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あなたのとりこ 481 [あなたのとりこ 17 創作]

 思いがけなかったようで出雲さんは少し戸惑いの表情をするのでありましたが、すぐに笑顔を見せて組合員夫々に感謝の言葉を投げるのでありました。考えてみたら山尾主任が辞めた時には、このような送別のセレモニーはなかったのでありました。
 この差は何かと考えて見ると、要は他の従業員が山尾主任よりは出雲さんの方に屈託を感じていなかったが故でありましょうか。山尾主任は何方かと云うと万事に格式張りたい方で、何に依らず謹慎なる態度をはっきり他人に求める傾向が強いタイプであったから、ちょっと煙ったい存在であったと云うところでありますか。こういうところは、本人は不本意でありましょうが、土師尾常務に少し似ているとも云えるでありましょう。
 出雲さんはその点程良くくだけていて、他人の振る舞いに対してもなかなか鷹揚でありましたか。そう云うところは、山尾主任から見ればちゃらんぽらんとも見えていたかも知れません。しかしその方が気さくで煙ったがられない点で得ではありましょう。
 とまれ出雲さんが会社を辞めてからと云うもの、袁満さんはと云うとすっかり気落ちした風で、言葉を交わしても表面は何時もと変わらないようでも、どこか寂し気な風情が頭上にもやっと漂っているのでありました。何だか同じ立場にいた後輩が居なくなって、会社の中で孤立して仕舞ったような気分になっているのかも知れません。
 袁満さんはと云えば何に依らず既定が維持されている状態に安堵を覚えると云ったタイプの人で、変化を嫌う、或いは常態の変更が苦手と云った気風の人でありました。現状の変化の兆しを感じると先ずは気後れを覚えて、警戒心を抱くのでありますが、かと云って積極的に変化を食い止めるとか抵抗すると云う能動性はなくて、ただ陰鬱そうに身を固く縮めて変化を遣り過ごして、後にその変化に自分の身が狎れるのを待つのであります。まあ、自棄を起こすよりはその方が確かに賢明な処身と云えるかも知れませんが。
 その袁満さんが何とか出雲さんの不在に慣れてきた辺りで、今度は片久那制作部長の退社が現実味を帯びて来るのでありました。袁満さんはこれに対しても何かと先回りに気を揉み始めるのでありました。まあしかし、営業部の仕事に直接何らかの影響が及ぶ訳でもないからか、その心配は専ら土師尾常務の跋扈に対する危惧でありましたか。
 しかし従業員単独ではなく組合員一丸で以ってそれに臨むと云う確認が既になされていたから、袁満さんは為す術無くくよくよすると云った程ではないのでありました。しかし袁満さんは組合の委員長でありますから、結局矢面に立つのは先ず自分であろうと云う危惧はあるようで、気鬱はなかなか晴れないのは仕方のない事でもありますか。
 片久那制作部長がこれ迄担っていた制作部仕事の均目さんへの移行は、任せても当面何とか大丈夫であろうと云う程度には完了した頃でありましたが、頑治さんが定期に池袋の宇留斉製本所に向かう折に、長い付き合いであったからちょっと挨拶するために同道したいと片久那制作部長が申し出るのでありました。勿論拒む謂れも気も権限もないから頑治さんは気安く頷いて見せるのでありました。考えてみればこれ迄片久那制作部長と二人して、仕事で何処かに出掛けた事なんかは全く以って一度もなかったのでありました。
 当日倉庫で宇留斉製本所に持って行く荷を車に積み込んでから、頑治さんはインターフォンで片久那制作部長に出掛ける用意が整った旨を告げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 482 [あなたのとりこ 17 創作]

 すぐに下に降りて来た片久那制作部長を頑治さんは倉庫を出て、駐車場の車の横で迎えるのでありました。後部座席は折り畳まれてそこには荷物が積んであったから、片久那制作部長は長躯を窮屈そうに折り畳んで助手席に座るのでありました。
「じゃあ、出します」
 頑治さんはそう云って車を発進させるのでありました。
「入社して以来、何やかやとあって、今迄目まぐるしかっただろう」
 白山通りに出た辺りで片久那制作部長が頑治さんに話し掛けるのでありました。
「そうですね。何やかや、ありましたね」
 頑治さんは薄く苦笑いを頬に浮かべるのでありました。
「短期間に色々あり過ぎて、この先勤められるか将来が不安にならなかったかな?」
「いや、そこまでは。若し何か会社に居続けられない事が起こったとしても、それはそれで仕方ないですから。まあ、要するに縁が薄かったと云う事になりますかね」
「成程ね。唐目君はなかなか肚が座っているんだな」
 片久那制作部長は大いに感心したような云い方ではなく、かといって揶揄や嫌味を込めている風でもなく云うのでありました。
「肚が座っていると云うよりは、諸事に鈍く出来ているんでしょうね」
「いや、唐目君が鈍いとは思わないけどね」
「いやいや、なかなかそうでもないですよ、これが。その内化けの皮が剥がれます。いやもうとっくに剥がれていますかねえ」
「唐目君は必ずそう云う云い方をするが、そこは一種の慎み深さだと捉えておこうか」
 片久那制作部長はカラカラと笑うのでありました。
「池袋の宇留斉製本所には最近行かれた事があるんですか?」
 頑治さんは話しの舳先を曲げるのでありました。
「いや、もう十年も行っていないかなあ」
「ほう、十年ですか」
「偶に電話する事はあるが、それも最近は用があったら均目君に任せていて、とんとご無沙汰と云う感じかな。まあ、あそことは地名総覧社時代からの付き合いになるけど」
「ウチとの付き合いは最古参級ですかね?」
「まあ、その一つかな。昔はあそこのオバサン連中もそれなりに若かったしなあ。一番下の人は未だ結婚もしていなかったかな」
「ああ、あの三姉妹の一番体格の良い人ですね」
「昔は、まあ確かに痩せてはいなかったけど、ムチムチとした結構肉感的な色っぽい感じだったかな。今となっては、もうそんな片鱗も無いかも知れんが」
「いやまあ、お世辞じゃなくお綺麗ですよ。自分はタイプじゃないですけど」
「あの三人の中では、一番口煩くなっているようだな。前に唐目君の前任で業務をやっていた刃葉君が、大いに持て余して厄介極まりない人だと零していたけどな。時々」
 片久那制作部長はここでももう一度屈託なく笑うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 483 [あなたのとりこ 17 創作]

「ああそうですか、刃葉さんがそう云っていましたか」
 頑治さんはここで思いがけない名前が出て来たものだから、幾分懐かしそうに少し頬に笑いを浮かべて見せるのでありました。
「厄介と云うところでは、そう云う刃葉君自身も結構厄介なヤツだったけど」
 片久那制作部長は、ここは屈託なくもない笑いなんぞをするのでありました。

 行程も真ん中辺りに差し掛かったところで、頑治さんがふと思いついたように助手席の片久那制作部長に訊くのでありました。
「片久那制作部長は、会社を辞めた後の仕事とかはもう決まったんですか?」
「まあ、ある程度は」
 片久那制作部長は居住まいを正すように助手席で身じろぎするのでありました。
「良かったら何の仕事をされるのか聞かせて頂けますかねえ」
「学生時代の朋友が出版社とか通信社とかに複数居て、そこから外注と云う形で仕事を貰って、月刊誌のちょっとした記事を書いたり、本の編集を手伝ったり、それに色んな図版とかを作ったりする心算だよ。ああそれから、今の仕事で付き合いのある地球儀メーカーに是非にと頼まれて、そこの地図版編集を請け負う仕事もあるかな」
「地球儀メーカーと云うと、NGRグローブ社ですか?」
「ああそうだ」
 NGRグローブ社と云うのはアメリカの結構有名な地球儀メーカーの製品の、日本語版をライセンス生産している会社であります。そこの編集仕事を一応贈答社が受注すると云う形で、片久那制作部長が専門に製作を請け負っていた仕事でありました。
 その仕事も元々は、片久那制作部方の学生時代の知り合いで出版ブローカーみたいなことをしている人の紹介で始まったもので、片久那制作部長が贈答社を辞めたら、当然自動的に贈答社はお呼びでなくなると云う事であります。要はNGRグローブ社は贈答社とは殆ど何の関係も無くて、片久那制作部長個人と濃く繋がっている訳であります。
「へえ、もう早速今後の仕事の目途は立ったと云う事ですかねえ。流石に有能な人は不測の事態が起こっても、オロオロのほほんとなんかしていないものですねえ」
「いやまあ、そんな訳でも無いが、・・・」
 片久那制作部長は恐らく有能な人と云われた部分に一応の謙遜を見せるのでありましたが、頑治さんはそれを無視してあっけらかんと感心するのでありました。しかし不測の事態が起こったからと云うよりは、片久那制作部長は近い将来贈答社を辞めて、そう云う仕事でこの先独立しようと云う指向を前から持っていたと考える方が自然でありますか。だからトントン拍子で、事後の方便の道が整えられたと云う事でありましょうか。
「それはフリーランスとして、ご自宅を拠点にして遣っていかれるんですか?」
「いや、事務所を借りて会社組織の編集プロダクション、と云う形にする心算だよ」
「じゃあ、新たに会社を興される訳ですね?」
「まあ、そう云う事になるかな」
(続)
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あなたのとりこ 484 [あなたのとりこ 17 創作]

「でも当面は一人で遣っていかれるんでしょう?」
「そうだな。当面は一人で熟せるくらいの仕事量だろうからな」
「将来的には人を増やして、と云う風に考えていらっしゃるんですかね?」
「まあ、今後の成り行き如何では」
「遠からぬ将来、と云うよりはあっと云う間に仕事も増えて人も雇って、今の贈答社くらいの規模の会社にはされるんでしょうねえ」
 頑治さんは少々おべんちゃらも加味して云うのでありました。
「まあ、どうなるかな」
 片久那制作部長は含み笑うのでありました。つまりそんな将来像を満更描かないでもない、と云うところかと頑治さんはその心底を値踏むのでありました。
「手抜かりのない片久那制作部長の事だから、屹度思い通りにいくでしょうね」
「ところで唐目君は、この先も贈答社に身を置いておく心算でいるのかな?」
 片久那制作部長がここでも、少し居住まいを改めるように身じろぎする気配を頑治さんは感じるのでありました。何となく緊張感が醸し出されるのでありました。
「まあ、自分にはやっとありついた今の会社での仕事を容易に脇に置ける程の、これと云った取り柄も特殊技能も気概も性根も無いですから」
「ほう、大した謙遜だな」
「いや謙遜ではなくて生一本の事実です」
「唐目君の方が均目君や那間君より、部下として鍛え甲斐がありそうに俺は思うよ」
「いやあ、ここで俺を持ち上げても別に何も出ませんよ」
 頑治さんは頬を笑いに動かすのでありましたが、何だか少しぎごちない作り笑いになったように思うのでありました。片久那制作部長にそんな事を云われて嬉しくない事も無いのではありましたが、何となく穏便ならぬ響きの方をより強く感じ取って仕舞って、一種の用心からその発言を戯れとして聞いた事にしようとするのでありました。
「例えば本や雑誌の編集者とかライターとして将来遣ってみる気は無いかな?」
「まあ、制作部の仕事を手伝わして貰って、そっちの方面にもちょっと興味は湧いてきましたが、でも那間さんよりは指向としては俺の方が弱いですかね。那間さんは将来一流雑誌の記者とか、一端の編集者になりたいと日頃から公言していますし」
「何度注意しても直らない朝寝坊に代表されるだらしなさと云う点に於いて、今一つ信用が置けないからなあ那間君には」
 ああ成程と頑治さんは思うのでありました。しかし言葉にはしないのでありました。
「若し俺が会社を興したら、唐目君はそっちに来る気は無いかな?」
 片久那制作部長は無造作を装いながらも、しかし満を持して、と云った感じで云うのでありました。要は頑治さんに対してこの誘いをする目的でこうして態々、宇留斉製本所に挨拶に行くと云う尤もらしい理由を付けて、頑治さんの運転になる車に同乗しようと計ったのでありましょう。まあ尤も、頑治さんとしてはそこ迄自分を買ってくれた、或いは買い被ってくれた事に不快感を持つ謂れは全く以って無いのでありましたけれど。
(続)
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あなたのとりこ 485 [あなたのとりこ 17 創作]

