ら招いたはずの躓きを結局何時も通りに自分で解決しないで、簡単に放りだして逃げ出したんだって。
 まあ、そんなところも当たっていないこともないと思うけど、でも矢張り、矢岳君は矢岳君なりにかなり苦しんでいたんだとは思うのよ、自分があたしと赤ちゃんの待つ家に帰らなくなったことを。そう云った自分の気持ちの経緯や行為を、なんとかもう一度整理し直して修復出来ないかって、屹度真剣に考えたはずなのよ。
(続)
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大きな栗の木の下で 71 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 でも、結局矢岳君はそれが出来なかったの。ううん、要するに、しようとしなかったの。あたしと赤ちゃんは、自分の音楽や、音楽で身を立てようとする志とは対立するものだって、そう見做すしかなかったのよ。屹度成功すると思っていたレコードデビューが、なんかさっぱりだったその挫折感とか焦燥感とか悔しさとか腹立たしさとか苛々とかから、気持ちの歪みが矢岳君に起こったの。その歪みの際に、赤ちゃんを抱いたあたしが立っていたの。そんな風に矢岳君には見えたの。
 だから、あたしと赤ちゃんを自分の将来の見取り図から切り離そうとしたの。その儘では自分も、あたしも赤ちゃんも、要するに幸せにはなれないと矢岳君なりに思ったから。
 矢岳君が居なくなったアパートの部屋で、あたしの方はただ、赤ちゃんの世話にかまけていたの。だって赤ちゃんの世話は待ったなしだもの。
 なんか矢岳君の気持ちが、あたしには、それは不条理だとは思うけど、でも妙に納得は出来ていたの。だから矢岳君を必死になって探したり、探し出してなんで帰って来ないのか問いつめたり、なんて云うことはなにもしなかったわけ。それは勿論、その時は未だ矢岳君が気持ちの歪みに或る程度の修復とかをつけて、その内、近い内、あたしと別れるのか、それとも前のようにまたあたしと、それに新たに赤ちゃんを加えた三人の生活を立て直するのか、それは判らないけど、でもそう云った結論みたいなものを持ってあたしの前に現れるだろうって、そう思って、あたしはつまり静かにして矢岳君を待っていたのよ。
 そう云うのって、変? あたしのその時の気持ち、判る? あんまりよくは判らないわよね、そんなの。見様によってはあたしの態度は、結局事態にたじろいで何も出来ないでいる消極的で卑怯な態度にも見えるわよね。そんな気もするわ、今考えると。・・・>

 辺りがほんの少し暗くなるのは、やや西に傾いた太陽を、流れる雲の断片が一時隠したからでありました。しかし雲はすぐに去って、また強い日差しが公園に照りつけるのでありました。鳥の声が小さく聞こえるのでありました。鳥は未だ公園の土手の下に居るらしく、それは地から湧きあがってくるように木蔭の中に響くのでありました。
 ほうら云わないこっちゃないと、御船さんは思うのでありました。話の始めから、その矢岳と云う男の言動の嘘臭さを薄々勘づいてはいたのであります。いい加減な法螺吹きで、後先も考えない軽薄な女誑しで、見てくれだけを気にする浅はか野郎で、幼稚な精神の儘に歳だけ大人になった未成熟野郎で、他人の心の機微には思いも致さない身勝手野郎で、最低の生活能力をも養成出来なかった怠慢野郎で、拙いことが起こるとすぐに逃げ出す卑劣野郎で、詐欺野郎で、間抜け野郎で、頓痴気野郎で、それに、それに、・・・
 それにそんな男に引っかかる沙代子さんも沙代子さんだと、御船さんは横の沙代子さんの方を見ないで思うのでありました。なんだかんだと云ってはみても、矢岳と云う男をさして深く見据えもせずに、その、沙代子さんに対して愛おしさこの上もないように装う擬態と、相性もさも良さそうにふる舞う欺瞞と、見てくれだけの誠実さ殊勝さの面貌に簡単に気を許して仕舞うなんと云うのは、おぼこ過ぎるにも程があると云うものであります。そう云うのはすぐに化けの皮が剥がれるもので、その結果が、この体たらくであります。
(続)
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大きな栗の木の下で 72 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは草を多目に毟って、それを力いっぱい前に投げるのでありました。それを見て、沙代子さんが聞くのでありました。
「あたしのこんなつまらない話、御船君、もう聞きたくなんかないでしょう?」
「いや、そんなことないけど、どうして?」
「なんとなく、そんな感じがしたから。あたし鈍感で気づかなかったけどさ」
「でも、つまり・・・」
 御船さんは仕切り直すようにそう云って、もう一度草を毟って今度はそれを掌に載せて息を吹きかけると、細く細かな草が幾本か御船さんのズボンの上に舞い落ちるのでありました。「沙代子が矢岳と云う男の行動に対して、なんのアクションもしなかったと云うのは、まあ、なんと云うか、要するに沙代子の方にしても、その矢岳と云う男に対して、もう随分気持ちが覚めていたと云うことになるのかな、その時点では?」
 沙代子さんは栗の木の下枝を見上げるのでありました。それは自分の気持ちがその時どうだったのか、確認する仕草のように御船さんには見えるのでありました。
「そうね、そうかも知れない。だからあたし、案外冷静にしていられたのかも知れないわ。そんな仕打ちをする矢岳君のことが憎くて堪らないわけじゃなかったし、事態にたじろいで、なにがなんでも矢岳君を追いかけなければなんて切羽詰まってもいなかったし、ずっと前から予めどこかで想定していた、来るべき結論を、静かに迎えるって感じだったかな。まあ、色々心細くはあったけど」
 海の方に視線を戻して沙代子さんはそう云うのでありました。「だからあたしは、取り乱したりしないで、矢岳君を待っていたのよね、屹度。何時か矢岳君が、はっきりとした結論を云うために帰ってくるのをさ」
「別れるにしても、二人の、いや赤ちゃんと三人の生活を続けるにしても」
「そう。兎に角矢岳君の気持ちの整理が出来るのを待っているだけ」
「でも、沙代子の方の気持ちが覚めていたのなら、その矢岳と云う男が、もう一度三人での生活を再構築しようって云う結論を持って帰って来たとしても、それは、沙代子にはもう受けつけられないってことだよな?」
「そうね。結局そうなるわよね。でもその時は、矢岳君がそうしたいって云うのなら、あたしの方から別れるなんて云わなかったと思う。矢岳君の出した結論をあくまで尊重して、あたしは三人の生活を続けてもよかったのよ」
「でも、早晩、別れることになったんじゃないかな、そう云うのって結局」
 御船さんはそう云って、ズボンの上に散らかった濃い緑色の草をゆっくりとした仕草で払い除けるのでありました。
「そうよね、まあ、結局そうなったかもね」
 沙代子さんが云うのでありました。「でもあたし、あんまり気持ちが強い方じゃないし勇気もないから、それに、結構ずるいから、あたしの方からあたしの気持ちを矢岳君にぶつけることはしなかったと思うの。あくまで矢岳君の了見次第って態度で」
 沙代子さんはそう云って薄く苦く笑うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 73 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「いや、恐らく、・・・」
 御船さんはそう云って沙代子さんを見るのでありました。「沙代子に気持ちの強さや勇気があったとしても、それにずるくてもずるくなくても、矢張り沙代子の気持ちがその矢岳と云う男から覚めて仕舞った以上、それがなによりの理由になって、沙代子はそいつとはもう一緒に暮らせないって、そう決断したと思うな」
 御船さんはそうであると確信するように、その自分の言葉に自分で頷くのでありました。御船さんは沙代子さんの気持ちが、矢岳と云う男から決定的に離れて仕舞ったことが最重要であると、つまりそう自分に強調したいのでありました。それは御船さんが話の展開の上で、もう済んで仕舞った事とは云え、事ここに至っても沙代子さんの内心のどこかに、矢岳と云う男の面影を慕う蔭が焼きついていることを忌むからなのでありました。
