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あなたのとりこ 181 [あなたのとりこ 7 創作]

「要するにウチの問題も然る事ながら、ウチの組合の活動は全総連と云う上部団体の活動方針に強烈にコミットしなければならない、と云う事になる訳ね、そう云う方針なら」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「いや、何を置いても単組個別の問題が最優先です。ただ加盟単組の中には贈答社よりも深刻な、雇用を守れるかどうかとか、或いは会社内差別の問題に直面しているところもあります。そう云った単組も仲間として応援をしていくと云う事ですよ。全総連の方針を無理強いすると云うのでは全くありませんから、そこは誤解の無いように」
 横瀬氏が一応頷くのでありました。
「持ちつ持たれつ、と云う事だよ」
 山尾主任がその後に空かさず続けるのでありました。
「まあ、それはお互い様と云う事だからなあ」
 袁満さんが横瀬氏及び山尾主任の説明に理解を示すのでありました。
「お互い様と云うのなら、ウチの新たに結成する組合に対して、全総連ではどのような具体的な支援が予定されているのかしら?」
 那間裕子女史はもう一度首を傾げながら、敢えて横瀬氏や山尾主任の方に視線を向けないで独り言のような体裁で呟くのでありました。
「そうですねえ、今の時点であれこれ明確なところを云うのは何ですが、今迄の事で云うなら、勿論全総連は当該単組の希望に沿うようにあらゆる支援をいたします。それに一例ですが既存の組合の結成までの色々なノウハウや経緯なんかをその単組の人に来て貰って直にレクチャーして貰えます。組合結成の経営への通告及び要求提出の日には全総連中央は勿論、小規模単組連合や千代田区共闘のお茶の水や神保町界隈に在る単組、それに恐らく出版関連や卸業関連の単組等が街宣車を動員して百人規模の支援集会を会社前で行います。これは結構界隈の耳目を引きますから経営への強烈なプレッシャーになりますよ」
「へえ、それは面白そうだな」
 横瀬氏の言の後に袁満さんが目を輝かせて云うのでありました。「社長や土師尾営業部長の慌てふためく様子が今から目に浮かぶなあ」
 袁満さんはこの支援集会を痛快な意趣返しの行動と捉えたようでありました。
「そう思うだろう。一泡吹かす絶好のチャンスだ」
 山尾主任も同調して見せるのでありました。
「土師尾さんの狼狽する姿を見るのは決して不愉快では無いけれどね」
 那間裕子女史も意地悪そうに笑みながら面白がるのでありました。
 この三人の喜び様に対して、均目さんはげんなりと云った表情を浮かべているのでありました。社長や土師尾営業部長の醜態を見て留飲を下げるために組合を結成しようとしているのかと、少々あきれていると云ったところでありましょうか。
 頑治さんも大方に於いて均目さんと同じような心持ちでありましたか。頑治さんも袁満さんや山尾主任、それに那間裕子女史と云う先輩三人のあっけらかんと呑気に面白がる様子が、不謹慎にも如何にも頼り無いようにも見えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 182 [あなたのとりこ 7 創作]

「先程の山尾主任が喋った、と云うか、多分その目の前の紙を読み上げたんだろうけど、贈答社の闘争方針、とやらは今ここで考えたんじゃないですよね?」
 均目さんが山尾主任に笑い気皆無の表情で質問するのでありました。
「うん。横瀬さんと予め練ったものだよ。まあ、結成時に採択される闘争方針の、よくあるパターンとかを教えて貰って、無難な辺りを文章にしたんだ」
「方針と云うのは、我々がこれから創る贈答社労働組合の性格を決定する大事なものだと思いますけど、それはここに居る全員で討議しないで、横瀬さんと山尾主任の二人だけの打ち合わせに依って決めて良いものなんですかね?」
「まあ、闘争方針の採択は一種の体裁と云うのか儀式と云うのか、手続きの一つみたいなもののようだから、一般的な言葉の羅列で、それらしい事を謳ってあればそれで良いじゃないのかな。具体的な辺りは後でじっくり討議するとして」
 山尾主任はそう返しながら横瀬氏の方を窺うのでありました。
「今迄の労使関係が健全でなかったと云うところと、会社の発展を願えばこそ、と云うところと、そこに働く者の正統な権利を守るためにと云う辺りが盛り込まれていれば良いんじゃないですか。贈答社は無茶苦茶な労働環境にあると云う事でも無さそうだし、聞いてみると未だマシな方だしね。まあ、穏当な辺りで纏めて置くのが良いんじゃないかな」
 横瀬氏が補足するのでありました。
「いや俺が少し引っかかったのは後段の、全総連の適切な指導の下に云々、と云うところで、贈答社個別の問題よりも全総連の方針とか都合の方が優先されると云うニュアンスが含まれているような、そんな気がしたものだから」
「いやあ、そんな事はありませんよ。先程の繰り返しになりますが、贈答社個別の問題が何より優先です。これは敢えて云う迄も無くて、判り切った事ですから」
 横瀬氏は均目さんに向かって、それは考え過ぎだと云った風の笑いを向けながら云うのでありました。しかしそれにしては均目さんを見据えるその目が笑ってはおらず、穏和な語調に全く等比してはいないように頑治さんには感じられるのでありました。何となく、それについてはこれ以上つべこべ云うな、と云った風の威圧的な眼容と云うのか。
「一々小さな点に拘らなくも良いんじゃないの」
 那間裕子女史が均目さんに少しげんなりしたような目を向けるのでありました。「体裁みたいな手続きみたいなものなら、ちゃっちゃっと済ませてしまおうよ」
「そうだよ。まわりくどい事を縷々云っていないで、それより議事を前に進めようよ」
 山尾主任も頷くのでありました。日頃あんまり仲のよろしくない同士がここでは珍しく意見の一致を見たと云った按配でありますか。
「そうね。ぼちぼち腹も空いてきたからさっさと片付けて仕舞いたいものだな」
 袁満さんも些か無責任な同調の模様であります。
「若しこの闘争方針で何か問題が起こったなら、その時は立ち戻って討議して修正すれば良いんじゃないですか。ま、何も起こらないと思いますけどね」
 横瀬氏はまた均目さんに目の全然笑っていない笑いを向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 183 [あなたのとりこ 7 創作]

「ああそうですか。それならそれで。・・・」
 均目さんとしては情勢不利、と云ったところでありましょうか。均目さんが逐一無意味で些末な議論を小賢し気に持ち出す事で、徒に議事進行を滞らせていると云った雰囲気であります。そんな軽率なヤツと思われるのは大いに心外であるためか、均目さんはそう皮肉っぽく云ってからその後は目立って口を開くのを慎むのでありました。
「じゃあ、この闘争方針に異議はありますか?」
 山尾主任が一同を見回すのでありました。
「もう一度云ってみて」
 那間裕子氏が、目が合った時にそうリクエストしたので山尾主任はもう一度先の闘争方針を、紙を見ながら繰り返すのでありました。
「まあ、異議無しね」
 那間裕子女史は聞き終えて頷きながら山尾主任から目を離すのでありました。
「俺も異議無し」
 袁満さんも追随するのでありました。暫し間が空いて頑治さんも同意を表するのでありました。間が空いたのはその次に均目さんが態度表明する番だと思っていたからで、しかし均目さんが何も云わないものだから頑治さんが先に返答をしたためでありました。
「均目君は異議があるのかな?」
 山尾主任が不審そうな語調で訊くのでありました。
「いや、意義はありませんよ」
 均目さんは山尾主任の方を見ないで、はっきり不貞腐れた様子とは窺えないながらも、やや冷えた云い方をするのでありました。
「それじゃあ全会一致で、この闘争方針は採択されました」
 山尾主任が宣すると派江貫氏とそれまで言葉を殆ど発しなかった木見尾氏が、小声ながら力強く「よし」と云って拍手するのでありました。なかなか堂に入ったタイミングで、これはこう云う場でのこの人達の作法なのだろうと頑治さんは思うのでありました。
 釣られて那間裕子女史も袁満さんもそれから頑治さんも拍手するのでありました、均目さんも愛想から気乗りしない素振りの無精な拍手をするのでありました。
「それではこの後は組合正式結成迄の暫定的な委員の選出に移りたいと思います」
 山尾主任が次の議事に移ろうとするのでありました。

 山尾主任は暫し机上の紙に目を落としてから、徐に顔を上げて云うのでありました。
「こんな少人数だから立候補を募って投票して、とか云うのも如何にも大袈裟だから、こちらで一応案を練ってみたんだけど、・・・」
 山尾主任はまた目を紙に戻すのでありました。「ええと、公平に全員が役付きと云う事にして、委員長が山尾登、副委員長が円満丸也、書記が那間裕子、それから残る均目志信、唐目頑治、今日は出張で居ない出雲衣奈造の三人が執行委員と云う事でどうかな」
 山尾主任は云った後にまた夫々の顔を順に見渡すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 184 [あなたのとりこ 7 創作]

「何でまた俺が副委員長なんですか?」
 袁満さんが少し口を尖らせるのでありました。そんな大それた名前の役職は荷が重いじゃないかと云った顔付きであります。「俺は出張がちだから副委員長に任命されてもその仕事をちゃんと果たせないんじゃないかな、何の仕事をするのか良く判らないけど」
「いや、それだからこそ副委員長になって貰う心算なんだよ」
 山尾主任が説明するのでました。「大概は会社に居る俺が委員長だから、その補助的役割りと云うところで、副委員長だよ。それに制作と営業から正副委員長を出すのが落ち着きが良いと思うからさあ。因みに年齢と就業年数の長さから俺が委員長と云う事だよ。俺が委員長になる事に反対意見が多いなら、勿論俺はその職に就かない心算だけど」
「良いんじゃないの、山尾さんが委員長で」
 那間裕子女史が山尾主任の案に賛同するのでありました。これは自分がそんなご大層な役職を引き受けるのはまっぴらご免蒙りたいと云う逃避的魂胆からでありましょう。
「じゃあ、那間さんが書記と云うのもOKだね?」
 山尾主任が空かさず訊くのでありました、
「書記、ねえ。何をすればいいの?」
「その都度、会議の議事録を取るのが第一です。それから多分お金の管理ですね」
 横瀬氏が山尾主任の代わりに解説するのでありました。
「お金の管理もあたしがやるの?」
 那間裕子女史は書記の仕事にそんなのがあると云うのが解せないようでありました。それは会計と云う役職を設けてそちらでやれば良いだろうと云う了見でありましょう。
「まあ、直接的な書記の仕事ではないけれど、少人数だから兼務と云う事で」
 これは山尾主任が云うのでありました。
「あたしが兼務するより、執行委員が三人もいるんだから、その内の一人を会計と云う役職にすれば良いじゃないの。大体あたしは自分のお金の管理もルーズなんだからね」
「いや、執行委員はあれこれ細々とした用事をやって貰わないといけないから」
「その、細々とした用事、と云うのは何ですか?」
 均目さんが質問を割り込ませるのでありました。
「会議の会場確保とか飲食物の手配とか、若し必要なら会議用とかのプラカードや垂れ幕の作成とか、全総連本部とか他の単組への使い走りとか、ま、色々」
 山尾主任は一々指を折りながらそんな説明をするのでありました。
「ふうん。雑用係と云う事ですね」
「まあ、そう云えばそうかな」
「成程、そう云う三下の仕事は那間さんにやらせる訳にはいかないか」
 均目さんはあっさりと妙な納得の仕方をするのでありました。
「唐目君、会計の仕事、やってくれない?」
 那間裕子女史が急に頑治さんにそう提案するのでありました。
「え、俺が、ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 185 [あなたのとりこ 7 創作]