「どうかな、素っ気無くしないで、ちょっとくらい考えてみてくれるかな?」
 頑治さんがどう云う心算かなかなか捗々しい返事をしないものだから、片久那制作部長はそう訊いて頑治さんの出方を見ようとするのでありました。入社以来色々あって頑治さんが会社に辟易としていると踏んでいたのに、その頑治さんがすぐに自分の話しに跳び付いて来ないのが、片久那制作部長にすればちょっと心外だったのかも知れません。
「大変有難いお誘いです。・・・」
 頑治さんは語尾に屈託をそれとなく込めるのでありました。
「すぐには大した給料も出せないが、軌道に乗ったら出来るだけの厚遇はする心算だ」
「まあ、未だ仕事を始められる前なんですから、収入の事は今の段階で何とも云えないのは理解出来ます。自分もそこにはあんまり関心はないですし」
「と云う事は、そこ以外は、関心を持ったと云う風に考えて良いのかな?」
「いやまあ、そう云われると何とも返事の仕様がないのですが。・・・」
「まあ、未だ山のものとも海のものとも知れないところに来いと誘われても、そう易々と踏ん切りが付かないのは判るが、しかしこの儘贈答社に居てもあんまり先の見込みはないように思うけどなあ。第一唐目君の真価を常務や社長は判ってくれないだろう」
 何とか持ち上げてくれる片久那制作部長の言葉は心地良いのではありますが、掛け値無しにそやしてくれている訳ではないとも思うのであります。一定程度は本心から頑治さんの仕事の力量、若しくはひょっとしたら人間性辺りも大いに評価してくれているような口振りではありますけれど、しかし未だ互いに知り合って然程経ってもいないのでありますから、頑治さんの真価にしたって山のものとも海のものとも未だ知れない訳ではありませんか。頑治さん自身も、その片久那制作部長の世辞に見合う力量を自分が保有しているとはなかなか思えないし、後でがっかりされるのも何となく癪な事ではありますし。
「自分の真価なんかは、高が知れているじゃないですか」
 片久那制作部長はその云い草に頑治さんの気持ちの冷えを察したようで、それ以上云い募らずに少し口の動きを止めるのでありました。何となく重苦しい空気が泥むのでありました。頑治さんのちっとも煮え切らない様子に、遂にここに至って片久那制作部長は気分を害して仕舞ったのではないかと、頑治さんは少しおどおどするのでありました。折角目を掛けてやっていると云うのに、何とも目の掛け甲斐のないヤツでありますか。
「まあ、すぐに返事してくれなくても構わないけど、少し考えてくれないか」
 片久那制作部長はそう云ってこの会話を締め括るのでありました。どうやら頑治さんのその後の諾の返事は殆ど期待していないような、白けた気持ちの籠った片久那制作部長の云い草でありました。どうやらこれは脈無し、と判断したようであります。
 頑治さんとしては大いに魅力的な誘いではありました。片久那制作部長が云うように、この儘贈答社に残っても仕事に於いても待遇に於いても、先には大して優良な見込みはなさそうではあります。しかし何だか、諸共に苦難に立ち向かおうと誓い合った他の従業員を差し置いて、あっけらかんと自分だけそんな不遇から遁走するような具合で、それは如何にも潔くない仕業で、依って俄かにはこの誘いには乗れないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 486 [あなたのとりこ 17 創作]

 この後片久那制作部長は不快感を仄見せて黙るのでありました。尤もこの人のつれない様子はこの時に限った事ではなく、常日頃のものとも云えるでありましょう。依って今の頑治さんとの会話に依って不機嫌になったとは断定出来ないのではありますが、頑治さんとしては何となく身の置き所の無い心持ちでハンドルを握っているのでありました。

 宇留斉製本所に到着すると、片久那制作部長は最初に顔を合わせた先方の長女さんににこやかに挨拶を投げるのでありました。その言葉つきなんぞは、別に頑治さんとの車中での屈託なんぞにはまるで頓着していないと云った様子でありました。
「あらまあ、お珍しい人がいらっしゃったわねえ」
 長女さんは目を剥いて驚いて見せるのでありました。「御大自らお出ましになるのは、一体全体どういう風の吹き回しかしら。何か悪い話しでも持っていらしたのかしらねえ」
「いやまあ、そう云う事ではないんだけど」
 片久那制作部長は苦笑するのでありました。
「あらま、片久那さんじゃないの」
 次女さんが長女さんの言葉を聞きつけて傍に遣って来るのでありました。こちらにも片久那制作部長はにこやかな顔を向けるのでありました。
「どうした気紛れで、こんなむさくるしいところに態々いらしたのかしら?」
 長女さんが片久那制作部長にまあ中に入ってくれと云う手付きをするのでありました。
「気紛れで来たんじゃないですよ。ちょっと報告があるものだからね」
 片久那制作部長は作業場に上がるのでありました。相変わらず中は山積みされた折本やら折丁類で取り散らかっている様子で、その間を縫うように長女さんと片久那制作部長は衝立で仕切られた奥に消えるのでありました。奥には以前製本台として使っていた古い木製の大机とパイプ椅子四脚で、至って簡易な接客スペースが設えられているのでありました。頑治さんは前に覗いた事はありましたが、入った事は無いのでありました。
 頑治さんは何時も通りに持参した材料類を車から下ろして、入り口脇に積まれた、出来上がった製品の入った梱包された段ボール箱を代わりに車に積むのでありました。
「今日は三女さんはいらっしゃらないのですか?」
 頑治さんは受取証にサインをしながら、別に本気で気になったのではないけれど、ちょっとした愛想で次女さんにそう訊くのでありました。
「うん、ちょっと家の用で今日はお休みなのよ」
「ああそうですか」
「ところで片久那さんは、何の用があって今日態々来たの?」
「ええとそれは、・・・」
 別にここで喋っても構わないのではありましょうが、片久那制作部長は今奥で長女さんに自分が会社を辞める事になった経緯等話しをしている最中でありましょうから、それを同時にここで自分が次女さんに話して仕舞う事に頑治さんはけじめの点で僭越を感じるのでありました。まあしかしそれは余計な気の回し方だろうとも思うのでありましたが。
(続)
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あなたのとりこ 487 [あなたのとりこ 17 創作]

「今月の二十日を以て、片久那は事情に依り退社する事になったんです。それで、その報告と、長年のお付き合いのお礼旁、今日は寄せて頂いたと云う訳です」
 頑治さんのそう告げる声は必要以上に小さいのでありました。
「え、片久那さんが会社を辞めるの?」
 頑治さんの、奥に居る二人に気を遣った小声に比べると、目を剥いてそう口走る次女さんの声は全く無頓着に大きかったので、頑治さんは少しまごまごするのでありました。
「ええ、そうです」
「何でまた、辞める事になったの?」
「いや自分もあんまり詳しい事情とか経緯は知らないのですが、まあ兎に角、事実として今月で退社する事になったのです」
「へえ、驚いたわ」
 次女さんは未だ目を剥いた儘なのでありました。「でも片久那さんが居なくなったら、会社はちゃんと遣っていけないんじゃないの?」
「いやまあ、そんな事もないと思いますけど。・・・」
 先日の片久那制作部長から直接退社する意志を聞かされた後の、神保町駅近くの居酒屋に於ける酒宴の折の、社員全員で共有した、片久那制作部長辞職後も会社の業務を円滑に回して行けるだろうと云う感触を踏まえて、頑治さんはあんまり確然とではないながらもそう云うのでありました。しかしそれにしても、長い付き合いだからか、この次女さんも片久那制作部長が会社を辞める事の深刻さをほぼ正確に判っているようであります。
 程なく長女さんと片久那制作部長は揃って衝立の奥から出て来るのでありました。
「片久那さん、会社を辞めるんだって?」
 早速次女さんが頓狂な声で片久那制作部長に訊ねるのでありました。
「まあ、そう云う事で」
 片久那制作部長は何となく曖昧に苦笑って見せてから、頑治さんの方をチラと見るのでありました。僭越にももう喋って仕舞ったのかと云う咎罪の色が少し混じった視線でありました。頑治さんはおどおどと視線を外すのでありました。
「会社の主みたいな片久那さんが辞めたら、会社は遣っていけないんじゃないの?」
 次女さんは心配そうな顔をして見せるのでありました。
「いや、そんな事はありませんよ。私が居ようが居まいが贈答社は今迄と変わらずに遣っていきます。ですから贈答社とはこれ迄通り昵懇にお付き合いをお願いしますよ。私が居なくなっても、相変わらず唐目は週一回定期に来て、材料類の搬入と出来上がた製品の引き取りとかをしますから、仕事は従来と何の変更もありませんよ」
「ああそうですかねえ」
 次女さんは不安な気色の儘ながら、一応納得の頷きをするのでありました。
「じゃあ、三女さんにもよろしく」
 片久那制作部長は長女さんの方に顔を向けてそう云った後、頑治さんの方に視線を移すのでありました。「もう、荷物の積み下ろしは完了したのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 488 [あなたのとりこ 17 創作]

「ええ、済みました」
 その頑治さんの返事を聞いて一つ頷いてから、片久那制作部長は長女さんと次女さんの顔を交互に見るのでありました。
「じゃあ、これ迄色々お世話になりました。どうぞこれからもお元気で」
「こちらこそお世話になりました、片久那さんの方こそお元気で」
 長女さんがお辞儀するのでありました。
「会社を辞めても、若し池袋の方に来るような事があったら、まあ別に何も用はないだろうけどここにも立ち寄って下さいよ。お茶の一杯くらいは何時でもご馳走しますよ」
 次女さんも頭を下げるのでありました。
「有難うございます」
 片久那制作部長も次女さんのありきたりな惜別の言葉に一礼してから、頑治さんに顎で行くぞと云う無言の合図を送るのでありました。頑治さんは頷いて、見送る長女さんと次女さんに挨拶してから車の運転席側のドアの取っ手に手を掛けるのでありました。
 帰りの車の中では片久那制作部長は終始無言でありました。行きがけに自分の始める新しい仕事に頑治さんを誘ってみたけど、頑治さんが期待した程捗々しい返事をしなかったものだから、帰路は打って変わってとことんすげなくダンマリを決め込んでいると云う事でありましょうか。若しそうなら袁満さんや日比課長に対する時の土師尾常務ならいざ知らず、片久那制作部長にしては余りに大人気無い仕業と云うものでありましょうか。
 しかし案外この片久那制作部長は相手の態度が自分の意に染まない場合は、こんな無愛想な態度を露骨に取る事もあるのであります。土師尾常務と違って片久那制作部長のその態度には、反発よりも先ず恐怖を感じて仕舞うのでありますが、この場合頑治さんは、だからと云って焦ってこちらから矢鱈に喋りかけたりはしないのでありましたけれど。
 車中に得も云われぬ居心地の悪さが重く泥むのでありました。それでも頑治さんは敢えてそわそわしないで、落ち着き払った風にハンドルを操作しているのでありました。