 要するに、御船さんは今までの沙代子さんの話の間中、矢岳と云う男に強烈な対抗意識と嫉妬を感じ続けていたのでありましたが、それがようやくここにきて、解消されようとしているのを決定的にしたいのでありました。こう云った自分の今の感情の有り様と云うものは、まるで紙芝居とかで物語の展開にのめりこんでいる子供のそれと近いかなと思うのでありました。だから、自分は沙代子さんの話をつまらないとか聞きたくないとか、少しも思ってはいないと云うことでもあるわけであります。期せずして、何時の間にか御船さんは沙代子さんの物語る沙代子さんの身の上話に、結構心を奪われて仕舞っていたと云うことでもありましょうか。
「まあ、実際、御船君の云う通りだったかな、その後の展開は」
 沙代子さんがそう云ったので、御船さんは沙代子さんの話とは直接関係のない自分の心理分析の覗きからくりから、一端目を離すのでありました。

 <矢岳君がひょっこり帰ってきたの。あたしは矢岳君がこれから二人の事どうするのか、結論を持って帰ってきたんだと思ったから、緊張して矢岳君の顔を見たわ。
 あたしのその顔にたじろいだのか、それともその時は決然として帰って来たのではなくて、ただ単に物を取りに来ただけなのか、矢岳君は暫く家の中で探し物をして、またすぐ出て行こうとするの。あたしは矢岳君の目を見ながら聞いたの。
「また、出て行くの?」
「二枚目のシングルのことで、ここんとこ、すごく忙しいから」
 矢岳君はおどおどとあたしから目を逸らして云うの。
「家に全く帰れない程忙しいの?」
「うん、まあ。・・・」
「一枚目の時は、ちゃんと帰ってきていたのに?」
「二枚目となると、俺の音楽性が本当に試されるから。それに今度のは俺の創った曲だし」
「それはあたしに一本の電話すら入れられないくらい、大変なの?」
「前に、今度は正念場になるからって、云っていなかったっけ?」
「そんな経緯とか事情なんて、今初めて聞くわ」
(続)
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大きな栗の木の下で 74 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 あたし、なんか苛々してきてそう云ったんだけど、それはまるで詰問口調になっていたと思うのね。あたしどうしてだか、急に苛々してきたの。
「そうだったかな」
 矢岳君は持って行こうとしていたデモの入ったカセットテープを弄びながら云うの。「前に話しておいたとばっかり思っていたけど。それに、想像もつくだろうし」
「そんなこと、聞いてなんかいないって云っているじゃない」
 あたし段々腹が立ってきて、語気がきつくなるのが自分で判ったわ。それは単にその時の矢岳君のもの云いに腹が立ったんじゃなくて、今までの矢岳君への不信感って云うのか、赤ちゃんに対しての無責任さって云うのか、そんなことに対する腹立ちが急にあたしの中に溢れてきたからなのよ。
「いや、だからさ」
 矢岳君があたしの態度に少し対抗するように語調を変えるの。「今度のレコードは、本当に俺達にとって正念場になるんだ。だからグループの三人共事務所の一室に寝泊まりして、歌詞や曲の修正とか細部の編曲とか、それに勿論曲を完全なものにする猛練習とかにずっと打ちこんでいるんだよ、三人で他の大概のことは犠牲にしてでもって申しあわせてさ。もう、レコーディングまで間がないから、今がピークなんだ」
「さっきも聞いたけど、だからってあたしに一本の電話も入れられないわけ?」
「俺は今、曲のことで頭が一杯なんだ」
 矢岳君はうんざりしたようにそう云って、それから無愛想にあたしから目を背けたわ。
「つまりあたしのことも赤ちゃんのことも、その犠牲にする大概の事の中に入るわけね」
「おい、そんな判らないこと云うなよ。正念場なんだから、俺は今、今度の曲のことで頭の中が一杯だって云っているだろう。他のことで俺を煩わせないでくれよ」
「あたしと矢岳君のことだって、今が正念場よ」
 あたしがそう云うと矢岳君は眉根を寄せて、あたしから少し顔を遠ざけたわ。
「要するに、俺が一言云わなかったから、そんなにムクれているわけだな。確かに一言って云うか、始めに事情をしっかり説明しなかったのは俺が悪いのかも知れないけど、でも、俺としては云った積りだったんだけどな、本当に」
「だから、聞いてないって、何度も云っているじゃない」
 あたし矢岳君の繰り返す弁解が、その時本当に頭にきたの。
 あたしさ、本当に矢岳君からそんなこと何も聞いていなかったのよ、一言も。ひょっとしたら矢岳君としては、なにかの折りに、事の序でみたいな感じでそれらしいこと云ったのかも知れないけど、そうだとしても、それじゃあ矢張りダメでしょう。ずっと家を空けるから、適当にやってくれなんて、そんな軽く云われたとしても、前とは違って赤ちゃんもいるんだし、あたしがはいそうですかって、あっさり頷けるわけはないでしょう。
 自分の逼迫した状況や、今度のレコードが矢岳君にとって本当に正念場になるってこと、だから申しわけないけど家の事や赤ちゃんの事は宜しく頼むって、予めそんな風にちゃんと相談してくれれば、あたしだって多分納得はしたわ。でも、そうじゃないんだもの。
(続)
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大きな栗の木の下で 75 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 それは、あたしが腹を立てるのも身勝手かも知れないけど、だからって矢岳君の身勝手の方が重要度が上だってことにはならないでしょう。その時あたしは、そう思ったの。だから思いっきり顰め面して矢岳君を睨んだの。
 あたしさ、自分が矢岳君に対してこうも反抗的な態度に出ているのが、実はちょっと自分でも意外だったのよ。あたしだって矢岳君のその時の事情って云うか、事務所とか、もっと大きな範囲で云えば、音楽の市場の中で置かれている立場って云うのか、そう云うものも充分理解は出来たの。確かに矢岳君には、次のレコードが正念場だったに違いないの。でも、それでもあたしは、その時あたしに対している矢岳君の態度に妙に苛々して、なんか許せない気持ちになったの。
 矢岳君はたじろいだと思うわ、何時もになくあたしがそんな反抗的な態度でいることに。多分矢岳君は、そんなあたしを見るのは初めてだったでしょうしね。あたしも、内心そんな自分を自分で驚いているんだから、当然よね。・・・>

 無理もないさと御船さんは思うのでありました。やっとそこで、矢岳と云う男の本性が沙代子さんにもはっきり判ったのであります。法螺吹き野郎で、軽薄野郎で、女誑し野郎で、浅はか野郎で、未成熟野郎で、身勝手野郎で、怠慢野郎で、卑劣野郎で、詐欺野郎で、間抜け野郎で、頓痴気野郎で、それに、それに、その他諸々野郎だって云うことが。
 そんなヤツに対しては大いに反抗的にふる舞ったとしても、なんの問題もないのであります。寧ろもっと早く沙代子さんがそう云う態度に出るべきだったのであります。コテンパンにとっちめてやれ、であります。大いに驚かしてやれ、であります。大いにその非を鳴らしてやれ、であります。兎に角、なんでも胸が空くまで大いにやれ、であります。序でながら、御船さんも一緒に胸が空くと云うものであります。まあしかし、尤も、今の時点で御船さんが過去の沙代子さんを応援してみても始まらないのでありますが。
「まあ、要は沙代子の気持ちが覚めて仕舞った為の仕業と云うものかな」
 御船さんが云うのでありました。
「そうね、そうかもね」
 沙代子さんが海を見ながら頷くのでありました。
「沙代子にとっては赤ん坊が、なにより大事だったわけだよな、屹度」
「そうね、もう、矢岳君よりも。・・・」
「だから赤ちゃんに対する矢岳と云う男の態度が、沙代子には我慢がならなかったんだ。当然だよな。実際、矢岳と云う男は赤ん坊の父親なんだから、責任からも、自分のことなんかさて置いて、先ず赤ん坊の事の方が最優先だよな」
