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大きな栗の木の下で 88 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 海から街を経由してこの公園まで上がって来た風が、木蔭の中に沈澱していた静寂を吹き払うのでありました。風が去った後、御船さんは急に口の辺りの空気が軽くなったような気がするのでありました。ここは何か言葉を発すべきタイミングだと思って、御船さんは徐に口を開くのでありました。
「とんでもない無責任野郎と関わりあいを持ったものだよな、沙代子も。それはまあ、云ってみれば災難とか云うべきものかな」
「災難かな?」
 沙代子さんが御船さんの指摘に抗うのでありました。御船さんとしたら、御船さんの発する災難と云う言葉を沙代子さんが気に入らなかったとしても、多分乾いた笑い等して軽く受け流すだろうと思っていたのでありましたが。
「まあ、そう云う風に云われるのは嫌かも知れないけど、でも、違うかな?」
「そうね。ちょっと違う気もする。元々あたしが自分の意志で為出した事なんだし、それに、その結果として授かった子供と、今はすごく楽しい生活を送っているんだからさ」
「ああ、成程、そう云うところではね」
 そう云われると御船さんにはもうなにも返す言葉が見つからないのでありました。ま、今となっては落ち着くところに落ち着いていると云うことでありますから、御船さんがその沙代子さんの落ち着きどころに茶々を入れる謂われはなにもないのであります。
「ウチの子さ、可愛いのよ。それは時には腕白で手に負えない程きかん坊なところもあって苛々なんかもするけど、でもとっても気が優しい子でさ、あたしが仕事の事とかでしょげていたりすると、子供なりの気を遣って一生懸命慰めようとしてみたり、あたしを喜ばそうとか、笑わそうとしてみたりするの」
 沙代子さんはさも子供が可愛くて仕方がないと云った笑顔をして見せるのでありました。その沙代子さんの顔の方こそ、御船さんには実に可憐な笑顔に見えるのでありました。
「お母さんが大好きなんだな、屹度」
「そうね。それに、あたしもウチの子が大好き」
 沙代子さんはそう云って肩を竦めて目を細めるのでありました。
「沙代子が優しい心根で、愛情豊かに子育てしているところの結果だろうな」
「それに実家の父にも母にも、すごく可愛がられているしね」
「ま、なによりだな」
 御船さんは頷きながら笑って見せるのでありました。しかしふとした折に度々、沙代子さんはその子供の表情や仕草に、矢岳と云う男の濃い面影を認めたりすることも屹度あるでありましょう。その時沙代子さんの心中に揺蕩う海は、いったいどう云う波浪を立てるのだろうかと御船さんは頭の端の方で考えなくもないのでありましたが、これはまあ、人のよろしくない憶測と云うものでありましょうか。
 御船さんのその言葉の後で、二人はまた少し黙るのでありました。風も吹かないものだから、木蔭の中に再び静寂が泥むのでありました。二人を包みこんで仕舞ったシャボン玉のようなその静寂を、時折聞こえる鳥の声が軽く突いて揺らすのでありました。
(続)
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