 数日後の昼休みに、頑治さんは均目さんに昼食を一緒にと誘われるのでありました。何時もならこういう場合は大概一緒の那間裕子女史は、その日は風邪気味なので会社を休むと、始業時間を大分過ぎてから電話があったのでありました。
 均目さんがその電話を取ったのでありましたが、風邪と云う割には声も別に鼻声とか変な風でもなく、一応装っているのだろうから元気そうには聞こえはしないものの、かと云ってそれ程重い病状を窺わせるようでもなかったと均目さんは云うのでありました。例に依って寝過ごして慌てて跳び起きたは良いけれど、会社に行くのが面倒臭くなって、風邪の口実で狡休みしているのであろうと均目さんは笑いながら付け足すのでありました。
「片久那制作部長が会社を辞めた後、自分で本の編集請負とか雑誌の委託された記事なんかを書く仕事をする、と云うのはもう唐目君も知っているよなあ」
 時々、どこも混み合っている場合に仕方なく行く、あんまり流行っていない中華定食屋に陣取って、餃子ライスが来るのを待ちながら均目さんが訊いてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 489 [あなたのとりこ 17 創作]

「ああ、知っている。大学時代の知り合いの紹介とかで、本の編集と雑誌の記事書きと、それから今贈答社でやっているNGRグローブ社の地球儀の地図面作成の仕事も、先方のたっての希望で贈答社から引き継いで遣っていくと云う事らしいね」
 頑治さんはプラスチックコップに入れて出された水を飲むのでありました。「その話しと云うのは、均目君は片久那制作部長本人から直接聞いたのかな?」
 均目さんは一つこっくりをして自分も水を一口飲むのでありました。
「昨日珍しく誘われて、片久那制作部長行きつけの神田の居酒屋で一緒に飲んだんだよ。一体何の話かと思ったら、急にそう云う話しをされたんだ」
 ははあ、と頑治さんは心中で頷くのでありました。片久那制作部長は均目さんにも自分の新しく始める仕事を手伝わないかと誘いをかけたのでありましょう。
「で、贈答社を辞めて、自分の仕事を手伝う気は無いかと打診されたのかな?」
「そう。唐目君にもそう云う話しを今持ちかけている最中だと云っていた」
「ふうん。で、俺はどう云う反応だった、とかは云っていなかったのかな?」
「それは別に聞いていない。打診中だとだけね」
「成程、打診中、か」
 頑治さんはまた水を飲むのでありました。「俺と均目君にそう云う話しがあったと云う事は、那間さんにも働きかけているのかなあ?」
「いや、那間さんには話していないそうだよ」
「那間さんはお誘い無し、と云う事かな?」
「まあ、そんなところのようだね。俺と唐目君を狙い撃ち、みたいだ」
 ここで二人分の餃子定食が無愛想な女店員に依って運ばれてくるのでありました。
「それで、均目君はどうする心算なんだい?」
 餃子の焼いた儘に並んだ皿と丼飯と、それに味噌汁の入ったプラスチック碗が二人の前に夫々配膳されて、店員が立ち去るのを待ってから頑治さんが訊くのでありました。
「魅力的な話しだと思う」
 均目さんは味噌汁を一口啜るのでありました。
「つまり乗り気だと云う事かな?」
「まあそうだね。この儘贈答社に残るよりは、自分の将来像はすんなり描けそうだ」
「それに社長や土師尾常務の下に居るよりは、片久那制作部長の下に居る方が余程頼り甲斐もあるし、安心感もあると云うところかな」
「それも勿論そうだね」
 均目さんは餃子を口に放り込むのでありました。「唐目君はどう思う?」
「まあ、社長や土師尾常務より片久那制作部長の方が、結託するには利がありそうだ」
「何となく棘のある云い方だな」
 頑治さんの顔をまじまじと見た後で、均目さんは少し白けたような、それに警戒するような表情をしてから云うのでありました。「あんまり乗り気ではないのかな?」
「そうねえ、・・・」
(続)
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あなたのとりこ 490 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんは思わせぶりに片頬で笑うのでありました。
「那間さんじゃないけど将来に亘って編集者で遣っていく心算なら、今の贈答社で編集者だか地図類や図版の修正屋だかお土産品の工作屋だか、何だか判らない中途半端な仕事をしながら燻っているより、片久那制作部長の下にいる方が正解だと思うけどなあ。片久那制作部長が居なくなったら、贈答社は益々出版とか編集の仕事と縁遠くなりそうだし」
 こう云う均目さんは、片久那制作部長の誘いにもう殆ど乗っかる気になっているようであります。均目さんにとっては願ってもない誘いと云うところでありますか。
「しかし片久那制作部長は、辞めていく自分の後釜として、均目君にあれこれ自分のこれ迄遣っていた仕事を引き継いだんじゃなかったのかな?」
「その心算だったんだろうけど、贈答社を辞めた後の自分の身の振り方を色々検討していく内に、とても自分一人では手に余りそうな具合になって来たので、そうなると気心も知れていて、力加減も大体判っている俺や唐目君を誘おうと考えたんだろうな」
「俺としてはその辺に、ちょっと引っ掛かりがあるんだよ」
 頑治さんはここで味噌汁を一口啜ってから続けるのでありました。「少し自分勝手と云うのか、ちゃっかりし過ぎやしないかってね。もっと酷く云えば、贈答社に後ろ足で砂をかけて去っていくような風じゃないのかってね。日頃、義理人情や筋やけじめに対してストイックな体面をとっている人にしては、去り方が何となく矛盾していると云うのか」
「だって、今迄散々社長や土師尾常務の酷い遣り口に我慢に我慢を重ねていたんだから、若し去り際に酷いところがあっても、それでお相子と云うところじゃないかな」
「いや、どんなに我慢していたとしても、自分も社長や土師尾常務と同類の真似をして去っていくと云うのでは、全く片久那制作部長らしくない去り方じゃないかな」
「まあそう云われればそんな感じもするけど。・・・」
 均目さんは餃子を口に放り込もうとしていた動作を直前で止めるのでありました。
「俺は、片久那制作部長に続いて抜け駆けのように自分も辞めると皆に云うのは、あっけたかんと小狡い裏切りをするようで大いに抵抗がある」
 頑治さんは餃子を口に入れるのでありました。
「それもそうかも知れない。唐目君の云う事は正論ではあるかな」
 均目さんは餃子を皿に戻して味噌汁を啜るのでありました。「でも将来の事を考えると、ここは好機と考えるのは、俺はそんなに悪い事ではないように思うよ」
 ここで頑治さんも味噌汁を一口喉に流し入れるのでありましたが、思いも依らず和布の小さな欠片が唇に煩わしく張りついてきたので、それを舌で拭い取る手間で、発語する自然なタイミングを何となく外して仕舞うのでありました。
「でもまあ抜け駆けは、鎌倉時代とか戦国時代ならいざ知らず、今の風としては無念で恥ずべき行為の範疇に分類されるんじゃないかな」
 その科白の何となく頓馬な感じは、タイミングが狂ったせいばかりではないなと、頑治さんは自分の弁舌の拙さにうんざりするのでありました。
「でも、堅苦しい倫理感とか一本気で将来の可能性を棒に振るのもどうかと思うけど」
(続)
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あなたのとりこ 491 [あなたのとりこ 17 創作]

「成程ね。それはそうかも知れないし、そう考えるのは均目君の自由だ」
「何かすっきりしないもの云いだな。それに妙に他人事みたいな云い方だ。この件は唐目君の身の振り方とか将来にも関わる事でもあるじゃないか。唐目君は一体この片久那制作部長の誘いのどこが気に入らないんだろう?」
 均目さんは咀嚼を止めて頑治さんを上目遣いに見るのでありました。
「まあ、好い話しだとは思うよ。でもその好い話しにおいそれと乗っかるのは、嫌に抜け目がなくて図々しいように思えてならないと云うところかな」
「世の中はきれい事だけではなかなか遣っていけないぜ」
「でもちっとばかり抜けたところがあっても、何とかかんとか遣っていけはするさ」
「要するに唐目君としては、倫理に於いて、この片久那制作部長の誘いにすんなりと乗っかるには、大いに抵抗があると云う訳だな」
「倫理とか云うよりも、何となく自分の流儀に合わない、とでも云うのかな」
「生きていく上での流儀、と云う事かい?」
「好み、と云っても云いよ。俺の心根としてはもう少し感覚的なところなんだけどな。何だか均目君のもの云いはちょっと大仰な気がする」
「生理的な嫌悪感があると云う事か」
「そう云う云い草にしても、矢張り妙に大仰だ」
 頑治さんは均目さんの顔から目を外して苦笑うのでありました。「俺はこう見えてもなかなかのエエ格好しいだから、野暮は、どうにも好まない」
「片久那制作部長の誘いに乗るのが野暮と云う事かい?」
「それも野暮に思えるし、それ以前に大仰なもの云い自体が野暮だし」
 こう云われて均目さんは少しムッとした表情をするのでありました。
「生きていくのに野暮も粋もないだろう。実人生としては皆もっと必死な辺りで生きているんじゃないのかな。ちゃらちゃらしていては着実な実人生は手に入れられないぜ。こう云うとまた唐目君は野暮と云うのだろうけど」
「別に自分の生を大仰に考えたり云ったりしなくても、誰だってちゃんと、死ぬまでは生きるものさ。肩肘張って生きていると、ストレスで折角の生の長さを縮めるぜ」
 別に自分としてはちゃらちゃらとかしている訳ではないんだけどと、頑治さんは均目さんの云い方に幾分引っ掛かるのでありましたが、まあそこで態々引っ掛かって見せるのもそれこそ野暮と云うものでありましょうから、あっさり聞き流すのでありました。
「俺の寿命迄心配してくれて、礼を云うよ」
 均目さんは当て擦りのようなもの云いをするのでありました。その云い草も頑治さんは敢えてさらっと聞き流す事にするのでありました。この後は何となく二人して口が重くなって、ただ黙々と咀嚼筋と手を動かしているのでありました。
 殆ど餃子ライスを平らげたところで、箸を置きながら頑治さんが訊くのでありました。
「で、結局、均目君は片久那制作部長の誘いに乗る心算なのかな?」
 均目さんは頑治さんに対する冷淡を目元に湛えて見返すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 492 [あなたのとりこ 17 創作]

「俺はその心算でいる」
「ふうん、そう」
 頑治さんはプラスチックのコップを持ち上げて水を一口飲むのでありました。「で、片久那制作部長が辞める時に均目君も一緒に会社を辞めるのかな?」
「もっと後になる予定だ」
「そう云う指示が、片久那制作部長からあったのかな?」
「ま、そう云う事だ」
 何となく均目さんの口は嫌に素っ気なくなっているのでありました。頑治さんがどこか批判的な様子である事に、失望と警戒心を持ったのでありましょう。
「具体的に何時と云う指示は出ていないのかな?」
「今の段階ではどうなるか判らないよ」
「若し出来るなら、日取りが具体的になったら、会社に辞表を出す以前にこっそり俺にだけでも教えておいて貰えないかな。教えられたからと云っても、別に俺はそれを妨害しようと云う心算はないから、そこは用心しなくてもて構わない」
「それなら別に、事前に知っても意味が無いじゃないか」
「まあ、それはそうだけど、心積もりとして、・・・」
「会社には規定通り辞める一か月前に云う心算だから、それで構わないだろう」
「ああそう。それならまあ、それでも良いけど」
 頑治さんは屈託有り気に取り敢えずと云った風に頷くのでありました。妙に気まずい雰囲気がテーブルの上にどんより泥むのでありました。頑治さんは勘定を記してある伝票を取って、一瞥してから徐に立ち上がるのでありました。均目さんも少し遅れて立ち上がったので、今日の午餐はこれにてお開きと云う事であります。

