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枯葉の髪飾り 6 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りCLⅠ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 吉岡佳世と公園で待ちあわせしなかったのは、結果として賢明な判断であったと云うことになったのでありました。彼女の体調は翌日崩れたのでありました。と云っても微熱と体のだるさがあると云った程度ではありましたが。
「大丈夫やから、公園に行こうよ」
 吉岡佳世は拙生にそう云うのでありましたが、彼女の方ももうすぐ復帰する高校の新年度が始まるわけでありますから、ここで彼女に無理をさせるのは慎むべきことであると考えて、拙生は外での彼女とのデートを断念するのでありました。
「うん、そいがよか。流石井渕君、ちゃんと考えてくれとるね」
 拙生が彼女を宥めるのを横で聞きながら彼女のお母さんがそう云うのは、屹度吉岡佳世がこのくらいの体の不調は問題ないから拙生と外でデートすると、拙生が現れる前にお母さんの危惧を聞き入れずに云い張っていたからでありましょう。
「もう後何日かで、高校の授業の始まるとやけんが、出来るだけ今の内に、体調ば調えとかんばばい。学校の始まってから、またちょくちょく休むようになったりするぎんた、オイとしても安心して東京に居れんやっか。」
 拙生は吉岡佳世の膨らませた頬に向かって云うのでありました。
「でも、大丈夫て、思うけどね」
 吉岡佳世はそう云ってその日の外でのデートに未練を表明しながらも、拙生と彼女のお母さんの説得を渋々と云った顔で受け入れるのでありました。拙生は彼女の拗ねたような表情も案外可愛いものだと秘かに思いながら、しかし手術以来彼女の体が前より壮健になったようにちっとも見えないのは、いったいどう云うことだろうと考えるのでありました。
 拙生としては心臓の不具合が手術によって取り除かれたら、彼女は見違えるように健康を取り戻すと単純に考えていたのでありましたが、どうやらそうでもないのであります。微熱であるにしろ発熱の頻度は寧ろ前よりも増しているのではないでしょうか。
 前の年の夏に彼女は拙生と海へ行くことが出来たのであります。彼女はそれは泳ぎはしなかったのではありましたが、砂浜を拙生と手を繋いで散歩したり岩場で磯遊びも出来たのでありました。今の彼女を見ていると、あの時の夏の日差しに彼女の体が耐えられるとは到底思えないのであります。今の彼女の方が八ヶ月前の彼女よりも寧ろ弱々しくなっているとすれば、彼女にとってあの大変な手術はいったいなんだったのでありましょうか。
 いやまあ、将来の体の恢復は保証されているものの、あの手術そのものの負担からの恢復が遅れていると云うのかも知れません。大変な手術であったわけでありますから。そう考えなくては拙生の不安の渦はその勢いを増すばかりであります。
「なんで、急に黙ると?」
 吉岡佳世が拙生に聞くのでありました。「あ、外でデートしないて決まった後で、急に外でデートしたくなったとやろう。今からでも変更は大丈夫よ。外でデートしたいとなら、つきあうよ、あたし」
「なんば云いよっとか。外はダメて云うたらダメ。変更なし」
 拙生が云うと吉岡佳世は口を引き結んでその円らな瞳で拙生の顔を睨むのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅡ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 まあ、彼女の部屋からそんなに遠くない居間に居る彼女のお母さんを思うと、外で吉岡佳世と逢う時に比べれば気兼ねがありはするのでありますが、しかし部屋で彼女と二人で過ごす時間も、それしか選択肢がないとなったら、拙生にはそれなりに楽しい一時になったのでありました。外のように何処かに誰かの目があるかもしれないと意識して、居住まいを正しておかなければならないような類の窮屈さからは解放されているし、部屋の外の気配をだけ気遣っておれば、二人がどんなに顔を寄せあってデレデレと話をしていても勝手なのでありますし。それに彼女のお母さんは部屋の外で中の様子に聞き耳を立てていたり、不意に部屋のドアを開けたりするようなタイプの人ではないのであります。事実これまで一切、彼女の部屋で二人きりで過ごす我々に干渉することはなかったのでありましたから、そう云う心配も万々が一程度で済む話であります。
 彼女の部屋のベッドに二人並んで座って手を取りあって、色々な話に興じているのは気持ちの良い時間でありました。もし彼女の心臓や肺になんの不都合もなかったならば、拙生は屹度彼女と手を繋いでいたり、時々座ったまま恐る々々彼女の体を引き寄せて唇を重ねたりすること以上の行為に及んだかもしれません。しかし彼女の体のことを慮ると、拙生には手荒に彼女に負担を迫ることがどうしても出来なかったのでありました。ここが自制の見せどころなのだと拙生は信じていたのであります。まあそれに、そんなことをしなくとも吉岡佳世と二人きりで身を寄せあって過ごす時間に、拙生は充分満足していたのでありましたから。
 翌日も彼女の体調は今一つ優れないのでありました。ですから彼女の家を訪ねた拙生は居間で彼女のお母さんと、たまたまその日は家に居たお兄さんとそれに彼女と四人で寛いだ時間を過ごし、それから彼女の部屋に彼女と二人で引き取るのでありました。
「なかなか熱の下がらんね」
 拙生は部屋でベッドの上に並んで座ると、彼女の額に掌を当てて云うのでありました。
「うん、でもほんの微熱で、別に辛いわけじゃないから」
 吉岡佳世はそう云ってから額に当てた拙生の手を取ってそれをそこから離して、自分の太腿の上で指を絡めるように握り直すのでありました。拙生の手の甲に彼女の体温が浸みてくるのでありました。その体温は特段高くは感じられないのでありました。
「まあ、こうして起きて居られるとやから、それはそうかも知れんばってん」
「多分、外でデートしても大丈夫て思うよ、あたし」
「それはダメ。新学期の始まったら、嫌でも毎日学校に行かんばならんとけんが、それまでに体調ば万全にしとかんと。今年は受験勉強もあるとやからね」
「後三日したら、井渕君、東京に行ってしまうとよね」
 吉岡佳世はそれ以上の、自分の体調に関わる話を避けるように話題を変えるのでありました。
「うん、もうすぐ」
 拙生がそう云った後に二人は暫く黙るのでありました。吉岡佳世は自分の太腿の上の拙生の手を見ながら、両手でそれを無言の儘弄ふのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅢ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「あたしさ、屹度、井渕君が傍に居なくても、大丈夫て思うよ」
 吉岡佳世は拙生の手に視線を落としたままで云うのでありました。「それは涙の出るくらい寂しかし、心細いとやけど、でもここであたしが頑張らんと、来年東京で大学生になれんし、そしたら井渕君と計画している、東京での楽しい学生生活も、実現せんようになるしね。そう考えたら、ちょっと気持ちの奮い立ってきたの」
「お、そうや。そいは、良か傾向ばい」
「その内、あたしの体調も良くなるやろうし、夏休みになれば、井渕君も帰って来るし、そうしたら、二人で海にも行きたいしさ」
「うん、そうそう。その通りばい」
「くよくよしとっても、始まらんもんね。そうやろう?」
「そうそう。前向きに考えたら、全部が好転するくさ。後ろばっかい見とっても、なんも解決せん。先の全然見えんわけじゃなかとやけんが、その見える先に向かって、前進あるのみばい」
 拙生は吉岡佳世が気持ちの上向きを表明してくれたことが嬉しくて、我が身を省みず軽はずみに声まで弾ませて偉そうなことを口走るのでありました。
「だからさ」
 吉岡佳世は拙生の目を強い視線で見るのでありました。「井渕君、安心して、東京に行ってね。それに、あっちであたしのことは、あんまり気にかけんで、一杯色んなことしてね。あたしは、大丈夫やからね」
 拙生に心配をかけまいとしてでありましょうが、彼女はそんな健気なことを云うのでありました。その彼女の気持ちが嬉しくて、拙生は彼女を引き寄せてその唇に唇で答礼を返すのでありました。
「夏に帰ってきたら、あっちでの色々なこと聞かせてね、楽しみにしてるから」
 吉岡佳世が拙生の手を両手で握って云います。
「判った。お土産話ば一杯持って、夏に帰って来るけんね」
「でもさ、時々でよかけど、思い出してよね、あたしのことも」
 吉岡佳世が殆ど顔を接するくらいの距離で拙生を見ながら云うのでありました。
「時々どころか、何時もお前の事ば第一に考えとるくさ。当たり前やっか」
「それから、夏に帰って来た時、顔つきとか服装とか、髪型とか、あんまり今と変わらんでおってね。そうじゃなかったら、あたし再会した時、まごつくかも知れんからさ」
「どがん気取ったてしても、変わり映えなんかするもんか、この顔が」
 拙生はそう云って自分の顔を指差して見せるのでありました。
「でも、東京に行ったら、雰囲気とか急に、見違えるようになるかも知れんし」
「いや、急に見違えるごとなるとは、大体は女の方ばい。男はあんまり変わらんやろう。お前の方こそ、ガラっと変わっとるとやなかやろうか」
「でもあたしは、まだ高校生けん、今となあんも変わらんはずよ、多分」
 吉岡佳世はそう云った後、拙生から目を逸らすのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅣ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 先にも云った通り結局拙生が寝台特急さくら号に乗車するまで、吉岡佳世と外で逢って食事をしたり、病院裏の公園のベンチで春の日差しを受けて二人きりで身を寄せて話をしたり、手を繋いだり抱擁したり口づけしたりする時間は訪れなかったのでありました。彼女の体調は今一つ優れない儘に、遂に拙生が東京に出発する日を迎えたのでありました。
 拙生は前の日彼女の家を訪ねた時に、明日は態々駅まで見送りに来なくていいからと彼女に云うのでありました。
「嫌よ。あたし絶対、見送りに行くからね。井渕君の受験の時も行けんかったとやから、今度はどうしても行く」
 何時も通りに彼女の部屋でベッドの上に拙生と並んで腰かけた吉岡佳世は、顔を何度も横にふりながら云うのでありました。「体の方は大丈夫とやから。そんなに長い時間じゃないなら、外出しても、なんともないとやから」
「明日無理して、新学期の始まってから体調の崩れたいしたら、それこそ困るやなかか」
「大丈夫。絶対崩れんから」
「兎に角、今無理ばする必要はなかやっか」
「あたしが見送りに行くのが、なんか都合悪いと?」
 吉岡佳世は何時もになくそんな棘のある云い方をするのでありました。
「別に都合悪かことなんか、なあんもなかばってん」
 拙生はちょっと白けたような語調で云うのでありました。二人の間でなんとなくささくれた空気が膨らんで、お互いの体の接近を阻むのでありました。
「・・・ご免ね、聞き分けのなこと、云うて」
 吉岡佳世が拙生を上目で見ながら小さな声で云うのでありました。「井渕君があたしのことを思って、そう云うは、ちゃんと判ってるし、怒らせる気なんか、なかったと」
「別に怒っとりは、せんけど」
「本当に、怒っとらん?」
「怒っとらん」
 拙生がそう云って彼女の体を引き寄せると、二人の間で膨らんだささくれた空気がパチンと弾けるのでありました。
「今日、こんな感じで別れるとは、嫌よ」
 吉岡佳世が拙生の体に縋りつくのでありました。
「見送りに来てくれるて云う、その気持ちの芯は、オイもちゃんと判っとるくさ。ばってん、気持ちに流されて、それでまた体調の崩れたら、オイの方が申しわけなかやっか」
 吉岡佳世の腕に一瞬力が籠り、その後彼女は急に拙生から体を離すのでありました。