「唐目君の仕事振りは手堅いし律義だし、信頼感もあるからうってつけだと思うけど」
「そうですかねえ」
 頑治さんは那間裕子女史のこの評価に戸惑うのでありました。前に会社に居た刃葉さんと比べればそれは確かに堅実な仕事振りかも知れませんが、しかしそれはあくまでも刃葉さんとの比較の上に成り立つ印象であって、自分の仕事振りが世間一般の評価軸の上ではそんなに堅実であるとは頑治さんには思われないのでありました。
 那間裕子女史は単に面倒な金銭管理の仕事を免れたいがために、頑治さんをここで煽ててその気にさせようとしているに過ぎないと思われるのであります。
「と云う事で、執行委員は均目君と出雲君の二人と云う事にして、会計の仕事を唐目君がやると云う事で構わないわよね?」
 那間裕子女史は頑治さんの意向を無視して山尾主任に訊き糺すのでありました。
「それは別に構わないけど、どうかな、唐目君は?」
 山尾主任は頑治さんに小首を傾げて見せるのでありました。頑治さんは急いで執行委員の仕事と会計の仕事のどちらが億劫でないかを頭の中で考えてみるのでありました。
 走り使いのような仕事よりは机上で計算をしていれば良いのでありますから、身体的には会計仕事の方が楽でありましょう。それにメンバーは六人だけなのでそんなに多額の金銭を管理すると云う訳でもないでありましょう。逐次の帳簿付けは小煩いとしても。
「俺は執行委員でも会計でもどちらでも構わないですよ」
 この話しの流れの中でこう返事すると云うのは、会計の仕事に就く事を承諾した事になるのだろうなあと、頑治さんは云いながら思うのでありました。
「じゃあ、これで決まりね」
 那間裕子女史は満足気に笑むのでありました。
「ところで、管理する金銭と云うのは、今のところ何も無いですよねえ?」
 頑治さんが山尾主任に訊くのでありました。
「そこなんだけど、・・・」
 山尾主任はそう呟いて机上の紙にチラと目を遣るのでありました。「この十二月の給料から、支給額の一パーセントを活動費として徴収したいんだけど」
「え、支給額の一パーセントを徴収?」
 袁満さんが少したじろいだ顔をするのでありました。「手取り額の一パーセントですか、それとも税金や保険料とか諸々を引かれる前の、額面の一パーセントですか?」
「基準内賃金の一パーセントだよ」
「何ですか基準内賃金と云うのは」
「一時金や時給算定の元になる賃金だよ。ウチでは基本給に役職手当を加えた額」
「へえ、それを基準内賃金と云うんですか。迂闊にも初めて聞く言葉だ」
 袁満さんは見開いた目で瞬きを繰り返しながら頷くのでありました。
「あれこれお金もかかるだろうから、それは仕方が無いわね」
 那間裕子女史は意外にあっさり、納得気にこちらも頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 186 [あなたのとりこ 7 創作]

「じゃあ、取り敢えずは委員長が俺で副委員長が袁満君、それから書記が那間さん、会計担当が唐目君、均目君と出雲君が執行委員と云う人事案は承認と云う事で良いかな?」
 山尾主任が先ずそちらの方の了承を全員に求めるのでありました。那間裕子女史が異議無しの態度を表すると他の連中も積極的な反応ではないにしろ頷くのでありました。
「それから組合費の一パーセント徴収の件はどうかな」
 こちらも積極的賛成とは云い難いながらも全会一致で了承されるのでありました。ここ迄がその会議の主な議題と云うところでありましたか。外部の横瀬氏も派江貫氏も木見尾氏も基本的な事項が先ずは決まった点に概ね満足の様子でありました。

 この後は少しの雑談時間となるのでありました。
「それにしても今季の暮れのボーナスには参ったよなあ」
 袁満さんが愚痴を零すのでありました。「歳が越せないよ、これじゃあ」
 前に可処分所得との絡みで、年が越せない、と云う不満表現の言葉は現実の置かれている境遇に鑑みると、あんまり適切とは云えないと云う話しを喫茶店でしたのを頑治さんは思い出すのでありました。その折袁満さんは成程と納得したとばかり思っていたのでありましたが、しかし袁満さんは性懲りも無くまたここであっけらかんとそう云う表現を用いるのでありました。単なる迂闊からなのか、それとも心底から先の会話を納得した訳ではなかったと云う事なのか、その辺の袁満さんの心根は良く判らないのでありました。
「袁満さん、今のご時世、そう云う表現は苦境の表現としては現実味も説得力にも欠ける、と云う事を前に話したじゃないですか」
 均目さんがその辺りを指摘するのでありました。頑治さんと同じで均目さんも袁満さんの粗忽にちょっとがっかりしたのでありましょう。
「ああそうだったっけ」
 袁満さんは特段恥じる様子も無くのんびりした口調で云って、別に頭も掻かないのでありました。もう前の話し等すっかり忘れている様子であります。
「歳が越せないとか、生活が出来ないとか云う言葉は団交の場で我々も良く使うよ」
 派江貫氏が均目さんに反駁するのでありました。その語調の挑みかかるような感じや軽くあしらおうとする色合いから察すると、派江貫氏は先程の均目さんとの遣り取りから、均目さんの事をどうやら胡散臭い、気に障るヤツだと思いなしたようでありました。
 派江貫氏の気分が均目さんにも充分伝わるものだから、均目さんとしても対抗上竟々、遠慮無しの挑戦的な物腰になるのでありました。
「今だにそう云う苔の生えたような常套句を日常的に遣っているようだから、特に若い者の間で労働組合離れが起こっているんじゃないですかね」
「どう云う事だ?」
 派江貫氏が少しムキになるのでありました。
「あなただって現実の問題として、食うや食わずの生活を送っていらっしゃる訳ではないでしょう。着ている服もセンスと云う点は別にして、一応パリッとしているし」
(続)
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あなたのとりこ 187 [あなたのとりこ 7 創作]

 均目さんは派江貫氏の服装への揶揄を交えて、如何にも意地が悪そうに体を斜にして見せるのでありました。意地から、先程黙って引き下がったのはアンタの剣幕にたじろいだからではないと云う意志表明を、ここで敢行しようとしているのでありましょうか
「俺がどんな服装をしようと俺の勝手だ」
 派江貫氏は憮然として均目さんから目を背けるのでありました。
「勿論その通りです。好みは人夫々ですからね。それにそのセンスに対して俺がどんな感想を持とうが、それも俺の勝手に属する事です」
「俺に喧嘩を売っているのか、お前は」
 派江貫氏はまた黒縁眼鏡の分厚いレンズの奥にある目を均目さんの顔に据えるのでありました。小刻みに黒目が動くのは、若し殴り合いにでもなった場合、均目さんが自分の手に余るのか収まるのか、その辺りを値踏みしているためかも知れないし、それとも均目さんのふてた態度に単に怖じた故かは頑治さんにはよく判らないのでありました。
 均目さんの細っこい体と派江貫氏の小柄ながらもそこそこ体重の有りそうな体躯を比べると、些か派江貫氏の方に分がありそうな気もするのであります。しかも派江貫氏の方が向こうっ気の強さでは些か優っているような気配でもありますし。
「まあまあ派江貫さん、あんまり興奮しないで落ち着いて。初会議でもある事だから、ここは一つ穏便に行きましょうよ」
 横瀬氏がまた宥めに掛かるのでありました。
「コイツが俺に対して個人攻撃を仕掛けてきたので、それは許せないからね」
 派江貫氏は均目さんを指差しながら横の横瀬氏に云うのでありました。
「服装の趣味は自由だと云うのは均目さんも認めているようです」
 頑治さんが唐突に云い出すものだから、この会議室に居る全員の視線が頑治さんに集まるのでありました。「それにその服装に対してどんな感想を持とうと、それも確かに人の自由勝手ではあります。しかしどんな感想を持とうと自由でも、その感想を当人を前にして口にするかしないかは、勝手放題と云う訳にはいかないじゃないかな」
 その言葉を収める辺りで頑治さんは横の均目さん方を見るのでありました。察しの良い均目さんは頑治さんの云わんとしている辺りをすぐに了解したらしく、頑治さんに対して恥じるような申し訳無いような笑いを送ってくるのでありました。
「それもその通りだ。確かにさっきの俺の云い草は不謹慎と云われても仕方が無い」
 均目さんは今迄とは打って変わってしおらしい物腰になるのでありました。「俺のさっきの態度はこの場に相応しくないマナー違反でした。謝ります」
 均目さんは派江貫氏にやや深くお辞儀して見せるのでありました。あっさりそう云う風に出られると、派江貫氏としても矛を収めるしかないと云うところでありましょうか。
 均目さんは一瞬で人変わりしたように至極素直なのでありました。均目さんとしても引くに引けない切羽詰まった辺りで、好都合にも頑治さんがそれとなく仲裁の言を吐いてくれたのが大いに有難かったのかも知れません。均目さんは誇り高く意地っ張りで頑固なくせして、案外気の小さい意気地無しのところもあるようでありますから。
(続)
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あなたのとりこ 188 [あなたのとりこ 7 創作]

「これから同じ目的に向かって共に闘おうとしている同士が、今から角突き合わすような関係になるのは幸先が好くないわ。協調性と云うところを均目君はもう少し考えた方が良いと思うわよ。第一、目上の人に対してさっきのもの云いは遠慮が無さ過ぎね」
 那間裕子女史が、重い空気に言葉の接ぎ穂を失ったように誰もが沈黙している中でその打開を図ろうとしてか、そんなご高説をしかつめ顔で垂れるのでありました。日頃の言動に鑑みれば、ここに集う連中の中では協調性の欠如とか無礼と云う点にかけては随一と思われる女史がそう云うのが、頑治さんには何となく微笑ましく映るのでありました。
「何をニヤニヤしているの、唐目君?」
 頑治さんのその様子を横から窺い見て、那間裕子女史は自分の言動に対する頑治さんの不謹慎を詰る口調で問うのでありました。
「ああ、いや、別に」
 頑治さんは急いで誠心誠意の顔を作って那間裕子女史を見返すのでありました。
「あの那間さんが、嫌にしおらしい正論を吐くんで唐目君が思わずニンマリしたんだよ」
 均目さんが冗談口調で、概ね正鵠を穿った解説を入れるのでありました。
「何、それ」
 那間裕子女史は今度は均目さんに険しい目を向けるのでありました。
「いやまあ、那間さんは可愛らしい人だなあと、途中の説明を荒っぽく端折って云えば、つまりそう云う事だよ。なあ、唐目君」
「ええまあ、そんなような、そんなようでないような。・・・」
 頑治さんはまたニンマリ顔で曖昧に返すのでありました。
「何よ、そのはぐらかすような云い草は」
 那間裕子女史は語気を強めるのでありましたが、何だか良く判らないながらも可愛らしいと云われてほんのりと悪い気はしていないような風情ではありましたか。そんな那間裕子女史の心根と同じに、この遣り取りで場の緊張が少し緩むのでありました。
「じゃあ、まあ、最初に採択するべき最小限の事項も採択された事だし、今日の会議はこれでお開きとする事にしますか」
 横瀬氏が折角和んだ空気を壊さないように気を遣ってか、そんな事を緩い口調で提案するのでありました。「後は次回の会議の日程を決めておきましょう。出来るなら十二月と一月は週一回くらいのペースで開くと良いと思います。これから先、やらなければならない事は山程ありますし、春闘の一斉要求提出日まで時間が有るようで無いですからね」
「判りました。じゃあ今度の会議は、週の内水曜日が全員集まり易いようだから、来週の水曜日と云う事で良いかな。それから那間さん、今日の議事録を清書しておいてね」
 山尾主任のその言葉で初回の会議は、まあ恙なく、閉会するのでありました。