 中華料理屋を出て神保町の交差点の処で、頑治さんはちょっと三省堂書店に寄ると云って均目さんと別れるのでありました。特に買いたい本は当面無かったのでありましたが、この儘均目さんと一緒に事務所に帰るのも何となく気重に思われたので、早々に別行動を取ろうとしての事でありました。午後の仕事迄未だ三十分程あるのでありました。
 頑治さんは始業十分前まで三省堂書店でうろちょろしてからブラブラ歩きで帰社していると、錦華公園の前で反対側から歩いて来る袁満さんと甲斐計子女史に出くわすのでありました。二人で食事をしての帰りでありましょう。袁満さんはどう云うものか出雲さんが居なくなってからは時々、甲斐計子女史と一緒に昼飯を食いに行っているようでありました。これ迄は昼休みに二人並んで歩く姿を見る事は殆ど無かったのでありましたが。
「よう、何処に食事に行っていたんだい?」
 袁満さんが手を挙げて見せるのでありました。
「タキイ種苗の横の路地にある中華料理屋ですよ」
「ああ、あの不味くて無愛想な中国人の店員が二人だか居る店か」
 袁満さんは眉根を寄せて数度頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 493 [あなたのとりこ 17 創作]

「お二人は何処で食事を摂ったんですか?」
「甲斐さんに鰻丼をご馳走になったんだ」
 袁満さんが云うと、どう云うものか甲斐計子女史がちょっとそわそわする様子を見せるのでありました。別に甲斐計子女史が袁満さんに鰻丼を奢ったからと云って、それを頑治さんが妙に思うような事でもないのでありましたから、このそわそわの素振りは一体どういう謂いでなされたのか頑治さんは良く判らないのでありマました。
「へえ、鰻丼ですか。なかなか豪勢な昼飯ですね」
「奢って貰いっ放しじゃ悪いから、食事の後で集英社の別館の傍に今度新しく出来た喫茶店で、俺がコーヒーをお返しして、その帰り道で唐目君と出くわしたと云う事だよ」
「ああそうですか」
 頑治さんはニコニコと笑って袁満さんと甲斐計子女史を交互に見るのでありました。
 ここでも甲斐計子女史が妙にもじもじするのは、これまた意味不明な仕草と云うべきであります。ひょっとしたら昼休みに袁満さんと甲斐計子女史が、秘かにデートをしているのではないかと勘繰られるのを恐れての事かも知れないと頑治さんは考えるのでありました。別にデートであろうとそうじゃなかろうと頑治さんには無関係な事でありますが。
 事務所に戻ると何となく均目さんが居るであろう制作部スペースに行くのはちょっと憚られたので、頑治さんは袁満さんの机の後ろの応接スペースの三人掛けのソファーに座って、そこに置いてあった日経新聞を広げるのでありました。
「午後は梱包とか配達の仕事かあるのかな?」
 袁満さんが座った事務椅子をくるっと回して頑治さんの方を向くのでありました。
「いや、午後一番で制作の仕事で、上落合に住んでいるカートグラファーさんの家に製図原稿を届けに行く仕事が入っていますよ」
「落合、と云うのは何処かな?」
 袁満さんは小首を傾げて頑治さんを上目に見るのでありました。
「高田馬場から一つ先の西武新宿線の下落合駅の近くですよ」
「電車で行くの?」
「いや、原稿と云ってもちょっと大判のものだし、その他に資料のための本とかも幾つか持って行くんで、車で行こうと思っています」
「ひょっとして新宿駅は通るかな?」
「ええ。靖国通りを新宿迄行って小滝橋通りに入るルートですから、通り道ですよ」
「それじゃあ、俺を新宿まで乗せて行ってくれないかな」
 袁満さんは自分の鼻を指差して見せるのでありました。
「それはお安いご用ですが、新宿の何方ですか?」
「歌舞伎町の方だけど、新宿の大ガードの辺り処で良いよ。車で行くと、新宿は駐車する場所がないから電車で行こうと思っていたんだよ」
「いやまあ、何でしたらちゃんと目的地まで送りますよ。新宿の何処に行くんですか?」
「西武新宿駅のペペの二階の喫茶店なんだけどね」
(続)
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あなたのとりこ 494 [あなたのとりこ 17 創作]

「じゃあプリンスホテルの真ん前迄乗せていきます」
「それは助かるなあ」
「その喫茶店に何の用事で行くんですか?」
 今度は頑治さんが小首を傾げて見せるのでありました。
「ちょっと前迄出張営業していた時のお得意さんで、信州の蓼科と美ヶ原と、それから松本の浅間温泉でホテルとかお土産屋とかをやっている会社の社長が、今丁度東京に出て来ていて、その人に逢いに行くんだよ。あの辺の営業回りの代理店みたいな事を引き受けて貰えるかも知れないんで、その打診も含めて先方指定の新宿の喫茶店に出向くんだ」
「へえ、そうですか。そう云う事なら代理店を引き受けてもらえると良いですね。でもそう云う大事な話しなら、それなりの格式のある料理屋とかでちょっとした接待みたいな事をして、ヨイショの一つでも云わなくて良いんですか?」
「そう思ったんだけど、先方が色々東京での予定満載みたいで、ようやく今日の午後に一時間程逢ってくれると云うアポが取れたんだよ」
「じゃあ、料理屋とヨイショの一つは首尾好く話しが纏まった後、と云う事ですかね」
「そうトントン拍子に上手くいくなら云う事無いけどね」
 袁満さんは何となく自信無さそうにもじもじと笑むのでありました。
「何時ですか逢うのは?」
「二時半と云う事だけどね」
「それなら安全を考えてそろそろ出発した方が良いですね」
「まあ、そんなにバタバタしなくても充分に間に合うと思うけど」
「それじゃあ、原稿類を取って来ますよ」
 頑治さんはそう云って制作部スペースに戻ると机の上に既に用意していた、持って行くべき荷物を両手に抱えて、腕組みして自席の椅子にふんぞり返るような格好で本を読んでいた片久那制作部長に声をかけるのでありました。
「それじゃあ荒井デザイン事務所に行ってきます」
 頑治さんのその声を聴いて片久那制作部長は、顔の前に掲げた本の上辺越しに頑治さんを見て無表情に小さく頷くのでありました。これも自席で本を読んでいた均目さんは全くの無視と云った様子でありましたが、先程の中華料理屋での頑治さんとの一件にどこか拘泥があって、態と余所々々しく装っている、と云ったところでありましたか。

 助手席に座っている袁満さんは久々に会社から外に出たのが嬉しそうで、解放感に満ちた表情をしているのでありました。偶に、と云うのか、珍しく出先から直帰しないで夕方会社に戻って来た時とか、天気の悪い日で外に出るのが面倒な場合とか、結構すぐに推察の付くような仕様も無い理由で会社内に居る土師尾常務と、会社の中で退屈なデスクワークをしながら顔を突き合わせているのを、厄介に感じているからでありましょう。
「どう云うものかこの頃、甲斐さんと昼飯を一緒に食う機会が多いんだよ」
 袁満さんは運転しない退屈の解消のためか、そう話し掛けて来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 495 [あなたのとりこ 17 創作]

「今迄も偶には一緒に昼食を食う事もあったんでしょう?」
「まあ、年に数回ね。例えばボーナスの出た次の日とか、暮れの年末調整の金が返ってきた次の日とかに、甲斐さんは俺や出雲君に昼飯を奢ってくれる事があったよ」
「へえ、そうですか」
「甲斐さんは独り身で別に家族に使うお金が要らないから、結構豪勢な食事を奢ってくれるんだよ。鰻とか鮨とか、山の上ホテルの天麩羅とか」
「甲斐さんはご実家で暮らしていらっしゃるんですか?」
「そうね。お母さんと結構大きな邸宅に二人で暮らしているようだ。前はお父さんも一緒に住んでいたんだけど、急性心不全で五年前に亡くなって仕舞って、それに、こっちも未だ独身のお兄さんも一緒に居たようだけど、お兄さんは仕事の関係で、二年前から北海道で一人暮らししているとか云っていたなあ。だから今はお母さんと二人みたいだね」
「へえ、そうですか」
 頑治さんは先程と同じ返事をするのでありました。特に甲斐計子女史の身辺に関して殊更の興味が今迄無かったものだから、こんな気の無い返事となったのでありました。
「甲斐さんは時々日比さんから夕食にも誘われる事があるみたいだよ」
「へえ、昼飯だけじゃなくて夕食にも、ですか。夕食となると一般的には昼飯よりはもっと豪勢になりますかね。で、そんな場合は日比課長の方が奢るんですかねえ」
「いや、甲斐さんは日比さんと二人で食事をするのを、実は避けているんだよ」
 袁満さんは取って置きの話をする時みたいに少し目を輝かせるのでありました。「甲斐さんを食事に誘う時の日比さんの目が何だか妙にいやらしそうで、変な魂胆があるんじゃないかって疑って、竟々警戒心を抱いて仕舞うんだとさ」
「ああそうですか」
 頑治さんはここでどう反応して良いのか判らずに苦笑するのでありました。
「まあ日比さんは若いピチピチしたお姉ちゃん好みだから、甲斐さんにそう云う妙な目を向ける事はないんじゃないかとは一応思うんだけど、でも日比さんにはそう云うチャンスがあると見ると、自分の本来の好みなんかさて置いて、兎に角手当たり次第、と云う妙にガツガツしたところがあるから、強ち甲斐さんの用心も考え過ぎだとも云えないところがある。で、甲斐さんは日比さんに対してあからさまに嫌な顔も出来ないから、隙を見せないと云う意味合いで、そっち方面では無難な俺や出雲君を食事に誘うんだと思うよ」
「ふうん、そうですか。でも昼はそれで凌げるとしても、日比課長に夕食を誘われるかも知れないと云う危機一発の生ずる恐れは、俄然払拭されない儘じゃないですかね」
「ここだけの話し、夕食で日比さんに付け込まれないようにするために時々、甲斐さんが会社から帰る時に、頼まれて神保町駅迄甲斐さんを送っていく事もあるんだよ。甲斐さんが会社を出てから、日比さんが追いかけて来るかも知れないからと云うんで」
 頑治さんは一種の軽口として、危機一発の生ずる恐れ、とか、俄然払拭されない、とかの大仰な表現を使用したのでありましたが、残念ながら袁満さんはそれには無頓着でありました。頑治さんは仕切り直すように小さく咳払いをするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 496 [あなたのとりこ 17 創作]

