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お前の番だ! 151 [お前の番だ! 6 創作]

「次、横面打ちこみ三十本、各個に始め!」
 再び万太郎の大音声の指示で門下生全員が、頭上にふり被った右手刀を矢張り継足に一歩踏み出して、前に居ると仮想した相手の蟀谷目がけて袈裟がけにふり下ろすのでありました。寄敷範士とあゆみの指導が入るのは正面打ちこみの時と同じであります。
 この後、正面上段突き、正面中段突き、正面猿臂打ちと続き、今度は左半身から左足を踏み出しながら左手でも同じく単独打ちこみの形を各三十本行うのでありましたが、全部が終了する頃には門下生達の息はすっかり上がっているのでありました。因みに常勝流では帯刀しているのが建前でありますから、足蹴りの形はないのでありあました。
 単独の基本動作が終わって万太郎の号令で全員が下座に下がると、寄敷範士が道場中央から下座隅に居る万太郎を指差すのでありました。即座に万太郎は畳を両手で打って立ち上がり中央にきびきびとした動作で走り寄るのでありました。
「では今日は、相手が肩を掴んできた時の技を幾つか行う」
 寄敷範士はそう云いながら無造作に万太郎に自分の肩を差し出すように近づくのでありました。万太郎は右手で寄敷範士の稽古着の左肩を掴むと、決して離さないように握力を籠めて腰を落として足を踏ん張るのでありました。
「先ずはこうしてしっかり持たれて固定された場合から」
 寄敷範士は万太郎の稽古着の右肘辺りを右手で柔らかく持つのでありました。それは持つと云うよりはそっと手を添えると云った方が適切でありましょうか。
「相手の袖を持った手で相手を何とかしようと云う了見では、そう簡単にはあしらえない」
 寄敷範士は下座の門下生達に向かって云ってから、一応万太郎の右袖を持つ自分の右手を遣って、万太郎を動かそうとしてみるのでありました。万太郎はどっしりと腰を落としているので、寄敷範士に袖を引っ張られても殆ど動かないのでありました。
「だからこう云う場合は持たれた左肩を使って相手を崩す」
 寄敷範士は左肩を聢と持つ万太郎の右拳に自分の肩を静かに密着させるのでありました。それに依って万太郎は拳がやんわり押されるような感覚を与えられたものだから、対抗上その肩を押し返すように力を出すのでありましたが、これはつまり寄敷範士の肩と万太郎の拳をより強固に密着させる事になるのでありました。
 寄敷範士は密着を切らないようにして、体をやや右に開いて万太郎の拳を押す方向を微妙に変えるのでありました。その動きに連れて万太郎の体が右に傾ぐのでありました。
 空かさず寄敷範士は万太郎の体の傾ぎをより大きく誘うように、万太郎の肘を右手で引くのでありました。肩と肘を窮屈な状態にされている万太郎は、左足を一歩動かして体がこれ以上崩れるのを防ごうとするのでありましたが、そこが寄敷範士のつけ目であります。
 云ってみれば万太郎が一歩足を動かした時点で彼の体は崩れているのであります。寄敷範士は万太郎の首筋に左肘で当身を入れながら万太郎の後ろに回りこむのでありました。
 寄敷範士の左肘を支点に万太郎の上体が仰け反らされるのでありました。後は寄敷範士がその儘体を沈めると、万太郎は見事に仰向けに投げ倒されるのでありました。
「これが相手の肩持ち対する、肘当て落とし、と云う技の組形だ」
(続)
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お前の番だ! 152 [お前の番だ! 6 創作]

 寄敷範士はこの後下座に横一列に居並ぶ門下生達に向かって、角度を変えながら三本模範を示すのでありました。万太郎は形通りに受けを取ってこの技に依って崩され投げられる次第を、明快且つ端的に演じるのでありましたが、組形における万太郎の受けは総本部道場の中で随一と云われているだけあって、寄敷範士と内弟子の万太郎の演武は見ている者が惚れ々々するくらいに様が美しく、それに迫力と説得力のあるものでありました。
「では二人で組んでゆっくりと、一々の動作の正確さを確認しつつ止めの号令がかかるまで繰り返せ。何時も云うが受けは理合いから外れた動きを取らないように。受けが故意かどうかは別として間違った動きをすると、上質の組形の稽古にはならないからな」
 寄敷範士の指示に下座の全員が揃って「押忍」と発声し範士に座礼してから、その後に横に座っていた者同士で、組むために挨拶を交わして素早く立ち上がると道場一杯に散るのでありました。万太郎は道場中央で皆と同じに寄敷範士に座礼するのでありました。
「折野さんよろしくお願いします」
 立ち上がった万太郎に後ろから来間が声をかけるのでありました。万太郎は笑顔で頷いてから、その儘道場中央辺りで来間と対峙するのでありました。
 先ず万太郎が仕手として来間を投げるのでありました。勿論万太郎のあしらいの良さもあるのでありますが、来間は教えを受けようとする素直さから、徒に力の方向を換えたりしないで万太郎の動きに緊張感を持って律義に添おうとするのでありました。
 万太郎が右左二本を終えると今度は仕手と受けが交代して、来間の肩を万太郎が掴むのでありました。来間は万太郎に始めから位負けしているようで、肩を掴まれるとそれだけで体が緊張して固くなっているのが万太郎には判るのでありました。
 でありますから、少し動くだけで来間の肩が万太郎の手との密着を維持出来なくなるのでありました。自分の肩と相手の手とが恰も接着剤で固定されているように一つに繋がっていないと、肩の動きを受けの腕に上手く伝えられないのであります。
 万太郎は組形稽古上の受けの任務通りに、密着が緩んだ時点で受けとしての動きを止めるのでありました。それは決して意地悪から動かなくなったのではなくて、仕手の不備を無言に伝えるためと云う受けとしての役割のためなのであります。
 万太郎の動きが止まったので、来間は自分のそれ以上の動きを止めるのでありました。不備を無言に指摘されたから改めてやり直すためであります。
 万太郎はもう一度来間の肩を掴んで腰を落とすのでありました。来間の肩からより一層の彼のたじろぎが伝わってくるのでありました。
 来間は密着まではなんとか漕ぎ着けるものの、その後少しでも体を動かすと万太郎の手が肩から僅かに滑って仕舞うので、二進も三進もいかなくなくなるのでありました。来間は眉間に皺を寄せて額に脂汗を浮かべるのでありました。
「ほら、もっと肩の強張りを取って」
 いつの間にか横に来たあゆみが来間に声をかけるのでありました。
「お、押忍」
 来間が眉間の皺を一層深くするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 153 [お前の番だ! 6 創作]

「掴まれた部分をそんなに強張らせていたら、相手の手は反発しようとするだけで、ちっとも肩にくっついていてくれやしないから」
「お、押忍」
 来間は途方に暮れたように少し声を上擦らせるのでありました。確かに拳と肩との密着の匙加減と云うのか、関係の機微が肩持ちの技の難しいところではあります。
 万太郎は来間にその辺りの肩の感覚を掴み取らせるために、敢えて来間の体が動いても密着を切らずに自分から受けとして誘導的に動いて見せるのでありました。稽古者同士が声を交わすのは厳禁でありますし、こう云うものは言葉であれこれ説明するよりは、受けが上手く誘導してあげる方が理解が早いと云うものであります。
 万太郎の配慮の動きに来間が、おや、と云う表情をするのでありましたが、自分の肩と相手の拳との間の関係がどうあれば意図通りに上手に相手を動かすことが出来るのか、あくまで感覚としてと云うだけではありますが、何となく実感出来たようであります。しかしそれはあくまで受けに助けられた上で感覚として実感しただけで、その感覚を技の習得のために活かすかどうかは来間の取り組み次第であるのは云うまでもない事であります。
「はい、次の段階」
 道場に寄敷範士の声が響くのでありました。門下生達はその声にそれまでの稽古を止めて急いで下座に下がるのでありました。
「次に今の、崩し、投げる、と云う二挙動の動きを一挙動で行う」
 寄敷範士は前に出た万太郎にもう一度肩をしっかり掴ませてから、崩してから投げるまでを間を切らずに一気に、しかし比較的ゆっくりした速度で行うのでありました。これも前と同じに角度を変えながら数本繰り返して見せるのでありました。
 前段階の二挙動の場合でも納得出来るような動きが出来なかったのだから、来間は益々万太郎の体を持て余すのでありました。そういう時は竟、膂力か動きの速さに頼って仕舞うのでありますが、仕手のそう云う稽古の粗さを戒めるのは、偏に受けの速度上の抑制的で誘導的な動きと、理合いから決して逸脱しないぞと云う固い意識であります。
 これは実戦即応の稽古ではなく、あくまで技を自分の体の中に錬り上げるための組形稽古であると云う、受けのブレのない硬い意志がこういったタイプの稽古の実質を保証するのでありますから、受けの、稽古に取り組む時の胆の据わり方も試されるとも云えるでありましょうか。確かに稽古の意味を深く理解した受けと稽古するのは、表面上の面白おかしさ等問題にもならない程、慎に以って武道的な楽しさに溢れた稽古になるのであります。
 来間は万太郎の崩しと投げに面白いようにあしらわれて、仰向けに倒されるのでありました。来間が仕手をやるとこうは上手く技が運ばないのでありますが、これは万太郎と来間の体術の稽古量に依拠するところの格の違いでありましょうから、致し方ないと云うものでありましょうし、その技量の格差にたじろがずに何度も何度も額の脂汗を拭いながら万太郎の肩を掴んでくる来間に、万太郎は秘かに末頼もしさを感じるのでありました。
「はい、次の段階」
 暫くするとまた寄敷範士の声が道場に響き渡るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 154 [お前の番だ! 6 創作]

 次の段階は前の一挙動の動きに次第に速度をつけるものであります。受けが肩を掴んだ途端にすぐに崩しをかけて受けの体を泳がせて、そこに乗じて仰向けに投げ捨てるのでありますが、かと云って受けの手と仕手の肩の密着が充分でない内に動き出せば、受けの手が肩からずれて仕舞って崩しが上手くかからないのであります。
 万太郎は来間が肩を掴んで固定しようとする寸前のタイミングを上手く捉まえる事が出来るので、来間の体は先のゆっくりした動きの場合と同様に、腰が前に迫り出しながら浮かされて崩れ倒れるのでありました。しかし来間はその絶妙なタイミングを未だ捉えきれないので、早く動き過ぎて万太郎の手が虚しく外れて仕舞ったり、或いは後手になって万太郎にがっちり肩を掴まれて身動きが叶わなくなったりするのでありました。
 それでも来間は額の脂汗の量を増大させながらも、果敢に万太郎に喰らいついてくるのでありました。一般稽古の方に来ていた頃と比べると、態度も、眉根に深く皺を刻んで万太郎を鋭く見る顔つきも、随分と好もしく変貌したようであります。
 このまた次の段階は、相手の手が肩に触れた瞬間に、今度は密着を避けて肩をしっかり掴まれる前に回転して相手の側面に体を回避させ、即座に首筋に猿臂の当身を繰り出してから相手を仰向けに投げ倒すのであります。タイミングさえピタリとあえば、殆ど受けが一人で突っかけて行って一人で勝手に転倒しているようにも見えるのであります。
 ここからは繋り稽古と云って、五六人で組になって一人の仕手に残りの者が次から次へと挑んでいく稽古になるのでありました。万太郎と来間が混じった組は古手の黒帯の猛者連中の組で、白帯を締めているのは来間だけでありました。
 専門稽古での繋り稽古では叱咤の声を発するのが許されているのでありました。仕手はありとあらゆる叱声や罵詈雑言とも云える蛮声を浴びせかけながら、それでも取り乱す暇もなく、次々に挑みかかって来る新手に技をかけなければならないのでありました。
 古株の中にはこの叱声の名人みたいな者がいて、仕手の気持ちを絶妙に居竦ませるような文句やタイミングを弁えているのでありました。万太郎も始めの頃はこの殺伐とした稽古の雰囲気に、竟々及び腰にならずにはいられないのでありました。
 これは云ってみれば、どんなに気持ちを掻き乱そうとされようが、平然とそう云う非常の空気を受け止められる冷静さを養成しようとする訓錬でもあります。叱声や怒声、それに敵対的な挑発をものともしないで、やるべき捌きや技をきっちりとやり遂げるための胆力を創るために必要な稽古法の一つと云えるでありましょう。
 勿論、年齢の高低や年季の長短、それに男女の違いや帯色の違いに関わりなく、誰が誰にでも許され奨励されている蛮行なのであります。この叱声と怒声は云わば仕手への好意的援助なのでありましたし、そう云う了見で行うべきものでありました。
 仕手を行う来間の気持ちが上擦っているのが見ていて判るのでありました。来間の顔色は時に赤く煮え滾り、時に蒼白となって浴びせかけられる叱声と怒声、それに体勢を立て直す暇もなく次から次へとかかってくる受けの気勢を持て余して、意の儘にならない動きで何とか懸命に当座の苦難を凌いでいると云った風情でありました。
「はい、それまで!」
(続)
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お前の番だ! 155 [お前の番だ! 6 創作]

