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お前の番だ! 162 [お前の番だ! 6 創作]

「今の折野君のような綺麗な受けは難しかろうから、先ず取りかかりは足払いを緩くして、ゆっくり引き倒す程度にしながらの稽古じゃな」
 興堂範士はそう云ってから何度かテンポを落とした動きでこの、奥襟落とし、と云う技の組形を、万太郎を相手に演武して見せるのでありました。万太郎も興堂範士のスピードにあわせて、ゆっくりと滑らかな受けを取るのでありました。
 万太郎は、この技の稽古は興堂範士の指示に依り威治教士と組むのでありました。どうせ態と投げるタイミングを早めたり、急に奥襟を引く力を強くしてみたり、足払いを派手に見せようと踵でこちらのふくらはぎを強蹴してみたりと、組形稽古では禁じられている色々な外連味を発揮してくるだろうと思って、万太郎は内心げんなりするのでありました。
 しかしその日の威治教士は、何時も程には妙な仕かけをしてこないのでありました。恐らく道場内にあるはずのあゆみの目を憚って、目上であるのを良い事に目下を虐めているような図に見えないように、精々自制しているのでありましょう。
 そうやって手前味噌な気遣い等されなくとも、万太郎はどのような威治教士の意表を突く外連でも上手くいなして見せる自信はあるのでありました。この場合の、上手くいなす、とは、どんな投げ方に対しても見事な受け身を取って見せると云う事でもあれば、酷い投げを打たれたとしても、自分も仕返しするように対抗的な仕手を取らず、組形稽古の矩を決して外さず冷静に、勿論威治教士の面子も潰さないように、正統な仕手としての在り方に徹すると云う、些か生意気と云えなくもない万太郎の余裕から発した思いであります。
 何時もと違った威治教士の真っ当な稽古態度に些かの戸惑いを覚えつつも、その日の出稽古では後二つの技を修錬するのでありましたが、一つは興堂派道場の古株で花司馬筆頭教士と同い年の、体重が百キロを超えると思われる巨漢と、もう一つは、当人のたっての希望と云う事で新米内弟子の堂下と組んで稽古するのでありました。堂下は万太郎の技術をなんとか吸収しようと、大いに意欲的で真摯な態度で相手をするのでありました。
「はいこれまで!」
 興堂範士の稽古終了を告げる声が響くと門下生達は下座に下がる事なく、畳一枚の間隔を挟んで二人向いあって整列してその場に正坐するのでありました。今までそこかしこに盛んに響いていた気合の声や受け身の畳を打つ音が、天井に吸いこまれたようにさっぱりと消え失せて、静一で森厳な冷気が道場内に満ちるのでありました。
「黙想五分」
 興堂範士の声がかかると門下生達は姿勢を正して瞑目するのでありました。黙想とは云うもののこの五分間は、何も考えずに無念無想となる時間でありました。
「黙想止め。下座に」
 興堂範士の指示に門下生達は「押忍」の発声と同時に両手で畳を打ってきびきびとした動作で立ち上がると、下座に趨歩して横一列に整列正坐するのでありました。この後は神前に、それから興堂範士に座礼をして、堂下の先導で興堂範士が道場を去るのを待ってから、夫々稽古した相手とお辞儀を交わすのは総本部道場と殆ど同じ慣わしでありました。
「本日の稽古、有難うございました」
(続)
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