 自分の子供がこの世に誕生したことで、沙代子さんの中で大切なものの順位の入れ替えが明確に起こったのでありましょう。それは母親となった沙代子さんの意識の、当然の転換に違いないのであります。自分のこの世で最も大切なものの前で、それを大切に扱わなければならないくせにそうしようとしない者に対して、断固として対峙してみせる、沙代子さんの全く自然な母親としての行為なのであります。
(続)
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大きな栗の木の下で 76 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 そう云う風に子供と云うものを軸に考えれば、御船さんにも沙代子さんの矢岳と云う男に対する変貌が、なんとなく素直に理解できるのでありました。ま、少なくとも、矢岳と云う男の本性に沙代子さんがやっと気づいたためと云う、なんとなく御船さんに都合のよい理由なんかよりは余程妥当な、より自然なところで。
 木蔭の外に鳥が飛び上がる姿が見えるのでありました。矢張り今まで土手の下方にいたのでありましょう。鳥は忙しなく羽を動かして、地面と栗の木の下枝の間に切り開かれた中空を垂直に上昇し、葉群れの中に隠れるのでありました。屹度これから巣に餌を持って帰るのでありましょう。
 矢岳と云う男は、あの鳥にも劣るヤツだと御船さんはふと思うのでありました。同時に先程の沙代子さんとの会話が思い起こされるのでありました。それは鳥が反省するとかしないと云うことで冗談を言い合っていた時に、御船さん自身が自分は反省しないと云うことに於いて鳥以下であると宣した言葉でありました。
 まあ、戯れ言の遣り取りではあったものの、それに全く意味あいが異なっているとは云え、してみると矢岳と云う男ばかりではなくて、意ならずも御船さんも同じに、以上か以下かと云う点に限っては鳥よりも以下であると、前以ってあの時自ら認めていたわけであります。そうか、俺も鳥以下だったかと考えて、御船さんは少し口を尖らすのでありました。と云うことはつまり、沙代子さんと云う女は、色んなところで鳥以下の男共によく魅入られる女だと云うことになりますか。
 そんな風に考えていると、御船さんはどうしたものかなんとなく、沙代子さんに対して申しわけないような心持ち等覚えるのでありました。まあ、そんな呑気で無意味で戯けた、わけの判らない話の敷衍は全く以ってつまらない遊びみたいなものでありましょうが。
「どうかした?」
 沙代子さんが御船さんの顔を覗きこむのでありました。
「ああ、いや別に」
「急に黙っちゃったからさ」
「いやまあ、今そこから飛び上がった鳥よりも、子供への関与と云う点でその矢岳と云う男の了見はあの鳥に劣るかなってさ、まあそんなことをぐだぐだと考えていたんだよ」
「ふうん。ま、云われてみればそうなるかな」
「あの鳥が赤ちゃん鳥の待つ巣へ餌を運ぶために、ああやってあっちへ行ったりこっちへ来たりして忙しく立ち働いていると云うのならさ。それにあの鳥が、巣で待つ赤ちゃん鳥のお父さんだと云うことであればさ」
「そうか。そうね」
 沙代子さんが御船さんの愚にもつかない与太話に、笑いながら頷くのでありました。
「で、さっきの話から、俺も鳥以下なわけだ」
「さっきの話って?」
「ほら、鳥が反省するとかしないとか、俺が反省しないとか、沙代子が反省するとか云う話をしていただろう、つまりその話に無理矢理繋げるとしたらさ」
(続)
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大きな栗の木の下で 77 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「ああ、そうか、無理矢理繋げるとね」
 沙代子さんがそう云って御船さんから少し顔を遠ざけて口の端を上げて笑うのでありました。その仕草は御船さんの戯れ言がまたもや、まわりくどくてややこしくなることを嫌っての仕草のように御船さんには見えるのでありました。

 <奥で寝ていた赤ちゃんが急に泣きだしたの。それを潮に、矢岳君はあたしの追求じみた言葉から逃げるみたいに家を出ていったわ。また今度ゆっくり話そうなんて云って。その時の、あたしから目を逸らせる瞬間に見せた矢岳君の横顔には、あたしの意外に強硬で対抗的な態度に、動揺してたじろいだ色がはっきり表れていたの。
 あたしさ、その矢岳君の困り顔を見ながら、秘かに、ほんのちょっとだけど胸がすっきりしたの。そんなこと今までなかったなって思ったわ。それからあたし、ちょっと落ちこんだの。だってつまりそれって、あたしの中で矢岳君の存在が希薄になったってことの証拠なんでしょうしね。
 あんなにあたしは矢岳君を好きだったはずなのに、今ではそんなでもないんだなって判ったようでさ、少し寂しくなったのよ、そんな自分の変わりようが。でも、仕方ないの。もう、赤ちゃんがいるんだもの。赤ちゃんが、奥であたしを呼んで泣くんだもの。・・・
 その日以来、矢岳君は日に一回は電話を寄越すようになったわ。でも同時に、その日以来帰ってはこなくなったけどね、遂に。一応は矢岳君なりにあたしに気を遣っているんだろうけど、でも電話なんかじゃ、あたしと矢岳君が話さなければならないことなんか、ちっとも話せないじゃない。
 矢岳君としてはあたしと顔をつきあわせて、あたしと赤ちゃんのことで重要でこみ入った話なんかしたくはなかったんだと思うの。だって矢岳君は自分の二枚目のレコードの事で頭が一杯なんだろうって思ったし、取り敢えずそれに全精力を傾注したかっただろうからさ。だから帰ってはこなかったの。多分その代わりの電話なわけ。
 なんか矢岳君のその辺の、あたしに云わせれば卑怯な魂胆みたいなものが透けて見えたから、電話に対するあたしの対応はすごく冷淡だったわ。けんもほろろって感じ。今ふり返るとそんなあたしの対応が、多分矢岳君にもあたしと張りあうような気持ちを持たせたんだろうし、あたしの気持ちが自分から決定的に離れたって、矢岳君にそんな風に判断させたんだと思うの。
 実はさ、ここにきてこんなこと云うのも妙かも知れないけど、あたしさ、そんなでもなかったのよ。矢岳君のことを見下げたりとか、憎んだりとか、それに大嫌いになんてなったりなんか全然してなかったのよ。ただ、薄まったの、矢岳君の影が。
 矢岳君が恍けた顔して戻ってきて、それにあたしと重要でこみ入った話をちっともしようとしないとしても、でも、ちゃんと当然のように毎日家に帰ってきてさえくれれば、もうそれで、別に良かったのよ。一切不問に付すって、そんな高飛車な態度じゃないんだけど、でもそれまでの矢岳君の仕打ちとか経緯とか、あたしの愉快でなかった気持ちとかは括弧に括って、あたしの方も知らん顔して棚上げにしても良かったの。
(続)
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大きな栗の木の下で 78 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 毎日の電話で誤魔化そうって云う見え透いた了見は、それはそれとして、この先のことを考えれば、あたしは矢張り矢岳君とずっと一緒に暮らしていく方が良いって、そう思っていたのよ。ま、矢岳君の方も毎日電話をくれるわけだから、未だあたしと決定的に決裂することを望んではいないんだって、そうも考えたしね。なんか遣る瀬なかったけど。
 こんなあたしの思いって変かしら。矢岳君に対する態度と気持ちが、なんか矛盾しているように見えるかしら。でも、それって、その時のあたしの気持ちの正直なところだったのよ、判ってくれないかも知れないけど。・・・>

 御船さんは少し混乱しているのでありました。それは沙代子さんの気持ちが、矢岳と云う男から決定的に離れた故のその態度だと思っていたのに、沙代子さんに依ればそうではないと云うのであります。気持ちは未だに矢岳と云う男の傍らに在るには在ると云うのであります。
