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枯葉の髪飾りCLⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 6 創作]

 拙生が早々に叔母の家を後にしたのは、この電話の後に叔母や義叔父と悠長に話をする気にはとてもなれなかったためでありました。しかし自室に帰っても、細気管支肺胞上皮の腫瘍と云う病気がどのようなものであるかを調べる資料や手立てが、拙生の部屋にはなにもないのでありました。拙生は机に吉岡佳世の病名を記した紙片を置いて、写真立てを手に取るのでありました。
 不意に、以前、隅田が云った言葉が頭の中に蘇るのでありました。それは、大変な手術だったのだから、経過中に起こる色々な不測の事態も、云ってみれば完治に至る過程での、あり得る範囲の紆余曲折であろう、と云った意味あいの言葉でありました。確か吉岡佳世の心臓の手術後、経過が思わしくなくて、くよくよしている拙生を励まそうとした言葉でありましたか。拙生は突然思い出したその言葉に、両手で縋ろうとするのでありました。
 矢張り、重篤な病気を抱えた一人の人間が完治をかち取るまでには、それ相当の苦労と時間がかかるものなのでありましょう。今度の吉岡佳世の新たな肺の病状にしても、長い時間の軸で考えれば、すっかり彼女が健康を取り戻すための、経過での、あり得る範囲の紆余曲折であるのかも知れません。拙生には、そう考えるしかないのでありました。
 拙生は彼女を励ますために、そう云ったことなどを手紙に認めるのでありました。考えが纏まらない儘、兎に角彼女に元気を出して貰おうと、矢鱈に抽象的であったり、支離滅裂であったり、説明不完全であったりする文章を、長々と便箋に書きつけるのでありました。拙劣な言葉ばかりの手紙ではあるけれど、拙生の祈りだけでも彼女に伝えたいと云う一心の長い手紙でありましたが、それは拙生の受験の時に彼女が病床で書いてくれた、あのおまじないノートのお返しのようだと、書きながら思うのでありました。
 書き終えた便箋を折って封筒に入れて封をした途端、今度はそれを出すことに迷いが生じるのでありました。こんな手紙で、彼女を元気づけることが出来るのでありましょうか。拙生の切羽詰まった気持ちばかりが書きなぐられた、何時になく長文の手紙など、ひたすらに病気と闘っている彼女にとっては、返って煩わしいばかりではないでしょうか。逆にもっと軽快な文章の、いつも通りの手紙を出す方が、彼女を元気にさせることが出来るのではないでしょうか。拙生までがおろおろとしているところを見せるのは、今の場合、憚るべきではないでしょうか。拙生は机の上の今自分が書いた手紙を睨みながら、出すか出さぬか迷い続けるのでありました。
 そうしていると拙生の頭の中に「完治に至る過程のあり得る範囲での紆余曲折」と云う言葉が再び明滅するのでありました。そうしてそれは、いきなり面貌を凶悪に変えるのでありました。「完治」と云う言葉が「最悪の事態」と云う言葉に置き換わっているのでありました。「最悪の事態に至る過程での、あり得る範囲の、紆余曲折」
 拙生は不意に出現した禍々しいその言葉を、頭の中から掃い落とそうと、激しく頭を横にふるのでありました。言葉に出して「馬鹿な!」と叫ぶのでありました。そんな言葉を思いついた自分自身を激しく呪うのでありました。拙生は時に顰め面をしたり、泣き顔をしてみたり、机や自分の太腿を固めた拳で強打してみたりしながら、机の上の書き終えた手紙を睨んで、朝を迎えるのでありました。
(続)
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