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あなたのとりこ 211 [あなたのとりこ 8 創作]

 すぐさま反発の言葉を発しようとしていた山尾主任が、思わずその言葉を飲み込むのでありました。山尾主任だけではなく土師尾営業部長も驚いて身震いするのでありました。他の全員も急に呼吸を忘れるのでありました。
「さっきから好い加減止めろと云っているだろうが」
 片久那制作部長はドスの利いた声で、これははっきりと土師尾営業部長に向かってぞんざいな口調で云うのでありました。土師尾営業部長はオドオドと畏まるのでありました。片久那制作部長の舌打ちが自分達ではなく土師尾営業部長に向けられたものである事がはっきり知れて、ここでようやく他の全員は少し息を吐く事が出来るのでありました。
「この後の話しは、営業部は営業部、制作部は制作部でじっくり詰めると云う事で、時間も大分経ったから今日はこれで散会と云う事にしたいけど」
 片久那制作部長がそう宣するなら勿論誰も異論は吐かないのでありました。

 立ち上がって制作部の自席に戻ろうとする少し憔悴した様子の山尾主任に向かって、片久那制作部長が声を掛けるのでありました。
「山尾君、この後何か予定があるか?」
「いや、別にありませんけど」
「じゃあ、ちょっと話をしたいから、良いかな?」
「ええ、判りました」
 屹度山尾主任が先程提示された配置転換を受け入れやすいように説得、或いはあれこれ説明をしようと云うのでありましょう。
「それから、那間君と均目君、それに唐目君もほんの少し少し良いかな?」
 制作部の三人が呼ばれるのは判るけど、そこにどうして業務の頑治さんが入ったのかはよく判らないのでありました。今度の配置換えには頑治さんは特に無関係のようにも思えるし、直属の上司は片久那制作部長ではなく土師尾営業部でもある事だし。
 那間裕子女史も均目さんも断らないのでありました。頑治さんもその日は特に夕美さんと逢う約束もしていなかったから、云われる儘に制作部の方に向かうのでありました。
 制作部スペースへ向かう後ろの気配でしか判らないのでありましたが、土師尾営業部長もこの後に営業会議を提案したようでありましたが、それは営業部の三人にあっさり断られた様子でありました。それはそうでありましょう。これから土師尾営業部長と喧嘩腰であれこれ遣り取りするのは、営業部の三人にはもうげんなりでありましょうから。それから甲斐計子女史も、大凡自分は関係無いからと早々に退社するのでありました。
「山尾君が抜ける事になったら、仕事の割り振りを再編しなくてはならなくなる」
 片久那制作部長が自席に着いてから、前のライトテーブルを囲むように立った三人に云うのでありました。「既存の地図や出版物、それに他の製造物の修正作業や管理は、山尾君が担当していた分は那間君が引き継ぐ事として、制作仕事の発注先や発注タイミングとかの管理は当面、主に均目君にやって貰う事になる。良いかな?」
 何となくぶっきら棒な云い方であるのは、この人の何時もの物腰でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 212 [あなたのとりこ 8 創作]

「何となく、もう山尾さんが営業に移る事が決定した云い方ですよね、それって」
 那間裕子女史が抑々のところに拘るのでありました。
「まあ聞け」
 片久那制作部長は那間裕子女史の言葉を掌で制するのでありました。「地図なんかの修正作業は地域が新しくなるだけで要領は何時もやっているのと変わらないが、材料類の管理とか発注に関しては少し面倒臭い。商品在庫が多いと資産になって課税対象になるからなるべく在庫としては置いておきたくない。倉庫のスペースも限られている。それとの兼ね合いで発注を掛けたりするから些か面倒なんだ。均目君はその辺を早く熟せるようになってくれ。まあ今後、適時教えていくからそんなに心配しなくても良いけどな」
 均目さんは面倒臭い仕事を割り振られるようでありますが、まあ、均目さんの事でありますから慣れるのもそんなに時間はかからないでありましょう。その連携で倉庫を管理する自分もこの場に呼ばれたのだろうと頑治さんは思うのでありましたが、その割にその点の具体的な話しは片久那制作部長の口からはここでは特段出ないのでありました。
「それから唐目君だが」
 片久那制作部長は頑治さんの顔に視線を向けるのでありました。「営業部の仕事の改変で袁満君や出雲君の動きがどうなるかは未だ不確定だけど、恐らく会社に居る時間はこれ迄よりは増えるだろう。その場合営業関連の出庫や入庫、それに発送業務は二人に任せる事にして、その分制作の仕事を今より多く手伝って貰う事になるだろう」
 交通案内図の駅間所要時間調べを手伝って以来、その仕事振りを片久那制作部長に認められたせいか、頑治さんは時折製作部の仕事を手伝う機会があるのでありました。と云っても地図の製図とかフイルム修正と云ったそれなりの経験が要る仕事はおいそれとは手伝う技術も無いので、調べものとか外部のデザイナーとかカートグラファー、それにイラストレーターなんかへの制作物の受け取りやら受け渡しやらと云った仕事であります。
 頑治さんは特に意識は無かったのでありますが、均目さんに依れば社内での細々した制作物修正作業なんかよりは、そちらの対人仕事の方が余程本来の制作部の編集仕事であろう云う事でありました。でありますからそう云う人に逢う場合は業務仕事の作業服と云う訳にもいかず、些か身綺麗な体裁をしていかなければならなかったし、逢う相手に依っては一張羅のスーツとネクタイを着用しなければならない場合もあるのでありました。
 頑治さんとしては物を相手の作業服での業務仕事の方が気楽で好きだったのでありますが、なかなかそうはいかない羽目になったのであります。まあ、片久那制作部長に見込まれて命じられる仕事なら何でもやらなければならないと観念するのでありましたが。
「判りました。何となく益々制作部専用の業務担当、と云う感じになるのですかねえ」
「ま、そう云ったところかな」
「そうなると、聞き様に依っては不謹慎な質問かも知れませんが、自分の仕事上の直属の上司は土師尾営業部長なのでしょうか、それとも片久那制作部長なのでしょうか?」
「まあ、本来の業務仕事も兼務するからから、名目は営業部長、実質は俺の配下かな」
「ああそうですか。何となく曖昧且つ小難しい身分となる訳ですね」
(続)
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あなたのとりこ 213 [あなたのとりこ 8 創作]

 頑治さんのその云い方が如何にも気楽そうな感じなので、片久那制作部長と那間裕子女史、それに均目さんは笑いを漏らすのでありましたが、山尾主任は陰気そうな表情を変えないのでありました。自分のこれから先の境遇の変更に対する不安で頭が一杯で、頑治さんの呑気な物腰になんかには気持ちが回らないのでありましょう。
「三人に云う事は、今日はそれくらいだ」
 片久那制作部長は今度は山尾主任に目を向けるのでありました。「それから山尾君とは少し二人で話したいから、ちょっと付き合ってくれるか?」
 片久那制作部長は右手で杯を持ってそれを呷るような仕草をするのでありました。山尾主任はその謂いをすぐに理解して一つ頷くのでありました。
 五人は揃って会社を出るのでありました。片久那制作部長は山尾主任と二人で、馴染みにしている神田の居酒屋に向かうために御茶ノ水駅方面へと歩き去るのでありました。頑治さんは二人と一緒に歩いて帰るのは何となく気詰まりであったから、少し間を測ってから那間裕子女史と均目さんにさようならと云うのでありました。
「帰ってから何か用でもあるの?」
 那間裕子女史が小首を傾げて頑治さんに訊くのでありました。
「いや、別に何もありませんけど」
「だったら三人で少し飲んでいかない?」
「ああ、それは構いませんけど」
 均目さんにお誘いの言葉をかけないのは、自分が飲むと云ったら、均目さんは必ず付き合うと決めてかかっているからだろうと頑治さんは推察するのでありました。
「じゃあ、新宿に行く、それともこの辺にする?」
「俺としては新宿に出るのは少しかったるいから、この辺でと云う事にしたいですね」
 その頑治さんの要望を入れて、三人は神保町交差点から春日通りを水道橋方面に少し歩いた辺りにある居酒屋へと向かうのでありました。

 何となくその日はビールよりも日本酒が飲みたいと三人意見が一致したので、猪口で乾杯した後那間裕子女史が話し始めるのでありました。
「今頃、片久那制作部長と山尾さんの二人もこうして飲みながら、山尾さんの処遇についてどうだこうだと話しをしているのでしょうね」
「向こうの居酒屋は神田駅から結構歩いた日本橋辺りにあるから、未だ屹度到着してもいないと思うけど、まあ、到着したらそんな話しが始まるだろうな」
 均目さんが少し時間に厳格な辺りを補足するのでありました。
「均目君はその居酒屋を知っているの?」
「いや、行った事はないけど、前に片久那制作部長から聞いた事はある」
「屹度二人で陰々滅々とした雰囲気で杯を傾けるんでしょうね」
「そうだろうなあ。同席するのは真っ平御免と云った風の飲み会だろうな」
 均目さんは顰め面をして猪口を傾けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 214 [あなたのとりこ 8 創作]

「山尾さんは処遇変更を受け入れると思う?」
「片久那制作部長にこれから縷々説得されて、結局受け入れるんじゃないかな。それに結婚と云う大切な私事をすぐ目の前に控えているから、ここで色々微妙な立場に追い込まれたり、最悪の場合会社を辞めたりはしたくないだろうしなあ。まあ、実は既に、営業部への配置転換を受け入れる心算になって居酒屋に同行したのかも知れないし」
「何となく気の毒な気がするなあ」
 頑治さんは山尾主任に同情するのでありました。
「タイミングと云う点で最悪だよな」
 均目さんが頷くのでありました。
「山尾さんの結婚式は何時だっけ?」
 那間裕子女史が均目さんに首を傾げて見せるのでありました。
「ええと、確か一月二十日だったかな。前日の十九日に空路グアムに飛んで、二十三日迄新婚旅行旁滞在する、とか聞いたけど」
「ふうん。信州の軽井沢でもハワイでもなくて、グアムか」
 那間裕子女史はその辺の事情を何も知らないようでありました。山尾主任にそれを態々訊く機会も無かったし、訊く気も大して無かったのでありましょう。
「そうするとグアムに五日間程滞在、と云う事だ」
 頑治さんが指を折って日数を数えながら云うのでありました。
「そうなるかな。毎年の事だけど二月に入ったら、年度替わりまで仕事が急に忙しくなるから、一月の内にと云う当初の目論見だったんだろうけど、ここに来て営業部に移るとなると、結果として目算が外れたと云う事になるかなあ」
「毎年一月の後半から忙しくなるわよ」
「ま、それはそうだけど」
「この時期に一週間会社を休むと云うのも、ちょっと弁えが足りないんじゃないかしら」
 那間裕子女史は無愛想な顔で批判的な事を口走るのでありました。
「まあ、相手の人がこの時期しか都合が好くなかったのかも知れないし」
 均目さんが山尾主任を擁護するのでありました。
「良く片久那制作部長が許したわね」
「だって慶事だもの」
「幾ら慶事だろうと、四月以降にするとか時期を考えるべきだと思うわよ」
 那間裕子女史は山尾主任に対してあくまでつれないのでありました。
「山尾主任はそう云う考えだったとしても、向こうさんの事情もある事だし」
「この時期に山尾さんが一週間も休む事で、こっちに累が及ぶのは叶わないわ」
「仕事の分担があるから那間さんはそう心配する事も無いんじゃないの」
「ま、それはそうか。それに、こうなったら、山尾さんの仕事がこっちに回って来るのは、もう山尾さんのせいじゃなくなる訳だしね」
 那間裕子女史は不機嫌顔ながらも頷いて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 215 [あなたのとりこ 8 創作]