 まあ、沙代子さんとしたら矢岳と云う男との間に出来た赤ちゃんもいることだし、その赤ちゃんの将来とか、その他諸々のこと等考えると、この場合沙代子さんがぐっと我慢して仕舞えば、少し歪な形になったにしろ、万事が丸く収まると考えたのかも知れません。つまり未だ、矢岳と云う男の不誠実な態度は、沙代子さんの情の外壁からはみ出ない範囲にあると云うことなのでありますか。
 そこまで来たら敢然と三行半を突きつけても、沙代子さんにはなんの非もないと御船さんには思われるのでありました。ま、しかし色々考えてみて、沙代子さんとしてはそうはしないのでありましょうが。その辺の機微と云うものは沙代子さんならぬ身が、すっきりと理解出来ようはずもないのであります。
 しかし、そうまで無責任としか思えない態度をとる男に、沙代子さんが或る意味で煮え切らなく愚図々々関わりあっていると云うことに、御船さんは秘かに歯噛みするのでありました。いい加減、ここまでの話の顛末からして、沙代子さんは矢岳と云う男を嫌悪して、関係を切ろうと決意しても良いではありませんか。それに第一、いい加減そうしてくれないと、話を聞いている御船さんの気持ちの方がなかなか晴れないと云うものであります。
 俄かに強い風が海から吹いてきて街を舐めて山の斜面を吹き上がり、栗の古木の葉群れを揺らし、公園中の木々をさざめかせ、御船さんと沙代子さんの髪を乱すのでありました。
「なんか、風が強くなってきたみたいね」
 沙代子さんが云うのでありました。
「夕方に近づくにつれて、段々風の勢いが強くなるんだろう。しかしまあ、未だ夕方と云うには辺りは明るすぎるけど」
 御船さんはそう返しながら、空を見上げるのでありました。幾つかの雲の塊が空の高い処を海から離れるように、しかし今吹いた風の強さから測ると悠長過ぎるように揺曳しているのでありました。風が収まると、急に額が汗ばむような気がするのでありました。
「でも、もう九月の半ばを過ぎたと云うのに、ちっとも秋らしくならないわよね、本当に。今年の夏は嫌に未練たらしく、この街を離れないようね」
(続)
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大きな栗の木の下で 79 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 沙代子さんがそんなことを云うのは、矢張り額が汗ばむからでありましょうか。
「そうだよな。今年の暑さはいつもとは違って、やけに強情だな」
 御船さんが額に手を遣りながら頷くのでありました。
「強情って云うのと未練たらしいって云うのは、違うのかしら? まあ、別にどうでもいい無意味な疑問なんだけどさ」
 沙代子さんが云うのでありました。
「そうだな、強情の表現の一つが、別の人から観ると未練たらしいって見えるのかな」
「口をへの字にして意地っ張りしているのが強情で、なんかめそめそしているのが未練たらしいってイメージよね」
「同じことなのかも知れないよな。強情ってい云うのは本人の了見の表現で、未練たらしいって云うのは、その気持ちが発露した時の外側の皮膚の見え方の一つとかさ」
「強情は当人の所存で、未練たらしいは他人の受け取り方ってこと?」
「まあ、そうかな」
 御船さんは俯いてそう云うのでありましたが、それはなにやら先程の自分のものしたややこしい冗談のようなもので、こみ入ったまわりくどさに陥るべき設問に思えたからで、自分が前に口から吐き出した冗談のことはさて置いて、なんとなくそう云ったくどくどしさが鬱陶しい気がするからでありました。
「強情そうに見える、なんて表現もあるわよね。でもそれって、未練たらしく見えるってこととすっかり同じじゃないみたい」
「ま、未練たらしいと云うのは、さっきも云ったように強情と云うものの見え方の一つと云うことで、強情と云うのが未練たらしくだけ見えるとは限らないわけだ」
「今年の暑さは、性質としては御船君が云ったように強情で、その暑さを、感じているあたしには未練たらしいって映るわけね。同じことのようだけど、なんとなく違うわけね」
「まあ、そう云うことで手を打とうぜ」
 御船さんはそう云って笑いながら頭を掻くのでありましたが、その後急に手は頭に置いた儘で顔から笑いを消して続けるのでありました。「でも、沙代子の矢岳と云う男に対する気持ちが、強情と云うのでもないし、だから未練たらしいと云うのでもないことは、なんとなく判るよ俺としては。なんかそう云うものとは、全く別のものだったってことはさ」
 御船さんがそう云うと海からの風がまた街を過ぎて公園まで吹き上がってきて、汗ばんだ額を涼やかに撫でて通り過ぎていくのでありました。

 <結局矢岳君から、次第に電話もこなくなっていったの。そりゃそうよね、あたしの電話口での対応って云ったら、何時も冷淡そのものだったもの。矢岳君としてもうんざりだったと思うわ。そうなることはあたし判っていたの。でも、矢岳君のすることに対してあたしが心底、決定的に怒るわけじゃなかったのと同じに、その電話での冷淡さの方も、あたしちっとも改めなかったのよ。なんでだったか、あたしもよく判らないけど。それこそ単なるあたしの、なんの益にもならない強情さと云うことなのかも知れないし。
(続)
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大きな栗の木の下で 80 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 要するにあたし、矢岳君との仲を修復しようとなにもしなかったことになるのよね。あたし、もうすっかり諦めていたのかしら。そうでもなかったと思うんだけどね。でも、なにもあたしから積極的に動かなかったのは事実だし、そこを責められるとあたし俯くしかないんだけど。
 で、幾ら積極的に動かないと云っても、幾らただ待っている態度だけだと云っても、何時までも音信不通の儘にして置くわけにもいかない気がしたから、あたしの方から一度、事務所の方に電話を入れてみたことがあったの。そうしたら、矢岳君、事務所を辞めていたのよ。まあ、専属契約と云うだけで、事務所に就職していたわけじゃなかったから、辞めると云っても、単に専属契約を打ち切るってことなんだけどね。
 矢岳君が事務所から貰えるはずになっていたお金も、もう随分、ちっとも家に入れなくなっていたから少しは変だとは思っていたの。まあ、お金に関してはあたし実家から仕送りみたいなことして貰っていたし、困り果てるなんてことがなかったから、それは不実だとは感じたけど、そんなに不安で堪らないわけじゃなかったのよ。始めから、あたしの気持ちの中では、あんまり当てにしていたんでもなかったしね。
 でも、矢岳君が事務所を辞めていたと云うのには、驚いたわ。だから、矢岳君の行方はもうすっかり判らないわけ。辞めた後は、事務所には連絡なんかないって云うんでさ。二枚目のレコードの話と云うのも、そう云う話は出てはいたけど、でも決定したと云うことではなかったらしいのよ、実際は。具体的には未だなにも決まってはいなかったわけ。
 あたしすごく混乱したわ。でも、相変わらずその電話の後も、あたしはなにもしないのよ。ただ矢岳君が電話して来るとか、あたしの前に姿を現すとか、ひょっとしたらもうないのかも知れない、なにかしらの展開が起こるのを全くの受け身の儘に待っているだけ。日々の赤ちゃんの世話にかまけてさ。あたし、何を考えていたんだろうね、その時。
 ま、つまり要するに、なにも考えていなかったんだけどね。ううん、考えようとしなかったと云うのが当たっているのかな。考えることが、多分すごく怖かったのよね。馬鹿で間抜けで鈍感でいると、気持ちに波風が立たないし、とんでもない恐怖に襲われることもないってさ、はっきりじゃないけどそう思っていたの。
 母とか兄嫁からは結構頻繁に電話は入っていたの。あたしはあたしが置かれている状況を、何時までも二人には何も話さなかったの。でも、いくらあたしが無難な受け答えばかりしている積りでも、結局なんとなく雰囲気で判って仕舞うようでさ、先ず兄嫁にあたしがなんか変だって気づかれて仕舞ったわけ。
 兄嫁に問い詰められる儘、あたしはその時のあたしの状況を訥々って感じで話したわ。兄嫁の驚きようと云ったらなかったわ。あたしは兄嫁にそんなに驚かれたことに、あたし自身の妙にクールな気持ちの外観とは違ったものを感じたりしたの。それから、兄嫁から実家の母に連絡が行って、父も知って、それから大変な騒動ってことになったの。