「と云う訳で、この頃は前とは比べものにならないくらい頻繁に、甲斐さんと一緒に昼飯を食う機会が増えたんだよ。出雲君が居なくなってからは、二人だけでね」
「甲斐さんが夕方家に帰る時に神保町駅まで送っていくこともあるから、場合によっては甲斐さんの気分次第で夕食も一緒に、と云う場合もあるんじゃないですか?」
「まあ、ない事もないけど、それはごく偶にね。甲斐さんは大方の場合帰ってから、お母さんと一緒に夕食を摂るのが慣わしになっているようだから」
 だったら態々袁満さんに駅迄送って貰わなくとも、若し日比課長に声を掛けられても、お母さんとの食事を口実に断れば良いのではないかと頑治さんは考えるのでありました。断る理由としてなかなか尤もらしくて、きっぱりしてもいるようではありませんか。
 それに甲斐計子女史としては、日比課長は以ての外であるけれど、袁満さんとは偶にではあるものの、お母さんの方をすっぽかして夕食の膳を一緒にする事があると云うのであります。日比課長はお断りでも袁満さんならオーライと云うのは、これもちょっとなかなか、聞き捨てならないところであると云うものではありませんか。
「袁満さんと甲斐さんは、どのくらい歳が離れているんでしたっけ?」
「甲斐さんは土師尾常務や片久那制作部長と同い歳だから、俺とは八歳違いになるかな。でも何でまた俺と甲斐さんの歳の事を訊くんだい?」
「まあ、甲斐さんもそんなに所帯窶れした風ではないから、それくらいの歳の差なら、袁満さんと二人で食事していても、強ち不自然でもないと云うのか、釣り合わない事もないと云うのか、お似合いだと云えなくもないと云うのか。・・・」
「止してくれよ」
 袁満さんは何となくもじもじしながら、迷惑と云った風ではあんまりない風情で否定するのでありました。頑治さんにそう云われるのは案外、満更でもないと云う事なのでありましょうか。頑治さんは思わず少し頬の表情筋を動かすのでありました。
 そんな事をダラダラお喋りしている内に車は西武新宿駅に到着するのでありました。
「じゃあ、有難う。助かったよ」
 袁満さんはそう云って車を降りて、付近の交通量に配慮して急いでドアを閉めるのでありました。そのドアの締まる音が車中に響くのでありましたが、どこか袁満さんの気持ちの弾みみたいなものが、その音に表れているように頑治さんは感じるのでありました。
 袁満さんはずっと昵懇にしていた出雲さんが会社から居なくなって、すっかり気落ちしているのだろうと推察していたのでありましたが、案外そうでもないような具合であります。もう地方出張営業にも行かなくなったし、何となく出雲さんとつるんでいた昼休みもなくなって、しかしその分甲斐計子女史と一緒に過ごす時間が増えて、気持ちの点では寧ろこの頃の方が前よりも、会社に来る張り合いがあると云うところでありますか。
 まあ、精々袁満さんには日比課長の魔手から甲斐計子女史を油断なく守って貰いたいものであります。そうやって交流が濃くなっていけば、ひょっとしてひょっとするかも知れないと云うものであります。日比課長と云う宿敵であると同時にある意味でのライバルが存在すれば、袁満さんの女史に対する情もより濃くなっていくと云う道理であります。
(続)
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あなたのとりこ 497 [あなたのとりこ 17 創作]

 そんな事を考えながら頑治さんは小滝橋の交差点を早稲田通りに入り、すぐに右にハンドルを切って落合中央公園を右に見ながら八幡通りを北上するのでありました。もう目的地の西武新宿線下落合駅近くにある荒井デザイン事務所は目と鼻の先であります。
 どうしたものかその日は小滝橋通りの車通りも少なく、頻繁に信号に掴まる事もなくスムーズに車を走らせることが出来たのでありまあした。袁満さんと甲斐計子女史の将来も日比課長の、ガツガツした嫌らしい目、と云う障害もしっかり乗り切って、このようにスムーズに目的とするところに到着すると良いかなあと思うのであります。頑治さんはここ最近に無かった弾んだ気持ちでブレーキペタルをグイと踏むのでありました。

 片久那制作部長が会社を辞める日が近付くにつれて、那間裕子女史の気が何だか次第に塞いでいくのでありました。どちらかと云うと片久那制作部長から多くの責任を引き継ぐ事になった均目さんの方が、見た目には意外に落ち着いている風でありました。
 それは均目さんが豪胆だからと云うよりは、近い将来片久那制作部長に呼ばれたなら、すぐにそちらに移る秘かな算段が抜け目なく整っているからでありましょうか。だからまあ、そんなに全くの無責任とか云う事ではないのではありますが、均目さんとしては案外そわそわとかくよくよする事もなく気楽にしていられるだと云う事かも知れません。
「唐目君は万事に肚が座っているから、片久那さんがもうすぐ会社を辞めると云う事に、そう大して不安はないみたいな様子ね」
 昼休みに神保町駅近くのランチョンで珍しく二人だけで昼飯を一緒に摂って、その後で道を渡ってラドリオでウィンナコーヒーを飲みながら午後の仕事始まり迄の時間を潰している時に、那間裕子女史が頑治さんにボソボソと喋り掛けるのでありました。片久那制作部長に頼まれた仕事で外に出ていて、昼になっても帰社しない均目さんはこの席には居ないのでありました。尤も例の中華料理屋での気まずい一件以来、何となく引っ掛かりがあって頑治さんは均目さんと一緒に昼休みを過ごす事が途絶えているのでありました。
「別に肚が座っているんじゃなくて、生まれつき鈍いからですかね。それに不安がない訳では決してなくて、これでも内心はオタオタしているんですよ」
「内心の動揺が顔に出ないタイプなの?」
「顔に出るんですが、面の皮の厚さが邪魔して傍からそう見えづらいと云う事で」
「そう云う云い草が、つまりあんまり不安を感じていない証拠かしらね」
 那間裕子女史はクスッと笑ってコーヒーカップを受け皿に戻すのでありました。
「あたしは片久那さんが居なくなった後、会社がちゃんとこれ迄通りに遣っていけるのかどうか考えると、悲観的な方にしか考えが回らなくて」
「でも、均目さんは引き継いだ仕事に関しては、何とかなりそうな目途は立っているようだし、土師尾常務の横暴には組合全員で一致団結して対処する、と云う申し合わせも出来ているし、片久那制作部長も自分が居なくとも遣っていけるよと云っている事だし」
「それはそうだけど、でも片久那さんが居なくなると、要するに会社を制御していた重しみたいなものが無くなって仕舞うと云う事じゃないの」
(続)
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あなたのとりこ 498 [あなたのとりこ 17 創作]

 那間裕子女史は眉間に皺を寄せるのでありました。「と云う事は結局社員が個々バラバラの動きしか出来なくて、色んな点で仕事のロスが多くなるんじゃないかしら。そうして次第に社員間の気持ちのズレとか隙間が顕在化してきて、皆の士気もやる気も仲間意識も落ちて、寧ろストレスばかりになって、結局何に依らず上手くいかなくて、・・・みたいになっていく気がするの。そう云うところでの片久那さんの存在は大きいのよ」
「片久那制作部長が扇の要、みたいな存在であると云う点は同意します」
 頑治さんは一つ頷くのでありました。「しかし時間が必要かも知れませんが、片久那制作部長の代わりに、扇の要の役割を担える人が屹度出て来るんじゃないですかねえ」
「そんな人、出て来るかしら」
 那間裕子女史は至って懐疑的な様子であります。
「不可欠と云う存在なんて実は存在しないのかも知れませんよ、この世の凡の組織に於いては。誰かが欠ければ次の誰かがひょっとすると意外なところから必ず現れるんじゃないですかね。何かの宗教みたいに観念論的にこの世が存在していないとするならば、人間の造る組織なんと云うのは、結構フレキシブルなものじゃないですかねえ」
「でも、必ず次の誰かが表れる、と云うのも、云ってみれば観念論の類じゃないの?」
「ああ成程、そうも云えるかもしれませんね」
 頑治さんは頭を掻くのでありました。「俺はつまり気楽に出来ているんですかねえ」
「気楽と云えばそれは確かに、途方もなくお気楽だと云えるかしらね。でもまあそんなところが、・・・・つまり、唐目君の魅力的なところだけどね」
 那間裕子女史はそう云ってはにかむように笑って目を伏せるのでありました。
「なんだか侮られているのか褒められているのか良く判りませんけど」
「どちらかと云うと褒めているのよ」
「ああそうですか。一応そう云う事なら、有難うございます」
 頑治さんはお辞儀して見せるのでありました。
「何だか唐目君と話していたら、少し気が晴れたかな」
 那間裕子女史はコーヒーカップを取り上げて一口飲むのでありましたが、ウィンナコーヒーの表面に浮いているクリームが唇の端に付着したのを、恥ずかしそうにカップを持っていない方の手の小指を立てて急いで拭うのでありました。今迄見た事がないなかなか女っぽい仕草だと、頑治さんは何故か意外の感を持つのでありました。
「でもさっきの話しだけどさ」
 那間裕子女史はコーヒーカップを受け皿に静かに戻すのでありました。「グルっと見渡してみて、片久那さんの欠けた代わりになるような人が、今の会社の中に居るかしら」
「均目さんとかはどうですかね?」
「均目君は色んなところでまあまあそつが無いけど。でもちょっと小粒よねえ」
 この辺りから、那間裕子女史は案外しおらしいところの仄かに漂う女性の外貌から、何時もと変わらない少々小憎らしい直言家の顔に戻るのでありました。
「袁満さんとか日比さんはどうですかね?」
(続)
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あなたのとりこ 499 [あなたのとりこ 17 創作]

「こう云っちゃ悪いけど、どちらも何だか頼りないわね」
 那間裕子女史は眉根を寄せて見せるのでありました。「日比さんは結構なお調子者と云った感じだしね。何だか今一つ油断ならないところもあるし、結局土壇場で土師尾さんや社長の側にコロッと寝返るような気がするわ。処世術と云う点で手抜かりは無さそうだけど、その手抜かりの無さからうっかり目を離すと寝首を掻かれるような気もするわ」
「じゃあ、袁満さんの方はどうですかね?」
「袁満君は間違いなく好い人なんだけどちょっと気が弱くて、皆をリードしていくような意気込みは感じられないわね。ここが正念場と云う時に決まってあたふたするし、焦れったくなるくらい会話をしていても反応が鈍いし、ピント外れなところがあるし」
「ああそうですか」
 頑治さんもここで眉根を寄せて腕組みするのでありました。「甲斐さんは地名総覧社時代からのキャリアは土師尾常務にも引けを取らないけど、でも、扇の要、と云う役割の点では、会社での在りようとしてちょっと持ち味が違うような気がしますしねえ」
「そうね。確かに甲斐さんは存在感として一種格別よね」
「ああそうだ、肝心な人を忘れていました」
 ここで頑治さんはやおら腕組みを解くのでありました。「那間さんが居ました。どうです那間さん、この際扇の要の役を請け負ってみる気はありませんか?」
「え、あたし?」
 那間裕子女史は自分の鼻先を自分で指差すのでありました。「あたしはダメよ。そんなの柄じゃないし、全然興味も無いもの」
「しかし、結構押し出しも好くてなかなかリーダーの気質もありそうじゃないですか」
「あたしはずけずけものを云うだけで、押し出しが好い訳じゃないわ。寧ろこの口が災いして、皆から疎まれている度合いの方が強いと思うわよ。あたしが扇の要になったら、その扇は開かなくなるんじゃないかしらね。唐目君もそう思うでしょう」
 那間裕子女史は自分の鼻先の指を唇の方にちょい下げて、その後で口のすぐ前でヒラヒラと掌を横に振るのでありました。この一連の動作が、何だか妙に有機的なものに見えるのでありました。これは或る意味で、優雅、と云うべきものではないだろうかと、頑治さんは今現在の話しとは全く関連無くふとそう思うのでありました。
「土師尾常務に急にリーダーとしての自覚が出て来て、今迄の性根を見違えるようにすっかり入れ替えて、扇の要となるべく努力する、なんと云う目は全然ありませんかねえ」
「全然ないわね」
 那間裕子女史は鮸膠も無いのでありました。
「ああそうですか。全然ありませんか。・・・」
 ここで、それはそうだろうなと頑治さんも思うのでありました。そんな事を期待する方がどうかしていると云うものであります。でもしかし、考えて見ればこれが実は一番自然な本筋であり、一番あらまほしきところなのでありましょうけれど。
「そんな事、唐目君だって本気で考えてなんかいないでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 500 [あなたのとりこ 17 創作]