「那間さんはちっとも、山尾主任の結婚を祝福していないみたいだね」
 均目さんが皮肉るような云い様をするのでありました。
「そんな事もないけど、でもとても嬉しく思っているかと云うと、それもそうでもないけどね。まあ、どうでも良いと云うのか無関心と云うのか」
「そう云えば山尾主任が片久那制作部長に、今度結婚することになったからと報告して、それに付いては一月十九日からの新婚旅行休暇をと切り出した時に、片久那制作部長は、まあ、一応は祝福の言葉をかけたんだけど、それでは休暇の取得を了承してくれますかって山尾主任が確認すると、それは仕方が無い、とか応えていたなあ」
 均目さんが思い返すような目容をしながら云うのでありました。「その、仕方が無い、と云う云い草がさ、横で聞いていた俺は少し失礼だなあと思ったんだ。人の慶事を、仕方が無い、とか云って了承するって法はないよなあってね。心根の内で実はそう思っていたとしても、もっと負担を感じさせないような配慮した云い方があるんじゃないかな」
「そう。ふうん」
 那間裕子女史のこの合いの手は、均目さんのその時の心情にあんまり同調しないようなやけにあっさりしたトーンでありましたか。山尾主任に対して普段から肩入れもしていないし、思い入れも大して持っていないからでありましょう、その冷淡さに於いては、那間裕子女史も片久那制作部長と同じ程度だと云うところでありましょうか。
「ちっとも失礼だとは思っていないようだね、那間さんは」
 均目さんが少しがっかりしたような声を出すのでありました。
「別に失礼だとか思うような事じゃないんじゃないの。片久那さんもあっけらかんと無意識にそう云う云い方をしただけで、別に悪気なんか無いんじゃないのかなあ」
「悪気は無いかもしれないけど、でも優しさも無いよなあ」
「片久さんに優しさを求めている訳、均目君は?」
 那間裕子女史は憫笑のような笑いを口角に上せるのでありました。
「そう云う訳じゃないけどさ」
「まあ、その時の均目君の心情なんてものは、要するに山尾主任への同情が主意ではなくて、片久那制作部長に対する日頃から抱いていた不満の発現だと云う事かな」
 頑治さんがしたり顔でそんな事をものすのでありました。
「ああ成程ね。それじゃあ均目君は矢張り、要するに片久那さんに対して、もっと優しくあれと願っている、と云う事にもなる訳ね」
 那間裕子女史のこのもの云いは冷やかすような口調でありました。
「優しくあれ、と云うよりは、大らかであれと云う事かな」
「大して大らかとも思えない均目君が、良く云うわ」
 那間裕子女史は鼻を鳴らすのでありました。
「いやいや、実は俺は、こう見えても根は大らかなヤツなんだよ」
「ふうん。大らかの国から大らか教を広めに来たような人?」
 この那間裕子女史の云い草は頑治さんの口真似のようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 216 [あなたのとりこ 8 創作]

 那間裕子女史は云った後で頑治さんの方に瞳を流して笑むのでありました。これで良かったかしら、と云った頑治さんへの確認の心算でありましょうか。
 この成句は実は、ずっと前に上野の鈴本演芸場で志ん朝師匠の『三枚起請』と云う落語を聴いて覚えたものでありました。その噺の中の花魁の科白に「親切の国から親切を広めに来たような人」と云うのがあって、どう云う訳だか何となく気に入って、親切、をあれこれ違う言葉に云い換えて頑治さんは時々会話の中で使うようになったのでありました。序に云えば、この場合だったら、親切を広めに、を、親切教を広めに、と変えるのは別に頑治さんが複製権に配慮したためでも何でもなく、単なる勘違いからでありましたが。
「とまれかくまれ、喜ばしかるべき結婚旅行を二週間後に控えたところで、こういう配置転換の話しを持ち出されるのは、山尾主任としては堪らないよなあ」
「それこそ、仕方が無い、とか云う科白を通り越して、ひどいよね」
 この点は那間裕子女史も山尾主任に同情的なようでありました。
「どうしてこのタイミングでそんなひどい話しを出して来たんだろう?」
 均目さんは暗に片久那制作部長を批判しているようでありました。
「山尾さんの結婚旅行の日取りと、配置転換の話しを出す今日と云うタイミングには、特にはっきりとした関連はないんじゃないの」
「でも片久那制作部長は山尾主任の結婚の日取りを知っていた筈だし」
「配置転換の話しは片久那さんより土師尾さんの提起でしょうし」
「それでも、山尾主任が結婚旅行から帰ってからでも良かったろうに」
 先程の、仕方が無い、と云う科白との兼ね合いも含めて均目さんは片久那制作部長の非情さと云うのか、せめもてもの思いやりの無さに憤っているようでありました。
「土師尾さん主導で、提案に今日が選ばれたんじゃないの」
「片久那制作部長がもう少し待てと云えば、力関係から土師尾営業部長は従う筈だぜ」
「それもそうだけど、まあ結局、片久那さんにも山尾さんに対するそれ程の敬意とか配慮とかは無かったと云う事ね、つまり」
 那間裕子女史は皮肉っぽい笑いを片頬に浮かべて云うのでありました。

 そう云えば以前、片久那制作部長は山尾主任を実際のところそんなには買ってはいないとか云う話しを、均目さんからだったか那間裕子女史からだったか、聞いた事があるのを頑治さんは思い出すのでありました。それは会社での仕事振りに於いても、それにその人間的要素に於いても、と云ったニュアンスでありましたか。
 仕事では、云われた事は最低限そつなく熟しはするけれど、気が利くタイプでは無いからそれ以上の期待は出来ないと云う点で物足りないようであります。人間的要素の点では、頑固さとか融通が利かないところとか、冗談が通じないとか洒落が判らないとか、何となく須らく考えに甘さが見える辺りとか進取の気概に欠けるとか、まあ、色々とあるのでありましょうが、要は、片久那制作部長と山尾主任とは馬が合わない同士と云う点に尽きるのでありましょうか。そう云って仕舞えば身も蓋も無いでありましょうけれど。
(続)
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あなたのとりこ 217 [あなたのとりこ 8 創作]

 しかし片久那制作部長の方も、何時も陰鬱な顔をしていて気難し屋で、こちらもかなりの頑固者で、頭の回転が早いから云う事為す事万事が目から鼻に抜けるような人で、そうであるから他人の言動がまどろっこしくて、屡人を置いてきぼりにして自分だけが随分前に突出して仕舞って、それを意にも留めない一種の情義の薄い一面も見られるのでありました。それからこれは美点でもあるのでありましょうが自分に厳しい分人にも厳しくて、それが陰性に発露するから大体に於いて人を軽蔑する傾向が強いようでもありますか。
「ところで居酒屋で、片久那制作部長と山尾さんはどんな話しをしているんだろう」
 均目さんが顎に手を当てて考えを回らすような素振りをするのでありました。
「屹度しめやかな雰囲気で、口数少なくお酒を飲んでいるんでしょうけど、要するに制作部から営業部への配置転換を受け入れるように、あれこれ言葉を並べて片久那さんが山尾さんを説得しているんでしょうね。まあ、説得と云うより一種の強要でしょうけど」
「山尾主任はその説得だか強要だかを受け入れるでしょうかね?」
 頑治さんが猪口をグイと空けてから聞くのでありました。
「結局、渋々でも受け入れるしかないんじゃないかしら。会社に残る心算なら」
「結婚間近なんだから、この今は会社を辞めるタイミングではないだろうなあ」
 均目さんが未だ顎を撫で続けながら云うのでありました。「それから山尾主任一人に限らず、日比課長にしても袁満さんにしても、それから出雲君にしても、営業部はこれから先、仕事内容が今迄とは激変すると云う事になりそうだよなあ」
「そうね。営業部再編と云った感じよねえ」
 那間裕子女史がやや深刻そうな面持ちで頷くのでありました。
「制作の方だって山尾さんが抜ける分、那間さんも俺もその分仕事量は増える」
「そうね。でも片久那さんの話しに依ると、あたしはこれ迄やってきた仕事と同じ内容の仕事が増えるだけみたいだけど、均目君は色々煩わしそうな仕事が増えそうね」
「ああ、管理関係の仕事ね」
 均目さんはげんなりと云った口調で応えるのでありました。「でも、山尾主任のこれ迄やっていた管理方面の仕事だったら、まあ、俺でも熟せるだろうと思うよ」
「でも営業から依頼された制作費の見積もりとか、営業との連携での制作管理もあるとか云っていたでしょう、さっきの話しで片久那さんは」
「そうね。まあ、山尾主任の今までのそっち方面の仕事は、片久那制作部長がすっかり事の全体を掌握していて、その指示の下であれこれ補助的に動くと云った風だったけど、何かさっきの話しでは、片久那制作部長経由ではなく俺がもっと主体的に動くようにと云ったニュアンスだったかなあ。そうなると、ちょっと面倒にはなるかな」
「山尾さんの仕事振りでは全然物足りなかったのよ。だから片久那さんとしてはすっかり安心して全部を任せられなかったのね。均目君にはもっと頼りになる仕事ぶりを期待していると云う事よ。だからまあ、精々頑張ってね、均目君」
 那間裕子女史は冗談めかしてそう突き放して、如何にも無責任そうな笑いを頬に浮かべて均目さんを励ますような、或いは委縮させるような事を宣うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 218 [あなたのとりこ 8 創作]