 母がすぐに東京まで出て来て、すぐ後に父までやって来たのよ。母はあたしの姿を見た途端、オロオロと泣くの。父はあたしがなにも知らせなかったことを、すごい剣幕で詰ったわ。あたしはその時は、なんとなく二人の姿が大袈裟過ぎるように感じていただけ。
(続)
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大きな栗の木の下で 81 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 そんなことがあったって云うのに、あたしがずっとなにもしようとしないで、馬鹿で間抜けで鈍感でいたことにさ、父も母も、あたしがどうかしちゃったんだって思ったみたい。実際あたし、どうかしていたのかも知れないわ、今考えてみると。だってあたしのその時の態度って、どう考えても普通じゃなかったようだもん。父なんて心配しちゃって、あたしを病院に入れようとしたくらい。
 矢岳君が帰って来なくなったことがショックで、あたしの知らない内にあたしの頭の中の小さな部品が、ピンって外れて仕舞ったんだろうってさ、後で父が云っていたわ。なんかそう云われればそんな気もするし、まあ、どうなのかな。あたしには未だにその時のあたしがよく判らないのよ、実は。なんか情けない話だけどさ。
 まあ、そんなこんなで、矢岳君と云うのはとんでもない卑劣なヤツだって云うわけで、父が早速警察に相談に行ったり、矢岳君の契約していた音楽事務所に行って矢岳君の居場所を突き止めようとしたり、こう云う云い方は父には申しわけないんだけど、妙に張り切っちゃったの。三日ほど、父はあたしのアパートに泊まりこんで矢岳君を探し出そうとしていたわ。あたしは父のすることに、惚けた顔しているだけでなにも云わなかったの。
 あたしはさ、母が来てくれたもので、赤ちゃんの世話とかも色々助かったなんて考えたりしていたの。特には、あたしがとんでもない状況にいるんだって感覚もなくてさ。父が矢岳君を探し出そうとして奔走しているのも、実はなんとなく他人事のような感じがしていたくらいなのよ。あたし別にひどく取り乱したりもしていなかったし、父や母が云い募る程に、非常なことがあたしに起きているんだって思いもない儘でいたの。クールって云うのかな、そんな感じ。でもつまり、それは実はクールとか云う情緒じゃなかったと云うことなんだろうけどさ。後で父や母にそう云われたんだけどさ。
 父はそんなに長く仕事を休むわけもいかなかったから、三日居て、先に帰ったわ。あたしは残った母と一緒に当座の必要な荷物を纏めたりして、父が帰った二日後に、赤ちゃんを抱いて母に連れられてこっちに帰って来たわけ。あたしと赤ちゃんをその儘東京に置いておけないと云うんで、ま、連れ戻されたって事になるのかな。
 あたしそう云うのは、本当は不本意だったの。でも別にあたし抗うこともなかったけどさ。なんかあれよあれよって云う間にそう云うことになって、気がついたらあたしの実家の居間に、赤ちゃんを抱いて座っていたって感じ。・・・>

 穏やかな葉擦れのさざめきが木蔭の中に響いているのは、海からの強風が公園突端の栗の古木を襲ったからではなくて、めずらしく弱い風が遠慮がちに寄せてきて、手弱かに枝先の葉を揺らしているからでありました。沙代子さんは目を細めて眼下の街の光景を見ているのでありました。沙代子さんの長い睫の先がほんの少し上に跳ね上がっているのが、御船さんには眩しく見えるのでありました。御船さんは何故か急におどおどとして、沙代子さんの横顔から目を逸らして、一緒に眼下に広がる街の光景を見下ろすのでありました。ようやく沙代子さんの話が終わりに近づいて来たのかなと、御船さんは細めた目のずっと奥の方で思うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 82 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんが空に目を移して云うのでありました。
「なにはともあれ、なんとなくそれで一件落着ってところかな」
「ううん、とても一件落着なんて云うんじゃないわ。単にあたしと矢岳君の決別が決定的な局面を迎えたって云うだけ。その後も、ごたごたが暫く続いたのよ」
「まあ、そうだよな。それは当然かな」
 御船さんはそう云いながらまた街の光景の方に目を落とすのでありました。
「そのごたごたも、あたしには結構しんどかったわ」
 確かに、寧ろそっちの方が、沙代子さんにとっては精神の消耗する、遣りきれないような事柄であったろうかと御船さんは想像するのでありました。
「結局、その矢岳と云う男は、どこでどうしていたんだい?」
 御船さんは沙代子さんの方を見ないで聞くのでありました。
「新潟の方に居たのよ。ご両親が横浜から移って行った先の」
「事務所を辞めた後、東京を逃げ出したと云うわけだな?」
「まあ、見様によってはそうなるのかな」
 沙代子さんは俯いて、膝の上の細かい草を手で払うのでありました。「矢岳君としてはもう、行き場のないどんづまりに追いこまれたって気持ちになっていたんでしょうね、音楽の事もあたしとの事も」
「ひどいヤツだな」
 御船さん思わずはそう呟いた後で、その言葉がひょっとして沙代子さんの感情を逆撫でしはしないかと恐れるのでありました。しかし本当に、ひどいヤツではありませんか。総て自分で始めたことなのに、自分の不始末でうまくいかなくなると、途中で放り投げてトンズラを決めこむなんと云うのは、児戯にも悖ると云うものであります。
「確かに、そう云う風にも云えるんだけどさ」
 沙代子さんが海を見ながら云うのでありました。「矢岳君の大人になり切っていない脆さとか、気持ちの弱さとか、まあ、色々父や母も、他の人も云うんだけどさ、そう云う本人の問題もあるけど、でも結局、矢岳君と世の中の流れって云うのか、時宜っていうのか、そう云うものとの兼ねあいが上手くいかなかっただけのような気も、あたしはするのよ」
「なんだい、それは?」
「そうね、按配って云うのか、頃あいて云うのか、タイミングって云うのか。・・・」
「タイミング?」
「世の中への嵌り具合とその時期って云うのか。・・・」
「世の中への嵌り具合とその時期?」
「なんかさ、あたし達には操作出来ない宇宙のエネルギーみたいなものがあって、その機微を捉えて上手くその波に乗れば、時宜を得て、ピタッと自分の狙い通りに世の中に嵌るって云う感じ。よくあるでしょう、何をやってもダメな時とか、なんでも怖いくらい上手くいく時とか。そんなもの」
「なんだいそれは。所謂、観念論か?」
(続)
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大きな栗の木の下で 83 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは少し白けたような云い方をするのでありました。
「観念論?」
 沙代子さんが御船さんの顔を見るのでありました。「それってつまり、どう云うこと?」
「人知の及ばない超存在みたいなものが世界の根本に居て、それが結局俺達や世の中を動かしているとか云うことかな。ま、宗教的って云うのか、運命論的って云うのか」
「ああ、そう云うことね」
 沙代子さんが頷いてまた海の方へ視線を馳せるのでありました。「まあ、そう云っちゃえばそうかしらね。でもあたしのは、そんな大それた感じじゃなくて、なんて云うのか、もっと微妙な、世の中との機微みたいなもの」
「いやそれにしたって、云っていることは充分観念論的だよ」
 御船さんはそう云いながら、沙代子さんが御船さんの今ものしている話を「そんな大それた感じ」と規定することに依って、こう云った抽象的な類の言葉の遣り取りをこれ以上続けることを、やんわりと拒んでいるのだと思い当たるのでありました。まあ、確かにここで沙代子さんと観念論について論じあおうとするのも、それは如何にも間抜けな仕業以外ではなかろうとは思われるのであります。