 地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅から、両側に立ち食い蕎麦屋とか結納用品屋とか洋服屋や甘味処、それに喫茶店などが並ぶ細い通路を本郷通りに抜けた辺りにある中華料理屋で、頑治さんは夕美さんと差し向かいで夕食の膳を囲んでいるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 189 [あなたのとりこ 7 創作]

「入社して間もないと云うのに色々大変そうね」
 夕美さんはあんかけの蟹玉を自分の小皿に取り分けながら云うのでありました。
「そうね。ちっとも知らないで就職したけど、業績不振らしい」
「それで結局、暮れのボーナスは二万円ポッチしか貰えなかったのね」
「ま、そう云う事だね」
 頑治さんは細切り牛肉と苛の炒め物を頬張りながら頷くのでありました。「しかし例えば去年と同じに二か月半出たとしても、中途入社の俺は色々小難しい日割り換算をされた挙句に、まあ良くて五万円程しか貰えないと云う事になるらしいけどね」
 中途入社の社員の場合には、一年の就業日数からボーナス対象月迄の実働日数を算出してその後にそれを時間に換算して、例えば二か月半の支給ならばそれを計算した時給にするとどのくらいの額になるかを算定して、それからそれを、見習い期間と称する二か月分を差し引いた中途入社社員の実労働時間に見合った額に再計算して、それからそれから、・・・と云う具合の計算式を頑治さんは以前に均目さんから聞いた事があるのでありました。込み入った算数パズルのような余りと云えば余りの七面倒臭い計算式に、聞いている途中で頑治さんは頭の中に霞が兆して意識がクラクラとしてくるのでありました。
 実は均目さんも計算式の正確なところは知らないのでありました。入社して最初に貰ったボーナス額が思っていたより大幅に少なかったので、一体どういう計算をしたらこんな額になるのかとあれこれ自分で計算をしてみたのだそうであります。それで、貰った額に一番近い値になるのが頑治さんに示した先の計算式と云う事になる訳でありました。
「単純に実労働日数の割合を支給金額に掛ければそれであっさり済みそうなものを、なんでそんなにまわりくどい計算を態々するんだい?」
 頑治さんは首を傾げながら均目さんに訊くのでありました。
「如何に中途入社社員のボーナス支給金額を最少額に抑えるか、と云う了見からには違いないだろう。そんな面倒で複雑な計算式は社長や土師尾営業部長の頭では手に負えないだろうから、これは片久那制作の頭から捻りだされた計算式だろうな」
「何となく姑息な手口に思えるな」
「複雑なだけに迂闊なヤツにはなかなか後追い出来ないところがミソだな」
 均目さんはそんな事も付け加えるのでありました。
「どうして五万円程度になるの?」
 夕美さんがビールを一口飲んでから小首を傾げるのでありました。
「小難しい計算があるんだよ」
「どんな計算?」
「前に聞いたんだけど、小難し過ぎてものぐさの俺にはさっぱり理解出来ない」
 頑治さんは呑気そうに笑うのでありました。
「何か頑ちゃん、二万円ポッチの支給に対してあんまり悄気ていないようね」
「今まで遣って来たアルバイトじゃあそんな臨時収入は全く無かったから、二万円ポッチでも貰えるだけ儲けものと云った気分かな」
(続)
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あなたのとりこ 190 [あなたのとりこ 7 創作]

「頑ちゃんは相変わらず気楽ね」
 夕美さんが笑うのでありました。
「貰う時に他の連中は苦虫を噛み潰したような顔で受け取っていると云うのに、俺は竟々笑みが毀れそうになって仕舞って、少し困ったよ」
「それはそうよ。経緯から、嬉しがる局面じゃないもの」
「でもまあ、竟ね」
 頑治さんは海老のチリソースに箸を伸ばすのでありました。
「で、その二万円の臨時収入でこの食事を驕ってくれている訳ね」
「そう云う事。だから遠慮しないでどんどん食ってくれよ」
「でも話しを聞くと、何だか少し遠慮したいような心持ちになるけど」
「そんな事無いって。どうせ他には、数冊本を買うくらいしか使い道は無いもの」
「服とか買えば良いんじゃないの」
 そう云いながら夕美さんは少し目を動かして頑治さんの服装をチェックするのでありました。特に洒落た物を着ている訳ではないけれど、清潔ではある筈であります。
「でも、服装に気を遣うような仕事はしていないもの。不潔じゃなく小ざっぱりしていれば充分さ。元々俺は服装への執着心は特に持っていない方だから」
 聞き様によっては慎に愛想の無い頑治さんの応答でありますか。
「それなら正月飾りとかは? ・・・まあ、買わないと思うけど」
「買わない」
 慎に簡潔にしてきっぱりした返答であります。
「じゃあ、まあ、良いか。ここは素直に驕られておくか」
 夕美さんはもう一欠片、あんかけの蟹玉を取り皿に取るのでありました。
「どころで、正月は故郷に帰るの?」
 頑治さんはふと思い付いたように訊くのでありました。
「うん。お母さんがここのところずっと体の具合が良くないようだから」
 夕美さんはそう云いながら少し陰鬱な表情をするのでありました。
「ああそうなんだ」
 前にその事は夕美さんから触り程度は聞いているのでありました。急に物が食べられなくなって二週間程病院に入院して、退院後もあんまり捗々しく食欲は回復せず、何時か機会を見付けて精密検査する事になっていると云う事でありましたか。
「その事もあるし、県立博物館にもちょっと顔出ししておきたいし」
「それは就職の件で、と云う事かな?」
「まあ、はっきりそうと云う訳じゃないけど、一応顔繋ぎに」
「博士課程に進学するのは止したの?」
「未だ迷っているのよ」
「論文はもう片が付いたのかい」
「そうね。そっちは何となく目途は立ったわ」
(続)
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あなたのとりこ 191 [あなたのとりこ 7 創作]

「それで、お母さんの件もあるからここはちょっと帰るか、と云ったところかな」
「そうね、そんな感じ」
 夕美さんは箸を置いて手をテーブルの下に隠すのでありました。恐らく別にどうと云う心算ではない何の気無しの仕草でありましょうが、頑治さんの目には何やら改まった風に映ったものだから、ふと心の中で小さな不安が閃くのでありました。
 ひょっとしたらこれから先に起こる諸々の経緯から、最終的に夕美さんは東京を離れて故郷に帰る決心をするのではないかしらと頑治さんは考えるのでありました。大学院に残るでもなく、在京の企業に就職するでもなく、それは頑治さんにしたら最悪の先行きであります。まあ、あくまでも特段の根拠もない予感だけではありますが。
 しかしこれ迄に自分のそう云った予感が、見事に当たったのはどのくらいの確立だったでありましょうか。当然ながら厳密な統計を取った訳ではないから、不明、と云う愛想もクソも無い回答が正解でありますが、しかし一端そう云った予見を頭の中に描いた以上、頑治さんの心根は波静かではいられないのでありました。
 好ましい予感は大体に於いて外れて、好ましからざる予感は往々にして当たって仕舞うものであります。世俗的にそう云う風に云われがちだと云うのは判っているのでありますが、しかし頑治さんの主観の上では結構リアリティーがあるのも事実でありました。
「頑ちゃんどうかした?」
 頑治さんが目を上げると夕美さんが覗き込んでいる目と出会うのでありました。
「いや、別に」
 頑治さんは取り繕うように苦笑うのでありました。「正月に帰った時、若し諸般の事情が許せば、お母さんに俺がお大事にと云っていたと伝えてくれるかな」
 夕美さんは頑治さんと同じように苦笑を浮かべるのでありました。
「うーん、頑ちゃんとの事は、お母さんにもお父さんにも実は喋っていないから。・・・」
「ああ、そう云う事なら今の俺の伝言は取り消しと云う事で」
「でも有難う。お母さんの事心配してくれて」
「病院の精密検査で、別に何でもないと云う診断が下される事を祈っているよ」
 その頑治さんの言葉に夕美さんはもう一度、有難う、と云って、テーブルの上に手を出して箸を取り、暫く休めていたその動きを再開させるのでありました。
「明日もゆっくり出来るのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんはコックリと頷くのでありました。
「そうね。論文の目途も立ったしね」
「じゃあ明日は、新宿に出て映画でも見て、それから新宿御苑辺りを散歩するか」
「良いわね。ゆったりとした休日って感じ」
「末広亭で落語を聴くと云う手もある」
「じゃあ、映画を観て、その後御苑散歩で、夜は落語、と云うのはどう?」
「そんな予定満載じゃあ、ゆったりとした休日にしては目まぐるしい」
「そうだけど、久しぶりだから頑ちゃんと二人で欲張りに色々したいのよ」
(続)
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あなたのとりこ 192 [あなたのとりこ 7 創作]

 夕美さんはそう云って小首を傾げて笑い顔をして見せるのでありました。
「矢張り、映画とその後で新宿御苑散歩だけ、と云うプランにしよう」
「寄席はいいの?」
「是が非でも行きたいと云う訳じゃないし。夕美が行きたいのなら別だけど」
「あたしも、別にどうしても行きたい訳じゃないけど」
 夕美さんは落語とか漫才が殊更好きだと云う訳ではないのでありました。前に何度か頑治さんに連れられて新宿末広亭や浅草演芸ホールに行った事はあるのでありましたが、それはあくまでも物珍しさと付き合いと云う以上の意味は無いようでありました。
「じゃあ、映画と新宿御苑散歩に決定だ」
「それならあんまり早起きしなくても大丈夫よね」
「そうね。アパートでゆっくり朝寝もしていられる」
 頑治さんは先の夕美さんの身の振り方への不安を頭の中から掃って、取り敢えず明日の二人のデートと云う目先の歓楽のみを考えようとするのでありました。

 週に一度、水曜日の就業時間後の労働組合結成に向けての会議は定例化するのでありました。基本的には経営側に出す労働組合結成通知書と春闘で提出する要求書案の捻出と作成と云う事になるのでありますが、全総連が開催する春闘セミナーとか、小規模単組連合の集まり等にもオブザーバー的な立場で参加を求められたりもするのでありました。
 均目さんはその手の集会にはほとんど興味を示さず、それどころか全総連と云う組織自体に批判的な立場を社員の間で明確にしているものだから、仕方なくそう云った会合への出席は殆ど山尾主任と、出張に出ていない場合は袁満さんが担当する事になるのでありました。もう一人の執行委員である出雲さんは、出張先が北海道や東北と云う事で冬場は比較的暇になるのでありますが、何となく労働組合結成と云う事項全般に疎くて鈍そうな反応しか示さないものだから、隅に置かれていると云った印象でありましたか。
 那間裕子女史はあれこれと私事多忙なようで、こちらも集会参加とかには消極的、と云うよりは冷淡な反応でありました。本人が冷淡なのを敢えて命じて出席させる程の威厳や影響力、それにお願いする勇気も山尾主任にも袁満さんにも無いようでありましたから、畢竟この委員長と副委員長の出番が俄然多くなると云った按配であります。
 どうしたものか頑治さんには殆ど、会計以外の面倒臭い仕事の依頼とかお声掛かりは無いのでありました。出雲さん同様で、あんまり頼りにならないと値踏みされているからかも知れません。まあ、頑治さんにしたら勿怪の幸いと云うものではありましたが。
 山尾主任は労働組合創設活動に結構燃えているのでありました。袁満さんもそれに引っ張られるようになかなか積極的な様相でありました。まあ、袁満さんの本心なんと云うものが奈辺に在るかと云うところは良くは判らないのでありましたが。
 袁満さんは人から何かを頼まれたら、断固として断り切れない人の良さと八方美人的な優柔不断さがある人で、出来るならそう云った活動なんぞは敬遠したい方の口なのかも知れませんが、山尾主任を前にするとなかなか云い出せないでいるのかも知れませんが。
(続)
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あなたのとりこ 193 [あなたのとりこ 7 創作]