「ばってん、明日は見送りに、あたし行くもんね。体の方は本当に、心配ないとよ。井渕君が佐世保ば離れるその時に、あたしは家になんか居られんもん」
 吉岡佳世はそう云って、おどけて拙生に舌を出して見せるのでありました。これでなかなか強情なヤツであります。しかしながらおどけて見せる彼女の目に涙が次第に溢れてきて、一筋零れて彼女の両頬を伝い落ちるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅤ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 駅の改札を挟んで拙生は安田と島田に別れを告げるのでありました。隅田は既に進学する大学の所在地である福岡にアパートを見つけて移っていて、安田と島田も一両日中には転居する予定のようであります。二人は拙生を駅まで見送りに来てくれたのでありました。
「そいぎんた、まあ元気でやれよ。東京の行き帰りには、偶に博多に寄らんばぞ。博多で遊んで、そいから佐世保に打ち揃うて凱旋すればよかし」
 安田がそう云って拙生の腕を掌で一つ叩くのでありました。
「おう、寄らせてもらうくさ。ばってんお前の場合は凱旋じゃのうして、博多から遁走するて云うとが正しい表現やろう」
「なんでオイが、博多ば逃げ出さんばならんとか」
「お前のことけん、博多に行ったらあっちこっちに不義理ばして、収集のつかんようになるに決まっとる。まあ、その場合は島田にちゃんと助けて貰え」
 拙生はお返しに安田の腕を拳で軽く突くのでありました。
「何ごとにも手堅かこのオイが、そがんことになるわけのなかやっか」
「自分ではこがん自己省察のなかことば云うとるけど、安田があっちで色々ヘマばしたら、島田、ちゃんと助けてやってくれよ」
 拙生は横に立っている島田に云うのでありました。
「なんであたしが、安田のヘマの尻拭いばせんばならんとね」
 島田が口を尖らすのでありました。「博多て云うても広いとやけんが、安田とあたしの住むアパートは随分離れとるとよ。安田のことなんか知ったことじゃなか」
「まあ、そがん云わんで、同郷の誼で安田の面倒ば見てやってくれ」
 拙生は島田に頭を下げるのでありました。「ほれ、安田、お前も今の内に、ちゃんと島田に頭ば下げとかんか。宜しくお願いしますて云うて」
「井渕、わけの判らん冗談はそんくらいにせろ」
 安田が拙生の腕をもう一度叩くのでありました。
「そうしたら、あたし達はこれで帰るけんね」
 島田が拙生に云うのでありました。「もうすぐ佳世が見送りに来るやろうけん、あたし達が居ったら、邪魔になるしね」
「ああ、そがんことになっとるとか」
 安田が納得するように何度か頷きます。
「昨日、佳世に電話したら、見送りに行くて云いよったもんね、ま、当然やろうけど」
「まあだ、そがん急いで帰らんでよかやっか。お前達は列車の出発するまで居って、ちゃんとオイば見送ってくれんとか」
 拙生は一応そう云うのでありましたが、吉岡佳世と二人にしてくれた方が折角足を運んでくれた安田と島田には大いに申しわけないのでありますが、拙生としては内心は嬉しいと云えば嬉しいのであります。
「最近会っとらんけど、吉岡は元気にしとるとや?」
 安田が拙生に聞くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅥ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「まあ、体の具合は、ぼちぼちかね」
 拙生は吉岡佳世の体調がそれ程芳しくはないと云うことを、敢えてここで安田に報告することもなかろうと曖昧な云い方をするのでありました。
「ええと、そんなら、邪魔にされる前に帰ろうか」
 島田が安田を促すのでありました。
「そがん気ば遣わんでも、よかとぞ」
 拙生が云います。
「そいばってん、気ば遣わんで、後で気の利かんヤツとか云われるとも叶わんけんね」
 安田がそう云って拙生に手を上げるのでありました。
「そがんことば、オイが云うわけなかやっか」
「ま、それはいいとして、兎に角、元気でやれよ」
 安田はそう云いながら上げた手をふるのでありました。「夏休みには、博多か佐世保で会おうで。そんじゃあ、な」
 安田と島田が去るのを見送っていると、程なく吉岡佳世が駅に姿を見せるのでありました。彼女は拙生が改札口に立っているのを見つけると手をふりながら駆け寄って来ます。
「今、安田と島田が見送りに来てくれとったとぞ」
 拙生は吉岡佳世に云うのでありました。
「うん、そこのバス乗り場の処で、二人に会った」
「気ば回して、オイとお前ば二人きりにするために、早々に退散しよったばい」
「ふうん。あ、そうだ、あたし、入場券、買って来るね」
 吉岡佳世はそう云って券売所へ駆けていくのでありましたが、入場券を購入するとまた小走りで戻って来るのでありました。
「そがん焦って走りよって、大丈夫とか?」
「体の方は、大丈夫よ。元気々々。心配なし」
 彼女は息を切らせながらそう云うのでありました。「暫くの間井渕君と、これで逢えんて思うたら、少しでも、長く傍に居たいけん、つい走ってしまうと」
 吉岡佳世はそう云って拙生を嬉しがらせてくれるのでありました。後二十分もしないで列車は佐世保を離れるのであります。
 彼女は改札を入ると拙生の腕に縋るように両手を巻きつけるのでありました。もう東京行きの寝台特急さくら号は一番乗り場に入線していて、拙生と彼女は拙生に宛がわれた寝台のある車両へと身を寄せあってホームを歩くのでありました。
「あたしもこの寝台車で、東京に行きたか」
 吉岡佳世が云うのでありました。
「うん、来年の受験の時に乗れるくさ」
「そうじゃなくてさ、今からこのさくら号に乗って、井渕君と一緒に、東京に行きたいて云う意味で云うたの」
 吉岡佳世はそう云って拙生の腕を自分の体に密着させるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅦ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 その吉岡佳世の言葉を拙生はどう云うものか、変に不吉に聞いたのでありました。ここで別れたが最後、拙生と彼女はもう二度と見えることが出来なくなるかも知れないと云う、彼女の必死の声が言外に潜んでいると云うような風に。勿論、拙生の突拍子もない勘の冴え(!)、或いは深読みのし過ぎであると思われたから、拙生はその不吉な思いつきを急いで頭の中から掃い落とそうとするのでありました。
「久しぶりけん、あたしもちょっと、乗ってみようかな」
 拙生の指定寝台のある車両まで来て、恐らく屈託ない好奇心から、吉岡佳世はそんなことを云うのでありました。彼女の表情には少しワクワクしているような色が浮かんでいるのでありました。
 寝台は未だ設えられてはおらず、向かいあわせの六人が座るボックスの儘になっている席には誰も居ないのでありました。吉岡佳世は窓際に腰を下ろすともの珍しそうに辺りを見回すのでありました。拙生は旅行カバンを背伸びして荷物台に載せてから彼女の横に座るのでありました。
「小学生の時に乗ったことのあるけど、なんかその時より、寝台の少し、広くなってるような気のする」
 吉岡佳世が云います。
「その頃は多分乗務員が、手でガチャンて寝台ば引き出す方式のヤツやったかも知れんけど、今はボタンば押せば電動で、二段目の寝台のビーンて降りてくるとばい」
「へえ、そう」
 吉岡佳世は何時までもボックス席の中の様子を眺めているのでありました。拙生が彼女の手を握ると彼女は漸く拙生に目を向けて拙生の手を握り返すのでありました。少しの間言葉がなくなるのでありました。
「もうそんなに時間がないから、なんか大事な話ばせんといかん、て思うとけど、なにを話したらいいのか、あたしちっとも判らん」
 吉岡佳世がそう云って拙生に身を凭せかけるのでありました。拙生もたくさんの交わすべき言葉がありそうで、その内の一つだに口から先には出てはこないのでありました。
「そうね、オイも今頭の変に混乱しとって、なんば話してよかとか、よう判らん」
「行ってらっしゃいて、元気に云うのがいいと思うけど、なんか元気には、云えそうもないし。井渕君が行ってしまうとば嘆いても、仕方ないし。夏に、井渕君が帰ってきてからの話とか、あたしの来年の話とかするには、そんな時間は、もうないし・・・」
 吉岡佳世の拙生の首に回した手に力が籠るのでありました。その力に、拙生から離れまいとしている彼女の焦燥をその儘映した、或る種の荒々しさ、若しくは痛々しさが感じられるのでありました。
 二人は夫々の口から言葉を吐き出せないもどかしさをとり繕うように、何度か唇を重ね、きつく抱きあうのでありました。車内に人が入って来る気配に互いの体を離すのでありましたが、彼女の指が拙生の唇にほんの少し触れるのが未練納めの仕草でありました。そうしてもう数分もせずにドアが閉まると云うアナウンスが頭上に流れるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅧ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「もう、降りないと」
 そう云う吉岡佳世の顔が引き攣るのでありました。
 二人が席を立って通路に出ると、入れ違いに中年の夫婦連れと思しき二人が今まで我々が居たボックス席に入ろうとするのでありました。拙生と吉岡佳世が手を繋いでいるのをその二人が凝視しているその視線を背中に感じながら、我々は通路を列車の出入り口へと向かいます。
 吉岡佳世は列車を降りて、振り返って中に残った拙生を見上げるのでありました。
「ほんじゃあ、夏休みまでな」
 彼女が発すべき言葉を見失っている様子を繕う積りで、拙生はなるべく明朗に、そう言葉を投げるのでありました。吉岡佳世はその拙生の言葉に一つ頷いて見せるのでありましたが、その目が頻繁に瞬きを繰り返すのは屹度溢れてくる涙のせいでありましょう。
 さくら号の発車を知らせるけたたましいベルの音に、吉岡佳世は驚いて体を一つビクンと震わせるのでありました。見送りの者は白線まで下がれと云うホームに流れるアナウンスに、拙生は動きを失くして立ち尽くす彼女に向かって下がれと云う積りで、掌で押すような仕草をして見せます。すぐに列車のドアが、圧縮された空気が一挙に漏れ出すような音と伴に閉まるのでありました。恰も彼女の方へ延ばそうとした拙生の掌が彼女に届く前に、ドアの閉鎖によって阻まれたようでありました。ドアの閉まり切る寸前に、彼女が閉鎖音に抗してなにかを云うのでありましたが、それは手紙書くからねと云う言葉であったろうと、ドアが閉まった後に思い当たるのでありました。
 ゆっくり列車が動き始めると、ついて来るように吉岡佳世も歩くのでありました。拙生はドアの厚いガラス窓にへばりついて、遠ざかる彼女を見ているのでありました。列車がスピードを上げて、彼女の歩く姿が拙生の視界から消える寸前に、彼女のすぐ後ろに立つ人影を認めたのでありますが、それは彼女のお兄さんであったろうと察知するのでありました。彼女のお兄さんが駅まで彼女について来ていたのでありましょう。しかしそうなら、彼女と一緒に拙生と一言でも言葉を交わしてもよさそうなものでありますが、恐らく彼女のお兄さんは気を遣って、拙生と彼女を二人だけにしてくれたものと思われます。
 拙生は体中が寂寥感に包まれたまま脱力して、暫くドアの窓から外を眺めるともなく眺めていたのでありますが、街は次第に夕闇の中に姿を消そうとしているのでありました。ドアの窓ガラスには街の風景に代わって、車内灯に背を向けた拙生の暗い顔が浮かんでいるのでありました。
 吉岡佳世に逢える夏まで、待てるかしらと拙生は考えるのでありました。今別れた彼女の姿が急に恋しくなって、拙生は次にさくら号が停まる早岐駅で降りてしまおうかと、半ば本気で考えるのでありました。これから向かう東京と云う街が、吉岡佳世が居ないその街が、そんなに魅力のある街なのかと拙生は自分に聞き質しているのでありました。しかし一年間待てばいいのだと考えなおして、拙生は何とか今の寂しさに耐えようとするのでありました。一年待てば、吉岡佳世が東京にやって来るのであります。いや取り敢えず夏休みまで待てば、彼女には逢えるのであります。その筈で、あったのですが。・・・