「まあいいや。それは兎も角、実態としては、矢岳と云う男は音楽も沙代子も赤ちゃんも、その他の東京での色々な柵も、自分の描いていた将来の見取り図なんかも全部放り投げて、両親の居る新潟に逃げ出していたと云うわけだな」
「まあ、ざっと云い切って仕舞うと、そういうことになるわね」
 沙代子さんが気弱そうに不服を含ませるような声で云うのでありました。

 <矢岳君は袋小路に追いこまれていたのよ。だからそれが人にはどんなにみっともない情けない行動に映るとしても、兎に角そこから逃げ出さないことには、何も活路が見出せなかったの。だから、そうしたの。万事に対して、矢岳君は一刻も早くそこから逃げ出さないと、取り返しのつかないことになるような、強烈な挫折感を持ったの。
 屹度新潟のご両親の前に現れた時には、憔悴し切って、尾羽打ち枯らした姿って云う感じだったと思うのよ。あたしも相当参っていたんだけど、それに劣らずに矢岳君の方もかなり傷んだ姿だったと思うわ。何も手につかないし何も考えられないって感じ。まあ、確認したんじゃないけどね。
 だから当然、あたしとは音信不通状態になったのよ。こんなことを云うと、実家の父や母なんかは、そんな馬鹿なことがあるかって云って、妙な物でも見るような目か、はっきり不機嫌そうな顔であたしを見るんだけどさ、でも矢岳君はその時、あたしと連絡を取るってことなんて、考えもつかないくらい気持ちが痛んでいたんだとあたしは思うの。
 ほんの少しでも気持ちに余裕があったなら、矢岳君は新潟に帰る前に、あたしに電話をしてきたんじゃないかな。そのほんの少しの余裕すらも、屹度なかったの。だから父にも母にも、それにあたしにも不興を買うような真似をして仕舞ったの。まあ、電話をしてきたとしても、あたしの前から去った事実は変わらなかったんだろうけど。
(続)
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大きな栗の木の下で 84 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 あたしさ、今更だけどさ、矢岳君の心情とかを察して、もっと優しくしてあげれば良かったかな、なんて思うこともあるの。そうすればそのあたしの優しさが、少しは矢岳君の心の中に沁みて、矢岳君の方もそんなに追いつめられたような気持にはならなかったかも知れないし、あたしと矢岳君の仲も、ひょっとしたらまた違ったものになったかも知れないし。ま、それは判らないけど。・・・
 あたしもその時、全然余裕がなかったからね。それに被害者意識みたいなものだけが、あたしの中で膨らんでいたからね。さっき御船君が云ったように、ひどいヤツだって、矢岳君のことを思っていたからね。でもまあ、当人同士の気持ちの重なり方の関係とか、つまりあたしの優しさとか、そんなものは実はちっぽけな要素なのかも知れないわね。
 なんかさ、人と人が別れる時って、当人達の心根の問題もそれは大きな要素ではあるけど、でもそんな嫌にはっきりとしていて、当人の皮膚の内側だけで醸されるものだけじゃなくてさ、前の話の蒸し返しになるようだけど、流れている時間との噛みあいの機微って云うのか、綾って云うのか、つまり時宜って云うのか、なんかそんなものが決定的に作用しているような気がするの。それにその機微も綾も、生まれてくる時予め決定されているのかどうかは判らないけど、でも当人にはどう仕様もないものなの。
 またあたし、なんかまわりくどくてややこしい話をし始めたみたいね。それに観念論だって、これも御船君に一言で片づけられそうだわね。・・・>

 見事に観念論に属する考えだと、御船さんは海を見ながら思うのでありました。しかし観念論であるかそうでないかは、この際どうでも良いことなのでありました。寧ろ当人の力の及ばない決定論的なことなのであれば、つまり沙代子さんがあれこれと、この矢岳と云う男との一連のごたごたについて、これから先、何も思い悩む作業は必要ないと云うことなのだから、返って好都合のようにも思えるのであります。
 沙代子さんの過去の傷に対する苦悩とか煩悶とか云うものなど、御船さんにとってなるべく発生してなど欲しくないものないのでありました。沙代子さんには何時も無邪気にニコニコとしていて欲しいのでありました。ま、それが御船さんには総てなのでありました。
「結局具体的には、どう云う風に落ち着いたんだい?」
 御船さんは、これはひょっとしたら出過ぎた質問かとは思うのでありましたが、しかしその辺を聞いておかないと、なんとなく心持ちが宙釣りにされた儘のような気がするものだから、沙代子さんに遠慮がちに聞いてみるのでありました。
「うん。父が知りあいの弁護士さんに相談して、その人に間に立って貰って事後処理をするってことにしたの。その方が、当事者同士が感情的に話をするより処理が早いし、必要以上に苛々することもないし、こちらの云い分をドライに向こうにぶつけられるからって」
「ふうん。まあ、賢明な方法みたいにも思えるな」
「父は、向こうに絶対的に非があるんだからこちらの云い分はあくまで押し通すし、それなりの報いは負って貰うって云う意気ごみだったわ。でも、あたしの方は何時までもごたごたしているのはご免だから、なるべく早く片づけたいと云う気があってさ」
(続)
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大きな栗の木の下で 85 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは弁護士を立てた、沙代子さんのお父さんの考えを支持するように何度かゆっくり頷いて見せるのでありました。
「その矢岳と云う男と向こうの家の方は、どんな風な出方だったんだい?」
「矢岳君のお父さんはもう、すごく恐縮していて、矢岳君の不始末は矢岳君自身に、若し矢岳君が出来なければ、自分がなり代わって最後まで必ず償うって感じだったようなの。お母さんも同じ様子だったようよ」
「沙代子は、その事後処理の作業のどこかの段階で、向こうの親には逢わなかったのか?」
「父が、矢岳君にも向こうのご両親にも、あたしを逢わせないようにしていたの。全部弁護士の先生に任せてあるから、お前が逢う必要なんかないって云って。あたしもなんとなく、逢う必要があるとか云われたら、そんな勇気もなくてたじろいじゃったと思うしさ」
「そりゃそうだな」
 御船さんが顎を撫でながら頷くのでありました。
「全部片づいてから、向こうのご両親があたしにどうしても一言謝りたいって云うんで、その時ちょっと逢ったわ、赤ちゃんを連れてね」
「新潟か東京で逢ったのか?」
「ううん、態々この街まで来て貰って」
「まあ、でも、それは当然かな」
 御船さんはまたまた頷くのでありました。「それから向こうのお父さんは、横浜で仕事に失敗した後、新潟でどうしていたんだ? 場合に依ってはなり代わって息子の不始末を最後まで償うとか云われても、まあ、その力がないのなら償えないじゃないか」
「矢岳君のお父さんは新潟でまた事業を始めていたの。今度は中古の自動車とか自転車とか、それに電化製品なんかを外国に輸出する会社。最初は中古車の販売会社で嘱託のセールスマンみたいなことをしていたらしいんだけど、なんか新潟に寄港する外国船なんかが、大量に中古車とか自転車とかを日本で買って、それを船に積んで持って帰るなんてことがよくあったらしくてさ、そこに目をつけてそういった商売をする会社を自分で興してね。結構順調に仕事の規模は大きくなっていたみたいよ。前の仕事の借金なんかも、返済する目途もちゃんと立っていてさ。あちらのお父さん、屹度商才があるのね」
「だったら赤ちゃんが生まれた稼ぎの少ない息子の援助も、出来たんじゃないのか?」
「そうね、矢岳君にもその辺の情報とかはちゃんと入っていたようだけどね。でもまあ結局、あたしは向こうのご両親の事は、東京にいる間はなにも聞かせては貰えなかったけど」
「そうだとしたら、その矢岳と云う男が沙代子に対して元々持っていた、まあ、怪しさと云うのか胡散臭さと云うのか、不実さと云うのか、そんなものまで窺わせるよな」
 御船さんはそう云って、海から手前の街の風景に目線を移すのでありました。