「と云う事は、那間さんと均目さんは労働量強化になるけど、片久那制作部長は労働量軽減と云う事になるんですかね、その目論見に依れば」
 頑治さんは均目さんの真似ではないけれど、顎を手指で撫でるのでありました。
「まあ、そんな風にも云えるかもね」
 那間裕子女史が成程と云った面持ちをして頷くのでありました。「でも確かに、これ迄は片久那さんに他の社員全員がすっかり頼り切りでいたのは事実ね。片久那さんとしてはもういい加減夫々自律的に仕事してくれと云ったところかもね」
「社員が皆、仕事に於いて独り立ちしろと云う事ね」
 均目さんが反省点として、大いに覚えがあるような面持ちで呟くのでありました。
「独り立ちって云う自立もそうだけど、何でも片久那さんを当てにしないで、夫々自分の判断、自分の思慮の上で主体的に仕事をしてくれと云う事」
「皆さんは今迄、そんな風に仕事をしてこなかったと云う反省があるのですかね?」
 頑治さんが別に批判的な物腰と云う訳ではなくて、全く素朴な疑問、と云った声色で、話し掛ける相手としては那間裕子女史とも均目さんともつかないような目線で訊くのでありました。まあ、敬語を使っているのでありますから、どちらかと云うと那間裕子女史の方を対象として質問していると云った色が濃い事になるのでありましょうが。
「慎に面目無い」
 那間裕子女史ではなく、先に均目さんが、冗談口調を演じてはいるけれど、半分くらいは本心と云った様子で頭を掻いて頑治さんにお辞儀して見せるのでありました。
「確かに、片久那さんにかなりな部分寄りかかった仕事振りではあったかな」
 先んじて均目さんが曲がりなりにも正直な告白を口に上せたせいか、那間裕子女史も何時も条件反射的にする、自分への批判に対して挑みかかるような対抗心をここでは表に出さないで、少々しめやかな表情で頷くのでありました。
「まあ、那間さんも均目さんも、片久那制作部長に比べれば実務経験が未だありませんからね。それは仕方が無いかもしれませんよ」
 頑治さんが優しい言葉を掛けるのでありました。
「と云っても、均目君は未だ入社して二年とちょっとだけど、あたしはもう四年も経つんだものね。経験不足とか云う話しじゃないかもしれないわ。片久那さんにしたって、会社に激変があって、制作部を任されたのは入社して二年半くらいの頃らしいから」
「片久那制作部長が何事に於いても人に任せるより、自分の手で総てやった方が早いと云うスタイルの人のようだし、他の社員がなかなか仕事に習熟出来ないのは、その辺も影響しているんじゃないですかね、まあ、良くは判りませんけど」
 頑治さんはあくまで那間裕子女史と均目さんに寛容な発言をするのでありました。
「それは、反省も込めて云うけど、云い訳にはならないと思うわ」
  那間裕子女史はどうした按配かあくまでもしおらしいのでありました。
「確かに数か月で業務仕事の効率化や、倉庫の整理整頓や美化を劇的に成し遂げた唐目君に比べれば、恥じ入るばかりだね、俺としても」
(続)
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あなたのとりこ 219 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんが冗談抜きの真顔で頑治さんを持ち上げるのでありました。「まあ、前任者がちゃらんぽらんで相当にひどかったからと云う理由もあるけど」
 そうですね、と云うのも何となく不謹慎のようで憚られて、頑治さんは曖昧な笑いを浮かべて均目さんの言には頷かないのでありました。
「まあしかし、今度の配置転換とか業態の変更は、春闘時に予定している労働組合結成の件との兼ね合いで、どう云う風な経緯を辿るんだろうかねえ」
 頑治さんが思いを回らすような顔で云うのでありました。すると那間裕子女史も均目さんも同様の表情で沈黙して、静かな飲酒の時間が暫し流れるのでありました。
 宴も終わり間際になって那間裕子女史が酔い潰れて寝て仕舞うのは件の如し、でありましたか。これも例に依って均目さんが横から女子の体を支えて住処まで送り届けるのでありましたが、二人が寄り添って神保町駅の階段を改札に向かって降りて行く後ろ姿を見届けてから、頑治さんは歩いて自分のアパートへの帰路を辿るのでありました。

   混乱と不信と大儀

 色々とごたごたした初出社の日より遡る事一日、一月四日には正月休みで帰省していた夕美さんが郷里から東京に戻って来るのでありました。頑治さんは約束通り午後三時少し前に東京駅の東海道新幹線ホームに出迎えに赴くのでありました。予め夕美さんの乗った列車の指定席番号を聞いていたから、頑治さんはちょうどその車両が停止する目印辺りで二十分くらい、無表情にぽつねんと立って待っているのでありました。
 列車が到着してドアが開き、何人目かに夕美さんがパンパンに膨らんだデイパックを背負って、右手には大振りの旅行カバン、それに左手には大判の紙袋を引っ提げて、その紙袋が重くて持ちにくいのか頻繁に待ち直しながらホームに下り立つのでありました。荷物の多さもさりながら、そのせいで夕美さんが何となくあたふたしているような風情に、頑治さんはいじらしさ六分と微笑ましさ四分を覚えるのでありました。
「よう、お帰り」
 頑治さんは目が合ってすぐに破顔して声を掛けるのでありました。
「頑ちゃん、ただいま。と云う前に、先ずは明けましてお目出とう」
「ああ、お目出とう」
 頑治さんはそう返して畏まって小さく礼をするのでありました。その様子を見て夕美さんは笑って、こちらも律義らしく頭を下げるのでありました。
 頑治さんは夕美さんの両手の荷物を預かるのでありました。
「有難う。ああ重かった」
 夕美さんはこれでようやく荷物から解放された、と云った風に両手首を振って手指の血行を促す動作をするのでありました。とは云っても、高々座席から出口までの距離ではありますから、この夕美さんの所作は些か大仰とも云えるのでありましたが、まあしかし頑治さんが手に持ってみると二つの荷はなかなかに重くはあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 220 [あなたのとりこ 8 創作]

「何が入っているんだい?」
 頑治さんは旅行カバンの方を差し上げてそれに目を凝らすのでありました。そうしたからと云って別に中が見える訳ではないのでありますが。
「カバンの方はあたしの衣類とか色々。紙袋の方にはこっちで配るお土産とか、向こうで預かって来た親戚に届ける物とかが入っているの。駅に見送りに来て、その場で誰彼に渡してくれって急に頼まれるから正直困るのよね」
「紙袋の重さからすると、大勢に盛大に見送られてきたってところかな」
「何だか知らないけど、誰かが東京に行くとか、まあ、列車で旅行に出るとか聞くと、ウチの両親は元より、親戚の伯母さんとか従妹なんかがが見送りに来るのよ。結構頻繁に行き来しているんだから、今時そんなのあんまり意味が無いと思うんだけどね」
「まあ、田舎の昔からの風習と云うものだろうなあ。旗とか幟振って、餞別を一杯出して集まった皆で万歳三唱して、盛大に送り出すのが礼儀作法だと云う風に思っているところが未だあるはあるな。田舎の人間の素朴さと云えばそうとも云えるんだろうけど」
 頑治さんは車窓の夕美さんがホームに居並ぶ大勢の参集者から見送られて、戸惑いながらお辞儀している風景を想像して、何となく可笑しくなって笑むのでありました。
「届け物係として丁度良いからよ。そんなの郵便局から小包とかで送ればいいのに、送料をケチる魂胆よ。あたしは走り使いじゃないって云うの」
 こうやって憤慨して見せるところを見ると夕美さんは駅で急に手渡された荷物の多さ、或いは重さにげんなりだったのでありましょう。まあ、荷を託す方も託される方の負担にはうっかり気が回らないところはあるにしろ、特段の悪気があっての事ではないでありますか。しかしだからこそ、余計に始末に困るとも云えるでありましょうけれど。
「ああそうそう、頑ちゃんのカルメ焼きもその中に入っているわよ」
 夕美さんは旅行カバンの方を指差して見せるのでありました。
「ああそう。それは有難う」
 頑治さんは嬉しそうな笑みを夕美さんに向けるのでありました。
「こうして頑ちゃんの笑い顔を見ると、郷里に帰っている時よりもホッとするわね」
 夕美さんも笑い掛けるのでありました。そう云う事を云う辺りを見ると、ひょっとしたら夕美さんは修士課程を終えた後、郷里に帰って博物館か高校に職を求める事を止して、東京に残って博士課程に進む道を選ぶ決心をしたのではないだろうかと頑治さんは期待を込めて竟、お先走りの読み等をして仕舞うのでありました。
 この後二人は何処にも寄り道しないで、中央線と小田急線を乗り継いで夕美さんのアパートに向かうのでありました。確かに荷物係が居なかったら夕美さん一人で、デイパックと旅行カバンと紙袋を持ってこの路程を移動するのはしんどかったろうと頑治さんは想像するのでありました。まあ、それならそれで夕美さんは何とかしたでありましょうが。
 頑治さんが夕美さんのアパートを訪れるのは稀なのでありました。夕美さんの親戚の家に近いので、頑治さんが出入りしている姿を見られるのは何となくマズいと云う理由であります。頑治さんにも一人暮らしの女性の部屋を訪う事への気兼ねもありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 221 [あなたのとりこ 8 創作]

 まあ、何を今更そんな遠慮は無意味と云えば無意味でありましょうけれど、しかし頑治さんには自分なりの規矩があるのでありました。紳士たる者、関係に狎れてどんどんと相手への配慮を喪失していくのは厳に慎むべき態度であると。
 何処でどのような経緯でこのような倫紀を創り上げたのか自分でも良くは判らないのでありましたが、頑治さんには昔から一方に妙に堅物の横顔があるのでありました。それを一種の可愛気と取る向きもあれば、つまらない気取りと観る向きもあり、エエ恰好しいのポーズと勘繰る向きもあるのでありましたが、まあ、受け取られ方には頑治さんの関知の他であります。嫌でも応でもそう思って仕舞うのだから、仕方が無いのであります。
 夕美さんのアパートに着いてから頑治さんはお土産のカルメ焼きと、これは特に頼んではいなかったのでありましたが、故郷のデパートの初売りで見付けて竟買って仕舞ったと云う夕美さん見立ての空色と薄草色のセーター二着を貰うのでありました。
「へえ。夕美が選んでくれたんだ」
「そう。頑ちゃんトレーナーとかは持っているけどセーターは持っていないでしょう」
「そう云えばそうだな」
 頑治さんは嬉しそうに手渡された二着のセーターを交互に眺めるのでありました。
「冬は上着の下にセーターを着ていると温かいのよ」
「ふうん。いやしかし、どうも有難う。何となく申し訳無いような気がするけど」
「ううん、気にしないで。あたしが勝手に買って来たんだから」
 成程、カルメ焼きの他にこのセーター二着が旅行カバンを余計に膨らませていた一因であったようで、そう考えると道中の持ち辛さがここで一気に霧消するのでありました。
 アパートで夕美さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら暫く談笑して、頃合いを見て二人で外に出て駅前のレストランで夕食を共にして、その後その儘頑治さんは電車で本郷の自分のアパートに帰るのでありました。ここまでで、夕美さんの今後の進路についての話しは特に何も出ないのでありました。週末に夕美さんが頑治さんのアパートに来ると云う事なので、その折にそちら方面の話が何かあるのかも知れません。
 今日話が出なかったと云う事は、すぐには報告し辛い夕美さんの決定がなされたからかも知れないと頑治さんは電車のつり革につかまって、車窓に映る自分の姿をぼんやり眺めながら思うのでありました。と云う事はひょっとしたら矢張り、夕美さんは修士課程修了後に郷里に帰って、博物館か高校に就職する事を決めたのでありましょうか。
 夕美さんの「頑ちゃんの笑い顔を見ると故郷に帰っている時よりもホッとする」と云った先の言葉を、それを聞いた当座は、東京に残る事の遠回しの表意かと喜んだのでありましたが、ここ迄に何も話されないと云う事実の方が、自分に好都合な浮付いた解釈なんかよりも強力で厳粛な気がするのでありました。頑治さんは手に下げた、お土産のセーターとカルメ焼きを入れた紙袋が急に重くなったような気がするのでありました。

 混乱と不信と大儀を一方に、山尾主任はグアム島に結婚旅行へと出発するのでありました。人生の一大事なのに、只管楽しい旅となりはしないような具合でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 222 [あなたのとりこ 8 創作]