 寄敷範士の声に道場中に乱舞していた蛮声がピタリと止むのでありました。門下生達は急ぎ下座に下がって正坐するのでありましたが、繋り稽古で動き続けたものだから全員が汗を滴らせながら肩で息をしているのでありました。
「さてここで、今日の技の留意点を少し」
 寄敷範士はそう云って万太郎を相手に、肩を持たれて固定された場合の二挙動の動き、その後の一挙動の動き、それから手が肩に触れた途端に始動し始める動きについて、相手の手と自分の肩との関係の持ち方やタイミングを主に、個々に、組形の上での受けの役割も含めて再度解説演武するのでありました。下座で正坐している門下生達は息を弾ませながらも、食い入るようにその寄敷範士の解説演武に目を釘づけているのでありました。
 この後の段階としては相手が肩に手を伸ばそうとするタイミングを捉えて、先ず当身でその意図を牽制無効化する稽古があるのでありました。それから受けに仕手の肩を掴むと云う限定で好きに繋らせて、それを当身と体捌きで何とか躱しながら、肘当て落とし、と云う体術の技に持ちこむところの、準乱稽古、となるのでありました。
 寄敷範士の稽古途中の解説演武が、丁度小休止の時間となると云う按配であります。しかしこの時間も正坐を崩してはならず、さして休めるものではないのでありました。
 専門稽古が終了すると、お決まり通り全員で先ず神前に、それから寄敷範士とあゆみに座礼して、寄敷範士とあゆみの退場を待って今度はその日稽古相手をした者同士で礼を交わすのでありました。これでようやく稽古の緊張感から解放されるのであります。
「折野さん、今日は有難うございました」
 全員が道場を退出するまで見届ける役目の万太郎の前に来間が膝行して来て、両手を畳について改めて威儀を正したお辞儀をするのでありました。顔から汗を滴らせていて、未だ少し息が弾んでいるようであります。
「有難うございました」
 万太郎も綺麗な座礼を返すのでありました。
「僕が相手では折野さんには稽古の足手纏いになったと思いますが」
「いやいや、そんな事はない。良い稽古が出来たよ」
 万太郎にそう返されて来間は嬉しそうな微笑を目尻に浮かべるのでありました。
「折野君、このところめっきり腕を上げたな」
 その日一緒に繋り稽古をした古株の、長久伊留也、と云う男が傍に寄って来て正坐しながら万太郎に声をかけるのでありました。歳は三十半ばと云ったところで、小学生の頃から大学時代までずっと柔道をやっていたと云うだけあって、如何にも手足が太くてがっしりとした腰つきの、やけに尻の大きいのが目立つ男であります。
「ああ、長久さん、今日は有難うございました」
 万太郎は長久にも綺麗な座礼をするのでありました。
「いやもう最近は、十年以上この道場に通っているこっちの方が、稽古ではすっかり折野君に翻弄されて仕舞うと云った具合だよ」
 長久はそう云って豪快に笑って見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 156 [お前の番だ! 6 創作]

「いやもう本当に、折野君はこのところ進境著しいものがある」
 そう万太郎の後ろから声をかけて傍に正坐するのは、これもその日一緒に繋り稽古をした、矢張り十年選手で長久と同じ歳頃の、山仁専念、と云う変わった名前の男でありました。何でも実家がお寺で、そう云う風変わりな名前をつけられたのだそうであります。
「とんでもないです。僕なんか未だ到底、山仁さんや長久さんの域ではありませんよ」
 万太郎は体の向きを変えてやや後退って山仁にも律義な座礼するのでありました。
「単に内弟子の稽古量を熟していると云うだけじゃなくて、才能があるんだろうな」
 長久がべんちゃらに同調するのでありました。
「将来の常勝流総本部道場を背負って立つ逸材だな」
 山仁が輪をかけるのでありました。
「止して下さいよ、消えてなくなって仕舞いますよ」
 万太郎はか細げな声で云うのでありました。
「こんな処で何の座談会が始まっているんですか?」
 そう云って近づいて来るのは未だ二十代後半の、これは万太郎よりは先輩で五年程のキャリアを持つ、仲真拝郎、と云う小柄ながら道場で一二の声の大きいヤツとして鳴らす男でありました。この男ともその日の繋り稽古を伴にしたのでありました。
「反省会ですか?」
 そんな声をかけながらもう一人この座の中に加わるのでありました。これは、入手呉世、と云う名前の仲真拝郎と同年配のやけに背の高い男でありました。これでその日の繋り稽古を伴にした連中が総て揃った事になるのでありました。
「いやね、十年稽古をやっている俺が二年足らずのキャリアの折野君に、もう実力で抜かれて仕舞ったと云う話しだ。新入りの頃は呑気そうなヤツだと思っていたんだがなあ」
 長久が横に座った入手呉世に云うのでありました。
「そりゃ仕方がないですよ。俺達は専門稽古生と云っても稽古量や稽古の質、それに厳しさに於いて内弟子の人とは格段の差があるんですからね」
「しかし量や質を同じにしたとしても、折野さんほどには俺はなれそうもない」
 仲真拝郎が云うのでありました。年齢と古参新参の差からか長久や山仁は万太郎を君づけで呼ぶのでありますが、仲真や入手は万太郎より先輩に当たるけれどさんづけで呼ぶのは、万太郎と年齢が接近しているからと職業武道家への敬意からでありましょうか。
「間違いなく折野君は将来の常勝流を背負う逸材だろうから、今の内によいしょをしておく必要を俺は大いに感じているぞ」
 山仁が案外の真顔でそう云うと入手と仲真、それに万太郎を芯に円座になった他の四人より、ほんの少し下がった処に正坐している来間が頷くのでありました。
「おい、来間、折角専門稽古生になったんだから折野君にみっちり仕こんで貰えよ」
 長久が来間の方に首を捻じってそう激励するのでありました。「ああところで来間、お前繋り稽古の時に声が出ていないぞ。遠慮せずに先輩でも誰にでもどんどん声を浴びせろ」
 長久は事の序でに来間を叱るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 157 [お前の番だ! 6 創作]

「押忍。済みません」
 来間が真剣な面持ちで頭を下げるのでありました。
「繋り稽古の時の叱声は年季や年齢に関係ない。それは気合を入れると云うのか、激励と同じ意味なんだから、声を鋭くして多くかける事が礼儀に適っていると云うものだ」
 大声にかけては誰にも引けを取らない仲真が続けるのでありました。
「未だ慣れないもので、何となく気後れして仕舞って」
「ま、その内慣れてくれば、平然と誰に対しても大声が出せるようになるさ。そうしたら来間も一段、胆が太くなったと云う事になる」
 長久がそう云って来間の肩を手荒く叩くのでありました。
「押忍。頑張ります」
「おお、竟々長居をして仕舞った」
 長久が突然気づいたように万太郎の方を見るのでありました。「折野君は未だこれから内弟子仕事が残っているんだったな」
「皆さんのお帰りを確認して、道場の電気を消すだけです」
「いやいや忙しい折野君を引き留めて、とんだ長話しをして仕舞った」
 長久はそう云いながら立ち上がるのでありましたが、それに釣られるように他の五人も腰を浮かすのでありました。専門稽古を終えた他の門下生達はもう皆道場から退散して仕舞っていて、残っているのはこの六人だけなのでありました。
「鳥枝先生の稽古だったら、稽古が終わったらさっさと帰れと怒られるところだったな」
 長久が万太郎にニヤリと笑って見せるのでありました。「じゃあ、また明日の稽古で」
 件の五人が道場から引き揚げると万太郎は道場の点検をするのでありました。木刀が木刀かけにちゃんと揃って収まっているかとか、畳に汚れがないかとか、羽目板が傷んでいないかとか、見所の脇息とか座布団とかの小物がちゃんと隅に整頓されているかとか、納戸の扉がピタリと閉まっているかとか、あれこれ結構細かく検分するのであります。
 これは使われていない間の道場が、如何に綺麗な体裁で静まっているかでその武道の武道としての容儀や強さが明快に判るのだから、そう云うところに迂闊になるなと云う、前に鳥枝範士に指導された事項を遵守するためであります。良平が帰って来て、あゆみと三人の夜の内弟子稽古が残っているから、未だちゃんとした掃除はしないものの。
 着替えを終えた件の五人が道場に残っている万太郎に挨拶して玄関を出るのを確認して、万太郎は門下生の更衣室の方の点検に向かうのでありましたが、ここは専門稽古生が何時も気を遣ってくれているから、室内の乱れは先ずないのでありました。最後にこの部屋を出たのが長久や山仁でもありますし、そこいら辺は信頼出来ると云うものであります。

 興堂派道場の畳の上に足を踏み入れると、道場内に居た、もうすっかり顔馴染みの興堂派の門下生達が万太郎に笑顔を向けて目礼するのでありました。
「ああ折野さん、今日は少し道場に現れるのが遅かったから、ひょっとして来ないのかと思いましたよ。でも顔を見て安心しました」
(続)
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お前の番だ! 158 [お前の番だ! 6 創作]