「矢岳君があたしに、ご両親の事をちゃんと云わなかったことで?」
「うん、まあ、そんなのも含めて」
「屹度、なんとなく云いそびれたんじゃないの」
 沙代子さんはそう云って、御船さんを見て笑うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 86 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 云いそびれたで済ませる話でもなかろうにと、御船さんは沙代子さんの笑い顔を見ながら思うのでありました。しかしひょっとしたら沙代子さんにはなにか、その辺の詳しい事情をどうしても語りたくない理由があるものだから、そうやって笑いで、御船さんの指摘する矢岳と云う男の怪しさや胡散臭さのその実態を、有耶無耶に隠そうとしているのかも知れないと気を回すのでありました。
「まあ、要するに何につけてもちゃらんぽらんだったんだろうな、その矢岳と云う男が」
 御船さんはそう云って何度か小さく頷いて見せるのでありました。
「誰でも人に話したくない色んな影を、どこかに引きずっているものかもね」
 沙代子さんがぽつんとそんなことを云うのでありました。なんとなくその沙代子さんの不鮮明で意味ありげな言葉が宙に舞った儘、不自然に消え残るのでありました。
 それは沙代子さんに、御船さんに対しては口を噤んでいたい何かが屹度あると云うことの、明らかな査証のようにも思えるのでありました。御船さんはその辺の事情について少なからず好奇心をそそられるのでありましたが、しかしだからと云って、それを根掘り葉掘り沙代子さんに聞く勇気はないのでありました。
 若しそんなことをしたなら、沙代子さんの話は益々深く長くなるであろうし、第一、沙代子さんに話す気がないのに、こちらがしつこく絡みついていけば鬱陶しく思われるではありませんか。それは実に以て不本意至極なことであります。沙代子さんはその矢岳と云う男のことをすっかり、御船さんに話さなければならない義務等ないのでありますから。まあ、それにしても、先程の沙代子さんの言葉が、刺さった小骨のように、謎として御船さんの喉の奥に何時までも止まるのでありましたが。・・・
 海から強い風が高台の公園に吹き上がってくるのでありました。漣のように葉擦れの音が御船さんの耳の中に長く響き続けるのでありました。
「離別の事後処理なんと云うものは、なんか面倒臭くてちっとも楽しくなくて、無粋で、気が滅入るような陰鬱なことばかりだろうな」
 御船さんは街の光景を見下ろしながらそう云うのでありました。
「そうね。だから実家の父は当事者のあたしを、そう云った話しから遮断していたんだと思うわ。あたしが余計傷つくと思ってさ」
「沙代子はその話しには、全く与れなかったのか?」
「そんなこともないわよ。あたしの要望とかは、すっかり弁護士さんに話しておかなければなあなかったし、逐一話しあいの内容はあたしにも報告されていたし」
「そりゃそうだよな」
「でも、あたしの要望って云っても、別に何を矢岳君や向こうのご両親に求めれば良いのか、あたしなんとなく茫としてよく自分でも判らなかったけど。だから弁護士さんや父に良しなにやってください、なんて感じだったかしらね」
「沙代子の中で、もうその件は終わったことなんだから、出来るなら考えたくもないし、関わりあいたくないって気持ちが働いていたのかな」
「まあ、そう云うところもあったかも知れないわね」
(続)
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大きな栗の木の下で 87 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは頭の上に降り積もった葉擦れの音を払うように軽く頭を掻くのでありました。
「で、結局、その事後処理の話は上手く纏まったのかい?」
「そうね、向こうのご両親に云い分があるとしても、本筋ではあくまで恐縮って風だったから、ひどくもめることはなかったの。こちらの弁護士さんの手際もよくてさ。あたしへの慰謝料と、子供の養育費を毎月送金するってことが大きな決め事だったわね。まあ、必要なら話しあいで、それ以外のお金も適宜出してくれるってこともあったわ。それと矢岳君は親権を放棄するってことも。後は、まあ、色々。金銭的な事ばっかりだけど」
「向こうの親父さんが、或る程度金回りが良くなっていたのが幸いだったかな」
「そうね、それはあるわね」
「で、肝心の矢岳と云う男本人はどう云う償いを、沙代子に対してすることになったんだ?」
「矢岳君本人?」
 沙代子さんはそう云って御船さんを見るのでありました。「それは特になにも。・・・」
「そりゃそうか、考えてみれば。本人には金も仕事も、器量もないんだからな」
「あたしも、そうなったらもう、矢岳君とは顔をあわせたくないからね」
 沙代子さんがずっと手に持っていたハンカチで額の汗を押さえるのでありました。
「定期的に子供に逢いに来るとか、そういう話は出なかったのか? それに向こうの両親だって、赤ちゃんは実の孫に当たるんだから、その成長に興味がないこともなかろうに」
「矢岳君は子供には逢いたがってはいないような話だったわ。ご両親も特には。・・・」
「何処までも手前勝手で、無責任で、薄情な話しだな、それは」
「まあ、逢うって云っても、新潟からこの街まで頻繁に来るのも大変だしね」
 沙代子さんはそう云いながら、また悠長な仕草で額の汗を拭うのでありました。なにか一貫して、沙代子さんの言辞には矢岳と云う男にも、それに延いてはその両親にも、敵意とか嫌悪感とか云うものが薄いように御船さんには感じられるのでありました。云ってみればかなりひどい経緯であったと云うのに、沙代子さんのこの呑気ぶりはどうしたことでありましょうか。まあ、他人の心の機微とか経緯の実相なんと云うものは、御船さんが推し測れない部分も大いにあるであろうし、沙代子さんのこの呑気ぶりを御船さんが歯がゆく思ったり呆れてみても、それはなにやら大きなお世話と云うものでありましょうが。

 鳥の声が聞こえるのでありました。それは頭上の栗の古木から、葉擦れの音に隠れるようにして、ある拍子に妙にはっきり聞こえてくるのでありました。見下ろしたすぐ先の市営団地の白いコンクリートの屋根が、少し傾いた未だ夏の儘の日差しを公園の方に向けて跳ね返しているのでありました。
 葉擦れのさざめきと鳥の声に彩られた静寂が、木蔭の暗がりの中に泥んで御船さんと沙代子さんの動作や口の動きを奪っているのでありました。二人はまた口を閉ざしたのでありました。それはなにやら唐突に、交わすべき言葉を喪失して仕舞ったような按配でありました。特にこのタイミングで二人が黙る必要は何もないように御船さんには思われるのでありましたが、何故か口の中から言葉が急に消え失せて仕舞ったのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 88 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 海から街を経由してこの公園まで上がって来た風が、木蔭の中に沈澱していた静寂を吹き払うのでありました。風が去った後、御船さんは急に口の辺りの空気が軽くなったような気がするのでありました。ここは何か言葉を発すべきタイミングだと思って、御船さんは徐に口を開くのでありました。
「とんでもない無責任野郎と関わりあいを持ったものだよな、沙代子も。それはまあ、云ってみれば災難とか云うべきものかな」
「災難かな?」
 沙代子さんが御船さんの指摘に抗うのでありました。御船さんとしたら、御船さんの発する災難と云う言葉を沙代子さんが気に入らなかったとしても、多分乾いた笑い等して軽く受け流すだろうと思っていたのでありましたが。
「まあ、そう云う風に云われるのは嫌かも知れないけど、でも、違うかな?」
「そうね。ちょっと違う気もする。元々あたしが自分の意志で為出した事なんだし、それに、その結果として授かった子供と、今はすごく楽しい生活を送っているんだからさ」
「ああ、成程、そう云うところではね」