 山尾主任は旅行から帰ったら那間裕子女史と均目さんへのこれまでの仕事の引き渡し、新しい営業部仕事の日比課長からの引継ぎ、それに労働組合結成のための準備と大忙しになるでありましょう。先行きの不安で一杯と云った有り様でありましょうから、とても新婚気分を謳歌、とはいかないのは気の毒であると頑治さんは同情するのでありました。全く間の悪い巡り合わせでありますが、何とか切り抜けて貰いたいものであります。
「山尾主任は営業に移るけど、待遇面では今迄と変わらないらしいよ」
 頑治さんは均目さんからそんな事を訊くのでありました。「主任手当の四千円はその儘貰えるらしいし、新たに家族手当が、配偶者だから八千円付くと云う話しだ」
「条件としてそのくらいはして貰わないとね。これで主任手当てもカットとなると、踏んだり蹴ったりと云った按配だろうしなあ」
 頑治さんは山尾主任の気持ちを慮るのでありました。
「まあ、主任手当はその儘で減額されないけど、役職としては主任と云う訳ではなく平の社員になるようだぜ。名目の上では、まあ、降格だな」
「給与の減額が無いと云う事が、営業に移るのを承諾する条件だったのかな」
「居酒屋で片久那制作部長から縷々説得されて、その条件は保証して貰ったらしい」
「山尾主任が居なくなると制作部もこれから大変かな」
 頑治さんが訊くと均目さんはすぐに頷かないで考える風を見せるのでありました。
「人が減れば残った人間の仕事量は増えるのは当たり前だけどね」
 この均目さんの応え方は然程の気持ちの負担は無いような云い草であります。「でも俺に関して云えば、製作工程の管理の仕事を山尾主任に代わってやる事になる訳だけど、今迄山尾主任がやっていたような仕事なら俺にでも、明日からでも充分熟せそうな気がするけどね。そんなに複雑多岐に亘る面倒臭い仕事でもなさそうだったからね」
「でも、山尾主任がやっていた今迄のような仕事振りより、もっと能動的で自主的な、片久那制作部長の指示を待っていたり、色んな面でその手を煩わせなくとも済むような、自律的な仕事振りを期待されているんだろう?」
「はっきりそう釘を刺された事は無いけど、まあ、そう云う期待もあるんだろうな」
「あれこれ大変だろうけど、ま、頑張ってくれよ」
 頑治さんはこの言葉が、均目さんを適当にあしらうような調子に聞こえないように少し気を遣った語調で云うのでありました。
「唐目君も多分これから製作関連の仕事を多く云い付かる事になるぜ」
「そう云えば片久那制作部長にそんな事を云われたなあ」
「片久那制作部長は唐目君を大いに買っているみたいだぜ。何を頼んでもそつ無く熟すし丁寧だし手際も良いし、面倒で複雑な仕事でもきっちり期待通り、いや、期待以上の結果を出すし。片久那制作部長は将来、唐目君に制作部に来て貰う心算でいるんじゃないのかな。俺や那間さんなんかより余程有能で育て甲斐があると見ているような気配だ」
 そう云われて頑治さんは、自分が片久那制作部長に認められていると云う辺りはそんなに悪い気はしないのでありましたが、一方に多少のげんなり感も持つのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 223 [あなたのとりこ 8 創作]

 頑治さんは元々、給料とか待遇は特に高望みはしないけれど、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云う希望を以て就職先を探したのでありました。その希望と現状は何やらかなりズレてきていると云うのに、この先これ迄以上に七面倒臭い仕事を仰せつかるのは、これはもう、初志に反すると云うものであります。
「しかし俺としては業務仕事の方が性に合っているんだけどなあ」
「でも、制作部に移る方が給料が上るぜ」
 確かに制作部の三人は基本給自体が営業や業務や経理よりも多いのでありました。
「それはまあ、そんなに重大事には考えていないから」
「何と云うか、欲が無いなあ、唐目君は」
 均目さんは呆れ顔をするのでありました。「まあそう云う風に何事にもガツガツしていないで、あっさりしている辺りが唐目君らしいと云えばらしいかな」
 この均目さんの言葉は、一種の褒め言葉として受け取って良いものか、それとも哀れみの籠められた言葉なのかは頑治さんには良く判らないのでありました。

 頑治さんは時々、那間裕子女史と均目さんと三人で昼食を共にする事があるのでありましたが、その日は丁度均目さんが午前中からすっと外に出ていたので、那間裕子女史に誘われる儘会社近くの日貿ビルの地下に在る中華料理屋に二人で入るのでありました。ここは本場四川料理の名店を謳う少々お高い店でありましたが、那間裕子女史が驕ってくれると云うので頑治さんはその尻に付いてノコノコ階段を降りるのでありました。
 昼食時には日替わりで五点の料理が揃えてあり、それに飯と中華スープでランチと云う形式でありました。二人は蟹玉と海老チリソースそれに麻婆豆腐の三点を注文するのでありましたが、他にその日は青椒肉絲と鳥の唐揚げと云うラインアップで、本場四川料理と謳う割に麻婆豆腐以外はそれに合致しないように頑治さんは思うのでありました。ま、ランチのメニューは別で、よくある一般的に知られた中華料理と云う事でありましょう。
「山尾主任は今頃、グアムでの結婚旅行を楽しんでいるでしょうかね」
 頑治さんがそんな事を訊くと那間裕子女史は一つ鼻を鳴らすのでありましたが、それは山尾主任の挙行したグアムへの結婚旅行を侮蔑する心算で発せられたのではなく、うん、と云う返事をしようとして些か余計に鼻腔に掛かったために、まるで鼻を鳴らしたように聞こえたもののようでありました。女史自身が全く意図もしなかったそのような自分の返事の仕様に自分で少したじろいだようで、繕うような笑い顔をするのでありました。
「帰って来た後の自分の処遇や新しい仕事に対する不安で、とても楽しめるような気分じゃないでしょうね。酷いタイミングでそれを発表したものよ、全く片久那さんは」
「まあ山尾主任を営業にコンバートしたのは土師尾営業部長の考えでしょうけど」
「そうでもないんじゃない」
 那間裕子女史はここで正真正銘に鼻を鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 224 [あなたのとりこ 8 創作]

「土師尾営業部長の発案ではないんですか?」
 頑治さんは箸の動きを止めて那間裕子女史の顔を見るのでありました。
「土師尾さんと山尾さんはお互い相手を心根の内では小馬鹿にしていて、息も合わないし馬も合わない同士なのに、それを敢えて自分の部署にコンバートなんかすると思う」
「息も馬も合わないけれど仕事の上で有効であればするかもしれないじゃないですか」
「土師尾さんにそんな器量とかクールさとか、したたかさとか、あると思う?」
 そう訊かれれば、まあ、殆ど無いと応えるしかないでありましょうが。
「と云う事は、片久那制作部長から発した案であると云う事ですかね」
「その可能性も大いにあるんじゃないかしらね」
 那間裕子女史は蟹玉入りの口をモグモグさせながら頷くのでありました。「山尾さんは片久那さんとも馬が合わなかったし、片久那さんも山尾さんをそんなに買ってもいなかったし、自分の部下として内心持て余していたようだから、この際自分の元からから手放そうとしたと云う風に考えられなくも無いわね。ま、実際のところは良く判らないけど」
「若しかしてそうであるとしても、情義と云う点ではちょっと無神経ですよね、このタイミングで山尾主任に移動を申し渡すと云うのは」
「ま、上司として愛情を感じていなかったのね、つまり。それを云うならあたしも均目君も片久那さんに、部下としてそんなに大事にされているとも思えないけど」
「そうですかねえ」
 この頑治さんの言は、いやそんな事も無いでしょうけれど、と云うやんわりとした那間裕子女史への気遣いを滲ませた表現と云うよりは、本当にそうなのかどうか頑治さんには全く判らないと表明しようとする言葉付きでありましたか。
「片久那さんは何もかにも自分一人でグイグイやるタイプの人だから、部下が居ると返って間怠っこいし煩わしいのかもしれないわ。大体に於いて他人を全く信用していない人なんだし、そっちに気を遣うエネルギーが勿体無いものね」
「でも、間怠っこいと考えているとしても、そう考えるだけ未だ少しは部下に対して気を遣っているという事でしょう。誰かさんとは違って」
「その誰かさんと比較するのは片久那さんが可哀想よ」
 那間裕子女史はそう云って箸を持つ手を口元に添えて笑うのでありました。この手の雑談が落ち着く先は結局何時も、土師尾営業部長に対する不信と軽蔑と云った辺りでありますか。自業自得であるとは云うものの、実に損な役回りの人であります。
「片久那さんが期待しているのは、山尾さんでもあたしや均目君でもなくて唐目君よ」
 那間裕子女史は蓮華で中華スープを掬いながら云うのでありました。
「俺ですか? でも俺は制作部の人間じゃないし」
「それでも矢張り唐目君よ。接し方で判るわ」
 そう云う風な事を均目さんからも聞くのでありましたが、頑治さんは均目さんの時と同様、ここでもまたげんなりするのでありました。もし本当にそうであるなら、片久那制作部長は一体どのような了見でいるのでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 225 [あなたのとりこ 8 創作]

「ところで唐目君、大学院に通っている彼女とお付き合いしているんだって?」
 那間裕子女史が突然話題を変えるのでありました。頑治さんは直前に口に入れた海老のチリソースを拭き出しそうになるのでありましたが、それはかろうじて堪えて上目で那間裕子女史の顔を窺うのでありました。那間裕子女史は頑治さんが見せた少しのたじろぎを面白がるように、悪戯っぽい目付きをして見せるのでありました。
「それは、均目君から聞いたのですか?」
 均目さんには何かの折に、自分には付き合っている彼女が居て、それは大学時代の同級生だと云う辺り程度は話しているのでありました。他にそんな事を打ち明け話しした人は会社の中には居ないのでありますから、均目さんから那間裕子女史に齎された情報と云う以外には考えられないのでありました。ま、別に均目さんに口止めした訳ではなかったのではありましたが、那間裕子女史からその事を云われて驚いたのであります。
「その子は大学院で考古学をやっているんだってね。女子としては少し変わり種かな」
 頑治さんの質問には応えないで那間裕子女史は話しを先に進めるのでありました。
「まあ、そのようにも云えるしそのようでないとも云えるし」
 頑治さんは曖昧に受け応えて海老をもう一尾口に放り込むのでありました。
「お付き合いして、もう長いの?」
「いや、四年生の時からですので、そうでもないですね」
「切っ掛けは唐目君が声を掛けたの?」
「いや、向こうから声を掛けてきたんです」
「ずっと前から目を付けられていたのかしら」
「いや、偶然再会してそれで、・・・」
「再会?」
 那間裕子女史は小首を傾げるのでありました。「前に見知っていた子?」
「故郷の中学校時代の同級生です」
「へえ、中学校時代の同級生と偶然東京で再会したの」
「ええまあ、そう云う事になります」
 何やらこれ以上那間裕子女史の質問ペースに乗せられると、根掘り葉掘りあれこれと話しをさせられそうで頑治さんは少しげんなりと云った心持ちになるのでありました。
「同じ大学の学生でしょう?」
「・・・・・・」
 頑治さんは小さな頷きだけを返すのでありました。
「再会するまでお互いに同じ大学に通っている事を知らなかったの?」
「・・・・・・」
 頑治さんは一回目よりも振幅を小さくして億劫そうに頷くのでありました。
「高校は違う高校だったの?」
 頑治さんはもう頷かないで、那間裕子女史の質問が聞こえなかったような素振りで、皿に最後に残った一尾の海老に箸を出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 226 [あなたのとりこ 8 創作]