 そう声をかけてきたのは興堂派最若手の内弟子である堂下善郎と同い歳の、宇津利益雄、と云う名前の門下生でありました。宇津利は内弟子ではない専門稽古生でありますが堂下とは殊の外仲が良くて、その絡みで万太郎に大いに懐いているのでありました。
「今日は総本部のあゆみ先生と一緒に伺ったんで、道分先生に事前に挨拶したりしていたから、何時もと違って顔出しが遅れたんだ」
 是路総士や良平とかごく近しい人と総本部の母屋に在る時には、万太郎はあゆみを、あゆみさん、と呼ばわるのでありましたが、それ以外の場では、あゆみ先生、と呼称するのが習わしでありました。あゆみは是路総士の剣術の出張指導の付き人として偶に興堂派道場を訪っていたから、興堂派の専門稽古生には知れているのでありました。
「おや、あゆみ先生がいらしているんですか?」
「ああ。今日は稽古に一緒に参加する事になっている」
「成程。道理で若先生が何時になく浮き々々していると思いましたよ」
 宇津利はそんな事を口走るのでありました。
「そうなのか?」
「ええ、何となくそんな気が」
 道場を見渡すと見所の前辺りに、確かにそう云われると何時もよりは少しはしゃいでいるような風情で、取り巻き達と話しをしている威治教士の姿が在るのでありました。
「威治先生はあゆみ先生が来ると何時も浮き々々するのか?」
「いやまあ、僕は本当は知らないのですが、先輩方は皆そう云っていますね」
「ふうん。あ、そうだ花司馬先生や威治先生に挨拶をしておかないと」
 万太郎は宇津利にそう云い置いてから、道場正面隅に単座して道場内を見まわしている花司馬筆頭教士の傍に歩み寄るのでありました。
「今日のご指導、よろしくお願いいたします」
 万太郎は花司馬筆頭教士の前に正坐して格式張った座礼をするのでありました。
「はい、よろしくお願いします」
 花司馬筆頭教士も万太郎に座礼を返すのでありました。「折野君はもうすっかり、ウチの門下生みたいな感じになっているなあ」
 道場に入るなり他の門下生と目礼や笑顔の交換をしたり、慣れた様子で宇津利と言葉を交わしたりする万太郎を見て、花司馬筆頭教士はそう云ったのでありましょう。
「ええ。もうすっかり顔馴染みになって、皆さんには気さくにして貰っています。ところで今日は板場先生のお顔が見えないようですが?」
「ああ、板場は三日前からマレーシアと台湾に巡回指導に行っているよ」
 興堂派はフランスやイギリス、それにアメリカとカナダ、それからオーストラリアにニュージーランド、アジアではインドネシアとマレーシア、それに台湾に海外支部道場があるのでありました。それらの支部からは年に一度くらい指導員の出張依頼があって、板場はそのためマレーシアと台湾に出張していると云うのでありましょう。
「ああそうですか。マレーシアと台湾ですか」
(続)
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お前の番だ! 159 [お前の番だ! 6 創作]

「本当は自分が行く筈だったんだけど、明後日に広島支部で周年行事があってね、道分先生の代理で出席しなければならなくなって、それで今回は板場に変わって貰ったんだよ」
「こちらの内弟子の皆さんは、あちらこちらと飛び回っておられて忙しいですね」
「本当はマレーシアと台湾の方が自分としては良かったんだが、広島支部はウチの支部の中でも古参でしかも大所帯で大事な支部なものだから、自分にお役が回ってきたんだよ」
「そうですか。気をつけて行っていらしてください」
「ああ、有難う」
 花司馬筆頭教士は万太郎にもう一度、今度は多少くだけた風に頭を下げるのでありました。万太郎の方も、それほどくだけない様子で再度お辞儀するのでありました。
 万太郎は次に威治教士の前へ行って正坐して、威治教士に向かって同じく挨拶するのでありました。威治教士が突っ立った儘で頷くのは何時も通りでありました。
 宇津利が云うように確かに、万太郎を見下ろす威治教士の口元辺りが、本人は無意識なのでありましょうが少し綻んでいるようにも見えるのでありました。ところで宇津利辺りがそんな事を口走るくらいでありますから、興堂派道場の門下生の間では、威治教士が総本部のあゆみに熱を上げているらしいと云うのは全く公然の事なのでありましょう。
 白の稽古着に黒袴をつけたあゆみが道場に現れると、万太郎と花司馬筆頭教士がすぐに近づいて立礼するのでありました。興堂派道場でも総本部と同様に、稽古中に袴の着用が許されているのは教士以上の者でありました。
「本日の稽古、よろしくお願いいたします」
 あゆみは正坐して花司馬筆頭教士にお辞儀するのでありました。あゆみより一瞬早く正坐の姿勢を取った花司馬教士があゆみに律義らしく座礼を返すのでありました。
「こちらこそよろしくご指導ください」
 万太郎は挨拶を交わす二人と少し離れた辺りに正坐して控えるのでありました。
「ああ、あゆみさん、久しぶり」
 そこへ威治教士が近づいて来るのでありました。あゆみは威治教士の方へ向き直って、敢えて表情をつくらないで、端正ながらあっさりとしたお辞儀をするのでありました。
「急に伺って稽古にも出させていただく事になりました。よろしくお願いいたします」
「あゆみさんの参加なら何時でも大歓迎ですよ」
 威治教士は慎に機嫌の良い愛想笑いを浮かべてあゆみの傍に正坐するのでありました。あゆみの参加なら大歓迎と云う云い草は、つまり万太郎の参加は大して歓迎していないと云う表明であろうかと、万太郎は威治教士の言葉を竟へそ曲がりに取るのでありました。
 廊下から足音が近づいて来て、新米内弟子の堂下の露払いで興堂範士が道場に現れると、道場内の空気が引き絞られた弓弦のように緊張するのでありました。仕来たり通りに礼を交わすと、興堂範士があゆみの方を向いて笑いかけるのでありました。
「今日は総本部のあゆみ先生が折角いらしているから、一つ基本動作と打ちこみ鍛錬の号令はあゆみ先生にお願いしましょうかな。何時もの威治教士や花司馬筆頭教士のむくつけし号令なんぞよりは、その方がウチの門下生共も余程張り切ると云うものじゃからな」
(続)
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お前の番だ! 160 [お前の番だ! 6 創作]

 下座隅に万太郎と並んで座っていたあゆみが、興堂範士に向かって整斉とした座礼をするのでありました。いきなり指名されてたじろいでいるようでは総本部教士の名折れだと云う気概が、その容に現れているようでありました。
「押忍。ではご指名ですので、号令をいたします」
 あゆみはそう云って静かに頭を起こすのでありました。「全員起立!」
 道場に響くあゆみの号令に下座の門下生達が「オウ!」と和して畳を両手で打って素早く立ち上がるのでありました。あゆみの声は総本部での稽古の時と同様に凛然としていて、これから始まる稽古の緊張感をいや増さずにはおかないのでありました。
「基本稽古隊形に!」
 門下生達はきびきびとした動作で道場一杯に広がって、正面の見所に座った興堂範士の方を向いて直立不動の姿勢を取るのでありました。あゆみの気合の入った号令に依り、左右の構えから手刀や拳や猿臂での単独打ちこみの形が終了すると、門下生達の息は弾んで額から汗が滴り落ちるのは総本部道場での稽古と同様でありました。
 技の相対稽古になるとあゆみは専門稽古に参加している二人の、あゆみと同年配らしき女性の門下生達と三人で組んで、指導的に組形の稽古を行うのでありました。万太郎は何時ものように、威治教士や花司馬筆頭教士、それに興堂派の古参の門下生達と折々相手を換えながら稽古に励むのでありましたが、これは興堂範士の、なるべく多くの興堂派門下生と組む方が万太郎の稽古に資するであろうと云う配慮からでありました。
 興堂範士と、万太郎と組まない折の威治教士、それに花司馬筆頭教士、或いはその二人共が稽古する門下生達の間を回って指導をするのでありましたが、先ず万太郎は花司馬筆頭教士と、立ち取りの腕一本抑え、と云う技の稽古をするのでありました。この技は基本中の基本の技であり、この場にいる専門稽古生達は繁く稽古しているものであります。
「では先ず自分とお願いする」
 花司馬筆頭教士は万太郎の正面に座って意欲的で好意的な微笑を湛えて座礼してから、万太郎を道場中央に誘うのでありました。お互いに組み馴れた間柄でありましたから、万太郎と花司馬筆頭教士はスムーズに、ゆっくりとした動きから次第にスピートとパワーを上げながら興堂範士の止めの号令がかかるまで組形稽古を繰り返すのでありました。
 二人の動きはまるでこの組形の見事な典型を、無念無想で直向きに演武していると云った風でありました。近くで稽古している門下生達が時々、自分たちの稽古を忘れてその演武の美しさに思わず見惚れて仕舞うくらいであります。
 しかし組形を演じている二人には、滑らかな仕手と受けの交換の中に、お互いの修めた同じ、腕一本抑え、と云う技であっても総本部と興堂派の微妙な違いを感受して、その違いは如何なる動静や力加減や息のあわせ方から発生しているのかを、厳しく見極めようとする緊迫感が漲っているのでありました。勿論、そう云う稽古者としての高い意気が、高速回転する巴模様の如くに二人の頭上に絡み渦巻きあっている辺りが、二人の演武を気品に満ちた張りつめたものにしていると云うのは、敢えて云うまでもない事でありましょう。
「はいそこまで!」
(続)
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お前の番だ! 161 [お前の番だ! 6 創作]

 十五分程の、立ち取り腕一本抑え、と云う技の反復組形稽古の終了を告げる興堂範士の声が道場に鳴り響くのでありました。門下生達は一斉に下座に下がって正坐して、次に稽古するべき興堂範士の手本の技を待つのでありました。
「さて次は、今の腕一本抑えの捌きを使って、相手を前に抑えこむのではなく後ろに投げ捨てる技の稽古をするのじゃが、・・・」
 興堂範士はそう云いつつ万太郎を指差すのでありました。万太郎は即座に反応して立ち上がると、興堂範士の前に駆け出るのでありました。
 興堂範士は門下生達に見本の技を示す時に、万太郎の姿が道場内に在れば屡、万太郎を自分の技の受けに選ぶのでありました。万太郎にとってそれは光栄な事でありました。
 お互いに立礼をして一間の距離を挟んで構えると、興堂範士は万太郎に中段を突くように手ぶりで指示するのでありました。万太郎は興堂範士の動きを注視して 左半身から右正拳を脇に静かに構えるのでありましたが、興堂範士の誘いの微小な体の動きを察知したら、すぐさまその正拳を興堂範士の鳩尾に向かって突き出すのであります。
 興堂範士の体が攻撃開始の前触れのようにほんの少し前に傾ぐのでありました。後の先として、それを見逃さず万太郎は一歩大きく右足を前に跳びこむように進めて、渾身の力を右拳に乗せて興堂範士の水月目がけて一直線に突き出すのでありました。
 興堂範士は絶妙のタイミングで体を開いて、万太郎の懐に飛びこむように回転してそれを避けると、同時に万太郎の顔面に向かって素早い裏拳の当身を繰り出すのでありました。万太郎は咄嗟に左手を自分の顔の前に翳してそれを避けるのでありましたが、この避けるための動作が万太郎の体の安定を少しく崩すのでありました。
 興堂範士はその崩れを見逃さず、万太郎の伸び切った腕を手刀で丸く外に返して万太郎の正拳突きを往なし泳がせ、左手で万太郎の奥襟を掴み、右足で万太郎の右足踵を払うのでありました。万太郎は興堂範士に足払いされて後ろに体を反らされながら宙に舞い、奥襟を取った興堂範士の左手によって直下の畳に頭から引き落とされるのでありました。
 万太郎は反射的に左手で畳を強く打って受け身を取るのでありました。興堂範士の足払いと奥襟の引き落とのタイミングがこれ以上ないくらいにピタリとあっているので、万太郎の体は逆様に近い角度で後頭部から畳に落とされるのでありました。
 それに興堂範士が技に手加減を一切しない人なので、その危険と紙一重の体術の技を受けるには鉄壁の受け身のセンスが要求されるのであります。でありますから興堂範士の受けを無難に取れるのは興堂派道場では花司馬筆頭教士と板場教士と、後は二三の古い色褪せた黒帯を締める門弟くらいで、派外では万太郎が唯一と云えるでありましょうか。
 興堂派新人内弟子の堂下にしても未だ々々、興堂範士の受けを安全に熟すのは無理と云うものでありましょう。それに恐らく威治教士も、ひょっとしたら荷が重いかも知れないと万太郎は秘かに思っているのでありました。
 威治教士は外連に満ちてはいるものの、仕手としての実力は教士の称号に恥じないものがあると云えるでありましょう。しかし受けに関しては稽古の集積が見られず、稽古する気もないようだから、見事な受け身は取れないのでないかと思われるのであります。
(続)
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お前の番だ! 162 [お前の番だ! 6 創作]