 そう云われると御船さんにはもうなにも返す言葉が見つからないのでありました。ま、今となっては落ち着くところに落ち着いていると云うことでありますから、御船さんがその沙代子さんの落ち着きどころに茶々を入れる謂われはなにもないのであります。
「ウチの子さ、可愛いのよ。それは時には腕白で手に負えない程きかん坊なところもあって苛々なんかもするけど、でもとっても気が優しい子でさ、あたしが仕事の事とかでしょげていたりすると、子供なりの気を遣って一生懸命慰めようとしてみたり、あたしを喜ばそうとか、笑わそうとしてみたりするの」
 沙代子さんはさも子供が可愛くて仕方がないと云った笑顔をして見せるのでありました。その沙代子さんの顔の方こそ、御船さんには実に可憐な笑顔に見えるのでありました。
「お母さんが大好きなんだな、屹度」
「そうね。それに、あたしもウチの子が大好き」
 沙代子さんはそう云って肩を竦めて目を細めるのでありました。
「沙代子が優しい心根で、愛情豊かに子育てしているところの結果だろうな」
「それに実家の父にも母にも、すごく可愛がられているしね」
「ま、なによりだな」
 御船さんは頷きながら笑って見せるのでありました。しかしふとした折に度々、沙代子さんはその子供の表情や仕草に、矢岳と云う男の濃い面影を認めたりすることも屹度あるでありましょう。その時沙代子さんの心中に揺蕩う海は、いったいどう云う波浪を立てるのだろうかと御船さんは頭の端の方で考えなくもないのでありましたが、これはまあ、人のよろしくない憶測と云うものでありましょうか。
 御船さんのその言葉の後で、二人はまた少し黙るのでありました。風も吹かないものだから、木蔭の中に再び静寂が泥むのでありました。二人を包みこんで仕舞ったシャボン玉のようなその静寂を、時折聞こえる鳥の声が軽く突いて揺らすのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 89 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 沙代子さんが海から視線を自分の足元に戻すのでありました。
「まあ、矢岳君はあの時期、何につけてもツイていなかったのよね」
 ここでまた沙代子さんの話しは矢岳と云う男のことに戻るのかと考えながら、御船さんは街を見下ろしているのでありました。
「それは運に恵まれないってことか?」
「そう。何をやっても上手くいかない時期だったのよね、屹度」
「しかし、運なんてものは自分で掴み取るものだって云う意見もあるだろう」
「でも、自分でどうにもならないから運とか云う言葉が出来たんじゃないのかな」
「いや、そんなことを云うなら、そもそも運なんてもの自体があるのかって云う話しにもなるぜ。つまり運とか云う言葉は、単なる偶然の積み重ねでしかない現象を、それを或る種の必然性と云うのか意味と云うのか一貫性と云うのか、そう云うものでこじつけるように関連づけて、大鉈をふるうような感じで、事物をどうにかこうにか整理しようとする心の働きの一つみたいなものだとかさ。こんなこと云い出すと、またまわりくどくてややこしい観念論の話に戻るようで、なんとなくこう、自分で云っている傍から、少々恐縮したりたじろいだりしているわけだけど」
「だからさ、回りあわせっていうのか、タイミングって云うのか。・・・」
 沙代子さんはそう云って言葉を切って、徐に御船さんを見るのでありました。「これ、さっきもあたし云ったかしらね。まあ、いいわ。だからつまり、結局、色々な回りあわせが悪かったって云うことが総てだったと思うの。殊更、矢岳君が悪いわけでもなくて、あたしが悪いんでもなくてさ。そういう風に考えると、あたしは矢岳君のことを憎んだり軽蔑したりする必要はないってこと」
 成程そう云う結論なのかと思って、御船さんは何度か瞬きをするのでありました。
「かなりひどいことをされたんだから、当初は憎んだり軽蔑したりもしたけど、今は相当時間も経って仕舞ったから、要するにそう云った感情が薄れたと云うことなのかな?」
「そう云うこともあるけど、でも、あたし初めからずっとそうだったような気がする」
「随分と人が良いと云うのか、呑気なヤツだな」
 御船さんはそう云って笑うのでありましたが、その笑いは皮肉な笑いとか、憫笑とか冷笑とか云う類のものではなくて、まあ、多少そう云ったものを含んではいるのでありましたが、それをそっくりより大きな親愛の情で包んだような笑いなのでありました。
「あたし、何時だってぼんやりしているからね」
 沙代子さんもそう云って笑い返すのでありました。
「考えように依っては広大無辺の境地みたいで、仏様のようなヤツだとも云える」
 御船さんは全くの冗談めかした仕草で沙代子さんを拝んで見せるのでありました。
「それは絶対違っていると思うわ」
 沙代子さんは目の前にある御船さんの合掌した手を軽く払うのでありました。その全く予期しなかった一瞬の接触を、御船さんは秘かに喜ぶのでありました。古木の下枝の葉群れが風にさざめくのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 90 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「ま、いずれにしろ、色々あったけど今は、沙代子は矢岳と云う男に対する気持ちも整理出来て、すっかり元気に立ち直っているって理解でいいのかな、さっきの言葉は?」
「そうね、ま、そう云うこと。それだけ云えばよかったのかもね、あたし」
 沙代子さんが海の方へ視線を馳せるのでありました。話しがまたややこしくなるのを恐れて沙代子さんは結論づけるようにそう云うのかも知れませんが、御船さんとしてもこれ以上話しが微に入り細に入ることはなんとなく大儀に思えるものだから、沙代子さんの、話しを引き出しに仕舞うようなこの言葉を歓迎するのでありました。
「今はその矢岳と云う男とは、この街での沙代子の日々の生活とか云う側面では、すっかり縁も所縁もこと切れになっていて、もう関係ない赤の他人と云うことだ」
「そうね。子供の養育とかそんな面では未だ関係が続いているわけだけど、交渉は直接にはもうなにもないわ、今後なにか子供のことで突発的な出来事がない限りね」
「或る意味で、歪でもあるけど、ま、円満に片のついた過去の事、と云う位置づけだな」
 この自分の言葉は補足確認と云うよりは寧ろ、御船さんのあらま欲しきと願う沙代子さんの今の心境、と云うべきものであると御船さんは云いながら思うのでありました。
「そんなに全く円満でもなかったけどね」
「そりゃそうだ。まあ、しかし兎に角、片のついたことだと」
「そうね。一定の片は確かについたことね、あたしの中でも。それに今はもう、あたし確かに落ち着いた日常を取り戻しているしね」
 そうであるのなら、御船さんとしては未だ少々話の細部に不明な点とか疑問なところとかもありはするのでありましたが、しかしもう沙代子さんと矢岳と云う男のこの話は、これにてお仕舞いにすべきことだと思えるのでありました。古木の下枝の葉群れが、その御船さんの考えを肯うようにさわさわと音を立てるのでありました。
「漏れ伝わってくる話によると、矢岳君も今は新潟でお父さんの仕事を手伝いながら、地道に暮らしているみたいだし」
「へえ。音楽とはもうすっかり縁を切ってか?」
「そうみたいよ。でもそう詳しいことはもう判らないし、その後の矢岳君の消息を知る意欲も、あたしにはもうないし」
 沙代子さんはそう云って古木の下枝を見上げるのでありましたが、その視線は葉の密集を通り越して、高い空に浮かぶ一遍の雲を見ているようでありました。その沙代子さんの視線の先にある雲を、古木の梢の葉群れが風に揺れて掻き回すのでありました。
 葉擦れの音が少し小さくなった頃あいで、御船さんは沙代子さんの方に顔を向けて話しかけるのでありました。
「で、どう云う具合だい、沙代子の新規蒔き直しの今の生活は?」
「毎日楽しいよ、子供がいてさ」
「新しい彼氏とかは出来ないのか?」
「そう云うのは全然ないわ」
「もう、男は懲り々々と云うわけかな?」
(続)
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