 まあ、袁満さんは楽天的な人柄なのでそれを苦にしているようには見えないのでありました。案外この活動に、自分の本来の居場所を見つけた心地なのかも知れませんし。
 と云う事で、メンバーの中では山尾主任と袁満さんが突出して活動に積極的な風情でありました。しかし山尾主任は年が改まった早々に結婚を控えているのでありますが、こちらの方は一体どのような具合になっているのでありましょうや。全くの他人事には違いないのでありますが、頑治さんは少し心配になるのでありました。
 聞けばご両人とその家族でグアム島に行って結婚式を挙げると云う事でありますが、式の準備や渡航の手続き等、今が一番ウキウキしていて忙しい時でありましょうに。春闘に向けての労働組合結成と云う、あんまり色艶の無い用事にかまけている場合ではないのではありませんかしら。ま、典型的な余計なお世話の内ではありましょうが。
 山尾主任の結婚相手の女性から会社に電話がかかって来る事は全く無いと、前に均目さんから頑治さんは聞いた事があるのでありました。顔も声も雰囲気も知らないからどんな感じの女性なのか均目さんは全く知らないと云う話しであります。余程の用が無い限り山尾主任がその女性に会社への電話を禁じてでもいるのでありましょうか。
 大体に於いて山尾主任本人もその女性の事を話題に上げるのは皆無のようであります。均目さんがそれとなく話しを向けてもはぐらかされるのが常だそうであります。会社の連中にはあんまり相手の女性の事を喋りたくないと云う考えでありましょうか。それともその女性の方が自分の事を色々喋られたくないと云う意向なのかも知れませんが。
 尤もこんな事は山尾主任の気持ちの問題でありそれ以外では全くない話しであります。山尾主任が惚気の一つも云わないのをとやこういう筋合いは、他の誰にも無いと云えば無いのであります。まあ、愛想の無い事で、と云う印象は抱く事が出来るとしても。
 そう云えば日比課長が酒の席だったか、悪意ではないにしろちょっとからかってやろうとして、冗談口調でちょっかいを出したのを頑治さんは目撃した事がありましたか。その折も山尾主任はあからさまではないながらも、いなすように一言二言返しただけで如何にも迷惑そうな表情で、それ以上あれこれ聞いてくれるなと云ったような慎につれない風情でありましたか。ひょっとしたら自慢も出来ない、或いは人には云えない事情を抱えた相手じゃないのかと、後で日比課長は下卑たにやけ顔で詮索しているのでありました。
 日比課長の下卑た詮索は脇に置くとしても、確かに山尾主任に結婚を間近に控えた浮付きはあんまり見られないのでありました。結婚と云う儀式に対してクールであると云うよりは、結婚する事そのものが何処か大儀そうにも見えるのでありました。慶事であるにしても愈々事が差し迫って来て、待望の反動で気重が頭を擡げて来たと云うところでありましょうか。まあ、余計なお世話序の、頑治さんの些細な気掛かり事であります。

 新宿の件のジャズ酒場で頑治さんは均目さんと那間裕子女史とグラスを傾けているのでありました。このジャズ酒場に限らず時には近くの居酒屋や小さな小料理屋で、水曜日の労働組合結成準備会議が終わった後にこの三人で屡酒を飲むようになるのでありました。他のメンバーはどうしたものか殆ど誘わないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 194 [あなたのとりこ 7 創作]

 それは明快にそうだと云う訳ではないにしろ、那間裕子女史の意向に沿っての事でありました。那間裕子女史は頑治さんと均目さん以外の会社の連中と酒席を同じにする気は殆ど無いようでありました。これは那間裕子女史の人の好き嫌いに依るのでありました。と云っても、他の連中を那間裕子女史が忌み嫌っていると云う訳では全くなくて、一緒に酒を飲みながら談笑の時間を共有したいとは敢えて思わないと云う、好き嫌い、と云うよりは、好き、の濃淡の差に依っていると云うべきところでありましょうか。
「あの全総連の派江貫って人はどこか信用が置けない感じがするわ」
 那間裕子女史が例に依ってジントニックを飲みながら云うのでありました。
「そうかな。俺は何方かと云うと無口な木見尾さんの方を警戒するけど」
 均目さんが飲んでいるのは同じジントニックながら意見の方は那間裕子女史と違うのでありました。この二人は息が合うのか合わないのか、頑治さんは未だに良く判らないのでありました。まあ、全く息が合わない同士合ならこうして屡一緒に酒を飲む事も無いでありましょうか。当座の息は合わないけれど基本的な馬は合うのかも知れません。
「でも派江貫さんが初めて現れた会議で、均目君は喧嘩していたじゃないの」
「そうだったけど、話してみるとそんなに嫌な人じゃなさそうだし」
 何度目かの会議の後に全員で親睦を深めようと、神保町駅近くの居酒屋で酒杯を酌み交わした事があったのでありましたが、そこでどう云う風の吹き回しかか均目さんが派江貫氏と二人で、妙に深刻顔で何事か話し込んでいる光景を頑治さんは目撃するのでありました。そうやって差しで話してみて、何を話したのかは不明ながら均目さんは派江貫氏に対する認識を改めた模様で、初会議の席での氏に対する蟠りを薄めたのでありましょう。
「そう云えばあの居酒屋での飲み会の時、均目君は派江貫さんと何を話していたの?」
「まあ、労働運動全般とか、全総連の支持する政治政党の話しとか、あれこれ様々」
 均目さんは世の中の諸事に対する認識、と云うのか関心と云うのか、そういうものが頑治さんなんかよりも遥かに深いようであります。
「それで均目君は派江貫さんと意見が合った訳だ」
「いや、俺は何方かと云うと組合運動とか左翼的考え方には批判的な方だから意見はさっぱり合わなかったけど、派江貫さんの人柄と云う点では、なかなか情熱を持った人だなと思ったんだよ。政治性は別にして、人としてはそう云う人は嫌いではないからね」
「で、派江貫さんの方も均目君を見直したと云う訳ね、親密に話す事に依って」
「俺が派江貫さんに対する認識を改めたとしても、派江貫さんの方が俺を見直したかどうかに付いては全く俺には判らないよ。俺がその時に持った一時的な感触はそうであったとしても、派江貫さんと云う人の本心の部分はおいそれとは誰にも窺い知ることは出来ないものだし。早とちりにお人好しな誤解を下すのも、全くいただけない話しだからね」
 均目さんは何やら小難しい事を云いつつジントニックを一口飲むのでありました。
「来見尾さんと云う人は、何となく雰囲気が片久那制作部長に似ていませんか?」
 頑治さんがウィスキーソーダを飲みながら那間裕子女史に訊くのでありました。
「イカさないロングヘアーとイカさないファッション、それに無口なところだけはね」
(続)
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あなたのとりこ 195 [あなたのとりこ 7 創作]

 那間裕子女史は鮸膠も無いのでありました。
「片久那制作部長の方が未だシャープな感じがするかな」
 均目さんも頑治さんの意見に不同意のようであります。「陰気さはそっくりだけど」
「来見尾さんは片久那制作部長と違ってお酒もあんまり飲まないようだし、話しをしても冗談も云わないし、ちょっと気の利いた云い回しもしないし、全般に当り障りのない返事しかしないものね。如何にも頼りない感じがする。でもああ云う人は自分がこうと思ったら、それを絶対に変えないような結構頑固なタイプなのよね」
「確かに頑固は頑固そうだな。何となくあしらい難い人かも知れない。と云っても、前に会社に居た刃葉さんみたいなあしらい難さではないけれど」
「でも刃葉君はあれで、なかなか可愛いところもあったわよ」
 那間裕子女史は俄には頷かないで異見をものすのでありました。
「可愛いところなんかあったかねえ」
 均目さんは疑わしそうに笑うのでありました。
「やる事ががさつで間抜けなところが多かったし、それに結構自信家で、多分秘めた劣等感も一緒にあって、自分以外の人間は皆下らんヤツだと思っていた節が随所に見られたけど、でもそれだからこそ考えている事は単純明快と云うのか、判り易かったわ」
「それを可愛いと評価するのには那間さんが異性だからかな。同性からすると、やっている事と根拠の無いあの鼻持ちならなさとのギャップは、唾棄に値すると云うものだよ」
 均目さんはそう云って頑治さんに同意を求めるような目を向けるのでありました。頑治さんは八割方同意ではあるものの、頷かないで笑って返事を誤魔化すのでありました。
「元帳が判ったら、案外可愛いものよ。そんなに狭量にカリカリする事無いじゃない」
 那間裕子女史は余裕の笑みを浮かべてジントニックを一口飲むのでありました。
「いや、そうじゃないよ」
 均目さんは那間裕子女史に自分の男としての器量が疑われたと思ったためか、尚も反駁を企てるのでありました。「自己省察が甘いヤツは何かをやらせても結局、使いものにならないし、そんな自分を変えたいと云う気も無いとなると、それはもう救い難い」
「ご立派なご意見だけど、そう云う均目君はどうなのよ。均目君のプライドの高さとか人を侮って止まない目付きなんて云うのも、時々度し難いと思う場合もあるわよ」
「まあ、異性の那間さんとしては、そう云う均目君も可愛いと云う事になりますかね」
 何となく、二人の会話がこれ以上変な方向にエスカレートしないように、頑治さんは妙な仲裁を試みるのでありました。しかしこれは、余計なお節介、或いは無用な危惧と云うものかも知れないと、云いながら頑治さんはそこはかとなく思うのでありました。
「あたしと均目君が急に険悪な口論なんか遣り始めたと思って、オロオロたじろいで慌てて宥めに掛かろうとする唐目君も、なかなか可愛いわよ」
 那間裕子女史が先ずは頑治さんをからかってから、ジントニックを二口程飲んで口調を改めるのでありました。「ま、刃葉君の事は横に置くとして、来見尾さんは、未だそんなに話しをしたわけじゃないけど、何処か薄気味悪いところがあるのは確かね」
(続)
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あなたのとりこ 196 [あなたのとりこ 7 創作]