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅨ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 こうして拙生の、吉岡佳世が傍に居ない東京での新生活が始まるのでありました。
 これから寝起きすることになる、入り口の横に小さな炊事台のついた六畳一間のアパートに足を踏み入れると、なにもない殺風景な部屋の中には佐世保から送っておいた勉強机と、衣類やら本や小物の入った段ボールケースが四つ、それに叔母が梱包を解いて前以って一度日に干しておいてくれた布団が畳まれて置いてあるのでありました。拙生は布団を押入れに仕舞い、机を部屋の窓際の角に移動させて、旅行カバンの中から吉岡佳世に貰った写真立てを取り出して机の上に置くのでありました。勿論それには病院裏の公園で撮った吉岡佳世の写真が入っているのであります。
 彼女の写真を暫く眺めてから、荷物の片づけをしようと段ボールケースを見るのでありましたが、片づける前にそれ等を仕舞う箪笥やら本棚やら、その他不足している日用品を先ず調達しなければなりません。拙生はアパートを出て隣りの家に行くのでありましたが、そこは叔母が住まっている家屋でありました。
「おうい、来たばい」
 拙生は玄関の扉を開けると奥に居るであろう叔母に向かってそう云って、遠慮もなく廊下に上がるのでありました。奥から出てきた叔母は対面の挨拶一言の後に拙生の腹具合を心配して、昼食を支度しようかと云ってくれるのでありましたが、東京駅に着いた後、地下街の饂飩屋に立ち寄ってもう済ませた旨拙生は告げるのでありました。これから駅前の商店街まで出かけて家具やら電化製品、それに思いついた小物等を購入に行って来ようと思うのだがと話すと、そんなら序でもあるからと叔母は拙生の買い物について来てくれるのでありました。
 成程買い物慣れた叔母がついて来てくれなければ、ハンガーが八つばかりついた洗濯物干しや炊事場で使う食器の水切りとか、屑籠に箒に塵取り、箪笥に入れる虫除けやら冷蔵庫の脱臭剤と云った類は、拙生一人で買い物に来ていたら到底購入しようとすら思わなかったでありましょう。もしこの後に足りないものが出てくれば、叔母に貸して貰うか追々買い足すことにして、今日はこれで充分であろうと拙生が提案するのは、叔母の買い物もあわせてそうは多く、手に持って帰れそうにないからでありました。そう云った小物を買う前に、小ぶりな洋服箪笥にファンシーケース、小さな冷蔵庫と電気炊飯器、小型の白黒テレビ、テーブル代わりにも使う電気炬燵やスチールの本棚と云った大物も購入したのは当然でありますが、これは後日店が配達してくれることになるのでありました。それに「色々揃うまで不自由やろうから、食事とか風呂とかは暫くウチでするようにしたらよかよ」と云う叔母の厚意まで手に入れたのが、存外の収穫であったと思うのでありました。
 この叔母の御亭主は、まあ拙生の義理の叔父でありますが、東京の在の人でサラリーマンをしているのであります。拙生が今度入る単身者用のアパートを隣りに持っていてその上がりも考えると、叔母に云わせればそうあくせくと働かなくても食ってはいけると云う身分の人であります。義叔父は何ごとにも鷹揚な風で、拙生にも何時も優しく接してくれるのでありました。叔母夫婦には息子が一人居て、これは当然拙生の従兄でありますが、もう既に社会に出ていて、その頃は転勤で岐阜の方に住んでいるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 依って、叔母と義叔父夫婦だけの住まいに拙生がちょくちょく出入りするのも、その生活の侘びしさを紛らわす一助になろうかと拙生は勝手な解釈等して、厄介をかけることを強引に正当とするのでありました。まあ、拙生は叔母とは何故か昔から気があって、遠慮のない間柄と云う風でありましたから、その存在は拙生が東京生活をする上で元々、大いに頼りにするところではありましたか。
 買い物から部屋に帰って来ても要は先程購入した家具類が配達されて来なければ、段ボール箱の中の物を整理することも叶わないわけで、新しい部屋の片づけ作業は畢竟頓挫するのでありました。拙生は段ボール箱を部屋の隅に移動して布団を敷くスペースを確保したら、取り敢えず机の引き出しに入れる物を元在った通りに入れ直して、それでその日の整理作業を終了とするのでありました。
 暫くして叔母が鍋釜包丁、それに当座必要な一人分の食器類、それにパン焼きのトースターまで持ってきてくれるのでありました。それ等は叔母の家で今は使っていない物と云うことでありました。
「他になんか気のついたら、また持って来るけんね」
 叔母はそう云うのでありましたが、男の一人所帯にそれ程細々とした生活用品も必要なかろうし、結局拙生は使わず仕舞いに終わるからと、それ以上の供与を遠慮するのでありました。
「いやあ、そがん細々と要らんよ。オイはどうせ無精かとけんが、炊事なんかもまめにするはずのなかもんね」
「ああそうね。まあ、あんまり一杯持ってきても、狭い部屋けん邪魔になるかも知れんね。そんなら、要る物があったら、そん時に云うてくれたら持ってくるけんね」
「うん、有難う。そん時は頼むけん」
 それでも鍋釜茶碗が炊事台や棚に納まると急に生活感が出て、それなりにこの部屋が呼吸を始めたような気がしてきて、なんとなく拙生はほっとするのでありました。
 片づけ作業がそれ以上の進展を望めないのでありますから、その日の拙生の仕事はもうないのであります。拙生はそこだけはすぐにでも使えるようになった机から椅子を引き出して座り、写真立てを手に取るのでありました。銀杏の木に片手を添えて吉岡佳世が手持無沙汰になった拙生を見て笑っています。写真を見ていると、昨日佐世保駅のホームで、動き始めた列車を追うように歩きながら、此方を悲しそうな目で見ていた彼女の顔が蘇ってくるのでありました。その顔は微笑んでいる写真の彼女の顔とはまるで違って、かき抱きたくなるくらいに痛々しかったのでありました。拙生が居なくなった佐世保で吉岡佳世は今なにをしているのだろうかと考えると、狂おしいくらいに彼女に逢いたい気持ちが募るのでありましたが、それは夏になるまで叶わない思いでありました。
 拙生が引き出しから便箋を取り出してそこへ文字を綴り始めるのは、吉岡佳世に手紙を書こうと思い立ったからであります。じかに彼女の表情を見ることも出来ないし、その柔らかな唇にも細い肩にも触れることは出来ないし、彼女の声も聞くことが出来ない手紙と云うもどかしい交感手段に、拙生は一先ず熱中するのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅠ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 吉岡佳世からの手紙がその翌々日拙生の許に届いたのは、佐世保駅で別れたその日の内に彼女が手紙を認めたからに他なりません。彼女の手紙には縷々拙生との別れの悲しさが書き連ねられていて、拙生の乗ったさくら号が見えなくなって、家に帰った後も彼女の悲痛な高ぶりを自分で収められずに、その高ぶりのまま筆をとったのでありましょうが、それは昨日の部屋を片づけると云う仕事が頓挫した後の拙生の心情と、全く同じであったろうと思うのでありました。
 彼女の手紙には彼女の遣る瀬ない喪失感の他にも、その日家族で拙生の話をしたことやら数日後に待っている高校生活再開への不安やら、期待やら、目指す大学のことやらが書き記してあったのでありましたが、それは手紙の悲壮なトーンの中に埋没してしまっているのでありました。しかし拙生が彼女の悲しみに沈んだ表情以外の表情をその手紙の中になんとか見出そうと丹念に文字を追うのは、ひょっとしたら彼女を一人佐世保に残して東京へ出てきた自分に、或る後悔を感じていたからだったかも知れません。ずっと彼女の傍に居る方策は多分あったのでありましょう。例えば地元に在る大学を受験するとか、もっと云えば確信犯的に大学受験を失敗するとか。まあ詰まり、是が非でも東京の大学を選ぶ理由は拙生には恐らくなかったのであります。
 しかしそうはしなかった自分を、吉岡佳世への愛情を出来る最大限発揮しなかった卑怯者のように思いなす蟠りを、拙生は何処かに抱え持っていたのでありました。常識的な見地からするとこの拙生の云わば負い目のような感情は、勘違いも甚だしいストイシズム、或いは裏返ったヒロイズムの類であり、詰まり拙生の自大の表れなのでありましょう。しかしその時の拙生は愚かにもしごく大真面目に、吉岡佳世への後ろめたさに打ちひしがれるのでありました。なんとも幸せな人間であります。
 それにつけても吉岡佳世は新学期を無事に迎えられるのでありましょうか。その初日は無事に迎えたとしても、その後一年を通して恙なく過ごせるのでありましょうか。そう思っていたらその二日後に再び彼女からの手紙が届くのでありました。
 その手紙には拙生が、東京へ着いたその日の内に手紙を出したことへの感激と感謝とが最初に記してあって、前の手紙に比べれば少しは落ち着いた明るい色調が行間にたゆたっているのでありました。高校の始業式を無事に終えたこと、それに始業式の様子、新しいクラスのこと、佐世保駅で別れて以来まだ体調は崩れてはいないし、なんとなく今後も大丈夫なような自信が出てきたこと等がすこしおどけた調子を交えて記してあり、最後に「chu!」とあってその横に赤いペンで唇の絵が描かれているのが、拙生をデレデレと嬉しがらせるのでありました。
 勿論すぐに拙生は返事を認めるのでありましたが、それにはその日に丁度大学の入学式が日本武道館であったと云うことや、大学の新入生ガイダンスが明日から始まることとか、漸くに家具類が揃って生活感が部屋に出てきたこと、初めて経験した朝の満員電車には実に以て辟易したと云うこと等を書き連ねるのでありました。手紙を書き終えたらなにやら無性に吉岡佳世の声が聞きたくなって、そう思うと矢も楯も堪らなく、拙生は部屋を出て電話を借りるために叔母の家に向かうのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅡ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「ちょこっと電話ば貸してくれんかね」
 拙生は勝手に玄関を上がると居間に向かって声をかけるのでありました。すぐに襖が開いて叔母が出てきます。
「佐世保にかけると?」
「うん。家と、それから別の友達のところに一本」
「入学式の報告ね?」
「そう。電話代は後で清算するけん」
「そがんとは気にせんでよかとよ。ああ、家にかけるとなら要件の終わったら、その後ちょっと叔母さんに代わってくれんかね?」
「うん判った」
 拙生はそう云って玄関の靴棚の上にある黒い電話機に手を伸ばすのでありました。先ずは最初に拙生が家に電話をかけるものと思ったのか、叔母は拙生の傍に立った儘で拙生がダイヤルを回すのを見ているのでありました。そうなると吉岡佳世の家より先に実家の方に電話するべきかと考えて、拙生は自宅の電話番号を回すのでありました。
 ごく手短に入学式が滞りなく終わって明日からいよいよ大学に通う旨母親に報告した後、拙生は受話器を叔母に渡すのでありました。叔母は受話器を受け取ると「あら、姉ちゃん」とかなんとか云って、母親と話し始めるのでありましたが、叔母と母親は話自体は取りとめもないくせに、何時も決まって長電話をするので、拙生は先に吉岡佳世の家の方に電話をすればよかったかなと悔やむのでありました。
 矢張り何時も通りの長電話の様子に拙生は少々焦れて、叔母に聞こえないように口の中で舌打ちをして居間の方へ行くのでありました。居間では義叔父がお茶を飲みながら野球中継のテレビを見ているのでありました。