「ええまあ、戯れ言だろうと云われれば敢えて首を横には振りませんけど」
「ね、こうして考えてみると、会社の先行きはかなり絶望的でしょう」
 那間裕子女史は溜息を吐くのでありました。
「そうなると、じゃあ、要するに、片久那制作部長が居なくなった後、どのくらいの期間会社が持つか、と云う事になりますかね」
「そうね。どのくらいして空中分解するか、だわね」
「那間さんはその期間をどのくらいと見積もっているんですか?」
「まあ、良くて一年かしら」
「ほう、一年も持つんですか」
 この頑治さんの返答に、那間裕子女史は目を見開くのでありましたが、それは殆ど目立たない程度の僅かな瞼の動きでありましたか。頑治さんにそう云われて自分の予測がひどく甘いと、暗に指摘されていると感じたと云うところでありましょうか。それは認識力と云う点に於いて沽券に関わる問題だからちょっとおどおどしたと云う訳でありますか。
「精々持って一年、と云う事で、多分それよりは確実に短くなるでしょうね」
 那間裕子女史は期間に少し曖昧さを付与するのでありました。
「一年以内に俺達は失業者になるんですかね」
「この儘なら、そうなるでしょうね、屹度」
「やれやれ」
 頑治さんは持っていたカップを受け皿に戻すのでありました。
「今の内から身の振り方を考えて置いた方がよさそうよ」
 那間裕子女史はそう云った後コーヒーを飲み干すのでありました。

 片久那制作部長の会社を辞めると云う突然の宣言によって、実は土師尾常務が一番動揺したようでありました。ここから先土師尾常務は連日の社長室詣でを始めるのでありました。社長と何を話し合ってしているのか従業員には判然としないのでありますが、社長と彼の人の事だから、どうせ碌でも無い無粋な相談だろうと推察されるのでありました。
 土師尾常務は今迄畏れて遠慮していた片久那制作部長の目も、こちらは別に今迄も気にもしていなかった社員の目も憚らず、仕事も体面もそっち退けで昼から夕方まで社長室に入り浸っているのでありました。因みに、午前中、が無いのは、例によって得意先に直行すると云う、全く疑わしい朝一で告げられる電話連絡のためでありました。
「土師尾常務は社長と何の話しを、毎日々々しているんだろう」
 袁満さんが頑治さんと駐車場の車の入れ替えをしている時に訊くのでありました。
「片久那制作部長が居なくなった後の会社の運営について、じゃないですか」
 頑治さんは社長と土師尾常務の話し合いに然して興味を惹かれないものだから、至ってありきたりで味気ない返答をするのでありました。
「そりゃそうだろうけど、一体どんな風に二人で摺り合わせているんだろう」
 袁満さんは頑治さんのおざなりな返答が慎に焦れったいようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 501 [あなたのとりこ 17 創作]

「あの二人が知恵を絞っているんですから、大した話しにはならないないでしょうね」
「単に、大した事じゃない話しだけをしているのなら寧ろ結構だけど、またもやつまらない謀をしているんじゃないかとも考えられるぜ」
「つまらない謀、と云うのは、どんな謀ですか?」
 頑治さんがそう訊くと袁満さんはちょっと言葉に詰まるのでありました。具体的に是々然々と思い付く事はすぐにはないようであります。
「つまり、自分達には都合の好い事で、従業員にとっては不利益になる事かな。まあ、会社全体としては間違いなく最悪となるような事、だよ」
 その自分の応えが如何にも漠然としているのが云った傍から自分でも判るので、袁満さんは何となく決まり悪そうにもじもじするのでありました。
「会社全体にとっては最悪の事、ですか。・・・」
 頑治さんは車のドアをロックして確実に扉が開かないかどうか確認してから、横に立っている袁満さんを見るのでありました。「例えば、会社解散とかですかね」
「自分達に都合が好ければ、そう云う事も恐らく考えるかも知れない」
「しかし会社が解散すると、土師尾常務も失業すると云う事になりますよ」
「まあ確かに、それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らせるのでありました。
「それに自分はあくまで楽をして報酬を得ようと考えているようだから、取締役と云う地位に恋々としがみ付いて、社員を扱き使っている方が楽が出来るじゃないですか。と云う事は今の会社を解散するのは、常務の魂胆からすれば得策とは云えないでしょう」
「でも一端会社を閉じて、俺達全員を解雇して、また新たに誰か雇えば、何かと煩い労働組合はなくなるし、人件費もグッと抑えられるだろうし」
「そう云う面倒な手間を、土師尾常務は態々かけたがりますかね。あの人は自分のためなら非道な事でも何でも敢えてでもする、と云う人ではなく、実はどちらかと云うと微調整はするけれど実質は至って現状維持派で、現状の中で抜け目なく甘い汁を吸おうと考えるタイプの人ではないですかね。まあ、社長から明確な、一端会社解散と云う方針が出されれば別ですけどね。それに社長にしてもそこ迄、肚の座ったいざこざ好きの策士、と云う風じゃないですし、どちらかと云うと体面を気にする見栄っ張りのタイプでしょうし」
「それもそうだと、俺も思うけどさあ。・・・」
 袁満さんは一応納得したようでありましたが、土師尾常務と社長が出し抜けに何かやらかすのではないかと云う一抹の不安は未だ消せないようでもありました。
「思い切った事を仕出かす度胸は、土師尾常務にも社長にもないように俺は思いますけどねえ。まあ尤も、俺の勘はそんなに良く当たる方ではないですけど」
「例えば日比さんと、それに制作の均目君の二人だけ残して、俺と唐目君と那間さんと、それに甲斐さんの首は斬る、と云うのは唐目君の云う微調整の範囲じゃないかな。下の紙商事の人に経理を兼任して貰えば、多分甲斐さんもお払い箱に出来るし」
「可能性は、あるかも知れませんね」
(続)
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あなたのとりこ 502 [あなたのとりこ 17 創作]

 日比課長は云ってみれば土師尾常務の二番手と云う存在だから、どちらかと云うと馘首にする方に入るのではないかと頑治さんは思うのでありました。しかし色々情勢が変わって、存分に報酬を得た上で最大限楽を決め込もうとするなら、日比課長を残す方が得策だと土師尾常務は判断を変える場合もあるかも知れません。少なくとも、上司として自分を敬いもしていない、相性の好くない袁満さんを残すよりはその方が都合が好いでありましょう。日比課長は袁満さんよりは扱い易いと屹度判断しているでありましょうから。
「でもそんな事をしたら均目君がおいそれとそれに従わないか」
「さて、どうでしょうかね。・・・」
 袁満さんはここで、あくまでも自分達従業員側の人間と見做している均目さんと云う要素を出して、自らのこの観測を結構簡単に打ち消して見せるのでありました。しかしそう打ち消して見せたけれど、それに対して頑治さんが捗々しく反応しないのに少し意外の感を持ったようでありました。頑治さんも屹度、それはそうに違いないと空かさず同意するものと踏んでいたのでありましょうけれど、これは些か見当外れでありましたか。
「あれ、そうなったら均目君はそれを受け入れると、唐目君は思っているのかな?」
「いや、そうなってみないと判りませんよ」
「均目君は俺達を裏切るかも知れないと云う事かな?」
「そう云っている訳じゃないけど、まあ、そうなってみないと判らないとしか云えないですね。それは袁満さんの頭の中で仮定された事でしかないんだから」
「確かにそうだけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らすのでありました。「最近、唐目君は均目君と何かあったの?」
「いや、特には何も」
「唐目君は均目君と同い歳だし、すっかり気が合う同士だとばかり思っていたけど」
「気が合おうが合うまいが、その事とは別に、今の話しはあくまで袁満さんの考えた仮定の話しだから、今ここでは何とも云えないと云っているだけですよ」
 そう云って言葉を濁してはみるものの、袁満さんは頑治さんのこれ迄とは違う、均目さんに対する冷えみたいなものを敏く感じ取ったと云う事でありますか。
「確かに不安に駆られて、持て余して家の布団の中で、何やかやと悪い方に悪い方にと推理した事で、現実にそうなると決まった訳じゃ全然ないしなあ。あんまり先回りしてくよくよ考えても仕方が無いか。結局なるようにしかならないものなあ」
 袁満さんはそう云って少し無理するように笑って見せるのでありました。
「まあ、これから先は出たとこ勝負と思っていた方が、何かと気楽ですよ」
「そりゃそうだ。未だ何も起こっていないのにあたふたするのは馬鹿げているか」
「そうですよ。どう転んでも命を取られる訳でもないんだから、気楽に行きましょうよ。俺の云いたいのは、まあつまりそう云う事です」
「うん。先回りして気鬱になるより、そう開き直っている方が何かとさっぱりしている。流石に唐目君はこうして見てみると、気持ちの強い人なんだなあ」
「いやいや、要するに鈍感で大した器量も無いから目先が利かないだけですよ」
(続)
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あなたのとりこ 503 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんが云うと袁満さんは笑って首を横に振ってくれるのでありました。
 少しだけ、袁満さんの顔に赤みが戻ったように見えるのでありました。しかしその眉宇から不安を綺麗に拭い棄てたと云う訳ではなくて、頑治さんのお気楽にすっかり当てられて、この場では取り敢えず気が晴れた振りをしていると云った風でありましたか。