「今の折野君のような綺麗な受けは難しかろうから、先ず取りかかりは足払いを緩くして、ゆっくり引き倒す程度にしながらの稽古じゃな」
 興堂範士はそう云ってから何度かテンポを落とした動きでこの、奥襟落とし、と云う技の組形を、万太郎を相手に演武して見せるのでありました。万太郎も興堂範士のスピードにあわせて、ゆっくりと滑らかな受けを取るのでありました。
 万太郎は、この技の稽古は興堂範士の指示に依り威治教士と組むのでありました。どうせ態と投げるタイミングを早めたり、急に奥襟を引く力を強くしてみたり、足払いを派手に見せようと踵でこちらのふくらはぎを強蹴してみたりと、組形稽古では禁じられている色々な外連味を発揮してくるだろうと思って、万太郎は内心げんなりするのでありました。
 しかしその日の威治教士は、何時も程には妙な仕かけをしてこないのでありました。恐らく道場内にあるはずのあゆみの目を憚って、目上であるのを良い事に目下を虐めているような図に見えないように、精々自制しているのでありましょう。
 そうやって手前味噌な気遣い等されなくとも、万太郎はどのような威治教士の意表を突く外連でも上手くいなして見せる自信はあるのでありました。この場合の、上手くいなす、とは、どんな投げ方に対しても見事な受け身を取って見せると云う事でもあれば、酷い投げを打たれたとしても、自分も仕返しするように対抗的な仕手を取らず、組形稽古の矩を決して外さず冷静に、勿論威治教士の面子も潰さないように、正統な仕手としての在り方に徹すると云う、些か生意気と云えなくもない万太郎の余裕から発した思いであります。
 何時もと違った威治教士の真っ当な稽古態度に些かの戸惑いを覚えつつも、その日の出稽古では後二つの技を修錬するのでありましたが、一つは興堂派道場の古株で花司馬筆頭教士と同い年の、体重が百キロを超えると思われる巨漢と、もう一つは、当人のたっての希望と云う事で新米内弟子の堂下と組んで稽古するのでありました。堂下は万太郎の技術をなんとか吸収しようと、大いに意欲的で真摯な態度で相手をするのでありました。
「はいこれまで!」
 興堂範士の稽古終了を告げる声が響くと門下生達は下座に下がる事なく、畳一枚の間隔を挟んで二人向いあって整列してその場に正坐するのでありました。今までそこかしこに盛んに響いていた気合の声や受け身の畳を打つ音が、天井に吸いこまれたようにさっぱりと消え失せて、静一で森厳な冷気が道場内に満ちるのでありました。
「黙想五分」
 興堂範士の声がかかると門下生達は姿勢を正して瞑目するのでありました。黙想とは云うもののこの五分間は、何も考えずに無念無想となる時間でありました。
「黙想止め。下座に」
 興堂範士の指示に門下生達は「押忍」の発声と同時に両手で畳を打ってきびきびとした動作で立ち上がると、下座に趨歩して横一列に整列正坐するのでありました。この後は神前に、それから興堂範士に座礼をして、堂下の先導で興堂範士が道場を去るのを待ってから、夫々稽古した相手とお辞儀を交わすのは総本部道場と殆ど同じ慣わしでありました。
「本日の稽古、有難うございました」
(続)
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お前の番だ! 163 [お前の番だ! 6 創作]

 万太郎は先ず花司馬筆頭教士の前に行って座礼するのでありました。それから威治教士に、その後に古株の巨漢と礼を交わすのでありました。
「折野さんは組む度に体の粘りは強くなるし、投げの鋭さは増すし、もう俺なんぞを相手にしても物足りないだろう? まあ、俺の方は上手い人と組むと爽快な稽古が出来るが」
 すっかり顔馴染みになっている、目片吾利紀、と云う名前の古株の巨漢は、顔から滴る汗を稽古着の袖で頻りに拭いながら云うのでありました。別派とは云え自分の方が遥かに長い稽古歴を有するにも関わらず、目片が万太郎の事を、折野さん、と敬称つきで呼ぶのは、万太郎が興堂派の直弟子ではなく総本部の内弟子である事への憚りと云う面ばかりではなく、力量に於いても一目置くところがあるためでありましょうか。
「いやとんでもないです。僕なんか未だ々々目片さんの体を持て余すばかりです」
「俺は単に体重が重くて手足が太くて短いから扱いにくいと云うだけであって、折野さんの腰の粘りから来る重さはそれとはちょっと異質の重さだな」
「目片さんは失礼ながら見た目と違って体が柔らかいし動きに力みがないから、その体重以上に尚更重く感じるのです。体重の方は僕は見習えませんけど、体の柔らかさとか自分の体重以上に相手に重さを感じさせるような動きは是非見習いたいと思います」
「ま、古株に対する敬意として今の言葉は聞いて置くよ」
 目片はそう云って大笑してから万太郎の前を去るのでありました。
「折野さん」
 万太郎の後ろから宇津利の声がするのでありました。「今日は組んで稽古出来なかったけど、またその内よろしくお願いします」
 正坐して律義らしくお辞儀する宇津利の前に万太郎も正坐するのでありました。
「ああ、お疲れ様でした」
「折野さんはモテモテだから、なかなか自分なんかと組んで貰えないですね」
「いや道分先生になるだけ色んな門下の人と組めと指示されているからね。でも見ていたらなかなか良い動きをするようになったじゃないか」
「え、見ていてくれたんですか?」
 宇津利は少しばかり大袈裟に嬉しそうな顔をするのでありました。
「折々にチラと見ると云った程度だけど、足運びなんか大分様になってきた。ただ腕抑えの時の打ちこみが相手の正面からやや外れる時がある。それに奥襟落としの時の奥襟を掴むのと足払いのタイミングがもう少し上手くあえば、もっと技に鋭さが出るだろうな」
「アドバイス有難うございます。それにしても、折野さんは稽古中にはそんな暇もないと思っていたのに、自分なんかの稽古も時々見ていてくれたと云うのが、感激です」
 宇津利はそう云ってもう一度丁寧に頭を下げるのでありました。
 宇津利が前を去ると、万太郎はあゆみの姿を探すのでありました。あゆみは見所前で威治教士と二人で何やら話しをしているのでありました。
 万太郎は近づいて行って少し離れた処に正坐するのでありました。別に二人の会話を邪魔するためではないのでありますが、まあ、邪魔する心算は、多少はありはしましたか。
(続)
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お前の番だ! 164 [お前の番だ! 6 創作]

 万太郎の気配にあゆみがすぐに顔を向けるのでありました。
「ああ、そんなわけですから今日はこれで失礼します。稽古有難うございました」
 あゆみは威治教士に向かってお辞儀した後、すぐに万太郎の方に向き直って立てと手ぶりで合図するのでありました。
 万太郎が立ち上がるとあゆみは急くように威治教士の傍から離れるのでありました。万太郎は威治教士に一礼してからあゆみの後を追うのでありました。
「さあ、道分先生に挨拶してから、早く調布に帰りましょう」
 道場を出る時にあゆみが云うのでありましたが、その口調が少し不機嫌であるような気がするのでありました。威治教士に何か愉快ならぬ事を云われたのでありましょうか。
 出入口であゆみを先ず通して、その後に万太郎は道場に向かって一礼してから、あゆみの後について更衣室の方に廊下を進むのでありました。
「着替え終わったらここで待っていて」
 あゆみはそう云い残して女子更衣室の中に消えるのでありました。未だ少し怒ったような口調であるのが、万太郎としては気になるところではありました。
 更衣を終えて、廊下であゆみが更衣室から出てくるのを待っていると、内弟子の堂下が奥から廊下を趨歩してくるのが見えるのでありました。
「折野さん、道分先生がお待ちです」
 堂下は万太郎の横で歩を止めると一礼しながら云うのでありました。
「態々呼びに来たのか?」
「ええ。今日は遅いな、と先生が呟かれたので、それで呼びに来たのです」
「それは済まんな。今日はあゆみ先生が一緒だからちょっと時間がかかっているんだよ。ほら、女の着替えは色々手間がかかるし、着替えた後も髪とか顔の面倒な微補修工事なんかがあるからな。男のようにつるっと服だけ替えればお仕舞いと云うわけにはいかない」
「ああ、成程」
 堂下が納得気に頷いたタイミングで女子更衣室の扉が開くのでありました。
「はい、手間のかかる女の着替えと、髪と顔の面倒臭い微補修工事、終わり」
 あゆみがそう云いながら廊下の万太郎と堂下の前に出てくるのでありました。万太郎と堂下は今の会話を迂闊にもあゆみに聞かれて、決まり悪そうな顔をするのでありました。
「・・・押忍」
 万太郎と堂下が並んで声を揃えて、慌てて間抜け面を隠すようにあゆみに深めのお辞儀するのでありました。あゆみはその二人のたじろぐ様子を可笑しがって口に手を添えて笑むのでありましたが、その顔からはもう先程の不快気な色は失せているのでありました。

 その日の道場の雑事も無事に終えて、最後から二番目の風呂を使った良平が、普段になく愉快気な鼻歌を口ずさみながら内弟子部屋に帰ってくるのでありました。
「ああ、良い湯だった。万さんもゆっくり浸かってこいや」
 良平の口調が如何にも機嫌が良いのは、明日が道場の休日だからでありありました。
(続)
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お前の番だ! 165 [お前の番だ! 6 創作]