「おう秀ちゃん、どうだった、入学式は?」
 義叔父はそう云って拙生に座るように手で示した後に座卓の横の棚から湯呑を取り出して、拙生のためにお茶を入れてくれようとするのでありました。
「ああ、オイが勝手にしますけん」
 拙生はそう云って叔父の手から湯呑茶碗を受け取って、座卓の上の急須にポットから湯を注ぎこむのでありました。
「武道館へは、ちゃんと行けた?」
 拙生が茶を一口啜るのを待って義叔父が聞くのでありました。
「はい、新宿で山手線に乗り換えて高田馬場に出て、そいから地下鉄の東西線で九段下まで行ったら、後は入学式に行くらしか人の一杯居ったけん、なんとなくそれについて行ったぎんた、案外スムーズに着いたですよ」
 拙生の話し振りを聞きながら義叔父はニヤニヤと笑うのでありました。
「秀ちゃん、未だすっかり佐世保弁だな」
「ああ、まあだ佐世保弁以外ば喋る機会の殆どなかけん、仕方なかですね」
 拙生はそう云って頭を掻くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅢ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 儀叔父に聞かれる儘、入学式の印象やら明日から拙生が毎日通うことになる大学のこと、それに佐世保の親類の誰彼の話等していると、ようやくに電話を終えた叔母が居間に戻って来るのでありました。
「ほら秀ちゃん、もう一つ電話ばするとやったろう?」
 叔母はそう云って座卓に手をついて座るのでありました。
「うん、そんならもう一本かけさせてもらおうかね」
 拙生は叔母が座るのと入れ違うように立ち上がって玄関の方へ向かいます。居間を出る時に襖を閉めるのは別にこれからする電話での会話を、叔母や義叔父に聞かれるのを嫌ったためと云うわけではなかったのでありますが、まあしかしそう云う気持ちも、別に聞かれて疾しい内容などないのでありますが確かに少々ありはしましたか。
 突然電話などしてどうしたのかと、吉岡佳世や彼女のお母さんに妙に思われるかも知れないと云う躊躇いで、ダイヤルを回す拙生の指にはなんとなく力が入らないのでありましたが、番号を回し終えて耳に当てた受話器から呼び出し音が聞こえている間に、躊躇いよりもこれから吉岡佳世の声が聞けるのだと云う嬉しさの方が勝って、拙生はなんとなく心臓の辺りがざわつくのでありました。
「ああ、どうも夜分済みません、井渕ですが」
 電話に出た彼女のお母さんにそう告げる拙生の声は、愈々吉岡佳世と話が出来る感奮に、判らない程度ではありましょうが少し上擦っていたに違いありません。
「ああ、井渕君、元気しとった?」
 彼女のお母さんの声には、拙生からの突然の電話に少々驚いたような響きがあるのでありました。「ちっと待っとってね、今佳世と代わるけんね」
 受話器が置かれる音がして「ほら、佳世、井渕君から電話」と云う彼女のお母さんの声が少し遠くで聞こえるのでありました。それからほんの暫くして置かれた受話器が取り上げられる音の後に、待望の吉岡佳世の声が拙生の耳に飛びこむのでありました。
「井渕君?」
 そう云った後彼女の声は少し途切れるのでありました。「あの、ええと、・・・どうしとったと?」
「うん、まあ別に普通に、しとったばってん」
「もう、吃驚した。電話のかかってくるて、思いもせんかったから」
「ちらっと、声ば聞きとうなったけん、それで」
「公衆電話?」
「いいや、叔母さんの家からかけさせて貰うとると」
「ああ、そう。・・・」
 思いもしなかった拙生からの電話だったのでありましょう、吉岡佳世は混乱してその後に何を話していいのか判らないと云った風でありました。ほんの少しの沈黙に、彼女が少々うろたえているその気配が受話器から伝わってくるのであります。拙生としても久しぶりの彼女の声に大袈裟に云えば感動して、何を話せばいいのか判らないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅣ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「どうや、最近の体の調子は?」
 拙生は気を取りなおして、そんな言葉を吉岡佳世の耳に送るのでありました。
「うん、大丈夫、平気」
「あの日、駅から帰った後も、大丈夫やったか?」
「うん、なんともなかったよ、体は」
 ここでまた少し言葉が途切れるのでありました。
「新学期の始まったとやろう、手紙に書いてあったけど?」
「そう、もう始まった」
「どがんや、新しかクラスは?」
「うん、そうね、まだ、余所々々しか感じ。その内皆打ち解けてくるては思うけど」
 これは彼女の手紙に書いてあったことをそのままなぞるような言葉でありました。
「担任は誰に、なったとやったかね?」
 新しい担任の名前も彼女の手紙に書いてあったのでありますが、拙生は既に判っていながらそんなことを聞いているのでありました。その拙生の問いに吉岡佳世は手紙の通り、昨季の我々の数学の担当だった教師の名前を云うのでありました。なんとなく面白味のない、印象の薄い先生でありました。
「坂下先生とは、違ったばいね」
「坂下先生は、一年生のクラス担任にならしたと」
「今度の新しかクラスでも、担任が坂下先生ならよかったとにね」
「うん。でも始業式の日に態々あたしの傍に来て、声ばかけてくれたとよ。なんかあったら遠慮なく相談に来てよかぞ、て」
「今度のクラス担任よりは、色々事情の判っとらすけんね、坂下先生は。お前もこの一年、何かにつけて相談に乗って貰うた方がよかばい」
「まあ、そうやけど。でも坂下先生も新しかクラスば持って、色々大変やろうし」
「ばってん、今度の担任よりは、絶対頼りになるて思うばい」
「うん、まあ、なんかの時は、坂下先生に、相談に乗って貰う積りではいるけど」
「そいが良か。ま、特段何もなかことば祈っとるけどさ」
「そっちはどう、大学の方は?」
 吉岡佳世が話題を変えます。
「うん、今日が入学式やった。明日から健康診断とかガイダンスとか始まる予定」
「入学式はどうやった?」
「人間のうようよ居って、気疲れしたばい。マンモス大学けんね、ウチの大学は。ほら、コンサートとかようやる日本武道館であったとばってん、高校の入学式と違うて、如何にも入学式て云う雰囲気は全然なかったぞ。新入生がクラスごとに演壇の前に並ぶとか云うとじゃなくて、皆来た順に適当に席につくし、二階席とか三階席とかもあるし、学生服ば着とるヤツなんか殆ど居らんし。まあ、オイも学生服は着て行かんやったばってんが」
 拙生は入学式の様子をそんな風に紹介し始めるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅤ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「オイは少し遅う行ったから、二階席の端に座っとったけん、当事者て云う感じの全然せんやったばい。何処かの式典の単なる観客て云う雰囲気やった。態々行くこともなかったて後で思うたぐらいぞ。入学式の後に何か大事なもんば渡されるて云うこともなかったし、実際、絶対に参加せんばんばならんて云うとじゃ、なかったごたるし」
「ふうん。高校とは違うとねえ、入学式も」
「その代わり、北の丸公園とか、皇居のお堀の景色とかは、なんとなく感じの良かったばい。満開の桜の咲いとって、風の吹くぎんた、花弁がお堀に吹雪のごと散ったいしてね。入学式の終わった後で、ちらちら散歩してきた。来年、連れて行ってやるけんね」
「うん、楽しみにしとく」
「そう云えば武道館に入る門の処で、ヘルメットば被った学生の、なんやらビラば配りよったぞ。そいで、なんか横断幕とか旗ば持って、なんとかなんとかてシュプレヒコールば上げよった。なんて云いよっとか、さっぱり判らんやったばってん。門の中には機動隊の居ってくさ、ちょっと小競りあいとかもあって、緊迫した感じも少しあったぞ」
「ふうん、佐世保じゃちょっと考えられんね」
「エンタープライズの入港した時、佐世保でも機動隊と学生の衝突したけどね。尤もそん時は小学生やったし、街に出たらダメて学校で云われとったから、実際はテレビでしか見とらんけど。まあ、今日のは、あがん大規模な衝突じゃあ、全然なかったばってん」
「ふうん。ところで井渕君、友達はもう出来た?」
 吉岡佳世が急にそんなことを聞くのでありました。
「いやあ、まあだ誰とも話す機会のなかけんねえ。明日辺りからクラスのヤツとかと、ちょこっと話ばすることもあるやろうけどね。ばってん、クラス単位の講義とかは、そがん多かわけじゃなかけんねえ。未だ、なんにつけても勝手の判らんけん、誰か話すヤツの一人位居った方が心強かとは思うけど」
 拙生はそんなことを喋りながら、大体この電話は吉岡佳世の声を聞こうと思ってかけているのであって、拙生の方が多く喋るのは本意ではないのだが等と思うのでありました。
「あたしの方も、友達て云うか、親しくなった人は未だ居らんよ。まあ、去年の体育祭とかで、なんとなく見知った人は、クラスの中にも居らすけど」
 拙生の話に誘発されたのか、吉岡佳世も自分の様子を語り始めます。「尤も、理由にもならん理由やけどさ、クラスの人は皆、この前まで下級生やった人達やろう、だからなんとなくあたしから、親しく話しかけるとは、ちょっと尻ごみしてしまうの。そんな尻ごみなんか、本当はせん方が良いに決まってるとけど」
 確かに吉岡佳世の新しいクラスの中には、彼女が彼等の中の数人の顔を見知っているのと同様に、彼女のことを知っている者もそれは居るでありましょう。この前まで上級生であった吉岡佳世が卒業しないで、一級下の自分たちのクラスに混じっているのを奇異に感じたり、好奇の目で眺めるであろう輩も屹度存在するに違いありません。彼女にはその辺りが辛いかも知れません。自分の方から自分を曝け出して彼等の中に入って行くと云う積極性等は、性格からすれば如何にも彼女には縁遠い態度でありましょうから。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅥ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 拙生は彼女の傍に居てやれないのがとても悔しいのでありました。こう云う時に傍で力になってやれる者こそ、彼女にとって必要な人間と云うものではないのかと考えて、拙生は電話のこちら側で苦い顔をしているのでありました。
「ま、その内慣れて、あたしもクラスの人と、段々喋るようになると思うから、井渕君、あんまり心配せんでね。心配させる積りで、云うたとやないけんね、今のは」
 吉岡佳世はそう電話の向こうで快活な声で云うのでありました。
「もしなんかあったら、何時でん、手紙でも電話でもよかけん、オイに連絡ばくれたら、まあ、遠くでなにも出来んけど、一番真剣な相談相手にはなるけんね」
「うん、有難う。頼りにしてる。手紙一杯書くけど、煩わしいとか思わんでね」
「当たり前くさ、どんどん手紙ばくれよ」
 拙生はそう云いながら、しかし矢張り手紙と云うもどかしい道具しか彼女との交通手段を今は持っていないのだと、離れてしまった二人の間に横たわる距離と云う苛立たしい障害を実感するのでありました。
「もう、あんまり長くなると、電話代の高うなるから」
 吉岡佳世は拙生の電話代を気遣うのでありました。
「うん、そいでも、この電話は、叔母さんの家からかけさせてもろうとるとけんが、叔母甥の仲で、少しぐらいは電話代の方はまけてくれるて思うけど」
「それでも、叔母さんに悪いけん」
「うん、まあ」
 それは確かに、その通りなのでありました。
「じゃあ、この位で切るね」
「うん。・・・ああ、それから、若し緊急の用件が出来たいしたなら、この電話にかけてくれたら、すぐにオイに話の通じるけんね。電話番号は、前に教えとったやろう?」
「ちゃんと、聞いてる」
「電話するとば、遠慮せんでもよかとけんね、こっちは叔母甥の仲けんがね」
「判った。そんじゃあ」