   最初の標的

 片久那制作部長が会社を去った後土師尾常務は遣りたい放題にのさばるとか、利益とか待遇を露骨に壟断し出すだろうと大方は予想していたのでありましたが、暫く様子見の心算なのか、意外に大人しいのは従業員一同には些か目算違いでありましたか。ひょっとしたら片久那制作部長におんぶに抱っこでずっとここ迄来たものだから、その大黒柱と頼っていた人が居なくなって急に心細くなったのかも知れません。或いは社長の手前、実は会社を切り盛りするに於いて、自分の無能が露見するのを只管恐れて内心大いに居竦んでいるのかも知れません。何れにしてもこれは不気味な静けさと云うべきものであります。
 均目さんは急に目付きが険しくなるのでありました。何とかなるだろうと踏んではいるものの、いざ片久那制作部長の仕事を引き継いでみると、色々な製作上の管理とか手配に於いて、その今迄に無い煩雑さと多岐さと、意外と細かい気配り目配りや抜け目の無さが要る局面が多い事に手一杯であたふたしていて、神経が休まらないのでありましょう。
 そんな均目さんに気を遣ってか、はたまた急に眼を血走らせ始めた均目さんの在り様を見て何となくがっかりして白けた気分になったのか、那間裕子女史は均目さんとあんまり軽口や冗談を交わさなくなるのでありました。今迄に那間裕子女史が均目さんに対して見せた事のない嫌に余所々々しく冷淡な対応振りでありますし、見る目に籠る不興気で対抗的な色も、意識的にか無意識にかは判らないけれど明らかなのでありました。
「片久那さんが辞めてから、何だか均目君は少し人変わりしたと思わない?」
 昼飯を一緒にしてその後ラドリオでウィンナコーヒーを飲みながら、那間裕子女史が頑治さんに話し掛けるのでありました。この頃は、頑治さんは均目さんと連れ立って一緒に摂る昼食はすっかり沙汰止みでありました。那間裕子女史も均目さんに何となく屈託があるものだから、制作部スペースで隣同士に机を並べている女史と頑治さんは、昼食と午後の始業時間迄の一時を均目さん抜きで二人で過ごす場合が増えるのでありました。
「仕事が急に目まぐるしくなって、万事に余裕を無くしているんじゃないですかね」
「確かに顔付きに余裕の無さがはっきり表れているけど、でもちょっと、ぎすぎすし過ぎじゃないかしら。人当たりも何だか妙に雑になっちゃっているし」
「まあ確かに、誰にとは云わず言葉付も少しきつくなったような気がしますね」
「なんだかこの先、均目君に任せておいて大丈夫かしらって思っちゃうわ」
 那間裕子女史は眉根を寄せて頑治さんを見るのでありました。
「まあ段々、仕事に慣れて来れば気持ちに余裕も出て来て、少しは人当たりとか言葉付きなんかも、それに顔付きも穏やかになってくるんじゃないですかね」
(続)
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あなたのとりこ 504 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんは楽観的な観測を述べるのでありましたが、仕事に慣れて来る前に均目さんは片久那制作部長が新たに興したか会社に呼ばれて、そちらに鞍替えするために贈答社を辞める事になるのではないかと思うのでありました。しかしこの観測は那間裕子女史には云わないのでありました。那間裕子女史を徒に激昂させて均目さんに対して喧嘩腰になるように仕向けるのも大いに気が引けるし、均目さんの折角の秘かな去就の計画を、告げ口をするような形で邪魔するのも何やら潔くない仕業のような気もするのでありました。
 まあ、どだい均目さんの秘かな去就の計画自体が、節操が無いと云えばそう云えるのかも知れません。それに片久那制作部長が幾ら会社を良く思っていないとは云え、後日興そうと計画している自分の会社に自分や均目さんを秘かに誘うと云う遣り口も、何だか信義に悖る邪険な臭いもするのでありました。だからそれに対して潔い態度を保とうとする自分なんと云うものは、これはもう片手落ちなヤツと云うべきところでありましょうか。
「もう少し強い気持ちと、逆境にもなかなかめげない粘り腰と、したたかさがある男だと思っていたんだけど、案外大した事が無かったわね」
 那間裕子女史の言葉が頑治さんの想念に混入して来るのでありました。
「ええと、それは、・・・俺の事ですかね?」
「そうじゃないわよ。均目君の事よ。決まっているじゃない」
 那間裕子女史が呆れたような云い草をするのでありました。当然今迄の話しの流れから誰の事を云っているのかは知れた事であった筈なのに、頑治さんがここで俄かに頓馬な質問を返すのが、那間裕子女史としては如何にも興醒めだったでありましょう。
「ああそうですか。そうですよね」
 頑治さんはまごまごとそう返すのでありました。
「無二の親友である均目君の悪口は云いたくないと、そう云う訳?」
「いやまあ、そんな確たる気持ちでもないんですけど、一般的に、居ない人の悪口とかはあんまりいただけないかとは思いますけどねえ」
 頑治さんは遠慮気味に応えるのでありました。「それに、会社の中では同い歳でもある事だし、どこか気が合うところもあるから割と親しくはしているけど、だからと云って均目君が無二の親友かと云われると、ちょっと違うような感じもしますしねえ」
「ああそう。ふうん」
 那間裕子女史は冷えたもの云いをしてコーヒーを一口飲むのでありました。この云い草てえものは、男同士の友情とか云う何だか得体の知れない胡散臭いものには、元々そんなに興味は無いと云う意を示さんとしての事でありましょうか。
 頑治さんが居ない者の評言はしないと表明したからか、何となく言葉が途切れるのでありました。那間裕子女史が腕時計に目を落としたので、釣られて頑治さんも自分の前腕をやや持ち上げて腕時計を見るのでありました。
「そろそろ行こうか」
 ラドリオを出てから二人並んで帰社していると、またも錦華公園の傍で、向こうも帰社途中であろう袁満さんと甲斐計子女史の二人連れに出くわすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 505 [あなたのとりこ 17 創作]

「おや、またもやお揃いで」
 頑治さんは含むところがあったせいで、竟そんな風に声を掛けるのでありました。
「おう、そっちもお揃いで」
 袁満さんは照れなのかちょっとした対抗意識なのか、同じような事を頑治さんに云って片手を挙げて見せるのでありました。甲斐計子女史は頑治さんと那間裕子女史に目撃されたのが何やら気まずそうで、少し狼狽えるような素振りを見せるのでありました。
「今日の昼は鰻ですか天麩羅ですか?」
 頑治さんが袁満さんに訊くと那間裕子女史が大仰に反応するのでありました。
「へえ、それは随分豪勢な昼食ね」
「いや、今日は人生通りのいもやで豚カツ、ですよ」
「いもやの豚カツも昼食としてはまあまあの値段よ。それでもこの街の他の豚カツ屋に行くよりは、あそこの方が値段以上に美味しくはあるけど」
「あそこは何時も並ぶから、滅多に行かないんだけど、どうした訳か今日は覗いたら空いていたんで、これはチャンスと久しぶりに入ったんですよ」
「でも、いもやから帰って来るにしては方向が違うけど」
 那間裕子女史が小首を傾げるのでありました。
「その後で、ちょっと喫茶店に行っていたんですよ」
「ああ、例によってお決まりの昼休みコース、と云う訳ですね」
頑治さんは実はここは、お決まりのデートコース、と云おうとしたのですが、那間裕子女史が居たものだからそう云うからかいの言は、まあ、ちょっと控えるのでありました。
「そちらのお二人は何処で昼飯だったの?」
 甲斐計子女史が頑治さんに訊くのでありました。
「日貿ビルの地下の四川飯店で中華ですよ」
「へえ。偶に行くけど、あそこだって結構な値段じゃない」
「つまり四川飯店も、袁満さんと一緒に行く昼飯コースの一つですかねえ?」
 頑治さんにそう訊かれて甲斐計子女史はまた少し動揺を見せるのでありました。
「そうそう。四川飯店でも時々奢って貰う事もある」
 袁満さんの方は頑治さんの遠回しのからかいには特に反応しないで、そう云ってしきりに頷きながら無邪気そうに笑っているのでありました。
「何、袁満君、甲斐さんに昼食を、そんなにしょっちゅう奢って貰っているの?」
 那間裕子女史が少し詰問調で訊くのでありました。
「ええまあ、そう云う場合が多いかな」
 袁満さんはこれにもあっけらかんと頷くのでありました。
「まあ、奢ったり奢られたり、よ」
 甲斐計子女史の方がそう云い繕うのでありました。「あたしがご飯を奢った時は袁満君がコーヒーを奢ってくれるのよ」
「いもやの豚カツとコーヒーじゃ、全然釣り合わないじゃないの」
(続)
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あなたのとりこ 506 [あなたのとりこ 17 創作]

 那間裕子女史は袁満さんを見据えながら首を傾げるのでありました。
「でも俺より甲斐さんの方が貰っている賃金は多いからなあ。俺は出張が無くなった分、日当が入らなくなって実入りが減っているから、大いに助かってはいるんですよ」
 袁満さんはあくまでも屈託が無いのでありました。
「それにしたって、ちょっとちゃっかりし過ぎていない?」
 那間裕子女史の眼容が批判的な風に変わるのでありました。
「あたしは別に構わないのよ。袁満君が組合の委員長として社長や土師尾さんと渡り合ってくれたから、あたしのお給料も上がったんだし。まあ、あたしは春闘が終わった後で、社長に不当な扱いを受けそうになったんで、慌てて組合に入ったんだけどね」
 甲斐計子女史が庇うような事を云うのでありました。
「でも、男として女の人に奢って貰うと云うのは、どうなんだろう」
 那間裕子女史は、今度は先程とは反対側に首を傾げるのでありました。
「まあ、他にも袁満君には色んな事を助けて貰っているから」
 この甲斐計子女史の言は、会社帰りに日比課長の変なちょっかいから逃れるために、神保町駅迄時々袁満さんに送って貰っている件を指しているのだろうと頑治さんは思うのでありました。前にそんな事を袁満さんから直接聞いた事があるのでありましたから。
「甲斐さんは袁満君にそんなに何を助けて貰っているの?」
 その事を全く知らない那間裕子女史は、甲斐計子女史にも小首を傾げて見せるのでありました。何やら話しが妙にややこしい路に入ろうとしているような気配であります。
「まあ、色々と」
 甲斐計子女史は説明するのが大儀なのか、それとも何となく気が引けるからなのか、もじもじしながら苦笑ってこの場を取り繕おうとするのでありました。
「ふうん、色々、ねえ」
 那間裕子女史はそんな返答では到底納得出来ないと云った不満顔ではあるけれど、ここは取り敢えずそれ以上話しをほじくる気はないようでありました。
「さあ、ここで何時迄も立ち話ししていたら午後の始業時間に遅れますよ」
 頑治さんが腕時計を見ながら帰社を促すのでありました。那間裕子女史は何だか納得がいかないような消化不良の表情で、甲斐計子女史は那間裕子女史のこれ以上の追及を取り敢えず回避出来た事に内心ほっとした顔付きで、袁満さんは至って屈託ない顔で、頑治さんを入れて四人は、打ち揃って会社迄の僅かの道を急ぎ足に戻るのでありました。

 社長が私的な株の売り買い道楽のために、会社の金を勝手に流用しているという事を片久那制作部長から前に聞かされたものだから、従業員の社長を見る目は結構露骨に変化するのでありました。表面上はそれ程極端と云う訳ではないのでありましたが、社長が傍に居ても親しそうな笑いを投げかけたり、自分の方から喋り掛けたりするのは殆どないのでありました。まあ、日比課長は調子良く社長にお追従の一つも吐いてはいましたか、その頻度と云う点では多少減ったような気も、頑治さんはしないでもないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 507 [あなたのとりこ 17 創作]