「あの人はどういう仕事をしているんだったっけ?」
 均目さんが先ず那間裕子女史を、それから頑治さんの顔を見るのでありました。
「会社の本業は工作機械を作っているメーカーらしいけど、一方で王様のアイデアとか玩具屋なんかで売っている、知恵の輪みたいなものとか、トランプとか花札とかいろはカルタとか、卓上将棋盤とか囲碁盤とか、そんな風な小玩具も製造している、浅草の方に在る会社の社員だと仰っていたんじゃなかったかな」
 頑治さんが応えるのでありました。
「ふうん。遊び道具を造っている会社の社員にしては、遊びとは縁遠い風貌よね」
 那間裕子女史が意外そうな表情で云うのでありました。
「得てしてそんなものさ」
 均目さんは皮肉を云う時の笑いを浮かべて頷くのでありました。
「あの人はその会社でどんな仕事をしているのかしら」
「営業回りだとか聞きましたよ」
 頑治さんが応えるのでありました。
「どう見ても、新しい玩具のアイデアを出したりするような仕事とは思われないわね」
「本業の工作機器の営業の方だそうです。お菓子メーカーとか缶のジュースやお茶、それにコーヒーとかの飲料品メーカーがお得意先だそうです」
「唐目君は結構来見尾さんの事を知っているのね」
 那間裕子女史は改めて頑治さんの顔をまじまじと見るのでありました。
「あの居酒屋の宴会の席で偶々隣に座ったから、ちょこちょこっとそんな話しをしただけですよ。何となく手持無沙汰そうにしていらしたから」
「その会社、従業員はどのくらい居るの?」
「確か二十五人程とか聞きましたね」
「うちなんかの倍以上ね」
「メーカーだから何やかやでそのくらいの社員は居るだろう。それでもまあ、町工場と云った感じだろうから、製造業としては小規模と云うところかな」
 均目さんが解説を差し挟むのでありました。
「来見尾さんは結婚していて、小学校三年生のお子さんが居て、安月給だからこの先中学高校と、教育費の事を考えると頭が痛いとかおっしゃっていましたよ」
「へえ、結婚しているんだあの人」
 那間裕子女史はまたもや意外だと云う顔をするのでありました。
「この先、その辺りはウチの山尾主任とも色々話が合うんじゃないかな」
 均目さんがここで山尾主任の結婚の方に話しの舳先を曲げるのでありました。組合関連の諸事よりもそちらの方に均目さんとしては関心がある風でありますか。

 そうこうしている内に歳は改まり、六日間の年末年始休みもあっという間に過ぎるのでありました。頑治さんは特に何する事も無く一人で正月を過ごしたのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 197 [あなたのとりこ 7 創作]

 年末も三十日までは三日間程、寒風の吹くどんよりとした天候で時折冷たい雨もしと降っていたのが、大晦日と正月三が日は打って変わってうららかな日和が続くのでありました。そう云えば子供の頃迄は東京よりは暖かな郷里でも冬には冷たい雨や雪の翌朝には、必ず軒先から氷柱が下がって居たりしたものでありましたが、東京に来て以来氷柱等と云う冬の季題のような代物は見た例が無いのでありました。こう温暖になると歌詠みの人も顰め面をするしかないであろうと、頑治さんは余計な心配をするのでありました。
 暮れの二十五日に夕美さんは帰省したのでありました。夕美さんが乗る新幹線は頑治さんの出勤前の早朝便であったから、頑治さんは発奮して東京駅の新幹線ホームまで見送りに行くのでありました。歳が明けて四日には戻ると云う事だから、その日にまた頑治さんは今度は出迎えに来ると出発前の列車の出入口で夕美さんに約すのでありました。
 大晦日の夜は本を読みながら歳を越し、布団に潜り込んだのは四更を過ぎてからでありました。依ってすっかり朝寝をして起き出したのは元日の昼頃でありましたか。
 近くの商店やら食い物屋はほぼ総て正月休みでありました。依って昨年から残っていた食パンにこれも昨年買った苺ジャムをぬたくって腹を満たし、湯を沸かしてインスタントコーヒーで口を漱ぐと、頑治さんは正月早々特段に遣る事も無いからと、酔狂から人並みに湯島天神に散歩がてらの初詣と洒落込むのでありました。
 湯島天神は大層な人混みで鳥居の外まで長い行列が出来ているのでありました。拝殿迄辿り着くのには相当の時間を要するであろうと恐れ戦いて、あっさりと初詣を諦めるとその儘上野方面へ向かって歩を曲げるのでありました。
 鈴本演芸場で正月興行でも観るかと算段したのでありましたが、大体正月の寄席は看板どころの勢揃いではあるものの、あくまで顔見せ程度の短い高座となるため、噺をじっくり堪能すると云う風にはいかないものだから止すか、と不忍池の畔で変心して、その儘浅草方面へと爪先の向く方角を変えるのでありました。
 勿論浅草寺も湯島天神と同様、それに演芸ホールも鈴本演芸場と同様の様相であろうからこれは端から頭には無く、新仲見世か六区辺りでは元旦から営業している食い物屋もあろうから、そこで夕飯にあり付こうと云う目論見であります。こうなるとこれはもう敢えて元旦に敢行するべき外出ではなく、普段のうろちょろとちっとも変わらないと云うところに落ち着く訳でありますが、まあ、土台正月行事なんと云うものとは頑治さんは縁遠いと云えば慎に縁遠い気儘暮らしであります故、宜なる哉と云うべきものでありますか。
 二日になると初売りと意気込む訳ではないようながらも、ぼつぼつ近所の商店も店開きを始めるところが出て飯に困る事は無いのでありました。お茶の水や神保町界隈の本屋や古本屋、それに食い物処等も出入口の鍵を開けるところもあって、普段と比べると街の人通りや車通りは嫌に疎らであっても相応の賑わいも戻って来るようであります。
 この二日の昼近く、未だ布団の中に居た頑治さんは電話の呼び出し音に惰眠を破られるのでありました。受話器を取る前に夕美さんからだろうとピント来たのでありましたが、果たして夕美さんの声が寝覚め遣らぬ耳の洞穴に流れ込んで来るのでありました。
「明けましてお目出とう。何していたの、朝寝?」
(続)
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あなたのとりこ 198 [あなたのとりこ 7 創作]

「ご明算」
 頑治さんは寝惚け眼を擦りながら少し掠れた声で肯うのでありました。
「寝正月なんて羨ましいわね」
「正月は寝る以外に遣れる事があんまり無いからね」
 頑治さんはここで欠伸をして見せるのでありました。「どうだいそっちは?」
「何時ものお正月より暖かいみたい」
「こっちも温かくて寝正月日和だね」
 頑治さんはもう一度欠伸するのでありました。
「今お父さんと兄は夕方迄あっちこっち年始回りに行っているのよ」
「お母さんは?」
「何となく気分が優れないからって、部屋で寝ているわ」
「どんな具合だい、お母さんの様子は?」
 この辺から頑治さんは頭の中の霞が晴れてくるのでありました。
「六日に精密検査で市立病院に入院する事になっているの」
「食事が儘ならないとか云っていたけど」
「そうね、夏に見た時より大分痩せたわね」
「心配な事だなあ」
「まあ、精密検査で色々はっきりするんじゃないかしら」
「そうだな、精密検査待ちって感じかな」
 ほんの少しの間が空いた後、頑治さんは話題を変えるのでありました。「ところで、そっちの友達には、もう何人かと逢ったのかな」
「今晩、高校の時の同窓会があるの。と云っても、三年の時の同じクラスだった六七人でお食事会って感じなんだけどね」
「学校全体の行事、と云う訳ではないんだ」
「そう。何となく仲間内で声かけて集まるって云う感じ」
「ミッション卒業の女子ばかりだから、大勢で酒喰らってドンチャン騒ぎは無い訳ね」
「まあ、そう云うのも全くしない訳じゃないけど」
「ま、お母さんの事はあるけど、楽しんでおいで」
「うん、楽しんでくる」
 夕美さんの声の調子は特段楽しみにしているようではないのでありました。
「四日の新幹線の指定席はもう取れているのかな?」
 頑治さんはまた話しの舳先を曲げるのでありました。
「うん。昼の三時に東京駅到着のひかり」
「判った。ホームまで迎えに行くよ」
「正月休みでのんびり朝寝したいだろうから良いわよ、態々来なくても」
「どんなにダラダラ朝寝したとしてもその頃には起きているよ。それにもう、朝寝、じゃないし。腹も、減るし。基本的に一人暮らしは正月には特に何もやる事が無いもの」
(続)
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あなたのとりこ 199 [あなたのとりこ 7 創作]

「そう云う事なら」
 夕美さんはあっさり頑治さんの厚意に甘える気になったようであります。「多分東京の叔母の家とかその他に、こっちの親類から預かったお土産とか届け物があれこれあると思うから、荷物が多くて大変になると思っていたの。来てくれたら本当は大助かりよ」
「そう云う事なら張り切ってお迎えに参上いたしますぜ」
 頑治さんはここが忠義の見せどころと意気込みを見せるのでありました。
「頑ちゃんにもお土産買って行くけど、何か希望はある?」
「夕美が無事に戻って来るのが何よりのお土産かな」
 頑治さんはそんな冗談を調子良く飛ばすのでありましたが、まあ、冗談は二分で八分方は本心ではありましたか。「そいで以って序に、玉川デパートの中に在る甘屋本舗のカルメ焼きでも貰えたらこんなに嬉しい事は無いかなあ」
「そんなので良いの?」
「小学校の頃からあれが何より好きだったんだよ」
「ふうん。判ったわ、カルメ焼きね」
「そう。甘屋本舗の」
「はいはい。甘屋本舗のカルメ焼きを買ってくるわ」
 電話越しにそんな他愛もない会話を交わしながらも、頑治さんはふと懸念を抱くのでありました。それは夕美さんのお母さんの病気が、ひょっとしたら夕美さんの今後の進路を決定する重大な要因になるのではないかというものであります。何やら事態は少し複雑な陰影を増し始めたような気配がするのでありました。

 新年早々に会社の中で人の配置を変える提案が持ち上がるのでありました。それは降って湧いたような唐突な提案で、労働組合結成にかまけていた社員の間に少なからず動揺が起こるのでありました。その中でも一番動揺したのは山尾主任でありましょうか。
 五日の初出社日の終業一時間程前に倉庫で梱包作業をしていた頑治さんは、土師尾営業部長から上に上がって来るようにとの指示を内線電話で受け取るのでありました。急ぎの発送仕事が出来たのかと思って事務所に上がると、出入り口奥の応接ソファーの辺りに社員全員が集合しているのでありました。何やら妙に深刻な雰囲気であります。
 二つ並んだ一人掛けのソファーに土師尾営業緒部長と片久那制作部長が座り、対面する長ソファーに日比課長、真ん中に山尾主任、それから袁満さんと窮屈そうに三人並んで腰をかけて、どこか居心地悪そうな面持ちで畏まっているのでありました。袁満さんと出雲さんの机は応接ソファーを背後にする位置にあるのでありますが、袁満さんの席に那間裕子女史が座り、出雲さんの席には均目さんが座っていて、椅子をくるりと回してソファーの方に体を向けているのでありました。出雲さんと甲斐計子女史は出雲さんの机の横の通路スペースにどこか体を斜にしたような雰囲気で無表情で立っているのでありました。
 立っている出雲さんの横に頑治さんが並ぶと、土師尾営業部長が社員全員打ち揃ったのを確かめるように一同を見回すのでありました。こちらも嫌に深刻顔であります。
(続)
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あなたのとりこ 200 [あなたのとりこ 7 創作]