「うん、そんじゃあ」
 拙生は吉岡佳世が受話器を静かに置く音を聞いてから電話を切るのでありました。なまじ彼女の声を聞いたものだから、電話を切った後に彼女に逢いたいと思う気持ちが電話をする前よりも余計に強くなるのでありました。
 拙生は叔母と義叔父の居る居間に顔を出して、電話を借りた礼と、電話代を後で請求してくれと申し出るのでありました。
「そんなのは、いいよ別に。何時でも必要な時に使って構わないから」
 義叔父がそう云って笑いながら何度か手を横に振るのでありました。
「それより秀ちゃん、まあだご飯は食べとらんとやろう?」
 叔母が聞くのでありました。「ウチもこいからけんが、一緒に食べていきなさい」
 叔母は拙生に手招きをするのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅦ [枯葉の髪飾り 6 創作]

「ああ、有難う。こいから駅前の商店街まで行って、ラーメンでも食ってくる積りやったとけど、そんなら折角けん、そがんさせて貰おうかね」
 拙生はなんとなく電話の後に人恋しくなってしまって、このまま部屋に帰って一人で過ごすのも遣る瀬ない気がするものでありましたから、渡りに船と叔母の厚情に甘えるのでありました。
「そうだよそうだよ、夕飯がラーメンと云うのも、如何にも侘びしいから」
 義叔父がそう云って叔母と同じに手招きするのでありました。
「なんかいつまででん、甘えとって申しわけなかですねえ」
 拙生は義叔父に云うのでありました。「明日からはちゃんと、あんまい世話ばかけんごと、一人でなんでんしますけん」
「そんな生真面目なこと云わなくていいって」
 義叔父が笑って首を横にふるのでありました。
「この子は前から、姉さんとかあたしなんかに似なくて、妙に律義なところがあったものねえ。屹度秀ちゃんのお父さんの方の血ね、そう云うところは」
 叔母が義叔父に向って云ってから立ち上がるのは、これから夕飯の支度に取りかかるためでありましょうが、拙生と話す場合とは違って、当然のことではありますが義叔父との会話は佐世保弁ではないのでありました。
 実は東京へ出てきてから拙生が一人で夕食を摂ったのはまだ一度もなくて、総て叔母の家でよばれているのでありました。鍋釜や包丁にまな板、茶碗に皿に湯呑まで叔母から供与して貰っていたし、塩醤油の類も揃ってはいて、小ぶりながら冷蔵庫もちゃんともう部屋に届いていると云うのに、拙生が自らの手で食材を買い揃えて調理なるものをしたことはまだ一度もないのであります。駅前の商店街をぶらぶらするのはそんなに嫌いではないのでありましたが、スーパーや肉屋野菜屋で食材を買うよりは、拙生は本屋やレコード店とかの前に多く立ち止まるのでありました。まあ、大学が始まれば然程に叔母の料理に頼ることもなくなるであろうとは思うので、これが一区切りと云う積りで、その日は遠慮なく叔母の手になる夕食の湯気を顔に浴びている拙生でありました。
 アパートの部屋へ引きあげてきて、静まった空気が妙に心細さを増幅させるような感じがするのは、やはり先程吉岡佳世と電話で話した反動でありましょうか。拙生は部屋の隅に置いた白黒テレビをつけて、そこから漏れてくる音で侘びしさを紛らわそうとするのでありました。しかしテレビを見ると云うわけではなくて、拙生は机の前に座って吉岡佳世の姿が納まった写真立てを手に取るのでありました。銀杏の木に片手を添えた吉岡佳世が、屹度寂しそうな顔をしているであろう拙生を見て微笑んでいるのでありました。
 彼女も今頃佐世保の自分の部屋で拙生の写真を手にして、拙生と同じ顔をしているのかも知れません。未だ話をする者も居ないクラスで、入学が一級下になる連中に混じっている彼女の心細さや孤立感は如何ばかりかと思うのでありました。手紙や電話以外の、なにか彼女を励ますことの出来る手段はないものかと考えるのでありましたが、もどかしくも拙生にはこれと云ったものがなにも思い浮かばないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅧ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 大学が始まると、健康診断やらガイダンスやらの行事と伴に講義の方も開始されるのでありました。外国語とか体育実技とか必修専門科目は別として、自分で選ぶ選択科目を指定単位数分取るために先ずは色々な講義を聴きに行く必要があって、今にして思えばその入学後の一か月間が、初めてのことで気合も入っていたし、慣れないために要領も悪かったせいでもありますが、四年間の大学生活の中で最も頻繁に講義に出席した期間のような気がするのであります。欲張って他学部の講義を履修しようとしたら、普段通っている教養課程のキャンパスではなくて、電車を乗り換えて四十分はかかる本校のキャンパスまで通わなければならない場合もあるのであります。高校よりは大学の方が諸般のんびりしているであろうと云う先入観を持っていたのでありましたが、その先入観よりは遥かに忙しい大学生活が始まったのでありました。しかし高校とはまるで違って自分の裁量で講義を選んで、後日自分の決めた受講スケジュールを大学に提出すればよろしいと云うのは、如何にも新鮮で自由で大人びた制度であるようにも思うのでありました。
 講義で一緒になる何人かとも言葉を交わすようになって、彼等と講義の合間に喫茶店へ行ったり学食で昼食を共に摂ったりするようになると、大学通いにも多少の楽しみのようなものも生まれて、拙生は新しいこの大学生活と云うものに次第に馴染んでいくのでありました。矢張り新しい場所に来たら、新しい知人を早く作るのがそこに慣れる第一の方策であるのかも知れません。吉岡佳世の方はもうクラスの中で冗談が云えるような友達が出来たかしら等と考えながら、拙生の方は新しい友人達と学食や喫茶店や、時に夜の飲み屋へ誘われて行って、ふざけあいながら軽口を交わしているのでありました。
 新しく出来た友人達でよく行動を共にするのは四人程で、長野出身の二浪して大学に入った一人を除いて、後の三人はどうしたものか皆東京近郊で生まれ育ったと云う奴原なのでありました。その長野のヤツはそう変な方言等は口走らないのでありますが、拙生は一応気をつけて方言を控えて言葉を使おうとするものの抑揚が丸っきりの佐世保弁で、時に「なに云ってっか判んねえよ」等と云う苦情を彼等に献上されるのでありあました。しかしそれ程器用な方ではない拙生でありますから、そんな苦情はとんと気にせず佐世保弁混じりで「じっくり聞いとればその内慣れて、ちゃんと判るようになるくさ」等と莞爾として云い放つのでありました。しかし成程連中は都会育ちなのでありましょう、飲み屋や喫茶店で物を注文したり、キャンパスで不意に知人に遭遇したりする時の振る舞い、それになんでもない電車の中での立ち方のようなものにも、皆共通に挙動にさらっとしたもの慣れた身のこなしと、同時にある種の抜け目のなさと云うのか油断のなさと云うのか、そんな様子を両方完備しているように拙生には見えて、それはとても拙生ごとき田舎者が俄かに真似の出来る代物ではないのでありました。
 こう云ったことどもを、拙生は吉岡佳世にせっせと手紙で知らせるのでありました。なるべく文面を明るく、惚けた表現等も駆使して面白おかしく書くのに努めるのは、彼女の気持ちをなんとか浮き立たせたいとの魂胆からであります。彼女からも手紙が三、四日置きに届くのでありましたが、しかし彼女の手紙には学校とかクラスでの彼女の様子に関することは、あまり捗々しくは記述されていないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅨ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 吉岡佳世からの手紙には相変わらず拙生に早く逢いたいとか、拙生の居ない学校はなんとも詰まらないとかの文が散見されるのでありました。しかしそれは最初の、駅で離別したすぐ後の手紙の悲壮感は次第に薄れてきて、まあ、そう云った文言はある種の挨拶のような色あいになっているのでありました。手紙全体の色調は落ちつきを見せていて、明るい表現やら面白い云いまわし、文をすこしふざけた語尾で結んだり、カタカナの擬音が挿入されていたりとなかなか賑やかでもあり、唇やハートや色々な絵も赤や青のペンで行末に描いてあったりするのを見ると、こう云った文面は男の拙生にはなかなか書けないものであると感心したりするのであります。寂しくはあるけど、それなりに佐世保で元気に過ごしている様子を拙生に伝えようとしている彼女の心根が見えるようで、拙生はその点は吉岡佳世の意を充分に汲み取ることが出来るのでありました。
 しかし矢張り文通が重なっても、学校での彼女の様子と彼女の体調に関しては、なかなか明瞭な描写がないのでありました。滞りなく高校生活を送っているとか元気で過ごしているとは必ず記してあるものの、それを証する殆どの具体性が省かれていて、或いは不足していて、彼女の心根にも関わらず、なんとなくその表記に彼女の実感が伴っていないような気がするのでありました。そうと気づいたら少々彼女のことが心配になってきて、拙生は彼女からこれまでに受け取った手紙を何度か読み返して、彼女の手紙の文面に現わされない情報を探ろうとするのでありました。これが全くの拙生の取り越し苦労の類であれば、それはそれで拙生は胸を撫で下ろすだけでありますが。
 拙生は吉岡佳世の生の声を聞くことで、この拙生の心配が無用なものであることを確認したいと思うのでありました。しかし叔母に頼んで彼女の家に電話をかける無遠慮もそうそうは憚られるし、またそうやって、彼女の家に態々遠距離電話を入れる当為性にも欠けるところがあるような気がするのでありました。拙生は叔母の家の玄関で靴箱の上に載っている黒い電話機を見ると必ず、これから彼女に電話をかけたいと云う衝動に駆られるのでありましたが、それへ延ばそうとする拙生の手は躊躇いのために受話器から数センチのところで止まってしまうのでありました。
 当面、手紙しか拙生にはないのでありました。拙生は彼女の学校での様子や体調に関して具体的な彼女の記述を引き出そうと、やれ恒例の新入生歓迎の式典があったと思うが彼女のクラスはそこでなにかやらなかったのかとか、もしやったのなら彼女はその中で活躍しなかったのかとか、受験のための補習授業が放課後に始まっていると思うが夫々の教科の担当の先生は誰なのかとか、その先生の中に好き嫌いはあるかとか、病院裏の公園には時々行くのかとか、銀杏の葉の茂り具合はどうかとか、病院へは今はどの位の間隔で通うようになったのかとか、そんな質問ばかりが多い手紙を書いているのでありました。
 しかしながら彼女は一々それに応答するものの、やはり具体的な描写の少ないその文面からは彼女の活き々々した姿や、笑い声や、或いは戸惑いの表情や、または尻ごみする様子と云った血の通った像は充分には感得出来ないのでありました。まあそれでも、こうして頻々と手紙を送ってくれるのは当面恙無い証拠とも云えるかもしれない等と、兎も角も一応の安心を得るために拙生は強いてそんな風に考えることにするのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 五月になって本格的に大学の講義が始まったこともあるし、新しく出来た友人達と更に親交が深まったこともあって、拙生はそれなりに充実した東京での時間を過ごすようになるのでありました。高校のような窮屈な規則も親の庇護或いは監視の目もない生活の快適さは、総てを自分でやらなければならない食事や洗濯や掃除と云った家事の煩わしさを差し引いても、未だ大いに余りがあるように思えるのでありました。