「良さん、妙に上機嫌ですね」
 万太郎は壁際の手ぬぐいかけから自分のタオルを取りながら云うのでありました。
「明日から待ちに待った三連休だからな。盆と正月以外で三連休なんてえのはこの一年なかったから、そりゃ浮き々々もするさ」
 道場定休である月曜日と祝日が連なって、偶々三連休となったのでありました。
「何処かに出かけるのですか?」
「うん、まあね」
 良平は意趣有り気な笑いを浮かべるのでありました。
「ひょっとして、デートですか?」
 良平の表情が一瞬固まるのは図星されたからでありましょう。
「なんで判るんだ?」
「いやあ、当てずっぽうに云っただけですよ」
 万太郎は片手を横にふって見せるのでありました。「しかし、本当にデートだと云うのなら、これはちょっとその儘聞き捨てならない事態ですね」
「こう見えて俺もなかなか色男なわけだ」
 良平は自慢気に頭を掻くのでありました。
「相手は何処の誰です?」
「万さんも知っている人だよ」
「僕も知っている人ですか? はて、誰だろう」
 万太郎はタオルを肩にかけて、腕組みしてから首をやや横に傾げるのでありました。「鳥枝建設の常勝流愛好会の川井香乃子ちゃん辺りかな」
 また良平の表情が固まるのでありました。
「それもどうして万さんに判るのかなあ」
「ああ、川井香乃子ちゃんなんだ、相手は」
「ま、正解だ」
 良平はだらしなく相好を崩しながら、あっさり白状するのでありました。
「良さんも隅に置けないですね。どういう風にそんな話しを纏めたのですか?」
「いやまあ、色男はこの道にかけては手抜かりがないんだよ」
「鳥枝建設の稽古では鳥枝先生の目もあるし、稽古後の居酒屋の宴会では何かと用を云いつけられるし、そうそう香乃子ちゃんとデートの話しをするチャンスもないでしょうに」
「そう云う中で事を纏めるのが色男の色男たる所以だな」
 良平が生一本の色男かそうでないかは一先ず置くとして、確かに大した手練ではあると万太郎は敬服するのでありました。無精な万太郎には到底真似の出来ない仕業であります。
「いやまあ、取り敢えず僕は風呂に入ってきますよ」
 万太郎はそう云って内弟子部屋から出るのでありました。
「あいよ。ゆっくり温まっておいで」
 良平はおせっかいな事を云いつつ万太郎を見送るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 166 [お前の番だ! 6 創作]

 風呂から上がって内弟子部屋に戻ると、良平が二人の床を延べていてくれるのでありました。何時もながら兄貴気取りの全くない兄弟子であります。
「ところで万さんはどうするんだい、この三連休は?」
 良平は布団の上に胡坐に座って万太郎に聞くのでありました。
「僕ですか? 僕は明日は、上野のギャラリーで書道展の手伝いです」
 それは大岸聖子先生の所属する一門の書道展で、万太郎は何も出品してはいないのでありましたが、一応週に一度大岸先生から手ほどきを受けている手前、裏方として手伝いに駆り出されているのでありました。あゆみは大判の書を何点か出品していて、矢張り受付やら接客やらの仕事を仰せつかって、明日は一緒に出向く予定でありました。
「ああそうか。大岸先生の方の書道展か」
 良平はそう云って思い出したように頷くのでありました。「本当なら俺も手伝いに行かなければならないところだが。・・・」
「いやまあ、手伝いは強制ではなくて、あくまでもこちらが手隙ならと云うお誘いのようなものですから、良さんは大丈夫ですよ。僕にはあゆみさんから数日前に話しがあって、どうせ休みと云っても暇を持て余している口だから快諾したのです」
「ああそうか。その書道展の話しは知っていたんだが、手伝いの件は俺には大岸先生からもあゆみさんからも話しがなかったなあ」
「その日は香乃子ちゃんとの大事なデートなんだから、俺は絶対に都合が悪いんだ! と云うオーラが良さんの全身からムラムラと発散されていて、それを気取ったんで大岸先生もあゆみさんも依頼を遠慮したのではないでしょうかね」
「そんなわけはないだろう」
 良平が大真面目な顔で首を断固として横にふるのでありました。
「でも結局、依頼があったとしても断るでしょう?」
「いや、そうとも限らん。達てのお願い、と云うのなら断る道理はない」
「達てのお願い、ではない場合は断るでしょう?」
「ま、断るかな」
 良平は苦笑いながら頭を掻くのでありました。
「まあ、僕が書道展の手伝いであれこれ扱き使われているのを時々思い出しながら、良さんは香乃子ちゃんとのデートを大いに楽しんでください」
「何となく、その云われ方は引っかかるものが残る」
 良平は万太郎の顔を恐縮の態で見るのでありました。
「いやまあ、それは冗談ですよ。ちょっと羨ましいだけです」
「済まんなあ」
 良平が万太郎に畏まってお辞儀するのでありました。
「デートは何処に行くんですか?」
「横浜だよ。山下公園とか港の見える丘公園なんかを散歩して、それから中華街で飯食って、その後は喫茶店にでも入ってお喋りする」
(続)
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お前の番だ! 167 [お前の番だ! 6 創作]

「おお、色男にしては、それは如何にも健全な青少年のデートと云う感じですねえ」
「そうかな」
 良平は万太郎のその云い草にここでは特段拘らないのでありました。
 布団に入ってから良平は万太郎に色々と、川井香乃子ちゃんの事について喋るのでありました。それはまあ、お惚気と云うものでありましょうが、万太郎は横になるとすぐに眠気に襲われて、良平の話し等はさわりの部分以外は殆ど覚えていないのでありました。
 翌朝、良平は朝食を終えると慎にいそいそとした風情で道場を後にするのでありました。万太郎とあゆみも、良平に遅れる事約一時間で揃って上野に出立するのでありました。
 あゆみはその日は書道展の初日と云うので、浅葱の地に白兎の小紋の和服を着ていて、同系色のやや濃い目の空色に、目立たぬように五つ菱模様が散りばめられている帯を締めているのでありました。そんなあゆみの改まった装いを初めて目にする万太郎は、一応スーツ姿ではあるにしろ自分とは全く不釣合いに、楚々としていながら華やいでいて、物腰のやけに艶やかな様子が矢鱈と眩しく見えて、瞼を細めて仕舞うしかないのでありました。
「大岸先生によろしくな。私も今日か明日か、ちょっと顔出ししてみるよ」
 出がけに是路総士が母屋の居間から二人を見送りながら云うのでありました。
「押忍。そのように大岸先生に伝えておきます」
 万太郎は是路総士に畏まってお辞儀するのでありました。
「良君は妙に今朝はそわそわしていたようだけど、何か大事な用事でもあるの?」
 仙川駅から乗った電車の中で横に座るあゆみが万太郎に訊くのでありました。道場関連の用事で出かける場合は、姉弟子のあゆみが座席に座っても万太郎はその前に立っているのが通常でありましたが、その日は書道展と云う道場とは直接関連のない外出でありましたから、あゆみが横に座れと指示したので万太郎は素直に従ったのでありました。
「良さんは色男をやりに行ったのです」
「何、それ?」
 あゆみが怪訝な顔を万太郎に向けるのでありました。
「有り体に云えば、つまりデートに出かけたのです」
「ふうん」
 あゆみは眉を少し上げて意外だと云う意を万太郎に伝えるのでありました。「誰と?」
「良さんに許しを貰っていませんから、今の段階で相手の名前を云うのは控えます」
「あ、そう」
 あゆみは少しがっかりした表情をするのでありました。「あたしの知っている人?」
「あゆみさんも知っていますよ。総本部道場にも偶にですが出稽古に来る人ですから」
「と云う事は、常勝流の門人だけど、総本部の門下生ではない女の人と云う事かしら」
 万太郎は仕舞ったと云う顔をするのでありました。余計な事を云って、あゆみに良平のデートの相手を特定出来るヒントを与えて仕舞ったような按配であります。
「ま、そんなような、そんなようでないような。・・・」
「そう云う女性は少ないから、ちょっと考えを巡らせばすぐに判ると思うわ」
(続)
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お前の番だ! 168 [お前の番だ! 6 創作]

 あゆみはそう呟いて、正面を向いて考えを巡らしているようでありました。「訊くまでもないけど、良君のお相手なんだから、当然若い人よね?」
「一応黙秘します」
「そうか、総本部の門下生じゃないけど、時々出稽古に来る若い女の人か。・・・」
 あゆみに相手が知れたら良平は怒るかなと万太郎は少し危惧するのでありました。
「僕は何も応えませんよ」
 万太郎は口を引き結ぶのでありました。
「外野仁美さん?」
「いいえ、違います」
 万太郎は首を横に一回ふるのでありました。
「じゃあ、奈古利由紀子さん?」
「いいえ、違います」
「和可礼唄江さん?」
「いいえ、違います」
「川井香乃子さん?」
「・・・黙秘します」
「ああ、川井香乃子さんね」
 万太郎は一応仕舞ったと云う表情をするのでありました。あゆみはその万太郎の顔を見てニンマリと笑うのでありました。
「万ちゃんて、案外判り易い人よね」
「今更間抜けな云い様のようですが、僕は誰の名前も一切云っていませんからね」
「そうそう。万ちゃんは何も云っていません」
 あゆみがあしらうようなニンマリ笑いを未だ浮かべた儘で頷くのでありました。「でも、川井香乃子さんと云ったら鳥枝建設の常勝流愛好会の人ね」
「そうです。僕も良さんも一応鳥枝建設の嘱託社員ですから、香乃子ちゃんとは同期と云う事になります。良さんは初めて鳥枝建設の稽古に行った時から、香乃子ちゃんの事が気になっていたようですよ。可愛い子がいたぞ、なんて帰ってから僕に云っていましたから」
「今の万ちゃんの発言で、良君のデートのお相手は川井香乃子さんであっさり決定ね」
 あゆみは顔のニンマリ笑いを増幅させるのでありました。
「僕は何処までも頷きませんからね」
「はいはい。頷かなくて結構よ。でも川井香乃子さんなら良君にお似合いかも知れない」
 あゆみは思い巡らすようにゆっくりと上を向くのでありました。和装であるからあゆみは髪をアップにして、服の小紋と同じデザインの白兎の髪飾りで後ろに束ねているのでありましたが、そのために幾本かの解れ毛に彩られたあゆみの長く細い首筋が、美しい線を描いて抜き衣紋の襟から手弱やかに伸び上がるのでありました。
 万太郎は何故か急に眩しくなって思わず目を逸らすのでありました。道場で見る稽古着姿の襟首の体裁とはまた違った印象の、香しいあゆみの佇まいでありました。
(続)
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お前の番だ! 169 [お前の番だ! 6 創作]

 上野駅から程近いギャラリーで開かれている書道展は、開場準備が未だ完了していないのでありました。展示スペース奥に在る関係者控え室に挨拶に行くと、椅子に座っていた大岸聖子先生が早速万太郎を手招くのでありました。
「万ちゃん到着早々で悪いけど、受付のテーブル運びとか休憩用の椅子を並べるのを手伝って頂戴。女共は余所行きの和服が多いから捗々しく動けないのよ」
「はい、承りました。お安いご用です」
 万太郎は上着を脱ぎながら云うのでありました。脱いだ上着を何処へ置こうかと辺りを見回していると、あゆみが片手を出してその上着を預かってくれるのでありました。
「展示場の、ここに着いて一番初めに挨拶した黒いスーツを着た中年の男の人が居たでしょう、あの人が会場設営の責任者だから」
「ああ、判りました。その人に指示を仰ぎますよ」
 万太郎は大岸先生に、それからあゆみに、その後に控え室を出る折に中に向かって律義に立礼してから、部屋の扉を静かに閉めるのでありました。閉め際に万太郎に向かって笑みを送るあゆみの顔が、狭まる空間の中に最後まで見えているのでありました。
 展示スペースでは黒いスーツ姿の中年の男と少し若い紺のスーツ姿の男、それにこれも暗色のスーツを着た若い女が二人、折りたたみ机を運んだりパイプ椅子を並べたりしているのでありました。万太郎も加勢に加わるのでありましたが、開場前から来ているのであろう出品者と思しき、老若及び男女の、どちらかと云うと老と女の多い一団が自分の作品を探したり、畳一枚程もあろうかと云う大判の書が壁に掲げてある前で、何やら賑やかに談笑する間を窮屈そうに縫いながら、件の四たりの作業連は立ち働くのでありました。
「ご苦労様。来た早々申しわけなかったわね」
 粗方の仕事を終えて控室に戻った万太郎に大岸先生が声をかけるのでありました。
「いえ。僕は裏方手伝いに来たのですから遠慮なくあれこれと申しつけてください」
 万太郎は大岸先生の慰労の言葉にお辞儀を返すのでありました。
「はいこれ、お駄賃」
 大岸先生は万太郎の掌に小ぶりの饅頭を二つ載せるのでありました。
「ああどうも、有難うございます」
「ほんのお愛想よ。座ってお茶でも飲んでいて」
「いや、他に仕事があれば何でもやりますよ」
「また後から、色々お願いするから」
 大岸先生はそう云って万太郎に奥のパイプ椅子に座るようにと促すのでありました。
 控え室は殆どが粧した女の人ばかりで、仄かな白粉やら香水の匂いが揺蕩っていているのでありました。万太郎は何となく場違いな処に居るような心持ちで、隅のパイプ椅子に小さくなって座って、大岸先生から貰った饅頭をちびちびと齧っているのでありました。
「はいこれ」
 あゆみが近づいて来て、淹れたての茶が微かに湯気を上げている茶碗を手渡してくれるのでありました。万太郎は齧りかけの饅頭を口に押しこんで立ち上がるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 170 [お前の番だ! 6 創作]