 片久那制作部長はソファーに深く背を凭せ掛けて不機嫌そうに腕組みしているのでありました。片久那制作部長が口をへの字にして全く開かないものだから、ここは自分の出番と思ってか土師尾営業部長が小難し気な顔で重々しく喋り始めるのでありました。
「新年の仕事始め早々、こうして全員に集まって貰ったのは、これから会社の将来とか喫緊の人員配置なんかについて話すためです」
 一応丁寧な物云いはしているもののその実、問答無用と云ったような高飛車な調子に聞こえるのでありました。「昨年の暮れに支給されたボーナスでも判ると思いますが、最近に無い業績不振で、今会社は大変な岐路にあります。この儘何も方策を講じないで手をこまねいていれば、会社の存続が不可能と云う状態にまで陥るのは明らかです」
 それから土師尾営業部長は手元の紙に目を移すのでありました。「出張営業の売り上げが毎年々々じり貧になっているのは云う迄も無いですが」
 ここで土師尾営業部長は袁満さんと出雲さんの顔を挑むような目で交互に見るのでありました。出雲さんはオドオドと目を伏せるのでありましたが、袁満さんはそう云う土師尾営業部長の云い草に不満があるように口を尖らせるのでありました。
「でも、まあ、確かに売り上げは落ちていますけど、去年は一昨年と比べてそんなに極端な落ち込みと云う訳ではないと思いますがね」
 袁満さんは後ろ目たそうにではあるにしろ異議を唱えるのでありました。
「袁満君はそう云うけど、出張営業全体の売り上げで云うと十五パーセントの減少になる。袁満君は自分の仕事だから勿論その数字は掌握している筈だろう」
「そう、なりますかねえ。・・・」
 袁満さんは何となくたじろいだような表情で曖昧な返事をするのでありました。ひょっとしたら袁満さんはちゃんとした数字を持っていないのかも知れないと、頑治さんはその顔色からふと不安になるのでありました。数字に関してはすっかり甲斐計子女史に任せきりなのかも知れません。現場に居るから売り上げが減少していると云う実感はあるのだとしても、しかしそうなら、怠慢の誹りを免れ得ないと云うべきでありましょうか。
「まあ、出張営業の不振は恒例の事だから、十五パーセントと聞いてもそれ程驚く事はないけど、問題は特注営業の方の売り上げの落ち込みが深刻です」
 袁満さんとの個別の遣り取りの時にはそうではなくなった言葉が、また丁寧さを取り戻すのでありました。特定の個人ではなく全員に話す時には丁寧な口調になるよう変化を付けているようでありますが、それがどのような判断からかは頑治さんには良く判らないのでありました、殆ど意味の無い区別だとしか思えないのでありますが。
「確かに今年は、毎年受注している大口が二件ありませんでしたからねえ」
 日比課長があっさり同調するのでありましたが、当の特注営業を担当している人の言と云うよりはどこか他人事のような無神経な、呑気そうな云い様でありました。
「そう。日比君が担当している二社からの発注が無かった」
 土師尾営業部長は例に依って年上の日比課長を君付けにするのでありました。役職の上ではなく自分より格下の営業マンとして日比課長を見ているためでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 201 [あなたのとりこ 7 創作]

「いや、二社共私が専門に担当していると云う訳じゃない。部長だって関与している会社じゃないですか。どう云う用事か知らないけど顔出しも偶にしているようだし」
 日比課長は抗弁するのでありましたが、何となく責任逃れの言葉のように聞こえるのでありました。日比課長としては受注が来なかったのは自分だけのせいだと暗に責められているように受け取って、それは大いに不本意だと表明したかったのでありましょう。
「でもその二社から受注があった時は日比君の実績として何時も評価している」
 そう云われて日比課長はそれ以上の反論は控えるようでありました。まあ、本当に日比課長の実績として土師尾営業部長が認識しているかどうかは別にしても。
「確かにウチの業績は特注任せのところがありますからねえ」
 袁満さんが土師尾営業部長と日比課長の遣り取りをそれ以上険悪にさせないためか、そう云ってから土師尾営業部長に話の先を促すような目を向けるのでありました。
「袁満君がそんな風に云うとはがっかりだね。そんな人任せみたいな無責任な事を云う前に、落ち込み続けている出張営業をどう立て直すか考える方が先じゃないのか」
 土師尾営業部長は袁満さんの、場を穏やかに保とうとする意を台無しにするような事を口にするのでありました。袁満さんは憮然として土師尾営業部長の口元を一瞬睨むのでありましたが、特に日比課長のように抗弁はせずに、慎に控え目で及び腰の舌打ちをしてからそっぽを向くのでありました。返す言葉を失った、と云った仕草でありましょう。
「まあ良いけど」
 土師尾営業部長は不愉快そうに呟いてから、ここで仕切り直しをする心算か咳払いをして徐に眉間に皺を寄せて手に持つ紙に目を落とすのでありました。

 土師尾営業部長は顔を起こしてから続けるのでありました。
「その二社に引き摺られた訳じゃないだろうけど、特注営業全般で売り上げが昨年より落ちているし、今現在、大口の受注が殆ど無い状態です」
「長い目で見れば、そう云う時期もあるんじゃないですかね」
 ここで山尾主任が口を開くのでありました。
「そんな事を云って楽観している余裕は無いよ。不謹慎な発言は慎んでくれるか」
 土師尾営業部長は鮸膠も無く即答するのでありました。「制作部はある意味で売り上げの実情に無関心だから、そう云う危機意識の無い事を平気で云えるんだろうけど」
 ここで今まで全く口を開く事の無かった片久那制作部長が如何にも聞こえよがしに鼻を鳴らすのでありました。これは土師尾営業部長への一種の牽制でありましょう。つまり業績の実状だけではなく会社そのものの実状を一番知っているのは、お前さんじゃなくてこの自分だろうが、と云う謂いを籠めた一挙放出的な鼻息音でありますか。
 土師尾営業部長はビクッとして、横の片久那制作部長をたじろいだ目で見るのでありました。片久那制作部長の方は顔を動かさないで、不機嫌そうに前上方一点に視線を向けているだけでありました。貫録の差がここで歴然と現れたと云った按配でありますか。
「勿論、片久那制作部長も業績について良く承知しているけど」
(続)
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あなたのとりこ 202 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長は慌ててそんなフォローを口に上せるのでありました。
「しかし俄かにオロオロし出しても始まらないじゃないですか」
 山尾主任は土師尾営業部長の片久那制作部長に対する見苦しい程の小心さか、或いはそれ以前に、事をやけに大袈裟に深刻化して、それに依って人を圧倒し委縮させようとする遣り口に反発したのか、呆れたような表情でぞんざいに吐き捨てるのでありました。
「オロオロなんかしていないよ」
 頑治さんが思った通り、土師尾営業部長はすぐに相を険しくして感情的に反応するのでありました。この人を興奮状態にさせるのはいとも簡単なようであります。
「ああそうですか」
 何時もながらに手に負えない、或いはこの儘相手をするのは如何にも億劫だと思ったようで、山尾主任はそう皮肉っぽく云ってその後口を閉ざすのでありました。
「皆、危機意識が薄いんじゃないの」
 山尾主任が舞台袖にすごすごと引っ込んだためか土師尾営業部長は、今度は社員全員に憤怒の唾をぶちまけるのでありました。「会社が今まで経験した事の無いような危機にあると云うのに、全員が全員、どうしてそんなに呑気な事を云っていられるんだろう。到底理解に苦しむよ。そんな事だからマトモな仕事も出来ないんだ」
 全員に話す時でも、丁寧な言葉遣いはもうすっかり止したようであります。「頼んでもきちんと用を果たせない。云われた事を上の空で聞いているから同じ失敗を繰り返す。それでいて反省も無いから同じ不手際をしても少しも懲りない。決まった給料さえ貰えれば会社が今どんな状況に在るかにも無関心だし、会社に貢献しようと云う気も無い。手を抜く事ばかり考えている。お客さんや、目上や役職の上の人に対してちゃんとした言葉遣いも出来ない。全員がそんな調子なら、危機を乗り切る事なんか絶対出来る訳が無いよ」
 これはもう単に、日頃の鬱憤、或いは自分を軽んじているらしき他の社員への恨みつらみを、手当たり次第に投げ散らかしていると云ったところでありましょうか。頑治さんは駄々を捏ねて、掴んだ玩具を無闇に投げ捨てて八つ当たりしている子供を見ているような気がするのでありました。こうなると落ち着くまで相手にしないのが得策であります。
「そんな事はどうでも良いよ、今は」
 ここで片久那制作部長が我慢し切れなくなったのか、荒げた言葉で土師尾営業部長の嘴をグイと掴んでそれ以上開かせないようにするのでありました。土師尾営業部長は嘴を掴まれた儘、気後れした瞳を微動させながら片久那制作部長の顔を見るのでありました。
 一瞬で場が緊張するのでありました。土師尾営業部長の万言よりかは、片久那制作部長の一言の方が遥かに一種の破壊力があると云う事でありますか。
「さっさと本題に入ったらどうだろうな」
 片久那制作部長は土師尾営業部長に穏やかに云うのでありました。これは判らんちんの子供を諭すような云い草に似ているのでありました。
「ええと、本題、と云うと、・・・」
 土師営業部長はオドオドと縋るような目を片久那制作部長に向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 203 [あなたのとりこ 7 創作]

「人事の事以外にあるかな」
 片久那制作部長は土師尾営業部長の顔にそこで視線を向けるのでありましたが、その眼相に恐れをなしたかのように土師尾営業部長は慌てて視線を逸らして、俯いて手に持つ紙を見るのでありました。手が心なしか震えているように見えるのでありました。
「では先ず、制作部の山尾君ですが、・・・」
 土師尾営業部長はまた丁寧口調に戻って先を続けるのでありました。「特注営業の梃入れと云う事で、好都合にも制作の過程や原価とかを把握していると云う今迄の経験を生かして、二月からは営業部の方に移って貰いたいと思っています」
 そう云われた当の山尾主任はどこか他人事のような無表情でありました。云われた事がどう云う事なのか即座に呑み込めないと云った様子であります。寧ろ離れた処に座って居た那間裕子女史の方が困惑したように小さな唸り声を発するのでありました。その唸り声のために俄かに我に返ったのか、山尾主任の顔にようやく表情が戻るのでありました。
「営業部に移るのですか?」
 山尾主任は先ず土師尾営業部長を、それから片久那制作部長を見るのでありました。
「そう。山尾君なら先方との話しの中で、すぐに見積額とか納期の話しが出来るだろうから話しがスムーズになる。これからは営業の即戦力として意欲的に活躍して欲しい」
 土師尾営業部長が仕儀の説明をするのでありました。山尾主任は土師尾営業部長に説明されている間も、片久那制作部長の顔の方に視線を向けているのでありました。
「その話しは制作部長も納得されているんでしょうか?」
 山尾主任は土師尾営業部長にではなく、片久那制作部の方に目を据えた儘で訊くのでありました。興奮と動揺のためか、声が心なしか尖っているのでありました。この提案は山尾主任にとって全く寝耳に水と云うところでありましょう。
「当然、納得しているよ」
 片久那制作部長は陰鬱気に眉根を寄せて、眼鏡の奥の目を山尾主任から逸らすのでありました。山尾主任の配置異動に関して何となく心苦しさがあるようであります。
「詳しい説明が欲しいですね」
 山尾主任は片久那制作部長のつれない対応に不信と憤懣を覚えたようでありました。
「経緯とかは後で、差しで話すよ」
 片久那制作部長は瞑目するのでありました。この場ではそれ以上喋らない心算のようであります。頑として口を噤むといった了見か、取りつく島も無いような顔であります。
「勿論、嫌ならそう云ってくれればこちらも再考する用意はある。但しここですぐにではなく、一度じっくり考えてからにして貰いたいけどね」
 土師尾営業部長が横から言葉を挟むのでありましたが、山尾主任はそちらには一顧も呉れず、自分と目を合わせない片久那制作部長の方に目を釘付けているのでありました。
 暫くしめやかな緊張の時間が場に重く沈殿するのでありました。
「それから出雲君だけど、・・・」
 土師尾営業部長がどこか無神経そうに泥んだ重い空気を掻き乱すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 204 [あなたのとりこ 7 創作]