 講義にしても朝八時半からの一時限目からの講義は週の内四日程で、後の二日は十時より後に大学へ行けば良いのだし、講義と次の講義までに二時間程空きがある日もあって、高校の授業に比べればなんとも悠長なスケジュールなのであります。それに宿題等と云う無粋なお土産も、出ることは先ずないのでありますし。無精から朝食は抜きにして昼食は学食でそこそこ満足いく食事を安く摂ることが出来るし、夕食も、やってみて判ったのでありますがそんなに料理を苦にしない性質のようで、学校帰りに駅前の商店街で適当に食材を購入して帰って自炊をすれば、安くて量的には充分納得出来る程を摂取出来るのであります。友達に誘われれば、一定の金額の範囲ではありますが好き勝手な夕食を彼等と一緒にして、その後は何時まで遊んでいても誰に文句を云われることもないのであります。
 夜中に腹が減れば買い置きのインスタントラーメンを啜れば済むし、何時までも起きていてテレビを見たりラジオを聞いたり、朝まで本を読んでいようとも誰かに小言を貰うわけでもなく、眠たくなれば布団を引いてごろんと横になるだけであります。こんな気儘な一人暮らしは高校時代には考えだに出来なかったことでありましたから、拙生は大いに新しい生活に満足するのでありました。これで吉岡佳世が身近に居てくれたなら、拙生はなにも云うことがないのでありました。
 それも、一年の辛抱であります。一年待てば吉岡佳世は東京にやって来る予定であります。彼女は豪徳寺に住むことになるのでありましょうか。拙生のこのアパートの近所に彼女が新しい居を構えてくれれば、拙生としては大いに嬉しいのでありますが、しかし女の子の一人暮らしはなにかと心配でもありますか。それに彼女は体が弱いのでありますから、豪徳寺の親類の家に寄宿する方が無難かもしれません。彼女の住まいが豪徳寺と云うことになっても、それでも拙生のアパートからは目と鼻の先と云うものであります。
 拙生が豪徳寺の彼女の親類の家を訪うと云うのも、まあそんなに頻繁ではなく時々はあるかも知れませんが、なんとなく気が引けるところもありますから、主には彼女にこの拙生のアパートに来てもらうことと致しましょう。ここを拠点にあちら此方と出かけたり、或いはこのアパートの中で二人で気兼ねない時間を過ごすことになるのであります。偶には食材を一緒に買い出しに行って、一緒に料理を作って夕食を共にするのであります。屹度彼女は悠長なスピードで食事をするに違いありません。拙生はハイスピードであります。しかし彼女がどんなに悠長でも誰に気遣いする必要もないのであります。拙生は彼女の食べっぷりをニコニコと笑いながら見ているのであります。
 一年後に展開するはずのそんな光景を拙生は好き勝手に想像しながら、ラジオから流れる音楽を一人で聴いているのでありました。拙生の性懲りもないこのお先走りの妄想が、思えば今までの、それにこれからの、拙生の落胆の総ての基なのでありますが。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 吉岡佳世から来る手紙が、滞るようになるのでありました。それまでは三、四日置きに来ていたものが一週間に一通となり、時には十日も来ない場合があるのでありました。拙生は心配になって此方からは週に二通は出すのでありましたが、なにやら手紙を出す頻度を彼女のペースに合わせないのは、拙生がもっと手紙を寄越せと督促しているような感じで、彼女にはひょっとしたら負担かも知れない等とそんな考えも一方にあるにはあったのでありましたが。
 確かに、それ程頻々と言葉を遣り取りする要件は特段なにもないのでありますから、話題には事欠いているのでありました。しかし彼女の手になる文字と彼女の触った封筒や便箋を受け取ることが拙生には嬉しいのでありましたし、彼女の方もそうであろうと勝手に思っていたから、彼女からの手紙の疎隔は拙生にはかなり不本意な事態でありました。
 手紙を書く間隔を空ける何らかの理由が彼女に生じたのでありましょうか。ひょっとしたら遠くに離れてしまって、少々時間も経って、拙生の像が彼女の中で委縮したのかも知れないと考えると、拙生は焦燥のために身悶えする程でありました。まさかそんなことはなかろうと一人頭を横にふるのでありましたが、他人の気持ちと云うものは測りがたいものでありますから、彼女の気持ちの変化と云うものも考えられる理由の一つでは、確かにあるのでありました。
 まあ、そう云った気持ちの問題ではなくて物理的な要因も考えられるのでありました。学校での受験補習授業で手一杯のため、そうそう拙生に手紙を書く時間がなくなってしまったとか、或いは此処に来て彼女の体調が思わしくないとか。・・・
 彼女の手紙は変わらずふざけた語尾や云いまわし、それにカタカナの擬音や可愛らしい色つきの吃驚マークとはてなマーク、唇やハートの絵が満載されているのでありましたし、前の手紙と文の調子も内容も特に変化した形跡は認められないのでありました。しかし当然のことながら手紙が滞るはっきり判るような理由らしきことも勿論書かれてはいないから、拙生は余計不安になるのでありました。行間に彼女の真意或いは出来した理由の小さな痕跡かなにかがないものかと、彼女の手紙に学校生活の具体的な描写がない理由を探った時のように、拙生はそれを何度も構文分析的に読み返そうとするのでありました。しかしこれは分析とは名ばかりで、結局拙生の中であれこれ理由を勝手に忖度する以上のことではありませんから、確たる解答が導き出されるわけもありません。ただ焦燥と気懸りを増幅させるだけの徒労とは判っているものの、しかし彼女からの手紙を睨みながら拙生はそうしなければいられないのでありました。
 拙生はそんな自分の動揺や不安や、もっと云えば彼女への不信感のようなものを極力、此方からの手紙の文面に表わさないように努めるのでありました。そうやって彼女に負担を求めるのは礼儀の上からも、それに彼女への愛情が不変であることの自分への証明の上からも、不穏当な仕業であると思うからでありました。彼女からの手紙が滞っても拙生が相変わらず週に二度の割で手紙を出すのも、同じ気持ちからでもありました。しかし拙生の手紙の文字と文字の間に、それに、出す頻度を変えない拙生の態度に、そう云った拙生の気持ちの粟立ちが、意図に反して表象されていたかも知れませんが。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 その内にようやく手紙を出す頻度が落ちた理由を明記してある手紙が、吉岡佳世から届いたのでありました。その手紙で拙生は自分の焦りや不安や彼女への猜疑が、如何に的外れであったかを思い知るのでありました。それどころか、今までの焦燥と心配とは比べものにならない位の衝撃を受けて、激しく動揺することになったのでありました。
 彼女からの手紙には先ず、このところ手紙を出す間隔が空いてしまったことへの謝罪が記してあるのでありました。文字が何時もの手紙のおどけた調子をすっかり失くしていて、如何にも真面目な表情をしているのでありました。便箋を開いた瞬間にすぐに察することの出来る緊張感に、拙生は少し気持ちがざわつくのでありました。
 彼女は体調を崩していたのでありました。手紙は、病院から出されたものであったのでした。吉岡佳世の手紙には、驚かすことになるかも知れないけれどと先ず前置きがあって、五月になってからの彼女の体調の推移が、淡々と記されているのでありました。「今まで肝心なことを知らせずにいて、本当にご免なさい」と云う文字に、拙生は思わず身を震わせるのでありました。
 五月初めの或る朝、急に彼女は激しい咳で目を覚ますのでありました。視界が茫と霞んでいるのは高熱のせいで、とても起き上がれる状態ではないのでありました。ちっとも部屋を出てこない彼女を不審に思って彼女のお母さんが部屋に行ってみると、彼女は喉から風が隘路を吹き通るような音を発して虚ろに目を開いているのでありました。彼女のお母さんは動転して彼女の名を呼ぶのでありましたが、彼女は捗々しい反応を示しません。未だ出勤前の彼女のお父さんを呼んで、取るものも取り敢えず、救急車で彼女を病院に搬送するのでありました。
 彼女が体調をこれ程崩す顕著な兆候は前日には何もなかったのでありました。なんとなく気分が昂ぶっている感じはあったのでありますが、それが高熱を発する前ぶれであるとは彼女は考えもしなかったのでありました。
 病院に運ばれた当初は肺炎であろうと云う診断でありました。肺の機能が万全でないことは知れていたことではありましたが、ここにきて毎日の通学や受験勉強の緊張で知らず知らずの内にそれを酷使していて、ひどく過敏になっているところに恐らく何らかのウイルスの侵入があって、急激に気管支と肺に炎症反応が出たのであろうとのことでありました。彼女はその儘入院となったのでありました。
 心臓手術のその後の経緯との兼ねあいをも見ながら抗生剤の投与等の処置で、彼女が危険な状況を脱したのは三日の後でありました。熱は引いて咳もほぼ治まったものの、彼女は衰弱してなかなか食事も思うように摂れないのでありました。それに原因は判らないのでありますが、彼女の白血球の数値がひどく低下していて、ウイルス等の感染防止のために病室以外に出ることが出来なくなるのでありました。これはなんらかの薬の副作用かも知れないけれど、判然とはしないと云うことであります。そのこともあって、彼女はほぼこれまで一月、入院生活を送っているのでありましたし、まだそれは続いているのでありました。白血球の数値が一定程度まで回復しないと、退院は無理だと云うことで、今はそれを期して加療しているのでありますが、なかなか一進一退の状況であるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 吉岡佳世からの手紙が滞りがちになったのはそのせいでありました。彼女は拙生に頻々と手紙を出せるような状態ではなかったのでありました。滞りがちになって以来の彼女の手紙は総て病院で書かれたものであったわけであります。手紙など書いている場合ではないのに、それでも彼女はなんとか拙生に手紙を書いてくれていたのであります。それも心配をかけまいとして入院の事は秘して、いかにも何時も通りの明るい手紙をであります。しかし入院が長引くような気配に遂にこの儘伏せているわけにもいくまいと、これまでの経緯を期した長い手紙をようやくに送ってくれたのでありました。
 そうとは知らず焦燥や不安や猜疑に我を忘れてかまけていた拙生は、事情が判明してひどい自己嫌悪に陥るのでありました。彼女の苦しみにまったく思い至らないで、あろうことか彼女の拙生に対する心を疑いすらしたのであります。拙生は彼女に済まない気持ちで胸が張り裂けそうでありました。いくら知らされていなかったので無理はないと云われようとも、拙生の悔悟は拙生を容赦なく鞭打つのでありました。
 しかし彼女の体は、本当に大丈夫なのでありましょうか。吉岡佳世は今また、高校へは通えなくなっているのであります。彼女の状況は大変な心臓の手術を経ても、手術以前とほとんど何も変わってはいないと云うことになるのであります。
 彼女は来年、大学進学のために東京へ出てくることが本当に出来るのでありましょうか。いやその前に、高校をちゃんと卒業出来るのでありましょうか。それよりなにより、今度の入院はその後に間違いなく退院出来るのでありましょうか。
 考えれば考えるだけ幾層にも積み重なっていく心配に、拙生は途轍もない疲労感に襲われていくのでありました。彼女と計画した来年からの楽しかるべき二人の東京での学生生活の夢が、なにやら拙生の手の届くところからかなり隔たった位置にみるみる後退して行くのでありました。
 悪くして、万々が一、彼女とのこの夢が実現しないとしても、それでも彼女が佐世保で息災で居てくれて、拙生が帰った時には逢ってあの病院裏の公園で、二人で楽しい時間を過ごせるのなら、それでもいいとしましょう。彼女と外での逢瀬が叶わないとしても、彼女の家で前のように二人で過ごす時間を持てるのなら、それだって仕方がないかも知れません。この先も彼女と逢うことが出来るのなら、彼女の実在をこの手や唇で感じることが出来るのなら、言葉を交わすことが出来るのなら、彼女の笑い声さえ聞くことが出来るのなら、いや、顔をさえ見ることが出来るのなら、・・・最悪の事態さえ出来しないのならば、それでも拙生は構わないと思うのでありました。