 組合としても、この社長の一件をたちまち公然と追及し始めると云う事はないのでありました。それは片久那制作部長に、今後の秋年末闘争や次の春闘の時に奥の手として効果的に用いるために取って置いて、その間もっと綿密に社長の罪業を調べ上げて、外堀を埋めるみたいな準備をした方が良かろうと云うアドバイスを貰っていた故でありました。
 ところで土師尾常務は、社長のこの不実なる道楽をどのように考えているのでありましょうか。まあ勿論、片久那制作部長のように畳みかけるように冷厳に追及する手腕は到底持ち合わせていないでありましょうし、会社や従業員のために厳しく追及しようと云う健気な気持ちも当然ないでありましょう。しかしこの社長の不良行為は当然知っているであありましょうから、自分の取り分を社長からより多く分捕るための材料としてのみ、ちゃっかり利用しようとはするでありましょう。あくまでも従業員とは無関係なところで。
 まあしかし、結局土師尾常務よりは海千山千の社長に上手に丸め込まれて、大して有効に利用出来ないで終わるかも知れません。寧ろそっちの公算の方が大でありましょうか。依って従業員としても、ここで改めて確認する必要もないけれど、土師尾常務には社長の不実への対処に関しては、ま、何も期待するところは無いのでありました。
 寧ろ社長の非道をあれこれ探っていると、ひょっとしたら棚ぼた的に土師尾常務の方の不良行為が見つかる可能性も無いとは限りません。叩けば非常に多く出てくるであろう埃の点では社長以上に疑わしい人でありますから。まあだから当然こちらの探査も今後の闘争の有力材料集めとして、組合としてはやって置く意義も必要もあるでありましょう。
 さてところで、業績回復に関しては捗々しい面は一向に見られないのでありました。その左証は、営業部から制作部に回って来る大口の製作指示書が無いからでありました。
 特注営業の仕事は、土師尾常務と日比課長から見積もり依頼があって、納期や数量等の微調整の過程が挟まる場合もありますが、それも完了してから、ようやくその仕事が正式に決定したならば、土師尾常務なり日比課長なりから制作指示書が出されて、それから正式に製作工程が動き出すのであります。だからこの製作指示書を見れば、大体現時点で贈答社が受けている注文が判る訳でありますが、既製品に箔押しでの名前入れする等の小口仕事ばかりで、気合の入るような売上額の大きい仕事は殆ど無いのでありました。
 勿論制作部を経由する必要のない他社商品の扱いは制作部では大凡しか把握しないのでありましたが、こちらもまあ要するに、自社製品に比すると実利はさして大きくはないのでありました。要は大口の、自社製品に依る特注仕事が肝心でありますが、残念ながらそう云う製作指示書はさっぱり回ってこないと云った具合でありましたか。
 袁満さんが担当する地方出張営業は、前に下の階の紙商事に居た矢目奈伊蔵さんが、嘱託社員として自前のハイエースを駆って北関東から東北エリアを出張して回る、と云うのはほぼ確定したのでありました。しかしその他のエリアに関しては、この前新宿で会談した信州の蓼科や美ヶ原や松本の浅間温泉とかでお土産屋とかホテルを経営している人が、山梨県と長野県の主な観光地での販売代理店をやってくれると云う契約や、他地域の同様の契約は幾つかがほぼ本決まりしてはいるようであるものの、未だ他の多くのエリアに関しては鋭意話が進行中と云うところで、未だ正式の決定には至らないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 508 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんに関しては、均目さんが制作部を統括するようになってから制作部関連の仕事はグッと減るのでありました。これ迄殆どが、要するに片久那制作部長の助手みたいな仕事が多かったのでありましたが、片久那制作部長が居なくなったから、その手の仕事はほぼなくなるのでありました。均目さんとの関係がここにきて少し冷えたと云うのも仕事が減った一因であるかもしれませんが、均目さんとしても制作部に於ける頑治さんの扱いをどうしたら良いものか、少しの戸惑いがあると云った面も恐らくあるでありましょう。
 本来の出入庫の管理とかの業務仕事に関しても、袁満さんと出雲さんの出張営業が無くなった分仕事は減るのでありました。業績回復が遅れているのでありましたから、制作部関連の材料管理の仕事も商品配達とかの業務も以前程忙しくもないのでありました。
 依って頑治さんは手持無沙汰解消のため倉庫周りやビル前の道路の掃除とか、倉庫内の棚の整頓ばかりやっているような在り様でありましたか。まあ、楽と云えば確かに体は楽ではありましたが、こういう状態は自分にはあんまり合わないと頑治さんは思うのでありました。生来、人間が貧乏性に出来ているからでありましょうか。
 これは余談の内に入るのでありますが、社長から頑治さんを営業職として得意先回りさせてはどうだろうと云う提案があるのでありました。頑治さんの倉庫を管理する手堅そうな仕事振りや何時も掃除に勤しんでいる几帳面らしき態度、前の全体会議なんかで見せた目先の利く着想や話力を、恐らく社長が少し買ってくれたのでありましょう。
 しかしこれは土師尾常務に依って簡単に退けられるのでありました。つまり土師尾常務は、頑治さんを倉庫管理係や配達要員以上の人材とは端から評価していないようでありました。社長にその話を持って来られても、そんな事を考えている社長の、人を見る目の無さと見当違いを持て余すような冷笑を返しただけのようでありました。
 だからと云って頑治さんは土師尾常務を恨む気は全くないのでありました。それは特段営業と云う職種に興味も意欲も湧いていないからでありました。毎日一張羅のスーツを着込んで出勤すると云うのも、何だか窮屈で面倒臭そうでありましたし。
 それに頑治さんは気楽を尊ぶ人であります。抑々頑治さんが職安で今の仕事を紹介して貰う時に出した希望と云うのが、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云うものでありました。
 こんな了見では営業の仕事は務まらないでありましょう。営業どころか、制作の仕事だって同じく覚束無いと云うものであります。制作部の仕事を手伝ったのは片久那制作部長の命があったからで、そちらの方に妙味を感じた訳ではないのであります。勿論、頑治さんとしては、どうしてかは良く判らないものの片久那制作部長の覚えの目出度さと期待には応えたいと、与えられた仕事には真剣に取り組んではいたのでありましたが。
 まあこう云った訳で片久那制作部長の居なくなった後、日常の業務は一見、何とか多少のギクシャクやら戸惑いはありながらも滞りなく運んでいるように見えはするのでありました。しかし会社の未来に関しては新しい暁光は全く射しては来ないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 509 [あなたのとりこ 17 創作]

 寧ろ会社存続が無理だと社長が判断を下すと云う結論に向かって、なかなかの早足で進んでいるようにも頑治さんには感じられるのでありました。こういう感触は頑治さんだけではなく、均目さんも薄々感じ持っているようでありました。那間裕子女史にしても明日の会社の存続と云う点に於いて不安な表情を隠さないのでありました。
 袁満さんと日比課長、それに甲斐計子女史は一方に大いに不安は感じながらも、しかし制作部の二人に比べるとあたふたしている風ではないようでありました。別に根拠は何も無いけれど、屹度何とかなるだろうと云う生来の楽天家の表情でありましたか。
 しかし確かに営業部と会計係でこう云った具合に切迫感が些か緩いのは、その楽天的な人柄と云う要素もありはするでありましょうが、片久那制作部長が居なくなった影響を直接受けていないからでありましょう。片久那制作部長が居ると居ないで会社の安定感がまるで違うと云う点は感じてはいるのでありましょうが、業務が思っていた程滞らない様子に安堵感が出たのでありましょう。またその安堵感がなかなか強い目眩ましに働いて、屹度この先も大丈夫に違いないと好都合な感触を抱き始めたと云う事でありますか。

 均目さんは毎日不慣れで煩雑な業務に忙殺されているためでありましょうか、ふとよぎる不安に苛まれて、目先の仕事も手に付かなくなると云う事はないようでありましたが、那間裕子女史の様子がここ数日みるみる晴れなくなるのでありました。片久那制作部長が居なくなったための一種の喪失感に時々襲われて、くよくよしたり気が気ではなくなるのでありましょう。精神的にかなり追い詰められているようにも見えるのであります。
 那間裕子女史の口数がここに来て極端に減るのでありました。ああ云えば必ずこう云い返すのが女史の流儀と云うのか、自他伴に認めるところの身上だったのでありますが、その舌鋒の鋭さが痛々しくも減じて仕舞ったように感じられるのでありました。
 話しをしていても何となく心ここに在らずと云った無関心を隠しもせず、話し方も話しそのものも妙に自棄っぱちな風があって、頑治さんの方が少々うんざりさせられる、と云った具合でありましたか。前はどんなに憎々し気な事をずけずけ遠慮なく云っていても、頑治さんにはどこか愛嬌とか滑稽味がその話し振りに感じられたのでありましたが、そう云うある種のしっとり感みたいなものが殆ど感じられなくなってきたのであります。これは何だか、退職間際の山尾主任の様子と重なるなと頑治さんは思うのでありました。
 山尾主任の場合は制作部から営業部への急なコンバートと、結婚して間もないと云うのにお相手と何だかしっくりいかなくて、結局お相手が家を出て行って仕舞うと云う私生活上の苦痛が重なったのでありましたか。山尾主任はその苦痛に対する捨て鉢と逃避の心情から、解決策として会社に辞表を提出すると云う道を選んだのでありましたか。
 と云う事は、ひょっとしたら那間裕子女史も会社を辞める心算になっているのでありましょうや。しかし頑治さんは深刻な悩みみたいなものを那間裕子女史から何か聞かされた訳でもないので、女史が退職を選び取る具体的な理由については全く見当が付かないのでありました。思い当るとしたら片久那制作部長の退職でありますけれど、その衝撃てえものは、別に那間裕子女史一人が受け取ったとものでもないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 510 [あなたのとりこ 17 創作]

 それに大方は片久那制作部長が居なくなっても、当面何とか会社は然したる滞りもなく動いているという感触を得て、少しは胸を撫で下ろしているのでありますから、その辺の実感は那間裕子女史も共通のものを持っていると思われるのであります。それとも何か他の連中とは違う、那間裕子女史だけが感じ取れるところの決定的な危機の予兆でもあるのでありましょうか。或いはまあ、要するにちょっとばかり思い過ごしているとか。
 ひょっとしたら均目さんとの仲が上手くいっていない、と云うのが気鬱の理由なのではないのかとも頑治さんは勘繰るのでありました。まあしかしこれは均目さんと那間裕子女史が好い仲であると云うのが大前提で、そうであるのやら、単なる気の合う同僚と云う程度の仲なのやら、その辺りの確証は頑治さんには無いのでありました。ただ、二人は言葉で仄めかしたり、或いはそんな素振りを見せりとかはなかなかしないけれど、恐らく九分方は好い仲なのではないかしらと云う推察は、頑治さんは有しているのでありました。
 片久那制作部長から引き継いだ仕事が手一杯で、均目さんが那間裕子女史の方を今迄のように構っていられなくなっているのが、那間裕子女史には不満なのであります。それにその程度であたふたしている均目さんに、女史は興醒めしたのかも知れません。
 こうなると嘗て山尾主任が会社を辞めた理由の、会社内での立場とか仕事の変更と、私生活上でのなさぬ仲の相手と上手くいかない鬱憤、と云う二つの要素が那間裕子女史にも当て嵌まる訳でありますか。那間裕子女史のこのところの変化はこれで何となく、ははあと得心のいく説明が出来るような気が頑治さんはしてくるのでありました。そう云えばこの二人を見ていると、頑治さんがこのところ均目さんと何となく疎遠になっているのと同じに、那間裕子女史も均目さんと心の距離が出来ているようにも見えるのであります。
 とは言っても、繰り返しになりますがこれはあくまで頑治さんの推察であります。確証なんと云うものは、何一つ無いのでありますけれども。・・・

 恐らく頑治さんを自分が新しく創るであろう会社に引き抜く心算でいたから、片久那制作部長は贈答社を辞める時に、事後の仕事の事を頑治さんには何も指示したりアドバイスしたりはしなかったのでありました。結局この事が頑治さんの制作部に於ける宙ぶらりんの立場を作って仕舞ったと云えるでありましょうか。均目さんとしても制作部内での頑治さんの扱いをどうしたものか、些かまごつくような事態になったのでありましょう。
 まあ、頑治さんとしても本来制作部要員として贈答社に入社した訳ではなかったし、偏に片久那制作部長の胸三寸で製作仕事に引っ張り込まれていたのであります。依って頑治さんはそれ程製作部での仕事に未練は無いのでありました。それは確かに、決まりきった倉庫業務や荷造り梱包の仕事よりは、面白味は感じてはいたのでありましたが。
 だから製作部でお呼びがかからなくなっても、頑治さんは然程に仕事意欲が減じる事はないのでありました。業務仕事の方が気楽で性に合っているのでありましたし、倉庫の整理整頓やら駐車場周りの掃除なんかも、そんなに嫌いな方ではないのでありました。頑治さんとしてはそんな風に何となく本来の自分の仕事に落ち着いていたのでありましたけれど、或る日、土師尾常務から話しがあると出し抜けに呼び出されるのでありました。
(続)
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