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大きな栗の木の下で 87 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 御船さんは頭の上に降り積もった葉擦れの音を払うように軽く頭を掻くのでありました。
「で、結局、その事後処理の話は上手く纏まったのかい?」
「そうね、向こうのご両親に云い分があるとしても、本筋ではあくまで恐縮って風だったから、ひどくもめることはなかったの。こちらの弁護士さんの手際もよくてさ。あたしへの慰謝料と、子供の養育費を毎月送金するってことが大きな決め事だったわね。まあ、必要なら話しあいで、それ以外のお金も適宜出してくれるってこともあったわ。それと矢岳君は親権を放棄するってことも。後は、まあ、色々。金銭的な事ばっかりだけど」
「向こうの親父さんが、或る程度金回りが良くなっていたのが幸いだったかな」
「そうね、それはあるわね」
「で、肝心の矢岳と云う男本人はどう云う償いを、沙代子に対してすることになったんだ?」
「矢岳君本人?」
 沙代子さんはそう云って御船さんを見るのでありました。「それは特になにも。・・・」
「そりゃそうか、考えてみれば。本人には金も仕事も、器量もないんだからな」
「あたしも、そうなったらもう、矢岳君とは顔をあわせたくないからね」
 沙代子さんがずっと手に持っていたハンカチで額の汗を押さえるのでありました。
「定期的に子供に逢いに来るとか、そういう話は出なかったのか? それに向こうの両親だって、赤ちゃんは実の孫に当たるんだから、その成長に興味がないこともなかろうに」
「矢岳君は子供には逢いたがってはいないような話だったわ。ご両親も特には。・・・」
「何処までも手前勝手で、無責任で、薄情な話しだな、それは」
「まあ、逢うって云っても、新潟からこの街まで頻繁に来るのも大変だしね」
 沙代子さんはそう云いながら、また悠長な仕草で額の汗を拭うのでありました。なにか一貫して、沙代子さんの言辞には矢岳と云う男にも、それに延いてはその両親にも、敵意とか嫌悪感とか云うものが薄いように御船さんには感じられるのでありました。云ってみればかなりひどい経緯であったと云うのに、沙代子さんのこの呑気ぶりはどうしたことでありましょうか。まあ、他人の心の機微とか経緯の実相なんと云うものは、御船さんが推し測れない部分も大いにあるであろうし、沙代子さんのこの呑気ぶりを御船さんが歯がゆく思ったり呆れてみても、それはなにやら大きなお世話と云うものでありましょうが。

 鳥の声が聞こえるのでありました。それは頭上の栗の古木から、葉擦れの音に隠れるようにして、ある拍子に妙にはっきり聞こえてくるのでありました。見下ろしたすぐ先の市営団地の白いコンクリートの屋根が、少し傾いた未だ夏の儘の日差しを公園の方に向けて跳ね返しているのでありました。
 葉擦れのさざめきと鳥の声に彩られた静寂が、木蔭の暗がりの中に泥んで御船さんと沙代子さんの動作や口の動きを奪っているのでありました。二人はまた口を閉ざしたのでありました。それはなにやら唐突に、交わすべき言葉を喪失して仕舞ったような按配でありました。特にこのタイミングで二人が黙る必要は何もないように御船さんには思われるのでありましたが、何故か口の中から言葉が急に消え失せて仕舞ったのでありました。
(続)
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