 便箋を封筒に仕舞って、吉岡佳世からの手紙を机の上に置いて、拙生は彼女の写真が入った写真立てを手に取るのでありました。写真立ての中の彼女が笑っています。それは「大丈夫、そんなに心配しないで」と拙生を慰めているようにも見えるのでありました。またその一方で、その笑顔が拙生にたった一つ残されるのかも知れない、彼女の笑みの跡形であるようにも思えてくるのでありました。拙生は写真に、屹度頑張れと心の中で言葉をかけるのでありました。また絶対元気になって、見違えるように元気になって、オイとお前は夏に、佐世保駅で笑いながら再会するとばい、と呼びかけるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 或る夜どうしても不安を抑えきれずに、拙生は叔母に電話を借りて彼女の家に電話をしたのでありました。電話に出たのは彼女のお母さんでありました。
「ああ、井渕君」
 そう云う彼女のお母さんの声は、何時も聞いていた声とは違って暗く沈んでいるのでありました。それにどこか拙生に対する今までの気安さが微妙に脱色されているような風で、感情の冷えを湛えているように感じられるのでありました。拙生はこの前吉岡佳世から再び入院した旨の手紙を受け取ったのだが、その後の経過はどうなのかと、彼女のお母さんの第一声から察すれば、良好と云う経過説明は先ず聞けないだろうと悟るのでありましたが、しかし一縷の望みを期して質すのでありました。
「今度は肺に、重か病気の出とるとよ」
 彼女のお母さんはそう云った後、次の言葉を飲みこむのでありました。拙生は彼女のお母さんのこの沈黙で、吉岡佳世の容態がかなり悪いことを理解するのでありました。本当は前の心臓の手術の後すぐに、肺にごく小さな異変があることは、家族には知らされていたと云うことでありました。しかしそれは今後の適切な処置で、充分克服できるものであろうと云うことであったそうであります。
 細気管支肺胞上皮の腫瘍、と彼女のお母さんは云うのでありました。それは今回の入院に際して、改めて吉岡佳世に付与された病名なのでありました。拙生は医学的な知識がないものでありましたから、その病気がどのようなものであるのか、名称を聞いただけではまったくイメージが湧いてこないのでありました。拙生はもう一度彼女のお母さんからその病名を聞き質して、電話機の傍らに置いてある小さな紙片に書き止めるのでありました。今度は肺を守るために、ひょっとしたらもう一度、吉岡佳世の体にメスを入れことになるかもしれないし、それはまだ不確定であると、再度病名を云った後に彼女のお母さんは続けるのでありました。
 電話の最中に彼女のお母さんが声を詰まらせてみたり、時に長すぎる沈黙をしてしまうところから、彼女の今回の入院が予断を許さないものであろうところは、充分に判るのでありました。拙生は、一気に追い詰められたような気分になるのでありました。
「どがんね、そっちの方は?」
 電話の最後の方で話題を変えるように彼女のお母さんは拙生の近況を尋ねるのでありましたが、勿論それは明るい話題でこの拙生からの電話を締め括ろうとする、彼女のお母さんの配慮からのものでありましょう。拙生は大学にも東京暮らしにも大方慣れたし、新しい友達も出来たと簡単に近況報告をするのでありました。しかし髪型も服装も前と殆ど変わらないし、それに水商売のアルバイトはやっていないとも云い添えるのでありました。
「それじゃあ、体に気をつけてね。夏休みに逢えるとば、楽しみにしとくけんね。そん頃には、佳世が元気になっとるぎんた、よかとやけど」
 彼女のお母さんはそう云って受話器を置くのでありました。拙生は吉岡佳世の病名を記した紙片を掴むと、電話を借りた礼を云うのもそこそこに叔母の家を出てアパートの自室に戻るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 拙生が早々に叔母の家を後にしたのは、この電話の後に叔母や義叔父と悠長に話をする気にはとてもなれなかったためでありました。しかし自室に帰っても、細気管支肺胞上皮の腫瘍と云う病気がどのようなものであるかを調べる資料や手立てが、拙生の部屋にはなにもないのでありました。拙生は机に吉岡佳世の病名を記した紙片を置いて、写真立てを手に取るのでありました。
 不意に、以前、隅田が云った言葉が頭の中に蘇るのでありました。それは、大変な手術だったのだから、経過中に起こる色々な不測の事態も、云ってみれば完治に至る過程での、あり得る範囲の紆余曲折であろう、と云った意味あいの言葉でありました。確か吉岡佳世の心臓の手術後、経過が思わしくなくて、くよくよしている拙生を励まそうとした言葉でありましたか。拙生は突然思い出したその言葉に、両手で縋ろうとするのでありました。
 矢張り、重篤な病気を抱えた一人の人間が完治をかち取るまでには、それ相当の苦労と時間がかかるものなのでありましょう。今度の吉岡佳世の新たな肺の病状にしても、長い時間の軸で考えれば、すっかり彼女が健康を取り戻すための、経過での、あり得る範囲の紆余曲折であるのかも知れません。拙生には、そう考えるしかないのでありました。
 拙生は彼女を励ますために、そう云ったことなどを手紙に認めるのでありました。考えが纏まらない儘、兎に角彼女に元気を出して貰おうと、矢鱈に抽象的であったり、支離滅裂であったり、説明不完全であったりする文章を、長々と便箋に書きつけるのでありました。拙劣な言葉ばかりの手紙ではあるけれど、拙生の祈りだけでも彼女に伝えたいと云う一心の長い手紙でありましたが、それは拙生の受験の時に彼女が病床で書いてくれた、あのおまじないノートのお返しのようだと、書きながら思うのでありました。
 書き終えた便箋を折って封筒に入れて封をした途端、今度はそれを出すことに迷いが生じるのでありました。こんな手紙で、彼女を元気づけることが出来るのでありましょうか。拙生の切羽詰まった気持ちばかりが書きなぐられた、何時になく長文の手紙など、ひたすらに病気と闘っている彼女にとっては、返って煩わしいばかりではないでしょうか。逆にもっと軽快な文章の、いつも通りの手紙を出す方が、彼女を元気にさせることが出来るのではないでしょうか。拙生までがおろおろとしているところを見せるのは、今の場合、憚るべきではないでしょうか。拙生は机の上の今自分が書いた手紙を睨みながら、出すか出さぬか迷い続けるのでありました。
 そうしていると拙生の頭の中に「完治に至る過程のあり得る範囲での紆余曲折」と云う言葉が再び明滅するのでありました。そうしてそれは、いきなり面貌を凶悪に変えるのでありました。「完治」と云う言葉が「最悪の事態」と云う言葉に置き換わっているのでありました。「最悪の事態に至る過程での、あり得る範囲の、紆余曲折」
 拙生は不意に出現した禍々しいその言葉を、頭の中から掃い落とそうと、激しく頭を横にふるのでありました。言葉に出して「馬鹿な!」と叫ぶのでありました。そんな言葉を思いついた自分自身を激しく呪うのでありました。拙生は時に顰め面をしたり、泣き顔をしてみたり、机や自分の太腿を固めた拳で強打してみたりしながら、机の上の書き終えた手紙を睨んで、朝を迎えるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 翌日、大学の図書館で「細気管支肺胞上皮の腫瘍」と云う病気を調べてみるのでありました。文化系教養課程のキャンパスにある図書館であるためか、医学の専門的な書籍が何巻も揃っているわけではないのでありましたが、しかしその方面の図書を数冊借り受けて、先ず『医学事典』と題された大部の本を、拙生は閲覧室で開くのでありました。
 それは端的に云うと肺癌というものでありました。正確には肺腺癌であります。肺末端の細気管支上皮辺に出来る腫瘍であります。説明文の最後の方にあった「女性や若年者にも見られる」と云う記述に、拙生は吉岡佳世が見事に適合するような気がして、小さく身震いして、思わず顔を顰めるのでありました。
 ただ、吉岡佳世のお母さんは単に「腫瘍」と云っただけで「悪性腫瘍」とは云わなかったのであります。そこに縋りつけば、まだ癌であると判断するのは早計と云うべきかも知れません。「悪性腫瘍」があるのなら「良性腫瘍」だってあるはずではないですか。それは云ってみれば疣のようなもので、肺機能にダメージを与えるような悪行はしないのではないでしょうか。
 これも縋りつくような気持ちで、良性腫瘍について調べると、増殖性が弱いとか、組織性や細胞が周りと確然と変わっているわけではない等とあります。拙生にはやはり疣のようなものがイメージ出来るのでありました。しかし疣程度であるのなら、それが吉岡佳世の肺に入院を強いる程の毀損を与えるだろうかと考えて、やはり彼女のお母さんの使用した「腫瘍」と云う言葉は、詰まり「悪性腫瘍」を意味するのであろうと、残念ながら判断するしかないのでありました。
 しかし彼女のお母さんの口ぶりでは、緊急の手術を要すると云うことではないようであります。経過を見ながらと云うことは、その彼女の肺に生じた腫瘍が、吉岡佳世を今にも圧し潰してしまう程、未だ凶悪な面貌を見せてはいないのでありましょうか。それは増殖が進む前に、早々に排除しなくともよいものなのでありましょうか。そうなら、拙生が思い詰める程深刻な癌ではないのかも知れません。癌にも、色々あるのかも知れませんし。いやしかし、まさか、ひょっとしたら、もう手術が手遅れになっていると云うことではないでしょうね。・・・
 拙生は見開いていた『医学事典』を閉じるのでありました。これ以上この手の本を見ていたら、結局悲観的な憶測しか紡ぎ出せなくて、気が変になりそうでありました。彼女の肺の病気が深刻な病気であることは判ったのでありますが、しかしその病気の非情さに戦慄いてしまって、彼女の今の実際の容態も見ることもぜずに、あれこれと考え過ぎて悲嘆していても仕方ありません。なんにしても、拙生には彼女の現状を判断する材料が、決定的に不足しているのであります。
 恐らく屹度、吉岡佳世本人は、自分の病名も知らされてはいないのでありましょう。重篤な病気であればある程、それは本人には知らせないのが一般的でありましたから。彼女は自分の病状を、どう捉えているのでありましょう。かなり深刻な病状であることは自分でも判るかもしれませんが、しかし勿論、自分のその病状が恢復することを信じて、病院で今を過ごしているのでありましょうね、多分。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 拙生はアパートに帰ってから、机の上に載った、結局まだ出さずにいた吉岡佳世への手紙を手に取るのでありました。それを見つめながら、これは矢張り、出さないで良かったと思うのでありました。それには、まさか彼女に病名を知らせるような不細工は仕出かしていませんでしたが、しかし励ます積りではあったものの、拙生の切羽詰まった心情や、悲嘆や、落胆や、絶望が文字と文字の間に、容易に見て取れるかも知れない手紙でありましたから、こんなものを、吉岡佳世に読ませるわけにはいかないと思うのでありました。
 しかし彼女に急いで返事を出したい、いや返事を出さなければいけないと云う気持ちは、全く失せてはいなかったから、拙生は引き出しから便箋を取り出して、彼女の病気が重篤なものであると態々知らせるような不首尾は犯さないように、細心の配慮をしながらゆっくりと新たな文章をそこに書きつけていくのでありました。自分の入院のことや、今現在の病状を知らせる吉岡佳世からの手紙は、如何にも淡々としていたのでありましたから、その色調に似合うような手紙を書かなければなりません。