 次に名前を呼ばれた出雲さんは、ビクッと体を小さく震わせてから顔を起こすのでありました。これ迄の話しの流れからすると、今度は自分に対して好都合でない理不尽な提案がなされるものと身構えたのでありましょう。
「出雲君も今迄の出張営業から特注営業の方に回って貰います」
 土師尾営業部長は出雲さんの動揺に頓着せずに続けるのでありました。「と云っても都内や近郊の特注営業ではなく、地方の特注営業と云う事になります」
「地方の特注営業、ですか?」
 出雲さんは云われている事柄が良く呑み込めないと云った顔をするのでありました。
「そう。今までの特注営業は都内とか精々埼玉や神奈川辺りの会社に限られていたけど、これからはもう少し地方の街に在る会社にも営業の範囲を広げて行こうと云う計画なんだよ。先ずは千葉や水戸や高崎、それに宇都宮辺りの日帰り出来るエリアからね」
「そう云うのは都内にある広告代理店なんかに任せていた筈ですけど?」
 日比課長が首を傾げるのでありました。
「それでは貴方任せでしかないから、ウチで直接営業しようと云う事だよ」
「ウチで直接動くとなると、今迄取引きしていた代理店とかから文句が来ないかなあ」
 日比課長は首を傾げた儘で懸念を表するのでありました。
「でも代理店任せだとなかなか仕事が来ないのも事実だろう。代理店だってウチの商品だけ力を入れてセールスしてくれている訳じゃないんだから」
「日比さんはウチと代理店との間で培ってきた信義の点を心配しているのでしょう」
 袁満さんが日比課長の方に顔を向けて横から口を挟むのでありました。直接土師尾営業部長の方に云うのは畏れ多いと云うより、この人によくある傾向から判断して、すぐに自分に逆らったと思って感情的に反発される面倒が億劫なためか、袁満さんは日比課長に話し掛ける体裁で意見をものしたのでありまししょう。
「まあそう云う事だけど」
 日比課長が頷くのでありました。
「そんな事云ったって、代理店任せだと仕事が来ないのなら仕方ないじゃないか」
「でも、若しウチが直接営業を掛けていると知れたら、代理店だって得意先荒しをされているようで面白くないと思いますよ。そうなったら今後、その代理店からの仕事は無くなるかも知れない。そっちの方が寧ろ、損失が大きいんじゃないかなあ」
 日比課長はあくまで慎重論の内に立て籠もって異論を繰り返すのでありました。
「そんな消極的な思考しかしないから売り上げが落ちるんだよ。代理店に知れないように上手に営業すればいいんで、それは営業手腕と云うか手際次第だろう」
 土師尾営業部長は目を吊り上げて、早速苛立たしそうな感情的な口調になるのでありました。日比課長は何時もの事だからげんなりした表情で瞑目するのでありました。
「営業先とウチとの関係が、そこと今まで付き合ってきた代理店との関係より密になれば、それはバレないかも知れないけど、そこ迄密になるには時間が掛かるんじゃないかな。その前に注進されて、結局ウチと代理店との信頼関係が壊れるような気がするなあ」
(続)
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あなたのとりこ 205 [あなたのとりこ 7 創作]

「そう云う風にしか考えないから袁満君はダメなんだよ」
 口を閉ざした日比課長の代わりにと云う訳ではないでありましょうが、及び腰ながら反論を試みた袁満さんに土師尾営業部長は頭ごなしの否定を投げ付けるのでありました。
「でもウチみたいな人数の少ない小さな会社は、他社との関係こそ何より大事だと考えるなら、思い付いた事を後先考えないで勝手都合で何でもして良いという事にはならないでしょう。ひょっとしたらそれは命取りにもなりかねないんじゃないですかね」
 袁満さんはめげずに、至極まともらしい懸念を表するのでありました。
「何でもして良いなんて誰も云っていないじゃないか」
 土師尾営業部長は顔を紅潮させて目尻を吊り上げるのでありました。「営業の手際次第でその辺はどうにでもカバー出来る問題だろう」
「第一、今迄特注営業の経験が何も無い出雲君が、その辺の機微をいきなり上手に処理出来る筈はないし、営業経験が豊富な部長にしたって、おいそれとどうにでも出来るとは思えないわね。怒るだけで説得力のある根拠も方法も示さないのはダメよ」
 営業部の袁満さんは云い難いと思ってか、ここで那間裕子女史が揶揄雑じりの言を吐くのでありました。何時もなら山尾主任がそう云う役割を担うのでありましょうが、先に制作部から営業部への鞍替えを云い渡された事で心の内で動揺があるらしく、この場に於いては何も言葉を発しないのでありました。かなりショックであったようであります。
「じゃあ、那間君ならやれるとでも云うのか」
 土師尾営業部長のこの買い言葉は支離滅裂とも云えるでありましょう。頑治さんは余りのピント外れに思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えるのでありました。
「それこそ、誰もそんな事は云っていないでしょう」
 那間裕子女史はげんなり口調で呆れて見せるのでありました。「何でそんな風に、人の意見を僻耳でしか聞く事が出来ないのかしらねえ」
「僻耳でなんか聞いていないよ」
 土師尾営業部長は熱り立つ、或いは熱り立つ真似をするのでありました。
「もう、話しになりそうにないわね」
 那間裕子女史はクールな云い様をするのでありましたが、心根の内の軽蔑と憤怒をつまりそう云う云い様で表現しているようでありますか。
「那間君も、そのくらいにしとけよ」
 片久那制作部長が怒ったように声を上げるのでありました。一瞬で場の空気が凍り付くのでありました。さすがの迫力であります。更に、那間君も、と云うこの、も、を云う事で暗に土師尾営業部長に苦言を呈したのであろうと頑治さんは思うのでありました。
 土師尾営業部長も那間裕子女史も、それにこの場に居る全員が緊張の面持ちで次の片久那制作部長の次の言葉を待つのでありました。
「集まったのは人事の件だとさっきから云っているんだから、あれこれ余計な話しはもう沢山だ。それに営業の細かな話しは営業部の会議でやってくるかな」
 片久那制作部長は横に座っている土師尾営業部長の方に顔を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 206 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長も一瞬顔を向けるのでありましたが、怖じたようにすぐに目を逸らして手元の紙に視線を落とすのでありました。それから声のトーンを今迄とは違ってやけに落として、本題を続けようとするのでありました。
「ええと、それから日比君だけど、・・・」
 ここで名前が出た日比課長が少し背筋を伸ばすのは、お次は自分がとんでも無い配置転換を云い渡されるのかと体を強張らせたからでありましょう。

 土師尾営業部長は紙に目を落とした儘で続けるのでありました。
「山尾君が特注営業に回るんだから、年度末までに今迄日比君が担当していた会社を山尾君に順次引き継いでいって貰いたいんだ。その後新年度からは、今迄の特注営業の経験を生かして、出雲君の地方特注営業の仕事を監督指導していって貰う事になる。出雲君と協力して新しい仕事に邁進して貰いたい。会社としては大いに期待しているから」
 この土師尾営業部長の言を聞いて出雲さんが不意に小さく頷くのは、特注営業に関しては経験も無く、何も知らない自分が一人で暗中模索しなければならないのかと大いにたじろいでいたので、日比課長と一緒だと聞いてほんの少し安心したのでありましょう。
「出雲君と一緒に地方の特注営業ですか。・・・」
 日比課長が一つ唸った後に顎を撫でながら呟くのでありました。
「そう。これは会社の営業活動の新しい柱として大きく成長させたいんだ」
 土師尾営業部長は鼓舞するような口調で日比さんに頷いて見せるのでありました。しかしどことなく、そう云う割には妙に芝居っぽい風情がその物腰にあると頑治さんは感じるのでありました。本当は然程の期待は抱いていないくせに日比課長と出雲さんをこの場だけ納得させるために、あれこれ言を弄しているのではないかと思ったのであります。
「今迄の特注営業から外れろと云うわけですか」
 日比課長は不満且つ億劫そうな気配を見せるのでありました。それはそうでありましょう。これ迄日比さんが長い時間を費やして自分なりに培ってきた取引先との関係を無にして、あっさり山尾主任に譲れと云われているのでありますから。
「新しい地方の特注営業先を開拓して貰いたいと云っているんだよ」
「未だちゃんとした形も方法も無い、それどころか、そう云う市場があるかどうかも知れない仕事のために、これ迄遣ってきた仕事を離れろと云うのですね」
「何度も何度も、そんな消極的な云い方は止してくれるか」
「いや、消極的と云うのか、突然そう云い渡されても、ねえ。・・・」
 日比課長は苦った顔で土師尾営業部長を見るのでありました。頑治さんはふと、戦国時代の織田信長の家臣だった明智光秀の事を思い浮かべるのでありました。確か石見と出雲を攻めるに際して、そこは未だ毛利領であるけれど攻め取り次第だと、未だ取ってもいない領地を担保に現有の丹波と南近江の領地を召し上げられたのでありましたか。
 何となく土師尾営業部長はそんな条件を日比課長に示しているような按配ではないでありましょうか。まあ、土師尾営業部長が信長程の器量があるかどうかは全く別として。
(続)
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あなたのとりこ 207 [あなたのとりこ 7 創作]