「何、これ以上あたしには話したくないって素振りね」
 那間裕子女史は頑治さんの反応にいちゃもんを付けるのでありました。「ま、いいや。あんまり話したくないなら、それはそれで」
 那間裕子女史はテーブルの上のあら方空いた皿を見渡して箸を置くのでありました。

 頑治さんが倉庫で梱包作業をしていると出雲さんが上の事務所から下りて来るのでありました。出雲さんは当初の予定では二月迄出張は無いのでありましたが、二月から近郊の特注営業の仕事に回る事になったために、これ迄担当していた東北や北海道と云ったエリアの出張先に、もう車で出向く事はないけれど電話注文と云う形でこれ迄通りのお付き合いをよろしくと、挨拶の電話にここのところ掛かり切りなのでありました。
 その電話がなかなか骨の折れる仕事のようで、ちょっと息抜きと云う心算で倉庫に下りて来たようでありました。出雲さんは作業台の傍らで頑治さんの仕事の邪魔にならないように遠慮がちな様子で佇んで、会社のすぐ傍の自動販売機で買って来た缶コーヒーを飲んでいるのでありました。その口から時々溜息が漏れるのでありました。
「どうです、なかなかあの日以来目まぐるしい様子ですけど?」
 頑治さんがそう声を掛けると出雲さんはニンマリと愛想笑って見せて、もう一口コーヒーを喉に流し込んでからまた溜息を吐くのでありました。
「北海道のお土産屋とか東北の山奥の温泉宿なんかは冬場には閉店していたりするところが多くて、なかなか連絡が付かないからちっとも捗りませんよ」
「ああ、そういう処は冬場は観光シーズンではないでしょうからね」
 そう云う訳でこれ迄は、二月一杯出雲さんは出張を免れていたのでありました。
「未だ、日比課長と新しい仕事で外を回ってはいないんですか?」
「日比さんも仕事が代わるんで、今迄の得意先とかへの挨拶なんかであれこれと忙しそうですからね。それに山尾主任が旅行から帰って来れば、引き継ぎで一緒に得意先回りもしなければならないでしょうから、新しい方の仕事は未だ目途も立っていませんよ」
 出雲さんはここ迄云ってまた溜息を吐くのでありました。
「でも一方では、あんなに億劫がっていた東北や北海道への長い日数の出張から解放されるんだから、そちらに関しては、これからは少し気が楽なんじゃないですか?」
「まあ、それはそうですけどね」
 出雲さんはこれ迄は出張に出る二日前辺りから、目立って気が重くなって口数が減り、自分からは冗談も云わなくなり、こちらの冗談に対しても全くノリが悪くなるのでありました。長く東京を離れて仕舞う出張の仕事は大いに苦痛のようでありました。
「東京近郊とか遠くても北関東辺りなら、若し出張で行く事があるとしても精々二泊で済むんでしょうね。そっちに関しては今迄よりは楽になるんじゃないですかね」
「ま、どうなるか未だ何も判りませんけどね。多分出張の日当とか宿泊代をケチるだろうから、泊りの仕事は無いけれど、早出と遅帰りばかりの毎日になるかも知れないし、実はそっちの仕事に対するイメージが、未だ何も掴めませんからね」
(続)
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あなたのとりこ 227 [あなたのとりこ 8 創作]

 出雲さんの不機嫌と溜息は、未だ当分解消しそうにない模様でありますか。
 そんな出雲さんとの話しの途中で袁満さんが倉庫に顔を見せるのでありました。
「出雲君、日比さんが営業から帰って来たから、上の事務所に上がれってよ。土師尾営業部長と日比さんと三人で、新しい仕事に関してこれから打ち合わせだそうだ」
 袁満さんにそう声を掛けられた出雲さんはまた溜息を吐くのでありました。察するところ打ち合わせと云われても、何を打ち合わせすれば良いのかさっぱり判らないと云ったところでありましょうか。それに日比課長と二人での打ち合わせならまだしも、そこに土師尾営業部長が加わるとなると余計げんなりと云った心持ちなのでありましょう。
 出雲さんが陰鬱気な表情で事務所の方に向かっても、袁満さんの方は倉庫に残るのでありました。こちらも出張営業の遣り方が変更になるから屹度忙しい筈でありますが。
「袁満さんは上に戻らなくて良いんですか?」
 頑治さんは先程の出雲さんと同じように作業台の傍らで、別に何するともなく佇んでいる袁満さんに声を掛けるのであました。
「ちょっと息抜きだよ」
 袁満さんも出雲さんと同じ科白を吐くのでありました。「今日は珍しく土師尾営業部長が外に出ないで事務所の中に居座っているから、上は空気が悪く息も出来ない」
 まるで光化学スモッグみたいな扱いであります。
「仕事内容が代わったら、袁満さんは出張日数が減るんですか?」
 頑治さんは梱包作業を続けながら愛想にそんな事を訊くのでありました。
「どうかな。ま、電話中心の注文取りと云う事になるけど、ひょっとしたら出雲君が回っていた地域にも出張回りする場合もあるかも知れないから、下手をすると出張が増えるかも知れない。未だ今のところはどうなるか良く判らないけど」
「これ以上出張が増えると、殆ど一年中会社に出てこられないんじゃないですか?」
「そうね、代休も取れなくなるかもね」
 袁満さんはここで溜息を吐くのでありました。どうやら営業部はここのところ溜息の大棚浚えと云った按配のようであります。
「でも出張経費の抑制と云う点で、日数は減る方向なんじゃないですか?」
「そうね。土師尾営業部長は口を開けばそればっかり云っているよ。経費削減を第一番目に考えろとか、無駄な出張はこれから先は許さないとか何か厳めしい顔して凄んでいる。今迄だってこっちは別に無駄に出張していた訳じゃないんだけどね」
 恐らく土師尾営業部長の事だから、まるで袁満さんや出雲さんが経費の事なんか考えないで、のんびり旅行気分で気楽に出張を楽しんでいたのであろうと、手前勝手な誤解をでもしているのでありましょう。出雲さんの出張前の気鬱を慮れば、年間百日を軽く超える出張スケジュールが気楽な訳がない事は充分に判りそうな筈であるのに。
 袁満さんとて、これ迄も出来れば出張日数を減らしたかったでありましょう。そう云えば前に冗談紛れではあるけれど、自分が結婚出来ないのは出張仕事が影響していると、まあ、実際はそれだけではないにしろ、袁満さんは零していた事がありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 228 [あなたのとりこ 8 創作]

 突然内線電話のブザー音が鳴るのでありました。袁満さんがそのブザー音に大袈裟に驚いてビクンと体を震わせるのは、先程頑治さんに漏らした、ちょっと息抜きに倉庫に下りて来たと云う言葉を、どう云う具合か、若しかして内線電話の受話器が外れているかして、上の事務所の土師尾営業部長に漏れ聞こえて仕舞ったのかも知れないと考えてたじろいだ故でありますか。まさかそんな事は無いでありましょうが、秘かに心疚しい事柄があると、夜風に靡く洗濯物も幽霊の姿に見えて仕舞うとか云うヤツでありましょうかな。
 頑治さんが丁度梱包の結束バンドを締めているところだったので、袁満さんが代わりに受話器に恐る恐る手を伸ばすのでありました。袁満さんは警戒するような声でもしもしと云ってから、やや緊張の面持ちで受話器を耳に当てて向こうの話しを聞いていたのでありますが、すぐに反応良くはいと小気味良い返答を返した辺り、懸念には及ばなかったのでありましょう。袁満さんは受話器を戻してから頑治さんの方を見るのでありました。
「唐目君、片久那制作部長が仕事を頼みたいから上がって来いってよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは結束が終わった荷物を脇に退けて次の荷物の梱包に掛かろうとするのでありましたが、その段ボールの荷を袁満さんが受け取ろうとするのでありました。
「梱包は、後は俺が引き受けるよ」
 袁満さんは結束バンド締めの工具も頑治さんから受け取るのでありました。
「袁満さんは、上の仕事は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。上の息苦しい陰鬱な空気の中に居るより、こっちで一人で呑気な梱包仕事をしていた方が余程気楽だしね。願ったり叶ったりと云うところだよ」
 頑治さんとしては、これでも一人呑気に梱包仕事している訳ではないのでありますが、まあこれは、そんな悪気があっての袁満さんの言辞ではないでありましょう。袁満さんはその辺にはあんまり気の回らない、鈍感と云うよりは大らかな人でありますから。
 頑治さんは発送指示書を示して発送物と荷作り個数と梱包上の注意点を口頭で袁満さんに引き継いで、予め書いていた運送会社への発送伝票を発送指示書と一緒に手渡してから、後事を丁重に託して三階の事務所に上がるのでありました。

 片久那制作部長が、何かの冊子の表紙であろう色指定原稿のコピーを頑治さんの前に差し出しながら云うのでありました。
「上野製版所に行って校正刷りを確認して来てくれるか」
 態々こちらから出向くと云うのは、単に校正刷りを貰って来ると云うだけのお遣い仕事と云う訳ではなさそうであります。
「その場で間違いが無いか自分がチェックするんですね」
「そうだ。指定原稿の本稿は向こうにあるから。で、間違いが無いようならそれをその儘綺麗堂印刷所に出来上がっているフイルムと一緒に持って行ってくれるか」
「自分が校了の最終判断をすると云う訳ですか?」
「そうだな。頼むよ」
(続)
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あなたのとりこ 229 [あなたのとりこ 8 創作]

「その役目は制作部の人間じゃない自分で良いのですか?」
「那間君も均目君も今、急ぎの仕事に掛かっているものだから唐目君に行って貰う事にしたんだよ。車でさっと行って用を済ませた方が早いし」
 つまり頑治さんが制作に関わる仕事を熟す上に於いても、片久那制作部長に大いに信頼されていると云う事になるでありますか。それに那間裕子女史も均目さんも運転免許を持っていないから、行くとしても電車と徒歩と云う事になって非効率でありますし。
「あたしなんかより色の目利きは唐目君の方が確かみたいだしね」
 那間裕子女史が多分にお世辞交じりではありましょうが、自席から振り返って頑治さんを持ち上げるのでありました。均目さんも振り向いて笑って頷くのでありました。
「上野製版所と綺麗堂印刷所は行った事があるよな?」
 片久那制作部長が頑治さんを見上げながら確認するのでありました。
「はい。上野製版所が新宿区の榎町の大日本印刷の近くで、綺麗堂印刷所が池袋の宇留斉製本所のもう少し先の方でしたよね」
 頑治さんはしかつめ顔で頷くのでありました。「ええと、綺麗堂印刷所にフイルムを持ち込むのは何時迄に、とかありますかね?」
「いや、今日の内に持って行って貰えば良い」
「渡すのは営業の基目小摩香さんで良いのですか?」
 基目小摩香と云うのは、綺麗堂印刷所で贈答社の仕事を担当する女性営業社員の名前であります。山尾主任よりも年上のようでありますが、グラマーでスタイル抜群でなかなかの美人でありましたから、頑治さんはすぐに顔を覚えたのでありました。
「そうね。居たら基目君に渡してくれ。居なかったら営業課長の荒井さんに」
「判りました。では行ってきます」
 頑治さんはそう云って均目さんの傍に行くと、カラーチャートと高倍率の拡大鏡を貸して貰って下の駐車場に向かうのでありました。カラーチャートと拡大鏡はフイルムに仕上げられた四色掛け合わせの配合が指定通りかどう確認するためでありますが、頑治さんはもう色の網点が何パーセントの網点であるか読めるようになっているのでありました。
 頑治さんは事務所を出際に応接ソファーの処で頭を寄せ合って、何やら会議らしきをしている土師尾営業部長と日比課長と出雲さんの方をちらと窺い見るのでありましたが、日比課長と出雲さんは陰鬱気な風情で身動きもしないで、土師尾営業部長が何やら独壇場に喋っているのを黙って聞いているのでありました。袁満さんが云ったように、そこには確かに気が滅入るような重い空気が淀んでいるような気配でありました。
 頑治さんは出掛ける前に自分の代わりに倉庫で梱包仕事をしている袁満さんに声を掛けるのでありました。こちらは一人で呑気に仕事に励んでいるようでありました。