「ああ、申しわけありません。有難うございます」
「ううん別に」
 あゆみは手を横に小さくふりながら万太郎の横のパイプ椅子に腰かけるのでありました。万太郎も並んで元の椅子に腰を下ろすのでありました。
「来場者は大勢来るんですか?」
 万太郎はあゆみから貰った茶で口の中の饅頭を呑み下してから訊くのでありました。
「そうね、初日は大勢来るわ。それから最終日にも。間の日はそれ程でもないかな」
「多い時は一日何十人とかですか?」
「ううん、何百人、の単位よ。と云っても三百人とかはないけど」
「へえ、そんなに。それじゃ大忙しじゃないですか」
 そうは云うものの、実際のところの忙しさ加減は万太郎には判らないのでありました。
「それ程でもないわよ、実感は。忙しくて目が回る、なんて風じゃないわ」
「その間、裏方の力仕事、みたいなものはありますか?」
 万太郎は自分の鼻先を自分で指差すのでありました。
「そうねえ、昼食の買出しとか、上野駅にお客さんを迎えに行くとか、そのくらいかしら」
「それじゃあ僕みたいなヤツは、手持無沙汰ですかね?」
「ま、ちょっとしたお遣いもあるし、居てくれると何かと心強いわよ」
「何なりと仰せつけてください。折角来たんだから働かないと来た甲斐がない」
「会場警備とか、大岸先生のボディーガードとかあるかもよ」
「おお、それなら僕の仕事にうってつけです」
 万太郎は力瘤を作ってみせるのでありました。「尤もあゆみさんも居るわけだから、暴漢が襲って来たりとか、何かその類の不慮の事態があったとしても僕の出る幕はないか」
「え、あたし?」
 あゆみは少したじろいだ風情で、先程の万太郎の真似をするように自分の鼻先を自分で指差すのでありました。「こんな格好であたしが暴漢に立ち向かうわけ?」
 あゆみは着物の袖を持って広げて見せるのでありました。
「ああ、その格好じゃ動けないか。家から袴を持ってくれば良かったですね」
 万太郎は満更冗談でもないような口ぶりで云うのでありました。
「まあ、暴漢が来たら万ちゃんに任せるわ。暴漢なんて来ないと思うけど」
「暴漢がどうしたの?」
 大岸先生が並んでパイプ椅子に座っている二人の傍にやって来るのでありました。万太郎とあゆみはほんの僅かな時間差をつけては椅子から立ち上がるのでありました。
「いえなんでもありません。無駄話しです」
 あゆみが口に手を添えて笑って見せるのでありました。
「そろそろ開場時間だから、二人で受付に座っていてくれない?」
「はい。承りました」
 あゆみがお辞儀するのにほんの少し遅れて万太郎も頭を下げるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 171 [お前の番だ! 6 創作]

 受付にあゆみと並んで座っていると、暫くしてから豪勢なアレンジ花篭が届くのでありました。万太郎が何気なく添えられたカードに目を遣ると、そこには、祝 書道展、の文字の横に、興堂派道場の威治教士の名前が大書してあるのでありました。
「あら、威治さんからの花篭じゃない」
 あゆみが驚くのでありました。「書道展の事、どうして知ったのかしら?」
「さあ、どうしてでしょうかね」
「お父さんが何かの折に道分先生にでも話したのかしら?」
 あゆみは首を傾げるのでありました。それでも花が贈られて来た事自体は嬉しそうで、色取り々々の大輪小輪取り混ぜた花が我勝ちに自己主張する花篭を、瞠目の瞼の開きをそのままに、時々瞬きも織り交ぜながらひとしきり眺めているのでありました。
「何処に置きますか?」
「そうね、・・・」
 あゆみは椅子から立ち上がって場内を見回すのでありました。「あそこの壁際に椅子が並べられている横の、白いクロースのかかった台の上が空いているから、あそこでいいかしらね。あそこ以外にこの大きな花篭を置く場所も見当たらないし」
 あゆみは奥まった辺りの壁を指差すのでありました。
「それじゃあ、運んでおきます」
「お願いね。あたしは大岸先生に威治さんから花が届いた事を報告しておくわ」
 あゆみはそう万太郎に云い置いて控え室の方に姿を消すのでありました。
 その威治教士でありますが、午前十一時の開場早々に書道展に姿を現すのでありました。ガラスの扉を押して入ってきた威治教士は、受付に座った万太郎と先ず目があうのでありましたが、瞬間険しい眼色を万太郎に送って寄越すのでありました。
 どうして手前如きがそこに座っているんだと云う興醒めた思いと同時に、万太郎の顔が書道展に在る事の意外に少したじろいでいる風情も、その目は宿しているのでありました。万太郎は礼儀から、椅子から立ち上がって威治教士にお辞儀するのでありました。
 威治教士は万太郎のお辞儀をすっかり無視して、横に座っているあゆみに笑いかけるのでありました。あゆみも愛想の笑いを浮かべて立ち上がるのでありました。
「書道展、おめでとうございます」
 威治教士はそう云って浅く頭を下げてから、上着の内ポケットから熨斗袋を取り出して受付テーブルの上にぞんざいな仕草で置くのでありました。
「態々お越しいただいて有難うございます」
 あゆみがしとやかなお辞儀を返すのでありました。「それに綺麗なお花も届けていただいて恐縮です。あれこれお気を遣っていただいたようで、申しわけありません」
「いやいや、とんでもない」
 威治教士は万太郎には見せた事のないような、見ていて呆れる程の、あらんかぎりの親近感に満ちた笑い顔をあゆみに向けるのでありました。
{あのう、お取りこみ中恐縮ですが、御芳名を頂戴出来ますでしょうか?」
(続)
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お前の番だ! 172 [お前の番だ! 6 創作]

 万太郎が二人の目線の交差に容喙するのでありました。威治教士は咄嗟に笑いを顔から全消去して、万太郎に険のある横目を向けるのでありました。
 威治教士は万太郎が徐に差し出した筆を無愛想に取ると、上体を屈めて芳名録に署名するのでありました。一応興堂派道場の跡取りとして書道はある程度修めているようで、未だ文字の良し悪しがよく判らない万太郎が見ても、なかなか達者な楷書でありました。
「あゆみさんの書はどの辺りに展示してあるのかな?」
 威治教士は上体を起こしながらそう訊くのでありました。
「ああ、あちらの方に二点展示してあります」
 あゆみは先程威治教士から届いた花が飾ってある方とは反対側の壁を、掌を上にして指し示すのでありました。威治教士はそちらに視線を投げるのでありましたが、受付の前から動く気配は全く見せないのでありました。
「よろしければご案内しましょうか?」
 あゆみが気を利かせてか申し出るのでありました。豪勢な花篭と熨斗袋を貰っている手前、疎かなあしらいは出来ないと云う事でありましょう。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「では、こちらへ」
 あゆみは受付のテーブルから身を離して威治教士を奥の方に誘うのでありました。万太郎は二人が並んで奥に進むのを見送りながら、静かに椅子に腰を下ろすのでありました。
 開場と同時に来客が立てこむのでありました。忙しいけれども目が回る程の忙しさと云う感じじゃないと先にあゆみが云っていたのでありましたが、どうしてどうして、書道展の受付と云う仕事に慣れていない万太郎は大わらわとなるのでありました。
 途中から、先程会場設営を伴にした女性が一人、見かねて万太郎の横に来て手伝ってくれるのでありました。万太郎は奥で談笑しながら展示してある書を並んで見ているであろう、あゆみと威治教士の方に注意を向ける暇等まるっきりないのでありました。

 興堂派内弟子の堂下に先導されて向かった師範控えの間では、興堂範士と花司馬筆頭教士が茶を飲みながら談笑しているのでありました。そこに威治教士の姿も在るのは、珍しいと云えば実に珍しい光景と云えるでありましょうか。
 威治教士は師匠であり父親でもある興堂範士に限らず、目上の畏まるべき人との同席があんまり得意ではないようでありました。普段なら億劫がって呼ばれなければ控えの間には現れず、道場に居残っていたり、内弟子部屋や、次の稽古時間まで間があれば外に出て、喫茶店とかで取り巻き連中と戯れ言でも云いあっているのが常でありました。
「おお、ご苦労さん。さあさあ、中にお入りなさい」
 興堂範士が廊下で正坐してお辞儀する万太郎とあゆみに声をかけるのでありました。
「失礼いたします」
 あゆみはもう一度丁寧に頭を下げてから膝行で座敷に入るのでありましたが、万太郎は弁えを保って廊下に正坐して控えているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 173 [お前の番だ! 6 創作]

「そんな遠慮していないで、折野君もこちらにお入りなさい」
 興堂範士が万太郎に手招きするのでありました。「何時もと違って今日はあゆみちゃんも一緒なんだから、二人に茶でもふる舞って進ぜよう」
「押忍。では、不躾ですが」
 万太郎はそう云って素直に座敷に上がるのでありました。
「そんな上り口に畏まっていないで、もそっとテーブルの方に」
 師範控えの間に入りはしたものの、中央のテーブルから離れた処に正坐した万太郎に興堂範士が尚も手招きするのでありました。
「押忍。失礼いたします」
 万太郎は躄ってテーブル前に進み、あゆみと並ぶのでありました。それを見届けてから廊下の堂下が奥に下がるのは、茶を何杯持ってくるかを確認するためでありました。
「どうじゃったかな、久しぶりのウチでの稽古は?」
 興堂範士があゆみに話しかけるのでありました。
「はい、勉強になりました。門下生の方々も、皆さん活き々々と稽古されていましたし」
「些か総本部とは技の様子が異なるが、まあ、同じ常勝流じゃから理は同じじゃよ」
「はい、技の様子が違うところが新鮮でもあります」
「折野君は、勿論面能美君もじゃが、ウチで稽古するようになってから、総本部での稽古に於いても、技が少しばかり変化したろうかな?」
 この興堂範士の言葉は万太郎にではなく、あゆみみに向かう言葉でありました。つまりあゆみと云う第三者に、万太郎や良平の進境ぶりを確認するための言葉でありましょう。
「そうですね、面能美の方は如何にもこちらでご教授いただいた痕跡が、技の姿に表れるようになったと思いますが、折野の方に関しては、技の見た目は然程前と変化がないように思います。まあ、技の鋭さとか威力はかなり増してはきましたが」
 あゆみのこのクールな評に、万太郎は無表情を崩さないのではありましたが、実は内心少し狼狽えているのでありました。それでは如何にも、興堂派での稽古があんまり役に立ってはいないようだと、暗に告発されているような気がしたからでありました。
「おおそうかな。面能美君は技の表情が変わってきたが、折野君は鋭さや威力の方は増したが、あんまり技に変貌はないと云うわけじゃな」
「そうですね。一緒に稽古をしてみたあたしの実感ですが」
「生来呑気者に出来ているものですから、こちらに稽古に伺わせて貰っている甲斐が、なかなか発揮出来ないのを申しわけなく思っております」
 万太郎は恐縮の物腰で頭を掻くのでありました。
「結構々々。どちらかと云うと折野君の方がより結構じゃな」
 興堂範士はそう云って満足そうな笑いを万太郎に向けるのでありました。「二人はあにさんの内弟子なんじゃから、何もワシの技の体裁を真似て貰いたくてここに稽古に来て貰っているわけじゃない。あにさんが教えないところをワシから吸収すればそれでば良いんじゃよ。また逆に、ワシになくてあにさんにあるものを見極めて貰いたいのじゃよ」
(続)
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お前の番だ! 174 [お前の番だ! 6 創作]