「どうして日比君は何時もそうなの。新しい仕事にもっと意欲的な態度を示しても良いじゃないか。そんな事だから今迄も新規開拓がちっとも出来なかったんだ」
 土師尾営業部長の云い草は、この事だけに限らず、日比課長に対する日頃の苛々が混じっているように聞こえるのでありました。これはなかなか険悪な雰囲気であります。
「やれと云われれば、そりゃあ、やりますけどね」
 日比課長は話しても無駄だと思ったのか、ふてたような投げ遣りな云い方をするのでありました。ただ、日比課長は本気で鞍替えを受け入れる心算でありましょうか。そう云えば最終的には智光秀は謀反に及んだなあと頑治さんは思うのでありました。
「そう云う云い方をされるのは不愉快だな」
 進取の気象も果断な行動力も、思い切りの良さも新しもの好みも、厳切な権威もカリスマ性も信長には遠く及ばない、グッと俗っぽいながら頑迷と虚勢と強欲と執念深さ辺りに限定すれば、多少は似ていなくもない土師尾営業部長が日比課長の言辞にいちゃもんをつけるのでありました。日比課長は如何にも、面倒になっただけで畏れ入った訳ではないと云う辺りを表するべき苦笑いを浮かべて、それ以上言を重ねないのでありました。
「さっきから再三云っているけど、本題以外の余計な話しは後にして、さっさと人事の話しを終えてくれないかな。こっちは未だ仕事が残っているんだから」
 片久那制作部長が少し語気を強めて、日比課長を睨みながら云うのでありました。しかし視線は日比課長に向いてはいるけれど、日比課長一人だけにそう苦言を呈しているのではなく、寧ろ横に座っている土師尾営業部長をより強く意識して発せられた言葉であろうところが充分知れるのは、何も頑治さん一人に限った事ではないでありましょう。
 勿論、土師尾営業部長もそれが判るようで、反射的にほんの少しながら片久那制作部長から身を遠ざけるような仕草をするのでありました。片久那制作部長が僅かばかり表しただけの剣幕にすっかり怯えたようであります。こういう辺りに、性根の全く座っていない臆病な本性が見事に表れて仕舞ったと云うところでありますか。
「若し文句があるのなら、後で営業会議を開くからその場でじっくり日比君の云い分を聞くよ。その代りこっちも遠慮無く云いたい事を云わして貰うからな」
 自分と片久那制作部長の格の差が思わず露呈して仕舞ったのを繕うためか、土師尾営業部長はそんな脅し台詞を吐いて天敵を見るような目で日比課長を睨むのでありました。こんな直情的で子供じみた意趣返しをすぐして仕舞う辺りが、益々この人の株を下げているのになあと頑治さんは軽蔑六分に遣る瀬無さ三分、同情一部で思うのでありました。
「ええと、それから、・・・」
 土師尾営業部長が暫く紙に目を落としてから少し気を取り直したようにそう云いかけたところで、無愛想面で意気消沈の沈黙を保っていた山尾主任の横に、今迄気後れして居心地悪気にソファーに小さくなっていた袁満さんが徐に口を開くのでありました。
「出雲君が抜けるのなら、これ迄出雲君が担当していた地方の出張営業は一体どうする心算なんですかね。俺一人じゃあとても手が回りませんよ」
「だからそれを、これから説明しようとしていたんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 208 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長が今度は袁満さんの方に険しい視線を向けるのでありました。
「ああそうですか」
 袁満さんは少しふてた語調でそう云ってその後は口を噤むのでありました。
「確かに袁満君一人で全国を出張でカバーするのは難しい事になる。だから勿論、一部の地域は暫くの間は出張を継続して貰う事になるだろうけど、後は漸次電話を駆使するとかあれこれ、他の適切な遣り方を袁満君自身で考えて貰いたいと思っている」
「後の事は俺にすっかり丸投げですか」
 日頃からあんまり怒った顔は見た事が無い袁満さんが、やや興奮した口調でそう云い捨てて目を吊り上げるのでありました。出張営業の大変さを、実は全く理解していないと思しき土師尾営業部長にはここで改めてげんなりしたと云ったところでありましょう。
「そう云う云い方は止めてくれるか。日頃から感じていたけど、袁満君は何も自分では考えないで、従来通りの営業のやり方に安穏と乗っかっているだけだったけど、それじゃあ売り上げがじり貧になるのは当たり前だ。ここはそう云う態度を改めて、今迄の効率の悪い出張営業の在り方を見直す良いチャンスだと捉えるべきじゃないか」
 これは趣旨として、前に酒の席か何かで那間裕子女史からも聞いた話しだと頑治さんは思うのでありました。しかし土師尾営業部長の云い口には一種の無責任さが感じられるのでありました。それは出張営業をさして大切にも思っていないような気色と云うのか、幾つかある贈答社の営業手段の数にも入れていないような軽々しさと云うのか。まあ、那間裕子女史もそんなに責任ある切実な気配で云ってはいなかったのでありましたけれど。
 袁満さんが今恐らく秘かに危惧しているように、土師尾営業部長は袁満さんにすっかり丸投げして、結果が出せないなら出張営業と云う営業形態を容赦無く切り捨てる心算でいるのかも知れません。若しそうなら、袁満さんにとっては忌々しき問題であります。
 無愛想に黙り込んでいた日比課長がここで声を上げるのでありました。
「部長の今云っている事は、あれもこれも無茶ですよ」
「何が無茶なんだ」
 土師尾営業部長は日比課長を睨んでムキになるのでありました。
「だって、今の話しを聞いているとまるで出張営業を切り捨てようとしているように聞こえるじゃないですか。それじゃあ袁満君も立つ瀬が無いと云うものですよ」
 日比課長も頑治さんと同じような危惧を土師尾営業緒部長の話し振りから感じたようでありました。恐らく袁満さんも他の社員も、この辺は同じでありましょうか。
「じゃあ聞くけど、この儘何も手段を講じないでいたら、日比君はウチの会社はどうなると思うんだ。この儘推移すれば、業績回復が見込めないから、厳しい事を云うようだけど今年一杯持つかどうか判らないからね。それでも構わないと日比君は云うのか」
「そんなに喧嘩腰にならなくでも良いですよ」
 日比課長は皮肉っぽく笑って、対抗上至極穏やかに返すのでありました。それがまた土師尾営業緒部長の怒りを増幅させるのでありました。
「誰も喧嘩腰になんかなっていないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 209 [あなたのとりこ 7 創作]

 土師尾営業部長は声を一オクターブ程上げて荒げて見せるのでありました。紛う事無く見事に喧嘩腰になっていると頑治さんは秘かに笑うのでありました。

 片久那制作部長が背凭れから上体を起こして横の土師尾営業部長の方に視線を向けるのでありました。片久那制作部長の挙動の一々を終始過剰に気にしていたのであろう土師尾営業部長は、その自分に向けられた視線に思わずおどおどと狼狽えるのでありました。
「もういい加減にしてくれないかな」
 大人しい云い様ではあるけれど、ドスの利いた不愉快そうなその声に土師尾営業部長の体が瞬時に固まるのでありました。ここでも格の違いが如実に表れた格好であります。
 ここに於いてはっきり自分に向けられた片久那制作部長の怒気に、土師尾営業部長は眼鏡の奥の眼球をせわしなく搖動させながらたじろぐのでありました。
「営業の話しは営業会議でとさっきから云っているじゃないか」
「ああ、そうだったね。・・・」
 土師尾営業部長はしどろもどろに云って、反射的に出て仕舞ったのか、お追従笑いのような笑みを片久那制作部長に向けるのでありました。
「この先の人事と云うか仕事の担当は、先ず日比さんは新しく特注営業に回る事になった山尾君に漸次仕事を引き継いで、その後は新しい地方特注営業を受け持つ事になった出雲君と一緒にそちらを専任で受け持つ。それから袁満君は出張営業の遣り方を根本から見直して二月迄には一定の見通しを立てる。勿論日比さんと出雲君はもっと長いスパンで考えて構わない。そう云う方向でこれから頻繁に営業会議を開いて検討してくれと云う事だ。日比さんと山尾君、それに出雲君は新しい分野の仕事に携わる事になるし、袁満君は今の自分の仕事の遣り方を見直せ、と云うのが今日集まって貰って伝えようとした趣旨だ」
 片久那制作部長が纏めるのでありました。確かに余計な事を喋らずこれだけ淡々と述べれば、無意味な紛糾は生じなかったかもしれません、いやまあ、話しの内容が内容だけに、単なる伝達事項として終わる事は無かったかも知れませんけれど。
 それでも、日頃からちっとも心服されていない体裁上のボスである土師尾営業部長の口から乱暴に伝えられるよりは、誰からも畏れられている実質的ボスたる片久那制作部長の威を以ってクールに伝えられた方が、社員の方も途中で話しの腰を折るとか、すぐに反論を口にする事も恐らく出来ずに、もう少しくらいはこの会合は早く終了していた事でありましょうか。まあ、矢張り話しが話しだけに、それは俄には判りませんけれど。
「それじゃあ一つお伺いしたいのですが」
 今迄悄気ていた山尾主任が声を上げるのでありました。「自分達の配置転換とかの提案は判りましたけど、それならば営業部長の仕事振りはこれ迄同様で何の変更も無いのですか? それに不謹慎かも知れませんが業績不振を招いた、敢えて云えば制作部長も含めた両部長の会社運営上の責任と云う問題は、ここでははっきりされないのですか?」
 この言を聞いてすぐにまた土師尾営業部長が迂闊に熱り立って反射的に何か口走ろうとするのでありましたが、片久那制作部長がやおらそれを手で制するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 210 [あなたのとりこ 7 創作]

「勿論それは当然の言葉だ」
 片久那制作部長は山尾主任に向けていた視線を下に落とすのでありました。「営業部長の仕事振りに関しても色々改善すべきところはあるし、この自分の仕事に関しても反省点はある。しかし今日は再三云っているように人事の件が主題だ。その話しをし出すととても時間が足りなくなるから、今日のところは勘弁してくれるか」
 自分の仕事振りに改善すべきところがあると云われた時に、土師尾営業部長が眉間に皺を寄せて横の片久那制作部長の方を窺いながら小さな身じろぎをするのは、その言に異議がある故の反発からなのか、或いはそう云われて確かに身に覚えがあると緊張した故なのかはよく判らないのでありました。人柄から察すると、前者でありましょうけれど。
 しかし片久那制作部長の威厳に気圧されて反論も吐けないようでありました。ここで異を唱え出すと片久那制作部長が血相を変えて、自分に対して怒声を浴びせて来るかも知れないのを小心に恐怖したのでありましょう。土師尾営業部長は何か云いた気に唇をモゴモゴと動かすのでありましたが、まあそれが精々の反発の仕草でありましょうか。
「お二人に関しての、今提示された我々の人事や配置の変更を、我々が受け入れるに足るような、と云うのか、ちゃんと納得が出来るような仕事の遣り方や管理の在り方の具体的な改善策を、今日とは云わないけれど、また別の機会に示してくれるのですね?」
 山尾主任も片久那制作部長の威に気押されている気配はあるものの、しかし片久那制作部長の事物に対する公平感覚や信頼感を頼りに、ここは引かないのでありました。
「勿論そうする心算だ。山尾君達だけに責を押し付けるような真似はしないよ」
 片久那制作部長はこれ以上無いと云った真面目な顔付きをして、山尾主任の目を凝視しながら一つ頷くのでありました。自分に対する山尾主任、或いは他の全社員の畏れとか心服とか依頼心とかの心情を充分弁別していて、それをここで最大活用しているような、一種芝居じみた顔付きのように頑治さんには見えるのでありました。まあ、だからと云ってそれを殊の外不愉快に感じたと云う訳ではないのでありますが、ただ、自分とは全く異なる人種であるのだろうなあと云う疎遠観みたいなものは強く感じるのでありました。
「判りました。その改善策が早く出て来る事を望みます」
 山尾主任はどうせこれ以上、片久那制作部長には逆らえないと観念したように意外にあっさりと云うのでありました。「しかし僕が、或いは僕等が、この場で今示された人事や配置転換をおいそれと受け入れると云う訳ではありませんよ。考えさせては貰うけど」
「あれこれ考える迄も無く、受け入れなければ君等に将来は無いよ」
 すっかり場のヘゲモニーを片久那制作部長に奪われて、隅に置かれたような格好で居た土師尾営業部長がここで俄かに、無神経な自己の存在主張をし出すのでありました。
「将来は無い、とはどう云う事ですか」
 山尾主任がすぐに目を怒らせて突か掛かるのでありました。「要するに、若し受け入れないのならば、会社を辞めろと云っているんですか」
「そう云う事だって、まあ、あるかも知れない」
 ここで片久那制作部長の遠慮の無いやけに大きな舌打ち音が響くのでありました。
(続)
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