 山尾主任の旅行中に一度、労働組合結成の準備会が開かれるのでありました。山尾主任が居ないなら流そうかと云う意見もあったのでありますが、都合を付けてくれている外部の横瀬氏や派江貫氏、それに来見尾氏に申し訳無いからと開催するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 230 [あなたのとりこ 8 創作]

 外部の三人も交えたその席では一応山尾主任の営業部への異動、それに袁満さんと出雲さんの仕事内容の変更も話題に上るのでありました。
「組合結成を準備している事が上にバレたんじゃないだろうな」
 派江貫氏がそんな懸念を表するのでありました。「その妨害工作として、そんな人事の変更や仕事の変更を向うは画策したとは考えられないかね」
「でもバレるとしたら、当該の五人か私等三人からと云うことになるでしょう」
 木見尾氏も深刻そうな顔をしてそう云うのでありましたが、それは派江貫氏のその考えに頷いた上でそう云う方向に話しを進めようとしてか、それともその意見に否定的な意を表そうとしての発言なのか頑治さんには判断出来ないような云い方でありましたか。
「そうね。全総連の方からと云う線は先ず無いだろうね」
 この横瀬氏の発言も派江貫氏の意見を踏まえたもののようでもありましたか。
「私等三人も、全総連内の他の、この組合結成を承知している者も、お宅の社長や二人の部長とは接点が何も無いからなあ」
 ぐるりと出席者を見回しながらの横瀬氏のこの言は、バラした犯人はお前等当該の誰かに違い無いと云っているようでもありましたか。
「俺達がそんな事を噯にも出す筈がないじゃないですか」
 均目さんが早速反論するのでありました。
「そうよ。一番バレて困るのはあたし達だもの」
 那間裕子女史が均目さんに同意するのでありましたが、ほんの少し意に引っかかるところがあるのか袁満さんと出雲さんの方に横目をくれるのでありました。「若しかして袁満君か出雲君か、日比さん辺りに組合の件を迂闊に漏らしたりしていないわよね?」
 名指しされて袁満さんはたじろいだのか慌てて首を横に振るのでありました。
「いや、日比さんには何も云っていないですよ」
「飲んだ席か何かでうっかり、なんて事も無いでしょうね?」
 那間裕子女史が怖い顔で追及するのでありました。
「無いです、無いです」
 袁満さんは、今度は首ではなく両の掌を横に大袈裟に振るのでありました。「それは確かに何度か居酒屋で一緒に飲む機会もありましたけど、組合の件は冗談にも日比さんの前では口にしてはいけない事だと、無神経な俺にもそのくらいの警戒心はありますから」
「ああそう」
 那間裕子女史は疑いを未だ二分程残したような云い方をするのでありました。
「俺も何も云っていませんよ」
 続いて出雲さんが真顔で発言するのでありました。「俺は一緒に飲んでもいませんし」
「制作部の三人から片久那制作部長に漏れたと云う事は無いのですかね?」
 袁満さんが逆に那間裕子女史に訊くのでありました。
「それは有り得ないわ」
 那間裕子女史はすぐさま断言するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 231 [あなたのとりこ 8 創作]

「片久那制作部長と一緒に飲む機会も全く無いし、余計な話しは控えろって無言のオーラが片久那制作部長の全身から何時も出ているし、うっかり軽口も云えない雰囲気だし」
 均目さんが続くのでありました。
「ほら、確かあの陰鬱な話しが出た初出社の日に、山尾主任と片久那制作部長が終わってから二人だけで居酒屋に飲みに行った事がありましたよね」
 袁満さんが少しの疑いを秘めた目で那間裕子女史を見るのでありました。
「あれは片久那さんが山尾さんに営業部移動を納得させるためだったろうけど、まさかそこで、一番組合結成に傾斜している山尾さんが、幾ら傷心と動揺の中にあるとしても、それを漏らしたら拙いと云う事くらい、ちゃんと弁えてはいるでしょうし、・・・」
 そう語尾を曖昧にするのは、那間裕子女史自身も山尾主任に対して全服の信頼を置いている訳ではないと云う意のやんわりとした表明にもなりますか。
「はっきりそう云う話しをしなくても、片久那制作部長は勘の良過ぎるくらいの人だから、ちょっとした会話の機微で察すると云う恐れもあるじゃないですか」
 袁満さんが山尾主任犯人説に拘るような素振りを見せるのでありました。
「そんな事を云うと、それは確かに、その懸念は拭えないけど。・・・」
 那間裕子女史の言葉から力強さがすっかり影を潜めるのでありました。
「まあまあ、未だ組合結成の件が会社に漏れたと決まった訳では全く無いのですから」
 頑治さんが話しの雲行きが険しくなるのを恐れて宥めに掛かるのでありました。「業績の悪化に狼狽えて、こうなったのは自分のせいではなく社員の仕事振りが悪いためだと云う点をアピールするために、土師尾営業部長辺りが責任を転嫁する魂胆で急に考え出した事なんじゃないですかね。そう考える方が文脈が乱れないように思いますけど」
「ま、実際のところはそうだよな」
 均目さんが同調するのでありました。「偶々向こうのあたふたが、こちらが組合結成の準備をしているタイミングと重なったと見る方が妥当かな。揺さぶりをかけて妨害してきたとか考え過ぎないで、こちらは粛々と準備をしていけば良い。ひょっとして組合結成がバレたからだとしても、それはこれからの展開を見てみないとはっきりしないしね」
「それは確かにその通りだ」
 横瀬氏がすっかり納得したのではないにしろ、そう頷いて見せるのでありました。それに依ってバレたバレないの話しは、一旦脇に置く事になるのでありました。
「ところで皆さんは、提示された配置転換をすんなり受け入れるお心算かな?」
 来見尾氏が袁満さんと出雲さんを交互に見ながら訊くのでありました。二人はお互いに顔を見合わせながら、どう返事して良いものか戸惑っている様子でありました。
「出張日数が減るかも知れないと云う点では、好都合と云えば好都合かなあ」
 袁満さんが、こういう返答はこの場に於いて不謹慎と思われるかそうでないか、やや及び腰を見せながら呟くように云うのでありました。
「それが労働強化にはならないのかな?」
 来見尾氏が重ねるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 232 [あなたのとりこ 8 創作]

「袁満さんの出張日数を減らすのも経費削減策ではあるけど、出雲君のこれまでの出張との兼ね合いでひょっとしたら、返って袁満さんは日数が増える可能性もあるんじゃないのかな。二人の日数の合計が少しでも減れば、それは経費削減策としては成立するし」
 均目さんも袁満さんの見解に懐疑的な事をものすのでありました。
「出雲さんの方はどう思っているのかな?」
 来見尾氏が出雲さんの方に目を向けるのでありました。
「俺っスか? 俺はその、未だ良く判らないっスねえ」
 出雲さんは少したじろいだように来見尾氏と目を合わせないで俯くのでありました。
「俺は今迄の仕事とすっかり変わる訳じゃなくて、仕事の要領みたいなものは何となく判るけど、出雲君の場合はこれまでの仕事と全く違う仕事になるしなあ」
 袁満さんが出雲さんの、未だ良く判らない、と云う感想を擁護するような、或いは補うような発言をするのでありました。
「出雲さんの仕事と云うのは、今迄に無い新しい分野の仕事なのかな?」
 これは横瀬氏の言であります。
「まああっさり云うと、土師尾営業部長とか日比さんがこれ迄やっていた都内営業の地方版、と云った感じになるのかなあ」
 袁満さんが出雲さんの代わりに応えるのでありました。
「さっきの話しに依ると、日比課長と云う人もそっちに移るみたいだよね?」
 横瀬氏が重ねて問うのでありました。
「そんなような気配かなあ」
 袁満さんが曖昧な頷きを返すのでありました。袁満さんも出雲さんの新しい仕事に関しては未だ今のところ茫洋とした景色しか見えないようであります。
「で、その日比さんと云う人が今迄やっていた営業を山尾さんが引き継ぐ訳だ」
「まあ、そんなような土師尾営業部長の腹みたいですかね」
「山尾さんは自身で納得して、意欲的な気持ちで営業に移るの?」
 それ迄黙って話しを聞いていた派江貫氏がここで口を挟むのでありました。
「それは山尾主任に直接聞いて貰わないとここで断言出来ませんけど、まあ、片久那制作部長に諄々と説得されたのもあるし、丁度タイミングとして自分が結婚すると云う事もあって、心根の内では納得はしていないところもあるけど、だかと云って思い切って会社辞める訳にもいかないし、そうなると結局、会社の示した方針を受け入れるしかないと云う気持ちになっているんじゃないですかね。何となくそんな事を仕事の引き継ぎの話しの折に本人からちょろっと聞きましたね。内心、忸怩たるものはありそうではあったけど」
 均目さんがそんなエピソードを紹介するのでありました。「それに、最近自分は制作部の仕事に向いていないと感じるところがある、なんて了見も漏らしていましたね」
「だから丁度、好都合と云えば好都合だったと云う事かい?」
 派江貫氏が均目さんの話しに多少の疑いを仄めかすような目をするのでありました。
「その点は本人に直接聞いて貰わなければ断言出来ないと始めに云ったでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 233 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんは派江貫氏の眼色に対してさも煩そうに眉根を寄せるのでありました。
 この二人てえものは、最初の会合で目を合わせた時から、何となく剣呑な空気を間に挟んだ間柄のようでありましたか。全然馬が合わない辺り恰も天敵の如く、或いは前世からの因縁を引き摺ったような仇敵の如くであると云うのか、何と云うのか。・・・
 先に一端仲を仕切り直した様子も窺えたのでありましたが、なかなかどうして、そう簡単にはいかない模様であります。ひょっとたら見てくれは異類ながら互いに同じ気質を持っている同士である事が判るものだから、反発し合っているのかも知れませんけれど。
 結局この日の会議は山尾主任の不在もあって、雑談ばかりで大して実りある会合とはならないのでありました。山尾主任と同程度の温度で組合結成に意欲的で積極的な人間が居ないし、外部の三人への義理立てで取り敢えずこうして参集したような按配でありますから、これはもう全く以って仕方が無いと云うものでありますか。