「折野君はこのところ体に芯が出来てきたように思います。実は一緒に組ませて貰って、その芯がなかなかに強力で、組形でもそれを崩してこちらの手の内に引きこむのがこの頃如何にもしんどくなってきました。是路総士先生にも道分先生にも稽古をつけていただくとそう云う強靭な芯が一本、体に通っているのが実感できるのですが、折野君の芯もお二方と同じもののように思います。勿論お二方に比べて仕舞うと、未だひ弱い儘ですが」
 これは花司馬筆頭教士の言葉でありました。
「おうそうか。芯が出来てきたか」
 興堂範士が満足そうに何度か頷くのでありました。
「しかしスピードは面能美の方があると思うぜ」
 威治教士が横から口を挟むのでありました。「こちらがフルスピードで動けば、折野は多分それについてくることが出来ないだろうな」
 威治教士が良平を持ち上げる言葉なぞ今までに聞いた事がなかったので、万太郎は瞠目するのでありました。これは一体どう云った風の吹き回しでありましょうや。
 尤も良平は総本部道場の内弟子として三年の実績を積んだのでありましたから、この頃は威治教士としても良平にあからさまな侮蔑の顔を見せたり、下らないちょっかいを出して嘲弄する、なんと云う真似は表面的にはあまりしなくなってはいるのでありました。まあその本心は、万太郎も一緒にして相変わらず軽んじて止まないのでありましょうが。
「スピードにしても何にしても、勿論僕は若先生の域では未だ到底ありません」
 万太郎が慇懃に威治教士に頭を下げるのでありました。
「スピードと云うのは相対的なものじゃよ」
 興堂範士は万太郎が頭を起こしてから云うのでありました。「相手を無視して早く動いても関係がギクシャクするばかりじゃ。相手がどう仕かけてこようとこちらのペースに引きこんで仕舞えば、こちらの速さに相手が自然とあわせて来る」
「しかし親父さんの技のスピードは、総士先生のスピードよりも確実に早いぜ」
 威治教士が口を挟むのでありました。まあ、稽古中ではないのだから、威治教士のこういう狎れた物腰も百歩譲って許されるかと、万太郎は公憤を呑みこむのでありました。
「成程ワシの方が技のスピードは早いかも知れん。しかしそれはワシがスピードで以って体裁を繕って、ワシの技の拙さを誤魔化しているのかも知れんぞ」
 興堂範士は威治教士に向かって食えない笑いをして見せるのでありました。万太郎は意外な興堂範士の言葉に、竟々その顔を凝視するのでありました。
「いや、技の威力からしても拙さを誤魔化していると云うのではないと俺は思うけどね」
「そんな事、ワシならぬ身の知り得べき事か。実際ワシは実力ではあにさんには到底叶わんのじゃよ。あにさんはワシみたいにスピードと当身で相手を翻弄して、あっという間に荒々しく投げ倒すなんと云う技は決して使わんお人じゃ。あにさんにはひょっとしたら、相手を投げる事も必要ないかも知れん。相手と向きあった途端にもう、あにさんの勝ちは決まっておるからのう。見た目と違ってあにさんとはそう云う凄まじいお人なんじゃ」
 そう云う興堂範士の表情はこれ以上ない程真面目なものでありました。
(続)
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お前の番だ! 175 [お前の番だ! 6 創作]

「でも世間じゃ、剣術は別としても、体術では親父さんの方が上だと評判だぜ」
「そんなのは、ワシの技の派手さに惑わされている素人の見損ないじゃな。剣術は云うまでもなく、体術の実力に於いてもワシは到底あにさんには叶わない」
「一度勝負してみると一目瞭然だけどな」
 威治教士は満更冗談でもない口ぶりで云うのでありました。
「そうじゃ。確かに勝負すれば一目瞭然じゃ。だからワシはあにさんに今まで勝負を挑んだ事がない。勝負すればワシは屹度、手もなくあしらわれてお仕舞いじゃろうからな」
「そうかな? そうばかりとも思えないけど」
「ま、興堂派道場の門弟として、そう思っていてくれるのは有難いと云うものじゃがな」
 興堂範士はここで花司馬筆頭教士に顔を向けるのでありました。「花司馬、お前はワシとあにさんが勝負したらどうなると思う?」
 そういきなり嘴を向けられて花司馬筆頭教士は困惑の表情をするのでありました。
「いやあ、自分は是路総士先生も道分先生も、勝ち負けとか云う領域からは既に遠い境地に到られているのだと思っております」
「なんじゃ、有耶無耶を云って逃げおったな」
 興堂範士は大笑するのでありました。別に花司馬筆頭教士に踏み絵させているわけではないので、それ以上彼の人を困らせる事は控えるようでありました。
「さて、あゆみちゃん」
 興堂範士は話頭を変えるのでありました。「あゆみちゃんも、偶にはウチの道場に出稽古にお出でなさい。そうするとウチの女の門弟共が喜ぶ」
「確かにあゆみ先生は、ウチの女子の門下生達の憧れの的ですからね」
 花司馬筆頭教士が肯うのでありました。「連中ときたら、自分の云いつけとか指導なんか聴きもしないくせに、あゆみ先生の云う事ならよく聴きますね」
「そりゃそうじゃ。ワシだって花司馬の云う事なんぞは聴く気もないが、あゆみちゃんの云う事だったら何でも素直に聴くわい」
 興堂範士が雑ぜかえすのでありました。
「押忍。恐れ入ります」
 花司馬筆頭教士は何となく真面目な顔つきで興堂範士にお辞儀するのでありました。その様子が可笑しかったのか、あゆみが口元を手で隠して笑うのでありました。
「じゃあ、あたし達はこの辺で失礼します」
 あゆみが笑い収めて興堂範士に向かって頭を下げるのでありました。
「ああそうかい。何なら次の稽古にも出てその後飯でも食っていくかい?」
「有難うございます。でも今日は未だ総本部の方の内弟子稽古等もありますから、それに間にあうように帰りたいと思っておりますので」
「ああそういかい。稽古だと云うなら引き留めるわけにもいかんが」
「また近い内に、ゆっくりお邪魔させていただきます」
 あゆみは少し後ろに躄って、興堂範士に向かって律義な座礼をするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 176 [お前の番だ! 6 創作]

「おや、茶を持って来て、さっきまで廊下に座っていた堂下は、どうした?」
 興堂範士が廊下の方に視線を移して云うのでありましたが、それは別に意識して洒落を云おうとしてそう云ったのではないようでありました。
「ここは良いから、道場の受付に座っていろと自分が先程指示しました」
 花司馬筆頭教士が興堂範士に堂下が不在の理由を話すのでありました。
「ああそうかい。ま、それなら花司馬、お前が二人を玄関まで見送れ」
「押忍。勿論そういたします」
「いや、お見送りは結構ですよ」
 あゆみが花司馬筆頭教士に掌を見せるのでありました。
「いやいや、あゆみ先生に対して礼を失しては我が道場の名折れです。それに堂下に茶碗を片づけろと指示しなければなりませんから、一緒に玄関まで行きますよ」
「じゃ、あゆみちゃん、またな。くれぐれもあにさんに、お心遣い有難く頂戴いたしますと伝えておくれ。それに折野君、来週の出稽古も楽しみにしているよ」
 興堂範士は座敷に座った儘、廊下でもう一度正坐してお辞儀する万太郎とあゆみに手を上げて愛想を送るのでありました。
「失礼いたします」
 万太郎とあゆみが揃えるともなく声を揃えるのでありました。
 玄関まで花司馬筆頭教士だけではなく、威治教士も何故か億劫がらずについて来るのでありました。屹度あゆみが去る事への未練からであろうと万太郎は踏むのでありました。
「では、失礼いたします」
 万太郎とあゆみは花司馬筆頭教士と威治教位に、それに受付から廊下に出てきた堂下に向かって丁寧に頭を下げるのでありました。
「あゆみ先生、またいらしてください。折野君は、また来週な」
 花司馬筆頭教士は先ずあゆみに、その次に万太郎の方に顔の向きを移して、浅くお辞儀しながら云うのでありました。
「押忍。来週もよろしくお願いいたします」
 万太郎は深めのお辞儀をもう一度返すのでありました。
「あゆみちゃん、今度はゆっくり飯も食っていってよ」
 威治教士があゆみに笑いかけるのでありました。
「有難うございます。またその内に」
 あゆみはそう云ってから玄関を出るのでありました。万太郎は最後にもう一度、律義に中の三人にお辞儀をしてからあゆみの後を追うのでありました。
「花司馬先生があゆみさんを何時も、あゆみ先生、と呼んでいると云うのに、僕や良さんがあゆみさんの事を、あゆみさん、と呼び続けるのは不謹慎ではないでしょうか?」
 御茶ノ水駅から乗った新宿に向かう電車の中で、万太郎は隣に並んで立って吊革に摑まっているあゆみに訊くのでありました。
「何、改まって?」
(続)
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お前の番だ! 177 [お前の番だ! 6 創作]