 彼女の入院を驚いてはいるものの、そんなに取り乱したりするような出来事とは捉えてはいなくて、しかし軽々になども当然考えてもいないと云った風の、拙生の楽観の方に重心を乗せた心情、何時もの手紙のような冗談も鏤めながら、しかし決して狂騒に走らない配慮、彼女の恢復を当然のように信じているし、彼女のその後の高校生活も、卒業も、大学受験も、それから東京での拙生との楽しかるべき学生生活も、実現することを信じて微動だにしていない拙生の或る意味で呆れて貰えるくらいの脳天気さ、それにそうは云うもの矢張り心配顔の表情、拙生はそんな色あいを文章に出そうと、拙劣なものではありましたが、技巧と誠意を尽くして、文字を刻むように便箋に書きつけるのでありました。書きながら、稚拙な文章の技巧に走る自分に呆れて、なんとも云えない虚しさに襲われてきて、持っている万年筆を投げ出そうかと思うこともありましたが、拙生はなんとか手紙を書き終えたのでありました。
 そう云えばこの万年筆にしても、吉岡佳世が拙生の大学受験合格を期した、例のおまじないノートを書く時に使ったものであったと、自分の右手に持った万年筆を見ながら思うのでありました。その同じ万年筆で綴ったこの新しい文面の手紙が、前の手紙を書く時に思った彼女のおまじないノートへのお返しと云う役割を、充分果たしているかどうかそれは疑問ではありましたが、しかし下手な技巧に隠れているとしても、彼女の恢復を切実に祈って、その祈りだけは前の手紙以上に籠めた積りではありました。
 拙生は文面を何度も読み返して、不首尾がないかを確かめるのでありました。読み返しながらまたもや、云うに云われぬ虚しさを感じるのでありましたが、その虚しさは、彼女への手紙に下手な技巧を使う自分に嫌気がさしたと云うよりは、結局、拙生が彼女の病気が恢復不能であるかも知れないと、実は心の片隅で諦めていることから来るのではないのかと気づくのでありました。
 拙生は思わず自分の太腿を、左の拳で強打するのでありました。そんな自分に腹を立てたのでありました。目を強く閉じてそれを開くと、その後涙が止めどもなく流れてくるのは、強打した太腿の痛さからではないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 そうして、吉岡佳世からの手紙が、全く来なくなるのでありました。前の手紙から十日を過ぎても、拙生のアパートの郵便受けには、彼女からの、隅にシャボン玉をする子供のイラストが描かれた何時もの白い封筒の姿は、ないのでありました。それは拙生に彼女の病状の悪化を予想させるのでありました。しかし明日には来るかも知れないと思って心待ちに待つのでありましたが、二週間を過ぎても手紙は全く届かないのでありました。
 拙生は不安に駆られて彼女の家にもう一度電話をしようと思っていた矢先、心労のためからか、体調を崩してしまったのでありました。それは風邪を拗らせたようでありました。夜に熱っぽくはあったのですが大事なかろうとその儘寝たのでありましたが、朝起きたら全身の気だるさに、拙生は布団から起き上がることが出来ないのでありました。まるで以前の吉岡佳世の手紙に書いてあった、彼女が今度入院した端緒の症状のようだと、ちらと思ったのでありましたが、その儘気を失うように寝入ってしまったのは、恐らく四十度近い熱が出ていたためでありましょう。虚ろな視界の中で、拙生は浅い睡眠と、朦朧とした儘の覚醒を繰り返すのでありました。・・・
 ・・・・・・
 浅い眠りの中で、蝉の鳴き声が、聞こえているのでありました。蝉の声は銀杏の木の、黒い影である拙生の全身に針のように、降り注いでいるのでありました。
 拙生が銀杏の木の影となって、この世に在るようになってからもうどの位の年月が、経過したでありましょうか。この木がここに、陽炎のようなごく脆弱な生を得たその時から、拙生もぼんやりとしたその影としてこの世に、誕生したのでありました。その頃はここは広大な原野で、人の姿等見ることは、なかったのでありました。太陽と雨と風と霧と、草と木々と、地を這う蛇や百足や蚯蚓や、土竜や鼠や猪や狸のような生き物以外には、なにもここには、存在しなかったのでありました。
 残照が消え失せると、拙生は地中深くに隠れて、地の底に棲む虫達に若葉のように、食われるのでありました。しかし日が昇れば、拙生は兄弟のような銀杏の木に寄り添うために再び地表に、浮き上がるのでありました。地表に浮かび上がると、拙生のあちらこちら虫達に食い荒らされた体が、不思議なことに再び元のような、食い穴の一つもないものに、再生しているのでありました。そういった繰り返しが、何日も、何年も、何十年も、何百年も、続くのでありました。銀杏は年ごとに大きくなって、それにつれて拙生も姿を長大に、変化させるのでありました。
 その間、拙生を、何処から現れたのか人の足が、踏むようになるのでありました。人は次第に増えていき、何人もの足が拙生の上を歩き、走り、狩りをし、そうして拙生の上で座ったり寝そべったり、するようになるのでありました。その内に彼等は拙生の周囲を、掘り返し始めるのでありました。遂には拙生の体にも容赦なく、鍬が打ちこまれ、そこに彼等は種を、蒔くのでありました。しかしどんなに変形されても、拙生が姿を消すことは、なかったのでありました。
 次第に、種を蒔くのに倦んだ彼等は、こんどは拙生の上に杭を、打ちこむのでありました。そうして彼等はそこに、工場を建て始めるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 拙生の周囲にも多くの立派な工場の建物が立ち並び、それが朽ちると、今度は幾層も上に重ねた建物を、コンクリートを使って、彼等は建て直すのでありました。より上に、飽かずに建物を、彼等は重ねるのでありました。そうすることが、無上の悦楽であるように。
 空から降って来た黒い鉄の塊が炸裂して、コンクリートの工場を破壊することも、ありました。建物は火を噴き赤い炎に、包まれるのでありました。火が拙生を焦がしたことも、ありました。周囲一面焼け野原と、なったこともありました。
 暫くすると人間達は、今度はそこに木を、並べるのでありました。周りを綺麗に整地して公園を、造るのでありました。色々な災難を、奇跡的に回避してきた拙生の兄弟のような銀杏の木は、まだこの世に生きていてその公園の木々の一つに、なるのでありました。人間達は最後に、拙生の上に木のベンチを、置くのでありました。
 ・・・・・・
 箏の弦が弾かれたような音がして蝉の声が、消え去るのでありました。「お邪魔だった?」と吉岡佳世が影である拙生に、云うのでありました。その声に起き上がると、銀杏の木の影だった拙生は人の姿に、変わっているのでありました。「病気は?」と拙生が吉岡佳世に、問うのでありました。「もう大丈夫」と彼女は、笑っているのでありました。その言葉にこの上もなく嬉しくなった拙生は、人の姿をしている自分の黒い影を、見下ろすのでありました。影であった拙生に影が、出来ているのでありました。拙生はなにやら妙に誇らしい気が、するのでありました。
 暫くすると「一緒に、海に行こうよ」と云って吉岡佳世は拙生の腕を、掴むのでありました。「受験勉強のあるけん」と拙生は、躊躇するのでありました。「受験は大丈夫。あたしが受けあうから」と彼女は、頷くのでありました。吉岡佳世は拙生の目の前に片手を差し上げて、ハンカチに包まれた大振りなプラスチックのタッパーを、示すのでありました。それは弁当であるとすぐに拙生には、判るのでありました。「あたしが、全部作ったと」と彼女は、云うのでありました。それから彼女は拙生に、麦茶の入った赤い紐と赤い蓋の水筒を、手渡すのでありました。受け取った拙生はそれを肩にかけてから彼女の手を、取るのでありました。彼女は恥ずかしそうに拙生に、笑いかけるのでありました。
 二人は船に、乗っているのでありました。船が揺れると、吉岡佳世の被っている麦藁帽子のつばが拙生の首に、当たるのでありました。彼女の白いTシャツの下に、水筒の蓋と同じ赤い色をした水着が、透けて見えるのでありました。「あたし泳げん」と彼女は、云うのでありました。「水着ば着とるとに?」拙生が首を傾げます。「水着は着てても、それでも泳げんの」そう云って彼女は悲しそうな顔を、するのでありました。拙生は彼女が痛々しくなって彼女を、抱き竦めるのでありました。「誰かに、見られてるかも知れんよ」彼女が小声で、云うのでありました。拙生は慌てて彼女の体から、離れるのでありました。「でも、いいやん、見られてても」と彼女は拙生をその大きな瞳で見つめながら、云うのでありました。拙生はその瞳の中の光が、臆病に体を離した拙生を、咎めるための光なのかどうか一生懸命に、読もうとしているのでありました。
 ・・・・・・
(続)
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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅩ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 海を泳ぐ拙生を吉岡佳世が岩場から、見下ろしているのでありました。時々拙生は彼女が本当に、拙生を見失わないでいるのかどうか、確かめるために手を、ふって見せるのでありました。彼女はすぐに同じように手を、ふり返します。彼女のその仕草に、拙生はとても満ち足りた気分に、なるのでありました。
 彼女を一人岩場に残していることが申しわけなくなって、拙生は岩場まで力泳して、戻るのでありました。岩場に上がると彼女がタオルを、手渡してくれるのでありました。拙生がタオルを受け取って体を拭いていると、彼女は岩場に弁当を、広げるのでありました。「豪華版たい」と拙生は感嘆の声を、上げるのでありました。「全部、あたしが作ったと」彼女は自慢げに、笑って見せるのでありました。
 拙生と吉岡佳世は手を繋いだ儘その弁当を、食べるのでありました。「美味しか?」と彼女は、首を傾げて拙生に時々、聞くのでありました。「うん、美味しか」拙生はその言葉が、お世辞や愛想に聞こえないか不安に思って、如何にも真剣そうな顔で、頷くのでありました。「砂浜ば、すこし歩こうか」食べ終えた弁当を片づけながら吉岡佳世が、提案するのでありました。
 俯いて、手を繋いで横を歩く吉岡佳世の中高の横顔を拙生は頻繁に、盗み見ているのでありました。「疲れとらんか?」拙生が聞くと彼女は拙生を見て首を、横にふるのでありました。「あたし、井渕君とこうして、手を繋いで、海辺ば歩いてみたかったの」と吉岡佳世が、云うのでありました。拙生は彼女の手を引き寄せて、彼女を自分に密着させてから、彼女の肩を、抱くのでありました。彼女の緊張が、その細い肩から拙生の掌に、移るのでありました。拙生の掌も緊張でぎごちなく、固まっているのでありました、映画で見た恋人同士のようだと拙生は、思うのでありました。「これから、あたしの家に来ん?」と吉岡佳世が、云うのでありました。「もう夕方けん、これから行きよったら、夜になってしまう」拙生はそう云いながら、彼女の体を一層強く自分に、密着させるのでありました。
 ・・・・・・
 吉岡佳世の家の居間で、彼女のお母さんに見られているにも関わらず、拙生と彼女は手を繋いで、体を寄せあって座卓の前に、座っているのでありました。「あんた達、羨ましかねえ」と彼女のお母さんが笑って、云うのでありました。「本当に、羨ましかばい」と彼女のお兄さんも、云うのでありました。彼女のお父さんは大きな湯呑で、茶を飲んでいるのでありましたが、それは自分の表情を、隠すためのようでありました。
 吉岡佳世が、繋いでいる拙生の手を差し挙げて「あたし達、来年東京で、一緒になると」と、云うのでありました。「そうね、そうやったね」と彼女のお母さんが、頷きます。「そうやった、そうやった」彼女のお兄さんも、頷きます。彼女のお父さんは相変わらず、大きな湯呑を顔の前に据えて表情を、見せてくれないのでありました。
 拙生はそんなことを、吉岡佳世と約束した覚えはなかったので、甚く驚いたのでありましたが、しかしなんの異論もあるはずがなく、むしろ彼女の口から、そんな言葉が出てきたことを大いに、喜ぶのでありました。彼女のお父さんの方を窺うと、まだ大きな湯呑が顔を隠していて、お父さんの意向は拙生には全く、知れないのでありました。
(続)
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