 その山尾主任が会社に復帰したのはそれから三日後でありました。
 さぞや晴れやか且つ照れ臭そうな顔をして現れると頑治さんは思っていたのでありましたが、頑治さんと殆ど前後して会社の扉を開けた山尾主任の顔は、思いの外無表情なのでありました。これは竟々表に現れて仕舞う気分の高揚を無理に隠そうとしての無表情と云うよりは、何処かしら沈んだ気配が潜んでいるような様子でありました。山尾主任は均目さんのように普段から分別臭い顔をしていると云うのではないのでありましたが、何やらちょっと白けたような、無愛想で投げ遣りな風情なんぞもチラと窺えるのであります。
「グアム島の結婚旅行から帰って来たにしては、何か浮かない顔付きだなあ」
 これは昼休みに那間裕子女史と均目さんと三人で、会社近くのビジネスホテル一階にあるバイキング形式で供される昼食を摂りに行った時の均目さんの感想でありました。
「そうだね。隠そうとしても隠せない筈の、弾んだ胸の内が見られないかな」
 頑治さんは同感の頷きを返すのでありました。
「単に照れているだけじゃないの」
 那間裕子女史は山尾主任の意中とか機嫌とかには、と云うよりは山尾主任の結婚そのものに対して無関心だと云った風に云うのでありました。
「いや、照れているだけなら、それはすぐに察する事は出来るさ」
 均目さんがいやいやをするように首を横に振るのでありました。「見様に依っては冴えない表情、と云う風にも見えると云えば見えるし」
 均目さんは頑治さんの顔に視線を向けるのでありました。
「まあ、浮付いた顔付きとかじゃ、確かにないなあ」
 ここでも頑治さんは同意の頷きをするのでありました。
「グアムへの結婚旅行中に、彼女さんとの間に何かあったんじゃないの」
 那間裕子女史が然して心配しているような風にではなくそう云うのでありました。
「そう云えば今売り出し中の噺家の何某とか云うヤツが、新婚旅行から帰って来た途端に離婚した、なんてこの前テレビのワイドショーでやっていたなあ」
(続)
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あなたのとりこ 234 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんが不穏な事をものすのでありました。
「今までそんなには気にならなかったけど、結婚して一夜を伴にしてみたら何となくがっかりして仕舞ったとか、朝になって相手の寝顔を見た時にふと、前に感じた嫌なところが急に鼻に付き出した、なんて事を世間では時々聞くわね」
 那間裕子女史が聞き様に依っては露骨な事をあっさりケロッとした顔で云うのでありました。均目さんが那間裕子女史の顔を見てニヤリと笑うのでありました。
「若し仮にそう云う風な事情だったと仮定するとしても、それは山尾主任の心情がそう云う事なのかな、それとも彼女さんの方の心情なのかな」
 均目さんがこの話しを敷衍しようとするのでありましたが、これは均目さんのある種の人の悪い面白がりからでありましょう。
「彼女さんの為人とか顔付きなんかをさっぱり知らないから何とも云えないけど」山尾さんにその手の陰影に富んだ感受性は無いんじゃないのかな」
 那間裕子女史はあくまで山尾主任の事を、一本調子の底の知れた単純明快な男と考えているようであります。「まあ、冗談や洒落の判らない陰気な人でもあるし」
「じゃあ、彼女さんの方の心情を那間さんは推し量った訳ね」
「まあそうだけど、でもあたしに云わせればそれは、今まで自分自身に白を切るために、気にならないような振りをしていただけね。本当は目を瞑る事が出来ない程嫌だったくせに、無理に目を瞑っていただけ。それが一夜を過ごしてみてはっきりしただけよ」
「破局を元々孕んでいたけど、これまで見て見ない振りで誤魔化していたから、当然の帰結として破局したという訳か。ま、那間さんが最初に云っていた、一夜を伴にしてみたら、フィジカルな点でがっかり、と云う明快なパターンも考えられるけど」
「あたし別に、フィジカルな点で、とか全然云っていないけど」
 那間裕子女史は均目さんの如何にも下卑た思惟に対して、一応念のためにつれない目容で否を発語して見せるのでありました。
「抑々、破局したと決まった訳じゃなくて、単に山尾主任から新婚さんの浮かれた様子が窺えないと云う、ただそれだけの不思議でしかないけれどね、今のところは」
 頑治さんが二人の論の展開に水を差すのでありました。
「それはそうだけどさ」
 均目さんが白けた目を頑治さんに向けるのでありました。この場の話しの展開を面白くしようとして云っているだけの戯れ言なのに、そう云う足払い的な水差しは反則だろうと云う抗議が語調に籠められているのでありました。均目さんに云わせればこの頑治さんの意見てえものは、那間裕子女史が山尾主任に抱いている思いと同様、冗談も洒落も解さない野暮で無粋で、ある意味卑怯な意見と云う事になるのでありましょう。確かに体裁上人の悪さは無いにしろその分余計に、反則の度合いが重いと云う判定のようであります。
「ま、山尾さんの今後の展開が見ものではあるわね」
 那間裕子女史も人の悪さの方に足場を置いているようであります。「でもそれは、どうでも良いと云えば確かにどうでも良い事だけどね、実際あたしにとっては」
(続)
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あなたのとりこ 235 [あなたのとりこ 8 創作]

 那間裕子女史の言動は人が悪いのに加えて、あくまで身も蓋も無くつれないのでありました。まるで山尾主任の一身上のあれこれに関してはとことん関心が無いと云った按配であります。均目さんも実はそう云うところではありましょうが、那間裕子女史程露骨ではないのでありましたし、頑治さんとしても均目さんと同じ心地と態度でありましたか。

 山尾主任が帰って来て最初の組合結成会議の席で、全総連の横瀬氏から山尾主任に配置移動の件と待遇の変更について確認があるのでありました。
「山尾さんは今次の配置移動を、充分納得して受け入れたのかな?」
「喜んで、と云う訳ではありませんが、まあ、一応納得しています」
「何かしらの報復人事という事ではないんだね?」
「それはまあ、大筋では違うと考えています」
「大筋では、と云うのはどういう意味かな?」
「片久那制作部長は前から俺を、自分の部下として物足りなく思っていたような節があったから制作部から出したかった、と云う側面の意図はあったんだろうけど、でもそれは報復とは少し違うでしょうしね。俺にとって全くの寝耳に水の配置転換で、受け入れる余地も無いと俺が考えたのなら大いに恨みにも思うだろうけど、俺の方も最近、制作部の仕事に何となく限界を感じていたんで、丁度良かったと云う面もありはしますしね」
「制作部長が、自分が気に入らない人を配置転換で自分の下から追い出すと云うのは、私的な好悪からの明らかなハラスメントだと云うニュアンスも窺えるけど」
「ハラスメント、と云うのは何だい?」
 と、これは縁満さんが偶々隣に座った頑治さんに小声で訊く言葉でありました。
「要するに、嫌がらせ、とか、虐め、とか云う意味ですよ」
 頑治さんがこれも声を潜めて応えると、袁満さんは口を尖らせて納得したと云う頷きを何度かして見せるのでありました。
「ハラスメントって何ですか?」
 袁満さんと同じ事を山尾主任が、これは大っぴらに横瀬氏に質問するのでありました。それに対して横瀬氏が頑治さんと同じ応えをするのを見てから、袁満さんが頑治さんの顔に視線を移して無邪気な笑いを投げるのでありましたが、これは一種の愛嬌がありはするけれど無意味と云えば無意味なこの場での所作と云えるでありましょうか。
「嫌がらせと云うよりは、お互いの幸せのための配慮とも云えるかも知れない」
 山尾主任が少し考えてからそう呟くのでありました。
「お互いの幸せ?」
 横瀬氏が首を傾げるのでありました。
「一緒に居て不愉快なら、別の処に居る方がお互い気楽で好都合じゃないですか」
「成程ね。それは確かに」
 横瀬氏は別にその山尾主任の応えで納得した訳でもないようでありますが、一応頷いて見せるのでありました。「山尾さんにとって、不本意な配置転換ではない訳だね」
(続)
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あなたのとりこ 236 [あなたのとりこ 8 創作]

「ええまあ、そんな感じでもあります」
「組合結成の事がバレたんじゃないだろうね」
 横瀬氏の横に居る派江貫氏が云い出すのでありました。「そのために経営が、見せしめのために画策した予防上の報復措置、とは考えられないのかな」
 そう云われて外部の三人以外の一同は互いの顔を見合わせるのでありました。
「いや、バレてはいないでしょう。我々もその点は気を付けているし」
 山尾主任が外部の三人以外を代表するような形で応えるのでありましたが、それはやや力強さに欠ける云い方ではありましたか。
「本当に大丈夫なんだろうね?」
 派江貫氏は少々脅迫的な物腰で念を押すのでありました。
「仕事中は組合の、く、の字も口にしないようにしていますから」
「それはそうかも知れないけど、何かの拍子にうっかり、とか無いだろうね?」
「それは、大丈夫だと、思いますよ」
 この山尾主任の応えも確信を持ってと云う風ではないのでありました。
「山尾さんはそうかも知れないけど、他の人は大丈夫なんだろうね?」
 派江貫氏は山尾主任以外の一同に疑いの視線を投げるのでありました。那間裕子女史はその視線を煩そうに無視するためかそっぽを向くのでありましたし、袁満さんはおどおどと目を逸らすのでありました。出雲さんも袁満さんと同様の反応を見せるのでありましたし、頑治さんは無表情に派江貫氏をぼんやり見ているだけでありましたが、一人均目さんだけが眉間に皺を寄せて派江貫氏に挑むような目を向けるのでありました。
「そう云う疑いは心外ですね」
 均目さんは不機嫌に云うのでありました。「俺達が組合に関してド素人だからって信用していないんだろうけど、云って良い事と悪い事の判断くらいは付きますよ」
「いや、信用していない訳じゃないよ」
 派江貫氏は均目さんの剣幕に少したじろぐのでありましたが、意地っ張りだからすぐに体勢を立て直して均目さんを逆に見据えるのでありました。
「組合結成前に経営側にこの事が知れると、経営側は決まって潰しにかかって来る。先ずは人事で威嚇するのが連中の常套手段だからね」
「それはちょっと考え過ぎでしょう」
 均目さんは決然と首を横に振るのでありました。「土師尾営業部長と社長辺りが経営不振からジタバタ足掻こうとして発動したと云うのが、今回の人事異動の目論見の実際でしょう。連中は我々が組合結成を画策しているとは全く気付いていないでしょうね」
「そう断言出来るんだな?」
「世の中に、絶対、なんて云うのは存在しないものですよ」
 均目さんはからかうような余裕の笑みを片頬に浮かべるのでありました。「でも、俺の観測に先ず間違いはないと思いますね。第一、社長や土師尾営業部長が従業員の言動や心根に殊更の関心があるとは思えないし、あの二人は迂闊な人達ですから」
(続)
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あなたのとりこ 237 [あなたのとりこ 8 創作]