「いや、実は前から気にはしていたのです。まあ、入門から三年も経っているのに今更何ですが、花司馬先生が、あゆみ先生、とちゃんと尊称をつけて呼ばれているのですから、僕なんかも当然そう呼ばなければならないかと、今日改めて思ったのです」
「別に、今の儘で良いんじゃない?」
 あゆみは万太郎の蟠りを軽く往なすように云うのでありました。
「しかし、花司馬先生がそう呼ばれているのですから。況や僕ごときが、・・・」
「万ちゃんが内弟子に入るより前に、あたし一度花司馬先生に、あたしを先生と呼ぶのは止してくれないかって云った事があるの。でもその時は、あたしが子供の頃から常勝流を習っているのだから、実年齢は別にして、自分より遥かに姉弟子に当たるのだからそう云う人を、先生、と呼ばないわけにはいかないって、そう頭から断じられて仕舞ったの」
「花司馬先生らしい律義なお考えですね」
 万太郎はその折の花司馬筆頭教士のしかつめ顔が目に浮かぶようでありました。
「でもあたしが年長である花司馬先生に、先生づけで呼ばれるのは如何にも不自然ではないでしょうかって食い下がったんだけど、いいやそうはいきません、武道にあって入門の順を疎かにしたりすれば、他の門下生にも示しがつきませんし、敬称順列の乱れが延いては技法の乱れにもつながって仕舞います、なんて大真面目な顔で説かれて、この頑固さとあれこれ渉りあうのはとてもしんどいなって、ちょっとげんなりもしたの」
 あゆみはその時を思い出して困ったように少し眉根を寄せるのでありました。その顔は話しの内容とは全く関係なく、如何にも可憐に万太郎には見えるのでありました。
「へえ、そんな事があったのですか」
 万太郎はあゆみの顔から視線を外しながら応えるのでありました。
「だからあっさり諦めたの。ま、好きなように呼んで貰えば良いかって」
「でも考えてみれば、花司馬先生のお考えにも一理あるかなあ」
「ねえ万ちゃん」
 あゆみに改まってそう呼びかけられて、万太郎はあゆみの方を向くのでありました。あゆみの眉根の皺がより深くなって、つまりより可憐な表情になっているのでありました。
「な、何でしょう?」
 万太郎はどぎまぎとしながらあゆみの顔をやや上目に窺い見るのでありました。
「万ちゃんまでそんな四角四面な事考えないでね。ずっと、あゆみさん、て呼んでくれていたんだからそれでいいじゃない。その方がこちらとしても余程気楽なんだからね」
「押忍。・・・じゃなかった、はい」
 万太郎が云い直すのは、ここは道場ではなく娑婆だと思い至った故であります。
「全く、武道をやっている人は堅苦しい事が好きな人が多くて困るわ」
「でも総士先生なんかは如何にも飄々としていらして、道分先生にしても大いに捌けていらっしゃると云った印象で、ちっとも堅苦しい感じはありませんが?」
「でも二人共、根は堅苦しいのよ」
「それに興堂派の若先生なんかは、堅苦しい感じはまるっきりしませんけどね」
(続)
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お前の番だ! 178 [お前の番だ! 6 創作]

 威治教士には少しくらいは堅苦しくあって欲しいものだと思っての、これは万太郎の揶揄半分の言葉なのでありました。
「そう云われればそうね。確かに威治さんは堅苦しくはないわね。寧ろ、・・・」
 あゆみはそこで言葉を濁すのでありましたが、その、寧ろ、の後に空に昇る湯気のように消えて仕舞った言葉が万太郎は大いに興味があるのでありました。
「若先生はあゆみさんに対してちっとも堅苦しくない口のきき方をされますが、あゆみさんは少し堅苦しい応対をなさいますね?」
「実際、そんなに親しいと云うわけじゃないからね」
「でも、子供の頃から見知った間柄だったのではないのですか?」
「それはそうだけど。あたしが小学生の頃は、ほんの偶にだけどお父さんが道分先生の道場にお邪魔する時にあたしを一緒に連れて行ったり、お正月とかで道分先生がウチに来る時に、威治さんがついて来たりして、そんな時には一緒に遊んで貰った事もあったわ」
 あゆみは電車の窓の外に視線を投げて、昔を思い出すような顔をするのでありました。
「幼馴染と云うわけですね?」
「そうね。でもあたしが小学校の高学年になる頃には、もう殆ど交流はなくなったわ」
「子供の頃に一緒に組んで稽古した事なんかはなかったんですか?」
「それは全くなかったわ、何故か知らないけど」
「総士先生や道分先生の指示で組まなかったのですか?」
「ううん、そんなんじゃないけど。今でも稽古の場で一緒になる事はあっても、威治さんと組む事は滅多にないわね。ま、別に組んでも構わないんだけど、何となく組まないわね」
「今は若先生の方は、実はあゆみさんと組みたがっておられるかも知れませんよ」
 あゆみが万太郎の方に顔を向けるのでありました。それはどう云う趣旨からの言葉なのかと云うような、やや身構えのある疑問符が瞳の中にあるのでありました。
「つまりその、小さな頃から見知っている同士でもあり、お二人共一派の跡継ぎ同士と云う同じ立場もありますから、何と云うのか、若先生はあゆみさんに大いにシンパシーを感じておられるのではないかと、まあ、そんな事を思うような、思わないような。・・・」
 万太郎は何となく自分の云い草がしどろもどろである事を意識するのでありました。
「シンパシーを感じているなら、一緒に組んで稽古したくなるの?」
「いやまあ、そうかも知れませんし、そうじゃないかも知れませんが。・・・」
「万ちゃんの云い方には、何となく引っかかるものがあるわね」
「いや別に他意があっての言葉ではないのですが。・・・」
 万太郎は他意があるのを隠蔽せんとして、さらっとそんな風に云うのでありました。
「それに前にも云ったと思うけど、あたしはお父さんの後を継ぐ気はないんだからね」
 あゆみはその日、御茶ノ水駅から歩いて興堂派道場に向かっていた折に出た話しを、またもや繰り返すのでありました。
「ああ、そう云うお考えでしたね」
 万太郎は何となく話しの矛先が変わった事を好都合と秘かに思うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 179 [お前の番だ! 6 創作]

「でもあたしがそう云うからって、その話をまたここで蒸し返すのは嫌よ」
「はい。そう云う事は僕ごときがあれこれ考える事でもありませんから」
 そう云いながら万太郎はふと、そうなると総本部道場の将来はどうなるのかと考えるのでありました。結局、あゆみが鳥枝範士や寄敷範士、それに興堂範士辺りまで出てきて、是路総士の跡目を継ぐようにと説得されている図が頭の中にぼんやり浮かぶのでありましたが、話しを蒸し返さないために万太郎はその図を一先ず折り畳むのでありました。

 ぼんやり浮かんだ儘の、威治教士とあゆみが寄り添うように並んで展示してあるあゆみの書を、批評の言葉を楽し気に交わしながら眺めている図が、忙しく受付仕事をこなしている間も万太郎の頭の隅を去らないのでありました。そう云えば結構長い時間、二人は後ろの展示場に消えた儘で、あゆみはなかなか受付席には戻らないのでありました。
 万太郎は気になって度々後ろをふり返るのでありました。しかし大勢の来訪者や関係者に紛れて二人の姿を認める事は出来ないのでありました。
 目を戻す時に先程あゆみの指示で万太郎自身が壁際の台の上に置いた、威治教士から送られて来た豪勢なアレンジ花篭が見えるのでありました。万太郎は何となくその花篭が視界に入るのが嫌さに、急いで目を背けるのでありました。
「どうぞ、どうぞ、ゆっくり行っていらっしゃい」
 そう云う大岸先生の言葉が万太郎の耳に飛びこむのでありました。万太郎がそちらに目を向けると、大岸先生を間に挟んであゆみと威治教士がにこやかな顔でゆっくり万太郎の居る受付の方へ歩み寄りながら、大岸先生にお辞儀している姿が見えるのでありました。
「ああ、万ちゃん受付ご苦労様」
 傍まで来た大岸先生が万太郎に声をかけるのでありました。
「いえ、とんでもありません」
 万太郎は椅子からきびきびとした動作で立ち上がって大岸先生に浅く低頭するのでありました。どうやら展示場の奥であゆみと威治教士の二人だけで書を眺めていたのではなくて、偶々傍に来たのであろう大岸先生も交えて三人であゆみの作品を前に立ち話ししていたから、万太郎にすればかなり長い時間あゆみは戻らなかったと云う事でありましょうか。
 そう推量すると、万太郎は何とはなしに胸の痞えが下りるような心地がするのでありました。まあ、普段のあゆみの言動に鑑みれば、来客を待遇すると云う以上の了見から、あゆみが展覧会に表れた威治教士を持て成す事は、先ずないだろう事でありましょうし。
「あたしちょっと、威治さんと昼食に出てくるから」
 あゆみが万太郎に向かって云うのでありました。その言葉を聞いた途端、万太郎はまたもやすぐに、内心そわそわ且つ苛々とするのでありました。
 そう云う話しがあったから、先程こちらへ歩み来る大岸先生が「どうぞ、どうぞ、ゆっくり行っていらっしゃい」なんと云う言葉を吐いたのでありましょう。
「はい、判りました」
 万太郎は無表情を装ってあゆみに頭を下げるのでありました。「どうぞごゆっくり」
(続)
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お前の番だ! 180 [お前の番だ! 6 創作]

 万太郎は竟、余計な愛想の一言、或いは秘かな揶揄の一言なんぞもつけ加えるのでありました。その余計な一言を吐いた事を、すぐに万太郎は心の内で自責するのでありました。
 その間威治教士は終始無言で万太郎の方に顔を向けないのでありました。万太郎如きのあゆみへの対応なんぞは無視、と云う事でありましょう。
 万太郎はギャラリーを並んで出て行くあゆみと威治教士を立って見送るのでありました。横で一緒に二人を見送る大岸先生が二人の姿がガラスの自動扉から外に出て、通りの人ごみに紛れるのを確認した頃あいで万太郎に言葉をかけるのでありました。
「あの威治さんと云う人は時々総士先生や興堂先生の話しの中に出てくる事があって、どんな人かと思っていたけど、今日初めて会ってみると何となく癖のある人のようね」
 すっかり好評価、と云う事ではなさそうな大岸先生の云い草に対して万太郎は、そうですねと正直なところを云うのも憚られて、何となく言葉を返すタイミングを失するのでありました。道場でなら即座に、押忍、と応えれば何に依らず無難に済むのでありましたが。
「随分豪勢なアレンジ花篭をいただいたようだから、こっちも色々愛想をするんだけど、そう云う気遣いをしてもあんまり捗々しい反応がなかったわ」
 それはそうでありましょう。威治教士は偏にあゆみの気を引く事のみを目当てに、一丁気合を入れて大奮発したのでありましょうから。
 依って、大岸先生の愛想等は興味の対象外なのでありましょう。それにしてもそう云う辺りをあからさまにしないのが、大人の対応と云うものでありましょうけれど。
「ところでこちらもそろそろ、お昼ご飯の準備をしなくてはね」
 大岸先生はそう云って、先程万太郎の受付仕事を手伝ってくれた女性を場内に捜すのでありました。その女性の姿が見つかると大岸先生は手招きするのでありました。
「昼食のお弁当を、この万ちゃんと一緒に綾膳に取りに行って来てくれない?」
「はい判りました」
 その女性は大岸先生に頷いた後万太郎を見るのでありました。万太郎は、お供します、と云う代わりに軽くお辞儀をして見せるのでありました。
「綾膳に行けば十人分仕出し弁当を用意していてくれている筈だから」
「では行ってきます」
 件の女性はもう一度大岸先生に頭を下げるのでありました。
 綾膳と云うのは仕出し弁当屋の屋号でありました。御徒町のガードを潜って上野駅の方に少し戻ると、鈴本演芸場と云う寄席の近くにその弁当屋はあるのでありました。
 大ぶりの弁当を五人分ずつ入れた二つの紙袋を万太郎が持ち、それにもう一つ、弁当につき物の水菓子か何かがこれも十人分入った紙袋を一つ女性が持って、二人は来た道をまたすぐに戻るのでありました。両手に持った弁当のその重さからして、これは屹度豪華な仕出し弁当に違いないと万太郎は当たりをつけるのでありました。
「貴方も展示会の手伝いに来た大岸先生のお弟子さん?」
 横に並んで歩く女性が万太郎に話しかけるのでありました。
「ええまあ、一応そうなります。あんまり熱心なお弟子とは云えませんが」
(続)
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