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あなたのとりこ 197 [あなたのとりこ 7 創作]

 年末も三十日までは三日間程、寒風の吹くどんよりとした天候で時折冷たい雨もしと降っていたのが、大晦日と正月三が日は打って変わってうららかな日和が続くのでありました。そう云えば子供の頃迄は東京よりは暖かな郷里でも冬には冷たい雨や雪の翌朝には、必ず軒先から氷柱が下がって居たりしたものでありましたが、東京に来て以来氷柱等と云う冬の季題のような代物は見た例が無いのでありました。こう温暖になると歌詠みの人も顰め面をするしかないであろうと、頑治さんは余計な心配をするのでありました。
 暮れの二十五日に夕美さんは帰省したのでありました。夕美さんが乗る新幹線は頑治さんの出勤前の早朝便であったから、頑治さんは発奮して東京駅の新幹線ホームまで見送りに行くのでありました。歳が明けて四日には戻ると云う事だから、その日にまた頑治さんは今度は出迎えに来ると出発前の列車の出入口で夕美さんに約すのでありました。
 大晦日の夜は本を読みながら歳を越し、布団に潜り込んだのは四更を過ぎてからでありました。依ってすっかり朝寝をして起き出したのは元日の昼頃でありましたか。
 近くの商店やら食い物屋はほぼ総て正月休みでありました。依って昨年から残っていた食パンにこれも昨年買った苺ジャムをぬたくって腹を満たし、湯を沸かしてインスタントコーヒーで口を漱ぐと、頑治さんは正月早々特段に遣る事も無いからと、酔狂から人並みに湯島天神に散歩がてらの初詣と洒落込むのでありました。
 湯島天神は大層な人混みで鳥居の外まで長い行列が出来ているのでありました。拝殿迄辿り着くのには相当の時間を要するであろうと恐れ戦いて、あっさりと初詣を諦めるとその儘上野方面へ向かって歩を曲げるのでありました。
 鈴本演芸場で正月興行でも観るかと算段したのでありましたが、大体正月の寄席は看板どころの勢揃いではあるものの、あくまで顔見せ程度の短い高座となるため、噺をじっくり堪能すると云う風にはいかないものだから止すか、と不忍池の畔で変心して、その儘浅草方面へと爪先の向く方角を変えるのでありました。
 勿論浅草寺も湯島天神と同様、それに演芸ホールも鈴本演芸場と同様の様相であろうからこれは端から頭には無く、新仲見世か六区辺りでは元旦から営業している食い物屋もあろうから、そこで夕飯にあり付こうと云う目論見であります。こうなるとこれはもう敢えて元旦に敢行するべき外出ではなく、普段のうろちょろとちっとも変わらないと云うところに落ち着く訳でありますが、まあ、土台正月行事なんと云うものとは頑治さんは縁遠いと云えば慎に縁遠い気儘暮らしであります故、宜なる哉と云うべきものでありますか。
 二日になると初売りと意気込む訳ではないようながらも、ぼつぼつ近所の商店も店開きを始めるところが出て飯に困る事は無いのでありました。お茶の水や神保町界隈の本屋や古本屋、それに食い物処等も出入口の鍵を開けるところもあって、普段と比べると街の人通りや車通りは嫌に疎らであっても相応の賑わいも戻って来るようであります。
 この二日の昼近く、未だ布団の中に居た頑治さんは電話の呼び出し音に惰眠を破られるのでありました。受話器を取る前に夕美さんからだろうとピント来たのでありましたが、果たして夕美さんの声が寝覚め遣らぬ耳の洞穴に流れ込んで来るのでありました。
「明けましてお目出とう。何していたの、朝寝?」
(続)
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