「じゃあ、ええと、確か片久那とか云う名前だったかな、そのもう一人の部長の方はどうなんだ? これ迄の話しに依るとなかなかのキレ者で迂闊なところは全く無くて、諸事勘も察しも良くて、その上結構剛腕だと云う事だったけど」
「片久那制作部長、ねえ」
 均目さんはそこで少し考える風の顔になるのでありました。「片久那制作部長はひょっとしたら何か感付いているかも知れないかなあ」
 ここで派江貫氏の表情の険しさがいや増すのでありました。
「その片久那とか云う部長が策動したんじゃないのか、今回の人事は?」
「いやしかし我々が労働組合を創ろうとしているとは知らないでしょうよ」
「勘が良いと云う事だから、気付いているかも知れないじゃないか」
「それはどうかなあ」
 均目さんは懐疑的な顔をするのでありました。「我々の不愉快の度合いが上って、前より親密に寄り合って、愚痴を零し合ったり憂さ晴らしをする連帯感みたいなものは強くなったと感じているかも知れないけど、でも我々の事を、それがより嵩じて労働組合結成と云う選択に走るような連中だとは考えてもいないんじゃないかな」
「そうね。片久那さんの頭の中では、あたし達と労働組合結成と云うものがそうすんなりと結びつかないでしょうね。それはあたしもそう思うわ」
 那間裕子女史が均目さんの意見に同調するのでありました。
「でも、勘が良いんだろう?」
 派江貫氏が未だ嫌疑を長引かせるのでありました。
「それに第一、片久那制作部長は社長や土師尾営業部長と折り合いが悪いから、社員を差し置いて向こう側に加担する気は先ず無いと俺も思いますね」
 これは山尾主任の意見でありました。
「折り合いが悪いと云うか、片久那制作部長は社長の事を経営者としては小者扱いしているところがあるし、況してや土師尾営業部長なんか歯牙にもかけていないだろうな」
 袁満さんも続くのでありました。
「だからって組合結成を妨害しないと云う保証はないじゃないか」
 派江貫氏はなかなか疑いを解かないのでありました。
「まあでも、あの人は学生時代は全共闘学生運動の闘士だった人ですからね」
 山尾主任がそんなところに根拠を求めるのでありました。
「そう云うヤツの方が往々にして、学生運動から足を洗った後はとんでもない程変貌して仕舞って、左翼的なものに対して始末の悪い強い敵意を向けたりするものだ」
「でも、矢張り今回の人事異動は、片久那制作部長の目論見ではないでしょうね」
 均目さんが結論的な云い草をするのでありました。
「絶対そうだと断言出来るか?」
「何度も云うけど、世の中に、絶対、なんて云うのは存在しないものですよ」
 均目さんはあしらうような笑みを浮かべて派江貫氏を挑発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 238 [あなたのとりこ 8 創作]

「実際の話しとして、もう既に人事異動が発令されてしまったんだから、その片久那と云う名前の制作部長の動向は気にはなるにしろ、この確定した異動を、皆さんが受け入れる心算なのかどうかと云う点に話しを進めた方が良いんじゃないかな」
 ずっと無言で控えめにしていた来見尾氏が、眼鏡の奥の目を瞬かせながらこれ迄の話しの流れに一段落を設けようとするのでありました。確かに確証も無くこの話しをこれ以上続けるのは無意味と云えば慎に無意味と云うものでありますか。

 来見尾氏は鼻梁の上を少しずり落ちた眼鏡を、右手の人差し指を遣って元の位置に摺り戻しながら続けるのでありました。
「山尾さんはさっきも聞いたけど、この人事異動に概ね異存は無いんですね?」
「それは、不満はあれこれありますけど、一応受け入れる心算でいます」
「待遇が落ちると云う事も無いのかな?」
「今迄貰っていた主任手当もその儘付くと云う事だし、総額で減額される事は無いようですから、賃金面では額が減ると云う事はありませんね」
「残業手当なんかは?」
「それも認めると云う片久那制作部長の話しです」
「へえ、営業なのに残業手当が認められるんだ」
 袁満さんが驚きの表情をするのでありました。「俺なんか全く付かないけど」
「俺も付きませんね」
 袁満さんに顔を向けられた出雲さんが同調するのでありました。
「日比さんも付かないようだしね」
「ところがちらっと聞いたところに依ると、土師尾営業部長には付くようだよ」
 山尾主任が結構あっさりとそう云う事を云うのでありました。
「え、そうなんですか?」
 袁満さんがさっきよりもう少し驚きの度合いの強い表情をするのでありました。「一体誰に聞いたんですか、そんな事」
「片久那制作部長だよ。あの人事異動の話しがあった初出社の日に、二人で居酒屋に一端に行ったけど、異動した後の待遇面の話しになった時にちらっとそんな事を聞いたんだ。営業に移ると残業手当が付かないようだけどって水を向けたら、土師尾営業部長には付いているからとか云って、俺にも制作部に居た時と同じように付くように計らうとかね」
「それは酷いなあ」
 袁満さんが大いに憤慨するのでありました。「他の営業の人間は誰も貰っていないと云うのに、臆面も無く自分だけ残業代を貰っているんだ、あの狡賢い業突く張り野郎は」
 竟に誹謗中傷添えの野郎呼ばわりであります。おっとりした性格の袁満さんがこんなに不愉快そうに、舌打ちなんぞも添えて口汚く人を謗るのは珍しい事でありました。余程腹に据えかねたのでありましょう。それも尤もな事と頑治さんは思うのでありましたが。
「確かに酷いな。まるで自分一人やりたい放題、と云った印象だ」
(続)
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あなたのとりこ 239 [あなたのとりこ 8 創作]

 横瀬氏が同調するのでありました。「袁満さんが土師尾営業部長に吠え面をかかしてやりたい、と云う気持ちが判るような気がする」
「そうだな。実質的に経営を任されていて、それに人事権も持っている者として、それはちょっと悪質と云うしかないな」
 派江貫氏も怒りを見せるのでありました。
「まあ、実質としては土師尾営業部長は会社の経営に関しては何も判っていないし、すっかり片久那制作部長におんぶに抱っこと云う調子ですけどね」
 均目さんが派江貫氏の怒りの表出にほんの少し水を差すのでありました。
「それならもっと悪質と云うものだ。それ以上に片久那と云う部長も性質が悪そうだ」
 派江貫氏は吐き捨てるのでありました。
「袁満君と出雲君、それに日比さんにも、これから先は残業手当が付くように計らってくれと、今度俺の方からも片久那制作部長に云って置くよ。不公平は良くないから」
 山尾主任が、この営業の三人を差し置いて自分に残業手当が付くと云うのが少し申し訳無いのか、そんな申し出をするのでありました。
「いや、そう云う交渉としてではなくて、その件も春闘のウチの要求として出すのが筋じゃない。従業員の賃金体系に関わる事なんだから」
 那間裕子女史がまるで窘めるように山尾主任の発言に異を唱えるのでありました。
「そうだな。製作とか営業とかに関わり無く、残業したらその分の残業代は誰にでも付くようにするのが原則だよな。勿論、業務の唐目君にも」
 均目さんが那間裕子女史の発言に賛同の意を示して、言を収めようとする辺りで頑治さんの方に顔を向けるのでありました。そう云えば頑治さんには残業手当が付いてはいないのでありました。これは慮れば業務の前任者の刃葉さんのせいでありますか。
 刃葉さんのがさつでちゃらんぽらんな仕事振りに残業手当を付けられないと、これは土師尾営業部長や片久那制作部長だけでなく他の従業員の総意でもありましたし、依って業務職には残業手当は付けないと云う前提が頑治さんにも適応されて仕舞ったと云う経緯でありますか。この点、頑治さんは刃葉さんの被害者でありますかな。ま、要は、残業手当が付くか付かないかは恣意的で、ちゃんとした取り決めは無いと云う事であります。
「袁満さんと出雲さんは仕事の変更を納得しているのかな?」
 横瀬氏が話頭を変えるためかそんな事を訊ねるのでありました。訊かれた袁満さんと出雲さんは、二人で戸惑ったような顔を見合わせるのでありました。
「俺の方はまあ、今迄やってきた仕事の、やり方の変更と云う事だから、勝手とか手際は判っていますよ。でも出雲君の担当地域も含めてだから相当きつくはなるだろうけど」
 袁満さんが云った後にげんなりと云った顔をして溜息を吐くのでありました。
「俺の方は未だ曖昧模糊とした感じっスかねえ」
 出雲さんは横瀬氏の質問にちゃんと答えられない事を申し訳無く思うような物腰でありました。遣れと云われた新しい仕事のイメージが全く湧いてこないと云ったところでありましょうか。それに日比課長との絡みもある事 でありますし。
(続)
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あなたのとりこ 240 [あなたのとりこ 8 創作]

「成程ね」
 横瀬氏は二人の意向に一応頷くのでありました。「袁満さんに目途が立っているようなら、当面の売り上げは心配ないのかな?」
「いや、目途が立っていると云う程じゃなくて、なんとなくやり方は判っていると云った程度ですよ。それに売り上げに関してはおいそれとは保証出来ないですね」
 袁満さんは気後れの物腰で慎に消極的な言を返すのでありました。
「でも、要は効率化と云う意味で、袁満君に今までの出張営業が一元化して業態が変わるのは、あたしは良い事だと思うわよ」
 那間裕子女史が前に聞いた事のある持論から、そんな事を云い出すのでありました。
「那間さんは制作だからそう云うけど、これから先俺一人で今までの出張営業のエリアを全部カバーする事になるんだから、とんでもなく大変になるんですよ」
 袁満さんが遠慮がちながら不満気に反駁するのでありました。
「心配しなくても大丈夫よ。電話を駆使すれば今迄よりも楽に仕事が出来るわよ」
 那間裕子女史はつれない言葉を返すのでありました。判っていないなあと云う意を表するために袁満さんは顰め面で小さな舌打ちをして見せるのでありました。
「袁満君にしても出雲君にしても、今の段階では未だ何とも云えないか」
 山尾主任がそう云って横瀬氏を見るのでありました。
「成程ね」
 横瀬氏は先程と同じ頷きをするのでありました。「労働強化になるかどうかが一番の問題だけど、これから先の様子を見るしか今のところは動き様が無いと云うところかな」
「ま、そうですね、俺の件も含めて」
 山尾主任がそう締め括ってこの話しは一応収束と云う事になるのでありました。
 業績不振である事から、社員一同は今迄より多少は労働強化になると云う認識を共通に持ってはているのであります。しかし、それが許容範囲に収まるのかそれとも到底耐えられない程の強化になるのか、その辺の不安は大いに抱いているにしろ、未だ具体的な動きが始まっていないから良くは掴めないと云うのが正直なところでありますか。
 全総連の横瀬氏としても、既に組合が結成されているのならその問題を集中的に取り上げるところでありましょう。しかしながら未だ、愈々春闘時に旗揚げしようかと云う段階でその事ばかりを議論している訳にはいかないと判断したのか、意外にあっさり引き下がって、今次の人事異動の件を深く掘り下げようとはしない意向のようでありました。
 労働組合の結成が当面の最重要課題であります。だから当面、その障りになるような事象はなるべくさらりと流す見切りが肝要と云うところでありましょうか。

   旗揚げ

 先ず山尾主任の顔が少しずつ変貌していくのでありました。結婚旅行から帰って以来、どこか冴えない顔色であるかと頑治さんは気にはなっていたのでありありました。
(続)
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